堺利彦伝 堺 利彦著 目  次  序 第一期 豊津時代(上) 第一期 豊津時代(下) 第二期 東京学生時代 第三期 大阪時代(上) 第三期 大阪時代(下) 第四期 二度目の東京時代 第五期 福岡時代 第六期 毛利家編輯時代 序  ブランデスが、クロポトキンの自伝の序に、こんな意味のことを書いている。  大人物の自伝に大体三つのタイプがあった。(一)自分はここまで踏み迷った。自分はかくし て真の道を見出した(オーガスチン)。(二)自分はこれほど悪いことをした。しかし誰が自分よ りも善いと言い得るか(ルソウ)。(三)一個の天才がかようにしておもむろに内外から発展させ られた(ゲーテ)。ところが十九世紀の諸名士の自伝になると、とかくこういう傾きを示している。 (一)自分はこんなに才能があって、こんなに賞讃を博した。(二)自分はこんなに才能があり、 こんなに美徳を持っていたが、それでもサッパリ認識されないので、非常な努力争闘の後、初め て名声を博するを得た。然るに今この自伝の著者(即ちクロポトキン)は、自分を語ることを好 む人物でない。この自伝の中には、自分の姿絵を眺めるという趣きが少しもない。懺悔もない。 感傷もない。悪たれもない。自分の罪悪も語らないし、自分の美徳も語らない。彼は読者に対し て、|卑陋《ひろう》な|打解《うちわけ》話をしない。彼はいつ恋に落ちたかを語らない。いつ結婚したかをも語らない。 読者はただ事のついでに、彼が遂に結婚していることを知るだけである。彼は自分の心理よりも、 他人の心理を語り、自分の歴史よりも他人の歴史を語りたいのである。故に彼の自伝は、彼の生 涯中におけるロシヤの歴史であり、また最近半世紀における欧州労働運動の歴史である。  聖者オーガスチン、天才ゲーテ、それらはもとより私ごとき凡人の比類でない。さりとて私は また、ルソゥのような赤裸々のさらけだしも|到《さ さ さ》底出来ない。「十九世紀の諸名士」の真似だけは、 さすがに|為《な》し得ないと信じているが、気高くアッサリしたクロポトキンの態度に至っては、これ また到底及びもつかない。しかし私は今、もし出来得るならば、幾分なりともクロポトキンの態 度を学びたいと考えている。  自分の絵姿を眺めるという甘いところも沢山あるだろう。好んで自分を語るという馬鹿な癖も しばしば出るだろう。多少の懺悔、多少の感傷、多少の悪たれもあるだろう。卑陋な|打解《うちわけ》話も出 て来ないとは限らない。それでいて、偽善、修飾、弁解、隠匿の数々もあるだろう。しかし私は、 それらのすべてにも|係《かかわ》らず、なおこの自伝が、明治大正の社会史として、杜会運動史として、多 少の意義あれかしと望んでいる。         *                    *                    *  私は「日本共産党事件」のため、禁錮十月(未決通算百二十日)の刑を受けるべく、今日入獄 します。その前に、この自伝を全部書きあげる腹案でありましたが、ヤット前半だけしかまとま りませんでした。この前半は去年『改造』に連載したのを、多少訂正したり、増補したり、削除 したりして、それに最後の一章を追加したものに過ぎません。    大正十五年六月二十日 堺利彦序 第一期豊津時代(上)  |堺利彦《さかいとしひこ》は貧乏士族の子であった。明治三年十一月二十五日に生れ、明治十九年(十七歳)の春 まで、福岡県|豊前《ぶぜんの》国|京都《みやこ》郡|豊津《とよつ》で育ち、その間に「郷党の秀才」として、小学校、中学校を卒業 し、それから「|笈《きゆう》を負うて」東京に遊学した。彼の生涯の第一期の歴史は、要するにこれだけだ。  しかし豊前国豊津! それが彼に取って、日本国中でたった一つの、いかなる物にも代えがた い懐かしの故郷である。十六年の春秋をそこに過して、(ッイ浄瑠璃のさわりめいた|丈《 ささ》句が出た が)、彼はまずその性格体格の根本を、そこの環境から作りあげられた。彼は今、現在の私をし て、悦惚たるエクスタシーの感を以て、あえてその当年の事物を回顧せしめる。 伝説的な故郷 |豊津《とよつ》という処を地理的に説明するなら、 低い丘陵の一と塊まりとでも言おうか。豊前国中第一 の高山たる|英彦山《えいげんざん》(俗に|彦山《ひこさん》)から流れ出る二つの川、|今川《いまがわ》(あるいは|犀川《さいがわ》)と、|祓川《はらいがわ》(あるいは |綾瀬川《あやせがわ》)とが、僅かの距離で相並んで流れているその中間に、彦山の山脚の一つが長く突出して、 その尖端が|痩《や》せ松原で蔽われた低い丘陵の塊まりになっているのが、即ち我が藍津である。それ を海岸の方から見れば、今の|行橋町《ゆくはしまち》から一、二里ばかり引込んだ処の、低い山の上の野原である。  昔はこの蟹津の地をナンギョゥバルと呼んでいた。バルは|原《はら》の土音である。ナンギョゥバルの 昼狐という言葉が残っているので、その荒涼たる野原の様がしのばれる。旅人が弁当の握り飯を 烏にさらわれるという話を、私が何かのついでに聞き覚えているのも、このあたりの昔の様を想 わせるに足る。ところがまた、ニシキバル(|錦原《にしぎばら》)という、打って変った別の名称がある。ある 時ここに遊女めいた者のいたことがあるという話も、私の小耳に残っている。そこでこの錦原と いう美しい名称も、昼狐という凄い丈句も、同じくその遊女屋に事寄せたものかも知れぬという 解釈もある。さらに遥かの昔に|逆登《さかのぼ》って見ると、ここは穴居人種の住んでいた一村落である。今 は|甲塚《かぶとづか》と呼ばれている、尖端中の尖端たる一地域には、|甲《かぶと》の形をした、丸い大きな土饅頭が、幾 つも幾つも残っている。入口の|塞《ふさ》がっているのもあるが、中にはチャンと、石で囲うた、真四角 な、入口の開いているのもある。当年の私らは、よくその中にはいって、|焚火《たきぴ》などして遊んだも のだ。今はこの尖端から海岸まで一里余りもあるが、昔はこの尖端まで海が湾入していたのだろ うとも言われている。それは幤津という名称からも考えられるし、また甲塚のすぐ下に大きな池 が二つあって、それが海の方へ長く延びている様子が、いかにも湾の名残らしく見えるところか らも考えられる。祓川の岸には土中から貝殻の出る処もある。さすればこの豊津は、野蛮人の穴 居集落であったこともあり、また舟つきの一小村落であったこともあり、またある時には、どう かした事情の下に、遊女のすだく野中の|宿《しゆく》であったこともある。  こういう伝説的な我が費津、ー.およそいかなる土地にも、このくらいな伝説のない処はない のかも知れないが、自分の故郷をなるべく多く伝説的にして見たいのが、私のささやかなロマン チシズムである。そこで、こういう伝説的な我が盟津が、明治維新の際、偶然にも藩政の中心地、 従って我々十族の居住地となった。  |豊前《ぶぜん》六郡(今では四郡)十五万石は小笠原家(今の|長幹《ちようかん》伯爵家)の所領で、小倉がその居城で あった。然るに慶応二年、徳川幕府の長州征伐の時、幕府の親藩として九州方面の|先手《さきて》を|承《うけ》たま わった小倉藩は、戦い利あらず、城を焼かれて退却した。そして新たに地を費津に|相《そう》して、そこ に城を築くことになった。伝説的な我が費津の痩せ松原は、かくてまた一つの珍しい大きな運命 に遭遇したのである。ところが、それから間もなく幕府が亡びて、慶応四年が明治元年と変り、 引続いて藩籍奉還、廃藩置県となったので、費津の城下は未成品のまま、まだほんの荒ごなしの まま、新時代の雨風の中に放り出された。そこに整津の特殊性がある。 二 松原の士族屋敷        こく  にんぶ ち                                   ご しよいんばん     お 栄かじよう  堺家は元、十五石四人扶持という小士の家柄であった。私の父はまず御書院番、次に御鷹匠、 それから|検見役《けみやく》、最後に|御小姓組《おこしようぐみ》を仰付けられたと、系図に書き残してある。江戸にも二度出府 している。最初は御参勤|御供《おとも》として、二度目は品川|御台場詰《おだいばづめ》として。だから私の父は、小禄とは 言え、まさに|一廉《ひとかと》のサムライであった。しかし私の目がようやく少しずつ費津の事物を見分ける ようになった時、私の父は既にサムライでなかった。腰に大小がさされていないのは勿論、頭に |丁髷《ちよんまげ》ものっかっていなかった。これを歴史に徴するに、明治の新政府が士民に散髪、脱刀、立礼 を許したのは、明治四年のことであるが、私の父は最も早く散髪した一人として、少し自慢らし く折々そのことを話していた。  私の父が既にサムライでないと同じく、豊津は既に城下でたかった。殿様と呼ばれた旧藩主は 既にこの地方を引揚げて、東京|住居《ずまい》になっていた。お城は  と言っても、子供の目に城という 感じを与えるような、高い石垣もなければ、|櫓《やぐら》のようなものもない、ただ平地に建てられた、や や大きな一構えの御殿に過ぎなかったがー、そのお城は、一部分は既に取り壊され、一部分は 閉め切ったままになっており、中ほどの一部分だけが仕切られて、小学校に使われていた。  そのお城のあたりを中心として、松原の間や谷あいに沿うて、士族の屋敷があるいは群集し、 あるいは散在していた。本来なら城下の屋敷町であるべきはずが、すべて松原と谷あいとであっ た。昔の山城を|鷲《わし》の巣に|喩《たと》えた話を聞いたことがあるが、その格で行くと、藍津の士族屋敷は烏 の巣と言ってもよかったろう。しかし、お城の辺を|頭《かしら》として、それに続く一条の大通りはまさに この豊津の原の脊髄であって、そこだけはさすがに少し城下の趣きを示していた。大通りの|上手《かみて》 の部分は本町と呼ばれて、、両側には士族屋敷が規則正しく立ち並んでいた。その中には「松の 門」あるいは「松の御門」と呼ばれた、御家老小笠原|織衛《おりえ》殿の老松竹林に囲われた、大きな奥行 きの深い屋敷もあったりした。本町に続いて|錦町《にしきまち》という町があった。一丁目から七丁目までの、 ほんの寂しい一筋町ではあったが、それがとにかくこの城下における商工の群れであった。そし てこの錦町の七丁目が前に記した甲塚に続き、その甲塚が行橋方面から豊津への、正面の入口に なっていた。  堺家の屋敷は、錦町の西裏に当る、|石走谷《いしばしりだに》という浅い谷のほとりにあった。家は玄関三畳、座 敷六畳、台所(茶の間)六畳、部屋四畳半、土間物置数坪の|萱葺《かやぶき》で、それに座敷の庭と、裏庭の 花壇と、竹藪と、野菜畑とが附属し、更に裏手には松山が附属し、表には小道を隔てて小松原が 附属していた。近処の家屋敷も大体皆、そういった風な烏の巣であった。 三 歴史上の事跡  ところで、私の幼い目が、この農津の家を中心として、四方の空間を見渡した時、まず西南の 正面に、高い彦山の二つの峰が重なりあって從耳えている。そしてその右左に、種々様々の形をし た遠近の山々-中には人間が尻をまくって見せているようなのがあったりして」それが紺 碧の色に連続|重畳《ちようじよう》して、三角形に私の眼界を限っていた。すべて陸地というのは、必ずこんな 風に、三方に山があって、一方だけが海に開けているものだと、幼い私は思いこんでいたらしい。 私が初めて東京に出た時、どちらを向いても山という物がないので、何だか締めくくりのない、 あるいは落ちつきのないと言ったような、不安らしい気持を感じたことがある。  何しろ私に取っては、この三角形の眼界が自分の天地であった。そしてこの天地が様々な歴史 上の事跡を私に教えた。まず神代の遺跡として、祓川の川口に「今井の舐園様」と称する神杜が ある。これはスサノオの|尊《みこと》を祀ったもので、その毎年の夏祭には、私らはいつもそこで、たらふ く|飴《あめ》を食うことを楽しみにしていた。次には|等覚寺山《とかくじやま》の|青竜窟《しようりようがいわや》がある。これは彦山の右翼の 右端に餐えた高山の中腹にある。その高山は頂上が一里四方の平野になっていることを以て有名 な|平峡野山《ひらおのさん》である。ある国自慢の国学者はこの平峡野が|高天原《たかまがはら》であることを論証して、『神代帝 都考』という著述を為し、以て大いに費前国の国威を宣揚しようとしたことがある。私はまさか それほどの愛国者ではないが、それでもやはり、平峡野の一里四方に秋草の咲きさかった時など を想像して見るくらいのアコガレを有している。従って文章上、かなりの脇道をしながら、平峡 野のことを記す気にもなったのである。さて、この平峡野の一里四方は、豊津から眺めた処、す こし右の方に傾斜して面白い恰好になっている。そしてその左の一角に高く隆起した処を、竜が 鼻と呼びなしているが、等覚寺山は即ちその竜が鼻の下の方にある。そこでその等覚寺山の青竜 窟とはそもそも何かと言うに、昔そこに|土蜘蛛《つちぐも》が住んでいて、景行天皇に誅伐されたと言われる 処である。私はその窟の中で初めて鐘乳石という物を見た。      くま只                          あんざいしよ         みやこ  景行天皇の熊襲征伐の時、我が霊前の国は畏くも行在所であった。京都郡という郡名もそのた めであり、|御所《ごしよ》が|谷《たに》という地名もある山間に残っている。また、築上郡の伝法寺村には天皇御手 植と称される|楠《くすのき》の木が残っている。それは現に、日本有数の大樹として珍重されているのだそ うだ。私はそれの見物に行った時、五人か七人かの少年が手を?ないで、やっとその木を取り巻 いたことを覚えている。次には国分寺がある。これは豊津のすぐ隣り村で、昔そこに国府のあっ たことを思い、また聖武天皇云々のことを思うと、何だかしきりにその辺の土地が尊いように感 ぜられるのであった。次には|椎《しいだ》田の浜の宮がある。ここは菅原の|道真《みちざね》公が筑紫に流された時、漂 着した処で、|綱敷《つなじき》天神として祀られてある。その頃の少年の間には、月の二十五日に天神講と言       菩筆           へいけ毟 うを催して、関書の競争をする習慣があった。次には平家蟹。平家の糸巻などいう伝説がある。 前者は、壇の浦で滅亡した平家の人々の怨みの相が、蟹の面に現われたというのである。いかに も、目を釣り、歯を食いしばった面影が見えている。糸巻というのは「|人手《ひとで》」のことだが、そう するとこれは、|入水《じゆすい》した女官たちの化身ででもあろうか。我々少年は、|馬刀《まて》貝のことを平家の《さ》|ち んぽとさえ|呼《さ 》んでいた。  最後に戦国時代の事跡が色々ある。彦山の左翼の山々の間に「|城《さき》の|郷《ごう》」という処がある。そこ は宇都宮|公綱《きんつな》の居城であったが、公綱が中津の黒田|孝高《よしたか》にたばかられて、釣天井で殺され、その ために落城した。彦山右翼の一部に馬ヶ嶽というがある。これは犀川のほとりにあって、豊津か らは最も近い、従って私に取っては最も親しい山である。ことに山の形に、名に負う馬の駈ける がごとき趣きがあり、ところどころ|斑《まだら》に|禿《は》げたのも面白く、頂上のそぎ落したように見えている |城趾《しろあと》に、五、六本松の|村立《むらだち》のあるのが、誠に好い眺めであった。(ただしその松はいつの頃か落雷 に遭って、今は一本もないと聞いている。)この山城は秀吉の九州征伐の時に落されたので、そ の間道の水の手を寄せ手に知らせた百姓の家には、その後、代々片輪者ばかり生れるという話が ある。その外、彦山左翼の|香春嶽《かわらたけ》、障子ヶ嶽など、皆な秀吉に落された山城である。私は友達と 三、四人連れで馬ケ嶽に登った時、その村立の松の下から|四辺《あたり》の眺望を|恣《ほしいまま》にしながら、意気豪 壮、皆で盛んに詩吟をやったことを覚えている。しかもその詩吟の中に「大風起って雲飛揚す威 |海内《かいだい》に加わって云々」という一句のあったことを、ことに明らかに覚えている。  こういう歴史を経て来た豊前の国の人物と山川との間に、徳川幕府の初年、小笠原氏がその家 来を率いて姫路を経て信州から移って来た。堺家は小臣ながら信州以来の古い御家来なのだから、 私は血統上、本統の九州人ではないはずである。しかし数代の婚姻中には、いつか必ずいろいろ の血が混入しているに相違ない。だから私はやはり、信州の武士の子孫である以外に、スサノオ 族の子孫でもあり、土蜘蛛の子孫でもあり、ーの子孫でもあり、菅公および平家の子孫でもあ り、処々の山城の武士たちの子孫でもあると信じている。また、血統のことは仮りに別としても、 私はこういう歴史上の事跡を伴う山川草木からして、直接に種々雑多の感化を与えられた結果、 そこに豊前人としての深い愛郷心が|兆《きざ》しているのだと思う。 四 小士族の日常生活  さて、こうした歴史的の天地における、伝説的の故郷における、松原の間の烏の巣における、 小士族の日常生活から記して見る。  朝起きると、父は井戸端か畑の脇かに立って、朝日に向い、かしわ手を打って|礼拝《らいはい》した。それ   わら                                                     ひうちいし から藁の茎を折りまげて、それに塩をつけて歯を磨いた。父の歯は白かった。母は台所で燧石を カチカチ言わせていた。燧石のことは、今の若い人は知らないだろう。左の手に白い燧石のかけ らを持ち、それにパンヤという、黒い綿屑のような、導火物を持ち添え、そして右の手に持った 打金でその石をヵチカチカチカチと叩くと、赤い|幽《かす》かな火の粉が飛び散って、それがパンヤに移 る。そうすると今度は、ツケギ(薄い長方形の木片の片端に硫黄をつけた物)でパンヤの火を燃 えつかせる。それからそのツケギの火を|竈《くど》の下の枯れ松葉につける。それが当時の、火を|持《こしら》える 方法であった。程なくマッチという便利な物が輸入されて、初めはスリッケギ、あるいは|唐人《とうじん》ッ ケギと呼ばれていた。  夜になると、|行燈《あんどん》がとぼされた。丸行燈は臨時の座敷用で、角行燈が毎晩の台所用であった。 