新潮社創立四十周年記念祝賀会挨拶 佐藤義亮  今夕は、御多用のところをかく多数の方々がお出で下さいまして、まことに光栄の至りであ ります。厚くお礼を申し上げます。  前々からこういう会を開きまして、永い間の御好意に対する感謝の言葉を申し上げたいと、 始終考えて兆りました。ところが、御承知の方も相当おありでしょうが、私は随分病弱であり まして、十四、五年というものは、絶対に外で飲食の出来ないような体でありましたため、つ いつい心ならずも皆様に御無沙汰申し上げた次第であります。で、今年は、創立後ちょうど四 十年にもなりますし、一夕記念の会を催したいといろいろ心支度をしておりましたところ、意 外にも、文壇学界の各位ならびに出版関係の有志の方々から、私の胸像を戴くことになったの であります。出版界にはあまり例のないことで、私にとりまして無上の光栄を担わしていただ いたのであります。そのお礼を兼ねて、今夕はなはだお粗末なこの小宴を開くことにたりまし たのであります。  永い間出版の仕事に従事してまいりましたが、これは全く私の一個の力ではありません。若 い時分には、年少の血気から、自分の力で何でも出来るような考えを持ったのでありますが、 だんだん年をとってまいりますと、決して自分の力ではない、自分だけでは何も出来るもので はない、これは全く国家の御恩であり、そして自分と直接、間接に関係の湘ありになる方々の 御援助の賜物であるということがはっきり心の底からわかってまいったのであります。全くこ の席にこう立ちましてどの方面を見ましても、頭の上がるようなお方は誰一人もなく、みんな 特別の御援助になった方々ばかりであります。お一人お一人について申し上げて見ますと、今 夕は武島羽衣先生がお出でになっておられますが、私はほとんど四十年ぶりにお目にかかった のであります。武島先生は明治二十年前後には羽衣という筆名で、当時の文壇の花形中の花形 でありました。私は十九の時にお目にかかり、ずいぶん御好意にあずかりましたが、少年の気 まぐれとでも申しましょうか、二十一歳あたりから、足が先生の方ヘ向かたくなったのであり ます。「出版四十年」は、武島先生に対しては「御無沙汰四十年」であります。まことに申し わけのない次第であります。  私の前の席の徳富先生は、私の生涯にとりまして、非常な影響を与えて下すった方でありま す。十五、六の頃、蘇峰先生の『国民之友』を読みまして、どんなに倹い感化を受けましたか わからないのであります。私は、東北秋田の山の中の、半年雪に埋もれている、ああいうとこ ろにおって、東京と言えば、夢の国を見るような心持のする時代に、新しい思想と新しい文字 に憧れをもったということは、蘇峰先生の『国民之友』の影響といってもよいのであります。 考えて見れば、雑誌の力はおそろしいものだということを、いまさらのように感じさせられま す。  その他一々数えて見ますれば、私の恩人ならざる方はないのであります。ただ今、旧友高須 芳次郎君のお話によりますと、明治三十年でありましたか、私が活版所ヘ初めて印刷を頼みに 行く時、羽織が無かったので、私に絹の羽織を貸してくれたという話がありました。どんな正 派な羽織でありましたか、私は忘れてしまいましたが、これも御恩になったと中さなければな りますまい。野間清治先生も、私が大衆雑誌を始めてからの大先輩でありまして、私の仕事が 野間先生のためにどんなに啓発されたか、わからないのであります。  もしそれ、文壇の人々に至りましては、これは直接の御援助、直接の御指導を願った方のみ であります。私は、衷心からお礼を申し上げなければなりません。年の行かない時分は、どう も強情な人間でありまして、我《が》が突っ張って勝手なことばかり申し上げましたが、年の功とで もいいましょうか、だんだん心の底から感謝をする心持ちが一杯になってまいりました。かつ て田山さんのおやりになられた『文章世界』という雑誌に、青年詩人の福士幸次郎氏が、臨終 の際にどうか素直な気持になって、人生に対して有難うと、心からなる感謝の言葉を述べたい という意味の詩が載っておりました。私は当時、どんなに感激をもってその詩を読みましたこ とでしょう。感謝の心がなかったら、人の世は荒涼たる野原のようたものになります。人間は 人生に向って本当に感謝をしなければならぬと思いました。(拍手)私は今こそ、永い間私に 好意をお寄せ下さいました文壇と学界の方々、陰に陽に私と仕事を共にして来られた出版関係 の人たちに、深甚の感謝を申し上げる次第であります。  先刻徳富先生から、私が新潮社を始めます時に、借金をしない、約束手形も書かない決心を したということをだいぶお褒めにあずかりましたが、それなども私の力ではなく、ここにお出 での国民中学会長、前代議士河野正義さんのおかげであります。その当時私は生活にひどく困 っておりましたので、自分の良心を柾げないで出版をやろうという念願を通すには、非常な困 難が伴っていたのであります。それが、はからずも河野さんを知ったために、沢山の仕事、一 冊千枚二千枚というような原稿を書かしてもらい、昼は自分のことをやり、夜はせっせとその 内職をする。