正史忠臣蔵  福島四郎著 目 次 忠臣蔵の芝居 事件の発端 再三の侮辱 殿中の刃傷 吉良上野介の傷 不公平なる幕府の処置 芝居の加古川本蔵 田村邸の浅野内匠頭 鰻骨の多門伝八郎 片岡源五右衛門の目送 江戸藩邸の混乱 内匠頭の切腹 赤穂の驚樗 大石・大野の意見対立 藩論一決、殉死嘆願 使命を辱めた陳情使 遺憾ながら開城 大野九郎兵衛父子の逃亡 最初の誓紙血判者 堀部安兵衛ら来着 大石熱誠の嘆願 大石、僧良雪に聴く 大石の山科隠栖 大石第一回の東下り 山科連盟の面々 高田郡兵衛脱盟 萱野三平の自刃 上野介の隠居と大石の復讐決意 堀部らまた催促 原・大高の帰京 吉田忠左衛門、寺坂を伴うて会す 山科会議 吉田・近松東下 武林唯七ら西上 猜介なる不破数右衛門 大石の妻子離別と遊蕩 間一髪の急進派分離計画 附大学の左遷 円山会議 堀部の帰府と大学の芸州行 連判者再吟味 隅田川納涼会議 大石引止運動 脱盟の酊々 寺井玄渓の加盟切願 大石無人の激励 附大石主税の先発 義士追々東下 附小野寺・間・千馬・矢頭の事 大高源五の母に贈った暇乞状 大石いよいよ出発 同志五十余名の宿所と変名 吉良邸の偵察 討入の心得 大石と荷田春満 討入日の決定 大石の金銭請払報告 それぞれ遺書を認む 三カ所に集合 討入の装束 附辞世 討入の部署 両門から突入 附玄関に立てた討入趣意書 吉良邸内の混戦乱闘 上野介の最期 吉良側記録による当夜の実況 四十七人引揚、泉岳寺ヘ 寺坂吉右衛門密使に立つ 内匠頭の墓前に報告 泉岳寺内の義士 仙石邸の吉田・富森 幕府当局の同情 上杉家の態度 一同泉岳寺から仙石邸へ 四家へ御預け申渡 仙石邸非公式の問答 四十六士引渡 細川家の十七士優遇 堀内伝右衛門の篤実 細川家御預け十七士の生活 「不届者」の寺坂 附徳富蘇峰翁の寺坂逃亡説 輿論の同情 附室鳩巣の『義人録』 官吏代表者の意見 林大学頭と荻生祖裸の対立意見 「親類書」を徴す 公弁法親王の御慈悲 処断一決、切腹申渡 切腹前の十七士 四十六士ついに切腹 民心の激昂 小山田一閑と岡林杢之助の自刃 刃剣四十六士 追加された二碑 その後の寺坂吉右衛門 遺子の処分 吉良義周の処分 浅野大学の取立て 勅書追賜の光栄  余 録 芝居の鷺坂伴内 天川屋義平 謎の妙海尼 高田馬場仇討と堀部安兵衛 堀部弥兵衛の討入計画私案 小野寺十内夫妻の忠貞 「徳利の別れ」の赤埴源蔵 浅野の五家 附義士と加東郡 大石内蔵助の家柄 山鹿素行の感化 殿中刃傷は勅使登城の前か後か 解 説 (史論) 序  拝蘭福島四郎君この度『正史忠臣蔵』を出版刊行せられることとなった。君はつとに 元禄義挙に深き興趣を有し、その経営編輯になる『婦女新聞』に赤穂義士に関する記 録・書状等に基いて義挙の真相を永く連載するところがあった。それをば新なる史料に 拠り検討し、更に修訂増補して出版せるものがすなわちこれである。そもそも義挙は江 戸時代泰平長く打ち続き、上下を通じて遊蕩気分の漂える元禄時代にありて一世を覚醒 し、忠孝を奨め、士道を励ましたる一大事件にして、時代の清涼剤となり警鐘となった。 そしてこの事件を一般に知らしめ、後世に伝えて世道人心を誘披せんとし、学者のその 事実を研究するもの相踵ぎ、戯曲として演じ、講談に上せしもの実に多く、汗牛充棟も ただならざるものがあった。学者の研究せしものとして有名なものは、早く室鳩巣の 『義人録』、杉本義鄭の『赤穂鍾秀記』、小川恒光の『忠誠後鑑録』等があるが、近来の ものには重野成斎博士の『赤穂義士実話』、福本日南氏の『元禄快挙真相録』等がある。 これらは大体に於て何れも信愚するに足るものであるが、就中『元禄快挙真相録』はそ の白眉と称すべきである。またこの事件を主として義士の忠孝や親子夫妻間の情緒を巧 みに顕わさんと努め、構想にのみ重きを置ける大衆文芸として、為永春水の『いろは文 庫』は古くから一般に広く読まれ、近くは矢田挿雲氏の『忠臣蔵』等がある。また戯曲 としては早く近松門左衛門の『碁盤太平記』、並木宗輔の『忠臣金短冊』等があったが、 これらの長所を採って『仮名手本忠臣蔵』は竹田出雲により大成せられた。従って『忠 臣蔵』が最も能く人口に謄灸していて義挙の通称のごとく考えられ、義士の行動がこれ に拠り誤り伝えられるものが多い。そこで福島君は『忠臣蔵』の正伝を世に知らしめん として、本書の出版を計画せられ『正史忠臣蔵』と名づけたものと思われる。  福島君がつとに義挙に関して深き興趣を感ぜられし理由については、その由来すると ころ遠いものがある。君の出身地は播磨加東郡小野町であって旧小野藩の所在地である が、加東郡内には赤穂藩の領地が交錯して存在した。君は幼少から小野町に隣れる赤穂 領来住村の小倉亀太郎氏について学んだ。その小倉家は旧家で祖先以来累代荘屋を勤め たが、元禄時代に加東郡郡代であった吉田忠左衛門の支配を受け、忠左衛門が組下寺坂 吉右衛門を伴いしばしば往来して宿泊したこともあって、その書状や遺品を蔵していた。 ここに講学し、書状や遺品を視た君は感傷的な深い関心を有するに至った。しかるに吉 右衛門の吉良邸討入後の行動に関して古来より兎角の議論があって、その逃亡説など伝 えられ、現在でもあるいは義士にあらずとして非難し、四十六士論さえ提唱せられた。 君はこれを聴いて憤慨措く能わざるものがあった。これが動機となって義士に関する史 実の研究に志し、その史料を蒐め識者に問い、通俗にして解し易く義挙の解説を試みて 本書を出版し、その本質を明かにし、吉右衛門の雪冤にも及んだのである。  かかる由来により君が本書を出版し、郷国の栄誉を閲明せんと努めただけに、その記 述や所説に熱誠自ら溢れ、情緒の濃やかなるものがある。もちろんかかる出版には常に 免れ難き一家の見識や史料の選択の上に批議すべきものがないではないが、全体を通じ て好く通俗的に書かれ、事件の経過が詳細に説いてあって、概要を会得することができ る。すでに『忠臣蔵』が最も弘く普及せると共に、その正伝を説いた本書もまた広く世 に行われ、これに由り一世を覚醒した義士の犠牲的精神を伝え、その忠誠なり徳操なり を学んで現代に処するの資とたすことを得ば、更に世を稗益するもの多大なるべきを疑 わないのである。ここに出版に際し、巻頭に君の義挙研究に及びし径路を叙してその序 文とすることとした。 昭和十四年十月 渡辺世祐誌す はしがき  一、本書は、『仮名手本忠臣蔵』または講談・浪花節等によって、一般人の頭に植え つけられた赤穂義士伝を、正しい史実によって訂正せんがために執筆し、昭和十一年十 一月から十三年春まで週刊『婦女新聞』に連載したものを、今回大修補して世に問うに 至ったのである。  一、どこまでも正しい史実に立脚するが、あまりに堅苦しい記述になっては、読むの に肩が凝るから、史実を失わない程度に於て、興味的に筆を進めた。もし本書によって、 赤穂義士の最も正しくかつ最も新しい常識を、一般人が有つようになれば、国民精神総 動員の上にも幾らか貢献し得ようかと思う。  一、内容は、『義人纂書』中史的価値の多い数十種と、『義士史料』とを中心とし、他 に『義臣伝』外十数種の義士関係書を参考として執筆したが、古書に重きを措きながら も、新しい史料による新しい研究は、必ずこれを漏らすまいと努めた。この点に於て渡 辺世祐博士の中央義士会に於ける数十回の講演筆記には、最も多く教えられた。  一、新史料による新研究は、著老の眼にふるる限り全部取り容れたが、著者自身の研 究による新説というものは殆んどない。ただいささか得意で吹聴しうるのは、殿中刃傷 の際、勅使がすでに登城して別室に休息していられたものに相違ないという事を考証し て、従来一般に信ぜられている刃傷の直接原因、勅使出迎の作法についての問答を否定 ノした一点(余録「殿中刃傷は勅使登城の前か後か」参照)と、吉田忠左衛門と寺坂吉右衛門 の人物に対する認識を深めたことである。  一、書翰を意訳する場合、または古書の記載を現代語に改める場合に於ても、その時 代の常用語はなるべくそのまま使用することに努めた。例えば「|上方《かみがた》」「|下向《げこう》」「|公儀《こうぎ》」 「|存寄《ぞんじより》」「|神文《しんもん》」「|上使《じようし》」「|出足《しゆつそく》」「|出府《しゆつぷ》」「|貴様《きさま》」「|拙者《せつしゃ》」等々々、これらの語は当時の 気分を現わす上に必要と思われるからである。  一、時刻の「七ッ」「八ツ半」あるいは「|巳《み》の上刻」「|未《ひつじ》の下刻」という類は、一々今 の時間を括弧内に註したので、二重になってあるいは煩わしい感がするかも知れないが、 これを今の時間のみで書いては、やはり当時の気分を失わせるからである。  一、討入の際、多くの義士に携えられた|長刀《ながだち》は、|薙刀《なざなた》と間違われる恐れがあるので、 別名の野太刀と書き、花岳寺の文字は華嶽寺が正字であることを承知しているが、今日 はお寺自身ですら花岳寺と書くほど一般化しているから、通俗に従った。この種の事は 他にまだ幾つもある。  一、赤穂町の義士研究家にして『寺坂雪冤録』の著者たる伊藤武雄氏は、本書の前稿 執筆の際よりしばしば面倒な調査研究を依頼したのに対して、その都度親切に回答を寄 せられ、今回修補に際しても、数十個所に渉って不備の点を指摘せられた。このために、 本書が多くの過誤から免れることのできたのは大なる感謝である。しかるにその伊藤氏 が、本書の印刷中に他界して、.ついに製本を見るに及ばなんだのは痛恨に堪えない。  一、本書の挿画は、かつて『婦女新聞』.に使用したものの中から選んだのであるが、 画家は、赤穂出身にして義士研究に最も熱心なる長安雅山君である。討入の装束や各義 士携帯の武器等に付、今日雅山君以上に研究している画家は他にあるまい(本文庫版では 削除)。  一、本文第二二四・二二五頁掲載の吉良邸絵図は、中央義士会主事井筒調策氏所蔵の 図を模写したもので、従来流布されている帝大所蔵のものに比し、物置の位置が中央に 近くなっている。人名は原図筆書であるが、縮写の都合上活字に改めた(本文庫版では 全て活字に改めた)。  一、著者がやや専門的に赤穂義士伝を研究するに至ったのは、後掲の小記に記述する 通り、徳富蘇峰翁の寺坂吉右衛門逃亡説を反駁せんがためであったから、翁に対しては 従来しばしば無礼の言辞を弄したにかかわらず、今は翁もまた本書完成の一恩人といわ ねばなるまい。  一、渡辺博士が、毎月の義士会講演を通じて著老を益せられた事の多大なるは前に記 したが、博士はなお直接に幾多の質問に答えられ、本書の口絵についても、帝大史料編 纂所秘蔵の史料撮影その他種々便宜を与えられ、なお御多忙の中から長文の序を賜わっ た。本書が博士に負うところは頗る大きい。ここに謹んで謝意を表する。 昭和十四年秋 著 老 しるす 小記  一、著者の郷里は旧播州小野藩(兵庫県加東郡)で、赤穂とは二十余里も隔っている が、郡内には赤穂の支藩家原浅野家(三千五百石)があり、その他に十四カ村四千七百 石が、赤穂浅野家の領地としてなお散在し、かつ赤穂藩の加東|郡代《ぐんだい》が一挙の副首領格た る吉田忠左衛門で、元禄十四年の兇変後、吉田以下六名の義士が、大石の召集に接する まで郡内に待機していた関係があり、また小野と川一つを隔てた赤穂領|黍田《さびた》(|来住《きし》村の 内)の|小倉家《おぐらけ》は、元禄時代から明治維新の際まで|庄屋《しようや》を勤め来った旧家で、昭和十二年 に他界された小倉亀太郎翁は、著者小学校時代の恩師であるが、その小倉家には、赤穂 浅野家第二代の長直公が巡視の際宿泊せられたことがあるのみならず、吉田忠左衛門が 寺坂吉右衛門を従えてある期間滞在していた縁故もあり、かたがた赤穂義士とくに吉田 と寺坂に対する著者の関心は、幼時より極めて深かった。  一、しかるに、大正八年頃(P)徳富蘇峰翁が『国民新聞』(今は『東京日日』に移 る)に連載せられていた『近世日本国民史』中の赤穂義士に関する記述中、寺坂吉右衛 門は討入当夜急に臆病風に襲われて、吉良の門前から逃亡したものだとあったので、著 者はさながら日頃尊敬している郷党人の名誉を殿損せられたように憤慨し、直に一書を 裁して蘇峰翁に呈した。文意は、寺坂の人物を弁護して、いっそう細密の御研究を乞う というにあった。  一、ところが、昭和に入ってから、単行本として発行された『近世日本国民史』1元 禄時代中巻、『義士篇』を繕くと、驚くべし、巻頭の序文代りに、寺坂逃亡断定の史論 を載せ、手厳しい筆訣を加えていられる。その冒頭の一節は左の通りである。    四十七士か、四十六士か、是の問題に就ては、公正正確なる根本資料に拠りて既   に論定してゐる。今更ら薙に是を繰返す必要はない。されど世間には、尚異論を挿   み、寺坂吉右衛門に就て同情者多く、彼の逃亡者たるを肯定せざるもの少くない。    此れは決して異しむに足らぬ。寺坂は可憐生だ。彼は憐む可きも決して憎むべき   |漢《をのこ》ではなかつた。(中略)併し如何に人情は人情でも、事実を曲ぐる訳には参らな   い。吾人は事実を事実として正視せねばならぬ。而して事実は則ち吉良邸門前より   して吉右衛門は逃亡したのだ。故に彼を義士中に加ふベきでない。若し彼を義士中   に加へなば、敵情偵察の殊勲者たる毛利小平太の如きも、亦義士中に加へねばなる   まい。果して然らば四十七士といふよりも、寧ろ四十八士といふが適当かもしれた   い。  こういう名調子で、何故に寺坂を逃亡者と断定しなければならないかを、証拠によっ て堂々と論じていられるのであるから、史学の知識のないものは、抗議を申立てるわけ に行かない。  一、ここに於て私は、史学の専門家が果してこの蘇峰翁の寺坂逃亡説を肯定せらるる や否やを確めるため、三上、渡辺両博士を訪問したが、両氏とも問題にはしていられな かったから、やや安心すると同時に、専門家の立場から、寺坂問題の真相を研究して発 表してもらいたいと希望して去ったが、著者の希望は容易に実現しそうもないので、 「これは、寺坂に特別の関心を有つ自分が自ら研究する外ない」と感ずるにいたり、義 士に関する根本史料を読み始めたところ、意外にも、寺坂逃亡説は蘇峰翁の新説ではな くて、事件の当時からすでに存在していたことが分った。それはそのはず、大石らは彼 を密使に出したなどとはいえないため、表面は逃亡として取繕い、それで押通してしま ったのであるから、曖昧な点のあるのは当然である。とくに大蔵謙斎という学者は、二 つの証拠をあげて寺坂を逃亡と断じた。そのため明治時代に至るまで、まだ問題として 残っていたのを、当時の史学の元老重野成斎博士が、明治二十二年発行の『赤穂義士実 話』の中で、謙斎の寺坂逃亡説の証拠を一々明快に論破し、更に彼が討入に参加したも のに相違ない事を証する史料を提示されたので、寺坂逃亡説はそれ以来、口にするもの がなくなったのである。  一、しかるに蘇峰翁は、その重野博士の著を御覧にならなんだと見えて、大蔵謙斎の 寺坂逃亡説を、そのまま持ち出して、『義士篇』の巻頭に掲載されたのである。翁の名 文によって新説らしく見えるが、内容は数十年前重野博士によって完全に論破され、史 学界では無効に帰している古証文なのである。蘇峰翁は実にはなはだしい過失をなされ たものである。ここに於て著者は、翁の所論を反駁する一文を草して、昭和五年十二月 二十八日発行の週刊『婦女新聞』に掲載し、またその一部分を省略したものを、昭和六 年二月一日発行の『日本及日本人』に掲載し、以て翁の再研究を促した。  一、ところが、それから間もなく、吉田忠左衛門の女婿伊藤十郎太夫の末畜の家から、 多数の古文書や遺物が発見され、この新史料によって、赤穂町の義士研究家伊藤武雄氏 が『寺坂雪冤録』を執筆した。寺坂逃亡説は、明治時代の重野博士の考証によってでも、 すでに史学的価値を失っているのに、多数の新史料出現によって、もはや疑う余地のな いものとなった。伊藤氏は、その『寺坂雪冤録』を東京に於て発表したいと申越された ので、私はこれを雑誌『日本及日本人』に紹介した。昭和九年二月十一日発行の同誌お よびその次の号に掲載されているのがそれである。私はこの新史料による『寺坂雪冤 録』に対しては、いかに自信力の強い蘇峰翁も|兜《かぶと》をぬがれなければなるまいと確信して いた。けれども翁は、私の駁論に対しても、伊藤氏の『寺坂雪冤録』に対しても、一言 も弁じられない。  一、伊藤氏は、雑誌掲載の論文に対する反響がないので、これを更に増補して単行本 として発行したい希望を申越されたから、私は考えた。「蘇峰翁も、今日に於てはもは や寺坂筆訣の軽率だったことを覚っていられるに相違ない。そして取消しの機会と方法 とを待っていられるのだろう。果してそうならこの伊藤氏の『寺坂雪冤録』の序文を翁 に依頼し、その文中に於て翁は前説を取消され、かつその書を翁の支配下にある民友社 に於て発行せらるる事にすれば、寺坂の名誉恢復と同時に翁の学者としての襟度を示す 事にもなって、一挙両得であろう」と。私はこれを自分ながら妙案だと信じて、早速三 上博士を訪問して相談した。すると博士は、過褒の言辞を以て私の案に賛成せられたが、 「しからば先生から翁に御交渉願いたい」と乞うと、辞を設けて逃げてしまわれた。私 はこの時、三上博士が蘇峰翁に対して、私の想像していた程に親切な友人でなかった事 を知って、失望を禁じ得なんだ。  一、私は余儀なく、直接翁に書を贈って回答を求めた。その要領は、「第一寺坂逃亡 説を今もなお確信せらるるや否や。そのお説が変らなければ、以下の私の言は無用であ る。幸にその後の新史料出現によって前説を訂正せらるる御意志があるなら、一度御目 にかかって陳述するが、要件は伊藤氏の『寺坂雪冤録』の序文中に於てそれを公表せら れ、かつ同書を民友社に於て発行し、若干部を赤穂花岳寺に寄贈せられたい希望であ る」というのであった。これに対する翁の回答は、全く顧みて他を言うものであった。 それで私は再書を呈したが、依然として要領を得ない。そこで私は三回目に書留郵便を 以て「寺坂逃亡説を今もなお支持せらるるや否や、それだけ明答を乞う」と申入れた。 すると折返し「変説する要を認めず」と、代筆で申越された。この前後の事情から推し て、私は翁が、実際自説の誤を覚りながら、私が何か難題でも持ちかけるもののごとく 疑倶して、ついに私の好意を一蹴せられたものでないかと考える。  一、それ以来私は、『婦女新聞』や『教育評論』などに於て、随分無礼な言辞を翁に 呈した。けれども翁は、一回の弁明もなさらなければ、反駁もなさらない。一昨年中央 義士会で講演せられた時も、寺坂問題については一言もふれずにしまわれた。翁はまる で、寺坂の事を忘れてしまわれたようである。  一、こういうわけで、私が赤穂義士を研究するようになったのは、全く蘇峰翁の寺坂 筆訣に対する公憤に原因し、深入するに従ってだんだん興味が加わり、結局小説や講談 によって誤られている義士伝を訂正したいと考えて、ついに本篇を執筆するに至ったの であるから、結果から見れば、蘇峰翁もまた、渡辺博士や伊藤武雄氏と共に、本書のた めには恩人というべきである。  一、本書の印刷中、十月十三旦局輪泉岳寺に開かれた中央義士会例会に於て、渡辺世 祐博士の寺坂吉右衛門に関する講演あり、彼が立派に討入に参加したものであること、 逃亡では決してない事を、新史料伊藤家古文書によって論断せられた。蘇峰翁の寺坂逃 亡論は、ここに完全に止めを刺されたもめといってよかろう。渡辺博士はその講演の初 めと終りに、伊藤武雄とその著『寺坂雪冤録』とを紹介して、氏の研究の功を推奨され たが、不思議にも伊藤武雄氏は、博士講演の翌十四日、病勢急変してついに他界した。  一、私は名声赫々たる大先輩徳富蘇峰翁に対して、かかる交渉を暴露することの無礼 を思わないではないが、事は史学上の問題で、しかも翁はなおその著『義士篇』巻頭の 寺坂筆訣論を取消さずに、そのまま発売させていられるから、私もまたこの小記を本書 の巻頭に掲載して、郷国の義士寺坂のために弁ずるのである。 一 忠臣蔵の芝居  忠臣蔵の芝居は、その数何十種というほど沢山あるが、最も広く行われたのは『仮名 手本忠臣蔵』で、今日に於ても、なおその興行価値を失わない。芝居の入りが悪くなれ ば忠臣蔵を出すのが、古今同じであるほど、この忠臣蔵は狂言中の権威となっている。 『仮名手本忠臣蔵』は、二代目竹田出雲、'三好松洛、並木千柳三人の合作(三好と並木 は連名に過ぎず、実際は竹田出雲一人の執筆だとの説がある)で、寛延元年八月(義士 切腹後四十六年)大坂の竹本座で初演せられたのであるが、その時は四ヵ月間一狂言を 打ち通したというほどの人気であった。  この『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代を足利時代の初期に繰上げ、江戸を鎌倉とし、 吉良上野介を|高師直《こうのもろなお》、浅野|内匠頭長矩《たくみのかみながのり》を|塩冶《えんや》判官高貞、大石|内蔵助《くらのすけ》を大星由良之助、 長子|主税《ちから》を力弥としているが、この時代と変名は、竹田出雲らの創作ではなくて、これ より四十余年前、すなわち事件後まもなく近松門左衛門の作った『兼好法師物見車』及 びその追狂言『碁盤太平記』を踏襲したのである。つまり忠臣蔵という大絵巻は、近松 が先ず構図し、二代目竹田出雲らが絵筆を進めて大成したものだといってよかろう。  近松の『物見車』では、『つれづれ草』の作者兼好法師が、高師直の頼みを受けて塩 冶判官高貞の奥方を取り持ち、それが元で判官は切腹、塩冶家は滅亡、塩冶の家老八幡 六郎が復讐を企てる事になっており、『碁盤太平記』はその追狂言で、八幡六郎が大星 由良之助と変名して子の力弥と共に世を忍び、同志四十余人と共に|敵《かたき》高師直を討取る のであるが、大石の妻や母が自害したり、寺岡平右衛門が力弥のために手討になったり して、後の忠臣蔵とはよほどちがっているから、ここにその荒筋だけを説明しておこう。  |塩冶家《えんやけ》の浪人八幡六郎父子は、大星由良之助同力弥と変名して、京の片田舎に借宅し ている。そこに住込んでいる|仲間《ちゆうげん》岡平は、実は寺岡平右衛門で、彼の父は塩冶の足軽 であったが、領内塩浜の検地の際、落度があって扶持に離れ、流浪の身となりながら、 二君には仕えず、今一度塩冶家ヘ御奉公をと、機会を待っているうち、殿様は師直のた めに御最期、主家は滅亡となったので、俸に遺言して切腹、それに感憤した平右衛門は、 単身主君の仇を報ぜんとて、鎌倉の師直邸に馬方となって入り込んだ。しかし用心堅固 で独力では目的の達せられたい事を知り、師直が各方面に間諜を発する計画を聞いて、 進んでその|隠密《おんみつ》たらんことを志願し、血判すえて安心させ、「無筆の岡平」と変名して、 つてを|求《ささ》めて大星邸の|仲間《ちゆうげん》になったのである。その真意は、酒色に溺れているらしい 大星父子を諌めて、復讐の手引をするにあったのであるが、本心を打明ける機会のまだ 到らないうち、師直邸からの密使に手紙を渡しているところを力弥に見つけられて、即 座に手討にされ、虫の息の下から真意を語り、由良之助の懇望によって、師直邸内の様 子を説明する。が、呼吸が迫って言葉が出なくなったので、由良之助は気転を利かせ、 傍なる碁盤を引よせて、白石は塀、黒石は|館《やかた》と見立て、門はこの位置、玄関はこの辺か と、盤上の石の略図について平右衛門に確め、その肯いたり首を振ったりするので石を 置きかえ、大体の邸内の様子を知ることを得、妻や母に覚られないよう、力弥と二人で 平右衛門の遺骸を床下へ隠す。間もなく妻と母とは奥から立ち出で、由良之助父子の真 意を察し得ず、日頃酒色に耽ってお主のための復讐を忘れている挙動を諌め、母はさん ざん由良之助を罵って、有合う|碁笥《ごけ》の石をつかんで投げつける、力弥は堪えかねて、二 人が奥へ入った後、父に対して、打明けた方がよいというが、由良之助は、ここが大事 のところ、かつ母上や女房も一味とあっては、後日累が及ぶ事になるかも知れぬからと 制する。そこへ鎌倉方面から首尾はよいから、速に下向せよとの同志の密書が届いたの で、早速出発の準備を整えていると、奥では母と妻とが、そうとは知らず自害して果て ている。それにいっそう激励されて、直に出発、同志四十五人(寺岡父子の霊を加えて 四十七人)が師直邸に切込んで首尾よく本望を遂げる。  以上が『碁盤太平記』の荒筋であるが、『仮名手本忠臣蔵』が現われてからは、この 狂言はだんだん忘れられるに至った。しかし、元禄の時代を足利に持って行き、吉良上 野介を高師直に、浅野内匠頭を塩冶判官とし、その他、大星由良之助、力弥、原郷右衛 門、千崎弥五郎、寺岡平右衛門等々、主要人物の名をそのまま後の忠臣蔵に踏襲させた のは、『物見車』と『碁盤太平記』の作者たる近松の功績といわねばならぬ。  この、近松が書き始めて二代目竹田出雲らが完成させたと言ってもよい『仮名手本忠 臣蔵』の浄瑠璃が、あんまり巧妙にできているので、二百余年来津々浦々に興行せられ、 世道人心を支配し来った結果、今では史実と創作との境が分らなくなり、浅野内匠頭の 切腹が実際あの忠臣蔵四段目のようたものだったごとく想像されたり、義士萱野三平に、 実際お軽のような女房があったもののごとく思い込んでいる連中もないとはいえない。 それで私は、忠臣蔵の正史、正しい史実に基づいた赤穂義士を記そうとするのである。 二 事件の発端  芝居(『仮名手本忠臣蔵』のこと、以下同じ)では、足利の初期に、鎌倉鶴ヶ岡八幡 宮の御造営が成り、京都から将軍尊氏の代参として舎弟直義が|下向《げこう》するので、その御馳 走役を桃井若狭助安近と|塩冶《えんや》判官高貞とが仰付かっているのを、鎌倉の執事|高《こうの》武蔵守 師直が、権柄を笠にさんざん侮辱する事から端を発し、とくに兜改めの条の後、師直が 判官夫人|顔世《かおよ》御前に対する恋の叶わぬ意趣から、判官に悪口雑言を極めるので、判官つ いに堪えかねて斬りつけるのであるが、正史の事実は次の通り。  徳川将軍家では、毎年正月京都におわします主上に年始の御祝儀を申上げるため、使 者を上洛させ、それに対して、朝廷から答礼として勅使を遣わされる。元禄十四年には、 吉良上野介が将軍家のお使として正月十一日に江戸を出発し、それに対して、   東山天皇の勅使  柳原権大納言資廉卿 高野権中納言保春卿   霊元上皇の院使, 清閑寺権大納言熈定卿 が下向される事になったので、二月四日、勅使の御馳走役を播州赤穂の城主(五万石) の浅野|内匠頭《たくみのかみ》長矩、院使の御馳走役を伊予吉田の城主(三万石)伊達|左京亮《さきようのすけ》村豊に任 命された。御馳走役というのは、勅使●院使のおもてなしをする役で、御旅館の床の間 の軸から、茶器、食器、寝具類まで運び込んで、一行滞在中の料理その他を一切引受け て賄うのであるが、これを首尾よく勤めることは、朝廷並に幕府に対しての忠勤であり、 かつ大名の一代に一度かせいぜい二度仰付かるに過ぎない役目であるから、名誉の任命 ではあるが、内匠頭は礼法に慣れないからとて、一応辞退した。すると老中土屋相模守 は、「法式の事は万事吉良上野介が心得ているから、それに御相談になって首尾よく勤 められるよう。なお年々御馳走の儀が重くなり過ぎて来たから、万端軽く調うる事に心 得るよう」との注意があった。あまり度を過ぎて奢移にならないようにという意味であ る。  |内匠頭《たくみのかみ》が勅使の御馳走役を命ぜられたのは、今度で二回である。第一回はまだ十六歳 の時であったが、首尾よく役目を果した。しかるに今度は三十五歳の男盛りなのに、殿 中刃傷という大事件をひき起して、家名断絶、城地没収となってしまった。  これは、第一回の時には何もかも江戸家老まかせで、人形のごとく行動したに、今度 は物の道理や筋道がわかるから、脇に落ちないことはどこまでも問い|糺《ただ》して行動しよう とするに、儀式指導の任にある吉良上野介|義央《よしひさ》が、それを教えないで、恥をかかせるよ うな事ばかり仕向けたからである。なぜ上野介がそんな不親切を敢てしたかといえば、 芝居にある通り賄賂を持って来ないからで、それに二人の人物が相反した性格であった ため、普通なら多少気まずい思いをする位ですんだはずのものが、とうとう爆発するに 至ったのである。  内匠頭は清廉無私、ただ役目大事に真直に事を行う方で、しかも世間の事情に通ぜず、 人の言葉の裏を考えるようた事はできない。かつ性質は、大名にありがちの短気である。 上野介は|高家《こうけ》の筆頭-高家というのは朝廷と武家との間に立って儀式典礼を司る家柄、 今日なら式部官、その筆頭であるから式部長官というところであろう。で、儀礼の事で は常に諸大名に指南する地位にあるのを利用し、賄賂を役得のごとく考えている強欲|鄙 吝《ひりん》の老爺である。  内匠頭は家の面目として、どうか不行届のないようにと緊張している。しかし、内匠 頭に限らず武家育ちの者は、勅使に対する礼儀式典などには通じないから、その指南役 として高家の吉良上野介が任命されているのである。一切の費用は内匠頭が負担し、上 野介はそれをして落度のないように指導する役目なのである。双方共役目の上から事に 当るのであるから、贈物をドッサリ持って来たら親切に教える、それでなければ教えな いなどいう事は常識で考えられないことであるが、強欲で好俵の上野介は、それを悪い とは思わないのみか、貰い物の多いのを自分の勢力の裏書のごとく考え、むしろ名誉と して誇りたい位の気持だった。だから、賄賂を持参したいものは、自分の勢力を認めな い無礼者のごとく思えて績にさわった。この両者の性格の相違、思想の相違が、事件を 発生させた根本原因であることを、赤穂義士伝を読むものは先ず頭に入れておかなけれ ばならぬ。 三 再三の侮辱  内匠頭が勅使御馳走役の命を受けるや江戸御留守居役の建部喜六、近藤政右衛門は、 主君の大切なお役目に不行届の事のないようにと、前にこの役目を勤めた事のある二、 三の大名へ、贈物の格式など問合せた。その中には、備後|三次《みよし》の浅野家(赤穂の同族) もあったが、同家では元禄九年にこの役を勤めた時の内証帳まで持ち出して、いろいろ 親切に教えてくれた。それらの向々の話を綜合すると、上野介は強欲の老爺で、進物が 少ないと指導方が不親切だという事なので、その通り内匠頭に申上げ、普通格式以外に、 十分の附届をしようとしたが、内匠頭は前に記した通り清廉潔白、かつ一本気の真直な 人物なので、「役目が首尾よく終った後に、御礼として持参するのならばよいが、まだ 済まないうちに、あまり重い贈物をするのは、どういうものだろうか」と言って、格式 だけの土産物に止めさせた。つまり内匠頭は、後で御礼をするのならよいが、事前に過 当の贈物をして先方の歓心を買おうとするのは、自分を卑屈にするのみならず先方に対 しても失礼だと、真面目に考えたのである。  それで第二回の訪問をした時は、上野介の態度極めて冷淡であったが、内匠頭は別に 気に留めず、辞を卑うして勅使御着後の待遇方について尋ねた。すると上野介「すべて 礼を厚うするには|音物《いんもつ》を以てその志を表わさなければならぬ。されば毎日献上物をなさ ることが何より大切でござろう」と答えた。これは上野介が、今まで賄賂持参の謎をか けたけれども、内匠頭がその謎を解こうとしないので、献上に名を籍りて横領しようと いうような下心でもあったのか、あるいは他に何か考えがあったのかも知れないが、そ んな事は内匠頭に察せられない。かつ一切の接待を引受けている者が毎日献上物をする という事は変に思われるので、試に院使御馳走役の伊達左京亮に尋ねて見ると、伊達の 方へは、上野介からそんな指図は無いという。そこで老中の土屋相模守に伺いを立てた。 すると相模守、「上野介の指図としてもそれは心得がたい。二、三回までの献上物は結 構であるが、毎日という事は無用である」と、ハッキリ答えたので、その通り準備を運 んだ。これを知った上野介は、さながら自分を譲言されたもののごとく怒り、「今に見 ろ、何かで恥をかかせてやるぞ」と、ますます意地悪く当るようになった。  上野介の不親切だった一つの例は増上寺|畳替《たたみがえ》の件である。勅使・院使は、三月十五 日に芝増上寺参詣と決っており、そのさい宿坊に於て馳走役から饗応するのが慣例なの で、あらかじめその用意をしておくべきであるが、畳の表替をどうしようかという事が 問題になり、上野介に指図を乞うたところ、「|汚《よご》れてさえいなければ替えるに及ばない」 と答えたので、そのままにしておいたところ、伊達家の方では、吉良から指図があった というので、全部新規の物と取替えた。院使の方の畳が新しくなったに、勅使の方のが 古い畳ではいかにも不体裁なので、急に下知して、宿坊二百枚の畳を一昼夜の間に新し くさせた。そして吉良に対しては「畳は替えないでもよいとのお指図であったが、意外 に古くなっていたので皆取替えました」と言ったところ、上野介野卑な笑い方をして 「それは結構でござった、なんでも金銭さえ多く費せばそれが誠意を証明するものでご ざる」と答えた。  この前後の事であろう、伊予大洲の藩主加藤遠江守|恭常《やすつね》が内匠頭に対して、「拙者去 年日光に於て、上野介と度々御用の相談を致したが、慮外千万の仕方多く、実に堪えか ね申した。貴殿にもこの度は定めし御同様の御事もござろうが、何分御用大切でござれ ば、御見のがししかるべくと存ずる。それに相手とするに足るような上野介ではござら ぬ。お心安き仲ゆえ、御心得までに申入れ置く」と忠告した。これに対して内匠頭「親 切の御忠言恭く存ずる、しかし場合によっては堪忍のなり難い事、あるものでござる」 と答えたそうである。  三月十日(元禄十四年)明日は|伝奏《てんそう》(勅使・院使)が江戸ヘお着きになるというので、 未明から富森助右衛門と高田郡兵衛とが品川駅まで出迎えた。明日着かれるというのに 前日の未明から出迎えたというので、交通機関の不備だった当時の時間空費が思われる。 同日夕方から内匠頭も伝奏屋敷へ詰めた。  十一日未明に、伝奏三人が江戸へ着かれた。内匠頭は当日持病の|溶気《ひき》(胸のつかえ) が出て、侍医寺井玄渓から薬を差上げたと同家記録に書かれているが、多分過日来の上 野介の態度に対する憤愚から神経を昂奮させた結果だろう。 四 殿中の刃傷  浅野|内匠頭《たくみのかみ》が勅使御馳走役の命を受けたのは、元禄十四年二月四日で、その時は吉良 上野介が将軍家の御年賀使として上洛し、まだ帰っていなかった。上野介が江戸に帰っ たのは、その月の二十九日である。  そして勅使●院使の江戸着は三月十一日で、翌十二日に勅旨・院旨を伝えるため登城、 十三日は殿中で将軍の饗応(午前十時頃から午後四時頃まで旅情を慰めるために能楽の 催がある)、十四日は将軍綱吉が勅使・院使に奉答することになっていた。その十四日 に事件が起きたのである。  内匠頭は以前から上野介と相知っていたわけではなく、今度の御馳走役に関係して初 めて親しく訪問して言葉を交わしたのであるから、上野介帰府の翌日に、第一回の訪問 をしたものとしても、半月にも足らぬ知合である。そのわずかな日数の間に殿中刃傷、 切腹申付、祖先以来の城地召上げ、そして後に四十七士の復讐を伴うような大事件が展 開したのである。寸善尺魔の世の中とは全くこの事だろう。  刃傷事件のあったのは、元禄十四年三月十四日巳の上刻とあるから、今の時間でいえ ば午前十時前である。これより少し前、勅使・院使もすでに登城(一般歴史にはこの時 伝奏が未だ登城していられず、それをお迎えする時に玄関の敷台に下るべきか否かを内 匠頭が上野介に尋ね、その答の嘲笑が原因で刃傷に及んだごとく記述されているが、著 者は本書余録に掲載のごとき理由により、勅使・院使がこの時すでに着到、休憩室にい られたものであることを確信する)、一先ず休所へ入って、追付け将軍奉答の行われる |御白書院《おしろしよいん》へ行かれる事になっていたので、内匠頭や左京亮は大広間の外に立っていた。 上野介は、老中がお呼びになっていると坊主が知らせて来たので、その方へ出向いた。 それと引きちがえに、将軍夫人の留守居役梶川与惣兵衛頼照(将軍夫人及び将軍母桂昌 院附を勤めている)が、大広間の|後通《うしろどお》りから出て来て、上野介を探したが、いなかっ たので内匠頭に、院使から将軍夫人と桂昌院に下され物のあった御礼言上の都合に付質 問した。内匠頭は、それらの事は上野介に尋ねられたいと鄭重に挨拶した。  それで梶川は、上野介の行っている|御白書院《おしろしよいん》の方へ行こうと思って、松の廊下へかか った。御白書院というのは、檜の白木造りの広間で、黒漆塗の御黒書院と共に、大礼に 用いる室である。松の廊下というのは松の間(十万石以上の大名の詰所なる大広間で、 その室の衝立に松の絵がある)から御白書院に通ずる大廊下で、|鉤《かぎ》の手に折れ、手前は 幅二間、長さ十間半、先は幅二間半、長さ十八間ある。梶川はその大廊下を折れ曲ると、 向うから上野介がやって来たので、用件を言っていると、そこへ内匠頭ッカッカと駆け つけて「この間の遺恨おぼえたか」というより早く、小さ刀を抜き放って斬りつけた。 小さ刀というのは、脇差より長く、大刀より短い、中古には|鞘巻《さやまさ》と称したもので、`|狩衣《かりざぬ》、 |素襖《すおう》、|大紋《だいもん》などの礼服の場合は、普通の大小刀を侃びないで、この小さ刀一本を差すの である。内匠頭は当日大紋を着て、小さ刀を差していたのである。この着服についても、 上野介の意地悪によってまごつかされたと書いているものもある。  内匠頭の打ち下した一の太刀は上野介の|眉間《みけん》に当ったが、それは|烏帽子《えぽし》の縁につかえ て微傷を負わせたに過ぎなんだ。上野介が驚いて逃げ出すのを、内匠頭背後から二の太 刀をあびせた。その時早くも梶川が内匠頭を抱き止めたので、刃先が十分とどかず、結 局二個所共致命傷にはならなんだ。が、上野介は大声あげてうつ向に倒れ、そのまま気 を失ってしまった。  その場には、梶川が唯一人居合せただけで、高家衆は、松の廊下の北端十余間も先の 方にいたが、騒ぎを聞きつけてバタバタと駆けつけ、伊達左京亮や坊主共も集って、梶 川に力を合せて内匠頭を取押えた。内匠頭は「卑怯もの討果せ討果せ」と叫びつづけて、 刀を容易に放さなんだ。そして大勢の人々に取囲まれて、大広間の後の柳の間附近につ れて行かれた時やや落ちついて、「上野介にこの間から意趣があったが、殿中といい大 切の御時であるからと、今までは堪えに堪えて来たのであった。かくなっては恐れ入っ た事であるが、是非に及ばない」という意味を、繰返し繰返しいったそうである。次い で内匠頭は、警衛係の目付に引渡され、中の口廊下の坊主部屋に留置された。  他方上野介は、抱き起されたけれども、老人の驚樗と手負のため一向正気づかず、抱 えられて、反対の御白書院の縁から医師溜の間へ運ばれた。 五 吉良上野介の傷  上野介の受けた傷、眉間と|背《せな》との二個所のどちらが先かということについて、多少の 問題がある。梶川与惣兵衛の筆記によると、内匠頭が「この間の遺恨お.ほえたか」と叫 んで、後から背へ斬り下げたが、小さ刀で十分届きかねた。その時の内匠頭の怒気に満 ちた声に驚いて上野介がふり返った時、二の太刀を頭上めがけてふり下したが、今度は 烏帽子に当ってはねあがったというのである。  渡辺世祐博士はこれについて「当時の武士として、とくに大名として、やみ討に、声 をかけただけで背中に一の太刀をつけるという事は、あり得ぬ事ではないかと思う」と いい、当時現場にあった与惣兵衛の筆記が、史料の上からは一番確実というべきではあ るが、その傷の手当をした外科医栗崎|道有《どうゆう》の日記に、次の通りあるのを引いて、「この 日記にも、かなりよい|所《ちちち》がありますから、|強《あなが》ちに捨つべきものでもないと思います」と、 二個所の疵の先後を問題として提供されている。    大ロウカ、千鳥ノ間ノ先ノ方へ吉良相詰メ罷在、内匠頭ハ千鳥ノ間ノ方ヨリ来ル。   其席ヲヲイテ、カンニンナラザルコトニヤ、惣ジテ内匠頭ハ気短ナル兼テ人ノ由、   吉良ヲ見ツケテ、チイサ刀ヲヌキ打ニミケンヲ切ル。ヱボシニアタリ、ヱボシノフ   チマデニテ切止ル。時二吉良ウツ向ニナル所ヲ、二ノタチニテ背ヲ切ル、是モ刀ノ   寸ハ短ク、其身ハ気セキ、太刀先サガリ、漸々皮肉ノ間マデ、長サハ六寸余モ切レ   ル。疵アサシ。ヒタイノ疵ハ骨ニアタリ、少々疵深シ。時二御留守居役梶川与三兵   衛ト云人云々。  梶川以外に現場を見たものは無いのであるから、彼の筆記、一の太刀|背後説《はいごせつ》を事実と しなければならぬといえばそれまでであるが、彼も恐らくその際は夢中であったろうか ら、その記述必ずしも正しいとはいわれず、また梶川は内匠頭のいた方から進み、上野 介は向うからやって来て立話となったのであるから、上野介は内匠頭の方を向いていた ものとするのが合理的である。だから著者は、治療医道有の日記、一の太刀眉間説の方 が事実だろうと推測する。  なお道有の日記から、疵の治療についての一節を紹介する。    ヒタイスヂカイ、マミヤイノ上ノ骨切レル、疵ノ長サ三寸五六分、熱湯ニテアタ   タメ洗ヒ、小針小糸ニテ六針縫ヒ、直ニウスメチヤヲ付ケ、フタニモ黄ーヲ付ケ   ル。背疵浅シ。然レドモ三針縫ヒ、仕掛ヶ薬右同断ナリ。巻木綿ハ、幸ヒ下着ノ白   帷子ヲ引サキ、随分手ギワヨク巻キ、包ミ置キテ、扱部屋中血ニナリタル衣類ヲ、   吉良挟箱二入レサセ、畳ニモ方々血流レケガラハシク見ユル程ノ物ヲ、吉良家来二   申付テソウジ致サセ云々。 附 記 この治療医栗崎道有の末畜は栗崎道隆といい、現に熊本市本山町にやはり医を業とし ていられる。道隆氏の令姉トキ氏は東京女高師の出身で森山辰之助氏(前青森県師範学校長) 夫人となり、『婦女新聞』の長い愛読者だったが、昭和十二年春他界された。 不公平なる幕府の処置  降って湧いた大事件に、殿中百に余る|大名小名《だいみようしようみよう》は、上を下への大混乱、一時は鼎 の沸くような騒ぎであったが、勅使・院使は先刻すでに来着されているので、心きいた 人のさしずで、血の流れたあとを大急ぎに掃除させ、老中は即刻将軍綱吉に事変を言上 しに行ったが、そのさい綱吉は、奉答を前にして身を潔めるため入浴していた。それで お湯からあがるのを待ちかねて、執政柳沢出羽守吉保が取次いだ。将軍の激怒は想像す るに難くない。直に事件の取調を厳命すると同時に、流血の場所に近いからとて、勅使 対面の室を御白書院から御黒書院に変更すべき旨申付けた。なお内匠頭の代りの御馳走 役は、下総佐倉の城主戸田能登守|忠真《ただざね》(五万五千石)に任命され、そして儀式は滞りな く済んだ。  一方、老中、若年寄、大目付等の各大官は、時計の間に列坐して、内匠頭を抱き止め た梶川与惣兵衛を呼び出し、その場の様子を逐一述べさせた。  聴き終って老中土屋相模守は、|義央《よしひさ》の疵の程度を訊ねた。梶川答えて「二、三個所と 存じまするが、深手とは見えませぬ」といい、次に阿部豊後守から、「上野介はそのさ い刀に手をかけるか、または抜合いはしなかったか」と問うと、「帯刀に手をかけませ んでした」と答えた。実は抜合うどころではなく、驚いて気絶したのである。  次に、内匠頭と上野介とは、目付役の大久保権左衛門|忠鎮《ただしず》と|多門《おかど》伝八郎|重共《しげとも》の二人に 命じて取調べさせた。  二人は先ず内匠頭を取糺したところ、内匠頭は「|上《かみ》将軍家に対してはいささかお恨み 申すような筋はありませぬ。ただ上野介に対する私の遺恨があり、堪えがたくなって前 後を忘却し、場所柄をも揮らずして|刃傷《にんじよう》に及んだ段、何とも恐縮に存じます。いかよ うの御管め申付られましてもいささかお恨みは申しませぬ」と、いかにも神妙に覚悟し て、遺恨の内容については、弁解がましく説明はせなんだ。ただ訊問に対して、武士の 面目上堪え得られない侮辱をしばしば与えられたためとはいえ、自分の不調法から殿中 を騒がし、|大樹公《たいじゆこう》(将軍)以下の御心を悩まし奉ったことは申訳ありませぬと繰返すの みであった。  一方上野介は、両目付からの「内匠頭に遺恨を挟まれる覚えはないか」との尋ねに対 し、「別になんら恨まれる覚えはござらぬ。全く内匠頭の乱心に相違ありませぬ」と、 答え、「刀を抜き合わせなんだか」と問われると、「いやしくも|儀《モ》式典礼に任ずる|某《それがし》、殿 中に於て左様の不心得をどうして致しましょうや」と、疵にも屈せず昂然として答えた。  取調べの結果は、直に両目付から老中へ、老中から将軍へと取次がれた。そして、内 匠頭の身柄は奥州一ノ関城主田村右京大夫|建顕《たけあき》に一時御預けになる旨達せられ、上野介 に対しては仙石伯者守を経て、    上野介儀公儀を重んじ、急難に臨みながら、時節をわきまえ、場所を慎みたる段、  神妙に思召さる。これに由て何の御構いもなし、手疵療養致すべき上意也。 と達せられ、その上執政の柳沢が自分でやってきて、親切に慰問した。  この最初の処置が不公平であったところに、禍根の後にまでのこる原因があるのであ る。元来喧嘩両成敗ということが、鎌倉以来武家制度の原則で、一方に多少情状の酌量 すべきものがあってもすでに喧嘩となった以上、そのままにおいては他方の恨みが消え ないから、必ず両方共せいばいするに決っていたのである。上野介は、喧嘩ではない内 匠頭の乱心だといっているけれども、内匠頭は遺恨があるといい、その取調に対する態 度から見ても、乱心狂気でないことは明らかなのであるから、少くとも上野介の役を免 ずる位の事はしなければならないはずであった。それに、むしろ賞辞を与えてそのまま に差置き、内匠頭は続いて切腹、城地召上げという事になったのであるから、浅野の家 臣たるもの黙って服することのできないのは当然であろう。 七 芝居の加古川本蔵  |内匠頭《たくみのかみ》の殿中|刃傷《にんじよう》の際、居合せた梶川与惣兵衛が抱き止めたことを前章に書いたか ら、ここで芝居の加古川本蔵について少しく語りたい。  芝居の本蔵は桃井|若狭助《わかさのすけ》の家老であるが、若狭助は判官と共に、上使足利直義公の御 馳走役であるから、内匠頭の|相役《あいやく》伊達左京亮に当る。ところで芝居によると、若狭助も 判官同様、高師直の侮辱に堪えかねて、明日はいよいよ殿中に於て斬り捨てんと決心し、 家老本蔵を呼んで「どんな事でも御言葉を返しませぬ」と誓わせた上、師直を討ち果さ ん決心であることを打明け、その上は家名の断絶も|必定《ひつじよう》であるから、後の事を然るべ く取計らえと遺言する。本蔵一旦は驚くが、御言葉は返さぬという誓言を立てた上の事 であり、かつ一度こうと思いこんだ上は、諌めたとて聴入れる若狭助でない事も分って いるから、その場は委細承知仕ると答え、刀を抜いて庭先の松の枝を切り捨て、この通 りスッパリやッつけておしまい遊ばせと焚きつけておいて、さて御前を退下するや否や、 大急ぎで師直への進物目録を作り、巻物三十本黄金三十枚若狭助奥方、黄金二十枚家老 加古川本蔵、同四十枚|番頭《ぱんがしら》、同十枚|侍中《さむらいちゅう》として、自身で持参、師直出仕の途中で差 出す。そのため師直の若狭助に対する態度がガラリと変り、若狭助もついに拍子ぬけし て、斬りつけずに終る事になっているが、これは内匠頭より二、三年前に御馳走役を命 ぜられた亀井隠岐守の事実を作りかえたのである。  御馳走役の石州津和野藩主(四万三千石)亀井隠岐守|薙親《これちか》は、指南役の吉良上野介が 意地のわるい事のみ仕向けて指導してくれないのみか、堪えがたい侮辱を加えるので、 武士の面目を維持するためいよいよ一刀に斬り捨てる決心を固めて、家老|多胡主水《たこもんど》に心 中を打明け、後事を依嘱すると、主水はこのさい諌言しても無益と察し、表面は余儀な く承服するように見せかけて、早速台所元から金三百両を支出し、即夜上野介を訪問し て、今日まで主人隠岐守が無事お役を勤め来ったのは全く御蔭様に外ならぬ。あと二、 三日の事であるから何卒この上ながらよろしく御願い申上げるといって、進物を差出し た。すると翌日は上野介の態度が掌を返すように変って、隠岐守もついに刀を抜く機会 がなかった。この亀井を桃井、隠岐守を若狭助、多胡を加古川(多胡を単に加古としな いで川の字を附けたのは、播州の地名にとり、かつ梶川にもかけたものだろう)、主水 を本蔵として、忠臣蔵二段目は作りあげられたのである。  なお芝居では、本蔵の娘小浪が大星力弥と許婚関係にあり、本蔵がわざと力弥の槍に 突き刺される九段目が見物人の袖をしぼらせる見どころであるが、これらはもとより全 く作者の架空的産物である。実際の梶川与惣兵衛は、内匠頭を抱き留めた功によって禄 五百石を千石に加増された。 八 田村邸の浅野内匠頭  殿中で、浅野内匠頭の御預けを仰付かった田村右京大夫は、直に芝愛宕下の自邸に帰 り、大急ぎで引受人数を整えて差出したのは八ッ半時とあるから、今の時間で午後三時 である。  内匠頭を乗せた駕籠は、錠を下して|縄《なわ》の|網《あみ》をかけ、厳重な警護の下に、平河口の小門 (今の外国語学校前の平河門)から出た。この平河門横に付属する出入口が逆に建てら れている門は不浄門といって、何か不吉に関係する場合、ここから出入する例だったの である。そして一つ橋側から|濠端《ほりぱた》を伝って、今の憲兵隊司令部の処から電車通に出て、 桜田本郷を経て、田村邸に入ったのであるが、田村邸は今の田村町、昭和生命保険会杜 の建物から南へひろがり、有名な府ばけ銀杏のある所がその庭先だったという事である。  田村邸では、この御預けが、数日に止まるか、それとも、一ヵ月二ヵ月に及ぶかも知 れないので、奥庭に面した二室をそれに充て、襖を釘付にして、外部から更に板を張り、 外廻りの障子も釘付、欄間には外からヌキを打付け、洗面所、便所も囲いの中につくり、 極めて厳重な座敷牢とした。  座敷牢の中に備付けられた品々は次の通り。   夜着(表黒羽二重、裏浅黄)一枚   蒲団(浅黄羽二重)二枚   枕(浅黄羽二重)   一個  行水桶手洗   三個   手桶           二個   ひしゃく     二本   掛手拭          一通   此外櫛道具等一切、屏風  内匠頭は囲いの中にはいると直ぐ、朝から着用していた礼服の大紋を脱ぎ、白小袖だ けになって、田村家の警護人に語った。 「自分は元来不肖の生れである上、持病の|溶気《ひき》があって、心を取鎮める事ができない。 それで今日も、場所柄をわきまえず無調法をして、一同に厄介をかけることになった」  そう言って出された食膳に向った。料理は一汁五菜であった。酒を乞うたが、御大法 だからとて許されず、煙草を所望したが、これも御遠慮願いたいと断られ、茶で我慢す る外なかった。  しばらくしてから内匠頭は、「大学(弟長広のこと、相続人に選定している)に対し ていかような御沙汰があったか、分るまいか」と警護人に尋ねたが、自分共には一向分 らぬ由を答えると、やがてまた「自分の家来へ申遣わしたい事があるから、筆と墨を借 りたいが」と言った。これも、コ応公儀に伺った上でなければ御取計申しかねるから、 御遠慮ねがいたい」と答えると、「それなら口上で伝えてもらいたい」というので、田 村家では「御口上ならば差支ござるまいからお取次申上ましょうが、それにしても一応 御目付の御覧に入れる必要がござる故、そのお含みで御口上を」と答えた。そして、田 村家の者が紙と筆を手にして、内匠頭の口上を書き留めた。それが今日まで残っている 内匠頭の遺言で、全文左の通り。    此段予て知らせ申すべく候得共今日止を得ざる事に候故知らせ不申候。不審に存   ずべく候。  これを、家来片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門の二人に伝えてもらいたいという事で あった。江戸|常詰《じようづめ》の家老には安井彦右衛門があり、今回お供して出府している家老に は、藤井又左衛門があり、その他、下級の者まで入れると、現在江戸だけで百人内外の 家来があるのに、とくに片岡と礒貝の二人を指名したのは、近習として日夕側近く仕え、 とくに忠勤の士だったからで、二人から藩士全体に伝えよとの意味だろつ。この二人が 共に、後日四十七士中に列するに至ったことは浮しむに足りない。  前記の遺言、人々によって多少解釈を異にするが、著者は次のごとく判断する。    この度のこと(上野介を斬ること)かねて知らせるべきはずであったが(知らせ   たらその方達がキヅト止めるであろう、止められたとて思い止まることのできるよ   うな程度のものでない。という意味をここで省略)今日(こういう事に立ち至った   のは)真にやむを得ない事なのだから、(わざと)知らせなかったのである。定め   て不審に思うことだろう。  これによって考えると、内匠頭は、この日発作的に上野介を斬ったのではなく、 前または数日前からすでに決心していたのであろう。 登城 九 鰻骨の多門伝八郎  将軍綱吉は、浅野内匠頭長矩が、勅使の接待に任ずる大役を忘れ、殿中を血で微した というので、激怒の結果、即日切腹申付ける旨、老中を呼んで申渡した。大名が切腹申 付けられたら、家名は断絶、城地及び屋敷は召上げられるのである。そ●)て相手方の吉 良上野介|義央《よしひさ》は、御構いなしという事になった。この厳命は綱吉の専断で、天降りに老 中に達せられたのであるが、将軍の背後から柳沢出羽守吉保が助言したことは、想像す るに十分である。  老中稲葉丹後守、秋元但馬守らは、この厳命に対して「内匠頭の身柄はすでに一まず 田村家に御預けとなったのであるから、せめて両三日はこのままにして、ゆっくり御考 えの上御処分仰出される方しかるべく存ずる」旨申出たが、綱吉は耳をかさない。「再 考の余地など無い、すぐさま取運べ」と、この辺内匠頭以上に気が短い。  そこで、月番老中土屋相模守から、大目付庄田下総守(正使)と目付|多門《おかど》伝八郎、大 久保権左衛門両人(副使)に切腹の検使として田村家へ即時赴くよう命ぜられた。多門 と大久保は、つい先刻殿中で内匠頭を取調べた人物であるが、二人共内匠頭に同情すべ き点のあることを認め、この片手落の処分にはなはだ不満である。  そこで、多門は大久保と相談の上、若年寄の稲垣対馬守、加藤越中守に対して、 「内匠頭は五万三千石の城主である。その城主が、祖先伝来の家も身も忘れてかかる大 事を惹起したについては、よくよくの事情がなければなりませぬ。先刻は当座の調べで、 両人の申立のままを御報告申上げたに過ぎないから、それを重視されて、今直ちに内匠 頭のみに切腹申付けられるのは、御政道の上に於ていかがでありましょうか。今しばら くこのままに置かれ、御再審の上御処分しかるべきよう存じ奉る」 と申出た。越中守らもなるほどと同意して、それを執政の柳沢出羽守に取次いだが、柳 沢は、すでに一旦申渡された事であるから、そのまま運ぶようにと答えて、将軍へは取 次がない。  すると越中守は、自分が柳沢の拒絶で引さがったのを面目なく思って、直接多門に挨 拶することを避け、同役井上大和守をして、目的の達せられなかった事を通告した。と ころが多門は「内匠頭は外様で、ことに御本家浅野は大藩であるから、後日御手軽の御 処置が問題にでも相成っては、御政道にも関係すること、御沙汰の如何は別として、是 非共将軍の御耳にだけは達していただきたい」と、非常な決意を色に示して熱心に再願 した。この時の多門は、自分の職を賭しても正道を貫く覚悟だったのである。  若年寄の井上大和守それに動かされて、柳沢に再考を促した。すると柳沢非常な不機 嫌で、二度将軍から厳命の下ったものを、目付の分際でお考え直しを乞うなどとは、 身分を越えた不届である。左様の者は部屋に差控えを命ずるがよい」と言い渡した。こ のため多門伝八郎は、殿中の目付部屋で差控えていなければならぬことになった。そし て内匠頭の即日切腹はもう直ちに取運ぶ外なくなった。  そこで、多門の検使役はどうするかという事が問題になったが、当時老中や若年寄の 中にも、柳沢の専横に反感を抱いているものが相当あり、「伝八郎は将軍家のためを思 って直言したのであるから、出羽守一己の考えで差控えを命ずるのはこの方がよくない。 かつ伝八郎にはさきに正式の任命があったのであるから、遠慮させるには及ぶまい」と いう事になって、秋元但馬守が親しく伝八郎に面会し、是非検使に参るようにと指図し た。それで多門もお受して、庄田下総守、大久保権左衛門と共に、田村邸へ出向いた。 それは今の時間で午後六時頃であった。内匠頭の殿中刃傷は午前十時少し前であるが、 その日の午後六時には、すでに切腹の検使が田村邸に着いたのである。驚くべきスピー ドといわねばならぬ。  田村邸では、内匠頭が今夜切腹申付けられる事になったというので、すぐ家老をお城 へ出頭させて、検分役の大目付庄田下総守に指図を乞わしめた。第一は、切腹の場所を 室内にするか、庭先にするかという問題である。大名の身分を考えれば室内を当然とす るのであるが、下総守は柳沢出羽守の意を迎えて厳重に処分する考えで、 面によって、小書院の庭先に切腹の場所をつくるよう指図した。 田村邸の絵図 一〇 片岡源五右衛門の目送  内匠頭切腹の検使役は正使が大目付庄田下総守、副使が多門伝八郎、大久保権左衛門 の両人であることは前に書いた。三人は十人の従者をつれて田村邸に赴いた。そして主 人右京大夫に正式御用の筋を伝えたが、右京大夫はすでに万端の用意整っている旨答え た。  そこで多門と大久保は、切腹の場所を下検分しようというと、下総守は、先刻絵図面 によって指図したのであるから、わざわざ下検分するには及ばない。しかし貴殿らが御 覧になりたければ御勝手にと挨拶したので、伝八郎と権左衛門とは早速行って見た。す ると、小書院の庭先に莚を敷き、その上に白い|縁《へり》の畳を三枚並べて、上に毛藍が敷いて あり、周囲には幕打廻し、上には雨障子がかけてあった。  伝八郎と権左衛門とは急いで大書院に引返し、右京大夫に対して厳しく詰問した。 「内匠頭罪人とはいえ、五万石以上の大名で今なお五位の大夫である。しかも一城の主 として武士の面目ある切腹を仰付けられたのである。しかるになんら身分もない一介の 武士と同様に扱い、庭先での切腹とは何事である。当然座敷でなければならぬはず」  右京大夫は下総守の指図によったのであるから、当惑して、返事に窮していると、伝 八郎は更に下総守に対して、 「浅野公は内匠頭という官名のまま切腹を命ぜられ、未だ官位のお取上があったことを 聞かない。しからば当然の礼として、切腹場所は室内に選ぶべきであろう。同意なくば 拙者共幕府に|言上《ごんじよう》して指図を仰ぎたい」 と決然たる意気を示してつめ寄った。下総守は激怒し、 「言上は御勝手であるが、今日は拙者が正使なれば、拙者の意見に任されたい」 とて譲らない。  両者の議論いよいよ激しくなろうとする時、田村家の家来が右京大夫の所へ来て、唯 今内匠頭の用人役片岡源五右衛門という者が推参して、内匠頭切腹前に、一目でもよい から主従の暇乞をさせて戴きたいと願っておりますと取次いだので、右京大夫は、当家 は幕府の命によって内匠頭を預っているに過ぎないから、勝手に会わせる事はできない と断らせた。ところが間もなくその男が引返して来て、源五右衛門は、御言葉は御もっ ともであるが、自分一期の願であるから、武士の情けを以て検使の方に宜しくお願い下 されたいと、涙をたたえて再願しておりますと取次いだ。  そこで右京大夫は、先刻来下総守と伝八郎の両検使が激論して座が白けているところ であるが、片岡源五右衛門といえば、先刻内匠頭が遺言を伝えてくれと頼んだ家来であ り、かつ切腹も目前に迫り延ばしておく事もできないので、ありのまま申出ると、下総 守は黙っていたが、伝八郎は、武士の情けとしてそれは許してやるがよかろう、拙者は 承知仕る、とキッパリ言った。これは伝八郎が、前には柳沢出羽守に反抗し、今また上 席の下総守と争論したので、明日から蟄居を命ぜられるかも知れない、と腹をすえてい るところから、いっそう大胆に、何物にも揮ることなく所信を直言することができたの であろう。忠臣蔵四段目判官切腹の場の検使石堂右馬之丞は、この多門伝八郎をモデル とし、|赤面《あかづら》の薬師寺次郎左衛門は庄田下総守に寓したものである。  下総守も、切腹の場所については非を押し通した感があるので、今度は伝八郎に一歩 を譲り、異議ない旨を答えたので、片岡源五右衛門は、小書院の次の間で田村家の家来 に取巻かれ、無刀で差控え、内匠頭が大書院で切腹を申渡され御請して、小書院の庭先 の切腹場所へ下り立って行くところまでを、他所ながら見送ることができた。源五右衛 門は内匠頭の用人・小姓頭で、禄は三百五十石、今度の出府に国元赤穂から御供して来 たものである。 一一 江戸藩邸の混乱  今朝(元禄十四年三月十四日)内匠頭が登城する際、御供していったものは建部喜六、 礒貝十郎左衛門、中村清右衛門ら数人だったが、午前十時過御城玄関前がなんとたく騒 がしいので、我が主君に事なかれかしと案じていたところ、間もなく目付衆から、「浅 野、吉良の喧嘩によって内匠頭は田村家へお預けと決った、御供の家来衆は早々屋敷へ 引取るように」と達せられた。さてこそ一大事と、一同憂倶しながら、道具を伏せて、 大急ぎに築地鉄砲洲の藩邸へ帰った。  他方伝奏屋敷(勅使の旅館)には、江戸家老安井彦右衛門、今回御供して出府した家 老藤井又左衛門以下、用人奥村忠右衛門、糟谷勘左衛門らが詰めていたが、そこへ美濃 大垣城主戸田|采女正《うねめのしよう》、目付鈴木源五右衛門が老中の命で駆けつけ、「内匠頭不慮の仕合 に付、御馳走役は後刻交代仰出さるべく、ついてはこのさい騒動するものなきよう、後 任者到着次第引渡して物静かに退出せよ」と申渡した。采女正は内匠頭の母方の従弟に 当るので、幕府はとくに浅野家来の鎮撫を申付けたのであった。  やがて、御馳走役は戸田能登守|忠真《ただざね》が命ぜられ、その家来がやって来たので、直ちに 引ついで、床の間の掛物から膳椀の食器に至るまで、浅野家の物を撤して戸田家の品と 取替えた。この時の足軽頭原惣右衛門の機敏な働きは、後々まで語り草になった程で、 小舟数艘を|道三橋《どうさんぱし》の下につないで、主家の道具類を順序よくそれへ積みこみ、午後二時 頃にはすでに引渡しを終ったということである。  兎も角この大変事を国元赤穂へ急報せねばならぬ。その第一回特使として、|早水《はやみ》藤左 衛門、|萱野《かやの》三平の二人が、午後二時頃鉄砲洲の屋敷を出発した(この特使が百七十五里 の道を早駕籠で飛ばして、赤穂へ着いたのは六日目の十九日払暁であった)。  第一回特使が出発して間もなしに、主君が切腹申付られたとの報があり、続いて赤穂 の城地、江戸の屋敷全部取上げられるとの報が伝わり、水野|監物《けんもつ》(岡崎城主)その他が 来て、騒ぎの起らぬようにと厳重に注意する。夜に入ると田村邸から、内匠頭の遺骸引 取りに来いとの通知がある。そこで第二回特使として原惣右衛門、大石瀬左衛門が国元 へ出発する。まるで目の廻るような変転と混乱で、何がどうなるのやら誰にも分らない。  築地鉄砲洲の藩邸へも、戸田采女正が公の書付を持参して、一同に幕府の厳命を伝え、 騒動せぬよう慰撫し、なおまた水野監物も正午頃から夕方まで来て、おとなしく退散す るよう伝えた。  翌十五日には大学長広が閉門を命ぜられた。大学は内匠頭長矩の実弟で、当年三十二 歳、長矩に子がないので、相続人たらしめる事にかねて内定していたのである。大学は それまで、鉄砲洲屋敷に来て諸般の世話をやいていたが、早速木挽町の自邸に帰り、門 を閉じて謹慎した。  鉄砲洲の藩邸(上屋敷)にいた家臣らは、十五日から十六日の夕方までに全部引払っ て、屋敷は十七日にもう幕府の役人に引渡され、赤坂の下屋敷は十八日に、本所の屋敷 は二十二日に、これまた引渡して、赤穂浅野家の江戸の屋敷はここに全く無くなった。 一二 内匠頭の切腹  田村右京大夫は内匠頭に上使来邸の趣を告げ、大書院に案内した。時間は今の午後六 時過、大目付庄田下総守は厳然として申渡した。 「其方儀今日殿中に於て御場所柄をも弁えず自分の宿意を以て吉良上野介へ刃傷に及び 候段不届に思召され候これに伽て切腹仰付らるる者也」  内匠頭は神妙に頭をさげて、 「今日不調法なる仕方、如何ようにも仰付らるべきところ、切腹仰付られ有難奉存候」 と御請した。そして続いて「相手方上野介はいかが相成り申したやら」と質問したので、 下総守は、「傷の手当仰付られて退出せられた」と正直に答えた。  内匠頭は不満らしい様子で、重ねて尋ねた。 「自分の斬付けた疵は確に二個所と覚えまするが、御目付には如何御検分あらせられし や、お聞かせ下さらば恭う存じまする」  そこで伝八郎と権左衛門は内匠頭の心中に同情して、 「疵は二個所で共に浅手ではあるが、老人の事であり急所でもあるから、生命は覚束な いということである」との意味を、二人口うらを合せて告げた。これを聞いた内匠頭さ も満足したらしくニッコリ笑うて切腹の場所に案内せられた。  やがて設けの席に着くと、内匠頭「最後に一っ御願がある」とて介錯は自分が今朝来 帯びていた脇差を使用していただきたい、そして後ではそれを介錯人に差上げたい旨を 申出た。検使の方でも、それは差支ないという事で、にわかに田村家に預っている脇差 を取寄せた。