虚妄の正義 萩原朔太郎 序 第四刷 重版に際してさ            結婚と女性 結婚の時期 結婚の浪漫思想 何が人々を卑屈にするか 漠然たる情熱 帽子と求婚 偕老同穴虫 |媒介者《なこうど》の算術 緒言 盲獣 家庭の痛恨 一夫一妻制度について 童貞マリア |久遠《くおん》の女性 |蜂巣電灯《シヤンデリヤ》の下での思想 美しき野獣 柔和な陰謀 猫の郷愁 女子教育の新発見 嫉妬の本性 婦人を虐待する者への教訓として 賢者の石 未来への鍵 新世紀の初めに 浅く考える ヱランダに坐って 婦人解放論の原理 1 婦人解放論の原理 2 女性の敵? 無智の寛容 女嫌い 愛の一形式 愛1あまりに功利的なー 家庭的になる 家庭人 婦人と安時計 愛の記念としてZΦく臼ヨ9巴 武士道の正義 動物の貞操観 早すぎる理想 プラトニズム 或る味覚への聯想 顛倒された趣味 婦人を愛するには 社会と文明 医者の正義 唯物主義者の道徳観 君主と人民 文章がちがう故に 戦争に於ける政府と民衆 宗教の本質 誤謬からも文明は向上する 雅号の由来 民衆の正義とは? 文化における忙しきもの 東方の幻想 科学はその夢を無くしてしまった 田舎と都会 教科書 だれが自然への愛を妨げたか 試験の意義 教育? 宗教の残骸 革命とその忘恩 文明は進歩しない 浪と文明 義人と卑随漢 或る野戦病院における美談 この陰欝の景色を消し去れ! 義賊の哲学 透視せよ? 日本の残夢 詩的すぎた修身教科書 大邸宅の門を出でて 芸術家と金満家 感覚と精神 |卑怯《ひきよさつ》の正義 |間諜《スパイ》の心理 テロリストの原理 人間の退化について 商業 意志と忍従もしくは自由と宿命 永世輪廻 夢と子供 恐ろしい刑罰思想 富の計算における虚数と実数 貧民の思想 賭博の哲学 田舎の時計 事情の神秘性 球転がし 門 |鯉幟《こいのぼり》を見て 記憶を捨てる 情緒よ! 君は帰らざるか 港の雑貨店で 不死の自殺 猿 傷ましき風景 復讐としての自殺 悪魔の書 新約全書 悪魔の良心 仏陀の敵 迷信としての人生 都合の好い理窟 死なない蛸 鏡 自由とその幻滅 平等思想の復讐感 沸点への自覚 狐 忍従 吹雪の中で 銃器店の前で 虚数の虎 自然の中で 触手ある空間 大仏 家 黒い洋傘 国境にて 寒烈に耐えて 傾斜に立ちて 恐ろしき人形芝居 人間の腹立たしさ 悲しい情熱家 王者の悲哀 歯をもてる意志 墓 神々の生活 空家を訪うて 郵便局 春画 芸術に就いて 新世紀の初めに 汝自身を知れ! 稚態を脱せよ 十八世紀の終に 文学的虫介類 理性的の者は現実的である 過渡期の芸術家への慰めとして 文学者とジャーナリスト 百貨店での警告 党人的文学者 汝一層の傲慢をもて! 芸術家の風俗とその変転 新時代? 建築のZOω8一ひQご 美術家の先入見 裸体美の原理 文明開化? 虚飾というべきものは無い 奇妙な理窟 小説家の推理力 古いことの正義 芸術には上達がない 芸術には進歩がない 1 芸術には進歩がない 2 民衆は原理を知ってる 文学的|蠕虫類《ぜんちゆう》 輿論 趣味の熱情 生活と芸術 生物学的に観察して 古典主義 悲劇の意向 通人文学-悪趣味なる 詩人と外国語 芸術的神秘思想 如何にして大家は技巧に熟達するか 無用の情熱 真実から離れて 春眠情調 大家等の意見 功利のための芸術 方便としての欺隔 芸術のエルサレムヘ! 欧羅巴の郷愁 反性格と自然性格 新時代への反動として 一つの空虚 断崖に立ちて 誕弁家-1好意的に解釈して 夢景人物 引力圏外の人々 迷信教徒への鏡として 酔漢の市場に立ちて プロレタリア芸術 地球の地軸に近く居るもの 日本の文学 閑人倶楽部 王者の沈黙 床ずれのした文学 里程表の前に立ちて 内部への瞳孔 病気の利益 孤独と社交 心配無用 新宮廷詩人 西と東 教師の教師 ポオの明言 早すぎる写実主義 美を生もうとする意志 文学の本質問題 詩人風の作家 種とその分散 不遇に忍びて! 反鶴獣 浅間山に登りて 退屈を知らないもの 退屈の療法としての病気 退屈と革命 太々しさの本源 精神的な人物? 平凡の真理 無職の職業 酒神 調節油としてのアルコール 雅趣あるもの 思想と摂生 観念的過激論者 情熱の源泉として 孤独の原因 旅行 知人の著作 謙遜の危険 尊大な者の偽善 如才なさ 社交の形式化に就いて 人品の薫育としての礼節 エピクロスの失楽園で 功利的な思考でなく 航海の歌 海 友情の侵害区域 友情の本質 親友 神と人との友誼について 非ユークリッドの空間 読者のために 空洞の中で 私が此所に居る 著者 歪像鏡 著者の苦手 煙霧の景 習慣的読者 経験の恩物 無尽数への希望 名声 ちがった方面での努力 著述と天才 作家の寿命 著述の教訓 恩給としての名声 弟子の忘恩 文章に於ける通がったもの 譜諺の笛 街学の心理 衆愚の中に一人立ちて! 情熱への忍耐 |鉄槌《てつつい》の下で 初夏の歌 天才と郷党 気味あしき幻想 天才の努力 天才の利率 天才の|鬼《ましこ》㎜|犬《く》 偉大さの要素 英雄の孤独 ロムブロゾオ的に診察して 欠乏からの名誉 虚言への情熱家 思想と争闘 ソフィスト 思想以前のもの 覚醒の前に 思想家の散歩区域 自然からの思想 説明と省略 思想と感情 1 思想と感情 2 思想を嗅覚するもの 漠然たる敵 論戦に於ける矛盾 資格の欠乏 私敵と公敵 思想家と小説家 パノラマ風の意匠として パノラマ風の意匠として あまりに没理性的なる ブルタスの歎き 強者の弱さ 我々は尚あまりに感傷的でありすぎる 汝の敵を愛する勿れ! 悪の定義 敵の実体 弁証論の誕弁 或る敵国の人へ 東洋の悔恨 虚妄の正義 我れは裂けたる鉄板を鳴らしつつ、虚妄の正義を 歌い出でん。耳あるものは聴くべし。 序  この書の内容の或る部分は、かつて二一二の雑誌に発表した。しかしその大部分のもの は、殆ど全く発表せず、七年近くも長い間、ノートのままで机の塵に埋まって居た。実に この書の集編は、年月と共に|塁積《 るいせき》されて来たのである。  城! すくなくともこの書に於て、著者は自分の城を感ずる。それは多年の間に建築さ れ、一つ一つの石を運んで、|漸《ようや》くに積みあげられた塁壁である。しかもこれらの仕事は、 概ね人に見えない所で、寂しくご小ぞいと続けられていた。長い間、著者は孤独を忍んで 労役して居た。また忍ばねばならなかった。  この書の内容が何を語るか。それは緒言と本文に譲っておこう。形式に関する苦心を言 えば、できるだけ短い句章に、できるだけ長い思想を盛ることだった。如何にせば㎜行に あまる思想を、10行の短章に縮め得るか? これが著者の考えた苦心であった。(なぜと 言って文章は、短いほど印象が強いから)。この目的からして、著者は先ず論理を省略し た。論理はすべて説明であり、直覚に入る限りに於ては、一切冗漫の蛇足にすぎないか ら。次にまた自分は、できるだけ引例を省略した。引例は事実の証拠を提出する、常識家 への説法にすぎないからだ。  すべてに於て、著者は直感に訴える手段を選んだ。それは読者の脳裡をかすめて、直ち に電光のように光芒する、一の意味深き「暗示」をあたえるだろう。そして暗示が既に解 れば設計は読者の方から引き出される。著者は建築の構図を描いて見せるのでなく、構図 への暗示をあたえるところの、最初の信号手になるにすぎないのである。  この書の或る部分は、かなりに詩文風なスタイルで書かれて居る。だが自分の意向した ところは、言語に於ける詩的な香気を書くのでなく、内部に於ける一つの思想を、様々な る肉情の衣裳によって、直感に盛りあげようとしたのである。だから自分の書物につい て、他の論題の部分を読まず、単に詩文風な断章だけを、それの芸術的香気によって引き 抜こうとする読者は、著者としてありがたくなく、好意的にも謝絶しておく。但しこの書 は、体系のある論文ではなく、断片を集編したものである故に、順序を追って読む必要は なく、どこからでも好きな所を、任意に披いて味読されたい。むしろ著者は、その方の読 み方を望んで居る。 七年前に出版した、前の書物「新しき欲情」 は、 当時自然主義の全盛期に、あらゆる自 然派美学の根祇をくつがえすべく、彼等の文壇を対象として、啓蒙の憎々しさから筆を執 った・当時その書物は・不幸にも詩町昏気介旋に誤られ、欝かに詩壇の一部の人に、詩書 の一種として読まれたのみで、文壇的には見事に黙殺されてしまった。しかも著者を黙殺 した奴ばらは、今日完全に失脚して、彼等の既成文壇は崩壊した。時代は著者の予言にし たがい、この七年間に着々として動いて行った。  しかしながら今日、著者はまた一つの新しき寂しさを感じている。過去の|似《え》而|非《せ》文学は 滅びても、これに換わるべき新文学が、未だ興って居ないからである。けれどももはや、 文壇のことなどはどうでも好い。著者はもっと深いところに根を持っている、悪の本源を 憎んでいるのだ。この書はより大きな敵に向って、啓蒙の熱意から身構えて居る。  著者は自分に謙遜であり、あまり多く自誇を持たない。しかしながら比較に於て、この 書は多くの問題に富み、すくなくとも一の|頁《ぺ ジ》が、他の凡百の書の百頁に当って居る。著者 はそれを確信する。にもかかわらずこの書物も、前と同様の運命から日本の文壇者流に理 解されず、寂しく黙殺されてしまうであろう。著者は百の轡憤を感じつつ、この書物をも また、街上に叩きつけて出版する。 西暦一九二九年五月 著  者 第四刷 重版に際して  この書の初版は、一九二九年に市に出してる。今から七年前である。出版当時は、詩壇 からも、文壇からも殆ど完全に黙殺されてしまった。初版の序をよむと、自分はそれを予 感して居り、可成烈しい態度で憤怨して居る。と言うのは、この書に対して、自分が相当 の自信を持って居たからだった。然るに既に七年も経った今日、この古い本がまた新しく 増刷され、多くの読者を得るようになったということは、自分にとって意外でもあるし悦 びでもある。つまりこの七年間に、日本の文化と読者階級とが、著者の思想や詩精神を理 解すべく、次第に近づいて来たのであろう。自分のように、文壇とジャーナリズムの圏外 に立ってる著者は、常に批判の外に孤立しながら、黙々として筆を取ってる。それは確か に、寂しく孤独な仕事である。しかもそれに耐えてるのは、いつかは必ず自分の思想が、 大衆によって理解され、共鳴者を得るにちがいないということを、心に|確《かた》く信じて居るか らである。いわゆる詩壇人や文壇人のグループではなく、真の文学を愛する一般大衆(社 会人)によって、自分の著書の広く読まれんことを希望して居る。なぜなら今の日本に於 ては、彼等の一般大衆だけが、真の文学の正しい批判家であるからである。 ---------------------[End of Page 19]---------------------  尚この新版の表紙画(鎌の図)は、版画家逸見享氏に描いてもらった。 |此所《ソしこ》で同氏にお礼を述べておく。 西暦一九三六年春 著者 第四刷 重版に際して 緒言 黄泉にありて理性を有するは、ただチレシアス一人。 他は影の如く飛び行く者のみ。             オデッセイーホーマア  今日のような時代! 我々の伝統は滅びようとし、外来の精神はまだ根を持たない。今 日のような時代に於て、我々の馬鹿正直な日本人は、何を考えたら好いのだろう?  到るところに充満して、怪しげな化物が歩いている。風俗は洋風に下駄を履き、二十世 紀の欧洲文化が、伝統の古い封建思想と雑居して居る。あらゆる乱脈と混雑の中に居て、 我々の時代の美術家等は、カンバスの上に日本の自然を描こうとし、西洋絵具と対象との 矛盾から、救いがたく絶望の自覚に悩まされてる。一方で詩人たちは、本来韻律要素のな い日本の国語で、無謀にも欧洲風の拝情詩や叙事詩やを真似ようとして、結局自ら詩を否 定するに至った迄、帳尻りの合わない総決算に到達して来た。同じように散文家等が、今 日小説の出発すべき、最初の形式問題について議論している。そもそも彼等は、西洋近代 思潮の産物たる自然主義や浪漫主義やを、過去の日本の伝統した古い国訊叩1-しかも日常 会話の国証叩IIによって、小説の上に表現しようと意志した日から、最初のヂレンマに陥 ちたのである。国語とその文法とは、必然に思想の内容を決定する。江戸時代からの伝統 した日本語脈で、西洋近代の文学を書こうとしたほど、誤った出発点がどこにあるか。そ れによって小説家等は、浪漫主義を西鶴流の江戸文学とし、自然主義を俳譜人の写生文学 に変えてしまった。  かくの如く今日では、芸術も、風俗も、社会も、政治も、一切の者が混沌としている。 今や我々の時代に於て、実に「正体を有するもの」は一つも無い。一切が|狸雑《わいざつ》と矛盾を尽 して、得体のわからぬ妖怪変化が、文化のあらゆる隅々を横行して居る。今口のような闇 黒時代、わけのわからぬ化物尽しの時代に於て、我々は何を正しく言うべきだろうか? 或る軽薄なる者共は、単なる感覚の表皮によって、アメリカ文化の先走りした趣味を追い かけ、或る|固随《ころう》なる者共は、歴史を鎖国以前の国粋に帰そうと妄想している。  丁度こうした日本の事情は、|希臘《ギリシヤ》末期の闇黒時代に比較される。そこでは人々が真理を 失い、信仰もなく権威もなく、至るところにでたらめの論弁論者が横行した。その時流的 か々ん物等は、輿論の喝采と名声を博するために、〈心に迎合する思想を唱え、彼等自身 でさえも本当には信じていない、時流向な曲弁や奇説を盛に論じて、いよいよ益≧時代を 混乱に惑わし歩いた。だれがこの時、一人時流の中に敢然として、正しき良心を持ってた ろうか? すべての聡明な人々は、もはや認識することを止めてしまった。彼等は誕弁家 にもならない代りに、時代の指導者にもならなかった。義人はすべて隠遁して、賢者は懐 疑主義にかくれてしまった。  けれども此等のピロニストは、自ら懐疑の|瞳《め》を深くして、何物をも信じないと断定する 時、その断定自身によって矛盾を生じ、自身を危うくすることをよく知っていた。それ故 にまた彼等は、いつもこの点で態度を|晦《くら》くし、信条のない卑屈の立場で、言語や行跡をご まかして居た。然り! 彼等もまたごまかして居た。それらの悟ったらしき隠遁者等も、 実にはソフィストの同じ仲間で、薄闇の影に幽霊を出し、白昼の正義の前でおどおどして いる、欺偽の交霊術師にすぎなかった。  この時! この希臘の闇黒時代に、必ずソクラテスが出なければならなかった。彼こそ は時代の良心が要求している、唯一の聡明の義人であった。彼はソフィストの逆手を用 い、論理のあらゆる裏返しにした奇説によって、時流の押し寄せる浪と戦い、民衆の先入 見を排斥して、輿論の誤った蒙を啓き、すべての似而非物を叩きつぶした。しかしながら ソクラテスは、彼自身に於て主張さるべき、何の新しきドグマも真理も掲げなかった。彼 はプラトンによって継がれる迄、一つの「無記名の思想家」であり、自分の哲学をもたな いところの、一種の懐疑主義者として眺められた。人々は彼を目して、同じ誰弁論者の一 族とし、虚無の世界に低迷している、ニヒルの破壊主義者と考えた。  けれども本質の点に於て、ソクラテスは全く俗流と異って居り、断じて誰弁家や隠遁者 の類ではなかった。彼はソフィストの虚無観を外貌しながら、実には真理を建設すべく、 或る{つの漠然とした、しかしながら力強き、時代の新しき欲情と正義感とを、深く人々 の心に呼び起そうとしたのである。彼の思索したところはこうであった。 「既に有ったものも、現に有るものも、すへて何物も信ずへからず。1なぜならばその 一切は虚偽てあるから。1我々は|瞳《め》を開き、このてたらめの|社《ちちさち》会に横行している、欺偽 の似而非物を見破るべく、一切に向って懐疑をしよう。けれどもしかし、我々は常に熱情 して、実に有ゑぎか介を呼びあげて居る。今私は、真理が果してどこにあり、正義が何 物であるかを知らない。私自身に就いてさえも、悲しいかな、自分は何物も知らないの だ。我々はこの時流に泳ぐところの、|果敢《はか》ない一片の木の葉にすぎない。我々は非力であ る。非力である。そして反省を深めることから、いよいよ益ー自分の無智を自覚して来 る。けれども尚、我々は断じて真理を呼ぶことを止めないだろう。真理は確かに無ければ ならず、熱情されねばならないのである。今、私は諸君の教師でなく、道を教える先導で もない。しかしながらただ、諸君の良心を呼び醒し、時代が考えねばならないところの、 正しき認識への暗示をあたえる。問題は此所に在り、私がそれを提出する。しかも私自身 は無智であって、自分で解決する智慧を持たない。願わくば諸君と共に、諸君の反省と共 に考えよう。」と。  今や、新しい日本がまた、今日の救いがたい混乱からして、一人のソクラテスを要求し て居る。おそらくは今日の事態に於て、|何人《なんぴと》のすぐれた智慧も、かかる時代を整理すべ く、解決への鍵を持たないだろう。むしろ独断の解決者は、今日に於て危険すぎる。我々 の正しい理性は、独断の道を示す教師でなくして、我々の民衆と共に考え、次に来る時代 のために、正しい海図への暗示をあたえ、問題を提出してくれるところの、一つの燃えつ いた良心を要求する。 著者自身に関して言えば、自分は卑小の人物であり、その上にも尚力を持たない。著者 に於てのソクラテスは、一種の|冒濱《ぼうとく》であるかも知れない。しかも今日の日本に於て、かか る闇黒時代に生活し、あらゆる虚偽と矛盾の腹立たしさを忍びながら、だれかよく自ら耐 えて、正義への情熱と欝憤を感ぜずに居られるか? 著者は自ら非力を知り、戦い敗れる ことを自覚しながら、しかも今日の似而非社会と、似而非文壇のすべてに向い、剣を抜い て突撃しなければならないのである。  著者はこの書物に於て、時にしばしば嘆いている。戦い常に敗れて帰り、孤独に悲しむ 自分をいとしく、女のようにさえも歎いている。だが他の多くの場合に於ては、もっと勇 敢な闘手となって叫ぶだろう。そして常に到るところに、今日の社会に於ける「未解決の 問題」を、諸君の良心の前に提出して居る。 結婚と女性 変りつつあるものは何だろうか? 我々の時代の家庭である。 政治でない。芸術でない。 著  者      ●結婚の時期 情慾は判断を暗くする。それの性急な要求がない時に、静かに熟考して妻を選べ! 然 るに人々は、生涯の最心悪…時斯に結婚する。      ●結婚の浪漫思想 肉情はだれてもよく、あらゆる異性を要求する。精神はただ一人を1真のただ一人だ けをーあこがれ望んて居るのだけれとも!      ●何が人々を卑屈にするか  人々は求婚から、人生の避けがたく妥協的で、好い加減のところであきらめる外、満足 のないという事実を知る。彼等はそれから卑屈になり、高適の理想を捨ててしまう。      ●漠然たる情熱  しばしば人は、人生の漠然たる情熱を感じている。たとえば秋の落葉する木立の中や、 都会のさびしい裏町やを歩いているとき、或は落日に影をひいて、高い陸橋の上を渡って 行くとき、或は海にきて大洋の響を聞いたり、或は春の艶めかしい夜に、窓もれる花樹の 香わしい匂いを嗅いだりするとき。  いかにしても我々は、かかる情操のふしぎな思いを語り得ない。なぜならばその思い は、一の漠然たる気分であって、思惟の対象すべき観念を持たないから。しかしながら 人々は、それの強き熱情に溺れてしまう。そして我々自身が、人生の中へ溶けこんで行 き、霧の深い密度に吸い込まれるのを感じてくる。何がなし、我々は興奮してくる。すべ てが意味深く感じられ、感覚する世界の向うに、尽きない神秘の人生があるように思われ る。  かく我々の結婚が、丁度漠然たる情熱からされるのである。 ●帽子と求婚 帽子を買うためにすら、人は遠方まで出かけて行き、数軒の店をひやかし、幾百の中か らただ一箇を選ぶのである。それでも尚、実に満足する品を得ることはむずかしい。何と なれば出来合いは無数にあり、要求する条件は一である故、それの満足の発見は、数百に 一のプロバビリティであるだろう。  もちろん帽子は、|些《ささ》々たる日常の事物にすきない。より重大なる事物-生涯を通じて 必要であり、しかも一たん所有した以上には、捨てることも交換することもできない、そ れの選択における判断の可否が、ずっと後までも一生の運命を決定するという如き、しか く重大なる事物。1の選定に際しては、いかに人々が念入りになることだろう。  この後の比喩を、我々の結婚について言うのである。いかにして諸君は結婚したか? いかに諸君の唯一の妻を(もしくは良人を)幾千人の異性の中から選定したか? 一の気 に入った帽子を買うためにすら、数百の帽子について調べた如く、より重大な事件の選定 にまで、果してどれだけ多数の候補者を|薮《くじ》の中に数えたか? おそらくは無造作に、つい 手近の所て、僅かに数人の中の一人を1最も当のないプロハヒリティをi見込んだに すぎないのだ。  かくして尚、もし結婚に悔がないとするならば! ●偕老同穴虫  我々の国に於ては、しばしば配偶生活が偕老同穴虫にたとえられる。そして悲しいか な。じっさいにこの比喩は当っているのだ。  偕老同穴虫の配偶は、全く偶然の運命によって決定される。ある海潮のしずかな流れ が、一の硅質の網籠にまで、一対の甲殻虫を閉じこめる。かくして大海に生棲している、 無数の同属中での或る任意の一対が廻合するとき、直ちにその配偶生活が始まってくる。 即ち彼等の婚姻は、気流や海潮が運ぶところの、気まぐれの「運」に任せてあり、その配 偶の選択は、いっさい「偶然」が決定する。しかもかくして、一旦定められた偶然の配偶 は、彼等が共に老いて死ぬまで、生涯を通じて変ることなく、宿命的に結合された夫婦で ある。何となればその網籠には、どこにも自由の出口がなく、一旦閉じこめられた以上に は、もはや終生出ることができないから。  偕老同穴虫。意識なく個性なき海中の微生物の場合にあっては、この自然の結婚法が最 も満足にして完全なものであるだろう。何となれば彼等は、その同種属たる限りに於て、 AもBもCもDも、すべてが全く同一の衝動体にすぎない故、任意に選ばれた二箇のもの は、常に必ず最善の配偶である。この場合での結婚とは、性を異にする二箇の物質が、自 然の盲目的な媒介-運や偶然やーによって結合し、選り好みなき生殖生活をするもの にすぎない。  人間の場合に於て、万物の霊長たる人間の場合に於て、これがまた同様にそうであるな らば! 人と人の配偶が、もしBの代りにCを取り、Cの代りに任意の一を取りうるよう な、天運任せの抽薮的結合であるならば、いかに人間の結婚は非倫であり、みじめな、下 等動物的のものにすぎないだろう。しかも世の所謂「夫婦」とは、概ねただ偶然の機会に よって、殆ど多くの選り好みなく、運命的に、抽簸的に結合したものにすぎないのだ。社 会はこれを結婚と呼び、外面的な儀式によって神聖化してる。ただ儀式だけが、空虚な胡 魔化しの形式だけが、所謂「人倫」を観念づけてる。だがその儀式を除いてみよう。あら ゆる多くの配偶者は、真に文字通りの「野合」である。即ち人格と人格との配偶でなく、 性と性との、細胞物質と物質との、一般的なる選択なき結合である。  偕老同穴虫的動物1。いかに歴史の長い間、人間はこの非倫的なる、下等動物的なる 結婚を続けて来たことぞ。過去に於ても、現在に於ても、我々の結婚は常に盲目的で、偶 然の「縁」により、予想のつかない「運」によって、配偶者の盲籔を引きあてている。何 人も、結婚してしまった後になって、逆に初めて配偶者の何者たるかを1真にいかなる 人物てあったかをー知る。結婚の前にあっては、単に異性てあることの外、漠然たるよ そ行きの概念の外、どんな具体的の人物も知っていない。我々は無鉄砲に、運を天に任せ て、予想のつかない結婚をする。ただその日の天候が、気流が、潮の満干の流れが、我々 の自由意志と交渉なく、ある偶然の配偶を運んでくる。人は結婚せねばならない。しかし ながら何物が、どんな方面から、いかにしていつ求婚してくるかを知らない。一切の配偶 は縁であり、予想のつかない、偶然の支配に属している。(それ故に、結果の幸不幸も、 また偶然の運である。)  実に数千年の長い間、人は「偶然」によって結婚し、しかも生涯を通じて離れず、概ね 貞操ある夫婦として過して来た。(何となれば道徳が、法律が、社会の制度が、別して子 供への責任などが、それの出口を|塞《ふさ》いでいるから。)げに人間のみじめさは、よくも数千 年の歴史を通じて、偕老同穴虫たる運命を忍んできた!     ●|媒介者《なこうど》の算術  結婚の|媒介者《なこうど》等は、人生の最もテリケートな問題1おそらくはそれからして、幾百千 の複雑な組合せが予想さるへきlIに対して、一の最も単純なる、小学生の算術しか有し て居ない。一+一11N     ●盲獣 結婚に際して、人は数学上のわかりきった公式(|偶然数《プロバビリテヨ》の公式)さえも忘れている。 それからして当然の悲劇が起り、まだ原因に気がつかない。 ●家庭の痛恨  西洋の風習では、その妻が良人と共に社交に出で、多くの異性と舞踏をし、宴会の席上 で酒をすすめ、ピアノを弾き、唄をうたい、文学を論じ、時に艶めかしき媚態を示して、 人々の注意と愛情を|惹《ひ》こうと努める。然るに東洋の風習は、これと全くちがって居る。 我々の社会にあっては、すべてそうした女の仕事が、芸者と称する特殊な職業婦人に一任 されてる。芸者等は、全くその目的からのみ養成され、我々の宴会や社会に於ける、一切 の事務を受けもっている。実に我々の日本人等は、芸者なしに一の社交や宴会をもなし得 ないのだ。なぜなら我々の妻たちは、深くその家庭に押し込められ、純粋に母性としての 訓育を受けてることから、全く社交上の才能を欠いでいるから。つまり言えば我々は、西 洋人がその一人の女に課する二つの要求  家庭に於ける母性と社交に於ける娼婦性1 とを、初めから厳重に分離されて、家庭には妻をおき、社交界には芸者をおき、|夫《それぞれ》々別々 の分業観から専門に教育して来たのである。  東洋と西洋と。この二つの異なる風習に於て我々は何れの長所を選ぶだろうか? 純理 的に観察すれば、もちろん我々の国の風習は、遥か西洋のものに優って居る。なぜなら一 人の女について、矛盾した二つの情操(母性型と娼婦型と)を要求するのは、概ね多くの 場合に於て、その両方を共に失い、家庭の母性としても完全でなく、コケットとしても不 満足であるところの、不幸な物足りない結果になるから。(西洋の多くの家庭が、いかに 例外なく不幸であるか。また多くの既婚者等が、いかにこの点で嘆いているかを見よ。) 東洋の家庭は、一般に西洋に比し、ずっと遥かに幸福である。我々の妻たちは、昔から長 い間、純粋に母性としてのみ、その家庭の中で生活して居た。良人たちは妻に対して、裁 縫や、育児や、料理やなどの、純一に母性としての仕事を求めた。彼等がもし享楽や、宴 会や、社交などを欲するならば、いつでも|公《おおやけ》に芸者を呼び、別の種類の婦人に対して、 別の種目の奉仕を求めた。そして結果は、両方の場合に於て、|破綻《はたん》なく満足であったので ある。  しかしながら今日、東洋の事情は変化して来た。支那に於ても日本に於ても、国情の著 るしい欧風化は、もはや旧来の慣習を許さぬだろう。何よりも第一に、我々の女たちが変 って来た。彼等の結婚に対する考え方が、母愛よりも享楽を望むところの、西洋の習俗に 近づいて居り、そしてまた実際に、我々の家慶ぞけ心けが変化した。殆ど概ねの女たち が、今では家庭の妻として愛されるより、むしろ路上を散歩する情婦として、コケットと して愛されるであろうことを、ぞ介良上ハに朴レτ}白望んでいる。一方に芸者や妓生や は、社会の種々なる変革から、今日事実上に亡びてしまった。そして尚その上に、今日で は|妾《めかけ》を持つということすらが、経済上困難になってしまった。(昔はたいていの男が、一 人や二人の妾は囲って居た。妾宅は当時に於て、私設の社交機関でもあったのだ。)  それ故に今日では、我々の家庭もまた、西洋と同じになろうとして居る。我々の時代の 女たちは、純粋の|家庭婦人《ハウスキ パご》として典型されず、一方に社交界の花形を兼ね、一方に良妻賢 母を兼ねるところの、二重の負担に於て教育される。その良人たちがまた、妻に対して|妾《めかけ》 を兼ね、母性に対して情婦の愛嬌を兼ねるところの、二重の情操を要求して居る。だが不 幸にして、自然は一つの徳に二つをあたえず、そんな慾ばった要求を聴いてくれない。 我々の新しい東洋人が、おそらくはまたそれによって、古き西洋の悔恨を|嘗《な》め、彼等の大 多数を憂欝にしているところの、あの家庭地獄を経験せねばならないだろう、 ●一夫一妻制度について  一夫一妻制度は、人が真にその相愛の配偶を得、気質的にも、肉体的にも、互に双方か らの理想を一致し、理解を深くするところからして、生涯を通じて愛を変えず、全身を以 て尽すところの、世界に求めて一人しか有り得なかった、唯→介偶然介配偶春を得当てた 時のみ、その神の前で誓った如き、倫理上の正しい理由を持つのである。しかしながらそ んなことが、百万中の一例にしか、実の現実の世界で有り得るだろうか。殆ど概ねの場合 に於て、結婚は出まかせの運であり、好い加減のところで知った異性と、好い加減のとこ ろで結婚して、互に不満と不平を忍び、でたらめの|籔《くじ》で妥協しているところの、極めて非 倫理的のものにすぎない。そして実に、これが人生の事実であり、現実の実状であるとす れば? いかに一夫一妻制度は偽善であり、人生を不潔にする有毒の制度なるかな!  今日我々は、それを明らかに断言しよう。一夫一妻の古い思想は、中世の|基督《キリスト》教が夢み たところの、過去の教会道徳の残夢であり、今日の新しき社会に於て、当然廃棄さるべき ものであると。あの暗い僧院の中に閉じこもって、人生の現実から顔をそむけ、永遠に実 現されない天国のはかない夢を、その理想の中でのみ建設していた基督教は、結婚に関し てもまた、僧侶哲学の「神聖の愛」を妄想して居た。実はその結婚の第一日から、初めて 互の人物を知り、前の交際で隠されていた真の気質や性格やを、あらわに知ろうとしてい る新婚者を、早計にも神前で固く誓わせ、「生涯を通じて変らぬ愛」を強うるほどにも、 彼等は宗教的の偽善者であり、取り愚かれたる浪漫主義の妄想家だった。そして一夫一妻 の倫理思想は、実に彼等の基督教によって建てられたのである。  今日我々は、基督教のあらゆる迷信を捨てると同時に、その倫理学が規範した一夫一妻 制度の旧習を廃棄しよう。単に道徳上の観念として廃するのでなく、実際に制度の上で、 社会生活上にも廃棄することを主張するのだ。すくなくとも一夫一妻制度は、今日の社会 に於て虚偽であり、人々の家庭を暗くし、不幸と不合理とを社会に強うる。のみならずこ の制度は、人間性の自然に反し、その点で根本的に誤って居る。なぜなら人間の自然性は 1男ても女ても1常に性の新しき変化を好み、事情の許される限りに於て、多くの別 の異性と交るべく、性の刺激ある悦びを求めて居るから。 ●童貞マリア 処女マリアの肖像は、基督教の浪漫思想が夢みたところの、悲しき神聖結婚の幻影であ る。      ●|久遠《くおん》の女性  マリヤは常に嘆いている。憂欝に、かなしげに 、あこがれに|充《ちちちち》ちた|眼眸《まなざし》をして- 。 ●|蜂巣電灯《シヤンデリヤ》の下での思想  愛は、その愛するものを独占しようと願っている。これが嫉妬の起源であり、自然のこ とである。しかしながら愛は、それに成功してしまった後では、競争もなく、嫉妬もな く、退屈で|槌《さ》め易いものに|易《かわ》ってくる。これがまた自然であり、概ねの家庭悲劇が、そこ に基いているのである。  西洋人の古い智慧が、この不幸から脱れるために、あの華やかな夜会や舞踏会を考え出 した。そこでは自分の妻たちが、他の異性の手に抱かれ、他人の若い妻たちが、また自分 の手に抱かれて居る。電灯の下には花が飾られ、香料の匂いは艶めかしく漂って居る。音 楽と、そして靴ずれの中の甘い|密語《ささやき》!嫉妬は必ず起るであろう。しかも紳士の教養によ って調節された、つつましやかの軽い嫉妬が!  これからして西洋人は、常にその家庭を若返らせ、いつも台所の中に|燥《くす》ぼってる妻たち をして、明るい新婚の夜に恢復させる。(どんな妻たちも、決してその良人のためには化 粧しない。)舞踏会の風習は、家庭をその|糠味噌《ぬかみそ》の|徽《かび》から救い、永遠の退屈する憂欝から して、人生を刺激あるものにしようとする、悲しい西洋人の発明である。 ●美しき野獣  婦人等は、子供と同じく「自然」である。粗野で、無邪気で、単純で、激情に走り易 く、天然のままの野性であり、未だ開明に慣れないところの、自然の美しい野獣である。 されば古代のヘブライや、希臘や、|印度《インド》や、アッシリヤ等の国々では、概ねの文献や美術 に於て、婦人への比喩が野性の猛獣に|讐《たと》えられてた。たとえば|玲羊《かもしか》や、牝獅子や、豹や、 |鼠《たてがみ》の長い野馬や、肥えて邊ましい野牛やなどに。そして恋への冒険が、いみじくもまた 遊猟に讐えられた。今日でもまた、多くの文明国の紳士たちが、猛獣狩りの遊楽からし て、性的の興奮を感知すると言われている。 ●柔和な陰謀  美しき野獣! 婦人を開明に導くため、歴史の長い時を通じて、いかに熱心に人々が努 めたことぞ! 今日、婦人は教育され、もとの猛々しき野性を無くしたところの、柔和な しおらしいものに観察される。しかしながら見かけであり、本質には尚あの鋭どい爪を隠 したところの、人に媚びたがる「猫」にすぎない。それはメiテルリンクによって寓意さ れた、あの「青い鳥」の中のチレットの如く、いつでも人間(=讐)の文化に裏切り、 自然の|春族《けんぞく》たる獣類や植物やに内通して、我々の勝利を顛覆させようと陰謀している。 ●猫の郷愁  女は常に、裸体になることを悦楽している。それによって彼等は、豹の美しい本然性 と、野獣の自由性とを回復して、自然のままの姿となり、遠く本能が|憧憬《あこがれ》てる、春族の森 林に帰れるからだ。 ●女子教育の新発見  如何にして女共から、その野獣の爪を切り取ろうか? これが歴史上の宿題であり、あ われな配偶者たる男たちが、ひそかに協議したところであった。遂に「|勿《なか》れ」が可決され た。「粗暴なる勿れ」「反抗する勿れ」「嫉妬する勿れ」「噛みつく勿れ」等。そして一方で は、つつましやかな礼儀作法が|躾《しつ》けられ、温良貞淑の美徳が教え込まれた。  かくの如くして人々は、猫属の兇暴な本能を|矯《た》め、その猛々しき野性を育殺することが できると信じた。げに長い時日の間、愚かにも人々はそれを確信して居た。この躾けによ るの外、どんな良法も他に有り得ないと。実際その教育は、すくなくとも外観上で成功し て居た。すべての荒々しき粗野の性質は、次第に女性の表面から消えて行き、一つの全く 柔和なる、可憐な愛すべき家畜になった。しかしながら人々は、猫が猫らしくなればなる ほど、いよいよその爪を深く隠すことの習性に気がつかなかった。婦人等は、彼等が貞淑 を強いらるれば強いられるほど、性情的にはいよいよ嫉妬深くなって行った。そして温順 を装えば装うほど、本能的には益ー野獣の爪を鋭どくした。すべてに於て、外見の強いら れた慎ましさが、逆の性情へ内攻して、ヒステリックに轡積して来たのであった。  今や人々は初めて知った。あらゆる形式的な躾けや訓練やが、性情の本然性を矯めるべ く、全く無効であるという事実を。歴史の長い間考えられてた女性観は、今やその|誤謬《ごびゅう》に 目醒め、漸く一変する時期に会した。過去のあらゆる教育法は、女性の悪しき本性を矯め ずして、却ってこれを内攻させ、度しがたく陰険なものにしてしまった。何よりも先ず、 生徒に学ぶ意志がない時、教育に何の効果が期待し得よう。すべての躾けや訓練やは、こ れを外部から強制しないで、生徒自身の自覚に訴え、内部から行うものでなければならな い。  新しき時代の女子教育が、この発見から興って来た。実に新時代の教育は、イヴをして アダムと一緒に、智慧の実を食わせるということである。(原罪では、イヴが智慧の実を 木から採って、これを良人のアダムにあたえた。イヴ自身は食わなかった。)イヴがもし、 自分で智慧の実を食ったならば、彼の種属は今日のものと変っていたろう。なぜなら智慧 は文明の母であり、そして文明の情操は、本能の野性を薫育して、必然にこれを典雅なも のに導くから。  人々が此所に気付いた時、いかに旧来の方法が、根本的に誤っていたかを知った。婦人 の薫育すべきものは、実に彼等の無智と非理性に存していた。彼等にしてもし理性を有 し、智慧を啓発されるならば、教えずして野獣は人間(=ψb)となり、その猛々しき性 情は文明化されて、次第に本質からの「教養ある淑女」と成るであろう。然るに何事ぞ! 従来の方法はこれに全く反して居た。人は彼等を教育せずして、却っていよいよ野放しの 無智に任せた。その上にも尚、|鞭《むち》と|橿《おり》との監禁から益≧性情を険悪にした。  女子教育に関するこの発見は、実にカントの認識論と相並んで、人間思惟の法則を根祇 から一変させた、近代の驚くべき新発見に属して居る。今や世界の学校は、この発見によ って女性を教え、長く閉ざされていた知識の倉庫を、彼等のために公開している。おそら くはそれによって、古来のあらゆる聖賢が|匙《さじ》を投げた、一つの根本的なる絶望観が、新し き解決へ向うであろう。      ●嫉妬の本性  その良人に対して、真の深い愛を持ってる女が、それの比例に於て嫉妬深く、より愛の すくない女たちが、同じ比例に於て嫉妬しないと考えるか? 反対の事実として、常に良 人を罵倒し、兇暴にふるまうところの桿婦たちが、いかに嫉妬深く手におえないかを見 よ了・  女に於ける嫉妬は、愛の高雅な情操によるのでなく、実には猛獣の|激情《パツシヨン》に類するとこ ろの、 野蛮の本能によるのである。     ●婦人を虐待する者への教訓として  人はすくなくとも、三人の|配偶《つま》を持たねばならぬ。一人は性慾の対象として。 事の|家政婦《キ パ 》として。一人は優しげに、雨のうるおいをあたえる女性として。  支那では、ずっと貧乏のものだけが、一人の妻に三の負担を要求する。 一人は家 ●賢者の石  肉慾の対象として、私は彼女を愛し得る。けれども家政婦として適任でない。(それ故 に私は、彼女と結婚しないであろう。)と、我々の日本人は考える。|欧羅巴《ヨ ロツパ》の求婚者等は、 別の事情を言うのである。「なぜなら彼女は、よき情操の教育が欠けているから。」  しかしながら支那人だけが、すべての場合を通じて、苦情なしに結婚をするのである。 なぜなら彼等は妻の分業を知っているから。各≧の女性から、各ーの別の徳が要求され る。「そもそも果して」と、支那人の賢人が喝破した。「どこに唯一の正しき結婚が有った ろうか?」 ●未来への鍵  雑婚から一夫一妻制度へ。一夫一妻から多夫多妻制度へ。時代はかく必然に推移して行 く。モルモン宗の社会は、基督教徒のあらゆる誹諺と中傷とにかかわらず、この点で未来 への光明を暗示している。そこでは売春婦が殆どなく、性に関する犯罪が極めて稀れだと 言われてる。その上各≧の男女等は、最も満足な状態に居り、円満に幸福であることが実 証されてる。すくなくとも彼等の社会は、他の一夫一妻制度の社会よりは、家庭の暗愁と 虚偽を持たないだけ、それだけ合理的に進歩して居る。 ●新世紀の初めに 変化しつつあるものは何だろうか? る。 芸術でない。 政治でない。 我々の時代の家庭であ ●浅く考える その隷属する社会の道徳に従って、彼女は家庭の順良な奴隷でありたいと願っている。 教育が、子供の時からそれを彼女に教え 由意志を奪ってしまった。そして社会は、 こんだ。しかるに不幸な事情が、或る日彼女の自  一般的道徳の|将外《らちがい》にまで彼女を送り込んだ。  売春制度に関する人道上の非難は、ただ上述の一事にすぎない。即ち社会が、彼女の自 由意志に反して、彼女に不貞操を強いたという件である。より本質的な非道に就いては、 だれも考えてみたことがない。      ●ヱランダに坐って  我々の或る妻たちは、いったいに貞操の観念がみ旧ソ}ぎか。それによって彼女等は、い つもその良人を不愉快にする。良人たちは、かくの如き愛の怨霊からなやまされるであろ う。我々によってみれば、貞操は一つの暗い病気、陰欝なるモノマニヤである。それは人 性の自然的なる快適を傷害する。それによって毛虫のように、精神の青々とした成育が傷 害される。  明らさまに告白すれば、我々はもっと自由な、明るくのんびりとした眺望を欲してい る。我々の家庭から、ヱランダから、あの白樺の木立に通して見えるところの、遠い明る い海、空をゆく白雲、そういうたぐいの自然を感じていたいのである。      ●婦人解放論の原理 1  新しき女(解放された女)とは何だろうか? ニイチェの説によれば、彼等は無政府主 義者と同じてあり、運命のより幸福にめくまれてるもの  美しい女、愛らしい女、しお らしい女等、すへて男によって愛され得る資格をもった、他の一般の同性1に対する嫉 妬から、うらめしくも永遠の復讐に燃え、幸福の平等を絶叫する一族である。 「我々の新しい女は」と彼等が言う。「決して男性の|玩弄《がんろう》物であってはならない。我々は 男性によって虐圧された、すべての女らしさの徳を廃棄し、それの先入見から解放されて る。我々は男子と同じく、一箇の人格として独立する。断じて我々の同性等は、美や愛嬌 やによって捧げられた、男の玩弄愛を拒むであろう」と。しかしながら男性が、女のなま めかしい曲線や、容貌の美しさや、性情の愛らしさや、快活さや、優しさや、しおらしさ や、総じて「女らしさの魅力」なしに、どうして女子への性的な愛を持ち得るだろうか? 人間が本能獣てある限り、性の関係は必然の電気学的法則てある。男がもし本当の男- 中性の男てなくーてあるならは、必然にこれと反極する陰電気を、即ちあらゆる点に於 て「女らしき女」を要求する。同様にまたこの逆は、女性の側からも言われるだろう。女 がもし本当介女であったならば、すべてに於て典型的なる、真の「男らしき男」を愛する だろう。そしてこの自然の巧みな配合から、古来説かれる男女の道が対立し、反対のゆえ に融和している。  ところで新しき女たちは、こうした性の自然法則に反対する。彼等は男女の関係から、 すべての性的な傾向にもとづくところの、愛の自然要求を拒絶する。もっと正直に告白す れば、彼等の言う意味はこうである。「愛は精神的でなければならない。男性と女性とは、 常に純粋の友人として、純粋の精神愛からのみ交誼すべきだ。いやしくも性的の要素を混 ずるならば、男の一切の愛を拒絶せよ。なぜならば性の自然本能は、男性にとって常に反 極するもの、即ち女に『女らしさの徳』を要求するから。そして我々の新しい女たちは、 女らしさの徳から解放さるべく、最初に運動せねばならないから。」と。此所に我々は、 あの髪の毛をふり乱した、不幸な恵まれない女たちの、|蒼《あお》ざめたヒステリイの絶叫を聴 く。彼等は天地の法則に叛逆して、人間社会の関係から、性の存在を抹殺しようと考えて いる。おそらくはそれによって、彼等の呪われた社会に対し、久遠の復讐をすることがで きるだろう。  しかしながら彼等の思想は、次の一つの点に於て、全く正当の主張をもってる。「何故 に我々は、女としてのみ、常にその点で考えられねばならないのか。我々は女である前 に、常に人間であることを要求する。」と。この思想の正邪は、人間という語の解釈から 判断される。そもそも人間とは何だろうか。人間はだれでも、男か女かでなければならな い。男でもなく女でもない、性的に無所属の人間というものは、単なる言語上の概念とし ての外、事実上に考えられない。故に彼等の主張は、もっと大胆に発表して、次のような 意味を語っているのだ。曰く。我々は女として1女という見地からして1先入見的に 見られたくない。我々も野予ピ同じく、男子と同等に見られたいのだと。然り! そして たしかにこの要求には、充分同情すべき正当の理由がある。なぜなら男女の性的な区別に 対して、今日一般の常識が誤って居り、甚だしく非合理的であるからである。  ワイニンゲルの説く如く、男女の科学的な性的区別は、決してその単なる見かけや、生 殖器の外部的形態にあるのでない。実際問題としての男女の区別は、もっと遥かに複雑で あり、性格の内部に於ける傾向や気質やの、微妙な内奥的実質に存するのである。(いか に多くの「女らしき男」や「男らしき女」が、世間に実在するかを考えてみよ。)然るに 世俗の常識は、男女の真正な区別について、少しも厳密な合理的批判を持たず、単なる肉 体上の外観から、皮相な習俗によって区別する。例えば今我々は、単に或る表象を有する という理由を以て、生れてすぐ「男」として認定された。そして男として名前づけられ、 男として教育され、男としては兵役の義務を強制された。  我々がもし、幸にして本質的の男子であり、性格上に完全の男性であったならば、もち ろんこの境遇は適切であったろう。けれども不幸にして、若し我々が女性的の性格者で、 軍隊教育に耐えないような柔和のものであったならば、我々は到るところの環境で不遇で あり、人々から「男らしからぬ奴」として、理由なき排斥と軽蔑とを受けねばならない。 