その行燈とは、丸い、あるいは四角な、木のワクを白紙で張って、その内部に真鍮か何かの皿を 釣るし(あるいは据えつけ)、その皿に種油を入れ、その油に燈心の幾筋かを浸し、その燈心に 火をとぽすのである。私らはその角行燈のまわりで大きな字の本を読んだりした。母はそのそば で針仕事をしたりした。行燈の紙の針の穴が模様のように見えていたのが、今でも目に残ってい る。母はまたよく行燈のそばでブーンブーンと糸挽き車を廻していた。これがまた説明を要する だろう。  それ糸挽き車とはーこれを行燈の場合のごとく、正確に説明することは容易でないがー、 まず木製の台があって、それに竹製の輪車が取りつけられ、その輪車と、別に左手にしつらえて ある細い金属製の|錘《つむ》との間に、調べ糸が掛けられてある。それから別に持えてある綿のシノ(細 長い管のような形の物)を左の手に持ってその錘に軽くあてがい、そして右の手でその輪車の|柄《え》 を廻すと、錘が迅速に廻転するので綿の先がそれに巻きつく。そこで左の手を遠く左に延ばしな がら綿のシノを軽く引くと、自然にそれが細い糸になる。私には今、精密な記憶がないし、また その当時でも、精密にはその器械的作用を理解していなかったのだから、ここに十分な説明は出 来かねるが、何しろブーン、ブーン、ブーンと車が廻されると同時に、母の左の手にズンくズ ンくと糸が長く延びて行き、そしてそれが手の届くだけ延び切った処で、チョット車の回転を 戻すと、今度はたちまちその延びた糸がクルクルクルと錘に巻きついて行くのが、いかにも面白 く眺められていた。私は折々シノ作りの手伝いをした。それは、一升|桝《ます》を術伏せにしておいて、 左の手に箸を一本持ってその上に置き、いい加減に|千切《ちぎ》ってある綿を取ってその箸に当てがい、 それを右の手でゴロゴロと前後にころがし、そしてその箸を抜くと、前に言ったような、細長い 綿の管が出来るのである。私は極めて不器用な生れつきであったが、そうした簡単な作業だけは 辛うじて出来るのを、母が笑いながら巻、[めていた。  食事の時は、親子兄弟が銘々に小さい|箱膳《はこぜん》を控えていた。父の膳だけは抽出しが附いたりして、 特に少し大きく、一番弟の私のは一番小さかった。銘々が箱の中から茶碗と皿と箸を取りだし、 仰向けにした蓋の上に並べると、母が御飯とおかずを盛ってくれることは、今日と変りがない。 しかしおかずは、朝は大抵、漬物ばかりであった。|蕪菜《かぶな》の葉の漬かり加減の奴に熱い飯を包んで 食う時など、私らはそれを「頬冠り」と呼んで嬉しがっていた。もしその漬物の好きなのがない 時には、私はよく焼塩をこさえて貰った。茶碗の底に塩を詰めて、その上に炭火を載せ、しばら くしてポンと茶碗をはたくと、銭形の塩の塊まりが落ちる。それが即ち焼塩で、生塩とは違い、 既に一個のおか"になっていた。昼や晩には何か一品のおかずがあるが、それは大抵、味嚼汁、 湯豆腐くらいの外、内の畑の野菜ばかりであった。竹の子に|膚豆《とうまめ》(そら豆)などは、私の一番の 好物であった。魚を買うことは極めて稀で、折々口に入るのは|雑魚《ざこ》か|干鰯《ほしいわし》くらいであった。 五 正月と節分  次に正月のことを少し書いて見る。正月の準備は第一に餅つきで、餅つきは実に我々子供に取 って一年中の重大事件であった。餅つきは毎年、近所の村の百姓の若い者が組を作って、士族屋 敷をついて廻る習慣になっていたが、それが私の家には、いつでも大抵、朝暗い中にやって来る のであった。ソラもう裏の中村で音がする、この次が向うの大池で、その次が内だというので騒 ぎはじめる。やがて暗がりの中に、どんどん火の燃えている|竈《くど》を二つも三つも景気よく担いで来 る。それだけでモゥ子供らの気分は緊張してしまう。内では餠米を洗うておくだけの準備がして ある・餠つきの人たちは、すぐに持って来た竃と|釜《かま》とこしきとでその|米《ささ 》をふかす。火の勢いが盛 んだから、わけなくこしきから湯気が立登って米がふかされる。すると人々は、すぐにそれを臼 の中に移す。寒い空気の中に熱い湯気が真白にパヅとあがる。臼の両脇には二人の男が立ちはだ かっていて、銘々に細長い|杵《きね》を軽々と使って、ホラサ、エンヤサと、そのふかした米を掲きにか かる。今一人の外の男は、二つの杵の落ちて来る合間合間に、手をぬらしては臼の中を掻きまわ す。その早業が誠に見事な熟練で、それに伴う三人の間の掛声の呼吸がまた、ホラサ、エンヤサ、 ドッコイ、エンヤサといった風に、子供の心を飛びあがらせるような快活さを感じさせる。やが て合の手の男が「ヨシ来た!」といったような掛声を発すると二つの杵はピタリと止まって、真 白い柔かい餅の塊まりが、つるつると臼の中から攫み出される。すると母は、白い粉を敷いた板 の台を縁側に置いてその餠の塊まりを受取る。受取られた|塊《かたまり》はすぐにその粉にまぶされて、片 はしから小餠にちぎられる。それがまたなかなかの早業である。その小餅の恰好を直すくらいの 手伝いは、我々子供もやらされた。その間、父は何かの指図をして、小餠が幾臼、のし餅が幾臼、 外に豆入り、青のり、東山などの味つけが幾臼、まだその外、ぼんせい、|黍《きぴ》餅、粟餅などが幾臼 といった風に、様々の餅が出来あがる。餅つきの男たちは鮓餅か何かで酒をあおって、元気よく ドンドンと帰って行く。我々はまず何は置いて、出来たてホヤホヤの|牡丹餠《ぼたもち》を食う。  正月の第二の準備は、ユズリ葉とモロムキ(|裏白《うらじろ》)とを取って来ることで、それは我々子供の 役目であった。モロムキはどこにでもすぐ近処の川にあるが、ユズリ葉は滅多になかった。我々 は毎年それを宿見の山に取りに行った。あの茎の赤い、肉の厚い、|艶《つや》のよいユズリ葉がなくては、 正月が正月らしく感じられないのであった。それでユズリ葉とモロムキとが揃って、輪かざりも 持えられ、大きな鏡が床の間に据えられ、その多、神棚、|竈《かまど》、臼たどにも、それぞれ小さなお鏡 が置かれると、スッヵリ正月らしい気分が浮んで来る。鴨居の上にある神棚の前に、二枚重ねの 白紙が三並びも張られて、それが風に揺れているのも、神々しく見えていた。  元日、二日、三日の雑煮のうまかったことは言うまでもない。雑煮と言っても、小倉風として は、ただ餅を柔かくゆでて、それに出し汁をかけ、青菜のゆでたのを添え、花鰹を振りかけるだ けの、極めて簡単なものであったが、正式であることを信じ、またそのアッサリした味わいが真 の雑煮の味であることを疑わなかった。そして我々子供は、めいめい年の数だけ雑煮餠を食うこ とが原則になっていた。  正月の夜は誠にゆゆしいものであった。ゆゆしいという|古《    》めかしい言葉でも使わないと、その 気分が現われない。私としては、清少納言あたりに真似て、「いといみじ」とでも言いたいくら いである。まず神棚に幾つかの燈明があげられる。私の子供心はその|煌《こうこう》々たる光に射ぬかれて、 底の底まで浄化されるような気持がした。それから床の間、竈、臼、井戸、便所など、家の内外 数個所にも燈明があげられる。ただしこの燈明は、神棚のとは違って、臨時の別製である。即ち、 大きな大根を一寸余りの長さに切って、その片面を少しえぐり取って中をへこませ、そこに油を つぎ、燈心を入れ、そして火をとぽすのである。私はこの大根製の燈明を捧げ持って、座敷に行 き、竈に行き、臼に行き、さらに真暗がりの中の井戸に行き、便所に行って、|恭《うやうや》々しくそれを備 えつけて来た時の、一種神秘な、荘厳な感じを忘れることができない。また、台所の室内に坐っ て見まわす時、神棚の燈明を初めとして、座敷にも、竈にも、臼にも、到る処にキラキラとした 光のあるのが、まさにイルミネーションの感じであった。  三日から十五日までの間、|小豆粥《あずきがゆ》、七草の粥、|黄粉餅《きなこもち》(あベ川)、煮入れ(汁粉)など、色々 の餅の献立が珍しかった。ことに小豆粥を木の股に塗りつけてあるくのが面白かった。これは果 物のよくみのるまじないで、私らは茶碗に小豆粥を入れて左の手に持ち、右の手に箸を持って、 粟の木、柿の木、桃の木、梅の木、梨の木、|枇杷《びわ》の木などを歴訪して、「今年もようなってくれ いよ」と言いながら、小豆粥の餅を少しずつ箸で千切って、一々その木の股に捧げるのであった。  節分の豆まきも面白いことの一つであった。この日には儀式として、ダラの木と、トベラの葉 とが入用である。ダラと言うのは、枝の一つもない、ただ一本の棒のような幹の先に、くしゃく しゃと葉のついている木だが、その幹の全面に恐ろしい|鰊《とげ》が密生しているので、それが鬼はらい の役に立つわけだろう。儀式としては、その幹を一寸ずつくらいに切って、それを|竹串《たけぐし》に突きさ して、家の出口入口にさしておくのである。トベラと言うのは、臭い厭な匂いのする木だが、そ の葉を火で焚くと、パチパチパチパチと、爆竹のような音を立てる。その音がやはり鬼やらいの 効を奏するわけだろう。ところで、トベラの木は私の内の庭に一本あったが、ダラの木は滅多に ない。ただ一個所、|彦徳村《けんどくむら》の川岸にあったので、私らは毎年そこへ切りに行った。(このダラの 木を私は外の土地で見たことがなかったが、ッイ先年、宝塚の道ばたに沢山はえているのを見 た。)ダラもトベラも私らの手で揃えた上で、母がいり|豆《さち》を持えてくれる。夕方になって、私ら が室内各処にそれを撒き、あるいは襖にほうりつけ、あるいは天井にブッつけて、例の「福ア内、 鬼ヤ外」を怒鳴り散らす。それから夜になって、皆でその豆を拾い集め、めいめい自分の年の数 だけ紙に包み、その紙包みでからだ中を撫でまわす。勿論、健康のまじないだ。それで撫でまわ しが済むと、今度はその紙包みを襟筋から背中へ入れて、尻から裾ヘストンと落す。それで厄が 落ちるわけだろう。それから今度は、その紙包みを皆集めて、一年中使いふるした火吹竹の中に 詰め込む。そしてその火吹竹を棄てに行く。勿論それは私ら子供の役だったが、その棄て方には 面倒な条件があった。第一、必ず四辻に棄てること。第二、帰りに後ろを振向いてはならぬこと。 私らは厳重にこの条件を履行しつつ真暗い四辻を跡にして脇目も振らず帰って来るのであった。  その外、七夕のこと、ちまきのこと、大根引きのこと、芋掘りのことなど、書けばいろいろ面 白いと思うこともあるが省く。 六 私の父  私の覚えている父は既に五十であった。髪の毛などは既にやや薄くなっていたように思う。 「何さよ気分に変りは無いのじゃがなア」たどと、若やいだようなことを言うていることもあっ たが、何しろ私の目には既に老人であった。名は堺|得司《とくじ》。  父の顔にはかなり多く|疱瘡《ほうそう》の跡があった。いわゆるジャモクエであった。しかしその顔立ちは 尋常で、むしろ品のよい方であった。体格は小柄で、しか屯痩せぎすであった。サムライのた《ち 》|し なみとしては、|剣《 さ》術よりも多く柔術をやったらしい。弓も少しは引いたらしい。喘息持ちでずい ぶん永く寝ていることもあったが、ズット年を取ってからは直っていた。そういう体質上、力わ ざはあまりしなかったが、元来が器用なたちで、よく|大《ささ》工の真似をやっていた。大工道具はすっ かり揃っていて、棚を釣る、ひさしを|拒《さ  》えるくらいのことは、人手を借らずにズンズンやってい た。  学問はない方の人で、四書の素読くらいはやったのだろうが、ついぞ漢学なり国学なりの話を したことがなかった。ただ俳譜は大ぶん熱心で、後には|立机《りっき》を許されて有竹庵|眠雲《みんうん》宗匠になって いた。『風俗|丈選《もんぜん》』などいう本をわざわざ東京から取寄せて、幾らか俳文をひねくったりしたこ ともあった。碁もかなり好きだし、花もちょっと活けていた。私も自然、その三つの趣味を受け ついでいる。花の方は、別だん受けついだというほどでもないが、「遠州流はどうもちっと持え すぎたようで厭じゃ。俺の流儀の池の坊の方がわざとらしゅう|無《の》うてええ」というくらいの話を 聞いている。そういうことは多少、私の処世上の教訓にもなったような気がする。碁について一 つおかしいことがある。初めて私の家に碁盤が運びこまれた時、父はそれを|余所《よそ》からの預かり物 だと言っていた。しかし私らは、いつの頃からか、決してそれが預かり物でないことを知ってい た。思うに父は、私らに対して、望むだけの本など買ってやらないのだから、自分の娯楽のため に金を費すことを遠慮したのだろう。しかし私は、それについて何も言ったことはないし、ただ むしろ父の遠慮に対して好い感情を持っていた。  父の俳句に「夕立の来はなに土の臭ひかな」というのがある。これなどは豊津の生活の実景で、 初めてそれを聞いた時、子供心にもハハアと思った。豊津の原にはよく夕立が来た。暑い日の午 後、毎日のように|極《きま》ってサーッとやって来るのが、いかにもいい気持だった。そしてその夕立の 来はなに、大粒の奴がパラくパラくと地面を打つ時、涼気がスウーッと催して来ると同時に、 プーンと土の臭いが我々の鼻を|撲《う》つのであった。「かんざしの|脚《あし》ではかるや雪の寸」などという のも、私の子供心には別だん|艶《えん》な景色とも思わず、ただ眼前の実景と感じていた。「百までも此 の友達で花見たし」「菜の花や昔を問ヘば海の上」「目に立ちて春のふえるや柳原」などいうのも 覚えている。系統としては美濃派だとか、支考派だとか言っていた。しかし父の主張としては、 「俺はもげた|句《さち 》が好きじゃ」と言っていた、もげたとは|奇《ヤちさ》抜を意味する。ついでに少し後のこと だが、私はある時、父から俳句で叱られた。「我が顔の皺を見て置け年の暮」これには実際ギク リと参った。  これも後に、「明月や畳の上の松の影」という古人の句を初めて見た時、なるほどハハアと、 私は心の中で手を打った。曽てその通りの景色が費津の家にあった。そしてそんな時、火を消し てその月影の問に寝ころぶと言ったような趣味を、自然に父から養われていたのであった。  しかし父の最も得意とするところは、野菜つくりであった。私が今、私の少年時代における父 の姿をしのぶ時、それは|炬燵《こたつ》にあたっている姿か、さもなくば畑いじりの姿である。ことに、越 中褌一つで、その前ごをキチンと三角にして、すっばだかで菜園の中に立っている姿が、今も私 の目の前に浮ぶ。五日に一度くらい働きにくる小六という若い百姓男を相手にして、父はあらゆ る野菜物を作っていた。大根、桜島、蕪菜、朝鮮芋(さつま芋)、|荒苧《あらお》(里芋)、|豌豆《えんどう》、唐豆(そ ら豆)、あずき、ささげ、大豆、なた豆、何でもあった。|茄子《なす》、ぼうぶら(かぼちゃ)、人参、|牛 蒡《ごぽう》、瓜、黄瓜など、もとよりあった。|蕗《ふき》もあり、みょうがもあり、|唐黍《  ささとうきぴ》(唐もろこし)もあり、 葱もあり、ちしゃもあり、らっきょもあった《 さちさ ささ》|。  ことに西瓜は父の誇りであった。あの大きな丸い奴が、あるいは青く、あるいは白く、朝の畑 に露を帯びて転がっているのを、私はよく父の尻について検分に廻ったものだ。苗の時から、花 落ちの時から、いろいろ苦心して育てた奴が、一日一日に膨大して、とうとうここまで、一貫目 以上もあろうというところまで大きくなったのだから、父が上機嫌で破顔微笑するのも無理はな い。私としても、虫坂りの時から父の助手を勤めているのだから、幾分か成功の光栄を分有する 権利があるわけであった。虫取りの時には、粘土を水でネバネバにした奴を茶碗に入れておいて、 葉裏や若芽にとまっている黒い小さい虫を見つけては、そのネバネバを附けた箸の先で、ソット 苗にさわらないようにして取るのだった。それから花落ちの時には、ッケギで立札をして、その 月日を記しておくのだから、およそ何日間であったか、それは忘れたけれども、大体成熟の日取 りになって、父が小首を傾けながら爪の先で|弾《はじ》いて見る。コンコンカンカンというような響きの 出る間は、まだ少し早い。「もうアサッテかシアサッテじゃろう」と言いながら、毎日弾いてい る中、少しボトボトという音がして来る、サアもうしめたというので、それをちぎる。大抵の場 合、私の主張は父の意見に依って一日二日延ばされるのであった。さてそれからが大変で、それ を食う日時が容易に決定されない。アシタにせよとか、アサッテにせよとか、毎日食うては悪い とかいう親たちの意見に依ってとかく私らの即時断行説が阻止される。それからいよいよ日時が 決定されると、その日の早朝、あるいは前夜、その西瓜を細引でしばって|井《いど》につける。午後にな って、私らが学校から戻って来ると、その冷えきった西瓜が|井《いど》から引上げられて、まず母の庖刀 で真二つに切られる。グウ、グウという音がして、庖刀が西瓜の胴体に食いこんで行く時、果し てそれの赤いか否か一刻も早く|見究《みきわ》めようとして、私らが息を殺して|覗《のぞ》きこむ。「オ! 赤いぞ な!」と母がまず希望の叫びを揚げる。やがてグウグウ、ザクザクと、その胴体が二個の半球に 切り割かれた時、「ほう! 見事じゃのう!」と父がサモ嬉しそうな感嘆の声を発する。その中、 半球がさらに二つに割かれて、ザクリ、ザクリ、赤い山形が続々と切り出される。私らは物をも 言わずに、行きなりそれにかじりつくのであった。ただ一つ私の不満で堪らないのは、父母が馬 鹿に念を入れた、腹下しの用心からして、ついぞ一度も、思う存分、食わせてくれなかったこと である。  西瓜について一つおかしい話がある。お隣りーと言っても、裏の松山の間の小道を二十|間《けん》ば かりも行った処だがーそのお隣りの中村という家では、どういうものか西瓜を作らない。「あ そこの|嫁嬢《よめじよう》は西瓜が大好きじゃちゅうのに一度も食べんで気の毒じゃ」と言うので、ある日の西 瓜切りの時、母がその嫁嬢を呼んで来た。嫁嬢は大喜びで散々食べて行った。ところが、その嫁 嬢、ちょうど臨月であったのだが、その晩、急に産気がついた。サァ私の内では大心配をした。 西瓜が当ったのではあるまいか。もしかそうだとすると申しわけがたい。