【これは未校正のデータです。】 谷譲次 「上海された男」 1  |夜半《よなか》に一度、隣に寝ている男の|坤声《うめきごえ》を聞いて |為吉《ためきち》は寝苦しい儘、裏庭に|降立《おりた》ったようだった が、昼間の|疲労《つかれ》で間もなく床に帰ったらしかっ た。その男は前日無免許の歯医者に菌を抜いて 貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為 吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、咋日 波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋 でその男と始めて会った時も、男は黙りこくっ て、煩さそうに為吉を見やった丈けだった。  彼は|近海《きんかい》商船の豊岡丸から下船した|許《ぱか》りの三 等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部 の為吉とは話も合わないので、夜っぴて捻って いても、為吉は別に気に止めなかったのであ る。  油臭い|蒲団《ふとん》の中で、朝為吉が眼を覚ました時 には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止め なかった。よれよりも|既《も》う永い間、陸にいる為 吉には機関の震動とその太い低音とが此の上な く懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが|一 入《ひとしお》淋しく感じられた。  濠洲航路の見習水夫でも、メリケソ行の雑役 でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくて は、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出 した。黒板には只一つ|樺太《からふと》定期ブラゴエ丸の二 等料理人の口が出ているだけて、その前の|大卓《おおテ プル》 の上に車座に|胡坐《あぐら》を掻いて、|例《しつ》もの連中が朝か ら壷を伏せていた。 「さあ、張ったり、張ったり!」  と|鎮洋丸《ちんようまる》をごてって下された|沢口《さわぐち》が駒親らし かった, 「張って悪いは親父の頭1と」 「へん、張らなきゃ食えねえ|提燈屋《ちようちんや》1か」  為吉は|呆然《ぼんやり》と突っ立って、大きくなって行く 場を見詰めていた。|建福丸《けんぷくまる》が一人で集めていた。 「いい加減におしよ、此の人達は」  と|女将《おかみ》のおきん|婆《ばぱ》あが顔を出した。「今一人 来ているんだよ、朝っぱらから何だね。それか ら、為さん、|鳥渡《ちよつと》顔を貸してー」土間を通っ て事務所になっている表の入口へ出る迄、おき ん婆あは|低声《こごえ》に瞬き続けた。 「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来 心ってものはあるんだからさ、大したことはな かろうけど、まあ、素直に、ね」  指の傷を気にし乍ら、為吉は何故か仏頂面を していた。何か解ったような、それでいて何も 解らないような妙な気もちだった、事務室には 明るい午前の陽が|濃《みなぎ》って、暫らくは眼が痛いよ うだった。 「為ってのはお前か」  と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬 きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代 の男だった。 「お前は|坂本新太郎《さかもとしんたろう》というのを知ってるだろ う」  彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎という のは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度 から何か|忌《いま》わしい事件を直感した為吉は黙った 儘頷いた、 「太い奴だ!」と男は為吉の手首を掴んだ、驚 いた顔が幾つも戸の隙聞に並んでいた。 「僕は観音崎署の者だ。