しかも我々自身、決して自らその境遇を求めたのでなく、またもちろん、自ら「男」とし ての自分を、望んで戸籍したわけでもないのだ。同様にこの不幸なことが、女の場合に考 えられ、一層ひどく残酷に考えられる。  此所に或る人間が、性格的に充分の男性であり、殆ど女らしき性情を持たないにもかか わらず、単にその肉体の一局部が、女の外観的な特色を有するという理由で、生れた時か ら女として養育され、あらゆる女らしさのしつけ、女らしさのたしなみ、女らしさの行為 情操を強制され、しかも社会が否応なく、圧制的に強制させるものとすれば、これが不自 然であり、残酷であり、言語道断であるのは|勿論《もちろん》だろう。しかも我々の社会は、現にその 野蛮非人道をあえてしている。実に今日、或る多くの婦人たちは、男と同様に性格し、男 と同様に行為しようとするところの、必然の気質的傾向を有するにかかわらず、慣習はこ れを圧制して、無理にも女の衣服で束縛している。  そもそも自由とは何だろうか? 人がそれを欲するならば自由であり、欲しないならば 不自由である。女がもし、真の典型的の女性であり、電子の陰極に於ける単位であった ら、あの|紐《ひも》によって緊くしめつけられたる衣裳-従順や、隷属や、しおらしさやの、す へての規範されたる女性の美徳。1は、彼等の自然の性格からして、自ら欲し求めると ころの自由であろう。けれどもその反対の側に於ける、より男性的の女子にとっては、こ れほどにも残酷で、不自由極まる束縛はない。今、彼等はその圧制に叛逆し、声を大きく して叫んでいる。「我々に自由をあたえよ! 婦人を解放せよ!」と。けだしその言葉の 真意は、彼等を々性介概念から解放し、野予と町じ←、自由本然にふるまわしめよと言う のである。  女性解放論の真の根拠は、実にこの一点に存している。それは近代世潮に於ける、女性 の著るしい男性化から、当然叫ばるべき問題だった。あらゆる「新しい女」は、学者の所 謂変性女子に属するのである。しかしながら我々は、変性女子という如き、不快な、矛盾 した、グロテスクで|狸褻《わいせつ》の言葉を避けよう。むしろ今日の問題は、かくの如き矛盾言語を 生むところの、認識の大前提に於ける誤謬にある。実にワイニンゲルの言う如く、男女の 性別はその外観の一局部にのみ、単なる器官として、眼に見える表象にのみあるのでな い。より本質的な性別は、全くその気質や性格の内奥点に存するので、この鑑定によるこ となくして、真の合理的性別は不可能である。それ故に婦人解放論の第一原理は、ひとえ にこの点の抗議と解説にかかって居る。すべての「新しい女」が叫ぶところは、誤った女 性け概念から、我々を解放せよと言りのである。いつも彼等によって提出される、あの馬 鹿馬鹿しく言語矛盾した奇怪の抗議。「何故に女性が、女性らしくあらねばならないか。」 の没論理も、これによって弁証され、意味の正しい了解がつく。  それにもかかわらず、世の「新しい女」と婦人解放論者とは、そのあまりに女らしく、 のぼせあがったヒステリカルの興奮から、彼自身の論拠に矛盾し、無益な感情論の昧愚に 溺れて、理性の健康を失って居る。今や氷と塩とによって、彼等の頭脳をひやすべき時が 来て居る。より冷静なる理性は、一の断然たる態度に於て、あらゆる誕弁的なフェミニズ ムを反撃し、彼等の思想の大前提を、正しい認識にもどらすだろう。世々の所謂新しい女 は言う。「我々女性は」と。けれどもより新しい時代の、真に覚醒した論者は言う。「否。 我々は女性でない。我々にとっての主張は、我々を女性として概念づける所の、世の誤謬 と無智とに対して、正誤を要求することの権利にある。願わくば我々をして、古き女性の 概念から解放せよ。」と。 ●婦人解放論の原理  女が、女らしくあれということは、女が典型的の女として、規範的にあれと言う意味で ある。こうした要求は、もちろん一方に於てそれを建言する、規範的の男たちと対称され てる。そして我々は、歴史の過去の社会に於て、そうした典型的の男を知ってる。彼等は 常に戦場に出て、武勇と侠気を生命とし、あらゆるすべての点に於て、真に男性の典型だ った。故に当時の武士道の社会に於ては、男に男らしさの徳が要求される対称として、女 に女らしさの柔和の徳が要求されてた。世界のすべての歴史を通じて、婦人の淑徳が最も きびしく要求され、従順や、貞淑や、しおらしさや、優美さや、つつましさやの女大学が 課せられたのは、戦国から封建にかけての中世紀である。この頃の男性たちは、すべてが 豪放で猛々しく、野獣のように勇猛な気質をもっていた。そしてこの規範的な男性等が、 性の自然な反極として、一方に典型的なる女性を求め、真の「女らしき女」を教育すべく 努めたのである。  しかしながら今日では、男性そのものの性格が変って来た。近代に於ける商業資本主義 の発達は、過去の武士道の社会を亡ぼし、封建の制度風習を破ると共に、男性そのものの 社会的地位をかえて、我々を著るしく柔和な女性的性格者にしてしまった。近代の平和な 商工業社会に於ては、昔の如き豪放武勇な男性的性格は、次第に益ζ消滅して行くのみで ある。我々の時代の男たちは、文明と共に軟化して行き、次第にその男性の典型を失って 行くことから、中性に近い性的に傾向して行く。しかして今日の時代に於ては、もはや昔 のような典型の女性等-女らしき女1が、男性の社会から悦はれなくなって来た。 我々の時代の女性化した男たちは、旧式教育によって典型された女よりも、むしろ反対に 男性的要素をもった、新社会の活動的な婦人たちを、一般に好むように傾向して来た。  近代の文化に於ける、この著るしいフェミニズムの潮流から、女子教育の根本が変って 来た。今日の若い時代の人々は、もはや武家教育の貞淑観や、女大学式のつつましさや を、婦人の教育に課目しようと思って居ない。人々はもっと活澄に、もっと理智的である 女たちを、好ましく教育しようと思って居る。それからして今日では、女に「女らしさ」 を求めることが、時代教育の本旨に反し、古く時代遅れにさえ考えられてる。我々の時代 の女たちは、純粋に女性の典型であるよりも、むしろ中性に近く、多分の男らしき性格を 持ってる方が、却って男たちの性感をひき、モダーンの者として愛されるのである。(一 つの明白なことは、こうした近代女性の変化が、彼等の男性化した服装にさえ現われて居 る。)  今、この新しい事実の背後に於て、例の婦人解放論者を見るのである。明白に言えば、 あの所謂「新しい女」と婦人解放論者の一群とは、今日既に過去の記憶に属している。彼 等は十九世紀の初頭に於て、今日の資本主義文化が新興する時代の声を、暗示的に代弁し たものに過ぎないのである。しかもそうした思想の動機は、彼等自身から得たのでなく、 時代の中性化しつつある男(即ち新しい男)によって、間接に暗示されたところのもの を、自ら代弁したにすぎないのである。したがって彼等の敵は、当時尚一般的に勢力を有 していた、多くの典型的なる男性的男子(即ち古い男)であり、その人々の有する封建的 女子教育の思想であった。そして今、たしかに一般の女たちは、そうした教育から解放さ れた。彼等はそ介自由を得た。しかしながら再考せよ! 自由は女性自身が奪ったのでな く、それを要求している男性の社会からして、必然にあたえられ、却って導かれたのでさ えある。今日女性を解放すへく、いかに多くの男たちが1女たち自身てはなく1教育 に努めたかを考えてみよ。 ●女性の敵?  女性の敵と呼ばれた男が、女権拡張論者の首魁である、有名な夫人から挑戦状を突き付 けられた。彼は|暫《しば》らく考えて後、次のように手紙を送った。「私は女という概念に属する 範囲て、すへての女たちを誹諺している。ところて貴女-及び貴女の同志たちーは、 女という概念に属しますか? 再考して下さい。、」介ポ…で解ってもらえば、お互の意見が 一変するようになるかも知れない。」     ●無智の寛容  |耶蘇《ヤソ》は独身の青年であり、婦人について知らなかった。一方で|釈迦《しやか》や、孔子や、マホメ ットや、ソクラテスやは、この点で充分の経験を有して居た。(それ故に彼等の女性観が、 いかに例外なく一致しているかを見よ!)  耶蘇だけが、あらゆる世界の聖賢中で、耶蘇だけが婦人を許し、婦人を賎辱しなかっ た。それによって基督教が、最も博愛の精神に趨ったところの、そして最も文咀町か宗教 と考えられる。  かくの如く、経験と観察の欠乏が、或る宗教を高尚にした。      ●女嫌い  女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドべルヒが正 直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にシ ョーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。す べての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊と して、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、 これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒漬の思想があるだろうか。)  しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居 り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対して どんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常 に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎ ないのである。しかも彼等は、この冒漬の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って 「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌 や侮辱を言わないから。  然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてする のだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々 は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求め ているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもな く、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美 を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱 の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅 によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬 鹿正直なロマンチストにすぎないのである。      ●愛の一形式  すべての親たちは、真にその子供を愛している。けれども決して町情はしない。彼のず っと幼ない子供に対しても。または年頃の息子や娘に対しても。      ●愛lあまりに功利的な!  男と女とが、互に相手を|箒《ほうき》とし、|味噌漉《みそこ》しとし、乳母車とし、貯金箱とし、ミシン機械 とし、日用の勝手道具と考乞時、もはや必要から別れがたく、夫婦の実介愛情が生ずる のてある。1愛ー あまりに功利的な愛ー      ●家庭的になる  想像力の消耗からも、人はその家庭を愛}行♪テになってくる。      ●家庭人  すべての家庭人は、人生の半ばをあきらめて居る。 ●婦人と安時計  婦人等は、しばしば高貴なデリケートのものに考えられてる。感じ易く、傷つき易く、 その取扱いに対して、充分細心の注意を要するところの、一つの精巧な事物のように思わ れている。  ところで実際には、何という誤解であろう。学者の実験によって示すところは、|悉《ことヂしと》く これに反対して居るではないか。先ず感覚について言えば、触覚や、嗅覚や、味覚やの五 官を通じて、婦人のそれは男子に劣り、一般に鈍感であることが実証されてる。情緒につ いても、婦人の感情は本能的で、動物に類したパッショネートのものであり、男性に比し て遥かに原始的の野性を帯びてる。さらにもっと、体質の点から比較すれば、婦人は環境 に応じ易く、よく窮乏と飢餓とに耐え、病気等に対する抵抗力が強いのである。一方で男 性等は、ずっとデリケートの体質をもち、この点で遥か婦人に劣っている。(それ故に統 計の示すところは、男の死亡率が常に女の上位にある。)皮膚の如きものすら、その見か けの粗野にかかわらず、真皮の実の素質に於て、男の方が繊弱であると言われている。  要するに男性は、すべてに於て複雑な組織を有するところの、したがってまた|壊《こわ》れ易く 狂い易い欠点をもったところの、一のデリケートで精巧な機械である。反対に女性は、す べてが原始的で簡単な仕掛けに出来てる。したがって頑丈であり、たいていの乱暴な取扱 いにも順応して、容易に破損しない機械である。にもかかわらず我々が、いつもその反対 のことを考え、婦人を|壊《こわ》れ易くデリケートのものとして、注意深く考えるのは、そもそも どうしたわけだろうか?我々は女性について、いつもその見かけの外貌しか注意してい ない。そして女たちは、いつも男の前に弱々しく、さもいじらしき風情に於て、|脆《もろ》き花の ように装うている。  それからして男たちは、その外観によって実質をごまかすところの、あのイカモノ師の ペテンにかかり、一つのくだらない安時計を、最も精巧にしてデリケートな機械と誤り、 買いかぶってしまうのである。 ●愛の記念としてZΦ<円ヨR巴  愛の永遠に変らない約束として、指輪などを交換するのは、意味の深い習慣である。言 う迄もなく、愛はじきに変ってしまう。けれども物質は変らないで、初めにあった通りで ある。そこで或る曇った日などに、つまらない夫婦者や、飽きてしまった恋人などが、ど んよりとした空を眺めながら、独りでつくづくと思うのである。時は既に過ぎてしまっ た。過去は夢のようなものである。けれども夢でない証拠として、悔恨の記念は今に残 る。|両度《ふたたび》もはや、情熱の噴火している火山の上では、生涯の誓約をしないであろうと。 ●武士道の正義 昔の武士の法律では、姦通の故にその妻を私刑にした。けれども嫉妬からではなく、体 面を傷づけられたというところの、自尊心からの復讐である。それ故に女が、もし戸籍上 での妻でなく、情婦としての自由な関係にあったならば、いつでも寛大に黙許されてた。 武士が|若《も》し、嫉妬の故にその情婦や娼妓を殺したならば、法律は却って容赦なく武士を罰 した。けだし男が1紳士たるものが1痴夫の如く嫉妬するということは、武士道に於 て有るまじく、恥辱千万のことに考えられてた。その事情に於ては、彼等は潔ぎよく愛を 捨てて、不貞の妻を離縁するか、もしくはその体面を|穣《けが》した男女を、一刀両断の下に斬り 殺してしまったのである。  この同じ私刑が、当時の町人の間に於ては、別の随劣な動機から為されていた。      ●動物の貞操観 犬、猫等の雌は、我々の女性よりもずっと多-貞操の正レい観念を有して居る。彼等 は多数の求婚者から、ただ一疋の愛人を選択し、激しい毛嫌いの性向からして、断じて他 の者を寄せつけない。      ●早すぎる理想  今日の事態に於て、結婚がもし保護者の監督や、|対手《あいて》の社会的地位やの配慮によってさ れるのでなく、純粋に本人同士から、純粋の自由恋愛によってのみされるのだったら、す べてに於てうまくやるのは、女たらしの上手な不良少年と、多くの若い娘たちに好かれ易 い、低能な色男どもであろう。彼等は一人で、三人も四人もの求婚者を持ち、いつも自由 結婚の満員席で得意になってる。反対に異常な才能を持ってる男や、社会的に働きある人 物やーたいていの場合に於て、彼等は女共から理解されない。1は、いつも孤独に残 されて居り、一人の求婚者をも持たないだろう。そしてこの結果は、単に人生の不義のみ でなく、子孫に劣等の種を残してしまう。  自由結婚は理想である。だがそれが許される前、婦人はもっと高い程度にまで、すくな くとも男子と同じ理解に達する程度まで、充分にきびしく教育されてなければならぬ。 ●プラトニズム  婦人と財産とを、すべて国有にせよというプラトンの共産主義は、根本のところで今日 の社会主義とちがうのてある。後者にあってはそれ1物質や婦人1が、生活の重要な 物に思われてるのに、プラトンの側にあっては、瓦石と同様にしか思惟されなかった。 (註。 ギリシヤは男色の国家であり、 プラトンがまたその道の大家であった。) ●或る味覚への聯想  差恥心は塩のようなものである。それは微妙な問題に味をつけ、情趣をひとしおに深く する。我々の時代の文明人は、あの高貴なやんことなき人々1彼等は性の隠密を教えら れず、したがって差恥心を持っていない。  や、或る種属の野蛮人等に、白昼公然と行 われる性交やが、いかに平凡無味なものであるかを、想像することさえ困難である。おそ らくは多分、塩なしに食う肉であるだろう。      ●顛倒された趣味  獅子や、虎や、孔雀や、|難《にわとり》や、その他一般の禽獣にあっては、|雄《おす》はどれも美しく|雌《めす》は 必ず醜い。しかるに不思議なことに、我々人間だけはその反対である。我々の婦人たちは 天使のように美しく、我々の男たちは熊のようにしか見えない。という人間一般の思想 は、その実人間の|雄《おす》の思想1それがいつても人間全体の思想を代表する。1にすきな い。されば見よ。難の雄はいつもいぶかしげに|頸《くび》をかたむけている。 「他の禽獣にあっては、また人間にあっては、雄はどれも美々しく雌はきまって醜い。し かるに我々難だけは、ふしぎにもその反対である。ああ何んと私の妻たちが美しく愛らし いかよ。」と。  かくすべての動物は、同性の美を認めずして異性の美を偏愛する。そしてここに、性的 実感による美的鑑賞の錯誤がある。故に、いつ我々の趣味が訂正されるか? 未来、もし 女性が男性を|摺伏《しようふく》したとき。したがってまた女性の思想が、それ自ら人間一般の思想を代 表し得たとき。その時我々の正レ…趨味が言うであろう。「いかに男性は雄々しくして美 しきかな。いかに女性は|矯弱《わいじやく》にして醜きかな。獅子に於ても、孔雀に於ても、自然のあら ゆる禽獣に於ての如く、人間に於てもまた。」 ●婦人を愛するには  中世紀の騎士のように、婦人を全くの音楽的幻想として、近づくことのできない、また 近ついてはならないものとして1騎士たちは、二つの寝台の間に剣を横たえた。1遠 くから匂いを|嗅《カ》いでいるか、も一つは、我々のだれもがするように、ずっと粋な仕方で彼 等を慣らし、無邪気な愛らしい家畜として戯れるかである。前の仕方によれば、吾人は永 久に女神への思慕と奉公をつくし得る。その遠くから匂ってくる白粉や肌の香は、いつも 我々を夢みるように、幸福に導いてくれるであろう。もし後の仕方によれば、同じように また我々は幸福てある。なぜといって我々は人間であり、彼等は人間てないもの 可愛 らしい家畜1である。そしてどんな人々も、仔犬のいたずらや、愚かさや、嫉妬深さ や、無自覚や、エゴイズムや、野卑や、下劣さやに腹を立てない。のみならず犬が犬らし くあるほど、それが益ζ可愛らしく、愛嬌ありげに見えるのである。  かくの如く、我々はしなければいけない。即ち我々の頭の上に、遠く天上界にまで彼等 を置くか。でなければ反対に、彼等を我々の寝台の下に、ずっと低い地位に見るかであ る。しかしながら我々は、両者の中間を避けねばならない。女神でもなく、家畜でもな く、我々の同じ種属として、ん町ピレτ婦人を愛したり、取扱ったりするのは、決して絶 対に避けねばならない。それは婦人に対する礼儀でなく、また親切の仕方でもない。なぜ ならば彼等は、それによって耐えがたいものになってくるから。あまつさえ我々は、愛に よって恵まれる筈の、特別の幸福を無くしてしまう。 社会と文明 保守党であると、進歩党であるとを問わず、すべての善き芸術家は革命 家である。政治や組織を変えるのでなく、人間の情操を変えるのであ る。 ウヰリアム モリス ●医者の正義  医術は、昔に於て無用の悪業と考えられてた。最初の名医ヘロヂコスが現われた時、多 くの識者は悦ばなかった。プラトンでさえが非難した。彼は何をするものだろう? 既に 死すべき筈の|巌弱者《るいじやくしや》や、不具に生れた赤児たちや、その他の無用の穀つぶしが、彼のため に床中で生きながらえて居る。彼は国民の体質を劣悪にし、社会の健全な風紀を乱した と。今日てさえも、尚しばしは同じ思想が、或る種類の野蛮階級-軍人や鍛錬主義の教 育者なと  の、内密な心意にひそんているほと、それほと実際に、医術は人間の体質を 弱々しく、文化的轟弱のものにしてしまう。かつて昔、医術の未だ充分に発達しなかった 時代ほど、概して地球は強健の人間に満たされて居た。何となれば自然淘汰が、すべての 生存に適しない弱者を絶滅させて、独り生来の強健者のみを残したから。そしてその故 に、また益ζ善き体質の種のみを、子孫にすぐって遺伝したから。  かく昔にあっては、善きものは益≧善く、悪しきものは益≧悪しく、初めに恵まれて生 れたものは、その幸運の故にさらに二重の幸運を得、反対に不運のものは、救いがたく絶 望に陥入らねばならなかった。そして医術が無用視されたほど、これが社会の正義であ り、自然の合目的性と考えられてた。それ故にまた昔の社会は、生れた運命の階級から、 人の幸不幸を決定した。例えば王侯や貴族の家に生れた者は、生涯を通じて栄華の身分に 遊んで居り、逆に奴隷の子に生れたものは、いかに才能や勇気があっても、生涯を通じて 奴隷であり、悲惨の境遇から浮ぶことができなかった。しかも人々はこれを当然とし、不 服することさえ考えなかった。昔は人間の生存権に関するところの、今日の「公平」の観 念が全く無かった。彼等の道義はそれに対していつも応えた。人の権利と幸福とは、天意 によって定められ、運命によって決されてる。善くも悪しくも、自然の投げた|般子《さい》のまま に、境遇に甘んずるのが至当であると。  今日の社会意識は、この宿命論に反対している。我々の時代の正義は、早くからそれを 考えて居た。人が偶然の運命から、単にその生れた家の身分によって、生涯の禍福を決定 されねばならぬと言うのは、何という理不尽な制度であろう。より公平な社会制度は、階 級によらずして人物により、大分の実力からして、報酬を正当にせねばならぬ。すべて善 き者が善く、悪しき者が悪しく、才能ある者が高い地位に、才能なき者が低い地位に酬い られるのは、全く公平な正義であると。そして現に、我々の社会がこの思想を実行して居 る。  しかしながら「医者の正義」は、尚この不公平をも許さぬだろう。なぜなら今日の社会 に於て、栄達に恵まれているすべてのものは、彼が生れた偶然の運命からして、優れた才 能や天分やを、素質づけられて居たものであり、反対に不幸のものは、同じ偶然の運命か ら、白痴や低能に生れたのだから。「もし環境だに変えれば」と、今日或る社会改革者は 思って居る。だがいかなる教育も、無から有を産出し得ず、白痴を天才にし得ない事実を 考えれば、この思想もまた無益であり、人間の平等を保証し得ない。現に有る社会の事情 は、すべて運命の偶然から決定された、不公平の報酬に充たされている。しかもあえて 人々は、それの不義について考えないのだ。  そもそもまた何故に、悪しき者が悪しく、善き者がよく酬いられねばならないのか? 「社会の共同の福祉のために」と、今日尚大多数の人が考えて居る。「すべての悪しきも の、有害のもの、無用のもの、及び人類共同の生活に貢献なき徒食のものや、一般の利益 に反する性格者やは、法則を以て削除せねばならないだろう。」と。丁度あだかも、昔の 社会が医術を|損斥《ひんせき》したように、今日の社会もまた、運命の公平を信じて居り、性質の悪に よって生れついた、人間の不幸を顧みない。彼等はその素質の故に、鎖につながれて刑罰 され、法律によって鞭打たれる。  こうした社会の不公平から、人々はそれを反省せず、救済しようとも思って居ない。こ の点に関して言えば、すべての人は宿命論者で、醜婦がその不運をあきらめて居る如く、 天意への盲従をちかって居る。独りただ、けなげにも医術だけがー医者の正義観だけが ー昔からその宿命観に反対して居る。彼等は「人類の正義」を代表して、「自然の不義」 に槍を投げつけ、生れたるすべての者の、平等と幸福とを保証して居る。医術は階級への 意識を持たない。そして|轟弱《るいじやく》のものを強壮にし、白痴にも智慧をあたえ、醜婦をも美人に し、すべての弱者をして一様に、強者と同じ幸福を獲得さすべき、生存への権利を主張し て居る。医術によって見れば、悪は刑罰すべきものでなくして、病院の寝台と看護とか ら、手厚く治療すべき病気であり、精神機能の欠陥にすぎないのである。彼等の正義は、 国家がひそかにその死滅を願っている低能白痴の徒や、社会的に有害である犯罪変質者の 類ですら、すべて病人としてこれを看護し、親切な治療に勉めて居る。  まことに医者の正義は言う。生れたるすべての者は、一様に、公平に、平等に、生存の 正しい権利を主張し得ると。そしてただ医者だけが、復讐や階級意識からの戦意でなし に、平等思想の正しい道義観を知ってるのである。 ●唯物主義者の道徳観  医者は人類一般の保健に対して、常に職業的の責任を感じて居る。或る伝染病の流行 は、すべての医者たちの良心にまで、自責の強い責任感を感じさせる。だれでもあれ、負 傷者や病人に対しては、即時に手当しなければならないことを、彼等はその職業意識で、 ア・プリオリの義務命令に感じて居る。あらゆるすべての患者たちは、医者の眼に|憐欄《れんびん》を 以て眺められる。しかしながら決して、感傷からの憐欄ではなく、病気そのものに対する ところの、職業上の道義観-彼等の義務は、人間の不幸を救済せねはならない  から して、鉄のように冷酷な眼で憐欄される。医者は決して、センチメンタルな人道主義を持 っていない。彼等はその眼を泣きはらした家族によって、瀕死の床に横たわっている病人 に対してすら、いかにせば最後まで、治療し得るかを考察している。そしてすべての感傷 主義から、交渉のない遠いところで、哲学者のように冷酷で居り、涙一滴こぼそうとしな いのである。  医者にとって見れば、恋の|灼《や》きつく情熱も、宗教の高い法悦感も、芸術の美しい幻想 も、すべて皆肉体機能の変調であり、物質上の原因にもとづくのである。医者の考える人 生は、常に胃袋と肝臓と、中枢神経の細胞物質とによって現象している、純粋に唯物主義 の人生である。彼等はその職業上の道義観で、人生の不幸を救済し、あらゆるすべての人 間共に、生存の平等な幸福をあたえようと意識して居る。しかも彼等の道徳は、一滴の涙 すら持たないところの、唯物主義者の義務観に本源している。彼等はその心の中で、いつ も患者に対する鉄心"テか愛を持ってる。だが決してどんな「人情」をも持たないのであ る。  こうした医者の道義観は、直ちにカントの哲学を聯想させる。カントはそれを言った。 道徳が感傷からでなく、理性の合目的性による理念からして、義務の崇高感でなされねば ならないと。シルレルはそれに反対した。だがマルクスはカントに学び、彼の唯物的社会 主義の哲学を、早くもその道徳情操の中に直感したのだ。医者の正義と道義観とは、おそ らくは遠い未来に於て、人類の社会様式を変えるだろう。 ●君主と人民  稀れなる例外的の場合を除いて言えは、君主等は常にその人民の愛撫者てある。1な ぜと言って人民は、彼の国土と共にその貴重な所有物てあるから。1彼は心から人民の 幸福を祈り、心から人民の災厄を悲しんでいる。およそ真に民衆を愛することでは、どん な政治家も君主の誠意におよばないであろう。所が人民の方では、いつでもそれをありが たいことには思っていない。「そもそも汝は、何の権威によって我々を憐欄するか。だれ が汝にその主権をあたえたか。」或る自由主義の国々で、多数の民衆が叫んだのはこうで あった。  されば彼の断頭台の上から、|惨《いた》ましくもルイ十六世は絶叫した。「朕は常に汝等を愛撫 し、汝等を深くいつくしんだ。朕の全き生涯は、日夜汝等の福祉を願うことによって消費 され㌃しかも尚汝等は朕を飽かないというか。そもそも何の怨恨によって朕にこの大逆 を加えんとするか? 汝等、恩知らずの獣!」かくして不幸なルイは、自らのその悲劇の 事情を知らず、永久に解けない謎を抱いて死んだのである。君主と人民と。おそらくは墓 場の中でも、互に理解のできない謎が残っている。 ●文章がちがう故に  だれでも外国の思想を訳するときは、それを自分の国の、その当時の文章に書き換えて しまう、そこで明治開国の初めに於ては、西洋の立憲政体や、民法や、法律や、権利義務 の思想やが、時代の文章である漢文脈に書き換えられた。たとえば次のように。国法ノ命 ズル所、アニ只血税ノミト言ハンヤ。…・-然リ而シテ、唯々トシテ之レニ従ハザルベケン ヤ。  それからして、あの欧羅巴風の政体や社会制度が、本質に於て漢学臭いーと言うより も儒教臭いーものになってしまった。当時の学生等は、一方に|仏蘭西《フランス》の法律を論じなが ら、一方では支那語の詩を朗吟し、支那人の理想とする、東洋的豪傑の性情を模倣してい た。この後の感情から、前の思想が論じられ、後の文章から、前の概念が訳出された。そ うしてルッソオの民約論が翻訳され、あの過激な自由民権論までが唱えられた。しかもそ れが、全く支那壮士的なる慷慨悲憤の情熱と、そうした情調の言語とによって。  こうした過去の日本は、一の奇妙な|観物《みもの》であった。西洋の新思想が輸入される所には、 いつでも支那の最も古い感情が出しゃばっていた。欧風思想と支那趣味とは、一の文章の 中に融合して、互に分離できないものであった。さればあの当時に於て、あのハイカラの 立憲政体が、その根本精神にまで、支那の古典思想たる家族主義や、儒教の忠孝思想やを 取り入れ、そこでもって国体を|固《かた》めたことは、当時としての当然事であり、何の不調和で もなく、矛盾でもなかった。すくなくとも当時の人々は、奇異の感じを抱かなかった。  今日にしてみれば、しかしながら、我々の文章がちがう故に!      ●戦争に於ける政府と民衆  復讐や、正義やの純な感情が、民衆を戦争に駆り立てる。丁度我々の個人間で、侮辱へ の決闘を意志する如く、そのように民衆は、彼等の敵国を人格視し、戦争を倫理化してい るのである。  一方て、戦争の主動者たる者とも1官僚や、政府や、軍閥や、資本家やーの観念 は、ずっとちがったものに属している。彼等にとって、戦争は全く打算的に決行される。 たとえば領土の野心から、金融上の関係から、人口移植の必要から、もしくは内乱や危険 思想の転換から、政府当局の都合と虚栄心から、その他のさまざまな事情による利益と損 失の合算が、彼等の「戦争への意志」を決定する。そして戦争は、かく功利的打算による 投機の外、彼等にまで、何の倫理的意義を有していない。正義とか? 復讐とか? もと よりこの種の惑傷町包口語は、ただ素朴な民衆にだけ、民衆を煽動する目的にだけ、太鼓 によってやかましく宣伝される。  それ故にまた敵国は、彼等戦争の指導者にまで、何ら人格的のものでなく、賭博商法に おける相手の張り方にすぎないのだ。我々の張り手が、いま互に争うものは、ゲーム台の かけひきであって、相手の人間そのものに関係しない。もとより彼等は、互に決闘すべき 理由を知らない。|況《いわ》んや憎悪の念もなく憐欄の意志もない。所詮互の敵国は、戦争の主謀 者にまで、一の運だめしの力iドにすぎないだろう。そのやり方で、ペテンと好策を弄す ることでは、両方共に抜目がなく、もちろんの話であるが。  されは戦争の終った後まても、民衆の間には、尚久しくあの愚劣な興奮-|敵樵心《てきがいしん》を指 すのてある  の残火が燃えているのに、一方ては、それの煽動者等が、丸てけろりとし てしまっている。丁度、ゲームを終った同士のように、彼等は互に笑顔をつくり、次の新 しき打算のために、いそいそとして敵に近づき、心底からの親睦を始めるのである。それ によって民衆が、いつでも馬鹿面をし、|呆気《あつけ》にとられてしまう。 ●宗教の本質  乞食共の、最も多く群っている場所は、通例寺院の入口である。げに彼等のために、こ れ以上好適の場所はないであろう。そこに集る人々は、弥陀や如来を拝むところの、信心 深く慈愛に富んだものたちてある。とりわけ信仰ある婦人たち1彼等は憐欄から心を動 かされ易いーは、乞食共にとっての最上の得意てなけれはならぬ。  かくの如く、果して幾人の人が考えるだろう。全くの道徳的感情lI慈悲や憐れみか ら、真にいくらの銭が投げられるだろう?おそらくは百に対する一もないのだ。多くの 感書者の心をひいたものは、彼等の醜横なる肉、何かの凶兆でもあるような、怪異にして 不具な肢体であるのだ。そして此等の参詣家らは、言うまでもなく迷信家である。彼等は 本能的、超理性的に、仏罰や鬼神や、その他何物とも知れないものの|崇《たた》りを|催《おそ》れている。  所で|狡猜《こうかつ》な乞食たちは、一方にしつっこく欄みを乞いながら、一方に例の悪魔を突き出 し、それてもって人の神経に印象をあたえようと勉めている。それによって人々 特に 若い婦人なとーが、恐怖と嫌悪と、そしてこく僅かはかりの憐欄との交錯した、ある特 殊な気分を味わわされる。それの強迫観念から、ほどこしが為されるのである。  かくの如くして、寺院の乞食等は成功する。より高等な種類の乞食1ころつきや、押 売りや、育児院や、廃兵院や、その他の名義による寄附金勧誘者1が、また同様の手段 で成功する。即ち一方で、吾人の道徳的感傷性を刺激しながら、一方の眼で人を厭がら せ、ある種の復讐を暗示し、そして気の弱い人たちへの、理由なき恐怖心を示唆する。同 じように、より一層高等で、一層深刻な手段が、ある種の乞食どもによって考えられた。 僧侶と、そして宗教の本質がそれである。 ●誤謬からも文明は向上する 禽獣に対して愛をもつ人は、況んや人間に対して愛をもち得るということは、 の誤っ た推論にすぎない。そこでは、家畜に対してあまりに慈愛深く、雇人に対してあまりに冷 酷な貴婦人などが居る。そして通例、彼の庭園に動物園を設けるほどの熱狂家は、家族や その他の人間に対し、極めて冷淡な感情しか持っていない。丁度天文学者が、地球の同胞 よりも、より多く天界の事件に熱中するように。  一方では、可愛らしい仔犬の鼻先を、無暫に泥靴で蹴り飛ばすような人がいる。動物に 対してすら、こんなにも残酷である所のものが、況んや人間に対して、どれほどの冷血漢 であろうとは、普通人々が、こういう場合にする推断である。しかも諸君は、それを見た ことがないか? 一方では罪のない小虫などを虐殺しながら、それの苦しむのを見せて、 彼の幼児をあやしている多くの慈愛深き父親を。かく、動物に対して冷血な者どもは、概 してその子供や妻女に対して、特殊な、本能的に|熾烈《しれつ》な愛をもっている。丁度、あの高利 貸どもが、債務者に対して残忍でありながら、その家庭に於ては、常に殆ど子女の愛に惑 溺している、善良無比の父親であるように。  されば禽獣に対する愛の情操は、人間に対する愛の本質と、或る点でよほどちがってい る。しかしながら「愛」の抽象的な概念からは、ひとしく二つのものが同一の本質に属す るだろう。「愛がもし一つであるならば」と、我々の推理の前提が言う。「前者の愛を知ら ないものは、必然的に後者の愛も知り得ない。」(この論理は、支那の孟子によって実際に 使用された。)それからして、動物を愛するということが、社会的にも一の美徳として考 えられ、ずっと基督教の精神に適うように思われて来た。  かく誤った推理のためにも、我々の道徳的情操が発育し、文化が向上してくるのであ る。      ●雅号の由来 普通の場合でいえば、我々の「仕事」は、それ自ら我々の「職業」を意味している。換 言すれば、それでもってパンを買うために、生計の目的のために、仕事が選ばれるのであ る。  所で、ある例外的な場合は、仕事が生計のためでなく、金銭やパンのためでなく、ひと えに仕事そのことの意義や興味のために選ばれる。かくの如き仕事は、本質的に言って職 業でない。たとえそれによって、実際には生計の報酬を得るときでも、動機が初めから金 銭にあるのでなく、生計のためにやるのでなく、全く彼自身の興味のために、道楽のため に、趣味のために、もしくは主張のために、道義心のために、即ち、要するに、彼自身の 百由か欲情のために、それの満足を目的としてやるのだから。  かく、仕事それ自体の中に目的をもつ職業? は、今日の言葉で自由職業と呼ばれてい る。(後に言う如く、今日では、僅かに芸術家と政治家とが、それの部門に属している。 しかしながら昔は、医師や、学者や、僧侶や、教育者やが、すべてこの部類のものに属し ていた。)彼等の仕事は、その私欲的でなく、また功利的でないことでもって、一般の俗 務と明白に差別されている。その限りでは1正に称呼されてる如くーすへて彼等は、 社会の尊敬に値する「先生」である。けれども自由職業は、本来自由職業である故に、多 くの場合、それを以て生計の実費を得ることがむずかしい。のみならず、却ってそれの熱 誠から、一層の窮乏に陥入ってしまうであろう。  それ故に彼等は別に生計のためとして、他の世間的職業を必要とされる。たとえば或る 文学者が、一方に逓信省の官吏であったり、或る詩人が一方に百貨店の番頭であったりす る例である。かく同一の人間が、一方では商人であり、一方では詩人であることからし て、しばしば二重生活の矛盾に悩まされる。何となれば、前の仕事の本質は「できるだけ の利益」であるのに、後の仕事の本質は、反対に功利の観念を超越すること、全くむしろ それを忘れてしまうことにあるのだから。こうした生活の矛盾が、彼等を悩ましくし、常 に次のような錯覚を感じさせる。コ方で、私は確かに商人であり、一方ではまた芸術家 である。この二面の私は、別箇のちがった人物に属している、昼間、商店に坐っていると き、私は明白に詩人でない。夜、机に対っているとき、私は確かに商人でない。そもそも この別な生活が、同一の私に属するだろうか?」 多くの文人や、画家や、その他の自由職業家に見るところの、あの雅号介血来がこれか ら出ている。即ち一方では、官吏としての、俗人としての××氏があり、一方では文学者 としての、風流人としての××氏がある。されば彼の小説によって、陸軍当局者から|誼責《けんせき》 されたところの、あの有名な博士が答えた。「軍人としての私は、森林太郎である。しか しながら森鴎外は文学者である。鴎外の仕事のために、林太郎の地位を責めるな。」  かく雅号の来歴は、本来二重生活の矛盾から発明され、後には転じて、広く一般に、自 由職業者の表象として用いられるようになった。すべての自由職業家1ー芸術家や、宗教 家や、学者や、政治家やーは、それによって彼自身を、他の功利的な職業や俗物と差別 すべく、雅号にまで、特別の権威と自誇を感じていた。  しかしながら今日では、次の如き事情によって、雅号が甚だ時代遅れになり、一般に流 行しなくなった。今日では、純粋の意味での自由職業というべきものが、殆ど|勘《すく》なくなっ てきた。たとえば、教育者の如きも、昔は全然報酬を目的としない所の、単に名誉職とし ての社会的地位にあったけれども、今日では明白に一の職業となってしまった。学者もま た今日では、パンのための学問を学ぶようになり、一種の脳力労働者にすぎなくなった。 宗教家も同様であり、昔は乞食しつつ道を説いたものが、今では婚礼や葬式の請負業者に 化してしまった。政治家も職業化してきて、彼等の大部分は、それの商売で生計してい る。真に国事を憂えるために、家財をなげうって奔走するという如き好事家は、殆ど|稀有《けう》 なのである。正義の殉教者たるべき主義者ですらが、多くはそれを看板にして生計してい る。医師に至っては、今日純然たる職業であるが、昔は仁術と称され、金銭の報酬を目的 としない所の、一種の人道的自由職業と目されていた。独り今日に於て、いくぶん自由職 業の神聖を保つものは、僅かに一部の芸術家あるのみである。しかしながら内情は、彼等 もまた甚だしく物質的になってしまっている。多くの知名な画家や文士等は、創作の感興 よりも、むしろ金銭の利慾のために筆を執っている。のみならず或る人々は、自らそれを 公言している。曰く。芸術は趣味でない。よって以て生命を支持すべき、生計のための仕 事であると。  かく、この現象は、社会の変移する事情が、我々をその窮地に導いたのである。今日の せち辛き世の中では、もはや昔の如き、自由な余裕ある生活は許されない。我々は、我々 の仕事を神聖にし、真の自由職業でありたいと思っている。しかるに社会の事情は、我々 からその「自由」を奪い、単に「職業」だけを残してくれた。芸術や政治が職業化するの は、今日に於てまことに止むを得ないのである。あまつさえ今日では、いっさいのことが 分業制度になり、専門的に深く進んでいる結果、かれこれ同一の人物にして、二つの仕事 を兼ねるのが困難になってきた。我々の時代の芸術家にして、もし商人と詩人を兼ねるな らば、その仕事は、両方共に成功しないであろう。今日、名声ある作家たちは、概ねその 道の専門家として、一途に成功したのである。そうでない人たちは、単に不利益であるば かりでなく、今日の文壇からして、次のような非難を浴せられる。「彼の芸術は、商人の 片手間仕事である。創作は、彼にとっての余技にすぎない。彼はアマチュアである。ヂレ ッタントである。」  かくの如き理由からして、今日では、雅号が甚だ廃ってしまった。雅号それ自体が、 となく流行おくれであり、その上に不真面目なるもの、遊戯的のものとさえ考えられて た。何となれば、それは二重生活の証拠であり、恥ずべきヂレッタンティズムの記標で るから。換言すれば、我々のあまりにせち辛き世の中では、自由職業そのものすらが、二 の自由の故に嫉妬され、却って非道徳的のものとして賎辱されるほどである。  されば人々は、彼等の「自由」を奪われると共に、その特権表象たる雅号を廃してしま ったのである。まず最初に、医師がそれを|廃《や》めてしまった。(昔の医師は、皆その方での 雅号を持っていた。)次に学者と、教育者とが|廃《や》めてしまった。政治家もまた、近頃では 殆ど雅号を用いなくなった。まだ老年の政治家だけが、僅かに昔の名残りを留めて居る。 最後に芸術家-彼等だけが、いくぶん尚自由職業の実を有している。1だけが、或る 一部で、今尚、雅号の由来を記録に留めて居るにすぎない。しかしながら文士の名が、著 述業者を意味する故に、やがてはまた、それも消滅するであろうものを。 ●民衆の正義とは?  民衆の正義とは、富豪や、 嫉妬を感ずることである。 資産家や、 貴族や、 その地の幸福なものに対して、 利己的な いかに? 嫉妬ですらが、 尚正義であるか? ●文化における忙しきもの  最も速力の速い高価の自動車には、 からして、文明があわただしくなる。 いつも最も忙しい人が乗っていると思うか? 閑散 ●東方の幻想  巨大な、夢幻のようなピラミッドや、妖怪のようなスフヰンクスやが、あの熱帯の黄色 い砂漠の中に、今も謎のように建っている。一方では、ビルマの|荒蓼《こうりよう》とした地方に、途方 もなく巨大な、山のような仏陀の|浬繋《ねはん》像が横たわっている。そして一体に、|蔓刺比壷《アラビア》から 印度、印度から支那へかけて、さまざまの奇怪な、得体のわからぬ立像や建物やが並んで いる。  かくの如き光景は、旅行者にまで、ある唐突な夢に似た、異様にしてグロテスクな感を 抱かせる。それからして東洋の幻想は、一様に薄気味の悪い、妖怪的な、阿片の夢のよλ なものに考えられる。  東洋ー けだしこの言葉の響の中に、我々の知るすへての情感ー蜂蜜のように甘い 楽や、チューリップのような美人や、熱病のような瞑想や、疾病のような激情や、桃( の妖精や、黄色い男の顔や、恐るべき残虐性や、深遠無比の愛や、最も高貴な品性や 蜘のような醜悪や、気味の悪い魔法への帰依や、仏陀や、聖人や、|梵《ブラマ》や、宿命や、そ・ 邪淫と幻覚への非倫理極まる耽溺やーが聴えてくる。  東洋! げにそれは基督教感情の反対である。かしこに咲く花は此所になく、此所仁 く感情の花はかしこにない。およそ東方的なる情操の根源は、厭人病者のそれのように、 人間的なるいっさいのものへの嫌忌を示している。あの巨大にして夢幻的なる建築や、怪 異にして気味のあしき種々の仏像は、いかに「人間らしからぬ」異様なものへの、東方的 趣味の熱望を語っているか。支那の文学を見れば、一として構想の怪異を極めないものは ない。特にその戯曲等に現われた英雄や聖人の容貌は、むしろ妖精に近く人間性を超越し ている。印度、東方諸国の古代美術は、すべて淫摩にしてグロテスクを極めたものであ り、同様にその文献も怪奇で、非人間的情操の妄語にみたされている。