余計のことをせねばよ かった! ことに母は、気が気でなく騒いでいた。しかしお産は幸いに無事で、好い女の子が生 れたので、西瓜は却って手柄をした。  父はまた、野菜作りばかりでなく、屋敷内に竹林を作り、果樹をふやし、花物を植えつけ、|接 穂《つぎま》をするなど、いろいろ計画を立てて実行した。茶の木も少しあった。煙草の少し作られたこと もあった。蓮池の計画もあったが、これは実現されなかった。珍しい物としては、甘茶の木だの、 |三叉《みつまた》の木などがあった。桑の木のことは、後に記す。  父は煙草も好き、酒も好きだった。晩酌の一合ばかりを、ちしゃの|葉《さちさ》に味嗜をくるんで頬ばっ たりしながら、ちびちびやるのがよほどの楽しみであったらしい。いよいよ飯の菜や酒の|肴《さかな》のな い時には、いかけ貝か何かに菜漬を入れて、鰹節を少し振りかけて煮るのが父の発明で、それを 北 ぐき                     、」うのも砌                     す 「煮茎」と呼んでいた。「ただの香物でも、こうして煮ると皆が好くけえ、これは煮茎じゃのうて 煮ずきじゃ」などと言って面白がっていた。  父は|律義《りちぎ》な人であり、正直な人であり、キチンとした、小心の人であった。そして多くの場合、 機嫌のよい人であったが、どうかするとかなり不機嫌の時もあった。私としては、ある時、意外 なことで叱られたことがある。それは私より二つばかり年上の、少し裕福な家の友達が詩を作っ ているのを見て、私も真似したくなって、たしかそれに関する雑誌が買いたいとか何とか言いだ したところが、そんなことを見習うほどなら、あんな友達とつきあうのをやめてしまえと、さん ざんにきめつけられた。私としては、金がないから買ってやれぬと言われるのなら、少しも不平 など起さぬつもりであったが、友達とつきあうなと言われたのが不平で堪らなかった。しかし父 はその後、東京に行っている兄の処に言ってやって、『作詩自在』という小さい本を取寄せてく れた。私はまた、その事件のつづきであったかどうかは忘れたが、その頃、父から横面を平手で 烈しくぶたれたことがある。私がよほど|悪《あく》たれたことでも言ったからであろうが、私としては、 悔しくて悔しくて、ずいぶん永いあいだ泣いたように思う。そして一生涯、その不愉快の感じが 幾らか残っていた。  また、私は父に対してこういう滑稽な不平も持っていた。私は犬が好きで、途中で犬に会うと、 口笛を吹いてやったり、頭を撫でてやったりして、仲好しになってしまう。そして結局、内まで 連れて帰って来る。ところが、せっかく内までついて来た奴に対して、何らの愛矯をすることが 私に出来ない。私はそれが堪らんほどつらい。私としては、餠の一|片《きれ》なり、飯の一塊まりなり食 わせてやりたい。しかしそれは父から禁じられていた。そんな癖をつけると、いつかその犬が内 の犬になってしもうて困る、と言うのであった。貧乏士族の生活としては、犬一|疋《びき》の食い料も問 題であったに相違ない。だから私も勿論、犬を飼おうとは言わない。また必ずしも毎度飯をやろ うとは言わない。そこで私は父と協定して、犬のお客のあった時には|糠《ぬか》を一にぎりだけやること にしていた。ところが、それすらも父はあまり喜ばなかった。思うに父は、糠一にぎりを惜しん だわけではなく、犬の愛に溺れそうな傾きのある私の性情を危ぶんだのだろう。しかし父も、毎 晩の食事時に必ずやって来る習慣になっていた隣家の犬に対しては、黒、黒と言って、鰯の頭な ど投げてやっていた。  しかし私はまた、深く父の寛大に感じていることがある。ある時、私の家に東京の親類から 「鶴の子」という結構た菓子の箱が送られて来た。一つだけ貰って食った時、おそろしくうまか った。その後も欲しくて堪らないが、なかなか貰えない。あんな結構な物をムザムザ食うもので はないと言って、父はそれを部屋の高い棚に上げてしまった。それから幾日たった後のことか知 らんが、父も母もどこかに行って、私ひとり内にいた。フト悪心を起して、踏台を持って来て棚 の上の鶴の子を取った。勿論たった一つだった。露見するかどうかと|窺《うかが》っていたが、誰も何とも 言わない。そうこうする中に、また機会があって一つ取った。とうとう三つ取り、四つ取り、五 つ取った。もういよいよ露見しないはずがない。幾ら年寄りがぼんやりでも、五つも不足してる のに気のつかんはずがない。困った、困ったと思いながら、また幾日も幾日も過ぎたが遂に誰も 何とも言わなかった。結局、そのことはそれきりで、年寄りなどという者は随分馬鹿な者だくら いに考えていた。そして、ズット後になって、私が自分の浅はかさに思い当って、今さら冷たい 汗を流したのは、父も母も亡くなってしまってからのことだった。  今一つ、私は父の机の抽出しから一円紙幣を盗んだことがある。その頃の一円は少なくとも今 の十円の値打ちがあった。子供としては大金であった。私はすぐにそれを持って町に行き、|新店《しんみせ》 という店で、|唐紙《とうし》と白紙をたくさん買った。たくさんと言っても五銭か十銭かだったろう。そし て釣がないからと言うので、代は払わずに帰った。唐紙と白紙を買ったのは、その頃、少し文人 風の書画の真似をやりかけていたからであった。ところが二、三日後のある日、母が私を連れて 屋敷内を歩いていた。何か母が私に言いたいことがあるのだと直感された。私は非常におそろし くなった。しかし母の態度は平生よりも|柔《やさ》しかった。竹藪の片わきの、梨の木の下に来た時、母 はいよいよ口を切った。「|利《とし》さん、ひょっとお前は11」サア来たと私は思った。しかし母は非 常に柔しく、非常に遠慮がちに「ひょっと」「ひょっと」を繰返して、そうならそうで仕方がな い、決して叱りはせぬから、とにかく素直にそれを出してくれと言った。私は非常た|慚愧《ざんき》を感じ て、一も二もなく|兜《かぶと》をぬいだ。父はそれについて、遂に二言も言わなかった。  ついでに今一つ私の盗みを書きつけておく。その頃、|錦町《にしきまち》のある小間物店で、私は人のそばで 遊んでいるようなふりをして、柄のついた小さい虫眼鏡を一つ盗み取った。それを通して物を見 ると、何でも素晴らしく大きく見えたので、面白くて仕様がなかった。しかしそれを友達に見せ て自慢することも、一緒に面白がることも出来ないのが、非常に殘念だった。同時に、もしか露 見しやせぬかという恐怖が盛んに起って来た。もうそうなると、ただそれを持ってることだけが 大変な苦労で、毎日毎日どうしたものかと心配していた。いっそ元の処に持って行って返そうと 決心した。しかし気がつかれないように返すということがまた大変だった。そうこうする中、幸 いなことには、ある日どこかでその虫眼鏡を落してしまった。それを落したと気がついた時、私 は実にホッとして安心した。 七 私の母       一与 しづの  私の母、名は琴、志津野氏、父より二つの年下で、父に取っては後添えであった。父の初めの 妻は小石氏で、私の長兄平太郎を残して死んだ。そのあとに私の母が来て、私の次兄|乙槌《おとつち》と私と を生んだ。私の母が私を生んだのが四十二歳の時、兄を生んだのが三十八歳の時だったはずだか ら、思うに、母は三十六、七歳の時、堺家にとついだものだろう。  かように母はずいぶんの晩婚であった。それには理由がある。もっとも、そんなことは、私が |大人《おとな》になってから独りで自然に考えついたことで、誰に話を聞いたのでもなく、また少年の頃は 全く何の気もつかずにいたことである。母は甚だしいジャモクエであった。その頃の人としては、 「キンカ上品、ジャモ柔和」というコトワザがあった位で、一通りのジャモなら一向問題にたら たかったのだが、母のジャモはかなりひどかった。鼻の穴が片方はほとんど塞がっており、鼻筋 は全く平らに押しつぶされていた。女としてそういう|顔容《かおかたち》になった以上、まず嫁入りは六かしい はずである。ただ、私の父が女房に死なれて貧乏世帯に子供をかかえて当惑した時、そこにほぽ 双方の境遇が平均したものと考えられる。その外にどういう事情があったのか、私は少しも知ら ない。何にもせよ、母の晩婚の理由がその容貌上の大弱点にあったことは確かだと思う。しかし、 そういう差引算用の結婚が必ずしも夫婦の愛を害するものではなかった。またそういう見苦しい 晩婚の女の腹から、二人の立派な(!)男の子が生れるのに、何らの差支えがなかった。またそ の生れた子供が、母に|懐《なつ》き、母にすがり、母を慕い、母を愛するのに、その母の醜い容貌が何ら の妨げにもならなかった。実際、醜いと感じたことすらなかった。  しかしこういうことがあった。ある日、私が鳥わなの見廻りか何かに行って来ると、内には母 がたった一人で|炬燵《こたつ》にあたっていた。その顔がよほど変に、私に見えた。|白毛《しらが》まじりの髪が乱れ かかっているところなど、物凄いような気がした。もしかこれが、狸か何かが来て母を喰い殺し て、その代りに化けているのではないかと、私は思った。しかし母がやがて笑いを含んで話しは じめると、そんな怪しみなど勿論すぐ消えてしまった。私としては、若い美しい母などというも のは、ついぞ考えたこともなかった。  母は|平仮名《ひらがな》以外、ほとんど丈字というものを書いたことがなかった。しかし耳学問はかなりに 出来ていた。里方の志津野家が少し学問系統の家であったのと、三十幾つまで「行かず後家」の 境遇にあったのとのためだろう、浄瑠璃とか、|草双紙《くさぞうし》とか、軍談とかいうような物には、大ぶん 聞きかじりで通じていた。私らを教訓する時、よく浄瑠璃の文句が引き言にされていた。そうい う意味から言えば、私らは、父の方よりも、母の方からヨリ多く教育されていた。  母はまた、憐みぶかい性質であった。折々門に来て立つ乞食のたぐいなどに対して、いつも温 かい言葉をかけていた。猫を可愛がることも、私は母から教えられたような気がした。母は不器 用なたちで、風流と言ったような、気のきいた点は少しもなかったが、それでいて自然の美に対 する素朴なアコガレを持っていた。例えば、活け花などという物に対しては、母はほとんど何の 感興をも持っていなかったようだが、山や川などに対しては、「おおええ景色じゃなア」などと、 覚えず感嘆の叫びを発したりすることがあった。そして、私は、母の感嘆の叫びに依って、自分 の目が開いたような気がしていた。  母はまた、すこしばかり和歌をやっていた。これはただ、里方における周囲から自然に養われ たことで、母にそういう才能があったとは思われない。しかし、父の俳句と、母の和歌とが、私 の家庭における一つの面白い対立であった。ある時など、母が俳諧味の取りとめなきを指摘する と、父は和歌に面白味のないことを非難するという、文芸的論争が起ったことがある。  それから父は、俳諧の歌仙(つけあい)の実例を挙げて、その|幽《かす》かな心持や面白味を懇々と説 き立てたが、母にはとうとう何のことやら分らなかったらしい。お蔭で私には初めて少し「つけ あい」というものの味わいが分った。しかしまたこういうこともあった。維新の際、小倉藩の志 士|何某《なにがし》が京都で詠んだという和歌に、「|幾十度《いくそたび》加茂の川瀬にさらすとも、柳は元の緑なりけり」 というのがあった。ところが和歌の先生は、上の句の「とも」に対して、下の句の結びは「なる らん」でなければ法に合わぬと言って、さように添削したが、作者自身としては、たとい将来の こととは言え、少しも疑いのない堅い決心であるから、「なるらん」などという生ぬるい言葉は いさぎよくないと言って、あくまで「たりけり」を固持していた。父と母とがこの話をしあった 時、二人の意見は全く一致して深く作者の意見に同感していた。  父と母とが面白くない(と言うよりはむしろ滑稽な)言い争いをしていたのを一つ覚えている。 母も煙草が好きで、よく|長煙管《ながぎせる》でスパスパやっていたが、例の不器用なたちとして、その|火《  》皿に 刻みを詰める時、指先でそれを丸めることが足りないので、長い刻みの尾が煙管の先にぶらさが っていることが毎度であった。ある時、父はそれを見るに堪えなかったのだろう、いかにも憎々 しそうな、噛んで吐き出すような口調で、そのだらしなさを罵倒した。すると母もムッとして、 それが自分の生れつきであること、五十年来の習慣であること、今さらそれを非難されても仕方 のないことなどを、すねた言葉でブツブツと返答した。この争いに対しては、私は子供心にも、 深く両方に同情した。  ある年の春、つつじの花の盛りの頃、裏の山の裾にござを|敷《 さ》いて、そこに夕めしのお膳を持ち だし、母の自慢のえんどうままで、|父《 さささささ》は例の一合を楽しみつつ、つつじ見の小宴を催したことが ある。それらは父がアジをやるのであるか、それとも母の思いつきであったのか知らないが、と にかく私には嬉しい一家の親しみであった。また、父と母とは、ジャモクエの年寄り夫婦にも似 ずーあるいは無邪気な年寄り夫婦らしくと言った方が却っていいかも知れぬがーある時など、 木箱に竹の棒を突きさして、それに紙を張り、糸をつけて、三味線のおもちゃを持えて見たりし ていた。しかしそのおもちゃでは満足が出来なかったと見えて、後にはお隣りから本物を借りて 来て、二人でツンツン言わせていたこともある。その歌、「高い山から谷底見れば」「摺り鉢を伏 せて眺めりゃ三国一の」たどはあえて奇とするに足りないが、「芝になりたや箱根の芝に、諸国 諸大名の敷き芝に、ノンノコセイセイ」「コチャエ、コチャエは今はやる、|若《わか》い|衆《しゆ》が、|提灯雪駄《ちようちんせつた》 でうとてゆく」などの古色に至っては、けだし読者の|一粲《いつさん》を博するに足りるだろう。  母は滅多に外出しなかったので、たまに前の山に|千振摘《せんぶりつ》みなどに行く時、私らはそれを大変な 珍しいことのようにして、そのあとについて行った。母は千振を摘んでは蔭干しにしておいて、 毎朝それを茶の中に振りだして飲むのであった。千ベん振ってもまだ苦いと言うのが恐らくその 名の出処であろう。私もいつかその真似をして、あの苦い味わいを、何か少し尊い物のように思 っていた。後に私が人生のある事件を批評する時、「苦底の甘味」という言葉を用いたことがあ るが、それは千振の味に思い寄せたのであった。また千振という草のッイッイと立っている姿、 あのささやかな白い花の形などが、何とも言われぬしおらしさを|私《 さち》に感じさせた。そして、それ も恐らく、母から開かせられた冐の働きであったろうと思う。  ある日、母が珍しく裏の山にナバ(|茸《きのこ》)を取りに出た。兄と私とが嬉しがってその前後に飛び まわった。すると猫も跡からやって来て、手柄顔に高い松の木に駈けあがったりした。「猫まで が子供と一しょに湧きあがる!」と、母は面白そうにその姿を眺めていた。湧きあがるとは、い い気になってふざけ散らすと言ったような意味。私は、前にも言った通り、母に教えられて大の 猫好きであったが、母が毎度話して聞かせたところに依ると、私の幼い頃、キジという猫がいて、 それが若様に対する老僕と言ったような格で、一度私の手にかかると、まるで死んだようになっ て、叩かれようと、|攫《つか》まれようと、引きずられようと、自由自在になっていた。しかし次の猫は、 それほどのおもちゃにたらなかった。彼は冬になると、私の寝床で寝るよりも、母の寝床に寝る ことを選んだ。けれども、私が是非とも彼を抱いて寝ることを主張するので、母はいつも、彼を 連れて来て私の寝床に入れて、蒲団の外から叩きつけるのであった。すると彼も往生して、私の 寝入るまで、ジットそこで我慢し、あとでソゥット母の方に行くのであった。  母はまた、観音様信仰で、毎晩お燈明をあげては、口の中で観音経か何かを|誦《ず》しながら拝んで いた。そして毎月十七日の晩には、必ず錦町の観音堂に参った。私も必ずそのお供をした。その 晩、観音堂では、三十三体の観音様に一々燈明を供えて、いかにも有難そうに見えていた。私は、 (後に記す通り)仏教に対してはあまり同情を持たなかったが、母の故を以て観音様は少し好き だった。  今一つ母についての思い出。これはよほどまだ私の小さい時のこと。私が炬燵の中で  母と 私とが一緒に寝る広い寝床の中で  目をさますと、母は既に起き出でて|竈《くど》の前で飯を炊いてい た。私が何か言うと、「起きたかな、お目ざましをあぎょう」と言って母は|竈《くど》の|熱灰《あつばい》の中に埋め ておいた朝鮮芋を取りだして、その皮をむいて持って来てくれた。黄色い美しい芋の肉から白い 湯気がポカポカと立っていた。どうして、こんな光景が、特に私の記憶に残っているのか分らな いが、恐らくその蒸し焼の芋の味が特別にうまかったのだろう。  今一つ、これは私が母に対する唯一の反感。ある時、私が何かのことで、さんざん母にグズっ ていた。母も大ぶん怒って私を叱っていた。すると、母はちょうどお膳ごしらえをしていたのだ が、とつぜん醤油つぎを引っくりかえした。赤黒い醤油がたくさん畳の上にこぼれた。母は慌て てそれをッケギで|掬《すく》い取るやら、そのあとを|雑巾《ぞうきん》で拭くやら(恐らく父に内証にするため、大急 ぎで)していたが、「こんなことになるのも、お前があんまり言うことを聞かんからじゃ」とま た私を叱りつけた。私は非常に不平だった。私が言うことを聞かんのは悪いだろう。しかし、醤 油つぎを引っくりかえしたのはまさに母のそそうである。|自《さ  》分のそそうの|責《ちささ》任を私に塗りつける のはひどい。私はそんな意味で大いに憤慨した。我が尊信する母、我が敬愛する母といえども、 腹立ちまぎれには、やっばりこんなことを言うのかと。  考えて見るに、私は父と母とから、ちょうど半々ずつくらい性質を遺伝したらしい。体質の方 では、父も小さいし、母も小さいし、そして私も小さいのだから、文句はない。しかし、私が小 さいながらやや頑丈な処があるのは、母の方から来たのかとも思う。母は強いという方ではなか ったが、母の弟たる「志津野のおじさん」などは、ずいぶん大きた、しっかりした体格であった。 