一寸同行しろ」  超自然的に為吉は冷静だった,周囲の者が立 騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許に薄笑いさ え浮べていた。それが彼を極悪人のように見せ た。只かまを|掛《ヘヘ》けるつもりで荒っぽく出た刑事 は、これで一層自信を強くしたようだった、 「さっさと来い」と彼は自分で興奮して為吉を 戸口の方へ|引擦《ひきず》ろうとした。 「行きますよ、行きさえしたら宜いんでしょ う。なあに直ぐ解るこった」 「早くしろ」  と刑事は為吉を|小突《こづ》こうとした。其の手を 払って為吉は叫んだ。 「何をしやがる! U鋤ヨβ<8」  刑事の右手が飛んで為吉の|頬桁《ほおげた》を打った。 「抵抗すると承知せんぞ」 「まあ、まあ、旦那」と顔役の|亜弗利加丸《アフリカまる》が飛 んで出た。「本人も|柔順《おとな》しくお供すると言って いるんですからーが、 一体何うしたと言うん です」 「太い野郎だ」と刑事は息を切らしていた。 「君等は未だ知らんのか。昨夜坂本新太郎が殺 害されたのだ」  一同は|樗然《あつ》と驚いた。最も駁いたー或いは そう見えたーのが為吉であった。 「それは|真実《ほんとう》ですか、それは」 「白ぱくれるな」と刑事が|畷鳴《どな》りつけた。 「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃな らん。前へ出ろ!」  すると「サカモト」と|羅馬字《ロ マじ》の彫られた ジャック|小刀《ナイフ》が為吉の|菜葉洋袴《なつぱズポン》の隠しから取出 された、 「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。 「黙れ!」刑事は指の傷へ眼をつけた。 「其の締帯は何だ、血が|染《にじ》んでるじゃないか。 兎も角そこまで来い、言う事があるなら刑事部 屋で申し立てろ、来いっ」  がやがや騒いでいる合宿の船員達を尻眼に掛 けて、引立てられる儘に為吉は|戸外《そと》へ出た。  |小春日和《こはるぴより》の麗かさに|陽炎《かげろう》が燃えていた。海岸 通りには荷役の権三たちが群を|作《た》して喧しく畷 鳴り合って居た。外国の水夫が三々五々歩き 廻っていた。自分でも不思議な程落付き払って 為吉は、ぴたりと刑事に寄り添われて歩いて 行った。もう何うなっても好いという気だっ た。|擦《す》れ違う通行人の顔が|莫迦莫迦《ぱかぱか》しく眺めら れた。自分のことが何だか他人の|身上《みのうえ》のように 考えられた。只これで当分海へ出られないと思 うとそれが残念でならなかった。  払暁海岸通りを見廻っていた観音崎署の一刑 事は、おきん婆あの船員宿の前の歩道に|彩《おびただ》し い血溜りを発見して驚いた。血痕は点」、凋となっ て断続し乍ら南へ半町程続いて、其処には土に 印された靴跡や、辺りに散乱している衣服の|片《きれ》 などから歴然と格闘の模様が想像された。そこ は|油庫船《タンクせん》の着いていた後であって、岸壁から直 ぐ深い、油ぎった水が洋々と沖へ続いて居た。 その石垣の上に坂本新太郎の海員手帳と一枚の 質札が落ちていたのである。  時を移さず所轄署の活動となった。動機の点 が判然しないので第一の嫌疑者として自然的に 其筋が眼星を付けたのが、相部屋同志の森為吉 であったことは此の場合仕方があるまい。が、 網を曳いてみても、潜水夫を入れても坂本の死 体は勿論、所有物一つ揚がらなかった。で、満 潮を待って、水上署と協力して一斉に底洗いを する手筈になっていた。  |小刀《ナイフ》のことや指の傷を考えると、さすがに為 吉は自分の姿を絞首台上に見るような気がして 何うも足が進まなかった。彼は何よりも海を見 捨て得なかったのである。道の突当りに古びた 石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な 匂いを|有《も》つ潮風が為吉の鼻を|掠《かす》めた。左手に青 い水が拡がって、その向うに雲の峰が立ってい た。  海が彼を呼んでいた。  九歳の時に|直江津《なおえつ》の港を出た|限《き》り、二十有余 年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為 吉にとって、海は故郷であり、慈母の|懐《ふとニ》ろで あった。  