そして支那人、亜 刺比亜人、|土耳古《トルコ》人、印度人等の夢想するユートピアは、概ね妖魔と美人との群にみたさ れている、非現実的、夢遊病的の神仙境である。  かく芸術ばかりでなく、宗教も、道徳も、おしなべての文明が、東方に於ては特別であ る。印度の宗教は、それ自ら超人の道を教えるので、|人間性《ヒユごマニテイ》の離脱を目的とする。支那 の道徳は、すべての人間的情欲をいやしみ、人間的臭味を嫌うことで有名である。聖人で あるほど、支那では人間に遠く、羊や鹿の妖精に近くなって考えられる。或まト.、 性を超越した神仙の如く思惟される。我々の日本IIそれは文明的に、半はヨヲ あった。1てさえも、同様に東洋風の倫理が普遍していた。耶ち「塵の世を厭う」人問 嫌いが、その自体の情操で、何かの高潔な徳に属するものの如く、久しく一般に考えられ ていた。我々の「俗」という言葉が、今でも尚、人間的臭気への賎辱を意味しているほ ど。  かく東方の情操は、本質的に「人間的なもの」への嫌悪から出発している。それからし て必然に、一方では「人間的でないもの」への崇拝に導かれる。これによって、超人や、 英雄や、神仙や、妖怪や、魔法や、呪文や、その他すべての人間らしからぬ異様のものが 考案され、さまざまの怪奇な仏像が崇敬される。そして或は、人の夢によく見る唐突の|幻 想《イメエヂ》に誘われる。すべて東洋風の特色がここに根を有している。あの支那人や土耳古人に特 有なる、東洋的の残忍性と非人道、その暗黒好きの犯罪性、破倫的性向。そして一方で は、驚くべき崇高無比な道徳があり、超人の底知れぬ高徳が、至善と至美の究極する理想 を高称している。しかしてこの両面の矛盾こそ、ひとえに同じ哲学の裏と表に外ならな い。東洋! げにそれは神のように気高く、また獣のように醜い、両面怪異の相貌で七 る。  地球の反対の側に於て、我々はまた西洋を見るであろう。あまりに人間臭く、人間的 ありすぎる希臘の神々がそこに立っている。そしてあの明るく陽快なる欧羅巴の空と切 とが。げに西洋的なる情操の根源は、全くもって熱情的なる、むしろ執念深き人間件 愛著である。然り、西洋という言葉それ自身が、既にヒューマニティの情操を感じ♪ る。そこには何等のグロテスクな巨像もなく、何等の超人間的な宗教や哲学もない。一 に西洋は現実的であり、一様に彼等の趣味は科学的である。そこでは、美術と、文学と 道徳と、文化のあらゆる本質の感情から、ひとえにただ「人間らしきもの」が悦ばれる。  しかしながら、いま彼等のあまりに人間的なる天使が、東方の怪奇なる偶像にまで、F にその語ろうとする所を聴け! 我等は既に人間に|倦《あ》きた。人間的なものへの好尚が、い かに久しい間、世界の文明を支配していたことよ。けれども今、我等の中の移り気な者が 考えている。結局して我々の眼が、どんな道徳と真理に到達し得たかを。人々は眼をはな ち、遠く東方への旅情にあこがれている。聴け! 基督教の民よと、かつてあの聡明なニ イチェが叫んだ。君等のヒューマニズムを廃棄せよ。それからして絶大なる、別の新しき 自由の道徳、超人の道がひらけてくる! ●科学はその夢を無くしてしまった  丁度あの宗教が没落した時、科学の偶像がこれに代ったのである。十八世紀から十九世 紀にかけ、科学はその若々しき青年の浪漫感で、すべての人類が夢に見ていた、昔からの 様々な空想を実現した。例えば彼等は、風船や、飛行機や、電信や、蓄音機や、〕一 写真やの、多くの驚くべき発明をし、たいていの人が想像し得る、魔法の幻ζ才「 た。  実に近代の初頭に於ける、科学の新しき功績ほど、人間を驚かせた不思議はなかった。 正に「科学」という一つの名辞は、神秘的な超自然にさえ感じられた。人々はその不思議 を、未だ中世の迷信から抜け切らない、あの錬金術のミステリズムと混同して、魔法的の 驚歎でさえも考えていた。そして市中のつまらない見世物すらが、電気人形やマグネット やの観覧物で、到るところに物珍しい客を呼んでいた。その見世物の観客たちは、単に 「科学」という言語からして、不思議な魔法的の驚異を感じ、今日の人が心霊術の実験に でも望むような、気味あしき妖怪的な幻想を感じていた。  げに科学こそは、その頃のなつかしき人にとって、不思議な幻灯の風景であり、人の詩 的空想を青空に飛翔させる、`ふしぎなロマンチックの風船だった。この近代の歴史に於 て、尚十九世紀の末葉までも、人々は科学の中に夢を感じ、自動人形の奏するオルゴール を、阿片の幻覚の中で聴き惚れて居た。その神秘的な科学こそは、あの中世のサバトから 蘇生してきた、異端思想の新しき宗教であり、人生の荒蓼たる砂漠の中で、天体怪奇の亀 しき幻覚を感じさせる|詩《ポエム》であった。  なつかしき昔の科学よ! 今やそのイメーヂは去り、科学の物珍しきロマンチシズム 消えてしまった。今日の「老いたる科学」は、もはや昔の若々しき科学のように、発へ の物珍しき発明と、それの魔法的なる聯想の夢を持たない。今日の時代に於て、科学 の言語の余情にすら、昔のような詩的幻想を失って居る。科学はもはや亡びてしまP すくなくとも我々の芸術家が、その詩的空想の中で夢みたような昔の科学は、今日既' くなってしまったのである。      ●田舎と都会  あの人情に厚い田舎の生活1そこては隣人と隣人とが親類てあり、一個人の不幸や、 幸運や、行為やが、たちまち郷党全体の話題となり、物議となり、そしてまた同情とな り、祝福となり、非難となる。1は、我等の如く孤独を愛するものにまて、しはしは耐 えがたい|煩環《はんさ》の悩みである。我等はむしろ都会の生活を望むであろう。そこでは隣人と隣 人とが互に知らず、個人の行為は自由であって、何等周囲の監視を蒙らない。げに都会の 生活は葬ん情であり、そしてぞか旋に、遥かに奥床しい高貴の道徳に適っている。 ●教科書  たいていの学生は、教科書について考えて居る。宇宙に於て、これほどにも乾燥無味の 書物はないと。けれどもまた、必ずしもそうでないと言う日がくるであろう。彼等にして 学校を廃め、今一度、試験の心配なしに読んだならば! ●だれが自然への愛を妨げたか 学校に於て、私は植物学の初歩を学んだ。それから尚、動物学と鉱物学の初歩を学ん だ。そして一切の「自然」が、ただその属種を分類するところの、煩項な記憶力への公式 であり、尚且つ試験のために課せられてる、厭な陰欝の現象にすぎないことを、しみじみ と深く教えられた。それからして私は、ずっと今日に至るまで、すっかり自然への愛を無 くしてしまった。 ●試験の意義  しばしば表象される同一命題は、いつとなく自然に記憶されてしまうであろう。そこで 今日の試験制度に、もし何等かの意義があるとすれば、次の如きものに外ならない。「い かにしばしば、生徒はこのことを考えたか?」そして「譜記したか?」ではなしに。 ●教育? 教育は、猿を人間にしない。ただ見かけの上で、人間によく似た様子をあたえる。 が、教育されればされるほど、益≧滑稽なものに見えてくる。 もとより猿に関しては、初めの目的がそれである。充分の愛矯であり、道化者であツ とが、猿芝屠における、教育の最終の理想である。これが人間の場合にあっては、別 想が考えられてる。但し恐らくは、ただの理想にすぎないところの、ずっと超自然的 的が!  人間どもの、悲しき夢の一つである。 ●宗教の残骸  |耶蘇《ヤソ》は言った。人はパンのみにて生くるものに非ずと。だが今日の基督教は、霊の実在 や救済に関するところの、どんな説教も説きはしない。牧師自身すらが、霊に関するすべ ての教説-最後の審判や、死後の生活や、地獄の刑罰やーを本気にせず、内密には迷 信とさえ考えている。そして況んや信者たちは、高々巧妙に説かれたところの、一種の比 楡としか思っていない。  教会に於ける、今日の説教のプログラムは、福音書に現われた女性観や、耶蘇教と母愛 との考察である。もしくは信仰と家庭の平和、使徒ポーロの貞操観、マリアの育児法など であり、実に教会そのものが、婦人雑誌の講義録にすぎなくなった。そして今日、すべて の教派が真面目に全力を尽している仕事は、社会廓清運動であり、醜業婦の解放であり、 失業者の救済であり、貧民への|義掲《ぎえん》金募集であり、それから禁酒運動と禁煙運動とであ る。今日、明白に基督教はそれを言ってる。人は霊のみにて生くるものに牛ド の唯物主義者のユダが、基督に叛逆した理由が此所にあった。)  ところで、しかしながらそれが何の宗教だろう? 宗教と言うべきものは、 や無いのである。 実にはもは ●革命とその忘恩  すべての天分ある弟子たちは、師匠によって学びながら、最後に師匠を蹴り倒して、そ れの路台の上に自分を立てる。彼の愛した弟子アリストテレスが、陰で自分の悪口を言っ てるのを聴いた時に、老プラトンが嘆いて言った。「アリストテレスと云う男は、まるで 吸血児のような奴だ。俺から学ぶだけのことを学び、吸うだけの者を吸いとってしまった 後では、さも無用の賛物か何かのように、陰で自分を罵っている。」  革命と称するものが、同じような順序によって、社会の歴史を変化させる。すべての急 進的な革命家は、その生れた時代に於ける、文化のあらゆる情操を体得して居り、彼の敵 とする社会制度の、最も厚き恩恵を受けた弟子に外ならない。例えば仏蘭西革命の先導芸 等は、ルイ王朝の文化によって育くまれ、近代国家主義の情操が本質していたところの、 あの自由主義と浪漫王義の熱情を、だれよりも多く教養していた人々だった。そして日 に於ける明治維新と、その革命の先駆をした志士たちとは、幕府がその三百年間の歴巾 通じて、深く教え込んだ鎖国撰夷の排外思想と、大義名分を重視する御用哲学の朱子、 を、最も忠実に学んだ武士たちであり、逆にそれの正義観から、幕府自身が倒されてしま ったのだ。  最後に、今や資本主義の新社会が、そのあまりに深く教え込んだ商業哲学-唯物主義 とテモクランイlから、逆に反資本主義の逆説を呼び、彼自身の運命を危くしている。 だれが今日、反資本主義の先駆者であるだろうか? この時代の革命家はすべて機械文明 の中枢に働いて居り、大資本の工場に生活している労働者である。或はまた、彼等と同じ く都会に居り、資本主義が教えたデモクラシイと唯物主義とを、その生活感の実際にま で、あまりに深く教養された人々である。今! この忘恩の弟子たちから、資本主義その ものが叛逆されてる。      ●文明は進歩しない  人々は考えて居る。過去数千年の歴史をへて、我々は今日の文明に到達し得た。今や 我々は、過去のすべての時代を通じて、文化の最も高い頂上に立って居る。歴史と共に、 吾人の文明は進歩して来たと。  しかしながら果して、文明は進歩して来たろうか? そもそも先ず、進歩という観念は 何だろうか。進歩という事実は、一つの同じ者の上へ、他の同質の者が加わり、次第に増 積して行くことである。例えば一寸の芽が二寸に伸び、一の知識を有する学者が、百の知 識を有する学者に変って行くのは、明らかに進歩と言われる現象である。けれども或る異 質の者へ、飽の異質の者が加わって行く場合は、異なる変化であって進歩でない。例えば 鉛の上へ金が重なり、文学者が相場師に変って行くのは、単なる変化にすぎないのであ る。 ところで人類の文明には、果して進歩があったろうか?我々は古代希臘人の残した文 化を、その同じ質のままで、前よりもずっと大きく、高い価値のものに育てただろうか? 或は古代支那や古代印度の優秀文化が、後世の東洋諸国に於て、前よりも高く、歴史と共 に進歩して来たろうか? 反対にむしろ東洋諸国は、歴史と共に文化を失い、古代の光彩 を無くしてしまった。そして西洋の新文明は、過去と本質的にちがったところの、別の物 に変化して来た。我々はその事実を考えよう。  今日二+世紀と称する世紀は、我々が科学主義の世界と呼び、唯物主義の時代と呼ぶと ころのものである。この近代の世紀に於て、人類の物質生活は著るしく向上した。この点 だけ言うならば、もちろん我々の文明は、有史以来の絶頂であり、進歩の極致と言うべき だろう。しかしながら他の点で、果して我々の新世紀が、過去よりも進歩して居るだろう か? 例えば芸術や、道徳や、社会制度やの種々なる点で、今日の欧洲やアメリカやが、 古代ペリクレス時代のアゼンスほどにも、完全調和した優秀の文明を持ってるだろうか。 たとえ或は、その点で遜色がないとするも、今日の西洋文化は、決して古代希臘の美術品 を創り得ず、中世の荘厳なる寺院建築を造り得ず、そして科学のあらゆる精巧を以てして も、古代支那の美しい陶器を創作し得ない。  智能の点から考えても、今日の分析的に発育した西洋人は、直覚的叡智の点に於て、そ れだけ昔より退歩して居る。今日どんな西洋の大学者も、古代印度の冥想教徒や、古代支 那の哲学者ほど、異常なすぐれた直覚能力を持って居ない。今日の西洋人等は、その分析 的に発育した智能だけ、それだけ丁度、一方の智慧で失って居り、全体から差引きして、 頭脳の優良さの平均価値を、昔と同じくして居るのだ。すくなくとも全体からみて、今日 の哲学者等が、プラトンよりも聡明であるという証拠はない。もちろん彼等は、プラトン の持たなかった財産を増加している。だが同時に、プラトンの持っていた者を失ってい る。  要するに文明は、その全体としての価値に於て、いつの時代にも優劣がない。各≧の時 代に属するところの、各≧の時代の文化は、常にそれ自身の特色をもち、他によって換え られない、一箇独立した窓を持ってる。それ故に或る文明は、その特色の一点だけで、確 かに他の時代にまさっている。即ち例えば、中世の西洋文化は、その宗教的の点に於て、 比類なく他の時代にまさって居り、古代の希臘文明は、その芸術的な点で高調されてる。 そして今日の新文明は、その科学的なことに於て、史上に類なく卓越しているのである。 しかもその各≧の文明は、互に文化の質を異にし、特色を別にした異種の存在である故 に、他を以て他に比較し、優劣を論ずることができないのである。  かくの如くして我々は、或る時代の文明から他の時代の文明へと、異質的な者の系列し ている、歴史の長い道を歩いて来た。それは丁度季節に於て、春の次に夏を迎え、夏の次 に秋を迎える推移の如く、一つの必然的なる歴史上の「変化」であった。たしかに、それ は文明の必然的なる、自然の推移ではあるかも知れない。だがどんな意味に於ても、それ は文明の進歩ではない。進歩という事実は、ただ同質のものの生長にある。吾人の文明の 推移のように、時代によって特色を別にしている、異質的の者の推移にあっては、単に変 化というべきのみ。進歩という事実は、決して歴史上に有り得ないのである。  それにもかかわらず、尚多くの人々の常識は、固くこの点で確信し、今日を文明の山頂 と思惟して居る。それはどうしたわけだろうか? けだし人間の心意識は、自分が現に立 ってるところを、いつでも最良のものと考え、過去がそこに積み重なった、高い絶頂とす るからである。そこで例えば、すべての老人は自誇している。自分が今日抱く思想は、過 去の長い経験の|塁積《るいせき》であり、したがってまた自分ほどにも、進歩した考のものは外にない と。しかも老人の抱く思想は、老人としての地位に於ける、最良の考にすぎないのであ る。それは青年時代の血気ある彼の思想を、同質的に向上したものではなく、老年に於け る立場からして、別の見方で考えられた人生観を、異質的に変化したものにすぎないので ある。  同じように人々は、彼の生活している時代に於て、その時代に属する文明を、いつでも 最高のものと考え、その時代の特色としている文明を、文化の本質的の者と思惟するので ある。そこで例えば希臘時代の人々は、智能と情操との円満なる調和を以て、文明人の本 質と考えて居た。そして中世の教会時代は、文明と基督教とが、常に同字義のものと思惟 されていた。故に当時の言葉に於て、異教徒と野蛮人とはイコールだった、.その中世の 人々からは、東方|亜細亜《アジア》の遥かに文化的の民族すらが、単に異教徒である事実によって、 頭から野蛮人として蔑視された。一方で支那や日本の東方諸国は、孔子の礼楽の道を以 て、文明の本質と考えていた。故に昔の支那人や日本人等は、西洋の発達した科学文明を 認めながらも、尚且つ彼等を目して|夷秋《いてき》とし、一種の野蛮人として思惟したのである。  同様に今日の人々は、彼等が現に属する一の時代の特色から、文明の本質を物質生活に 置いて考えている。文明人という言葉は、今日の常識する意味に於て、物質生活の向上し た国民であり、野蛮人という言語は、その反対のものを意味する。故に今Uの印度人等 が、その貧しい|草葺《くさぶき》の小屋に住んで、素足で沙漠の上を歩いて居る限りには、たとえ印度 に古代の黄金時代が復活して、世界を驚歎させる幾多の学者や、幾多のウパニシャッド大 智識が生れたところで、今日世界の常識は、依然として彼等を野蛮人としか見ないであろ う。反対に或る国民-例えは現時の米国人なとーは、何の偉大な学術もなく芸術もな く、典雅な文化的情操すら持たないところの、無智無学な粗野の自然人であるにかかわら ず、世界の一般の常識から、異存なく文明人と考えられている。なぜなら彼等の生活は、 高楼建築の中に住んで自動車を走らすところの、物質的最高頂のものであるから。そして 「文明」という観念は、今日に於て物質生活の向上を意味しているから。(それ故に今日で は、紳士という語が金持ちを意味して居る。昔はそれが、教育や礼節のある人物を意味し ていた。)  かくの如く、今日我々は文明を定義している。しかしながらこの定義は、ただ今日の時 代に属するところの、或る一種の定義にすぎないのである。古代希臘人や支那人やの、文 明に於ける別の定義は、それと全く本質がちがっていた。そして我々の何人も、此等の多 くの定義に就いて、真偽を断決することができないのである。思うにすべての時代の定義 は、すべてに於て独立した真実であるだろう。そしてそれ故に、吾人はまた今日の文明価 値を、過去の文明価値と比較できない。今日二十世紀の文明は、過去の中世期や古代の上 に、高く積み建てられた「上屑のもの」でなくして、他の全く別の地盤に、それと並行し て建設されたる、一つの新しき別種の者にすぎない。そしてもちろん、他のすべての時代 の文明がそうである。それらの各≧の文明は、歴史の噴荘とした平野の中で、|羅馬《ロ マ》の廊柱 のように並列して居る。しかしながら、そこには、天に届こうとして建設されたる、一つ の高塔もないのである。 ●浪と文明  文明は浪のようなものである。それは遠い沖の方から、次第に岸に近づき、進んで来る ように眺められる。だが見る人の錯覚であり、実には同じところに上下している、水の週 動律にすぎないのである。朝と、昼と、夕暮れと、太陽の反映する光線が、それの色彩を 変えるであろう。しかしながらまた、色彩に対する美の批判も、見る人の・干観によって変 るのである。 ●義人と卑随漢  或る雄大なる道徳は、常に本質に於ての不徳を教える。汝謙遜する|勿《なか》れ。常に傲慢であ れ。汝、卑屈なる勿れ。常に権威に反抗せよ。汝善良である勿れ。常に意地悪く残酷であ れ。汝、盗みをせよ! 悪をせよ! 暴逆をせよ! と。  しかしながらそれは、人間の非力を感ずるほどの、ずっと大きな敵に対して身構えられ てる、或る本質上の道徳である。然るに一方では、これが|卑晒《ひろう》な者共によ.'ソて曲解され る。彼等はその「本質」に説かれたことを、つまらぬ「属性」の上に適用し、小さな気の 毒な人間を|苛《いじ》めたり、友人に対して据傲であったり、必要もないのに反抗したり、箇々の 財産を泥棒したり、恩人に対して|仇《あだ》を報い、先輩を無礼に|殴《なぐ》ったりして、白ら大に得意で 居る。  卑阻なけち臭い盗人等は、いつも次のような哲学で、彼自身を弁護している。俺は小さ な悪しかしない。然るに一方で|彼奴《あいつ》等は、天下の財宝を独占したり、日本の全領土を略奪 している。しかも懲娘等は公然として居り、度も罰された雰しがない。何故に正義 は、|彼奴《あいつ》等を英雄として讃美しながら、俺等を盗人として虐遇するのか。正義が公平であ るならば泥棒することは平気であると。そして尚盗人等は、彼等自身のさもしさと、|下司《ち ちちげす》 根性の底に根を張ってる、不義の醜劣について気がつかない。もちろんまた、そうした|論 理《ロヂツク》が組み立てられてる、本質の誤謬に就いても知らずにいる。もし彼等にして、それを知 るだけの理性があったら、初めから卑劣な悪事などはしないであろう。(ソクラテスは真 理を言った。悪と知って悪をする者は有り得ないと。)  崇高な不徳は讃美される。だが卑随なけち臭い者共は、どんな事情に於ても許され得な い。 ●或る野戦病院における美談 戦場に於ける「名誉の犠牲者」等は、彼の瀕死の寝台を取りかこむ、あの充電した特殊 の気分  戦友や、上官や、軍医やによって、過度に誇張された名誉の順讃。一種の芝居 がかりの緊張した空気。  によって、すっかり酔わされてしまう。彼の魂は高翔し、あ だかも舞台に於ける英雄の如く、悲壮劇の高調に於て絶叫する。「最後に言う。皇帝陛下 万歳!」と。けれども或る勇敢の犠牲者等は、同じ野戦病院の一室で、しばしば次のよう に叫んだろう。「人を戦場の勇十に駆り立てるべく、かくも深く企まれた国家的好計と、 臨終にまで強いられる酒に対して、自分は決して酔わないだろう。最後に言う。自分は常 に|素面《しらふ》であった。」と。  しかしながらこの美読は、後世に伝わらなかったのである。      ●この陰欝の景色を消し去れ!  それは陰惨な景色である。或るじかじかとした天気の日に、貧しい人家が並んで居り、 夫々の軒の屋根の下で、一組の家族が生活している。小さな、しみったれた木造家屋と、 その中に畳をしいて、味噌や魚菜の僅かばかりを、みじめな膳の上に並べて食ってる夫 婦。陰気な非衛生的な狭い部屋で、ベッドもなく寝起をして、|溝鼠《どぶねずみ》のように跳び廻ってい る子供たち。ああすべて、なんというみすぼらしい人生の光景だろう!  我々は路上の散策から、そうした→股町心光景を見るに耐えない。実に人口の大多数者 が、僅か百円や二百円の貧しい暮しで、みじめにも独立した一家を構え、へギのような紙 張りの家の中で、夫婦と子供が同室に寝起をし、あらゆる原始的なしがない生活をするこ とが、日本の今日の現状であり、どんなにしても我々の大多数者が、このじめじめした貧 乏から脱れ得ないという事実を、かくも切実に知れば知るほど、人生に対して憂欝にな り、絶望を深くすることはない。何故に人々は、この点で神経を鋭どくし、生活様式の改 良を計らないのか? 今日の世紀に於ける、あらゆる二十世紀的文明と大資本主義の発達 した世界に於て、何故に我々の家族だけが、かくも封建的な薄暗い小家の中で、家族主義 の因襲する旧慣から、貧しい世帯暮しをせねばならないのか?  もし人々が意志するならば、我々の社会制度は改革され、生活がずっと明るく善いもの に変るであろう。例えば先ず、我々の不幸の子供たちは、その狭く陰欝な家庭から解放さ れて、国家の経営する大規模な国立育児院にあずけられ、あらゆる文明的な新設備と、衛 生や保護の行き届いた広間の中で、いつも白く清潔されたベッドに眠り、遊戯と教育との 完全した幸福を得るであろう。例えばまた我々は、只今の貧乏くさい小住宅から、国家の 大資本が経営する、国立アパートメントの大ビルヂングに移るであろう。そして只今の味 噌汁臭い原始的の生活から、最近科学の完全に利用されてる、最も文明的な王侯の生活に 移るであろう。同じようにまた人々は、その食物や日常の家庭雑務を、政府の管理する国 立の経営に委ねることから、ずっと多くの便利と|賛沢《ぜいたく》とを得るであろう。もちろんこの種 の経営は、私人的の利益によってされる事業でなく、民衆全般の福祉のために、国家がそ の大資本で経営する事業であるから、そのあらゆる便利と賛沢にもかかわらず、一般の生 活費の最も少ない実費でされ、今日の事態に比すれば、殆ど言うに足りない少額の支出で すむであろう。  かくの如くして我々は、今日のしみ小だかだ非文明的な生活から、多少いくぶんにても 明るい近代風の生活に入り、あの厭やらしい貧乏から、少しでも救われることができるの である。しかも人々が意志するならば、すべて此等のことは造作もなく、明日にも政府に 建言して、明日にも実現することが出来るであろう。ともあれ我々は、あの時代遅れの暗 轡な家庭的小住宅と、避けがたくそれに伴う世帯暮しの貧乏さから、いかにしても必死の 逃走をせねばならぬ。願わくば我々の散策から、途上の到るところに見る小住宅と、その 陰欝で、じめじめした非文明的の景色を消し去れ! ●義賊の哲学  労働は神聖なりという思想は、今日の社会主義者に排斥され、昔の笑話として語られて る。なぜなら明白に解る如く、この思想のプロパガンダは、狡猜な資本家から出ているの である。資本家等はそれによって、労働者の不平を慰め、彼等をその不遇の地位で、自尊 的に満足させようとしたのであった。即ちそれは、あの「職業に高下なし」という古い言 葉lIなんという空々しい、底の見えすいた甘言だろう。1を、時代の新しい気運に用 いて、逆手に資本家が宣伝したのだ。  これが少し昔にあっては、幼稚な社会主義の思想からして、単純な労働者等に喝采され た。彼等は資本家のペテンにかかり、自らその境遇に満足すべく、得意になって公言し た。「我々は労働している。彼等は少しも労働してない。彼等は恥ずべき遊民の徒輩であ り、我々こそは神聖なる、立派な仕事をしている民衆である。労働者万歳!」と。けれど も最善の生活が、自ら選んだ自由選択の生活であり、そして彼等の労働者が、この点での 自由を持たず、境遇の搾取された下積みから、最も|貧乏籔《びんぼうくじ》の仕事を課せらるべく、必然に 強いられることについて、彼等は自覚せずに居たのである。もし自由を選んだならば、決 してどんな労働者も、自ら好んで掃除人夫や、地獄の労役を強いる金掘坑夫や、機械の虐 遇する工場職工にならないだろう。できるならば彼等は、だれも資本家の安楽な仕事と生 活を願っているのだ。  その上にまた、労働が神聖であるという理由は、決してどこにもないのである。反対に 社会主義は、人生の課目からして、できるだけ労働をすくなくしようと考えている。「|能《あた》 うだけすくない時間に、能うだけ労働のすくない負担を。そして能うだけ多くの時間に、 能うだけ多くの自由と満足とを。」これが今日、ソビエット|露西亜《ロシア》のモットオとしている 理想であり、そして一般に、社会王義の第一原理とするものである。即ち彼等の哲学で は、労働を讃美すべきものと考えないで、人生の止むを得ない負担と考えている。いかに もして彼等は、人生からこの負担をすくなくし、若し能う得べくば、科学や機械力の広い 利用で、労働を全廃しようとさえ理念している。決してどんな理由からも、労働は神聖で ないのである。  ところてまた社会主義の正義観は、今日の不合理にして|偏頗《へんぱ》の社会l或る者は過度に 労働し、或る者は少しも労働しない。1から、すへての不公平を|匡正《きようせい》し、一般の幸福を 平等に地ならしすべく、その目的への改造にかかっている。故に近時の成長した社会主義 と労働者は、もはや昔の錯誤した稚態を脱して、正しく次のように考えて居る。「今日の 社会に於ては、何故に我々の無産者のみが、労働を強いられねばならないのか。我々は過 度に労働して、得るところのものを搾取されている。一方に資本家たちは、少しも労働せ ずして遊んで居り、却って我々のものを搾取して居る。かくの如き社会は平等でない。彼 等の小数者が専有している幸福を、我々の多数者にも平均に分配せよ。そして我々にのみ 課せられてる労働を、彼等にまた一般に公平にせよ。  働かぬものは食うへからずー」  社会主義の正義観は、今日かくの如く主張している。それは有るものから泥棒して、無 一心介にまで分配し、富者を地上に引きずり倒して、貧者と同じ境遇にまで、幸福を均一 にせよと思惟するところの、あの所謂「義賊の哲学」を聯想させる。いかに? 正義がも し多数者の功利でないならば、社会王義の情操に本質する一つのものが、あの多くの貧乏 人に共通している、嫉妬の復讐心でなくしてなんであるか? 或る聡明な主義者の頭脳 は、それを知り尽して居るのである。 ●透視せよ?  世界の不思議は、未だ資本主義を通過しなかった露西亜に於て、その反動である筈の社 会主義が、一足跳びに実現したという奇蹟である。反対にまた一方では、極端な資本主義 によって中毒され、それの高調した弊害に苦しんでいる現代のアメリカで、一も社会主義 が成育せず、萌芽的にさえ、真の深い根を持っていないという事実がある。  見よ! 一方では季節はずれの果実が|実《みの》り、一方では季節のものが、その熟すべき時期 にさえ種を持たない。この不思議な事実からして、或る根本の秘密を見出すものは、どこ でも民衆を統治し得べき、権力の鍵を握ったのである。 ●日本の残夢  今日の日本は、社会のすへての文化ー例えは政治や、習俗や、特にまた芸術やーに 於て、あまりに封建の遺風を残し、それの島国的な薄暗い情操で充たされている。我々の 時代の急務は、何よりも先ず資本主義を確立して、真の新しい近代的国家をつくるにあ る。  今日の日本に於て、我々は季節はずれの社会主義に同情すべく、あまりにブルジョア的 なものに遠く、ブルジョア的なものに追従する、未知の憧憬にこがれている! ●詩的すぎた修身教科書  我々の昔の小学校は、修身の正しい課目として、次のような伝記を生徒等に請諦させ た。支那の或る義人は、自ら食を断って節に殉じた。日本の或る忠義な武士は、君主の身 代りに立てるために、自分の最愛の子を殺した。或る有名な婦人たちは、その貞操を汚さ れるよりは、むしろ躊躇なく自殺を選んだ。或る熱誠な愛国者は、憂国のあまり割腹し て、おまけにその臓賄を地面に叩きつけた。或る貧乏な家の子供は、親の病気平癒を祈る ために、高い十丈余もある滝に打たれた。等。等。  かくの如く昔は、修身が物凄き話に充たされて居た。先生たちは、いつでも厳粛すぎる 表情をして、人生の最も異常なる、驚歎すべき、悲壮劇のクライマックスのみを物語っ た。然るに実際のことを言えば、人生はそんなに劇的のものでなく、もっと有りふれて平 凡な、くだらない事件の連続である。大概多くの人々は、平坦無味の事務生活や、急がし い取引の商売や、家庭のつまらない夫婦喧嘩で、変化もなく感激もない、平和な一生を終 ってしまう。修身が教えるような大非常時は、殆ど稀れな場合にしか有り得ない。その昔 の先生たちは、生涯の百の場合で、おそらくは一にも起り得ない、稀有の例外を教材にし た。それからして生徒の中には、しばしば気紛れの道徳家ー1平常は全く仕方のない無頼 漢でありながら、地震や火事の非常時にだけ、驚くべく劇的に高調された人道主義者に急 変したり、平時は不正の貿易などして、国家に間接の害をあたえながら、戦争等の場合に だけ、狂熱的の愛国心に燃えたりする者共。1が現われてくる。  そこで今日の修身には、次のような新しい教科書が使用されている。太郎は快活な少年 である。彼は無邪気な笑談と身振りによって、いつでも老いた両親を慰めて居る。太郎は 善い子供である。なぜなら動物を愛するから。諸君も動物を愛し、犬猫など苛めてはなり ません。皆はよく運動し、また勉強せねばいけない。身体を常に清潔にし、几帳面の習慣 をつけ、時間をよく守らなければいけない。食事の時は行儀をよくし、茶などこぼしては ならない。自分の命じられた義務を守り、だれに対しても誠実に、正直でなければいけな い。等。等。  修身の実績からみて、おそらくはこの後の者が、昔の旧式に優るであろう。すくなくと もこの新教科書は、昔の如き「気紛れな道徳家」を養成せず、おしなべていつも正直であ り、徳義心の行き渡った、日常生活の好紳十を教養する。しかしながら尚、昔の古風な先 生たちは、決してこの教科書を悦ばない。現に我々の日本に於ては、今日の時世でさえ も、修身教育の大部分が、昔の精神で教えられてる。何故だろうか?彼等の古風な道学 者等は、道徳精神の本質感に、一つの強いスピリットを要求して居るからである。彼等は いつも考えている。道徳の本質たるや、殆ど崇高にして尊権のものである。我々は道徳の 威権にうたれる。かくの如きものは、何等か人をして粛然たらしめ、襟を正させる類のも のでなければならない。真正なる徳行は、稀れなる崇貴の人格と、克己の修養によっての み体現される。道徳は厳粛のものであり、笑顔を以てお|伽噺《とぎばなし》の如く語られるものではな い。それはだれにも出来るような、まただれも普通にして居るような、日常茶飯のつまら ぬ「|躾《しつ》け」と別である。我々は道徳を教えるので、単なる|躾《しつ》けや心掛けやで、教育を満足 させるものではないと。  かくの如き一つの思想は、道徳から高い興奮を求めて居る。彼等はいつでも、道徳を崇 高の山頂に置き、容易に凡俗の近寄り得ない、尊権のものに感ずることから、逆に自分を 苛酷に鞭うち、徳への意志を奮い立たそうと情熱している。即ち言えば彼等は道徳を叙事 詩として、或る精神を高翔させる、一つの「|詩《ポエム》」として考えて居る。故に彼等の中の人 物は、常に悲壮劇の英雄であり、ホーマーの詩集を片手に持って、空想の山頂に飛躍して 居る。もちろんこうした精神からは、新しい教科書が悦ばれない。それは道徳の威権を傷 つけ、かくも崇厳高貴な徳行をして、太郎や次郎の食卓にさえ躾けられたる、卑俗な日常 行事に低落させる。何よりも彼等にとって耐えられないのは、それが道徳の「詩」を殺し て、調子の低い「散文」にすることである。すべての散文的のものは、それだけ常に実用 的で、デモクラチカルでもあるだろう。だが昔の教育者等は、道徳と実用とを区別した。 あだかも我々の常識が、詩と商業とを区別して居る如く、彼等の古風な道学者等が、同じ ようにまた区別して居た。彼等の欠点について言えば、今日の時勢に向くべく、あまりに 詩人でありすぎるのである。 ●大邸宅の門を出でて 富豪や貴族やの生活は、しばしば我々の貧乏人を驚歎させ、嫉妬や畏怖心にさえ近いと ころの、理由なき卑下を感じさせるのである。そもそもこの貧民根性。人間のさもしげな 心理はどこから来るのか? すべて我々は、彼等の生活様式から、その賛沢さに驚くので ある。そこには我々の触覚や、嗅覚や、味覚やの感覚が渇望している、|薯移《しやし》の最上のもの がそろって居る。部屋の温度は調節され、暑くもなく寒くもなく、丁度好い皮膚の温度で ぬくもって居る。あらゆる賛沢の|嗜好《しこモつ》の下に、主人夫婦の寝台が用意され、さまざまな香 料の調合が、愉快な安眠にさそうように、嗅覚の敏感で準備されてる。夫人の皮膚は、そ の柔らかな寝衣に慣れて、繊維の|一寸《ちよつと》した|粗《あら》さからも、痛々しく傷ついてしまうであろ う。そして主人は美食に慣れ、我々の舌の鈍く感じ得ないような微妙の味を、常に高価な 食物から味わって居る、すべてに於て彼等は、我々が感覚し得ない微妙のものを、日常の 慣習に感覚して居り、最もデリケートな神経からして、生活が用意周到に準備されてる。  一方で我々自身はなんという粗野な蛮人であるだろう。我々は寒風の吹きざらしにす る、素朴な小屋の中に平気で住み、食物への味覚もなく、犬のようにがつがつと貧り食っ てる。我々の皮膚や触覚やは、|藁《わら》の|布団《ふとん》の上にさえも、平気で安眠ができるほど粗野であ る。すべてに於て我々は、主人に対する犬の如く、高貴な文明人に対するところの、素朴 な野蛮人のような者にすぎない。我々はそれを感じ、無意識に畏れ入ってしまうことから して、内気な田舎者のようにおどおどして、彼等の賛沢な構えの前に、自ら卑下してしま うのである。のみならずまた我々は、そうした感覚生活の優越権から、対手の人格に畏敬 を感じ、何等か我々の貧乏人とはちがうところの、不思議に卓越した世界の中で、高貴に 許されてるものをさえ直感する。  しかしながら我々は、畏る畏る彼等の前に近づいて行く。そして、賛沢の威権に輝いて 居り、尊大から我々を見下しているところの、それらの富豪や貴婦人やの顔を眺める時、 |再度《ふたたび》また意外の驚異に打たれてしまう。なぜならば彼等の容貌には、何一つの卓越した美 しさもなく、高貴な情操さえも無いからである。そこにはただ俗悪と、低脳と、野卑と、 平凡と、無教養との、あらゆる空疎な表情が有るにすぎない。何故に彼等の食物や、寝具 や、浴場やに於て様式されてる、あの驚くべき感覚の優越とデリカシイとが、かくもその 一方で、空虚な低劣の頭脳と同棲するのか。あれほどにも賛沢に洗煉された、高貴に傷つ き易い夫人の皮膚が、鈍感以上にも無神経な、石や瓦をつめ込んだ頭脳と一緒に付いてい るのか? 百度も繰返して不思議に思い、我々はその矛盾を考えてみる。そして彼等の門 前を去り、尚永久に解くことができないのである。 ●芸術家と金満家  概ねの芸術家等は、感覚神経の発達からして、賛沢への強き欲情を有して居る。しかし ながら一の例外も、彼等の賛沢を許していない。実際に於て賛沢であり、著修を尽してい る人々は、彼等と全く天質のちがうところの、利害の計算に抜目なき人物等である。彼等 は賛沢を欲するのでなく、金銭によっての利得を計り、物質の所有権を得ようとして、初 めからその人生観に出発して居る。贅沢でさえが、彼等に取っては|見栄《みえ》であり、自分の所 有権に対するところの、誇りの虚栄心にすぎないのである。それが一方で芸術家等に、そ んなにも熱情されている肝介理由は、永遠に金持ち等に了解されない。彼等の所謂「成功 者」は、丁度その放蕩息子等を見るように、いつも芸術家を眺めて居り、やっかいなもの として意見して居る。「君等は人生に著修を教える。実力もないくせに、ただその虚栄心 のみを誇ることを、我々の子供たちに教育する。それからして子供たちは、我等が成功に よって得た勝利の授章を、早く修養の中に乱侃して、人生の肝腎な時期を失い、最初の出 発点を堕落してしまう。教育上の意見としても、芸術は禁じなければいけない。」 ●感覚と精神 感覚的な人物等は、物質の肉感にのみ溺れて居り、 精神の本質に属するところの、高貴 な美しいものを知らない。一方で精神的な人物等は、感覚の世界に表現されてる、現実の 美しいものを知らない。それからして前者は、アメリカ的無智の物質主義に低迷して、救 いがたく俗悪な者に堕してしまう。反対に後の者は、印度的無智の心霊主義に幻惑して、 永久に沙漠の中を彷僅している。  原則として、慰覚ぼ物賢と共に滅ぴ、精神は観念と共に没落する。望ましき者は一つし かない。その本質に精神を有するところの感覚主義者。逆に或は、その属性に感覚を有す るところの精神主義者。      ●|卑怯《ひきよう》の正義  一人が一人に対して戦い、正面の敵に正面から向う時、人はそれを公明の態度と言う。 そうでなく、一人に対して多数が戦い、或は不意に物陰から射殺する時、この行為は卑怯 と呼ばれる。だが一人の強い力が、よく数人に敵している時、どうして後の弱い者が、公 明な一騎打ちをすることができるだろう。弱い者は奇襲や誰計によってのみ、強敵と同等 の位地に立ち、互角の力を角し得るのだ。  されば卑怯とは何だろうか? 卑怯とは弱者の正当防衛に外ならない。それは弱者の側 に於て、正しく主張され得る正義であって、少しも恥ずべき道理がない。それにもかかわ らず、尚我々の道義心が許しがたく卑怯を憎み、悪徳を恥かしいことに考えるのは、一体 どうしたわけだろうか? 理由は極めて簡単である。我々は歴史の長い間、封建の武士階 級によって支配された。そして武士たちの道徳では、常に「力」と「正義」とが一致され てる。すべて「強い」ということは、彼等に於ける最大の名誉であり、同時にまた徳であ った。彼等のすべての武士たちは、弱者と呼ばれて不名誉に生きるよりは、むしろ強者と 呼ばれて光栄に死ぬことを欲して居た。それ故に彼等は、弱者としての正当防衛を主張 し、卑怯の正義を言い立てることなどは、決して夢にも考えなかった。卑怯と呼ばれるこ とは、自らの弱者を証明するものである故に、死よりも尚恥かしく、男子の最大の屈辱で あると思惟したのである。  この武士道の道義観は、今日なお我々の中に遺伝されてる。それによって我々は、今日 でも尚昔の如く、卑怯という言語に不潔を感じ、武十にあるまじき不徳の如く、醜劣に感 じているのである。しかしながら近代の新社会は、我々を封建から商業主義に、武十道か らデモクラシイに変移して来た。今日の町人道徳の世界に於ては、もはや「弱者」と呼ば れることが、何の恥でも不名誉でもなくなっている。のみならず今日の平等思想や社会主 義の主張に於て、到るところ声高く「弱者の正義」が叫ばれて居る。むしろ或る多くの者 共は、弱者であることに正当の誇りを感じ、多数の仲間の結束からして、正義を感じてさ え居るのである。  かくの如き時代に於て、もはや卑怯の道義観は意味を為さない。今日我々の遺伝に於 ---------------------[End of Page 14]--------------------- て、尚多少残されてるその武士道的良心は、もはや近い未来に於て、完全に取り消されて しまうであろう。その近い未来に於ては、卑怯という言語に於ける、一切の悪い意味が消 滅して、却ってそれを誇りにする、正義に近い意味が含まれてくるであろう。人々は到る ところに徒党を組み、或は物陰からピストルを|閃《ひら》めかして、彼等の敵とする強者をやっつ けてしまう。しかも|悟《てん》として恥ずることなく、あらゆる陰険な行為や卑怯が、却ってその 名誉に於て、公然と行われてくるてあろう。  だれがあえてその近き未来を想像し得な いと言い得るものぞ! 現に既に、今日目前に於てさえも。      ●|間諜《スパイ》の心理 露西亜の「陰謀に充ちた虚無王義者」は、秘密の幾重にも入り組んだ網の中で、同志が 政府のために間諜し、人民の怨恨を高めるべく、しばしば政府の軍隊を|使嚥《しそう》した。反対に 政府の側では、主義者の間に間諜して、密かに貴族や高官やを暗殺させた。もちろん政府 は、それによって秘密結社の高等幹部を、巧みに釣り出そうとしたのである、、 かくの如く、陰謀の複雑した組織の中では、間諜が一.重け阜心を要求される。即ち一方 では敵に内通し、敵の走狗となって働らきながら、一方では味方を信頼し、秘密を報告し ようとするところの、二つの別々に働らく意識を、同時に対立させた義務心が必要され る。もし前の義務心なしには、|猜疑《さいぎ》深い敵を欺くほど、充分間諜し得ないだろう。なぜな ら心にもない仮装は、一寸とした機会にすら、容易に正体を暴露するから。ただ善き|間諜《スパイ》 に於ては、それが一種の義務感からする、全くの本心である故に、決して敵に発見され ず、しばしば却って味方にさえも、本当の敵として誤認される。(一つの最も好い例とし て、露国虚無党の或る主魁が、八年間を通じて|間諜《スパイ》であり、政府のために内通しながら、 他方で党員を指導しつつ、無数の暗殺を行っていた。)  こうした間諜の心理の中には、理性の最も幽玄な謎  弁証論の第一原理  が含まれ て居る。それは神秘の謎であり、多数の徒党に理解されず、ただ一人の首領だけに、陰謀 の全機関を動かしている、総大将にだけ解るのである。 ●テロリストの原理  個人の存在を抹殺することによって、復讐が遂げられると思うのは、低気圧の象徴(信 号灯)を壊すことによって、暴風雨を防ぎ得ると信じたところの、単純な野蛮人の思想に 似て居る。けれども暗殺者等にとってみれば、象徴であることの外に、どんな宇宙の意味 も実在しない。故に彼等は言うのである。否! 人間を殺すのでなく、その人間によって 象徴されてる、或る社会上の一つの意味(観念の実在)を滅ぼすのだと。  概ねの暗殺者とテロリストとは、唯物史観に反対して、観念論の象徴主義を信奉してい る。 ●人間の退化について  進化論に於ける、一般の通俗化された誤謬は、生物界に於ける弱肉強食の思想、即ちよ り優秀なもの、より強大のものが、常により劣等のものや弱小のものを征服し、生存競争 に於て勝利を得るという思想である。(今日米国のフェミニストや平和論者が、ダウヰン を人道主義の仇敵視し、法律によって進化論を国禁しようとしているのが、令くこの理由 にもとづくのである。)しかしながら反対であり、ダウヰンの説くところは、生物の進化 でなくして退化を教え、価値の存在を転倒している。なぜなら進化論の根本原理は、唯一 の「自然淘汰」にあり、「適者生存」にあるのだから。  あらゆる地上の生物は、その環境に適するところの、素質の順応に於てのみ生存する。 自然淘汰の法則は、避けがたくこれを励行し、他を絶滅させてしまうだろう。故に生存競 争の優勝者は、常に必ず「環境への妥協者」を意味している。そして必ずしも、優秀者 や、天才者や、強力者を意味しない。むしろ此等の者は、その非順応的な素質の故に、 年々歳々没落して行き、地層と共に埋れてしまうであろう。反対に劣等のもの、卑随のも の、平凡のもの共は、その細胞組織の単純さと、繁殖力の旺盛さとから、容易に環境に順 応して行き、常に他のものを征服して、地上に於ける生存競争の勇者となってる。  この悲しむへき事実  生物退化の事実  は、歴史のあらゆる過去からして、疑いも なく実証されてる。