この事は諸書に記載されているが、中央義士会員太田能寿氏は、田村家記 録によって、実際は介錯人磯田武太夫が自分の楓刀を使用したものであることを考証し ていられる。  その間に、内匠頭は筆を乞うて辞世の歌を認めた。   風さそふ花よりも尚我はまた春の名残をいかにとかせん  風のさそう花よりも先に我はちるのである。春の名残り惜しさをどうしようという意 味であるが、余韻の尽きざるものがある。  やがて三方にのせて差出された小脇差、先の方二寸ばかりを出して奉書紙にて巻き、 水引で結んだのを取りあげ、神の上をはねのけ、腹部を押し開いて当てた瞬間、電光一 閃、首は前に落ちた。介錯人は田村家の御徒目付磯田武太夫であった(この時磯田は介 錯を仕損じたらしく、首の右の耳の後に疵痕があったとの記載がある)。  以上は、多門伝八郎の筆記を根拠として書いたものであるが、芝居では判官の自邸で、 国家老大星由良之助の駆けつけるのを待ち合せたり、介錯人がなくて、刀を腹に突き立 てたまま、由良之助と以心伝心に後事を依嘱する仕草をやるが、元禄時代の自殺の作法 は、小刀を腹部に当てる瞬間、介錯人が首を斬るのであった。  こうして内匠頭は、今朝登城したまま、殿中刃傷、田村家御預け、即日切腹となった ので、家族家臣の誰にも面会することはできなんだ。ただ片岡源五右衛門一人だけは、 検使多門伝八郎の武士の情けによって、主君内匠頭の最後の姿を垣間見して、よそなが らの名残りを惜むことができたのであった。  切腹が終ると、かねて調えられていた蒲団を遺骸の上へかけ、白い屏風を引廻して、 侍が張番し、検使らは直に引き上げた。  続いて右京大夫から、内匠頭の弟に当る浅野大学長広に向け、内匠頭の遺骸を引取ら るるようにと通じたので、早速左の六人が受取に来た。幕府へ遠慮して、人数をかく僅 かにしたのである。   糟谷勘左衛門  片岡源五右衛門  建部喜六  田中貞四郎   礒貝十郎左衛門  中村清右衛門  遺骸はその時うつ伏しになり、首が左側に置いてあったそうである。それを直に棺に 納め、中へは今朝着用していた礼服の大紋、小さ刀、鼻紙、足袋、扇子を納めたが、小 さ刀は吉良上野介に斬りつけたそれである。そして直に高輪泉岳寺へ運んで、近臣だけ で葬ったが、戒名は泉岳寺九世の酬山潮音和尚のつけたもので、   冷光院殿前朝散大夫吹毛玄利大居士  享年三十五であった。田村家へ遺骸受取に赴いた六人のうち、片岡、田中、礒貝、中 村の四人は、あまりの悲しさにこの日泉岳寺で落髪し、主君の遺志をつぐべき事を心に 誓った。うち片岡、礒貝は後に四十七人の列に加わった。  長矩夫人(後に揺泉院)は備後|三次《みよし》の浅野家長治の女で、非常に気丈の婦人だった。 大学長広が、内匠頭切腹、屋敷召上の事を伝え、かつこのさい騒がぬようにと厳命のあ った事を、ひどく気にして話すと、夫人凛然として「それで相手の吉良上野介はどうな りましたか、死んだのですか、生きているのですか」と問うた。「さあ、それは私も聞 きませんでした」と大学が答えると、夫人ハラハラと涙を流して「内匠様はあなたの御 兄様ではありませんか、兄が切腹申付られたのに、その弟が相手の生死も知らないで、 皆の者が騒がないようにと、|御上《おかみ》のお達しにばかりビクビクしているとは何事です」と ひどく悔しがり、爾来大学には口を利かず、義絶してしまった。そしてその夜髪を前刀っ て、里方の三次浅野家へ引取られて行った。 一三 赤穂の驚愕  三月十四日|未《ひつじ》の下刻(午後二時l三時)に早駕籠で江戸を出発した|早水《はやみ》藤左衛門と |萱野《かやの》三平とは、四昼夜半を揺られ揺られて、半死のようになり、十九日寅の下刻(午前 四時i五時)に赤穂城内大石内蔵助の邸に着いた。早駕籠というのは、かけ声勇ましく 飛ばすだけでなく、駅へ着くとすぐ次の駕籠で、夜半でもかまわずまた飛ばすので、つ まり人間のリレi式急送である。だから乗っている人間はたまらない。白木綿で鉢巻し、 腹も布でシッカリ巻き、駕籠の中にさがっている白布にすがりついているのである。そ れが四昼夜半の連続だかち、半死状態になるのも当然だろう。しかもこの途中伏見の宿 では、京都の御留守居小野寺十内に、加古川宿からは加東郡代吉田忠左衛門にそれぞれ 急報しているのである(小野寺も吉田も、即時出発赤穂に向った)。赤穂町の北方、橋 本町から田町への曲り角に「義士息つぎの井戸」というのが今でも残っているが、これ は早水と萱野が、この井戸水で一息ついて大石邸に入ったという史蹟である。  江戸から赤穂まで、『元禄武鑑』には百五十五里とあるが、明治時代の実測では、百 七十五里であり、古書にも百七十里または百六十五里と書いたのもある。これについて 赤穂町の研究家伊藤武雄氏に調査を依頼したところ、 「武鑑には嘉永時代のものもたお百五十五里とあるが、自分の先代が享保十一年に手記 した記録には、   武府百六十四里八町(東海道)赤穂より とあるから後に延びたのかもしれない」 との回答があった。なんにしてもこの道程を四昼夜半で達したのは、非常な速力である が、これは後に原惣右衛門の話によると、浅野家で平生宿場の本陣に十分の手当をして いたから、いずれも敏速に処理してくれた結果だという。  家老職大石|内蔵助良雄《くらのすけよしたか》は、容易に物に動ぜぬ沈着の人物であるが、江戸からの早追 (早道ともいう)と聞いて、午前五時前まだ寝床にいたであろうに、あわただしく起き て引見した。そして先ず早水●萱野の持参した片岡源五右衛門の手紙を披見する。      口上書を以て申上候    御勅使柳原大納言様、高野中納言様、静閑寺中納言様、御道中御機嫌よく、当月   十一日御到着、十二日御登城遊ばされ、十三日御饗応|御能《おんのう》相すみ、翌十四日御白書   院に於て、御勅答の式これあり候。御執事、役人、諸侯残らず御登城相成候処、松   の御廊下に於て、上野介殿理不尽の過言を以て恥辱を与へられ、之に依りて君刃傷   に及ばれ候。然る処同席梶川殿押えすませられ、多勢を以て白刃を奪取り、吉良殿   を打とめ申さず、双方共御存命にて、上野介殿は大友近江守殿へ御預けになり、伝   奏饗応司は戸田能登守殿へ仰付られ候。あらまし右の通りに候条、何れにも御家御   大切の時節に候故、御注進として早水藤左衛門、萱野三平、両人馳せ登らせ申候。   此日取急ぎ、書中一々する能わず、両人委曲言上仕るべく候。尚追々御注進仕るべ   く候。恐憧謹言     三月十四日巳の下刻             片岡源五右衛門 花押       大石内蔵助殿  すなわち内匠頭の切腹や、城地召上げや、大学閉門の事などは、この第一回の急使で はまだ分らないのである。大石は更に早水●萱野の口から委細を聴取り、何にしても一 大事であるから、藩士の総登城を命じて報告し、取敢えず萩原文左衛門、荒井安右衛門 の両人を、早駕籠で正午出発江戸へ立たせた。  すると同日酉の中刻(午後六時前後)やはり早駕籠で足軽飛脚二人が着いた。第一急 使より約十二時間後れているが、これは途中手間どったもので、江戸出発は早水と萱野 が立ってから二、三時間の後だったらしい。というのは、この第二急使も、まだ内匠頭 切腹の事は知らず、単に前便が到着したかどうかの確めと、浅野大学署名の手紙を持参 したに過ぎなんだからである。大学の手紙の全文は次の通り。    態と一筆申達し候。今十四日勅答に付登城なされ、殿上に於て吉良上野介殿を内   匠頭一太刀御切付の処、御目付衆取分け申され、内匠様別条これなき由、右の段言   語に絶する事に候。之に依て水野|監物《けんもつ》殿、御目付近藤平八郎殿、天野伝四郎殿、家   中火の元|急度《きつと》申付、騒動仕らず候様にと御老中仰付られ候由にて、此許屋敷へ参ら   れ候。夫に付其元家中の者共、城下の町、騒動仕らず候様に、|急度《さつと》申付らるべく候。   且又組頭共へも、我等申候由右の段申聞らるべく候。其外|物頭《ものがしら》諸役人へも申渡さ   るべく候。各|仲《なか》ケ|間《ま》少く候間、両人の内罷下り候儀必ず無用に仕らるべく候。其為   如此に候。恐々     三月十四日                    浅野大学 花押       大石内蔵助殿       大野九郎兵衛殿    猶々早水藤左衛門、萱野三平差上候節委細申達し候趣の第一札座の儀、宜しく可   被申付候。已上  右宛名の一人大野九郎兵衛は、大石よりも家格は低いが、共に家老を勤めている人物 で、芝居の|斧《おの》九太夫である。  書状の追書「第一札座の儀云々」とあるのは、藩発行の紙幣の整理に関する事で、浅 野家滅亡とでももし伝わったら、町民の藩札引替要求にどんな騒ぎを引き起すかも知れ ないからである。この注意を聞くまでもなく、大石は|札奉行《ふだぶざよう》の岡島八十右衛門をして、 藩札の発行高、現金の在高等を調査せしめた。  足軽飛脚が着いてから約三時間の後、戌の下刻(午後九時前)第三回目の早駕籠で原 惣右衛門と大石瀬左衛門とが着いた。これによって内匠頭の切腹、城地召上の事が判明 し、なお御親類の戸田|采女正《うねめのしよう》その他から、騒がぬようくれぐれ注意せよとの書状が、 大石・大野らへ宛てて寄せられた。ここに於て大石は再び藩士の非常召集をなし、対策 を協議した。  一同いずれも、主君突然の死別を悲しみ、その御無念さを思いやり、中には声を放っ て働盟人するものあり、「赤穂城は我が藩祖の築造せられたものであるから、これを人手 に渡すことは断じてならぬ。城を枕に戦死すべきだ」と痛憤するものあり、「主君の斬 付けられた吉良上野介が、疵のために死んだか、生きておればどんな御各を受けたか、 それによって我々の態度も変らなければならぬ」と主張するものがある。甲論乙駁、 喧々鴛々として帰着するところを知らない。  一方、藩の財政を調査した結果出札高は八百貫目余(すなわち一万二千両余)、これ に対して在金高は七千両内外、すなわち、約六割の準備金である。そこで、大石は、翌 二十日から、額面の六割に藩札引替を実行させた。たいていの藩では、お家滅亡、藩士 離散という際には、有金を藩士だけに分配して、到底藩札の引替などやらず、また実際 二割三割の引替ができる余裕さえないのが普通であるが赤穂藩は平素財政が豊かだった ので、六割の引替ができたのである。大石はこの藩札引替を余程重視したらしく、即夜 (十九日夜)外村源左衛門を広島へ立たせて、 頼した(ただしこれは不調に終った)。 本家の浅野へ四千五百両の一時立替を依 一四 大石●大野の意見対立  江戸からは毎日のごとく飛脚が来る。大学が閉門仰付けられた。江戸の屋敷を引渡し た。赤穂城受取として脇坂淡路守、木下肥後守、その目付として、荒木十左衛門、榊原 |采女《うねめ》が任命された等々、一報至る毎に藩士領民の愁眉は更にひそみ、大石の面上には沈 痛の色が加わる。  けれども、大石が最も知りたいと望んでいる吉良上野介の生死については、数日を経 ても通知がない。死んだのならば聞えないはずはないから、通知して来るはずだ。それ の来ないのは生きているからだろう。もし上野介が生きていて、主君だけが切腹、城地 召上げというのでは、このままおとなしく城を明け渡すことはできない。これが大石の 真意である。そして気骨ある藩士は皆これと同心である。  三月二十三日、|三次《みよし》浅野家から徳永又右衛門が使に来たのを初として、本家の広島浅 野家からも、戸田|采女正《うねめのしよう》からも、再三使者が来た。いずれも、「騒動を起さぬよう、内 匠頭は日頃公儀を重んじて勤仕していたのであるから、その遺志を体して公命に従順な るよう」と、繰返し繰返し人心鎮撫方を大石、大野両家老宛に申入れたのである。これ は事件発生と同時に、幕府からとくに三家に諭達して、もし鎮撫の力がなく赤穂に騒動 でも起った暁は、親類縁族も同罪に心得よと、厳重に申渡したので、三家とも気が気で なく、どうかおとなしく開城させようと、最善の努力を払っているのである。  三月十九日払暁第一報が入ってから一週間目の二十五日になっても、上野介の生死に ついてまだ通報が来ない。江戸の家老達はなぜこの重要事に気がつかないのだろう。こ れが判明しなければ、我々の態度も決定することができないと、頻りにあせっている大 石内蔵助と相対して、大野九郎兵衛の意見は「このさい騒動しては、公儀に対して申訳 ないのみならず、御一門にもお気の毒な事となる。上野介の生死如何にかかわらず、兎 も角おとなしく開城すべきである」というので、親類一門には受けがよい。 一五 藩論一決、殉死嘆願  二十七日頃になって、上野介|義央《よしひさ》が生きているとの確報がようやく伝わった。しかも 疵は意外に浅いらしい。受城使らも遠からず出発するという。そこで最後の城中会議が 開かれた。  このさいのいろいろの意見を総合すると次の四種である。  籠城説-当赤穂城は先々代長直公の築城である。しかも主家は断絶、喧嘩の相手は お構いなしという不公平の扱い。このさい城をオメオメ人手に渡して、天下に向ける顔 があろうか。よろしく城を枕に一人のこらず戦死して、武士の面目を発揮しよう。これ がせめてもの亡君への報恩であると。これは少壮派の意見である。  開城説-籠城は公儀に対して弓を引くもので、亡君の御志ではない。しかもそのた めに一門の御親類に累を及ぼす。これ亡君に対して不忠ではないか。このさいは兎も角 おとなしく開城して、後に御家再興の策を講ずべきであると。これは大野九郎兵衛一派 の主張である。  復讐説-亡君今わの御恨みは吉良上野介である。我君を死に至らしめたのは彼であ るから、彼を生かしておいては我々が討死しても、武士の一分が立たぬ。君の仇上野介 を討つ以外に、臣子としてとるべき道はないと。これは主として在江戸の少壮派の主張 であるが、赤穂に於ても同意見の者があったことはいうまでもない。  殉死嘆願説-主家は滅亡、上野介には何のお答めもないのでは、この城を立去るこ と義としてできない。しかし籠城討死は主家再興の希望と一致せず、復讐説は幕府に上 野介を処罰せしむるの正々堂々たるに及ばないから、官使の来城を機会に、一同城の大 手門に於て切腹し、その際存念(主家の再興と、上野介の処罰希望)を嘆願しよう。も し大手門での切腹が、公儀に対して輝らねばならぬという事なら、御菩提所花岳寺に於 てしよう。いずれにしても開城した上で嘆願運動をやるような生ぬるい方法では、目的 を達し得る見込は立たぬ。  以上四説のうち、最後の殉死嘆願説は、大石を中心とする人々の意見で、藩論はつい にこれに一決した。この会議の時であろう、大野九郎兵衛らが執拗に開城説を主張し、 しかもそれは生命が惜しいためである事見えすいているので、原惣右衛門が席を進めて 大喝した。 「かように毎日相談しても議論が一決しないのは遺憾である。我々に不同意の方々は早 早この座を立ちたまえ」 と。この時の原は血相すさまじく、罷りちがえば、一刀に斬り捨てん権幕だったので、 後々まで語り草になった。それに恐れて、大野以下十人ばかりは、コソコソと座を外し てしまった。 一六 使命を辱めた陳情使  藩論すでに殉死嘆願と決した上は、開城の目付荒木十左衛門、榊原采女の江戸出発以 前に通じておかないと、折角殉死しても無益に終るかも知れないというので、多川九左 衛門、月岡治右衛門の両人に、嘆願書を持たせて二十九日に出発させた。嘆願書の文言 次の通り。    今度内匠頭儀不慮の不調法の儀に付て切腹仰付られ候。之に依て城地召上られ候   段家中の者共奉畏候。    当日の次第、江戸に罷在候年寄共へ、鈴木源五右衛門様仰渡され候趣、其以後土   屋相模守様にて、戸田采女正殿、浅野美濃守へ仰渡され候次第、承知し奉り候迄に   御座候故、相手吉良上野介様御卒去の上にて内匠切腹仰付られ候儀と存じ奉り罷在   候処、追ての御沙汰承り候処、上野介様御卒去は無之段承知仕り候。家中の侍ども   は武骨の者共、一筋に主人一人を存じ、御法式の儀は弁ぜず、相手方|慈《つつが》なき段之を   承り、城地離散仕り候儀を嘆き申候。年寄ども頭立候者ども末々を教訓仕り候ても、   武骨者ども安心不仕候。此上年寄共了簡を以て申しなだめ難く候間、揮りを顧みず   申上候儀、上野介様へ御仕置願ひ奉ると申上る儀にては無御座候。御両所御働きを   以て、家中納得仕るべき筋御立て下され候は!有難く可奉存候。当表へ御上着のう   へ言上仕り候ては、城御受取なされ候御滞りにも罷成候事いか父と奉存候故、只今   言上仕候。以上 「上野介は生きていて、内匠頭だけが切腹、その上城地召上げというのでは、おとなし く城明け渡すことはできません。家中の者共が納得するように(主家再興、藩の面目)、 御両所で御尽力願いたい」というのである。「武骨の者ども一筋に主人一人を存じ、御 法式の儀は弁ぜず」とか、「年寄どもや頭立つ者がいくら教訓しても聴入れません」と いっているが、その武骨者の大将が実は大石なのである。  ところがこの陳情使たる多川、月岡が江戸へ着いたのは四月四日で目付の荒木十左衛 門と榊原采女はその前日の三日、すでに出発していた。そこで二人は、江戸家老の安 井・藤井に相談して、手紙の写しを戸田氏定(|采女正《うねめのしよう》)に呈した。最初両使が赤穂を 出発する際、この陳情書は先ず目付に呈し、そのあとで写しを、御参考のためにと御親 類筋の戸田氏定に見せる予定であったのだから、目付に呈することができなければ、氏 定にも見せるべきではなかったのである。しかるに気の利かない両使は、同様気の利か ない安井・藤井両家老に相談して氏定に見せたので、大餌飴を生ずるに至ったのはいか にも残念だった。  氏定は一見非常に驚いた。驚くも道理、幕府の命令で、おとなしく城を明け渡させる よう説得すべき役目にあり、それが都合よく運ばなければ連帯で責任を取らなければな らないのに、上野介の御処分がない限り城はおめおめ渡されませぬと、大石内蔵助以下 の頑張っている実情が判明したからである。そこで大急ぎに、赤穂藩士一同にあて厳重 な戒告状を認めた。    家中の面々武骨の至りに候。内匠へ家中奉公の筋は、速に其地引払ひ、城滞りな   く相渡し候段、公儀を重んじ奉る内匠日ごろの存念に相叶ふべく(中略)早速穏便   に退かれ候段肝要の事に候。  これより先戸田家からは、家老その他を説得のため赤穂へ遣していたが、ここに於て 更に数名を増発し、ひたすらおとなしく離散させることに努力した。広島の浅野本家、 三次の浅野家からも、共に重要の人物をやって、反抗がましい行為のないようにと、懸 命に骨折った。  御親類筋の各家々がそうするのは、自藩安全のためであるから無理もないが、不届な のは安井・藤井の両家老である。氏定の言をなるほど御もっともと承服、多川、月岡の 両使を説得して、自分達もまた「もしこのような陳情書を目付に呈せば、目付は上聞に 達し、結局大学殿(内匠頭の弟)の御為かえってよくないから」との旨を認めて、翌日 直に両使を帰らせた。こうして多川、月岡両使は、まるで猫の所へ鼠が使に行ったよう なものだった。 一七 遺憾ながら開城  大石が、多川、月岡の両陳情使を出発させる時の考えは、あの嘆願書を目付が見たな らば、藩士一同の決心を知って、あらかじめ老中との内議を遂げて出発するだろう。そ うなれば一同の殉死も無益にはならず、必ず嘆願の目的を達し得るに相違ない、という にあった。ところが両陳情使は一日ちがいで、目付荒木十左衛門らのすでに出発した翌 日に着いた。それなら、せめて途中ででも差出してくればよかったに、それもせず、持 って帰ったものは戸田采女正氏定(長矩母方の従弟)の厳重な戒告書だった。  これより先、広島の浅野本家からは用人井上団右衛門以下十数名を、戸田氏定からは 家老戸田権左衛門以下これまた十余名、三次浅野家からは数名を、共に赤穂へ出張させ て、おとなしく開城するように諭告し、かついずれも引つづき滞在して監視しているが、 受城使一行は十五、六日頃到着するはずなのに、十日になっても藩士は引払わないので、 頭株の井上団右衛門と戸田権左衛門は気が気でなく、「城受渡しに必要な役目の者だけ を残して、他は早く退散させるように」と、大石に迫るけれども、大石は、「多川、月 岡が江戸から帰って来るまで御猶予ねがいたい」とて、ハッキリ城を渡すとは言いきら なんだ。  しかるに、十一日に多川、月岡が使命を辱めて帰って来たので、大石は即日最後の城 中会議を開き、悲痛な面持で決心を披渥した。 「すでに御一同の同意を得ている通り、受城使一行の来著を待って一同切腹嘆願の予定 であったが、事志と違い、戸田氏定殿から重ねて厳重な御戒告に預った。このさいもし 予定通りの計画を運べば、主家再興の目的が達せられないのみか、却って累を大学殿に 及ぼす恐れがある。それでは犬死となるばかりか、むしろ不忠の死ともなろう。ついて はいかにも残念であるが、この際は恥を忍んでおとなしく開城し、主家再興の目的に向 ってこの上ながら努力する外ない。万一それも成らないと見きわめがついた暁は、更に また所存がある。御一同の生命はしばらく拙者に預らせていただきたい」  大石の言には絶対に信頼する士らも、このまま城を明け渡して退散するというに至っ ては、おとなしく服従しない。若い元気な連中はもとより、小野寺十内、原惣右衛門の ごときも、口角泡を飛ばして、開城が汚名を千載にのこす所以を論じた。けれども大石 は、大功は細瑛を顧みざる理を説いて、主家再興の望みが全く絶えるまでは、忍び難き も忍び、堪えがたきも堪えねばならぬ。汚名をのこすのがいやさに、まだ絶望ともいわ れない主家再興を断念するは臣子の本分でないと、至誠を披渥して一同をなだめ、「所 存があるからしばらく拙者に委されたい」と繰返し繰返し懇諭した。 「それでは」というので、一同がようやく承服したのは、かなりの時間の後であった。 この前後に於て内々大石に誓書を入れ、「何時でも生命を差出す」からと約束したもの が数十人に及んだ。  そこで大石は「それ見た事か」といい顔の大野と遺憾ながら連名して、家中の者ども いよいよ引払う事にするから御安心下されたいとの意味を、親類からの監視役戸田、井 上両人に通じ、他方開城の準備を進めた。  なお一方に於ては、公金の分配をもこの日に行った。藩札の引替を百分の六十の割で 行ったことは前に書いたが、江戸藩邸の残金千両が昨日届いたので、それを合せて、全 藩士に分与した。分配率は、禄高百石に付金十八両とし、高禄になるほど率を減じて、 すなわち百石は十八両、三百石は四十八両、六百石は七十八両、八百石は八十八両、九 百石以上は九十両であった。だから、千五百石の家老大石内蔵助は九十両、六百五十石 の家老大野九郎兵衛は八十一両一歩のはずで、両人所得の差は十両に足らない少額だっ たと思われる。しかし、討入後神崎与五郎が水野監物方へお預けになっている時の談話 筆記に、    去春落去の節配分仕候金子をも、内蔵助は申請けず、何れもへ分けてくれ申候。   諸道具等売払ひ候て、其金子百三、四十両を以て、私共を始め同志の者共を養ひ申   候。 とあるから、大石はその際の九十両すらも取らなんだと考えられる。    一八 大野九郎兵衛父子の逃亡  義士の一人神崎与五郎(芝居では千崎弥五郎)は、同じく義士前原伊助の執筆した 『赤城盟伝』の『憤註』に大野九郎兵衛(芝居では斧九太夫)の人物評をして、「其気濁 つて深姦邪欲なり。人の忠を蔽ひ、士の義を掩ふ。此時に当つて自己の財を聚め、偏に 隠通をなさんと謀る」と書いているが、実際その通りの狸爺だったに相違ない。  この大野が十一日城中に於て、|札座《ふだざ》の役人中藩札引替の金員を持逃げしたものがある との話を聞き、|札奉行《ふだぶぎよう》の岡島八十右衛門(四十七士の一人)が不取締だからだとてそし り、それだけでおけばよかったに「岡島も一つ穴の酪だろう」と附加えた。  岡島は原惣右衛門の弟であるだけに、平生大野の卑怯貧慾を憤慨していたのに、今そ の大野が自分を不正漢の仲間だと悪口したと伝え聞いて、烈火のごとく怒り、その夜直 に大野の邸に行って、「岡島八十右衛門亡君の御用で御目にかかりたい」と申入れた。 大野昼間の悪口を思い当ってこわくなり、「不在」と答えしめたが、「是非共今晩お目に かからねばならない用だから、後刻また来る」と言い残していったん立去り、深夜にな ってまたやって来た。大野取次の男をして、「まだ帰らない」と告げしめると、「出先は どこか」と詰問し、なお奥ヘ聞えよがしに大声で怒鳴った。「今日|某《それがし》を泥坊呼ばわりし たそうだが、何を証拠の雑言か。この主家の危急の際、生命をもささげんことを|盟《ちか》って いる武士が、金銀に目をくれると考えるか。さあ、奥に隠れているのだろう、出て来て 今一度言って見ろ」と眺も裂けんばかりの血相で玄関先に突っ立った。大野も家人も恐 れをなして、鳴りをしずめて答えないので、岡島カラカラと笑い、その足で大野の弟伊 藤五右衛門の宅に行き、これこれの事で只今令兄九郎兵衛殿の邸へ談判に行ったが、出 合われないから貴殿お含み置きを乞うと申入れて立去った。  ところがその翌晩に、大野は息子の郡右衛門(芝居では斧定九郎)と共に夜逃げをし て行方をくらました。神崎与五郎の『憤註』によると、大野父子は夜逃げする際、あわ てて幼い孫娘を置き忘れたとある。なお神崎は、大野父子の後日讃まで詳記している。  それによると、父子は舟で|網干《あぽし》村まで行ったが、村民が大野父子だと聞いて入れてく れないので、余儀なく大坂まで行くと、今度は船頭共が上陸させてくれず、二十何日か を海上で漂泊させられた揚句、最後に引返して亀山で上陸したが、本徳寺の若い僧侶達 が、彼のような不義の老をこの地に留めてはならぬと逐い立てたので、またどこへか立 去り、爾来しばらく消息を絶った。  大野父子が赤穂に残した家財家具、父の分は七十余個、郡右衛門の分は九十余個あっ たが、父子の不忠を憎んだ人々、大石の下知を受けて、それらの荷物にスヅカリ封印を つけ、これを大津屋十右衛門、木屋庄兵衛という二人の商人に保管させて、彼らが受取 に来たら懲らしてやろうと待構えていた。  すると、その年八月二十六日になって、父子突然赤穂に現われ、近藤源八、渡辺嘉兵 衛両人の手引で、荷物を受取ろうとしたが、大津屋、木屋共に一存では計らいかねると て承知しないので、父子は困惑したらしかったが、隙を見て、大津屋保管の荷物の刀箱 から金三百両を盗み出し、コソコソと逃げ出したのを、間もなく気づいて、近隣の老ら が追かけ、ついに捕えて打ち殺そうとした。父子は顔色蒼ざめ、手足ふるい、先刻の三 百両を返済するから生命だけは助けてくれと乞うたので、金を受取って町を追放した。 神崎は漢文でこう記述した後、「天不仁を蔽わず、地不義を載せざること斯の如し。後 人|敬《つつし》んで之を忘るる勿れ」と結んでいる。  以上どれだけ確な事実かわからないけれども、義士の神崎と前原との合著というべき 『赤城盟伝』及び『憤註』に記入しているのであるから、余話としてここに挿入したの である(神崎は、八十右衛門が大野の屋内、茶の間の入口まで侵入したように書いてい るが、その点は玄関で立去ったとの他書の記載によった)。  郡右衛門の妻は脇坂淡路守家の|番頭《ぱんがしら》池田郷右衛門の妹であるが、兄は大野父子の不 義を憎んで使をやって無理に離縁させ、妹をつれて帰った。その後九郎兵衛父子と、郡 右衛門の子三四郎の三人は、諸所を漂泊し、京都禁裡御普請に人足として働いたりした が、最後に|御室《おむろ》の寺門の前に窮迫していたのを、門主がその老衰を不欄がられて捨扶持 を与えられ、お蔭で父子共餓死を免れたが、三四郎はついに乞食の仲間に落ち、北野神 社の境内で物乞うているところを、赤穂の顔見知りの者に見られたという。  また九郎兵衛の娘は梶浦某に嫁していたが、帰すべき家もないからとて、離れ座敷に 別居せしめられた。けれども某は「妻はその身に罪あるに非ず、義によりて遠ざけたの であるから」とて、自分も生涯別の女を近づけなかったと、伴嵩蹟の『閑田次筆』にあ る。 一九 最初の誓紙血判者  一度は殉死嘆願と決定していたのが、多川、月岡両陳情使の不首尾から頓挫し、大石 の懇諭によって、一時生命を大石に預け、無念ながら城を明け渡す事となった際、同意 を口約した者が百余名あり、そのうち自発的に誓紙を認めて血判を押し、大石に差出し たものが五十七名あった。これが後日四十七義土を結成する基礎となったもので、氏名 は次の通りである。この内△印を附した二十四名を除く外のものは、種々の口実の下に 脱盟したことを思ヲと、生命を投げ出す約束を最後まで守り通すことのいかに困難なる かが思われる。 最初の誓紙血判者 奥野将監(千 進藤源四郎(四 △原惣右衛門(三 佐々小左衛門(二 稲川十郎右衛門(二  田中権右衛門(百 △小野寺十内(百    石)  百  石)  百  石) 外餌料六甜)  百  石) 五 十 石) 伍に掛七茄) 河村伝兵衛(三 佐藤伊右衛門(三 小山源五右衛門(三 △吉田忠左衛門(二 △間瀬久太夫(二 多芸太郎左衛門(二 △小野寺幸右衛門(部  百  石)  百  石)  百  石) 百 石) 外糠鯉薦)  百  石)  屋  住)                 84 △△△△    △  △△△△ 村大萱武高橋千中菅間早潮平岡里岡渡 欝高野林難欝十護里野賢擁 兵源三唯篇驚之惰之半+薦兵 衛五平七門門衛門丞郎門丞平郎門門衛 |二二十十百百百百百部百二二部二二二《 へ へ アヘ          ヘノヘ  》 十十両    五  外 石石二両        屋  百百屋百簑i百百 五五  =ゴ       十    料 人人分天          七 壁琶葦萌亜百擁亜髄む百 △  △△   △    △  △  △ 村倉岡貝川仁中灰上榎間山近長岡岡幸 碑躰村憲島戸喜妻松畿轟 太太編薦勘兵弥新兵蕃勘蘇八奮 夫夫門門衛門助衛助助衛門六門門郎門 |部《 》 |二十百百百百百百百二二三部部二《    ノヘ       ノヘノヘ 》   +璽  五一五外百百 屋 石食      粟五五百屋屋百   麹 +十窒十十 住 持一石石石石石石弄石石石石住住石 )  )石)))))))))))))    )  △勝田新左衛門(十五石三人扶持) 矢頭長助(二十五石五人扶持)  △三村次郎左衛門(七  石二人扶持)  各務八右衛門(十  石二人扶持)   陰山惣兵衛(十五両三人扶持)  豊田八太夫(二十石三人扶持)  △神崎与五郎(五 両僅似蹴硝)  吉田定右衛門   猪子源兵衛(九 両三人扶持)  以上は四月十日頃までに赤穂にいた者の内、自発的に誓紙を大石に差出した者で、在 江戸の者は一名も加わっていない。  この人名は諸書異同あり、中には七十名以上を記したものもあるが、右は『介石記』 によった。なお禄高は『浅野内匠頭分限牒』によって修補した。 二○ 堀部安兵衛ら来着  大石以下が悲壮の覚悟を胸に蔵しながら、無念の涙を呑んで城明け渡しの準備を運ん でいるところへ、江戸から堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田郡兵衛の三人がやって来た。 四月十四日の事である。  三人は揃いも揃った熱血男子で、堀部は高田の馬場で恩人筋の知人の果し合いに数人 を撫で斬りして有名な人物、その頃天下第一と呼ばれた剣客堀内源左衛門正春の一番の 門弟で、堀部弥兵衛金丸の養子である。奥田は堀部と共に、堀内門下の双壁と呼ばれ、 安兵衛に次ぐ剣道の達人、高田郡兵衛は槍術の達人である。この三人意気投合するとこ ろから兄弟の義を結び、内匠頭切腹以来、亡君最後の御心残りなる吉良上野介に一太刀 恨まなければ臣子の分が立たぬというので、しきりに運動して同志を勧説したが、ある 者は尻込みし、ある者は国元に於てどんな計画があるかも知れぬからと、なかなか仲間 に入らない。  仕方がないから三人だけで斬込もうかと、実行方法を考えた事もあるが、吉良家はあ れ以来、親戚上杉家(|義央《よしひさ》の妻は上杉家から来り、その仲に生れた|綱憲《つなのり》は上杉家を嗣ぎ、 綱憲の二男|義周《よしかね》すなわち孫が義央の養子となっている)から警護の士を多数附けている ので、いかに武芸の達人たる堀部や奥田でも、僅に三人では目的を達し得る見込が立た ぬ。そこで、赤穂の同志と事を共にする外ないという事になって、四月五日に江戸を立 って来たのである。  三人は旅姿のまま大石に面会して、自分共の志のあるところを告げ、大石の意見を問 うと、大石は、その忠志を嘆賞した後「こちらでは一同殉死して主家の再興を嘆願する 事に一度は決定していたが、陳情使の行違いから、大学殿の御耳にも入ったらしいので、 もしこれを決行すれば、御各めが大学殿に下らないとも限らぬ。それでは我々の切腹も かえって仇となるから、ここは恥を忍んでおとなしく開城し、主家再興、大学殿の御面 目の立つよう、最善の努力をする事にした」と、ありのままを説明し、「この希望が実 現しない暁には所存がある」と附け加えた。  三人は代る代る言葉を補って、 「亡君は御家の滅亡を犠牲にして上野介を討果そうと遊ばされたのであるから、上野介 を生かしておいては、たとい主家再興が実現しても亡君の御霊はお喜びになるまい。そ れができなければ、籠城討死して申訳する外ない。籠城か、復讐か、今の場合この外に 臣子としての道はないはず」 と、熱心に述べ立てたが、大石は|大石《たいせき》のどッしりと据っているがごとく微動だもしない。  そこで三人は、大石は責任者として、衆議のすでに決定した事を勝手に変更すること はできないのだろうから、かねて望みを嘱している奥野|将監《しようげん》.に相談しようと、打つれ て奥野を訪うた。ところが、これも大石と同意見なので、な、お誰彼と数人を勧誘したが、 いずれも大石に信頼して、堀部らの同志になろうとはいわないのみか「我々は今死ぬ生 命をしばらく大石殿に預けているのだから、貴殿らもその仲間に入るがよい」と、あべ こべに勧誘された。  そこで三人も、段々自分達の軽率に気づいて、再び大石を訪問し、今後は御指図によ って行動するから、どうかしかるべくと申入れた。この時の事を、堀部が自身で次の通 り書いている。    三人内蔵助前へ罷出で、段々申談じ候処、内蔵助申候は、各儀此度内蔵助に随ひ   候はんと思召し候てはる人〜御登り候由仰聞られ候上は、先づ此度は内蔵助に委せ   候へ、是きりには限るべからず、以後の含みも有之由直に申すに付、左候は!承届   け候旨請け候て、三人旅宿に帰る。  右は十六日の事で、その日に目付の荒木十左衛門、榊原|采女《うねめ》が着いたので、大石は出 迎えに行き、途中堀部ら三人と行合った。そのさい大石は、堀部の目付が尋常でないの を見て取り、彼あるいは、一度あのようにお委せするといっておきながら、目前に城の 明け渡されるのを見て堪えがたくなり、目付の役人に直訴でもする計画を立てているの でないかと疑って、もしそうなら所存があると、小山源五右衛門をその晩堀部らの宿へ やって詰問させたところ、堀部は案外おとなしくコ度お委せ申しますとお約束した以 上、決して単独の行動はとらないから御安心下されたい」と答えた。この一条でも、大 石がいかにこまかく目を配りその統制を保つ事に苦心しているかが窺われよう。 二一 大石熱誠の嘆願  四月十八日、いよいよ城引渡しというので、目付荒木十左衛門、榊|原采女《 うねめ》、代官石原 新左衛門、岡田庄太夫が、午前十時から検分を行うことになった(受城使脇坂淡路守、 木下肥後守は大兵を率いて明日入城するはず)。  本丸、二ノ丸は、大石内蔵助と奥野|将監《しようげん》とが案内した。屋形内の|金之間《きんのま》に入った時、 少憩して茶を出した。その際大石は、四使の前に平伏して嘆願した。 「今度内匠頭不調法に付お仕置仰付られ、城地召上られまする段恐入り奉ります。それ に付諸事滞りなく御引渡申すべき儀と存じ、家中一同に委細申含め、その上親類一門よ りも度々注意がありましたので、なお以てこの際騒動など引起しませぬようにとくれぐ れも申聞けまして、ようやく今日に立至りまして御座ります。しかるところ、当浅野は 初代長重が、権現様(家康)のまだ天下御一統以前から台徳院様(秀忠)に御奉公申上 げ、代々御厚恩を蒙っておりましたに、今回断絶いたしますること、一しお残念に存じ 奉ります。弟大学は唯今閉門仰付られておりまするが、その安否の程も見届けませんで 家中の離散いたしますることを、一同心残りに存じ、不安の状態に罷在りまする段、私 共に於ても不欄至極に存じます。家中一同の心情揮ながら御賢察たまわり、大学が再び 御奉公相勤まりまするよう御高配の程偏えに願い奉りまする」  三一一三句に至誠をこめて嘆願したが、四使いずれも返答せずそのまま立った。  大書院に入った時、大石は重ねて嘆願した。が四使とも依然として一言の挨拶もしな い。  それから次々見廻って全部を終り、もう帰る事になって玄関側の一室で御茶を出した。 そのさい大石は三たび嘆願した。この時の大石は、もし有効に役立つならば即座の切腹 をも辞さない覚悟だったであろう。 「再三恐入りまするが、先刻申上げましたごとく、内匠頭の不調法に付御法式の御仕置 については家中の者どもただ|畏《かしこま》り奉るのみでありまするが、大学の行末を見届けずに離 散いたしますることを、私共へ兎や角申出でて、実は鎮撫に苦労いたしている次第で御 座ります。彼らの心底余儀なき点も御座りますれば、何卒御賢察御同情の程を幾重にも 願上げまする」  大石の眼底には涙が光っていたに相違ない。その熱誠はかなり強く四使を動かしたら しい。代官石原が先ず目付の荒木に向って、 「内蔵助の申分余儀なき事と存ずる。これは帰府の上御沙汰を賜って苦しかるまじく存 ずるが如何でござる」 と言った。荒木も同意して、 「なるほどもっともと存ぜられるから、御老中方へ申上げる事に致そうかと存ずるが、 榊原殿御意見は」  榊原采女も同意の旨を答えた。  それで荒木は、改めて大石に承知の旨を挨拶して宿に帰った。  その夜荒木は大石を宿へ呼び、 「今日は城内掃除等入念、諸事しかた無類の儀感じ入った。城内に於て願の趣も、直に 飛脚を以て言上した。家中の者が退散するについては、望み次第証文(身元証明の)を 取らせ、江戸へ越すなら関所手形も与えるから」と極めて懇切に申渡した。 二二 大石、僧良雪に聴く  正福寺の良雪和尚は、藩内新浜村の出身で、以前京都松尾寺の盤珪禅師に随伴し、赤 穂では花岳寺の先代良扶和尚の弟子である。性豪壮闊達、傑僧の多かった当時の赤穂に 於ても、良雪は出色の評があり、花岳寺の次代住持を以て擬せられていた。  江戸の凶変が赤穂に伝わるや、浅野藩の滅亡というので、農工商から僧侶まで、銘々 知合の武士の家を弔問した。御菩提所花岳寺の恵光和尚も取敢えず大石邸へ出かけたが、 途中で良雪と一緒になった。良雪は、大石の門長屋に住んでいる若党瀬尾孫左衛門と特 別の関係があったからである。  さて良雪が孫左衛門方から出ると、ちょうどそこへ大石が下城して来て玄関へ入ろう とするところだった。良雪はこれまで、大石と親交の機会はなく、僅に顔を記憶されて いる程度に過ぎないが、ちょうどよい折だからと、大石の後から続いて玄関へ上がった。  大石は中の間まで入ったが、良雪が跡に続いているのを見て、そこに坐った。良雪は 愚葱に礼をして、「ごの度殿様には誠になんとも中上げようのない御凶変で、御家老殿 御痛心の程拝察いたします」と悔みを述べたに対し、大石「イヤ全く大変な事に相成っ て、拙者もつくづく当惑している」と答えた。すると、良雪、平生の無遠慮な直言癖を 制することができず、「御当惑と仰せられまするのは、死なずに済ませたいとの思召で ござりまするか」と反問した。  あまりにも意外な反問を投げつけられて、流右の大石も二の句がつげず、ジ1ッと良 雪の顔を見つめているだけだった。「イヤこれは失礼申上ました。何卒折角御自愛あそ ばされますよう」と、良雪は再び愚勲に礼をして立ち上ると、大石は黙って礼を返して 奥へ入った。  次の日良雪の庵室(後にはこの庵が正福寺と合併する)へ、花岳寺の恵光から使があ ったので、行って見ると、「大石殿が今晩、貴僧に今一度会いたいから取次いでくれと の仰せである」と伝えられたので、夜に入ってから再び訪ねた。  大石の面上には、昨日ほどの沈痛の色がなく、幾分晴れやかに見られた。良雪先ず 「花岳寺より御懇命を伝えられ、恐縮に存じまする。いかなる御用の筋でござりましょ うか」と切り出すと、大石は非常にうち解けた態度で語り出した。「昨日拙者が当惑し ていると申したに対して、貴僧は死なずに済ませたい考えかと反問されたが、あの一語 不思議に強くひびいて、昨夜一晩考えさせられた。不肖ながら内蔵助、今度の大変を知 ると同時に、一命はすでに無いものと覚悟している。がしかし、亡君家来多しといえど も、真に物の用に立つは幾人もない。ナマナカの事を仕出かしてはかえって亡君に御恥 をかかせるような事になるかも知れぬ。これに当惑しているのである」  良雪は膝を乗り出した。 「無遠慮は愚僧の癖でござれば、何卒お宥し下されたい。失礼ながら唯今のお言葉、あ まりに形に囚われた小乗の御考かと存じます。たとい全家中の方々が腰抜であろうとも、 貴方お一人ふみ止まって、おれはこの城を断じて渡さないぞと、腹かき切って果てられ ましたなら、貴方はすなわち城を渡されなんだのであります。貴方ほどのお方が、人を かれこれ頼りにあそばす必要はないはず。そうして貴方が御自分の心の城を守り通され ますなら、家中の方々も必ずそれにおつづきになりましょう。目に見えるあの形の城を いつまでも守ろうとすれば、人数が足りない、食糧が続かない、結局は敗北と、悲観す る外ありませんが、大死一番、さあおれの心の城を取って見ろと、必勝の地に立った時、 何万の軍勢が押し寄せようとも、ビクともするに足りませぬ。あの目に見えるお城は、 堅固のようでも、いつ火事に焼け、地震や台風に崩れないとも限りますまい。そのよう な頼りない城を、明け渡そうが渡すまいが、悟りの眼から見れば、まるで蟻の塔をどう しようという程の小さな問題であります。大切なのは心の問題、目に見える現象の世界 を突破して、その本体の心の世界に進入する時は、百事如意、当惑する事など断じてあ りませぬ」  この良雪の説教は、『赤城義臣伝追加』その他諸書を総合して、著者が敷術したもの である。『義臣伝追加』は、良雪に近しかった人の綴った書らしいが、大乗仏教の精神 を儒教的に解釈した傾きがあり、かつここでは二人の会話の内容は書かず、    何事かありけん、是より至極内蔵助と懇意に申合され、度々参られける。内蔵助   も此良雪には、心を打あけて相談など遂げられけるとぞ。 と書いているだけで、また同書の他の処には、    内蔵助良雪坊に語り申されけるは、貴僧と斯様に御出合申候て御物語候へば、心   がたしかに罷成候。内証に入りて妻子が顔を見候へば、心がぢみくと罷成候。古   の勇士戦場の戒め尤に候。日頃の存じ様とは相違致すものにて候。 とも書いている。  後日討入の前々日、大石が花岳寺の恵光と、この良雪、及び神護寺の三坊にあてて送 った遺書の最後に、次男吉之進が出家させられたそうであるが、一度は武士の家を興さ せたい趣を書いて次に、    少しは心底にか、り候。此儀は存ずまじき事に候へども、人情凡夫の拙者に候へ   ばお恥かしき事に候。さりながら一事の邪魔に相成候やうなる所存にては毛頭無御   座候。御気遣ひ被下まじく候。良雪様去年以来の御物語失念仕らず、具に存じ出し、   此度当然の覚悟に罷成り、恭き次第に御座候。死人に口なし、死後いろノ〜の批判   とりぐに可有之と察し存じ候。 と書いている。大石は、もとより良雪に教えられて復讐を決心したわけではないが、こ の和尚によって啓発せられ、欣然として死に就く境地に達したとは、言っても差支ない ようである。 二三 大石の山科隠栖  大部分の藩士は、それぞれ縁故の地を求めて赤穂を去り、大石外三十名許だけは、残 務の処理に任じていたが、それも五月下旬には一段落ついたので、いずれも赤穂の地を 離れた。  ところで大石は、生憎五月中旬から左の腕に|庁《ちよう》の腫物を生じ、痛みがひどいので一時 床に就き、六月下旬にようやく|癒《なお》ったので、二十五日出発、京都の郊外なる山科の閑居 に移った。山科には大石の親類筋なる進藤源四郎が、祖先に縁故のある関係から前に来 て住んでおり、江戸及び関西に散在している同志との連絡をとる上からも好都合なので、 ここを根拠地と選定したものらしい。なお大石は赤穂在留中、浅野家の菩提寺たる三寺 へ、永代供養料として左の通り寄進した。   花岳寺へ 田地三町五段余   高光寺へ 田地五段余   大蓮寺へ 田地四段余  また紀州高野山に、人知れず内匠頭の石塔を建て、後また京都紫野の瑞光院へ、内匠 頭の永代回向料として金百両を納め、その他主家再興祈願のため、金五両十両と寄進し たもの数個寺に及んでいる。  山科に移った大石は、土地家屋を買い求め、永住するように見せかけて、名も池田久 右衛門と改めた。池田というのは|良雄《よしたか》の母の生家の姓である。  この山科に移ってからとも、あるいはまだ赤穂にいた間の事だと書いた本もあるが、 開城当時の目付荒木十左衛門から手紙が来た。大意は、    帰府の後、彼の願の一件(家名再興のこと)、を心がけていたが、会合の席へ持   ち出しては互に譲り合われて取りあげられまいかと考え、御老中の邸を歴訪、一人   一人に申上げたところ、快く挨拶を賜わった方もあったから、先ず御安心あるよう。 と極めて真情のこもった文面であった。大石感謝の涙にくれ、近々亡君の墓参、大学 (長矩の弟長広)の機嫌伺を兼ねて江戸に下向し、荒木に親しく面会して礼を述べるこ とにきめて、先ず挨拶状だけを出した。  これより先大石は、赤穂遠林寺の住職|祐海和尚《ゆうかいおしよう》が、お寺関係から江戸の護持院大僧正 隆光によい伝手があるというので、とくに和尚を江戸へ出して隆光に面謁せしめ、裏面 から主家再興に援助あるよう乞わしめた。護持院というのは護国寺の前身で、将軍綱吉 の生母桂昌院の本願により建立された真言宗の寺である(今の神田如水会館辺から濠端 一帯)。その住持隆光大僧正は、桂昌院にも将軍にも絶対に信頼されていた。綱吉が犬 の殺傷を禁じたのは、桂昌院が将軍に男子のないのを遺憾とし、なんとかして男子を挙 げさせたい希望から、隆光に教を乞い、将軍が戌年の生れなので犬を大切になさるよう にと教えられて、ついにあの禁令を出さしめるに至ったのである。大石はその隆光の力 を利用して、柳沢出羽守を動かそうと計ったのである。  こうして大石は、主家再興のために表裏両方面からいろいろ手を尽しているが、なか なか急速には運ばない。ところが江戸では、例の急進派堀部安兵衛、奥田孫太夫、高田 郡兵衛の三士が、頻々として大石以下の出府を促して来る。 「グスグスしていると、老人の上野介が病死するかもしれぬ」 「我々は敵を眼前に見ているから績にさわって我慢がならぬ」 「大学様の御将来について御配慮は結構であるが、たとい日本に天竺を添えて大学様に 下さっても、上野介が生きている限り亡君の御霊は安まるまい」 「上野介は今度屋敷替仰付けられて、呉服橋内から本所方面へ近々移るとの事、これに よって江戸町内では、赤穂浪人の敵討の時節が来たのだと専ら樽している」 「全体いつ頃出府されるのか、見込の時日を聞かしてほしい」  これに対して大石は、その都度懇々と理義を説き、「兎も角大学殿の安否が決定する まで待つよう」と諭していたが、堀部らのはやり方は益々烈しく、罷りちがえば在江戸 の数人だけで吉良邸へ斬り込まないとも限らない様子が見えてきたので、その鎮撫のた め、大坂にいる原惣右衛門を呼びよせ、潮田又之丞、中村勘助の二人と共に、九月下旬 出府せしめた。続いて十月七日には、進藤源四郎も大高源五と共に出府した。  ところが、原も進藤も、堀部らが江戸町内の取沙汰をまぜて熱心に討入を説くのに引 入れられて、なるほどもっともだ、グズグズしていて時機を失えば、主家のためにもな らず、臣子の本分にも背いて世間の物笑いになるかも知れない。この上は大石を早く呼 び迎えて、実行準備にかかるがよかろうと、九日に至急便の町飛脚を発した。大石は驚 いた。今はどうしても自ら出馬して鎮撫しなければならなくなり、十月下旬出発する事 にした。これが第一回の大石東下りである。 二四 大石第一回の東下り に 御大 礼石 の内く た蔵劣 め助再 と良さ 称雄套 しは 、   、 表面泉岳寺墓参と、開城当時目付だった荒木十左衛門、榊原|采女《うねめ》 裏面には、江戸急進派の鎮撫を兼ねて、十月下旬山科出発、十一 月三日江戸に着いた。随行者は奥野|将監《しようげん》、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛 門の諸士である。喜んだのは急進派の高田郡兵衛、堀部安兵衛、奥田孫太夫の三人で、 早速一樽を送って祝意を表し、会談の日時を打合せて、十日正午からと約束した。  これより先十月二十九日に、高田、堀部、奥田の三人相会し、内蔵助の出府もいよい よ近々の事であるから、それまでに先ず連判状を作り、在江戸の志堅固の者だけ誓いを 立てようというので、次の通り認めた。  一、御亡君御父祖代々の御家、天下にも代へさせられがたき御命まで捨てられ、御欝   憤散ぜられ候処、御本望遂げさせられず候段、御残念の至り、臣として打捨てがた   く奉存候。然る上は、たとへ同志のうち、外に|了簡《りようけん》これあり、延引いたされ候と   も、来三月御一周忌の前後、同志の輩義の為に彼宅に於て討死仕るべき事、忠道た   るべくと存じきめ候。右の月日過ぎざる様に、心に及び候ほど志を尽し、欝憤を散   ずべきもの也。斯の如く申かはし候上は、相違あるべからず候。もし違変これある   に於ては、御亡君の御罰遁るべからざる者也。依て一紙件の如し。     十月廿九日                               奥田兵左衛門                               堀部安兵衛                               高田郡兵衛  右の奥田兵左衛門というのは奥田孫太夫の事で、元禄十五年三月までは兵左衛門と称 していたのである。つまり三人は、大石がこの上なお主家再興を口実に、時期をいつま でと限らず引きのばす事を恐れ、明年三月亡君の一周忌を最後の期限として決行に同意 させよう、との計画なのである。  そしてこれを先ず、潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七の四人に示し、連署 捺印を求めたところが、四人共、趣旨に於ては毛頭異議はないが、大石が数人を同道し て、近々着府する事だから、兎も角それまで待ち、もし大石以下がどうしても同意しな ければ、そのさい連判する事にしてもおそくはたい、というので、その日はそのままに なった。  さていよいよ約束の十一月十日になったので、三人は同道して正午前から大石の旅宿 (芝、三田松本町、元浅野家出入の|日傭頭《ひようがしら》前川忠太夫宅)へ出向いた。  上の間には大石を中心に、奥野将監、河村伝兵衛、進藤源四郎、原惣右衛門、岡本次 郎左衛門が居並び、次の間には潮田又之丞、中村勘助、大高源五、武林唯七、勝田新左 衛門、中村清右衛門が控えている。  その列座の前で、三人代る代る意見を述べた。 「かねての一件、来年三月の御一周忌を最終期限として是非共決行し得られるよう、只 今より御準備の御相談を願いたい。大学様の御安否を見届けた上でなどと、この上なお のびのびに相成ましては、揮ながら大学様を口実にして君臣の義を失うものと存じます。 たとい大学様の御首尾がよく、主家再興になっても、我々は断じて上野介を見のがすこ とはできない。亡君の御遺志をついでその御恨みを晴らさなければ、武士としての面目 が立ちませぬ。かつ只今大学様御閉門中に決行すれば、閉門御免の後御人前もお宜しい 道理と存じまする」  大石「そう参れば結構であるが、それが却って大学様御取立の妨げにならないとも限 るまい。また期限は必ずしも三月と決めておかないでも、その以前に於ても時節さえ来 れば決行してよいわけである。なんにしても主家再興の見通しがつくまでは待つべきで あろう」  三人「我々の主君は大学様ではなく内匠頭様である。主君の仇を生かしておいて大学 様の御為を計っても、それは決して忠義とは申されますまい。そのうち上野介が病死で もすれば、世間はなんと我々を批判するでしょうか。赤穂の浪人共は腰抜ばかりだった と物笑いになれば、亡君に御恥の上塗りをさせることに、なりはしませぬか」  大石「なるほど大学様は御連枝である。その御連枝に本幹をお嗣がせ申して、亡君の 御後の立ち行くようにと思えばこそ、忍び難きを忍んで苦慮しているのである。世間の 物笑いを気にするのは一己の私、私を捨てて大本を見れば、世間の批判などさして頓着 すべきでないと信ずる。今のところ先ず望みは無さそうに見えるが、幸にして大学様の 御首尾がよく、人前の御交りもおできになるよう相手を適当に処置せられたなら、我々 は出家沙門の身となっても苦しくないとまで考える。大学様の御身も立たず、相手は病 死するというような事にもしたれば、よくよく武運の尽きたものと嘆かねばならぬが、 それは人力の及ばない事である。三君の御忠誠はよく分っているが、何卒今しばらく拙 者に生命を預らせてもらいたい」  三人「我々はなんとしても左様気長にかまえてはいられませぬ。御一周忌までには是 非共亡君の御欝憤をはらしたい考えで、すでに申合せているのであるが、内蔵助殿の御 苦慮も御もっともと存ずる点があるから、しからばこう願いたい。来年三月の御一周忌 までは兎も角決行を延期し、三月になってもたお首尾よい御沙汰がないようなら、もう 見込はないものと断定して、直に討入の手筈を運ぶという事に。そう致せば、一年間は 公儀を重んじて御沙汰を待っていたという趣旨も立ち申そう。元来この種の事は、あら かじめ大体の期限を予定しておかなければ、いつとなく精神に緩みを生じ、また相手方 の様子を探るにしても本気にはなり難い。また二月になったところで、そのさい適当の 機会がなければ、更に一両月は延ばさねばならぬかもしれませぬ。ついては御一周忌ま ではお言葉に従うて待ちまするから、それまでに大学様の御面目が立たなければ、直に 討入準備を運ばれるよう願いたい」  堀部ら三人は、何が何でも明年三月を最後の期限にと主張し、それが用いられなけれ ば別行動にも出で兼ねない様子が察せられるので、大石もついに譲歩した。 「しからば三月を期限として準備を進める事に同意致そう」三人は感謝して喜んだ。 「それでは来春早々上京して、よろず御指図を仰ぐことに致します」  その時進藤源四郎が言を挿んだ。 「それがよかろう、江戸で多勢の者が寄合って相談することは、世間の取沙汰になりや すいから、京都の|円山《まるやまり》か|霊山《ようぜん》あたりで万事の打合せをする事に致しては」  大石はこれにも賛成した。  やがて次の間から、潮田、中村、大高の三人が顔を出して、相談の結果を確め、一同 大満足した。  大石はその後、墓参御礼廻り等各方面の用をすませ、同月二十三日になって江戸出発、 山科へ帰った。原惣右衛門と大高源五は、所用のため当分江戸に残る事にした。   附 記 本文中の大石と堀部ら三人の会話は、堀部安兵衛の手記を根拠とし、この会見以前に   大石と手紙で論争した一節をも会話の中に織り込んだ。 二五 山科連盟の面々 大石は十二月五日(元禄十四年)に山科に帰ったが、江戸で得て来たところは、主家 再興の望みがはなはだ頼りないという事と、堀部ら急進派を明年三月以後なお抑えるこ とは困難らしいという事であった。  元来堀部らは復讐の一本槍であるが、大石は先ず主家再興、すなわち大学長広の御取 立を願って浅野の家名を存続させる事と、長広が面目の立つよう、すなわち吉良上野介 に公儀からの仕置を乞うことの、二つを目標としているのである。赤穂開城の際、一度 は殉死嘆願を決心したのもそのためであり、開城使の前に熱誠を披渥したのもそのため であった。たとい一方の主家再興の目的を達しても、吉良に処罰がないようでは、復讐 決行もやむを得ぬとしているのであるが、いずれにしても、この二つの目的を達するた めには、旧家臣必死の結合を以て当らなけれぼならぬので、機会ある毎に同志を|談《かた》らっ ているのである。  さて赤穂開城の際には、大石に生命を預けた老が百十四名、そのうち自発的に誓紙を 入れて死を約した者が五十七名に及んだが、それら全部が今もなお変心していないとは 断ぜられず、また他に多数の新しい同志も得られたので、改めて|神文《しんもん》の連判状を作って 署名させた。神文というのは、この時代の誓約形式で、「万一違約の際は天地の神々の 御罰が当るよう」との意味を誓約文の末に附記するのである。  元禄十五年の初頃までに、山科に於てこの神文連判に署名したものは左の五十二名で ある。 吉田忠左衛門 近松貞八 杉浦順左衛門 千馬三郎兵衛 横川勘平 中村勘助 河村太郎右衛門 小野寺幸右衛門 貝賀弥左衛門 里村伴左衛門 幸田与惣左衛門 長沢六郎右衛門 間喜兵衛 平野半平 進藤源四郎 梶半左衛門 高谷儀左衛門 田中広左衛門 糟谷勘左衛門 井口忠兵衛 早水藤左衛門 萱野三平 渡辺角兵衛 間瀬久太夫 大高源五 榎戸新助 灰方藤兵衛 河村伝兵衛 大石瀬左衛門 渡辺佐野右衛門 三村次郎左衛門 岡島八十右衛門 岡本次郎左衛門 矢頭右衛門七 間十次郎 高久長左衛門 間瀬孫九郎 山上安左衛門 多芸太郎左衛門 近松勘六 菅谷半之丞 小野寺十内 神崎与五郎 岡野九十郎 潮田又之丞 岡本喜八郎 小山源五右衛門 糟谷五郎左衛門 茅野和助 近藤新吾 大石孫四郎 中村清右衛門 右の外、当時江戸に下っていたため連判の後れたもの左の十一人に及ぶ。 原惣右衛門  富森助右衛門 村松三太夫 倉橋伝助 田中四郎左衛門  小山田庄左衛門 矢田五郎右衛門 松本新五左衛門 礒貝十郎左衛門 村松喜兵衛 酒寄作左衛門  なお在江戸のため、一枚ずつの誓紙を間もなく入れたもの九人。   不破数右衛門  木村伝左衛門  前原伊助  小川仁兵衛   堀部弥兵衛  堀部安兵衛  奥田孫太夫  奥田貞右衛門   高田郡兵衛  以上五十二名と、十一名と、九名と通計七十二名、この外に大石|良雄《よしたか》、同|主税《ちから》、片岡 源五右衛門、武林唯七、勝田新左衛門、吉田沢右衛門、岡野金右衛門、杉野十平次、|赤《あか》 ばね   はざま 埴源蔵、間新六、木村岡右衛門、寺坂吉右衛門ら十二名の討入義士が前記には漏れて いるから、これをも合せると八十四名に達する。それがいよいよ討入の際には五割五分 の四十七人になってしまったのである。 二六 高田郡兵衛脱盟  高田郡兵衛は知行二百石を食んでいた江戸詰藩士で、堀部安兵衛、奥由孫太夫と意気 相投ずる熱血男子であり、事変後真先に赤穂へ駆けつけて、復讐のほかに道はないはず と激論した人物である。大石が江戸下向の際は、亡君一周忌までに是非共吉良邸へ討入 りたいと、堀部、奥田と共に迫った男である。その高田郡兵衛が、大石の江戸退去後ま だ一ヵ月も立たないのに、早くも脱盟するに至ったのは、実に人心の頼むに足らざる事 を立証したものといわねばならぬ。  脱盟の理由というのは、郡兵衛自身の弁解によるとこうである。郡兵衛の伯父内田三 郎右衛門というのが、旗本村越伊予守に仕えている。それに子が無いので、郡兵衛を養 子にして家を継がせようと申込んだ。郡兵衛は兄の弥五兵衛(これも浪人して同居して いる)に頼んで「少々仔細があるから」という口実で断ってもらった。ところが伯父は 「仔細とは何じゃ」と詰問し、ひどく不機嫌なので、正直者の兄の弥五兵衛、実はこれ これでと、郡兵衛が堀部ら多数の盟友と共に復讐計画を進めている秘密をうち明けてし まった。  すると三郎右衛門驚いて「それは以ての外じゃ」と大喝、公儀の御処置に不満を抱く さえあるに、御法度を犯して五人以上徒党を組み、御膝元を騒がせるような計画を、自 分の親類の者がやっているとあっては聞捨にたらぬ。早速思いとまらせて、養子を承知 するよう説諭せよという意を伝え、もし承知せねば表沙汰にもしかねない権幕を示した。 それで郡兵衛も仕方なしに、自分一人のために一同の計画を挫折せしめないようにと、 伯父の意に従うて養子になる事とし、ついに脱盟するに至ったのである。  堀部安兵衛の手記によると、郡兵衛はこの事情を堀部と奥田に打明けて諒解を求める さい「各々方が本望を遂げられた後で、自分は生き残っている覚悟は無いのだから」と 暗に自殺する決心であることをほのめかしたので、堀部はふかく同情し、今君が自殺し たとてなんの役にも立たないのみか、あるいはそれが元でかえって世間の注目をひくか も知れないから、ここのところおとなしく伯父の言に従い、後日我々が本意を遂げた暁、 自決するがよかろう。そうすれば味方の害にもならず、君の面目も立つわけと、なだめ たのであった。が彼はついに自決などせなんだ。  後に四十七士が本望をとげて泉岳寺ヘ引上げるさい、三田八幡の近所で郡兵衛に出逢 った。一同は物も言わず、顔をそむけて通り過ぎたが、老人の堀部弥兵衛(安兵衛養 父)は声をかけて「郡兵衛殿、一同この通り本望をとげて上野介を討取り、今|首《しるし》を泉 岳寺へ持参するところじゃ」というと、郡兵衛はいかにも喜ばしそうに「おめでとう存 じます、皆様御満足でしょう。私も実は唯今三田八幡へお参りして、各々方が首尾よく 御本意を遂げられるよう祈願して来たところで御座います」と言って別れた。  それから何時間かの後郡兵衛は、泉岳寺の門前へ酒など持って来て、祝意を表したい から入門させて貰いたいと申入れた。義士中の若武老らは「憎い奴、ちょうど幸いだか ら呼び入れて踏み殺してしまえ、刀をよごす程のことはない」と意気ごんだが、大石は それを制して門番に「郡兵衛という男は無用の者だから、入門させるな、持って来た酒 は受取る筋がないから、返してくれ」と命じた。  脱盟者は多数にあるが、この高田郡兵衛が、最初の急進派でしかも最後の泉岳寺にま で現われたので、最も有名である。 二七 萱野三平の自刃  高田郡兵衛の脱盟と比較して同情に堪えないのは、|萱野《かやの》三平の自刃である。  三平は、忠臣蔵六段目の主人公早野勘平のモデルである。芝居の勘平はおかるという 妻の実家で、とんだ間違いから舅与一兵衛を我手にかけたものと思い込み、申し訳のた め切腹するのであるが、実際の三平は、まだ妻のない二十八歳の青年で、摂津伊丹の近 く|萱野邑《かやのむら》の父の家で果てるのである。  三平の父萱野七郎左衛門重利は郷士で、大島出羽守義近の知遇を受け、後には出仕し て家老格になった。その関係から、三平は十三歳の時、主君出羽守の推挙で浅野内匠頭 に仕え、|児小姓《こごしよう》として愛せられ、十二両二分と三人扶持を賜わっていた。元禄十四年に は、主君の御供して江戸に出で、三月十四日殿中刃傷事件の起った際、赤穂への第一回 急使として、|早水《はやみ》藤左衛門と共に江戸を出発したのである。  彼は白木綿の鉢巻をして駕籠の中にぶら下り、昼夜兼行で東海道を飛ばしたが、江戸 を立ってからちょうど四日目、十八日の午後、生れ故郷の|萱野邑《かやのむら》を通過した。半死半生、 口も|容易《たやす》くは利けないほど疲れ果てていたが、それでも生れ故郷の風物なつかしく、駕 籠の簾を捲きあげて眺めていると、向うから葬列がやって来た。死者は誰かと尋ねると、 意外にも、自分の母だった。三平驚骸、悲泣の情に堪えないが、身は今主君一大事の急 使で、分秒の時間も私事のためにおくらせるべきではないと考え直し、駕籠の中から合 掌しただけで通り過ぎた。  十九日払暁、赤穂に着いてからの事は、すでに書いた通りである。三平も大石に誓紙 を入れ、一同と共に赤穂を退散、萱野邑の我家に帰って母の喪に服し、折々大石を、路 程十里許の山科の隠栖に訪うて、時の到るを痔っていた。  この間に、元禄十四年九月一日付で神崎与五郎に送った手紙が今遺っている。その要 領を摘むと、    かねて|咄《はなし》のごとく那波村に安坐なされているか。拙者初秋から美濃の内河辺とい   う所へ用事があって、前後三、四十日旅行した。京都では大高子葉(源五)の借宅  'を訪問したが、よい生活方法もないらしい。江戸表では大学様同じ御状態だそうな。   内蔵助殿へも訪問して御目にかかったが、先ず先ず江戸への下向も無用とお咄だっ   た。しかるに最近伝聞すると御下向なさるらしいがどういうお考えとも承らない。   内蔵助様御住居は山科西の山という所だ。京都近くにいても、大学様御為にはぬか   りなく随分手を尽しているとの咄だった。大徳寺内瑞光院に御石塔御位牌が建った   ので、私も参詣拝見して来た。この頃は風雅の道で苦労も忘れている、貴辺には斯   道のお仲間があるか、風雅の友人がつくづくなつかしい。  元禄十四年もまさに暮れようとする師走のある日、三平決然として父の前に申出た。 「私もこうしていつまでもグズグズしていられませぬから、江戸へ出て仕官したいと存 じます。お許し下されい」  七郎右衛門は、かねて三平が山科へ大石を訪ねる事などから、秘密の計画があるに相 違ないと察し、容易に承諾を与えない。それを三平があまりに強く乞うので、ついに直 言した。 「お前は仕官の道を求めたいというが、そうではあるまい。亡君のために復讐する計画 に参加するのだろう」  図星を指されて三平はひどく驚いたが、大石に|神文《しんもん》の誓紙を出しているので、親兄弟 といえども打明ける事はできない。 