性質の方では、私に多少の才気があるのは父の方から来たのであり、幾らか学問好きで、そして 少しゅっくりしたようなところがあるのは、母の方から来たのだと思われる。私は大体において 善良な正直な男だと信じているが、それはまさに父母両方から来ている。もし私に、けちくさい、 気の小さい、小事にアクセクするというところが著しく現われているとするなら、それは父の方 からの欠点である。もしまた私に、不器用な、不活撥た、優柔不断なところが大いに存在してい るとするならば、それは母の方からの弱点である。  母の家には昔大きな蜜柑の木があったが、その蜜柑が熟する頃になると、母の父(即ち私の祖 父)は、近処の子供を大ぜい集めて、自分は蜜柑の木の上に登って、そこから蜜柑をちぎっては 投げ、ちぎっては投げ、そして子供が喜ぶのを見て面白がっていた。私はそんな話を、花咲爺の 昔話と同じように聞いていたのだが、またどこやらにただの昔話とは違って、自分の祖父にそん な面白い人があったという誇りを感ずる点があったように思う。  父方の祖父については、私は何の知るところもない。思うにそれは、祖父が早く死んだので、 |幾許《いくぱく》も父の記憶に残っていなかったためだろう。父方の祖母はかなりシッカリした婦人であった らしい。早く夫に別れて、年の行かぬ二人の子供を|守《も》り立てて行ったのは、容易なことでなかっ たろう。その頃、江戸に行っていた私の父に対して、国元の祖母から送った手紙が一通、私の手 に残っているが、その筆跡もなかなか達者だし、文句もずいぶんシッカリしている。また、祖母 の妹(私の父の|叔母《おば》、私の大叔母)は、私もよく知っていたが、これがなかなかただの女でなか った。|変屈者《へんくつもの》、やかまし屋として、あちこちで邪魔にされた場合もあったようだが、私から見る と、ずいぶん面白いところのある、よいおばさんであった。この人が大阪から私の父によこした 手紙が残っているが、「黄粉が食いとうても臼がのうてひけぬ、今度来るなら臼を持って来てお くれ、うんちんはおれが出す」と言った調子である。明治二十二年に、八十に近いお婆さんが、 大胆な言女一致体で手紙を書いていたのである。これらのことも、私に取っては確かに多少の誇 りであった。 八 私の兄 長兄平太郎、これは私より十五の年長で、 私に物心のついた頃には、モウニ十歳以上の大人で あった。私は彼に対して、自分と同列の子供という感じは持てなかった。彼は「|大《で》けいアンニャ アさん」として、私らとは時代の異なる人物であった。彼と私らと、母を異にしているというこ とを、いつ私が知ったのか、その覚えは少しもないが、とにかく彼と私らとは何となく兄弟とし ての親しみが十分深くなかづたように思う。  それには気風の違いということもあったか知れない。彼は色の白い小男で、丸々とよくふとっ ていた。そして濃い髭を青々と剃っていた。小心で正直で、律義で、キチョウメンなことは、よ く父に似ていた。学問とか文芸とかいう方面は、ほとんど彼にたかった。それに比べると、色の 浅黒い、少し野性のある、学問丈芸を|嗜《たしな》む二人の弟は、大ぶん違った柄であった。小石のおじさ んという人がいつか私の内に来た時、私はその大きい目と、丸い顔とが、よく「|大《で》けいアンニャ アさん」に似ていると思った。しかし私らは長兄に対して少しも悪い感じなど持っているのでは なかった。母と兄との間柄も、|継母《ままはは》継子らしい厭なところは少しもなかった。  兄は早くから(多分明治十年頃)東京に出た。親戚の間宮のおじさんが、陸軍の会計吏をして いるのをたよって、陸軍十六等出仕というものになったりしていた。それがどういうわけか、明 治十五年頃には、国に帰って来た。思うに、長男として家事を視るの責任を持たされたのだろう。 その時のことを私はハッキリ覚えている。錦町の裏に人力車が一台見えた。やがて客がそれから おりて、車夫を連れて細い坂道を私の家の方に降って来た。そこから私の家に来るには、浅い谷 を降って、そしてまた少し昇るのだから、車は通れない。その客は兄であった。兄は|紺飛白《こんがすり》に|紹《ろ》 の羽織か何かキチソと着て、麦藁帽をかぶり、駒下駄をはいて戻って来た。そして座敷の縁側か らズカズカあがって来て、まず父に向って「細かいのがあるなら」と言って、何がしかの金を取 って車夫に渡した。彼はけだし一文なしになって辛うじて帰って来たのであった。  兄の帰国に依って私は初めて少し東京の風に吹かれた。兄がはだかになって、真白いからだに フンドシ一つで、初めて裹の菜園畑に出た時、「イヨウ! 大変によく出来てるなア」と言うた ような、驚嘆の声を発したが、その「大変に」が私の耳に甚だしく異様に響いた。後に父も母も そのことを言っていた。私はまた、香水という物を初めて知った。それは|燗徳利《かんどくり》の細いような|硝 子壌《がらすびん》にはいった青い色の液体で、栓のコルクに細い竹の管がさしてあって、その管から中の液を 少しずつ振り出して、頭の髮にかけるのであった。プーンといい匂いであった。私はまた、レモ ン水(?)という物を初めて飲んだ。ブリキの鑼の中に、小さい壜と白い砂糖がはいっていて、 その砂糖を水に溶かし、その壜の液を二、三滴入れるのだったが、それらの甘酸い味が、何とも かとも言われぬほどうまかった。  兄は東京で簿記法を学んで来たというので、すぐに|大橋《おおはし》(今の|行橋《ゆくはし》)の銀行にはいった。間も なく銀行の本店が小倉に移ったので、兄も小倉詰になった。兄が小倉から盟津に帰って来た時、      し そう                                                           ほしいわし 私は父と母に指嗾されて、兄に一つ買物をねだった。その買物は何だと問われて、私は干鰯と答 えた。兄はよほど意外らしく、大笑いをして早速承諾してくれた。実は、私の弁当のおかずがな いので、母が毎日困りきっているのであった。  兄は明治十六、七年頃、結婚した。小倉の|依田《よた》という士族の娘を貰ったのであった。費津に移 って来ない士族もずいぶんあったものと見える。婚礼の式は豊津の家で挙げられた。その翌年、 学校の夏休みに、私はしばらく小倉の兄の家に滞在した。昔の城下、都会らしい都会を初めて見 た。川口に沿うた、石垣の|厳《いか》めしい城あとが、新しい兵営になっていた。その時、兄は私に少し ばかり簿記法を教えてくれたが、私は町で『|風来山人《ふうらいさんじん》春遊記』という漢文の本を買って来たりし た。  次兄|乙槌《おとつち》。私より五つの年長で、私は彼のことを「こまアニさん」と呼んでいた。彼は私より もよほど多く母方の血を遺伝していたらしい。彼には小心な謹直なところがなかった。彼は少し 疎大であった。私はそれを多少の英雄式として子供心に崇拝していたように思われるが、後には それが放縦な文人風にそれてしまった。  私が山で兄と遊んでいる時、紙がないのに大便がしたくなって困ったことがある。すると兄は、 帯に石をはさめと、私に教えた。帯に石をはさめばすぐになおると、彼は言った。それが神功皇 后三韓征伐の時の故事から来た、一種のまじないであることは|後《 ささち》に知ったが、そういう場合、彼 は多少、「権威ある者のごとく」語るのであった。少なくとも、私にはそう感じられた。その後、 また同じ山で、今度は紙があって用を足したが、手を洗う水のないのに困った。手を洗うという 習慣を直ちに全く無視することは、気の小さい私に出来かねた。すると兄は、|萱《かや》の葉を三枚重ね て、それを短く千切って|撒《ま》けと教えた。そうすれば汚れが去って清浄になると、彼は言った。私 はその通りにして、それで気が済んだ。  しかし私は一度、兄と面白い争いをしたことがある。私らは毎日学校から帰って来ると、必ず カキモチを焼いて食うのであった。ところが兄はとかく、火おこしから焼き方まで、私にばかり 面倒を見させて、自分はなんにもせずに食おうとする。それを私が厭がって、自分の焼いただけ を厳重に自分の物にして、彼に取らせないことにすると、彼は今度は仕方なく、私が焼いてしま うのを待って、そろそろその跡の火で自分のを焼くことにした。私はそれを馬鹿らしく感じた。 それである日、私は改めて兄に談判した。どうせ二人で使う火だから、おこす時にも二人で一緒 におこそうではないか、サア少し手伝ってくれと。しかし兄は応じなかった。俺は今日は食いた くない、彼はそう言った。仕方がないから私はやはり、独りで火を起して焼いた。すると、どう だろう、彼がやはり、のこのこやって来て、その跡の火で焼きかける。私は大いに憤慨してその 不正をなじったが、彼は平気で、火が棄ててあるから使うのだと、済ましているので、仕方がな かった。翌日、私はまた、彼に火おこしの協力を求めた、母も口添えをして、一緒におこせと彼 に勧めた。しかし彼は依然として応じなかった。そこで私は決心した。黙って独り火をおこして、 自分の焼くだけ焼いてしまって、その跡の火に水をかけて消してしまった。これは私の家では有 名な事件で、後々まで母がよく(兄弟二人の性質の差を示すものとして)、その話をしては笑っ た。  ある時、私の家の近処の山で、子供連の間に、旗の取りあいの合戦があった。兄が十五、私が 十ぐらいの時でもあったろうか。先方の大将は誰であったか忘れたが、私の方の大将は私の兄で あった。両軍ともそれぞれ本陣に旗を立てておいて、まず甲軍が乙軍を襲撃し、次に乙軍が甲軍 を襲撃し、そして旗を取られた方が負けという一般方略であった。そこで我々の方は甲軍として まず乙軍を襲撃した。敵の本陣には、五色の紙を段々に継ぎ合せた美しい長い旗が、小松の間に 立ててあった。私は小さいので組打ちをすれば誰にでも負ける。それでも相手にはかたり大きな 奴を選んだ。勿論すぐにねじ伏せられた。しかし、幾らねじ伏せられても、下から|其奴《そいつ》にしがみ ついてさえいれば、私の力で一人の敵将を食いとめることになる。それが私としての戦略であっ た。それで私は自分以外にどんな合戦が行われたかまるで知らなかったが、とにかく味方は安々 と敵の美しい旗を奪ってしまった。それから今度は敵軍が我々の本陣に攻め寄せた。ところが、 我々の本陣には旗らしい物が見えない。敵は見当がつかないで困っていた。よく見ると、|反古紙《ほごがみ》 を引裂いたような物が、小高い木の上に|結《ゆわ》いつけてある。敵はようやくそれを目がけてやって来 たが、木の上ではちょっと近寄れない。勇を鼓してその木に登りかける奴があると、下から足を つかんで引きずりおとす。敵はとうとう我々の旗を取り得ないで、負けになった。かき餅の一件 で腹が立っても、こんたことを見ていると、「こまアンニャさん」に対する私の尊信が湧かざる を得なかった。  彼は数学にかけてはまるで駄目であった。代数も幾何も落第点ばかり取っていた。その代り文 章は得意だった。彼は文章においてまさに私の師であった。彼はまた、詩も作った、歌もよんだ、 字もうまかった。字は文徴明を習って、よく似せていた。蘭だの、菊だの、四君子だのと言って、 文人画も少しはやっていた。中学校に演説の会があったが、彼はその演説の中で、|黄鳥《こうちよう》(校長) が|黄《きな》い声を出して云々という、不穏な言辞を|弄《ろう》した|廉《かど》に依って、演説停止の処分を受けたことが ある。  明治十五年、彼は|本吉《もとよし》家の養子になった。本吉家はやはり霊津の士族で、そこにはお|浪《なみ》さんと 蝸 いう、器量よしの独り娘があった。ただしお浪さんが十四、彼もまだ十八という歳だから、すぐ 結婚したわけではなく、彼はしばらくお浪さんの「おあにさん」であった。  彼は中学校を卒業した後、英語を学ぶために、福岡に行き、長崎に行った。本吉家では彼を遠 方に出すことを好まなかったのである。若い者は旅に出たがる、老人はそれを出しともながる、 それがその頃の一般の有様であった。しかし彼は結局、|強《し》いて養家の許しを求めて、明治十八年 東京に遊学した。  彼はその以前、既にお浪さんと夫婦になっていた。お浪さんは「おあにさん」という呼び方を 改めることが出来ないで困っていた。りての婚礼の晩に一つの面白いことがあった。ちょうど、酒 宴の央ばに、雨戸が破れるかと思うほど、盛んに石が飛んで来る。すべて婚礼にたいしては、石 を投げるのが土地の習慣で、それがおめでたいとしてある。しかし、それにしてもあんまり烈し すぎるというので、誰かが飛びだしてしかりに行くと、バラバラと若者の一群が逃げだす。逃げ おくれた一人を引捕えて、ふざけ半分酒宴の席に引きずって来ると、それは松尾という、兄のご く親しい友達であった。それから大笑いになって皆が寄ってたかって酒を強いつけると、その人 は恐縮して、ほうほうの体で逃げて行ってしまった。 九 私の親類 次に私は堺家の主なる親類を略叙して見る。  広瀬。これは父の弟が養子に行った家。叔父の名は|三津留《みつる》。豊津から一里ばかり離れた、|祓川《はらいがわ》 の上流に沿うた、|節丸《ふしまる》という農村に住んでいた。叔父は父と同じく背は低かったが、父とは違っ て肩幅が広く、甚だ頑丈に見えていた。父に比べると、遙かに粗野な、|樸直《ぼくちよく》な、いつも大きた口 に歯を見せて機嫌よく笑っている、好人物であった。漢学のたしなみが少々あったので、小学校 の先生になっていた。小男にはなるべく大きな女を女房に持たせんと、子供が小さくていけん、 というのが父の意見であったが、父は自分にそれを実行することが出来ないで、せめて叔父のた めにはというので、いろいろ苦心して奔走して、大女を嫁に貰った。その人は不幸にして早く死 んだが、その子供(私と同年のいとこ)は、私よりズット背が高かった。この叔父がまた、父に 宛てた手紙のうちに、折々片仮名で「アリマス」などとやっていたことを思い出す。昔でも卒直 な気持の人は、しぜん言文一致になっていたものと見える。  浦橋という家に娘が三人あって、それが堺と、森友と、間宮とに|嫁《とつ》いでいた。堺に嫁いだのが 即ち父の母(私の祖母)で、森友に嫁いだのが即ち前に書いた父の叔母である。それでこの四家 は親類であった。私の物を覚えた頃、浦橋家は既に大阪に移っていた。浦橋のおじさんは大阪で 役人になっていると聞いていた。同時に、間宮のおじさんは(前にも記した通り)東京で陸軍に 務めていると聞いていた。ある日、私が間宮に行くとその子供が、東京のお父さんから送って来 たと言って、靴だの、帽子だの、いろんな物を見せたのが羨ましかった。  森友家については、いろいろ話がある。父のいとこになる|当《さささ》主の力蔵という人が、何か藩の勤 め向きのことで切腹した。よっぽど思いつめたものと見えると、父が後に話しているのを聞いた。 私はこの切腹の話を非常に壮烈に感じて、見たこともない力蔵という人を非凡人として想像して いた。私の内に、力蔵さんの、『唐詩選』を書いた習字手本が一冊あったが、私はその雄健た高 邁な書体に対して、敬慕の念を禁じ得なかった。力蔵さんの弟は|憫《たけし》と言って、これは浦橋家の養 子となっており、澗さんの姉はおきのさんと言って、|同苗《どうみよう》森友に嫁いでいた。当時は親械間の重 縁がずいぶん多かった。このおきのさんというおばさんは折々私の内に遊びに来たが、どことな くシッカリした人で、炬燵にあたりながら私に八犬伝の話などしてくれたりした。この人が、私 の少年時代に接触した、一番教養ある婦人だった。森友のおばあさん(父の叔母)は、後におき のさんの処に行っていたが、そこは費津と大ぶん離れた、昔の支藩と言ったようなところだった ので、おばあさんは折々、私の内に泊りがけでやって来た。そのたびに、いつも麦饅頭の竹皮包 をみやげに|持《さささ》って来てくれたのが嬉しかった。それに私はこのおばあさんが、福々しい顔をして、 そして何となく、世間並でないところのあるのが好きで、いつも力蔵さんの墓参りのお供をする のを喜んでいた。  母の里方の志津野。ここは母の弟の|範雄《のりお》というおじさんが家を継いでいた。母はこのおじさん のことを「群三群三」と呼んでいた。元、群三が通り名で、範雄が|名乗《なのり》であったのを、明治にな ってから範雄を本名にしたのだろう。(ついでに、父の名は|得司《とくじ》だけども、実印には|正隆《まさたか》という 名乗が彫ってあった。長兄には正民という名乗があった。また、広瀬のおじさんのことを、父は いつも「|半之丞《はんのじよう》」と呼んでいた。これは幼名だろう。)志津野のおじさんは、口数の少い、ドッ シリした人で、鼻の両側に深いひだがついていたのが目についていたが、冒険的な事業をはじめ て大失敗をやった。そのことは後に話す。  外に今一軒、志津野があった。前の志津野は錦町一丁目の裏にあり、後の志津野は|二月谷《にがつだに》とい う処にあった。この二月谷志津野の当主は母のいとこで、|通《 さち》称は拙三、名乗は|範興《のりおき》であった。こ のおじさんはそこひという|眼《 ちさ》病に罹って、厚い玉の眼鏡をかけていたが、気節のある先輩として、 若い者から志津野先生と呼ばれていた。維新後しばらくは藩の参事か何かを勤めていたらしい。 多分その頃のことだろうと思うが、役所から月俸を貰うて来ると、それをそのまま床の間に放り 出しておいて、若い連中の持って行くに任せていたという話を、私は母から聞いている。私はこ のおじさんを特にエライ人として眺めていた。「花熊や花も|紅葉《もみぢ》も枯れはてて名のみ残れる松の 村立」これはこのおじさんが前に記した馬ヶ嶽を詠じた歌。花熊とは、馬ケ嶽の麓の村の名だが、 思うに昔、この山城の城下として多少繁昌した処なのだろう。歌人としてもこのおじさんは有名 であった。このおじさんは酒が嫌いで、親類の会合などの時、もう飯にしようと、しきりに催促 するのが癖だったと、よく母が話していた。またこのおじさんの煙草入れの汚ないことは評判で、 皮は磨り切れて破れているし紐は切れたのをコヨリでつないであった。そんな無頓着な点は、広 瀬のおじさんがコヨリを羽織の紐にしたのと一|対《つい》で、私の内では二つともよく笑い話の種にたっ ていた。