錨を巻く音がした。岸壁の一外国船に黒地に 白を四角に抜いた出帆旗が|翻《ひるがえ》っていた。一眼 でそれが|諾威《ノルウエニ》PN会社の貨物船であることを為 吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が 三人、買物の包みを抱えて為吉の前を|急足《しそぎあし》に 通った。濃い|姻管《パィプ》煙草の薫りが彼の嗅|覚《き》を突い た。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼 に浮んで消えた。彼は決心した。 「靴擦れで足が痛えー」ひょいと|裾《 ヘヘかが》み乍ら力 任せに為吉は刑事の脚を没った、  夢中だった。畷声を背後に聞いたと思った。 通行人を二人程投げ飛ばしたようだった。そし て|縄梯子《ジやコツプ》に足を掛けようとしている外国船員の ところへ一散に彼は駈付けた。 「乗せて呉れ!」と彼は叫んだ。船員達は|呆気《あつけ》 に取られて路を開いた。 「乗せて行って呉れ、悪い奴に追っかけられて る。何処へでも行く、何でもする。|諾威船《ノルウエ せん》なら 二つ三つ歩いてるんだ」船乗仲間にだけ通用す る英語を為吉が流暢に話し得るのがこの場合何 よりの助けだった。 「ぶらんてんか、|手前《てめえ》は」  |船側《サイド》の上から一|等運転士《チ フ メイト》が訊いた。 「ノウ、甲板の二等です」と為吉は答えた。  暫く考えた後、 「宜し、乗せて行く」  |猿《ましら》のように為吉は高い|側《サイド》を|鱗《よ》じ登って、|料理 場《ギヤレイ》の前の|倉庫口《ハツチウエイ》から|側炭庫《サイドパンカア》へ逃げ込んだ。 「殺人犯だ! 解らんか、此の毛唐奴、彼奴は 人殺しを遣ったんだ!」  遅れ馳せに駈けつけた刑事は息せき切って斯 う言った。 「解らんか、ひ、と、ご、ろ、しだ! 早くあ の男を返せ。あいつを出せ」  船員達は|船縁《ふなべり》に集って笑い出した。 「し、し、し、し、し」と一人が|真《まね》似した。 ・梯子が巻上げられた。 「皆帰船したか?」と|舵子長《マスタ 》が|船橋《プリツジ》から畷鳴っ た。「皆居ます」と|水夫長《ポ シン》が答えた。  がらん、がらん、と機関室への信号が鳴っ た。船尾に泡を立てて|航進機《スクリユ 》が舞い始めた。  ちりん、「|部《ヘヘヘ》署へ着け!」水夫達は縦横に走 り廻って|綱《ロ プ》を投げたり|立棒《ピツト》を外したりした。二 等運転士が船尾へ立った。 「オーライ」  鎖を巻く起重機の音と共に諾威船ヴィクト ル・カレニナ号は岸壁を離れた。  「サヨナラ!」  船員の一人が桟橋で地団駄踏んでいる刑事に 言った。甲板上の笑声は折柄青空を|衝《つ》いて鳴っ た|出港笛《ホイツスル》のために掻き消された。 亙  |船長《キヤプテン》の前で一等運転士の作った|出鱈目《でたらめ》の契約 書に|署名《サイン》する時、何ということなしに為吉はシ ンタロ・サヵモトと書いて終った。  士官食堂の掃除と下級員の食事の世話とが為 吉のサカモトの毎日の仕事と決められた。鉄板 に|炭油《タヨル》を塗ったり、|短艇甲板《ボ ト デツキ》で|庫布《カパ 》を修繕した り甲板積みに針金を掛けたりするのにも手伝わ なければならなかった。  神戸の街が|蛋気楼《しんきろう》のように霞み出すと、為吉 は始めて解放されたように慣れた仕事に手が付 いて来た。舷側に|私語《ささや》く海の言葉を聞き乍ら、 美しい日輪の下で久し振りにボルトの頭ヘスパ ナアを合わせたりするのが此の上なく嬉しかっ た。自分に対して|途方《とほう》もない嫌疑を持っている 日本警察の範囲から脱出しつつあるという安心 よりも、自分の属する場所に自分を発見した歓 喜の方が遙かに大きかった。  こんな風に自分自身に無責任な態度をとるこ とを、永い間の放浪生活が彼に教えていた。  船員達も彼をサアキイと親しみ呼んで重宝 がった。  午後から空模様が変って来たので、為吉は水 夫一同と一緒に七個ある|大倉口《メイン ハツチ》の押さえ棒へ|模《くさぴ》 を打って廻った。一度で調子好く打込み得るの は為吉だけだった。