「唯今は左様の企てを聞及びませぬが、いったん君として仕えた御方のためには、場合 によっては命を差出す事、臣として本分かと存じまする」 「そうじゃ、確にその通りじゃ。しかし、もしもお前が復讐の計画に参加すると、お前 の父である俺も責任は免れない。我が萱野の家だけの事なら、それも大した問題でない が、もしも我が主君出羽守に累が及ぶ事にでもなれば、それは大変じゃ。お前が主君を 思うのと同じに、俺も主君の御上を思わねばならんからな」  いかにもその通りである。三平はどうしたらよいのか分らなくなった。 「お願いです父上、勘当なすって下さい、親子の縁をお切り下されい」 「馬鹿な、禍を避けようがために表面だけ親子が義絶するなど、それは|薄俗《はくぞく》というもの じゃ。そんな真似はしたくない。俺は世間の親と同様お前を可愛いとは思うが、そのた めに、お前が不義の仲間に入っても生きているようにとは願わない。義のためには進ん で死ぬ事をも勧めたい位に考えるが、ただ我が主君に累を及ぼす心配のある事だけは断 じて同意するわけには行かぬ」  三平は決心した。 「御志は分りました父上、江戸行は思い止まります」  彼はそれについて再びいい出さなんだ。翌兀禄十五年正月十四日、月はちがうが内匠 頭の命日に、三平は一通の書面を認め、下男を使にして山科の大石方へ届けた。それは 自殺の遺言書で、文言は左の通り(返り書きの個所、仮名交りに改む)。    年始の御祝意の為め、先達て愚札を奉り候。然れば旧冬已来、吉田忠左衛門、近   松勘六申合せ、当春江戸へ罷下るべく存じ奉り候処、愚父七郎左衛門儀、其主意を   承知して強ひて之を制止候。尤も本意を申聞かせ候は父却つて喜悦仕るべくとは存   じ候へども、御手前様へ差上置候御神文の手前御座候へば、たとひ父子の間にても   此儀口外仕りがたく、忠孝の間に於て柳当惑仕候。之に依つて自殺仕候。吉田、近   松へは別紙を以て申さず候間、御手前様然るべきやう奉願候。恐憧謹言  使を出した後、三平は入浴して身を浄め、、父や|捜《あによめ》と常の如く談笑して自分の寝所へ入 ったが、翌朝八時頃になっても起きて来ないので、不思議に思って家人が室に入って見 ると、東に向って端坐し、切腹して果てていた。家人驚いて父のところへ走っていって 告げると、七郎左衛門かねて察してでもいたごとく、直に家人に注意して、自殺の事を 秘密にさせ、うっかりしゃべると多くの方々に御迷惑が及ぶかも知れぬぞと戒告した。 それで、しかるべく世間体を取繕うて葬式をすませた。享年二十八。  山科へ行った使は、夜明前に大石の宅に着いた。大石が遺言状を手にした時は、三平 の骸にはまだ温味が残っている頃であった。大石は直ちに附近にいる同志を呼びよせ、 三平の同情すべき境地を語り合ってその決意を嘆賞した。  この三平の項は、当代の学者伊藤東涯撰の三平伝によったものであるが、同伝は東涯 が、七郎左衛門の嗣子長好に頼まれて、世間では七郎左衛門が、君臣の義を弁ぜず、た だ三平に対する親馬鹿の溺愛から江戸下向を阻止したごとく誤伝しているから、それを 訂正して真実を伝えたいという嗣子の希望によって執筆したものである。従って、どこ まで史実が重んぜられたかは疑問の節がないでもないが、東涯の執筆という点に敬意を 表して、すべて同伝によった。あるいは次の、養子説または仕官説が真事実かも知れな い。  後に大石らが首尾よく上野介を討取り、細川家に御預けとなった時、接待役堀内伝右 衛門が三平の事を大石に尋ねて、次の通り書いている。    或時内蔵助へ我等申候は、此頃町人共の|咄《はなし》を承り候へば、京都に於て萱野三平と   申す人、書置など仕られ自害致され候様に承り申候へば、内蔵助申され候は、それ   は皆ども京都に居候時分の儀にて御座候。|存生《ぞんしよう》にて居候は父、成程一列に加はり   申候志の者にて候、と申され候。其後いづれもの咄に、三平父は浪人にて京都に居   申候、三平を何方へぞ養子に遣し候の、奉公を致させ候のと談合有之、三平志に叶   ひ申さず、右の通り書置いたし、内匠頭一周忌に自殺し候と、若き衆咄し申され候   事。  三平は神崎の外、大高源五、富森助右衛門などと、俳句の仲間で、俳号を|滑泉《けんせん》という。 「萱野集」と題して、滑泉の句を集めた一巻がある。   秋かぜや隠元豆の杖のあと   萱の穂を気の剣なり野路のつゆ   何はさて裏からござれかきつばた など秀逸であろう。大高子葉(源五)が、三平の家を訪うた時の句に「壁を這ふ木綿の 虫のもみぢ哉」というのがある。  大石が堀内伝右衛門に対して「三平が生きていたら一列に加わるべき者であった」と いったので、明和四年薩州人僧|岱潤《たいじゆん》が、泉岳寺内の義士碑の中へ混じて、三平のため に一碑を建てた。碑面には刃道喜剣信士と刻してある。けれども俗名がこの碑だけ書い てないので、三平の碑だという事が後には分らなくなり、いろいろな臆測が加わって、 ついに講談師が村上喜剣という架空の人物を作り出し、その喜剣の墓だと称するに至っ たのはむしろ滑稽である。  萱野家の後畜は現に神戸川崎造船所に勤務していられる萱野重道氏だそうで、摂津の 萱野村には、三平の遺跡遺物がいろいろ保存されている。 二八 上野介の隠居と大石の復讐決意  吉良上野介|義央《よしひさ》の邸は、呉服|橋内《ぱしうち》にあったが、殿中刃傷事件後数ヵ月の後、八月十九 日に本所松坂町、近藤登之助の上屋敷だった跡へ屋敷替仰付けられた。  呉服橋内の吉良邸の隣は、蜂須賀飛騨守の邸だったが、その頃世間では、赤穂の浪士 らが何時吉良邸へ押かけるかも知れないと噂が高かったので、飛騨守は、もしもそんな 騒ぎの起った際、隣家としてどういう態度に出ずべきかを、内々老中へ伺ったところ、 その返答に、たとい吉良邸に騒動があっても、一切構うべきでない。ただ自分の邸を堅 固に守っておればよいと指図したそうである。それで蜂須賀邸では、昼夜厳重に警護す る外、いざという場合長屋の家来共がすぐ参集するよう準備を整えたが、それが何時ま でという期限もないので、家来共弱ってしまい、茶話などの折には、お隣の吉良邸が引 越してくれなければ、我々はゆっくり晩酌もできないと、大きな声で不平を訴えるもの さえ生ずるに至った。一方ではまた、呉服橋内は丸ノ内だから、万一討入でもあっては 恐れ多い、というような理由もあったのであろう、吉良邸は今度本所へ屋敷替を命ぜら れた。  古来、隅田川が武蔵と下総の境で、そこにかかった橋を両国橋といい、江戸は江戸で も川向うの本所は下総国である。従って浪士が討入るとしても、呉服橋内では御城内を 騒がすことになるが、川向うの本所なら、その辺の遠慮が遥かに軽減される。それで世 間では、この吉良家の屋敷替を、赤穂浪士に討入の便を供したようなものだと取沙汰し た。  吉良は九月二日に本所へ引越したが、赤穂浪士襲撃の噂が高いので、警戒は厳重を極 め、下男下女まで領地参州の吉良から呼びよせ、出入商人も特別の者以外は門内に立入 ることを禁じ、とくに親戚上杉家からは、|附人《つけぴと》を多数に派遣して、油断なく警戒した。 他方にはまた、上方へ隠密(密偵)を派して、一味の頭領と目さるる大石内蔵助の動静 を探らせもした。  しかし、世間の噂はとかく吉良家のために香ばしくないので、上野介の自発でか、そ れとも上杉家から勧告した結果か、上野介は隠居を願い出た。それが十二月十二日(元 禄十四年)聴届けられ、養子|左兵衛義周《さひようえよしかね》に家督相続仰付けられた。所領四千二百石は元 通りである。  これによって、幕府がもはや吉良上野介に対してなんら仕置をする意のない事がハッ キリ分ったので、大石腹中の復讐企図はここに決定的となった。  無論これまでとても、大石に復讐の決心がなかったとはいえない。第一主家の再興、 第二主家の体面、この二つが大石の目的で、第二の浅野家の体面を保つためには、吉良 上野介になんらかの制裁を加えることが必要なのであるから、幕府が吉良に対して手を 下さないなら、我々の手で亡君の遺恨をお晴らし申すとの決意は、赤穂開城のさいから 大石は持っていたのである。けれども、なるべく幕府の手で吉良に仕置をさせる方が穏 かだとしていた。それは到底望みのないもののごとく見られてはいたが、大石としては、 兎も角その方面に一応の手を尽したのである。  それが今度、上野介の隠居御聴届、養子左兵衛の家督相続となった以上、今後たとい 大学長広が御取立に預っても、人前の体面は保たれないから、自分共の手でこれを処置 しなければならぬ。大石の腹はシッカリ復讐ということに決った。サれども今一つの、 主家再興の件が成否いずれかハッキリ決らない以上、復讐の方を先に実行することはで きない。そこで、大石は、今まで江戸の堀部らが主張している吉良邸討入計画を内々進 める一方、主家再興の成否が決する日の速かに来たらんことを待った。 二九 堀部らまた催促  話変って、江戸の堀部安兵衛らは、明年三月の亡君御一周忌を期限として、討入の実 行計画に入るよう大石から言質を取り、月日のたつのをじれッたい位に思っているとこ ろへ、上野介隠居の報が伝わったので、もうこの上は大石も、延期しようとはいうまい、 そうと決れば、一日も早い方がよい。相手は今本所の邸に起居しているが、明年少し暖 かくなれば、上杉の本領米沢へ移住するなどの噂が伝わっている。そんな事になればこ れまでの苦心もムダになる、というので、またまた激励督促の状をしきりに送ってくる。  大石は、堀部らをようやく鎮撫して、御一周忌までと当座のがれの言明をして江戸を 引上げて来たのに、僅に二、三週間にしてまた催促なので、全く閉口した。無論大石も、 復讐の決意はもはやシッカリ固めているが、主家再興の成否が見定めのつくまでは、決 行するわけにゆかぬ。それで堀部らに、次の意味の手紙を十二月二十五日附(元禄十四 年)で送って、懇々と急がぬように諭している。    かねてお話合の通り、いよいよ一儀(復讐のこと)取立てる事に致そう。しかし   本年はもはや押つまったから、|春永《はるなが》にゆっくり御相談して、損得の点をよく考えて   取立てたい。下手な大工衆はむやみに事を急がれるので、ぞんざいな建築になりは   せぬかと心配している。この上は、とくと、|地形下地《ちぎようしたじ》から随分念を入れ、幾重にも   相談をねり、木柱も集めて取組むようにしたい。昨今御不勝手の事だから、大袈裟   に普請(討入)をする噂が世間に立っては、旦那衆(幕府のこと)の手前以ての外   よくないから、普請という事は一切秘密に御注意ありたい。こちらの大工衆へもそ   の事よく申含めている。兎角事をいらち急いでは、材木等も|麓相《そそう》になり、出来上り   の程覚束ない。この段くれぐれも御注意ありたい。    御隠居(上野介のこと)に御目にかかりたい事は御同様であるけれども、それが   むつかしければ、若旦那(左兵衛)に面談することに致したい。そう腹をきめてお   けば、そう普請を急ぐに及ばないはず。御老人弥兵衛殿は普請御巧者だから、よく   御相談願いたい。いずれ春には御目にかかって、色々御相談するが、くれぐれも普  .請のこと他へ洩れないよう御注意第一と存ずる。(原、候文)  この書は正月十七日江戸へ届いたが、堀部と奥田(高田郡兵衛はもう脱盟)は大石の 悠長さに呆れた。そして多少大石の本心を疑わしい位に思ったと見え、返書の中に次の ごとき文句がある。    兎や角申すうち御一周忌にもなってしまう。念の上に念を入れるようとばかり申   され、実際の支度にかかられないのでは、御心底を疑わないでいられません。家督   (左兵衛)へ欝憤を晴らすのならば急ぐに及ばないのは分っている。隠居(上野介)  が第一だからいらつのです。    この度の事は貴殿御」人のお考えで決定し、他の者は御さしずを待つばかりであ   る。貴殿の一令によって家中の半分位は参加すること大方知れているに、御一人で  多勢の志を空しくなさる段心外に存じます。たとい志がなくても、貴殿の激励によ   っては勇気も出すはずなのに、あまりに十事をとり過ぎていつまでもグズグズして   いられること残念に堪えません。   我々は|名聞《みようもん》利欲の念毛頭なく、ただ亡君の欝憤を吉良父子に散ずる念願骨髄に   徹するばかりである。だから多少の構いな/\早く決行する同志が他にあったらそ   の方へ参加する覚悟であります。(原、候文)  この過激急進の堀部らを、これからなお一年近くも抑えて、統制を破らせなかったと ころに、大石の首領としての手腕があるのであるが、その苦心は恐らく想像の外だろう。 三〇 原●大高の帰京  吉良上野介|義央《よしひさ》が隠居して養子左兵衛|義周《よしかね》が家督相続を仰付けられるや、堀部安兵衛 らがまたもや大石を急き立てるに至ったことは既記の通りであるが、堀部の外に、原惣 右衛門がまた、堀部に譲らぬ急進派になっていることを記憶せねばならぬ。  元来原は、江戸の急進派堀部らを鎮撫するために上方から派遣されたのであったが、 それがアベコベに堀部らと共鳴するに至り、ついに大石自ら東下して、堀部らと共に原 をも鎮撫せねばならなくなったのであった。  上野介隠居の報伝わるや、原は堀部らと相談の上、急いで京都に帰り大石を急き立て ようとしたが、同行の大高源五が発病したので、心ならずも延引し、ようやく十二月二 十五口(元禄十四年)にたって江戸を出発した。  原と大高は、途中伊勢神宮に参拝し、正月九日(十五年)伏見に着いて、早速山科の 大石に江戸の情勢を報告し、幕府に吉良を処罰する意志のない事が分明した以上、一日 を|緩《ゆる》うせばそれだけ臣子の本分を空しゅうするわけであるから、至急実行に着手される よう。しからざれば堀部らは別行動に出るかも知れず、統一が破れないとも限らないと いうのである。  そこで大石は、附近に居住している小山源五右衛門、進藤源四郎、岡本次郎左衛門、 小野寺十内らの同志を十一日に会し、原、大高も同席して相談し、なお十四日は亡君の 御命日なので、京都紫野の瑞光院(大徳寺の末寺で、大石はここに内匠頭の衣冠を埋め て石塔を建て、後には永代回向料も納めた)に参詣し、帰途内匠頭の侍医であった寺井 玄渓方(京都柳馬場)に立寄って意見をきいた。この玄渓は、大石と肝胆相照らす友人 で、大石は彼の勤務方面がちがうからとて、一味に加える事を承知しないが、連判者同 様何もかも打明けて相談しているのである。  大石は、原、大高らの急進説には弱ったが、しかし原は当年五十五歳の分別盛りだか ら、そう軽はずみに別行動をとる恐れはあるまい。それよりも大石に心配なのは、江戸 の堀部らである。三月の御一周忌までは兎も角約束によって待合せるだろうが、その先 も統制に服せしむることは困難である。そこで大石の思いついたのは、かねて老巧の点 に於て推服している同志吉田忠左衛門を播州加東郡の潜伏地から呼びよせて、堀部らの 監督かたがた江戸へ先発させる事であった。 三一 吉田忠左衛門、寺坂を伴うて会す  吉田忠左衛門は四十七士中の副首領ともいうベき老巧練達の士で、当年六十二歳、討 入のさいは裏門の大将大石|主税《ちから》の後見役であった。家禄は二百石、郡代として加東郡穂 積村に常に詰めていた。元来浅野家の領地は、播州赤穂郡で三万五千二百石、同国加東 郡で四千七百石、加西郡で八千九百石、佐用郡で千二百石と、四郡に分れていたが、吉 田はその内加東郡の郡代だった関係から、縁故者も多いので、この地に潜伏し、大石か ら召集状の来るのを待っていたのである。著者の郷里は加東郡小野で、小野は一柳藩で あるが、川向うの|来住《きし》村字|黍田《きぴた》は赤穂領で、そこの名主小倉七右衛門方に、吉田は次男 伝内及び寺坂吉右衛門と共にある期間滞在していたこと、小倉家に現存する古文書によ って知ることができる。小倉家の先代亀太郎翁は著者が小学校時代の恩師で、同家の古 風な庭園は、吉田が滞在中指図して築造したものだと言い伝えられている。  忠臣蔵七段目の寺岡平右衛門のモデルたる寺坂吉右衛門は、吉田忠左衛門組下の足軽 で、足軽に取立てられる前は吉田の家僕だったのである。芝居の平右衛門は、『碁盤太 平記』では大星力弥に手打にされ、『仮名手本忠臣蔵』では舐園の茶屋で大星由良之助 に討入参加の許しを与えられるが、実際の寺坂吉右衛門は、他の単独の浪人とは趣を異 にし、終始吉田忠左衛門の家来を以て任じ、忠左衛門のある処、吉右衛門は影のごとく 必ず附添うていた。従って彼の連判加入は、浅野内匠頭に対する恩義のためというより は、むしろ自分の直接の主人たる吉田忠左衛門とその息沢右衛門、忠左衛門の弟貝賀弥 左衛門の最期を見届けたいためであったこと、彼の行実や筆記から見て想像するに難く ない。  この寺坂吉右衛門、身分の低い足軽ではあるが、人となり朴実格勤、後日討入に参加 した後、大石の命によって芸州浅野長広(大学)の所へ報告の密使となって行き、使命 を終えた後は、再び吉田の遺族に仕えて忠勤を励むこと二十余年、六十二歳になってか ら、土佐の支藩山内主膳の懇望によって同公に仕え、八十三歳で天寿を終えた(この寺 坂を徳富蘇峰翁は、『近世日本国民史』中に吉良の門前から臆病風に吹かれて逃亡した と書いて、手厳しく筆訣を加えていられるが、表面的記録に誤られたものである)。  寺坂は相当に文字もあり、またなかなか筆まめの人物で、今日残っている書翰などを 見ても、実に行届いた書き方である。寺坂のちに、吉田忠左衛門妻おりんの弟|柘植《つげ》六郎 左衛門らに頼まれて、忠左衛門が大石の呼出しによって京都へ出た時のことから、討入 当夜の働きに至るまでの事をくわしく書き綴って送った。それは『寺坂信行筆記』と称 して、義士資料中重要なものとなっている。吉田が元禄十五年正月二十五日未明に三木 町を出発し、二十六日大坂に着いて原惣右衛門に面会したこと、二十八日山科で大石と 対談した事など、すべてこの『寺坂信行筆記』で知られたのである。  その『寺坂筆記』によると、吉田は、正月二十八日「山科にて内蔵助殿ヘ参られ、ゆ るゆる対談に及び候て晩刻帰られ」その後もしばしば大石、小野寺(十内)その他と会 談、今度大石の指図で総名代として江戸へ下り、堀部らに別行動を取らしめないよう指 導するについては、先ず上方居住の同志が誓紙|神文《しんもん》の通り相違なく、時期さえ来れば必 死決行の覚悟であることを確めたい。それを確めた上で江戸に下らないと、堀部らを抑 えることは覚束ないと、吉田は自分が困難なる使命を果す上の必要から拘々として大石 に進言した。「内蔵助御尤もの由御挨拶にて、即ち国々住居の衆中へ廻状にて御呼び」 と寺坂が書いている通り、大石も吉田の進言に賛成して、直に廻状で、関西各所の同志 を召集した。それが有名な山科会議である。 三二 山科会議  二月中旬(元禄十五年)山科の大石宅に於て、同志の大会議が開かれた。来会者数は 正確には分らないが、吉田忠左衛門が東下に際し、一党不動の方針を確立せんがため、 その意見によって関西の主だった同志を召集したのであるから、赤穂開城の際の会議に つぐ重要会議だったこというまでもない。  大石は先ず口を開いた。 「拙老旧冬江戸に下った際、主家のために尽すべき忠と義について繰返し申し談じ、大 学殿の御浮沈が決定するまでは軽挙せざるようとの決心を以て、今日に及んだのでござ るが、年末に及び上野介隠居、嗣子左兵衛に家督仰付られしため、江戸及び上方の同志 中、もはや大学殿御運命も見え透いているから、このさい直ちに復讐計画に着手せよと 迫る方々がある。そこで同志一同一体となり、確乎不動の方針の下に行動するよう、今 日お集りを願ったのでござる。遠慮なく御意見を述べられたい」  原惣右衛門は急進派を代表して意見を述べる。 「毎々申す事ながら、亡君今わの御恨みは吉良上野でござる。その仇を生かして置きな がら、主家の御跡目を大学殿に仰付られたとて、我々臣子の義として安んずる事はでき 申さぬ。しかし大石殿の御懇諭もあったので、兎も角三月十四日の御一周忌までは軽挙 しないことを、江戸の堀部氏らと共に承諾したのでござったが、今や御一周忌まで、あ と僅に一ヵ月に過ぎない。而して仇上野介はすでに隠居、家督相続を左兵衛に仰付られ た上は、吉良家に対してもはやお沓めのないこと確定的でござる。吉良家にお各めのな い事は、同時に主家御取立の望みが絶えた証拠でござる。かつ大石殿は、御一周忌にな れば大学殿への御沙汰如何にかかわらず復讐決行の準備に取りかかると、江戸でお約束 なされたのではござらぬか。今に及んでなお決然たる態度を示されないのは、失礼なが ら心外千万に存ずる」  大石「御尤もの仰せ、さりながら旧冬江戸に於ては、御一周忌を期限にと拙者が明言 致さざるに於ては、堀部氏らは単独行動に出でかねまじき気勢を示されたので、それで は開城以来の多数同志の苦心も水泡に帰する故、余儀なく当座のがれにあのような事を 申したわけ、この点拙者の苦衷を何卒御諒察願いたい。拙者は主家の御跡を立てる事を 第一に考うること、赤穂開城の際より一貫して変り申さぬ。今日に於てはその望みはな はだうすく、もはや絶望と申してもよい程には存ぜられるが、それにしても、兎も角公 命がハッキリ下らないうちは、復讐決行には同意いたしかねる。この上いかに長びいて も、明年の御三周忌までもかかることは万あるまいと存ずるから、原氏もどうか、それ までお待ち願いたい」  原「お言葉のごとく、主家の御取立はもはや絶望と存ずるが、もしか万々一、大学殿 に僅の石高でも仰出だされたならば、大石殿は復讐の方をいかがなさる御所存でござる か」  大石「大切の場合でござるから腹蔵なく所存を打明け申す。大学殿に、亡君の跡目相 続としてたとい千石でも仰出されたならば、亡君の御面目もいささか立つ道理でござれ ば、旧臣一同で復讐の挙に出ることは、幕府に対して揮らねばなり申すまい。そのさい は、拙者一人御一同に代り、最初からの主意を立てて吉良家へ欝憤を散ずる覚悟。また たとい五万石を賜わるとも、亡君の御跡目でなく新知の意味ならば、いよいよ亡君の御 恥辱でござれば、そのさいは御一同と共に無二無三吉良邸に討入る事に致したい。この 二つが実行不可能となれば、よくよく武運に尽きたものとして出家沙門の身とでもなる 外ござるまい」  原は憤然として抗論した。 「大石殿仰せのごとく、万一亡君御跡目が立てられる事になれば、一党して復讐の挙に 出る事はなんとしても遠慮いたさねば相成らぬ。しかしながら、去年三月以来盟約して 変らない者はいうに及ばず、その後参加した人々も、ただいちずに亡君今わのきわの御 無念を散じ奉って臣子の本分を尽したいために、親を忘れ妻子を捨てても復讐を決行し ようと期しているのでござる。たとい主家の御跡目は立っても、この主意を滅すことは 断じてでき申さぬ。大石殿はその暁、御一人総名代として本意を貫く覚悟との仰せであ るが、それでは我々一同腰抜武士となる外なく、残念千万でござる。そういう結果にな ろうも知れぬとかねて察するところから、時期を早めん事を我々は主張するのでござる。 御一同はどうか存ぜぬが、この惣右衛門は赤穂城中に於て死に損ったものでござる。今 更生きながらえて出家沙門になる所存など毛頭.こざらぬ。各々方は如何でござる」 と血走った眼で一座を見廻すと、大高源五、潮出又之丞、中村勘助らを初め、少壮気鋭 の士は口々に、 「原氏の御説の通り」 「我々も赤穂での死損い」 「この上腰抜武士として終りたくはござらぬ」 「大石殿がどうしても御同心なくば、御相談を別にする外ござるまい」  会議は今にも分裂しそうな形勢になって来た。書宿株の吉田忠左衛門と小野寺十内は、 初めのうち頼もしげにニコニコして傍観していたが、今は捨ててはおけずと割って入り、 吉田が先ず口を開いた。 「いずれも|方《がた》の忠魂義胆、感激に堪え申さぬ、亡君の御霊も御照覧、いかばかり御満足 の御事であろうと存ずる。ただこの際少々御注意申したいのは、大石殿の言葉の末を捕 えて、その御本心を思い違えないようにという事でござる。大石殿は決して御自分一人 が忠義者になり、各々方を腰抜者にしてしまうような御考えでない事は、拙者共がよく 承知しておる。ただ主家の御跡目が立った上は、多人数で吉良家へ討入ることを遠慮せ ねばなるまいし、それでは亡君の御無念をお晴らし申そうという各々方の志が空しくな るから、その方は別に方法を講じようとの御所存と察する。大石殿が全然復讐を断念な さろうというのであったら、もとより強いて大将に推し立てる必要もござらぬが、その 御志がある以上は、御互に譲歩して力を一つに合せること、これまた亡君への忠義と存 ずる。ここは御互に言葉の末や感情に囚われず、冷静に大局から判断し、大石殿にもな お御再考を願いたい」  弁舌さわやかに、しかも固き決心を内に蔵して熱心に吉田が述べ了ると、小野寺がす ぐその後につづけた。 「拙者も吉田氏も、共に六十の坂を越えた老骨、いかに力んで見たところで今後の余生 は知れたもの。どうせ行きがけの駄賃でござれば、死出の山の一番槍をと心がけてござ る。この点でお若い方々よりは、我々共こそ気も急ぐ道理でござるが、この上二年も三 年も延ばされるのでなければ、なるべく大石殿を御待ち申したい」  大石は先程より、人々の言説に耳を傾け、その顔色に気をつけていたが、一同の志の 堅いことを確めて、安心すると同時に感服し、これらの人々の志を空しくせざる責任が 全く自分にある事を痛感して、涙と共に決心を披渥した。 「吉田氏の申されたごとく、各々方の忠誠は亡君の御霊が照覧あらせられよう、拙者も 感激に堪え申さぬ。ついては是非各々方と事を共に致したいが、ただ大学殿に対する幕 府の公命が下るまでは、なんとしても決行いたしかねる。この上いかに長びいても、更 に一年を超えるような事は万あるまいから、今しばらく御生命を拙者にお預け願いたい。 亡君御霊の御前に誓って、各々方の忠志を空しくさせるような事は断じて致さぬ。切に 切に懇請申す」  大石の眼には涙が光っている。その熱誠には流石の急進派も感激に打たれて、この上 抗争しようとはせなんだ。ついに大石の意見に服従して会を閉じ、この一致結合を携え て、吉田忠左衛門は江戸へ下る事になった。この山科会議は、義士の一挙に重要な一時 期を画したものであるが、これを開くに至ったのは全く吉田忠左衛門の進言に由る。こ の吉田の助けなくしては、大石の統率力も、原、堀部らの急進派を、この後たお抑えて いることはできなんだであろう。 三三 吉田●近松東下  山科会議の結果、原惣右衛門以下の急進派も、大石の熱誠に動かされて、復讐決行を なお当分延期することに決定したので、吉田忠左衛門(|兼亮《かねすけ》)、近松勘六(|行重《ゆきしげ》)の両 人は、大石の命を受け、江戸の急進派堀部らをそれに合流せしむるため、二月二十一日 京都を出発した。このさい寺坂吉右衛門(|信行《のぷゆき》)も、吉田の供をして同行した。吉田、 近松はこの前後から変名して、吉田は|篠崎《しのざき》太郎兵衛、近松は森清助と称した。しかし本 篇では分り易いように本名を用いる。 『寺坂筆記』によると、一行は二月二十四日伊勢神宮に参拝、三月五日江戸に着いて、 元浅野家出入だった芝松本町前川忠太夫方に宿った。吉田は到る処で歌をよんだが後に 焼捨てたので詠草は残っていない。ただ自分の記憶に残っているものだけを書いておく とて、寺坂が八首ばかり記している。その一部。      逢坂にて   九重の霞をわけていづる日もくもらぬ御代に逢坂の関      さやの中山にて   夜をこめて越え行く旅の空なれや|東雲《しのトめ》ちかし佐夜の中山      清見が関にて   天の原霞もはれて清見がた月をとどめよ浪の関もり  吉田は立派な歌よみである。これらの歌を八首まで暗諦していた寺坂も、風流を解す る足軽だったと言ってよかろう。  吉田、近松は、着府そうそう、堀部親子(弥兵衛と養子安兵衛)、奥田父子(孫太夫 と養子貞右衛門)と会して、大石からの手紙を渡し、京都同志の状勢及び山科会議の様 子を委しく語って、「原、大高、潮田、中村らの急進派も、すべて大石の誠意に信頼し て、大学殿(長広)の公けの御処分が決定するまでには、断じて別行動に出ないという 事に申合せたから、江戸の諸士も是非我々と行動を共にしてもらいたい」旨を、至誠を 披渥して謹々と説いた。  安兵衛、孫太夫らは急進派の同志たる一人武林唯七を、吉田らの京都出発と行ちがい に江戸を立たせ、大石の手を離れて急速に実行すべく計画を進めているので、心中大に 不満ではあるが、すでに上方の同志一同がその通り申合せたとある以上、致し方もない ので「是非に及ばぬ、時節を待つ外ござるまい」と承服した。  吉田、近松は大よろこび、大安心、「大石殿の最大の心配は、各々方に延期の同意を 得る事であったが、今御納得下されたのは、計画が成功する瑞兆と申すべきである。早 速大石殿へ通知するから、各々方も一筆返書をお認め願いたい」と迫ったので、安兵衛、 孫太夫も已むを得ず一書を草した。これは全く吉田の老巧と信念の力によったものと言 ってもよいであろう。  この時の手紙に、大石は池田久右衛門の仮名を用いていたので、堀部弥兵衛は馬淵市 郎右衛門、安兵衛は長江長左衛門と、返書に変名を用い、爾来他の場合にもこの変名を 用いた。安兵衛の長江長左衛門は「長ゲエ長ゲエ」という意味から附けたのだろうと、 福本日南は言っている。が別に、安兵衛は越後新発田藩の生れで、十七、八歳の時に姉 婿の長井家に世話になっていたが、その長井家は、蒲原郡庄瀬村字牛崎にあり、信濃川 の沿岸だから、それに因んだ仮名だろうとの説があると、中央義士会員太田能寿氏は言 っている。 三四 武林唯七ら西上  武林唯七(|隆重《たかしげ》)は、僅に十両三人扶持の小禄を食む|中小姓《ちゆうこしよう》であったが、去年の夏か ら江戸へ出て、堀部、奥田らの急進派と共鳴し、大石との約束で、この三月御一周忌ま では待つことにしたが、それまでもう間もないのに、大石はまだグズグズして、いつ取 かかろうともしないから、じれてきて、場合によっては大石と分離して事をあぐべく、 堀部らと相談の上、|不破数右《ふわかずえ》衛|門《もん》と同道して、三月一日に京都に着いた。吉田、近松一 行の東下とは途中で行きちがいになったのである。この武林の祖先は、中国|漸江《せきこう》省|武林《ぶりん》 生れの中国人で、|孟二寛《もうじかん》という医師だった。孟二寛は孟子の後喬で、徳川家康時代に漂 流して我が国に渡来し、そのまま定着して後に帰化、故郷の名を訓読にして姓とし、|武 林次庵《たけぱやしじあん》と称し、日本人を妻として医を業とした。これが武林唯七の祖父である。唯七 は孔子の道を伝えた孟輌の後喬ということを誇りとして、忠勇義烈の志とくに厚く、堀 部安兵衛とは肝胆相照らす仲となった。  彼は不破数右衛門と共に、先ず上方同志中の急進原惣右衛門を大坂に訪問し、三月の 御一周忌もいよいよ近づいたから、大石がもしまだ立ち上らないようなら分離して決行 したい、と相談を持ちかけた。けれども原は、十数日前に山科会議で大石の延期説に一 決したばかりなので賛成せず、と言って延期説に引入れようと逆説するでもなく、何か 考えがありそうではあるが、ハッキリ言明しないので、両人の失望一方でないのみなら ず、何故にあれ程熱心の同志だった原が、かくも腰抜になったのかとわけが分らぬ。三 月十二日付で武林が江戸の堀部に送った手紙の中に、    此|表《おもて》の様子、|合点《がてん》参らざる事多く御座候。(中略)篠崎、森(吉田、近松)へ御   参会成され候や、様子御聞届なされ、|御出会《おであい》御無用と存候。 と書いているのを見ても、いかに失望し、また憤慨したかが知られる。  武林はそれから赤穂へ帰って両親を見舞い、それとなく決心を示して最後の暇乞いを したが、両親も気丈忠志の男女で、涙のうちに我子を激励して送り出した。俗書の中に は、武林の母が自刃して我子を励ましたと書き、その遺書をれいれいしく載せたのもあ るが、すべて作り事である。武林が切腹の前日公命によって認めた|親類書《しんるいがき》に、   父何々母何々播州赤穂に罷在候。 と書き、また、辞世の漢詩の中に「家郷病に臥して双親在り」の一句があるのを見ても、 彼の両親が健在だったことが知れる。ついでに附記しておくが、原惣右衛門の母も、惣 右衛門を激励するため自殺したとて、遺書もあるが、これも作り事であること、惣右衛 門が切腹の時の自筆の親類書に、「母、去年八月病死」とあるので明らかである。義士 の妻母に箔をつけるのは悪い事でないが、芝居や小説なら兎も角、正史実伝らしく書い たものに、この種昔の作り事を無批判に採用したものの多いのはニガニガしい。  武林唯七には半左衛門という兄があった。この兄初め義盟に加わろうとしたところ、 唯七が、兄さんは老い給える両親を扶養なさい、私が亡君への御恩報じを一家総代です るからというと、半左衛門承知せず、「それは逆だ、兄が当然家の総代たるべきだ」と、 互いに義を争うて決しない。結局籔引にして弟の唯七が義盟に加わったのだという。  武林は赤穂から京都へ出て大高源五を訪問し、大石の手を離れて復讐即行を熱説した が、大高も原と同様山科会議の実況を説いて、即行説に賛成しないのみか、これはまた 逆に、大石は確に信頼し得らるる人物であるから、君は当分こちらに滞在して、大石の 意中を確めることに努め、是非共我々と共にせよと勧めて、そのまま自分の所に同居さ せた。 三五 猜介なる不破数右衛門  |不破数右《ふわかずえ》衛|門正種《もんまさたね》は禄百石の不破家に早くから養子に入っていたものであるが、事情 あって|長《なが》の|暇《いとま》を賜わり、浪人となっているうち、事件突発を聞いて真先に赤穂に駆けつ け、ついに義盟に加わったのである。その浪人になった事情というのは2  ある時彼は、三カ条の理由によって閉門申付られたことがある。三カ条の第一は、埋 葬されている罪人の死体を発掘して試し斬りをした。第二は、平生役儀を粗略にしかつ 同役と仲が悪い。第三平生くらし向が不自由だと申立ながら、多人数の客をして馳走し たり、その席で賑やかな|唯子《はやし》などして興を添えた、というのであった。百日ほどして閉 門御免となり出仕すると、「兇暴にして勇気を好み、粗豪の人なり」と古書に書かれて いる不破は「揮り多く候えども申上度事御座候」と前置して、閉門処分の抗議を申立て た。多分これは家老の大野九郎兵衛に対してであったろうと想像されている。抗議とい うのは次の通り。 「第一、死体を掘出して試し斬りをしたのは、新調した一刀の切れ味を確めたいためだ ったとはいえ|重《じゆうじゆ》々|誤《う》り、申訳ありませぬ。第二に多人数の客をしたとの事、これは親 類の者や懇意の友人と、日常の惣菜で一緒に食事をいたしたまでの事、料理とか馳走と か申すようなものではありませぬ。その節|唯子《はやし》をやらせたとの事、これは埣に能太鼓の 稽古を致させているので、未熟な芸ながら笑い草に供したのが、遊芸人でも招いてやら せたごとく、御耳に入ったものと存じまする。次に平生御役儀を粗略に致すとのお答め、 これは迷惑千万の事で、御役儀を粗略に致した覚え毛頭ござりませぬ。同役と仲が悪い との仰せは、これも合点が参りませぬ。元来私は潔癖で、不義に類する事はかつて致し ませぬと同時に、同輩に対しても用捨いたしませぬ。それらの事が原因で私を陰ロする 者があるのかも知れませぬが、それならばその当人と対決させていただき度存じます。 その上私の方が悪いと認められますたら、いかほど重い|科《とが》に処せられましても、お恨み は申上ませぬ。何卒御再調下さるよう」  つまり当局の処置に対して事後に喰ってかかったのである。けれども一向取合ってく れないので、「それでは長の御暇いただきたい」と願い出で、内匠頭から御内意があっ て留められたにも拘わらず、当局に対する意地からとうとう浪人になってしまったので ある。  不破は藩士中でも武芸の達人で、ある夏内匠頭が熊見川で舟遊びした時、命によって 船側を飛び交う燕の片羽を抜討に斬り落した事があったという。  不破はその後江戸へ出て、浪人生活をつづけているうち、殿中刃傷事件から浅野家滅 亡と決った由を聞き、かねて懇意にしていた礒貝十郎左衛門や片岡源五右衛門と共に、 内々復讐の相談を進めていた。そのうち、大石の手で大規模の計画があり礒貝らはその 方へ合流することになったので、不破も一しょに義盟の中に加えてほしいと乞うたが、 大石は、「浪人まで駆り催したと言われることは我々の本意に背くから」と答えて許さ なんだ。しかし不破は再三押して乞い、その赤誠は疑うべくもなく、また礒貝十郎左衛 門も熱心に助言したので、大石は第一回東下の際、一日不破を伴うて泉岳寺に詣で、内 匠頭の墓前に額ずいて、生きたる主君にいうごとく数右衛門勘気の御赦免を願い、そこ で初めて連判の中に加わることを許したのだという事である。  それ以来彼は、堀部らの急進派と共鳴し、今回武林唯七と共に江戸を立って、吉良邸 討入を促進すべく、先ず原惣右衛門を訪問したのであるが、前章記載のごとく、原は山 科会議以来大石の統制に服する事になっていたので、不破を自宅に泊めて談合し、武林 は赤穂へ帰省したのである。この不破のごとき|猜介不罵《けんかいふき》の人物をも包容しているのであ るから、大石が統制に苦心したのは察するに余りあろう。 三六 大石の妻子離別と遊蕩  時日はハッキリしないが、三月中旬と考えられる、大石は、長男|主税《ちから》のみを山科に留 め、夫人(名はリク)を離縁し、十三歳の長女クゥ、十二歳の次男吉之進と共に、但馬 豊岡の実家|石束《いしづか》家へ帰らせた(次女ルリは進藤源四郎の養女にやってある)。一挙の後、 罪が妻及びその縁族に及ばないようにとの用意からである。この時大石夫人は妊娠中で、 但馬へ帰ってから男児が生れ、大三郎と名づけられた。お産を実家でさせるために離縁 の時日を急いだのかも知れない。  原惣右衛門が五月二十日付で堀部・奥田両土に送った書状中、大石の家庭の事を次の 通り書いている。    勿論上方衆、存念堅固には承り届け候。取分け久右殿(池田久右衛門すなわち大   石)こと、|妻室《さいしつ》息女、共に去る頃|但州《たんしゆう》へ差遣し、嫡男|主税《ちから》と両人山科の宅に|蟄居《ちつきよ》候。   主税当年十五歳にて候ヘども、齢よりはひね申候、今春前髪とられ候て器量よく、   いつも同道にて合点下され、□身も成程に志すくやかに見え候て珍重に存候。身が   ろくしまひ候て、今日にも駆下り相違なき体、此段感心頼もしく存ずることに候。  主税は今春前髪を取ったとあるけれども、これは原の思いちがいで、実際は前年(元 禄十四年)十二月十五日に元服して名乗を|良金《よしかね》と称するに至ったものであること、他の 文書で証明し得られる。すなわち主税は十四歳で元服、一人前となったのである。主税 が年齢以上に体格も精神も発達していたことは、幾らも証明し得られるが、小野寺十内 が討入の前日すなわち元禄十五年十二月十三日に、愛妻お|丹《たん》に贈った手紙の次の一節も その一つである。    大石ちから十五にて、せい五尺七寸よろづ之に相応の働き、さてく珍しき事ゆ   ゑ、短冊か、せ送り申候。手跡もたつしやに御座候。      添付の大石主税短冊     あふ時は語り尽すと思へども別れとなれば残る言の葉  良金  妻を離別する少し前から、大石は遊蕩を始め⊂、京都の祇園島原、伏見の|撞木町《しゆもくまち》たど へ足しげく通い、艶名各廓内に高くなった。いうまでもなく、これは、仇の吉良側をし て安心させ、米沢への移住など無用と考えしめ、なお本所の邸の警戒をも怠らしめよう との苦肉の計略からである。目的がそうであるから、とくに大びらに、ハデに遊んだに 相違ない。吉良方から偵察に来ていた隠密(密偵)なども、実情を見てあきれて引上げ たという。一部の義士研究家は、吉良側が密偵を山科までよこしたという史実がない事、 大石が度外れの馬鹿遊びをした証拠などをあげて、大石の一面には遊蕩的素質があった けれども、そのために大義を放棄するに至らなんだところがえらいのだなどと評してい る。しかし大石のこの遊蕩を、昭和の今日の思想で非難することはできない。元禄時代 の遊廓は、詩歌管絃の遊びと同じく、風流の一っ位にしか一般に考えられていなかった のである。  忠臣蔵七段目茶屋場に出る遊女お軽は、全くの架空人物ではなく、一部にモデルがあ るのである。片島深淵の『義臣伝』に、小山源五右衛門と進藤源四郎は、大石が昼夜の 境もなく酔倒するを以て、夫人離別後の寂蓼に堪えないからだとし、瑞光院の和尚と相 談して、京都二条通り寺町辺の二文字屋二郎右衛門という者の娘お軽という美人を大石 の妾に世話したとある。忠臣蔵はこのお軽を、勘平(萱野三平)の女房、寺岡平右衛門 (寺坂吉右衛門)の妹として、面白く潤色したのである。 『義臣伝追加』には、進藤源四郎が良雪和尚の遊びに来たのを幸い、大石に遊蕩をやめ るよう忠告を頼んだが、良雪は大石に面会して、かえって油をそそぐような話をした事 が載っている。  なお大石夫人(リク)が離縁となって実家へ帰ったのは、舅の石束源五兵衛が、大石 の遊蕩に耽り主君の仇を報ずる志の見えないのに愛想をつかして引取ったのだ、と説い た人もあるが、離縁後夫人と取交わした手紙を見れば、そんな事の全然ない事が証明さ れる。左は、夫人が大三郎の安産を知らせたのに対する大石の返書の一節である。    十九日の御文届き、披見申候。まだ殊の外の暑さに候て、そもじどの打続き血心   もなく、無事肥立申され候由、何よりく悦入存じ候。や二(赤ん坊)事もそもじ   どの名づけ申され、大三郎と申候由、殊に生れ付も宜しく可愛らしき子にて候由、   一入の事、くれぐ見申たき事と存じ候。(下略)  この手紙によって、離別後も夫婦の愛情極めてこまやかであった事が想像せられる。 三七 間一髪の急進派分離計画 附 大学の左遷  山科会議に於て、原惣右衛門らの急進説は抑えられ、一同大石の指令に服する事に一 決、吉田忠左衛門はこの決議を齎らして江戸に下-り、堀部らを承服させたのであった。  その後大石は、三月に神崎与五郎を、四月に|千馬《ちぱ》三郎兵衛を江戸に下らせ、実行計画 を進めてはいるが、他方に於ては主家再興の希望をなお捨てず五月に赤穂の遠林寺の祐 海和尚を再び江戸に出して、護持院方面から最後の運動をさせた。こうして裏面的には いろいろ計画を運んでいながら、表面は、祇園島原に流連して、主家の事など忘れ果て たように見せているので、吉良側の密偵はいうまでもなく、連盟者の中にも、その本心 を疑う者が生ずるに至った。  さて話は元へ戻り、原惣右衛門は、山科会議(りさい最後には大石の意見に同意はした けれども、帰宅して静かに考えると、やはり自分の説が正しいように思われ、この上な お一年も延ばしてはついに時機を失するに至る恐れが多分にあるような気がするので、 四月二日付を以て江戸の堀部、奥田に密書を送った。その要旨は「いろいろ考えて見る に、大学様閉門御免になってから上野介に手をかけては、いっそう御首尾がわるい事明 らかである。その時には頭立つ者が自決するより外ないが、たとい自決しても、大学様 の御障りにならないとは限らぬ。そこで、このさい大石初め上方の連中を除いて復讐を 決行したらと思うがどうだろう。そうすれば大学様にお答めのあるはずなく、気もらく だ。まだ誰にも語らないが、十四、五人の同志はあるだろうと信ずる。先達て武林のや って来た時話そうかと思ったが、年若い連中は秘密が漏れやすいから、言葉をニゴして おいた。兎に角これは秘中の秘だから、一味のうちでもよほど吟味した上でないと言い 出せない。貴見如何」というのである。  この原の密書が堀部の手に届いたのは四月二十八日である。堀部の喜びはいうまでも なく、五月三日付を以て「尤も至極なる|思召寄《おぽしめしより》、誠に以て本望の至りこれに過ぎず、そ の意を得申候」と賛意を表し、「七月中に必ず下ってくるよう」「必死の者が十四、五人 揃えば、十分本望が達せられる」と書き添えている。  六月十一日、堀部の手元ヘ大石からの書状が届いた。「来年三月の御三回忌には、拙 者共必ず下向するから、長引いて各々方御退屈だろうとは察するが、拙者の下る迄は|卒 爾《そつじ》の思召をなさらぬよう呉々も希望する。軽率な事をなさるとかえって亡君への不忠と なる。兎角物事には時節があるから、来三月まで必ず御差控えが大切である。拙者がウ ソをついて引のばしているように、そちらで噂もあるそうだが、是非に及ばない。赤穂 離散以来拙者の覚悟は変らない。三月と申しても今数月の事だから、是非それまで軽挙 をなさらぬよう」との主意で、これは大石が原や堀部らの分離計画の噂を聞込んで、五 月二十一日付で江戸の堀部父子、奥田父子宛になだめた書状である。  大石のこの書を受取った翌日(六月十二日)、堀部安兵衛は、上方の原、潮田、中村、 大高、武林五人に宛てて「その後どうしていられるか、七月一ばいに変った事もないよ うなら、是非実行にかかりたい、かねては二十人位必要だろうと思っていたが、固い覚 悟を持った真実の士が十人もあれば沢山だ。なまじいに人数を多く集めようとすると色 色故障が生じて来るから、兎も角コッソリ大石の手を離れて、七月中に下り給え」と申 送り、大石に対しては六月十五日付で、    仰越の趣承知した、よもや卒爾の致し方をする者はあるまいと存ずるが、もしも   そういう相談を持ちかけられた際は、一応御案内は申上ぐる覚悟である。 と回答したこれら往復の書翰は、堀部安兵衛が丹念に全部書き留めているので、後人も 正確な事実を知ることができるのである。高田馬場の仇討に雷名を馳せた安兵衛は、文 筆に於ても長じていたのである。  堀部は右の通り、原らへは分離計画の催促状を送り、大石に対してはさりげない返事 を出したが、そのまま落ちついて原らの来るのを待っていられない。「上方ではやっば り大石のニラミがきいているので、原らも分離ができないのだろう。よし俺が出京して、 今度こそは何が何でも実現して見せるぞ」と、翌十六日米沢町の借宅を出で、芝にいる 吉田忠左衛門を訪問してしばしの別れを告げ、十八日に新橋を立って、六月二十九日京 都に着いた。  堀部安兵衛は、着京そうそうまず大高源五を訪うた。大高は大に喜び、同道して大坂 の原惣右衛門の宅に行き、潮田、中村、武林ら急進派の同志を会して密議をこらし、い よいよ大石と分離して、吉良邸討入断行の事を申合せ、極秘のうちに今数名同志を勧誘 して、七月二十六、七日頃堀部は先発して江戸ヘ引上げる事に予定し、着々準備を進め ていた。  著者はここまで書いてきて、標然として肌の寒くなったように感じた。この時もし、 原や堀部らのこの計画-大石の手を離れて復讐を断行するーが遂行されていたら、 結果はどうなっていたろうか。果して首尾よく上野介を討取ることができたろうか。た といできても、赤穂義士の名が今日のごとく燦然として史上に輝き、芝居に、講談に、 浪花節に、人心を振作して天下後世を益するまでになっていたであろうか。  しかるに、幸なるかな、感謝なるかな、七月十八日浅野大学長広の処分が決定し、閉 門御免、在所広島へ左遷、本家浅野家に差置かるる旨申渡されて、その報道が江戸の吉 田から大石の許へ二十四日に届いた。大石が、なんとかしてと苦心惨惚、悲憤の涙を抑 え、血気にはやる勇士を制し、一年三ヵ月間しびれをきらして待っていた主家再興の望 みは、ここに全く絶えて、内匠頭の養子(実は弟)大学は広島へ左遷せらるることに決 定したのである。大石の落胆は察するに余りあるが、しかし一面に於ては、なまじい家 名を再興させられて、痛し痒しの思いをするよりも、徹底的に復讐の一路に猛進し得る ことになって、サバサバした思いをしたかも知れない。  原、堀部ら急進派の面々が、躍りあがって喜んだ様子が目に見えるようだ。それにし ても幕府当局者は、実に際どいところで大学の処分を決定したものである。まるで大石 の苦心の力も及ばないところを、当局者が手伝ラて、四十七士の一致団結を大成させた ようなものである。 三八 円山会議  浅野大学の左遷が決定して主家再興の望の糸が切れたので、大石はもうなんの心残り もなく復讐の一路に遭進することができるようになった。そこで堀部安兵衛の建策を容 れて、七月二十八日辰の刻(午前八時)から京都円山、|重阿弥《じゆうあみ》の|端寮《はりよう》に同志を会し、い よいよ実行準備の相談をする事にした。重阿弥というのは円山安養寺の六坊の一で、観 光客に庵を貸切り、酒宴などさせたものである。江戸では浅野大学が、ちょうどこの日 に出発、広島へ向った。  当日円山に会合したものは次の十九名であった。 円山会議 大石内蔵助 小野寺幸右衛門 潮田又之丞 貝賀弥左衛門 大石主 税 間瀬久太夫 大高^源 五 大石孫四郎 原惣右衛門 間瀬孫九郎 武林唯七 不破数右衛門 小野寺十内 堀部安兵衛 中村勘介 矢頭右衛門七   岡本次郎左衛門  大石瀬左衛門  三村次郎左衛門  赤穂以来常に大石の支持者として忠義顔していた進藤源四郎や小山源五右衛門初め、 その他多数の連盟者も、とうとう顔を見せなんだ。それは、今まで大石が主家再興のた め努力していたので、大石にさえ附いておれば、新主家に出仕するさい有利であると思 っていたに、主家再興の望が絶えた今日、相談は復讐の一本槍だから、まあまあ御免蒙 っておこうという気になってきたのである。当年十七歳の|矢頭右《やこうべよ》衛|門七《もしち》が、病父長助の 代理格で大坂から来会したのは注意すべきである。  座定ったところで、大石が先ず口を開いた。 「昨年三月以来、さまざま心を砕いて努力したかいもなく、大学様はついに芸州左遷と 決定、主家再興の望みが絶えた今日、例の一件早速取りかかるべきかと存ずるが、なお この上何か考慮いたすべき事ありや否や、御腹蔵なく御意見を承りたい」  これは進藤と小山が、なおしばらく自重して、強大なる仇に対して必ず勝利を得る万 全の確信を得たる上出発するようにと、この程大石に進言したので、列席者のうちにも 何か意見があるかも知れぬと、例の慎重さから問うたのである。  急進派の面々、今に及んでなんの考慮すべき事があろうかとは思ったが、大石の本心 を測りかねて誰も口を開かない、座が少々白け気味になったので、老人株の間瀬久太夫 が席を進めて言った。 「若い方々が逸りに逸らるるのを、抑え抑えて今日に及ばれたのは、全く大学様の御身 が決らなかったためでござる。今となってはもはや一日も早く一件に取かかる外ござる まい。この程江戸の堀部弥兵衛殿から手紙を受取ったが、その中に、自分は齢八十に|垂《なんな》 んとしているので、上方の長分別には余命の程も覚束ない。老後の思い出に一人でも吉 良の邸に斬込んで、臣たる道を果したい位に思うとあったので、その返事に、拙者もモ ウ六十二、到底若い衆と立並んでかいがいしい働きはできないから、近日御地ヘ下向し て、貴殿と共に吉良の門内で腹かき切って相果てたいと申送った次第である。どうか一 日も早く御供いたしたい」  小野寺十内(六十歳)が続けた。 「間瀬殿の言わるる通りである。拙者も間瀬、堀部老とは多年の朋友、受けたる君恩も 軽重ござらねば、是非とも同道にて下向し、死出の山まで離れますまい。御都合つき次 第|出足《しゆつそく》いたさるるようお願い申す」  急進派の堀部安兵衛、喜色満面、 「実は拙者、申訳ない事でござるが、大石殿のお指図を待兼ね、十人ばかり分離して事 をあげんと内々計画していたところでござった。その十人が二手に分れ、五人は吉良左 兵衛の下城を待受けて討取り、その場に割腹、他の五人は吉良の邸に斬込み、幸にして 上野介殿の首を得れば何より、不幸失敗に終っても、彼の邸で斬死すれば年来の宿意は 達するわけ、との考えでござったが、今は安心して御一同と事を共にすることができる ようになり、大慶この上ござらぬ。もはや一日も延引すべきでござらぬ。至急連判者中 の志堅固なるもの一同下向し、吉良の邸に討入申そう」  安兵衛は腕をさすって、今にも飛び出しそうな勢いである。  大石は|莞爾《かんじ》として席を進めた。 「各々方の忠誠全く感激に堪え申さぬ。去年このかたしばしば諸君の勇ましい行動を抑 えて、兎角のびのびにさせたのも、尽すべきだけの道を尽したいためであった。定めし 腰抜にも見えたでござろう。今はもはや躊躇すべきでないから、九月下旬迄には上方の 用向を果し、おそくも十月には必ず出府するから、それまでは敵の様子を探るに止め、 いか程よい機会があろうとも、決して|抜駆《ぬけがけ》の功名などなさらぬよう希望致す。数十人が 神文して約束しながら、その統一が保てないでマチマチの行動をとり、折角敵の邸に討 入りながら目的を達せずして犬死するようでは、たんに残念というのみに止まらず、赤 .穂藩の名折れとなって、亡君に対し奉ってもかえって不忠でござろう」 と原、堀部らの急進派に一本釘をさし、更に語をつづけた。 「兵法に、算多きものは勝ち、算少きものは勝たずとある。いわんや算無くして勝利の 得らるる道理はない。拙者いささか用兵の術には心得あり、かつ公儀に対する申開き等 についてもいろいろ考慮すべき事がござれば、くれぐれも軽率なる単独行動を慎み、拙 者の指令に服せらるるよう希望する」  確乎たる決心は眉宇に濃り、厳然たる態度は辺りを圧した。原や堀部は恐縮したが、 すぐ子供のように元気になって、一同いずれも勇気凛々、祝盃を重ねてよい心持に酔っ てきた。小野寺十内|手鼓《てつづみ》を打って、 「つわものの交り、頼みある中の酒宴かな」 と謡曲『羅生門』の一節を朗々と謡えば、原惣右衛門も続いて立上り、持った扇をサッ と開いて、 「富士の御狩の折を得て、年来の敵本望を達せん」 と『小袖曾我』の仕舞いを舞い納めた。一同歓呼喝采、もう上野介の首を取ったような 喜び方である。  この日の費用が、大石の『金銭請払帳』(復讐関係の全費用を記入した帳面)に「金 壱両」として下に「京、丸山にて打寄会談の入用十九人分、三村次郎左衛門支払、手形 有」と記入されてある。当時の金壱両は、他の文書によって米六斗位に相当すると考え られるから、その割合で今日の価格に換算すると、二十円前後になる。十九人の酒食料 が二十円、一人前一円に過ぎない。こんな事が知られるのも、大石の『金銭請払帳』が 現存しているからである(この『金銭請払帳』の事は後に細説する)。 三九 堀部の帰府と大学の芸州行  堀部安兵衛は|円山《まるやま》会議でスッカリ安心、大石初め上方の同志がこう一決した以上、一 日も早く江戸へ帰って準備を進めねばならぬと、その翌日(元禄十五年七月二十九日) |潮田《うしおだ》又之丞と共に京都を出発した。潮田は大石の使として吉田忠左衛門との打合せ、ま た江戸の実況を視て来るためである。  例の『大石金銭請払帳』を見ると、一金参歩二朱、銀五匁五分五厘として、下に「堀 部安兵衛、潮田又之丞江戸へ指下し、江戸者会談の節入用、両人手形あり」と記入があ る。手形というのは領収証のこと。なおその前に、一金四両二分として「堀部安兵衛江 戸より内談のため罷り上る、往来路銀京都滞留雑用、手形あり」の一項がある。高田の 馬場の仇討で、雷名を天下に馳せた武芸の達人も、今は全く無収入の浪人なので、一方 では大石の緩慢な態度に腹を立てながら、他方では京都往復の旅費や小遣を大石に出し て貰わねばならなんだのである。大石にこの軍用金の用意がなかったら、その徳望手腕 を以てしても、最後の目的を達し得なかったであろうことを思わねばならぬ。  堀部、潮田の両人が遠州浜松の駅を過ぐる時、浅野大学(長広)一行の駕籠と行きち がった。大学は広島の本家へ引取られるのであるが、左遷とはいうものの本人が罪を犯 ---------------------[End of Page 50]--------------------- した場合とは違うから、夫人及び召使の男女数十人を従えて、ちょうど京都で円山会議 の開かれた日に江戸を出発したのである。堀部と潮田は、拝顔して最後のお暇乞いをし たい気もするが、もし今面会すれば後日迷惑をかけるような事にならないとも測られな いので、両人駅馬に跨りながら、知らぬ顔に行き過ぎた。  大学の一行は八月十三日に伏見に着き、それから船で大坂へ下ったが、そのさい京都 附近に在住の赤穂の旧臣らは、大低出迎えて懐旧の涙を拭うた。けれども大石は、病気 だと申立てて行かず、原、間瀬、小野寺以下連盟中の志堅い者は、一人も顔を見せなん だ。この大石以下の不参を、大学に対する不満からのごとく伝えた書もあるが、全く誤 解である。  大学一行が広島へ着いたのは八月二十一日、壮戸を立ってから二十三日目であった。 連判者再吟味  大学の左遷は、石心鉄腸の士をしていよいよ討入を決心せしむるに至ったが、他方に は、当座の忠義顔で加盟していた者に恐慌を来さしめた。  大石は円山会議で、おそくも九月中に上方の用を終り、十月にはそうそう出府すると 言明したが、その上方の用の一つは、百名内外の連判者を再吟味して、必死の同志のみ を選び出すことである。この選択、学校の選抜試験のごとく簡単にはゆかぬ。  大石は数日間考えに考えた。薄志変心のものを先ず選ばねばならず、それを的確に選 んで除外するにしても、何かもっともらしい理由がなければならぬ。理由があっても、 本人に恥をかかせないような形式で脱盟させなければならぬ。もし恥をかかせると、|逆 恨《さかちつ ら》みから秘密を暴露するような事にならないとも限らない。また多人数を一々呼びつけ て試験することもできないから、試験委員に各地を巡廻させなければならぬが、その委 員の人選がまた大切である。  大石は熟考の末、連判者の試験委員を|貝賀《かいが》弥左衛門、大高源五の両人に任命した。弥 左衛門は吉田忠左衛門の実弟で、母の実家貝賀家を相続し、今年五十三の分別盛り。十 両三人扶持(外に米二石)の小身ではあるが、内匠頭の御側近く仕えて信任が厚かった。 彼は最初から兄忠左衛門と共に義のために奮起し、大石にも信ぜられていたが、今回重 要な試験委員の役目を申付かったのである。  源五は、これも禄二十石五人扶持の小身で、この時三十一、小野寺幸右衛門(義士の 一人、十内の養子)の実兄で、小野寺十内と|叔甥《おじおい》関係である。彼は武芸に秀でているの みならず、文雅の道にも嗜みあり、俳人|宝井其角《たからいきかく》の友人で、俳句をよくし、俳名は子葉 と号した。また茶道の心得もあり、その関係から後日吉良上野介在宅の日を探知し、討 入を決行せしめたのである。  この貝賀弥左衛門と大高源五が、連判者の試験委員となって、八月下旬(『真説録』 は八月上旬、『快挙録』は八月五日と明記しているが共に根拠不明である。著者の研究 によると八月二十三日以後と思われるから、あるいは翌閏八月上旬かも知れぬ)出発、 近くは山科伏見、京都、大坂、奈良、遠くは加東郡、赤穂郡に仮寓している同志を歴訪 し、「大石内蔵助の内命でお訪ね申した」と前置して、次の意味を述べた。 「これまで主家再興を第一の目的としていろいろ心を砕き申したが、この程大学様芸州 へ御引取となって、一年半の努力も水泡に帰し申した。かねては他に存じ寄もござった が、都合によりそれも取止めに致し、今後は専ら妻子の養育方法を講ずる事にしたい。 ついてはかねてお預り申した|神文《しんもん》誓紙の御血判〜切抜いてそれぞれ御返上申す。お受納 下されい」  すると、一度連判はしたものの、今では生命の惜しくなっている輩は、反問もせず、 「それはそれは残念な事でござるが、なんとも致し方がござらぬ。|判形《はんぎよう》たしかに受取 申す」 と素直に納める。無論これは|零点《ゼロ》で第一の落第生だ。 「ごれは意外の事を承る。して大石殿は全く復讐を断念せられたのでござるか」 「いかにも、この両三月の大石殿は、昨日は祇園、今日は島原と、流連荒淫、全く腰抜 になりはてられて、復讐のことなど念頭にはない様子。けれどもお預りの神文誓紙が手 元に残っていては、気の答める事もあると見え、きれいに返上したいとの申付」 「さてさて慨嘆に堪えざる次第、しかし大石殿がそういう体たらくでは、致し方もござ らぬ。印形たしかに受取申す」  これも惜しいところで落第。 「これはけしからぬ事を承る」と、眉を釣り、声を荒らげ、 「それで貴殿ら御両人も復讐中止に御同心か。主家は滅亡して仇敵吉良上野介は生存し ているに、このまま泣寝入りして武士の面目が立つとお考えめさるか」 と、果し合でもしかねまじき権幕で迫るか、あるいは「腰抜の大石などに頼らずに、共 共新計画を立てようでござらぬか」と持ちかける連中は、優等点の合格。 「堅固の御覚悟、失礼ながらあっばれ御見上げ申した。大石殿は九月中に江戸出府の予 定でござるから、貴殿もそれまでに出府せらるるよう」 と、合格を証明してなおこまごまと打合せる。  こうして貝賀と大高は、二十日ばかりかかって使命を完全に果した。この時、両人が 何名を歴訪し、その内何名を残したのか、確かな数字は分らないが、新潟県保坂潤治氏 所蔵の大高・貝賀宛の大石書簡によると、奥野将監外十余人に宛てた書状を同封する事 と、なおその書中に、次のごとき意味が一筆書きにしてある。  一、一昨日申した通り、拙者が腰抜になることは合点である、が余り腰抜とばかり申 されるとかえって信じない者があるかも知れぬから、その辺の了見が大切だ。 一、判を返す理由を強く尋ねられたら、第一世間の風説が高いので、連判で多勢催し ては罪科になるためらしい。しかし自分もよく存じない。兎も角銘々勝手に江戸へ 出るなら出て、時節を待つなり、今後の計を立てるなり、了見次第と答えるがよか ろう。 、灰方藤兵衛から今朝脱退を申出て来たが、同人の分だけ今から書き直して切抜く のは面倒だから、そのままにおく。等々々。 四一 隅田川納涼会議  円山会議の翌日京都を立った堀部安兵衛と潮田又之丞は、八月十日江戸に着き、直ち に江戸隊長吉田忠左衛門を訪問して、円山会議の状況と上方同志の決心を告げ、大石主 将が遅くも九月中に用を片付けて出府するはずだから、こちらでもその手筈を整え、い よいよ本格的に討入準備を進めねばならぬことを説いた。  吉田は、さきに大学が左遷されると、早飛脚でそれを弟の貝賀弥左衛門に通知し、貝 賀から大石へ報告させたが、その時、いよいよ決行の期も迫ってきた事を感じて、これ までの宿(芝、松本町前川忠太夫方)へは京都へ帰ると吹聴して、近松勘六と二人、新 麹町六丁目大黒屋喜右衛門の家作を一戸借受け、それまでの変名篠崎太郎兵衛を再び変 名して、作州浪人田口一真と名のり、勘六は甥田口三介と称した。吉田は文武両道に達 し、とくに小幡流の兵学に造詣深く、かつ弁舌が流暢なので、兵学師範の看板を掲げ、 出入する同志を門人らしく見せかけたが、これは世を欺く戦術としても妙を極めたもの である。  堀部、潮田から円山会議の話を聞いた吉田の田口一真は、このさい在江戸同志の大会 を開いて、決心を新にすると同時に、諸般の準備打合会を開く必要を感じ、陸上では兎 角人目につき易いから、折柄の暑中を幸い、納涼と見せかけて、八月十二日の夕方から、 隅田川に二艘の屋形船を漕ぎ出した。 ーこの時何名の同志が会したか、正確の数は分らないが、寺坂吉右衛門の『私記』には 「此節|心底《しんてい》心元なく相見え申す者選び捨て、相談に入れ申さず候」とあるから、脱盟の 恐れあるものは除外し、後日討入に参加した四十七士中当時江戸にいた左の面々が、大 部分集ったものと察せられる。   吉田忠左衛門 富森助右衛門 片岡源五右衛門 赤埴源蔵   矢田五郎右衛門  杉野十平次  礒貝十郎左衛門  潮田又之丞   堀部弥兵衛 堀部安兵衛 奥田孫太夫 奥田貞右衛門   倉橋伝助 前原伊助 勝田新左衛門 中村勘助   村松喜兵衛 村松三太夫・ 神崎与五郎 横川勘平   近松勘六 寺坂吉右衛門  河面を蔽うほどに沢山出ている涼み船の中に、吉良邸討入の密談をしているのが二艘 まじっていようなどとは、時の水上警察(?)も気がつかなんだ。 『寺坂私記』に「船頭は|供船《ともぶね》に乗せて、殊に内談候節は茶屋支度に上らせ申候」とある から、用意周到、船頭でさえ普通の遊山客と思い込んでいたに相違ない。  密談の内容を記載した書籍中、根拠確実と思われるものは見当らないが、いずれ大石 が出府するまでに、吉良邸の様子を詳細偵察する方法が主題だったに相違ない。なお大 石以下多人数が追々出府するから、その宿割を人目に立たないようにする事などについ ても、吉田が中心になって相談した事だろう。  会議が終った後は、普通の遊山客同様、酒酌みかわして歓を尽した。当夜は月が冴え ていたと見えて神崎与五郎の詠草の中に次の通りある。      おなじ心なる人々いざなひ八月十二日隅田川の迫遥にまかりし頃   鳥の名の都の空もわすれけり隅田川原にすむ月を見て      月前友   てる月のまどかなる夜に|円居《まとい》する人の心の奥も曇らじ  潮田又之丞はこの舟中会議を終った後、なお数日間滞在して諸般の情勢を確めた上、 十七日近松勘六と同道して上方に向い、 委しく大石に報告した。 四二 大石引止運動  大石|内蔵助良雄《くらのすけよしたか》は、円山会議以後着々準備を進めているが、山科から直に江戸に向っ ては、吉良側に警戒される恐れもあるので、近所へはこの度外戚池田玄蕃(従弟)に招 かれて備前へ赴くと称して、山科の住宅は親戚に当る男山八幡の僧証讃に引渡し、閏八 月一日(元禄十五年)京都に出て、四条通金蓮寺の梅林庵を、当座の仮宿として引越し た。