私はこのおじさんから『|南木誌《なんほくし》』という本を読まされたり、大阪の『大東日報』という 新聞を読まされたりしたことがある。後、拙三さんは大阪に移り、住吉神社の|瀰宜《ねぎ》として死んだ。 当時、維新の志十先輩で、多少の学問があって実務の才のない人物が、何かの因縁に依って神官 という地位に祭りこまれるのは、よくあることだった。大阪府知事|建野《たての》郷三という人は、拙三先 生の後輩であった。  母の妹の嫁いでいた|篠田《しのだ》。ここは医者の家で、おじさんの名は|蒼安《そうあん》と言った。髮の真白い、眉 の長い老人であった。杖が好きで、鳩の杖だの、五三竹の杖だの籐の杖だの、いろいろな杖が十 本も二十本も、杖さしにさしてあった。家は錦町一丁目の角にあった。これも名高い歌よみであ った。仮名文字が上手でよく短冊など書いていた。歌の名は|本垣《もとひら》と言った。「剣太刀身は無きも のと思ひてぞ、初めて仇は斬るべかりける」「立ちあれし波の行衛を今朝見れば、只静かなる水 にぞありける」「鬼となる伏見の|土《ひぢ》を来て見れぼ、仏を作るいさごなりけり」などいう、悟りめ いた歌があった。それかと思うと、夜中に|蚤《のみ》をさぐることを長歌に作って、夜が明けて見ると、 「垢と思ひし蚤は逃げて、蚤と思ひし垢ぞ残れる」と言ったような、滑稽味をやっていることも あった。蒼安さんはまた酒が好きで、酔いがまわると色々面白い話をして聞かせた。!李白と いう詩人は大層な酒飲みじゃった。「長安の市上、|酒家《しゆか》に眠る」という句があるが、あれは読み 方が違っている。酒家に眠るではなく、酒家眠るが本当じゃ。アレ向うから李白さんが来なさる、 李白さんに舞い込まれては大変じゃ、夜の明けるまで飲まりょうも知れん、サア早う戸を締めて 寝よう寝よう。酒屋が皆そう言うて店をしもうた。そこで長安の市上、酒家眠る。ー1こんな楽 天家らしい老人に悲劇があった。おじさんにはお|清《きよ》さんという娘がたった一人あった。(それは 私の叔母の産んだのではなかった。)それでおじさんは養子をした。養子は東京に行って修業し て医者になった。おじさんはお清さんを連れて東京に行った。養子はお清さんを嫌った。おじさ んはすごすごお清さんを連れて帰って来た。私はお清さんが肺病になって死んだことを覚えてい る。その最後に近い頃、赤い絹のきれで拵えた、小さい丸い玉に水を浸して、 っていたのが目に残っている。篠田家については、なお後に話すことがある。 わずかにそれを吸 十 士族、 百姓、町人  私の親類は大抵みな小士であった。中で、二月谷志津野だけが少し格式が高かったそうだ。小 倉藩では百石以上をお歴々と称したが、二月谷志津野は即ちそのお歴々の最低位であった。しか し志津野が百石で、堺が十五石だから、志津野は堺の六、七倍の収入があったというわけではな い。百石以上はそれだけの領地を持っているという名義で、実収は四十石に過ぎなかった。然る に堺家あたり(多分|切米所《きりまいじよ》と言うのだろう)の十五石はそのまま実収入で、それに四人扶持(一 人扶持はたしか一石五斗)がついて合計二十石以上になるのであった。  私は藩内の御大家について、ほとんど知るところがない。ただ前に記した御家老の松の御門だ けは知っている。そこの若さんの「安三郎さん」という人とは心易くなっていた。細い髮の毛の 美しく縮れているところと、温和た上品な顔付をしているところとが、我々とは少し違っていた。 兄の乙槌はその人と同年の友達で、安三郎さんのことを「|三郎安《ざぶろあん》」などと呼んでいた。そこにま た、目のすずしい可愛らしいお嬢さんが三人あったが、私らはそれを「お|女郎《じよろう》さん」「|小女郎《こじよろう》さ ん」「ちい|小女郎《こじよろう》さん」と呼んでいた。ある時、私はどうかしたことで、そこの裏庭にいってい て、××院様という御後室から話しかけられたことがある。その時××院様が、「お前の内では -」と言われたので、なるほど身分が違うのだなと思った。ただしそれを不快に感じたのでは 勿論なかった。  その外、父や母が、××さんとさんづけにして|呼《ささ》ぶ家柄が折々あった一また、軽蔑するという ほどではないが、何となく少し見くだすという態度であしらう家柄もちょいちょいあった。そし て大抵は|相対《あいたい》のつきあいで、子供らは一様に「坊んさん」「嬢さん」と呼ばれていた。私は「小 ぽん」「小ぽんさん」「ぽんけい」などと呼ばれていた。                          薹爰       ず寸  前に言った通り、豊津は既に城下ではなかった。旧藩主忠忱公は既に東京住居になっていた。     お すま…            ご ないけ しかし「御住居」もしくは「御内家」にはいつの頃までか、係りの人々が毎晩宿直するのであっ た。私はその宿直に行く人たちから、そこのお倉に積んである千両箱の話を聞いた。兄の乙槌が 養子に行った本吉家は、この御内家の元の|長局《ながつぽね》に住んでいた。  私の内の床の間には、「仁」の字を大きく書いた掛物が掛っていた。それには「忠忱」と署名 してあった。忠枕公が東京に行かれる時、仁儀礼智信の五字の中を大書して、それを記念として 士族中に|頒《わか》たれたものである。旧主と旧臣との間には、まだまだ暖かい親しみがあった。ある時、 忠忱公が久しぶりで東京からお帰りになったことがある。その時、私は|本町《ほんまち》のはずれのある店家 で遊んでいて、ちょうど「お通り」に出くわした。我々の履物がお目に触れてたらぬというので、 店の|閾《しきい》の内にうずくまって待っていると、向うから洋服の殿様が葉巻という煙草を吹かしながら、 ブラブラとおいでになった。丸々とよく肥えた、若い立派なお方だった。今の小笠原長幹さんは 父君によく似ていられる。  明治九年、豊津の原に重大た一事件が起った。筑前秋月の藩士今村百八郎外二百名の者が豊津 に押寄せて来て、育徳館を囲んだ。さきに西郷隆盛その他が征韓論の争いで政府を退いてから以 後、西南諸藩の間に不平の気が|醗醸《うんじよう》されて、続々として爆発する形勢であったが、秋月藩士の来 襲もその小爆発の一つで、彼らは費津藩士を説き落して相共に小倉県庁を襲撃しようと言うので あった。育徳館を囲んだのはどういうわけであったかよく知らないが、育徳館は元の藩学であり、 後の中学校の前身であって、そこより外に麗津藩士の集合所(もしくは中心点)がなかったのだ ろう。サア戦争だというので、盟津一帯は大変な騒ぎになり、女子供はそれぞれ便宜の場所に避 難した。私らの近処では、道路から少し離れた山の中の|凹地《くぼち》を選んで、そこに|莚《むしろ》を敷き、|莫座《ござ》を 敷き、家具も少しずつ持出して、数家族が一塊まりになっていた。私らには何が何だかまるでわ けが分らなかったけれども、父だの、平太郎兄だの、近所のおじさんたちだのが、大小を腰にさ して行ったり戻ったりするのが、怖くもあり面白くもあって、何だかサムライの世の中が跡戻っ て来たような気がした。しかし間もなく小倉から鎮台兵がやって来て、賊はわけもなく追い散ら された。その時、私は初めて鎮台兵というものを見た。彼らが饅頭帽をかぶり、ランドセルを負 い、鉄砲をさげて、ちょうどわたしの家の前の山を横ぎって、小腰をかがめながら進んで行く姿 を、実に珍しく眺めやった。それから、戦争はもう終って、賊の死傷者がそこここに横たわって いるというので、皆がそれを見に行った。私も錦町一丁目の横町の処まで行って、戸板の上に転 がされている、血まぶれの怪我人を一つ見てゾッとした。それから当分の間、毎ばん暗い縁側を 伝って便所に行くのが恐ろしくて困った。  その翌年、西郷の戦争があった。さすが近処のことで、子供の耳にもいろいろの聹がはいった。 やがて戦争の絵草紙が出来た。私らは錦町の山口屋で何枚かそれを買って貰った。賊軍が熊本城 を囲んで大砲を打ちかけたりしている画を今も思いだす。陸軍少将桐野利秋、篠原|国幹《くにもと》らは、た しか陸軍の軍服を着ていた。村田新八郎が|袴《はかま》をはいて白鉢巻をしているのが、殊に勇ましく見え ていた。私らの目の中には、賊軍の将十がすベて英雄化されている、画の作意そのものが既にそ うであったのだ。しかし籠城側でも、谷少将など大変な英雄にたっていた。ことに、城中と来援 の官軍との連絡を初めて取った奥少佐が小倉出身であったのは、藍津人の誇りであった。  昔のサムライを思い出させるようなことはそれきりであったが、それでも費津の十族はまだし ばらく特殊の地位を保っていた。それが経済上から崩れて行った次第は後に話すが、ここには大 体上、まず士族と百姓と町人との関係を少し書いておく。  豊津の士族、その周囲の村々の百姓、錦町の町人、これが当時のその地方における、社会の三 階級であった。彼らはそれぞれに、かなり違った言語風俗を持っていた。士族には前に言った通 り信州以来の文化があった。馬ケ嶽や、|香春嶽《かわらだけ》や、|城《き》の|郷《ごう》の落武者の末孫が、小笠原家に召し抱 えられたのも勿論少くないだろうが、それにしても、曲豆前の土人とは違った、一種の武士的文化 を作り出していた。費津の町人は、小倉の町人の移って来たのが多かっただろうと思うが、小倉 の町人は、その町人たる地位からしても、またその地理的事情からしても、霊前の土人とは大ぶ ん違っていた。小倉は狭い海峡を隔てて長州の|下《しも》の|関《せき》と相対している。九州の一部に位してはい るが、交通の便利は中国の方に多い。ことに山口や下の関の繁華が多大の影響を及ぽしている。 現に、豊津錦町の一番大きな店(呉服店兼雑貨店)は山口屋であり、二軒の料理屋の中、大きい 方は関屋であった。農前の町人は九州的であるよりもむしろ中国的であった。藍前の+族につい ても、幾分それと同じことが言えるかも知れたい。ところが、農村における生粋の曲豆前土人たる 百姓は、容貌、言語、風俗等において、いかにも|土蜘蛛《つちぐも》の子孫、スサノオ族の子孫、あるいは|熊 襲《くまそ》族の子孫らしいところがあった。  さてこの三階級がいわゆる「四民平等」になったはずだが、実際にはなかなかそう行かない。 士族にはやはり一段高い階級の心持があり、百姓町人の方ではまた、内心士族を小馬鹿にする場 合、あるいはそれに反抗する気味合いになる場合がありながら、なお習慣的に大なり小なり卑下 した態度を棄て得なかった。 「このごろ百姓が途中で行き会うても馬から降りんようになった」と、いつか父が笑いながら母 に話していたことがある。私ら(即ち士族の子供ら)はまた、農村に属する山に行って、栗を取 ったり、藤の花を取ったり、竹の子を抜いたり、その外いろいろ山を荒しまわるので、どうかす ると、村の人たちからひどく叱りつけられたり、追っかけられたりすることもあった。さように 百姓たちの態度が少しずつ変りかけていた。しかし私らの眼中においては近処の村々から馬や牛 を引いて、米や薪や炭を売りに曲一皿津の丘に登って来る百姓たちの姿が、どうしても異人種のよう に感じられた。私の内に折々、懇意な百姓の|甚之助《じんのすけ》という人が来ていたが、「マァ足を洗うてし ばらく上んなさるとええ」と母がいろいろ勧めても、「ハイヘイ」「ハイヘイ」と馬鹿に|恭《うやうや》々しい 返事ばかりして、どうしても|草鮭《わらじ》をぬがず、上り口に腰かけたままで茶漬など食うて帰るのであ った。  錦町の人々を私らは「町の者」と呼んでいたが、これは百姓に対するほど見くだす心持になれ なかった。勿論、士族は町人以上である。私らは町の子供と友達にはならなかった。けれども町 の者は|田舎者《いなかもの》(即ち百姓)と違っていた。彼らはやや優等人種であった。  錦町には、前に話した呉服屋の山口屋、料理屋の関屋などの外、大抵の店屋は一応揃っていた。 宿屋も明石屋というのが、一軒あった。そこの|親爺《おやじ》は、いつまでも|丁髭《ちよんまげ》を結って威張っているの で有名だった。葉茶屋の主人に山田|瓢舟《ひようしゆう》という俳諧の宗匠があって、父はそこに遊びに行って いた。若い大工の|何某《なにがし》君が士族の娘さんと駈落ちして評判になったことがある。士族の娘と大工 さんとの恋は、当時にあってはどうしても駈落ちせねば収まらぬほどの珍事であった。  私は町の子供らから多少の威圧を感じさせられていた。彼らはいつもよく団結していた。そし て甚だ不作法であった。ある時、石走谷を中に挾んで、彼らの数人と私らの二、三人とで、石の 投げあいをしたことがある。彼らが多数で、私らは負けた。こういう関係は、子供らの間ばかり でなく、士族全体と町人全体との間にもあったかも知れない。  なお、階級の関係を示す実例としてこういうことがある。錦町の裏に、それこそ本当に烏の巣 のような家を竹藪の中に作って住んでいる、杉山某という|日傭稼《ひようかせぎ》があった。私の内に米鳩きに来 たこともある。ところがこの人、御変動の際、騎兵隊という臨時の新軍隊に召募されていたので、 後ち士族の格に列せられていた。そこで我々は彼のことを呼び棄てにせず、「杉山さん」と呼ん でいた。  それとは反対に、私の家と何か因縁のある小倉在の農家-後に村長になったほどだからかな り裕福な家だったろうと思うが」その農家に私の家から苗字を分けてやるというので、酒井 と名乗らせた。後に父が「酒井はあまり有りふれた字で気の毒だった。せめて坂井にしてやれば よかった」と言っていた。なぜ堺にしてやらないのかと思ったが、そこまでは父にどうしても考 えられなかったと見える。 第一期 豊津時代(下) 一 士族の商法  堺家の禄たる十五石四人扶持が公債証書に替えられた時、何でもその金額が七百円ばかりだっ たと聞いている。そしてそれが七|歩《ぶ》利付きだとすれば、年に五十円足らずの利子となる。私の小 耳に挾んでいたところに依れば、当時、私の家で、月に五円あればどうやらこうやら暮しが立つ ということであった。もしその通りの計算だとすれば、年に十円以上の不足とたるわけである。  当時の貨幣の価値は今日の十倍、もしくはそれ以上だったとは言え、一家の生活が月五円とは、 ずいぶん簡単なものであった。しかし、それはそのはずで、家はある、山はある、畑は次第に広 げて行く、野菜物は何でもすべて出来る。是非とも買わねばならぬ物は、米、炭、薪、油ぐらい に過ぎなかった。味嗜も醤油も内で作った。酒も少しやって見たようだが、それは失敗したらし い。私の記憶には甘酒のことだけが残っている。魚は滅多に買わないし、菓子という物もほとん ど買わない。私らはよく、近処の家や親類の家に行った時、黒砂糖を一かたまり手のひらに塗り つけて貰ったものだ。白砂糖は茶菓子として客に出すより以外に使われなかった。私らの散髪は 大抵、父がチョキチョキやってくれたし、|足袋《たび》は勿論、紐つきの奴を母が拵えてくれた。シャツ という物がはやって来た時にも、母が何かのキレでそれを持えてくれた。衣服の材料として多少 の反物類は買っていたように思うが、我々の着物の多くは手織りであった。糸挽きのことは前に 話した通り、そして大抵の家には|機《はた》があった。しかし私の内には、それがなかった。母の健康が それに堪えたかったのだろうかと思う。それで私の内の織物は、主として母の里の|志津野《しづの》や、母 の妹の|篠田《しのだ》で出来たように思う。|茸《なば》とり、|土筆《つくし》つみ、|蕨《わらび》とり、魚つり、ワナかけなどは、娯楽が 主であったか、実用が主であったか分らない。とにかく、学校の戻り道に、蕨を取ったり、茸を 取ったりする時、私らの心の中に、明日の弁当の菜を栫えるという考えがあった。私は山芋をす りこんだ味喀汁が大好きで、よく山芋を掘りに行った。鮎つりの獲物や、ワナの獲物の小鳥など は、我々の稀な肉食の材料であった。  こういう質素た、原始的な、自足的な生活すら、ウッカリしていてはとても維持しきれないと 言うので、士族の殿原が皆騒ぎだした。先祖代々からの禄扶持はなくなった。あるものはただ公 債証書ばかり。しかしそれを後生大事に守ってばかりいるのでは、次第弱りになるより外はない。 そこで一方には「官途に就く」こと、一方には「士族の商法」が始まった。  私が物心のついた頃には、私の家の近所に「屋敷跡」が幾つもあった。それらは皆、官途に就 くか、あるいは何かの職業を求めるか、あるいは何かの商法をやるかして、一家を挙げて他郷に 引移ったのであった。私の親戚中では、前に言った通り「間宮のおじさん」は陸軍に勤め、「浦 橋のおじさん」は大阪府に勤めていた。「広瀬のおじさん」が小学校教員になったこと、兄の平 太郎が間宮のおじさんの「引き」で「陸軍十六等出仕」になったことも、前に言った通りである。 父も初めしばらく田川郡あたりに行って|戸長《こちよう》か何かやったらしい。  かようにして、他国に出る者は続々として出て行ったが、曲豆津の原に残る者は、皆何かの「商 法」を考えた。本町の鈴木という家は桶屋をやり出し、寺山という家は雑穀屋をやり出した。そ れが私らの子供に、士族が「町の者」になったという風に考えられた。里見という家が錦町の一 丁目で郵便局をやっていたが、それは私らに、「町の者」らしく感じられなかった。少し後にな って、本町の|上《かみ》の方で、ある若い人が|煎餠屋《せんべいや》を開業した時、大変な奮発として評判になった。私 の内のすぐ近所の向井という家には、(そこは大ぶん工面がよかったと見えて)白壁の倉を建て て酒つくりを始めた。その倉の|棟上式《むねあげしき》の時、棟の上から餠まきがあって、私らはそれを拾いに行 った。御家老様の松の御門にすら、いつの頃からか眼薬「|精錆水《せいきすい》」の看板が掛かっていた。「二 月谷の志津野さんのおじさん」が、大阪からマッチをいかいこと(たくさん)|買《さささ  》い込んで来たが、 みんな湿って役に立たなんだという話は、当時有名であった。世事には最も|疎《うと》い拙三先生までが、 商法気を出したところに面白味がある。私の母など、毎度おかしそうにその話をしていた。  私の叔母の内の|篠田《しのだ》と同苗の家が|甲塚《かぶとづか》にあった。