見よ。かつて太古の世界では、地上が植物で|蔽《おお》われて居り、マンモス や、怪竜や、恐角獣やの、巨大な恐るべき動物が、それの卓越な優秀と強力とで、他のあ らゆる弱小者を圧倒しつつ、独り森林の中に横行していた。ただその時代だけ、弱肉強食 が現実していた。しかしながら今日、ああそれらの強者はどこへ行ったろう! 自然淘汰 の法則は、常に経済的な者に|与《くみ》して、不経済的な者を殺してしまう。その巨大な体躯や武 器の故に、常に最も豊富な食餌を要したところの、それらの原始時代の優秀者等は、早く 既に地層の下に埋れて、後にはより弱小な小動物が、独り生存の権をほしいままにした。 そして今日でさえも、獅子や、虎や、象や、鷲やの動物は、次第に益≧減少して行き、逆 に糞虫や、野鼠や、蠕蛉爆やの小動物が、どんな悪い境遇にも順応し得るところの、その 種の劣等によって優勝している。そして尚、地上に於ける真の絶対的征服者は、人間でな くしてバクテリアであり、これがあらゆる生物を食い殺し、地球の死滅する最後までも、 独り益≧繁殖を続けるのである。  生物界に於けるこの実情は、人間の社会に於ても例外なく、もちろんまた同様であるだ ろう。なぜなら、人類生活の環境も、自然界に於けるそれと同じく、年々歳々切迫して、 昔のようには余裕がなく、次第に生活難のせち辛い方向に向ってくる。そして適者生存の 法則は、すべての悪しき事情の下に、すべての劣悪な種を順応させ、より下等なものの勝 利を、避けがたく必然にしてしまうから。実に人間のあらゆる歴史は、この傷ましき種の 下向と、人間文化の没落を実証している。見よ。あのヘレス人の次には羅馬が興り、羅馬 の次にはゲルマンやサキソン人の世界が栄え、今ではもはや、無智のアメリカ人が全世界 を支配している。そしてこの|階程《かいてい》は、歴史の初めほど地位が高く、下に行く程低くなって る。東洋では、それが尚一層著しく、印度に於ても支那に於ても、あらゆる文化は古代の 花園にのみ咲き乱れた。  しかしながら歴史でなく、現在の生活している社会から、最もよくその実証を見るであ ろう。芸術に於ても、またはその他の社会に於ても、環境の悪くなる事情と比例して、 年々歳々下等の種属が、それの多産と順応性から、マルサス的増加率で繁殖して行く。一 方で天才や英雄やは、その容易に順応できない気質からして、次第に衆愚の勢力に追い立 てられ、時代と共に没落して行く。自然淘汰の法則は、避けがたく彼等を亡ぼしてしまう であろう。反対に劣等種属は、それの旺盛な繁殖率から、多数群団して勢力を得、芸術上 にも、政治上にも、一切の社会的権力を握ってしまう。そこで今日の思潮界は、あの奴隷 的均一を説くデモクラシイや、蟻的社会の幸福を説く共産主義や、単細胞動物的な集団を 考えてる無政府主義や、その他のすべて大多数決的、愚民的、下等動物的の平等思想が、 時代と共に勢力を得て、運命への避けがたい墜落率を、一層速めているのである。実に想 像し得ることは、文化の近い未来に於て、人間没落の最後が来ること。あらゆる人類が猿 に帰り、|蜥蜴《とかげ》になり、蜜蜂的の単位になり、最下等の|徽菌《ばいきん》にさえ、退化してしまうと言う ことである。 (「傾斜に立ちて」**頁参照) ●商業  商業は昔に於て、一つの浪漫的な冒険だった。…㌻ぱにややぽ"とか"等の帆船は、早 くから地球の港々をたずね歩いた。その航海の途中には、魔物と妖怪で充たされた海があ り、海賊は血なまぐさい兇器を揮って、不吉な島々の岬から、幻灯のように現われて来 た。羅針盤は魔術のために狂い易く、行くところに暴風雨は、帆布を裂き、|橋柱《マスト》を粉々に 砕いてしまった。  かく航海術の幼稚なる時代に於て、交易は恐ろしい冒険の事業であった。港を出た百艘 の船の中で、ただ十艘だけが無事に帰った。気味あしき幽霊船の幻影は、行くところの空 に浮んで、船員共の神経を暗くしていた。けれども冒険の帰結は、驚くべくまた愉快なも のであった。一航海の終りに於て、荷主等は世界の宝石と財産との、山のように巨大な富 を所有した。彼等はその腰に剣を帯び、帽に空想の花束を飾ったところの、古風な浪漫的 な騎士であって、商業すること自身よりも、冒険すること自身の中に、情熱の夢を持った 詩人であった。  いかに諸君は、欧洲の近代文化を本質している、商業主義のロマンチシズムを知ってる か。希臘のアゼンスの昔から、商業主義は自由と冒険を旗色にし、そしてスパルタの保守 的な農業主義-即ちまた軍国主義  と争って来た。そして遂に、商人等の自由思想と 浪漫主義とが、欧洲の近代文化を征服した。世界は新しくなって来た。しかしながら今 日、いかにまた商業そのものが変って来たか。  今日に於て、商業はもはや昔の精神を失ってしまった。現代の商業は、何の冒険でもな く英雄的な叙事詩でもない。商業は、今日に於て純粋の実業であり、ただのけちけちし た、卑賎な金もうけの業にすぎない。航海は安全であり、鉄道は到るところに発達してい る。昔の商業をおびやかした、あの幽霊船の幻影は、もはや地上の海図から消えてしまっ た。そこには既に何の「詩」もなく、何のロマンチシズムの精神も残ってない。今日の商 業は、もはやあの「翼の生えた車輪」が表象している、昔の天才的空想性を無くしてしま った。  何よりも今日では商人そのものが変ってしまった。彼等はついこの最近に至るまてー おそらくは十九世紀初頭位まてーその先祖の商人から遺伝されていたところの、すへて の自由思想や浪漫思想やを、最後の血脈と共になくしてしまって、人生のあらゆるけち臭 き、実利主義の|猶太《ユダヤ》人に成ってしまった。(|尤《もつと》も日本の鎖国された商人は、昔からその通 りのものであったが。)かつて我々の芸術や、科学や、その他一切の文明を生んだ近代の 商業主義が、今その詩的情熱を失っている。何物も、何物も、もはや彼等によって精神づ けられ、創造され得る未来が無いであろう。商業主義は地獄に墜ちた!  しかしながら今日、我等は尚港々の波止場の上に、商業のへんぽんとした旗を見てい る。それからして夢のように、我等は尚商業の表象している、自由主義のさわやかな海風 を感触する。然り! 今日の世紀に於て、我等の尚考え得る商業は、歴史の港にひろがっ ている、旗のような追懐にすぎないのである。 意志と忍従もしくは自由と宿命    天よ!この涙の谷から救い出せ。 ショーペンハウエル ●水世輪廻  |独逸《ドイツ》の、ある荒涼とした地方の岩の上で、詩人ニイチェの頭脳に|涯《うか》んだ、あの異様に気 味の悪い思想lI水世輪廻の思想1ーは、次のような数理から演繹されているのてある。  宇宙の現実する状態は、物質分子の一定組合せから成立している。現在する世界は、分 子の集合と分散による、或る偶然の|組合《パヨミユテえシ》せ|数《ヨン》から形成されてる。換言すれば、分子の偶 然な方程式が、現にある如き必然の世界を構成しているのである。所で、宇宙間における 分子の質量は一定したもので、増すこともなく減ることもない故に、そのありとあらゆる 無限の変化は、無限の組合せの後に於て、いつかは一度、必ずまた同一の数式に遭遇せね ばならないだろう。もとよりかくの如き事情は、有限の時間における、有限の変化にあっ ては有り得ない。しかしながら、無限の時間における無限の多様なる変化1それが宇宙 の実相てある  に於ては、数理の必然な計算から、事情の正に起り得へきことが推断さ れるのである。  見よ! その時げに万物は初めに回帰する。何もかも、すっかり同じ状態がやってく る。現在、ここにある所の世界が、その時またそこに再現する。かくの如く、現に人々の 意志と忍従もしくは自由と宿命 見ている所の建物や、家畜や、樹木や、市街や、その他の物やが、丁度我々の千九百二十 三年にあった如く、ずっと永遠の未来に於て、そっくり同じ状態でまた目前に現われてく る。現在、私の隣家に住んでる貧しい家族は、想像もできない無限の未来に於て、ふたた びこの同じ場所に居り、同じこの家で、同じ職業で、同じこの生活をしているだろう。そ していま、或る裏街の寂しい角で、私が友人と立話をしている如く、丁度無限の或る曇っ た日に、この同じ私が、同じその友人と、同じ街の角で、全く同じ事柄を話しているので ある。  かく無限の未来に於て、我々のだれもが、すべて今在る如き世界に再生する、そして 我々は、今一度、すっかり同一の人生を繰返すのである。この思想からして、人々は再生 の希望を失ってしまう。一般に人々は願っている。私は私として  現在せる自己意識の 人物としてーふたたびまた新しく転生したい。しかしながら次の世には、ちかって過去 の悔恨を反覆しないだろうと。しかしながら人がもし生れ変るとせば、事情の法則が、宇 宙のあらゆる隅々まで、同一必然でなければならない。もし異なる事情の下にあっては、 決して同一の人物が再生し得ないだろう。しかして一切の事情が同一であるならば、我々 の行為もまた同一に決定される。換言すれば、|今世《こんせ》における吾人の一切の牛涯が、|来世《らいせ》に 於ても寸分たがわず繰返される。吾人はそれを訂正することもできないし、抹殺すること もできないのだ。  この思想における、最も重大な要点は、転生に関して予想される「無限の未来」が、実 は「瞬間の後」を意味していることだ。何となれは死l夢なき眠りllの中では、永遠 が一瞬時に過ぎてしまうから。げに吾人は、今日ここに眠り、明日の朝めざめるとき、ま たふたたび昨日の同じ日課を繰返すべく、運命が予想されている。かくして同様に、明日 も翌日も、無限に同じ転生が輪廻され、永遠に|業《カルマ》の尽きる時期がない。かく人間の思想し 得へき、最も陰轡な地獄が意味する。1一度起ったことが、今後永遠に起ってくるー それからして退屈が、生存全体を暗黒にしてしまうのである。 ●夢と子供  |白昼《まひる》における、さまざまなる欲望の抑圧が、夜陰の夢に現われてくる。夢の現実の中 で、人々の充たされない欲情が、|編幅《マしちつもり》のように飛翔しているのである。  この悲しき景色が、同じように現実の世界に実在している。ということを、だれもかつ て気付かなかったろうか?我々の時代の優生学は、遺伝に就いて皮相の見解しか持って いない。親の体質が遺伝するものは、生理上の特色にしか過ぎないのである。個人の本質 的な気質や、趣味、才能等に関して言えば、科学の題目からはずれてしまう。  ずっと多くの場合に於て、気質上の遺伝は体質のものと反対する。親と子との相似は、 主として生理上の特徴-1容貌や、骨格や、血液や、病気やーてある。しかしながら心 理上では、この関係が反対になってくる、即ち、概して言えば、多数の例に就いて見る如 く、天才の子は凡人であり、英傑の子は痴呆に近い。そしてこの逆がまた事実である。 我々の天才の歴史が教える如く、べートベンの父は凡庸なる音楽教師であり、ナポレオン の両親は言うにも足らぬ無能の人物にすぎなかった。そして一般に知る通り、文学者の父 は概して俗物であり、精力家の父は怠惰者であり、敏腕家の父は概ねお人好しである。尚 且つ、もっと実証すれば、禁欲家の子には色魔が生れ、厳格家の子には不良少年が多いの である。  かくこの不思議なる事実は、我々の「夢」に於けると、同じ事情によって論証し得る。 我々の|生活《ライフ》が、もしも禁欲を強いるならば、不断に抑圧されたる意識が、夢に於ての悲し き飛翔をする如く、丁度そのように、親の内密の欲情が、彼の子供にまで遺伝され、子供 の現実の気質となってくるのである。かくして教育者、その他の厳格家の子供は、概ね放 縦無頼の人物となり、精力家の子は怠惰者となり、その他のすべて反対の気質や才能が子 に現われてくる。  それ故に人々は、彼の子供に於てのみ、彼の内密なる、自らそれを意識し得ない、一の 悲しき非望を見るであろう。ああいかに寂しいかな! 子供は我々の=冷に於ける、夜 陰の悪しき蠕幅である。それのおびただしき飛翔が、夢の中でさえも、我々の安眠をさま たげる。 ●恐ろしい刑罰思想  一つの過失が水遠に崇る。iこれが仏教の水世輪廻に於ける、根本の証明された真理 である。人の理性的生活にまで、これほどにも恐ろしい、残忍の刑罰思想がどこにある か? ●富の計算における虚数と実数  金銭によってのみ、自由を買うことが出来るのである。  富の意識からして、人は満帆のように得意になる。いま自由は手の中にある。自分がし ようと思うならば、賛沢の汽船に乗って、世界の国々を漫遊することも出来るであろう。 或は豪壮の屋敷を建て、或は美しい碑妾を雇い、何事にまれ、欲望の望むがままに、欲す ることをすることができるであろう。  かくの如き「無限の自由」が、富の意識の中に帆を張っている。もし|舵《かじ》をだにあやつる ならば、欲するままの港を指して、船を進めることができるのである。そして、舵の方向 を定めることも、また自己の自由な選択にある。何たる至上の権力! 何たる自由の享楽 だろう!  しかしながら、金銭は、使ってしまったあとで何になるか? 空想は裏切られ、快楽は 瞬時に消え、人生が一層貧しく、みじめに落ちぶれた意識を感ずるのみだ。金銭は1多 くも少くもーただ所有している中が、それの自由な用途について、空想しているうちが 楽しみである。所有している時、人はその実際以上に、財産の価値を誇張して考える。あ らゆる勝手な空想から、欲望の大きな袋が充ち切れるほど、まちがえた算術を確信してい る。もし実に使ってみれば、いかに実際の富が貧しく、僅かばかりの自由すらも、買えな かったことに気がつくだろう。何よりも人々は、それによって自己の錯覚を知るのであ る。「いかに私が、富の灯影の中に坐っていたか。実際の計算では、これほどにも貧しい のを知らずに居た!」  それ故に富豪等は、彼が実に為し得るよりは、遥かに貧しい生活をして、故意に不自由 の中に忍んでいる。もし彼が欲するならば、いつでも賛沢をすることができ、自由の権力 が意識されるからである。しかしてその意識の中にのみ、富の計算できない莫大の価値と 幻影がある。生涯を金貨の中に埋れて、乞食のように死んだ守銭奴の財産ほど、無限に莫 大のものがどこにあろうか。 ●貧民の思想  貧民の思想は言う。使用するための金銭であると。 否、貯蓄するための金銭であると。 けれども金持の思想は一一二口う。 前の者は、金銭から直接の欲望を充たそうとする。後の者は、それからして「自由の権 力」を獲ようとする。使用するのが目的でなく、使用の自主権を意志することから、力学 的にまで、自我を膨張させようと言うのである。  貧民の思想は、かくおしなべて稀薄であり、力の強い意志が欠乏している。      ●賭博の哲学  偶然のチャンスから、勝敗の|賓《さい》が決せられる! 賭博は先見する予見をもたない。計画 されたも←みみがない。今、賭博場にあるものは、ひとえに偶然の機会を待っている。運 命が、自分に恵まれることを祈っている。  しかしながら賭博者は、決して運命への予想をもたない。賭博の興味は、実に「偶然」 の祈薦にある。丁度、新大陸の発見や、新しい真理の発明などが、いつも偶然の機会でさ れるように、向う見ずの、見当のつかない冒険が、彼等の捨て身になった欲情を駆り立て る。  それ故に賭博の哲学は、いつも決定論を否定している。合理的な、秩序正しき、因果の 自然法による世界からして、耐えがたく思い、逃避しようと願っている。賭博者等は、け だし実の「創造」を意欲している。因果の、しばられた、科学的の、合理的の法則からで はなく、天才の|不覇《ふき》な霊感による、自由の新しい創造を。  賭博者等は、実の自由を信じている。因果や、法則や、秩序や、社会制度やの上に超越 した、絶対不轟の自由を信じている。それ故に、かく概ねの博徒等は考えている。「仕事 によって、当然介報酬を得るよりは、むしろ一の賓にまで、六の偶然なチャンスを賭ける 方がましである。」と。けだし彼等は、或る一定の労力に対して、一定のきまった報酬の 来る如き、社会の合理的な組織と、その平凡な因果を嫌うものである。即ち博徒等は、あ らゆる社会的秩序に反抗して、不邊な無頼漢として生活する。  土耳古人と支那人の運命観が、ひとしくこれに根祇している。彼等は科学の合理性を認 めない。必然の法則を軽蔑し、そして予想のつかない所の、しかも先天的に決定されて る、或る|宿命《キスメット》の実在を信仰し、それの偶然の機会の前に、太々しく身を投げ出している。 丁度彼等が、それからして無頼漢のように、無政府主義者のように、時としてはテロリス トーそれはあらゆる合理主義の社会運動に反対するーのように見えるのてある。 ●田舎の時計  田舎に於ては、すべての人々が先祖と共に生活している。老人も、若者も、家婦も、子 供も、すべての家族が同じ藁屋根の下に居て、祖先の|煤黒《すすぐろ》い位牌を飾った、占びた仏壇の 前で|臥起《ねお》きしている。  そうした農家の裏山には、小高い冬枯れの墓丘があって、彼等の家族の長い歴史が、あ またの白骨と共に眠っている。やがて生きている家族たちも、またその同じ墓地に葬ら れ、昔の曾祖母や祖父と共に、しずかな単調な夢を見るであろう。  田舎に於ては、郷党のすべてが縁者であり、系図の由緒ある血をひいている。道に逢う 人も、田畑に見る人も、隣家に住む老人夫妻も、遠きまたは近き血統で、互にすべての村 人が縁辺する親戚であり、昔からつながる叔父や伯母の一族である。そこではだれもが家 族であって、歴史の古き、伝統する、因襲のつながる「家」の中で、郷党のあらゆる男女 が、祖先の幽霊と共に生活している。  田舎に於ては、すべての家々の時計が動いていない。そこでは古びた柱時計が、遠い過 去の暦の中で、先祖の幽霊が生きていた時の、同じ昔の指盤を指している。見よ! そこ には昔のままの村社があり、昔のままの白壁があり、昔のままの自然がある。そして遠い 曾祖母の過去に於て、かれらの先祖が縁組をした如く、今も同じような縁組があり、のど かな村落の|離《まがき》の中では、昔のように、牛や鶏の声がしている。  げに田舎に於ては、自然と共に悠々として実在している、ただ一の永遠な「時間」があ る。そこには過去もなく、現在もなく、未来もない。あらゆるすべての生命が、同じ家族 の血すじであって、冬のさびしい墓地の丘で、かれらの不滅の舟祖と共に、一の霊魂と共 に生活している。昼も、夜も、昔も、今も、その同じ農夫の生活が、無限に単調につづい ている。そこの環境には変化がない。すべての先祖のあったように、先祖の持った農具を もち、先祖の耕した仕方でもって、不変に同じく、同じ時間を続けて行く。変化すること は破滅であり、田舎の生活の没落である。なぜならば時間が断絶して、永遠に生きる実在 から、それの鎖が切れてしまう。彼等は先祖のそばに居り、必死に土地を離れることを欲 しない。なぜならば土地を離れて、家郷とすべき住家はないから。そこには拡がりもな く、触りもなく、無限に実在している空間がある。  荒蓼とした自然の中で、田舎の人生は孤立している。婚姻も、出産も、葬式も、すべて が部落の壁の中で、仕切られた時空の中で行われてる。村落は悲しげに寄り合い、蕎条た る山の麓で人間の孤独にふるえている。そして真暗な夜の空で、もろこしの葉がざわざわ と風に鳴る時、農家の薄暗い背戸の厩に、かすかに蟻燭の光がもれている。馬もまた、そ この暗闇にうずくまって、舟祖ピ兵に眠っているのだ。永遠に、永遠に、過去の遠い昔か ら居た如く。 ●事情の神秘性  ある事情はうれしげに、いそいそとして、我等を事物の本源に導いてくれる。然るにあ る事情は反対に、いつも意地あしく、暗欝で、我等を事物の願わしくない方面にひきずり こむ。  かく事情が、我等に好意をもったり、意地あしくしたりするのは、その場合の環境や、 空模様などよりも、主として常に我等自身の気質的傾向に基づくように思われる。事情の さまざまなる変化にもかかわらず、気質のある先天的なる傾向は、いつも同じ方程式 Φ、+o、目Φ、+∩、を繰返し、それの原則で未来が決定するように思われる。  通例事情の周囲には、あの曇暗なる、薄気味あしき宿命論の|月量《つきがさ》が感じられる。 ●球転がし 曇った、陰轡の午後であった。どんよりとした太陽が、雲の厚みからして、鈍い光を街 路の砂に照らしている。人々の気分は重苦しく、うなだれながら馬のように風景の中を彷 僅している。  いま、何物の力も私の中に生れていない。意気は錆沈し、情熱は洞れ、汗のような悪寒 がきびわるく皮膚の上に流れている。私は圧しつぶされ、稀薄になり、地下の底に滅入っ てしまうのを感じていた。  ふと、ある|賑《にぎ》やかな市街の裏通り、露店や飲食店のごてごてと並んでいる、日影のまず しい横町で、私は古風な球転がしの屋台を見つけた。 「よし! 私の力を試してみよう。」  つまらない賭けごとが、病気のようにからまってきて、執拗に自分の心を苛らだたせ た。幾度も幾度も、赤と白との球が転がり、そして意地悪く穴の周囲をめぐって逃げた。 あらゆる|機因《チヤンス》がからかいながら、私の意志の届かぬ彼岸で、熱望のそれた|標的《まと》に転がり込 んだ。 「何物もない! 何物もない!」  私は歯を食いしばって絶叫した。いかなればかくも我々は無力であるか。見よ! 意志 ば完全に否定さかて"。それが感じられるほど、人生を勇気する理由がどこにあるか?  たちまち、若々しく明るい声が耳に聴えた。蓮葉な、はしゃいだ、連れ立った若い女た ちが来たのである。笑いながら、戯れながら、無造作に彼女の一人が球を投げた。 「当り!」  一時に騒がしく、若い、にぎやかな凱歌と笑声が入り乱れた。何たる名誉ぞ! チャン ピオンぞ! 見事に、彼女は我々の絶望に打ち勝った。笑いながら、戯れながら、嬉々と して運命を征服し、すべての欝陶しい気分を開放した。  もはや私は、ふたたび考えこむことをしないであろう。 ●門  門だけが、ひとり空間に浮んでいる。夢のように高く、永遠の時間の中で、 ふしぎな巨獣のように構えている。 「宇宙に於て、まことに実在するものは私である。」  かく支那の建築学がいうのである。人間の住む家ではなく、それの威張った構えであ り、星辰の時間を暦数して、空間を仕切る門だけが、支那人の観念を象徴する。  一の神秘的な、尊大にみちた思想である。     ●|鯉幟《こいのぼり》を見て  青空に高く、五月の幟が吹き流れている。家々の家根の上に、海や陸や畑を越えて、初 夏の日光に輝きながら、朱金の勇ましい魚が泳いでいる。  見よ! そこに子供の未来が祝福されてる。空高く登る栄達と、名誉と、勇気と、健康 と、天才と。とりわけ権力へのエゴイズムの野心が象徴されてる。ふしぎな、欲望にみち た五月の魚よ!  しかしながら意志が、風のない深夜の家根で失喪している。だらしなく尾をたらして、 グロテスクの魚が死にかかっている。丁度、あわれな子供等の寝床の上で、彼の気味の悪 い未来がぶらさがり、重苦しく沈黙している。  どうして親たちが、早く子供の夢魔を醒してやらないのか? たよりない小さい心が、 恐ろしい夢の予感におびえている。やがて近づくであろう所の、彼の残酷な教育から、防 ぎがたい疾病から、性の痛々しい苦悶から。とりわけ社会の欠陥による、さまざまの不幸 な環境から。  けれども朝の日がさし、新しい風の吹いてくる時、ふたたび魚はその意志を回復する。 彼等は勇ましくなるであろう。ただ人間の非力でなく、自然の気まぐれな気流ばかりが、 我々の自由意志に反対しつつ、あえて子供等の運命を蹴鍍する。 ●記憶を捨てる 意志と忍従もしくは自由と宿命  森からかえるとき、私は帽子をぬぎすてた。ああ、記憶。恐ろしく破れちぎった記憶。 みじめな、泥水の中に腐った記憶。さびしい雨景の道にふるえる私の帽子。背後に捨てて 行く。 ●情緒よ! 君は帰らざるか  書生は町に行き、工場の下を通り、機関車の鳴る響を聴いた。火夫の走り、車輪の廻 り、群鴉の|喧号《けんごう》する|巷《ちまた》の中で、はや一つの胡弓は荷造され、貨車に積まれ、そうして港の 倉庫の方へ、税関の門をくぐって行った。  十月下旬。書生は飯を食おうとして、枯れた芝草の倉庫の影に、音楽の忍び居り、|蠕蝉《こおろぎ》 のように鳴くのを聴いた。      ●港の雑貨店で  この|鋏《はさみ》の|積力《こうりよく》でも、女の錆びついた|銅牌《メダル》が切れないのか。 ぞえて、無用の情熱を捨ててしまえ! 水夫よ! 汝の|隠衣《かくし》の銭をか ●不死の自殺  自殺者にあっては、自分を殺すものが、殺さるべき自分に対して、常に観念上で相対し てくる。かく私が私を殺す、自殺するということは、私の「表象された自我」に対し、そ れを「表象する自我」即ち別の私が、他から手を下して処決するのである。この後の自我 は、いかにしても観念上に把持され得ない。しかしながら何ぴとも、この自我の意志なし には、自殺が決意されない故に、自殺者の心理の影には、ふしぎな信仰が推断される。曰 く、私は私を抹殺する。しかしながらこの処分するもの1私そのものーは、死後に於 ても自由であり、不滅のものとして、実在すると。  所で、自殺の重なる原因は、病気や、失意や、絶望やであり、望ましからぬ運命が、自 己の生存を決定すべく、宣告の避けがたく強制されてることの自覚にある。それによって 人々は、意志が全く無力であり、自分の欲しないことが、意志に反対して起ってくるのを 予感する。「むしろそうであるならば」と、我々の自由を愛する精神が言う。「私の自由意 志でもって、私自身を処分する。」と。それ故に自殺者は、最後の時までも、自分が自分 の主人てあり、何物の敵-人間てあろうとも、社会てあろうとも、呪うへき環境てあろ うともーも、あえて自分を束縛し得なかったことに|浮誇《ふこ》を感じ、その上に白由が水遠の 実在たることを、行為によって確証しようと意識する。  されば最も|熾烈《しれつ》に自由を愛し、死よりも強く奴隷を憎んだもの、即ち昔の武士道では、 自殺が最高の美徳と考えられた。反対に意志の自由が否定され、天命への絶対的服従を強 いられる所では、自殺が神への叛逆的決意と考えられた。耶蘇教と仏教と、その他の宗教 がそれであり、|就中《なかんずく》、|加特力《カトリツク》教がそうであった。「自殺者の霊魂は不死である。但し地獄 に於て。」と、それの教義が宣告した。 ●猿  恐怖の情緒は本能の最も原始的なものに属している。馬や、犬や、鶏や、その他のよく 馴れた家畜ですらが、恐怖の著るしい徴候から、まるで生れつきの野獣に変ってしまう。  諸君は、そういう動物を見たことがないか? たとえば赤色のびらびらする|布《きれ》などか ら、恐怖の不意の発作にかられた馬や、夜更けて何物かの心像におびやかされ、遠くさび しげに吠えてる犬など。  かかる動物の姿ほど、変貌の著るしく異様のものはない。その|鼠《たてがみ》を鬼のように逆立 て、血ばしった眼をして疾行する馬の姿は、全然平素の家畜でなくして、生れつきの兇悪 な猛獣である。かくの如くにして、恐らくは彼等の先祖が、山野に棲息していた。夜陰に 遠吠えする犬の姿は1吾人がそれを注意して観察するならは1犬の常態てなくして、 全くむしろ飢餓の狼に類している。即ちその顔は鋭どく尖り、肢体は甚しく骨ばり、眼光 は青白く光っている。あまつさえその特殊の鳴声たるや、原野に飢えて叫ぶ狼  それが 彼等の先祖てあるーにそっくりてある。鶏に至っては、ほんの一寸した恐怖から、造作 もなく先祖の堆にかえってしまう。一枚の赤い毛布が、歩足鳥たる彼等を家根の上に飛び あがらせ、その鋭どき羽ばたきと鳴声との、異様な変貌を視察するに充分であろう。  かく恐怖の発作は、すべての進化した動物にまで、彼等の遠い先祖を幻想させ、原始の 野蛮の生態に導いて行く。人間もまたそうであるならば、我々の学者風な興味からして、 汝等を不意の恐怖に導き  地震や流言なとてIIそれによって汝等の「猿」を見出すへ く、あわせて進化論の虚実を試すであろう。  しかしながら人間よ。汝はすでに試験された! ●傷ましき風景  或る民族が、その全盛の繁盛を過ぎた時に、 |澄刺《はつらつ》とした、けれども野蛮で荒々しき民族が、 他の別の民族が起るであろう。そして若く 彼等の森林の中から殺到して来て、他の文 明的なる民族を征服する。同じようにまた、社会上の推移に於ても、或る新しく興った新 階級が、その元気溌刺とした力によって、昨日の繁盛した階級者を|憎服《しようふく》する。そしてどっ ちの歴史に於ても、一つの粗野で荒々しき、未開で教養のない新種属が、他の古くして家 柄の好い、高貴で教養のある一族を|殺敷《さつりく》し、別の新しい社会を再造する。  我々の芸術家的な神経は、こうした人文史上の街路に於て、傷ましい光景を見るに耐え ない。そこでは熊の如き野蛮人等が、羅馬の美しい浴場や建築物を、彼等の|大斧《まさかり》で打ち壊 して居る。そして典雅な風俗をした文明人等が、野蛮人のために追い廻され、彼等の鞭の 下で酷使されてる。一方に仏蘭西革命の街路を見れば、多くの優雅にして教養ある貴族た ちが、野卑で粗暴なる賎民共から、無残にも犬のように撲殺され、到るところ流血を以て 塗られて居る。そしてまた今日、アメリカの野卑な成金文化が、その物質主義の新興する 大勢力で、欧洲のあらゆる高貴な文化を憎服し、すべての教養ある欧洲人等を、奴隷の如 く、その前に奉仕させている事実を見よ。  かく人文の推移に於ては、野蛮が文明を征服し、力が正義の名に於て、常に高貴な美し いものを殺教している。そもそも文化の進展とは何だろうか。一つの盛りあがってくる新 勢力が、他の古くして燗熟した者に代ろうとする、人類歴史の惨虐な新陳代謝に外ならな い。そこには決して、一の「正義」と呼ばれる観念もなく、況んや「進歩」と見られる事 実もない。我々人間の歴史もまた、生物界に於けるそれと同じく、無慈悲な生存競争の自 然淘汰と、親の代から子の代へと、単にその細胞素質を新しく変えてくるだけの、 な新陳代謝があるにすぎないのである。 無意味 ●復讐としての自殺 或る自殺者等は、 それによって全宇宙への復讐を考えている。 ●悪魔の書  旧約全書! 人間の書いた書物の中で、これほどにも悲壮な、傷ましい、叙事詩的精神 の高唱された文学がどこにあろうか! 旧約全書のすべての記事は、神に対する人間の叛 逆と、虐たげられたる非力の者の、絶対権力に対する忍従の歯ぎしりで充たされている。  見よ! 創世記の初めからして、人間は神に逆らい、不邊にも禁断の果実を盗んで、無 斬だ楽園を追い出されて居る。しかも彼等の子供たちが、一度でもそれによって後悔し、 神への隷属を誓ったか? 反対に人間は、益ー叛逆の意志を強め、ノアの洪水によって滅 ぼされる迄、あらゆる不邊の罪悪を犯して来た。そして洪水が去った後では、再度その同 じ刑罰から脱れるために、大胆にも神と抗争して、天に届くバベルの高塔を建設した。到 るところに人間は、神への叛逆を繰返し、そして万軍の主なるエホバは、憤怒と復讐に熱 しながら、彼の憎悪する人間を厳罰すべく、無限の権力を以て電撃した。  旧約全書のすべての記事は、人間の虐たげられた非力を以て、全能の神と戦おうとする ところの、悲痛な、いたましい、不撹不屈の歴史である。あのヨブ記に於て高調されて る、叙事詩の精神は何を語るか?あれほどにも虐たげられ、神のあらゆる残忍な刑罰 と、運命の執拗な試煉とを受けながら、いかに長い間歯ぎしりして、不擁不屈の忍従を続 けて居たか。ヨブ記に書かれた人物こそは、実に旧約全書の精神を表象している、猶太悲 壮劇の|主人公《ヒ ロ 》である。(ついでに言っておくが、近時の聖書史家の調査によれば、ヨブは 実在の人物であり、しかも聖書に書かれたものと、或る一つの点でちがっている。実在人 物としてのヨブは、あらゆる不運な天災にも気屈しないで、最後まで神を呪い、そうした 不合理な天意に対して、復讐を絶叫しつつ死んだのである。聖書の記事は、この点で神意 をはばかり、別の潤色を加えて居る。)  旧約全書こそは、明白に猶太人の歴史である。あの虐たげられ、迫害され、国を奪われ て漂泊している民族の、圧制者に対する欝憤と、あらゆる逆境に忍従して、水遠の復讐を 誓った歴史である。彼等は弱者の非力を以て、万能の権力に抗争しつつ、いつかは救世主 の出現から、最後の栄光を勝ち得る希望を忘れなかった。あの怒と復讐の神エホバこそ は、すべての猶太人が夢みた幻想であり、正しく天の一方に実在して居た。彼はその全能 の力によって、火と水と電撃とから、地上のあらゆる圧制者と、権威によって栄える人類 の一切とを、いつかは虫けらのように路みつぶし、|鹿《おう》盆|殺《さつ》し尽さねば止まないだろう。聖書 の記者と猶太人とは、その遠い未来を信じ、血みどろの復讐によって勝利される、最後の 審判の物すごい日を、その民族的妄想の幻覚に浮べて居た。まことに旧約全書こそは、人 間によって書かれた書物の、最も深刻悲痛の叙事詩であり、悪魔主義の精神を高調した、 世界最高の文学である。 ●新約全書  旧約全書の対照として、イエス・キリストの新約全書は、なんという涙ぐましい、愛の センチメントに充ちた好情詩だろう。旧約から新約に移って来る時、吾人は電光の空に閃 めく、暗夜の物すごい暴風雨から、急に明るい花園に出て、春の微笑を感ずるような、気 温の驚くべき変化を感ずる。それはあの憤怒に燃えてる、残忍酷薄の神に対して、柔和な 博愛の神を画き、悲壮な悪魔主義の詩に対して、愛のセンチメンタルな詩を歌っている。  この人道主義の仔情詩は、しかしながら多くの猶太人に悦ばれなかった。なぜなら耶蘇 の説いたところは、猶太人の欝屈された叛逆心と、その不携不屈の悪魔的復讐心とに反説 して、却って境遇への↓ぎらかを説き、敵を愛することを琴え、権力への無抵抗と、愛に よって慰めらるべき、虐たげられた者の悲しい平和とを教えたから。すべてに於てその福 音は、猶太人の長い希望を断念させ、力の及ばない復讐への、無益な妄想を絶望させた。 しかもナザレのイエスは、自ら神によって使わされた、真の救世主であると称した。一方 で猶太人等は、彼等の病熱的な幻想にまで、どんな救世主を待っていたか? 彼等はエホ バに於ける如く、憤怒と復讐の狂熱に燃え、火と水と電撃とから、世界の全人類を尽殺し て、長く虐たげられたカナンの民を、煉獄から自由に導いてくれるところの、真の救世主 を待って居たのだ。どうしてあの柔和のイエスが、エホバの実の子で有り得るだろう。イ エスは神の予言を偽わり、彼の同胞たる猶太人を、支配階級の権力者に隷属させて、反抗 もなく復讐もないところの、無力な永遠の家畜-柔和な仔羊にしようとした。のみなら ず彼は、猶太人の悲痛な希望てあるところの、唯一のはかない未来の夢-彼等はただそ れのみて生活しているlIを破壊し、聖書によって旧約された、すへてのロマンチンスム を幻滅させた。猶太人等がイエスを憎み、欺偽の予言者として十字架に|礫刑《たつけい》したのは、も とより当然すぎる次第であった。  しかしながら羅馬人等は、むしろイエスに同情して居た。そして耶蘇の新思想が、正し く理解された後になっては、それが羅馬の国教となり、そして一般に多くの属国と隷属民 とを有するところの、統治者の国々に採用された。彼等の支配階級者は、それによって属 邦の民を軟化し、叛逆への意志を絶断させると同時に、国内に於ける奴隷や貧民やの、多 くの逆境にある民を教化し、運命への悲しきあきらめと、無抵抗の平和な満足とから、統 治権に対する不平を抑え、民衆を心服させようとしたのである。しかも世界の中で、独り ただ猶太人だけが、執拗にも彼等の信仰を固持して居り、すべての迫害と強制にかかわら ず、断じて基督教への帰依を拒んで来たのであった。  今! 基督教は既に|凋落《ちようらく》し、新約全書はその信仰と好情詩をなくしてしまった。けれど も一方の猶太教と、その旧約全書の精神する哀切悲痛な叙事詩的思想とは、何等かの新し き変貌した姿に於て、人類の遠き未来にまで、ずっと永続した信仰をあたえるだろう。 我々は尚今日生きて居るヨブについて、その実在の姿を見、伝記を書くことができるので ある。 ●悪魔の良心 悪魔もまた、 彼自身の信ずるところに、 正義の純潔な良心を持つ。 ●仏陀の敵  自分の不幸について、原因が外部-環境や社会制度やーにあるのてなく、むしろ自 分自身の中に、性格として実在することを知ってる人は、避けがたく宿命論者になってし まう。彼は仮象に対して怒らないで、むしろ仮象を貫ぬくところの、全体の無慈悲な法則 -宇宙の法則1に対して腹を立てる。それ故に道は、彼にとって二つしか選ばれな い。仏陀(覚者)となって、自ら宿命の上に超越するか。もしくはまた仏陀そのもの1 即ちあらゆる悟ったもの、納ったもの、平和なもの、彼自身に満足して、宿命の上に超越 するもの共。1を敵として、残酷の意地の悪い快楽から、ニヒルの歯きしりをして戦う かである。げに我々は、そこにあの|提婆達多《だいばだつた》を見る。あの悲痛な、あさましい、破れかぶ れの外道! 仏陀と人類の久遠の敵を。 ●迷信としての人生 意志と忍従もしくは自由と宿命  偶然ということは有り得ない。あらゆる事実は、それが有るべき事情によって、必然の 法則に支配される。  これが科学者の命題である。我々の|反駁《はんばく》は、その点で力がなく、論理の立証を持ち得な い。しかしながらもし、人々がそれを信じ、生活上の実感として、疑いもなく肯定してし まうならば?その時人々は、土耳古人や支那人の乞食と同じく、避けがたく宿命論者に なるであろう。なぜと言って人生は、その前行する必然の事情によって、どうせ成るよう にしかならないのである。人々は法則の支配する社会に於て、必然に生涯の運命を決定さ れる。人がどんなに意志したところで、一も成功する望みはなく、物体に於ける力学の法 則と、宇宙の複雑なオルガニズムとで、球突き台に於ける球のように、突かれた方角に転 って行く。どうにでもせよ。我々自身には自由がなく、自然の機械律に動かされて、捨て ばちの生活を送るのみだ。人々はただ、明日の生活に期待をもち、法則の組合す函数律を 超越した、未然の「偶然」を信ずることによってのみ、努力や奮闘への希望をもち、人生 を有意義に感ずるのである。  それ故に教育は、この点で科学を否定し、偶然の実在するウソの事情を、苦しい誰弁に 於てすらも、説かなければならない立場にある。げに「偶然」と「自由意志」とは、人間 の主観に於て、論理を超越した信仰であり、今日の科学的な時代に於ても、避けがたく執 拗に支持されてるーそして支持されねはならない  一の人間的な迷信てある。 ●都合の好い理窟  唯物史観からは、何の望ましい結論も生れはしない。結局言ってそれは、現実あるとこ ろの世界を、現実のままで放任せよと説くところの、一種の成り行き主義に帰著してく る。なぜなら今日有る社会の事態は、その前行する事態によって、物質の法則で導かれた ものにすぎないから。そしてまた同様に、未来もその通りでなければならないから。唯物 史観の演繹では、もちろん人間の自由意志を認めて居ない。  しかしながら彼等は、この乗りあげられたる推理の峠で、急にその方角を一転する。そ こからして社会主義者は、都合よくも自由の翼を背中に生やし、論理の真空圏内に揚って しまう。「それ故に」と彼等は言う。「社会は改造せねはならない。 我等の自由意志に よって。」 ●死なない蛸  或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢えた|蛸《たこ》が飼われていた。地下の薄暗い岩の影で、 青ざめた|破璃《まり》天井の光線が、いつも悲しげに漂っていた。  だれも人々は、その薄暗い水槽を忘れていた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思われ ていた。そして腐った海水だけが、|埃《ほこり》っぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまって いた。  けれども動物は死ななかった。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚した時、 不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかった。  どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまった時、彼は自分の足をもいで食った。ま ずその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすっかりおしまいになっ た時、今度は胴を裏がえして、内臓の一部を食いはじめた。少しずつ他の一部から一部へ と。順々に。  かくして蛸は、彼の身体全体を食いつくしてしまった。外皮から、脳髄から、胃袋か ら。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。  或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空っぽになっていた。曇った埃っぽい硝 子の中で、|藍色《あいいろ》の透き通った|潮水《しおみず》と、なよなよした海草とが動いていた。そしてどこの岩 の隅々にも、もはや生物の姿は見えなかった。蛸は実際に、すっかり消滅してしまったの である。  けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですらも、尚且つ永遠にそこに生き ていた。古ぼけた、空っぽの、忘れられた水族館の槽の中て。永遠にーおそらくは幾世 紀の間を通じて1或る物すこい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居 た。      ●鏡  鏡のうしろへ廻ってみても、私はそこに居ないのですよ。お嬢さん!      ●自由とその幻滅  その長い歴史を通じて、絶えず自由が熱情され、解放への革命を繰返して来た近世の欧 羅巴が、それほど実際に、不自由の鎖につながれて居たと思うか? 反対に中世の教権政 治や、日本の徳川幕府に長く圧制されて居りながら、少しも自由への熱情を持たなかった 人々等が、実際に自由であったと信じ得るか?  自由とは、自分が「自由である」と信ずるところの、一つの幻覚にすぎないのである。 人がそれを信じて居る時、社会は常に平穏であり、安寧と満足に充たされて居る。さて 今! 我々の時代の不幸は、人々が「自由の幻覚」を失って居り、看守ですらが、鎖につ ながれた夢ばかりを、囚人と一緒に見ているほど、幻滅しているということである。 ●平等思想の復讐感  上古メソポタミヤの沃野に、文明が栄えた時の話である。あるアッシリヤの王が、自分 の征服した地方に於て、一つの偉大なる記念物  非常に偉大なる記念物-を発見し た。それは先住者の王が、彼の天地にも比すべき功績と帝業とを誇るために、万古不朽の 大工事で建設したものであった。広荘たる平野の中で、それの山のような威権が、あらゆ る他の存在価値を摺服して居た。  征服者の王。勝利によって誇慢になった王は、もちろんこの光景を悦ばなかった。彼の あらゆる事業が、光景によって威圧され、卑小なつまらぬものに見さげられた。王は侮辱 を感じた。そして憤怒に熱しながら、左右に向って命令した。 「あれを破壊しろ! すみやかにしろ!」  しかしながら大臣-彼の臣下の中の最も賢明のものーが反対した。 「否。何故に陛下は、他のもっと偉大なものを、もっと大規模の記念物を、それの側に建 てようとされないのか? もしそうならば、小さな先の物の存在は、比較に於て消滅して しまうだろう。それは山に対する丘の如く、巨人に対する小人の如く、あわれな見すぼら しい存在に変ってしまう。そして陛下のより偉大なる記念の前で、永遠に身をかがめて居 り、臣下の卑屈した礼節を守るだろう。二重の利益のために、先の物を壊してはなりませ ん。」  この聡明な建言は、しかしながら王を不機嫌にした。なぜならば王は、彼の大臣より も、一層また聡明であったから。王は自ら、自分の実力についてよく知っていた。彼は彼 の人民や、領土や、富や、文明やの程度を知っていた。そして国力を消耗しても、より以 上偉大な者の建設が、到底不可能なことを自覚していた。それ故に王は叫んだ。 「黙れ! ただ命令の如くせよ。完全に、痕跡の一つだに残しておくな。」と。  実に王の意図したものは、嫉妬からの復讐にすぎなかった。破壊によって、彼はその|嫉《ねた》 ましきもの、より偉大なものの功績を、地上の記憶から消そうとした。しかしながらま た、同様に彼自身の功績すらも。そこには蒲条たる風が吹いてる。そして何物の遺跡も残 されていないところの、一様に広荘たる平原があるのみである。  かくの如く、人間の卑随な歴史は繰返す。そこには常に、より弱小のもの、より卑随の もの、より無価値のものが居り、後から後からと新しく生れてくる。そして彼等の|羨望《せんぽう》と 嫉妬から、先住者に於けるより偉大なもの、より優秀なもの、より価値のあるものを憎 み、これが功績の破壊を考えている。破壊することによって、すべての偉大なものと卑小 のもの、高価のものと無価値のもの、富裕のものと貧しきもの、権力あるものと無力のも のとを、おしなべて平等にしようと思惟するのである。しかもこうした平等思想が、時に は正義人道の名によってさえ。     ●沸点への自覚  人はその全牙む瑛て、充分に怒るべき時期を知らねばならぬ。      ●狐  見よ! 彼は風のように来る。その額は憂轡に青ざめている。耳はするどく切っ立ち、 まなじりは怒に裂けている。  君よ! 狭智のかくの如き美しき表情をどこに見たか。      ●老 力豊  支那人の思想では、老ヵ豊がその|寿《ことぶき》によって祝福された、自然への回帰と考えられ てる。杖を突いてる白髪の老人は、彼等の美術に於てさえも、常に「神聖なもの」を意味 している。それは松竹梅などの自然と共に、永遠の宇宙の中で、|無何有《むかう》の|郷《さと》に遊ぶところ の、|羨《ヰつら》やむべき神仙と考えられてる。(支那人の人生観は、老子によって表象された、あ の自撚王義の本源思想と結びつき、道教から教育されているのである。)  昔の日本文学者等は、たいてい支那の思想を学んで居た。それからして彼等は、一種の 尊老主義者となり、未だ年の若い俳人や詩人ですらが、好んで老人のような服装をし、枯 淡の生活様式を理念に掲げて、彼自身を老人化すべく、自ら誇張して努めて居た。反対に これが西洋では、永遠にいつまでも、白髪の青年として生活すべく、すべての文学者が勉 めて居た。西洋の意味する○=は、支那の刃き(老)とちがって居り、どこにも祝福さ れた意味がなく、人生の情熱から見離された、単なる死灰を意味するからだ。      ●忍従  多数の、粗野て荒々しき人々にまて、忍ふこと  侮辱や、我慢てきない仕打ちなとに 対してーが教えられ、それの忍耐が賞讃されてきた。所で今や、ずっと神経質になり、 功利的になってきた人たちには、反対の場合が、決レて思ばな…ことが、よく教育されね ばならなかった。  忍従は、気質の荒々しき野性に属する、過去の殺伐時代の、もしくは粗野なものどもへ の、一つの古風な教訓である。      ●吹雪の中で  単に孤独であるばかりでない。敵を以て充たされている! 意志と忍従もしくは自由と宿命      ●銃器店の前で  明るい硝子戸の店の中で、一つの磨かれた銃器さえも、火薬を装填してないのである。          らいじ 1何たる虚妄ぞ。瀬爾として笑えー      ●虚数の虎  博徒等集まり、投げつけられたる生涯の|機因《チヤンス》の上で、虚数の情熱を賭け合っている。み な兇暴のつら|魂《だましい》。|仁義《じんぎ》を構え、虎のような空洞に居る。      ●自然の中で  荒蓼とした山の中腹で、壁のように沈黙している、一の巨大なる耳を見た。      ●触手ある空間  宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍従しながら、|葺《いらか》に於て怒り立っている。      ●大仏  その内部に構造の支柱を持ち、暗い|梯子《はしご》と経文を蔵する仏陀よ! 海よりも遠く、人畜 の住む世界を越えて、指のように|旭大《ぼうだい》なれ!      ●家  人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。      ●黒い洋傘 憂欝の長い柄から、雨がしとしとと|滴《しずく》をしている。真黒の大きな洋傘!      ●国境にて  その|背後《うしろ》に煤煙と傷心を|曳《ひ》かないところの、どんな長列の汽車も進行しない!      ●寒烈に耐えて  今日の如き、時代の最も悪しき天候の日に於ても、一つの高遭な精神すら、決して凍死 してはならないのだ。却ってその雪空から、皮膚の抵抗を強くし、筋肉を丈夫にすること ができるだろう。      ●傾斜に立ちて  墜落して行くものの悲劇は、自ら運命について知らず、落ちることの加速度に勇気を感 じ、暗黒の深い谷間に向って、不幸な、美しい、錯覚した幻灯のユートピアを見ることで ある。ああ今! 彼等にしてその危険を知ったならば!      ●恐ろしき人形芝居  理髪店の青い窓から、|葱《ねぎ》のように突き出す棍棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、夢中 になぐられ、なぐられて居る。      ●人間の腹立たしさ  人間の腹立たしさは、かつて獅子や、虎や、豹やの、あらゆる自然を征服した優勝者   万物の霊長そのものーが、下等な虫けらにさえ劣るところの、地上の最劣等な微生 物(病菌)に打ち負かされ、いかにしても征服から免れ得ないということの、必死の口惜 しさの歎息にある。  人間ほどにも、常に腹立たしさを感ずる動物が、地上のどこに生棲するか。 ●悲しい情熱家  男子たるものが、その喜怒哀楽を顔に現わし、女子供の如く行為するとは! 武士は必 死の力を以て、いつも彼自身を克服し、自分の中の感傷家と戦って居た。武士ほどにも董 恥深く、人生の高い節義を知ってる、悲しい情熱家がどこに居たか?      ●王者の悲哀  国王はいつも|辰怒《しんど》して居る。「何故に王様は、いつも怒られるか?」臣下たちは応えて 言った。「王様が怒られるのは、いかにも王様らしく、威権があり、最も自然のことであ る。」と。そして震怒の前に畏怖しながら、すべての宮廷儀礼の中で、多くの朝臣たちが 感じている、あの習慣的の満足を味って居る。  国王の最大悲哀は、彼の不断の怒りについて、その真の原因を知ってるところの、一人 の臣下すら無いということである。 ●歯をもてる意志 意志! そは夕暮の海よりして、 |鱗《ふか》の如く泳ぎ来り、 歯を以て肉に噛みつけり。 ●墓  これは墓である。蒲条たる風雨の中で、かなしく黙しながら、孤独に、永遠の土塊が存 在している。  何がこの下に、墓の下にあるのだろう。我々はそれを考え得ない。おそらくは深い穴 が、がらんとうに掘られている。そうして僅かはかりの物質  人骨や、歯や、|嚢《かめ》やー が、|蠣蛉《ひきがえる》と一緒に同棲して居る。そこには何もない。何物の生命も、意識も、名誉も。ま たその名誉について、感じ得るであろう存在もない。  尚しかしながら我々は、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだ ろう。我々はいつでも、死後の「無」について信じている。何物も残りはしない。我々の 肉体は解体して、他の物質に変って行く。思想も、神経も、感情も、そしてこの自我の意 識する本体すらも、空無の中に消えてしまう。どうして今日の常識が、あの古風な迷信 -死後の生活1を信じよう。我々は死後を考え、いつも風のように喚笑するのみー  しかしながら尚、どうしてそんなに悲しく、墓の前を立ち去ることができないだろう。 我々は不運な芸術家で、あらゆる逆境に忍んで居る。我々は孤独に耐えて、ただ後世にま で残さるべき、死後の名誉を考えている。ただそれのみを考えている。けれどもああ! 人が墓場の中に葬られて、どうして自分を意識し得るか。我々の一切は終ってしまう。後 世になってみれば、墓場の上に花輪を捧げ、数万の人が自分の名作を讃えるだろう。ああ しかし! だれがその時墓場の中で、自分の名誉を意識し得るか? 我々は生きねばなら ない。死後にも尚且つ、永遠の墓場の中で、生ぎτ居かげかぱならな…のだ。  蕎条たる風雨の中で、さびしく永遠に黙しながら、無意味の土塊が実在して居る。何が この下に、墓の下にあるだろう。我々はそれを知らない。これは墓である!墓である!     ●神々の生活  ひどく窮乏に悩まされ、乞食のような生涯を終った男が、熱心に或る神を信仰し、最後 迄も疑わず、その全能を信じて居た。 「あなたもまた、この神様を信仰なさい。疑いもなく、|屹度《きつと》、御利益がありますから。」  臨終の床の中でも、彼は逢う人毎にそれを説いた。だが人々は|可笑《おか》しく思い、彼の言う ことを信じなかった。なぜと言って、神がもし本当に全能なら、この不幸な貧しい男を、 生涯の乞食にはしなかったろう。信仰の御利益は、もっと早く、すくなくとも彼が死なな い前に、多少の安楽な生活を恵んだろう。 「乞食もまた神の恩恵を信ずるか!」 、そう言って人々は嘆笑した。しかしその貧しい男は、手を振って答弁し、神のあらたか な御利益につき、熱心になって実証した。例えば彼は、今日の一日の仕事を得るべく、天 が雨を降らさぬように、時々その神に向って祈願した。或はまた金十銭の飯を食うべく、 それだけの収入が有り得るように、彼の善き神に向って哀願した。そしてまた、時に合宿 所の割寝床で、彼が温かき夜具の方へ、順番を好都合にしてもらえることを、密かにその 神へ歎願した。そして此等の祈願は、概ねの場合に於て、神の聴き入れるところとなっ た。いつでも彼は、それの信仰のために恵まれて居り、神の御利益から幸福だった。もち ろんその貧しい男は、より以上に「全能なもの」を考え得ず、想像することもなかった。  人生について知られるのは、全能の神が一人でなく、到るところにあることである。そ れらの多くの神々たちは、野道の寂しい辻のほとりや、田舎の小さな森の影や、景色の荒 蓼とした山の上や、或は裏街の入り込んでいる、貧乏な長屋の露路に祀られて居り、人間 共の俺しげな世界の中で、しずかに情趣深く生活して居る。 ●空家を訪うて  しばしば人は、古き苔むした空家を訪うであろう。かつてその広大な邸の中には、世に 名高き史上の人物が住んで居た。かつて彼はそこに思索し、日々に庭園の樹陰を迫遥して 居た。  今、時は移り、人は既に死んでしまった。彼はもはやそこに居ない。しかも彼の記念と して、昔ながらの住宅があり、偉人の有りし日を夢みさせる。見よ!そこの部屋の中に は、かつて昔ありし如く、彼の腰かけていた椅子があり、彼の坐って居た書卓があり、壁 にはまた昔ながらに、今も尚その同じ額がかかっている。そして庭には木立があり、彼が 昔歩いた如く、今も尚その同じ迫遥の路が残されて居る。  かくもまざまざとして記念されている、古き記憶の再現からして、しばしば人は過去を 夢み、今も尚その同じ人が、生きた人物として住んでる如く、我々の目前に居る如く幻想 する。そして実に無いものが有ると思われ、過去に過ぎ去ってしまった事実が、現実にも 有る如く錯覚する。この同じ事情からして、我々はまた、その友人や知人やについて錯覚 する。彼等は昔、情熱の高い詩人であり、いつも純潔の理想に燃えていた人物だった。そ して現在では、すっかり昔の夢を忘れたところの、変った実社会的の人になってる。その 「肉体の空家」の中には、もはや昔ありし如き、どんな詩人も情熱家も住んで居ない。た だ有りし日の記念ばかりが、古く昔ながらに残って居る。それからして我々は、空家の中 に過去を夢み、同一人物の実在を信ずるところの、悲しき錯覚を起すのである。 ●郵便局 郵便局というものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思わすところの、悲し いのすたるぢやの存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人々は窓口に群が っている。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつく って押し合っている。或る人々は為替を組み入れ、或る人々は遠国への、かなしい電報を 打とうとしている。  いつも急がしく、あわただしく、群衆によってもまれている、不思議な物悲しい郵便局 よ。私はそこに来て手紙を書き、そこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。川舎の粗野な 老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願している。彼女の貧しい村の郷里で、孤 独に暮らしている娘の許へ、秋の|袷《あわせ》や|儒件《じゆばん》やを、小包で送ったという通知である。  郵便局! 私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこ の薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いてる若い女よ。鉛筆の心も折れ、文字も涙によご れて乱れている。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだろう。我々もまた君等と同じ く、絶望のすり切れた靴をはいて、|生活《ライフ》の港々を漂泊している。永遠に、永遠に、我々の 家なき魂は凍えているのだ。  郵便局というものは、港や停車場と同じように、人生の遠い旅情を思わすところの、魂 の永遠ののすたるぢやだ。      ●春画  それほど秘密にされていながら、しかも普遍的のものはないであろう。到るところに、 我々はその表現を発見する。たとえば町の共同便所や、寄宿舎の白壁や、工場の集会所 や、それからたいていの中学生のノートなどに。  驚くべく意外のことは、それが一様の型にはまって居り、どれを見ても同じ構図と文句 とで、一律に約束されていることである。そこにはいつも、気の利かない、馬鹿馬鹿し い、無刺激の言語が羅列され、ただ醜悪の外、何の春情をも挑棲し得ない、誇張した局部 の横画がある。何故に人々は、かくも醜怪極まる汚横のものから、あの音楽のように艶め かしい色情を、実に昂進さすことができるのだろう。果してまた、人間の性生活がこの通 りで、一様に、単調に、平凡に、型にはまったものであり、且つそれが一般的でさえある とすれば、人生は何と耐えがたく、陰惨極まる存在だろう。すべての春画の表現は、我々 を絶望的にまで憂欝にする。  けれども尚、果してそれが実際の表現であるだろうか? 思うに人々は、その内密の蓋 恥心から、実感のデリケートな秘密を人に隠して、むしろ滑稽味をさえ強調した、あの公 開的なる紋切りの型の印判だけを、春画に於てさえも捺し歩くのである。    士    ム   術に就いて 友よ 醒めよ!稚態を脱せよτジヤンジヤツクノレツソオ      ●新世紀の初めに  古典王義は中風症だった。浪漫主義は|癩欄《てんかん》だった。自祭王義は多血症であり、デカダン 主義は神経衰弱だった。文学はこれらの流行から脱却した時、初めて健全である。という グウルモンの感想(堀口大学訳)は、我々の日本の文壇では、正しく次のように言い換え られる。  古典王義はどこにも無かった。浪漫主義はニキビ青年の乳臭い感傷だった。自無王義は |老毫《ろうもう》者の退屈な居眠りだった。デカダン主義は享楽家の|薄荷酒《ペパミント》だった。文学はこれらの稚 態から脱する時、初めて真に文学である。 ●汝自身を知れ!  日本の文学者等は、その「精神」を持たずして、その「皮膚」だけを持ってるところ の、空虚な|瓦斯《ガス》体人物にたとえられる。彼等はいつでも、西洋からの新思潮をその末梢神 経の感覚だけで、極めて鋭敏に直覚する。そして外国の文明が、その長い歴史の背景と、 社会的事情の切迫と、これに弁証づけられた哲学とから、必然に産卵された多くの時代的 芸術を、単に物珍らしい人真似の好奇心や、流行のはしりを|街《 さちてら》う虚栄心やで、見さかいも なくあれこれと|身《  ち 》につけてみる。もとより一時の流行である故に、たちまちにして|廃《すた》って しまい、跡には痕跡すらも無いのである。  かくの如くして我々は、過去に長い文壇を通過して来た。浪漫派も、自然派も、象徴派 も、未来派も、新構成派も。そして十九世紀も二十世紀も。尚且つ最近のアメリカ的文芸 すらも。一切の流行は古くなった。しかも今日、我々は何一つ西洋から学んで居ない。学 んだものは精神でなく、単にその皮膚の表面を通過して、泡沫のように消えてしまった感 覚であり、新しさの香気であったにすぎないのだ。  自覚せよ! 汝の浮薄な虚栄心から、趣味性によって先き走らないで、汝の現に生活し て居り、現に立脚している大地に立て! 汝自身の日本を知れ! ●稚態を脱せよ  あの仏蘭西革命当時に於て情熱された、正義への強い意志や、自由と解放への欲情や、 至純なるものへのあこがれや、高く主観の翼をひろげた理想主義や、すべてそれらの所謂 「浪漫主義の文学」が、かつて日本の文壇のどこにあったか? 我々の明治に於ける、半 ば戯作者的なる硯友社の文学を浪漫派とは! 過去に於ける稚態の一。  実証論によって幻滅され、それほどにも人生を絶望して、懐疑と憂欝の中に狂気した自 無王義が、かつて日本の文壇のどこにあったか? 我々の伝統的な人生観から、写生主義 によって俳文化し、安易な身辺記録に惑溺していた文学を自然派とは! 過去に於ける稚 態の二。  浪漫主義の思潮でさえが、既にずっと早く、啓蒙時代の前期にさえ通過してしまったほ との、全く哲学を有しない幼稚園の感傷主義や英雄主義やを、皮肉にも自然派文壇  と 自ら称して居る  の後に高唱した人道主義とはー 過去に於ける稚態の第三。  欧洲の思潮界では、今日既に議論ずみと成って居り、論題としての興味を失っているほ ど、一般に常識化されてる社会主義が、過去に於ても今に於ても、明白に文芸と区別さ れ、一もかかる政治意識の芸術イズムを生まなかったのに、独り我々の日本に於て、子供 らしくも言われるプロレタリヤ芸術とは! 現在に於ける稚態の四。  稚態を脱せよ!稚態を脱せよ!無限にいつまでも、我々はこの馬鹿馬鹿しき、文学 の乳臭を忍ばねばならないのか!      ●十八世紀の終に  常識は次の一事を、はっきりと|肝《きも》に銘じて、忘れないように知るべきである。  漸く今日の新日本は、政治的に近代風の国家主義を建てようとし、社会的に資本主義の 撞頭を見ようとしている。すべてに於て、我々の現実は十八世紀であり、十八世紀以後の 何物でもない。文芸ですらが、今や漸く稚態を脱して、西洋近代思潮の出発点たる、 の浪漫主義を呼びおこそうとし、それの本質運動へ向って居るのだ。 最初 ●文学的虫介類(干潮の前に泳いでるもの)  その本質に哲学を持たない文学者等は、感覚の皮膚によってのみ、時代の空気を呼吸し て居る。彼等は|脊髄《せきずい》のない生物であり、毛細血管の末梢から、手探りのおぼつかない触手 を出して、時流の変転を泳いで居る。彼等は走馬灯中の人物であり、時代の浪が引いたあ とでは、乾池に干からびた虫介みたいに、跡形もなく滅びてしまう。 ●理性的の者は現実的である  芸術に関して言えば、我々は恥実に根拠を有する、正しい立脚地を路まねばならない。 遅すぎる国粋主義者は、昔の神風連の思想と同じく、今日の日本の国情から、足場を持ち 得ない故に妄想である。早すぎる洋化主義者は、あの活動写真から教育されてる、浮薄な モダンボーイの仲間であって、単なる感覚の表皮を過ぎ去る、一時の物好きの故に浅薄で あり、同じく現実への足場を持たない。  真の正しき芸術は、今日我々が生活している、この現実する社会の真相  洋風家屋の 中に畳が敷かれ、珈排店が待合と隣り合ってる、すべてに於て、西洋風の近代社会が、こ れから漸く興ろうとしている社会。1を根拠とし、それの現実的な自覚の上に、しっか りとして建つべきである。過去の多くの善き芸術から、我々はそれを実証して居る。昔に 於ても、一時の流行を|空《から》すべりした、浮薄な文芸は滅びてしまった。今日残されてる名作 品は、すべてその現実した社会に根拠し、生活情操の本質点に、背景を有する者のみであ る。「すべての理性的のものは、すべての現実的のものである。」と、へーゲルがこの点の 真理を教えた。 ●過渡期の芸術家への慰めとして  文明の推移に於ては、各≧の時代が各ζの特色ある地質を持ってる。我々は支那の唐代 の文明と、同じ宋代の文明とから、決しで優劣を判定し得ない。なぜなら各≧の時代の者 が、その時代にのみ発育している、特殊なユニックな色彩を持ち、他と比較することがで きないからだ。同様に他の場合でも、文明の地質は独自であって、他との優劣の比較でな く、それ自身の中に価値をもってる。(「文明は進歩しない」**頁参照)  今日の過渡期に於ける、我々の|混沌《こんとん》たる日本文化と、この時代に生きる芸術家の慰めと が、またこの意義の上に立言される。今、日本の古き伝統は失われ、新しき未来のものは 建設されない。この時代に於ける展望は、甚だ荒蓼としたものに感じられる。しかしなが らこの光景も、決してまた悪くはないであろう。なぜなら今、野は残る方なく焼き払わ れ、一切の者はすべて破壊し尽されて、新しき別の若草が、春の地下から萌え出でようと しているから。そこには到るところに若さがあり、澄刺たる生命がある。しかも野は未だ 冬枯れの寒気にふるえ、焼跡の傷ましい廃塘の中で、破壊と創造と、新生と絶望とが、到 るところに不思議な矛盾を混乱させてる。その構想のあらゆる主題は錯覚であり、西洋と 東洋との不調和に入り混った、奇怪なグロテスクな幻想である。  丁度この文化の画面は、あの明治初年に於ける司馬江漢の奇異な油画を聯想させる。そ して今日ですら、尚すべての日本の文化は司馬江漢の油画であり、一もそれ以上の変化は ないのだ。今日我々は、実にそのグロテスクとロマンチシズムの中で生活している。しか しながらまた、我々の過渡期に於ける文化の美が、その特殊な和風油画に存するのであ る。いかなる後世の日本文化も、決して今日の時代の如き、和洋混錯の不思議な世界と、 それの情操するグロテスクな美を描き得ない。この奇怪にして幻想的なる過渡期の文化 は、ただ今日の時代にのみ属して居り、またそのユニックな美の表現は、今日の芸術家に のみ恵まれている幸運である。  それ故に安心せよ! 我々の時代の芸術家は、かかる支離滅裂にして調和なき過渡期の 日本に生れてすら、尚且つ後世に比類なく残さるべき、特殊な芸術を持ち得るのである。 ●文学者とジャiナリスト  流行は、たいていの場合、それの需用者によって作られないで、それの供給者によって 作られる。即ち頭の好い商人たちによって創案され、頭の悪い婦人たちによって需用され る。  この同じ関係が、文壇では大資本の雑誌屋やジャーナリストと、貧乏な文学者の間に行 われる。雑誌屋やジャーナリストやは、彼等の読者を釣り込む職業意識で、常に新しきセ ンセイションを有するところの、際物の輿論と流行とを探し出し、文壇の新思潮を呼ぼう とする。一方ではまた無名の新進作家たちが、これによって彼等の位地を占有し、文壇へ の進出を計ろうとして、お先き走りの宣伝係りを努めるだろう。それからして流行が、た ちまち文壇に於ける一般的のものとなってしまう。  かくの如く文壇ては、流行が常に大資本家  雑誌を経営するンヤーナリスト  によ って提出され、文学者がそれを需用している。したがって前者は、文学者よりも|頭脳《あたま》がよ く、時流の好尚を見る明があり、先見に富むものと考え得られる。しかしながら実際に は、単に広告の太鼓を叩き、その音で群集をつりこむべく、宣伝の方の名人にしかすぎな いのだけれど。 ●百貨店での警告  流行を追わないで、君自身の趣味によって、君自身の|柄《がら》に合うものを選択せよという忠 告は、それらの百貨店にうろうろしている、おしゃれの婦人にのみ言われるのではない。 ●党人的文学者  ある下等な文学者等は、あらゆる性情の本質点で、全く政治家と共通である。輿論の小 使をつとめることで。無智の青年や民衆やを、巧みに煽動することの手腕に於て。それに よって地位を作り、議会や文壇に横行すべく、多数党の椅子を占めることで。党人根性の 著るしく、遂に結束して事に当り、党同伐異の曲断に凝ってることで。またその党派的内 閣を組織すべく、いつでも極めて熱心であることで。売名の虚栄心が強いことで。人気取 りの旨いことで。節操の強い観念がなく、時流によって主義を換え、勢いを見て利を計る に敏なことで。然り。他の多くのすべてのことで。 ●汝一層の傲慢をもて! 「新しい」と呼ばれることに、彼の最大の恥辱を感じないような、 文学者とは、何を語ろうとも思わない。況んやそれを得意で居り、 それほど自尊心の低い 鼻にかけるような卑屈 漢とは! ●芸術家の風俗とその変転  昔の芸術家等は、異常な風変りの様子をしていた。羅馬から中世へかけての詩人は、頭 髪に|櫛《くし》を入れないことで、一般の市民と区別されていた。近世でさえも、バイロンやハイ ネの画像は、長く肩の上まで延ばされ、|銀《こて》で波づけられた髪によって、異常な超俗的の感 じをあたえる。べートベンが、特別にまた「獅子の頭」であった。ボオドレエルは好んで 中世紀の服装をしていた。小説家でさえも、ヂューマや、バルザックや、トルストイや が、すべて俗人と異なる所の、特殊な変った様子をしていた。日本でも同様であり、昔は 俳人や歌人やが、何等か一般の風俗とちがう所の、特殊な風流人の身なりをしていた。  かく、昔に於ては、通俗的でないということ、俗衆から超越した、或る特別の人格であ るということが、一般に芸術家の誇りとされた。そこで詩人や芸術家等は、彼等を「俗 人」と区別するため、頭髪や服装に於てさえも、異常な風変りの趣味を好んだ。何よりも 一般の市民や俗衆から、明白に区別されることが必要であり、それがまた芸術家の誇りで あった。然るに、今やその事情は変ってきた。近代の初頭からして、次第に芸術家の風俗 が堕落してきた。詩人も、画家も、音楽家も、一般に風俗が平凡になり、俗世界のものと 変らなくなってきた。今日では、もはやバイロンやハイネのような、異常なメランコリイ の風俗をした、どんな詩人も居なくなった。我々の時代の音楽家は、べートベンのような 風俗を、その憂欝感の故に好まなくなった。彼等は頭髪を五分刈りにし、明るくちゃきち ゃきとした、ずっと世俗的な、活動的な趣味で風俗している。  この一般的な傾向は、最近に至ってから、特にまた著るしくなってきた。アメリカと欧 羅巴においての、最近の新しい、最も時代的な文十風俗は、できるだけ活動的に、元気よ く、 しかも気の利いて見える所の、ビジネスマン的な服装をすることである。換言すれば 風采のどんな見栄に於ても、彼等は決して「詩人」や「芸術家」であってはならない。 そうした超俗的のもの、メランコリックのものでなく、もっと実世間的で、活動的で、 この資本主義時代の商工業社会に適当する、ちゃぎちゃぎのビジネスマンである如く、 丁度その様子で見えねばならない。そしてまた、この風俗に彼等の趣味性の誇りがある。  新時代の芸術家は、昔の文士や詩人の如く、森や牧場の中で、孤独の冥想に|耽《ふけ》ること を、それの趣味感から悦ばない。彼等の生活における見栄と誇りは、それの気の利いた活 動的の風采で、銀行や百貨店のエレベーターを、さも忙がしげに、用ありげに慌ただしく 往復することにある。何よりも彼等は、いそがしきビジネスマンとして、銀行家として、 ちゃきちゃきの事務員として、即ち要するに、商工業時代の代表者として見られたいの だ。見よ! 昔の詩人が手にギタアや花束をもって歩いたように、今の新時代の文学者等 は、手に重要書類のぎっちり詰った、ビジネスの折鞄を抱えることに、趣味の満足した得 意を感じている。かくの如く今日では既に「芸術そのもの」が、実世間的の、商工業的 の、通俗の一般的のものになってしまった。昔の芸術家等が、俗衆や実世間から自己を差 別することに、特殊な自尊を感じた如く、反対に今日の文学者等は、できるだけ俗衆の中 にもぐり込み、商人や会社員等の、一般市民の中に自己を融化しようと考えている。かく の如くして、芸術そのものすらが、今や俗衆の空気の中に、それの個性を葬ろうとしつつ ある。      ●新時代?  芸術の心理学時代はすぎた。今は生理学の時代に入ろうとしている。観念から感覚へ、 シムホニイからジャヅバンドヘ、劇場から活動写真へ、冥想からスポーツヘ! 今日に於 て、芸術は労働と同じく、一の筋肉運動感にすきない。1と或る非芸術的な人々が考え ている。      ●建築のZOω$ーひqご  建築  特に群団した建築  の様式は、空の|宥窟《きゆうりゆう》に対して構想されねはならぬ。即 ち切断されたる球の弧形に対して、槍状の垂直線や、円錐形やの交錯せる構想を用意すべ ---------------------[End of Page 76]--------------------- きである。  この蒼空の下に於ける、 を忘れている。 遠方の都会の印象として、 おおむねの建築は一 つの重要な意匠 ●美術家の先入見  何故に美術家等は、通常の衣服を著た人物を描かないで、裸のモデルばかりを選ぶの か? 裸体が美の最上のものであるという思想ほど、美術家の仲間に於て、古くいわれの ない先入見となってるものはない。実に芸術的なるものは、却ってしばしば衣服を著た人 物の側にあるてはないか。人がもしそれを疑うならは、我々の東洋婦人  口本婦人や支 那婦人  について見るが好い。いかに彼等の裸体が醜劣て、調和のとれない非美術的の ものであるだろうか。反対に彼女等が衣服した時、比類なく美しきものに眺められる。特 に日本の婦人たちは、その衣服した姿に於て、世界に類なき美を持ってる。あの厚い帯で 胴をしめつけ、胸と腰とに曲線の優美を現わし、襟脚を艶めかしく見せる彼等の著附姿こ そ、あらゆる人体のポーズの中で、最も芸術的のものではないか。  けれともしかし、裸体が美の最上てあるという思想は、我々の東洋人の思想てなく1 東洋の美術家等は、かつて一度もそんなことを考えなかった。  もちろん西洋人の思想 であり、彼等の美術家の意見に属する。なぜなら欧洲の婦人たちは、いつも裸体のみが美 しく、肉の肢体のむき出しにのみ、自然の恵まれた美を持っているから。明白に言えば彼 等の女性は、未だ「衣服すること」の文明を知っていない。数千年来、彼等はその先祖が 森の中で|棲《す》んだ如く、今日も尚「白色の美しい野獣」であって、自然のままの肉体美に誇 りを持ってる。そして肉体に衣服をまとい、自然を文明に導くところの、文化の教養と趣 味とを欠いてる。されば西洋婦人の服装ほど芸術的に幼稚で俗悪のものはなかろう。その 服装では、腕が丁度腕にはまり、胴が丁度胴体にはまるところの、単純原始の構想の外、 何の雅趣ある芸術的意匠もなく、何の複雑優艶な曲線美もない。即ちあの裸体で生活して いる野蛮人が、初めて衣服することを考え、初めてその構造を工夫した時、丁度それが出 来あがったであろうところの、最も無趣味にして原始的な服装である。  それ故に芸術家等は、決してかくの如き服装を悦ばない。欧洲の美術家等は、いつもそ う考えているのである。概ねの女たちは、衣服した時いかに醜く、ぶざまな猿にすぎない かな! 彼等がそれを脱ぎ捨てた時、実に多くのものは天真のミューズに変る。すくなく とも女性にあっては、裸体のみが美術であり、美の最上のものであると。然るに我々の日 本や支那では、いつもその反対が考えられてた。我々の女たちは、自然の野蛮状態から遠 ざかるべく、衣服することにのみ趣味を尽した。そして結局、肉体美そのものの根本を忘 れることから、時に彼等を生気のない造り人形のように見えさしたほど、それほども衣服 することに芸術を持ち、そこに美の最高のものを創造した。  それ故に東洋の美術家等は、丁度西洋のそれと反対に、いつも衣服した女にのみ、美の 最上のものを感じ、それのみをモデルにしていた。古来のどんな東洋画家も、裸体を描こ うと欲しなかった。彼等はすべて考えて居た。衣服した時、いかに女たちは美しいかな、 けれども裸体の自然に於て、いかに醜く不調和の動物なるかな! 神よ、我々の女神に於 て、永遠に裸体を見せる勿れと。  ともあれ一.つの不思議は今日の認識不足な日本に於て、我々の日本の画家等が、我々の 日本の女からして、故意にその美しい衣服を脱がせ、醜い裸体を描くことである。どんな 歪んだ審美眼が、我々のモデルについて美を見るのか。何故に彼等は、衣服した日本の女 を描かないのか。おそらくはそこに、西洋からの直訳された、愚劣な先入見が錯覚してい る。然り! またその上にも、彼等はミューズを冒漬している。 ●裸体美の原理  裸体が美の最上のものであるという思想は、それが造化の精巧を尽した表現であり、自 然介訂訂のものであるから。そして自然のままのものは、人工の粉飾にまさっているとい う、例の自然主義の哲学から強弁されてる。(自然主義! 自然主義! ルッソオ以来、 我々はもはやその講釈に聞きあきた。)  この美学が誤謬であり、もっともらしき曲弁にすぎないことは、人間の美に対する本然 性が、常に天然のものに加工し、より人為的な文化の方に、発達推移してくる歴史の跡か ら、容易に実証することができるのである。太古に於て、我々が尚裸体で生活し、大然の ままの野人で居た時、初めて顔に刺青をし、初めて衣服や小布やを身につけたのは、我々 の中のだれだったろうか? 言う迄もなく、それが原始人の中の芸術家で、美を愛するこ とを知ってる人たちだった。そして他の多くの者は、生れたる「自然のまま」の姿で居 た。ずっと昔、我々の中の美術家が言わなかったか? 裸体で居る時、我々の仲間は醜悪 であり、野獣にひとしいと思われた、我々の中の一人の女が、初めて赤い小布を身につけ た時、どんなにそれが美しく、天使のように見えたろう。衣服することによってのみ、初 めて我々は人間らしく、醜悪な獣類から、優美な芸術的のものに変って来たと。  それ故に事情は明白である。人々が裸体画を悦ぶのは、それが天然のままの表現であ り、美の最上であるからではなく、実は人の常に見ない異常のもの、尚さら文明国に於て は、浴場でさえもうかがい得ない異常のもので、人の性的好奇心を挑発し、その方での強 い魅力をあたえるからだ。そしてすべての美術家と鑑賞家等は、その芸術的趣味性の内部 に於て、多少の助平根性を本質しないものはないのだから。  しかしながら反駁は、またそれによって言うだろう。然り! それ故にこそ裸体画は、 美術の中の美術であり、女の素裸の姿ほど、自然に於て美しい者は存在しないと。たしか にー 芸術の本質が性慾てあり、無意識の助平根性てあるならは  そしてまた、事実に その通りてあるか知れない。  裸体が美の最上てあると信ずるところの、諸君の先入見 は正しいだろう。さればまた、遂に我何をか言わんやである。      ●文明開化?  しかしながら実利的な思想は言う。国民の体質を強健にし、富国強兵の実績をあげるた めにも、我々の病的なる趣味を捨てて、西洋の衛生的なる服装や、健全なる体育主義を学 ぶべきだと。  この見地の必要からして、教育は生徒に洋装させ、西洋の美術を教え、肉体美の貴重す へきことを強説している。  一般に政府、教育者、及ひ社会の「健全なる常識を有する 紳士」が、この実利主義の埋由の故に、我々の欧風化を主張して居る。      ●虚飾というべきものは無い  どんな粉飾的の詩文の作家に対しても、単にそれが虚飾であり、文学のくだらない弄戯 のために、必要のない技巧のために、好んで書かれたと思うのは非礼である。のみならず そう思うことによって、彼自身の文学的無理解を証拠立てている。なぜなら最も悪どく、 毒々しい華美の扮装をした婦人でさえも、彼女自身の考えてる美の最高観念を表現すべ く、その必要なしには、一つの余分の|讐《かんざし》さえも挿していないのだから。  こういう者への批判は、正当には「趣味が低い」と言うに尽きる。 批判-美の鑑賞観今†1てさえも、時流の好尚によって変る故に。 しかしながら趣味の ●奇妙な理窟 「君等の作物は人を退屈させる。」 「退屈させる? それは結構だ。我々の文学では、すべての興味的なもの、センセイショ ナルなものを排斥する。」 「私はもう読む気がしない。」 「それは勝手だ。しかしながら此処に現実にある。だれも知る如く、平凡な単調な、あり のままの人生がある。君等はそれを見ないか?」 「現実的な事実としては、多分君の言う通りだろう。我々の一般的な生活は、概して無変 化で単調なものにすぎない。人生の大部分は、決して魅惑的なものじゃない。」 「そうだ! それ故にこそ僕等は、この真実のものを描くのだ。あらゆる魅惑のない、平 凡な、退屈な、無刺激の事実を描くのだ。」 「成程! しかしそれが芸術か?」 「芸術は常に真を求める。真だけが芸術であり、他は似而非の物にすぎない。」 「ともあれ君等の作物は、僕等の読者を退屈させる。丁度現実の人生と同じように。」 「それ故にこそ、僕等の文学が真実なのだ。この平凡無意味な人生を描いたものが、丁度 その無感動の現実で、君等の読者に迫ってくる! 君が退屈に感ずるほどそれほど益≧僕 にとっては、創作の成功した証拠じゃないか。」  この奇妙な問答が、かつて日本の文壇に於て、実際に真面目で戦わされた、 ●小説家の推理力  普通に言われる推理力とは、類似に於ける共通から、概念の本質を抽象して、箇々の特 殊的の経験を、未知の一般に普遍して行くところの、理性の能力を言うのである。人間と 動物、及び天才と凡才とが、この点の能力で著るしく区別される。動物や低能者等は、彼 等が実際に経験した、一々の具体的事実の外、他の未知の者について類推し得ない。彼等 は経験の|橿《おり》の中で、自分の知覚に触れた限りの、狭い自然生活をしているにすぎないので ある。然るに智力のすくれた人間-特に科学や哲学の天才llは、事実の経験から類推 して、未知の普遍的な者を推理し、ずっと広い宇宙の中に、我々の生活を拡大して行く。  こうした能力の異常な発育は、或る別種の型に於て、芸術の天才にも素質して居る。但 し彼等にあっては、それが概念の抽象でなく、特殊な直感的な観察力から、別の芸術的な 推理でされるのである。例えば小説家等は、彼等の実際に経験してない、人生の様々な未 知の世態を、その既に知ってる事実によって、推理から帰納し  もしくは演繹し  て 描いて行く。若しそうでなかったら、自ら殺人しない文学者が、どうして殺人者の心理を 描き、自分では生きてる小説家が、どうして死刑囚の実感を描き得るだろうか? あらゆ る小説家の才能は、実際生活の一寸した経験から、百の場合の普遍を見出し、箇々の具体 的の事実の中から、類似によって共通され得る、未知の本質を知ることにある。例えばド ストイエフスキーは、彼が遊び半分の賭博に於て、一寸とした力ードのごまかしをやろう とした、小さな経験上の失敗からして、あらゆる恐ろしい犯罪者の、発覚に対する病的心 理を類推した。もっと他の多くの作家等は、彼の|墓口《がまぐち》を遺失した経験からして、破産に対 する大資産家の心境を描き、一人の知ってる芸者からして、一般にその種の女性に共通し ている、普遍的な本質性を直覚する。そして特殊から一般を推し、既知の小さな経験から して、未知の様々なものを推理して行く。  芸術家に於けるこの才能は、普通に「想像力」と呼ばれて居る。より天才のある作家ほ ど、それの規模が雄大であり、且つ推理が正確で、未知の経験外の者に対する、真実の正 しい描写を誤らない。反対に貧しい作家は、想像の規模が小さく、推理が誤謬に充たされ ているところから、真実に|昧《くオり》く、独断的なる似而非の空想に終っている。そうした低劣の 作物は、読者にとって少しも真実らしくなく、虚偽のように感じられるばかりでなく、実 際にまた、小説として虚偽なのである。しかしながらさらに、より文学として愚劣であ り、無能の極致であるものは、全然初めからして想像がなく、作者の日常経験の記録の外 に、創作として一歩も出ることができないような、特殊な馬鹿馬鹿しい文学である。我々 は久しい間、日本のそうした似而非文学に悩まされた。実には何の「小説」でもなく「創 作」でもない、実際生活の有りのままの日誌記録が、不思議にも日本に於て、文壇的な芸 術品と考えられていた。それ故に我が国の小説家等は、芸術的無能者の|範疇《はんちゅう》であり、人間 としての智能でさえも、ずっと凡庸以下に列している。彼等はその想像力の欠乏からし て、いつも経験の狭い濫に捉われてる、犬猫の動物と同じであって、智能の最も低い階級 に属している。 ●古いことの正義 人が生活熱情や、イデヤや、憧憬や、ヒューマニティや、夢見る強い衝動やを持ってる ことで、もし時代的に「古い」と言われるならば? 古いことはいかに正義なるかな! 1或る浮薄なる近頃の唯物主義者や、新時代主義者に向って言うのである。 ●芸術には上達がない  すべての技術は、練習によって上達する。ところで練習とは、筋肉または思惟の法則 が、脳髄の中に|溝《みぞ》をつくることである。例えば熟練したピアニストは、一つの鍵盤を叩い た指で、同時に百の鍵盤の上を走らせて行く。それは長い間の練習が、彼等の脳髄皮質に 一定の溝をつくったことから、動作が意識的でなく、習慣から型にはまって、敏速に行わ れる為に外ならない。  かくすへての技芸や技術やは、その道の練習-即ち習慣をつくることーで上達す る。然るに芸術が意義するところの、創作の本意は何だろうか? 創作の真の本意は、す べての習慣に反対し、習慣上の型を破って、不断に新しき世界を創るにある。芸術家がも し、彼の思想で固定し、テクニックの習慣になれ、いつも同一の型を反復するならば、彼 自身の古さの故に葬られる。この故に芸術家は、絶えず彼自身に革命し、彼自身の古き型 を破るべく、いつでも自我の習慣と戦っている。偉大なる善き芸術家は、それによってい つも新しく、生涯を若やぎに溢れている。  されば芸術家の修養は、技術家の勉強と反対である。後者にあっては、練習が上達の秘 訣であるのに、前者にあっては、むしろ練習しないことが、平常の善き心掛けに属してい る。(それ故に善き作家等は、常に多作を|警《いまし》めている。)これが芸術家の修養と、学校の作 文課目の反対である。学校での作文は、常に多作の練習が要求される。なぜなら学校教育 が教課しようとするものは、人が実生活で必要とするところの、社交上や実用上の書簡 文、もしくはその種類の、用務を弁ずるための文章だから。そしてこの種類の文面では、 一定の類型的な事務の仕方で、できるだけ習慣的に、したがってできるだけ敏速に書くこ とが必要だから。そしてこの教育の目的は、もちろん芸術の目的と別個である。  それ故に芸術は、それが単なる技芸ーウァイオリンを巧みに弾くことなとーてな く、本当の意味の芸術ならば、芸術は練習すべきものでない。したがってまた芸術家に は、言葉の正しき意味に於ける、上達という事実は有り得ない。然り! 芸術には上達が ない。ただ不断に新しいものを創造して行く、勉険〜介意志があるにすぎないのである。      ●芸術には進歩がない 1 老大家等は考えている。長い間の修養からして、今日漸く、私はこの域に進歩レて来 た。過去をふりかえって見る時、いかに自分が幼稚であり、未熟の者に過ぎなかったか。 私は過去の階段をへて、長い間の勉強から、一歩ずつ此所に登って来たと。  概ね多くの老大家等に共通している、この一つの悲しげなる自誇心は、その実次の笑話 に語られてる、人間心意の有りふれた迷錯にすぎないのである。或る非常に年とった老翁 が言った。長い間、私は過去に性慾と戦って来た。若い時から、自分はその獣慾を克服す べく、不断の修養を続けて来た。そして最近、今や漸く目的を完成した。今日私は、修養 によって性慾を克服し得たと。  芸術の老大家等が、しばしば意識しているところの自誇心が、丁度またこれと同じであ る。なぜならば老大家等は、その年齢の推移によって、彼の中から失った青春性や感傷性 やを、ひとえに修養の結果によって、自ら卒業したものと考えている。そして芸術に於け るすべての稚態と未成熟とを、自ら克服したことに誇りを持ってる。しかしながら実際に は、進歩と言うべきものでなく、単に年齢の推移に於ける、心境の「変化」にすぎないの である。なぜなら彼等は、現在の地位によって得た実質を、丁度それだけ過去の実質から 失ってるから。たとえば彼等は、理智や静観の点に於て、青年の時にまさり、ずっと深い |瞳《め》をひらいたろう。けれども同時に、一方で情操の水々しさや、情熱の魅力する若さを失 い、芸術を味気ないものにしてしまって居る。そしてこの一方で得たところを、彼等が 「進歩」と考える時、一方で他の実質が、それだけ「退歩」しているのである。  人はいつでも、自分が現に地位するところを、過去のものより高く、階段の最高に居る と考えてる。そこで概ねの年輩者等は、彼の過去に歩いて来た道の背後に、幾百段かの坂 道があるのを考え、努力して登って来たと信ずるのである。しかしながら実際は、人生の 芸術的な行路に於て、決してどんな階段も有りはしない。人生は「高きに登る」坂道でな く、一つの谷から一つの谷へ、一の峠から他の峠へと、常に同じ水準の地平の上で、推移 して行くものにすぎないのである。例えば人生の春に於て、概ねの若い芸術家は、情熱の 高く、色彩の濃艶な絵を描くだろう。そして中年の秋から晩年の冬にかけては、次第に色 彩の沈欝した、枯淡の表現に移ってくる。  かく人生の行路に於て、我々の芸術は推移する。しかもこの四季の推移は、異質の者か ら異質の者に変るところの、単なる「変化」にすぎないのである。もしそれが「進歩」で あったら、芸術の絶対の価値に於て、後の者は前の者にまさって居り、常に老年の時の作 は、青年の作にすぐれて居なければならない筈だ。けれども一般の作家について、我等は その事実を実証し得ない。どんな作家についてみても、青年期の作には青年期の美しさが あり、老年期の作物には、またそれ自身の特別な長所がある。そして老年期の作家たち は、いかに自ら努力しても、ふたたびまた彼が青年期に書いたような、特殊な魅力ある表 現を試み得ない。各≧の時代の作品は、それ自身に於て特殊であり、他と比較できない異 質の者で、互に水準を同じくするところの、別々の峠の頂上に立っているのだ。