梅林庵は今日もう跡方もないが、新京極を東へと入って、いま花遊軒という料理屋 になっている所がその跡だという事である。  これより先、大石がこうして復讐実行の準備を進めているのを、よそながら眺めて困 ったのは進藤源四郎と小山源五右衛門とである。進藤は大石の従弟に当り四百石の家柄、 小山は大石の伯父で三百石、共に大石と意気投合して、赤穂開城以来行動を一つにして 来たのである。大石が山科に居を構えるに至ったのも、進藤が先に来ていて呼んだから である。なおまた大石の二女ルリは進藤家の養女になっている位であるから、両人共、 今にたって生命が惜しくなったともいえず、なんとか大石の江戸出府を引止めようとし て、「今はまだ時期でない、ことに公儀でも警戒厳重で、赤穂浪人と分れば関所を通さ ないそうだから、今少し先にすべきだ。江戸でも昨今公儀の目が光ってきたそうな」と、 いろいろに説いたが、大石の決心は巌のごとく動かない。けれども多少不安に感じたと 見えて、江戸の吉田忠左衛門へ問合せたところ、忠左衛門から、「別段公儀の目が光っ てきたなどという事はないから、御懸念なく御出府ありたい」との返事がきた。  奥野将監もまた、引留組の一人である。彼は干石の家柄で、大石の第一回東下の時同 行したものである。彼はいう、 「大学様の芸州お引取りで、主家再興の望みが絶えたと決めるのは早計である。今一度 他の方法によって再興運動を再開したい。復讐はそれから後の事である。かつ復讐を決 行するからには、必ず相手の首を取るだけの自信がなければならぬ。もし失敗すれば、 却って亡君を辱しめることになろう。しかるに今日は、上杉という大家を後楯にしてい る強敵吉良に対し、味方には随分決心の疑わしいものが多い。貴殿は今事をあげて必ず 上野介の首を取るとの確信があるのか」  大石はこれに対して答えた。 「敵の首を取れるか取れないかは、時の運に委せる外ない。拙者は主家再興についても はや尽すべきだけは尽したから、この上は吉良の門内へ踏み込んで相果てるを最後の忠 義と存ずる」  こうして進藤も、小山も、奥野も皆脱盟したのである。 四三 脱盟の面々  一度加盟して置きながら、今度大石がいよいよ復讐実行のため東下する際までに、脱 盟したもの左の通り七十余名に達した。この中には、貝賀・大高に不合格を宣告された もの、自発的に申出たものもある。 奥野将監(千 河村伝兵衛(三 進藤源四郎(四 長沢六郎右衛門(三 小山源五右衛門(三 大石孫四郎(三 佐藤兵右衛門(部 屋百百百百百 住石石石石石石 )  )  )  )  ))  ) 糟谷勘左衛門(二戸騨註拓) 井口忠兵衛(二百五十石) 稲川十郎右衛門(二 百 石) 山上定七(部屋住) 奥野弥五郎(部 河村太郎右衛門(部 多川九左衛門(四 長沢幾右衛門(部 小山弥六(部 佐藤伊右衛門(三 月岡治右衛門(三 糟谷五郎左衛門(部 井口庄太夫(部 屋屋百百屋屋百屋屋 住住石石住住石住住 ) ) ) ) ) ) ) ) ) 山上安左衛門(二百五十石) 佐々小左衛門(二 鮪六㌔酬) 佐々五百右衛門(二 平野半平(二 岡本次郎左衛門(二 井 口 半蔵(二 高久長右衛門(二 百百鮎百百   七 石石十石石 ))石石))   ) 灰方藤兵衛(百五十石) 里村伴左衛門(百五十石) 塩谷武右衛門(百五十石) 酒寄作右衛門(頂」一匙胤酊人拓) 渡辺佐野右衛門(百五十石) 仁平郷右衛門(百 川田八兵衛(百 田中代右衛門(百 近松貞八(百 松本新五右衛門(百 田中序右衛門(八  石)  石)  石)  石) 石鐵) 十 石) 久下弥五右衛門(二十五石施蹴) 多芸太郎左衛門(二 幸田与惣右衛門(二 岡本喜八郎(部 高田郡兵衛(二 木村孫右衛門(二 上島弥 百百屋百百 石石住石石 ) ) ) ) )     助(百五十石) 田中権右衛門(百五十石) 前野新蔵(百五十石) 渡辺角兵衛(二 高谷儀左衛門(百 榎戸 新助(百 嶺善左衛門(百 杉浦順左衛門(百 小幡弥右衛門(百 山羽利左衛門(百 百 石石石石石石 ) ) ) ) ) ) 石蘇) 近藤新吾(三十石榔臥) 田中四郎左衛門(二十五石据臥)  豊田八太夫(二十石施撫)  大塚藤兵衛(十五石施蹴)  各務八右衛門(十 石挺蹴)  陰山惣兵衛(十五両挺臥)  猪子源兵衛(九 両施臥)  土田三郎右衛門(七  両虎臥)  三輪弥九郎(六 両提臥)  吉田定右衛門(九 石虎蹴)  以上七十二名が、元禄十五年九月 前後までの脱盟者である。 、 生瀬十左衛門(二十石挺臥) 木村伝左衛門 各務伝三郎(部 陰山惣八(部 渡辺半右衛門 三輪喜兵衛(六 梶半左衛門(五 甲斐仁左衛門           こうして残ったものが五十五名、 って、最後の討入には四十七人にたってしまったのである。 屋住) 屋住) 両嶽) 両嶽) 大石がいよいよ準備を整えて二度目に江戸ヘ立つ         その内また一人へり二人へ 四四 寺井玄渓の加盟切願  寺井玄渓は故内匠頭の侍医として、禄高三百石十五人扶持を受けていたが、赤穂開城 後は京都に出で、町医者を業としている。彼は大石以下多くの義士に親交があったから、 江戸の同志から山科の大石へ送る手紙は、寺井を中継とした事もあり、また京都附近在 住の同志は、しばしば寺井の家に会して相談するのを常とした。  彼は、赤穂に抱えられるまではズット京都に住んでいたので、道具類の|目利《めきさ》に長じて いた。それで義士らが家財調度類を金に代える場合、しばしば寺井の手を煩わした。大 石が山科の家を処分して京都に引移る際も、金に代える物は寺井が親切に世話したので ある。  さて、大石が万端の準備を運び、東下する日も追々近づいてくるのを見るにつけ、寺 井はジッとしてはいられなくなり、義盟の中に自分も加えてもらいたいと申込んだ。大 石、応えていう、 「代々恩顧を蒙っている武士中にも腰抜の者が多いのに、御忠志には感じ入る。しかし、 これには承諾しがたい二つの理由がござる。第一、貴公は医を以て仕えられたもので、 我々武辺の者とは道が違い申す。第二、その上に貴公は新参で、君の禄を受けられたこ と何程でもござらぬ。その人を加えては、世間あるいは赤穂藩に武士乏しく、新参の医 師まで駆り催して主君の仇を打ったと評しない限りでない。それでは亡君の御恥になり 申す。どうかこの儀は思い止って、我々が亡き後、いかなる非難が世間に起るかも知れ 申さぬ故、そのような場合、亡君の御ため、我々のため、弁護の役をお頼み申したい」  寺井は承服しないで、言葉はげしく抗弁する。 「君が一日の恩のために妾が百年の命を捧ぐというのが貞婦である。拙者もとより武道 の職ではござらぬが、|正《まさ》しく君の禄を食みたるに紛れはない。君恩を謝するに新参古参 を区別する理由があろうや。また戦場にては疵の手当をする必要がある。貴殿以下の御 健康のためにも、拙者の医術が役立つはず。武器を以て君の仇を刺すが臣子の本分なら ば、薬匙を以てそれら義士の病賊を退治するもまた君への忠義であるはず。是非是非同 道ねがいたい」 と、なかなか引き下らない。大石もまた毅然として譲らない。 コ応御もっともではあるが、しかし今度の一挙は戦争でない。傷ついた者を手当して 再び武器をとらせる必要は全くござらぬ。傷つかざる者もやがては死ぬのである。かつ 寺井殿の医名は京中に高い。その人の参加は、秘密を要する一行の進退に妨げあること 多大でござれば、なんと申されてもこの儀は貴意に副いがたい」 と巨巌のごとき不動の態度を示した。  寺井はひどく落胆したが、この上いくら言葉を重ねても無益なこと明らかであるから、 推しては乞わない。 「イヤ、もうこの上はお頼み申しますまい。しかし、拙者武家ではござらぬが、かかる 事をいったん言い出して、このまま思い止まるは不面目千万、お察し下されい」 と、心中何か決するところがあるらしいので、大石も寺井の志に同情し、「しからば令 息玄達殿を、道中の衛生係として同道いたそう」と折れた。  すでに連判に加わっていた累代恩顧の重臣すら、口実を設けては脱盟する中に、寺井 のごときは真に頼もしい人物である。一同切腹の後、寺井は大石の依嘱のごとく、その 義名を閲明するに力を尽した。三宅観瀾の『烈士報讐録』は、この寺井玄渓の談話を根 拠として書かれたもので、義士史料中重要なものとなっている。 四五 大石無人の激励 附大石主税の先発  ここに大石|無人《ぶじん》という八十に近い老人があった。大石内蔵助の数代前の祖から別れた 家柄で元赤穂に仕えていたが、隠居してから江戸に出で、今は柳島に住んでいる。二子 あり、長男郷右衛門は津軽藩に仕え、次男三平は浪人していた。この父子三人、いずれ も義を好み勇を愛し、とくに無人翁は昔赤穂藩に仕えていた縁故もあるので、事件以来 憤慨おかず、かねてから別懇の間柄なる堀部弥兵衛に対して、義挙に加わりたいから斡 旋してくれと頼んだが、弥兵衛は「貴殿今は津軽藩士たる郷右衛門殿にかかっている身、 かつ浅野家に縁のあったのは昔の事、一味に加えることは内蔵助が承諾しないこと明ら かである。それよりも、外部から援助せられたい」と忠告し、それ以来無人は、吉良家 の動静を探っては堀部弥兵衛に内報していた。  ところが、上方の連中案外に気が長く、いつ東下するのかわからないので、無人じれ ッたくなり、一日片岡源五右衛門、礒貝十郎左衛門を招いて、言葉を極めて激励した。 「仇の居所が知れないなら致し方もないが、現在眼の前にいるのじゃないか。我々の眼 には、一同腰抜としか見えない。これで武士たる面目が立つと思われるか。生きてこん な恥さらしをするよりも、腹かき切って死ぬべきじゃ。拙者がこう申していたと、一味 の人達に伝えてもらいたい」  二人は、言われるまでもたく、自分達もそう思っている位なので、冷汗を拭い拭い辞 去、堀部安兵衛と奥田孫太夫にこれを告げた。堀部、奥田も「イヤ全くその通りだ、そ れに敵情も相当明らかになった。至急内蔵助の出府を催促しよう。円山会議の時は、お そくも九月中に支度を終ってそうそう出府すると確約したが、この辺で一度催促してお かん日にゃ、また引き延ばされないとも限らんからのウ」  話かわって、京都梅林庵に仮寓して、忙しく諸般の準備を運ばせている大石は、江戸 からの催促状を手にして、眉をひそめながら嫡男|主税《ちから》に話しかけた。 「江戸の連中は、身軽の自分達と同じように考えて、わしがただボンヤリ日を過ごして いるように思っているらしいが……」  主税は当年十五歳だが、身長五尺七寸、脅力も頭脳も常人の比でない、深く父に同情 して、 「御父上この頃の御苦心、私にはよくよく分っておりまする。しかし百三十里を隔てた 江戸では、いろいろの蔭口や疑いの生ずるのへ無理はござりませぬ。つきましてはこの さい私が、誰か老人にお附添を願い、一足お先へ出発いたしましては如何でござりまし ょう。私が参れば、父上の御出府が少々後れ庄しても、安心してお待ち申す事と存じま す」  言語態度、老成人の風があるのを、大石いかにも頼もしげに眺めていたが、やがて大 きく肯いて、「イヤ実は、父の方からそれを言いたかったのじゃ」と、非常に喜び、早 速小野寺、大高、潮田らにこの事を告げると、皆ひどく感心した。  それから、父子打連れて男山八幡へ参詣して武運を祈り、親類の大西坊証讃方に立寄 って一泊し、吉日を選んで、九月十九日出発した。一行は大石主税、間瀬九太夫、大石 瀬左衛門、小野寺幸右衛門、茅野和助、矢野伊助、これに若党加瀬村幸七が供した。  主税の一行は十月四日江戸に着き、日本橋区石町三丁目小山屋弥兵衛の借宅ヘ、主税 は|垣見《かけい》左内、他も皆変名して一先ず落ちついた。堀部以下在江戸の面々もこれで大安心、 勇躍してその日を待った。 四六 義士追々東下 附 小野寺・間・千馬・矢頭の事  大石|主税《ちから》一行の出発後まもなく(九月末または十月初)、小野寺十内、原惣右衛門、 大高源五、岡島八十右衛門、貝賀弥左衛門、|間《はざま》喜兵衛らが同道東下した。  小野寺十内は当年六十歳、京都御留守居番、禄高百五十石、役料七十石で、一党中吉 田忠左衛門に次ぐべき老巧練達の士である。彼は忠義の念に強いのみならず、風流の嗜 み深く、とくに和歌は専門歌人の域に達していた。  彼の妻お|丹《たん》は理想的良妻で、これまた和歌に造詣深く、十内と優劣を決しがたいほど のよみ手である。従って琴琶相和し、文字通り夫唱婦和、花農月夕には、他の義士に見 られない家庭的清興があった。なおまた彼の養子幸右衛門、甥岡野金右衛門、同大高源 五、従弟間瀬久太夫、その子孫九郎など、一門六人までが義盟に加わっているのから見 ても、彼が四十七士中重要な地位を占めている事を否定することはできない。  原、大高、岡島、貝賀らの事は、すでに略説した。今一人の同行者間喜兵衛は、当年 六十八歳、禄百石で、勝手方吟味役を勤めていた老人、彼は寡言沈黙、内に毅然たる志 を蔵しながら、外に機鋒を現わさず、堀部弥兵衛らと共に、老成を以て同志間に推され ていた。  喜兵衛の二子、十次郎、新六、共に義盟に加わっ」て最後まで変らなんだ。四十七士中、 大石、吉田ら、父子のものが八組あるが、そのうち父子三人なのは間家だけである。し かも長男十次郎は二十五歳で、討入の夜仇敵吉良上野介に一番槍をつけた功労老である。  間十次郎は、父より一ヵ月許り早く出発、|千馬《ちぱ》三郎兵衛、|矢頭右《やこうべよ》衛|門七《もしち》らと共に出府 した。千馬は江戸に在勤していたが、江戸家老安井と衝笑し、長の暇を乞うて離藩すべ く、家財の一部をすでに取りまとめたところへ、事件突発主家滅亡となったのである。 だから普通なら、ちょうどよい機会と、思い切りよく立去るはずなのを、「義を見てせ ざるは勇なきなり」と、踏み止ってついに義盟に加わったのである。  矢頭右衛門七1これはヤトゥエモンチと訓む人もあるがヤコウベヨモシチとよむの が正しいのだそうである。四十七士中大石主税に次ぐ年少で、当年十七歳、彼は父長助 と共に早くから義盟に加わっていたが、長助は、大坂堂島の借宅で重病にかかり、円山 会議後まもなく、万斜の恨みを呑んで客死した。大坂天王寺の覚心院(今は宗旨も改ま って浄祐寺となっている)の長助の墓碑銘によると、長助は死に臨んで、右衛門七を枕 頭に呼びよせ、父に代って大石殿と共に亡君の讐を討ってくれと、涙ながらに遺言して そのまま息が絶えた。後に残った右衛門七は、葬式を営む費用がないので、やむを得ず 父が記念の腹巻(鎧)を質に入れ、ようやく形ばかりの野べ送りをした。間もなく武林 唯七から、いよいよ江戸へ出る事になったとの通知が来たが、家宝の腹巻を受出すだけ の金が得られない。やむを得ず「大功は細瑛を顧みず」の古語により、偽って質物を借 り出してそのまま立ったという。  この話は種々の古書にも書かれているが、江戸行の旅費は大石から給せられ、また生 計扶助も折々大石がしてやっている事、例の『金銭請払帳』に明記されているから、多 分右衛門七の年少と貧乏を種に、話を面白く作ったものだろうと、渡辺博士は説いてい られる。  大坂を立った矢頭右衛門七は、江戸の松平大和守の藩邸にいる叔父に母の今後を頼も うと思って、足弱の母をいたわりいたわり遠州荒井の関所まで来たが、旅なれぬ少年の 悲しさ、女の関所通行証を用意して来なかったので、通してもらえない。よしやここだ け通されても、先には箱根の関所がある。到底江戸まで行けない事は明らかなので、泣 く泣く後戻りして赤穂まで行き、そこの身寄りに母を頼んだ上、自分はまたすぐ京都へ 引返し、千馬三郎兵衛や間十次郎と共に、九月初旬江戸へ出た。  こうして、義盟者の大部分はすでに江戸に集り、残るは大石及びその親近者数輩のみ となった。 四七 大高源五の母に贈った暇乞状  大高源五の母は、貞立尼といって、仏門に入り、浮世をよそに、悟りを開いている賢 婦であった。彼女は源五を戒めて、母のことなど念頭において、忠義の心を|鈍《にぶ》らせぬよ うにせよと、常に励ましていた。その母に対して源五が、元禄十五年九月五日付で贈っ た手紙、すなわちいよいよ討入決行のため、大石の東下りに一足先だって京都を出発す るに際し、最後の別れを告げた一書は、理義明自、真情流露、小野寺十内が討入後良妻 丹女に贈った手紙と共に、対女性の二大名文老して喧伝せられるところであるから、長 文であるが、全文をここに掲載する(相手が女なので原文は仮名が多いのを漢字に改め た。また原書は、殿様の文字をいつでも行の頭に書き、天下の字はとくに一段高くあげ て書かれているが、紙面節約のためすべて書き下しに改めた)。  一、私事今度江戸へ下り申候存念、兼て御物語申上候通り、一筋に殿様御憤りを散じ 奉り、御家の御恥辱をす、ぎ申したき一すぢにて御座候。且は|士《さむらい》の道をも立て、忠のた め命を捨て、先祖の名をも顕はし申すにて御座候。勿論多勢の御家来にて御座候へば、 いか程かく御厚恩の士も御座候処、さしての御懇意にも遊ばし下されず、人なみの私 義にて御座候へば、此節たいていに忠をも存じ、長らへ候て、そもじ様御存命の間は御 養育罷在候ても、世の|誹《そし》りあるまじき吾等にて御座候へども、なまじひに|御側《おんそば》近く御奉 公相勤め、御尊顔拝し奉りし明暮の義、今以て片時忘れ奉らず候。誠に大切なる御身を 捨てさせられ、忘れがたき御家をも思召し放たれ候て、|御欝憤《ごうつぶん》とげられ候はんと思召し つめられ候相手を御打ち損じ、|剰《あまつさ》へ浅ましき|御生害《ごしやうがい》とげられ候段、御運のつきられ候と は申ながら、無念至極、恐れながら其時の御心底推し|量《はか》り奉り候へば、|骨髄《こつずい》に通り候て、 一日片時も安き心御座なく候。されども御短慮にて、時節と申し、所と申し、一方なら ぬ|御無調法《おんぶちようほう》ゆゑ、天下(将軍のこと)の御|憤《いきどお》り深く、|御仕置《おんしおき》に仰付られ候事に御座候 へば、力及び申さぬこと、全く天下へ御恨み申上べき様ござなき義にて候ゆゑ、御城は 仔細なく差上げ申たる事に御座候。これ天下へ対し奉り候て異議を存じ奉り申さぬ故に て御座候。然し殿様御乱心にもござなく、上野介御意趣ござ候由にて御斬つけなされた る事に候へば、其人はまさしく仇にて候。主人の命を捨てられ候程の御憤りござ候仇を、 |安穏《あんおん》に差置き申すべき様、昔より|唐土我朝《もろこしわがちよう》共に、武士の道にあらぬ事にて候。それ故、 早速仇の方へ取りかけ可申ところ、大学様御閉門にて候へば、御免なされ候時分、もし や殿様御あと少しにても仰付られ、上野介殿方へも何卒|品《しな》もつき候て、大学様外聞よく 世間も遊ばし候やうにも罷成候はズ、殿様こそ右の通りに候とも、御家は残り申す事に て候。然れば我々は出家沙門となり、又は自害仕候ても憤りは休め候はんと、此節まで ---------------------[End of Page 72]--------------------- 口惜しき月日をも送り候処、其かひな く、安芸国へ御座なされ候。閉門御免 しと申す名ばかりにて御座候。尤も年 月過ぎ候は父、何卒御世に出させられ 候事も御座あるべく候はんが、よし左 様にござ候とても、此節にて殿様御あ とは絶え申したる事に御座候へば、此 上前後を見合せ申すは臆病の仕る所、 武士の本意ならぬ事にて御座候。此上 にも天下へ御訴訟申上げ、何卒相手方 へ御手当も下り、大学様にも世間ひろ く御取立遊ばされ下され候やうに、一 命にかけて御嘆き申上げ、是非御取上 げなく候は父、其時相手方へ取かけ申 すべき由、頻に相談の衆も御座候。尤 も一理御座候様には候へども、中々左 様の徒党がましき事仕るべき道理と存 じ申さず、其上御願ひ申上げ御取上げござなきに付相手方へ取りか、り申候段、ひとへ に天下に御恨み申上候に等しく御座候。然れば以ての外の義、大学様初め御一門の方々 様までも御為め宜しからぬ事にて候故、た父一筋に殿様御憤りを晴らし奉り候より外の 心ござなく候。  一、だんく右申残し候如く、武士の道を立て候て御主の仇を報い申すまでにて、全 く天下へ対し奉り御恨み申上るにては御座なく候。然れども、いかなる思召ござ候て、 天下へ御恨み申上たるも同然とて、我々共の親妻子に御た二り御座候とても力及び不申 候。万一左様のことになり候は父、兼て仰せられ候通り、何分にも上よりの御げちの通 り、尋常に御覚悟なさるべく候。御はやまり候て、御身を我と御あやまちなされ候事な どくれ人\あるまじき御事にて候ま、、必ずく左様に御心得なさるべく候。世の常の 女の如くに、彼是と御嘆きの色も見えさせられ、愚におはしまし候は父、いかばかり気 の毒にて、心もひかされ候はんを、さすが常々の御覚悟ほど御座なされ候て思召し切り、 |反《かえ》りてけなげなる御奨めにも預り候御事、さてく|今生《こんじよう》の仕合、未来の喜び、何事か 之に過ぎ申候はんや。あつばれ我々兄弟は、士の冥利にかなひ申たる義と、浅からぬ本 望に存じ奉り候。  先にての首尾の程、御心にかけさせられまじく候。私三十一、幸右衛門(小野寺、源 五の弟)二十七、九十郎(岡野、源五の従弟)二十三、いづれも屈寛の者にて候。|容易《たやす》 大高源五の母に贈った暇乞状 く本望を遂げ亡君の御心を安め奉り、未来|閻魔《えんま》の金札の|土産《みやげ》にそなへ可申候ま二、御心 安く思召し、た父た父御息災にて、何事も時節を御まちなさるべく候。御|齢《よわい》もいたう 御傾き、幾ほどあるまじき御身に、さぞ御心細く、便もあらぬ御かたに乏しく月日を御 しのぎ遊ばし候はんと存じ奉り候へば、いかばかり心うく候へども、其段力および不申、 時に臨み候ては主命に背き父母を肩にかけて、いかなる山の奥、野の末にも隠れ、又主 君の為に、父母の命をも失ひ申す事、義と申すもの、やみ難きためしにて候。是等の道 理くらからぬそもじ様にておはしまし候へども.筆にまかせて申残し候。  九十郎母上、お千代へも、よりよりは仰せ聞かされ候て、必ずくおろそかに悲み申 さぬやうに、互にお力を添へさせられ候べく候、幸ひかな、御法体の御身にてござ候へ ば、此後いよく以て仏の御務のみにて、うさもつらきも御紛れましく、未来のこと 明暮に御わすれなく、世も穏かに御座候は父、寺へも節々御参り遊ばし候べく候。一つ は御歩行御養生にもなり申べく候。  うばにもあきらめ候やうに、よく仰せられ下さるべく候。かしこ   元禄十五壬午年九月五日                   大高源五     母御人様 しん上 この手紙は、 |室鳩巣《むろきゆうそう》が 『義人録』の中に漢訳して 「予に左丘明、大史公の筆力なく、 以て之を発するなきを恨むのみ」と附記している位、能文家の鳩巣をして感嘆せしめた ものである。ただ文中の「主君の為に父母の命をも失ひ申す云々」の一句に対しては、 鳩巣強く異議を挿んでいる。  本書は母への暇乞という以外に、一挙の大義名分を宣明し、また幕府に対して恨むも のでないことを弁じ、天下後世に誤った批判を下されないようにとの用意を以て綴った ものと察せられる。そしてこの文の趣意は、大高一己の意見でなく、大石以下幹部の合 議で、一党の主張となっていたものであること、討入口上書その他で知る事ができる。 四八 大石いよいよ出発  江戸の少壮組があせりにあせり、大石の出府のおそいのに不満を抱いて、ややもすれ ば、その本心を疑わんとするのを、なだめたり、すかしたりして、ようやく大学長広の 処分決定まで待たせ、いよいよ近く出発せんとするまでになり、最後の準備を今運んで いる大石の、第一の苦心は金策である。  赤穂退城の際、あらかじめ準備しておいた数百両の金は、主家再興の運動費や、一党 江戸往復の費用や、生活窮迫の者への補助で残り少になっている。その上、瑞光院へは 亡君の永代回向料として金百両を納める。家財道具を始末した金は意外に少い。江戸へ 出ても、首尾よく目的を達するまで、幾十日を要するかも知れぬ。その間の一味の生活 費も補助してやらねばならぬ。この金策の苦労が、恐らくは吉良邸討入の作戦計画より も、大石に取ってはつらかったであろう。  しかし、この間の大石の苦心について、記録したものは殆んど無い。ただ備前藩の家 老池田出羽(|由成《よしなり》)から金千両を借用したという事と、近衛家の大夫進藤筑後守に百両 を無心に行って断られたという断片的記事が残りているだけである。備前の池田出羽は 大石が母の生家であり、近衛家の進藤も古い姻戚である。進藤家では大石の頼みを普通 の無心と思って断ったが、大石が江戸へ出発の前、長持一樟を預ってくれと持込んだの を、後日遺書によって開いて見ると、|形見分《かたみわけ》の品に一々名宛の札がついていたので、先 に断った事をひどく残念がったと、橋本経亮が『橘窓自語』に書いている。何にしても、 大石が金策に苦労した事は察せられる。  さて、京都に於けるすべての始末もついたので、大石はいよいよ十月七日(元禄十五 年)を以て出発、江戸へ下向することとなった。.同伴者は潮田又之丞、近松勘六、菅谷 半之丞、|早水《はやみ》藤左衛門、三村次郎左衛門、及び若党室井左六、瀬尾孫左衛門、この外に 寺井玄渓の息玄達が、人目を避けて先発、大津から同行した。片島深淵の『赤城義臣 伝』には、玄達が大石主税の一行と同道したと書き、福本日南の『元禄快挙録』にはそ の反証をあげて、玄達はあとから単独で出府したものだろうと書いているが、『赤穂義 士史料』中の義士関係書状中に、出発の三日前に送った大石の手紙によって、玄達が大 津で大石と落合った事が証明される。一行は|中間《ちゆうげん》まで合せて十人である。  この東下りの際、大石は「日野家用人|垣見《かけい》五郎兵衛」と称して、関所関所を欺いて通 ったとの説が、明治時代の漢学者|信夫恕軒《しのぷじよけん》翁によって宣伝せられ、『快挙録』もそれを 採用しているが、『真説録』の内海定治郎氏は、「後世の好事家が捏造した説にちがいな い、やはり本名でこっそり下向したのである」と書いている。 「日野家用人」説は、内匠頭に妾腹の姫君があり、大石がそれを主家多年の|好《よし》みある京 都の日野家に頼みこんで養女にしてもらい、藩用金の中から御養育料・御化粧料として 多額の金員を添えた。この縁故から、日野家用人の名義を使用する内許を得て、大胆に も関所関所を欺き通ったのであるというのである。なおこの説は、その姫君が後に松平 兵部大輔の奥方となり、しばしば泉岳寺に内匠頭の墓参をされたという終末まで筋が通 っているのであるが、肝腎の内匠頭に妾腹の姫君があったという事や、それが日野家の 養女になられたというについての史料は何一つない。かつ大石の出府は、吉良家でこそ 恐怖であるが、幕府の役人や関所の番人にはなんら注意される氏名ではないのであるか ら、わざわざ偽名を用いて公儀を欺くような変道を行くはずはないと思われる。従って 著者も、日野家用人説は否定する。 「伊勢路をあとに尾張路や、三河を越えて遥けくも、末は何処と遠江、駿河の国もはや 過ぎて」十月二十一日、一行は鎌倉雪ノ下に着いた。  江戸では、前からの通知によってすでに知れていたので、吉田忠左衛門は、大石が直 に江戸に入る事を危険とし、ちょうど川崎在の|平間《ひらま》村に、富森助右衛門の持家があるの を幸い、当分そこに足を留めさせる事にして、大石が鎌倉に着くはずの二十一日に、富 森と中村勘助、瀬尾孫左衛門(瀬尾は京都を大石と一緒に立ったが、二日前に先着した のである)を伴うて、平間村の家を検分に行った。そして瀬尾を借主とし、大石以下を 客人とする事にして準備させ、吉田はその夜川崎に泊り、翌二十二日鎌倉まで出迎えて、 九ヵ月ぶりに大石と面会した。この時吉田は、寺坂吉右衛門を供につれていたものと考 えられる。それは、『寺坂私記』のこの前後の記述が、親しく傍にいた者の筆に相違な いと察せられるからである。  大石は、吉田とともに鎌倉で三日間逗留、二十五日に同地出発、翌二十六日平間村の 仮寓に着いた。  平間村は、今、南武線電車、平間駅のすぐ側に、義士の遺跡として|銚子塚《ちようしづか》というのが 残っている。これは富森が討入前、家を建てた大工の渡辺善右衛門という正直男に、か ねて内匠頭から拝領した銚子をハ形見にと与えたのを、善右衛門は、かかる由緒ある貴 い品を賎しい我々の家に置くのは勿体ない、また盗難の恐れもあるからと言って、土中 に埋めたものと言い伝えられている。大石の仮寓した家は、同線鹿島田駅に近い称名寺 の近くで、今は原野になり、 一部は桃林になっている。 四九 同志五十余名の宿所と変名  大石の江戸入を、どこで誰が見張っているかも知れないという用心から、大事を取る ため、吉田忠左衛門らの計らいで、いったん平間村の富森の家に落ちつかせたが、ここ は、江戸から数里もあり、不便なので、十日ばかり滞在の後、いよいよ大丈夫と見極め て、江戸の中心日本橋の宿に入った。  この前後の同志は、五十五名であった。それらは、二人三人または五、六人ずつ、変 名して諸方に潜居し、それぞれの立場から、吉良家の動静を探っていたが、その変名及 び住所次の通りである(△印の六名は、この後討入までに逃亡した最後の腰抜である)。  ◎日本橋石町三丁目 小山屋弥兵衛裏屋敷  本  名 大 石 主 税 小野寺十内 潮田又之丞  変  名 (垣見左内、借主) (仙北中庵、医師) (原田斧右衛門)  本  名   変  名 大石内蔵助(鱒離量 大石瀬左衛門(小田権六) 近 松 勘 六(森清助、また田口三助)   早水藤左衛門(曾我金助)    菅谷半之丞(変名なし)   三村次郎左衛門(変名なし)  大石|主税《ちから》の|垣見《かけい》左内が訴訟用で近江から出府し、その左内が若年なので伯父の五郎兵 衛が後見として附添、という触出しなのである。浪花節では左内を内蔵助の変名のごと く語るそうだが、間違いである。内蔵助は前に、母方の姓をとって池田久右衛門と称し ていたが、主税はその池田家の長臣|垣見《かけい》丹下の姓に因んで垣見左内と称した。で、内蔵 助はその伯父垣見五郎兵衛と再び変名したのである(垣見はカキミでなく、カケイとよ むのだとする福本日南の説に従う)。  小野寺は、祖先が出羽の仙北郡を領した名族なので、仙北中庵という医師に化けた。  大石瀬左衛門は内蔵助の同族で、当年二十六歳の青年、大石孫四郎の弟である。孫四 郎は円山会議にも出席した連盟者だったが、いよいよ江戸へ下る段になり、母を残して 二人共去るに忍びず、ついに脱盟して瀬左衛門だけが内蔵助に同行したのである。瀬左 衛門は昨年事変突発の際、原惣右衛門とともに第二回特使として、内匠頭切腹の報告を 赤穂へもたらしたこと、既記の通りである。  |潮田《うしおだ》又之丞は当年三十四の男盛り、彼は江戸九段側の千鳥が淵で河童を|生檎《いけどり》した、と 講釈師が語るのでも察せられる通り武勇に秀で、また加東郡穂積村に在勤中、医師田中 道的に乞われて、家伝の秘薬三味保童円の製法を伝授したが、この前後の彼の行為には 君子の風があるとて、漢学者梁田|蜆巌《ぜいがん》が『潮田氏手簡記』中に激賞している。  近松勘六は二百五十石の家柄で、当年三十三、奥田貞右衛門(奥田孫太夫の養子)の 腹ちがいの兄で、兄弟共に金鉄の義士である。彼は吉田忠左衛門と共に江戸に下って、 敵情の偵察に従事していたが、最近潮田と共に上京して江戸の近情を報告し、今度大石 に従ってまた下向し、そのまま本営に起居しているのである。  早水藤左衛門は、事変勃発のさい萱野三平と共に第一回の特使として早駕籠を飛ばし た人物で、当年三十九、食禄百五十石の家柄で、終始大石の司令を遵守した忠実の義士 である。  |菅谷《すがのや》半之丞は四十三、禄は百石であった。俗書に、彼は若い時美少年だったので、父 の後妻が道ならぬ恋をしかけた。彼は呆れて家を飛び出し、二十年も流浪しているうち、 事変を聞いて馳せ帰り、義挙に加わったなどと書いているが、全くの出鱈目で、事変当 時代官を勤めていたのである。  三村次郎左衛門は禄わずかに七石二人扶持の小身で、台所役人を勤めていた。彼は大 石に親愛され、その知己の恩に感じていた。小身の彼が最後まで義を全うしたのは、大 石の知遇に酬ゆる意味が半分は手伝っていたろうと想像される。この点寺坂吉右衛門の 吉田忠左衛門に対する関係によく似ている。年は三十六。  作戦本部ともいうべき大石父子の宿には、右の外に大石の若党加瀬村幸七と室井左六、 及び近松勘六の僕甚三郎が同居していたから、計十二人の大家族である。しかし宿の小 山屋は、江戸一といわれる程の大旅館で、客の人数も多く出入も頻繁なので、別に目立 ちはせなんだらしい。  ◎新麹町六丁目 大黒屋喜右衛門裏店    本名 変名   本名 変名   吉田忠左衛門(即講汰饗趨難)原惣右衛門(和田元真、医師)   吉田沢右衛門(田口左平太)      不破数右衛門(松井仁太夫)   寺坂吉右衛門(変名なし)  吉田の兵学老は、本物の兵学者たる実力があるのだから、誰の眼にもなるほどと思わ れたろうが、原の医師は、どこかピッタリしないところがあったに相違ない。  吉田沢右衛門は忠左衛門の嫡子で当年二十八歳、彼は義士たるのみならず、父の名を 辱めぬ孝子でもある。  不破と寺坂は、すでに記した通り。   注意-何某裏店または何某店とある店の字はタナとよみ、何某は家主の名、店はその貸家、   裏店は裏通りの場末の家の事である。当時は家主に住人の責任を持たせたので、一々家主の名   を示したのである。 ◎新麹町四丁目 和泉屋五郎兵衛店    本名 変名  本名 変名   中 村 勘 助(山彦嘉兵衛、借主)  間瀬久太夫(三橋浄貞、医師)   間瀬孫九郎(三橋小一郎)   岡島八十右衛門(郡武八郎)   岡野金右衛門(岡野九十郎)    小野寺幸右衛門(仙北又助)  中村勘助は、原や潮田と共に上方の急進派だった。間瀬久太夫は中村の叔父で、小野 寺十内と従兄弟である。彼は小野寺と申合せて共に医師に化けたのであろう。彼の嫡子 孫九郎は当年二十二歳で、大石主税、矢頭右衛門七につぐ三番目の若侍である。  岡島八十右衛門は原惣右衛門の実弟で、赤穂退散の際、家老大野九郎兵衛を罵倒し、 ついに大野をして夜逃げせしむるに至った事は、すでに記した通りである。  岡野金右衛門は、九十郎と変名しているが、実は九十郎が以前の本名で、今は父の名 を襲いでいるのである。父金右衛門は前年(元禄十四年すなわち事変のあった年)十一 月、万餅の恨みを呑んで病死したので、彼は父と二人前の働きをする覚悟で、偽名に以 前の本名を用いたものらしい。彼当年二十三。講談や浪花節に、彼が吉良家の女中の恋 を利用して邸内の情勢を探り、ついに吉良家の絵図面を手に入れるという面白い一節が あるけれども、もとより好事家の作り事に過ぎたい。  小野寺幸右衛門は大高源五の実弟で、小野寺十内の養子になっている二十七歳の青年 である。養父十内が、お前は別に君恩を受けたわけでないからと制したけれども、自ら 進んで義に就いたのである。  ◎新麹町四丁目 大黒屋七郎右衛門店    本名 変名  本名 変名   千馬三郎兵衛(原三助、借家主) |間《はざま》 喜兵衛(|杣荘《そまそう》喜斎、医師)   間 十 次 郎(杣荘伴七)    間  新  六(杣荘新六)   |中田理平次《ムムムムム》(中田藤内)  |千馬《ちば》の事は前に書いた。|間《はざま》もすでに書いた通り、父子三人がともに義についたのであ る。喜兵衛は六十八で、四十七士中、堀部弥兵衛に次ぐ二番目の高齢者、十次郎は二十 五、新六は二十三である。中田理平次は討入(元禄十五年十二月十四日)の前月下旬に なってから逃亡した。  ◎新麹町五丁目 秋田屋権右衛門店   本  名    変  名   |富森《とみのもり》助右衛門(山本長左衛門)  ここは富森一人の借宅である。彼は初め川崎在の平間村に住んでいたが、吉田忠左衛 門と相談の上、そこを大石の仮寓にあて、妻了をつれてここに移ったのである。助右衛 門の後喬富森長太郎氏は、現に帝国ホテルの副支配人で、助右衛門の遺物をいろいろ所 持している。  ◎芝通町三丁目浜松町 檜物屋惣兵衛店    本名 変名  本名 変名   赤埴源蔵(高畠源五右衛門) 矢田五郎右衛門(塙武助)  浪花節「赤垣源蔵徳利の別れ」で、誰知らぬ者ない|赤垣《あかがさ》は、|赤埴《あかぱね》の草書が誤写された もの。苗字の誤伝はマアよいとして、討入当夜酔態で兄の家へ訣別に行き、兄は不在、 捜には謝絶され、徳利相手に別れを告げるあの馬鹿馬鹿しい語り物の内容は、義士を侮 辱するもはなはだしい。門出の祝いに盃をあげたが、酔の廻るほどは決して飲まなんだ はずである(なお余録に詳記する)。  矢田五郎右衛門は禄高百五十石の家柄で、当年二十八。その祖先は徳川家康摩下の暁 将、金鯉の兜を以て有各な矢田作十郎であるが、五郎右衛門また祖先を辱めぬ勇士であ る。  ◎築地小田原二丁目 大野四郎兵衛店 (初、京橋八丁堀)    本  名    変  名   村松喜兵衛(荻野隆円、医師)  ここにも一人偽医師がいる。村松は二十石五人扶持の小身で、江戸詰であったが、当 年六十一。昨年事変突発の際、まだ部屋住の嫡子三太夫(当時二十五歳)に母を頼むと言 い残して赤穂へ立った。三太夫同行を乞うたが許されぬので、その場は承服、父の出立 後数時間を経てからその跡を追い、途中で追付いて、父子共に義盟に加わったのである。  息子の三太夫は、芝源助町に礒貝十郎左衛門と共にいた。  ◎深川黒江町 春米屋某店    本名 変名  本名 変名   奥田貞右衛門(西村丹下、医師) 奥田孫太夫(西村清右衛門)  奥田貞右衛門は孫太夫の養子で、近松勘六の腹ちがいの弟である。養父孫太夫は堀部 安兵衛と共に終始江戸急進派の中心で、家を顧るに邊あらず、常に外部に奔走していた から、家族の生活は貞右衛門が引受けていた。彼は世間体をゴマカスためばかりでなく、 生活の方法として医業を利用していたらしかったから、相当の心得があったと察せられ る。年は僅に二十五歳で、孫太夫の娘との間に、当年初めて一子が生れているから、結 婚後まだ幾年にもなるまいに、決然家庭愛を振切って、四十七士の中に加わっているの は、他の老人連、または大石|主税《ちから》や|矢頭右《やこうべよ》衛|門七《もしち》ら少年組とも異った涙を催させる。  ◎芝源助町(家主不明)    本名 変名  本名 変名   礒貝十郎左衛門(内藤十郎左衛門)  茅 野 和 助(富田藤吾)   村松三太夫(変名なし)  礒貝は下人一人を召使っていたから、同宿四人である。彼は十四歳の時、堀部弥兵衛 の推挙で内匠頭に|児小姓《こごしよう》として仕え、事変の時は二十三歳だった。片岡源五右衛門と共 に、名ざされて内匠頭の遺言を受け、爾来復讐を決心して、いったん赤穂藩へ帰ったが、 籠城も、殉死も、開城も皆気に入らず、なんとか復讐の方法をと心を砕いているうち、 吉田忠左衛門の東下りから、一挙の計画が判明して来たので、吉田に素志を打明けて、 大石へ執成しを頼んだのである。  茅野和助は神崎与五郎と同時に、僅かに五両三人扶持で抱えられ、奉公後十一年にし て主家の大変に遭い、奮然として義盟に加わったのである。先祖代々高禄を食んでいた ものも大部分途中から逃げてしまったに、僅かに五両三人扶持十一年間の恩義で一命を 捧げたこの二人の心理は、利己排他を当然とする現代人には理解し得られないだろう。 村松三太夫は前記の通り、事変の際父喜兵衛を途中に追いかけて、共に赤穂に帰った孝 子にして忠臣である。  ◎南八丁堀湊町 平野屋十左衛門裏店 (後、本所三ツ目に移る)    本名 変名  本名 変名   片岡源五右衛門(麟麟備艶主、)貝賀弥左衛門(変名芒)   大 高 源 五(脇屋新兵衛)     矢頭右衛門七(清水右衛門七)   |田中貞四郎《ムムムムム》(田中玄馬、医師)  片岡は、内匠頭が田村邸で切腹の際、とくに乞うて、余所ながらの訣別をした人物、 貝賀と大高は、円山会議の直後、大石の密命を帯びて各連判者の印形返還に廻った人物。 矢頭は十七歳の少年。今一人の田中は、討入の一ヵ月程前に脱盟した不義士である。  ◎本所林町五丁目 紀伊国屋店    本  名    変  名   堀部安兵衛(長江長左衛門、借主)   木村岡右衛門(石田左膳)   |毛利小平太《ムムムムム》(木原武右衛門)   |中村清右衛門《ムムムムムム》(変名なし)  堀部の事は改めて説明するに及ぶまい。 れた。安兵衛当夜の得意さが想像される。 と想像されるが、 人扶持の|徒士《かち》で、 志は堀部らに譲らず、  木村岡右衛門は禄百五十石、 『赤城盟伝』に漢文の践を書いている。  倉橋伝介は二十石五人扶持、 士)            この家は、           横川勘平は、 芝居のモデルは萱野三平であること既記の通りだ。 士籍にも列せぬ軽い身分たること   討入前にも大功を立てた。       当年四十五である。  本  名    変  名 横川勘平(変名なし) 倉橋伝助(倉橋十左衛門) |小山田庄左衛門《ムムムムムムム》(変名なし) |鈴《ム》 |田《ム》 |重《ム》 |八《ム》(同)   討入当夜の集合所の一つに指定さ    よく芝居の早野勘平の事だろう          横川は僅に五両三  、三村や寺坂と変らないが、金鉄の それは後説する。  相当に学問あり、神崎と前原の合著            後には堀部の宿から去って、吉良の門前で前原伊助 の経営している米屋の店の番頭に住み込み、日夜上野介の出入を見張った。 (義  毛利小平太以下の四名は、討入の数日前(八日以後)に逃亡して、惜しいところで義 士になり損った。堀部安兵衛の手元にいた者が、間際になって四名も逃亡した事は、研 究を要する。  あるいはそういう人物をとくに安兵衛の宿に集めていたのかも知れない。  ◎本所三ツ目横町 紀伊国屋店    本名 変名  本名 変名   杉野十平次(杉野九郎右衛門) 武林唯七(渡辺七郎右衛門)  杉野は八両三人扶持の小身ではあったが、赤穂藩第一の富豪荻原兵助の縁者で、家は 富裕であったため、事変以来家宝を金に代えて千両という大金を用意し、同志の生活を 補助したとの説がある。大石の『金銭請払帳』に記載されてない諸般の費用は、杉野が 負担したのであると、『快挙録』には書かれているが、著者はそうまで確言し得ない。 彼の家は堀部安兵衛の宅のすぐ近くで、やはり討入当夜の集合所(三個所)の一つに指 定された。  ◎本所二つ目相生町二丁目    本名 変名  本名 変名   前原伊助(米屋五兵衛)  神崎与五郎(小豆屋善兵衛)  相生町二丁目、今は東両国二丁目に変っているが、ちょうど吉良の裏門筋向い(今は 国技館東部の一区画)に当る。そこに一戸を借りて、前原が主人とたって米屋を開業し、 傍ら雑穀及び蜜柑などの果実を商った。後には倉橋伝介も、番頭と見せかけて住み込ん だ。討入の夜この家が集合所の一つになった。  ◎両国矢之倉米沢町    本  名    変  名   堀部弥兵衛(馬淵市郎右衛門)  四十七士中の最高齢たる七十六翁堀部弥兵衛は、妻及び娘(安兵衛の妻)と共に、川 を隔てて本所と相対する矢之倉に一戸を構えている。  右の外、瀬尾孫左衛門と矢野伊助とが、平間村の富森旧宅にいたが、共に討入前々日 (十二日)に脱盟した。  以上五十余名(討入の数日前に四十七士となったのである)が、前記の通り各所に散 居して敵情を偵察し、討入の機会を狙っているのに、吉良側では数力月前大石の遊蕩を 確めて以来、スッカリ安心して、警戒も怠りがちであった。 五〇 吉良邸の偵察 吉良邸の偵察は一党が最も苦心したところである。位置は本所松坂町二丁目で今は本 所区東両国三丁目と町名が変っている。北は高塀を以て土屋|主税《ちから》(旗本)及び本多孫太 郎(松平家の家老)の両邸と境し、東に表門、西に裏門、裏門の前は道路を隔てて一列 の町屋があり、町屋の直ぐ背後が回向院境内で今はその町屋と回向院の一部が国技館に なっている。表門の前通りは道路を隔てて牧野一学と鳥居久太夫の邸が並んでいる。こ の牧野、鳥居の両邸跡が、今は江東尋常小学校になっている。南側は全部長屋である。 すなわち吉良邸は、北が高塀で隣邸と境している外、東、西、南の三方は、表と裏の門 を除く外、家来達の住居している長屋を以て囲まれているのである。面積は二千五百余 坪で東西に長く、南北に短い。邸の中央に当主|左兵衛義周《さひようえよしかね》の居間があり、隠居上野介の 部屋は裏門に近い位置である。  この吉良邸の跡、今は人家が密集して昔の面影を想像することもできなくなっている のを、地元町会の有志が残念に思い、昭和九年三月、遺蹟を後世に伝えるため、旧吉良 邸の一小部分を買収し、史蹟公園として東京市へ寄附した、それが今の松坂町公園であ る。  公園には|巽《たつみ》の井戸というのが、上野介の首を洗った記念のものだとして保存され、園 の周囲は吉良邸当年の外廓に模した塀で囲まれ、塀の内側には吉良邸の絵図面や、義士 の花押や、討入の錦絵などが|嵌《は》められてある。この公園僅かに方五間、面積三十坪に足 らず、全国第一の小さな公園だという。  話は本筋へ戻って、復讐討入本部では、十一月の初頃から、討入の前夜まで、若い連 中の四組に、夜半交代で二組ずつ夜廻りさせた。一組は吉良邸附近、一組は芝白金台の 上杉弾正邸(当主は上野介の子)附近を、町人風になって見廻るのである。これを町人 風にして帯刀を許さなんだのは、どんな辱めを受けても手向いしないようにとの用心か らであった。この夜廻りは、上杉家から吉良邸警護の武士を夜中派遣するような事がな いかを確めるためである。  他方に於てはまた、吉良の面体をなんとかして見届けたいものと一同注意しているが、 なかなか機会がない。その目的をようやく達したのは岡島八十右衛門である。十一月初 旬のある日、岡島が日比谷附近を通行していると、向うから吉良の定紋のついた駕籠が やって来た。彼は早速、駕籠傍に近づき、土下座して敬意を表した。武士が土下座した ら、相手も相当の挨拶するのが当時の礼儀だったから「|誰方《どなた》の御家中P」と駕籠の中か ら上野介が声をかけた。八十右衛門出鱈目に「松平肥前守家来」と、吉良とは縁のある はずの大名の名をいうと、「痛み入る。御名前はP」と駕籠の簾を捲き上げて顔を見せ た。「軽き者、名を申上ぐる程のものでは御座りませぬ」と逃げて、仇の面体をハッキ .リと見極めた。この時八十右衛門、討たば討てない事もなかったが、単独では手出しを せぬ堅い申合せがあるので、そのままにしたのだという事である。  これより先、吉良邸の裏門前に一軒の空家ができた報告を聞いて、大石は直ぐ前原伊 助にそれを借受けさせ、神崎与五郎と両人で米屋を開業させ、傍ら雑穀や蜜柑などの果 実を商わせた。前原はそれまで綿布の行商をしていたが、ここで開業してから米屋五兵 衛と変名。神崎はこれまで美作屋善兵衛(美作は彼の郷国である)と変名して扇子を売 っていたが、前原と一緒に開店するようになってからは、これも|小豆屋《あずきや》善兵衛と再び変 名、二人は共に吉良邸裏門を出入する人物に注意すると同時に、吉良の門長屋に住んで いる人々の歓心を求めるため、とくに安売して、いろいろの話を聞き出す事につとめ、 また洗濯物を物干台ヘ持って上っては吉良の邸内を望み、火事のある晩など、火事とは 反対の方角の吉良邸ばかりを注意するという風だった。吉良邸から上野介の乗っている らしい駕籠が出ると、見え隠れにその跡をつけて行先を確めもした。 『赤城士話』に神崎の事を「此与五郎、人相物静にて目のうち光あり、根気の剛なる所 あり、内蔵助見立て、間者に用ひけるも|理《ことわ》りなり」と書いてあるが、彼はまた文筆の才 もあり、とくに和歌俳句に長じていた。彼と前原との合著『赤城盟伝』は討入の前月 (十一月)に書いたもので、脱盟者の氏名をあげて手厳しい筆諌を加えた神崎の『憤註』 は、痛快淋璃とでも評したい書きぶりである。 『寺坂私記』によると、この年の春吉良邸内に蔵を立てたが、その蔵の中に抜穴をこし らえて、隣屋敷へ出られるように仕かけているとの評判があった。また奉公人は全部三 河の知行所から呼寄せているのだともいい、なおまた屋敷長屋の内廻りは全部大竹で垣 を結い廻らし、討入ってもなかなか容易くは破れないよう厳重に用心しているとの噂も あった。  それで、一度門内へ入って実際を見たいというので、いろいろな行商人になって入ろ うと試みた者もあったが、すぐ怒鳴りつけられた、そこで大石の計らいで、ある筋の人 から吉良の家老に宛てた手紙をもらい、それを下男に仕立てた毛利小平太に持たせてや った。家老への使だから、門番も安心して入れた.、毛利は返事のできる間、あちこち見 廻して、有のまま大石に報告したが、それによって、噂の大竹の垣というものは跡方も ないウソだと分り、なお門内の模様も大体見当がついて、大に便宜を得たという事であ る。  ところが、この偵察の功労者毛利小平太が、討入の三日前、十二月十一日付で、大石 宛に脱党届を出して逃げ、最後の不義士という汚名を残したのは、いかにも惜まれる。  作戦本部で何よりも希望しているのは、吉良邸の絵図面である。大戦でも小戦でも、 昔でも今でも、敵を攻撃する場合には第一に地埋を知らねばならぬ。それで一党は、な んとかしてそれを得たいと苦心したが、堀部安兵衛の才覚で、吉良の前住者松平登之助 時代の屋敷の図面をようやく手に入れた。しかし、吉良が昨年松平の邸を譲り受けて引 越して来る際、随分改造したから、この旧絵図がどの位今日の現形と一致するかは問題 である。それで大石は、これを吉良裏門前の前原、神崎に交付し、実際との相違を調査 せしめた。二人が物干しへあがって邸内を望んだり、門長屋のお客に取入ってそれとな く邸内の模様を尋ねたりするのも、この絵図を土台にして実際に近い絵図を作成せんが ためである。  なおまた大高源五は、吉良家に出入している茶道の宗匠山田宗偏に弟子入しているが、 これも折々それとなく吉良邸内の模様を聴き取って、絵図面作成の参考に資した。  これらの調査や情報によって、吉良邸内の様子はほぽ確めることができた。今は、上 野介が確に在邸する日を探知して、その日を討入日と決定するまでである、というのは、 上野介は、その頃実子上杉綱憲(米沢藩主、吉良家から養子に行き、その子|左兵衛義周《さひようえよしかね》 がまた吉良家の養子になっている)が病気なので、芝白金の上杉邸へしばしば泊り込み、 本所松坂町の自邸にいる日がハッキリしないからである。これを探知するために非常な 苦心をして、ついに|羽倉斎《はぐらいつき》(後の国学者|荷田春満《かだあずままろ》)らの厚意によって目的を達するの である。   附 記 大石が、ある筋の人から吉良の家老に宛てた手紙を貰って、毛利小平太に持たせてや   ったという「ある筋の人」は、誰という事は分らないが、これも羽倉斎すなわち荷田春満であ   ったらしく想像される。 五一 討入の心得  味方の準備はすべて成って、今はただ上野介が在邸の日を確めるだけになっているが、 それがなかなか分らない。時日はズンズン経過して、ついに十二月(元禄十五年)にな った。士気ようやく倦怠して、脱盟者がまた一「三人生じた。中には気を|焦《あせ》って、それ らしい駕籠が入った日に、運を天に委せて斬込もうという者さえ生じてきた。大石はそ れらを制して士気を鼓舞するため、十二月二日に深川八幡宮の茶屋へ全同志を召集した。 宿へは頼母子講の発会だという触れ出しで。  大石は、討入期日がもう極めて近い見込であることを告げ、今になって脱盟するもの の不信卑怯を責め、この上はもう一人の脱盟者も生じないようにと、あらかじめ用意し ておいた|起請文《きしようもん》を読み聞かせて、新に|神文《しんもん》に血を濃がせた。神文誓約は赤穂城退散の際 からこれで三回目である。  起請文の|前書《まえがき》第一条には「冷光院様(内匠頭)御為め|怨敵《おんてき》吉良上野介殿討取るべき志 これ有る|侍共《さむらい》申合せ候処、此節に及び大臆病の者ども変心退散仕候やから差捨て、唯 今申合せ必死相きめ候面々は、御霊魂御照覧あそばさるべく候事」と書き、第二条には、 討入の際は、敵の首をあげた者も、たんに警護の任に当る者も、功は同然であるから、 働きの役については不平をいうべきでないとの意味。第三条には、平生不快の心持を以 て交際している者でも、働きの際一心同体となって助け合わねばならぬという意味。第 四条には、首尾よく上野介を討取っても、銘々一命をのがるべきでないから、ちりぢり にならぬよう集る事と書き、最後は、もしこれに背いたら立所に神罰を蒙らんと、お決 りの|神文《しんもん》である。いうまでもなく一同は血判した。  同時に、討入に関する次の覚書を読み聞かせた(原文は候体である)。      人々心得の覚書  一、討入の日が決ったら、前日の夜半から物静に、内々定めておいた三カ所に集合す   ること(註-三カ所というのは吉良邸に近い堀部安兵衛、杉野十平次、前原伊助の宅である)。  一、かねて定めた刻限に必ず出発すること。  一、敵の首をあげた時は、その屍体の上着で包み、引揚げの場所へ携帯する事。ただ   し上使が駆付けられたら、その指図に従い、幸に許されたら、泉岳寺へ持参して御   墓前へ供える事。  一、息左兵衛の首は取っても、持参に及ばず打捨てておく。  一、味方の負傷者はなるだけ共に引退くが、重傷で肩にも担がれないときは、首を切   って引取ること。  一、敵の父子を討取った者は合図の笛を吹き、順々に吹きついで知らせること。 一、全員引揚げの際は|鉦《どら》をならす。 一、引揚場所は無縁寺(回向院)とし、もし同寺が入る 事を拒んだら、両国橋東詰の広場に集る。 、引取る途中、近所の屋敷から人数を出して押留めた 時は、事実を有のままに告げ、我々は逃げ隠れはせぬ、 心元なく思われるなら寺まで御附なさるように、と挨 拶する。 、敵の屋敷から追手が来たら、全員踏止って勝負し、 上野介の首を奪い返されない覚悟が専一である。 、敵の屋敷で勝負の最中に検使があれば、大門をあけ ずにくぐり戸から一人外へ出て適当に挨拶すること。 そして唯今当人を討取りましたから、早速生残った者 共を集めて御下知を受けます、一人も逃げ隠れは致し ません、しばらくお待ち下されと乞い、強いて門内へ 入って検分しようといわれたら、一同今屋敷中へ散っ ていて命令が徹底しませんから、|卒爾《そつじ》の事が生じない とも限りません、追付け当方より御案内申上げますか   らと申して、決して大門を開かぬようにすること。  一、引揚げ口は裏門のこと。  一、いうまでもない事であるが、討入る以上全員必死の覚悟でなければならぬ。右引   揚げ時の注意はたんなる心得のためであるから、専心粉骨の働きが肝要である。  右の覚書は、吉田忠左衛門が下書を作って大石に見せたところ、「至極結構、申分な くできている」と挨拶して、そのまま採用したものであると、寺坂吉右衛門が『私記』 に書いている。吉田がこの種の事で大石を|稗補《ひほ》した功はよほど大きいものがある。 五二 大石と荷田春満  四十七義士が吉良邸に討入って首尾よく敵吉良上野介の首をあげたのは、元禄十五年 十二月十四日夜の事であるが、この日に上野介が確かに在邸することを大石が知ったの は、国学五大人(|荷田春満《かだあずままろ》、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤、大国隆正)の筆頭荷田 春満の厚意によったもので、|春満《あずままろ》の名は元禄の義挙と切放すことができないから、大 石とこの学者との関係をここに略述しよう。  荷田春満は京都伏見稲荷の神職で、初の名を|羽倉斎《はぐらいつき》といい、元禄時代はまだ羽倉で あった。だから羽倉斎と記すことにする。すなわち後の荷田春満である。  元禄十三年四月、江戸と日光に於て三代将軍家光の五十年忌法要が行われた時、勅使 として|大炊御門《おおいみかど》大納言(経光)が下向したが、その時随員の中に羽倉斎が加わっていた。 そして大炊御門が京都へ帰る際、羽倉は希望して江戸に止りたいというので、大炊御門 は、かねて懇意にしている江戸の富豪中島五郎作に、万事世話してやってくれと頼んで 帰った。五郎作は委細承知して、早速京橋三十間堀の自分の家作へ羽倉を迎え、家賃も 取らずに親切に世話した。ところで、この中島五郎作は大石の旧知なので、大石は五郎 作の家で羽倉と知合いになったのである。  大石は胸に一物、中島と羽倉をしばしば訪問して懇親を重ねた。というのは、中島が 山田宗偏という茶道の宗匠の関係から、しばしぽ吉良邸の茶会に招かれ、羽倉もまた吉 良の屋敷へ国学の講義に行ったことがあり、かつ吉良の家老松原多仲(討入当夜負傷者 の一人)が羽倉の門人である等の関係から、何かを聞き出そうと考えているのである。  しかし、万一にも、大石に復讐の深計があることを覚られたら、この二人との交際が かえって事を破る基因にならないとも限らないので、とくに注意して、こちらから上野 介の話を持ち出すような事はせなんだが、羽倉はそれを察していたと見え、イヤ察した 上に同情してその志を遂げしめようとしたものらしく、しかし露骨にはそんな様子を示 さないで、大石の聞かんと欲するところを聞かせた。  この大石と羽倉及び五郎作の事を、堀部弥兵衛老人が大石から聞いた通り細々と書き 留めたものが、今日残っているが、その中に、「大石が言った、上野介は度々茶湯の会 を開いて、五郎作はその都度招かれるらしいが、それはあの屋敷にと、外部の人に思わ せるための謀なのじゃあるまいか。もし真実茶湯が好きで、五郎作にそれ程打とけるの なら、五郎作の宅へ一度夜話に招かせたらと思う。上野介あるいは忍んで出かけないと も限るまい。もしもそんな風に運んだら日本一の好都合だが」と、大石の語った事を、 弥兵衛老人が細かに書き留めている。 五三 討入日の決定  中島五郎作が、茶道の師匠山田宗偏と共に吉良邸の茶会にしばしば招かれる事は前に 書いたが、大石は、その宗偏こそ敵情を聞き出すに|究寛《くつきよう》と、一党中茶道の心得があっ てかつ万事に如才ない大高源五に命じ、宗偏に弟子入させたのは、もう大分前の事であ る。  大高は、京都の呉服商新兵衛と称し、江戸滞府も長い事でないから、なるべく再々伺 って少しも早く巧者になりたいと言い持え、三日にあげず出かけては|音物《いんもつ》をシッカリ贈 った。不審庵宗偏よい弟子を得たと喜んで、打とけて隔意なく語った。 「この節御身分のある方で茶道の|御巧者《ごこうしや》は誰方でござりましょうなア」 「左様、吉良上野介殿はなかなかお好きで、拙者度々お招きを受けますわい」 というような会話から、 「一生の思い出に、一度お次の間まで御供させ⊂戴きたいものでござりますなア」 と切出した事もあったが、 「いずれ折もござろう」 といったきり、その折はついに来なんだ。  十二月の初、大高が宗偏の室に入ると、壁に掲げた日程表に「五日、吉良左兵衛殿」 と記入されてある。「しめたッ」と思う心を色「も見せず、 「手前事、近日いったん当地を引上げなければなりませぬので、来春までのお名残りの ため、来る五日に粗茶を差上げたいと存じますか、御都合如何でしょうか」 と切出すと、宗編日程表を指して、「あの通り、五日は吉良殿の茶会だから」と、気の 毒そうに断った。大高、「それではまた改めて御都合のよい日に」と、早速大石にこの 事を通じて、一度は五日討入と内定したのであったが、生憎五日には、将軍が松平美濃 守邸へ|御成《おなり》と公布されたので、ついに延期した、これは、将軍外出の日に血を流すのは 不敬であるとの非難を避けるために、大事を取ったのであるが、一党中の若武者には、 「今になって将軍家になんの遠慮がいるものか、大将おじ気づいたのではないか」と、 かなり立腹した者もあった。  ところが、偶然にも、宗偏の主人小笠原佐渡守の嫡子が当日死亡したので、宗偏を主 賓とする吉良家の茶会も、十四日に延期されることになった。この十四日の茶会を、第 一に大石へ通じたのは大高源五である。  話変って、本所林町五丁目の堀部安兵衛方に同宿している横川勘平は、近傍の某出家 が、茶道の心得あり常に吉良家に出入している事を知って、いつとはなしに近づきにな り、近来はとくに懇意にしている。この出家無筆なので、横川はしばしば頼まれて代読 代筆したが、十二月八日に訪ねると、吉良の家来からの手紙を出して、この返事を書い てくれという。開いて見ると、 「当主人近々、上杉家の新宅へ引越すはずなので、本所の名残りとして十四日に茶会を 催す。其許も出席せられたい」 という意味であった。横川心に喜んで、いわれた通り返事を認めたが、折悪しく、イヤ 横川には最も折よく、使にやる老がいないので、横川は出家の辞退するのを強いて引受 け、僕の風をして吉良家の門を入り、路に迷ったもののごとく見せてウロゥロ歩き廻り、 邸内の様子を探知して、大石に報告したという。これは果して正確な事実かどうか分ら ないが、各義士が吉良家の偵察に当っていたという例話として附記したのである。  これらの情報によって、十四日に茶会のある事はほぼ確実と見込はついたが、しかし 万々一これが間違って、上野介不在の日に討入ったなら、一党の苦心が水泡に帰するの みか、かえって天下後世の物笑いになる恐れがあるので、大石は念には念を入れて、他 の方面からこれを確めている。  前にもちょっと書いたが、内蔵助の同族で、瀬左衛門(義士の一人)の大伯父に当る 人に大石|無人《ぶじん》というのがあった。元は浅野家に仕えていたが、故あって去り、忠臣二君 に仕えずの義を守って浪人している。無人二子あり、長は郷右衛門といって津軽越中守 に仕え、弟三平は浪人して、父子三人本所の津軽邸に同棲している。この無人翁が、さ きに在江戸の一党の意気地なさを罵倒したことはすでに記したが、内蔵助出府以来は、 しばしば謀議にも参画して、まるで一味の徒の観がある。  大石三平は、内蔵助の紹介によってか、あるいは他の縁故からかはハッキリ分らない が、|羽倉斎《はぐらいつき》と懇意にして、しばしば訪問している。それで内蔵助は、十二月七日付で 三平宛書状を送り、「十日過に吉良家で茶会があると聞込んだけれども、燧であろうか、 お調べ願いたい」と依頼した。羽倉に確めて貰いたいとの意味である。  それで三平は、早速羽倉を訪問して尋ねたところ、なるほど十四日に客があると聞い ているけれども、まだ不確実であるから、更に確めて、改めてお知らせしようと約束し た。そして十三日に羽倉から届けられた書状の追書には「尚々|彼方《かなた》の儀は十四日の様に ちらと承り候。以上」と書き添えてあった。  三平はこの羽倉の書状を携えて、討入本部に内蔵助を訪問した。一言をも軽々しくし ない羽倉の一筆、しかも一度確めた上で知らせてくれたこの十四日は、もう上野介在邸 たること間違いない。さあいよいよ時節到来、明十四日は白髪首を取って亡君の御怨み を晴らすことができるのだと、直ちにその旨全員に急報した。  去年三月十四日主君浅野内匠頭切腹以来一年九ヵ月間、待ちに待った討入の日はつい に来て、元禄十五年十二月十四日の朝となった。この日の吉良邸茶会を第一に本部へ知 らせた大高源五は、昨日も一昨日も、何とか彼とか用を持えては宗偏を訪ね、異状はた いかと探ったが、今日もまた何げない様子で顔を出した。 「手前もいよいよ出立の日が迫りますので、なるだけいろいろ伺っておき度、またお邪 魔いたしました。今日はやはり吉良様の方へお出ましでございますか」 「ハア今日は少し早目に参るようとの事なのでナ」  もうこれで大高の用はすんだのだが、「ではさよなら」ともいわれず、出鱈目に二、 三の質問などして、そのまま大石の許へかけつけ、「今晩の茶会いよいよ間違なし」と 報告して、さらに吉良邸を見張ることにした。  十二月十四日夜吉良邸に茶会のある事を、大高が知ったことに付、それは宗偏がそれ となく知らせたのだとの説がある。その根拠は、宗偏ほどの人物が、町人に化けている 大高を看破しないはずはなく、また音物の多少で心を動かすような宗偏でもないという のであるが、宗偏を立派な人物とすればする程、平素懇意に交際せる吉良を、赤穂浪人 に討たせるような手引をしようとは思われないから、著者はやはり、宗偏無関係、無関 心説をとる。  定刻になって、宗偏を初め相客の面々が、前後して吉良の門に入った。そして、夜も 相当ふけてから、凍った雪の上を客が辞去した、.この辞去する客に交って、上野介がも しや門を出るような事がありはせぬかと、見張の面々目を皿にして気をつけたが、そん な事はなかった。あとからコッソリ抜け出すような事はないかと、注意に注意していた が、門扉は閉じられ、門番も寝に就いたらしく、天地は寂寛としてただ残雪の凍ったの が月光にきらめくばかりである。 五四 大石の金銭請払報告  いよいよ討入日も近々のうちと決定した十一月.一十九日、大石は、去年赤穂退去の際、 主家再興の準備資金として預っておいた金員の支払決算報告書を、揺泉院(内匠頭後 室)附の家老落合与左衛門宛送った。  今も昔も同じこと、何か一つの仕事をするには、費用がかかる。その資金の準備がな いと、いくら精神ばかり熱烈であっても成功するものでない。しからば、元禄の一挙に どの位の金が用いられたかというに、『大石良雄金銭請払帳』という一冊の帳面によっ て知ることができる。この帳面に添えた与左衛門への手紙の一節に「これは芸州の大学 様(内匠頭弟)に差上げるべき筋かとも思うが、御迷惑がかかっては相済まぬからわざ と差控え、貴殿お手元へ差出す。折を見て揺泉院様御耳に入れていただきたい」との意 を書き、なお「毛頭自分用事に仕候儀御座なく候。委細帳面御引合せ、とくと御披見下 さるべく候」として、一々支払のさいの領収証を添えている。