そこで、前者は|上《かみ》篠田、後者は|下《しも》篠田と呼ば れていた。その下篠田のおじさんなる者が非常に滑稽な人物だった。丸い大きい頭のツルツルに 禿げた工合から、短いおとがいの|上《ささちさ》に白い髭のある一の字の唇を踏ん張らせたところなど、江戸 言葉のいわゆる「とっちゃん小僧」の概があった。この人は私の父の友達で、碁も打ち、俳句も 少々はやるのだったが、ことに「|冠《かんむ》り句」の点者として知られていた。ある時、私らが、冠り句 をやり出して、その選をこのおじさんに頼んだ時、「ビックリ」という題に対し、選者の句とし て巻の終りに、「曲り角からバァアアア」とあったのが、ひどく私を感心させた。最も平凡な、 最もありふれた趣向を大胆卒直に言ってのけたところがエライ、と私は思った。ところが、この 滑稽な老人の商法気が、いかにも著しくその特質を発揮していた。彼はまずボケの木をたくさん 山から掘って来て自分の畑に植えた。「そんな面白うもない花をどうなさるのかな。」人が怪しん で問うと、老人は得意らしく、鼻を一つクンと鳴らして、「マア見ておいで、今に|接穂《つぎほ》をすると、 これがみんな|海棠《かいどう》になる。海棠は値の高い植木じゃ。」この計画はどんな結果になったか、それ を私は聞いた覚えがない。しかし篠田老人の考案はそのぐらいに止まらなかった。モット空想的             、 、 、 、 、 、                       つ妬はし な、モット詩的な、モットろまんちっくな商法を思いついた。彼は鶴囃を扁にして馬ケ嶽に水晶 掘りに出かけた。馬ケ嶽は|斑《まだ》らな禿山で、水品が出ると言われていた。篠田老人は何でもただ、 奇抜な思いつきを種にして、元の掛らぬ金もうけをしようと言うのであった。しかし折角のこの 名案は、弁当持ちの二、三日の徒労の結果、全く絶望に帰したのであった。  私の内の押込み(おしいれ)の隅に、何か器械のようなものがしまってあった。あれは煙草を 刻む道具だと、母が私に説明してくれたことを覚えている。しかし自分たちの|飲《の》み|料《しろ》を刻むため に器械を買うほどのことはないはずだから、案ずるにこれは、ボケの栽培と類似した程度の、父 の思いつきであって、同じく実効を奏せぬ、商法計画であったらしい。  士族の商法の気運がこんなに盛んである間に、公債証書を金にしてムザムザ使いすてた話もあ る。|小寺《おでら》という家では、「夫婦とも揃いも揃うて|好《え》え気なもので、今日は鯛にしょう、明日はコ チにしょうと、毎日毎日サカナを買うては、飲んだり歌うたりしとるそうな」という評判が高か った。果して、それから間もなくこの家は没落して豊津を立退き、近隣の農村に小屋掛けか何か して、親子で|天生田川《あもうだがわ》で網打ちをして食うとるそうじゃと伝えられた。その子というのは私より 一つか二つの年上であったが、それが学校もやめて、そうした生活に落ちていると聞いた時、私 は大ぶん変な気持だった。××という家では、年寄りがなくなってしまって、若い男の子が二人 だけになったが、その兄の青年が毎日ブラブラ遊んでいて、「不断に博多の帯を締めとる」とい う評判だった。間もなくこの家も没落した。しかしその博多の帯を不断に締めていた人は、ズッ ト後にどこやらで警察署長をしていると聞いたことがある。  整津における、幾らか事業らしい事業としては、紅茶の製造、養蚕および製糸、金貸しの会社、 この三つであった。豚を飼うという話も聞いたことはあるが、実現されたのを見たことはなかっ た。私らの小学校  それは前に言った通り、元のお城の一部分であったが  その小学校に続 く建物の中で、ある時、急に若い人たちが大ぜいやって来て、何か忙がしそうに働きだした。私 ら小学生は、それを珍しいことに思って、皆が寄ってたかって見物した。折しも夏のことで、若 い人たちは皆フンドシ一つになって、大きな平たい竹籠のような物を両手にかかえて、その中に 入れてある茶の葉を|飾《ふる》うていた。それが即ち紅茶会杜の新事業であった。私の家から二月谷に行 く道に、かなり広い茶鬨のあったごとを覚えているが、それは多分、この会杜の時に出来たもの だろう。この会杜については、志津野の拙三おじさんが私の父にも勧めに来たそうだが、父はそ の話に乗らなかったらしい。事情は知らないが、その会社は間もなく消え失せた。私はただ、右 の茶飾いの光景を見た時、士族の若い人たちに似合わしくない仕方だと感じていた。つまり筋肉 労働は、士族の面目でないと感じていた。 養蚕と金貸し 養蚕は一時、かなり盛んになっていた。駿津の士族で、大なり小なり|蚕《かいこ》を飼わぬ家はないと言 っていいほどだった。後には住居の外に蚕室を新築するほど、やや大仕掛にやっている家もあっ た。開墾社という会杜のようなものが出来たが、それは桑畑を作ることを目的としていた。どこ の家でも多少の桑畑を持っていないのはなかった。私の叔父の志津野の家など、道から家まで半 町ばかり、|丈《たけ》の高い桑の木の下を|潜《くぐ》って行くのであった。初めの間、桑の木はそれほど大きく育 てられていた。私らはよく、志津野の畑で高い桑の木に登り、あの紫色の|葺《いちご》を|貪《むさぼ》り食った。私の 家には初めのほど、井戸ばたに四、五本の大きな桑の木があるばかりだった。蚕はほんのおも《ちちさ》|ち ゃに飼うのだった。兄の分だの、私の分だの、別々に小さな箱に入れた蚕があった。私はよく、 大きく成長した蚕を口に入れて|嘗《な》めずったりした。あの滑らかな皮膚が口の中でツルツルしてい い気持がするのであった。しかし私の内でも後には前の山を少し開墾して、新しい桑畑を作り、 少しは用に立つだけの蚕を飼うた。それでも精々二年か三年くらいのものだったろうが、私が初 めて拵えて貰つた博多織の帯は、たしかに内の|繭《まゆ》から取った糸で織ったのであった。  兄の養子に行った|本吉《もとよし》家は、大ぶん本式に養蚕をやっていた。ここではモウ、竹籠を持って、 頬冠りをして、嬢さんたちが桑の葉を摘みに行くという悠長な遣り方でなく、すべて|苅桑式《かりくわしき》にな っていた。それで蚕の盛り時になると、家のほとんど全部が蚕室になって、まるで戦争の光景を 呈していた。おかあさんがエライ元気の働き手で、来合せるほどの人々をつかまえては、みんな の桑の葉むしりか何かの手伝いを強制するのだった。本吉家ではさらに糸取りから博多織までや っていた。お浪さんは糸取りが上手で、おかあさんは機織りが自慢だった。私の帯も本吉で織っ て貰ったのだった。  ところが、この養蚕事業に随伴して、一つの悲劇が発生した。製糸会社というほどのものであ ったかどうか知らないが、|杉生《すぎう》十郎という人の経営で、製糸工場の設けられたことがある。そこ には士族の嬢さんたちが大ぜい呼び集められていた。この杉生という人は私の長兄あたりと同年 配で、少し家柄であり、そして豪傑的の人物らしく聞いていた。然るにその事業は全く失敗した。 嬢さんたちは|只《ただ》ばたらきになってしまった。「杉生さんもあんまりじゃ。御自分はそれで仕方が あるまいが、せっかく羽織の一枚も栫えようと、そればかり楽しみにして永いあいだ働いた嬢さ んたちが可哀そうな。」そういう批判が私の母などの口から出ていた。しかし杉生さんは無責任 でたかった。彼は遂に自殺した。  こういう|蹉躓《さち》ばあったものの、とにかく豊津の原は、桑畑と、養蚕と、製糸とに依って、せめ て幾許かの経済的基礎を得るだろうという望みが生じかけていた。しかしそれも夢で、それから 幾年かの後、豊津の養蚕事業は全く亡びてしまった。その様子については、私は何も知らないが、 とにかく地味か何かの関係上、桑が育たなくなったのだと聞いている。  小さな金貸し会社は幾つも出来ていた。現に私の内の座敷も、しばらく三成社の事務所になっ ていた。三成社には関さんという若い人が毎日弁当持ちで|通《かよ》って来て、父と二人で何かしきりに 帳面をいじくっていた。この関さんという人は、「広瀬の叔父さん」と懇意で、同じ|節丸《ふしまる》村に住 んでいた。その関係上、関さんと父との共同事業が成り立ったのらしい。叔父がその事業の出資 者の一人であったかどうかは、私に分らない。金を借りに来るのは大抵、近村の百姓たちであっ た。それで貸付は出来るけれども、回収はなかなか出来ないという話だった。そんなら抵当の田 畑を取るかと言うに、取ったところで、それをこちらで作るわけにも行かず、どうにも仕方がな いという話だった。半季か年末かの決算の時だったろうと思うが、一度三成社で御馳走があった。 何でも鰍艦が大そう旨かったことを覚えている。しかし三成社が成功したか失敗したか、私は全 く知らない。ただいつの間にか、関さんが来なくなって、三成社は消えてしまった。その後、父 はしばらく小倉に出て、何か小さな箏業をやっていた。それは三成杜の事業の継続、もしくは変 形であったかどうか、それも私はよく知らない。ただ、ある時、父が母の晴着用として、茶縞の 絹地の羽織を一枚持って帰ったことがある。それは新調でたく、古着であった。父の事業は質屋 であったかも知れない。そしてその茶縞は流れ物であったかもしれない。しかしそれも長くは続 かなかった。  金貸し会社の中で「|海山社《かいざんしゃ》」は大きくもあり、有名でもあった。母の里の志津野が(すぐ後に 話す通り)田川の方に移って行った後、その家が海山社になっていた。志津野のおばさんは松崎 家から来た人で、その松崎家は志津野の隣りにあった。また、松崎の弟の宮田の家も、志津野の 隣りであった。つまりそこには、|兄弟《きようだい》つづきの三軒家が桑畑の中に並んでいたわけだ。そして海 山社は主として、松崎と宮田との事業であった。しかし社長には|福与《ふくよ》慶茂さんという家柄の人が 担がれていた。志津野のおじさんがどの程度まで海山社に関係していたか、それは私に分らない。 しかし叔父は田川の炭坑を目につけて、一家を挙げてそこに移って行き、海山杜も炭坑に手を出 していたということだから、必ず何か関係があったものと考えられる。それはともあれ、海山杜 は一時盛んにやっていたが、たちまち何かの破綻を生じて行き詰った。松崎氏はその|責《せめ》に任じて 切腹した。さすがに立派だという評判だった。宮田氏は行衛知れずになっていたが、数日の後、 ある山の中の池からその死体が発見された。「福与さんはお気の毒な、なんにも御存じでなかっ たそうじゃ」という話だったが、しかし責任上、止むを得ない、身代限りか何かの始末になった。 杉生事件と言い、海山社事件と言い、士族の商法が頻々として悲劇を生み出したのであった。 三 志津野家の没落  その前に今一つ、モット直接に、私らの周囲に悲劇があった。志津野のおじさんは(前に言っ た通り)|寡言《かげん》沈黙の、ドッシリした、体格もかなり大きな人だったが、早く炭坑に着眼したとこ ろを見ると、よほど大志があり、よほど冒険的であったと思われる。しかし先駆の冒険者が無残 な失敗を遂げるのは通例の運命である。  叔父が赤池炭坑に移ってから後、私の母がよくこんなことを言っていた。「範雄が、商売とい うものは面白いものぞな、面白いものぞなと言うとるが、赤池の方はよっぽど|好《え》えと見える。」 しかしそれはしばらくの間のことだった。叔父の事業はたちまち蹉躓を来した。そして叔父はあ らゆる金策に究した末、コレラに罹って死んでしまった。跡には子供が四人あった。松崎から来 たおばさんは、それより少し以前に亡くなって外から後妻が来ていたが、その人はこの大変です ぐに里方に帰り、四人6子供だけが親なしで豊津に戻って来た。  子供たちと共に赤池から戻って来た多少の荷物を親族中で片づけている中、書類の間から数通 の料理屋のッケが発見された。それが芸妓の揚代など少なからぬ金額であるので、皆が呆れてし まった。「そんな物ばかり残しといて何になるか!」と母は吐きだすように憤慨していた。「もう ズッと前から、ヤケになってしもうとったのじゃろう」と父はむしろ同情的に批評していた。し かし父はまた、「範雄が俺に|反古《ほご》をつかませた」と言って、苦笑いをしていた。叔父が没落の少 し前、曲亅兄津に金策に来て、何かの株券か地券かを抵当にして父から五十円かの金を出させて行っ たが、その抵当が無価値の品であることが後に分ったのだった。しかし、「初めから|欺《だま》すつもり でも無かッつろう。金さえ持って来て返せば事は済むというつもりじゃッつろう」と、母はさす がに弟を弁護していた。  私の家の損害はそれくらいで済んだが、篠田家の打撃はひどかった。篠田のおじさんは公債証 書の大部分を志津野のおじさんに預けていたのであった。もっとも、篠田のおじさんは|蒼安老《そうあんろう》と して医者という職業を持っていたので、それがため全く食えないわけでなかったが、しかし先に は養子に|背《そむ》かれ、娘には死なれ、そしてまたこの災難に遭ったのだから、よほどこたえたもの《ささち》|と 見える。その時の歌「泡となりて返らぬせにや我が|為《な》せし過ぐ世の罪の浮きて流れん」。「せに」 は「瀬に」と「銭」とをきかせたのだと|聞《ささ》いていた。その後、私の子供心の思いなしかも知れぬ が、篠田のおじさんの顔に憂いの色が深くなったような気がしていた。前に言った李白の話など する時には、いかにも面白そうな老人だったが、それがどうかすると、ひどく沈んで見えるよう になった。年に似合わずかなり房々した白髪をやや長く延ばしていたが、私は『唐詩選』の「白 髪三千丈、憂に依って|個《かく》の如く長し」というのを、何となくこの人に思い寄せたりした。おじさ んが毎晩、食後に、仏壇に向って法華経か何かを|誦読《ずどく》しているのを見る時など、ことに気の毒な ようた気がしていた。  さて、志津野の親類中では、範雄の不都合、不始末を幾ら責めて見たところで、死んだものを 何とも仕方がない。ただともかくも、四人の孤児の振り方をつけることが眼前の急務であった。 四人の孤児、-姉がヨシ、通称およさん。私と同じ年で、その時が幾つであったかシッカリ分 らないが、私はこの人の昔のことを思いだすたびに、髪を|男髭《おとこまげ》に結うていた十か十あまりの小さ い姿が目に浮んで来る。あとが男三人、|郎《いらつ》、|叉郎《またろう》、|海彦《わだひこ》。そこで親類会議の結果、篠田家に子供 がないのだから、およさんを養女にして貰うこととし、あとは郎を松崎に、又郎を二月谷志津野 に、海彦を堺と篠田とに半分ずつ引取ることとなった。この半分ずつというのは、どうした話し あいの結果であったか知らぬが、ずいぶんおかしなわけで、私は、半月のあいだ私の内にいた海 彦がねまぎを|持《ヤ さ》って篠田に行くのを、送って行ったことを覚えている。その本人としては、さぞ 落ちつかぬ心持だったろうと察せられる。  それでもとにかくそんなことで一応の話はついたが、それからしばらくして海山社の事変が起 った。赤池炭坑の失敗と海山杜の破産との間に、どんな関係があったか、私には分らない。郎は またも家を失うてその後は篠田家に引取られた。海彦は幸いにして、錦町の平野という古道具屋 に養われた。叉郎は、二月谷志津野が大阪に移った時、さらに堺家に引取られた。何しろ志津野 家の没落は大事変であった。 四 小学校  私は多分、七ツの春から小学校に行ったと思う。小さな子が学校に行くといって、評判された と母がよく後に話していた。年弱の七ツ、しかも年の割に小さくて、よほど目に立ったらしい。  小学校では、まず「いと、いぬ、いかり」などと書いた、画入りの掛図で教えられたことを覚 えている。それから間もなく『小学読本』で、「神は天地の主宰にして、人は万物の霊長なり」 「酒と煙草は養生に害あり」などいうことを教えられた。なおその読本には、怠惰な子供が学校 には行かないで、道ばたの石にもたれて遊んでいる話だの、久しぶりで故郷に帰った人が自分の 家の焼けてなくなっているのに驚く話だの、「|狼来《おおかみ》たれり、狼来たれり」と嘘を言って人を驚か した悪少年が、本当に狼の来た時、誰にも助けられなかったという話だのがあった。すべてがア メリカの読本の直訳だということを、後に英語を学んだ時、初めて知った。また、『地理初歩』 という本には、劈頭第一、「マテマチカル・ジョウガラヒーとは……」という驚くベき外国語の 新知識があった。しかし私らは、決してそれは変だとも不思議だとも思わず、ただ何となく語呂 がいいので、面白がって暗誦していた。  しかし、一面にそれほど欧化的でありながら、他の一面には、よほどまだ漢学的であった。私 は卒業前に漢文の『国史略』を読まされた。それに似たことは学校にもあった。私は学校にはい る前、既に福沢諭吉の『世界国尽し』を暗誦していた。「世界は広し万国は、多しと言ヘど大凡 を、五つに別けし|名目《みようもく》は|亜細亜《アジア》、|亜非利加《アフリカ》、|欧羅巴《ヨ ロツパ》、南北|亜米利加《アメリカ》、五大洲」というのであった。 然るに一方、ある年の夏休みには、近処のある人の処に通うて、四書五経の素読をやった。「故」 の字を「かるがゆえに」と読むのはどういうわけだろうかと不審に思うていたが、素読のことだ からそんなわけは|聞《さち》きもしなかった。「ヘイヒタルカンドウ、キルコトナカレ、オルコトナカレ」 という詩経の丈句を覚えているが、今では既にその字を忘れている。  つい先頃のこと、ある人が私に、あなたの時代の小学校は腰掛でしたかと聞いた。そんなこと が問題になろうとは、私は思いもそめなかった。何しろマテマチカル・ジョーガラヒーを教える ほどの新式の学校だもの、腰掛でなくてどうするものか。しかし校舎は、前に言った通り、元の お城の一部分であり、学校の名称も、後には豊津小学校になったけれども、初めの内は「|裁錦《さいきん》小 学校」と言ったくらいで、いろいろ古風なところも勿論あった。雨の日の休みの時間などには、 いつも廊下で組打ちばかりやっていた。私はからだが|小《ささ 》さいのでよく馬に乗せられたが、その代 りいつでも組み敷かれてばかりいた。 「|利《とし》さんは学校で大かた毎日泣かされてばかりおいでる」と、志津野のおよさんか誰かが告げ口 をしたので、私は両親の手前、甚だ面且なく感じたことがある。