我々は春 と秋との比較に於て、もしくは真紅色と黄褐色との比較に於て、美の優劣を論ずることが できないように、人生の推移に於ける、芸術の高下を批判し得ない。  それ故に芸術家は、その一生の努力を通じて、決してどんな進歩も有り得ないのだ。 我々はただ一つの谷から一つの谷へ、一つの季節から他の季節へと、同じ水平線の上を推 移して行く。然り!我々はただ変化す"のみ。進歩という果敢なき事実は、それらの老 大家が誇りとする、悲しき錯覚としての妄想の外、実の世界にはないのである。 ●芸術には進歩がない 2 芸術には進歩がない! この個人について語られた前の事実を、 歴史上の芸術について普説する時、一層明らか になるであろう。  人類の歴史に於て、芸術は長い時代を経過して来た。吾人は古代|希臘《ギリシヤ》の芸術から、中世 の|基督《キリスト》教芸術を経、そして今日の近代芸術に移って来た。我々の芸術家は、上古から今日 に至るまで、既に長い間生活して、歴史上に年を重ねた。そしてまたこの間、我々は絶え ず努力し勉強して来た。しかしながらどこに、我々の芸術の進歩があったか? そもそも 古代希臘の美術品と、今日の新しい美術品と、或は中世期の寺院建築と、今日の新様式の 建築物とを、どうしてだれが比較し、価値の優劣を決定できるか? 歴史の各≧の時代に 於ける、各≧の時代の芸術品は、それぞれのユニックな特色を持ち、他によって比較され ない、独自な対等の価値で並立している。我々の芸術家等は、歴史の長い過去を通じて、 一つの峠から他の峠へと、同じ水平線の上を移動し、変化して来たにすぎないのだ。しか しながら決して、一の進歩もして居ないのである。      ●民衆は原理を知ってる  民衆の素朴さは、料理の|賛沢《ぜいたく》の味を知らない。けれども彼等は、食物が持ってる滋養分 だけ、丁度それだけの美味があり、概して滋養ある食物ほど、人間の舌に|旨《さつま》く感じられる という、自然の定めた根本の原理を知ってる。その点からして民衆は、すくなくとも本質 上の問題として、芸術への誤りなき批判を持ってる。 ●文学的蠕蛉類  ポオやボードレエルに本質している、あの理智の明徹した、健全無比の精神を見よ。た いていの善き文学は、本質に於て健康であり、趣味や感覚の容貌でのみ、神経衰弱らしく 見えるのである。もし文学が、本質的に神経衰弱にかかっていたら? この文学の想像 は、あのたまらなく不愉快な、からか一した蠕虫類を聯想させる。それは自祭王義の末期 に於ける、日本の文壇小説である。彼等はデカダン文学でさえないところの、医学的神経 衰弱の重症者で、愚にもつかない身辺記事の茶飲話を、精力消耗者の常習から、くどくど と繰返して|眩《つぶ》やいて居た。 ところでまた、今日彼等の後継者等が、同じ蠕虫類の子孫であり、遺伝の神経衰弱にか かって居ながら、ポオやボードレエルとは正反対に、外貌の趣味だけを明るくし、感覚だ けでアメリカの新時代を模倣している。大家の親たちがそれを見て、息子が健康になった と思い、一緒に悦んで居るのである。読者の身になってみれば、どっちも同じように退屈 てあり、神経衰弱のくさくさした、醜劣の腐敗文学にすきないのだが。1その親は自然 主義! その息子は新感覚派! ●輿論  人がいかに、自分を恥かしく思うことぞ! 輿論の浪が過ぎ去った時、後でその行列の 中に踊っていた、自分の狂態を回想するとき。しかしながら輿論は、人の社会生活に現象 される、最も大規模な群衆心理である故に、何人の冷静も、それから超越することが困難 である。最も思慮深き賢人すらが、くだらぬ輿論の声に対して、或は反対から熱心にな り、同じ輿論の潮流に捲き込まれる。  そこで狡猜なジャーナリスト(輿論の製造人共)が、下地を焚きつけるべく、こつを心 得ているのである。初めはできるだけ誇張して、新しき時代の輿論が、此所にあることを 注意させる。それからできるだけ愚劣なイズムを、できるだけ不合理に主張してみる。ま ず無思慮の青年や、正直なお調子者や、売名を好む野心家や、それから何も知らない多数 の俗衆やが、その手に乗ってあやつられ、あちこちでやかましく騒ぎ出してくる。それの 馬鹿馬鹿しい騒動から、次に思慮ある人々が腹を立て、イズムの愚劣であり、取るに足ら ない無根拠のものであることを、熱心になって啓蒙する。  それからして議論がひろまり、実の輿論でも何でもないくだらぬことが、文壇や社会の 全部に亘って、一時に勢力を興すのである。      ●趣味の熱情  芸術の|素人愛好者《ヂレツタント》等は、しばしばその日常生活の様式さえも、美的好尚によって満足さ せようと努めるほどにも、趣味への熱情を有している。本当の作家たちは、ずっとこの点 で冷淡であり、物臭さげに構えている。彼等は作品の中にのみ住み、日常生活の様式から は、趣味を不精げに投げ出している。本当の熱情は、創作の中に注がれてしまい、後では 疲労しているからである。      ●生活と芸術  芸術に於ける情熱は、生活感によってのみ呼び起される。だが生活の様式と芸術とを、 不離に一致させようと考えるのは、無用のくだらない思想である。(過去の日然主義がそ れを説いた。)のみならずそれだったら、人は生活の中にのみ満足して、創造への強い情 熱を失うだろう。なぜといって芸術は、生活に現実されない「非有のもの」を、美に於て 実現しようと欲するところの、人生の|已《や》みがたい情念にもとづいてるから。      ●生物学的に観察して  或る種の単細胞動物は、自己分裂によって盛に子孫を繁殖する。この繁殖は幾何級数で 進むゆえに、少時の後には驚くべき家族の一大系統を作るであろう。しかしながらエネル ギイの量は不変である。箇々の多数の者は、原始の先祖から分裂したものにすぎない。故 に血統の久しい後に於て、箇々の生命は稀薄になり、殆ど生活力のない無精のものとなっ てしまう。此所に於て彼等は、他の系統を異にする別の母核と、新しく接合せねばならな くなる。そこからしてまた、澄刺たる新生命の系統が始まるのである。  生物界に於けるこの現象は、我々の文明についても考えられる。一つの民族の文明は、 いかにそれが発展しても、同じ母胎の分裂である限り、後にはそのエネルギイの種を薄弱 にして、生気のない無生命の者になってしまう。支那や印度の古く数千年に亘る文明が、 後の盛な繁殖にかかわらず、却って益ー光彩のない無精のものに衰退したのは、実にこの 理由のために外ならない。我々の日本もまた、殆ど同様の運命にあったけれども、近時西 洋との新しい交接から、再度その若いエネルギイを取り返して来た。もし鎖国のままで続 いたならば、我々はその自己分裂の終局として、文化的に自滅してしまわなければならな かったろう。  この同じ現象は我々芸術家の創作上でも、ひとしく考えられる真理である。詩人や小説 家や音楽家やは、或る時期の続く間、自己分裂によって盛に書き、同じ作品の一大系統を 作るであろう。だが或る時期が尽きた時には、すっかり過去の系統を捨て、他の何等かの 暗示によって、別の新しい情操の母核を求め、エネルギイの原泉を補充すべく、それとの 交接をせねばならぬ。芸術に於ても文化に於ても、或る時期の変化のみが、種の生活力を 保つのである。      ●古典主義  昔はそこに一代の栄華があった。けれどもいま此所にあるすべてのものは、古き年代の ために錆びついている。その屋根は傾き、金箔を|剥《は》げ、石には苔むし、昔の花やかな絵巻 物は、寂びて色あせたものに変っている。私は歴史の向うに、過去の「実に有りし時」を しのぼうとして、心の中に色彩を塗り、金箔を新しくし、そして風景から、すべての古き 錆を磨り落した。 「おお、此所に昔の有様が浮んで来た!」  けれどもその時、私の幻想を抹殺すべく、一つの甲高い声が叫んだ。 「止めよ!」  その友の声が言った。 「何という殺風景ぞ。この床しき古雅のものから、だれが苔を落そうと考えてるのか。君 等。度しがたき俗物!」   (註。古血圭義の本質は、その古きものがかツで有りし、昔の実有相で見るのでなく、そ   の古きものが現存している、年代の錆びついた風情に於て、古雅を愛玩するのである。 故に例えば、今日万葉調の歌を作る人々は、上古の万葉歌人が本質していた、当時の 素朴性や自然性を真似るのでなく、それの古雅な古い言葉を、年代のついた錆で愛し ている。)      ●悲劇の意向  人間の臆病さは、像心しさから目をそむけて見ないように、悲劇の実心庶匠について目 をつぶって居る。それの実体には手を触れないで、周囲の環境から原因を探り出す。それ によってあらゆる不幸が、自分自身の中に内在するのでなく、周囲の社会や制度やの欠陥 に帰せられる。丁度世の母親たちが、子供の|瘤《こぶ》の責任を柱に帰し、柱を打つことによって 泣く児を慰めようとするように、我々がまたそれで慰められ、環境への怨恨や復讐から、 自分自身の傷ましい苦痛を忘れてしまう。何よりも自分自身が、悲劇の実の原因でなく、 責任を持たないということからして、自由の満足が感じられ、善い児になって居られるの である。  概ねの悲劇作者が、かくの如き人生を観望して居る。彼等は故意に、または無意識に、 悲劇の主題を|主人公《ヒ ロヨ》自身から切り離し、不遇な社会的環境の中に筋を求める。それ故に劇 が面白くなり、実際には単調で味気なく厭やな苦悩に充たされた人生が、一の花々しき、 悲壮感の詩に充ちたる、無限にドラマチックのものに変ってくる。かく悲劇そのものすら が、 人生の陰惨から目をそむけて、 読者を救おうと企てている!      ●通人文学II悪趣味なる 「文学に於ける|通《つう》がったもの」が、|屡《しばしば》≧我々の文壇で、小説家等の心境を支配している。 彼等の誇りは、自分が人生の達人であり、何事も知り尽しているところの、経験の大家で あるという自負心にある。それからして彼等は、人生のどんなことに関しても、真面目に なったり、熱情したり、感傷的になったりする事を、恥かしく子供らしい証跡と考えて る。「どうせ浮世のことは」と、彼等の文学意識がいつも言ってる。「何もかも解りきって る。だが私としては、こうも書いて見た迄さ。」  いかに我々の文学が、彼等の悪趣味によって害悪され、精神を亡ぼされてしまったか。 一つの重大なる悲惨事は、それによって芸術が成立さるべき、真の本質的なる人生熱情そ のものすら、尚且つ稚気として、非通人なる「野暮のもの」として、文学の胚子の中から 抜き取られ、洞らされてしまったことである。 ●詩人と外国語  外国語を学ぶことの危険は、ニイチェによって指摘された通りである。即ちそれは「母 国語の|精《こま》やかな言語感覚の根に置かれた斧」であり、「その感覚はそれによって癒しがた く傷つけられ、打ち滅ぼされてしまう。」それ故に「最も大なる文章家を生んだ二つの国 民、即ち希臘人と仏蘭西人とは、何等の外国語を学ばなかった。」のである。  さればこの危険に対する、|就中最《なかんずく》大の警告は、国語の微妙な感覚的生活に創造の意義を 見出す人々、即ち詩人に向ってあたえられねばならない。ニイチェの例証した如く、古代 に於ける希臘人と、近代に於ける仏蘭西人とは、単に文章家として優れて居たばかりでな く、詩人として最も傑出した作家を出してる。そしてこの二つの国民は、母国語の外の、 どんな外国語をも軽蔑して学ばなかった。東洋では、古代の支那人がそうであり、すべて の外国語を蛮音として軽蔑した。そしてまた実際に、彼等の詩文だけが傑出して居た。日 本にあっては、支那の漢語から深く学ばなかったところの、国粋の純な和学者だけが、歌 人としての美しい調べを残した。  かく一般について言われることは、個人についても同様である。西洋の詩壇を見ても、 日本の現在する詩壇を見ても、概して多くの善き詩人は、外国語に対する素養を欠いで る。一般の場合を言えば、外国語に得意を感じている詩人は、丁度それだけ、母国語に対 し、感覚を欠き、言語の|精《こま》やかな触手を持たない。(英語や、独逸語や、仏蘭西語やを得 意とする詩人が、翻訳としてすら、いかに拙い日本語の詩を書いてるかを見よ!)より少 なく外国語を知ってる作家は、それの逆比例に於て、丁度それだけ日本語の詩を巧みに作 る。そして絶対に、全く外国語を知らない詩人は、いつでも母国語の詩人として、天才的 にすぐれた言語を所有している。稀れなる例外を除いて言えば、西洋でも日本でも、この 事実は常に同じである。  しかしながら今日では、事情が外国語の学習を強制する。我々の詩人ですらが、西洋の 思想を直接に受け入れるべく、あえてそれを学ばなければならなくなった。それによって 我々の詩は、未来に益≧悪くなり、言語の雑駁なものになるであろう。現に明治以来の新 しい詩は、古来の和歌や俳句に比して、国語のデリケートな味覚を欠き、甚だしく概念的 に翻案化された、粗雑の非芸術的な文学に堕してしまった。我々の不幸な詩人は、学校教 育の強制された語学のためにも、母国語の詩的表現を傷害されてる。 ●芸術的神秘思想  科学的認識がその証明を投げたところに、かれらの霊体の実在を信ずるものは、普通に スピリチストと呼ばれて居る。しかしながら我々の芸術的スピリチストは、必ずしも彼等 と同一でないだろう。我々の象徴詩人や神秘詩人は、そうした霊体(神や幽霊)の実在 を、彼等の如く単純には信じていない。我々はそれを信仰㌻劣でなく、むしろ美的幻想 のイメーヂとして、芸術的に空想するにすぎないのである。  一般に芸術家等は、宗教家やωロ鼻耳の如く、それほど非理性的な人物ではない。     ●如何にして大家は技巧に熟達するか  人が文学者になる動機は、通例、創作慾に駆られてである。何よりも彼等は、書きたく てたまらないのであり、書くべき、また書かねばならない、さように多くの題材と動機を 持ってる。しかしながら世間は、ずっと後になるまで、彼の存在を認めてくれない。丁 度、彼が認められ、原稿が売れ出した時、丁度その時、もはや彼の宝庫が空しくなって る。既に既に、彼は「重要なもの」を書きつくしている。しかも一方からは、しきりに需 用が要求してくる。そこで彼は、殆ど空しくなった蔵の中から、強いて何物かの残物を探 し出す。同時にまた、それの貧しい材料から、読者の退屈をまぎらすために、技巧上の細 工について、もっぱら練習を始めてくる。  かくの如く、すべての職業的文学者がそうである。これによって彼等は、必要から、技 巧の名人になってしまう。      ●無用の情熱  芸術に向って、その「用」を問うのは、若い青春の男女に向って、情交の用を問うよう なものである。  性慾と創作慾とは、人間の二つの強い情熱。しかしながら共に燕吊介情熱である。 ●真実から離れて 自然の「真実」を描くということが、もし芸術の目的であるならば、女に女のモデルを 描かせ、男に男のモデルを描かせなければいけない。その反対は禁じられる。なぜといっ て、もし男が女の絵を描くならは、自然の要求からして異性のあらゆる特殊な魅惑Il豊 満な腰の肉づきや、優美な股の曲線や、むっちりとした乳房や、胴のエロチックな丸味 や、その他の女らしきすへての媚態と艶めかしさ  のみを採り、ただその占'だけを誇張 して描くであろう。特に天才にあっては、誇張が一層ひどく露骨にされる。げに我々の知 る如く、男の画家によって描写された婦人の像は、何等現実のものでなくして、全く芸術 上に理想化したもの、異性の情慾と趣味を飽満さすべく、その点で婦人を誇張したものに 外ならない。  一方で婦人の画家たちは、モデルに対してずっと忠実であり、つつましやかの態度をと ってる。婦人の描いた女の画像は、男子の常に描くそれのように、決してそんなに誇張さ れた、盛りあがった豊満の乳房を持たない。それほどに肥大の腰や、それほどにエロチッ クな胴を持たない。そして全体に写実的であまり|藍惑的《こわくてき》な美を強調せず、軟弱で力が無く 感じられる。即ち実際に、現実の女性がある如く、その如く正直に描写している。  かくの如き本当の写実主義は、しかしながら何人にも悦ばれない。何となれば、それが 単に「事実」であり、そしてその故に、全く以てつまらない存在にすぎないから。より偉 大な芸術品は、事物の深遠な価値を教える。しかしながら真実ではなく、より真実から遠 く離れて。 ●春眠情調  日本の詩歌、文学なとに特有なる、あの一種の春眠情調-小春日和の縁端なとに於け る、|白昼《まひる》の|長閑《のど》かな眠たさや、自然のあらゆる風光に対する、のんびりした惰眠の情調な と。1は、生理上の原因による、民族の体質に事情している。疑もなく、米食の結果て あり、ビターミンBの欠乏によるのである。実験によれば、それの欠乏が動物を|物倦《ものう》げに し、|獺惰《らんだ》の夢を好むようにする。支那、印度の米食民族に於ても、この事情はほぼ同一で あり、詩文や音楽やに、特別の長閑けき情調を感じさせる。  最近、我が国の青年間に於ける、肉食の甚だしき嗜好は、体質の改良と共に、芸術の血 液にすらも、国粋のものを失おうとしている。 ●大家等の意見 食物の本来の目的は、生命の支持であり、その目的から、 ころで芸術の本来の目的とは? 何人もそれを論証し得ず、 それの価値が評価される。 論証し得ても根拠がない。 そと れ故に吾人は、すべての芸術的議論を反駁して、彼等の独断にすぎないことを指摘し得 る。しかもかくすることによって、吾人自身の無根拠が、一層また残酷に指摘されるであ ろう故に、吾人はしないのである。 ●功利のための芸術  真理が何のためになる? 徳行が何のためになる? 俗衆の問はいつもこれだ。ため に! これが彼等の条件であり、何等かの意味で実利に役立つということなしには、事物 の意義を理解し得ない。もし徳行が、それの陰徳によって報酬されないならば、徳行の必 要がないと民衆は考える。真の道徳ばそうでなく、道徳それ自身のために|撮在《げんざい》し、真理は 真理自身のために在るということ。すべて存在に於ける無上価値が、物それ自体の中に意 義をもつピいうことは、ずっと|高遠な思想に属していて、俗衆の浅薄な頭脳1おまけに 算盤で凝り固まってるー1では、水遠に理解することがてきないのである。それからして 民衆は、いつでも第二義的な者を歓迎し、第一義的な者を敬遠する。たとえば真の発見あ る科学でなく、それの利用法を主とするところの、末技の応用科学が喝采される。真の良 心ある哲学Il哲学のための哲学1ではなく、政治家や、国家主義者や、時にはまた革 命家や社会主義の御用をつとめる、似而非の論弁哲学が悦ばれる。なぜといって後者は、 それが国家のためになったり、平民の利益のためになったりするから。  かくの如く芸術がまた同様であり、民衆によって常に説明を求められる。「芸術が何の ためになる?」それからして人々の知る如き、多くのもっともらしきこじつけが考案され た。曰く「社会のための芸術」「人道のための芸術」「プロレ夕リヤのための芸術」など。 民衆、特に「教養ある俗物」が、それの説明で満足し、初めて芸術への理解と尊敬とを持 ち得た。そうでなく、もし芸術が真理や至善と同様であり、美それ自体の意義の中に、そ れ自身の高貴な目的を持ってること、即ち芸術は「芸術のための芸術」であり、その他に 何の功利的な目的を持たないことを、大胆にはっきりと言明してやったならば、俗衆は芸 術の意義を理解し得ず、それ故に何の尊敬も持たないだろう。かくの如く、人生に益する ところなく、無用の賛物にすぎないものを、彼等の習慣によって軽蔑する。そして昔そう であった如く、今日でも芸術家が、社会の低い地位に置かれねばならなかったろう。  近代に於ける一の啓蒙運動は、実に芸術功利主義の高唱だった。到るところに、吾人は その「ために」の声を聞き、民衆教化や人類利福のためになる、芸術のありがたいお説法 を聞かされた。そしてその時以来、皮肉にも我々芸術家の地位が高められた。聴け! 我々の小賢しき民衆は言う。かばや今日かば、芸術が単か々芸術のための芸術でなく、社 会教化や民衆運動のための芸術であると。 ●方便としての欺隔  子供たちは、宝石の実の価値を知らない故に、土塊と同じにしか考えない。けれども何 人が、子供の単純な理解に対して、物価の経済的原理を説き、宝石の貴重な価値を教えよ うと意志するだろうか? 子供等に対しては、単に宝石が宝石であり、土塊が土塊である 故に、貴重にせよと強うれば好い。もしくはまた、宝石が食いつくであろう故に、粗暴に するなと教えるのである。  芸術の実の価値が、同様にしてまた方便から、無智の民衆に説かるべきだ。彼等がそ血 を軽蔑し、土塊としての冒漬や悪戯をしないように、欺いて価値を教え、社会のためにな "ことを、童高く説教してやらねばならぬ。かくて必要から、我々もまた芸術功利主義の 誰弁を認める。 ●芸術のエルサレムへ!  上古に於て、芸術は帝王の偉業を記念し、栄光を讃えるための創作と考えられた。実際 にまた当時の芸術の異彩あるもの1例えはエンプトやアラヒヤの大建築なとーは、こ の目的からして創作された。羅馬時代に至って、芸術は政治上の目的から考えられた。多 くの教養ある羅馬人等は、雄弁術の練習として詩を習った。彼等は政治家として演壇に立 ち、抑揚のある弁舌で聴衆を魅惑すべく、その目的からのみ詩を稽古した。そして当時の 詩人等は、ひとえにこの目的から創作し、雄弁術の師匠として生活していた。  中世期に至って、芸術は基督教の奴隷となった。すべての美術や音楽やは、ただ神の栄 光を順揚すべく、宗教心の崇高な情操を高めるために、教会の布教として創作された。こ れが下って近代となり、国家的帝国主義の時代になっては、芸術が新しき文化意識の下に 移され、国家の繁盛と民族の栄光を誇るために、帝室劇場や国立美術院の広間の中で、国 旗の名誉ある表象として展覧された。もっと近く、さらに、資本主義の全盛する今日で は、芸術が大衆の興味のために、資本家の功利的打算からして、創作を強いられねばなら なかった。ところでこれがまた一方では、資本主義に反対する共産党の運動から、芸術が 無産階級者の代弁として、革命運動の情熱を鼓吹すべく、イデオロギイの目的意識で考え られてる。それらの人々の立場で見れば、芸術は革命の戦争にまで、軍隊太鼓として打ち 叩かれる道具にすぎない。  かくの如く芸術は、歴史の長い間を通じて、いつもその時の時潮に属し、権力への隷属 として、目的意識への隷属として取扱われた。我々の虐たげられたる芸術は、かつて過去 の歴史に於て、一もその独立を持たなかった。我々の創作は、時に帝王のためであり、時 に宗教のためであり、時に資産家や階級闘争のためであり、そしていつも何物かの「た め」にする、無力な隷属物として考えられた。しかしながら芸術は、過去のそうした不遇 にもかかわらず、尚且つその実の本質では撮然たる独立の精神を一貫して来た。今日すべ ての人々はそれを知ってる。中世期の教権によって描かされた画家たちが、いかにそのマ リヤの像を、真の基督教から遥かに遠く、全く神学によって隷属されない、独立の芸術と して描いているかを。同様に上古の芸術家等が、帝王の権力によって命令せられ、王徳の 讃美を強いられながらも、人の知らない芸術の秘密部分で、全く命令を無視したところ の、真の「芸術のための芸術」を創っているかを。そしてまたその故に、今口帝王や教会 の亡びた後でも、尚且つそれらの芸術品が、芸術としての価値に於て、永く不易に残って 居るのだ。  昔も今も、おそらくは尚未来に於ても、芸術は尚迫害され、時潮によって社会に隷属さ れるであろう。芸術が真に「芸術のための芸術」として、それ自身の意義を認識され、真 の独立した王国を建て得る日は、おそらく望みがないだろう。我々の芸術家は、いつでも 帝王や国権の奴隷として、もしくは商業や政治運動の奴隷として、卑賎に身売りをした売 節漢で、|帯間《ほうかん》としての卑屈を忍ばねばならないだろう。しかしながら何物も、ひそかに 我々が節義している、真の芸術家の高い気概と、その内密のヒューマニティとを殺し得な い。すべての時代の芸術家等は、あの隠忍不抜の猶太人が持ってるところの、独立王国へ の強い意志を、ひそかにその内心で把持しつつ、彼等の属するすべての時代に、無意識の 不満と叛逆とを向けてるのである。 ●欧羅巴の郷愁  我々の芸術は1文明と同じく1南国の熱帯地方に起源した。それから地球の緯度を 越えて、次第に温暖の地方に移り、今や北国の寒く|暗潅《あんたん》たる方へ移動している。実に近代 の芸術は、その思索的なことに於て、暗く憂欝なことに於て、北欧的な特色を高調してい る。自然主義以来、あの南欧的な明るいもの1官能の享楽や、色彩の強い刺激や、陽気 て無邪気なヂレソタンティスムや、葡萄酒に酔ってる浮れ心地の音楽やーが、すへて 我々の文芸から消えてしまった。我々はだれも、皆が独逸人のように冥想的で、露西亜人の ように憂欝になってしまった。そして一般に、北国的な暗い空が我々の季節を陰気にした。  少し前まで、我々はだれもそれを信じて居た。文明の推移と同じく、文芸の推移に於て も、我々は「南から北へ」と、その宿命された緯度を渡って移って来た。もはや再度、 我々は南へ帰ることは出来ないだろう。今日に於て、我々は北方的な芸術に居る如く、未 来に於ても、益ζ氷山に近いところの、もっと寒烈な地方に移るであろう。しかもどんな 未来に於ても、再度南方に帰る日は来ないだろうと。  この「南方への回想」は、しかしながら或る人々を寂しくさせた。なぜなら彼等は、初 めから南欧人の血脈に属していて、文芸の推移に於ける、そうした旅行を好んでは居なか ったから。むしろ彼等は、運命の手に引かれて、心ならずも隊商と行動を共にしていた。 絶えず彼等は、その意識の潜在する下に於て、南方への郷愁に悩んでいた! 然るに今、 地球の氷河時代は過ぎ去り、不意に新しく、思いがけない春の再生が訪れて来た。アメリ カ! あの新大陸からその潮風が匂って来たのだ。  アメリカ! その新しい世界のものは、すべてに於て官能的で、陽気に明るく、強い色 彩に富んで居り酔っぱらいの馬鹿騒ぎで底なしのヂレッタンティズムに精神している。ア メリカ芸術! それこそは実に欧羅巴が失っていた、あの南欧精神の新しい回復ではなか ったか。見よ!仏蘭西人が初めてジャヅバンドを聴いた時、どんなに有頂天になって悦 んだか。あんなにも久しい間、独逸的な暗い思想に幽囚され、北方風の文芸思潮に引きず られて居た仏蘭西人、いつも南欧への郷愁に悩んでいた仏蘭西人が、あのジャヅバンドの 強烈な一撃から、いかに魂の健康を回復し、底ぬけになって乱舞したか。そしてその時以 来、すべての仏蘭西文芸は変ってしまった。彼等はアメリカによって解放され、そして彼 等の仇敵独逸に対する、芸術上の復讐を新たにした。  しかしながらアメリカはーアメリカ的のものーは、実際に南欧精神への回帰でな く、むしろ一の野蛮的なる、若々しい元気に充ちたところの、傍若無人の新精神であるか も知れない。そしてまたそれ故に、あの文明の欄熟から、頽廃的にまで老衰した欧羅巴 が、刺激のつよい原始色のエキゾチズムと、その海を越えて来る新世界の感情とで、彼等 の情熱を呼び起され、新生命への若返りをしたのであろう。ともあれ仏蘭西と欧羅巴と が、今やアメリカによって征服されている。文芸の推移に於ける、我々の旅行の緯度は、既 に「南から北へ」でなく、意外な思いがけない方角にまで、磁石を狂わしているのである。 ●反性格と自然性格  或る芸術品は、しばしば反性格と呼ばれている。例えば猫のように柔和であり、温順で 気の優しい人たちが、しばしば芸術上では兇暴であり、獅子のように猛々しく砲障する。 或は罪に誘惑され易く、不品行の生活に沈倫している詩人等が、極めて高節の聖者を慕 い、マリアヘの讃詩を書いたりする。そしてまた或る者等は、平生申し分なく謹厳の生活 をして居ながら、作品上では好んで悪魔的な乱淫非行を書いたりする。  こうした反性格の表現は、一般に特殊的のものと考えられてる。しかしながら実際に は、殆ど大部分の芸術に共通しており、むしろそれが芸術の本質とも考えらるべき、普通 の有りふれた範疇にすぎないのである。第一にすべての宗教芸術が、所謂反性格の表現に 属している。なぜなら円満具足せる神や仏の象形は、欠陥多くして不完全なる人間によっ て作られているから。しかも人間が自己の随劣を知り、罪深くして不完全なることを知れ ば知るほど、逆にいよいよ崇高完美な神像が創作される。即ち最も非神格的な性格から、 最も矛盾反対したものが表現されているのである。  すべての所謂反性格の表現が、この人間によって意欲される神格の表現と、同じ一つの 動因によって出発している。即ち自分自身の性格にないものを、他によって憧慣し、意欲 し、イデアするところから、それの完美した創作が求められる。しかしながら自分自身に 無…か介を、どうして我々は創造し、自分で生むことができるだろうか?決してどんな 場合にも、無から有は生じ得ない。我々は単にそれを欲し、願うだけの情熱から、樹上の 果実を所有することができないのである。実に自分に無いものから、我々は一つの芸術を も創作し得ない。もしあの希臘人等が、彼等の性格のどこの隅にも、調和や均斉の取れた 完全がなく、アポロの端正とヂオニソスの情熱を持たなかったら、どうしてあれほどにも 完美端麗なる、神々の諸像を創り得たか? そしてまた一般に、素質の純粋な悪人や不徳 漢は、決してどんな神像も創作し得ない。耶蘇や仏陀の聖像を刻む人は、多少おそらく神 格に類するものを、性格のどこかに素因しなければならないだろう。  では反性格の表現とは何だろう? どこにその実因があるだろうか? これを我々は、 しばしば或る飲酒家について見るのである。平常全く温厚の人物であり、いつも内気では にかんでいるような人たちが、飲酒によって性格を一変し、度しがたく兇暴の人物になっ たりする。人々はこれを称して、酒が人物を変化させるという。しかしながら|酒精《アルコール》が、 真に人の性格を転換させるほど、それほど不思議な魔力を持ってるだろうか? 酒乱によ って野獣的になる人々が、平常に於て真に温厚の人物であり、その気質的要素のどの隅に も、全く獣的な野性を持たなかったろうか?もしそうだとすれば、|酒精《アルコール》によって奇蹟 が起り、無から有が生じたのである。そんな不条理は考えられない。事実を言えば、酒に よって兇暴になる人々は、その生れついてる血脈の素質の中に、彼の親たちから遺伝され た、充分の野獣的本然性を持っているのだ。しかもその本然性は、彼の理性や道徳感や、 及びそれに反対する他の内気やはにかみやの気質によって、平常性格の下に抑圧され、行 為への表出を妨げられている。たまたま彼は飲酒によって、すべての抑圧から解放され、 生れたる本然性を暴露したにすぎないのである。故に自然的なる性格は、いつも酒に酔っ た場合での彼に属する。平常の性格者は、一の克服されたる、社会的責任感によって道義 化されたる、不自由に礼服したる人物にすぎないのである。  芸術上に於ける反性格の表現が、これと同じ事情に外ならない。我々はそれを性格して 居り、素質して居りながら、しかも事実上に所有することのできない、多くの不自由の者 を知っている。実に我々の実生活は、社会の煩項なる様々の習慣  道徳や、儀礼や、見 栄や、外聞や、董恥心や、法律やーて束縛されてる。真の意味て「自由」と言わるへき ものは、我々の現実生活には一つもない。それ故に我々は、いつも願わくば酒に酔ってる 時の如く、一切の約束から解放されて、本然のままの|自我《エゴ》そのものを、自由に表現したい と思うのである。そして実に、此所に我々の「芸術」が生れてくる。即ち人々は、芸術の 中でのみ自由であり、彼の所有したいものを所有し得る。  或る多くの芸術家と芸術品とは、一般にこうした動因から出発している。彼等はその表 現に於ての自由人で、実生活に於ての不自由人である故に、その平常に於ける見かけの人 物と創作品とは、多くの場合に矛盾して居り、一致しがたい反性格の感をあたえる。然る にまた一方では、これと全く種類の異なる、他の別派の芸術や芸術家があり、決してまた その数がすくない。実に是等の人にあっては、その性格と人物とが、見かけの上にも内実 にも、真にぴったりと一致している。彼等にあっては、いつも日常生活で行為している如 く、丁度その通りの人物を、芸術や思想の上で表現している。何となれば彼等は、初めか ら抑圧された自我の意識を持って居ない。自我は彼等に於て、いつもその日常生活に於け る如く、自由に解放されてるものであり、何の障害もなく克服もなく、素質的に所有され ているのであるから。即ち彼等は、先天的にその自由を有するところの、生れたる自由人 の種属である。  一方でこの自由は、他の反性格の作家にとって、初めから所有されないものである。彼 等はそれを持たない故に、常に自由に対して熱情し、自由への解放を絶叫している。即ち 彼等の芸術は、彼自身に対する叛逆であり、併せて社会に対する叛逆である.、然るに一方 の種類に属する芸術家等は、初めからその自由を所有して居り、自我が自我に満足されて いる故に、そこには解放への要求もなく、自由に対する絶叫もない。彼等は「自由を求め る人」ではなく、実に「自由そのもの」を所有しているところの、真の自由人に属してい る。故に彼等の芸術は、美の創作によって自由を享楽しようとするところの、真の芸術的 精神の表現であり、創作自体に自足の逸楽をもつところの、正しい語義での唯美主義に属 している。  すべてのあらゆる芸術家と芸術品とは、大体この二つの範疇に分属される。一般に主観 主義的なる芸術系統(浪漫派や、人生派や、悪魔派や、情緒派や、プロレタリア派や) は、前者の反性格に属して居り、他の客観主義的なる芸術系統(自然派や、写実派や、心 境派や、唯美派や、新感覚派や、形式派や、古典派)は、概ね後の性格に属して居る。文 学上に於ける傾向として、この前の者は「意欲する芸術」であり、後の者は「観照する芸 術」である。前の者はイデアを掲げ、後の者は現実を視る。一は人生に向って絶叫し、一 は人生を鏡に映し、静かにその実相を描こうとする。 ●新時代への反動として  芸術が、単なる娯楽であってはならないという理由は、決してどこにもないのである。 日本の江戸時代の浮世絵画家や戯作作家は、初めから大衆を対手にし、通俗の興味を狙 い、卑下した芸人根性のさもしい心で、流行狂言のキワモノ趣向や、半ば淫本的なる卑狼 の筋やを主題にしていた。明白に言って彼等は、芸術を娯楽以上のものとは考えなかっ た。だが今日の批判からみて、歌麿や西鶴やの江戸芸術が、本質的に低級であるという鑑 賞はどこにもない。却ってその或る物は、我々の時代の芸術よりも、ずっと高い評価で買 われて居り、世界的にさえ傑出して居るのである。  にもかかわらず、我々の時代の或る作家等が、その道学者めいた観念を持し、今日の時 代の世潮に向って、尚声高く叫んでいるのはどういうわけか? けだしこの思想の本体 は、芸術に対して或る厳粛なる、貴族感的なる、叙事詩的なるものを要求しようとすると ころの、一種の芸術的ストア主義にもとづいている。それは芸術をして、卑俗な町人文学 の|賎《いや》しい興味や、通俗的な生ぬるい娯楽でなく、もっと心を厳粛に緊張させ、或る峻烈な ものを感じさせるであろう所の、貴族感的山頂へ導こうと意志するのである。そして我々 は、この芸術上のストア主義を、普通に「芸術至上主義」と称している。  この芸術至上主義は、今日最近の思潮に於て、明白に反動思想と考えられてる。なぜな ら世界の新文化は、新興アメリカの感化によって、現に著るしくデモクラシイに傾向し、 ストア的の貴族主義は、世界の到るところに排されてるから。そしてまた同様に、芸術も 著るしく娯楽化し、ジャヅバンドの茶番じみた音楽と、駄洒落の機智を悦ぶコクトオ流の 好情詩と、黄表紙風のふざけた遊戯小説とで、地球の到るところが舞路しているから。今 やアメリカニズムの新世紀は、その町人的なる無学と、生理感的なるエロチシズムと、駄 洒落や機智を悦ぶナンセンスとで、奇蹟的にも日本の江戸文化と固く符節し、同じ戯作家 主義の芸術で本流されてる。  かくの如き新時代は、明白にそれを主張している。芸術は娯楽でなければならないと。 我々はそれを知ってゑそして尚自らその新時代への反動を意識している。しかもその反 軌む悦ぷ改に、決してあえて芸術至上主義を捨てないのである。      ●一つの空虚  芸術家等は、しばしばその性格を持たないところの、単なる「輿論の器物」であるにす ぎない。      ●断崖に立ちて  今日では、芸術そ心かnが時代遅れになろうとして居る。      ●誕弁家l好意的に解釈して  誕弁と逆説とを区別せよ。逆説とは、真理の証明法を反対にし、人の常識の意表に出で て、奇警に弁証する方法を言う。(例えばソクラテスやニイチェなどが、その道の大家で あった。)  論弁とは何だろうか? 誕弁とは自分でウソを知り、ゴマカシを感じていながら、何等 かの目的や手段のために、強いて理窟をつけ、巧妙に論理を組み建てる者を言うのであ る。ところで今、どこに論弁家が居るだろうか?  明治の新しい政府を作った、あの幕末の志士や思想家やが、明らかに誰弁家の一群だっ た。だれでも彼等の革命主義者は、心に開国の必然を知り、新日本の世界的進出を知って いながら、倒幕手段の方便として、自ら信じない尊王懐夷を高唱した。同様にまた今日の 社会主義者等が、芸術と政治との混同を誕弁して居る。彼等の中で少しく聡明な人たち は、だれでもよく知り切って居る。芸術が政治運動と別物であり、プロレタリヤ文学など と称するものが、決して実の意味では有り得ないと言うことを。しかも彼等は手段のため に、自ら知って知らばっくれ、さももっともらしく論理をつけて、巧妙に弁証法を持ち廻 っている。或はさらに、彼等の中のより功利的な人物等は、それによって文壇的の地位を 占め、文士としての進出を計るために、あえて誕弁を誰弁して恥じないのである。  一般に言って、誰弁は政治家の範疇に属している。すべての政治家的の人物等は、真理 のために理論を立てようとするのでなく、単に目的手段のために、理論を方便とするから である。しかしながら以上のことは、日本の所謂プロレタリヤ文士のために、ずっと実質 を高価に見て、好意的に解釈しているのである。彼等にして、もし論弁家ですらなかった ならば? ●夢景人物 この不思議な人物等は、 未だ現実されない世界に於て、未来に起り得るであろうところ の、或る観念の幻影(プロレタリヤ芸術)を論じ合ってる。然り! それは一つの許さる べき理想である。だが彼等の錯覚は、しばしばその「想像されるもの」を以て、彼等自身 が現在に住んでるところの、実際の世界のものと混同し、観念上に於て「有るべきもの」 と、事実に於て「有るもの」とを、無差別に一緒に考えている。  この不幸な混乱からして、しばしば彼等は得意になり、実に有るところの彼等の芸術 iそれは現在の社会に属する一般の芸術て、その外の変った何物ても有り得ない。1 を、彼等の夢の中で観念されてる、他の別世界の新芸術と錯覚する。そこで妄想から得意 になり、あだかも自分等の仲間だけが、現実の社会から超越している、特別の火星人でも あるかのように言行している。いかに! 幸福なる狂人よ! 人は認識不足からも翼が生 え、夢魔の箒に乗って天界を遊行する。 ●引力圏外の人々  我々は船に乗って居り、船の中に坐って居ながら、それの|舳《とも》を押すことから、船を前に 進ませ得ない。プロレタリヤ芸術の妄想は、現在する資本主義の社会に生活しながら、そ れの唯物的に決定されてる環境を超越して、ただ独り自分等だけが、神のように自由であ り、一切の法則の外に立って、全然別種の新しい芸術情操や、支点の異なる新感覚や新思 想を持ってると信ずるところの、馬鹿馬鹿しく狂人じみた錯覚にある。1我々の世界に 於ける、 つの最も没理性な現象である。 ●迷信教徒への鏡として  芸術は文明情操のあらゆるもの  政治や、産業や、交通や、娯楽や、家庭や、食物 や、衣服や、住宅や、人情や、時代趣味やーの一切が潭沌として具体的に統覚され、個 人の情操に反映されるものに外ならない。単なる政治組織の変化だけてーもしくは変化 しようとする観念上の意図だけて1芸術が新しく生れ換わると考えるのは、地球上の小 突起にすぎないヒマラヤ山から、宇宙の系統が出発すると考えていた、古代印度人の迷信 的痴呆に似て居る。 ●酔漢の市場に立ちて  かつて一度も哲学したことなく、それの芳烈な酔について、何の経験もなかったところ                                ジヤ、ーナリズム の少年が、或る何かのふとした動機1おそらくは輿論や、流行や、雑誌記事的命題や、 世間の騒々しい呼声やーによって、初めてそれの酒盃を手にし、トクマの熱腸的な高翔 感や、弁証論の活殺自在な論法や、それから一元的に証明し得る人生観やを知った時、い かに前後不覚になり、夢中になり、狂気じみた酩酊に捉われてしまうだろう。のみならず 彼等は、偶然その最初にふれた一つの者を、反省もなく批判もなく、宇宙に於ける唯一絶 対の大真理と信じてしまう。丁度幼ない子供たちが、彼の初めて見た旅行の印象を、地球 の全体であると信ずるように。  比喩てなく、これを日本の現状から、あの群集的妄想狂者-文学的マルキストーに ついて言うのである。かつて一度も、学校に於ても書斎に於ても、何等思弁したことのな かった青年が、今日我等を訪ねて来り、得意に唯物史観を説明し、危険な弁証論をふり廻 し、到るところに立って議論し、無邪気に熱狂して騒ぎ立ってる。「青年よ!」もっと善 き経験に富んでるところの、進歩した年長者の意見はこうである。「初めに飲んだ酒につ いては、後に健康を害せぬよう、君等の酔態を警戒せよ! おそらくはアルコールが、朝 になって嘔吐させ、恥かしく、耐えがたく思うであろう。」 ●プロレタリア芸術  そのあらゆる稚態と、愚昧な認識不足にもかかわらず、所謂プロレタリァ芸術の情操感 には、或る一つの純瀞か心介が本質している。すくなくとも彼等は、日本の既成文壇が持 たないところの、芸術の正しき精神を掲げている。その点で彼等は、我々の去勢された文 壇を改造すべき、一つの芸術的ヒューマニティを暗示している。おそらくは文壇が、それ によって革命され、次の時代に移るだろう。  しかしながら革命は、彼等の意識に現存している如き、そんな愚劣な馬鹿馬鹿しい概念 ーフルンヨア芸術からプロレタリア芸術llへの推移ではなく、過去のあまりに鎖国的 で、あまりに封建的であった日本の特殊文芸が、より近代的な世界文芸の線上にまで、水 平に浮び出して来るであろうための、正しい芸術的精神への推移である。明白に、常識的 に、だれにでも解りきってることは、プロレタリア芸術などという観念が、事実上にも論 理上にも、笑止な稚気に類する妄想の外、有り得ないものだと言うことである。(同様に また、ブルジョア芸術などいう名目も実在し得ない。)  すべてそうしたことは、少し後になってみれば、だれの常識にも明白であり、物笑いの 種にすぎないだろう。今日文壇で言われる如き、すべての馬鹿馬鹿しい愚劣の名目は、そ れの名目上の存在として、正に近き未来に亡びてしまう。ただしかし、今日の或る「若き 文芸」が主張しているところの、一つの世界線上の精神と、その熱誠にして純潔なものだ けは、過去の文壇を改造して、未来の新しき建設を生むであろう。そしてこの芸術的新精 神は、今日のような蒙昧ではなく、他の新しき別の名前で、芸術上の流派と呼ばれるよう になるかも知れない。しかもその本質上に於ける貴重なものは、今日の所謂プロレタリア 文学者等が、自ら自覚上に意識して居ないものであり、意外の深いところに潜んで居る。 後になってみれば、彼等は霧の深い闇から出て、自分の居る所に驚くだろう。(著者はこ の書物を、すくなくとも十年後の読者のために書いているのだ。それよりも若い読者は、 むしろ読まない方が好い。) ●地球の地軸に近く居るもの  地球の自転は、その外円の地表に於て、すばらしい速度を以て廻転している。けれども 地球の内部に於ける、地軸の中心に近いところは、ずっと静かに廻転して居り少しずつ動 いて居る。同様に我等の社会も、その表面的な現象として、目まぐるしき流行の変化をす るにかかわらず、文化の情操する本質点では、徐々に少しずつ、ゆっくりと廻転してい る。(明治維新からこの方、日本のあらゆる社会的急変にかかわらず、日本人の一般的文 明情操が、今日尚いかに封建的であり、昔彼等の居た位地から、ほんの僅かしか動いて居 ないことを考えてみよ。そして彼等のハイカラやモダーンぶりが、その精神とは関係な き、表皮の外観様式にすぎないことを再考してみよ。)  一般に事物の本相は、属性的のものほど表面に居り、本質的なものほど内面の地軸に居 る。故に属性的なものは、常に馳け足を以て走り、目まぐるしく流行変化して行く。本質 的のものは静かであり、徐々に少しずつしか動かない。けれども緯度の角度に於て、両者 の関係は同じである故、地軸に於ける一度の動きは、外周的なものに於て、数百里の空間 に当るであろう。外周的なものが、それを馳け足で走っている時、地軸の内部に居る者等 は、静かに少しずつ、しかもその同じ距離を、完全に移動しているのである。  かく芸術や思想の上でも、すべての属性的な軽薄者流と、真の本質的な天才者とが同じ 関係で動いている。