この帳面の初めの部分は 矢頭長助(右衛門七の父)が記入し、あとは原惣右衛門が清書したのである。この帳面 は、どういう筋道を経たものか、現在芦ノ湖畔箱根神社に納まり、宝物となっている。  その帳面の受入総額は金六百九十両二朱、銀四十六匁九分五厘で、この大部分は、内 匠頭の夫人揺泉院の化粧料として、藩の公金とは別のものが藩内に貸出されてあったの を回収したのと、藩士に分配した金の残りとである。これを浅野家再興の運動資金とし て大石が預っておいたのを、その望みが絶えたので、一挙の資金に振替えたのである。  支払の部に於て、第一筆に一金百両と記し、「紫野瑞光院に建つる御墓寄附として山 相調へ候代金也、即ち証文有之候」と説明がついている。京都紫野の瑞光院に内匠頭の 衣冠など埋葬して墓を建て、永代回向料として山林を寄進したのである。山林にしてお けば無くなるまいとの用意からであったが、この住職不将千万にも、大石が山科を出発 すると間もなく転売しようと計画したらしい。それを憤慨して今後の注意を、落合への 手紙の中に書いている。  支払の第二筆は、コ金拾雨、八幡山滝本坊方にての御祈薦料に遣す。手形(領収書 のこと)あり」とある。|石清水《いわしみず》八幡宮で、主家再興の御祈薦をしたのである。こんな風 に、神杜やお寺へ祈願や追善の意味で納めた額も少くないが、しかしなんといっても支 払の額の一番多いのは旅費である。旅費の合計は二百六十余両になっている。 コ金三両、大高源五江戸へ指下す、路銀渡す、手形あり」という風に、一人の江戸下 向旅費は大抵三両ずつ渡されているが、武林唯七には路銀三両の外に「勝手不如意、願 に付遣す」として金弐両が別に記入してある。なお原惣右衛門、間瀬久太夫、小野寺幸 右衛門、その他「勝手不如意に付」というので、五両、十両と貰っているものが沢山あ る。主取りをするわけにもゆかず、医師だの商人たのに化けてはいても、収入というも のは皆無なのだから、余財のあったものが扶助していた事はいうまでもないが、大石の 所へ一番多く補助を願い出たのも当然である。そして大石にこの準備があったからこそ、 首尾よく目的を達することもできたのである。当時の金一両は大体米六斗の価であった から、昭和今日の金にすれば一両は二十円前後に当ると見てよいだろう。  さて記入されている支払の総額は、全部金に換算して六百九十七両一歩二朱となり、 受入に対して七両一歩不足しているのを「自分より払う」として決算を終り、巻尾に左 の通り書いている。   右預置候御金払の勘定帳一冊御披見に入れ候。以上。     元禄十五年午十一月                  大石内蔵助       落合与左衛門殿  京都に於ける遊蕩の費用、江戸へ出てからの自分や主税の諸雑費など一文も計上して いない。なお右の帳面に記入せずして、敵情を偵知するためなどに支出した費用が相当 額に達することは、想像するに難くないから、一挙の全費用がこれに止まると考えるこ とはできない。無論大石に限らず吉田でも、堀部や小野寺でも、その他義士の誰でも、 父子兄弟一族が生命を投げ出してかかっているのであるから、財産のある者が財産を差 出すのは当然であり、そういう中に公金も私金も差別する必要はないようにも思われる が、それを公金として一歩一朱の端金までも明細に記入して、一々領収証まで添えて報 告しているところ、しかもその使途を詮議する事によって、主家再興に対する熱心、同 志中の貧者に対する同情、公明正大の心事等をハッキリ知ることのできるのは、なんと も嬉しい事である。 五五 それぞれ遺書を認む  討入の日が決定すると、いずれも必死の覚悟であるから、親や妻子や知人に対して遺 言状を認めた。その中の二、三通をここで開封しよう(原書、仮名文字多し)。   第一 潮田又之丞の母に贈ったもの 、(上略)こゝ元の首尾かわる儀なく候。かねて御物語りいたし候存念にて候。先 かたへ忍び入候首尾もよく候ま\近き内に相手のやしきへ忍び入候はんと、いづ れも申合せ候。いま一度御めにか、り申さす先だち候事、さてく御名残り多く存 じ候へども、かねて申上候如くやみがたき次第、武士の本意をかき候ては先祖のめ うじに疵をつけ、殊にノ\主従のわけ立ちがたく存じおり候。おぽしめし切り御歎 きあるまじく候。御年よりをふり捨て、先たち申候段、御心底のほど察しやり、御 いたはしく候へども、武士の憤り是非もなき事と思召し、御あきらめ下さるべく候。 私事は御気づかひ遊ばしまじく候。随分々々見苦しくなきやうに討死いたし申すべ く候。(中略) 、中村清右衛門、鈴田重八、同道いたし下り候が、先方へ打こみ候日時ちかより候 故に、書きおき内蔵助殿へ残し、かけおち致し候。さてく畜生同然の者、侍のつ らよごしにて候。此度の者共、内蔵助殿父fを初め五十人御座候。定めてく末々 は、御聞き遊ばし候はんと存じ候。申上度事山々候へども、筆にはつくしがたく候 ま、申止め参らせ候。かしく (追書)返すくまことにく御名残をしき御事、武士の道珍しからずと存候へど も、御心底を察し候へば落涙かぎりござなく候。しかし命は限りあるものにて候 ま、、時節到来と思召し切り下さるべく、何事もく定まりたる事と存じ切り、い さぎよく討死いたし候まゝ、御気遣ひ下されまじく候。(下略)   十二月五日                  うしほ田またの丞     しんせう院様 人々申給へ   その二 大高源五の母に贈ったもの 京都出発の際の暇乞状は前に掲げたが、これはいよいよ討入日が決定したので認めたものであ る。 (上略)一、内々の大事もいよく首尾よく御座候て、もはや二三日中にうち申す 事に御座候。是までは八幡大ぼさつ、観世音ぽさつの御守りにて、存じの外たやす く|将《らち》あき申候。うちこみ候ての本望とげ申す段、あはれく思ふま、にあれかしと 願ひ申候。今更何事を申上ぐべき事も無御座、是かぎりの文にて御座候。何事も 皆々前世の約束と思召し、いたく御なげき遊ばされまじく候。何ぞ此節まで手なれ 候もの、かたみに送りあげ度候へども、衣類等は遺しがたく、あまりに垢づき候 ま\こ\もとにて兎にも角にもいたし申すべく候。肌につけ候物に候ま、守袋進 じ参らせ候。まことにく先だち参らせ候不孝の罪、後の世も恐ろしく存候へども、 全く私事にすて候命ならず候ま\、其罪を御ゆるし下され、た父くとにも角にも 深く御嘆き遊ばされず、御念仏ねがひ奉り候。 一、私最後のいでたち、下に|着込《きごみ》綿入にて、黒き股引、|脚絆《きやはん》いづれもノ\|鎖脛当《くさりすねあて》い れ申し、黒き|鍛頭巾《しころずきん》、|鉢金《はちがね》入にて、上着は黒きとひざや綿入、|紅裏《もみうら》の小袖着申候。 帯黒き五重まわり|鎖入《くさりいり》、刀はおやぢの御さし成され候刀にて御座候。刃のわたり 二尺三寸程御座候。大長刀もち申候。此度の事と存じ、心のま、に出たち申候。人 にすぐれし働き可仕候と、あつばれ勇み申候まま、此段少しもく御気遣ひ遊ばし 被下まじく候。幸右衛門、金右衛門、いづれもく思ひくの事にて候。   さて、私事、金の短冊に名苗字かきしるし、|片表《かたおもて》には|辞世《じせい》かきつけ申候。    山をさく力も折れて松の雪   右の通り致し下げ申候。いはれぬ事ながら、せめての事にと書つけ進じ申候。此 場の文にて候まま、わざと外の事不申上候、何も可申上事も無御座候。ただただ御 名残をしく奉存候。    十二月七日                        大高源五     母御人様   返すく、折角御身の御養生大事に被瀞下さるべく候。かく恨めしき世の中と思 召し、御身も御捨てはて成され候事、ゆめゆめ御座あるまじく候。金右衛門かか様  へ、くれ人\此事可被仰候。乳母へも頼みまゐらせ候。かしく 大高が討入装束の事を書いているのは、非常に参考になる。討入日は最初十二月五日 と決定していたが、その日は将軍お成りの日なので遠慮して見合せ、十四日になったこ と、すでに記した通りであるから、大高その他の面々も、三日か四日に当夜の装束を内 内着て見たのであろう。その時愉快に感じたので、その勇ましい様子を母に知らせたも のと察せられる。母が自殺して果てるような事がありはせぬかと、よほど心配したらし く、繰返し諌めている。  源五の母貞立尼は、小野寺十内の姉、源五の弟幸右衛門は、十内の養子となって小野 寺家を嗣ぎ、また貞立尼の妹は岡野家に嫁し、その子金右衛門も義士の一人に加わって いるから、貞立尼は、弟一人、子二人、甥一人、計四人の肉親を義士中に有っているの である。最大の犠牲者と言ってよかろう。     その三 木村岡右衛門の妻に贈ったもの   木村は一党中に於てもあまり名を知られないが、この一通の遺書で、その人柄をほぽ察するこ   とができる。原書全部片仮名で書かれている点、他に殆んど例を見ない。   (上略)内々モチラト申候通、殿様カタキ吉良上野介ドノヲ打チ申スベクトテ、大   石内蔵助ハジメ何レモカノホフヨリトリ申サレ候。此噂ヲ聞イテ我等モ内々申合候  故|人衆《にんず》ニナリ申候。今晩吉良殿へ夜討ヲシコミ申候。大名ノ屋敷へ五十人許ハイリ  申候故、皆々死ヌ覚悟ニテ参リ申候。何卒キラ殿親子共打取申度存候。我ラ果テ申   段御聞キ候ハバ、ソモジ嘆キ候ハント存ジ、コレノミ心ニカカリ申候。|御侍《おさむらい》ノ家ニ 生レ申モノハ、女ニテモ斯様ナル事二合ヒ中ス筈ニテ候間、必ズく嘆キ申サレマ ジク候。我ラモ若キト申ス年ニテモナク候。ワヅラヒニテ果テ申トテモ是非ナク候。 御主様ノ用ニテ果テ候ヘバ本望ニテ候。只々オサケ、オ、・・ノ(二女児)に御困リ候 ハント存ジ候。(中略) 、此度打コミ申候五十人ハ、皆々果テ申ニテ可有之候。此内二大高源五ナドハ、年 ヨリ申サレ候母一人残シ置キ、兄弟小野寺卜内甥金右衛門マデ果テ申シ、又間喜兵 衛殿ハ親子三人果テ申シ、間瀬久太夫モ親子、外ニモ親子果テ申候。我等ハ一人ニ テ、ヨソノ嘆キヨリハウスク候。其上皆々卜八九、三十ニ足ラヌ若キ衆果テ申サレ 候。ソモジノ嘆キハ軽ク候マ、、ナゲキ申サレマジク候。源右衛門少シモヂヨサイ 致スマジキ由申候マ、、心強ク思ヒ、随分トリ乱シ申サヌ様ニ致サルベク候。岡右 衛門主ノタメ命ヲステ候ヘバ、其女房マデ七カヒ人\シク、トリ乱シ申サヌト人ノ 申ス様二致サルベク候。   その四 堀部弥兵衛の(P)に贈ったもの 、われら安兵衛事、主のかたき吉良上野介どのを討とるべきと、久々心をつくし、 同じ志の朋輩四十人あまり申合せ、此度上野介どの屋敷へしのび入り、打はたし申 す筈に候。打すまし候ても公儀の御仕置にあひ、とかく命は終る筈に御座候。今生 にて今一度御めにか二らず、是のみ御のこり多く存じ申候。 、わたくし事、畳の上にてわずらひはて候は!、何の花香もなく候はんに、長いき 致し候とりえには、武士の心底をあらはし相果て候こと、侍の望む所、先祖の名を もあげ候はんと、本望之にすぎず存じ候。女ども娘も、さすが侍すぢ、少しもとり 乱し不申、われらへの心入、奇特千万に存じ候。末々までも心安く存じ候。申すに 及ばず候へども、少しも御嘆き遊ばされまじく候。(下略)                           ほりべやひやうへ     めうほ様参る人々申給へ 五六 三カ所に集合  浅野内匠頭長矩が、殿中刃傷、即日切腹申付けられてから一年九ヵ月、大石以下が臥 薪嘗胆の苦に堪えて待ちに待った日がついに来た。死を盟った四十七士が本望を遂ぐる 今日、元禄十五年十二月十四日である。亡君の御命日にあたるのも、偶然とは思われな い。  この年は降雪多く、十三日には早朝より大雪で、十四日にも降り続いた。その雪の中 を、今はただ夜半に三カ所の集合所へ集ればよいのである。いずれも、家主には「明日 にわかに上方へ発つことにしたから」と挨拶して、家賃その他掛買の代を支払い、荷物 を取片付け、遺書を認めたり、知合を廻って、それとなく暇乞したりなどした。  堀部弥兵衛の宅は両国矢之倉米沢町で、本所回向院と両国橋を挟んで相対する位置に あり、本所住居の者を除く外は通り道に当るので、「出陣の礼に倣って一献差上げたい から立寄って貰いたい」と、かねて内々案内していた。総帥大石内蔵助は小野寺十内と 共に、夕方から駕籠で宿を出て、弥兵衛老人の宅へ赴いた。  義士らは、数人または単独で、入り代りに立寄った。弥兵衛の妻と娘(安兵衛の妻) とは、かいがいしく立ち働き、吉例による勝栗と昆布、それに忠臣の名をとる縁起を祝 って、|菜鳥《なとり》の吸物(寒鴨)を作り、一同を饗応した。  弥兵衛老人は、この前夜夢に一句を得たとて、立寄る義士達に吹聴する。   雪はれて思ひを遂ぐる|朝《あした》かな  日頃から句というものを作ったことのないこの老人が、夢に得たといい、折柄ちょう ど雪もはれて来たので、吉兆吉兆、勝利疑いなしと、一同勇み立った。これは若い連中 を激励せんがための弥兵衛の智略であったろうといわれている。弥兵衛老また数日前に 歌もよんだ。   忠孝に命を絶つは武士の道やたけ心の名を残してん   共々に生き過ぎたりと思ひしに今かち得たり老の楽み  七十六翁の武者ぶるいする様子が見られるようだ。  吉田忠左衛門、同沢右衛門、原惣右衛門ら七、八人は、弥兵衛の宅を出てから、回向 院附近の亀田屋という茶屋に立寄り、蕎麦切など申付けてゆっくり休息、八ツ時(午前 二時)頃林町の集合所堀部安兵衛方ヘ行った。  この時、うどんや久兵衛方で一同が勢揃いしたとか、そのさい大高源五が「何の其 の」という|冠句《かむりく》に「岩をも通す桑の弓」と附けたという話は、その当時から伝えられて、 種々の書物にも書かれているが、これは寺坂が生前、吉田の女婿伊藤十郎太夫に語った ことによって、その虚説たる事が証明される。三カ所に別れて秘密に支度したものが、 敵の屋敷のすぐ近くで勢ぞろいをして、酒を飲んだり、句を作ったりの悠長な真似をす るはずは断じてない。  総帥大石も、|主税《ちから》その他を伴うて九ツ時(午前零時)頃まで弥兵衛宅におり、それか ら安兵衛方へ行って身支度を整えた。  その他の面々も、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、相生町吉良裏門前の前原伊助方ヘ それぞれ集合して討入の装束をした。三カ所のうち、どこへ誰々が集ったかは不明であ るが、前原伊助の宅は吉良裏門の筋向いで、目立ち易いから、見張りその他の任務を有 する少数者だったらしい。 五七 討入の装束 附 辞世  四十七士当夜の装束は、先ず頭には、火事|頭巾《ずさん》の内面へ|兜《かぶと》の鉢金くさりを|縫《ち ち》付けたの を|被《かぶ》り、肌にはくさりの|入《ちち 》った|着込《きごみ》、上着は|宗紋付《じよつもんつき》の黒小袖、その両袖口を白布で|縁 取《ふちと》り、これを|合印《あいじるし》にした。すなわち袖口の白布で、遠方または暗中で見ても、一見味 方であることが、わかるようにしたのである。着い者は緋縮緬の下帯、老人は白さや、 |上帯《うわおぴ》にはくさりを入れ、結び目は右の脇、|裡《たすき》には|大真田《おおさなだ》、緋縮緬または白縮緬、股引に もくさりを入れ、染色は思い思いだがいずれも絹。小手さしをつけた者少々あり、鯨の ひれで細工したすね当をつけた者もある。足袋.わらじはもちいざる者なく、また名札 を金色の革で作り、それに銘々の名を書きつけ、裏面に辞世の句など書いたものもあっ た。  呼子笛は糸をつけて前襟に取付け、また金壱歩ずつ襟につけ、|鳥目《ちようもく》百文ずつ懐中し た。これは働きが万一長時間に及んだとき、食物を得るための用意で、見苦しい場合に は捨てるはずである。また当座の食物に、餅と焼飯とを少々懐中した。なおまた|息合《いきあい》薬 なども糸で襟につけ、働きの節含む事にした。髪はいずれもさばき、|茶第《 ちちちやせん》髪であった。  合言葉は山と川で、山と呼べば川と答え、川と言えば山と応じ、暗中でも味方をすぐ 識別し得るようにした。  吉田忠左衛門とその子沢右衛門との装束は、寺坂吉右衛門が、『私記』の中に非常に 精細に書き、携帯した刀の銘から寸法まで記入している。それが今日義士の討入装束を 知る上に極めて重要な史料となっている。しかし寺坂自身はどんな|扮装《いでたち》をしたのか、一 言半句もそれについては書いていない。  忠左衛門は次の辞世を短冊に書いて、兜頭巾の裏に付けた。   君が為思ひぞ積る白雪をちらすは今朝の峰の松風  村松喜兵衛も同じく、   都鳥いざ言問はん|武士《もののふ》の恥ある世とは知るや知らずや  小野寺十内も「我等小身に候ヘども百年当家の御恩の者」とかねて言った通り、   忘れめや|百《もト》に余れる年を経て仕へし世々の君が|情《なさけ》を の一首を、|袖印《そでじるし》の白布に書きつけた。  神崎与五郎も一首、   |梓弓《あづさゆみ》春近ければ小手の上の雪をも花の吹雪とや見ん  このほかにも辞世の詩歌はなお多い。両刀以外の道具類は、あらかじめ前原伊助、堀 部安兵衛両人の宅へ運んで置いたが、その品目は次の通りだと、『寺坂私記』に数えあ げてある。   槍十二本、まさかり二挺、竹梯子大小四挺、鉄てこ二丁、鉄槌二本、|鑓六《かすがい》十本、長   刀二振、弓四張、内半弓二、げんのう二挺、木てこ二挺、大鋸二挺、かな鋤二丁。  右のうちの|鑓《かすがい》は、もし屋敷内で喧ましかったら、戸口を外から打つけるための用意。 |長刀《ちようとう》とあるのは薙刀でなく|束《つか》の長い|大刀《おおがたな》。  この外、|取鉤《とりかざ》に長い細引(紐)の附いたのを十六、七本、これは屋根を乗り越えるた めの用意。  それから|玉火松明《たまぴたいまつ》、ちゃるめるの呼子笛、がんどう提灯、これは吉良の首を打取った 時検視するための用意である。  以上が当日吉良邸へ運ばれた道具類である。これらの事が知れるのも寺坂の『筆記』 のお蔭で、吉右衛門の生存はかかる点からも無意味でない。    五八 討入の部署  三カ所で支度した四十七人は、寅の上刻(午前一二時1四時)に出発した。この時刻は 書物によって丑刻(午前二時)とか、八ツ時(同上)とか書いたのもあるが、原、小野 寺、寺坂らの記載は寅の上刻または七ツ頃と一致している。  前原伊助の家は裏門のすぐ前だし、三ツ目の杉野十平次、林町の堀部安兵衛の宅から でも、吉良の門前まで数分間で達し得る程の距離だから、途中の時間など計算に入れる 必要はない。小野寺十内が細川家御預け中愛妻丹女ヘ送った手紙に、安兵衛の宅より吉 良邸まで十二、三町と書いているが、林町五丁目から松坂町二丁目まで、そんなにあろ うとは思われない。  前日の雪は凍って、物すごい有明の月光に輝いている中を、一行は|歩武粛《ほぶしゆくしゆ》々と|進《く》み、 吉良邸の辻番附近で、かねて決めておいた通り東西二組に分れ、東組は大石自ら采配を 揮って表門に取かかり、西組は大石主税を名義上の主将として、実際は吉田忠左衛門が 小野寺、|間《はざま》の両老を左右にして指揮し、裏門に取りかかった。  東西両組の人名、組合せ、及び特別の武器等左の通りである。三人ずつを一組として 互に助け合う申合である。数字は討入の際の年齢である。  ◎東組(表門方面)  司令部(表門内に位置する)   大石内蔵助|良雄《よしたか》(ヤリ)  四四  原惣右衛門|元辰《もととき》(ヤリ)  五五   間瀬久太夫|正明《まさあき》(半弓) 六二  屋内組(家屋内へ討入る者)   片岡源五右衛門|高房《たかふさ》(ヤリ)  三六  |富森《とみのもり》助右衛門|正因《まさより》(ヤリ)  三三   武林唯七|隆重《たかしげ》(野太刀)三一  奥田孫太夫|重盛《しげもり》(野太刀)五六 欠田五郎右衛門|助武《すけたけ》(野太刀)  勝田新左衛門|武尭《たけたか》(ヤリ)  ≡二  吉田沢右衛門|兼貞《かねさだ》(斧)   二八  岡島八十右衛門|常樹《つねき》(斧)  小野寺幸右衛門|秀富《ひでとみ》(ヤリ)  二七 屋外組(邸内屋外にあり、本邸や長屋から出で来る敵に当る)  早水藤左衛門|満尭《みつたか》(弓)   三九  神崎与五郎|則休《のりやす》(弓)  |矢頭右《やこうべよ》衛|門七教兼《もしちのりかね》(ヤリ)  一七  大 高 源 五|忠雄《ただたか》(野太刀) 三一  近 松 勘 六|行重《ゆきしげ》(ヤリ)  |間《はざま》 十 次 郎|光興《みつおき》(ヤリ)  二五 逮捕組(表門、新門より邸外へ逃げようとする者を捕える)  堀部弥兵衛|金丸《あきざね》(ヤリ)  七六  村松喜兵衛|秀直《ひでなお》(ヤリ)  岡野金右衛門|包秀《かねひで》(ヤリ)  二三  横 川 勘 平|宗利《むねとし》(ヤリ)  貝賀弥左衛門|友信《とものぶ》(ヤリ) 五三 ◎西組(裏門方面) 司令部(裏門うち)  吉田忠左衛門|兼亮《かねすけ》(ヤリ) 六二 小野寺十内|秀和《ひでかず》(ヤリ)  間 喜 兵 衛|光延《みつのぷ》(ヤリ)  六八 二八 三七 三七 三三 六一 三六 六〇 屋内討入組  礒貝十郎左衛門|正久《まさひさ》(ヤリ)  倉橋伝助|武幸《たけゆき》(野太刀)  杉野十平次|次房《つぎふさ》(ヤリ)  菅谷半之丞|政利《まさとし》(ヤリ)  大石瀬左衛門|信清《のぶきよ》(ヤリ)        かね執  三村次郎左衛門包常(大槌)       のぷゆき 屋外組  大 石 主 税|良金《よしかね》(ヤリ)  中村勘助|正辰《まさとき》(ヤリ)  間瀬孫九郎|正辰《まさとき》(ヤリ)  千馬三郎兵衛|光忠《みつただ》(弓)  間  新  六|光風《みつかぜ》(弓)  木村岡右衛門|貞行《さだゆき》(ヤリ)  前原伊助|宗房《むねふさ》(ヤリ) 右の通りの組別で、 二四 三三 二七 四三 二六 三六 寺坂吉右衛門信行(がんどう提灯持) 一五 四七 二二 五〇 二三 四五 三九 堀部安兵衛|武庸《たけつね》(野太刀) |赤埴《あかばね》源蔵|重賢《しげかた》(ヤリ) 村松三太夫|高直《たかなお》(ヤリ) 三八 親子兄弟は東西に別れた。 潮田又之丞|高教《たかのり》(ヤリ) 奥田貞右衛門|行高《ゆきたか》(鉦) |茅野《かやの》和助|常成《つねなり》(弓) 不破数右衛門|正種《まさたね》(野太刀)  武器は諸書異同がある。 三三 三四 二六 五四 三六 三三 ここには『寺 坂筆記』を主とし、それに記入のない分を『易水連挟録』で補ったが、いずれにしても ヤリが最も多い。これは暗中の戦闘に有利だからであろう。野太刀は原書に|長刀《ながだち》とある が、|薙刀《なぎなた》と間違われる恐れがあるから、別名に改めたのである。吉田沢右衛門と岡島八 十右衛門二人に斧とあるのは、多分門を破る時に用いたもので、最後まで斧を振廻した わけでもあるまいし、その他の人達も、場合の必要に応じては、|鑓《やり》や弓を捨てて刀を揮 った事いうまでもない。鑓は何れも柄を短くしで.、室内の使用に便にしていた。寺坂は がんどう提灯持とあるが、これは唯一個のがんどうの責任者が寺坂であることを表識し たもので、同人も屋内へ斬込んだのである。 五九 両門から突入 附 玄関に立てた討入趣意書  総帥大石の自ら指揮する表門組は、火事だ三叫んで門をあけさせようとしたが、門番 が承知しないので、梯子をかけて屋根へ上り、|鑓《やり》を杖に突いて飛び下り、大高源五と|間《はざま》 十次郎が殆んど同時に一番乗、二番乗は吉田沢右衛門、三番乗は岡島八十右衛門で、そ の他の面々皆それに続いた。堀部弥兵衛は老体なので、大高源五が抱きおろした(抱き 下した人物を横川勘平と書いた本もあるが、大高が正しい)。原惣右衛門は、飛び下り たさい足を挫き、神崎与五郎は誤って屋根からすべり落ち、右の腕を傷めた。しかしい ずれも屈せずに働いた。  吉良の門番三人は驚きあわてているのを、直様引捕えて縛りつけ、屋内組はそれらに 構わず、早くも玄関の戸を打破って室内へ乱入した。  その間に、玄関前にはかねて用意の口上書を新しい文箱に入れ、一丈余もある青竹に 結びつけたのが立てられた。この口上書は、大石以下が今宵吉良邸を襲撃するに至った 理由を明記し、幕府の当路者及び天下後世に自分らの心事を表明したもので、義士文書 中最も重要なものである。全文左の通り。なおこの文書は、大石、吉田、その他頭だっ た連中六、七人が、一通ずつ懐中していた。      浅野|内匠頭家来《たくみのかみけらい》口上   去年三月、|内匠《たくみ》儀|伝奏《てんそう》御馳走の儀に付吉良上野介殿へ|意趣《いしゅ》を含み罷在候処、御殿中   に於て当座遁れ難き儀有之候か|刃傷《にんじよう》に及び候。時節場所を|弁《わきま》へざる働き|無調法《ぶちようほう》至   極に付切腹仰付られ、領地赤穂城召上げさせられ候儀、家来共まで畏れ入り存じ奉   り、上使の|御下知《おんげじ》を請け、城地差上げ、家中早速離散仕り候。右喧嘩の節御同席御   抑留の御方有之、上野介殿討留め申さず、内匠|末期《まつご》残念の心底、家来共忍び難き仕   合に御座候。|高家《こうけ》御歴々に対し、家来共欝憤を挿み候段揮に存じ奉り候へども、君   父の讐は共に天を戴かざるの儀|黙止《もだ》し難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏に   亡主の意趣を継ぐ志までに御座候。私共死後若し|御見分《ごけんぶん》の御方御座候は父御披見願   ひ奉り度、此くの如くに御座候。以上。     元禄十五年十二月                        浅野内匠頭長矩家来                                大石内蔵助                     以下寺坂吉右衛門まで四十七人連名  表門組は梯子で屋根を乗り越えたが、裏門組は、杉野十平次と三村次郎左衛門が、大 槌を揮って門の戸を打割り、一度にドッと押入った。絵冊子などには大高源五が大槌を 持って門を打破るところを描いているが、大高は表門組で、大槌は用いなかったはずで ある。  物音に驚いて、棒を持って立向った番卒二、一一.人は、かわいそうにすぐ討たれてしま った。 六〇 吉良邸内の混戦乱闘 両門から攻め入った一党のうち、屋内組は、「浅野内匠頭の家来共主君の恨みを返し に推参した、出会え出会え」と高らかに呼ばわりつつ、表と裏の両玄関を打ち破って、 殆んど同時に乱入した。表門部隊の屋内組小野寺幸右衛門は、立ち向って来た寝衣姿の 一人と渡り合ってすぐに突き伏せ、床の間に立て並べてある弓の弦を全部切り払った。 これはかねて大石から注意を与えておいた事であるが、気転の利いた仕方であると後に 感心された。  裏門組の礒貝十郎左衛門は、屋内に突入するはしたが、真暗で間取の様子も分らない。 折柄一人逃げ出したのを、襟首つかんで引据え、生命が惜しけりゃ蝋燭を出せと、沢山 の蝋燭を出させて火を点じたので、家中急に明るくなり、表玄関から入った者も大に便 宜をえた。これは後に仙石伯書守の邸へ一同が召された時「さてさて落着いた仕方」と 賞められた。  矢田五郎右衛門らの三人組が、広間から書院を指して広い廊下を通っている時、隅に 隠れていた一人の敵が不意に後から矢田に切りつけた。が矢田は|鎖《くさり》の入った着込を着て いるので、擦り傷も負わず、振返って初太刀で切り伏せたが、二の太刀を打ちおろした 際、下にあった鉄の火鉢に当って切先五、六寸の所から折れてしまった。それで相手の 刀を拾って書院へ進んだ。  不破数右衛門は屋外組で、中から逃げ出して来たものを二人仕止めたが、そのあとは 相手にすべき敵がないので腕が鳴ってたまらず、ついに屋内へ跳り込んだ。そして運よ く、左兵衛義周と一人の老人とに出合った。左兵衛は|薙刀《なぎなた》、老人は刀を以て向って来た が、左兵衛先ず手を負うて逃げ出した。残る老人を、不破は上野介だと思い込んで、左 兵衛は逃げるに委せ、老人と渡り合った。老人相当の手ききと見えて、三回不破に斬り つけたが、こちらは着込なので疵も負わず、ようやくにして相手を討止めて見ると、上 野介とは異っていたので、更にまた尋ね入った。従来左兵衛と闘ったのは武林唯七とさ れていたが、近年不破が父新助に書き送った書簡が発見されて、武林説の誤伝が明らか になった。  屋外組は、絶えず敵を威圧するように努め、大きな声で「五十人組は東ヘ」とか「百 人組は裏門へ」などと叫ぶので、長屋に住んでいる家士らは脅えて出ても来ず、家老の 斎藤|宮内《くない》、|左右田《そうだ》孫兵衛、岩瀬|舎人《とねり》なども、長屋の自宅で震えていたらしい。  近松勘六は、庭先で一人の敵と渡り合ったが、敵はかなわぬと見て逃げ出したので、 近松は追って行くうち、足ふみ外して泉水の池ヘザブンと落ちた。この時相手が引返し て来たら危ないところだったが、敵は水の音を追撃と思いちがえたらしく、いよいよ逃 足を早めた。  岡野金右衛門は新門(邸の東南隅に新造された小門)を守っていたが、一人の敵が命 令に応じないで逃げ出そうとするので突き伏せた。  当夜の働きは、上野介の首をあげた者も、門の戸を押えている程の者も、功の大小は ないという申合せになっていたので、後日大石、原、小野寺の連名で寺井玄渓へ送った 実況報告書も、個人の働きは、上野介の首をあげた武林と|間《はざま》の二人の外は、一切名を記 していない。前記の数士の働きは、お預け中に、堀内伝右衛門その他の質問に応じて当 人が語ったもので、この外にももっと目ざましい働きをしたものがあったに相違ない。 中にも前記不破数右衛門の働きはよほど花々しいものだったらしく、幹部の報告書中に、 追啓として、次のごとく不破だけの事が特記されている。 「最も働いたのは不破数右衛門である。勝負した相手は形のごとく手ききで、数右衛門 へも数個所切付けたが、着込の上からなので疵はない。しかし小手着物はスッカリ切り さかれ、刀もささらとなって、刃は全く無くなっていた。四、五人も斬り止めたらし い」  不破は飛ぶ燕の翼を斬り落したといわれる程の剣道家である。その不破が武装してい るのに対し寝衣姿で立ち向いながら、これほどまでに健闘した相手は、余程の腕利だっ たにちがいない。多分上杉家から上野介の護衛として遣わされていた小林平八郎だった ろうと言われている。 六一 上野介の最期 もはや手向う敵もあんまり出て来ないので、屋内組の勇士らはズンズン進んで、上野 介の居間に入った。刀だけがあって、寝床の中はもぬけの殻である。手を当てて見るに、 まだ暖い。今脱け出したばかりにちがいない。|左兵衛《ヨ ひようえ》の寝室にも、刀、脇差、鼻紙袋ま であって、主は見当らない。一同歯がみをなして必死に尋ね廻った。  天井は槍で突き廻り、戸障子の蔭から、床下、雪隠まで、隠れ場所らしい所は次から 次へと尋ね廻ったが、どうしても見当らない。外へ出て屋外組にその趣を話すと、屋外 へは上野介らしいもの断じて出ない。家の内に相違ないから今一度さがせ、という。 「三遍まで捜したのだが」というと、「ではもう三遍さがせ」「では」と、また屋内を片 っ端から槍で突き廻ったが、依然として見当らない。「あるいは長屋へ逃げ込んだのか も知れない。長屋をさがそう」という者がある。長屋の各戸の入口に、屋外組が絶えず 目を配って、内から飛び出さないよう、外から逃げ入る者のないよう警戒している。長 屋には少くとも十数戸の家族が住んでいるのだから、これを捜索するとなっては大変で ある。  大石は泰然として命令を下した。「長屋の捜索は最後の事だ、夜の明けるまでまだ相 当時間があるから、急ぐに及ばぬ。落着いて今一、二回屋内を捜索せよ」  裏門の指揮吉田忠左衛門はつくづく考えた、一体隠居というものは家の奥の方に住む もので、上野介はまた平生裏門から出入することが多かった。従って屋内でも屋外でも、 彼の隠れ場所は表門よりも裏門に近い場所と推定されると。そこで小野寺十内を誘って、 間喜兵衛に裏門の守りを頼んで置いて、|鑓《やり》を杖につきながら北の裏口の方ヘ廻った。  折柄二人の男が勝手口から逃げ出した。十内|鑓《やり》を取直して前の男を突き伏せたが、そ こへ通りかかった片岡源五右衛門、「十内殿あそばしたり」と賞めた。更に二個所で二 人を突き伏せたのを大石瀬左衛門が見ていて、その一人が倒れる時に念仏をとなえたの を聞いたという。十内この事を愛妻ヘ申送って「三人ながら証拠のあるにて候。老人の 罪つくりとや申すべき、やり身の事なれば刀に手もかけ不申候」と書いている。よほど 得意だったと見える。  この時分には、近隣の諸邸みな起き出でてはいるらしいが、気づかぬ体に装って、提 灯なども出さない。吉田や小野寺の今廻っている北側の高塀の外は、旗本土屋|主税《ちから》の邸 であるが、ここだけは高張提灯を掲げ、主人主税自ら塀近くへ出張して、厳重に警戒し た。その様子を察して、原惣右衛門、小野寺十内、片岡源五右衛門の三人は塀越しに名 乗って、浅野内匠頭の家来なることを告げ、「亡君の恨みを晴らすために推参仕ったも の、貴邸へ御迷惑の及ぶことは誓って致さねば、武士の情けを以て御手出しなきよう願 い奉る」と申入れた。  この土屋邸の警戒は、もし吉良邸の者が塀を越えて逃げ込めば搦め捕る所存であった などと、義士に同情した意味に解釈する者もあるが、隣邸の騒擾に手出しせなんだのは、 隣住居の徳義を弁えざるものだと非難したものもある。新井白石は「傍観したのは答む べきでないが、事後に於て義士の二、三人を抑留しておけばよかったに」と評した。  土屋以外の隣邸は、皆主人在国の留守であった。  再三再四尋ね廻ったが、上野介はどうしても見当らない。寝床はまだ温いのだから、 先刻までいたには相違ないのだが、なんとしても見当らぬ。中には落胆して、「武運も 尽きた、一同この邸内に腹かッ|捌《さぱ》いて果てる外ない」などいう短気者もあった。吉田忠 左衛門聞き答めて「夜が明けるまでまだ間がござる。たとい明けても敵をさがし出さな いでやむべきでない。サア今一度も二度も三、四度もお探しなされい」と激励した。  忠左衛門|鑓《やり》を杖ついて、足音を忍ばせつつ准んでいると、台所の物置小屋と思われる 中で、なんだかヒソヒソ話が聞えるような気がした。吉田の第六感は、「この小屋が怪 しいぞ」と直感、通りかかった若い連中に促すと、一人が早速大斧を揮って戸を叩き破 った。  この物置小屋には外から鍵がかかっていたと、『元禄快挙録』に福本日南氏は書いて いる。これまで諸方を隈なく探し廻りながら、この物置小屋だけ見残していたことから 考えると、鍵のかかっていたというのは事実らしく思われる。しかし、『江赤見聞記』 その他筆者の目を通した古書中に、この小屋に鍵のかかっていた事を書いたものは全く 無い。大石、原、小野寺の連名で、寺井玄渓に書き送った実況記にもなく、『堀内覚書』 の中の吉田の談話にもない。日南氏はいかなる根拠によって、鍵がかかっていたと書い たのか、知る事をえない。従っていかにもそうありそうな事ではあるが、鍵の事はしば らく疑いを存しておく。  さて戸を破って調べたところ、果して二、三人潜んでいて、皿茶碗の|欠片《かけ》や炭などを、 手当ヶ次第に投げつけて近よせまいとするので、こちらの数人は警戒しつつ迫って行く と、一人が飛び出して斬ってかかり、続いてまた一人が飛び出した。この二人腕も相当 の者で、随分よく働いたが、何しろ寝衣姿だから、着込装束の義士達には敵わない、間 もなく討取られた。討った者は、『江赤見聞記』には堀部安兵衛と矢田五郎右衛門にな っているが、三村次郎左衛門が母へ送った手紙によると、その内の一人は三村が討った ものらしい。  まだ一人炭俵の陰にひそんでいるのを|間《はざま》十次郎が|一鑓《ひとやり》に突き立てた。すると、アッ と叫んで脇差抜き合せたのを、武林唯七が跳りかかって肩先から斬り下げた。そのあと は虫の息でうめくのみである。外へ引き出してよく見ると、老人で下着は白小袖である。 吉田つくづく見て、「普通の身分の者が|白無垢《しろむく》の小袖を下着にするはずはない。年輩と いい、風体といい、上野介殿に相違ござるまい。果してそうなら|額《ひたい》に亡君御恨みの|疵《きず》が あるはず、お調べなされい」と令すると、|間《はざま》、武林ら、早速手負の顔にあかりを差向け て調べたが、それらしい|痕《あと》は見えない。吉田語を継いで、「額の疵は浅手のはずだから、 痕を止めずに|癒《なお》ったのかも知れない。|背《せな》の疵をお調べなされい」という。一同急いで手 負の背を検すると、あるある、|縦斜《たてななめ》に一線の|刀痕《とつこん》あざやかで、見紛うべくもない。「こ れだ、これだ、亡君の御斬付け遊ばされた跡だ」「有難い、有難い」「|恭《かたじけな》い、恭い」天 を拝し、地を拝し、感極まって泣く者もあっ方。  上野介を討取った時は、呼子を吹き継いで隼合すること、というかねての申合せによ って、小笛は次から次へと吹き継がれた。そして大石以下一同が程なく集まった。  大石は、改めて上野介の|面体《めんてい》を灯火に照らし、背の疵をも検して、いよいよ間違いなー いと確めるや、奮然脇差を抜き、柄も通れとばかり、止めの一刀を刺し貫いた。『堀内 伝右衛門覚書』の中に、    内蔵助大小、共に相州物と相見え候。大乱れ焼にて、刀の切先一尺ばかり血付き   居申候。定めて上野介と!めを刺されたろと存候。松葉先一寸ほど刃こぼれ中候。 と書かれてある。松葉先一寸ほど刃のこぼれていたのは、上野介の喉を貫いて、大地に 突き入ったためと考えられる。|稗史《はいし》小説の中には、この時内蔵助大地に手を突いて自害 を勧めたが、卑怯の上野介隙を見て逃げようとするので、余儀なく打取ったなどもっと もらしく書いたのもあるが、表門内に位置していた大石が、裏門に近いこの場所へ来た 時は、深手負の上野介はもう息が絶えていたであろうし、もし生きていても虫の息だっ たに相違なく、隙を見て逃げ出すような元気のあったはずがない。  上野介の止めを刺した大石は、|間《はざま》十次郎を顧みて「この|首《しるし》は一番槍の十次郎殿あげ られい」と命じた。面目身に余った十次郎、畏って即座に吉良の首を討ち落し、これを 捧げて大石の実検に供すると、大石|采配《さいはい》を三たび揮って、古式に則る戦勝の式をあげ、 並みいる同勢一斉に関の声をつくった。  さて上野介の首は、白小袖を引きちぎって包み、胴体は、|高家《こうけ》歴々の身分に敬意を表 して、夜着蒲団を取出して打かぶせ、火鉢には水をかけ、蝋燭の火は一っ残らず消し、 その他何くれと残る方なく注意して、それから引揚げにかかった。この沈着にして行届 いた処置は、後に取調べの役人を深く感服させた。 六二 吉良側記録による当夜の実況  討入当夜の状況を書いた吉良側のものに『米沢塩井家覚書』というのがある。上杉家 の者が、事件直後に駆けつけて取調べた記録である。その中から数個所を抜いて、現代 語に書き改めて見よう。  一、十四日夜、八ツ過頃(午前二時過)表御門ヘ来て、火事があるから門をあけて通   せと申すので、御門番が、どこが火事かと申したところ、|此方《こちら》の書院が火事だ、早   くあけろと申すので、門番御書院の方を見たけれども、別に火の手は見えない。そ   れで御門はあけられないと答えたところ、多勢集って来て、グズクズいうなら踏破 れと申し、梯子をかけて屋根へ上り、段々お屋敷へ入って、表裏両御門で合図の太 鼓をうち、裏御門は|金《かね》てこ、木てこを以てこねあけ、扉を斧でうち破り、一時にど っと乱入。お屋敷へ入ってからも、火事だ火事だとさわがせ、御屋敷中の長屋の各 入口を|鑓《やり》・|長刀《ながだち》で固め、火事という声に驚いて飛び出すところを、水もたまらず首 をホクリホクリと打落すので、おひれを引いて出る者なく、辛うじて命ながらえた 老が戸の透間から覗いて見ると、一軒の入□目に四、五人ずつ鑓●長刀を持って立ち、 なお長屋の屋根にも、弓を持った者がいて間断なく矢を射かけ、ちょっとも遁さぬ 手配りである。表の御玄関、御台所口、御妻戸口、御隠居の御玄関、御台所口、 鑓・斧を以て打破り、|御殿中《ごてんじゆう》野原のごとく打ち散らし、ここ彼所に死人が什れて いた。山吉新八、須藤与一右衛門、左右円孫八らは皆よく働いたけれども、何分敵 は着込しているので、突いても討ってもまるで斬れない。従って敵には手負少なく、 本所方には死老十五人、手負二十三人に及んだ。いずれも思いがけぬ事故、遁げが ちであった。御座敷中、所々に小座敷が沢山ある御家に、よくも乱入して一々打破 り見届け、|御納戸《おなんど》などへも入込み、長持などもうちわり、怪しい処はえんの下まで 踏破り、夜中の事とて蟻燭を持って来て、火を立てて戦った様子である。  上州様、左兵衛様、共に御立合いお戦いになったが、もとより上州様を目がけ申 した事とて、前後左右より取込めてためし討にいたした。御疵が二十八個所にも及   んでいる。実に御たまりなさらぬのも御尤もと存ぜられる。御首は大石主税が打取   り、唐人笛を以て|勝関《かちどき》を作り引き去った。(中略)  一、左兵衛様かしこき御働きであった。御|後疵《うしろさず》も、お逃げになる時の疵ではたく、   前後左右より取囲まれ、四方八面より切立てられ給うたので、自然御うしろにも疵   をうけられたのである。  一、女子供並に一つ指し(刀一本)の者には手をかけないようにと触れ廻っていたそ   うである。本所家老斎藤宮内、ふるいふるい長屋の宅を出たところ、それ首討てと   敵が取囲んだので、斎藤、いやいや|某《それがし》は|下《げ》ろう故、命ばかりはお助けをと乞うと、   「なるほど|下《げ》ろうらしい風体だ」とて突放した。すると斎藤、私の宅へお寄りにな   って煙草でも召上れと敵方へ申したそうな。  以上は『塩井家覚書』の記載であるが、家老の斎藤宮内というのは余程の腰抜であっ たらしく、他の書にも、彼は長屋の自宅にいたが、壁を破って逃げ出し、向側の傘屋に 隠れていて、騒ぎが鎮まって後、その壁穴から這い入り、取調べの役人に対して出たら めの陳述をした。このことが傘屋の主人の口から漏れて、たちまち評判となり、誰がい たずらかその壁穴の下へ「このところ家老の外、出入すべからず」と貼紙したそうであ る。 六三 四十七人引揚、泉岳寺へ  いよいよ本望を遂げた大石らは、敵吉良上野介の首を着衣の白小袖に包み、懐中の守 袋二つも証拠にと添え、表門の方に当初から召捕っておいた門番の足軽を連れて来て、 なお念のために見せたところ、疑いもなく上野介の首であると証言したので、もうあと に用はない。左兵衛を討ち漏らしたのは多少残念な思いがないでもないが、当の敵上野 介を討取った上は、目的はすでに達したのであるからと、大石の指図によって、若手の 連中が長屋の前で高声に「浅野内匠頭の家来共、吉良上野介殿を討取って今引揚げる。 無念と思わば出合い給え。お相手いたそう」レー、呼ばわったが、戸を引立てたまま一人 も出て来ないので、さらばいよいよ引揚げと、|銅鍵《ソら》を鳴らして惣人数を裏門のうちへ集 合させた。  堀部安兵衛が名簿取出し、氏名点呼を行ったところ、一人の欠員もなく、四十七人が 全部揃っている。負傷者は原惣右衛門、神崎与五郎、近松勘六、横川勘平の四人で、う ち原は足を挫き、神崎は門を乗り超える時すべり落ちて腕をいため、近松は泉水に落ち てこれも打撲傷を負うたもので、|刀創《かたなきず》を受けたのは横川一人である。しかもいずれも、 歩けない程の怪我ではない。これは全く着込の装束をしていたためで、大石の用意周到 な準備の効果に外ならぬ。  さて一同は、更に邸内を検して、火鉢や炉には水をそそぎ、隣邸(土屋主税)に対し ては、片岡、小野寺、原の三士が塀越しに挨拶し、大石の指揮によって、裏門から粛々 と引揚げた。  外へ出ると、昨夜から門外で待ち構えていた一党の同情者、大石三平、佐藤条右衛門、 堀部九十郎など「おめでとう、おめでとう」と祝詞をあびせる。近松勘六の忠僕甚三郎 は、餅や蜜柑を挟や懐一ばいに入れて「さぞお咽が乾きましたでござりましょう」と配 ったのは「気の利いた用意」としてひどく感心された。それから、附近の酒屋へ立寄っ て、祝酒一献を立ちながら飲み、間もなく六ツ時(午前六時)過ぎになって、夜も全く 明け離れたから、回向院へと引揚げた。  回向院を引揚場所とすることは前々から予定していたところである。それは場所が近 く、境内が広いので(今の国技館敷地もその一部だった)、そこで一休みして、もし上 杉から追手でも差向けたら、両国橋附近で一戦に及ぽうというのであった。この時分の 両国橋は、今の橋よりは約一町川下にかかっていた。  ところが、寺はまだ門を開けていないので、事実をありのまま申入れて、暫時休ませ てもらいたいと頼んだところ、小胆の俗僧驚いてふるえあがり、うっかり入門させたら どんな後難がかかるかも知れぬと恐れて、門番に断らせ、再度頼んだが、どうしても承 諾しないので、若い連中は立腹し、「承諾もへったくれも要るものか、押し入って休息 いたそう」と、|逸《はや》る老もあったが、老人組に制せられて、一同はしばらく門前でぐずぐ ずしていたが、別に追撃の敵が来そうもないので、さらばと泉岳寺へ向うことにした。  このさい吉田忠左衛門は、今まで影のように、自分に附き随うていた寺坂吉右衛門を 片隅へ呼び寄せて、「この通り首尾よく敵の首を取った上は、かねて申含めおいた通り、 その|方《ほう》は直様この場より立去って、芸州の大学様(浅野内匠頭弟)へ報告の使を勤めね ばならぬ。途中亀山(播州、吉田の妻子居住地)へ立寄って、武士の面目この上もなく、 喜んでいると伝えてくれ。今になってその方.人引別れる事は残念であろうが、これも 忠義のためだから」と懇々命令を下した。 「畏りました。かねがねの仰せ|違背《いはい》は仕りませぬが、どうせ道筋、せめて泉岳寺まで御 供させて下さりませ」こう言って伴いて行った。  一同徹夜して働き疲れてもいるので、泉岳寺へは船で行こうとしたが、船を貸す者が ないので、陸路を徒歩する事にした。もっとも老人と、怪我人の近松勘六と横川勘平だ けは、|船蔵《ふなぐら》(両国橋東詰から川下への河岸)の先で駕籠を雇って乗せた。この日は十五 日で恒例の御礼日であるから、大名の行列に出会う恐れがある。かたがた大通りはなる べく避けて、裏通りを選んだのである。  行列は、先頭に三村次郎左衛門、神崎与五郎、茅野和助の三人が、鑓をかついで並ん で進み、次に潮田又之丞が、白小袖の片袖に包んだ上野介の首を鑓に結びつけて担ぎ、 その後に間十次郎、村松喜兵衛、岡島八十右衛門、奥田貞右衛門の四人が並び、その次 は大石主税という風に、一人または数人ずつ列を組み、総帥大石は中央に位置した。こ の泉岳寺行の際、上野介の首を途中で奪い返されるような事があってはならぬとて、武 林唯七、堀部安兵衛ら、屈寛の者六人が護衛して、一行とは別に船で送って行ったと、 まことしやかに書いている古書が随分あるけれども、ウソである。  道順は次の通り。  回向院前II川に沿うて一ッ目河岸-御船蔵の後通りー永代橋を渡って霊岸島 -稲荷橋を渡って鉄砲洲の旧藩邸前通り  汐留橋-日比谷三丁旦裏(今の芝、愛 宕町)1松平陸奥守邸II金杉橋-芝口I泉岳寺。  鉄砲洲の旧藩邸前を通る時には感慨無量、一同涙を拭うた。南八丁堀を経て湊町へ出 で、多年浅野家へ出入していた豆腐屋の菱屋三十郎の店先を通ると、三十郎我家の名誉 のように喜んで、湯茶を進め、湯漬をふるまった。  汐留橋の辺から、吉田忠左衛門と|富森《とみのもり》助右衛門両人は、大石の命によって一行と別 れ、芝愛宕下|西久保《にしのくぽ》の|大目付《おおめつけ》(今なら警視総監)仙石伯蓄守久尚の邸へ自首に行った。 六四 寺坂吉右衛門密使に立つ  足軽の寺坂吉右衛門は、自分の直接の主人なる吉田忠左衛門に、回向院前で、早速芸 州へ出発するように命ぜられたが、兎も角も泉岳寺まではと伴いて来た。そして一同の 後から入門しようとすると、大石、原、片岡、間瀬(久)、小野寺(十)、堀部(安)ら が1吉田忠左衛門は途中から仙石邸へ届出に行った1|遮《さえぎ》って、コ度寺内に入れば、 正規の手続を経なければなるまいから、あるいは再び出る事ができなくなるかも知れな い。万一そんな事にでもなれば、かねがね忠左衛門から申し含めてある趣旨に背き、残 念この上もない。去るも留まるも忠義に変りはない。サアこれから直ぐ出発するよう に」と、あるいは命令し、あるいは慰諭する。とくに吉田沢右衛門(忠左衛門長男)、 |貝賀《かいが》弥左衛門(忠左衛門弟)は、いっそう言葉を尽して出発を促す。  寺坂はもうこの時、討入の服装を脱いで通常服に変えていたものらしい。一書に、寺 坂が吉良の門前で、討入直前に他の義士の脱ぎ捨てた羽織を盗んで逃亡したと書いてい るが、多分変装用にしたものだろう。  寺坂は、かねがね承知はしていたというものの、一年九ヵ月間苦楽を共にして来た同 志が、本望を遂げて武士の面目を施し、いさぎよく仕置を待とうとしているのに、そし て主人吉田父子もその中にあるのに、自分一人が逃亡者らしく装われて使者に出るのは、 なんというつらい事だろう。この事情をよく知らない世間の人達が、あるいは生命が惜 しくて逃げたなどと噂するかも知れない。それはあまりにも情けないと、なおぐずぐず しているので、大石は声を励まし、「この場になって、平生忠左衛門から申含めてある 事を変改しようとするのはけしからぬ。もう猶予はならぬ、さあすぐ立て、しかし、そ の方が卑怯で逃げたものでないという後々の証拠に、かねて忠左衛門らと共に相談して 認めておいたこの連判状の一通を与える」と言って渡した。  こうなってはもうかれこれいう事もできないから、寺坂は涙を揮って一同と門の内外 に別れた。時は十二月十五日(元禄十五年)朝四ツ時分とあるから、今の時間で午前十 時頃である。それでも寺坂は、まだ一同の安否が気になるので、門外に押しよせている 群集の中に交って身を隠し、夕刻一同が仙石伯者守へ呼ばれ、四|家《け》の大名へ御預けにな るまでの様子を確かに聞届けて、その夜すぐ江戸を出発、同月二十九日に、吉田忠左衛 門の妻子のいる播州亀山へ着いた。  右は、吉田忠左衛門の女婿伊藤十郎太夫治行が、親しく寺坂の話を聞いて、書き留め た『|聞書覚《ききがきおぽえ》』(原書、赤穂花岳寺蔵)によったのであるが、この新史料その他の論拠か ら『寺坂雪冤録』を著わした伊藤武雄氏は、同書中に次のごとく書いている。    此覚書を見るに、寺坂吉右衛門としては、素より帰国の使命を帯びてゐるのです   から、もつと|潔《いさざよ》く引別れたらよからうと思はれますが、そこが人情です。猶知ら   ずくこL迄附いて来たのを、大石内蔵助外幹部の人々が押留めて居り、其上|若主《わかしゆ》   |人《じん》の吉田沢右衛門、同人|叔父《おじ》貝賀弥左衛門など、のッ引ならぬ人の|抑留《よくりゆう》では、最   早否む事は出来ません。すごくと引き別れました。其の心情を思へば実にふびん   でなりません。他の四十六士は何れも晴々しく泉岳寺に引揚げ、やがて四家へお預   けの上、兼ての覚悟通り武士としての本望をとげたに反し、これは又なんと悲惨な   立場ではありませんか。人々と|所期《しよき》の行動を共にする事も出来ず、すごくと帰国   せねばならぬ切なさを堪へ忍んでゐた苦衷は、寧ろ他の四十六士に優りても劣りは   せぬと思ひます。  前記、寺坂が大石から貰った連判状というのは、討入の際玄関前に立てておいた口上 書の写しで、花岳寺や寺井玄渓へ贈ったものふ同じである。彼は晩年までそれを大切に 所持していたそうである。 六五 内匠頭の墓前に報告 泉岳寺は江戸の浅野家|菩提寺《ぽだいでら》で、初代長直、二代長友、三代長矩の墓地である。赤穂 の花岳寺と共に曹洞宗に属し、今日は境内も狭くなっているが、元禄時代には駒込の吉 祥寺などと並称せられた大寺格で、雲水らも多く、非常に広大なものであった。  大石は、今にも上杉家から追手を寄越すかも知れぬと、墓前の奉告を急ぎ、上野介の 首を洗って、長矩の石塔の前に供え、四十余人その前に平伏した。大石やがて身を起し、 懐中より小脇差を取出し、柄を石塔の上段に寄せかけ、一拝してそのヒ|首《ひしゆ》を上野介の首 の上に当てて退いた。亡君の御霊、これにて御恨みを晴らし給えとの意である。さて一 同順次焼香するのであるが、この焼香順について、大石が総代として第一番に拝し、第 二番に|間《はざま》十次郎が大石に指名されて焼香したと記した書と、|間《はざま》に第一番の拝をさせて、 次に大石が一同を代表して拝をしたと書いたのと、二種ある。『快挙録』は前説をとり、 渡辺世祐博士は後説をとっていられるが、この墓前奉告祭の状況は、義士の|直話《じきわ》筆記中 に見当らないので、どちらが確実といいきれたい。  なおこの奉告祭の時、大石が祭文を読みあげたというので、その文章が『義臣伝』そ の他の古書に載っているが、これは|好事者《こうずしや》の偽作であること、今日に於てはもうハッキ リしている。常識から考えても、首尾よく敵を討取ることができるかどうかが問題であ り、幸に本望を達しても、無事泉岳寺まで首を持参し得るかどうか、途中で幕府の役人 に制せられなんだのがむしろ不思議た位で、もし制せられたらおとなしく渡す覚悟だっ たのであるから、首を供えての祭文などを前から準備しておくような事が、あろうはず もない。  なお『義臣伝』などには、この奉告祭の時、|揺泉院《よさえせんいん》(長矩寡夫人)から女房を使に差 越されて、大石と問答したこと、その他俗書中には、大石が亡君の意を体して、|間《はざま》や|武 林《たけぱやし》ら殊勲者に俸禄の加増を申渡すなど、馬鹿馬鹿しい滑稽を記載したものもある。  後の永平東福寺六世月海和尚、この時白明という名で泉岳寺にいたが、七十二歳の時、 五十余年前の思い出を綴って『白明話録』と題したのが、今日遺っている。その冒頭の 一節は、当時の実況を目撃したものの唯一の記事であるから、ここに引用する。    我等十九歳の時、江戸泉岳寺に居れり。元禄十五壬午の年なり、十二月十五日、   朝飯畢り礼茶の為に、衆寮より出で、寺「集まりゐたり。泉岳寺などは常法堂にて、   いつでも夏冬の結制あるなり。今日も冬のうちの|礼日《れいぴ》ゆゑ、礼茶の賀儀があるなり。   所へ門の番人参りて副司を呼出し、是にて申上ぐべし、唯今|故《もと》の浅野内匠頭殿の御   家来凡そ五六十人ばかりにて、色々異様なる装束、鎗・|長刀《ながだち》など持ち、御門ヘ入ら   れ候。通すべくや否の事御伺ひ申上ぐると、副司其趣を和尚へ申せしに、先づ役頭   を遣はし検別すべしとてやられしに、はやずらりと墓地へ通りたる後なり。数々あ   とよりも見物の人集まり来る。それ故すぐに門をうたせ、門の外へ番をおき、事を   通じ、通すべきは通し、左なければ返すやうに、段々に言ひつけたるなり。さて墓   前にての礼拝のうち、皆々寺から往きて伺ひたるなり。さしてひまの入りたる拝に   てはなし。もはや四つ時過でもある事なり、拝|相《あい》すみていづれも寺へ参らる。兵具 は玄関の入ロヘおき、玄関にて申さる、には、拙者共今暁故主の敵吉良上野介を討 ち候て、唯今故主墓前へ手向け候。右に依つて参りたる由|演《の》べらる。副司すなはち 案内し、方丈と対面、当寺は浅野殿|檀那寺《だんなでら》なれば、爾来これも|存知《ぞんじ》の人なり。大石 内蔵助申さる、には、吉良殿を討ち取つて後、回向院へ行き自殺すべき哉と存じ、 門をあけくれ候やうに申たれども、異様なる人数を見てや、門をあけず。つらく 思ふに、徒らに自害しても事は分れず、兎角|上裁《じようさい》を得べしと存じ、二人を仙石伯 書守殿へ遣はせしなどの物語あり。 六六 泉岳寺内の義士  墓前奉告祭が終ると、副司の案内があったので、一同本堂の方へ引揚げてきた。そし て大石父子以下幹部老人組は客殿へ、その他は衆寮へ通された。通る時に、武器の長い ものは皆玄関入口に立てかけた。  住職|長恩《ちようおん》和尚は、何よりも先ず寺社奉行へ届けなければならんとて、人数を尋ねさ せると、総数四十七人だが、内二人は大目付邸ヘ届出に赴いたから、ここには四十五人 いるはずであるとの答なので、数えてみると四十四人しかいたい。それで名簿に照らし て一人ずつ答えさせると、寺坂吉右衛門が一人いない。大石以下白ばくれて「ここまで 来る途中|駆落《かけおち》したものらしい」と空うそぶく。事情を知 らぬ若い連中は「変だなア、討入の時は確に一緒に入門 したし、引揚の時にも確いたのだが、どうしたのだろ う」と怪しみ、中には心から憂慮しているものもあった。 しかし結局いない者をどうする事もできず、さりとて名 簿を書き改めている時間もないので、吉右衛門の名の上 に「この者居申さず」と記入して、長恩和尚が自ら寺社 奉行へ持参した。  ここで一言Lておく。大石以下が、寺坂を泉岳寺門前 から逃亡したごとく装って密使に出しておきながら、寺 僧が一人一人点検するのをなぜ知らん顔して眺めていた かというに、ム.し逃亡前後の事情を|訊《ただ》されたりしては、 作り事のばれろ恐れがあるからである。従って仙石邸へ 届出に行った吉田忠左衛門も、四十七人連名の口上書を 出して、寺坂の身上にはふれず、つまり大石も吉田その 他も、「寺坂がいつ逃亡したのか知らないが、事実泉岳 寺にいないところを見ると、逃亡と断定する外ない」と いう事にしてしまったのである。  それで幕府では、吉田、富森の届出によって、討入人数を四十七人と信じ、内高禄者 十七人を細川家に、他の三十名を三家に十名ずつ御預け、と決定したのであるが、後に なって、水野家に割当てられていた寺坂がいないと分ったものであるから、同家だけ九 名という半端の数になったのである。吉田らの届出が四十六人となっていたら、お預け 人数の割当も、細川家十六名、他の三家十名ずつとなっていたに相違ないこと、『義人' 録』著者鳩巣をまたずして推察されよう。  以下『白明話録』の数節を現代文に訳して、泉岳寺内に於ける義士の行動を紹介しよ う。    大石父子その他老人衆は客殿、若い連中は衆寮で、火にあたって休まれるように   したが、大低は衆寮の方へ見えた。先ず粥を出し、愚僧も衆寮へ出て給仕を致した。   いずれもよほど空腹であったと見えて、粥を沢山たべられた。粥がすみ、茶受を出   し、茶を出し、それから、風呂が沸いたからお入りなされと勧めたところが、いや、   上杉家からの討手が、今に押寄せてくるかも知れぬ、風呂どころではないと申され   た。間もなく、皆よく眠ってしまわれた(世間では、この時武林唯七が一同を励ま   して眠らせなんだとの噂があるけれども、愚僧は左様な事を見なんだ)。近松勘六   が左の股に大きな傷を受けている。それで医師を呼んだが、どうせ長くない生命だ  から療治を受けるに及ばぬと断った。けれども折角医師が来たのだからとて、療治  させた。この傷は相手と闘うて追いまくり、その者が池へ飛び込んだのを切付けた  時、相手が池の中から刀を突出しているのに気がつかなんだため、刺さったのだと  いう事である。 白明の実見談はなおつづく。   朝飯が出た。一同快く食われた(著者註、この朝飯は正午過になったらしい)。  愚僧も給仕に出ていたが、木村岡右衛門が、そなたは幾つと問うから十九歳、国は  どこというから土州と答えた。四十余人いずれも右の肩に、氏名を書いた金紙を附  けていたが、木村だけは別に左の肩にも、法名英岳宗俊信士の六字を書いていたか  ら、その法名は、誰に附けてお貰いですかと問うと、播州の盤珪禅師との返事なの  で、さてはこの人禅門に入っているに相違ない、それならきっと辞世の|偶《げ》か、今朝  の即吟などがあるだろうと思って、所望したところが、懐紙を取出して、       本意を遂げ侍る頃仙岳禅寺に至りて    思ひきやわが|武士《もののふ》の道ならでかかる|御法《エのり》の|縁《えん》にあふとは   木村貞行、行年四十五、英岳宗俊信士と署名された。ところが右手の指の疵から  血が滴って紙が汚れたので、書きかえようとなさるから、吾らは、その一滴の血が  いっそう有難い、是非それを下されと乞うて貰い受けた。  白明は次いで、隣りに坐っていた茅野和助に、あなたも何ぞと乞うたところが、   |天地《あめつち》の外はあらじな千草だに|元《もと》さく野べに枯ると思へば   世や|命咲《いのちさ》く野に枯るゝ世や命 と書いて与えられ、次に岡野金右衛門と大高源五に乞うと、岡野は辞退して容易に応じ ない。それを強いて迫って得た句、      上野介殿の|首《しるし》を故主の墓前に手向るとて   其匂ひ雪のあちらの野梅哉  大高源五の書いた句は、   山をさく刀も折れて松の雪 である。この句は最も有名である。これらの筆蹟は、白明が後に住持になった土佐の東 福寺に今も残っている。なお白明に与えたのではないが、大石の、   あら楽し思ひは晴る、身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし の一首は、この時泉岳寺に於ての詠で、真の実感であろうと察せられる。  なお白明は次の通り語っている。    この時|寺内《じない》で大騒動したように書いた本もあるが、五十人や六十人の食事の支度   は常にする事なり、大石以下いずれも心やすい人々だから、騒ぐはずはない。また   上杉の討手が来たら、大石らに加勢して一戦しようとて、泉岳寺の衆徒が鉢巻姿で   棒などを持ち出したなどいうのも全くウソである。左様な浄瑠璃めいた事する事態   でない。義士達がねた刃を附けた、というも事実無根、それから女が義士の中に交   って来たなどいうのもウソである。|矢頭右《やこうべよ》衛|門七《もしち》が美少年だったから、それを取違   えたのだろう。  以上『白明話録』の摘訳である。講談や浪花節なら仕方もないが、いかにも正史らし く装った義士伝が、前記白明の二百年近く前に打消しているウソを、今日でもれいれい しく書いているのは困ったものである。  義士引揚の途中、三田八幡附近で、高田郡兵衛(堀部安兵衛、奥田孫太夫と共に、江 戸急進派の中心だったが、ついに脱盟した)に出会い、その高田が御祝にといって、酒 樽を泉岳寺へ持参して取次を乞うたが、突返された事は、前に同人脱盟の事を書いた時 に附記した通りである。 六七 仙石邸の吉田・富森  吉田忠左衛門と|富森《とみのもり》助右衛門は、泉岳寺へ引揚げる途中から一行と別れて、芝愛宕 下の大目付(今なら警視総監)仙石伯者守久尚の役宅に赴いた。一行の代表として、禁 を犯した罪を自首するためであるが、大石がとくにこの二人を選定したのは、いずれも 共に弁舌に長じ、とくに吉田は思慮周密にして何事も老練であり、富森ば年の若いに似 ず沈着であるから、吉田の補佐役たらしめたのであろうといわれている。  両人は、討入のままの異様な装束であり、かつ罪人として自首して来たのであるから、 持参の|鑓《やり》は門の外に立てかけ、かつ正門は遠慮して通用門から入り、門番に案内を乞う た。 「私共播州赤穂の浪人四十七人、昨夜吉良上野介殿御屋敷へ推参して上野介殿の御首を あげ、一同主家の菩提寺高輪泉岳寺へ引揚げましたが、この事大目付へお届け致すため、 私共両人これまで参上致しました。御取次下さるよう」  門番驚いて玄関の方へ走ったが、やがて駆け戻って、伯者守様|御直《おじき》に御聴取になるか ら通るようにとの事で、導かれて内玄関に立った。  時刻は朝の八時前後だから、朝食もまだ済んでいなかったであろうが、伯者守は即時 内玄関へ現われた。  ここで吉田・富森は、改めて氏名を名のり、吉田から事情を陳述した。 「昨年三月主人浅野|内匠頭《たくみのかみ》、伝奏御馳走の儀に付吉良上野介殿に深く意趣を含みおりま したるところ、御殿中に於て何か堪えがたい事でもありましたためか、大切の御時御場 所をわきまえず刃傷に及び、その各にて切腹仰付られ城地召上げられました段、私共家 来の者何共恐縮の外ござりませぬ。これによって御指図通り城地差上げ、家中離散致し たのでござります。しかるところ、右内匠頭喧嘩の節、抑留せられた方がありまして、 相手の上野介殿を討ち漏らしましたのは、主人今わの無念さこそと察せられまして、家 来共忍び得られませぬため、|高家《こうけ》御歴々に対して憧り至極には存じまするけれども、|君 父《くんぷ》の仇は共に天を戴かざる大義から、同志四十七人、今暁吉良殿御宅ヘ推参|御首《おんしるし》をあ げて、唯今泉岳寺へ引揚の途中でござります。一同決して逃げ隠れは致しませぬ。何卒 御指図願い上げ奉る。なおこの趣意は|口上書《こうじようがき》を認めまして、同志の氏名も連記いたし、 上野介殿御屋敷に立てて置きましたが、その控を唯今懐中いたしておりまするから、御 覧下さりまするなら差上げまする」  条理を正して言語明晰に述べ、しかも凛乎として奪うべからざる気魂が、二人の面上 に溢れていた。深く感服の体で聴いていた伯者守、 「その口上書とやらの控をこれへ」 と取寄せ、繰返し黙読した上、 「人数は四十七名に相違ないか」 コ同泉岳寺にいると申すか」 「主君の恨みを晴らしたのじゃナ」 「口上書に私共死後|御見分《ごけんぶん》の御方とある上は、一同死ぬ覚悟なのじゃナ」 などと念を押して尋ねた上、なお討入のさいの実況や、引揚のさい火の元をとくに用心 した事などを聴いていよいよ感服し、 「万事遺漏なく行届いた仕方、神妙である。間もなく登城して、老中方に御披露申した 上何分の沙汰をするから、それまで|上《あが》って待受けるよう。なお食事の支度も申付けるか ら、くつろいで休息するがよい」  伯者守は、いかにも同情の籠った声で、こういい残して奥へ入った。  