実際、私はよく泣かされた。そ れというのは、からだの|小《ちちさ》さいのが第一、しかも年の割に級が上で、おまけに口が達者と来てい るので、力の強い大きな友達の目からは、よほど生意気に見えたのだろう。大体、先生からは可 愛がられたが、それでも何かの罰で|閾《しきい》の上に直立を命ぜられて、ひどくなさけなかった|覚《ちさ 》えもあ る。  十三の春、私は豊津小学校を優等で卒業した。そして大橋(今の行橋)の郡役所に呼び出され て、『|輿地《よち》誌略』と『日本外史』とを御褒美に貰った。 五 中学校  元は藩学育徳館、私のはいった時には県立農津中学校。|台《だい》ケ|原《はる》という平野の一隅にある宮殿式 の(実は粗雑な)建物で、高い|竿《さお》の上にホラフが揚っていた。私は入学願書を持って初めてそ こに行った時、実に堂々たるものだと思った。「何でもこのごろは二百人から生徒があるそうじ ゃ」と、母などが驚きがおに話していた。当時、豊前の国(旧小倉領)にただ一つの中学校だっ た。  育徳館時代には、カステルという異人の教師がお雇いになっていたほどの新式であった。本町 にその教師の住宅として建てられた異人館があった。私らの物を覚える頃には、その家には志津 野|肇《はじめ》さんの一家が住んでいた。この志津野は、他の志津野と区別するため、異人館志津野と呼ば れていた。ヵステルが蘭学であったか、英学であったか、それは知らないが、何しろこの山の中 まで西洋人を引張って来たところに当時の意気込みが窺われる。従ってマテマチカル・ジョーガ ラヒーも決して不思議でない。しかし私らの入学した中学校は、まだほんの初期で、藩学として の長所はなくなって、新制度としての発達はごく幼稚だという状態であった。  私は中学校に画学という科目のあったのに驚いた。小学校にはそんなものはなかった。画と言 えば、芝居の寺子屋で見ている通り、子供として先生に叱られるはずの遊び事だと考えていた。 それを学校で教えるとは何事だろうと思った。しかし別だん不平を鳴らすほどのことでもなかっ た。ことに初めの中、先生が黒板に白墨で手本の画を書いてくれて、それを我々が真似するとい う位の程度のもので、実際ほんの遊び事であった。ただ、私は天性の不器用で、どうしても画ら しい画はかけなかった。学校以外でも、四君子といって、蘭・竹・梅・菊などをかいたりする、 文人画の流行があって、それは私にも高尚な一風流と感じられて、幾らか真似をして見たことも あるが、どうしても画らしい格好のものにならなかった。  体操ということも中学校で初めて教わった。これも何だか馬鹿馬鹿しくて厭だった。ことに私 は背が低くて、いつでも列の最後になるのが厭だった。卒業間近になって、兵式体操が初めて行 われた時にも、かなりの反感を覚えた。  ついでに、当時はまだすべての学校に唱歌というものがなかった。後に、学校で唱歌を教える と聞いた時、私は変なことだと思った。私の心持としては、画も体操も唱歌も、皆同じく、学校 で教うべき学問ではないのであった。しかし後になって考えて見ると、それは一面には、私が自 分の性質および体質に適しないものを嫌ったのであったらしい。私の耳は、現に今でも、音楽に 対して全くキクラゲ同様である。もっとも、子供の時、少しなりとも小学校で修練されていたら、 これほどではなかったかも知れない。  簿記、経済学などいう科目も私は厭だった。私は卒業近くなる頃には、将来、政治家もしくは 学者になるつもりだったので、そういう町人らしい学科が自分に必要だとは考えられなかった。 数学もあまり好きではなかった。ただ幾何は少し面白く感じた。物理学、化学、生理学などには 非常な興味を持った。動物、植物、地理などは、味の出るところまで行かなかった。それには、教 科書の悪いということもあり、受持教師の悪いということも大いに関係していた。歴史では『日 本外史』『十八史略』など、漢文では『文章軌範』『論語』『孟子』など、これらは皆熱心に学ん だ。和丈の『土佐日記』はあまり好きでもなかったが、ちょっと珍しいので面白いと思った。 『日本外史』や『文章軌範』の受持に緒方先生という人があった。号を|清渓《せいけい》と言って、よく詩を 作った。ヤギのような|顎髭《あごひげ》があったと思う。先生の中で一ばん年若で、一番生徒に好かれていた。 幾ぶん生徒を友達扱いにするところが、受けのいい原因だった。私はある夏休みに、この先生の 処に|通《かよ》って『史記』の列伝の講義を聞いた。『唐宋八家丈』も少し教わったかと思う。私の漢学 はその位の程度に過ぎない。 『論語』の受持の島田先生は、薄あばたのある、小柄な、ごく静かな人だったが、緒方先生とは 違って大へん丁寧な言葉で我々を大人扱いにしていた。私はそれをこそばいい(クスグッタイ《ささちち 》|) ようにも感じたが、また一面には、少しく愉快にも感じていた。例えば、こういうことがあった。 『論語』の中に(私は今、手元に『論語』を持っていないので、ウロ覚えのままで書く。少し間違 ってもいるだろうが、その方が却って面白いかも知れない)、|子貢《しこう》、|子路《しろ》、|宙擁《ぜんよう》、|曽点《そうてん》、|公西華《こうせいか》な どいう孔子のお弟子さんたちが侍坐している時、孔子が「何ぞ各々其の志を言わざる」と、彼ら の意見を求めるところがある。そこを島田先生が大へん力をこめて、いかにも面白そうに講義し てくれられた。元気者の子路や、気取り屋の子貢などが、それぞれ得意になって、政治家として の大抱負を述べる。その他の連中も皆、謙遜はしながら相当大きな望み事を言う。然るに曽点が 最後に、弾いていた琴を静かにやめて、|莞爾《かんじ》として、「私の志は大ぶん諸子のと違いまする。即ち、 暮春には|春服《しゆんぶく》既に成り、冠者五、六人、童子六、七人を連れて、温泉にでも行ってブラブラ遊び たいと思います」といったような返事をしたので、孔子が「我は点に|与《くみ》せん」と言われた。島田 先生の講義がこの曽点のくだりに入る時、先生自身も莞爾として、「堺さんあたりの定めてお好 きになりそうな処ですが」と言って、そして暮春春服云々との講義に移られた。私は驚いた、そ して恥かしかった。しかし嬉しくもあった。そして何となく大人らしい自尊心を感じた。ただし、 その時の私に曽点と共鳴しそうな性質が現われていたろうとは考えられない。一体、私のどこを どう観察して、島田先生はあんなことを言われたのだろうかと、その後、幾度も思いだして考え たりしたことだった。 『孟子』の白河先生は馬の|噺《いなな》くような咳払いをする人だった。ある日、物理の加瀬先生の家に私 が遊びに行っていた時、白河先生もそこに来ていられた。加瀬先生が鶏の御馳走をするというの で、私と誰か今一人の少年とが命を受けて、庖刀でその鶏の首を斬り落した。すると、それを見 ていた白河先生が|六《むつ》かしい顔をして、「あんた方は実に残忍なことをするなア」と言われた。私 は先生が冗談にそう言うのだと思ったが、すぐに笑いだしもしないので意外だった。そして私が、 殺すのが残忍なら、食うのはなお残忍だという意味のことを言うと、「それじゃから君子は|庖厨《ほうちゆう》 を遠ざくということがある」と、先生はやはり六かしい顔を続けていられた。この先生の真意は 今以って私には分らない。作女の試験の時、「|雨中看挿秧《うちゆうそうおうをみる》」というこの先生の出題に対し、私は 大ぶん得意な一丈を作った。その結句は今でも覚えている。「淵に臨んで魚を羨まんよりは、退 いて網を結ぶに|如《し》かず、家に帰って書を読む。」ところが採点を見ると、それがヤット三十五点。 そして先生は「少しよく出来過ぎた」と言われた。つまり|剽窃《ひようせつ》と目されたのであった。私は非常 に不平だったが、遂に弁解もしなかった。しかし後になって考えると、あるいはそれが、自分に 気のつかない、自然の剽窃であったかと思う。俳句や歌の場合には、折々それに似たことがあっ た。けれどもまた、|幾許《いくばく》も読書をしない少年が記憶した他人の文章を、無意識の間に、、そのまま 自分の物として考えだすということがあり得るだろうか。これは今でも多少不愉快な疑問として、 私の心中に残っている。  |赤壁《せきへき》の|賦《ふ》を講義して貰った、|西玄理《にしげんり》という老先生があった。何でもモゥ八十ぐらいで、頭には 毛がたく、口には歯がなく、そしてその大きな顔には|皺《しわ》と斑点とがあった。しかしこの老先生が、 「夜中に一羽の鶴が、ッルン、コロンと鳴いて……」などと詩的な講義の仕方をすると、私らは 何とも言われぬような尊さを感じた。私はこの先生に、ごく短い十行ばかりの作丈(その頃の作 文はすべて漢文)を出した時、そのあまりに短い故を以て叱られることを予期していた。ところ が、どうだろう。初めから終りまで全文に|朱丸《あかまる》の圏点がついていた。私は一体、文章を短くし過 ぎる癖がある。それは技巧上の癖でもあろうが、根本にそういう頭の癖があるらしい。(稿料を 稼ぐにはよほど損な|質《たち》だ。もっとも、この『伝』はあまり簡潔でもない。)  数学の先生吉村|破疑六《はぎろく》さんは酒豪であった。教場でも我々に酒くさい息ばかり吹きかけていた。 あの先生の息に火をつけるとキット燃えると言われていた。とにかく生徒中に数学の不得手な者 が多いばかりでなく、またしばしば数学無用論が唱えられたりするので、吉村先生は盛んに数学 の効用を宣伝していたが、惜しいかな数学は測量や建築などに必要だと言うに過ぎなかった。私 はその後、東京において、数学は実際上の応用は別として、一般に頭を論理的に鍛練する効果が あるという話を聞かされた時、非常に深遠な道理に接したような気持がした。もし中学校でその 深遠な道理に接していたなら、モット数学が好きになっていたかも知れない。吉村先生はある時、 私に「代言人」という|仇名《あだな》をつけた。今の弁護士のことをその頃は「代言人」と言った。私のお しゃべりはよほど著しかったものと見える。  以上の諸先生は皆、国の士族であった。他国から来た人の中、稲垣先生は病身でもあったが無 精な人で、椅子に腰かけたまま、からだを半分うしろにねじむけて、ものうそうに黒板に字を書 くという風で、快活な少年に好かれるはずがなかった。従って私は、先生の受持なる経済学と簿 記とが一層厭だった。  前にチョット記した加瀬先生は理化学と数学とを受持っていたが、よく大きな、赤い表紙の、 フランス語の本を教場に持って来たりしていた。この人は酒好きで、その豪放た無邪気な所が、 私らを喜ばせていた。自分の設計で理化学の教室を新築させたほど、教授上には熱心だったが、 私はある時、先生からその実験室に引き止められて、砂糖水にアルコールを入れたのを飲まされ たことがある。私はこの人において、初めて少し常規を逸した、愉快な人物に接触したのであっ た。  英語が初めて学科目に|這入《はい》った時、私らの嬉しさは|喩《たと》えるに物がなかった。先生には、大沢|友 輔《ともすけ》という、背のスラリとした、鼻の高い、髮の美しく縮れた、若い気の利いた、どうしても壷津 あたりの人間と種の違う人が来た。初めはよほどしばらく、スペルリングばかりをやった。ベ1、 ビー、バイ、ボー、ビュウ、バイからやりだして、イン・コム・プレ・ヘン・シ・ビ・リ・チ1 という最も長い綴りの字まで、ずいぶん面白くたいことを、さも珍しさに釣られて、大声で稽古 した。この先生はどういうわけか間もなく|罷《や》めて帰ったが、ズット後で新聞でその名を見た時に は「大詐欺師」の肩書がついていた。  今ひとり花見先生というのがあった。これは整津出身の人で、ズィ(→冩)ソン(。。き)イズ(芭 オップ(諧)という調子で教えてくれた。その頃、私が母に、英語ではおかあさんのことをモー ザアと言うと話したら、母が、厭なことじゃなアと答えた。その次に須田|辰次郎《たつじろう》という先生が来 た。これは口髭の縞麗な、洋服の着こなしのキチンとした、立派な紳士で、慶応義塾出身だとい うことだったが、英語の教え方はホンの通り一遍で、サッパリ面白くなかった。この人はたしか 後にエライ実業家になられたはずだ。  最後に理学士松井|元治郎《もとじろう》さんが来た時、私は初めて少し本当に英語を学んだ。松井先生は純正 化学が専門で、大学を出たてのホヤホヤで、|瀰洒《しようしや》たる青年であった。大学の卒業証書を教場に持 って来て、笑いながら拝むような真似をして、私らに見せたりした。何しろ年は僅か二十四、五 で七十円からの月給を取るのだから、大変なものだった。七十円と言えば、どんなに安く見積っ ても、今日の五百円には相当する。前に話した異人館志津野は霊津の学務委員などした人だが、 松井先生の来た時、」度わざわざ訪問してその人物を鑑定した。曰く「学士もやはりただの人間 で、別だん角も生えちゃ居らん。」私に取っては、松井先生は化学の先生たるよりも英語の先生 で、そのお蔭で私は、鬼津中学卒業の水準よりは、少し高い英語の力を養われていた。松井先生 は後に京都の高等中学の教授になられたこともあり、大阪の製糖会社の技師長とか社長とかして おられたことも聞いたが、今はどうしておられるか知らない。その弟の慶四郎さんは外務大臣ま で立身されたが。 士族の子と有産者の子  中学校の諸先生のことを話して、校長のことを話さないのは少しおかしいようだ。しかし話す ことがない。校長は入江|淡《たん》といって、エライ学者だということではあったが、我々生徒とは直接 何の関係もなかった。叱られたこともなければ、誉められたこともない。要するに私は、入江校 長から何らの感化をも受けなかった。  その他、私の中学生活は誠に無事だった。ただ私は「才子」ーー毛の頃、そういう言葉が流行 していたがーその才子の一人に数えられ、幾らかいい気になって「一番」で卒業した。ただし 同期の卒業生は僅かに十人足らずで、一番も二番も大して問題ではなかった。実際、私は勉強ら しい勉強をしたこともなく、学科の重荷とか、競争の苦しさとかを感じたことは、少しもなかっ た。その点では、近年の学生たどに比べて、幸福だったと思う。  しかし私は中学校で、初めて士族以外の人間に接触して、少し世の中を知りはじめた。藍津の 町の者は、一人も中学校には来なかった。豊津の者で中学校にはいるのはみな士族であった。藍 津中学校は藩学育徳館の後身として、士族の学校たるかの観があった。町の者や、田舎の者(農 村の住民を指す士族の言葉)には、高等の教育を受ける資格がなかった。私にはそんな風に思わ れていた。ところが実際は必ずしもそうでなかった。私は初め、町の者と言えば錦町の人々、田 舎の者と言えば馬や牛を引いて米や薪を売りに来る人々より外には知らなかったが、町人の間に 富豪があり、農村に地主があり資産家があることをようやくにして学び得た。中学校には、それ らの地主、資産家、富豪の子弟が入学していた。そしてその少年らは、言葉や風俗において、多 少は士族の嘲笑を招くに足るものがあったに係わらず、種々の点において、よく士族の子を凌駕 し威圧するに足るものがあった。即ち彼らのある者は、その粗野剛健の風において、士族の子の グズ共と比べものにならなかった。また彼らのある老は、その俊敏な素質において遙かに士族の 子の凡くらに立ち|優《まさ》っていた。さらにまた、彼らのある者は、その富裕な生活から生じた気品に おいて貧乏たらしい士族の子を見下すに足るのであった。ある大庄屋の息子や、ある大町人の息 子などは、温和らしい貴族的の容貌や風采において、貧弱なる下級士族の子らと類を異にする感 があった。しかし種々な点を差引いたところで、我々士族の子と、それらの有産者の子とは、ほ ぽ平均する地位にあったものと考えられる。亡び行く階級と、勃興しつつある階級とが、しばら くそこで行き違いに机を並べたわけである。  この対立は、大体上、通学生と寄宿生との対立として現われていた。寄宿生と通学生との間に 反目を生ずるというほどではなかったが、自然、多少、気風の相違があった。つまり寄宿生は乱 暴であり放縦であった。それだけ元気であり、活撥であったとも言える。ある雪の積んだ日、昼 休みのことだったろうと思うが、寄宿生の一群が運動場に出て、何かしきりに騒いでいた。私は 教場の窓からそれを見降して、ッイ思い浮んだまま「|奴輩《どはい》労す!」と大きな声で呼びかけた。そ れはその前日かに読んだ『日本外史』の中の、木下藤吉郎が部下の者をねぎらった時の言葉で、 緒方先生がそれを面白おかしく講義したのであった。すると、寄宿生群の間にいた内野辰次郎と いうアバレ者が、行きなり教場に飛びあがって来て、私を引ッつかまえて運動場に引きずりだし、 雪の中に押し|仆《たお》して、私の目から口から耳にかけて、さんざん雪の玉をブッつけた。内野は大き な男でもあり、年も一つ二つ私より上なので、私は滅茶滅茶に成敗されたのだった。このアバレ 者が、今は予備の陸軍中将で衆議院議員になっている。  その頃、生徒の中にはまだ靴をはく者も、洋服を着る者もなかった。|上草履《うわぞうり》という物も全くな かった。|梅雨《つゆ》の頃などには-豊津は赤土でことに道が悪いのでー、私など毎日ハダシで通っ たこともある。私は元来、よく下駄の緒を切らしたり、歯を欠かしたりするので、それを父に叱 られるのが辛くて、それほどならイッソ下駄なんどなくてもいいという意地もあったのだった。 そういう野蛮な生徒らの間に、ある日、突然、洋服を着て靴をはいた一人の生徒が現われた。本 人もよほどきまりわるそうにして、遠慮らしく靴をギュウギュウ鳴らせたりしていたが、外の生 徒らは大変な|唯《はや》し方で、まるで先生のような生徒だということに批評が一致した。その生徒は、 私も至極心安くしていたのだが、椎田の町の大きな商店の息子で、錦町の新店という雑貨店が親 類なので、そこを宿にして、通学しているのであった。  私と一緒に卒業した者の中、私が今思いだせるのは六人だけだが、その内四人が士族、二人が 平民だった。士族連では、青木、|生石《いくいし》、小石。小石栄治君はその頃から既に頬髭の剃りあとを青 くしているほど大人らしい人で、いいなずけがあるとか|言《さささささ》って冷かされたりしていたが、卒業後、 全く消息を聞かない。