本質的な人物等は、常に時代思潮の内部に居り、地軸に最も近いとこ ろで、事実の第一義感を把握している。彼等もまた、もちろん「時代と共に」動くであろ う。しかしながら徐々に、少しずつ、本質的な根本点で動いている。反対に浮薄な者等 は、常に馳け足で時代の流行を追いかけて居る。彼等にあっては、何よりも新奇であるこ と、流行であることが得意である。昨日あったばかりの者は、既に今日に於て古いと言わ れ、過去のものとして軽蔑される。しかも彼等自身、本質に於て新しい何物も|掴《つか》んで居な い。彼等は走馬灯の人物であり、時代思潮の属性的な表皮ばかりを、空しく風のように馳 け廻って居る。                 ジヤ、ーナリズム  真の芸術家や思想家等は、そうした雑誌記事的命題を閑却している。そうした属性的の 意味に於ける、新しい問題や思潮に対して、彼等は全く冷淡であり、いつも風馬牛の態度 を取っている。しかもそれらの時代思潮が本質している、真の根本的な情操感で、ずっと 深く内面から動いている。それは地球の表面を走る者等が、百里の距離を走るよりも、ず っと遠い距離を動いている。それ故に彼等は、どんな時代思想家でもなく、流行のジャー ナリストでもなく、表面的には他奇のない文学者でありながら、本質上には真の時代情操 を持ってるところの、最も新しい芸術家として、いつも文化の先導に立って居るのだ。諸 君の常に見ている如く、多くの一流の文学者や芸術家等が、いつも時潮の外に超然とし、 大家の堂々たる態度に於て、その範疇に属している。      ●日本の文学  日本の文学には、いつも二つの範疇しかない。「老人の文学」と、そして「少年の文学」 である。即ち一方には、情熱の枯燥し尽した、老人の閑話小説的な文学があり、一方には これと対照して、少年血気の激情に酔い、空虚な怒号や無思慮の理想に惑溺している、感 傷的の乳臭い文学がある。 「日本人の特殊なことは」と、或る外国人が評して言った。コ般に早老であり、少年期 から老年期へと、一足跳びに移って行き、早く年齢を取ってしまう。」と。同様に我々の 文学が、また少年期から老年期へと、一足跳びに変移して行く。そして両者の中間にあ り、人生の最も成熟した収穫時代、即ちあの所謂「中年時代」を通過しない。その中年時 代に於てのみ、人は思慮の深い反省と経験から、内に燃えあがる情熱の火を止揚して、真 の力強い作品を書き得るのだ。  日本の文壇と文学とは、人生の収穫すべき、最も重要な時期を通過しない。それからし て文学が、いつも永遠の「稚態」と「|老耄《ろうもう》」との外、一の成熟をも見ないのである。      ●閑人倶楽部  我が国今日の文壇は、閑人倶楽部の喫煙室にたとえられる。だれも為すべき仕事がなく ーまた何を為て好いか解らないので1皆がほんやりと椅子に腰かけ、所在なさそうに 坐っている。時々一人が思い立って、不意に何事かを言い出すだろう。すると一同が元気 づき、急にあちごちからしゃべり出して、愚にもつかぬくだらぬ議論を、暫らくの間こね 返している。それによって人々は、少しでも退屈の時間を忘れ、血液の廻っている生の意 義を、|灰《ほの》かに感じているのである。けれどもまた暫時の後では、問題の興味も尽きてしま う。そして次の話題者が言い出すまで、何を考える気力もなく、所在なさの椅子の上で、 ぼんやりと居眠りをしているのである。 ●王者の沈黙  かくの如きジャーナリズムや、文壇のくだらない雑誌記事的議事に対して、百も反駁す べき正当の意見を持ってる。だがそれを言い出すことで、自分もまた際物師の一人であ り、文壇の喫煙室に》むrしている、時評的小人物の一員にすぎないことを知られる故 に、自分は断じて黙するのである。 ●床ずれのした文学  西洋の自然主義は、多血症によって乱心し、デカダンの神経衰弱に沈溺した。日本の自 然主義は、反対に貧血症から失喪して、ぐうたらな嗜眠病にとり|愚《つ》かれた。そこで西洋の 文壇では、|臭剥《しゆうぽつ》やカルモチンやの鎮静剤が、今日ある如き軽文学の処方によって、適宜に 投薬されねばならなかった。日本の文壇では反対であり、彼等を嗜眠病から呼び醒すべ く、葡萄酒やウヰスキイやの興奮剤が、充分に投薬さるべき筈であった。にもかかわら ず、我々の投薬者たるべき新進作家が、文壇の沈滞した空気の中で、大家と一緒に眠って しまった。そして嗜眠病者の枕を並べ、新感覚の香水などで、文学の皮膚を痒ゆくして居 る。文学それ自体が寝床の中で、|皮癬《ひぜん》を患って居るのである。 ●里程表の前に立ちて  日本の文壇に於て、浪漫主義や自然主義が、かつて実に有ったと信ずるものほど、咲笑 に価する愚蒙はない。それとも諸君は、尾崎紅葉をゲーテに比し、徳田秋声をツルゲーネ フだと信じて居るのか? 況んや尚且つ、それらを既に|通過《   》したとさえ|自惚《 うぬぽ》れてるのか? ●心配無用  芸術は、時代の反映された鏡である。中世の芸術は、中世の社会を反映し、近世の芸術 は、近世の社会を反映する。そこで芸術品そのものは、もとより何の意識を持たない。そ れはいつも鏡のように、光線の物理的反射によって、作家の時代的情操が内景している、 社会を再現しているにすぎないのである。  しかしながら芸術品は、それを鑑賞する人にまで、ちがった意味での教化をあたえる。 一般に、芸術の鑑賞者であるところの公衆は、彼等が現に生活している社会に於て、その 反映された芸術に共通している、特殊な時代的な美に溺れてしまう。そこで人々は、彼等 が現に属している時代や社会に対して、離れがたくなつかしい愛著を感じてくる。例えば エリザベス朝時代の芸術、あの粉飾と金箔の技巧を尽した、当時の宮廷礼儀風の芸術か ら、時代的の美を薫育されていた人々は、それの源泉である王朝文化を、|千代《ちよ》かけて最善 のものと思惟したろう。我が国の江戸時代で、あの特殊な文芸を愛した人々は、それ自ら 江戸幕府の謳歌者であり、徳川の政治や社会やが、いつも永遠に有ることを希望した。な ぜならその特殊の芸術は、その特殊の社会と政体の下にのみ有り得るから。そして江戸幕 府の崩壊は、それ自ら江戸芸術の破滅であり、彼等が去りがたく愛するものを、永遠に失 ってしまうことになるから。  かくの如く芸術は、結果に於て宗教と同じであり、支配者の利器である。それによって 支配者等は、彼等の人民たちを惑溺させ、その治世する社会に対して、太平と万歳を謳歌 させる。そこであの社会主義者-革命を望むところの人々1は、いま我々の時代に於 ける、我々の芸術に反感している。我々の社会に於て、現在する芸術は、すべてどんな芸 術でも、資本主義文化の情操に本質している。我々がそれを愛し、それの美について教養 と鑑賞を深めるほど、いよいよ離れがたく、我々はこの状態の隷属者になり、革命の精神 から遠いものになるであろう。「君等の芸術意識を捨てよ!」と、そこで彼等の革命者が 叫ぶのである。  しかしながら安心せよ。すくなくとも今日の日本に於て、僕等は一の惑溺さるべき、一 の魅力さるへき芸術も持って居ない。日本の現在する社会のようにーその社会の反映と してー我々の現在する芸術ほとにも、愚劣と狸雑を極めたところの、非美的のものがと こにあるか。我々はそれを愛そうとし、この支配者等の隷属者に成ろうとして、|自《みずか》ら熱心 に勉めてさえも、だれがあえて成り得るか? 何よりも日本に於ては、今日尚欧洲に於け るような、真の近代的国家がなく、したがって資本主義的なる近代情操の芸術が、一も実 在して居ないのである。女心せよ! 窒心せよ! 我々の日本人等は、尚社会王義の歯い ピごんノに住んで考え、くだらないものを芸術している。      ●新宮廷詩人  詩人はいつも、汝の権威の最高支配者i国王1に向って詩を書き、芸術を献じなけ ればならない。国王を楽しませるためではなく、国王を悲しませ、或は怒らせるために書 くのである。 ●西と東  文学に於ける爵位の階段は、西洋で次のように考えられてる。詩第一、評論第二、戯曲 第二、小説第四。これが日本では反対であり、文学に於ける最も通俗的で卑賎のもの、即 ち小説が最高の地位に考えられ、以下階段を逆に登って、上位のものほど蔑視されてる。  西と束と。地球が裏側に向き合っている、一つの著るしい好例である。 ●教師の教師  文学者等は、一般に言って民衆の教師である。しかしながら評論家(エッセイスト) は、是等の作家を指導すべく、より高い壇に立ってるところの、文学者の教師として考え られてる。だが彼等もまた、その思想への鍵と意匠を、詩人から暗示されねばならなかっ た。1詩人は教師等の中の教師てある。 ●ポオの明言  詩人がその感傷的なる|好情詩《リリツク》から、多少の意志的なる|叙事詩《エピツク》の方へ移って来た時、彼は 避けがたく坂を下って、より徹底的なるレアリスチックの叙事詩文学、即ち散文の方へ墜 ちるであろう。故に本質で詩と言うべきは、逆に韻文の方へ盛り上ってくる、好情詩ある にすぎないのである。ポオはこの点を明言した、唯一の聡明な詩人であった。 1実に詩と言うべきは好情詩のみ。ポオ。 ●早すぎる写実主義  今日の日本のような、潭沌狼雑を極めた社会に於て、真実を描けば描くほど不愉快であ り、醜悪から耐えがたくなる。芸術家がそれを自覚し、彼等のあらゆる表現様式Il映画 や、演劇や、文学やーて、いつも現代の者に|瞳《め》をそむけ、歴史の過去の時代のものや、 外国の者やを舞台に取っている。過去の新派劇と自然主義とが、独り、この点の例外者で あり、勇敢にも早すぎた|写実主義《      》から、汚臭の|糞溜《くそだめ》へ墜ちてしまった! ●美を生もうとする意志  人性に於ける善悪とは、二つの別々の本能でなく、生きんとする意志に於ける、同一の 者の反面である。故にその一方を殺すものは、他の一方をも殺してしまう。人生の光輝あ る発展は、むしろ悪をも旺盛にして、生存意欲の高潮に立たねばならない。  これがニイチェによって強説された、あの超人思想の根祇であり、同時にショーペンハ ウエルや老子によって、反対の結論に導かれた、同じ一つの真理であった。彼等の結論は 如何にもあれ、それからして我々は、芸術上に於て実証されてる、一つの明白な事実を知 る。芸術上に於ける二つの本能、即ち感傷主義と現実主義とは、美を生もうとする意志に 於ける、一つの同じ本性にもとづいている。我々の善き芸術は、拝情詩やロマンチシズム の消滅から、叙事詩やレアリズムを生むのでなく、両方の者の並行から、矛盾の統一から 生むのである。人がその恋や音楽やに溺れるところの、青春の情熱と感傷を無くしてしま えば、老衰から消滅して、茶飲話の身辺小説でも書くことの外、芸術に生きる道が無くな るだろう。反対にまた現実の実相を見ぬこうとする、レアリズムの冷酷な意志を持たなか ったら、我々はいつまでも子供であり、芸術の中学校で陶酔している、鼻たらしのセンチ メンタリストにすぎないだろう。  それ故に善き芸術は1浪漫派てあると、自然派てあると、またその他の何派てあると を問わず。1すへて感傷の中に智性を持ち、智性の中に感傷をもち、二つの矛盾から統 一されている。例えばロダンや、歌麿や、ゲーテや、チエホフや、トルストイや、ストリ ンドベルヒや。それから尚、ポオや、ボードレエルや、芭蕉のような詩人でさえがそうで あった。 ●文学の本質問題  人が自分の中に居る感傷家や、甘たるい純情家や、子供らしい|理想主義者《イデアリスト》や、熱し易い |感激主義者《パツシヨニスト》や、それから特に、言葉がすぐ韻文的に舞いあがってしまうような、詩人風の |浪漫主義者《ロマンチスト》やなどに反感して、自分の中の稚態を憎み、自分の詩人を虐殺してしまおうと 考える時、彼等は初めて一人前の小説家になり、真実の散文家として、レアリズム文学の 出発点に立つのである。  レアリズム文学の本質は、不幸にも我が国の文壇で、常に誤って考えられている。文学 者に於けるレアリスチックの精神とは、世間ずれのした俗物意識や、そんな点での経験か ら、苦労人の物解り好さを誇ることや、別してまた茶飲話の退屈さで、感動もなく熱情も なく、人生を身辺雑記的に見ることの習得でもない。文学が意味する現実主義とは、詩的 ロマンチシズムヘの反語であって、或る冷酷な強い意志から、すべての生ぬるい陶酔を蹴 り飛ばし、より寒冷な山頂へ登ろうとするところの、文学に於ける鉄製の意識であって、 言わば|好情詩的《リリカル》のものに逆説する、他の|別種《   》の|詩《 》的精神に外ならない。  それ故に文学者は、彼が本質的にセンチメンタルの人間であり、詩人的殉情のロマンチ ストであればあるほど、逆にその一方では、彼自身に反撃する冷酷無情のレアリストとし て、小説家の偉大な成功を克ち得るだろう。実際にまた、外国の多くの作家がその通りで ある。彼等のあらゆる典型的小説家とレアリストが、いかに殆ど例外なく、その若い時代 に於て純情の詩人であったかを見よ! 後に小説家となってからも、その描写のあらゆる 確実な現実性と、残酷にまで意地悪く見通している真実の把握の影で、いかにその詩人的 情熱を高調し、時にまた隠しがたく|仔情詩的《リリカル》でさえあるかを見よ!  一般に言って、詩的精神こそは文学の本質である。すくなくとも気質の上で、詩人的な る何物かを持たないものは、小説家にも戯曲家にも、断然文学者たる資格がない。ー1余 はすべて俗物のみ。 ●詩人風の作家  その好情的精神だけを知って、これに逆説する叙事詩的精神を持たないような文学者 は、すくなくとも小説家として、最高の栄誉を保証し得ない。通例彼等は「詩人風の作 家」と呼ばれる。そしてこの称呼は、必ずしも小説家にとって名誉でない。 ●種とその分散  浪漫主義と自然主義と、この二つの敵国視する矛盾のものが、共に同じルッソオから出 発し、本源を一にしたということは、常識にとっての意外である。カントはまたその哲学 から、一方にフィヒテや、ショーペンハウエルや、ベルグソンやの門弟を生み、他方にこ れと全く敵視するところの、マルクス等の物質主義者を教育した。今日の民国支那に於て すら、主義を全く反対にする政党等が、互に孫文の正流を立てて争って居る。  すべてに於て、一つの偉大なる思想の中には、多くの矛盾した要素が含まれて居る。彼 の個人的な性格では、すべてが統一されて居るだろう。だが彼以外の後継者では、それが 多方面の者に分離してくる。同じ一つの事実が、芸術についても思惟されるのである。す べての天才ある芸術家は、全くその特色を別々にする、百人の異系な弟子を有して居る。      ●不遇に忍びて!  我が国最近の詩壇に於ける、二つの代表的な詩派の系統I感覚的唯美派と情意的心象 派  は、たしかに著者の自誇する如く、共に私(萩原朔太郎)から種因を発し、一つの 母核から分裂して、両派の反対のものに対立している。その事は明白であり、後世の史家 にとっては、詩風の影響された証跡から、疑いもなく知れるのである。しかも詩壇の人々 は、今日尚この点で私を認めず、或は内心に認めていても、故意に或る事情から沈黙して いる。 あまつさえその上にも、詩派の而方跡からして、私天を敵国視し、彼等の攻撃の峰 にしている。丁度カントやダウヰンやが、彼のあらゆる後継者から、いつもその新説を立 てる前に、何等かの一つの点て、攻撃の標的とされるように。1著者もまた不遇を忍は ねばならないのである。 孤独と社交 自分がそれを好むと嫌うとにかかわらず、優れた芸術家や哲学者は、だれで も孤独を忍ばなければならないように、事情が定められて居るのである。                         ショーペンハウエル ●内部への瞳孔  友人もなく、社会もなく、全く孤独でいるところの人々は、だれでも必然にすぐれた心 理学者になるであろう。なぜといって彼の観照し得る世界は、彼自身の内部から抽象する 外にないのであるから。 ●病気の利益  病床にあるところの人々は、彼が肉体の運動に費すカロリイだけ、丁度それだけのもの を、精神の滋養に加えることができるのである。 ●反鵠獣  青草の上に寝て、静かに楽しげに、牛はその食物を|反鵠《はんすう》している。  かく我々の孤独者等が、いつも瞑想の芝生の上で、長閑かな食欲を楽しんでいる。食う ことの悦びではなく、既に胃袋の中にあるところの物を、ふたたび反鶉して舌に味い、日 向の暖かい牧場の隅で、長く癩惰に味うのである。     ●浅間山に登りて  或る芸術家等の生涯は、|間歇《かんけつ》火山にたとえられる。彼等は長い時日の間、死んだように 眠って居り、何事にも興味がなく、退屈の|欠伸《あくび》を噛み続けている。しかしながら或る朝、 不意にまた情熱が燃えるであろう。それから一時に爆発して、尚暫らくの間だけ、熔岩の 美しい火花を噴き続ける。 ●退屈を知らないもの  動物園に於ける熊や虎やは、その無為単調な日課にもかかわらず、退屈という事実を知 らないのである。ところで人間がもし、動物園の橿に入れられたら、何よりも先ず退屈か ら狂気してしまう。そして文明国に於ける罪人の刑罰が、作業を課する囚人よりも、却っ て独自監の囚人を重罪と見、無為によって苦しめる拷問を、今日最良の手段と見ているの も、同じ一つの理由に外ならない。  一般に言って、精神発達の程度が低く、動物に近い人間等-野蛮人や末開人やー は、退屈を感ずることがすくないのである。退屈は精神の|賛沢《ぜいたく》な病気であって、文化的情 操に於ける貴族、即ち文明人の専有に属している。そこで今日、我々の文明的の社会に於 て、だれが退屈を知らないだろうか? すべての子供たちと。それから女たちと。後者に ついて言えば、彼等はその家事や台所の作業に於ける、日々の繰返される単調無味の仕事 に於て、我々の男たちが感ずるような、あの恐ろしい退屈の悩みを持たない。それからし て婦人たちは、あんなにも単調な日課の中で、いつも嬉々として働らいて居り、アメリカ 人のように快活である。アメリカ人について言えば、彼等は常に忙しいビジネスの事務に 追われて、反省もなく不平もなく、単純な機械のように廻転して居る。アメリカには退屈 がないのである。 ●退屈の療法としての病気  退屈とは何だろうか? 絶えず活動する意志があって、しかもその対象となる興味がな い時。即ち「興味の欠乏」である。されば退屈の療法として、病気はしばしば最善の効果 を奏するだろう。病床にある人は、一切の活動から不能になる。彼等はもはや何事も1 活動しようとする意志すらもーあきらめてしまう。そして既に焦燥がないならは、その 対象たる興味への欲求も起らない。  それ故に人は、この事態の下に於て、限りなく平和であるだろう。そこでは周囲のあら ゆるものが、平常の退屈さにもかかわらず、一々興味の対象と変ってくる。例えば愚劣な 世間話や、窓外を飛んで行く鳥の影や、枕頭の草花や、湯沸しのたぎる音や、食物の品定 めや、あらゆる日常茶飯のくだらぬことが、津々として尽きない無限の興味の源泉であ る。しかも是等の一切こそ、平常健康の日に於て、その耐えられない退屈さから、忍びが たく人生を暗欝にした原因ではなかったか? 人は病気によってさえ、生活の興味を回復 し、退屈から救われることができるのである。 ●退屈と革命  退屈を知らないのは、智能の啓発しない低能児である。けれども退屈の中に満足し、欠 伸の長閑かさを楽しんでいるような人間は、もし病人でない限り、仕方のない人生の老廃 人で、ぐうたら者の骨頂である。(日本文壇の或る文士等は、このぐうたら者の代表であ る。それによって彼等は、日常茶飯の退屈極まる出来事を、しかも退屈の中で楽しみつつ 書いている。)  すべての文化と改造とは、人生の退屈に悩まされつつ、いかにもしてその苦痛から脱れ るべく、必死の運動をする人々によって実行される。あらゆる科学の発明も、芸術の創作 も、社会改造の運動すらが、時としてはまたそうである。故に見よ!民衆解放や社会主 義の新運動は、いつも民衆自身によって導火されず、社会主義者の所謂「有閑階級」た る、インテリゲンチアによってのみ指導されてる。民衆や無産階級者自身やは、いつも労 役に追い廻されて、退屈を感ずる余裕すら持たないのだ。  されば革命からの救済は、いつも人民に仕事をあたえ、彼等をビジネスの多忙の中に追 い廻して、あの危険の時間「退屈」を防ぐにある。為政者の平和にとってみれば、閑散は 最も有害であり、あらゆる「危険な芸術」や「危険な思想」が、新しき興味の刺激を要求 すべく、そこからのみ生れてくる。アメリカ人は閑散の時間を持たない。彼等はビジネス の中に追い廻され、退屈を感ずることがないほどにも、真の文化情操を持たないところ の、したがってまたその政府への平和な忠実な謳歌者である。      ●太々しさの本源  物臭さからも、人はしばしば傲慢と誤られる。たとえば義理や、挨拶や、返礼などを欠 くことから。しかしながら誤解ではなく、真に太々しく尊大な精神が、物臭さの気質に性 根づいているのである。      ●精神的な人物?  感覚遅鈍からも、人は精神的な人物と言われるのてある。或る多くの聖人や哲学者- 釈迦や、ソクラテスや、ヂォケネスや、エピクロスやーが、たいてい乞食のような生活 を平気でしていた。  肝腎なことは、それが克己心からされたのでなく、むしろ官能上の美に対する、趣味や 感覚の欠乏から、したがって賛沢への欲求がなく、犬小屋の中にも満足できる、天性の無 頓着からされてるのである。然るに世間は、 のを、聖人の徳に加えている。 その天性の故に崇拝し、 名誉にもならないも ●平凡の真理  幸福とは何だろう? 人が野心か恋愛かの中、その一つを持つ場合である。(二つ共に 持ってるならば・それが完全け幸悟である。)というパスカルの鼠計は、その実だれも知 ってる平凡のこと、即ち人生の最大幸福が、青年の時期にしかないという、あのゲーテの ファウストが繰返した寂しい悲歎を、別の言葉で言い換えたものにすぎないのである。 ●無職の職業(プラトンの誤謬)  君は競馬のことを書いてる。だが馬について、君は騎手ほどのことを知っているのか。 君は植物のことを書いてる。だが草木や自然について、君は園丁ほどの智識をもってるの か。君は真理のことを書いてる。だが真理についても、君は哲学者ほどの真面目で、それ を考えたことが|曾《か》つてあるか。君はいろいろなことを書いてる。だが君自身は、何一つ本 当に知って居ない。何一つだに、専門家にまさる智慧を持って居ない。憐れな似而非もの よ!君は知らずして知ったかぶり、自然と人生の虚偽を書いてる!彼等を国外に放逐 すべし。  これがプラトンの国家篇で、詩人に対する手きびしい非難であった、しかしながらプラ トンは、彼の正しい論証からして、逆の結論に導かれることを気付かなかった。何となれ は我々詩人1そして一般に芸術家lIの誇りは、人生に於ける自己の地位が、人間とし てのアマチュアであり、一の専門的な智識さえも、持たないと言うことにあるのだから。 げにそれ故にこそ、あらゆる専門的職業の外に立って、人間それ自体の本質生活-職業 生活ではなくーを批判すへく、その道の専門家てあり得るのだ。  かく人生では、アマチュアであることが、また一つの職業である。 ●酒神  飲酒によって、人は情熱と本能のみで衝動する、素朴な自然獣に帰ってしまう。最も社 会的に教養された、常には礼節ある紳士でさえが、酩酊によって常規を失い、しばしば粗 野の自然獣に変ってくる。  かくの如く飲酒は、文明に対する一つの|辛辣《しんらつ》な調刺である。自ら万物の霊長と誇って居 り、あんなにも取りすました人間共が、|酒精《アルコール》から性根を現わし、わけもなく先祖の野獣に 帰ると言うのは! それ故に文明の情操は、その|素面《しらふ》の時に於て、何等か|泥酔者《のんだくれ》を憎悪す る、酒への敵意を隠している。それからして象徴が、一方で悦惚の徳を讃美しつつ、一方 でそれを憎むところの、怪しからぬ獣的のものを偶像する。例えば希臘のバッカスがそう であり、おどけた快適の風貌から、どこか醜劣で意地の悪い、文明への冒漬を表象して居 る。支那ではまた、酒神が類人猿の一種(|狸《しようじよう》々)であって、人間の最も醜個恢なる、しか しながら最も祝福された精神が、適切にも「美服した猿」の|形象《かたち》で踊って居る。     ●調節油としてのアルコ1ル  人間機械の製造所は、それの精巧な出来上りと、念入りな検定調査にもかかわらず、し ばしば最後の手入れに於て、油をさすことを忘れている。それによって或る精神等は、廻 転の悪くぎしついた、窮屈のものにこわばっている。ただアルコールの一瓶だけが、彼等 への調節をあたえるだろう。油が程よく差された時に、機械の廻転が滑らかになり、律動 的でさえもあるところの、愉快な活動を始めてくる。      ●雅趣あるもの  飲酒の習慣は、欧羅巴風の思想と同じく、今日の]≦o畠≡な新世界では、一の古風か ものに属している。ーアメリカ人は酒を飲まない。1しかしながら俗悪てなく、それ 故にまた、古雅のゆかしき風情を加えた。 ●思想と摂生  人は年を取るにしたがって、身体の摂生に気を付けてくる。ずっと若い時には、だれも 皆過激なことを平気でする。我々が尚学生であった時には、連夜の如く大酒をし、寒中雪 の上に眠ったりして、しかも病気一つしなかった。けれども人は年を取ると、そうした健 康が衰えてくる。我々は生きようとする本能から、常に暴飲や暴食を避け、あまり過激に 渡らぬように、中庸の程度を自制すべく、無意識の中に習性してくる。それによってまた 老年者は、思想上の生活でも、常に中庸を調節すべく、無意識の中に習性している。すべ ての極端な過激思想は、青年にのみ特色して居り、老年の思想にはないのである。稀れな 場合に於てさえも、老年者は慎しみ深く、心の内密な底に於て、それの摂生を忘れて居な い。  あの温厚な学者カントが、気の毒にも|普魯西《プロシア》国王の嫌忌に触れ、改説か牢獄かを迫られ た時、悲しい悲痛の声でこう答えた。「陛下は私のような老人さえも、鎖につなごうと仰 しゃるのか? あの鉄窓の中で冷えきっている、牢獄の陰惨でつめたい空気は、私の老い た健康に耐えきれない。私の精神は屈しないが、肉体はそれを考えて標然とする。仕方が ない。権力の命ずる意志によって、自分の意見を改訂しよう。」と。そして尚、百度も心 の中で歎息した。「私の年齢から考えても、もっと早く、思想の調節を学ぶべき筈であっ たのに!」 ●観念的過激論者  同じ前項の理由によって、身体のあまり頑強でない、|華奢《きやしや》で病弱な体質者等は、概して 温和な中庸の思想を持ってる。けれども或る特殊の者は、気質の先天的な性向から、中庸 のものを悦ばない。そして身体の病弱と摂生から、生活の放縦な自由を持たないだけ、丁 度それだけの欝憤を、思想や芸術の方で充たそうとする。その実行される現実性を持たな いほどにも、過激に空想的な新思潮は、たいてい彼等によって興されるのである。 ●情熱の源泉として  諸君にして、もしいつもよき文学者であり、魅力のある作品を書こうと思えば、決して 必ずしも読書や修養は必要でない。しかしながらただ、恋か美人か音楽かの中、すくなく ともその一つを、不断の生活から忘れぬように。 ●孤独の原因(何故に私は社交せず、 手紙さえも書かないか。) 自分の気分が緊張して、著作の中に没頭している時、一秒の時間も忙しく、他人に逢っ て応接したり、手紙など書いては居られない。自分の気分がだらけて居り、何もしないで 居る時には、人生の一切が暗黒であり、他人と話をする興味もなく、況んや義理のある手 紙など、全く書こうとする勇気がない。      ●旅行  旅行の実の楽しさは、旅の中にもなく後にもない。ただ旅に出ようと思った時の、海風 のように吹いてくる気持ちにある。  旅行は一の熱情である。恋や結婚と同じように、出発の前に荷造りされてる、人生の妄 想に充ちた鞄である。      ●知人の著作  贈られたる物品は、自分にとって、甚だ無価値に考えられる。正直な感想は、軽蔑と冷 笑との外に出ない。けれども先方の厚意はよく解っている。友情は感謝しなければならな い。  これらの場合に於て、一つの典雅な、社交的な儀礼が必要である。最も|鄭重《ていちよう》な言辞に於 て、充分に感謝の意を表しつつも、しかも自分自らを偽わる如き、心にもない|阿諌《あゆ》をする ことなしに、尚且つそれで以って、対手に申し分なき満足をあたえるような、一つの|腕曲《えんきよく》 な辞令が要求される。そしてこうした場合に於ける、修辞の最大の困難は、それが形式的 てなく、内心からの誠意を以ってーすくなくともそう見えるようにーせねはならない ことである。  この社交の実例を、私は知人の著作に対して言うのである。いかにそれが、しばしば 我々を悩ましくすることぞ。     ●謙遜の危険  実力もあり、世間もそれを認めている人々は、謙遜の語調に関して、細心の注意を払わ ねばならぬ。多分その言葉の反面には、より劣った人々にまで、聴き捨てのならない侮辱 の響があるだろう。      ●尊大な者の偽善  ある尊大な者共は、恩恵-贈物や、名誉や、喝采や、阿諌やーからの悦びをかくす ために努力する。それによって、魂の賎しさと物欲しさを、見透かされる恐れがあるか ら。      ●如才なさ  第一義のことにしか、実の興味をもたないものは、それのむ小ちいした、堅苦しき、無 愛想の故に嫌がられる。我々は、社交に於ても、思想に於ても、また特に芸術上の作に於 ても、常にくだらないことに興味をもち、馬鹿馬鹿しく無駄のことを、べらべらと愉快げ にしゃべる所の、あの婦人と小説家に範疇している、如才なさの徳を学ばねばならないだ ろう。  如才なさは、人と人との組織する社会における、一の強迫された礼儀でもある。 ●社交の形式化に就いて  自分を尊敬する如く、他人に対しても尊敬する。  これが社交の根本原理て、すへて の応接や礼儀やが、この道徳の貴族感にもとづいてる。(それ故に通例、自ら身を持する ことの高い貴族的の人に限って、礼儀や応接がやかましい。)  しかしながら困難は、自ら卑下することなしに、一方で他人を尊敬しようとすること の、礼節の矛盾した本体にある。尚さら我々は、すべての多くの人に対し、どうして一様 に尊敬の情を持ち得るだろう。自分が自分に対する如く、丁度それだけの尊敬を持ち得る ものは、数千万人の中の僅か二一二人にすぎないのである。そしてただ、彼等の少数者に対 してのみ、礼儀が必要であるとすれば? 結局、社交の礼節と言うものは実在しない。  それ故にすべての社交は、人が自分を卑屈し、自分を欺き、形式を街うことによっての み、実際上には成立している。何よりも社交にあっては、真実を言うことが禁じられる。 真実を言う者は、人生に於て一人の友人を持つことも出来ないだろう。内心に於て、たと え軽蔑の念を持ってる者でも、交際としての儀礼に於て、さも尊敬しているかのように、 態度をいつわって見せねばならない。  自尊心の高いもの、正直のものにとって、こうした社交は苦痛である。彼等はそれを避 けようとする。しかしながら人生は、社交なしに一日も存在しない。事情は常に切迫し て、我々を人と人との強制された関係に置く。我々が生きてる以上、我々は社交的になら ねはならない。そこて貴族的な人々  その人々は、自分が他から尊敬されようとして、 すへての社交的な礼儀を案出し、またそれによって彼自身が苦しくされてる。1は、社 交の辞令を変化させて、内容的の真情から、次第に形式的のものに移してしまった。既に 形式的である。故にそこには、もはや何等の卑屈さを自覚したり、虚偽を恥じたりする苦 痛がない。我々はただ、礼節規典の法則している、無意味な機械的な敬礼や、一定の修辞 学によって形式されてる、贈答用文の極り切った紋切り型を、無感情に話していれば好い のである。それは一つの慣用であり、無内容の形式にすぎない故、どこにも全く、良心か らの董恥や卑下を感じないで、いつでも平然として居られる。  かくすべての社交は、形式化することによってのみ、人生に有益な便利となってる。社 交が若しそうでなく、真情を要求されるものであったら、人生は耐えがたく苦悩であり、 一日も生きることができないだろう。 ●人品の薫育としての礼節  他人を賞讃するに際して、またその賞讃への返礼として、過不足なく、丁度それが実質 にあるだけの応接をするというのは、一つの最も困難なる、練習を要する社交上の儀礼で ある。多くの者は、賞讃に際して度を外してしまう。言葉の口調や、はずみや、友情や、 別して人の好い感激から、しばしば批評の正当な|桁《けた》をはずれてくる。そして彼が、後にな って気のついた時、自分自身に対する蓋恥-心にもない阿諌を言ったと知った時の11 を免れるべく、内密の割引や取消しを主張する。もしくはまた反対に、賞讃の附けたしや 割増しを気にかけてやきもきする。一方また、賞讃された方の者は、その返礼の辞令に於 て、通例もっとひどい不体裁を暴露する。これが社交に慣れた人たちは、贈物の贈答に於 ける、正しき挨拶を誤らない。それが実質に価するだけ、丁度それだけの価格に於て、過 不足なき辞令と挨拶をするであろう。  こうした社交の応接は、上品で典雅な挙動に属している。それは人品を高く、教養ある 重厚な紳士に見せるであろう。ところで正直ではあるけれども、素性の賎しい粗野な田舎 者等は、こうした社交の礼節を学んでいない。彼等は応接に際して度を失い、|吃《ども》ったり、 言い過ぎたり、取り消したり、追加したり、滑ったり、顛倒したりする。彼等は顔を赫ら め、醜態のあらん限りを尽すであろう。いやしくもその自尊心と体面を重んずるところ の、すべての批評家や著作者やは、社交に於けると同じく、 |雅《が》な礼節を学ばねばならないだろう。それによって全体に、 思想の応接に於てもまた、 彼等の人品が薫育される。 庁 者 ●エピクロスの失楽園で  瞬間を楽しむならば、後の長い悔恨をせねばならない。だが瞬間を楽しまなければ、生 涯を通じて快楽がなく、それの過ぎ去った一生を、寂しく悔恨せねばならぬ。どっちにし ても人生は、墓場の中まで憂欝であり、悔恨を持ち越して行かねばならない。   (註。エピクロスの格言。常に瞬間を享楽せよ。快楽が充たされれば満足だし、若しそ   れが充たされなければ、楽しみが次の時間まで持ち越して行く。) ●功利的な思考でなく  鮮欝の中の魚をかぞえることによって、漁夫の一日の意義を計算するならば、人生は全 く実利的なものに眺められる。かく事物の為レ迩げ白かた結果によって、事物の本来の意 義を批判するのは、すべて功利的な思考に属している。別の思考はそうでない。いかにあ の怠惰の天才が、かれの物臭さから人生を無為に暮して居るか。それらの密室に於ける孤 独者の瞑想は、夕暮の墓場にもえる燐火のようで、むなしく風のない草原に消えてしま う。ああ、だれがそれを見たか?  功利的な思考でなく、我等の別の人生を思慕せしめよ。一つの幽幻なる事実である。      ●航海の歌  南風のふく日、椰子の葉のそよぐ島をはなれて、遠く私の船は海洋の沖へ帆ばしって行 った。浪はきらきらと日にかがやき、美麗な魚が舷側におどって居た。  この船の|甲板《でつき》の上に、私はいろいろの動物を飼っていた。猫や、孔雀や、鶯や、はつか 鼠や、豹や、酪駝や、獅子やを乗せ、そうして私の航海の日和がつづいた。私は甲板の籐 椅子に寝ころび、そうして夢見心地のする葉蘭の影に、いつも香気の高い♂にら煙草をく わえて居た。ああ、いまそこに幻想の港を見る。白い雲の浮んでいる、美麗にして寂しげ な植民地の港を見る。  かくの如くにして、私は航海の朝を歌うのである。孤独な思想家の<一ωHOZに浮ぶ、 あ介うれしき朝の船出を語るのである。ああ、だれがそれを聴くか?      ●海  海を越えて、人々は向うに「ある」ことを信じている。島が、陸が、新世界が。  しかしながら海は、一の広荘とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単 調で飽きっぽい景色を見る。  海の印象から、人々は早い疲労を感じてしまう。浪が引き、また寄せてくる反復から、 人生の退屈な日課を思い出す。そして日向の砂上に寝ころびながら、海を見ている心の隅 に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。  海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情やが、浪を越えて行くのではな く、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を 消してしまう。海には空想のひだがなく、見渡す限り平板で、|白昼《まひる》の太陽が及ぶ限り、そ の「現実」を照らしている。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲 哀が、ふだんの浪音のように迫ってくる。  海を越えて、人々は向テにあることを信じている。島が、陸が、新世界が。けれども、 ああ! もし海に来て見れば、海は我々の疲労を反映する。過去の長き、厭わしき、無意 味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現われてくる。人々はげっそりとし、ものうくな り、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくずれてしまう。  人々は熱情から1恋や、旅情や、ローマンスから  しばしは海へあこがれてくる。 いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人々の眼をひろくすることぞ! しかしな がらただ一瞬。そして夕方の疲労から、にわかに老衰してかえって行く。  海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。 ●友情の侵害区域  彼に於ては、決して忠告が受け入れられないことを知っている故に、私は安心レτ忠告 をするのである。しかるに世のあさはかな友情は、その反対の悪しき動機に立脚してい る。  人々は、忠告から侵書しようと意志している。悪徳でなくて何だろう。 ●友情の本質  性格の魚似ではなく、ある反朴が、最もよき友情を結びつける。なぜだろうか? 類似 の性格は、互にその欠点を対手に見出し合うからである。自分に所有していないものは、 友もまた所有していない。そして自分に呪わしきもの、厭らしきもの、腹立たしきもの を、それの醜き反射に於て、友の鏡の中に見るからである。類似の性格は友情しない。  しかしながら我々は、もとよりまた自分と交渉なきもの、さらに性格の一致がなく、共 通のない者等とは友誼し得ない。たとえば気質的の詩人と気質的の俗物とは、決してよく 親密になれないだろう。真の献身的なるよき友情は、そうした別世界からの反対でなく、 同一性格の中に存在している、二つの矛盾から生ずるのである。即ち自分が切に意欲し、 熱望して居りながら、しかも自分にそれを所有してないもの、所有すべく自己の|柄《がら》にない ものを、他人の性格の中に見出す時、そこに同性間の愛を結びつける、或るプラトニック な、強い友情が湧いてくる。  かく友情の成立は、自己の所有におけるあこがれを、対手の所有の中に見ることであ る。かくして弱虫は強い男を、粗暴者は優雅な友を、神経家は豪胆者を、理性家は感情家 を、自然人は文明人を、逆にまた文明人は自然人を、互にその反対の憧憬からして、自己 のイデヤに結びつけて友情する。もしイデヤが互にうまく食いちがって居り、交換ができ るほど、友情は親密なものになるであろう。何よりも我々は、それによって「自由」を感 じ、自己の非力の及ばぬものを、相手の所有によって満足される。我々は友によって勇ま しくされ、生存の意義を感じ、精神を高く引きあげられる。即ち友情それ自体がlIあら ゆる一般の場合に於て1一のプラトニソク ラウなのてある。昔の希臘人や羅馬人は、 友情に於てのみ、生活の最高な「詩」を求めていた。      ●親友》三巳讐oqω三巴  最も親しき友人というものは、常に兄弟のように退屈である。      ●神と人との友誼について  人々は早くからして、自然界に於ける自己の位置を知っていた。ふだんの暴風雨や、洪 水や、猛獣や、疾病やに犯されながら、自然の中にたよりなく戦標して居た人間共は、何 よりも強く、自由に、完全に、全能なものになることを欲情していた。かくして原始の 神々は、常に「自然の上に」権力して居り、猛獣を御し、洪水を押え、太陽を駆り、火や 熱やを自由に支配して居た。けれども文明が、漸く自然の脅威から人々を解放した時、よ り人間界での自由や権力が熱情された。希臘の神々は、肉欲や、健康や、智慧やにおけ る、人間的欲望の無限に|放恣《ほうし》な憧憬を象徴している。そして一方に猶太人、あの権力の下 に虐げられ、長く恨めしい奴隷であった所の猶太人等は、その神の本質を怒と復讐のタイ ラントであるエホバに求めた。  かくて神は存在した。我々の環境における欠乏から、自由と、権力と、全能との象徴と して、人間の最高観念として存在した。しかしながら神は、決してどんな場合に於ても、 人間への友情を示さなかった。我々は神の前に平伏し、それのヒロイックな感激にふるえ ながら、恐る恐る神殿の前に奉仕した。しかも神それ自体は、いつも我々の存在に不満で あった。彼は人間虫の弱小に腹を立て、我々の不義や不潔を怒り、それの威力で奴隷共を 責めおびやかした。人間それ自体が、初めから神の前に仕える資格がなかったのである。 そしてそれ故に、一層また我々は卑下してしまった。  けれども若しそうであるならば、ここに必然の懐疑が生ずるだろう。神は我々に不機嫌 であり、いつも人間を腹立たしく考えてる。神の意志にしたがえば、むしろ我々は生れて 来ず、初めから存在しない方がよかったのだ。人間と交渉なく、人間の上に超越している ような存在は、一つの空虚な観念であり、何の内容も有して居ない。「神が若し人格を有 するならば」と、そこで中世のスコラ哲学が疑問を起した。それの実在が証明されるかど うであるか? 或る知名な一人が、次のような断定をした。神という観念のあることか ら、直ちに神の実在を論証し得ると。しかしながら要求は、単なる観念(神)の有無でな くして、それの実在的内容にかかっている。もし単に観念があり、そして実の内容が無い ならば、そは抽象された空虚の言語、即ち「概念」にすぎないだろう。唯名論はこれをき びしく言ったのである。  耶蘇の宗教が、ここに於て猶太の神を修正した。エホバは怒の神でなく、単なる万軍の 主でもなく、耶蘇によって人間らしき、愛の具体的な性格を附与された、貧しきもの、病 めるもの、義をしたうもの、自らの非力を知るもの、卑随にして罪によごれているもの、 すべて此等のものは神の愛する所である。何となれば神は、その一人子を愛するほどに、 人間の弱小を|欄《あわれ》み給うからである。即ち神が人を愛するのは、人の神格を有する為でな く、却ってその弱小と随劣との故に、人を欄むからである。  神と人との関係は、キリスト教に於てかく親と子の関係に変ってきた。それが昔にあっ ては、実に冷酷な主人と奴隷との関係であったのである。奴隷が主人を崇拝するのは、全 く非人格的なものにすぎないけれども、子が父を愛敬するのは、より人間的な観念を具有 している。実にキリスト教は、神を人間に近く性情づけた。それによって神の観念は、ず っと我々に親しみ易く、実在する人格を帯びてきた。けれどもさらに人々は、父であると ころの神にさえ、人格の空虚を感ずる時がくるだろう。何となれば父と子との愛情は、決 して完全の理解の上に立っていないからだ。すくなくとも成長した子供等は、父の憐欄か ら自由をめぐまれたように感じない。さらに生長した宗教は、神の性格にまで、一層の具 体性を要求する。即ち神は我々の主人でなく、また父でもなく、実に我々と同じ仲間で、 互によく理解し合い、尊敬し合い愛し合つところの加んでなければならぬ。我々の宗教的 熱情は、それのプラトニック愛によってのみ、礼拝や奉仕の形式をとるであろう。  この新しき基督教が、実に我々の親鷺によって創造された。親鷺の教によれば、阿弥陀 である所の神が、一切の人格を有している。我々がその弱小から、罪悪から不自由から、 彼の神格にみる全能を愛するように、阿弥陀はまた我々のそうしたヒューマニティを愛す るのである。丁度即ち、我々の人間の友情における如く、人間と阿弥陀との関係は、その 反性格の故に親密する。阿弥陀の性格は明白である。彼は人間的欠陥を熱愛しながら、し かも自ら、断じて欠陥のない完全自由の神格である。反対に我々は、神格的至善を欲求し ながら、しかも罪障に充ちて居り、いかにしても不自由から脱がれられない、随劣卑賎の 人格である。  この二つの性格の食いちがいから、此所に初めて神と人との、完全な友情が成立する。 そして我々が、この神格にプラトニック愛を捧げるほど、それほど同じ比例の割合で、神 がまた我々の欠陥を愛してくれるのである。げに耶蘇は言った。神は罪でさえも許してく れると。然るに親鶯は言う。罪の故に神は我等を愛するのだと。  かくして人格神教は、最後の徹底の極に達した。全世界の観念が、もはやこれ以上の新 しき、より具体的な神を創造し得ないだろう。実に人間の大なる名誉は、神を天上から引 きおろして、友人に持ったということである。 著述と天才 各の善き書物は、それが出現する当初に於て旨くない。