吉田・富森は、導かれた部屋で休息していると、伯者守の家臣井上万右衛門が、書記 を従えて出て、前夜吉良邸へ押寄せた前後の実情から、邸内働きの様子、吉良側の応戦、 引揚に至るまでの次第を物語るようにとの事なので、二人が交る交る語り、書記は忙し く筆記した。  その話の途中に、伯蓄守が現われ、書記の筆記のできているだけを受取って、あわた だしく登城した。そのあとへ、|御徒《おかち》目付が出て、同じような事を尋ねるから、また委し く答えた。  伯者守は、先ず月番老中稲葉丹後守の邸へ行って概略を耳に入れ、続いてすぐ登城し、 関係の向々へ正式に報告した。 六八 幕府当局の同情  そこで、幕府では緊急閣議を開いた。列席者は老中と|若年寄《わかどしより》。大目付仙石伯蓄守が、 説明役である。  伯書守は、大石内蔵助ら四十七人が、いちずに亡主の志をついで怨を吉良上野介に報 じたものであって、忠義の一念の外、|些《すこし》の私心も野心もないと認めらるること、一同逃 げ隠れをせず謹んで処分を待っていること、計画は極めて周密に行われ、退去の際は火 の元をとくに注意する等、万事極めて行届いたハーーカであること、その他今朝面会した吉 田、富森の態度の立派なことなどを、十分の同情と熱意とを以て説明し、なお吉田の差 出した口上書の写しを提出した。  その口上書は次から次へと廻覧されたが、いすれも感嘆の声を漏らし、中には涙を拭 う老中さえあった。  吉良上野介が鼻つまみの老爺である事は、老中も若年寄もうすうす知っていた。そし て昨年三月殿中刃傷の際、将軍の厳命によって内匠頭のみ厳刑に処せられ、上野介にな んのお答めもなかったので、口にこそ出さね、内心では皆内匠頭に同情していたのであ る。その内匠頭の家来共が、亡君の仇を報じたというのであるから、もっともの事だ、 当然の事だと思うと同時に、その武士として当然の忠義という事が、近年はだんだん忘 れられて、風俗は|儒弱《だじやく》になり、道義は地に墜つるごとき情勢にある際、四十七人が生命 を投げ出して旧主の志をついだのは、実に感心である。この事件は、一面お膝元で血を 流した不祥事ではあるが、他面また喜ぶべき節義の発揚であるというので、老中若年寄 の大部分は、期せずして大石らの同情者になった。この原因の幾分は、仙台伯者守の説 明にあったと言ってもよかろう。そこで将軍(綱吉)に対しては、「四十七人を一時ど こかへお預けになって、処分は追って御決定然るべくと存じ奉る」と具申した。  将軍綱吉は、湯島の聖堂に於て自ら論語の講義をする程の学問好きで、忠孝節義の奨 励者であるから、大石以下のこの挙を嬉しく思ったに相違ない。かつ昨年三月内匠頭の 際は、一時の激怒に駆られて即日切腹申付けたものの、後にはやや軽率であったと気が ついたはずであるから、あの時の処分に関連して起った今度の事件には、多少自責の念 もあるだろう。それで老中具申の意見-一時御預けーに対しては「その通り取計う よう」とおとなしく承認した。  そこで、大石|内蔵助《くらのすけ》以下十七名は細川越中守へ、大石|主税《ちから》以下十名は松平隠岐守へ、 吉田沢右衛門以下十名は毛利甲斐守ヘ、間瀬孫九郎以下十名(内一名寺坂が逃亡となっ たので実際は九名)、水野|監物《けんもつ》へお預けという事に決し、いずれも泉岳寺へ受取人を差 向けるよう発令した。  ところが、この発令後まもなく、コ度も役所の門をくぐらせずに、泉岳寺でそのま ま四家に引渡すのは、事件をあまりに軽扱いするようであるから、一同を伯者守役宅に 召寄せ、ここで四家に引渡すがよかろう」という事に評議が変更、改めてそれを通達し たが、この変更は、「もし泉岳寺で引渡すと、上杉家が武門の意地から、復讐の目的で 打ちかかるかも知れない。それを伯者守の役宅に於てすれば手が出せまい」という意味 が含まれているのだと解されている。その引渡場所変更の奉書が届いた時、松平家と水 野家はすでに泉岳寺へ受取部隊を出発させていたので、早速また仙石邸へ廻らせた。 六九 上杉家の態度  前にも書いた事のある通り、吉良上野介の夫人は上杉家から来た人で、その間に生れ た|綱憲《つなのり》が母の生家上杉家を相続し、綱憲の子|義周《よしかね》が、今度は父の生家吉良家の相続人と なり、吉良、上杉両家は互いに重縁の親戚である川、すなわち上杉家の当主綱憲から見れ ば、今度赤穂の浪人に首を取られた上野介は実の父親で、傷つけられた|左兵衛義周《さひようえよしかね》は実 子である。父の首を取られ、子を傷つけられて、安閑として傍観していては武士の面目 が立たぬ。いわんや上杉家は、武門中の武門として聞えている雄藩であるから、必ず討 手を差向けるにちがいないとは、大石らが初から予期していたところである。だから引 揚の途中に於ても警戒を解かず、もし上杉家の追手が来たなら、尋常に勝負して、一人 残らず討死しようという決心だったのである。泉岳寺に着いてからも、まだそれを気づ かっていた。だからこのさい上杉家の態度如何ということは、誰の頭にも第一番に来る 問題だった。  上杉家の|上《かみ》屋敷は芝桜田、下屋敷は麻布飯倉にあった。その桜田の邸に事変の知れた のは同日の早暁七ツ半時(午前五時)で、義士達がまだ吉良邸に残っている時刻だった。 吉良邸の近くに住んで常に出入している豆腐屋の主人が、わけは分らないが大変な騒ぎ だから、第一の御親類に当る上杉様にお知らせしてあげようと、真先に駆けつけたので あった。豆腐屋は上杉家の門番に騒ぎの事を報告してすぐ引返した。続いて裏門番の丸 山清右衛門が来る、やや後れて柳原五郎右衛門というのが来たので、敵は赤穂の浪人で 数十名だということがほぽ判明した。  そこで、早速救援隊を繰出さなければならんが、何よりも気づかわしいのは、上野介 |義央《よしひさ》及び左兵衛|義周《よしかね》の安否であるから、取敢えず数人の家臣に医師を伴わせて出発させ、 救援隊は、桜田の上屋敷から一隊、麻布の下屋敷から一隊、それが別々に向っては力が 弱いから、途中で一つになって押寄せる事にしたが、何しろ電話もなく、自動車、自転 車もなかった時代の事とて、打合せの使を往復している間に時間がずんずん経過して、 敵はもう引揚げた、上野介は討たれ、|左兵衛《さひようえ》は傷ついた、ということも追々判ってきた。  そこで「しからば敵の引揚場所を探し求めて討取ろう」と、上杉家の少壮武士は軒昂 たる意気を示す。老人組の中にも、「主君の肉親の父を殺され、肉親の子を傷つけられ、 このまま安閑としていては当家の武が立たぬ。いざ出兵の用意!」と息まく者がある。 当主|綱憲《つなのり》も、自ら陣頭に立たんとする程の勢い、  ただここに江戸家老色部又四郎、やや沈思の後決然として不同意を表明した。 「我君の御心情を拝察仕れば、|御親子《ごしんし》の|御仇《おんあだ》なる赤穂の浪人共を、討伐せんと思召さる るは当然の御事ながら、元来、この事変は吉良家のみにかかる事で、我が上杉家に関す る事ではござらぬ。吉良家にしかけた喧嘩を上杉家が買って出て、江戸城下に血を流す ことは、将軍家に対して恐れ多くはござらぬか、、切取強盗に類する赤穂浪人共の所行は、 上杉家が手を下すまでもなく幕府に於て処置せらるるに相違ござるまい」  なるほど、聴いて見れば道理はそうである。しかし現在の親を殺され子を傷つけられ て、指を|咬《くわ》えて見ていられようかと、綱憲や少壮武士の意気には制しがたいものがある ので、家老色部も持て余していた。  そこへ、上杉、吉良両家の親戚に当る畠山下総守(|義寧《よしやす》)が騎馬で駆けつけた。下総 守は、当日(十五日)御例日なので、定例の通り礼装して登城したところが、閣老がす ぐ呼び付けて、吉良邸今暁の騒動を告げ、 「このさい心配なのは、上杉家から家臣を繰出す事である。もし上杉が出せば、浅野の 本家でも傍観してはいまい。そうなると、事件は益々拡大して、いかなる大騒動になら ないとも限らぬ。赤穂浪人共はすでに大目付仙石伯者守に届出ており、幕府に於て処置 することになっているからこのさいもし上杉が手出しすれば、幕府に手向うのも同様の 理となる。この事を即時上杉家に通じて心得違いなきよう説諭せよ」 というので、それを聞くと畠山は、すぐその場から馬を跳ばして来ためである。こうい う際の鎮撫の責任を親類中で有力な大名に負わしめるのは、幕府の常套手段である。  上杉家では、家老色部が主君を諌め、一同を制していたところへ、下総守がこの幕命 を伝えて来たので、もう問題なく納まった。しかしこういう事情は外部に知れないから、 世間では、一途に上杉の臆病と決め、これを嘲った落首などができた。   上杉の車がかりも今は早|内蔵《くら》に納めて出でぬ弾正   父親を吉良る\までも|内弾正《ないだんじよう》子の上すぎし恥もやはある   上杉の火消はあがる名は下る竹に雀の尾をすぽめけり   根は枯れて葉ばかり残る上杉の武士をば止めて酒店にせよ 七〇 一同泉岳寺から仙石邸へ  泉岳寺の義士一同は、今にも上杉家から討手が来るかも知れない。もしやって来たら、 寺を騒がすこと本意でないから、門外に於て尋常に勝負しようなどいっていたが、一向 そんな様子もないので、昨夜来の疲れと本望を遂げた安心とで、いずれも武装こそ解か ないが、昼寝した。ぐっすり寝て覚めても、まだ幕府から何の沙汰もない。所在なさに、 寄って来る雲水を相手にして、他愛もない事を語り合っていた。  夕刻になってから、|御徒《おかち》目付石川弥一右衛門、市野新八郎外一名が|麻神《あさがみしも》でようやく やってきた。そして大石以下四十六人を残らず坪び出して、「仰渡さるる儀があるから、 早速仙石伯善守へ参るよう」と申渡した。大石はその|請書《うけしよ》を差出した後、住職の取次で、 「上野介殿の|首《しるし》を持参しておりまするが、これはいかが致しましょうか」と尋ねた。役 人は、 「その段は指図いたしかねる。しかし仙石邸へ持参するには及ばぬ。寺へ預けて処置を 住職に委せてはどうか」 との挨拶なので、しからばと、首と守袋とを住職に渡した。これは吉良家の菩提寺|万 昌院《ぱんしよういん》和尚から仙石伯書守へ、なんとか首の返るよう御高配願いたいと頼み、仙石から 泉岳寺住職に、住職から大石に話があったので、もう用のない首ではあるが、念のため 役人の意見を尋ねたのであった。  それで泉岳寺から、使僧に持たせて首と守袋とを吉良邸へ届けたが、その時の首の請 取状が、今でも泉岳寺に残っている。『米沢塩井家覚書』には次の通り書いている。    上州様御首これなく、左兵衛様始御一類様方、此上の御残念と思召され候へ共、   取返すべきやうも之なく候処、上野介様御牌所万昌院、御目付仙石殿へ此旨願ひの   上、仙石殿御才覚にて敵方より早速御首返し申候。御首|白無垢《しろむく》の小袖に包み、大石   内蔵助|印封《いんふう》之あり、井に鼻紙袋、守袋まで相そへ返し申候。之も同人印封にて相返   し候。さてさて|末細《まつさい》なる所まで気をつけ、御鼻紙袋、御守袋まで持参候。うろつか   ぬ働どもに御座候。右十七日相返り、十八日万昌院にて葬礼相済候。御法名霊性院   殿前上州別当従四位上羽林実山成公大居士、奥様法体梅嶺院様と申し奉り候。  さて戌の上刻すなわち午後七時頃に一同泉岳寺を出て仙石邸に向った。老人と手負と は、辻駕籠十挺を雇うて乗せ、いずれも討入の装束のまま、武器も携帯した。大石は、 長い道具類は捨てておいたらよかろうと言ったが、若い連中は、もしも上杉勢が途中で かかって来てはというので、すべて持参した。  道筋は、高輪から三田を経て、愛宕下西久保の仙石邸へと進んだが、その途中の町々 の警護厳重で、屋敷は門前に高張提灯を出し、番卒も立っていた。  仙石邸玄関では|御徒目付《おかちめつけ》が出て、大小や懐中の品などを改めて請取った。|鑓《やり》や|長刀《ながだち》は 門前に差置いたが、かかる物を持参した理由をことわると、「もっともである」と諒解 された。 七一 四家へ御預け申渡 義士一同導かるるままに、大目付仙石邸玄関から上にあがると、役人が一々氏名、年 齢、|御直参《ごじきさん》に親類のある者はその|続柄《つづきがら》、旧浅野家にての|勤役《つとめやく》、今暁吉良邸で負傷した 者はその程度などをも尋ねて、書き留めた。  それから大目付仙石伯蓄守、目付鈴木源五右衛門、水野小左衛門三人列席の前へ、大 石以下十七人を先ず召出して、細川越中守ヘ御預けの旨申渡し、その他ヘも次々申渡し たが、ここに各家へ御預けの面々を、以前の役柄、知行、年齢と共に列記する。  ◎細川越中守綱利(肥後熊本城主、五十四万有)へ御預け   大石内蔵助(家老、千五百石 四十四歳)   吉田忠左衛門(郡代、二百石、役料五十わ 六十二歳)   原惣右衛門(物頭、三百石 五十五歳)   間瀬久太夫(大目付、二百石、役料十b 六十二歳)   片岡源五右衛門(用人、小姓頭、三百五十有 三十六歳) 小野寺十内 堀部弥兵衛 礒貝十郎左衛門 潮田又之丞 富森助右衛門 近 松勘 六 (京都留守居、百五十石、役料七十石 六十歳) (元江戸留守居、隠居料二十石 七十六歳) (近習物頭、百五十石 二十四歳) (絵図奉行、二百石 三十四歳) (江戸留守居、二百石 一一、十三歳) (馬廻、二百五十石 三十三歳) 矢田五郎右衛門(馬廻、百五十石 二十八歳)  奥田孫太夫(馬廻、百五十石五十六歳)  早水藤左衛門(馬廻、百五十石 三十九歳)  |赤埴《あかぱね》源蔵(馬廻、二百石三十四歳)  大石瀬左衛門(馬廻、百五十石 二十六歳)  |間《はざま》喜兵衛(勝手方吟味役、百石、別米四斗三升六十八歳) 以上十七人。 ◎松平隠岐守定直(伊予松山城主、十五万石)へ御預け  大 石 主 税(内蔵助嫡男、部屋住 十五歳)  堀部安兵衛(弥兵衛養子、馬廻、二百石三十三歳)  中 村 勘 助(祐筆、百石 四十七歳)  木村岡右衛門(絵図奉行、百五十石 四十五歳)  不破数右衛門(元普請奉行、元百石 三十三歳)  菅谷半之丞(代官、百石 四十三歳)  千馬三郎兵衛(宗門改役、百石 五十歳)  岡野金右衛門(小野寺十内甥、部屋住 二十三歳)  貝賀弥左衛門(吉田忠左衛門弟、蔵奉行、十両三人扶持、外二石 五十三歳) 四家へ御預け申渡  大 高 源 五(膳番、二十石五人扶持 三十一歳) 以上十人。 ◎毛利甲斐守綱元(長門長府城主、五万石)へ御預げ  吉田沢右衛門(忠左衛門嫡男、部屋住  一十八歳)  岡島八十右衛門(原惣右衛門弟、勘定役、 一十石五人扶持 三十七歳)  武林唯七(十両三人扶持三十一歳)  倉橋伝助(二十石五人扶持三十三歳)  村松喜兵衛(江戸蔵奉行、二十石五人扶持 六十一歳)  杉野十平次(八両三人扶持二十七歳)  勝田新左衛門(中小姓、十五石三人扶持 二十三歳)  前原伊助(金奉行、十五石三人扶持三十九歳)  間  新  六(間喜兵衛次男、部屋住 二十三歳)  小野寺幸右衛門(十内養子、大高源五弟、都屋住 二十七歳) 以上十人。 ◎水野監物忠之(三河岡崎城主、五万石)へ御預け  間瀬孫九郎(久太夫嫡男、部屋住 二†二歳)  |間《はざま》 十 次 郎(喜兵衛嫡男、部屋住 二十五歳)   奥田貞右衛門(孫太夫養子、近松勘六弟、部屋住 二十五歳)   |矢頭右《やこうべよ》衛|門《も》七(亡父長助二十五石五人扶持、部屋住十七歳)   村松三太夫(喜兵衛嫡男、部屋住 二十六歳)   茅野和助(歩行横目、五両三人扶持、役料五石三十六歳)   横 川勘 平(歩行、五両三人扶持 三十六歳)   神崎与五郎(歩行横目、五両三人扶持、役料五石 三十七歳)   三村次郎左衛門(酒奉行、七石二人扶持 三十六歳)  以上九人。  この水野家預人の最終に、初は寺坂吉右衛門の名があったに、それは大石以下誰もの 知らぬ間に姿が見えなくなったというので、逃亡と見なされた。    七二 仙石邸非公式の問答  大石以下十七名を前において細川越中守への御預けを申渡した後、仙石伯書守は大石 を傍近く呼び寄せ、 「これは職務外の事であるが、この度本意を遂ぐるについては、万事誠に遺漏なき致し 方、深く感じ入ったぞ」 と、いかにも打とけて称美する。大石大に面目を施して、 「有難い御言葉、恐縮至極に存じ奉りまする」と挨拶した。  伯蓄守は、事件の大体はすでに吉田忠左衛門と富森助右衛門から聴いてはいるが、な お大石の口から物語を聴きたいとて、討入の状況、邸内での駆引などに付質問し、また 吉田らが途中で別れてから泉岳寺までの道筋を問い、大石一々明快に答えた。邸内の働 きの様子などで、大石がその場に居合せなかった部分のことは、吉田その他が代って答 えた。 「泉岳寺へ参るに、|手負《ておい》怪我人は駕籠に乗せたそうであるが、手負は誰か、怪我は大し た事もないか」 と問われて、大石感激、|金瘡《きんそう》の横川勘平、打撲傷の近松勘六、足を挫いた原惣右衛門、 腕を傷めた神崎与五郎について、さしたる事でない旨を答える。 「邸内に於て召捕った者に蝋燭を出させ、火を点じて捜索したという礒貝とやらは」 「あれに控えておりまする」と大石は十郎左衛門を指さす。 「見受けるところまだ若そうであるが、さてさて落着いた仕方」 と賞める。なおこの時伯誉守が、大石主税はどこにいるかと尋ね、年は十五と聞いて、 その大男なのに驚き、しかし声を聞けば、どこか幼いところがあるとて、役人一同感心 したことが、『江赤見聞記』その他諸書に見えていて、大石が父として面目を施す場面、 劇などに仕組んだらさぞ面白かろうと思われるが、大石、原、小野寺連名で寺井玄渓に 贈った実況記(原惣右衛門執筆)によると、伯書守ら三人が大石に様子を話させたのは、 細川家へお預けの十七人だけを前においての時で、主税はその席にいなかったはずであ るから、前後辻褄が合わぬ。多分これは、松平隠岐守へお預けの主税以下十名に対して 申渡のあった後の事で、内蔵助同席ではなかったのであろう。  なおこのさい仙石伯者守と大石との問答二十余条が、『江赤見聞記』その他に記載さ れ、これを「内蔵助申開」など称して一般に知られているが、原惣右衛門執筆の実況に よれば、大石に物語を聞かれたまでの事で、申開きなどいう性質のものでなかったこと は確実である。  いよいよ仙石邸から送り出されようとする間際に、大石は主税を片隅へ呼んで小声で いった。 「かねがね申聞けておいた事を忘れはしまいな」  最期の場合に未練がましい体を見せるなよの意味である。 「御心配下されますな、決して忘れは致しませぬ」  凛然たる一語に、大きくうなずいた父は、千万無量の思いを眼に含めたまま別れた。 七三 四十六士引渡  細川越中守は、殿中において大石内蔵助以下十七士御預けの命を受けるや、この忠義 の武士を預るのは武門の面目であると喜んで、、目ら部下を指揮して受取に出ようと意気 ごんだが、他家の振合もあるから、|太守《たいしゆ》自身の出馬は見合されたがよかろうと、老中の 注意もあったので、家老三宅藤兵衛を隊長とし、|側用人《そぱようにん》鎌田軍之助以下総勢八百名以上 の多勢が、十七挺の駕籠の外に予備としてなお五挺を用意し、隊伍堂々と仙石邸に向っ た。  十七人の受取に八百人からの大部隊を繰出したのは、奇異のようであるが、こういう さいには藩の威武を示す必要もあるのと、他方には、上杉家が親の仇たる四十六士を奪 うために途中襲撃するかも知れないとの噂が立ったので、四家とも最大限に家臣を繰出 したのである。すなわち左の通り。  △細川家 総人数 八百七十五人     請取支配人 家老三宅藤兵衛ら     請取人留守居堀内平八ら  △松平家 総人数 三百余人    請 △毛利家    請 △水野家    請 伯蓄守は、 取 人 総人数 取 人 総人数 取 人 家老遠山三郎右衛門ら 三百余人 家老田代要人ら 百五十余人 留守居山川九郎右衛門       以上の請取人を呼出して心得を申聞かせた。 「今度の御預人は普通の罪人とは事情が違うから、その含みにて万事いたわって遣すよ う。中には手負の者もあるから途中を注意し、もし乗物の戸を開きたいと望む者があれ ば、望みに委せても苦しゅうない」  前年浅野内匠頭が城内から田村邸へ送られる時には、駕籠に錠をおろして上から網を かけられた。罪人を駕籠で送る時にはそれが|定法《じようほう》である。だのに大石らはこの優遇で ある。もって当局者がいかにこの義挙に感嘆し、いかに彼らに好意を表したかが察せら れよう。  義士を預った四家の屋敷の位置は、細川家は|高輪《たかなわ》の|中屋敷《なかやしさ》で、今日高松宮御殿になっ ている所である。松平家は愛宕下の|上屋敷《かみやしき》へ当夜取敢えず収容したが、翌日芝三田の中 屋敷へ移送した。現在イタリア大使館になっている所である。毛利家は麻布北日ケ窪の 屋敷で、今は増島六一郎博士の邸になっている。水野家は芝切通の上屋敷へいったん収 容したが、数日の後芝三田の下屋敷へ移した。今の三田四国町十四番地である。各預人 が仙石邸を発したのは午後十一時頃で、到着したのは四家共十二時前後であった。 七四 細川家の十七士優遇  大石以下十七名が高輪の細川越中守邸(今は洋館の高松宮御殿になり、門だけが記念 に残されてある)に着いたのは夜半の十二時頃であった。越中守綱利は床にも入らずに 待ち受け、早速対面して次の通り言ったと、細川家の『綱利譜』に記録してある。    いづれも忠義の至り感心す。誠に天命に応ひたると存ず。当家に預ること武門の   本望なり。心やすくくつろぎ、数月の辛苦、昨夜の労をも休め申すべし。何事によ   らず存ずる旨あらば、隔意なく申すべし。|為《にめ》よき筋随分精を尽すべし。大法たる故、   公義に対し家来少々出し置くといへども、誉人といふには非ず、一つは用事を達す   る為なり、遠慮なく申すべし。(原文、候文  越中守は続いて家来に「夜もふけたから早々料理を出すように」と命じて奥へ入った。  居室は|櫛形《くしがた》の|間《ま》とかいい、四間に十五間の大広間で、中を仕切って二間とし、左の通 り、配置した。  上の間   大石内蔵助、吉田忠左衛門、原惣右衛門、片岡源五右衛門、間瀬久太夫、小野寺十   内、堀部弥兵衛、間喜兵衛、早水藤左衛門。  次の間   礒貝十郎左衛門、近松勘六、富森助右衛門、潮田又之丞、赤埴源蔵、大石瀬左衛門、   奥田孫太夫、矢田五郎右衛門。  大体に於て、家格の高い者と老人を上の間としたらしいが、特別懇意な者は同室に組 合せたと考えられる。『堀内覚書』に、礒貝は上の間のはずだが、早水と申合せて入り 代ったとある。  それから料理を出し、濃茶菓子も済んだので、所々に風呂を立てて入浴させ(一人毎 に湯を新しくした)、小袖|一重《ひとかさね》ずつを与え、居室には炭火をどんどん起して暖を取らし め、なお翌日からの料理も、越中守自ら指図して二汁五菜を供した。  御預けになってから、第四日目の十八日、接伴人がやって来て「今日は当家主人少々 心願がござって精進をいたしまするから、御一同にも精進料理を差上げることに致した。 何卒御承知おき下されい」と伝えた。これは越中守が、一党の助命を神仏に祈願して、 そのため自ら精進潔斎し、家臣一同にも同様実行させたが、なお誠意の貫徹するように と、義士らにも一日だけ肉食を避けさせたのである。  御預四家のうちで、即日太守が義士を引見したのは細川一家だけだった。水野監物は 七日目の十二月二十一日に、毛利甲斐守は二十九日、松平隠岐守は翌正月五日に、初め て対面して慰安の辞を与えた。もっとも隠岐守だけは実際病気だったのであるが:…・。  料理は、松平、毛利両家とも細川家を標準としたものらしく、初から二汁五菜だった が、水野家だけは最初一汁四菜で、後にこれも、一汁五菜に改めた。ただし水野家にして も他の二家にしても、義士に対して冷淡だったのではない、身を捨てて亡君の仇を報じ た忠魂義胆には感激し、武士の亀鑑として心私かに敬意は表しているのであるが、兎も 角天下の大法を犯した罪人として預けられたのだからと、幕府に遠慮して、義士との対 面もすぐには決行せなんだのである。しかるに細川家は、大藩の威力と越中守の識見を 以て堂々と優遇し、ついには他の三家をしてこれに倣わしむるに至った。 七五 堀内伝右衛門の篤実  細川家では、大石以下御預りの十七士の|接待役《せつたいマく》を、家臣の堀内伝右衛門外四人に命じ て、二人ずつ交代に昼夜詰めさせていた。堀内の役柄は|御使番《おつかいぱん》で、知行は二百五十石、 年は五十八歳で、人物は忠誠篤実、藩内に於ても屈指の武士であった。  この堀内、義士らの一挙に深く感激、越中守の意をも体して一同の慰安に全力を尽し ているが、気に食わないのは家老、三宅藤兵衛の形式的官僚主義である。三宅は関係の 役人一同に対して、「預人に向っては、今度の一件に関する話を一切しない事、もし先 方から話しかけられても、ただ返答だけしてこちらから問いかけなければ、話も自然に 止むだろう。その心得で勤めるように」と申渡した。うっかり同情して、幕府を誹るよ うな意味に解釈されては大変だ、という考えからである。こういう小胆な形式主義者は、 いつの時代にも多い。  そこで堀内は、|御小姓頭《おこしようがしら》の平野九郎右衛門、御留守居(役名)の堀内平八、両人の 人物を見込んで相談した。 「家老はああ言われるけれども、この古今にたぐい稀な忠義の武士達を預りながら、今 度の一件を当人の口から何も聴かずに終られること、いかにも惜しいと思う。貴殿ら御 両人だけでもお聴きになっておいてはいかがでござる。御賛成ならば、適当の機会を拙 者お知らせいたそう」 「いかにも、拙者自身のためにも、若い者共のためにも、聴いて置きたいと存ずる。し かるべき機会をお作り下されい」 「承知仕った」というようなわけで、伝右衛門は、昼間は人の立居が多いので避け、夜 食(夜八、九時頃軽い食事が出る)も済んだ頃、九郎右衛門と平八にそッと知らせた。 両人早速やって来たので、吉田忠左衛門と原惣右衛門を片隅へ呼んで、今度の一件を大 体語ってもらった。  こんな風に、心ある人にはなるべく聴かせるように努めた位だから、自分が熱心に聴 いたことはいケまでもない。そして彼は、聴いたままを、極めて忠実に、極めて克明に、 一々帳面に書き留めた。今日『堀内伝右衛門覚書』または『堀内覚書』として、義士史 料の随一になっているのがそれであるρこの覚書五巻が現存せるために、今日、大石や 吉田、原、その他細川家御預けの十七士の人物性行を、どれ位明確に知る事ができるか しれない。  松平家に於ても、|歩行目付《かちめつけ》の波賀清太夫という傑出した人物が、大石主税以下十人の 話を書き留め、隠岐守に|上《たてまつ》った。その『波賀朝栄聞書』も、『堀内覚書』と共に重要た 義士史料であるが、堀内の方はとくに精細を極めている。  なお堀内は、義士達のために内々で伝言を取次ぎ、切腹前二、三日からは書信の取次 もした。自分で遠方まで義士の親類を訪問して.その様子を双方へ伝えた彼は、これを 以て大石らに対する武士としての義務だと信じ.またこの史上にも稀な忠臣に永く自分 の子孫をあやからせるためには、なるべく委しく彼らの言動を書き留めておく事だと思 って、|誠心《まごころ》こめて、真に一生懸命に書いたのである。  しかし、一件の話を聴くことは、家老から止められているし、とくに書信を取次ぐに 至っては、幕府の禁を破るもので、もし発覚すれば責任が越中守に及ぶかも知れない。 それで彼は、万一発覚した場合累が君家に及ばないよう、また義士らもお答めを受けな いようにと、すべて自分一人の責任であることを、血涙の文字で綴った一書をいつでも 懐中し、いざという場合それを差出して割腹する覚悟であったことを、覚書の巻末に書 いている。  彼はまた、十七人が切腹申渡された際、一人一人の遺言伝達を引受けると同時に、そ の遺髪を乞い受けて、後日それを熊本の菩提寺たる肥後国山鹿郡杉村(今は鹿本郡八幡 村字杉)の日輪寺に埋葬し、墓石を建てて、その後生を弔うた。  なおまた彼は、正徳五年二月大石らの十三回忌に、泉岳寺内の墓域、.大石主税の碑の 側に一碑を建て、表面には熊本の藩儒熊谷直平(竹堂または|藍田《らんでん》と号す)撰の碑銘を録 し、裏面には、   こゝろざし石にた、へん|武士《もののふ》の名こそくちせね苔の下まで  旦夕 と自詠の一首を刻している。|旦夕《たんせき》というのは彼の別号である。かれ堀内伝右衛門のごと きは、実に四十七人に譲らざる義士というべきである。 七六 細川家御預け十七士の生活 『堀内伝右衛門覚書』の説明をしたから、ここに同書によって、細川家御預け中の十七 士の生活を、若干紹介する。  大石の述懐  大石ある時堀内に対して、当家の優遇と堀内の深い志を謝した後、つくづく述懐した。 「今度の一挙に加わった者共が、殆んど小禄の者ばかりなのはなんともお恥しい次第で、 最初は相当大身の者も加わりい申したが、皆変心いたしたのでござる。先ず奥野|将監《しようげん》 と申す者、千石を頂戴して|番頭《ばんがしら》を勤め、拙者と連名で|上《かみ》への書付を差上げた事もあり、 御老中方にも名を御存じの者。また佐々小左衛門と申す者は、二百石遣し|城代《じようだい》申付け て、|郡代《ぐんだい》の吉田忠左衛門よりは高い身分の者。そのほか|足軽頭《あしがるがしら》の進藤源四郎、同小山 源五右衛門、同河村伝兵衛たど、ここにいる原惣右衛門よりは上座、その中には拙者親 類の者もござって、全く面目次第もござらぬ」  富森の合葬希望  |富森《とみのもり》助右衛門がある時堀内に、二つお頼みかござる」とてシ、・・ジ、・・言った。「余の 儀でもござらぬが、拙者共今度の仕儀に付、打自になるものと最初から覚悟いたし、せ めてその刑場だけでも良い場所であるようにと願いおり申したところ、|各方《おのおのがた》の話で、 意外に世間から同情をいただいている事を伺い、それならあるいは、光栄ある切腹など に仰付けられるかも知れないなどと、欲が出て参りました。そうすると今度は、なるべ くならばこの有難い御屋敷で切腹させていただきたいなアなどとまた欲が出て参り申し た。万一かような望みが叶いましたならば、十七人みな宗旨もちがいますので、あるい は寺の坊主や親類の者共が、死骸引取を願出るかも知れませぬが、どうかそれは御取上 げなく、是非是非泉岳寺の然るべき空地に、十七人を一つの穴に埋葬していただきたく 存ずる。これは一同の願いでござるから、宜しく御尽力願いたい」  吉田の特別希望  吉田忠左衛門が言った。「富森からお願い申した十七人同穴の件、快く御引受下され 御尽力たまわる趣、誠に恭く存ずる。それに関連して、拙老には今一つお願いがござる。 妙な事を申すようでござるが、拙者は金子少々所持いたし、捨てもならぬのでそのまま に致している次第。この金を以て白い布をお求め下され、二重の大風呂敷を作って、四 方につがりを付けさせ、死骸の見えざるようくくり寄せて運ぶように、御取計いねがい たい。御覧の通り拙者老体で大柄ゆえ人一倍見苦しかろうと存ずる。何卒御同情下され い」  原の大野罵倒  堀内が|富森《とみのもり》と話しているところへ、原惣右衛門が顔を出して「何か面白い話でもご ざるか」というと、富森は「堀内殿、原氏が赤穂で大野九郎兵衛を逐出した時の話をお 聴きなされ、それは愉快でござったぞ」との事なので、堀内「それは是非是非伺いた い」と所望すると、原「富森氏はよけいな事を申される」と笑ってばかりいる。それを 堀内が強いて語らせる。「それは赤穂の城中会議の時でござる。大石、大野両人の意見 がどうしても一致いたさぬので、拙者大野の前に進み出で、この席にいる者残らず大石 殿の御意見に賛成でござる、それに同意をなさらぬ貴殿がこの席に御留りになるのは無 用と存ずる、サア御立ちめされと、迫って追立てた次第、あの時もし素直に立たなけれ ば、拙者大野を打果していたに相違なく、万一4、んな事をしていようものなら、今度の 一同の志も空しくなっていた事と、その後思い出してはぞっと致すことでござる」とい うと、富森側から「あの時の原氏の権幕は、なかなか今のお話のような生やさしいもの ではござらなんだ」と笑った。  可憐の礒貝  堀部弥兵衛老人が堀内に語った。「礒貝十郎左衛門に親切にしておやり下さること、 拙者とくに有難い。と申すのは、ここにいる者いずれも二代三代の重恩に与っている者 ばかりで、拙者などは三代前に浪人から呼出され、段々御取立に預った者。御覧の通り の老齢ゆえ、志ばかりは人並でござるが一向働きはならず、裏門の番をしてい申した。 若い人達は随分よく働かれましたわい。その若い人達の中でも不欄なのは礒貝(二十四 歳)で、十四歳の時拙老口添で|児小姓《こごしよう》に召出さ力てから、僅に十年の御恩に過ぎ申さぬ。 それに二代三代の|相恩老《そうおんしや》同様今度の一列に加わり、あの朝本望を遂げて泉岳寺へ引揚げ る途中、金杉橋から|将監橋《しようげんぱし》にかかった際、近くに礒貝の母がいるはずなので、立寄っ て暇乞をしてくるようにと、大石殿初めいずれも勧め申したが、どういう理由かとうと う立寄りませなんだ。一同の手前を遠慮したものと思われますが、ふびんがいっそう加 わりますわい」と語った。堀内伝右衛門感服して、早速次の間に入って礒貝に「堀部老 人から承り申したが、さてさて感心なる御事でござる」とほめると、礒貝きまり悪そう に、「それは堀部のおじいさんが|晶屓目《ひいきめ》にお話下さったのでしょう。私は幼少の時から 特別殿様の御寵愛に与り、江戸の住居も身分以上に広くいただき、年とった母も|緩《ゆつ》くり とくらさせて戴いたので、その重い御恩は古い方々に決して譲りませぬ。引揚のさい、 母に会ってくるようにと、大石殿外皆様お勧め下されたれど、第一装束があまりに人目 に立ち、また母は今兄の処にいますが、兄は|小身《しようしん》とは申せ他の主君に仕えております ので、御屋敷へ対しても失礼と存じ、なおまたたとい僅かの時間でも、列を離れている 間にどんな異変が起らないとも限らぬと思い、立寄らずにしまいましたが、今となって は惜しい事をしたと後悔いたされます」と笑った。堀内はこの項の終りに「誠に十郎左 衛門は別して感じ入りたる事多く候事」と附記している。そして後にその母と兄を訪問 して、双方を慰めてやった。  近松の僕甚三郎  ある時近松勘六が堀内に「|僕《しもべ》の甚三郎と申す男の事を思い出すとふびんでなりま《ちちち》|せ ぬ」というので、その理由を尋ねると、近松は委しく語った。「甚三郎の親は近江の田 舎で庄屋を致している。今度召連れて当地へ参ったが、いよいよ一挙の日も近づいたの で、それとなく暇をやって国元へ帰らせようと致したところが、様子で察したと見えて なかなか承知致さず、無理に立たせようとすれば腹をも切りかねないので、そのままに して討入の夜も共に召連れ、吉良の門外に留らせました。さて本望を遂げて一同屋敷か ら出ると、咽喉がお乾きでしょうと申して、蜜柑や餅を挟や懐から出して皆に食べさせ、 我事のように成功を歓び申した。拙者共が仙石様御邸から当家へ送られまする際など、 多分あと先になって、辻番あたりにうろうろ致していた事と察せられ、ふびんでなり申 さぬ」堀内深く感じて、その後近松の弟に当る|谷中《やなか》長福寺の文良という僧を訪問して、 甚三郎の様子をきくと、一挙後十日ばかり滞在していたが、国へ帰ったという話だった ので、この事を近松に伝えると、非常に喜んで.いかにも安心した体に見受けられた。  富森母と子を思う  富森助右衛門、堀内に語る。「拙老の衣類の中に、女小袖の白く袖口なども狭いのが ござる。妙な物を持っていると思召すでしょうが、実は老母の着物でござる。討入の日、 今晩遠方へ旅に出るに、殊の外寒いからと申して、母の着衣を借りて下着にいたしたも のでござる」と。堀内聞いて「さてさて感心なる御心がけ、昔から母の衣と書いてほろ と|訓《よ》み申すが、全くその通りでござる」と嘆賞した。その後寒さがだんだん強くなって 来たので、堀内は広い部屋に枕を並べる各士に、銘々枕屏風を立てさせることにした。 その小屏風の一つに、鶴が子に餌を食べさせている絵の描かれたのがあった。富森それ を見て、堀内に語った。「さてさて残念な事でござる。我々はもうとッくに死んでいる べきはずなのに、思いもかけず今まで存命して、この御屏風の絵を見たため、家に残っ ている子供の事を思い出しましたわい」  この富森の子供を、堀内わざわざ訪ねて面会し、様子を報告したので、富森非常に喜 んで感謝した。名は長太郎といい、二歳で、富森と非常によく似ていたとの事。富森も 大石同様、妻とこの幼児とに累の及ばぬよう離縁したものと見えて、|親類書《しんるいがさ》に記載はな い。  堀内はまた別の日に、富森の母と知人の宅で会見した。助右衛門の無事なことを伝え ると、非常にシッカリした婦人で、いろいろ礼を述べた後、「私共のような女でさえ、 |内匠頭様《たくみのかみさま》は切腹、相手の上野介殿はそのままという片手打の御仕置では、納得いたしか ねますもの、男に生れた助右衛門が今度の致し方、もっともの事と存じます。それにし ても段々結構なる御もてなしに与ります由、有難い事でござります」と堂々と挨拶した ので、堀内ひどく感心して「初めての対面、女の口上に、片手打の御仕置など申され候 儀、珍しき女性、さすが助右衛門の|母儀《ぼざ》と感心いたし申候」と附記している。  礼儀正しい大石  初めて細川家へ着いた晩、一同へ小袖二枚ずつ与えられ、歳暮に、また一枚と帯など も賜わったが、その品を持って入った坊主に大石は「この屋敷で太守様の御居間はどち らの方角にあたるかな」と問い、その方に向直って品物を捧げ、鄭重に拝礼した。  寒がリの大石  富森が堀内に「大石殿は非常に寒がりで」と詰したので、羽織か何か出したらと、い ろいろ上役に相談したけれども、大石一人だけちがった取扱いはできないといわーれたの で、それでは|大身《たいしん》の方々が、自分自分の心付のようにして、老人の方々へ|頭巾《ずさん》でも贈ら れてはどうかと進言したが、これも物にならたんだ。大石は夜ふせる時、茶縮緬のくく り頭巾をスッポリ被り、時には|炬燵《こたつ》ぶとんを引っかついでもいた。  堀部の矢声  堀内が寝ずの番に当っていた夜のこと、丑の刻(午前二時頃)にええッと|矢声《やごえ》をかけ たものがあるので、眠っていた人も目をさまし、起きていた者は、胆をつぶした。堀内 は、「今のは多分堀部老人だろう、見て参れ」と坊主をやったところが、やがて立返っ て、そうだった事を報告した。義士の事といえば、なんでも感心する堀内、「弥兵衛老 人は若い衆に負けないようにと、絶えず心がけていられる故、寝言にまで勇ましい矢声 をかけられる」と評した。弥兵衛は食後にいつでも、「御免下され、老人は足がすくん でなり申さぬ」といって、縁側をあちらこちらと、歩き廻るのが常だった。  馳走攻に閉口  三度三度、イヤその外にお八つと夜食がある。二汁五菜の料理も一品毎に材料を吟味 し、手のかかった御馳走である。十七士いずれも閉口して、大石その他から食膳毎に申 し出た。「御存じのごとく我々は久しく浪人して、軽い物ばかり食べており申したに、 当家へ参ってからは毎日毎食結構な御料理ゆえ、残念ながら腹にもたれて、唯今は麦飯 に塩鯉がこいしくなり申した。何卒御料理を簡単に、思い切って軽いものにお願い申し たい」堀内承知して「なるほど左様でござろう。拙者も当番の日は|御相伴《おしようばん》いたして、 少々つかえ気味でござる。よく料理場へ申付けましょうが、ただ二汁五菜の品数は、主 人からの命令ゆえ、減らすわけに参り申さぬ。その点は御諒承を」「ではなるべく、唯 今ここに附いているちさ汁、なまこ|鰭《なます》、|糠味噌漬《ぬかみそづけ》、こういう種類の物ばかりをどうぞ」 それで堀内はいろいろと料理人へ注意したが、「それじゃ手前共に用は無いと仰しゃる のですか」と、ついに一同の希望は実現されなんだらしい。  大石髪を結わす  大石は細川家に来た翌朝から髪を結わせた。他の者は前夜の髪のままで二、三日いた ので、堀内が「慣れない者に結わせるのは心持のわるいものではござるが、そのままで いられるよりはましでござろう。下手でもお結わせなされい」と勧めたところが、追々 結わせるようになって来た。  万事遠慮  入浴は据風呂で、一人毎に湯を取かえさせていたが、富森から「御厚遇は有難く存ず るが、かえって迷惑仕ることでござる。|浴湯《よくとう》のごときも、多人数入りたる後の方が肌に 柔かく感ずるものでござれば、一人一人の新湯は御|廃《や》めに願いたい」と申出たので、あ まり窮屈がらせても、よくないと、後には二、三人毎に取替えさせる事にした。下帯な ども垢じみぬようにと頻繁に出したが、遠慮がちでなかなかかえなんだ。  火災の心配  義士らは非常に火災を恐れ、風でも吹く夜は、どうか近所に火事が無ければよいがと よく言い合った。それは番人や接伴人などに、この上苦労をかけては気の毒だという意 味からである。堀内伝右衛門、ある時それを聞いて、「そう御心配には及び申さぬ。こ こは屋敷も広くござる故、万一火事の起った際は、泉水の流れもあり、芝原の広々とし た庭の方へ御案内申す事に、予定されており杢すから」と言った。すると誰だったか、 「それなら一度火事にあいたいものでござるな7一といったので、一同大笑いした。  堀部の飲酒観  堀部弥兵衛が堀内に、「肥後の高田といえば、有名な刀鍛冶の本場でござるが、熊本 から|道程《みちのり》何程離れおり申すか」と尋ねるので「三十二、三里ござる」と答えると、「左 様でござるか、拙者も高田の行長、重行の|作《さく》を所持致しておる。なお同地に拙者と同姓 の|甚之允《じんのじよう》と申す|酒好《さけずき》の男がござるが、御下国の際御会いになる機会でもござったら御伝 言願いたい、拙者は兄弟九人あり、その内酒好の二人は幸運でござるが、拙者を初め酒 を飲まぬ者は不運でござる。甚之允に大に飲めとお伝え下され」と大笑した。  少年の涙  十七士中酒の好きな者が多いので、夜まで|薬酒《くすりざけ》という名儀で出される。その薬酒の お酌をしていた十五歳の少年(坊主と呼ぶ)に大石が「長い間お前達にも厄介をかけて いるが、もう近いうちに片付くのだからナ、その時はお念仏を頼むよ」と言って笑うと、 少年は顔を伏せて涙を落したので、傍にいた富森がその純情に感じてまた落涙した。 『堀内覚書』には、右のような十七士の言行がなお数々記されている。 七七 「不届者」の寺坂 附 徳富蘇峰翁の寺坂逃亡説  細川家御預け十七士中、堀内伝右衛門と最もよく語り合ったのは吉田忠左衛門である。 これは吉田が話上手だったのと、その練達から、堀内が赤心を人の腹中に置く|底《てい》の意気 を看取して、こちらも同様に赤心を披渥したためであろう。  その吉田忠左衛門が、ある時堀内の側近く寄りて「拙者の女婿伊藤十郎太夫と申す老、 本多|中務《なかつかさ》様(姫路城主)の御家中にあり、昨今ちょうど江戸に詰めておりまする。本 多家譜代の家柄で、父八郎左衛門は相当の武功もあったのでござるが、|片口《かたくち》もので自分 の申したい事ばかり申す故、いつまでも|小身《しようしん》ξ、二百五十石いただいているに過ぎま せぬ」とて、その八郎左衛門の逸事などを語った。堀内それに答えて、「左様の例は、 随分多い事で、心のままに言いたい事をいうような人物は、古今、大抵小身と決ってい るようでござる。しかしそういう人物はまた、そんな事を苦にはせず、何か一つの楽み に心を傾けるものでござる」と挨拶した。  つづいて吉田が、「唯今申した伊藤十郎太夫に、折もあらば御交際下さると、いろい ろお話申すことでござろう」と言った。禁を破って自分の近状を伝えてくれとはいわぬ。 婿や孫達の様子を聴いてくれとは頼まぬ。しかし堀内が、自分の生命を犠牲にして、そ れらの用を足してやろうとしてくれる義心と李誠とに、全然応えないのも、あまりに、 人情味のない仕方なので、こちらから頼むのではないが、という意味で前記の通り女婿 の居所を告げたものと考えられる。こうしておけば堀内は頼まれて預人の使いをした事 にならず、形式的には自分の都合で伊藤十郎太夫に交際を求めた事になるからであろう。 吉田の老練さは万事この通りである。  堀内も直ちにその意を諒した。「承知仕った。是非|御愛婿《ごあいせい》に御近しく願いたく存ずる」 と答え、早速|御成橋内《おなりぱしうち》の本多家屋敷へ伊藤を訪問した。  十郎太夫は多分、吉田の婿という|廉《かど》で遠慮しているのだろう、少々|所労《しよろう》と申立てて引 籠り、|月代《さかやき》も剃らずにいたが、直ちに面会した。堀内、自分の身分や役目を説明した後 「忠左衛門殿御無事で御座るから、御安心あるよう」と近状を委しく話すと、十郎太夫 深く感謝して、 「なんとも有難い仕合せ、それをまたわざわざ御知らせ下さった御厚志御礼の言葉もご ざらぬ。ちょうど昨日国元からたよりがござって、|俸《 ちさ》両人(忠左衛門には孫)|庖瘡《ほうそう》も軽 くしまい、もう入浴も致させた趣、また忠左衛門の家族共も無事におり、寺坂吉右衛門 も無事に下って、拙者の留守宅にも参った由申越しました。これらの事、何卒忠左衛門 にお伝え下さるよう願いまする」 と何もかも打明けて話した。堀内わざわざ訪ねて来たかいがあったと喜んで、立ち帰っ て、委細吉田に語り伝えた。  江戸にいる婿の近況を知った上、国元の家族や孫達の様子までも聞くことをえた吉田 の喜びはいうまでもない。繰返し繰返し堀内の厚意を感謝した。  しかし、その喜びと同時に吉田を驚かせたのは、寺坂吉右衛門の消息であった。彼は 回向院に引揚の直後、広島の浅野大学(内匠頭の弟)の許へ報告の密使に立たせ、幹部 一同協議して公儀に対しては「逃亡」の取扱いにしてしまったのである。だから、彼が 広島へ行く途中、姫路で伊藤の留守宅、亀山で吉田の妻子などを訪ねたとの噂がもし弘 まろうものなら、逃亡でない事実がばれて、大石ら幹部は、公儀を欺いた罪を重ねなけ ればならなくなる。これは大変な事になって来たと、さすがに老巧の吉田も狼狽せんば かりに驚いたに相違ない。  そして、誰よりも先ず、この話を聞いて来た堀内伝右衛門をして、寺坂をその実逃亡 と信ぜしめなければならぬと考え、厳然として「吉右衛門は不届者でござるによりて、 以後再び彼の名を仰せられぬように願いたい」と、半ば命令的に言い放った。その語調 があまりにはげしかったので、堀内もあッけにとられたらしい。それで彼も半信半疑、 『堀内覚書』に次の通り書いている。   (上略)帰り候て忠左衛門に段々咄し候へば、さてく浅からざる御志、とかく申   尽し難しとて歓び申され候。吉右衛門の事申出で候へば、此者不届ものにて候。重   ねては名をも仰せ下されまじくと申され候。吉右衛門事も其夜一列一同に参り候て、   |欠落《かけおち》(逃亡のこと)いたし候由兼て何れも申され候。然れども|志《つつが》なく仇を打ち申さ   れたる儀、しらせの使など申付られ候など色々申候へども、右の通り申され候事、   不審に存候。まことの欠落かとも存じ候事。  吉田は、堀内をして疑いを挿ましめぬように.と、厳然と明白に、寺坂の逃亡を断言し たのであったが、堀内はそれでもなお全く疑いを解かず、「|不審《りり》に存候。まことの|欠落《かけおち》 かとも存じ候事」と書いている。  しかるに、この『堀内覚書』の一節と、大石、原、小野寺三人の連名で寺井玄渓へ贈 った書状の追書の中に「将又寺坂吉右衛門儀、十四日晩まで有之候処、彼屋敷へは見来 らず候。軽き者の儀是非に及ばず候。以上」とある二つを証拠として、大蔵謙斎(妙海 尼のバヶの皮を剥いだ人物)が寺坂逃亡説を主張し、それ以来、寺坂は本当に討入に参 加したのかどうかが問題となっていたが、明治年間に重野安繹博士が『赤穂義士実話』 で、寺坂が確かに討入に加わったに相違ない事を、証拠をあげて論断され、これによっ て寺坂は、立派に義士の仲間入りができるようになった。ところが、大正に入ってから 徳富蘇峰翁が、どうした軽率からか、その著『近世日本国民史』中の『義士篇』に於て、 すでに明治年間に重野博士が論破し尽している大蔵謙斎の寺坂逃亡説をそのまま論拠と して、新たに寺坂筆訣の一論文を草し、『義士篇』の巻頭に掲載された。そして多くの 人々の忠告や駁論に対しては、沈黙して一言も答えず、しかも書籍はそのまま発売させ ていられる。  しかるに数年前、前記伊藤十郎太夫(吉田忠左衛門女婿)の末喬の家から、多数の新 史料(全部赤穂花岳寺に寄贈されている)が発見され、寺坂の討入参加は、いよいよ動 かすことができなくなった。その新史料によって、赤穂町の伊藤武雄氏が『寺坂雪冤 録』を著されたが、それら新史料中最も有力なのは、吉田忠左衛門が自殺の前日、すな わち元禄十六年二月三日付で、伊藤十郎太夫へ贈った暇乞状の中の一節である。すなわ ち次の通り。    吉右衛門事、先日伝右衛門殿口上にて承り申候。此段を唯今は是非申し難く候。   一旦公儀へ指し遣し候書付有之候に付、仲間にて是非申されず候。御供にて近日御   のぽり候以来を|御了簡《ごりようけん》にて、如何様とも然るべき様頼み申候。上より少しも御障り   は此者猶更これ無き儀に候。伯者守様にて|旧臆《きゆうろう》十五日に右書き付け候内、私組の   者一人|欠落《かけおち》いたし申候と申上候。其通りと御挨拶に候。とかく御のぽり以来御了簡   これあり、宜しく頼み存じ候。其内も御了簡にて、うかつ事は申さず候様に成され   下さるべく候。  これを今日の言葉に訳すると次の通りになる。   吉右衛門の事は、先日堀内伝右衛門殿への御伝言で承知した。この一件は今日善   悪を申されない。いったん公儀へ対して差出した書付がある以上、我々の仲間で批   評はできない。そこ許も殿様の御供で遠からず姫路へのぼられるだろうが、その後   はとくに慎重に考えて、吉右衛門の今後〃然るべきよう頼む。もはやお|上《かみ》よりは、   この者少しも障りのないはずである。仙石伯者守様に書付を差出した際、私組の者   一人逃亡しましたと申上げ、その通りだと御挨拶があった。とにかく姫路へおのぼ   り以後は、とくに御考慮の上彼の身上を宜しく頼む。それまでにても、うっかりし   た事は口外せぬようになされ。  これによって、吉田が堀内に対して寺坂を不届者と罵ったのは真意でなかった事を証 しうる。このほかにもなお数々の証拠史料があるので、今日に於ては徳富蘇峰翁も、 『義士篇』巻頭の寺坂筆訣の一文を後悔していられるだろう。筆者は伊藤氏が『寺坂雪 冤録』を出版せらるる際、多少関係したので、同書の序文を蘇峰翁に乞い、その序文中 に於て、翁があの一文を取消さるるように取計らい、以て翁に罪滅ぼしをおさせ申した いと思って、その旨申入れたのであったが、翁は何か誤解されたらしく、「自説を変更 する要を認めず」として応ぜられなんだ。爾来著者は、翁が実際そう信じていられるの かと思って、幾度か駁論を公けにしたが、翁は一度も駁論に答えられない。その後中央 義士会で講演せられたから、その時こそ何か寺坂に言及されるだろうと期待していたと ころ、これまた一言もお触れにならない。蘇峰翁は、現になお発売中の『近世日本国民 史』中の元禄時代『義士篇』巻頭の寺坂筆謙の一文を、今も訂正する必要なしと信じて いられるのか、それとも今更取消すのは体面にかかわるとでも思っていられるのか、前 者ならばその史眼どころか、常識をさえ疑わざるを得ず、後者ならばその人格のために 惜まれる。 七八 輿論の同情 附 室鳩巣の『義人録』 大石以下が細川家ほか三家にお預けとなるや、江戸八百八町のみか、天下到るところ この噂で持ち切った。いうまでもなく一党への讃嘆と同情とである。そしてこの忠義の 人達が、いかなる処分を受けるだろうかということが、天下の政道と個人に対する同情 の上から、興味百パーセントの問題となった。 「いくら亡君へ忠義のためとはいえ、|御法度《ごはつと》の徒党を組み、陪臣の身で|高家《こうけ》歴々の邸へ 夜討を仕かけ、首を取って行った大胆な|所行《しよハさよう》を、罰しないというわけには行くまい」 という者があると、「家を忘れ妻子を捨て、自分の生命さえ投げ出して忠義を尽した武 士を、罰するという法があるか。それでは以後忠義を廃めよという事になろう」と周囲 から反駁する。「近々二、三名ずつ諸大名に分けて、お預け替えになるという噂じゃ」 という者があると、「そうして永預けということで、一生涯そのまま差置かれるのだろ う」と推測する者もあり、「イヤ現在お預けの四家から、助命の嘆願書が出ているそう で、幸いに聞届けられたら、四家がそのまま四十余人を召抱えることになるはずじゃ」 と、知った顔に説く者もある。「イヤ、いったんは|流罪《るざい》にして、数年の内に特赦せられ る事になるだろう」と、いかにも消息通らしくいうものもあった。  そして、二人よれば必ずこの噂が持ちあがるという状態になったので、江戸町奉行か ら「以後赤穂浪人の事に付噂話一切成らぬ」と厳達したが、「せけば溢るる谷川の水」 で、反擾的に実際の噂はかえって高まる位であった。   流すなよ沖(隠岐守)にかひ(毛利甲斐守〕ある大石を細川水の(水野)せきとめよ   かし という|落首《らくしゆ》ができたのもこの時分のことである。  吉良邸の塀には、   斬ら(吉良)れての後の心に比ぶれば昔の疵は痛まざりけり  その他いろいろの皮肉をならべた落首が、毎日諸方に貼出された。要するに、大石ら 四十余人に対する讃美の声と、吉良、上杉に対する嘲笑悪罵で、当時の天下は満ちてい たといってもよい。  これらは庶民階級の事であるが、武士階級、とくに忠孝の精神を作興することを任務 としている儒者仲間では、自分らが平素説いているところの君臣の義を、生命に代えて 実行してぐれたという点で、讃美嘆賞の念もいっそう強く、当代の鴻儒|室鳩巣《むろきゆうそう》のごと きは、この人と事件とを後世に伝えるのは我々の責任だとして、早速『赤穂義人録』の 著述に着手した。 -『赤穂義人録』は上下二巻に分ち、上巻には事件の経過、下巻には四十七人銘々の伝記 を、赤誠のこもった名文(漢文)にて綴り、この種の著書としてはもっとも早くかつ最 も広く流布されたものである。lI-出版はやや後れているがー赤穂義士の称は、この 鳩巣の名著『赤穂|義人《りり》録』から出たもので、幕府が天下の大法を破った|廉《かど》を以て切腹申 付けたものに、堂々「義人」の美称を冠したのは、鳩巣の大見識として今日まで敬服せ られているところである。  なお鳩巣の『義人録』は、表面逃亡者として不問に附せられている寺坂吉右衛門を、 討入に参加したものと断定して四十七人の中に数え、その証拠を数点あげているところ にも、見識のほどが窺われる。その証拠の一つに、御預けの人数割当の項がある。すな わち、討入人数が四十七人であったから、細川家十七人、松平、毛利、水野各十人と予 定せられていたに、水野家に預けられるはずの寺坂が、いつの間にか姿を消していたの で、同家だけが九人という端数にたったのであろ)。もし寺坂が実際吉良の門に入らずに 逃亡したのであったら、かかる手違いの生ずるはずなく、お預け人数は細川家十六人、 他の三家十人ずつになっていたに相違ないというのである。幕府が大石ら幹部の苦衷を 汲んで、寺坂を逃亡者として片付けてしまってから僅に一年の後(元禄十六年)に公刊 した『義人録』の中へ、唯一人生存している寺坂を義人として加えた鳩巣は、よほどの 確信を有っていたに相違ない。 七九 官吏代表老の意見  大石以下四十七士に対する世間の讃美と同情は熱狂的である。お預けの四家からは助 命の嘆願書が出ている。細川越中守のごときは、一方当局者に内々の助命運動をなし、 他方精進潔斎して神仏に祈願する熱心ぶりである。独善果断を以て知られている将軍綱 吉も、この事件ばかりは裁断が下されない。そこで|高格《こうかく》の諸侯、儒官、官吏などの意見 を参考のために徴した。  この諮問に対して、評定所詰の高官、寺社奉行の永井伊賀守、阿部飛騨守、本多|弾 正少弼《だんじようのしようひつ》。大目付の仙石伯書守、安藤筑後守、折井淡路守。町奉行の松前伊豆守、保 田越前守、丹羽遠江守。勘定奉行の萩原近江守、|久貝《くがい》因幡守、戸川備前守、中山出雲守 の十三人が、連名で差出した意見書がある。これは、時の官吏全体の意見を代表したも のと認むべきであるから、とこにその要旨を略述する。  題目に「御尋に付|存寄《ぞんじより》申上候覚」とあるから、現代語に訳すると、「御下問に対する 意見書」である。意見書は、初めに吉良、上杉両家に対する処分法を述べ、後に大石以 下の事を書いているが、|吉良左兵衛《きらさひようえ》に対しては、当主でありながら隠居を討たれて首を 持って行かれるなど、全く面目の立たない仕儀であるから、せめてその場で自刃すべき であるに、それもなし得なんだ。この卑怯の振舞いはそのまに差置かれるべきでないか ら、切腹申付られるべきであろうと、随分思い切った峻厳さである。  上野介の家来共で、敵に手合いもせず、生命を助かっているような輩は、士分の者な ら斬罪に処せらるべきであろう、とこれも手厳しい。  上杉|弾正大弼《だんじようのたいひつ》は、実父上野介を討たれ、実子左兵衛を傷つけられ、相手が泉岳寺へ 引揚げている事分明しているに、そのまま手を撲いて傍観していたのは、武門の面目を 弁えざる仕方であるから、領地没収せらるべきであろうと。しかし上杉家が手を出さな んだのは、既述の通り実際は老中が極力制止したためなのであるから、この一項の意見 上杉家には少々気の毒である。  内匠頭家来共は、亡主君の志を継ぎ、一命を捨てて上野介宅へ押込みこれを討った段、 真実の忠義と申すべきである。|御条巨《ごじようもく》に「文武忠孝を励み礼儀を正すべし」とある御趣 旨によく適っていると考えられる。多人数申合せ武装して討入った点「徒党を結びて誓 約をなすべからず」という御禁止を破ったように思われるけれども、あれだけの準備を しなければ目的を遂げることができなんだのであるから、これを御禁止の徒党と見なす のはいかがであろうか。もし彼らに徒党の志があったなら、前年赤穂城召上の際、|素直《すなお》 に明渡しはせなんだはずである。  今後このような事件がふたたび起ろうとも、それはその人々の精神次第であるから、 それに応じていかようにも処置しえられよう。ついては今回の彼らは、このさい|断罪《だんざい》な く、先ず御預けのまま差置かれ、若干年月の後、御宥免になるのが至当ではないかと存 ずる。  これが高官十三人連名の意見書の大要である。これは「元禄十五年壬午十二月廿三日、 御老中御列坐にて御請取なされ候」と附記されているから、お預けになってから九日目 に、公式に手交されたに相違ない。それにしても、随分思い切った義士への同情である が、すでに民間に於ける同情が熱狂的なので、それに逆行するような裁断は行政上面白 くないと考え、こういう民意代言といってもよい意見を差出したのであろう。 八○ 林大学頭と荻生祖棟の対立意見  既記の通り、民間に於ては大石ら四十七士に対する同情と讃嘆が白熱的であり、官吏 代表者の意見もまた同様である。諸大名間に於ても吉良、上杉に直接関係のあるもの、 及び吉良贔屓の松平美濃守(柳沢吉保)の威勢に恐れて阿誤するものでない限り、大部 分は大石らの同情者である。それはそのはず、どの大名でも皆自分の家臣が大石らに見 習わんことを希望しているのだから。  ところで、ここに学者間に、二つの意見が生じた。一つは林|大学頭信篤《だいがくのかみのぶあつ》(|鳳岡《ほうこう》と号 す)の同情宥免論、一つは|荻生祖棟《おぎゆうそらい》(字は|茂卿《もきよう》)の有罪厳罰論である。  林|鳳岡《ほうこう》は林羅山の孫で、祖父以来儒官の筆頭たり、将軍綱吉の信任厚く、自邸内に建 てていた孔子の廟には、綱吉自ら拝礼に出かけたことがあり、後にはそれが湯島に移さ れて、所謂湯島聖堂になったのである。それ程の間柄であるから、何か重大な問題があ れば、いつでも諮問に応じて意見を呈し、綱吉の政道に|献替《けんたい》しているのである。彼は朱 子学派の泰斗で、学問系統は室鳩巣も同じであるから、行為そのものよりは動機に重き をおき、大石らの復讐に対する見解も、鳩巣と同じである。彼が綱吉将軍の諮問に対し て答えた要旨は次のようなものであった。    天下の政道は忠孝の精神を盛ならしむるを第一とする。国に忠臣あり、家に孝子   あれば、百善それから起って、善政おのずから行われる。大石以下五十人にも近い   多数の忠義者を今日出したのは、名教の盛たる証として、政道上まことに慶すべき   である。忠孝の大精神が一貫している以上、枝葉の点に多少の非難があっても、論   語にもある通り、「大徳|閑《かん》を|瞼《こ》えざれば小徳出入すとも可なり」で、深く答むるに   足らぬ。彼らは幕府に対しては毫末も不満らしい体を示さず、城地召上のさいも素   直に引渡した。彼らはただ、亡君が恨みの一刀を吉良上野介に加えんとして果さな   かったのを、臣子としてそのまま生かして置くに忍びないとし、亡主の志を継いで   襲撃したのである。親のための復讐、君のための復讐は、今日公許されているとこ   ろで、その点なんら各むべきでたいが、多人数が物々しく武装して吉良邸に討入っ   た点、御禁止の徒党を結んだとしてあるいは非難されるかも知れないが、公儀に反   抗せんがために徒党したのでなく、君の仇を復せんがために申合せたのであるから、   外形に拘泥することなくその精神を察しなければならぬ。もしかかる忠義の精神を   一貫して亡主のために尽した士を処罰する時は、忠孝御奨励の御趣旨を滅却するこ   とになり、御政道の根本が覆ってしまう。もし今直ちに無罪を宣告せられることが   差障りを来すという事なら、当分お預けのままとして、後日何かの機会に宥免せら   るべきであろう。  これが林大学頭の意見である。結局の処分法は、前回の高官連の意見と同じであるが、 これは高官連が林の意見に追随したものと見るのが至当であろう。  ところで、この林鳳岡の意見に対して、|荻生但棟《おざゆうそらい》が松平美濃守の手を経て提出した意 見は、堂々たる法理論で、これがついに将軍綱吉を動かすに至ったのである。  祖裸は美濃守に最も信任せられ、また綱吉にも知遇を得ている。その意見を、建白書 と他の文章とによって要約すると次の意味となる。これは将軍を動かしてついに「切腹 申付」を決心せしむるに至ったものであるから、やや詳記する。    大石ら四十余人は、亡君の仇を復したといわれ、一般世間に同情されているよう   であるが、元来、内匠頭が先ず上野介を殺さんとしたのであって、上野介が内匠頭   を殺さんとしたのではない。だから内匠頭の家臣らが上野介を主君の仇と狙ったの   は筋ちがいだ。内匠頭はどんな恨みがあったか知らんが、一朝の怒りに乗じて、祖   先を忘れ、家国を忘れ、上野介を殺さんとして果さなんだのである。心得ちがいと   いわねばならぬ。四十余人の家臣ら、その君の心得ちがいを受け継いで上野介を殺   した、これを忠と呼ぶことができようか。しかし士たる老、生きてその主君を不義  から救うことができなんだから、むしろ死を覚悟して亡君の不義の志を達成せしめ  たのだとすれば、その志や悲しく、情に於ブ、は同情すべきも、天下の大法を犯した 罪は断じて|宥《ゆる》すべきでない。   元来、義は己れを|潔《いさぎよ》くする道で、法は天下の|規矩《きく》である。彼らがその主のために  仇を報じたのは、これ臣たる者の恥を知る所以であるから、己れを潔くする道で、  その事は義ということができる。しかしこれはその仲間だけに限る事であるから、  つまり私的の小義である。天下の大義というべきものでない。   内匠頭は殿中を揮らずして刃傷に及び処刑せられたのであるから、厳格にいえば  内匠頭の仇は幕府である。しかるに彼らけ吉良氏を仇として狸りに騒動を企て、禁  を犯して徒党を組み、武装して飛道具まで使用したる段、公儀を揮らざる不逞の所  為である。当然厳罰に処せらるべきであるが、しかし一途に主君のためと思リて、  私利私栄を忘れて尽したるは、情に於て憐むべきであるから、士の礼を以て切腹申  付けらるるが至当であろう。しからば上杉家の面目も立ち、彼らの忠義をも軽んぜ  ざる道理が明らかになって、最も公論であろう。もし私論を以て公論を害し、情の  ために法を二、三にすれば、天下の大法は権威を失う。法が権威を失えば、民は拠  るところがなくなる。何を以て治安を維持することができよう。 |鳳岡《ほうこう》は忠孝の精神に重きをおき、|祖棟《そらい》は純然たる法理論を真向からふりかざしたので ある。前者は徳治主義の王道政治を理想としているから、彼らが亡主のために身命を捧 げて悔いない態度に満腔の同情を寄せ、後者は法治主義の強権政治を、当時に於ては必 要なる政治方式と考えていたので、冷厳なる検事の論告のごとく、法理の前には何物も 顧みない。  この対立意見は、出発点がちがい、目標とするところがちがうから、妥協点が得られ ない。将軍綱吉はこのどちらかを選ばねばたらぬ。彼は湯島聖堂を起して、自らそこに 経書を講じ、忠孝精神の鼓吹においては人後に落ちない熱心家である。従って内匠頭の 殿中刃傷の際は、老中の諌止にも耳を傾けずして即日切腹を命じたほどの気短でありな がら、今度の事件については裁断に躊躇し、十二月十五日四家へお預けにしてから、新 年を迎え、一月も終るのに、なお決裁を与えなんだ。