詩人は散文を書け 萩原朔太郎  今の日本の所謂自由詩と称するものは、詩としてあまりに非芸術的無形態にすぎる ものだが、一種の散文(詩人の散文)として見る時、初めて特殊の意義があるとい う。百田宗治君の説には賛成である。つまり今の自由詩という文学は、正しい意味で の「詩」ではなくって、「ライン書式で書いた散文」の一種なのである。所でこのラ イン書式というものは、普通の縦書きに比して読み易く、多少印象的に感じられると いう点で特色があり、一概に無意義として排すべきものではないが、それが錯覚した 韻文意識を持つところに、僕等の啓蒙すべき詩論があるのだ。いっそ無韻律の詩を書 くほどなら、大胆に散文意識を徹底して、普通の散文を書く方が好いのである。  僕は日本の詩人に向って、大いに散文を書くことを勧告する。と言うのは、日本に は真の「詩的散文」というものが無いからである。西洋では、この種の文学をエッセ イと呼び、詩人の文学として特殊の文壇的地位を占めてる。日本でもずっと昔は、 「枕草子」や「方丈記」や、芭蕉の旅行記を書いた「奥の細道」という類のものがあ り、詩的散文として文壇の第一位に権威して居た。明治以後になっても、高山樗牛の ような詩人的エッセイストや、川上眉山のような美文的随筆家が居て、尚盛んにこの 種の詩的散文を書いて居たが、その後に自然主義が横行して、すべての詩的精神を虐 殺するようになってから、現代では全くそれが見られないようになってしまった。  今の日本の詩人は、形態の問題で行詰り、絶望的に困難なジレンマに陥って居る。 詩人が自ら自縄自縛し、手も足も出ないような状態に居て、無理に苦しがった詩を書 いてるより、むしろ大いに雄躍して、自由な散文を書く方が好い。実に現代の日本文 化は、詩人に「詩」を求めないで、「詩的散文」を求めてさえ居るのである。換言す れば今の日本は、未だ真の意味で「詩」というべき文学が生れ得ない状態の社会にあ る。そこで今日詩的精神を持ってる人々は、已みがたくエッセイや散文詩やの、詩的 散文を書く外にないのである。今日詩壇で自由詩と称する文学も、実にはこの「詩的 散文」の一種であって、現代の日本文化が所産しなければならなかった、時代の已み がたい文学だった。自由詩の名称と、それのライン書式は馬鹿気て居り、虚妄の韻文 的錯覚にすぎないけれども、それは時代の詩的精神が求めたところの、一つの必然的 な文学であり、その点で価値を認めなければならないのである。  しかし自由詩の錯覚が分明して、それの散文的本質が解った今では、むしろライン 書式の迂愚を廃し、普通の縦書きの書式によって、大いに散文(詩的散文)を書く方 が好い。前にもかつて「読売新聞」で論じた如く、日本には真のエッセイや随筆を書 く人がなく、低調卑俗の漫談ばかりが、随筆という名で流行して居る。真のエッセイ や随筆やは、散文精神によって書かれないで、詩的精神によってのみ書かるべきだ。 即ち此等の文学は、詩人によってのみ書かるべきだ。しかも日本の詩人は、所謂自由 詩以外に発展せず、この種の詩的散文を書く人のすくないのは、僕の意外に不思議と する所である。却って詩壇以外に、保田與重郎君や辻野久憲君やの新人群から、この 種の詩文的エッセイストが現れたのは何うしたわけか。今の日本に於て、真の詩精神 や詩文学やが、詩壇以外から興りつつあるという僕の予感は、決して必ずしも無根拠 のものではないだろう。  しかしさらによく鑑見すれば、僕等の詩人仲間に於ても、この種の詩的散文を書い てる人がすくなくない。野口米次郎氏のエッセイ、北原白秋氏や佐藤惣之助君の随筆 などは、立派な芸術的形態を具えた詩文学である。室生犀星君の庭園を書いた随筆な ども、また日本伝統趣味の詩的散文と言えるだろう。しかし最近感心したのは、堀口 大学君の随筆と、中野秀人君のエッセイとである。堀口君はその「季節と詩心」と題 する近刊書中で、南米ブラジルの原始林のことを書いてる。南国熱帯の森林中で、巨 怪のような植物等が、性慾に燃えて生殖作用をする描写は、おそろしい迄にイマジス チックで、詩的散文の最高な表現を感じさせた。正直に告白すると、僕は堀口君の或 る抒情詩(ヴェニュス生誕など)より、こうした散文の方にずっと芸術的なエロチシ ズムと、ずっと本質的な詩文学を感受した。中野秀人君の場合も同じく、前に「日本 詩人」などに発表された自由詩よりも、最近「エクリバン」に書いた「真田幸村論」 などの方が、遥かに文学として上乗であり、且つ真の詩精神と詩芸術をもった表現だ った。  かくの如く堀口君や中野君やは、詩文意識をもつことによって失敗し、散文意識を もつことによって、逆に却って詩文学として成功して居る。しかもこの現象は、多く の詩人についても一般的に見られるのである。よってこの事実から追及すれぽ、今日 の日本文化が求めるものが、実の韻文学や詩形態やでなく、それに至る以前の文化と しての、発生期的な「詩的散文」にあることが直覚される。僕が今日の詩人に向っ て、大いにエッセイ等を勧告する所以である。