その作品にいかなる 精神の甘さと、輝やかしさとがあるかが、年と共に始めて展開される。多く の時間がその上を経過して行かねばならず、多くの蜘蛛がそのまわりに網を 張らねばならなかった。           フリドリッヒ ニイチェ すべての天才は憂欝である。            アリストテレス ●非ユiクリッドの空間  多くの単純な読者たちは、或る主観の感情や思想に向って、一直線に書かれた表現の 外、決して理解できないのである。より聡明な読者たちは、同じ目的に向って書かれた、 多くの枝を持ってる言語や、曲りくねった表現や、時には反対の方角から、逆に引かれた パラドックスの表現さえ、芸術的の直観によって理解している。  前の単純な読者たちは、ユークリッドの幾何学しか学んで居ない。後の高級な読者たち は、その上にも尚、非ユークリッドの幾何学を学んでいる。彼等は二点間の最短距離が、 直線でなくして曲線であるという、あの多次元の哲学的空間と、その証明された真理を知 っているのである。 ●読者のために  或る著者の思想に於ては、枝が多岐に別れて入り混んで居り、時にその一つ一つが、矛 盾した方角にさえ混線して居る。それは枝から枝を飛ぶところの、或る小さな鳥を困惑さ せ、枝葉の繁みで暗くされてる、不思議の迷路のように感じさせる。  しかしながら巨人の眼は、樹木の全景を見ている故に、すべてが一つの幹から出てい る、同じ枝葉の別れであって、矛盾というべきものはなく、単一な組織にすぎないことを 知るのである。     ●空洞の中で  芸術家等は、意味の含蓄された哲学を理解しない。思想家等は、思想の暗示された美術 を理解し得ない。  かくの如き著者は、だれに向って語るべきか!      ●私が此所に居る  書物の著者は、彼の読者の広き範囲から、多くの見知らぬ敵と味方を有している。彼等 は意識の背後にひそんで、夜の著者の寝室にまで、影のように|朦朧《もうろう》と現われてくる。そし て著者の夢の中で、互に格闘し、罵り合い、それの果しなき争いから、|魔《うな》されている男の |頸《くび》をしめようとする。著者は苦しくなって叫ぶのである。 「幽霊よ。どうか争いを止めてくれ! なぜならば私自身は、諸君のどっちの組にも、実 際に属していないのだから。」  憐れな著者は、そこで寝台の上にもがきながら、絶えず幻影に向って、私が此肝に居々 と叫び続けねばならないのだ。 ●著者 著者はずっと多くを知ってる。 ●歪像鏡 知名な詩人や作家に対する、一の最も手痛い誹諺は、彼の表現のアラを探して、気取り や、|気障《きざ》や、|厭味《いやみ》にまで、故意に誇張して見せるのである。それによって作者は、自分の 映された像を眺め、恥かしく思い、愚劣から汗を流し、最もきびしくやっつけられる。す べての忠実な追従者等が、悪意からではなしに、この誹誇の伝を心得ている。 ●著者の苦手  ある書物を熱愛するところの読者は、その書物からして、著者が離れてしまうことを願 わない。彼等は著者に向って言う。「君は変化して来た。それからして君は、昔のようで なく、僕等の読者を失望させる。再度またもとのように、永遠に善き著者であってくれ。」 ところで私が、もし彼等の忠告に従うならば、同じくまた人々が言うであろう。「彼は少 しも変化しない。昔のように、今も尚同じく書いてる。僕等はもう彼に飽き飽きした。」 と。  すべての著者にとって、最も苦々しく迷惑なものは、いつもその熱愛者である。      ●煙霧の景  多くの書物を読み、しかも彼自身の思想を持たないところの人は、通例、気位が高く、 痴呆のようにぼんやりしている。彼の背後に於て、雲のように層積する書物を考え、いつ でも荘然とするのである。      ●習慣的読者  ある人々にとって、読書は単なる習慣である。そして習慣の外の何でもない。我々が茶 や煙草やを飲むように、彼等は書物を漁り尽す。後ではけろりとしているのである。      ●経験の恩物  |初心《うぶ》な作家等は、世間の評判に対して熱心であり、自分が正しく理解されているか、さ れていないかと言うことに気をもむ。慣れた作家等は、ずっと冷淡で図々しくなってしま って居る。あまつさえ、本当のところでは、理解さかな…方を望んで居る。 ●無尽数への希望 「理解されない!」という歎息から、人は悲痛感に似た誇りを感じている。もし実に理解 されてみよ。君のあらゆる価値と実質とが、カケネなしに計算され、白昼に曝された時を 考えてみよ! だれが自ら、自分の全財産を登録して、貧しさに倦厭たらずに居られる か? 理解されない故に、人はいつも自誇して居り、天才の悲痛感に酔って居られる。 「私は理解されない!」  この歎息が、その反対を願う意志からでなく、一も言われたことがあるか? ●名声 名声は、名声を克ち得た人にまで、それの馬鹿馬鹿しく、偶然の虚名であり、取るに足 らないことを教える。それからして彼は、ちがった意味での|浮誇《ふこ》を感じ、尊大不遜の者に なってくる。即ち世に名だたる歴々の人物-大政治家や大文学者1にまて、深い尊敬 の情を失い、彼等の名誉をさげすみ、軽蔑的に見るようになる。  かく世間では、名声の得意が、彼を傲慢にしたと思って居る、実は反対であり、自分へ の虚名と無価値を、自覚した結果にすぎないのだけれど。 ●ちがった方面での努力  実力によって認めらるべく、その方面での名誉を絶望している芸術家等は、通例その態 度1いかに彼が芸術的に、また人間的に純潔であるかというようなーによって賞讃を 得ようとし、その目的に向って彼自身を誇張する。 ●作家の寿命  或るつまらない作家等は、文壇の水面に浮びあがって、出たり消えたりするところの、 泡のような流行を追いかける。彼等は目まぐるしき人物であり、ごく短い瞬間にだけ、走 りとしての相場を買われる。大抵の場合に於て、その作品は五年か六年、長くして十年の 生命を持たないだろう。  他のもっと大きい作家は、文壇などの気泡でなく、ずっと深いところに根をもってる、 時代の新気運を直覚している。彼等はそこから出発して、より広い社会の上に働きかけ る、別の時潮的文学を書くであろう。しかしながら時潮は移り、社会の制度は変って行 く。五十年、百年の後になってみれば、もはや彼等の思想は陳腐であり、情操は時代の趣 味に合わなくなる。彼等もまた永い生命を持たないだろう。  最後に或る確かな作家は、一切のジャーリナズムから超越している。彼は文壇でもな く、社会てもなく、人間それ自体の本性するもの1気質や、本能や、性慾や、宿命や ーについて書くてあろう。それは人類の本性にもとつく故に、社会のとんな変転にもか かわらず、不易の滅びない生命を持つのである。例えばポオの文学など、今日に於ても昔 に於ても、永遠に「古い」と言われたためしがない。それは人類の生きてる限り、万代不 易を通じて「新しい」のである。 ●著述の教訓  多くの著述は、それが未だ印刷されず、原稿のままで在る時、最も大きな悦びを著者に あたえる。人々は書いたものから、やがて刊行されるであろうところの、光輝にみちた大 著述を空想し、かくも優れた著者としての、|誇《ほこり》に胸を轟かしている。しかしながら印刷さ れ、書物が刊行された時に於て、初めの花々しい幻想は消えてしまう。それは世の常の書 物であり、平凡と陳腐と無能の外、何の新しい創造でもない、貧しい財産の登録にすぎぬ だろう。すべての著者はそれを感じ、前よりも一層貧しく、無力の自分を絶望してくる。  それ故に作家達は、多くの著書を出した者ほど、比例に於て謙遜であり、自分への幻想 を持って居ない。稀れにしか著作をせず、売れない原稿を抱えたままで、生涯を彷裡して いるような著者達ほど、自尊心の強くして、花々しい幻想を持つのである。 ●恩給としての名声  芸術家における名声は、官吏や軍人やにおける、退職後の恩給と同じである。概ねの芸 術家は、その高い名声を博した時に、既に精力を使い果して、実の創作熱情を失ってい る。しかしながら名声が、過去の功績に報ゆるために、それからずっと長い間、恩給とし ての報酬を払うであろう。 ●弟子の忘恩  かつて私は、一人の師も持たなかった! と言うのは、一つの不遜な傲語にすぎない。 よく考えてみれは、我々のだれもが直接や間接に1書物や交遊なとて1先輩の感化を 受け、彼の無意識の背後に於て、既に幾人かの、不定の師を持っているのである。 ●文章に於ける通がったもの  すべての新しい知識は、熱度の高い生気を有し、澄刺として感情の中に泳いで居る。け れども暫時にして、それは感情の熱度を失い、冷たい認識の中で固形して来る。即ちその 種の知識は、後には珍らしいものでなく、一般にも当然として承諾され、解り切うた問題 として、平凡に片づけられるところの「常識」になってしまう。そして常識となったもの は、知識の冷えきった残灰であり、どこにも感情の熱度を持たない。  かくの如くして我々は、常に「常識の階段」を上ってくる。より高い階級に立ってるも のは、低い階級に居る人々よりは、常識の冷灰を多量に有し、それだけ稀れな感激を持つ であろう。それ故に知識の高い階級に地位する人は、一般的の興味となってる問題に対し てさえ、時に甚だ冷淡であり、感激のない退屈の様子を見せる。議論すべく、あまりに解 り切ったことであり、興味の新しい源泉がないからである。反対に、かかる常識的の議事 に対して、過度の興味と熱心とを示す人々は、彼等の知識の階段に於て、地位の甚だ低い ことを明示して居る。  この実証されることからして、或る自尊心の高い著者たちは、しばしば彼自身を反省す る。私が今、常識のどの階級に居るだろうか?そうした自分に対する不安と、階級のよ り高い側からの軽蔑を恐れるために、彼等は故意に文章の調子を押え感情を控え目にして 書く。実際には、それが彼等にとっての新発見で、充分に興味であるところの知識でさえ も、わざと冷淡に、空々しく、さも解りきった常識を話すように、無感激の平坦な言葉で 書いてしまう。実に或る「学者風の文章」と言われるものは、言語のどんな調子の中に も、全然感情を入れずに書くこと、死灰のような無関心で書くことを特色している。これ が一方で或る人々には、本質的に高級であり、渋く|通《つう》がったものにさえ見えるのである。  この同じ現象が、社交界の習俗にも現われている。通例、社交に慣れた貴族的な人々 は、どんな立派な宴会にも、どんな異常な催し物にも、既に常識的に慣れ切って居り、無 感激の日常茶飯事としか感覚し得ない。そこで彼等は、美人とダンスする時でさえ、さも 退屈らしく、感動のないアンニュイの様子をして、半ば事務的の態度を見せる。これが一 般の人々には、本質的に優美であり、|粋《いき》な|通《つう》がったものに考えられた。それからして社交 界では、故意に感情を抑圧して、貴族的なる|倦《ものう》げの様子をすることが、一般に典雅のもの に考えられてる。実に仏蘭西の或る時代では、すべての文学者がその点で苦心した。いか にして我々は、文章から野暮な感情を排斥し、言語の調子にアクセントを避け、平坦に投 げやりに、優美なアンニュイな表現を修辞すべきかと。      ●譜諺の笛  いつもむんずりとして、|陰《 ちちちち》欝に沈んで見え、必要以外には余分の|徒口《むだぐち》を利かないような 人物は、その重々しき態度の故に、しばしば「真面目の人物」と考えられる。けれども実 際には、概して機智の欠乏であり、精力の消耗から原因している、気の利かない鈍物たる ことの証拠にすぎない。  同じ比喩を、自分は文学について言うのである。文章の名人たちは、最も簡潔な章句や 堅苦しい議論の中でも、常に元気澄刺として居り、読者を明るく愉快にする、ふしぎな譜 謹の笛を持ってる。彼等は必ずしも、文章に於ける「真面目な人物」ではないのである。 ●街学の心理  |街学《げんがく》の心理は、世俗的な虚栄心であるよりも、むしろ単純の趣味に属している。概ねの |街学者《ペダント》等は、そのむずかしい術語や博学やで、他人からの尊敬を得ようとする稚気以上 に、そうした言語や知識やの|街《てら》いによって、自分自身にすらも充分には理解されない、ふ しぎな難解の気分を味い、或る崇高な香気に感じて、美を味覚しているのである。初めて 入営した百姓の兵卒等は、軍隊用語のむずかしい漢語をおぼえて、不必要にそれを使用 し、言語の高尚な美に|惑溺《わくでき》している。 ●衆愚の中に一人立ちて!  真の意味での理性を持たず、したがって「思想する」ことを知らない者等は、いつでも 中学生のように子供であり、学者の堂々とした肩書や、|厳《いか》めしい態度や、多くの参考書か ら引っぱり出した、引証該博の大知識や、それから特に、むずかしい学術語などを並べ立 てた、街学の香気にむせんで感歎し、すっかり恐れ入ってしまうのである。もとより彼等 は、理性の判断する能力を欠いでる故に、思想の含蓄されてる深い意味や、論証の卓抜な 内容など解りはしない。彼等にとって悦ばれるのは、引証該博な倉庫の中で、自分の思想 を紛失させてる、憐れな貧しい文献学者と、独創もなく卓見もなく、したがって一般の常 識に理解され得る、だれにも知れ切った小♂らかことを、さも道理ありげに説くところ の、多くの勿体ぶったお講義屋の先生等で、こいつがいつも子供たちを感心させ、真の思 想家や論客として考えられてる。  一方で卓抜な意見や独創を持ってるところの、真の「思想を有する思想家」は、子供た ちの中学校では理解されない。のみならず彼等は、その率直に表現する態度からして、い つも安っぽく考えられ、そこらの無智の百姓共と、同族のように路み倒される。彼等は判 断力を持たない故に、すべての含蓄に充ちた思想や、非凡の独創に充ちた思想は、いつで も奇矯な誕弁として、独断論や感情論のようにさえ、耳に遠く聴えるのである。その上に もまた、彼等は感情の中に透視されてる、智慧の深い|瞳《め》を知ることさえできないのだ。 ●情熱への忍耐 著述と天才  君の感情に火がついた時、燃えあがる|焔《ほのお》の上で筆を執るな。おそらくはただの焔であ り、空気の上層に渦巻いている、非実の燃焼にすぎないだろう。暫らくの時が立てば、火 力は|心《しん》の方に沈降して、鉄板をさえも|灼熱《しやくねつ》させる、実質の力を加えてくる。焔が上層に消 え去る迄、時を忍ばねばならないのである。 ●|鉄槌《てつつい》の下で 自分の著作が理解されず、世間から誹誇されたり、黙殺されたりするということは、或 る多くの著者にとって、滅入った絶望的の感じをあたえるだろう。それで以て、彼の実力 が試験ずみになるからである。けれども或る傲慢な作家たちは、不幸から勇気づけられ、 いよいよ以て度しがたく、尊大のものに変ってくる。 ●初夏の歌  今は初夏! 人の認識の目を新しくせよ。我々もまた、自然と共に青々しくなろうとし ている。古きくすぼった家を捨てて、渡り鳥の如く自由になれよ。我々の過去の因襲か ら、いわれなき人倫から、既に廃ってしまった真理から、社会の愚かな習俗から、すべて の朽ちはてた執着の縄を切ろうじゃないか。 青春よ!我々もまた鳥のように飛ぼうと思う。けれども聴け! だれがそこに隠れて いるのか? 戸の影に居て、|啄木鳥《きつつき》のように叩くものはたれ? ああ君は「|反響《こだま》」か。老 いたる幽霊よ! 認識の向うに去れ! ●天才と郷党  巨大な|樫《かし》の木は、決して一夜の中に生長しない。苗の時代に於て、彼は尚甚だつまらぬ 雑草にすぎなかった。  さていくつかの季節がすぎ、彼が充分に樫の木であった時、周囲は尚その巨木につい て、何等の著しい注意を持たない。なぜといって彼は、ずっと昔からそこに育ち、仲間の 小さな芽生と共に、少し|宛《ずつ》伸びて行ったものにすぎないから。  この同じ事情によって、天才は郷党から認められない。郷党は彼について、過去の一切 のことを知ってる。その古い過去に於て、彼は放蕩息子であり、|怠惰《なまけ》ものであり、不良少 年であり、町中をのらくらしていた乞食犬で、くだらぬ文学雑誌の投書家であった。そし て尚、今でさえ彼等の前にうろうろしている、昔ながらの同じ人物にすぎないのだ。「あ の馬鹿を村第一と江戸で言ひ」という川柳こそは、実に郷党の眼に映じた、犬才の姿を言 い尽している。  しかしながら旅人等は、不意に彼等の前に|從《そび》耳えている、巨大な樫の木を見て驚くだろ う。彼等は過去の径路に於ける、発育の歴史を少しも知らない。そして今、現に偉大な樫 の木として現われている、目前の事実だけを見ているのだ。それによって天才は、しばし ばまた他方に於て買い被られる。彼等はその偉大な事物が、火山の爆発に於ける熔岩山な どの如く、一夜にして不意に出現した者のように考え、天才について奇蹟的な驚異を持っ ている。だが実際には、他の卑小な平凡のものと同じく、天才の過去も愚劣であり、つま らない芽生の時から、次第に生育したものにすぎないのである。  かく天才の評価は、郷土に於て著しく卑小にされ、他国に於て著しく拡大される。しか しながら共に、批判の|正鵠《せいこう》を得て居ないのである。 ●気味あしき幻想  それは十六世紀の初めであった。  僅か五百人に足りない|西班牙《スペイン》人の一隊が、火器をたずさえて|墨西《メキシ》可|可《コ》に上陸し、あの妖怪 的なマヤ文化によって繁盛した、黒人の大帝国を占領すべく、無謀にも全土人を相手に戦 争した。幾百万人とも数知れない、おそるべき黒人の大群団は、真黒にかたまったごんず いみたいに、手に手に棒と槍とをもって、白人の大砲に向って来た。撃ち殺されても撃ち 殺されても、無限に彼等の群団は密集して、丘や平地の到るところに充満して居た。それ は五百人の西班牙人には、無限に墓場から蘇生してくる、ぞくぞくとした幽霊のように思 われた。彼等は到るところに呪文を唱え、魔法で白人を殺そうとした。  この歴史上の冒険談には、不思議に人の神経をおびやかすところの、或る薄気味の悪い 幻想がある。そこには精鋭の武器を持った、言うに足りない少数の文明人が、幾百万とも 数知れない全|墨西寄《メキシコ》の土人を相手にして、無謀にも孤独で戦い、気味の悪い無限の殺裁を 繰返して居る! 丁度この同じ恐怖の幻覚を、天才や英雄やの生活から、読者は感ずるこ とがないだろうか? 天才や英雄やは、その人並はずれた精鋭の智慧によって、常に大多 数の民衆に対抗して居る。到るところに、彼等は無智の薄気味あしき呪文や、原始的な野 蛮な兇器や、幾百万とも数知れぬ衆愚の叫声や、その得体のわからない敵意と反感で取り 囲まれて居る。天才等は孤独であり、殺しても殺しても尽きない民衆の大群団が、墓場の 幽霊のような無形の力て、彼等の生存をおびやかしている。1すべての英雄と天才との 生涯から、或る|魔《うな》されたる夢の中での、神秘の|月目軍《つきがさ》を見るのである。 ●天才の努力 著述と天才  多くの一般の芸術家等は、勉強によって向上し、平均の能力以上に、自分を高めようと 努力して居る。然るに或る少数の天才者は、いつもその反対を考えて居り、胆落と凡俗に 陥入ることを、勉めて熱心に望んでいる。何となれば天才者は、彼の異常なる神経質や、 人並みはずれた感受性や、概して他人と異なるところの、人種的の「変り種」であること にまで、生活上の耐えがたい痛苦と悩みを感じているから。彼は堕落によって凡俗化し、 一般の通常人物となることから、幸福を得ようと願って居る。 ●天才の利率  天才の|蕨《か》ち得る名誉は、その天才であることから、彼が実際に受ける不幸や、人の感じ 得ない苦しみを感ずることや、あらゆる不運の孤独や迫害やの生活から、利福の損得をさ し引きされたる、実の百分の一の利率でもない。天才にとってみれば、名誉の僅かばかり の利率ほどにも、さびしく悲しいものはないのである。      ●天才の|鬼実《きこく》  天才は特別出来の人間であり、その取扱いにも微妙な注意を要するところの、|脆《もろ》く傷つ き易い|器物《うつわ》である。生れたる概ねの天才は、親たちの不注意や環境の不適からして、|傷《いたいた》々 しく傷つけられ、何も知らない子供の中に死んでしまう。後に生き残った者共1それが 我々に知られる限り、天才と呼はれてる人々てある。1は、その素質に多分の凡俗性を 有するところの、したがって悪しき環境に生き得るところの、第二流の準才にしか過ぎな いのである。真の天才は空しく死に、地下で鬼のように|戯歓《きよき》している! ●偉大さの要素 英雄に於ける素質の一は、武士的良心の潔白さ1不義を憎んだり、 妥協を賎しんだ り、侮辱に対して忍ばなかったり、節操を固く持したりすることーを、持たないという ところにある。必要に応じて、彼等は平然と不義を行い、卑屈を忍び、権謀を弄し、仇敵 と妥協することもあえて辞さない、それによって英雄は、常に単純な武士を統御し、彼等 の上に誇然と君臨している。  あらゆる他の場合に於て、天才の一般的な範疇は、単純な道徳的潔癖性を、決して持た ないということである。より偉大な精神にとってみれば、それが融通の利かない小規範 で、一の「狭量なもの」にすぎないから。宗教に於てさえも、聖者は潔癖にすぎる徳行を 悦ばない。彼等は漠然として居り、どこかに不徳を包括する雅量を持ってる。      ●英雄の孤独  英雄の生活は、その忠臣や、参謀や、取巻きや、阿訣者や、寵姫やで取り囲まれて居 る。彼には一人の友人もない。もし友人が居るとすれば、いつでも自分と競争している、 油断のならない仇敵だから。      ●ロムブロゾオ的に診察して 「子供らしさ」の残留は、精神能力の一部に於ける、智能の未発達を示すもので、一般に 神経質病者に特色している、著るしい徴候と考えられてる。芸術上の或る天才等が、これ によってまた意地悪く診察される。 ●欠乏からの名誉  普通の人が恥じ、自ら抑制していることを、平気であげ㌻げにやり・僚として公衆の前 に立つのは、実に勇気のある人と言われるだろうか? 勇気ではなく、正しく精神機能の 病気であり、或る抑制力の欠乏である。  同様にまた、我々がだれも知って居り、しかも自ら恥じて言わないことを、あえて大胆 に告白し、紙上に叙述することからして、しばしば或る人々が天才と呼ばれている。たと えはルソソオの|臓悔録《ざんげろく》や、その他の或る文学的作品なとの如く。1天才とは、有りあま る能力のためではなく、それの不足した欠乏からも、しばしば奇妙に言われるのである。      ●虚言への情熱家  正直者とは、|偽《うそ》をつかない人ということではない。|偽《うそ》でさえも、利己的な打算や|懸引《かけひき》で なく、無邪気な純一の心を以て、情熱から語る人を言うのである。  芸術の天才等は、気質の正直さにかかわらず、概ね|偽《うそ》つきの名人であり、虚言すること に熱意を持ってる。 思想と争闘 思想するところの精神は、それ自身の中に気概や争闘をもってるところの、 叙事詩するところの精神である。             著  者 ●ソフィスト  或る思想家等は、逆説の興味からして逆説する。何の根拠もなく信条もなく、真理への 良心もなく、正義への情熱もなく、単に論理の奇を街い、人の逆を言うことの面白さで、 概念の抽象的な遊戯をする。  ソフィスト等は、けれども|損斥《ひんせき》すべき輩であったろうか? 論理のつまらない遊戯者で あり、白を黒に曲弁する外、少しも純一の情熱を持たなかったろうか? だれが夫を知る だろう。寧ろ或は、彼等こそ哲学の否定に欝憤していた。ソフィスト等のすべての議論 は、|畢寛《ひつきよう》さまざまなる方面から、概念の虚妄であり、思弁の取るに足らないことを論証し たもの。それで以て哲学者の独断的偏見と、その概念至上主義の迷妄とを教えたものに他 ならない。彼等は哲学上のニヒリストで、知識に於ける既成概念のあらゆる権威を、根本 から否定しようと意欲した。決して必ずしも、単なる論理の遊戯者ではなかったろう。  しかしながら我々は、より人間的なる深い親しみを、あの正直なソクラテスの方に感じ ている。同じく逆説の名人でありながらも、その単純な意志の中に、すぐれた人の好さを 感ずるからだ。そこには全く、二つの異った熱情がある。単に否定すること自体に於て、 そのニヒリズムを満足している逆説家と、一方では、否定しつつ破壊しつつ、底に創造を 意志している精神と。  ソクラテスに於て、我々の最も親しい、信頼すべき人格を見るのである。ソフィスト等 は、この点で我々を寂しくする。彼等は飢造を持たないのである。      ●思想以前のもの  意味が、ただそれだけで尽きて居り、文字からして思想が見透されるような文学は、解 りよいという徳を除いて、概ね浅薄のものにすぎない。実に深遠な思想をもつものは、情 操が複雑して、枝葉がさまざまに入りこんで居り、その単純な意味からは、全体が矛盾し て見えるほど、茂みの中に|幽逮《ゆうすい》な影を漂わして居る。何よりも真理は、あらわに主張され ることを忌むのである。何となれば真理は、いつも概念の背後に感じられて居り、皮相に 言明さるべきものでないから。  思考する限りに於て、概念から超越することはできないだろう。然るに概念はーとん な概念てもlI抽象てあり、普遍の常識にすきないのだ。それ故に思想家は、思想家たる 限りに於て、常識の引力に曳きずられている。彼等は地上を飛躍する翼を持たない。  先ずこの事実を知り、しっかりと意識し、それによって自分を恥かしく、非力に思わな いような思想家とは、友人としての縁がなく、我々の詩人的な気風に於て、議論をしよう と思わない。  予感から情操へ、情操から思想へ、思想から概念へと、かく我々の認識は跡形して行 く。より早き、|朧《おばろ》げなる予感の中にのみ、実の生命ある、水々しき、躍動する内容が存す るのである。思惟をして、いたずらに固形せしめる勿れ。乾からびた論理よりも、その |生《なまなま》々しき肉質の充実を取れ。我々をして、願わくは「思想以前のもの」に路み止まらしめ よ。      ●覚醒の前に  新時代を思想し、評論しているとき、新時代はもはや過ぎ去ってる。始めてそれが来る 時、未だ名目のない或るものであり、言語や、概念や、イズムやでなく、漠然たる感じの 中に、気分としてのみ触知し得るもの。思想家でなく、詩人だけが知るのである。      ●思想家の散歩区域  我々の思考にして、漸く経験的なものを離れ、純粋に抽象的なものに深入りをしてくる ならば、その時、先ず我々は一通りの学者である。しかしながら学者である。もはや思想 家1その言語の響に於ける、人間的な意味を考えて見よ。1てはない。我々にして学 者でなく、思想家であることを願うならば、いつもその書斎の外に、人生の広い散歩区域 を持たねばならない。工場や、監獄や、酒場や、色街や、林や、森や、野道やなど。      ●自然からの思想  すべての善き美術家等は、手本の絵について学ばないで、直接の自然から描くであろ う。同様に善き思想家等は、他人の書物から学ばないで、彼自身の実生活や、旅行や、体 験やの自然からして、直接に真理を見出してくる。それ故に情熱があり、思想が文字の上 に躍動して、丁度自然から掴んだままの、|生《なま》の彩色を持つのである。      ●説明と省略  或る純粋なる思想は、説明によって書かれるよりは、むしろ全部を省略してしまった方 が好い。      ●思想と感情 1  事物は、感情が思うほとに複雑てない。思想が認識するほとに単純てない。1これが 主観上では、反対に意識されているのだけれども。      ●思想と感情 2  思想は感情の乾物である。失われてしまったものは、単に血液と水分ばかりでない。 iしかしながら水く保存に耐える。      ●思想を嗅覚するもの  思想の実質に噛みつくべく、未だ乳歯が発育しない子供たちは、犬のように|誕《よだれ》をたらし て、餌物の周囲を嗅ぎ廻って居る。彼等は理解の胃袋で食うのでなく、単に食物の匂いだ けを、嗅覚することに自慰を持ってる。それからして専門術語の乱用された、香気の高い 街学思想や、外国語のぎっしり詰った、さも博識そうな翻案思想や、内容には何もなくっ て、外観だけが堂々として見えるところの、引例と考証だけの似而非思想やが、いつでも 最上に悦ばれる。憐れな仔犬等! その胃袋を空虚にして、嗅覚だけを発達させてる。 ●漠然たる敵  すべての偉大な人物等は、避けがたく皆その敵を持っている。より偉大なものほど、よ り力の強い、恐るへき敵を持つてあろう。単純な人物-政治家や、軍人や、社会主義者 やーは、いつても正体のはっきりしている、単純な目標の敵を持ってる。だがより性格 の複雑した、意識の深いところに生活する人々は、社会のずっと内部に隠れている、目に 見えない原助かの敵を持ってる。しばしばそれは、概念によって抽象されない、一つの大 きなエネルギイで、地球の全体をさえ動かすところの、根本のものでさえもあるだろう。 彼等は敵の居る事を心に感ずる。だが敵の実体が何であり、どこに挑戦されるものである かを、容易に自ら知覚し得ない。彼等はずっと長い間1おそらくは生涯を通じて1敵 の名前さえも知らないところの、漠然たる戦闘に殉じて居る。死後になって見れば、初め てそれが解るのである。    |何所《いづこ》にか我が敵のある如し    敵のある如し………         北原白秋断章 ●論戦に於ける矛盾 敵を理解しないならば、敵を破ることが出来ない。ところで敵を理解したならば、敵と 戦うことができない。なぜと言って、真に理解された思想は、必然にその者への愛を生む から。(愛なしに理解はなく、理解なしに愛はない。)そして愛は敵でないから。  かくの如く、すべての論戦は矛盾である。人はただ、理解のないことによってのみ、正 体の分らぬ敵と戦い得る。ブルタスが若しシーザーを理解したら? ニイチェが若しワグ ネルを理解したら? あらゆる争闘の歴史に於て、人間はその無智を証明している。闘う ところの人は、 いつも如何に寂しいかな! ●資格の欠乏 敵からの挑戦に対して、或る人はその抽象的のもの(理論)に腹を立てる。別の人々は 具体的のもの(人間)に腹を立て、筆者それ自体を憎悪する。一般に感情的な人物-詩 人や、文学者や、婦人なとーは後者に属する。彼等は理智的ケームの興味を解せず、し たがって論客たる資格がない。 ●私敵と公敵  純真で、正直で、しかも敏感な神経を持った人たちは、個人の敵に対して、いつも甚だ 臆病である。敵を傷害した後での寂しさや、人の好い気の毒さや、反対にまた、敵から示 されるであろうところの毒意やが、彼の意識の皮膚の上で、常に不愉快な蜘蛛の巣をか け、なやましく閉合するからである。そしてこの理由から、しばしばまた妥協的になり、 容易に勇敢な戦士になれないのである。  かく個人関係の私敵に対して、常に内気で臆病である人々は、公敵に対して一般に甚だ 勇敢である。なぜなら後の場合には、敵が箇々の人格でなく、その全体を包括したところ の、一の観念上の抽象概念II党派とか、主義とか、詩派とか、輿論とかーてあるか ら。此所では各ーの人間が意識されない。我々の銃剣は、人そのものを傷つけるのでな く、その人々の集団が観念している、一の主義や党派やを殺すのである。我々は個人に対 して私怨を持たず、道徳上の責任を感じ得ない。  この一つの事情からして、個人に対して怯儒な人が、しばしば戦場に於ての勇者であ る。逆にまた、戦場に於て卑怯であり、公敵を恐れておどおどしている人物が、個人の敵 に対して勇猛であり、私情の怨恨や嫉妬からも、傷害を加えようとする執意に燃えてる。 ●思想家と小説家  小説家の苦心は、ウソを事実らしく語り、想像を現実らしく見せるところの、表現の技 巧にかかわっている。思想家にあっては、それが丁度反対であり、苦心が裏側にひそんで いる。いかにして我々は、我々の実生活を読者に隠し、個人の具体的なる経験や現実感や を、一の抽象的な「真理」にまで、普遍化しようかと苦心する。そこで成功した小説は、 空想の世界に読者を欺き入れる。読者は小説にあざむかれ、実には作家の「作り話」にす ぎないものを、現実の「事実」であると思ってしまう。天分のある思想家等が、同様にし てまた成功する。即ちこの逆であり、読者は論理にあざむかれて、実には思想家の個人的 体験にすぎない「事実」を、一般について演繹さ孔てる、合理性のある「真理」だと信じ てしまう。 ●パノラマ風の意匠として  小説の読者等は、物語が事実であり、本当にあったことを希望する。すくなくとも本当 にあったかのように、手際よく、小説的イリュージョンの境地にまで導き欺いてくれるの を希望する。ところで昔は、読者が甚だ欺かれ易かった。殆ど現実に有り得べからざる、 荒唐無稽の冒険談や、運命が奇蹟的に都合よく出来てる恋愛談やが、あらゆるウソの見え すいてる〜山な描写にかかわらず、人の好い読者を釣り込むに充分だった。もっと昔は、 悪魔や死霊でさえが、現実に生棲していると考えられた。それからして昔は、一層思い切 ったロマンチックが成功した。彼等の古風な作品では、いつもその序でこう言ってる。 「この不思議な物語は、決して空想の産物でなく、実際にあり、私が経験した事実であ る。」と。ただそれだけで、読者がすっかり本気にしていた。  今日では、小説が甚だむずかしいものになって来た。今日の読者等は、容易なことでは 本気にせず、夢と現実とを区別している。「これは詩である」、古風な空想的な作に対し て、人々のする批判はこうである、「しかしながら現実ではない」と。これからして文学 は、レアリズムの写実小説に移って行った。我々の時代の作家等は、だれも現実に対して 忠実であり、事実を描くように強いられている。そこで或る智慧のない、低能以下の作家 たちは、彼自身の実生活や経験やを、事実ありのままに筆記する。成程! これがいちば ん現実的で、本当らしき記録である。だが小説のどんな読者も、決してそんな「真実」を 求めて居ない。なぜなら彼等は、小説の真実らしきイリュージョンを求めているので、意 味もなく感激もない、ただの事実そのものを探しては居ないのだから。何よりも人々は、 「記録」と「創作」とを差別している。芸術の意義は記録でなく、作者の構成する想像力 から、創作される限りに芸術なのだ。  そこで多くの作家たちは、一般にもっと芸術的で、ずっと気の利いた仕方を知ってる。 即ち彼等のテクニックは、実際に経験された「事実」と、そして事実らしき「作り話」と を、巧妙に旨くつぎ合わすのである。その小説的前景1ー丁度読者の|眼《め》が、すぐ近いとこ ろからそれを凝視し得るような地位。1に、こく僅かはかりの、体験した事実を並へて 置く。そして遠景の広い空間をは、彼自身の創作のために1自由な芸術的空想や主観的 意匠のために1残して置く。必要なテクニソクは、この前景と遠景とのつき目を充分に 手際よく、潭然と隠すことにかかっている。  パノラマ館の構造から、我々は丁度それを学んで来た。前景の実物と、そして後景の絵 画とが、そこではいかに巧みに、手際よく接ぎ合わされていることだろう。我々のすぐ眼 の前には、実物のこわれた民家や、砲弾に破れた兵士の軍帽などが散らばって居る。そし て向うには、ずっと視野の及ぶ限り、描かれた地平線が続いている。どこまでが絵で、ど こまでが実物だか、だれもその区域を識別できない。そして実際は、天幕の隙間から取っ た光線が、まるで空の|宥薩《きゆうりゆう》から来る、本当の明るさのように思われる。それからして 我々は、錯覚のイリュージョンに引き込まれて、真にそれが「現実のもの」であり、事実 の世界であると思惟するほど、それほど「実際の現実」を忘れてしまう。  我々の小説がまた、同じ巧妙の仕掛けに出来てる。そこの文学的パノラマ館で、読者は どこまでが事実であり、どこまでが空想であるかを判別できない。そして小説を事実と誤 解し、空想の経歴を現実の経歴と思い込むほとーそれによって作家やモテルやが、しは しは世間から誤解され、一身上の迷惑を受けるほとーそれほと完全に欺かれてしまうの である。 ●パノラマ風の意匠として  近代哲学の宇宙観が、同じまたパノラマ風の構想で演繹されてる。小説と同じく、哲学 もまた古代に於ては、甚だしく荒唐無稽のものであった。多くの古代哲学-1ーイオニヤ哲 学や印度哲学1は、純粋に主観上の冥想からして、詩的空想によるロマンチソクな宇宙 観を考えていた。(例えばアナクシマンドロスは、人間の先祖が魚類であると考えた。エ ムペドクレスは、動物の手足が別々に生え、後にそれが一緒になると説いた。印度の学者 の説によれば、地球は亀の背中に乗ってる一大平地で、その中央には何億由句という高山 がある。)  近代の人々は、もはやこうした価ん帥の空想を信用しない。我々の理性は、科学的根拠 による事実の外、何の哲学的宇宙観も承諾しないのである。「これは詩的な空想である」、 小説におけると同じく、古代の哲学に対しても、人々はまたそう考える、「しかしながら 科学上の事実ではない」と。そこで近代の哲学者等は、その形而上学的風景の前景にま て、あらゆる科学的事実-科学によって証明された概念Ilを並へ立てる。彼等は自ら 称して言う。我々は科学を綜合する。哲学によってのみ、科学の宇宙観は集成されると。 しかしながら哲学が、単に科学上の概念を整理し、それを統計するだけのものならば、哲 学の意味は何だろう? その哲学とは、百科全書のアルファベットを配列し、知識の索引 を整理するだけの役目であり内容なき形式文献の一部にすぎない。それが学問上のノンセ ンスであり、実の哲学に価値しないのは、丁度「事実を事実として描く」小説が、文学に 価値しないのと同様である。すべての哲学は、それらの科学的事実の上に、主観の宇宙観 を創作すべく、その点の独創にのみ意義を持ってる。  そこで近代の哲学者等は、彼等の宇宙的構想に必要なだけ、それだけ多くの題材と証明 とを、科学の方から借用してくる。その実物の道具立で、彼等の前景を飾りたて、次第に 遠景の思弁の方へ、読者を帰納的に導いてくる。そしてずっと遠方にまで、その形而上的 風景の空を仕切る、あの夢のような地平線の遥か向うに、彼等の神秘な「実在」や「|物自 爾《ものそのもの》」を透視させる。それからして人々は、どこまでが科学上の事実であり、どこまでが哲 学者自身の冥想であるかを判別できない。そしてパノラマ館の錯覚に於ける如く、うまう まと|人《 》工風景の|穽《わな》にかかって、時間と空間の意匠された、ふしぎな形而上学的実景を信ず るようになるのである。(代表的な一例として、ヘッケルの宇宙論や、ベルグソンの創造 的進化など。) ●あまりに没理性的なる  理智的であるよりも、もっと単純に感情的であるところの人々は、言語の正しき概念を 認識しないで、単にそれの附加されたる、感情価値だけを直感する。例えば「民衆」とか 「資本家」とかいう言語が、実は語義するところの意味てはなくI彼等の多くは、その 定義すらも知って居ない。1単に或る時代的の思潮によって、それが憎悪されたり尊敬 されたりするところの、言語の感情価値だけを直覚する。それ故に彼等は、丁度子供たち の言語に於て、大将が一切の善きものである如く、もしデモクラシイの時代に於ては、民 衆の語に一切の「善きもの」を分属させ、もし社会主義の時代に於ては、ブルジョアの語 に一切の「悪しきもの」を総括させる。  概ねの文学者の思想は、この種の子供らしき稚態に属している。彼等は理論を争うので なく、言語の感情価値でのみ、神経を争うにすぎないのである。 ●ブルタスの歎き 或る正直な義人等は、その憎むところの「敵」について、純に抽象の所在を見て居る。 たとえは彼等は、社会と人生の到るところに、多くの|敵悔《てきがい》する不義のもの1卑劣や、こ まかしや、不徳義や、欺隔やーを発見し、許しがたく熱情によって奮闘する。不義がも し個人にあったら、彼は親友と|錐《いえど》も用捨しない。しかしながら「敵」は、常にその不義に あって人物になく、抽象的なものにのみかかって居る。彼は個人の中に居るところの、憎 むべき不義に向ってかかってくる。そして刃を向けてるところの、個人の所在を見ないの である。それ故にシーザーが殺された時、ブルタスは眼に涙を浮べて言った。此所に横た わって居る死骸はたれか? ああシーザi! だれがこの残酷をあえてしたのだ! ●強者の弱さ 思想と争闘  その|讐敵《かたき》を持ってる武士は、大望が果されるまで、決して無用の私闘をせず、無頼漢に さえも道を避ける。大なる敵を有するものは、常に小なる敵を恐れ、無用の挑戦に応酬し ないで、理不尽の侮辱を忍び、卑屈にさえも見えるのである。      ●我々は尚あまりに感傷的でありすぎる  格闘は避けねはならぬ。1言論の上ても、行為の上でも。1負けて殴られれは腹が 立つし、勝って対手を叩きのめせば、後では心が寂しくなり、自分の兇暴な所為に対す る、切ない悔恨に悩まされる。      ●汝の敵を愛する勿れ!  汝の敵を愛せよということは、或る聡明の人にとって、知り尽すほど知り尽されてる。 1敵ほとにも、愛すへき者がとこに居るか? ー我等はむしろ、その反対を掲げると ころに、道徳の新しき律戒を持つのである。      ●悪の定義  悪とは無智なりという定義は、ソクラテスが考えたよりも、ずっと本質的の意味に於 て、千万無量の真理である。      ●敵の実体  親友に於て、人はその成ろうとするところのもの1理想、イテア、英雄Ilを見、憎 敵に於て、人はその成るまいとするところのもの1欠点、弱所、病気1を見る。故に 人についての観察は、その最も親しい味方と、その最も憎む敵とを、両方から公平に見ね ばならない。  一つの最もありふれた、しかしながら有効な精神分析法は、彼の最も力強く攻撃する敵 について、彼自身のひけめと本体とを、確実に見ぬいてしまうことである。例えばニイチ ェは、ショーペンハウエルを手きびしくやっつけていることによって、彼が後者の弟子で あり、門下の駿足にすぎないことを自白している。アリストテレスが同様であり、プラト ンを攻撃することによって、その弁証の方法すらが、師の伝授にすぎないことを証明して いる。それ故に老モネーは、彼の新しき時代に属する画家等が、すべて彼から叛いた時、 丁度その土俵の上で、愛弟子に投げつけられた力十の悦びを感じつつ、深い満足の情で言 った。「私の誇は一つしかない。今あらゆる新時代に属する人が、自分を敵として考えて いる。」 ●弁証論の誕弁  すべてのマルクス社会主義者は、その客観的な立場に於ては、社会のあらゆる現象を説 明して、唯物史観の弁証する真理を説いてる。しかしながら彼等自身は、その主観的な立 場に於て、決していかなる唯物史観も信じていない。もしそうでなく、自分自身で本当に 信じているなら、彼等の急進的な意志によって、今日の必然する社会を破壊し、明日の新 社会を創建しようとする運動すらが、馬鹿馬鹿しく不合理であり、無用の情熱になるであ ろう。けれども彼等はよく知ってる。唯物史観は「方便」であり、社会主義こそは実の 「目的」であることを。そして彼等の弁証論は、聡明にもこの点を達観し、方便を強説し ているのである。     ●或る敵国の人へ 私と彼と、感じていることの本質は同じである。 だけが、不幸にも矛盾しているのである。 ただそれを概念し、 理論づけてる言語 ●東洋の悔恨  印度の思想と文明とは、その古代にあった如く、今日も尚同様である。あの婆羅門のブ ラマとウパニシャッドとは、今日も尚印度人の思想を支配し、ミイラのように昔のままで 伝承されてる。同様にまた、支那が最近までそうであった。彼等の古代に於ける「天」の 思想や、老子や孔子やの哲学は、爾後数千年の歴史を通じて、変化もなく発展もなく、殆 ど同じ原始のままで、不易に支那人を支配して来た。一方で欧洲では、古代の希臘思想に 発したものが、後に様々に開展されて、文化の最も色彩多き発展と変化を尽した。  何故だろうか? 一方では昔の物が、昔のままに伝承され、少しの著しい発展もなく進 歩もないのに、一方では古代の種が、盛んに新しい思想を萌芽し、昔とは全く変って見え るほどにも、著しい発展と変化を尽した。何故だろうか? けだし支那人や印度人やは、 それの哲学的早熟からして、その文明の萌芽する初期に於て、早く既に「絶対」の認識に 跳び込んでしまったからだ。絶対! それこそは認識の最後に於ける、真の唯一つのもの である。それには前後もなく左右もない。前後左右の関係は、すべて相対の思考に属す る。故に絶対の観念からは、前もなく後もなく、発展もなく変化もない。それは数千年の 歴史を通じて、いつも同じ所にじっとして居り、静かな沼の水のように、不動で居る外は ないのである。最後にいつか、その水が全く腐れてしまう迄も。  東洋の文明が、今この点で悲歎しそ居る。実に我々の悔恨は、認識に於ける早熟性か ら、出発む誤£居たと言うことである。我々にしてこの道を歩くならば、相互に左右の 足を動かし、概念の抽象と分析から、一歩|宛《ずつ》前へ進んで行かねばならなかった。そうでな く、もし絶対の直観から、上に向って飛躍しようとしたならば、いつも同じ地点に於て、 同じジャンプを繰返す外になく、文化の発展は止ってしまう。そして東洋がそのジャンプ をした。西洋のあらゆる相対文化が、最後に帰結せねばならない到著点へ、我々は最初か ら立脚して居た。そしてすべての認識が落ちる「最後の墓」へ、あわてて出発に跳び込ん だのである。 今、東洋の新しい悔恨が、歴史を逆にさかのぼって、抽象的思想の第一歩へ、最初の振 り出しを帰そうと試みて居る。すべてに於て我々は、自然の子供から出直さねばならない のである。