彼は独善主義の人物ではあるが、 一面理義に明らかで、自分が忠孝主義者であるために、その好むところに偏して、天下 の大法の権威を失墜せしむるような事をしてはならぬと、常に自ら戒めていたようであ る。そして彼は、その衷心に於ては助命してやりたいと希望しながら、法の権威を維持 するのは自分の何よりも大なる責任だと考えて、涙を揮ってついに「切腹申付けよ」と 裁決するに至った。 八一 「親類書」を徴す  いよいよ切腹と決ったのは、元禄十六年一月1十日以後の事である。吉良邸討入の十 二月十四日から約四十日に近い日数を、将軍は裁断に悩み続けたのであった。  刑が決定すれば、罪人から|親類書《しんるいがき》を徴するのが例である。それで正月二十二日、老中 稲葉丹後守は四家の御留守居役を召出し、御預人の親類書を取まとめて差出すよう命令 した。  四家の失望は一通りでなかった。しかし細川家の十七士を初め他の三家の二十九士も、 親類書差出の命令で死期の近い事を知ったけれども、かねて覚悟のこととて、別に驚き もせず、早速執筆した。  親類書には、父母、祖父母、妻子の氏名(女は名を書かぬ)、住所、死亡者は死んだ 年月日を記入し、その他の親類は|忌《いみ》がかりまでの生存老、縁者は婿、舅、小舅までを書 出すのであるが、この親類書があったので、四十余士の正確な戸籍が今日に於てもわか るのである。例えば、子供が何人あったか、何歳と何歳で名は何といったかなどいう事、 小野寺幸右衛門は十内の養子で大高源五の弟だというような、義士相互間の続柄など、 親類書が一番正確に示している。  大石内蔵助が山科に於て妻を離別したことなども、その親類書に妻の名がない事によ って、確実な事実であることが証拠だてられる。原惣右衛門の母が、惣右衛門を励ます ために自殺したという伝説は、かなり真実らしく伝えられ、その遺書というものさえあ るが、惣右衛門自筆の親類書には「母、和田帯刀娘、去年八月病死」とあるので、自殺 でないことが証せられる。なお武林唯七、神崎与五郎、富森助右衛門、|間《はざま》十次郎、杉 野十平次、近松勘六も、母の自殺激励によって一党に加わったもののごとく書いた本も あるが、親類書を見ればいずれもウソだという事がわかる。第一、母や妻の自殺に刺戟 されて、初めて義のために奮起したなどいうのは、義士を侮辱するものというべきであ る。  この外、講談や浪花節または実録と題する書籍に記載されている事で、親類書に対照 すれば、ウソの皮のすぐ剥がれることがいくらもある。親類書は、義士史料中第一に位 する根本史料で、専門研究家の虎の巻である。 八二 公弁法親王の御慈悲  将軍綱吉は、心の奥では大石らを助命してやりたいのであるが、そのために天下の大 法の権威を失わせてはならぬというので、涙を揮って、切腹を命ずることに決心したこ とは、前記の通りである。そして役人はその準備として、先ず四十六人の親類書を徴し、 検使の人選等も取運んでいたが、その間にも、将軍綱吉の胸の奥には、非常手段として 助命の挙に出ずべく、なお、一縷の望を残していたのである。それは、日光の御門主公 弁法親王から、御慈悲のお言葉をいただいて、それを口実に、助けてやろうという秘策 であった。  公弁法親王は後西天皇の皇子で、日光御門主兼輪王寺門跡となられ、世に日光の宮と 称し奉っている。また天台座主でもあらせら君る。聡明の御生れ付で御年はまだ三十五 の御壮齢ながら、御仁徳極めて高く、世に|渇仰《かつご つ》されておわします。宮は毎年、一月の末 か二月の初め頃、年始の御挨拶として御登城になる。この年も、もう近々お見えになる と分っていたので、その時にこそと、綱吉は心待ちにしていた。  ちょっと考えると、裁決権を握っている将軍が、衷心から助けたいと思っているなら、 何も宮様からお言葉をいただく必要もなさそうであるが、そこが責任の地位にいる者の 苦しいところで、将軍としては、たとい親兄弟に関する事であっても、私情を以て天下 の大法を曲げることはできない。しかし、仏門に帰依していられる宮様が、法衣の御袖 の下にかくまってやりたいとの御慈悲から命乞いをして下さるなら、それは法を超越し た阿弥陀様、文武の上に位せらるる宮様の御名に於て許されるから、何人も異議を挿ま ない。そうなれば将軍の大法執行権とは何の|打格《かんかく》もなしに、堂々と生命を助けてやるこ とができるというわけである。  さて二月一日、法親王は御予定通り御登城になった。将軍綱吉は|四方山《よもやま》の話を申上な がら、いつとなしに|話頭《わとう》を目的点へ持って行った。 「お聞及びもあらせられましょうが、|旧臆《きゆうろう》吉良の邸へ討入って、上野介の首を取り、 亡主内匠頭の墓へ手向けた浅野の家来共、その忠義の志は誠に感心の至りで、武士の亀 鑑とも申すべきでござれば、なんとか助命いたしたくは存じまするが、禁令を破って徒 党を致した事にござれば、法を司る者の責任として、正面から宥することは成りがたく、 やむを得ず近々切腹申付くることに運んでおりまする。政務を執り行うものは、折々か ような事に当面いたし、惜しい人間も殺さねばならない事がござって、イヤモゥつらい 事でござりまする」  綱吉は述懐らしく嘆息した。法親王は瞑目あそばされて御言葉がない。  綱吉は更に語をつづけた。 コ人二人なら兎も角、四十六人という多数の忠臣を、心にもなく法に死なせまする事 は、惜しくもあり、不欄でもござれば、なんとか助命の道はないものかと、今になって なお苦慮いたしておりまする」  そこまで申上げても、法親王は依然瞑目あそばされたままお言葉を発せられない。  座が白けて来たので、綱吉は余儀なく話題を転じてしまった。そして御退出の時刻が 追々迫って来た。綱吉は、宮様の御意中を測りかねたが、この機会を逸しては、もう四 十六人の惜しい生命を取り留める道はたいと思うと、堪らない気持になって来た。遠廻 しに謎をかけて解いて戴こうとしたのが誤りだった。今は何もかも打明けて、墨染の御 袖にお縄り申す外ないと決心して、宮様の御前に手をつかえた。 「実は先刻申上げた赤穂の浪人共の事でござりまするが、平素忠孝仁義を口に致します る私、彼らに腹切らせる事は忍びませぬが、大法の手前、このままに宥し遣わすことは 表面上相成りませぬ。ついては法体に渡らせられるあなた様の御言葉をいただき、それ を口実に、生命を助け遣わしたく存じまする。されば、あなた様の御慈悲は四十六人の 上に及び、私は法を曲げたとの誹りを免れる事を得まする。何卒御賢察下されまするよ う」  法親王は先刻来またも御瞑目あそばされていたが、綱吉の言葉が終ると、静に御眼を 開かれた。 「打明けらるるまでもなく、御胸中はすでにお察し申している。しかし仏の慈悲は、目 前の生命を助けるよりもモット大きいものがござるにより、御希望通り彼らの命乞いを 致すのが、真実御仏の思召にかなうかどうか、軽率に判定は致しかねる。承れば、彼ら の中には血気盛のものが多いとか。さすれば、今ここで生命を助けられ、数十年を生き 延びた時、いかなる悪魔が|魅入《みい》って、身を誤るものがないとは申されぬ。もし四十六人 中一人でも、左様な者が生じたら、一揃いの名器がそれだけ欠けて、なんぼう惜しい事 ではないか。古今に類いない忠臣の鑑、武士の華と、今世上にたたえられている彼らの 誉れを、その一生涯ばかりか、未来永劫に保たせてやるのが仏の大慈悲でござる。将軍 が今彼らを殺すのがつらいと仰せられたように、自分は今彼らの命乞いをしてやれない のがいっそうつろうござる」  法親王の慈愛に満ちた御眼の底から、露の光が輝いている。  綱吉は数十日間の迷夢初めて覚めた思いがした。 「|御垂示《ごすいじ》恭く存じまする。このさい彼らに切腹申付ける事が、助命するよりもいっそう 大きな慈悲であることを、綱吉初めて覚りました」  彼の顔は明朗に輝いた。宮はやがて御退出になった。 この一節、古書には、宮が綱吉の謎をとかずにお帰りになり、あとで近侍の者にお話しになっ た事になっているが、それは表面の事で、綱吉は極秘に意中を言上したに相違あるまいと察せ られるから、学者の非難を覚悟して、あえて会話を綴ったのである。 八三 処断一決、切腹申渡 公弁法親王の御言葉を伺って、将軍綱吉はなるほどと感じ入り、 いよいよ四十六人を 切腹させる事に決意して、その準備を運ばせた。 の検使は左の通り。  細川家へ  御目付 松平家へ  御目付 毛利家へ  御目付 水野家へ  御目付 荒木十左衛門 杉田五左衛門 鈴木次郎左衛門 御使番 久 御使番 御使番 期日は二月四日 永 内 記 駒木根長三郎 斎藤治左衛門 久留十左衛門   御使番赤井平右衛門     各|御徒目付《おかちめつけ》数人、|御小人目付《おこぴとめつけ》数人ずつと、 (元禄十六年) 四家へ  右四家への検使には、                 外に使い走りの用と して各数人を差添えられた。  当日午後二時前後に、各検使が四家に着いた。四十六人はそれぞれ拝領の|麻神《あさがみしも》を着 用して、元の身分の順に居並び、謹んで上意を承る。検使の読みあげた宣告文は左の通 り。    浅野内匠頭儀、勅使御馳走の御用仰付け置かれ候処、時節柄殿中をも揮らず不届   の仕方に付御仕置仰付られ、吉良上野介儀御構ひなく差置かれ候処、主人の讐を報   じ候と申立て」、内匠家来四十六人徒党を致し、上野介宅へ押込み、飛道具など持   参、上野介を討ち候始末、公儀を恐れざるの段重々不届に候。之に依て切腹申付る   者也。     未二月四日  四家共上使が右の通り読み上げた。細川家では大石内蔵助が一同を代表して進み出で、 「いかなる御仕置に仰付けらるるやも計り難くと存じおりましたるところ、すべよく切 腹仰付けられました段恭く存じ奉る」 と礼を述べて御請した。吉田忠左衛門も、大石につづいて有難く御請し、外一同も謹ん で拝伏した。切腹は打首とちがって自裁するのであるから、武士の面目として、処刑中 名誉の部類に属するものである。  細川家の上使荒木十左衛門は、一昨年赤穂城明渡しの際にも上使に立ち、大石の嘆願 (主家再興の件)に同情して、江戸に帰ってからも彼是尽力した人物である。従って今 日また上使に立ったのは、定めて感慨深いものがあったであろう。  荒木は大石の切腹御請の言葉を聴いた後、顔色を和らげて言った。 「これは役目以外の事であるが、一同の参考までに申伝えておく。今日吉良左兵衛に対 して、この度の仕方不届に思召され、領地召上げの上諏訪安芸守へ御預けになる旨仰せ 渡されたぞ」  この吉良左兵衛の処分によって、大石らの喧嘩両成敗の主張が貫徹したのであるから、 「一同もさぞ満足であろう」との意を含めて伝えると、大石は|莞爾《かんじ》として鄭重に頭をさ げた。吉田以下互に顔を見合せてほほ笑んだ。  松平家では、上使の宣告に対して、大石|主税《ちから》と堀部安兵衛から「結構なる仰出、私共 侍の本意相達し、上意誠に有難く、本望至極に存じ奉ります」と御請したが、他の二家 でもそれぞれ上席の者が代表して御請した。  当日松平家へは、切腹説と遠島説と二つの情報が入って、どちらが本当なのか判断が つかないため、どちらであってもまごつかないよう両方の準備をしていたことが、|波賀《はが》 清太夫の覚書に書かれている。遺族中の十五歳以上の男子が遠島に処せられたことを思 い合せると、遠島説の情報はこの誤聞だった事が察せられる。なお『波賀聞書』による と、当日流説のために、どれほど迷わされたかが察せられる。検使は「少しも急ぐには 及ばないから、ゆるゆる支度させよ」というので落ちついていた。そこヘ大鷹佐介とい う儒者、当時隠居して平田黄軒といっている者が駆けつけて、今稲葉家の御屋敷で内々 聞込んだ事であるが、いったんは首の座へ直した上、急に上使が立って赦免になるのだ そうなと告げた。そこで、そんな流説を信ずるわけではなくても、少しでも後らせる方 が安全だという考えから、ぐずぐず引きのばしてついに夕方になったものらしい。 八四 切腹前の十七士  細川家では、上使が申渡を終って別室に去ると、同家の|御側用人《おそぱようにん》宮村団之進が入って 来て、越中守の内意を伝えた。「なんとか御赦免になるようにと祈ったかいもなく、残 念至極である。この上は心静に用意されるように」との趣意で、宮村は主君の落胆が並 並でない事を附加えた。  大石は、旧臆来の破格の恩遇を衷心から感謝して、落涙せんばかりの体だった。そし て直ちに一同を側近く集めてお言葉を伝えた。  間もなく酒と|土器《かわらけ》が持ち出されて、最後の別れを汲みあった。堀内伝右衛門その他、 知合になっている連中は、皆近よって盃を所望した。  その際十七士の誰彼が、冗談半分に堀内にいう、 「堀内殿、今日は御世話に与る最終の日でござれば、別して御馳走下さるはずと存じ申 すに、茶も煙草も下さらないのはどういうわけでござるかな」  堀内は不思議に思ってあたりを見廻すと、なるほど茶も煙草も出ていない。つまり接 待役人も小坊主連も、.「切腹」と聞いて落胆のあまりボンヤリしてしまい、日々定まっ ている品を運ぶことさえ忘れていたのだった。 「これは恐縮千万」と早速運び出させ、なお堀内は料紙と硯箱を坊主に持たせて、十七 士の一人一人に付、 「折一言ってお届けするから、遺言状をお書きになるよう、もし書く事を揮られるなら伝言 を承ろう。この細首がちぎれても、弓矢八幡、他へは断じて漏らさぬから」 と説き廻った。一同は、すでに堀内の厚意で、必要な遺言状などはそれぞれ托している から、改めて頼むほどの事もない。  大石は「別に認むるほどの事もござらぬが、後日殿様御供で御帰国の際、京都で御都 合がつかれたら、男山八幡の縁者大西坊にお立寄下され、今日の仰渡し、天気もよく、 心も晴れやかに相果てたとお伝え願いたい。自然但馬にいる次男の方へも通ずるでござ ろうから」と頼んだ。  吉田忠左衛門はかねてから堀内に、自分は大柄で屍体が見苦しかろうから、風呂敷よ うの布を袋にして包んでほしいと依頼しているので、この期に及んでは、伊藤十郎太夫 にお心安く願いたいとのみ一言。  |富森《とみのもり》助右衛門はこの日(二月四日)が亡き姉の命日に当るので、   先だちし人もありけりけふの日を|終《つい》の旅路の思出にして との書いて示し、潮田又之丞は、   |武士《もののふ》の道とばかりを一筋に思ひたちぬる死出の旅路に  |早水《はやみ》藤左衛門は、   |地水火風空《じすいかふうくう》の中より出でし身の|辿《たど》りて帰る元の|住処《すみか》に と、いずれも辞世の歌を認めて、それぞれの縁者へ送附を頼んだ。  間瀬久太夫は、 「近頃|尾籠《びろう》のお話たがら、このごろ腹工合が悪く、今朝からは幸いほぽ回復致してはご ざれど、万一粗忽がないとも測られ申さぬ故、何卒貴殿に於て御含み置き願いたい」  堀部弥兵衛は、 「いつぞやも申した通り、お国の親戚の者堀部甚之允に、酒を飲めとお伝え願いたい」 とて呵々大笑。  矢田五郎右衛門は、 「過日もお話申した通り、拙者は吉良邸で自分の刀を折ってしまったので、相手の刀を 取ってさしており申した。死後自分の刀でない物を所持いたしていた事を、何卒御弁明 願いたい」  奥田孫太夫は「今も朋輩と話し合った事でござるが、拙者切腹の仕方を全く存じ申さ ず、弱っております。何卒御伝授下されい」と頼んだ。堀内は「拙者もこの年になるま でまだ切腹を見た事はござらねど、三方に小脇差を載せて出されまする故、それを引寄 せ肩衣をぬぎ」と実地の真似をしかけると、富森、礒貝らが周囲から「さてさて無用の 稽古、どんな風にしたとて差支えはないのじゃcただ介錯人の討ち易いように、首を浮 かしておればよいのじゃよ」などと言ったので.切腹の話はそのま喜止んだが、一同茶、 煙草などを平生通り喫して、神色自若、時刻の来るのを待ち受けた。  他の三家の面々も、かねての覚悟とて、一、二時間の後に死を控えながら、何の変っ た様子もなかった。 八五 四十六士ついに切腹  切腹の申渡があると同時に、四家に対して、家来の中から、介錯人を出すよう命ぜら れた。それで四家共時を移さず任命したが、細川家は大藩であるだけに、十七人の切腹 に十七人の介錯人を選定した。一人一人介錯人がちがうのである。水野家も九人の切腹 に、九人の介錯人を出したが、その他の二家は、人の介錯人に二人ずつの首を切らせた。 主なる数人の介錯人氏名左の通り。     切腹人        介錯人   大石内蔵助  徒士頭 安場 一平   吉田忠左衛門  小姓組雨森清太夫   原惣右衛門  同   増田貞右衛門   大石主税  徒目付 波賀清太夫   堀部安兵衛  同  荒川十太夫  切腹人も介錯人も共に麻神である。  後世の切腹は、本人が腹かき切って、弱った時分に介錯人が首を打ち、芝居の判官な ど、介錯なしに自分で喉笛を断つのであるが、それらは違式または切腹方法の堕落で、 元禄時代の切腹の正式作法は、本人が切腹の座に着くと、先ず小脇差を三方に載せて前 に出し、介錯人は|跣足《はだし》で袴の|股立《ももだち》をとり、刀を抜いて左方に一歩退いて立つ。この時切 腹人は、検使の役人に謹んで礼をして、肌押しぬぎ、介錯人にも辞儀する。そのさい介 錯人の名を問うたり、静に頼むなどいう事もある。そして脇差を取りあげるのであるが、 その脇差を腹に当てるか当てないかの瞬間に、介錯人が首を打ち落す。介錯人が首を打 つと、すぐ刀を地に置き、首を両手に持ちあげ、片膝を立てて首を検使の方へ見せる。 首実検の作法は流儀により、刀を背後に廻し、片手でたぶさを掴んで首を持ち上げる事 もある。大石主税を介錯した波賀清太夫はその流儀を用いた。この時代の切腹の作法が そうだったから、切腹とはいうものの、実際に腹は切らないのである。従って脇差には 血が附かないので、脇差の代りに扇子を三方に載せて出すことも珍しくは無かった。現 に吉田沢右衛門や武林唯七などの預けられていた毛利家では、脇差代りに扇子を十本、 紙に包んで用意していたのであるが、目付の注意によって脇差に取代えたのであった。  細川家の、大石以下十七士切腹の場所は、大書院舞台|側《わき》、大書院の上の間の前庭で、 背後に池を負うた位置である。現在芝高輪の高松宮御邸の裏塀外、宮内省御用地に、そ の遺跡が保存されてあるが、大書院や舞台の建物などはもとより跡方もないけれども、 背後の古池の跡が深い谷になっているのに、幾分か当時を偲ぶことができる。  切腹の座には畳三枚を敷き並へ1細川家以外は畳二枚1その上に木綿の大風呂敷 を展べ、背後も左右も白の慢幕を張り廻らし、正面大書院の|本間《ほんま》、縁に近い位置に、検 使の荒木十左衛門と久永内記とが厳然として臨監し、細川家の諸役人はそれぞれ定めの 位置に就く。越中守は公然立合わず、大書院と小書院との間の襖障子を建てさせて、小 書院の裏から内覧した。時刻は七ツ時分とあるから、午後四時である。 「大石内蔵助殿御出でなされえ」と役者の間の入口で、|小姓《こしよう》八木市太夫(吉弘嘉左衛門 と交互に)が呼び出した。大石静に立ち上り、一同に目礼して歩を運ぶと、潮田又之丞 後から声をかけて、「我々もすぐお後から参りまする」という。大石にっこりして|肯《うな》ず く。  平野九郎右衛門を|先達《せんだつ》とし、数人の小姓組に護られて、大石が進む後には、介錯人安 場一平が附添うている。検使以下下賎の役人の顔にまで、緊張の色と愛惜の念の動くの が感ぜられた。陰から内覧している越中守は、定めてあふれ落ちる涙を止め得なかった であろう。  大石は、やがて型のごとく検使に敬礼し、介錯人にも辞儀して肌おしぬぎ、前なる三 方引よせて小脇差とりあげ、腹にあてたと見る瞬間、紫電一閃、英魂はたちまち天に飛 んだ。安場一平直ちに首を取りあげて検使の実検に供すること作法の通り。かくて介錯 人は引き退き、死骸は首を継いで、敷いていた大風呂敷にくるみ、場外に運び出して、 新しい畳と風呂敷とが、次の吉田忠左衛門のために手早く準備される。  呼出役の吉弘嘉左衛門が、十七士の控所たる役者の間の入口から、 「大石内蔵助殿首尾よく御仕舞なされました。次は吉田忠左衛門殿御出でなされえ」 と呼び、吉田が終ると、 「吉田忠左衛門殿首尾よく御仕舞なされました。次は原惣右衛門殿御出でなされえ」 と、一々「首尾よく御仕舞なされた」と前者の報告をした。  切腹の場へは出ずに、終始義士に附添うて控所にいた例の堀内伝右衛門、この忠義無 類の人々が一人一人切腹するのに、気がイライラして、見るもの聞くものに怒鳴りつけ たいような思いがしているところへ、呼出役が「何某殿首尾よく御仕舞なされました。 次は何某殿」と呼ぶので、たまらなくなり、「前の人の首尾よく云々は余計の報告でご ざろう。ただ次のお人をお呼びになればよいと存ずる」と一本きめ込んだ。呼出役の二 人も「なるほど」と同意して、それからは次の順番の者を呼び出すだけにしたが、後に 小姓組の氏家平吉がこの話をきいて、「あの人達の中に、首尾よく切腹のできないよう な人物は、一人だってありはせぬ」と大笑した。  大石を介錯した安場一平は、今日の|安場《やすぱ》男爵家の祖先で、一平はこの介錯を、一身の 面目家門の誉れとして、当日その場の光景を画に描き、介錯に用いた刀と共に長く子孫 に伝えた。今日安場家に、それがなお秘蔵されて、義士の遺物展覧会などには出品され る。  かぐて細川家十七士の切腹が全く終ったのは、七ッ半過ぎとあるから午後五時過ぎで ある。四時頃から五時過ぎまでわずか一時間余に、十七人の切腹を終ったのであるから、 一人の所要時間五分をも超えぬスピードである。  松平家では十六歳(討入の時は十五歳)の大石主税が第一番に呼び出されたが、着座 するや検使に向って型の通り敬礼、次に介錯人波賀清太夫に辞儀して小脇差取上げたと ころをえいッと一声、首を打った。このさい主税が介錯人を顧みて「御役儀は」と問い、 清太夫が「御安心なされ槍一筋の|主《あるじ》でござる」と答えたので、主税歓喜の体に見えたと 記載している古書もあるが、波賀は主税ら十人を仙石邸から受取って護送して来た主役 であり、その後も主税らの接伴役として日夕親しんでいた間柄であるから、切腹の場合 に役儀を尋ねる事などあるはずがない。  大高源五は、主税が呼び出されて行く前から、ひどく心配げに見えたが、悪びれた態 度もなく立派に打たれたと聞いて、それ以来急に晴々した様子になった。いくら剛勇と いっても、ようやく十六になったばかりの主税が、もしや見苦しい最期を遂げはせぬか と、それを憂えていたのである事が後に分った、、  その大高源五の順番は、十人中の最終だったが、切腹の座に着いてから、ちょっと御 筆を拝借したい、と乞うて、「梅でのむ茶屋もあるべし死出の山」と一句を認め、従容 として俳人大高子葉らしい終りを告げた。  毛利家では、六十二歳の村松喜兵衛が、介錯人に対して、「貴殿の御名を承りたい」 と問い、「御手をよごして恐れ入る。御見かけ通りの老人でござれば、自然無調法もご ざろう。何卒よろしくお頼み申す」と挨拶して肌をぬいだので、検使の鈴木次郎左衛門、 斎藤治左衛門、共に「見事である」と誉めた。  |間《はざま》新六は、肌をぬぐ前に三方を戴き、脇差を取るより早く腹に突き立てたので、介 錯人は狼狽してようやく首を打ち落したが、検使の鈴木、斎藤も、彼は確に実際腹を切 ったらしいから調べて見よと命じ、すでに場外へ運び出して桶に入れていたのを、再び 取出して検査させたところ、果して六、七寸程引廻していたので、人々その壮烈に舌を 巻いたそうである。二十四歳元気溢るる間新六は、おとなしく首をのべて打たれるだけ では満足できないため、作法を破って文字通り実際に腹を切ったのであった。  武林唯七の介錯人は、太刀ふり下す手元が狂って、討ち損じたのを、唯七深傷に屈せ ず姿勢を正し、「お静にお願い申す」と声かけ、介錯人も太刀取直して今度は立派に打 ち、両人共感嘆を博したと記した俗書もあるが、これは例の製造武勇談であろう。  四十六人の死体は、幕府から別に命令せず、勝手にせよと達せられたので、生前の希 望によって一列泉岳寺へ送り、一つ穴に埋葬したが、ただ壮烈の切腹をした間新六の死 体だけは、秋元但馬守の家来|中堂又助《ちゆうどうまたすけ》という親類(姉婿)の者が是非引取りたいと切 望したので、それへ渡した。従って泉岳寺には、新六の死体だけ不足しているが、石塔 だけは他の義士と同列に建てられた。  切腹の済んだ後、どこの邸でも場所清めのため、僧侶や神官にそれぞれの式法を行わ せたが、細川家だけは越中守が、「あの場所はそのままに置け、十七人の勇士はこの屋 敷の守神であるから」と言ったので、全く清めを行わなかった。なおその後越中守は、 切腹の場所を「この邸の名所じゃ」とて、来客にも指示したそうである。熊本藩に赤穂 義士の遺風が最もよく伝わったのは、この越中守の志からであろう。 八六 民心の激昂  大石内蔵助以下四十六人が切腹を命ぜられたとの報は、飛電のごとく一人から二人、 二人から四人八人十六人と、鼠算的に拡がり伝わって、新聞紙のまだ無かった当時では あるが、たちまち江戸市中に知れ渡った。 「親を忘れ妻子を捨てて、主君のために忠義を尽したものに腹を切らせるという法があ るか」 「将軍様も将軍様だが、老中も老中だ。そのまた下の役人達も役人達だ。こんな分り切 った物の道理がなんだって分らないのかなア」 「これからは聖人君子の道を逆に行けというのだろう」  単純で物の表面だけしか見ないものには、将軍の苦心や日光の宮の大慈悲など解ろう はずなく、いちずに、柳沢美濃守の吉良晶屓から、こんな処刑になったものだろうと信 じて、陰で憤慨するもの、嘆息するもの市に満も、人心は極度に激昂した。  現代なら、国民的大運動が起って政談演説会が諸方に開かれるところであるが、生殺 与奪の権力を握られている幕府に対して、公けに不満の声をあげるわけに行かぬから、 一種の悪戯といってもよい形式で、江戸市民の不平が表現された。その一つは、諸方に 立てられている制札の汚損であるが、その最承著しいのは日本橋の挟に立っている|高札《こうさつ》 であった。  日本橋は古来江戸の中心として、東海道五十三次もここから始まり、全国里程標の元 標もここに立ち、従って江戸市民に掲示する制札も、この橋畔に立っているのが最も重 視されていた。その制札の書出しに、      捉  一、忠孝を励まし、夫婦兄弟諸親類むつましく、召使の者に至るまで憐慾を加ふべし、   若し不忠不孝の者あらば重罪たるべき事。 とあり、この一条は幕府の政治の根本目標として最も重きを措き、全国の大小各藩に於 ても大抵これに倣った制札を立てて、忠孝の奨励に力を用いていた。  ところが、大石以下が切腹の刑に処せられたと分った夜、何者の所為か、日本橋の挟 に立っている制札の忠孝奨励の第一条に、墨くろぐろと塗って、文字の読めないように してしまった。町奉行所では大に驚き、公儀を恐れざる不敵の罪人、厳重に詮議せよと 命じて、種々手を尽したが、手がかりが得られぬ。それにしても、汚れた制札をそのま まに置けないので、新しく立て代えると、その夜のうちに、今度は忠孝の文字に泥をな すりつけた。「いよいよ公儀を愚にした仕方、幕府の権威にも関わるから」といっそう 厳重に|穿撃《せんさく》したが、依然としてつかまらぬ。しかし、汚れた制札をそのままに置けない のでまた新しく立て代えた。  すると今度は、それをとりはずして♪橋下の川へ投げ込んでしまった。こんなことは、 四谷見付、その他品川、新宿、千住などの制札にも行われ、取締の仕方がないので、町 奉行は老中に伺いを立て、ついに第一条の文句を次の通り書き改めた。  一、親子兄弟夫婦を始め諸親類にしたしく、|下人《げにん》等に至るまで、之をあはれむべし。   主人ある輩は各奉公に精を出すべき事。  すると|悪戯《いたずら》をするものがなくなった。  いろいろ皮肉に調刺した|落首《らくしゆ》が、諸方に貼付されたのも、民心激昂の一表現である。 そのうち秀逸と思われるのは、   忠孝の二字をば虫が喰ひにけり世を逆さまに裁く老中   細首を預り隠岐て甲斐もなく水もたまらず打落しけり  大石らの無罪論を主張して、将軍にも進言し、老中らにも意見を述べ来った|大学頭《だいがくのかみ》 林信篤(|鳳岡《ほうこう》)は失望と不満の意を次の一詩に寓した。   曾て聞く壮士還り去る無しと、|易水《えきすい》風寒し挟を列ねて行く。   |炭唖《たんあ》形を変じて|予譲《よじよう》を追ひ、|莚歌《かいか》涙を|滴《したたら》して|田横《でんおう》を|挽《ぱん》す。   精誠石を砕く死も何ぞ悔いん、義気氷と清く|生太《せいはなは》だ軽し。   四十七人|斉《ひと》しく刃に伏す。上天猶未だ忠情を察せず。  口に炭を含み唖者の真似をして君の仇を附け狙うた|晋《しん》の予譲、二君に仕えずと言って 海島民五百人と共に餓死した|斉《せい》の|田横《でんおう》、それらに比較して大石らの精誠義気を讃賞し、 「上天猶未だ忠情を察せず」と結んだのは、明らかに幕府の処置の不仁不当を誹ったも のなので、鳳岡は最初自分の作たることを明らかにせなんだが、後にはそれが分ったの で、|荻生但棟《おぎゆうそらい》一.派の学者らはこれを非難した。もし鳳岡が市井の一学者だったら、「公 儀を恐れざる」廉によって、厳罰に処せられたであろうが、相手が累代官学の本家たる 林家の大先生とあっては、どうする事もならず、ついにそのままになってしまった。 八七 小山田一閑と岡林杢之助の自刃  時日は少しく湖り、討入後まもなくの事であるが、四十七人の義挙に関連して自刃し た二人の事をここに記す。  その一人は小山田一閑という八十一歳の老人である。彼は子庄左衛門が赤穂開城の当 時から義盟に加わっている事を承知していたので、吉良邸討入、一同首尾よく泉岳寺へ 引揚げたとの噂が伝わるや、江戸の町屋の娘の家に身を寄せていた一閑は、我事のよう に喜び勇み、無論そのなかに息子の庄左衛門が加わっている事と信じこんで、だんだん |伝手《つて》を求めて正確な人名を調べると、総人数四十七人の中に、小山田という苗字の者は 一人もない。そんなはずはないがと、繰返し調べても、無い者はやっぱり無い。縁を辿 ってなお調べて行くと、なんという浅間しい事だ、庄左衛門は同僚片岡源五右衛門の小 袖と金三両を窃取して逃亡した事が分った。忠義の結塊ともいうべき頑固老人一閑の憤 慨たとうるに物もなく、八十を超えてからこのような恥かしい目にあおうとは思わなん だとて、歯がみをなして拳を握り、ついに己が隠居部屋で、壁に寄りかかり、脇差引き 抜いて胸元から背後の壁まで突き通し、壮烈なる死を遂げた。一閑のごときは、四十七 人と共に義士と称するに足りよう。  今一人は岡林|杢之助《もくのすけ》である。彼は幕府直参で、禄千石を食む松平孫左衛門の弟で、赤 穂岡林家へ早くから養子に行き、千石を給せられて|番頭《ぱんがしら》の筆頭に位していたから、家 格も身分も家老に次ぐ大身であったが、ただ温厚一方の性質で、理否を判断するだけの 職見なく、下席の番頭四人を指導し得ずして、却って彼らのために引廻され、大野一味 の自重説に加担したのであった。  さて、全藩士退散となったので、彼は江戸の実兄の家へ帰って寄食していた。彼は大 野のごとく欲に目の無い男でなく、また全く良心の無い忘恩者でもないが、同僚に引ず られて義盟の列に加わっていないのであるから、一度勧誘してみてはどうかという者も あったが、大石は許さなんだ。多分彼が、幕府直参の士の弟で、その家に寄食している 点から、事前にも事後にも、困る事の多いのを恐れたのだろうといわれている。  さて一味の四十七人は首尾よく目的を達して、嘆賞の評判江戸市中を震憾させるに及 び、岡林は痛烈に良心の呵責を感じた。とくにその氏名表を見れば、大石一人を除く外 いずれも、家禄は自分よりズット少かった者ばかり、中には五両三人扶持、七石二人扶 持などいう微賎の老も混じているに、千石を戴いていた自分がこの義挙から漏れたこと は、なんとも恥しい次第と、ひどく自責しているところへ、兄の孫左衛門及び他の兄弟 らは、このままでは我々兄弟まで武士が立たぬと痛憤するので、杢之助ついに決意し、 十二月二十八日(討入は十二月十四日)、自刃して果てた。 出たが、乱心者としてそのまま不問に附された。 これを兄から町奉行へ届け 八八 刃剣四十六士  細川家では、十七士の死骸を桶に入れて乗物にのせ、乗物一挺に高張提灯二、|歩小 姓《かちこしよう》一人、足軽四人ずつを附け、前後を騎馬で固めて、泉岳寺へ送った。続いて水野家、 松平家、毛利家からも送ってきたので、寺では浅野内匠頭墓地の隣地の藪を切開いて、 四十五人(間新六を欠く)を合葬した。住職酬山長恩和尚、引導を渡す時に『碧巌録』 第四十一則古徳剣刃上の公案を|挙看《こかん》した。それで四十六人(間新六も共に)全部の戒名 に刃剣の二字を附けた。今ここに、四十六人の法名と行年(討入の時の年齢は行年より 一年少い)を列記して、読者諸君と共に合掌したい。                                 よし たか 刃刃刃刃忠     誠 誉勘峰仲院 道要毛光刃     空 剣剣剣剣浄 信信信信剣     居 士士士士士 四十五歳 六十三歳 五十六歳 三十七歳 六十三歳 俗俗俗俗俗 名名名名名 間ま片原吉大 瀞岡惣田石 久婁忠内    左 太蕎衛衛蔵 夫門門門助 正喜高蓼元2兼套良 明嚢房き辰き亮再雄 ---------------------[End of Page 32]--------------------- 335  刃剣四十六士 刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃 観水露雲上寛法察広破窓勇随毛周泉以 祖流白輝樹徳参周忠了空相露知求如串 剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣 信信信信信信信信信信信信信信信信信 士士士士士士士士士士士士士士士士士 三四四三十二二五三四三三三七二六六 西西繕六且葦十舐饒麟士 歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳 俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗 名名名名名名名名名名名名名名名名名 不ふ菅嘉中堀大大矢奥赤象早箏潮皇富気近堀礒間窒小 篶譲欝載 正喜政き正喜武奔良亡信2助再重々重存満ξ高蓼正喜行窒金雪正喜光ξ秀\ 種尭利乞辰薯庸寡金碧清童武存盛言賢窪尭豪教胃因吉重≒丸嘉久馨延2和芋 ---------------------[End of Page 33]--------------------- 336 刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃刃 漱沢風補量可有模鍛性当袖無電回通道 跳蔵楓天霞仁梅。唯錬春掛払一石逸普互 剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣剣 信信信信信信信信信信信信信信信信信 士士士士士士士士士士士士士士士士士      |塔《 》花       ハ岳 二二二四二二林寺二三三二三三五二四五 共大十齢㌃西葺だ品# 歳歳歳歳歳歳六歳歳歳歳歳歳歳歳歳歳       士       歳 俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗俗 名名名名名名名名名名名名名名名名名 奥間窒小前勝杉村間筆倉武吉岡大則岡木千ち 難欝麟辮 行窒光ξ秀薯宗茗武存次書秀薯光毫武拝隆套兼賓常三忠寿友ξ包碧貞喜光ξ 高穿興ぎ富気房き尭穿房き直芸風奮幸害重与貞喜樹き雄豪信雲秀薯行窒忠莚 刃刃刃刃刃刃刃 利珊常響太清郷 教瑚水機及元振 剣剣剣剣剣剣剣 信信信信信信信 士士士士士士士 十八歳 二十七歳 二十三歳 三十七歳 三十七歳 三十七歳 三十八歳 俗俗俗俗俗俗俗 名名名名名名名  右のうち、間新六だけは死体を姉婿の中堂又助が引取ったので、 が建てられたこと、既記の通りであるが、同人の亡骸は築地の本願寺別院に葬られ、 こには立派な墓石が建った。ところが中央義士会に於て、新六一人の亡骸だけが別にな っているのを遺憾だとして、各方面の人々と協議を遂げた上、昭和四年に、本願寺から 泉岳寺へ改葬した。 八九 追加された二碑 泉岳寺に葬られた四十六士の墓石は、図の通りの位置、すなわち内匠頭の墓に最も近 い所に、大石内蔵助以下細川家御預けの十七士を並ベ、その他三家に御預けの士も、そ 細川家御預 呉 埋 蔚 {婁 薫 →く宙K樋冨 ]琿計ロ構41 ㌍田画■避臣: 潮田又之承 早水藤左衛門 赤埴源蔵 奥田孫太夫 矢田五郎右衛門 大石瀬左衛門 要牙十 琶 踵 嚢典睡[ ]鼠針皿田輝 士匿愛巾仁避正 〔十]琿針愚オ 匝擾ぺk" 米汁川車茸 ÷嵐柿十K 雲'素蕃琶 誕 碑缶(逼 ヨ苫準一キ 遷皿(÷孟旧逼£ 肉一一ノ鷺軍猟冨} 岡島八十右衛門地}o'1耳章松甘 吉田沢右衛門玖ホ十樋舛 武林唯七』一劉卑妹田蜘 倉橋伝助聰庄}劃蝉 間新六』一肇↓牙孝牟癌・レ 唱魯三藤 騨昆ま缶(邊 ]郵吋突牙茸川 唄阜琿1( 雲則"鼠毒 加騰富や趨臣: れぞれ一団に纏めて並び建てられている(文字の方向は碑面を示したのである)。この 碑面に、いずれも中央には法名を、右傍に俗名、左傍に行年が書かれている。  ところで現在の泉岳寺の墓石を数えると、四十八基ある。切腹を命ぜられたのは四十 六士で、当時四十六基であったに、いつの間にか、一基追加されたのである。その一基は、 間十次郎の隣の点線で示した寺坂の碑で、碑面には遂道退身信士、寺坂吉右衛門信行と 明記されてある。他の石碑は全部刃剣の二字を入れた法名が刻まれているに、寺坂の一 基だけは刃の字も剣の字もない。これはいつ誰が建てたのか分明しないが、彼が大石・ 吉田の厳命によって、討入後立ち退いたに拘らず、墓が曹渓寺内に孤在して参詣者もな いのに同情した人が、彼の行実をそのまま戒名とし(曹渓寺のは節巌了貞信士)住職の 同意を得て、同型の碑を追加したものに相違たい。それが水野家御預の士の列に入って いるのは、彼が水野家に預けらるべく予定されていたからである。ただその位置が、右 端神崎与五郎の次たるべきに、一党の殊勲者として第二番に焼香させられた間十次郎よ りも、上席と見らるる場所になっているのは、はなはだしい失態である。  さて今一基の追加は、大高源五の隣に位置する点線の碑で、碑面の文字は次の通りで 薩州産宇都宮成高寺現住岱潤建焉 刃道喜剣信士  明和四丁亥年九月十六日 ある。  これには刃剣の二字があり、建設した年月と、薩州 生れの宇都宮成高寺住職岱潤が建てたものだという事 だけは分るが、俗名が書いてないから、刃道喜剣 信士とは誰の事だか分明しないのである。  この碑の建てられた明和四年は、義士らの切腹 から六十余年の後であるが、俗名が分らないため 種々の臆測が行われた。そして俗間には、講談で よく読まれる村上喜剣、すなわち大石が敵に油断 させる計略から遊蕩に耽り、大道に酔いつぶれて いるのを、恩知らずの犬ざむらいだと罵倒し、そ の面に唾して辱しめた人物の墓だと信ぜられてい る。その村上喜剣が、後に泉岳寺の大石の墓前で 謝罪のために割腹して果てた。それでその志を憐 んだ僧|岱潤《たいじゆん》が、一党と同型の石碑を建ててやっ たものだろうというのである。  これに対して福本日南は、この村上喜剣の事は、 林鶴梁の名文『烈士喜剣伝』から有名になったの であるが、喜剣の本名も不明なばかりか、他の信 愚すべき書冊にも見えない。多分好事者が、碑面 薩州産の文字と、喜剣という法名によって、薩州の剣客喜剣という架空の人物を作りあ げ、講談の一席ものにしたのを、文章家の鶴梁が事実の精査もせずに、うっかり信用し てあの伝を作ったものだろうと言っている。  そしてー、明和時代の神沢貞幹がその著『参考義士篇』中に寺坂の事を記し、一説 として「吉右衛門は日本を遍歴したる後参河の某寺に留り、明和四丁亥九月十六日残す 行年八十七歳、法名刃道喜剣信士」と書いている。寺坂は、延享四年に死んで、麻布の 曹渓寺に葬られ、法名は節巌了貞信士であるから、前記刃道喜剣信士は別人に相違ない が、三河の国には兎に角そういう偽寺坂がいたものらしい。|岱潤和尚《たいじゆんおしよう》そんな事とは露 しらず、三河にある偽寺坂の碑を実際の寺坂の碑と思いこみ、その法名と死亡の年月と を他の義士と同型の石に刻してここに建てたのであろう。そして俗名を記さないのは、 公儀では逃亡者として取扱われた関係上、明記を揮ったのであろう。しかるに俗名の記 してないところから、これが寺坂の碑であることを知らずに、後人が今度は曹渓寺内の 寺坂の碑によって、間十次郎の隣の一基を建てたのである。だから追加の二基は共に寺 坂の石碑であると、これは福本日南の所説である。  しかし今日に於ては、これが萱野三平(芝居では早野勘平)のために建てられたもの だということがハッキリ分った。井上通泰博士所蔵の泉岳寺蔵版義士墓地古図には、こ の一基に「俗名|萱野《かやの》三平」と明記されている。多分これは『堀内覚書』の中に伝右衛門 が三平の噂をきいて大石に確めたところ、「もし生きていれば必ず一党に加わるべき人 物であった」と答えられたとある記事などにより、宇都宮成高寺の岱潤和尚が、泉岳寺 住職の同意を得て、萱野三平のために建てたのだろう。 九〇 その後の寺坂吉右衛門  寺坂吉右衛門が、泉岳寺門前で一同と別れ、その後一同が、四家へ御預けになった事 を確めて発足、姫路で伊藤十郎太夫(吉田忠左衛門の女婿)の留守宅、亀山で吉田の家 族を訪い、忠左衛門、沢右衛門父子及び貝賀弥左衛門(忠左衛門弟)の首尾よく目的を 達したことを報告し、直ちに大学長広(内匠頭弟)の現居所なる芸州浅野家に向ったこ とは前に書いたが、浅野家では、寺坂が一挙の報告に来たことをもし公けにしては、関 係者として累の及ぶことが無いとも限らず、また彼が表面逃亡者として取扱われている 点からも、いっそう秘密を要するので、藩内においてすら、万事を極秘にした。従って 寺坂に関する事は、浅野藩の古文書中にも史料の徴すべきものなく、この前後の寺坂の 動静に明確を欠くのは残念であるが、|室鳩巣《むろきゆうそう》の『義人録』、杉本義鄭の『鍾秀記』その 他には、元禄十六年四月初旬(大石以下の切腹は同年二月四日)寺坂が大目付仙石伯書 守邸へ自首して出た記事がある。以下諸書一致する点の要領を記す。  四月初旬寺坂吉右衛門が仙石伯者守邸へ自首した。その口上、 「私は旧冬吉良上野介殿屋敷へ夜討をしかけた赤穂浪人の一人で、吉田忠左衛門の|弓足 軽《ゆみあしがる》でござりまする。忠左衛門は特別目をかけてくれ、また大石内蔵助子息主税には頼ま れて弓を指南しておりましたが、身分の軽いために心やすく稽古ができるからでござり ましょうか、内蔵助も弓の事は私に任せて置かれました。私が|微賎《ぴせん》の身で一味に加わり ましたのは、第一忠左衛門、第二主税、この両人の前途を見届けたい一念からでござり ました。さて彼の屋敷へ推参して、.首尾よく本望を遂げまして後、内蔵助、忠左衛門の 厳命で不本意ながら一同と別れ、播州方面へ飛脚に出ましたが、先方に於て無理に引留 められ、ようやく脱出して今日帰府いたしました。四十六人と同罪の私でござりますれ ば、何卒御仕置仰付けられまするよう」  仙石伯者守直接面会していう、 「申出の趣|神妙《しんみよう》である。しかし彼の一件はもはやあれで事が済んだのであるから、今 更その方の訴えを取上げるわけには参らぬ。その方公儀にはお構いたいから、勝手に何 方へでも立去るがよい」  吉右衛門それでもなお押して仕置を願ったが、「|御上《おかみ》へ余計な手数をかけようという のか、不届者め」と一喝して引下らせ、しかも内々で、「旅費のたしにせよ」と金若干 を紙に|拮《ひね》って強いて受取らせたという。  右寺坂自首の一条は、今日専門家の間には「先ず信じ難い」ということになっている が、さりとて「事実に非ず」と断定するだけの反証もない。かつ本人の寺坂や仙石伯蓄 守の在世中に、鳩巣や義鄭のごとき学者の著した書中に記されているのであるから、若 干の疑義を挿みたがらも、ここに記述したのである。  寺坂はその後、吉田忠左衛門妻おりんと共に、伊藤治行(十郎太夫)の家に引取られ、 伊藤を二代目の主人として仕え、伊藤が藩主本多侯の所替で、姫路から越後の村上へ、 村上から三河の刈谷へ転々したのに附添うて、享保十一年三月、山内主膳侯に、一介の 武士として召抱えられるまで、二十三年間を伊藤家で働いた。  伊藤治行の『自記』によると、寺坂は播州赤穂郡若狭野の生れで、八歳の時から吉田 忠左衛門に召使われたとあるから、元禄十六年まで約三十年間を吉田家に仕え(その間 に浅野家の足軽に取立てられて吉田の組に入ったが、実際はなお吉田の僕も同様に仕え たらしい)、その後伊藤家で二十三年働いたのであるから、主家の二代に五十余年を忠 実に仕えたわけである。 『治行自記』に「手前に居住の年数二十三年養育せしめ候事……我等兄弟十一人出生の 節浅からず介抱、段々生長に及び候まで|骨髄《こつずい》を振ひ、数年のうちに介抱大かたならず、 深切の次第共申し難き事に候。|尽未来《じんみらい》までも吉右衛門夫妻の儀|失却《しつきやく》これあるべからず 候。後々に至り候て猶以て覚え置候。後証の為め此の如くに候事」として自署花押して いる。これは治行(十郎太夫)が自分の子供のために書遺しておいたものである。  こうして主人の伊藤も、仕えている寺坂も、肉親の家族のごとき関係になっていたが、 ふとした機会から、麻布曹渓寺住職梁州和尚のu目添によって、土佐山内侯の分家山内主 膳に、七両三人扶持を以て召抱えられることになった。時に寺坂、すでに六十二歳の老 骨になっていたが、主膳公の懇望によって仕えることになったのである。碑文には五十 一歳となっており、『元禄快挙録』その他も大抵それに拠っているが、死残の年から湖 って勘定すると、享保十一年は寺坂六十二歳で.それなら『伊藤治行自記』中に「手前 に居住の年数二十三年」とあるのとも一致する、六十二の老骨を主膳公が召抱えたのは、 幕府に対する遠慮もこの時分にはなくなっていたので、忠義の足軽を家臣に加え、一つ にはその末路を飾らせてやろうとの侠気もあったのであろう。  彼は山内家に仕えてからも、伊藤家との音信を絶たず、伊藤家では、寺坂の妻が死ん だ時、入念の香貧を送った外、お寺でよそながらの法事をしてやり、寺坂は亡妻の形見 分けの品を「むさく着古したる品誠に失礼ながら」と、恐縮の手紙を添えて送っている。  もし寺坂が実際討入前に、吉田父子を捨てて逃亡したものであったら、伊藤(吉田の 女婿)の一家が二十三年間も扶養し、山内侯に仕えてからも、親類同様に交際を継続す るはずがない。幕府に対する表面の逃亡扱いによって、彼を四十七士から除外せんとす るがごときは、史学上誤謬たることが明らかであるのみならず、人情の上からも忍びな い。  著者数年前、麻布区本村町の曹渓寺に寺坂の墓を弔うたが、墓石は傾いたまま落葉に 埋れて、いつ詣でた人がありとも見えず、いかにも荒れ果てていた。その後同寺内に、 著者の郷里旧小野藩出身の勤皇儒者藤森天山の墓碑のあることが判明し、その銅板像の 除幕式等でしばしば同寺に詣で、最近には住職森義孝師とも特別懇意になって、ついに 自分の墓地をも同寺に選定するに至った関係から、寺坂の墓に参る機会も自然頻繁にあ るが、近頃は奇特の弁護士角岡知良氏の尽力で墓石もやや修理を加えられ、道しるべの 石柱も立ち、前年ほどの荒廃はない。しかしそれでも、お参りする人がありそうもなく、 四十七士の一人でありながら、泉岳寺の四時いかなる日にも香煙の絶えないのと比較し て、うたた同情を禁じ得ない。  寺坂の墓石の傍には、伊藤竹里(仁斎の第四子、長胤)撰の寺坂信行碑が建っている が、碑面風雨のために欠損して、文字の一部分が失われている。なおやや離れた崖上に、 内田叔明撰の寺坂信行逸事碑が建っている。前者は寺坂の残後二年に養子信保が建て、 後者はそれから四十三年の後寛政四年に孫の信成が建てたものである。  寺坂の法名は節巌了貞信士、延享四年十月六日に死んだ。行年八十三。彼は八歳の時 吉田の下僕となり、後に吉田の取成しで足軽に進められた下賎の身であったが、その人 物は朴実誠懇、そしてその筆蹟や文章も、四十七士中屈指の数に入る価値があったこと、 今日遺っている多数の書翰や覚書等で知ることができる。筆者は、この寺坂の人物が、 吉田忠左衛門の教育感化によってでき上ったものであろうと察し、彼自身もまたよくそ れを自覚していた結果、普通の主従とはちがう特別の奉仕を、遺族の伊藤家にまで敢て するに至ったものと考える。 九一 遺子の処分  今日なら、どんな大罪人でも処罰は当人きりであるが、元禄時代には子にまで及び、 罪状によっては親類縁者にまで累の及ぶことがあった。  しかし、今度の場合は子だけで、それも女のfはお構いなく、男の子のみが、一同切 腹の日に|遠島《えんとう》申付けられた。  ただし十五歳未満の老は、十五歳に達するまで近い親類に預けておいて、その年にな った時|配流《はいる》し、また男子でも、|出家《しゆつけ》したものは処刑を免ぜられるのであった。  そこで大石内蔵助二男吉之進以下合計二十名の遺男子中、十五歳以上の左記四名のみ が、伊豆大島へ流された。   吉田忠左衛門  次男   伝  内(二十五歳)   間瀬久太夫  次男   定  八(二十歳)   中村勘助 長男  忠三郎(十五歳)   村松喜兵衛  次男  政右衛門(二十三歳)  右四名は大島で淋しい生活を続けていたが、二年の後間瀬定八は、二十二歳を一期と して|調所《たくしよ》の露と消え、残りの三人は島に在ること三年半、宝永三年八月僧になることを 条件に、赦免されて帰って来た。この赦免の時、寺坂は伊藤の一家に従うて越後の村上 (本多家が姫路から移封になっていた)にいたが、吉田|伝内《でんない》を迎えに江戸へ出て、伴れ て帰った。伝内はそれから出家して僧名|恵学《えがく》と改め、永昌寺に住し、宝永六年将軍綱吉 亮去、新将軍家宣立つに及び、大赦が行われ、伝内の恵学も「自今如何様の渡世仕候て も苦しからず」と申渡されたので、早速還俗して名も吉田九郎太夫兼直と改めたが、都 合のよい仕官の途もなく、元文四年江戸で病死した。行年六十一。子がなかったので、 吉田忠左衛門の直系はここに絶えた。  吉田伝内と共に大島に流されていた中村忠三郎、村松政右衛門両人も、共に一度出家 して、後に還俗したが、晩年の消息は伝わらない。  大石内蔵助の遺子は、次男吉之進(十三歳)と離別後に生れた大三郎(二歳)である が、吉之進は僧となり、十九歳の若さで他界、大三郎は成人の後、広島の浅野本家松平 安芸守に新知千五百石を以て召抱えられ、明和七年六十九歳で世を終った。その末喬は 今日まで栄え、当主を大石良興という。大石夫人リク女は内蔵助切腹の時は三十五歳で あったが、爾来香林院と称し、朝夕読経を怠らず、元文元年六十八歳で天寿を終った。  原惣右衛門の一子十次郎(五歳)は、これも後に浅野本家に二百五十石を以て召抱え られた。そのほかでは、|富森《とみのもり》助右衛門の一子長太郎が後に加藤越中守に召抱えられ、 矢田五郎右衛門の長男作十郎(九歳)が後に水野出羽守に仕え、奥田貞右衛門の長男清 十郎(二歳)が後に松平淡路守の|家中《かちゆう》仁尾氏の養子となり、木村岡右衛門の二男次郎四 郎が同藩大岡氏の養子となっているのと、|千馬《ちば》三郎兵衛の長男藤之丞(二歳)が、岡山 の池田侯に仕えたのをのぞけば、全部|出家《しゆつけ》又は|天死《よろし》である。 九二 吉良義周の処分  吉良上野介が隠居後家督を相続した左兵衛|義周《よしかね》(実は上野介の息子上杉|綱憲《つなのり》の二男、 すなわち上野介の孫に当る)は、討入当夜不破数右衛門に斬付けられ、薙刀投げ出して 逃げ、負傷しただけで生命は助かったが、血縁の祖父たる先代の首を持って行かれなが ら追撃もせず、加めおめ生き残ったのは見苦しいとあって、三河の領地を没収され、諏 訪安芸守へ長の御預けとなった。  安芸守はその居城なる信州高島(今の上諏訪町)に義周を護送し、城の南丸を修理し てそこに置いた。吉良家の家老|左右田《そうだ》孫兵衛と山吉新八が随伴したが、何一つ勝手の行 動は許されなんだので、随分みじめだった。今諏訪家の記録によって御預け中の義周の 生活状態の一断片を記す。  義周の居室の様子や生活状態は、関係者以外には一切知らせぬよう厳秘にしたと同時 に、世間の取沙汰などを義周や、二人の随伴者の耳に入れぬようにしたので、三人は遠 島同様の境遇だった。たお義周には夜も寝ずの番が附切り警戒極めて厳であった。  二月十六日に高島ヘ着いたのであるが、三月十一日に附人両人から、|義周《よしかね》の|額髪《ひたいがみ》や |髭《ひげ》がだんだん伸びてきたので、なんとか致したいと願い出たところが、同月二十六日に なって、剃ることは罷りならぬ、長く伸びたら|鋏刀《はさみ》で刈るがよい、と指令した。  五月十八日に、養生のため灸をすえたいと願い出たところ、三十日になって、医師に 診察させた上必要とあればすえてもよい、と指令した。  こんな調子で、義士らが細川外三家へ預けられて優遇せられたのと反対に、これは監 禁同様のみじめさであった。元来があまり丈夫でなかった義周、宝永二年十二月一日発 病し、翌三年正月二十日ついに|講所《たくしよ》で淋しく死んだ。年二十一歳。  そこで諏訪家では、大切な預人勝手に埋葬することもできないので、死体を塩詰にし て、幕府の検使が来るのをまったが、二月四日に検使石谷七之助がようやく着いたので、 即日死体の検分を受け、附近の法華寺に葬った。この埋葬の日が、三年前に義士らの切 腹した祥月命日に当るのも、何かの因縁であろう。 九三 浅野大学の取立て  浅野大学長広に、内匠頭の祭祀を継がしめたいとて、大石らが隠忍自重して、表裏両 面から運動したかいもなく、事ついに成らず、大学は広島の浅野本家へ長の御預けとな ったので、大石らはついに、敵上野介の首を取って、一死亡君に報じたのであったが、 四十六人が切腹申付られてから六年の後、宝永六年将軍綱吉が莞じ、子が無かったので、 三代家光の孫に当る家宣が六代将軍となり、諸般の旧制が改められたのを機会に、浅野 大学も江戸に出府、新将軍に|御目見得《おめみえ》したが同年房州の平郡|朝夷《あさひな》村に於て新地五百石を 賜わり、御寄合を仰付られて、内匠頭の祭祀ここに長く続く事をえた。現に東京市本郷 区弥生町二に居住せらるる浅野長和氏はその末喬である。こうして、大石内蔵助が最初 に希望した主家存続の願は、切腹後六年にして達せられたのである。 九四 勅書追賜の光栄  明治天皇御即位の元年十月都を東京に移され、文武百官を従えて、京都から行幸あら せられたが、間もなく|権弁事《ごんべんじ》藤原献を勅使として、泉岳寺大石内蔵助以下の墓に遣わさ れ、左の勅書を賜わった (原書は泉岳寺に蔵せられ、 漢文であるが、 読み易からしむる ため仮名交りに改めた)。                          大 石 良 雄 汝良雄等固ク主従之義ヲ執リ仇ヲ復シテ法二死ス百世ノ下人ヲシテ感奮興起セ シム朕深ク焉ヲ嘉賞ス今東京ニ幸ス因テ権弁事藤原献ヲ遣使シテ汝等ノ墓ヲ弔 シ且金幣ヲ賜フ 宣   明治元年戊辰十一月五日  実に死して余栄ありというべきである。  一党の切腹してよりここに二百三十六年、泉岳寺の墓前はいかなる日でも参詣人の絶 えた事なく、その参詣人のために、土産物売る店が軒を並べている。 泉岳寺の香煙  高輪泉岳寺の義士の墓にお詣りする人が、年々歳々多くなって行くのは 国家のためにも心強く嬉しい事であるが、あの線香はなんとか方法を講じ なければなるまい。詣る人が全部供えるわけf、もないのに、各義士の石塔 の前には、どんな時でも数十本の線香が縦横に横たえられて煙を立て、こ とに大石の墓前は、春や秋のお詣りの多い日には、一日中炎々と燃えつづ けている。まるで護摩を焚いているようだ。時には墓地内で眼をあけてい られないほど、煙幕に包まれているようなことさえある。附近の老樹があ の煙で枯れやしないかと心配する。 余録 赤穂義士に関する本筋は一先ず終結したから、その余録として、今までに書き漏らしたもの、 または参考になりそうな事を、系統だてずに、少しく書き続けることにする。 芝居の鷺坂伴内 『仮名手本忠臣蔵』に現われる人物が、大部分歴史に典拠を有することは、すでに本篇 中の随処に説いた通りであるが、重ねてここに、両方の名を並記する。 芝居の鷺坂伴内  正史 浅野内匠頭 亀井隠岐守 庄田下総守 大石内蔵助 大野九郎兵衛 萱野三平 神崎与五郎  忠臣蔵 塩冶判官高貞 桃井若狭助 薬師寺次郎左衛門 大星由良之助 斧 九 太 夫 早 野 勘 平 千崎弥五郎 (天川屋義平のことは別に説く) 寺原大大多多梶吉 警鴨石門胡讐正 右右右主伝主惣上史 衛衛衛 八兵野 門門門税郎水衛介 寺原斧大右加高 畢郷定星箸古霞  右   川師蔵 喬衛九力嚢本 門門郎弥丞蔵直  以上は、それぞれの人物の所で、すでに説明したが、一つ漏らしたのは、芝居に出て 来る道化男鷺坂伴内である。彼は、舞台に於ては三段目に、師直の従者として現われ、 加古川本蔵の賄賂を取次ぎ、早野勘平と|鞘当《さやあて》をして、滑稽な動作に見物を笑わせ、七段 目の茶屋場にまたちょっと出て、斧九太夫と連絡をとるに過ぎないが、浄瑠璃の本文で は、最後の討入の場に三たび現われて討死するのである。すなわち大星由良之助以下が 敵師直を打取って、亡君判官の御菩提所光明寺へ引揚げんとする瞬間、    いづこに忍びゐたりけん、薬師寺次郎左衛門、鷺坂伴内、おのれ大星のがさじと、   右往左往に打つてか二る。力弥すかさず受け流しく、暫しがうちは討ち合ひしが、   はづみを食つて討つ太刀に、袈裟にかけられ薬師寺最期、返す二の太刀に足を切ら   れて、尾にもつがれず鷺坂伴内、其ま、息は絶にける。オ、お手柄ノ\と称美の詞、   末世末代伝ふる義臣、是も偏に君が代の、久しき|例《ためし》竹の葉の、栄を薙に書き|残寿《のこす》。 と、これが『仮名手本忠臣蔵』浄瑠璃の最終の文句である。  この伴内は、単に舞台を陽気にせんがために、作者竹田出雲がこしらえあげた架空の 人物だろうと考えていたところ、今度本篇を執筆するに際して、三田村玄竜氏の『元禄 快挙別録』の中に、鷺坂伴内は吉良家の|中小姓《ちゆうこしよう》清水一学に当てたものだとある考証記 事を読み、興深く感じたので、余録の筆初にそれを紹介する。  清水一学は、物置小屋で最後まで上野介を守った吉良側の忠臣であること、本篇に書 いた通りである。その『学の菩提寺は、吉良の旧領地三河国幡豆郡の円融寺で、寺から 十町許隔たった横須賀村字|宮迫《みやはざま》という所には、彼の旧宅が今も残っているという。  その宮迫へ行って、伴内の墓はどこかと尋ねると、「伴内さんのお墓は」と、貴人の 墓地を指すような敬語を用いて教えてくれるとの事、では鷺坂伴内というのは本名かと 思うと、石碑には、「実相宗禅、元禄十五年壬午十二月十五日、清水藤兵衛弟、江戸ニ テ死去、吉良上野介家臣、吉良家落居之瑚主従同死」とあって、清水一学の墓たること は明かだが、鷺坂とも伴内ともない。つまりこれは、『忠臣蔵』の鷺坂伴内が清水一学 の事であると信じられて、本名よりも全国的に広く知られた伴内を、本名のごとく呼ぶ ようになり、舞台では道化た不真面目な人物らしく現われるにかかわらず、主人と死を 共にした忠義に敬意を表して、伴内さんのお墓とていねいに呼ぶようになったものらし い。  一学が討死した時は四十歳と古書にあるが、三田村氏が三河の旧宅を往訪した時、当 主藤左衛門は「伴内は二十五の時に殺されたのだといいます」と語ったそうで、「二十 五歳とすると好個の話柄が一つできる」とて、一二田村氏は伴内の身上につき面白い問題 を提供している。それは次の通り。  吉良上野介には二男三女があった。長男は上杉家を相続した綱憲で、それは生れた翌 年上杉家の養子にしたが、その後は女の児ばかり三人つづいて、もう男は無いのかと悲 観していたところへ、長男が生れてから十五年目に次男三郎が生れた。これは当然吉良 の相続人であり、かつ末ッ児でもあるから、上野介の愛撫尋常でなかった。  ところが、花に嵐、月にむら雲、三郎は八歳の時夫折した。上野介の悲傷落胆は察せ られよう。それ以来上野介は、日頃の強情にも似合わず、仏心を出して寺を改築したり、 土地を喜捨したり、巨鐘を鋳たり、領民のために堤防(黄金堤)を築いて水利に便じた り、新田を拓いたりして、ひたすら亡児の冥福を祈っていた。  たまたま領内|宮迫《みやはざま》村の百姓藤兵衛の弟藤作(伴内)が、吉良家の侍を師匠として剣 術を学び、才気もあるというので、殿様の御所望で江戸の御邸へあげた。この藤作の清 水一学は、延宝六年の出生で、夫折した吉良三郎と同年であるから(一学の享年を二十 五歳とすると)、上野介は、|角前髪《すみまえがみ》の可憐なる藤作の姿を、忘れがたい愛児の悌と見た であろう。長ずるに及んで君臣の情誼は世間並のものでなかった。百姓の弟が一躍士人 の班に入れられ、君側近く侍するさえあるに、特別の殊遇を恭うしたのであるから、伴 内の清水一学が感激の大たるや知るべしである。最後の物置小屋まで離れず、ついに冥 途の旅にまで供するに至ったのは、深くあやしむに足らない。『浮世風呂』の著者式亭 三馬は、『忠臣蔵偏痴気論』と題する小冊子の中に、次の通り書いている。    伴内は、忠臣蔵中第一の忠臣也。旦夕師直に近侍して一も心に違はず、|窃《ひそか》に妙計   を以て九太夫を手なづけ、深く敵中に入つて大星が淵底を探る。|加之《のみならず》師直最後の   時節には粉骨砕身して忠戦をなし、所をもかへず其場にて討死したるはあつばれ忠   臣、敬して違はず、労して怨みず、能く主方知るといふべき也。  伴内心あらば、三馬が知己の言に感激するであろう。ところで清水一学が、伴内のよ うな滑稽男だったかどうかは、研究すべき何の材料もない。  清水一学に鷺坂伴内と名を附けたのは、どういう典拠からか、作者の竹田出雲にきい て見ないと確かな事は分らないが、三田村氏の解釈では、宮迫村からあまり遠くない八 幡村(三河国宝飯郡)の入口に鷺坂と呼ぶ坂があり、また『義残後覚』という書に、伴 内という話上手の男が、秀次公の前でよく人か笑わせて御機嫌をとっていた話が出てい るから、竹田出雲が、「三河の伴内、すなわち三河の滑稽家」という意味で、鷺坂伴内 という名を持えたのだろうというのである。  何にしても、伴内のモデル話は、三田村鳶魚氏独特の研究として興趣はなはだ深い。 二 天川屋義平  忠臣蔵十段目の主人公天川屋義平は、泉州堺の商人で、大星由良之助に人物を見込ま れ、討入に必要な|鑓《やり》、|小手《こて》、|脛当《すねあて》など、武具装束の調製を頼まれたので、多年恩顧に与 った|塩冶《えんや》殿への御恩返しと、一つは男を見込まれた知己の感とで、一命を賭しても附託 を全くしようと決心し、女房は親元に帰らせ、召使の男女にも暇を出し、白痴の男と四 歳のi供と自分だけとなり、できて来た武具は荷造りまでも自分でして、長持に七樟、 今晩船で出すまでとたっている。  しかし、普通には用のない変った武具の調製、たとい義平が秘密を守っていても、ど こから官に知れないものでもなく、また官の一喝にあえば根が町人の義平、どこまで口 を開かずにいよう。そんな事から同志の計画が事前に暴露するかも知れないと、一党の 面々が、捕吏に仮装して義平を試しに来る。そしてその操守の意外に固いのに感服し、 安心していよいよ出発することになるのであるが、その一幕中に、里に帰されている女 房の父親が、斧九太夫に縁故のある者なので、義平を通じて由良之助らの秘謀を嗅ぎ出 そうとしたり、それに関連して娘を離縁させ、他へ再嫁させようとするのを、由良之助 が奇抜な計略を以て、女房の髪を切らせて阻止する等の挿話的場面を織込み、十段目天 川屋義平の段は、浄瑠璃を聴いても、芝居を見ても、なかなか面白い一餉である。  ところで、この天川屋義平のモデルは誰か。これに類する義人が果して実在したのか というと、それがどうもはっきりと分らない。世間には、天川屋義平は天野屋利兵衛で あると信ぜられ、高輪泉岳寺には、誰が建てたのか、「天野屋利兵衛浮図」と刻した巨 大な碑もあるが、この天野屋利兵衛または利平も、著者の研究したところでは、『鍾秀 記』以外の著書には見当らず、事件の数十年後に生れた頼春水(山陽の父)の筆に成る 『天野屋利兵衛伝』の一篇によって、一般にその実在を信ぜらるるに至ったものらしい。 それで、兎も角春水の綴った天野屋利兵衛をここに紹介する。  利兵衛は大坂の生れで、家は庄屋だった。代々赤穂浅野家に出入して、特別に厚い信 用を受けていた。元禄の変事の際、早速赤穂へ駆けつけて、復讐の秘謀があることを察 知し、大石に乞うて、武器装束の調進方を引受けた。  それから利兵衛は、妻子や傭人にも知られないよう、極秘のうちに、|鑓《やり》や|長刀《ながだち》を注文 して作らせ、でき上った物は目立たないように荷造りして、江戸へ送り出していた。  ところが、刀鍛冶の一人が、内々役所へ申告した。「長物二、三種の製作を頼まれま したが、その注文が普通でありませんから、念のために申上げておきます」と。  そこで与力の役所へ、早速天野屋利兵衛を喚び出して詰問すると、利兵衛答えて「懇 意な人から泥坊の用心に備えて置くのだと頼まれたもの、作りの普通でないのは、その 人がある|物好《ものずき》の武士の持っているのを真似たい希望からで、なんでもありませぬ」と軽 く受け流した。