作文の話 萩原朔太郎  学校の時、僕は作文の時間が大嫌いであり、同時にまた大好きであった。嫌いとい うわけは、受持ちの教師によって、僕に全く興味のない課題を出すからだった。例え ば「机」というような題を出して、所感を述べろと言うのである。但しその前に、教 師が一通り説明する。即ち机が如何なる材料によって造られてるか。使用の目的は何 か。種類はいくつあるか。形はどうであるか。脚は何本あるか。等々の説明である。 こいつが僕には苦手であって、どうも教師の言う通りにうまく書けない。仕方がない ので、結局「机ハ木ニテ造リ、勉強ノ道具ナリ。」と一行に書いて出し、丙を頂戴す ることになる。もっと困るのは、日常書簡文の練習である。例えば「花見に友を誘う 文」というような題を出される。僕にはそんな友人が無い上に、てんで花見に行こう なんて気がないので、いくら頭をひねって考えても、何にも書くことの材料がない。 そこで結局「花見ノ頃トナリマシタ。明日午後、上野へ御一所ニ行キマセウ。サヨナ ラ。」と、簡単明瞭に書いて出し、教師から駄目を押されて叱責される。そこへ行く と優等生の模範作文はうまいもので、先づ陽春の気候を叙し、桜花の美を讃へ、遊山 の興を述べ、友の近況を問い、最後に眼目の用件を述べるのである。もっともこれ は、初めに先生が一通り概説してくれるのだから、生徒の独創で書いたのではなく、 文字通り「文を作った」文章なのだが、それが即ち「作文」としての上乗なのだ。一 体、学校の優等生という連中は、他のすべての学課を通じて、こうした「要領」を掴 むことの名人なのだ。あえて劣等生であった僕が、負惜しみで言うわけではない。  しかしまた教師によっては、時に自由課題等によって、生徒の所感を勝手に書かせ る場合もある。こういう時には得意のもので、滔々数千言、教師を驚かせるような長 文を書き、ウルトラ甲上の三重丸を頂戴した。そこで僕の作文点は、甲上と丙下の両 極端で、中間の乙という点が無いのであった。しかし近頃文筆稼業を始めてから、次 第にこの両極の対比がなく、中庸の乙ばかりが増えるようになって来た。それは色々 な雑誌社やジャーナリストから、学校式の課題作文を課せられるので、否でも練習を せねばならず、原稿紙を埋めることの作文術が、上達して来た為なのである。  このジャーナリストの注文には、しかし最初の中は全く困った。先方の出す注文課 題が、うまくこっちの興味と一致し、自分の書きたいことに触れてる場合は好いので あるが、先ずそんなことは偶然であり、たいていはちぐはぐに食いちがってる。僕は 文筆稼業を始めてから、久しく忘れて居た小学校時代の古い記憶、鉛筆の心を甞めな がら、一時間も頭をひねって苦しみぬき、最後に白紙を出した苦い記憶を思い出し た。そんな思いをする位なら、初めから注文を謝拒して、こっちが何時でも好きな時 に、興に乗って書いた作品だけを、逆に自分から持ち込んで行く方が好いのである が、僕の過去の経験からして、この手が全く通用しないことを知ったので、近頃はす っかりあきらめてるのである。  だが習うよりは慣れろである。次第にその無理をしている中に、だんだん課題作文 がうまくなった。つまり注文して来る課題の中に、何かしら自分の興味の種を見附け て、無理にこじつけてしまうのである。こいつは一つの練習だが、つまりは平常の心 がけで、だれにも出来る芸当である。これが熟練してくると、どんな雑誌社の注文に も恐れなくなる。さあ矢でも鉄砲でも持って来い、と言う気になる。しかし種のない 手品はできない。こっちに満更ら主観的関心のない問題や、ジャンルのちがった別世 界の作品などを課題されると、こいつは文句なしに断る外はないのである。しかしジ ャーナリストの方でも、たいていの見当は附けてるから、そんな意外な注文は滅多に 来ない。不思議なことは、〆切間際まで何うでも書けずに悩んでる原稿が、最後の速 達催促を受けた日には、苦し紛れに出来てしまうから妙である。精神一到、豈に何事 か成らざらんやという真理は、この原稿稼ぎを経験した人にはよく解る。  つい最近まで、僕の所へいちばん多く来た注文は、詩を別として、所謂「季節も の」の随筆である。ジャーナリストの常識では、この種の随筆は詩人の畠にきめてる らしい。つまり詩人という人間は、四季の変遷、花鳥風月の美を吟懐するものと極め て居るのだ。所があいにく、僕にはそんな風流心が微塵もないので、この種の課題作 文がいちばん困る。いつも引き受けてしまった後で、散々な苦しみをし、ロクな金に もならない仕事で、間職に合わない馬鹿馬鹿しさを後悔して居る。そこで最近ふと思 い附き、俳句の歳時記を買って置くことにした。すると例えば、初秋の随筆を頼まれ た時、歳時記の頁をまくって、天文、地理、人事、草木、魚介等の各項から、種々の トピックを選出し、そこから思想の糸口が手繰り出せる。これはまことに便利であ る。だが本来言えば、この種の随筆の注文は、専門の風流人たる俳人や歌人に持って 行くべきで、僕等の新派詩人の所へ来るのは無理である。僕等はゲーテやボードレエ ルと同じく、宗教や恋愛に関するヒューマニズムの問題なら、いくらでも悦んで議論 するが、雪月花の風流には少しく無関係の徒輩であるから。  要するに文筆稼業というものは、或る意味に於て文字通りの作文(文を作る技術) である。考えて見れば馬鹿馬鹿しい。しかしその作文の課題を通じて、自由に自分の 主観を述べ、勝手放題の事を書き、逆にそのジャーナリズムを、自家の文学に利用す るようにさえなれば、これほどまた愉快な仕事はない。そしてまた実際に、多くの文 士はそれをやって居るのである。