僕の文章道 萩原朔太郎  僕の文章道は、何よりも「解り易く」書くということを主眼にしている。但し解り 易くということは、くどくどと説明するということではない。反対に僕は、できるだ け説明を省略することに苦心して居る。もし意味が通ずるならば、十行の所を五行、 五行の所を一行にさえもしたいのである。特に詩やアフォリズムを書く時には、この 節略を最小限度にして、意味を暗示の中に含ませることを苦労する。もしそれが可能 だったら、ただ一|綴《つづ》りの言葉の中に、一切の表現をし尽してしまいたいのである。し かし普通の散文、特に論文などを書く時は、暗示や象徴でやるわけに行かないので、 多少冗漫な叙述風になるのは止むを得ない。しかしその場合でも、僕は出来るだけ簡 潔に、そして意味をはッきりと、明晰に解り易く書くことに苦心する。僕は自分自身 の頭が悪く、注意力が他へ放散し易い気質なので、他人の書いた文章でも、少しくど くどして叙述が混脈している類のものは、到底難解で読むに耐えない。それで僕の好 きな文章家は、昔から森鴎外と芥川龍之介の二人であった。二人の文学上の傾向はち がって居るし、芸術品としての内容価値でも、必ずしも僕が私淑するというわけでは ないのであるが、文章そのものが明晰であり、如何にも簡潔で解りよい点が好きなの である。  論文を書く場合、僕は特にこの「解り易い」ということに苦心する。と言うのは、 一体日本人の書く論文という奴が、文章の難解さと混脈さで、いつも僕を不愉快に苦 しめるからである。西洋人の書いた哲学を、西洋の原書で読むとよく解るが、日本人 の書く哲学書類は、始めから難解で一頁も解らない。と谷崎潤一郎氏が「文章読本」 の中で言っている。これは全く正直な告白である。僕もかつて心理学に興味をもち、 当時出版された日本の学者等の著書を読んだが、始めから表象だの連想だのという専 門の術語が飛び出してくるばかりで、実に乾燥無味の上に難解至極の学問なので、何 れも始めの五頁位しか読まないで投げてしまった。然るにその後、偶然の機会でエビ ングハウスの心理学や、ウィリアム・ゼームスの心理学やを、原書に忠実な翻訳で読 んでから、始めてその学問の意味と面白さが解った次第だ。  もっとも僕等の文学者が書く論文は、そうした学術上の論文ではなく、筆者の直感 や主観的情操を主にしたエツセイ風のものであるから、思想上の意味で難解というこ とはない筈なのだが、それがどうも実際には、難解が多すぎて困るのである。特に就 中、詩人という連中の文章は難解である。必要もない所に、むやみに学術上の専門用 語を使ったり、故意に(としか僕には思えない)気取った言い方をして、詭弁学風に 曲説をし、無理にロジックを混脈させて難解にして居るのである。僕の見るところに よれば、これは詩人の若い年齢がさせる所の、一種のペダンチシズムの乳臭であり、 稚態のダンディズムであると思う。そこでまた同じような若い詩人が、そうした論文 を見て感心し、諸方で喝采をするのである。解って喝采をするのではない。読者もま たその筆者と同じように、その難解な言葉や文章に威権を感じ、解らないことによっ て偉さを思い、少年のペダンチシズムとダンディズムとで、一種の「酔」を感じて悦 ぶのである。  僕の文章や論文は、こうした少年諸君に歓迎されない。のみならずこれらの人か ら、いつも平凡なつまらぬ真理、即ち「常識的」だと言って軽侮される。ところで真 理というものは、いつも極って「平凡な常識」にしか過ぎないのである。ニュートン が発見した引力の真理は、木から林檎が落ちるという、だれも知ってる平凡な事実 を、単に学術上で説明づけたに過ぎなかったし、仏陀が発見した一つの真理は、人生 の真の救いが、宗教の外見上の儀式や苦行にあるのでなく、自己の心の直接な救済に あるということだった。真理というものは、人の知らない奇矯なことを言うのでな く、だれもみな心の底ではよく知って居り、本能的には充分解って居りながら、意識 上で忘れて居り、認識に反省されて居ない一つのことを、新しく取り出して提出し、 弁証づけることの価値を言うのだ。最も手近い例を言えば、真の詩的精神を表現すべ き筈の正しい詩が、散文とちがった特殊な音楽性(調べ、しおり)を必然に欲求すべ きこと、或は内容上で、散文とちがった高度の主観的情緒性を持つべきことは、すべ ての詩を書くほどの人々には、必ずみな本能的、直感的に解り切ってる筈なのであ る。しかも多くの人々は、今日の散文時代を代表するところの、時潮的な散文主義の 文学論に同化されたり、或はそうした時流的な流行詩論に迷わされたりして、心の底 で本能が知っていることを、意識の上で否定して居り、自ら欺いて真理の認識を避け てるのである。僕が「純正詩論」で掲げたものは、何の新しいドグマでもなく奇説で もない。仏陀や、カントや、ソクラテスやの真理と同じく、すべての人々がよく知っ て居り、そしてしかも意識に忘れ、反省に昧《くら》まして居る一つのことを、特に義《ただ》しく提 出して、正に没落しようとしている詩のために、今日危機の鉄板を叩いたに過ぎない のである。  こうした自分の立場からも、僕は常に率直に物を言い、できるだけ解り易く、説明 を単純にし、文章を「判然明白に書く」ということを主義にして居る。ただ不幸にし て、僕は文才に乏しく、その上に論理的な冷徹の頭脳を欠いているので、結果が意図 と一致せず、読者に却って混乱矛盾の感をあたえ、難解の迷惑をかける場合が多いの である。此処には雑誌社の依頼に応じて、自分の意図する文章道の心がけを書いたに すぎない。