ところがこれを聞き伝えた他の刀鍛冶らが、「実は手前にもこんな注文 がありました」「手前共にも」と、利兵衛から注文を受けたものが皆申告した。  そこで、利兵衛を水責め火責めの拷問にかげて、注文主の名を明かさせようとしたが、 皮膚がただれ、幾度か絶息したけれども言わない。そして自分は命がけでこの注文を引 受けたのであるから、殺されても言わないが、明年の春あたりになれば、お尋ねがなく ともこちらから申上げることができましょうと、繰返すのみである。妻子を収容して厳 しく詮議したけれども、これは実際知らないので、どうにも仕方なく、そのままに日を 過ぎた。  その内に年が変って元禄十六年の正月になり、世間では旧年|師走《しわす》の十四日に、赤穂浅 野の浪人四十余名が吉良上野介の邸へ夜討をしかけて、主君の仇を復したとの報道が一 般に伝わり、それが牢番の噂話から利兵衛の耳にも入った。  そこで利兵衛は「もう白状いたしますから」と申出て、係官一同の前に、注文主が大 石内蔵助であった事を明かし、「御手数をかけて相済みませんでした。今は思い残す事 もありませんから、いかようにもお仕置願います。妻子は全く何も存じないのですから お宥し下さい」と、言いおわって涙を雨のごとく流した。係官その義心に感じて、死刑 を減じて所払いとし、家産はその子に相続させた。子の名は利右衛門、親の跡をついで 庄屋を勤めた。利兵衛は京都へ行って、浅野家と縁の深い紫野の瑞光院に住み込み、名 を松永士斎と改めて天寿を終った。  以上が頼春水の書いている伝記の大要である。そしてその附記に、右一篇、大坂の商 人塩屋伊兵衛という男が、春水の友人平賀晋民の紹介で、春水に依頼して作ってもらっ たものだとある。これによって見ると、春水は頼まれて文章に作っただけで、材料は全 部塩屋伊兵衛から供給され、事実の真否について春水は全く調査しなかったものらしい。 したがってこの春水の書いた伝を以て、天野屋利兵衛という人物の実在を証することは できない。そしてこの伝以外に、この人物の記録が正しい歴史に見当らないとすると、 『忠臣蔵』の天川屋義平は、どこまでモデルに準拠したものか疑問になって来る。鷺坂 伴内は、ただ最後に上野介に殉じたという一事で、清水一学の事だなど推定せらるるに 至ったのであるが、天川屋義平と天野屋利兵衛も、あるいはその程度の、ホンの一部分 に似たような事実があったに過ぎないのを、竹田出雲が潤色したものではなかろうか。 三 謎の妙海尼  泉岳寺に詣でた人は、義士墓道の傍(宝物館横)にある梅の老樹を見落すことはある まい。立札には次の通り書いてある。      揺池梅   浅野長矩公ノ後室揺泉院殿ヨリ堀部妙海尼二賜ハリシ鉢植ノ梅、揺池梅ト称シ妙海   .尼ノ手ヅカラ此地二植シ者ナリ  苔むした老幹の、内部が空洞になっている様子など、いかにも二百年前後の年数を経 過しているらしく想像される。  なおまた、義士達の墓域の入口、右側の低地には妙海尼の石塔がある。上部には地蔵 を刻し、台石に「清浄庵宝山妙海法尼」と|勒《ろく》してある。「堀部弥兵衛金丸娘、行年九十 三、安永七年二月二十五日」の文字もあると、古書には書かれているが、磨損して今は ハッキリ弛眈めない。  この堀部妙海尼、弥兵衛の娘で安兵衛の妻であるお順(お幸ともいう)は、本人の語 るところによると、討入のあった時は十七歳で、その翌々年十九歳で剃髪し、名を妙海 と改めて諸国を巡礼し、のち亀井戸に住んでいたが、泉岳寺に遠いので、住職が同情し て、寺内に一庵を作ってくれたとの事。前記の揺池梅の立札や、尼の石塔が義士らの墓 側にある事から押して、妙海尼が泉岳寺内清浄庵に住んでいたという事は疑う余地もな い。しかし、この妙海尼が真に堀部弥兵衛の娘で安兵衛の妻たるお順に相違ないかどう かは、問題である。  妙海尼の事は、佐治為綱が何回となく尼を訪うて、見た事聴いた事を書き留めた『妙 海物語』が唯一の資料になっているが、同書の記事は、今日の講談や浪花節と同様、全 く史実を無視したもので、常識からも信ずるに足らない。ところで、編者為綱は、その 筆記したものを一度尼に読んで聴かせた程であり、また文章の上に漂うている真実味か ら推しても、同書の記事は全部妙海尼の直話たるに相違ないと認められるから、同書の 記事にもし|虚誕《きよたん》があるとすれば、それは筆記者の責任ではなくて、談話者たる妙海尼の 虚誕と断じなければならぬ。その意味から著者は、妙海尼が真に堀部弥兵衛の娘お順で あるかどうかを疑うのである。  不審の一。妙海尼はまったく無筆で、その縁者高木正斎が為綱に語ったところによる と、去年八十八の祝いだったので、諸侯から角々の拝領物をなし、館林侯や相良侯の御 殿へも召されたが、米の字を書いてたてまつるにも、お手本によって習ったという事で ある。また尼自身も為綱にむかって、 「我ら国にては、女子の読み書きすること多くは嫌いにて、手習をせざりし故、読み書 くことならず、不自由に候」 と言っているが、赤穂は決して女子の文教が不振だったとは思われず、大石、吉田、小 野寺らの妻はいうまでもなく、義士の妻母は大低、手紙の文も筆跡も立派なものである。 堀部弥兵衛はもとよりその妻わかも、また立派な手紙を書いている。その娘のお順が全 く無筆で、読むことも書くこともできなんだとは、随分変ではないか。  不審の二。為綱、妙海にむかって、義士の事を書いた本の中に、御父弥兵衛殿は討入 に出る夜、別れの酒宴の御酒が過ぎたか熟睡されて、時刻になっても眼がさめなんだの で、夫人と娘御とで揺り起したとあるが、娘御といえば御許のことである。実際そのよ うな事がござったかと問うと、尼涙ぐんで、なるほどそのような事がありました、その 時父は、やりを取って出ようとしましたから、私が、門から内は刀、門から外は|鑓《やり》と聞 いておりますが、御老人にはその|鑓《やり》の柄が少々長すぎは致しませんかと申すと、誰にそ のような事を聞いたかとて喜び、すぐに柄を畳尺に五寸長くして切り縮め、それを持っ て出かけましたとて咽び泣いたとある。討入りについては日夜苦慮し、|万遺漏《ぱんいろう》のないよ うにと、私案を大石に提出したほどの堀部弥兵衛が、出発の直前に、十六歳のしかも無 筆の小娘に注意されて大切の武器を切縮めたなど、常識からも受取れないではないか。 もっとも鑓の柄は皆切り縮めてあったこと、史実の上で確であるが、それは弥兵衛一人 だけではなく、鑓を武器とした義士すべて同一の寸法だった。  不審の三。為綱また問う、ある書物に、山岡覚兵衛の寡婦と大高源五の妹とが、かね て吉良邸へ間諜となって入込み、当夜は|裡《たすき》がけで働いていたので、義士達は、女の助太 刀を受けたと評判されるのは心外だから、早くこの場を立退きなされと言って、強いて 去らせたとあるが、実際そんな事があったのでしょうかと。妙海尼答えていう、これは 大切の事ですから、無闇な人には言われませんが、貴方には何もかも申しましょう。吉 良家へ忍び入って奉公していた間諜の女は七人でした。いずれも他の屋敷へ奉公に出て、 わざと過失をして暇を貰い、赤穂の者たる身元を気付かれぬようにして奉公しました。 七人の中には吉良の妾になっていたものもあります。大石殿七人への申付は、いずれも 邸内の様子内通のため、また案内手引のため入れ置くのであるから、油断なく働かねば ならぬ、しかし七人共吉良家の米を一粒でも食う以上、上野介は主人であるから手をか けてはならぬ、我々が討入らば吉良側になって働き防がねばならぬ、というのであった。 それで一同が討入られた時は、七人の女は義士達に一礼した後薙刀で働き、皆打たれて 死にました。この七人の女の首は泉岳寺へ持参し、殿様御墓前の敷石の下へ埋め、遺骸 も後から運ばれて埋葬されました云々。  今日ならば浪花節でも、こんな馬鹿馬鹿しい事は言わない。元来七人もの女の間諜を 吉良家へ入り込ませるなどいう事が行い得られるなら、大高源五が山田宗偏に弟子入り したり、|羽倉斎《はぐらいつき》に茶会の期日を確めてもらったりする手数は無用である。ことに大石 が七人の女に、一粒でも吉良の米を食べた以卜、上野介のために命を捨てよと命じなが ら、その女達に討入の案内手引をさせたという矛盾に気づかぬなど、いかにも無筆の尼 らしい愚かさでないか。  堀部弥兵衛は、上野介が女装して逃げ出す恐れがあるから、女でも斬ってしまおうと 提案したのを、大石は無益の殺生として採用せず、事後の吉良側検視書によっても、女 で殺されている者は一人もなかったのである。  不審の四。尼の物語は片端より荒唐無稽、史実を無視した事ばかりと言ってもよい程 であるから、今一つだけその例をあげて、他はもういうまい。  尼の話に、自分は十五歳の時赤穂を落去し、祖母と大石夫人と同居していたが、その 際大石殿が申されました。吉良の屋敷へ討入ってもし本望を遂げ得なかったら、皆一同 に切腹する。その方は女であるが後に残り、上野介が日本の地におらば、地を潜ってな りとも邸内に忍び入り本望を達しくれよと。それで六十余州を廻国して神々に|祈誓《きせい》しま した云々とある。大石がいよいよ復讐を決意して江戸へ出る前には、大高源五と貝賀弥 左衛門を使として、かねて預っていた誓紙をいったんそれぞれ返還させ、決心の堅くな い者はそのさい皆振い落したほど、警戒に警戒して策を進めた。それほど慎重を期した 大石が、十五や六の小娘に、自分らが失敗した後のことを頼むなどいうことがあろうか。 『義人纂書』の編者鍋田晶山は堀部安兵衛の真の末喬が熊本藩中にあり、泉岳寺の妙海 尼は弥兵衛の娘ではなくて、そのころ召使っていた下碑だという噂のある事を巻頭に書 添えているが、けだしそれが真実だろう。泉岳寺では、本人が弥兵衛の娘だというので 疑いもせず寺内に一庵を作ってやり、訪問者も討入後数十年も経過してからのこととて、 その身元を看破するまでに至らず、また金員詐取というごとき犯罪があるわけではない ので、役人の詮議も行われず、本人もいつの間にか本当に弥兵衛の娘のような気になり 切っていたのではなかろうか。こういう心理状態の女が、今日でも折々あると某刑事か ら聞かされた。なおまた妙海を堀部弥兵衛の娘だとすると、高田馬場敵討の中山安兵衛 が堀部の養子になったのは妙海のお順がまだ九歳の時だったことになる。幼時からの婚 約なら兎も角、雷名を天下に馳せた安兵衛を九歳の小娘の養子に迎える等、この一点だ けからでも、妙海が弥兵衛の娘だという事の虚誕は明瞭である。 四 高田馬場仇討と堀部安兵衛 堀部弥兵衛の養子安兵衛が、 最初から一党中の最強硬論者で、さすがの大石も、 この 男を制御するためには随分苦心したものである二と、すでに本篇に於て説いた通りであ る。  この安兵衛は、四十七士中に加わらずとも、二十五歳の時の高田の馬場の仇討に於て すでに雷名を天下に馳せていたのである。しかるに、中山姓のままで堀部の養子となり、 二十八歳にして堀部と改姓して浅野内匠頭の家臣となり、三十二歳の時主家の不幸に際 会して復讐を決心し、ついに義挙に加わったのであるから、安兵衛という男は、まるで 仇討するために生れて来たような観がある。  高田の馬場の仇討の事及び安兵衛が堀部の養了になる経緯は、古書の記載まちまちで、 どれが真実なのか容易に判定しえられなかったが、近年安兵衛自筆の記録が発見され、 それによって義士学老渡辺世祐博士が中央義土会で講演されてから、真相は確定的にな った。  堀部安兵衛は本姓中山で、父は越後|新発田《しぱた》藩溝口家の家臣(二百石)であったが、あ る気の毒な事情から長の暇を乞うて浪人になった。時に安兵衛は十四歳だった。爾来三、 四年は叔父上田三郎兵衛の世話になり、その後姉婿に当る越後中蒲原の庄屋長井孫右衛 門(この家は今日なお続いている)方へ引取られて、学問や剣道を修業し、二十歳にな った時、主取りして元の武士になりたいと思い、江戸へ出て来た。  江戸では、牛込の元天竜寺竹町に長屋を借りて、手習師匠と剣道指南で生計を立てる 事にしたが、昔は間借するにも身元引受の|寄親《よりおや》(仮親)がなければならなんだ。その寄 親に頼んだ人の名は分らないが、その人の兄弟に菅野六郎左衛門というのがあった。こ れが講談や浪花節では伯父になっているが、実際は安兵衛となんら血縁はないのである。 この菅野六郎左衛門は元久世大和守に仕えていたが、代替りのさい人減らしがあって浪 人となり、後松平左京太夫に|馬廻《うままわり》として召抱えられたのである。  元禄七年二月七日の晩、六郎左衛門は同僚村上庄左衛門と共に、|支配頭《しはいがしら》の家ヘ招か れて酒を飲んだ。その席で庄左衛門が、酔の廻るにつれて新参の六郎左衛門に暴言を放 つので、六郎左衛門堪えかねて、今にも果し合いになろうとしたが、同席の者が取成し てその場はようやく治まった。ところで、その話が後に|家中《かちゆう》に伝わり、庄左衛門に対す る非難の声が高いのを耳にした本人の庄左衛門、こんな非難を受けるのも新参者六郎左 衛門のためだとして恨みを含み、ついに来る十一日高田馬場に於て果し合いをしようと、 正式に申込んだ。武士が果し状をつけられると、それに応じて立つのが原則のようにな っていた時代の事とて、六郎左衛門は「|諾《よし》ッ」とばかり、時刻を定めて高田馬場ヘ出向 いた。  この時六郎左衛門について行ったのは、|若党《わかとう》の角田佐次兵衛と草履取の七助だけで、 庄左衛門の方は弟の村上三郎右衛門と、浪人で剣道の師範をしていた中津川祐見という 有名な剣客、その他にまだ四人の助太刀を頼み、都合七人だった。これを安兵衛が六郎 左衛門の友達から聞いて、自分の寄親の兄弟が、生命の取りやりをするのに知らん顔し ていられない、後見として随いて行こうといって、牛込の宿から高田馬場へ出かけたの である。  そこで果し合いが始まり、当人同士の六郎左衛門と庄左衛門とが先ず斬り合い、若党 の左次兵衛と草履取の七助は中津川祐見に向い、三郎右衛門と他の助太刀とは安兵衛が 一人で引受け、こちらは四人、向うは七人で闘っているうち、安兵衛が先ず三郎右衛門 を倒し、他の助太刀四人を追払って、中津川祐見に迫った。そしてこれをも斬殺し(あ る本には追払ったとあって、確実な事は分らぬ)て、向うを見ると、六郎左衛門と庄左 衛門とは、双方かなりの|傷手《いたで》を負ってなお闘っている。これを安兵衛がまた手伝って庄 左衛門を倒し、ようやく六郎左衛門を助けて、知合の家へ運んで介抱したが、傷手のた めその夜ついに死んでしまった。  これが有名な高田馬場事件の真相で、仇討ではない、知人の果し合いの後見に安兵衛 が出たのである。これを面白く聞かせるために、講談や浪花節では、堀部弥兵衛の妻と 娘を配し、安兵衛の宿も遠方の本所とし、駆けつける途中に居酒屋をこしらえたのであ る。この事件が元で、中山安兵衛が堀部弥兵衛の養子に望まれることになるのである。  堀部弥兵衛|金丸《あきざね》は赤穂藩の江戸留守居で、他藩との交渉に当る場合が多いため、交際 が広く、久世大和守家中の中根長太夫とも親しかった。この長太夫は、菅野六郎左衛門 がまだ同藩にいたさい格別親密にしていたので、高田馬場事件以来中山安兵衛と懇意に なった。この中根長太夫が仲に立って、堀部弥兵衛と安兵衛との交渉が始まるのである が、その顛末を、筆まめの安兵衛が自分で詳細書き留めているので、間違いはない。  高田馬場事件は元禄七年二月十一日安兵衛二十五歳の時であったが、その年の四月に 中根長太夫から手紙で、赤穂浅野家の留守居堀部弥兵衛が会いたいといっている。それ については浅野家の長屋で手料理を振舞いたいという事だから、行って高田馬場の話を するようにと言ってきた。それで安兵衛は、四月二十七日に弥兵衛方ヘ行くと、弥兵衛 は高田馬場の模様を尋ねながら、頻に書き留め、最後に、もしあなたを養子に望む者が あったら、相談に乗るかと問うたので、安兵衛は、自分は中山家として一人だから、養 子に行ってこの苗字を断絶させることは祖先に対して相すまぬ、思召は有難いが養子の 御世話ならお断りすると、ハッキリ答えた。それから五月七日に、安兵衛は先日の御馳 走の挨拶に、堀部の家へ再び行ったところ、弥兵衛老人歓び迎え、「高田馬場聞書」が できたから、一応目を通して、誤りの点を正してくれと、一巻の筆記を見せた。  安兵衛はそれを読みながら、事実相違の点を一々指摘したが、その後弥兵衛は、安兵 衛の人物にスッカリ惚れ込み、もしあの男を一人娘の婿に迎えることができたなら、堀 部家の誇りであるのみならず、主君に対してもよい御家来を加えることになると思い込 んで、中根長太夫と、堀内源左衛門(安兵衛の剣道の師で、安兵衛今は同家にいる)そ の他から、再三勧誘してもらったが、安兵衛は好意を感謝しながら、中山家を断絶させ ることはなんとしても忍びないからと言って、頑として応じない。  すると今度は弥兵衛が「姓は中山のままでムよいから」と譲歩して申込んだ。「中山 姓のまま浅野家に仕えて、堀部の家禄を譲ることにしたいと思うが、もしそれが主君か ら許可されなんだら、外に居住せしめて自分の方から|扶持《ふち》を送る。そして安兵衛はどこ へなりと、勝手の所へ奉公してもよい」というのである。  安兵衛今は断る口実もない。厚意を感謝して結局養子になる事を承知した。そこで、 六月一日に、堀部の宅で仮祝言の盃を取り交わ上、安兵衛は中山姓のまま堀部弥兵衛の 養子になった。そして安兵衛は、宿にしている師堀内源左衛門の宅へ帰ると、源左衛門 は弥兵衛の心意気を賞し、「すでに中山姓のままで父子の契約をした以上、先方がこち らの意地を通してくれたのである。武士は御万の心を思いやらねばならぬから、こうい う場合こちらも譲歩して、中山でも堀部でも羊支ありませぬと申出るのが、武士として の道義だろう」と説いた。人生意気に感ず。安兵衛もついに武士としての義理に負け、 最初からの頑強な主張を捨てることに決意し方。  六月四日に堀部から、安兵衛の親代りの堀内へ手紙で「赤穂へ飛脚の出る便があるか ら、縁組の願書を持たせてやりたい。それに安兵衛の親類書が必要だから、当人をよこ して貰いたい」と言って来た。そこで安兵衛は出かけて親類書を認めた後、厚意を感謝 して、「もう中山姓を固執しないから、思召次第でいかようにも御取計らい下さるよう に」と、折れた。弥兵衛の満悦察せられよう。しかし、「それではそうして貰おう」と いうのも、あまりに虫がよすぎる思いがするので、「兎も角一応は中山姓のまま願い出 ることにしよう」と言って、その願書を認め、飛脚に持たせて出したところ、六月二十 九日に聞届けられた。それから三年目に弥兵衛は隠居し、安兵衛は改姓して弥兵衛の家 督を相続し、知行もそのまま二百石を頂戴したのである。だから安兵衛が浅野内匠頭に 仕えたのはわずかに数年間に過ぎないのに(殿中刃傷事件は安兵衛三十二歳の時だっ た)、彼が一党中最も熱心なる一人となったのは、つまり養父弥兵衛の知己の恩と、内 匠頭の士を愛する志とに感激したために外ならぬ。 五 堀部弥兵衛の討入計画私案  堀部弥兵衛は討入当時七十六歳で、四十七士中の最高齢者だった。彼は年齢に於て長 じていたのみならず、その復讐の堅い志に於ても、急進派の隊長だった養子安兵衛に劣 らず、大石の出府が、あまり延びのびになるのを待ちかねて、「自分のような老骨は、 先が短いから、そう気長に構えてはいられぬ。自分一人だけでも吉良邸へ押しかけて、 彼の門内で切腹したい位に思う」と、京都の同志間瀬久太夫に申送った位である。彼が 妻や娘に書き遺した書状には「我等こと|文盲《もんもう》至極、殊に歌道の心がけなど曾て無之に付、 句柄をかしく候へども」と|詞書《ことばがき》して、   忠孝に生命をたつは武士の道やたけ心の名をのこしてん   常にしもいひし言葉を違へじといま此時に思ひ合せん   共々に生き過ぎたりと思ひしにいまかち得たり老の楽み と詠じた三首の和歌を見ても、その堅固な武士的精神が窺われる。  この弥兵衛、大石の出府もいよいよ間近に迫った時、かねて認めて置いた討入計画私 案を、大石の参考にもと書き送ったらしく、その拍が『堀部弥兵衛金丸私記』に載って いる。この案は、大石に余程参考となったに相違なく、採用された項目も少くない。仔 細に読んでゆくと、弥兵衛の用意周到なこと承、知られ、また大石が衆智を集めてあの討 入計画を大成したことも判明するから、ここに紹介する(原文は候文体)。   、追々お下しになる諸士へ、道中または当江戸逗留中、いよいよ討入までは他人か   らいかようの不義無道なる言いがけをされても、大事を抱えている身が我慢するの   は卑怯にならないから、一言もはね返さぬは勿論、喧嘩口論や狼な遊興などせざる   よう、堅く御注意ありたい。   、大石殿が当地に於ける御本拠は、江戸市外の御予定と承るが、市内各所へ連絡が   よくとれ、また彼の邸へあまり遠くない場所へ御出張になり、幹部連中が昼夜たえ   ず密談をなさらなくては、不都合の儀が必ず生ずると存ずる。また若い連中の行儀   など別して心許ない。遠方から打つ釘はこたえませぬ。  一、貴殿の御本拠が目立ってはならぬとの御深慮からとは察しまするが、私は左様に   存じませぬ。一年も二年も先で討入ろうというのなら、遠方でも宜しかろうが、一、   二ヵ月にという急場に、あまりの深慮は却って失敗の元と存ずる。目立たぬように   するのは容易の事。遠慮が多いと意外に日数も延びて、変なものになりはせぬかと   第一案ぜられまする。  大石は最初、川崎在の平間村なる富森助右衛門の宅を本拠とし、大丈夫との見通しが ついてから江戸市内へ移ったのであるが、弥兵衛老人は最初から江戸入市の主張だった と見える。  一、討入の刻限は古来の方式通り寅の刻の一天(午前四時)が然るべくと存ずる。諸   方からその刻限に後れざるよう参集することでござれば、自宅は夜半に打立たねば   相成るまじく、またそのため彼の邸の附近に五人十人立って待合せる事になると、   辻番に怪しまれて、失敗を招かぬ限りでもござるまい。  一、そこで愚拙の一案、屋形船を三艘も借入れて、前日の昼過あるいは夕方より一同   打揃って乗り出し、|舟遊山《ふなゆさん》と見せかけて、ほどよい時刻に上陸、猶予なく押かけて   は如何でござろう。  一、武器類は渋紙包みにでもして荒縄で結び、船頭共の気付かぬように舟に入れたい。  一、梯子の類、舟へ持ち込み難い道具は、あの附近の借宅へ一両日前より入れて置き   たい。武器も舟へ持ち込むこと目立つようたら、これも同様にしてよろしかろう。  一、右の通り実行する事が困難ならば、近所の者共が不審に思って色めいても、頓着   せずに刻限を堅く守って討入るべきでごぎろうか。  これら討入の際の注意を読みながら、大石は定めし微笑を禁じえなかったであろう。  一、屋根を乗越える事が第一でござれば、表門、裏門、両方から討入りたい。しかし   門を打破ると霧しい物音で、奥への注進が早いから不得策と存ずる。兎に角両門か   ら、上野介父子を逃げさせない工夫が専一でござれば、両門から外へ出る者は、男   女上下の差別なしに、一人残らず斬捨てる外あるまいと存ずる。なおまた、逃げ口   の|間道《かんどう》を持えているかも計られない故、諸方へ心くばりが必要でござる。  吉良の父子が女装して逃げ出すかも知れないから、出門する老は男女共一人残らず斬 捨てようというに至っては、勇気凛々たる老武者の面目が躍っている。  一、屋根を乗越える者、両門を固める者、その他の部署は|籔引《くじぴき》にでもして決定せられ   るのでござろうか。これは愚拙などがかれこれ申す必要のない事と存ずる。  一、多人数のことでござれば、勝利必定と仰せ出され、一同が勇奮猛進するよう御工   夫願いたい。  一、いずれも打死の覚悟でござれども、本望を遂げて存命の衆ももとより多数これあ るべくと予定して、引揚の場所、公儀へ届出の筋道なども、お考えになって置かれ るべしと存ずる。 、本望を遂げた上は、彼の父子の首を亡君の御石塔へお供え申したい。ついては、 各自の家来共の中から惜なる者十人ばかりに申付け、船頭共が舟から逃げざるよう 番をさせるか、あるいは漁村で育った家来が四、五人もあれば、船頭は逐い上げて もよろしかろう。もし家来共が左様に都合よく参らねば、一同が上陸するさい船頭 共を|搦《から》めて船の|梁木《はりき》に縛りつけ置き、引揚の節その舟へ乗って泉岳寺近くへ附けさ せ、父子の首を御石塔に供えて拝をした上、泉岳寺附近の細川越中守中屋敷(今の 高松宮御邸)へ申入れ、公儀への届出を依頼してお|仕置《しおさ》を待つ事に致しては如何で ござろう。 、泉岳寺は遠方で、陸路は歩行困難であり、舟も都合よく運ばぬ場合は、取敢えず 回向院へ引揚げ、一息入れた上、藤堂和泉守殿の下谷のお屋敷へ一同参り、大石殿 に一人差添え、使者と号して、玄関から広間へ上り、取次に依頼して趣意を申し達 せらるべきでござろうか。しかし討入のままの異様な風体では、中の門の通過を妨 げられるでござろうから、取敢えず両人共に回向院近辺で|麻祥《あさがみしも》に着かえ、|介添《かいぞえ》は 留守居役の者と見せかけて大石殿の先に立ち、入門なさるがよろしかろうと存ずる。 もし神着用の時間がなくば、討入装束のまま門外から申入るる外ござるまい。その   際は、若手の強力なる連中四、五人を内方予定しておき、潜り戸を閉めさせないよ   う矢庭に押入って戸を抑え、総人数を玄関前へ入れることが肝要でござる。その内   には申入れた趣意が知れ渡るでござろうから、藤堂家の衆も落着かれるでござろう。  一、もし|深傷《ふかで》を負うた者があって、手間どっていると、追手がかけつけるかも知れ申   さぬ。そうたるとせり|合《ちち》う迄の話で、|上《かみ》へ趣意を徹底いたさせ難い。そのさいは   少々遠方ではござれど、上野の青竜院へ各参り、御門主へお願いして公儀へ達して   いただくのが最上策でござろう。  一、お役人方、お目付衆に申上度は存ずるが、それは家中の者ことに浪人の身で|直訴《じさそ》   することになり、この上ない|不調法《ぶちようほう》と存ずる。  以上が堀部弥兵衛の討入計画案である。この|覚書《おはえがき》が原案になって、大石を始め吉田、 原、小野寺ら幹部連が修正を加え、ついにあの立派な討入計画が大成されたのであろう。  泉岳寺の宝物館には、|刷毛屋《はけや》の看板がある。中央上部には丸の中に「京」の一文字を 筆太に書き、下には刷毛の木彫をさげて「屋」の字を添え、右方には小さく「上々は け」左方には「色々おろし」その下に弥兵衛と署名がある。これは堀部弥兵衛の筆蹟だ ということであるが、見事な書である。 小野寺十内夫妻の忠貞  四十七士、忠義の志に於てはいずれに優り劣りはないが、同時に親孝行で、夫婦の愛 情が、|濃《こまや》かで、文芸の嗜みも深かったのは小野寺十内|秀和《ひでかず》である。  十内は祖父の代に赤穂藩士となり、父を経て十内まで三代|相恩《そうおん》、禄は百五十石(外に 役料七十石)で、京都の御留守居役を勤めていた。  十内が親孝行だったことは、その母が九十の賀の時、漢学の師伊藤仁斎とその子東涯 の贈った詩に拠って知ることができる。仁斎は、人のために寿詩を殆んど作らなんだ学 者であるが、小野寺に贈った詩の句には「|老莱《ろうらい》の孝恩誰か能く|識《し》らん、|膝下《しつか》尚呼んで小 郎と為す」とあり、昔の有名な孝子、|白髪親爺《しらがおやじ》になっていながら母の前では小児の真似 をし、喜ばせたという|老莱子《ろうらいし》に比して、十内の孝行を称えている。  元禄十四年三月内匠頭切腹の報伝わるや、十内は即日京都出発赤穂ヘかけつけて、万 事大石と打合せ、最初は籠城討死、次は城の大手門にて切腹嘆願、三度目にはおとなし く退散して|後図《こうと》を策する事に決するまで、終始大石に信頼して|楡《かわ》ることなかった。  その城中会議で議論鴛々まとまりのつかなんだ際、大石の泰然不動、難局を取捌いて ゆくのに感心して、京都の同姓十兵衛ヘ次の通り申送っている。    内蔵助儀、家中一統に感心せしめ候て、進退をまかせ申候と相見え申候。年若に 小野寺十内和歌   候へども少しもあぐみ申す色も見え   申さず、毎日終日城にて万事を引受   けたじろぎ申さず、滞りなく捌き申   候。  さすがに人を見る明があった。さて城 中会議は、大石の意見通り殉死嘆願と一 決していた四月十日、十内は京都の愛妻 お|丹《たん》へ、近況の通知に兼ねて遺言状を送 ハた。その一節、    われ等は存じの通り、御当家の初   めより、小身ながら今まで百年、御   恩にて各を養ひ、身も暖かに暮し申   候。今の内匠頭殿には格別の御情け   には与らず候へども、代々の御主人   くるめて百年の報恩、又身は不肖に   ても一族日本国に多く候。斯様の時   にうろつきては家の|疵《きず》、一門のつら   よごし、面目なく候故、|節《せつ》に至らば勇ましく死ぬべしと確に思ひ極め候。老母を忘   れ妻子を思はぬにてはなけれども、武士の義理に生命を捨つる道は、是非に及び申   さ父る所を|合点《がてん》して、深く嘆き給ふべからず。    母御人様いくほどの間もあるまじく候ま、、いか様にもして御臨終を見届け給は   るべく候。とし月の心入にて|如才《じよさい》あるべしとは露ちり思はず、申すに及ばず候へど   も頼み参らせ候。僅の金銀家財、之をありきりに養育し参らせ、御いのち存外長く、   |財《たから》つきたらば、共に餓死申さるべく候。これも是非に及ばず候。  現代とはちがい、商家ででもなければ、女が働いて収入を得る道の絶対になかった当 時、貯蓄の金銀家財が続く限り養育して、それが尽きたら母上と共に餓死せよとは、な んという悲しい言葉だろう。人一倍孝子で愛妻家でもあった十内をして、この語を発せ しむるに至ったのは、よくよくの決心といわねばならぬ。ところでこの母は、幸にそれ ほとの悲運にあわず、翌年九月-十内が復讐決行のため江戸ヘ出る直前  老病で他 界した。これで十内も最後には幾分気がらくだったであろう。  十内が江戸へ出てからお丹に贈った長文の手紙は、大高源五の母に贈った暇乞状と共 に、真情流露の二大名文であるが、その二、三節をここに紹介する。  お丹から贈り越した手紙を見たと書いた後につづけて、    十六日までの様子委しく知れ、珍しく巻返し見申候。そもじ事以前の如く左の胸  下痛みて、左を敷きては寝ることならず、脈もつかれたるとて、慶安どの薬たべ申  され候由尤もに候。気の疲れ候事さぞく其筈にて候。何事を思ひても身弱りては  ならぬ事にて候。たより少き身になり候へば、健やかにて如何様にも世を渡る事肝  要にて候ま、、病を押す事なく、よくノ\.薬をのみ可被申候。心からいかう衰へ申  さるべくと推もじ致し、|一入《ひとしお》痛はしく思う計にて候。 妻の病気に対する同情|横溢《おういっ》して、|筆端《ひつたん》涙が滴ったろうと想像せられるほどである。   かねての覚悟とはちがひ、身も力なく、昼は紛れ、夜のめもいねゐて思ひ廻らし  申され候由、さこそと思ひやり、此方とても同じ事にて候。御申しの如く、月日の  たつに従ひ|憂《びつ》きは増し候はんこと見る様にて候。常々申す如く、人間の栄え衰へ常  なきこと、道理をよくく悟り候は父、憂きも却つて|真《まこと》の道に入る種になり可申候。  斯様の事はあらまし合点の前にて候。尚又心ある人に出合ひ、話もき、、勧めも聞  きて、悟り給ふより外の心得も慰みもあるまじく候。(中略)互に身の様をも、心  の中をも、かくこそとせめて思ふを忘れぬ種、|命《いのち》あるうちの心ゆかしと思ふより外  はすべき方なく候。唯傷ましく思ふ計にて候。 何とかして妻を安心させ、その苦労を軽減してやりたいと念ずる至情が|滲《にじ》み出ている。   |此方《こなた》の歌、取分き逢坂の歌あはれの由、よくきゝ給ふと存候。|其許《そこもと》の歌さてく  感じ入参らせ候。涙せきあへず、人の見る目も思ひつ、度々吟じ申候。おくの歌ま   さり可申候。之に就ても必ず歌をば捨てず、たえずよみ申さるべく候。歌ども、す   き間に書きて送り可申候。道中にてはくたびれても外に紛る、事なくて歌をも案じ   候へども、こ、元にては五十人に余る同志の人々入り代りく毎日出会ひ、心のひ   ま一寸もなく、ひとり静にしてゐる事なくて、歌もとりしめて案じもたらず候。  文中の逢坂の歌とは、十内が妻を残して京都を立ち、逢坂山を越えた時の作で、   立ち返り又逢ふ坂と頼まねばたぐへやせまし死出の山越 の一首である。道中の歌の中でこの歌が取分けあわれだったと、お丹が言い越したので、 よく目が利いたと満足したのである。   其許の歌さてく感じ入 とあるのは、お丹の作、   筆の跡見るに涙のしぐれきていひ返すべき言の葉もなし の一首であろう。十内が人目も揮らずこの歌を吟詠して評判だったことは、細川家お預 け中の『堀内覚書』によっても知られる。  十内夫妻は|金勝《かねかち》慶安という医師の歌人を師として和歌を学んだが、十内は師から二 子たりと難も師の下知に非る者には見せ申まじく」という神文誓書を入れて、百人一首 口訣抄一巻の伝授を受けた。だから彼は、専門の歌よみと称して差支えない資格を具え ていたのである。なおまたお丹も師の慶安から「御歌紫式部が歌の勢にて、もしも式部 が再来やと存ずるばかりに候」と誉められたほどの才女であった。この歌人夫婦の花農 月夕に於ける唱和の楽しさ、察するに余りある。  お丹は、同藩士|灰方《はいかた》藤兵衛の妹であるが、藤兵衛は最初小野寺一族の老と共に大義に 殉ずる盟約に加わっていたが、中途変節して脱盟したので、十内怒って絶交した。お丹 もまた不義の兄をもつことを恥として義絶し、夫の志を遂げて切腹してから約四ヵ月間 は、読経に日を消していたが、   |夫《つま》や子の待つらむものを急がまし何か此世に思ひおくべき の辞世を残して、絶食して死んだ。元禄十六年六月十八日の事で、墓は京都本国寺の塔 中了覚院にある。法名は梅心院妙薫日性信女。    七 「徳利の別れ」の赤埴源蔵  講談や浪花節では赤|垣《ム》源蔵で通っているが、実際は赤|埴《リ》源蔵である。赤埴は、文字通 り正しく読めばアカハニであるが、これをアカバネと呼んでいたらしい。「赤埴」に 「赤羽に作る」と、当時編述された諸書に書かれている。今でも埴岡という苗字をハネ オカと呼ぶ所がある。  赤|埴《はに》がどうして赤|垣《がき》と誤り伝えらるるに至ったかというと、印刷術の未だ極めて幼稚 だった当時、書籍の大部分は】々筆写して、次から次へと伝わっていたところ、赤埴の 埴の字は、行書や草書で書くと垣の字のごとく見えるので、その誤写が一般に流布した 結果である。  彼は禄二百石を食み、事件発生当時は堀部安兵衛らと共に江戸詰だった。復讐計画が 成るや、彼は芝、浜松町檜物屋惣兵衛の|店《たな》を借り、高畠源五右衛門と変称して、時期を 待受けていたが、大石が二度目に出府して、いよいよ決行の日も迫るや、彼は矢田五郎 右衛門と共に、本所林町五丁目の堀部安兵衛の借家へ同居し、倉橋伝助や横川勘平らと 共に、吉良家の様子を探っていた。  討入の時は裏門から、杉野十平次、菅谷半之丞と共に、三人一組となって屋内へ切込 み、目的を達してからは、大石内蔵助以下と共に、細川家へ預けられた。細川家にお預 けの十七士の言動は、堀内伝右衛門がその『覚書』に詳密に記載していること、すでに 本篇中に記述した通りであるが、その『堀内覚書』には、大石、吉田、堀部、|富森《とみのもり》等 の話が多く、その他原、|間《はざま》、小野寺、片岡、礒貝等の記事も随分あるが、赤埴源蔵のこ とは、いよいよ切腹の申渡があったので堀内が各自の遺言を尋ね廻った時、頼まれた言 葉が記載されてあるだけである。これで見ると赤埴は、筆無精であったばかりでなく、 口も重く、必要の用件以外は言葉に発せなんだものらしい。 『堀内覚書』の赤埴遺言の一節を、今日の文章に直すと次の通りである。   「御存じのごとくこの間から腫物ができて難儀いたしたが、御親切にお医者をお附   け下され、お蔭で昨日から快くなり申した。今日上意によって切腹仕る段本望に存   じまする。この旨を、土屋相模守様に仕えている実弟本間安兵衛と申す者に伝えて   戴きたい」と申されたので、「御承知仕った、相模守様には、今枝弥左衛門と申す   拙老親類の者が御取次を勤めております故、早速申し伝えまする。御安心下され」   と申したところ、大層喜ばれた。それで早速今枝へその旨申遣した。  以上によって赤埴が、口も重く筆も重く、寡言沈黙、奇行のあるような人物でないこ とが推定せらるるに拘わらず、世間一般には「赤垣源蔵徳利の別れ」によって、よしや 本心は失っていないにせよ、討入の前夜に泥酔して、徳利または兄の紋服の前に叩頭す るような碕人と誤解せられているのは、彼に対して気の毒であるのみならず、義士を侮 辱するものとして、著者は講談師や浪花節語りに抗議を申込みたい思いがする。  そもそもあの「赤垣源蔵徳利の別れ」は、『波賀朝栄聞書』の中の、朝栄の師小幡孫 次右衛門の話として書かれている左の記事に基づいて、|好事者《こうずしや》が作り替えたものなので ある(原文候体)。  赤垣源蔵は十二月十二日(討入の前々日)に、阿部対馬守様に仕えている妹婿(田村 縫右衛門)の処へ、最後の暇乞のつもりで訪問した。いつもより立派な衣服を着け、機 嫌のよい顔色をしていた。折柄縫右衛門は不在だったらしいが(原文では在否が判明せ ぬ)、妹やその舅が対面した。舅なる人は、よほど義理堅い一徹の人物だったと見え、 無遠慮に源蔵に直言した。「源蔵殿は浪人の身でありながら、そのような立派な衣類を なんの必要があって着ていられるのか。誠に内匠頭様のあの事件以来、御家中の方々が 平気で離散せられたのを見て、世間では世の|廃《すた》りものと後指さして笑い、誰一人召抱え ようとするものも、この日本には無い状態ではござらぬか。腰抜け者と笑われるお身だ から、せめて商売でも始めて渡世なされたらと思うに、そのような覚悟もなく、立派な 衣類を着飾っていられるのは、どういうものだろう。それを資本にして商売でもなさる のが本当ではござるまいか。もとより|其許《そこもと》御一人が腰抜なのではない、朋輩連中が皆そ うなのだから致し方もないが、よくよく勘考なさらねばなりますまい。無遠慮にかよう なことを申すのは、不本意千万じゃが、今は拙者以外に御意見申す者もないから申すの じゃ。悪く思って下さるな」源蔵これに答えて「近頃御親切な御意見、身にあまり恭な く存じまする。仰せの通り今では、親切に意見して下さる方は他にありませぬ。しかし 今日は、身なりを飾って参らねばならない筋の家へ訪問いたし、その帰途、久しく御目 にもかかりませず、妹にも絶えて面会いたしませんので、出来心でお訪ね申した次第、 何卒悪しからず思召し下さい。その上私も、ここ一両日中には引越して本所方面へ参る 事にいたしておりまするので、そうなるとまたいつ伺えるか分らないと存じまして」と、 ひたすら詫びるので、舅も気の毒になり、「左様でござったか。それなら今日はゆっく りして、寒い時だから、酒でも飲んでお帰りなされい」というと、源蔵は「それでは今 日は一杯いただきましょうか」という。「|其許《そこもと》はいつも酒を飲まれないのに、今日はい けるのか、それじゃ早速支度いたさせよう」源蔵「今日は少し御酒を飲みたいように存 じます」こんな会話の後、酒が運ばれたので源蔵は銘々へ盃をさし、妹へもしみじみと 別れの盃をして「本所方面で落ちついたらまたやって来るが、当分は会える機会もある まいと思うから、随分からだに気をつけよ」と、いつもよりも睦じく語って帰って行っ た。それから三日目の夜に、四十七士が本望を遂げ、その中に源蔵も加わっていたとの 報が伝わったので、妹も舅も、「そのようたことを露ばかりでも心附いたら、何か御馳 走でもして、力の附けようもあったものを」と嘆き、とくに舅は、「余計な意見たど加 えて恥をかかせたのは、誠にはや面目次第もない。全く不欄なことをしたわい」と、昼 夜の別なく後悔したと伝えられている。 『波賀朝栄聞書』には右の通り書かれている。これが「赤垣源蔵徳利の別れ」の出典で、 浪花節などでは、阿部対馬守に仕えている妹婿田村縫右衛門が、丹波篠山藩の青山家に 仕えている実兄塩山与左衛門と変り1源蔵に兄は無いはず1妹が兄嫁となり、酒を 嗜まない寡言小心の源蔵が大酒呑の放胆な饒舌家となり、まるで似ても似附かない一義 士に作りあげられた。源蔵の霊もし地下に知るたら、定めて迷惑に感じておろう。 八 浅野の五家  附 義士と加東郡  浅野氏は戦国時代の浅野長政の後で、長政の夫人(長生院)の姉は、豊臣秀吉の夫人 |北政所《きたのまんどころ》(高台院)であるから、秀吉と長政とは義兄弟であり、従って浅野氏は、豊臣 時代すでに特殊の勢威を具えていた。秀吉が長政を五奉行の筆頭として、とくに内政及 び朝廷に関する政務を管掌せしめたのは、このためであった。  ところが秀吉の嘉去後、五奉行中の石田三成が、小智を弄して自分の勢力を張ろうと するので、長政これを嫌い、長子の|幸長《よしなが》と共に、大老の徳川家康に信頼して万事の相談 をかけていた。そして関ヶ原の役にはいうまでもなく東軍に属し、大功をたてたので、 幸長は紀州和歌山三十六万余石に封ぜられ、長政は常陸の|真壁《まかべ》五万石を隠居料として頂 戴した。  幸長は三十八歳で他界したが子が無かったので、次弟|長晟《ながあきら》が後を継いだ。長晟また 大坂の役に戦功があったので、元和五年福島正則改易の後を賜い、安芸備後に於て四十 二万六千石の国主となった。これが広島浅野家、すなわち今日の浅野侯爵家の始祖で、 浅野の総本家である。  寛永九年、浅野|長晟《ながあさら》の庶子長治に五万石を分封して、備後の|三次《みょし》に一家を創立させ た。これが三次の浅野家ですなわち内匠頭長矩の夫人(揺泉院)の生家である。  それから赤穂浅野家の初代は浅野長政の三男長重(長男幸長に子が無かったので、次 男長晟が宗家を相続するに至ったこと前記の通り目で、初めは下野国真岡に於て二万石 を賜わっていたが、慶長十六年父長政が卒した時、父が隠居料として戴いていた常陸国 |真壁《まかべ》の五万石を受け継いで真壁の城主となった。この長重は、二代将軍秀忠のお気に入 りで、かつ大坂夏の陣に戦功があったため、元和八年改めて常陸の|笠間《かさま》五万三千石に封 ぜられた。  寛永九年長重の子長直が、父の後を継いで笠間の城主になったが、この第二代長直の 時、正保二年、池田輝興が乱心して領地を没収せられた播州赤穂(五万三千五百石)ヘ 転封を命ぜられて、ここに赤穂浅野家となったのである。すなわち初代浅野長重がド野 の真岡城主たること十年、常陸の真壁に移ってから十一年、次に笠間に移ってから二十 三年、この間に長重は卒し、長直が立ち、四十四年間に三回封を移されて、四回目に赤 穂の城主となったのである。  長直に三子あり、長男長友は父の後をついで赤穂城主となり(すなわち内匠頭長矩の 父)、次男長賢は、父の所領中から加東郡家原一二千五百石を分封して家原浅野家を創立 し、三男長恒は、同じく父の所領から赤穂郡若狭野三千石を分封して、若狭野浅野家を 創立した。そこで浅野五家の系統は次の通りである。 浅野長政 自H羅聴爵家                   一                     長賢(家原)                     長恒(若狭野)  右の通り、赤穂浅野家の始祖は長政の子長重であるが、実際赤穂に入国したのは、孫 の長直になってからである。この人当時稀に見る名君で、山鹿素行を聴して一藩の教育 に任ぜしめた外、赤穂の築城、新田の開拓、塩田の拡張、学問奨励、武備具足、産業開 発等の功績著しいものがあった。赤穂の製塩業は長直以前にもあるにはあったが、長直 の奨励によって、昭和の今日なお余沢を残すまでに発達したのである。  長直の子長友は、城主たること僅かに四年で延宝三年に卒し、その子長矩が八歳で家 督を相続したが、これがすなわち内匠頭で、吉良上野介に対する殿中刃傷から、ついに 城地没収、家名断絶になったのである。祖父長直が常陸の笠間から転封して以来五十七 年、長矩の在任期間は二十七年であった。  赤穂の城主なので、世人の多くはこの浅野家の所領を、播磨国赤穂町を中心とする赤 穂郡内にのみ限っているもののごとく考えているが、実際の赤穂の領地は、同郡の外加 東、加西、 佐用の三郡に左のごとく分散していたのである。 赤穂郡 加東郡 加西郡 佐用郡  計 村数 一一九 二四 三三  五 一八一  すなわち総石高五万三千五百余石の約三分の一           なおこの 石高は表向の数字で、実際はこの外に七、               があり、 かつ塩田もあったから、石高に比しては裕福だった。  著者の郷里は加東郡であるが、赤穂までは二十余里離れ、中間に姫路の大藩が挿まっ ている。この加東郡内の八千余石の内、三千五百石で家原浅野家が創立されたこと前記 の通りであるが、残余の赤穂の直領四千七百石を管理していたのが、郡代吉田忠左衛門 で、穂積村(今は加茂村に編入されている)に役所を置き、租税の取立や訴訟事務を処 理していた。この穂積村から一里許の距離に家原浅野家の陣屋があったのである。今は |社《やしろ》町へ編入されているが、その町外れにある字赤岸の観音寺には、四十七士の墓碑が 建っている。赤岸は赤穂義士を縮約した名称だともいわれる。  石高(石以下切捨) 三五、二〇〇石  八、二○一  八、九二○  一、二一二 五三、五三四        は他郡内にあったのである。     八千石の私田(新に開墾したもの)  すなわち家原浅野家所領三千五百石を外にしても、加東郡内に赤穂浅野家の所領が四 千七百余石もあり、しかも郡代が一挙の副首領吉田であったから、加東郡は義士らとの 関係とくに深く、一時は誓約に加わって加東郡内に潜伏していたものが左の通り十四名 もあった。   吉田忠左衛門、同沢右衛門、寺坂吉右衛門、間瀬久太夫、同孫九郎、木村岡右衛門、   渡辺角兵衛、同佐野右衛門、高谷儀左衛門、河村太郎右衛門、多芸太郎左衛門、高   久長右衛門、上島弥助、山城金兵衛。  右の内渡辺角兵衛以下の八名は中途脱盟して、不義士の汚名を残した。なお義士の一 人近松勘六は京都にいたが、加東郡小野にいた妹へ遺書を送ったとあるから、やはり加 東郡には縁故があったのであろう。  従来歴史家は、赤穂義士といえば、赤穂と江戸と、山科に近い京都や伏見を直に連想 するが、加東郡がそれらに譲らぬ潜伏地であったことを、注意する人は少ない。加東郡 内の赤穂領黍田村には、当時の名主だった小倉家が今日なお現存し、吉田や寺坂の手紙 の外当時の日記なども残っているから、他の村内にも捜査すれば、あるいは貴重な史料 の発見があるかも知れない。 九 大石内蔵助の家柄  大石の家は元近江国大石ノ庄(今の栗太郡大石村)から出たもので、内蔵助良雄の曾 祖父良勝が、十八歳の時浅野長重に仕えたのが、浅野家と縁のできた初めである。  良勝は初め|小姓《こしよう》役だったが、漸次重用され、元和元年の大坂役に敵の首二級を獲て、 益々信頼を高め、ついには家老になって食禄千五百石を給せらるるに至った。  良勝には五男三女があり、その中の嫡子内蔵助|良欽《よしたか》(内蔵助|良雄《よしたか》の祖父)と二男の頼 母良重とがとくに有名である。1良欽、良雄共にヨシタカと訓むのが正しいIl良欽 は父良勝の後を襲いで家老となり、食禄も千τ百石をそのまま受けて、長直、長友、長 矩と三代に歴任し、延宝五年赤穂で卒した。年は六十だった。良欽の妻は「伏見城を守 りて一身万軍に当る」と正気之歌に歌われた鳥居元忠の孫娘で、すなわち内蔵助良雄の 祖母である。  |良欽《よしたか》の嫡子|良昭《よしあき》は、備前池田侯の家老池田出羽由成の女を取女り三子をあげた。長子は すなわち内蔵助良雄で、万治二年に赤穂で生れた。ところが父の良昭は、祖父良欽の在 世中に若死したので、良雄十九歳の青年ながら、祖父の後を襲いで家老となり、千五百 石の家禄もそのまま受けついだ。  良雄の直の弟は専貞と称し、石清水八幡の大西坊覚任の弟子であったが、元禄十一年 すなわち事件発生の三年前に三十九歳で残し、末弟良房はそれよりなお数年前に早世し た。だから良雄は、父にも兄弟にも早く別れて、肉親には縁がうすかったのである。  良雄は、但馬豊岡藩(京極甲斐守高任).家来|石束《いしづか》源五兵衛の女リク女を嬰って、三男 二女をあげた。長男は十五歳にして義挙に加わり、忠孝の名を留めた|主税良金《ちからよしかね》。長女は クウといったが十五歳で早世。次男吉之進は、山科から母に伴われて豊岡へ行き、事件 後僧になって|祖練《それん》と称していたが、これも十九歳で早世。次女ルリは、親類の進藤源四 郎(中途の脱盟者)の養女になり、後に広島藩士浅野監物の妻となって、五十三歳で世 を去った。末男大三郎は、母リクが山科を去る時胎内にあり、豊岡で生れたので、父子 の対面はなかったが、成長の後広島浅野侯に仕え、良恭と名乗って、六十九歳まで生き た。  右の外良雄は、伯父小山源五右衛門の子覚運を養子として、弟の石清水八幡大西坊専 貞の後を嗣がしめた。  それから|良雄《よしたか》の祖父|良欽《よしたか》の弟、すなわち良雄の大叔父に当る人に、大石|頼母助良重《たのものすけよししげ》と いうのがあった。山鹿素行が配流されて赤穂に来た時、この頼母助の隣に家を賜わった ので、彼は毎日欠かさず見舞い、足かけ十年間食事毎に副菜を贈り続けたという。この 頼母助は長直公(長矩の祖父)の厚い信任を得て息女鶴姫を妻に賜わり、二子をあげた。 長子は長恒といった。藩主長直はこの外孫を養子分にして、赤穂郡若狭野に三千石を分 知して新に一家を創立させた。前章に記した浅野五家中の若狭野浅野はこれである。前 回の系譜では長直の実子らしくなっているが、実は外孫を養子にしたのである。  次に頼母助の次子すなわち長恒の弟長武は、加東郡家原の浅野長賢の養子になって、 家原三千五百石を領した。家原浅野第二代の左兵衛がすなわちそれである。  こういう風に、大石一家は主家と親類関係にもなっているので、家老たる良雄の威望 はいっそう高かったのである。 一〇 山鹿素行の感化  赤穂城が没収せられた際、藩士の数はすべて=.百数十人であった。この内籠城または 殉死を申合せた者が百余人であったに、二十一ヵ月の後、仇家に討入って亡君の恨みを 晴らした者は四十七人だったので、世人はその中途に逃げ出した臆病老や、背信漢の多 いのを憤慨するが、しかし、あの人心儒弱、風俗淫靡を以て有名な元禄時代に、三百余 人の藩士中四十七人が、生命を投げ出してあの義挙を遂行したということは、むしろそ の人数の多いのに驚くべきではないか。  なおまた世人は、四十七人中にはいろいろの性格、いろいろの事情があるに、それを 統一して一致の行動をとらしめた大石|良雄《よしたか》の威望と手腕とを嘆称するが、しかし大石い かに威望と手腕とを具えていても、藩士の多くが大野九郎兵衛父子のごとき人物であっ たら、到底あのような義挙を見ることはできない。四十七人が死を覚悟して亡君の仇を 報ずることに終始したのは、忠義の精神が一藩に行き渡り、大野父子のごとき人間は武 士の風上に置くべきでないとする気風が、藩中を支配していたので、大石はその気風を 巧に指導し、その精神を中心に人々を統率して、ついにあの武士道の花を咲かせたので ある。  だから、義挙は大石を中心として決行され、大石なくしてはあのような見事な成果を 得ることは不可能だったと断言し得られるが、しかし大石以下をしてこの義挙に出でし めた力は、別に存在していたことを知らねばならぬ。それは|山鹿素行《やまがそこう》の感化である。素 行が内匠頭の祖父長直に聰せられて、前には八年間江戸藩邸で在府藩士のために文武の 学を講じ、後には幕府の|忌誰《きい》に触れて、赤穂の地に|調《たく》せられ、更に九年間また在国の藩 士に書を講じ、忠孝節義の重んずべき事を説いたのが、一藩の人心に強い感化を与え、 世はいわゆる元禄時代の華奢柔弱の時代だったに拘わらず、赤穂藩には質実剛健の気風 が満ち、忠孝の精神が人々の頭を支配していたので、素行が去ってから二十六年後に、 四十七士の義挙となったのである。大石内蔵助その人すら、素行の感化によって人格の 根本を築いたものであること、殆んど疑う余地もない。だから、赤穂義士を知るには山 鹿素行を知らねばならぬ。教育の力の偉大さは、山鹿素行と赤穂義士との関係に於て最 も明白に証拠だてられる。では、山鹿素行とはどんな人物かP  素行の本名は甚五右衛門といい、素行は号である。先祖は肥後の|山鹿《やまが》にいたので、地 名を氏にしたのである。父の玄庵は江戸で医者をしていた。素行は幼時から頭脳明敏、 六歳にして経史を学び、九歳の時林羅山の門に入り、十一歳の時すでに、小学●論語・ 貞観政要などを人のために講義したが、その弁論が堂々老大家のようだったので、驚か ない者はなかったという。十八の時、武田流の兵学者北条安房守氏長に入門して兵法を 学んだが、五年の間に数多い弟子の中で首席となり、二十二で秘伝奥義をスッカリ伝授 された。そして後に山鹿流の兵法を創始した。  当時幕府は儒学を奨励していたが、それは林道春(羅山)の系統を引いた朱子学であ った。朱子学というのは、儒教を哲学的に解する|朱烹《しゆき》の学派で、深遠とはいえようが、 元々儒教は実生活の実行に重きをおいたものなのに、朱子学は兎角空理空論に走る嫌い があった。それで素行は朱子学を排斥し、官学の林家と相対時し、門人が三千人を超え るに至った。そのため、幕府の誤解を招いた。  また当時の漢学者は、中国を孔孟の本国として、日本よりも一段上に位する国柄のご とく心酔する傾きにあったが、素行は、日本こそ貴い神の国で、日本の国体こそ万国無 比のものである。我国の学問はこの国体を擁護するものでなければならぬという意味を 説いた。それらが、幕府には気味わるく聞かれたに相違ない。  これよりさき赤穂藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)とくに素行の人物と学問に傾倒 し、初めは門人となって教えを受けたが、後には礼を厚うしてこれを招聴し、禄千石を 給した。 『浅野内匠頭分限牒』によると、家老の大石内蔵助千五百石を筆頭として、次は岡林杢 之助、奥野将監、近藤源八の各千石、その次は八百石が五人、六百五十石が二人という 割になっている。祖父長直の時代に於ても、藩の所領が同じである以上、家士の禄高も 大差なかったに相違ない。しかるに、山鹿素行を聴して千石を給したのは、随分思い切 った優遇である。しかも素行はその時まだ三十一歳であった。三十一の青年、いかに名 声が高くとも、これを招聰して、藩中第二位の高禄を給することは、恐らく藩士の大部 分が反対したであろうから、長直は非常な決意を以て家臣の反対を押切り、素行招聴の 希望を実現したのだろうと察せられる。従って素行も、この君公の知己の恩に感激し、 藩士教育のために心力を尽すこと、一般の賓儒とは異なっていたこというまでもない。  素行が浅野藩の人となったのは、承応元年十二月で、その翌年赤穂城縄張のため】度 赤穂へ行って、数ヵ月滞在したことはあるが、その他はズット江戸の藩邸で、藩士のた めに士道を講ずること満八年、万治三年九月に|致仕《ちし》した。  ところが、それから六年の後、寛文六年十一月、素行の著『聖教要録』が幕府の|忌誰《きい》 に触れて、素行は赤穂の地へ|調《たく》せられ、浅野侯にお預けとなった。幕府が素行を、他所 へやらずに赤穂に講したのは、前に長直が高禄を以て抱えていたのみならず、今なお尊 信しているので、双方のために好都合であろうとの、当局者の同情ある計らいだったの だろう。というのは『聖教要録』が、林大学頭を中心として多くの人に信奉せられてい る朱子学を攻撃したために罪を獲たのであるが、本来学問上の議論で、しかも、素行の 主張にかなり共鳴老もあるので、罪にはしても普通の罪人扱いにはせず、とくに便宜を 計ったものと考えられる。  この素行の赤穂調居を、藩主長直がどれほど喜んだか知れぬ。早速二の丸の大石頼母 助(内蔵助の祖父良欽の弟で家老)の隣邸に迎え、旧師として尊敬した。爾来満九年間 素行は赤穂に止って、表面謹慎中の罪人であるが、実際は賓儒のごとき待遇を受け、藩 士の教育に力を注いだ。大石頼母助のごときは,毎日訪問を欠かさず、一日二回副菜物 を贈って九年間絶たなんだ。  藩主長直は寛文十二年に卒去し、子長友が嗣いで太守になったが、在任僅かに四年で 延宝三年他界。そのあとへ八歳の長子長矩が立った。この年、前将軍家光の二十五回忌 に相当したので、素行は赦免せられ、赤穂を立って江戸へ帰った。  素行の赤穂調居は四十五歳から五十四歳までで、一生中最も膏の乗り切っていた時代 であり、その名著『中朝事実』1この書は明治時代に、乃木大将によって翻刻せられ、 天皇陛下に献上せられたーもこの間に書かれたのであるから、藩士に与えた感化の偉 大であった事も想像されよう。  素行の赤穂を去った時、大石内蔵助は十七歳、吉田忠左衛門は三十五歳、間喜兵衛は 四十一歳、堀部弥兵衛は四十九歳だった。その他小野寺十内、原惣右衛門、村松喜兵衛、 貝賀弥左衛門らは、いずれも二十五から三十前後だったから、皆相当の感化を受けたに 相違ない。  四十七義士の出現は、山鹿素行と、素行を尊信した藩主長直の力であること疑うベき 余地もない。素行の墓は、東京牛込区弁天町の宗参寺にあり、毎年素行会(会長井上哲 次郎博士)で祭典を行う。    一一 殿中刃傷は勅使登城の前か後か(史論)   本篇は中央義士会の機関紙「義士精神」昭和十二年二月号に掲載した拙論である。  浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた時、勅使院使はすでに登城していられたのか、 それとも登城前であったのかという事は問題である。福本日南翁の『元禄快挙録』には、   当日御接伴掛の両侯と高家衆は、何れも松の御廊下に、勅使院使の御登城を、今か   今かとお待受けされる。 と書き、徳富蘇峰翁の『近世日本国民史』中の『義士篇』にも、この文句をそのまま借 用し、その他私の見た新刊の群書は、ただ内海定治郎氏の『真説赤穂義士録』を除く外、 全部刃傷事件を勅使登城の前としている。  そこで私は、古書に湖って研究することとし、先ず浅野家々秘抄の別名ある『江赤見 聞記』を緒くと、次の通り記されてある。    十四日公家衆御登城、御馳走方にも御登城、追つけ御白書院へ出御遊ばさるべく   □殿中大廊下吉良上野介殿へ御台様附御留守居役梶川与三兵衛殿御用の儀有レ之被二   仰談一御通り候所を、後より内匠頭様御越、上野介覚え候かと御言葉を被レ掛、肩   先へ御切付被レ遊候。 『易水連挟録』は著者不明であるが、元禄十六年三月(義士切腹の翌月)の自序があり、 義士に関する著書中最も古いもので、また信ずべき書でもあるが、それには次の通りあ る。    同十四日、辛丑、陰天、今日将軍家勅答仰出サル、ニ付テ公家衆登城アリ、浅野   内匠頭、伊達左京、相共二登城アリ、吉良上野介、大友近江守等、何レモ柳ノ間二   相詰ラル時、公家衆御白書院二伺候アリシガ、追付勅答トテヒシメク所二、内匠頭   イカナル意趣ノ有ケルニヤ、殿中ヲモ揮カラズ、彼ノ柳ノ間ニテ上野介ト何ヤラ言   葉荒々シク聞エシガ、頓テ上野介柳ノ間ヲ立、同二十四五問アル廊下ツ、キ小走リ   ニ逃行。(下略)  この外、『忠誠後鑑録』も刃傷事件のさい勅使院使がすでに登城していられたことを 明記し、『赤城士話』はそうハッキリとは書いてないが、文章によって同意味なること を思わしめる。そして『赤穂義人録』と『赤穂鍾秀記』の二書は登城前たることを明記 し、『介石記』はこの問題に触れてない。  すなわち、古書に於ては、勅使(院使を含む、以下同じ)がすでに登城していられた と記したものの方が多いに関わらず、後世には登城前だったとする説の方が有力になっ たのであるが、私には受取れない。  第一、もしあの刃傷事件が、勅使登城前だったとすると、あれほどの騒ぎの直後に勅 使が着かれた時の狼狽さ加減が、どこかに書かれていそうなものだのに、それが全くな い。  第二、殿中において血の薇れがあった理由で、当日奉答の式を延期すベきや否やが問 題となり、勅使の意見を聴いて、やはり予定のとおり行われる事にはなったが、御白書 院の式場は流血の場所に近いからとて、にわかに御黒書院に変更された。それらの事か ら考えて、もし事件が勅使登城の前だったのなら、何をおいても先ず御旅館へ使を馳せ て、御登城の見合せまたは時刻の引延ばしを乞いそうなものだのに、それらの事が全く ない。  これらの点から推して、私は勅使がすでに着いていられたものだろうと察し、それを 確めるに足りる根本史料の発見に努力した。そして二つを得た。その一は梶川与惣兵衛 の筆記である。すなわち次の通り。   (上略)主計殿御申には、先刻吉良殿より、今日の御使の刻限早く相成候旨申参り   候旨被申候故、委細承り候と申して、夫より中の間へ参り候処多門伝八被居候故、   高家衆を尋ね候へども居られ不申候。然らば殿上の間に被居候はんやと申候処、最   早公家衆には御休息の間へ被参候由に付、左候は父大廊下には高家衆被居可申哉と   申候へば、如何可有之哉と被申候間、然らば大廊下へ参り見可申と申捨て、大広間   の後通りを参り候処、坊主両人参り候。争略)其後御白書院の方を見候へば、吉   良殿御白書院の方より来り申され候故、又坊主呼びに遣し其段吉良殿へ申候へば、   承知の由にて此方へ参られ候間、拙者大広間の方御休息の間の障子明きて有之、夫   より大広間の方へ出候て、角柱より六、七間も可有之処にて双方より出合ひ、(中   略)吉良殿の後より、此間の遺恨覚えたるかと声をかけ切付申候。  当時内匠頭を抱き止めた梶川が、右の通り、高家衆を尋ねたけれどもいないので、殿 上の間にいるだろうかと、目付の多門伝八郎に尋ねたところ、もはや公家衆が御休息の 間に参られているというので、そうすると高家衆は大廊下あたりにいられるでしょうか と問うと、多門はさあどうでしょうかと答えた。それで大廊下の方へ行って見たと書い ている以上、勅使はすでに登城して休息の間にいられたのに相違ない。かつ後段に「大 広間の方御休息の間」という一句があるのによって、勅使休息の間は大広間だったこと も察せられる。  更に一つそれを確める史料は当の勅使柳原権大納言の日記である。それには次の通り ある。  一、十四日、今日御暇、三人登城、秋ノ野間ニ砥候、外様馳走人浅野内匠頭乱気歎、   |次《のり》ノ|廊下《りりり》ニテ|吉《り》良上野介ヲキル、|大二騒動絶《りりりりり》二|言語《りり》一|也《り》。|事了《りり》、|畳《りり》ナド|清《りりり》メラル《りり》|、   次二畠山民部、戸田中務御使ニテ、今日の儀故、勅答苦カル間敷哉ノ由被二仰下一   及レ穣事ニテモ無之、勅答被二仰出一少モ不レ苦義候、兎角御機嫌次第可レ被二仰出一旨   申上候也、次二御黒書院ニテ御対面。(後略)  今日御暇とあるのは、勅使がこの日限り暇乞する意味、三人は勅使二人と院使一人と である。三人が登城して、衝立に秋の野の描かれた間に砥候していると、浅野内匠頭が 狂気したのか、次の廊下で吉良上野介を斬ったとある。次の廊下とは、自分の居室につ づいた廊下の意味で、事件当時、近くの部屋にいたのでなければ、こんな文句は使えな いはずである。かつ、その次の文句、「|大《りり》に|騒動《りり》、|言語《りりり》に|絶《り》す」も、現在殿中に居合わ せて騒ぎを親しく見たればこそ言い得られる形容ではないか。なおその先の「事おはり 畳など清めらる」も、その時殿中にいたかった者の書ける文句ではない。  以上、梶川筆記と柳原大納言の日記によって、殿中刃傷のさい勅使がすでに登城して いられた事を十分立証し得ると思うが、しからば、かかる明瞭なる事実が何故二様に伝 えられ、しかも誤った方が真実らしく後世に伝えられたかというに、多分これは、幕府 当事者が血の械れを忌み嫌った結果、すぐ近くの室に勅使がいられたことをいっそう恐 縮して、曖昧に、もしくは御着以前であったらしく発表したのと、他方ではまた、義央 の長矩に対する侮辱が、勅使奉迎のさいの問答に関連しているので、御着前とする方が なるほどとうなずかれ、かつそれが室鳩巣の『義人録』の名文によって宣伝されたため、 真事実の方がついに誤伝のごとく取り扱わるるに至ったものであろう。 正史忠臣蔵 終 充延か光延か(文字の詮義) 『寺坂雪冤録』の著者伊藤武雄氏は、本書旧稿について多くの誤記誤植を 指摘せられたが、その一つに、「間喜兵衛の名乗光延は充延とする方が正 しかろう。高輪泉岳寺の石塔には充延、赤穂花岳寺のは光延となっている が、泉岳寺の方を重いとすべきだから」とあった。私は、人名の文字など は赤穂のお寺の方が正しいはずだと信じ、また同人の長男十次郎は光興、 次男新六は光風だから、この一項だけは伊藤氏の厚意に背いて元通り光延 のままに置いたが、後に渡辺世祐博士に質問したところ、喜兵衛自筆の書 翰に光のぶまたは光延と署名したのを提示されたので、問題はなくなった。 もっとも当時は発音さえ同じなら遠慮なく宛字を用いたから、喜兵衛自身 も充延と書いた事がないとはいえまいが……。 『正史忠臣蔵』 一九三九年十一月 厚生閣刊