感心し乍ら皆色々と彼の経 験を尋ねた。歯切れのいい|倫敦風《カケネイ》の英語で応答 しながら彼は大得意だった。そして誰も彼の逃 込んで来た理由を尋ねはしなかった。国籍不明 の彼等にとってそんな事はてんで問題ではな かったのである。ただ一度|船長《キヤプテン》に呼ばれて行っ た時、家庭の事情で伯父の家から逃げて来たと 為吉は答えた。ヴィクトル・カレニナ号乗組二 等水夫シツ・サアキイ、こう地位と名前を頭の 中で繰返して為吉は微笑を禁じ得なかった。  通路に面した右舷の一室を料理人と仕官ボー イと為吉が占領することになった。下級員が仕 事している間に、船尾の食堂へ彼等の食事を運 んで遣るだけで、後片付けは見習がすることに なっていたので、為吉が彼等と顔を合わすのは 昼間甲板で作業する時だけだった。従って機関 部の人たちに遇うことは殆どなかった。石炭と 灰と油に|塗《まみ》れて船底に|姦《うごめ》いている彼らを、何 かと言えば軽蔑する風習が|何《ど》の船の甲板部員を も支配していた。機関部の油虫なんか船乗りな ぞといラ意気なものではないと為吉も子供の頃 から思い込んでいた。で、格別の注意を払わな かったが、同室のボーイの口から甲板部の下級 員が十七人、機関部が二十一人で、船はこれか ら一直線に南下して木曜島で海鳥糞を積み、布 |畦《ワイ》を廻って北米西海岸グレイス・ハァバァで角 材を仕入れ、解氷を待ってアラスカのユウコソ 河をクロソダイクまで上る筈だということなど を聞出すのを忘れなかった。それまでが今度の 遠洋航路の第一期で、それからは|傭船《チド タ 》の都合で 何処へ行くか判らないとのことだった。電報一 つで世界中何処へでも行く不定期貨物船の一つ であった。  出入港には多少の感慨を持つのが、荒っぽい ようで感傷的な遠航船員の常だった。それが妙 なことには、今度の為吉の場合には|安堵《あんど》と悦び の他何もなかった。その安心が大きければ大き いだけ、彼は無意識の内に恐しい自己暗示にか かっていたのである。  箱のような寝台の中で毛布にくるまって眼を 閉じた時、自分に掛かっている嫌疑を思って森 為吉は始めて|藻然《ぞつ》とした。隠しの中で坂本の|小 刀《ナイフ》を握ってみた。冷たい触感が彼の神経を脅し た。彼は何うする事も出来なかった。何時から ともなく自分自身が自分の犯行を確信すると いったような変態的な心理に落ちて行った。こ うした弱い瞬間に、根も葉もない夢みたいな告 白をした許りに、幾多の「手の白い」人間が法 治の名に依って簡単にそうして事務的に葬り去 られたことであろう。  が、この場合為吉は自分の無罪1よし彼が 無罪であったにしろーを主張する意地も張り も持合せていなかった。その証拠さえないよう に思われた。それよりも海へ出たことの喜びで 一杯だった。それでも彼は再び事件の内容を熟 考してみようと努めた。が、無駄だった。考えれ ば考える程、果して自分が坂本を殺したのか、殺 さなかったのか其辺が|頗《すこぷ》る曖昧になって来た。  要するに、そんな事は何うでも宜かった。今 は既う日本の土地を離れ切った。そして坂本新 太郎は死んだのである。其の犯人として日本警 察に狩立てられている森為吉も既に存在しない のである。新生の坂本新太郎を名乗って自分は 当分此の諾威船を降りまい、其の内に二2二つ 船を換える間に国籍も解らなくなるに違いな い。末子で独身のボヘミアソの彼は日本という 海図上の一列島に何らの執着をも感じ得なかっ た。十一|浬四分一《ノツト コ タ 》の|汽力《スチ ム》で船は土佐沖に差掛っ ているらしかった。十八度位のがぶりで|硝《ヘヘ 》子窓 に浪の飛沫が夜眼にも白く砕けて見えた。低い 機関の廻転が子守唄のように彼の耳に通った。 為吉の坂本新太郎は暫らくしてすやすやと|蔚《いびき》を 掻き始めた。  何時間寝たか解らない。  為吉が眼を覚ました時は、|暴風《しけ》も|凪《な》ぎ、夜も 明けかかって、船は港内に錨を下していた。唐 津港あたりに台風を避難したのだろうと思い乍 ら窓から覗いた彼の鼻先に、朝舘を|衝《つ》いて聾え ていたのは川崎造船の煙突であった。 「神戸だ! |暴風《あれ》で引返したんだ!」  