それによって生活ができましたので、出版は心のままに自由にやれたのでありま す。この点、国民中学会の河野さんに負うところ実に多いのであります。  一々考えて見れば、みんな御恩になった方々であります。私は皆さんに向って心からのお礼 を申し上げたい。本当に有難うございますという言葉は、私の衷心から出る叫びであります。  私は、だいぶ文学的の素質があるかのように先刻来いろいろお話がございましたが、元来田 舎を出る時は、何とかして一廉の文学者になりたい、立派な作品を書いて見たいという考えで 一杯だったのでありますが、十九歳の夏に雑誌を出しまして、多分二十一歳の秋と思います、 仔細に白分を検討して見て、自分は文学者たるベき天分は稀薄であるし、とうてい立派な物な ど書ける力はないということがはっきりわかったのであります。芸術的天分なくして文学者に なるということは間違いでありますから、自分は文学的の仕事をしよう、すなわち筆を執るこ とはやめるが、そのかわり文学のために貢献のできる仕事をしようという考えから、出版にか かったのであります。幸いにして皆さんの御同情、御支援により、四十年の歳月をどうやら過 ごしまして今日に至ったのであります。  先刻『日本文学大辞典』につきましても、いろいろ有難い加言葉を戴きましたが、あれは全 く犠牲的の出版でありまして、着手前に幹部の社員を集めて経済上損をするにきまっているけ れども、一つ紙上の銅像を残すつもりでやろう、これは恐らく他の出版社では—だいぶ威張 るようでありますか—手を出さないであろう、これこそ新潮社に与えられた使命であること を認識し、自分の銅像を作るつもりでやろう、ということを話しまして納得させたのでありま す。そう申しますと、如何にも銅像が欲しくて、謎をかけたようでありますが、決してそうい う意味ではなかったのであります。しかし、それが讖《しん》をなしたと申しましょうか、今回本物の 胸像を作って戴いたことは、実に有難い仕合わせであります。  胸像のできるまでに、幾回も朝倉先生の御仕事場に通いましたが、初めは粘土をべたべたと くっつけて、とても不気味なグロそのものでありましたが、だんだんと工程が進みますと、人 問らしい恰好になってまいりました。名匠の御苦心、有難いことには相違ないが、ちょっと不 足が出てまいったのであります。それは、私の胸像の側に、団十郎と菊五郎の胸像が出来あが って、同じように並んでいたのであります。団十郎はともかくとして、菊五郎が、あの端正な 立派な顔をして私の胸像の傍に立っている。くらべて見ますと、どうも私の方はあまり感心さ れない。(笑声)これは歌舞伎座の玄関で見ればわかりますが、どうも私の顔は菊五郎のよう なわけにゆかないので、いま少しどうにかならないものかと、実は朝倉先生に対して内心、不 足心を出したのであります。  そのうちに委員の方がお出でになって、とてもよく私に似ているとおっしゃられる。そうか なアと若干不服でいましたが、ある時、朝倉先生からこういうお話があったのです。胸像は決 して奥さんからほめられないーそれは奥さんは、旦那さんの良い所はかり見ているから、本 当の胸像に対してはあまり良い感じを持つものではない。こういうことを言われたのでありま す。そこで私の胸像観はがらりと変ってしまいました。家内でさえ、私の良い所ばかり見て悪 い所は見ないでいるとすれば、当人の私は相当に良い所があるつもりで、すっかりうぬほれて いるのは当然かも知れぬか、これは滑稽至極の沙汰だIIと、こう気がつきまして、朝倉先生 に対して不足心を起したことをお詫び中し上げる気持になりました。  しかし単に一個の胸像ばかりではなく、われわれの人生、われわれの仕事において、こうい う間違った考えに陥ることは決して少なくないと思います。自分の良い所にばかり囚われて、 悪い所は一つも見ようとしたい。自分にはこういう長所、特色があるというのでうぬぼれてし まって、決して自分の欠点を見ない。これが人の失敗をする大きな原因であり、さまざまの破 綻はそういう所から来るものであることを、つくづく考えさせられたのであります。  今日は、除幕式がありまして、胸像に相対したのでありますが、そういう点に気がつきます と、この長所あり、短所あって、はじめて完全な私の顔が出来あがっているのだとはっきりわ かり、とても朗らかな気持で胸像を見ることが出来、そして皆さんの御好意を心からしみじみ 感謝いたしたのであります。  いろいろ申し上げたいこともありますが、何ぶん時間もだいぶ経ちまして、はたはだ御迷惑 だろうと思いますからこの辺で切り上げますが、どうか今後の新潮社に対しましても御同情、 御援助の旧に倍するよう、また私の子供らについて、先ほど野間先生からお言葉がありました が、まことに至らたい者でありますが、四人とも出版に対しては非常な熱意を持って従事して おり、私の精神を汲み取ってどこまでもこの仕事で貫き通そうという決心でおります。私の将 来に御同情を賜わるように、私の子供らに対しましても、何ぶんの御援助、御同情を切にお願 い申します。これで御挨拶を終ります。