が、六千噸もある船が晴雨計の針が逆立ちし ようと出港地へ帰航するようなことのないのは 海で育った彼が先刻承知の筈だった。  一等運転士と水夫長が這入って来た。 「サアキイ、お前は殺人犯だと言うじゃない か」水夫長が敏鳴った。 「大きな声を出すな」  と為吉は答えた。手は隠しの中に|小刀《ナイフ》を探し つつ、がたがたと震えていた。海への執着が彼 を臆病にしていた。 「はっはっはI」と|一運《チ フ》が笑い出した。「水 上警察と傭船会社からの無電で船が呼戻された のだぞ。警察へ護送される途中だったてえじゃ ないか、はっはっは」  何が何だか解らなくなった為吉の頭には、絞 首台を取巻いて指の傷と|小刀《ナイフ》が渦を巻いた。そ して一方には其処に展けかけた自由な海の生活 があった。 「今水上警察の|小艇《ランチ》が橋を離れたから、もう おっつけ役人が来るだろう」  |真蒼《まつさお》になって為吉は寝台の上に傭伏した。|一 運《チ フ》と水夫長とが何か小声で話し合っていた。 「何うする?」と水夫長の声がした。 「隠れるか」と一等運転士が言った。|弾機《パネ》のよ うに為吉は其の胸へ|噛《かじ》り付いた。声が出なかっ た。 「宜し、じゃ逃げるだけ逃げて見ろ。何とかな る」と|一運《チ フ》は又咲笑した。 「機関部の奴に預けましょうか」と水夫長が尋 ねた。 「そうだ、ボストソを呼べ、ボストソを」  水夫長は毬のように飛び出して行って直ぐ前 の機関室の|汽笛《セリンダ 》の上から畷鳴った。 「ボストン! |真夜中《ミド ナイト》ボストーン!」  間もなく七尺に近い黒人が|油布《ウエイス》を持った儘の そっと這入って来た。 「此奴を隠すんだ、早く連れて行け」  |一運《チ シ》は|順《あご》で為吉を指した。ボストソはちら《ヤヤ》|と 彼を見遣って黙って先に立った。為吉が一歩室 外へ踏み出そうとすると、 「一等運転士、警察が来ました」とボーイが走り 込んで来た。右舷の甲板に当って多勢の日本語 の人声がして居た。ボストソの腕の下を駈抜け て為吉は機関室の|鉄階段《タラツプ》を転がり落ちた。この 騒ぎで機関室にも釜前にも誰もいなかった。|水 漉《フイルタ 》しへ逃込もうとした彼は、油に滑って其の儘 ワイヤア氏蒸発機の蔭へ横ざまに倒れた。 「そこは|不《いけ》可ねえ、直ぐ見付かる」と黒人が叫 んだ。「|碇泊用釜《ドンキポイラ》の上から水張りの隙聞へ潜り 込むんだ。早く!」  低い|掘通《トンネル》から灰の一|吋《インチ》も溜まっている碇泊用 釜へ這上って、両脚が一度に這入らない程の穴 から為吉は水管の組合っている|釜《ポイラ》の外側へ身を 縮めた。火の気のない釜の外は|氷室《ひむろ》のように冷 えていた。|掘通《トンネル》の扉を締めて出て行くボストソ の|遷音《あしおと》が聞えた後は、固形化したような空気が 四方から彼を包んで、水準下の不気味な静寂に 耳を澄ましていた為吉は、不自然な姿勢から来 る苦痛をさえ感じなかった。が、考えても見な かった、何のためにこんな事をしているのか、 それは自分でも解らなかったからである。  こつ、こつ、こつ、じいーい。  と、何処からともなく鉄板を引掻くような音 が聞えて来た。おや、と為吉は思った。  こつ、こつ、こつ、じいーい。  音は|釜《ポイラ》の中からするようでもあったし、|釜前《ダンピロ》 の通風器から洩れるようにも聞えた。  こつ、こつ、こつ、じいーい、じい。  はっと|彼《ヘヘ》は思い付いた。よく船員達が爪で |卓《テ プル》などを叩いて合図する無線電信、万国AB Cの|略符合《コ ド》なのだ、そして確かに碇泊用釜の中 から聞えて来るではないか!  どやどやと靴音がしたかと思うと、 「御覧の通り誰も居りません、わっはっは」と いう一等運転士の声がして、続いて二言三言会 話があった。一同が出て行った後、為吉は死ん だようになって|水管《パルブ》に頬を押付けた。  こつ、こつ、じいー。  前よりも一層明瞭に響いて来た。無意識に彼 の頭はそれを翻読した。SOS! 難破船が救 助を求める信号ではないか!  為吉はぎょっとした。|隠《ヘヘヘ》しから|小《ナイフ》刀を取出し て水管を叩いた。「ナニコトカー」  こつ、.じい、こつ、こつ、こつ、じーい。 「望害σQ廿巴l」と返信があった。  上海? ナニコトカと彼は又|水管《バルプ》を掻いた。 「ωげ貰而}一巴された」  |上海《シヤンハイ》された! 通行人を暴力で船へ|撰《さら》って来 て出帆後、陸上との交通が完全に絶たれるのを 待って、出帆後過激な労役に酷使することを 「上海する」と言って、世界の|不定期船《トランパア》に共通 の公然の秘密だった。罪悪の暴露を恐れて上海 した人間に再び陸を踏ませることは決してな かった。絶対に日光を見ない船底の生活、昼夜 を分たない石炭庫の労働、食物其の他の虐待か ら半年と命の続く者は稀だった。  狂気のように為吉は|釜《ポイラ》から降りて音のした|釜 戸《ドア》の前に立った。外部からは|拍手《ハンドル》一つで訳なく 開けることが出来た。  糞便と人体の悪臭がむっと鼻を打った。真暗 な奥の|薄敷《アンペラ》と|獅包《パン》屑の間から、 「あ、為公じゃねえか」と声がした。 「眼を隠せ! 明りを見ちゃ|不可《いけ》ねえぞ!」  咄嵯の間に為吉は畷鳴った。固く眼を押えて 半病人のよう北填出して来たのは殺された筈の 坂本新太郎であった。 「手前生きて|居《ち》たのか」 「うん。爾が痛んで血が出て仕様がねえから医 者を起しに出たところを掴まえられて上海され た。|停船《ストツプ》してるじゃあねえか、何処だ|此港《ここ》は? 大連か、浦塩か、何処だ」 「神戸だ」 「なに、神戸? 四五日|機関《エンジン》が廻っていたと 思ったがi」 「それがよ、此の俺が手前を|殺《ぱ》らしたって騒ぎ で、それで俺あ此の船へぶらんてんしたんだ《ヘヘヘヘヘ》|。 すると、いいか、陸から無電が飛んで来て船は召 還よ。いってえ、あの梨を|剥《む》く時|手前《てめえ》に借りた 此の|小刀《ナイフ》が好くねえ、おまけにあれで指を切っ てるじゃねえか」  その小刀を逆手に持って為吉は奥炭庫の前の |鉄梯子《タラツブ》に腰を掛けながら、白痴のようににた《ヘヘヘ》|に たと笑った。彼は明らかに海の呼声を聞いたの である。自分の無罪を立証し得る悦びよりも、 只死損いの坂本を助ける為に折角乗った此の船 ーしかも仲々|仕事口《チヤンス》のない此の頃、望んでも 又と得られない好地位を見捨てて1船を降り なければならないのが不満で仕様がなかった。 第一、恨みこそあれ、此奴を助け出すなんてそ んな義務が何処にある。この男は俺に殺された ことになっているんじゃないか。と彼は考えた。 いや、刑事も言った通り確かに俺が殺したん だ。それに何だって今頃になって出て来てひょ ろひょろ此処に立ってやがるんだ。それが為吉 を|無性《むしよう》に怒らせた。いっその事予定通り此の野 郎が死んでいて呉れたら、そしたら? そした ら此の儘此の船で遠い懐しい海外へ行けるじゃ ないかーいや、待てよ、今だって決して遅く はないぞ。なあに訳はない、奴はあんなに弱り 切って死んだも同然だ1否、事実死んでいる んだ。其の証拠には此の俺が下手人にされてい るじゃないかー、そして、そしておまけに此 処は法の手の届かない貨物船の釜前じゃない かーそうだ、今が絶好の機会だーが、一体何 の機会だと言うんだーいや、どうせ森為吉が 貰った筈の命なんだ、それでこうやって乗れた 船だと言うまでのことなんだ。海外、外国、そ うだ、この呪われた|小刀《ナイフ》でーそうだ1教え られたとおりにーあの刑事に暗示されたとお りこーo  `  為吉は立上った。 「逃げる前に俺あ水が、水が呑みてえ1水 1」坂本は捻るように言った。      皿 警察の推測通りだった。坂本新太郎は死んだ のである。そしてそれと同時に森為吉という男 も地球の表面からその存在を失ったのだった。  暫らくして再び神戸を|抜錨《ぱつびよう》した諾威船ヴィク トル・カレニナ号が大洋へ乗出すと間もなく、 帆布に包まれて|火棒《デレキ》を|圧石《おもし》に付けた大きな物が 舷側から|逆巻《さかま》く怒濤の中へ投込まれた。  その甲板に口笛を吹き乍ら微笑して、坂本新 太郎は日本の土地に永久の別れを告げていた。  古来、世界の|船乗《シ メン》仲間の不文律に従って「上 海された男」坂本新太郎と自分を「上海」した 坂本新太郎とは共に|舷《ここ》に二度と再び土を踏めな いことになったのである。          (『新青年』大正十四年四月号)