青木(旧姓井村)健彦君は小学校からの親友で、非常に利口な才物だった が、九州鉄道の駅長を勤めたりして、不幸にして早く死んだ。生石|久間太《くまた》君も鉄道に勤めたりし ていたが、今はどうしているやら(生石君や青木君については、まだ外に書くべき機会があると 思う)、平民側では大森昇太君、どっしりした人物でもあり、学問もよく出来たが、後に小学校 の校長をしていたことを聞いたきり、消息に接しない。恐らく今では、地方の有力者になってい るだろう。最後に杉元平二君、|神崎《かんざき》という酒造家の二男だが、兵役の関係上、他家を継いだ形に なっていた。私はこの杉元君と二人一緒に東京に遊学した。後にいろいろ話がある。この杉元君 は今、神崎姓に復して、三井家の有力な人物になっている。  ついでに杉元君の兄さんの神崎|勲《いさお》君(今の衆議院議員)も、その頃、おかしいことには、私ら より下の級にいた。多分これも、兵役の関係上、もともと中学校などには行かぬことにしていた 人が、急に後ればせに入校したのだろう。その頃はまだいろいろの意味から中学校に行かない人 たちがあった。|芝尾喜多夜叉《しはおきたやしや》君は私などより少し先輩だが、これはお父さんが偏屈な漢学者であ                ひえだ                                   ぶつざん ったために、中学校には来ないで「稗田の塾」にはいっていた。稗田の塾は有名な村上仏山の開 いた、維新前からの学塾で、末松謙澄さんもそこの出身である。井伊大老の桜田門の変を詠じた        ふんぷんけ  こうべ 仏山の詩、「落花紛々雪紛々、雪を踏み花を願って伏兵起る、白昼斬り取る大臣の首、落花紛々        かいしや                                   ゆか 雪紛々」は人口に艪炙していた。そんなことからして、私らは何だかその塾のことを床しく思っ ていた。あそこの塾生はみな銘々、米をかついで行くのだそうだとか、あそこではみな二食で勉 強するのだそうだとか、そんなことまで何だか大変ありがたいように噂したりしていた。豊後の 広瀬|淡窓《たんそう》の塾のことなども、折々噂に聞いていた。 七 神道、儒道、 自由民権  かように私は、一方には仏山塾の名残り、一方にはホヤホヤな青年理学士といった風に、新旧 両面の感化を受けて育って来た。そして思想の系統としては、儒教と、神道と、自由民権主義と を注入されていた。  神道といって、別にそれを信仰したわけでもないが、維新前後の排仏|毀釈《きしやく》の風が大ぶんそこら に残っていて、幾らかその感化を受けた。『国史略』の中に、木下藤吉郎が小僣にやられた時、僧 は|乞丐《きつかい》の徒なり、学ぶに足らずと言って飛びだしたという話がある。その外、『国史略』や『皇 朝史略』には敬神排仏の字句が到る処にあった。それから村上昇平という若い弁者が曲豆津に来て 盛んに仏法を罵倒し、遂に錦町のお寺の坊さんたちと問答をやったことがある。私ら子供たちは 村上崇拝で、問答の席上、村上のうしろに坐って、声援したものだった。しかし私はその後、そ の同じ寺で、大内|青巒《せいらん》氏の、「|非有非無《ひうひむ》」という題の、仏教演説を聞いて、ひどく感服したこと もある。私の家はもと禅宗だったそうだが、父は早く斬髮になったのと同じような気持で、その 頃、神道になっていた。それで折々神主とも坊主ともつかぬホウジョウ(方丈?)という者が、 大きな|琵琶《ぴわ》を持ってやって来て、神棚の前でその琵琶を|弾《ひ》きながら、何かノリトのようなものを あげていた。そんなわけで、私は神社に対しては、相当の崇敬心を以て礼拝したが、仏寺仏像に |叩頭《こうとう》することは|屑《いさぎ》よしとせぬ気分があった。  儒教と言っても、たかだか『論語』『孟子』あたりの感化だが、|修身斉家治国平天下《しゆうしんせいかちこくへいてんか》などいう 考え方は、士族の子の頭には入り易いものであった。私は自分の家の貧乏なことはよく知ってい たが、そうかと言って直接、衣食に不自由をさせられたことはなし、ただ学校の教科書ーそれ は大部分、学校から貸与されたが、その中のある部分1ーを買う時、父が容易に承諾してくれな かったり、あるいはその結果、教科書なしで済ましたりした位が、唯一の苦労だったのだから、 自分の将来を考えるについても、衣食の計などということは天から問題でなかった。そこで、修 身斉家というのももとよりすべて道徳的の意味であって、つまり治国平天下が士人たる者の目的 であった。『孝経』も少し読まされたが、「身体|髪膚之《はつぷこれ》を父母に受く、|敢《あえ》て|毀傷《きしよう》せざる、孝の|始《はじめ》な り、身を立て、道を行い、以て父母の名を現わす、孝の|終《おわり》なり」というようなことが、よほど実 際的の指導になったように思う。そこで中学校を卒業した時の私の希望は、政治家になるか、学 者になるかであった。そして学者と政治家とが、そんなに違ったものでなく考えられていた。島 田先生は折角、曽点を以って私に擬してくれたけれども、私はむしろ子貢子路であった。子貢ほ どの|自惚《うぬほ》れや気取りはなかったろうが、子路の卒直と正直とを学ぶような気分があったかと思う。  それから自由民権の思想。これはどういう順序で私の頭の中にはいって来たかよく分らない。 長兄が東京にいた時、『朝野新聞』を送ってくれたのは、けだしかなりの感化力であったろうと 思う。福沢諭吉さんの物も、前記の『世界国尽し』以外に、何を読んだか記憶がたい。中学校の 先生の中には、この方面で知識を与えてくれた人も、感化を与えてくれた人もない。ただ、兄(本 吉の兄)がその方面における唯一の指導者であった。が、それとても大したことはない。『福岡 日日新聞』をいつ頃から読んだか、どうもハッキリした記憶がないが、どこかで多少は必ず読ん でいたに相違ない。とにかく私は当時、漠然ながら自由民権主義の追随者であった。同級の(前 記の)青木などと演説会や討論会の真似事をやった時、コ院制と二院制との可否」という題目 で論議したことを覚えている。ついでに、兄などの時代には、中学校で演説会をやらせていたの だが、私らの時にはヤメになっていた。それだけ学校が進歩して、保守的になっていた。それで 私らは|御内家《ごないけ》の空部屋を借りて、そんな会合をやっていた。何しろ国会の一院制と二院制との可 否を討論するほどの少年どもだから、自由党の運動などについて、大体の知識は持っていたに相 違ない。板垣退助さんが刺された時、板垣死すとも自由は死せずと叫んだことなど、少年の心を 刺戟せずにはおかないはずである。それで当時私らが崇拝の中心とした先輩は、|征矢野半弥《そやのはんや》さん であった。征矢野さんは育徳館出身の秀才として有名であったが、また国会開設請願運動の率先 者として有名であった。私はその頃まだ、直接、征矢野さんに会ったことはなかったが、費前に おける自由民権の代表者として、常にその徳風を想望していた。  かくて私の儒教から来た政治家志願は、自由民権運動と一致することになり、政治家となるこ とは即ち国会議員となることだとも考えられていた。 八 東京遊学  中学校の卒業生は大抵みな東京に遊学することを望んでいた。旧藩主小笠原家の補助と、旧藩 出身先輩の寄附とで設立された育英会という団体があって、官立学校への入学志願者は、多くは そこの貸費生にされていた。国の先輩には、小沢武雄、奥|保輩《ほきよう》、小川|叉次《またじ》、その外、陸軍の軍人 として出世している人が多かったので、士官学校志願が大いに奨励されていた。私らの同期卒業 生の中で、青木、生石の二君は初めその志願で上京した。杉元君と私とは、内々で少し軍人志願 を軽蔑して、大学を志願した。それは一つには、二人ともチビで、第一、体格が軍人向きでなか ったのに依るかも知れない。  これより先、その前年、私は椎田の中村という家から養子に貰われた。後で聞けば、豊津中学 校第一等の秀才を選抜したのだったそうだ! それで私は、たちまちにして中村利彦となり、そ の養家の便宜に依って、安々と東京に遊学することが出来た。育英会の貸費生となるにしても、 少々はその外に足しがいるので、堺家の財産ではとてもそれに堪えられないはずであった。  かくて私の前途は苦もなく自然に切り開かれた。運命は常に私のために笑っているかのような 心持がせぬでもなかった。とにかく私は意気揚々として故郷を出た。時に明治十九年春四月。十 七歳。         *                   *                   *  以上、私の費津時代をずいぶん乱雑に、前後の次第もハッキリさせずに書きなぐった。それは 記憶が正確でないからでもあるが、また必ずしも精密に年月を追う必要はあるまいと考えたから でもある。しかし|行燈《あんどん》のことを書いておいて、それの進化を書き落したなどは本当でない。行燈 の第一進化は、種油の皿が石油のカンテラに取換えられた点にあった。光度は大いに加わったけ れども、行燈としての外形は元のままであった。それから第二の進化として釣ランプが来た。こ れで燈火の外形が全く変化した。そしてその釣ランプのブリキの笠の下に、三|分心《ぶじん》の小さい黄色 い火のとぽれているのを、何という明るさだろうと感嘆したのであった。  ランプと牛肉と、どちらが早かったか分らないが、とにかく私は盟津で牛肉の味を知っていた。 |台《だい》ケ|原《はる》に屠牛所が作られていた。中学校の昼休みに、そこの屠殺を見に行って、目がくしをされ た牛が、額の真正面を鉄の|槌《つち》で打ちおろされ、ゴトゴトと足踏みをしてドタリと|仆《たお》れたのを見て、 非常に厭な気持がしたが、それでもやはり肉はうまかった。 第二期 東京学生時代 一 上京の途中  明治十九年四月、私は初めて生国|費前《ぶぜん》の地を離れて東京に「遊学」した。その頃、東京に「遊 学」するのは、今日、ヨーロッパに「留学」するのと、ほとんど同じくらいの珍しさを感じたの で、昂奮、緊張、歓喜、勇躍、十七歳の少年は洋々たる前途の希望に燃えた。  ところが、その希望に燃えた、得々たる田舎少年の姿は、さぞ見すぽらしかったことだろう。 年弱で十七でしかも小柄で、要するに貧弱なチビで、それが土色(もしくは|煤《すす》色)の顔をして、 手製のシャツを着て、まだ帽子という物をかぶることも知らずにいた。連れの杉元平二君、今の 神崎平二君(三井信託副杜長!)も同年で、同じくチビで、私より少し色の白いのが僅かの取り えくらいなもので、大抵おなじような貧弱さだったろう。しかもその少年が、私の養父と養母と、 外に二人の同行者とに|交《まじ》って、立派な田舎者の一行を作りあげていた。  この田舎者の一行が小さな汽船に乗って神戸の港に着いた時、彼らはそこで初めて電気燈とい うものを見た。神戸の船宿で朝早く目が覚めて、ポオー、ポオー、という汽笛の音が碇泊の船々 から幾つも幾つも引き続いて聞えた時、それがどんなに珍しく私の心をそそったか。私は今でも 折々、寝ざめに汽笛の|音《ね》を聞く時、|薄靄《うすもや》のかかった神戸の港の景色を思い浮べる。  かくて、貧弱な二秀才を交えた田舎者の男女一行は、初めて汽車というものに乗って神戸から 大阪に出で、京都を見物し、大津から小蒸汽で琵琶湖をわたって伊勢に参宮し、四日市から汽船 に乗って横浜に着いた。その頃、東海道にはまだ汽車が全通していなかった。私は船に弱くて、 遠州灘あたりで、ヘドの吐きつづけだったが、それでも船室の丸い小さい窓から、遙かに雪の富 士を浪の上に望んだ時、神戸のポオーに劣らないほど、珍しさの昂奮を感じた。  一行は横浜から汽車で新橋に着き、それから人力車で市ケ谷に向った。私はその車の上で、久 しく恋いこがれていた東京が、大して「花の都」とも見えないのに、まず失望した。ただ一つ、 途中の|濠《ほり》ばたで見かけた人々の中に、背の高い、袴をはいた、二十余りの学生らしいのが、饅頭 の上に房の玉をつけたような帽子をかぶってすまして行くのが、極めて異様に感じられた。 二 同人社、 神楽坂  一行の車がおろされたのは市ケ谷|砂土原町《さどはらちよう》馬場|素彦《もとひこ》邸であった。これは私の養父の弟で、陸軍 中佐、徴兵課長として陸軍省に出仕している人であった。中佐と言えば、今日では安っぽく聞え るが、その頃の佐官は大したもので、馬場邸はかなり堂々たる邸宅であった。  私の養父母は間もなく帰国した。私は馬場の叔父の監督の下で、近処の下宿屋に杉元君と一緒 に下宿して、小石川の|同人社《どうじんじや》に入学した。同人杜はスマイルスの『自助論』の訳者として有名な 中村|正直《まさなお》氏の創立した英学塾で、江戸川のほとりにあった。私は初めて東京の桜を江戸川で見た。 同人社では、坪内雄蔵さんのクライヴの講義が、軍談か講釈を聞くようで面白いという評判だっ たが、私の級ではまだそれが聞かれなかった。私はただ、そこで初めて西洋人から英語の会話を 教わったが、嬉しくて堪らなかった。初めての会話の時間に、その西洋人がゴールド・フィッシ ュと言うのを聞いて、ハハア金魚のことだなと思ったほど、それほど私は聡明だった。  同人社には、私らの外に、同郷の友人がまだ数人いた。私は初め主としてそれらの人たちとば かり交わっていた。その頃では、同郷人ということによほど深い親しみが感じられていた。あの 男は他県人とばかり交際しているなどと、多少非難らしく噂される人もあるくらいであった。こ とに私らは、小笠原家と整前出身諸先輩との保護の下にある、育英会の貸費生であったので、そ の育英会関係者の間には、自然一種の親しみがあった。  育英会では、官立学校の生徒、もしくはそれの志望者に限って貸費するのであった。それで大 体貸費生は士官学校を志望する者と、帝国大学その他を志望する者の二種に別れ、前者は成城学 校に入り、後者は同人社その他に入っていた。前にも言った通り、国の先輩には軍人が多かった ので、士官学校志望者が大いに奨励されていた。馬場の叔父なども、私の大学志望をあまり喜ん ではいなかったらしい。ことに私が何かのついでに、国会議員になりたいと言った時、叔父はよ ほど不興であった。軍人を志望しないまでも、せめて官吏を志望して欲しかったのだろう。  私の東京生活の最初の半年間は、|神楽坂《かぐらざか》を中心としたものであった。下宿は三、四回もかわっ たが、みな神楽坂の近処だった。初めて|寄席《よせ》を聞いたのも神楽坂だった。初めてアンパンを買っ たのも神楽坂だった。初めて|蕎麦《そば》屋にはいり、初めて牛肉屋にあがったのも、みた神楽坂だった。 今でも私は神楽坂を通るたびに、変に懐かしいような、センチメンタルな気持がする。  それもそのはずだろう。初めて父母に離れ、初めて故郷に離れて、大都会の間に下宿屋生活を したものだもの。いかに前途は洋々でも、まだ子供気の失せない少年の心は寂しかった。ある日 の夕暮、私は下宿の二階の窓から西方の空を眺めて、何とは知らず泣きだしたことがある。 三共立学校  その年の夏、私は第一高等学校の入学試験を受けたが落第した。その時、同郷者の間で及第し たのは、私らより少し先輩の大森|藤蔵《とうぞう》君一人だった。そのお祝いとして私ら五、六人は、本郷の |越知勝《えちかつ》で牛肉をおごられた。(大森君は今、故郷の費津中学の校長をしている。)  その秋から私と杉元君とは、神田|淡路町《あわじちよう》の共立学校(後の開成中学)に転じた。同人杜は有名 な学塾であったけれども、実質上には既に衰運に向っていることが発見されたのであった。それ である者は東京英語学校(後の|錦城《きんじよう》中学)に行き、ある者は共立学校に行った。共立学校の校長 は鈴木|知雄《ともお》という人で、高等中学の英語の教師だった。従って共立学校から高等中学への入学率 が最も多いという評判だった。しかし実際の入学率は、東京英語学校と伯仲で、両校がちょうど 同じほどの人気を|有《も》っていた。  ある日、鈴木校長が、腹の馬鹿にふくれた、チョット西洋人らしい所のある、大きな紳士を私 らの教室に案内して来て、これは高橋|是清《これきよ》さんと言って、本校のためにいろいろ世話をして下さ る人ですとか何とか紹介した。あの人がこの学校の金主だそうだと、あとで皆が噂をしていた。 またあの人は非常な冒険家で、南アメリカに行って奴隷に売られたことがあるそうだという噂も 伝わった。それが後に総理大臣になる人だとは、思いもよらなかった。  共立学校の先生には大学の学生が多かった。後の丈学士長沢市蔵さんはトドハンタ1の代数を 教えてくれた。僕は哲学が専門だけれど、数学もなかなか出来るんだよ、などと言っていた。非 常に好人物だという感じが残っている。後にニューヨークの総領事か何かになっていた宮岡|恒次 郎《つねじろう》さんは、スゥィントンの文法を教えてくれた。宮岡さんは好男子で、発音がよかった。(私は 先年来、折々宮岡さんを丸の内あたりで見かける。今ではたしか弁護士をやっていられるように 聞いた。今でも好男子で、キチンとした洋服姿だが、髭だけは白くなってる。)今どこやらの大 使か何かになっている田欝驚さんは・英語を教落てくれた。読み方の気取ってるのが評判だった。 柿崎さんという先生が寒くなってからも夏服の金ボタンでやって来るのが、また一つの評判だっ た。それが多分、大阪で有名な弁護士になってる人だろうと思う。西洋人の先生の、・・スター.コ ックスは、いつも呆れたような顔をした、実に愉快な好人物だった。         せいの                           お はらせんきち    さき  たくみのかみ       げんよく  学生の中には、清野長太郎君(今の神奈川県知事)、小原鯰菁君(前の内匠頭)、桑木厳翼君 (今の丈学博士)などがあった。先年どこやらで桑木君に出会った時、昔の話をして見たが、桑 木君は私を記憶していなかった。しかし私の方では、当時まだ東京に来て間のない田舎者として、 東京育ちらしい、活撥な可愛らしい桑木君を、羨ましいくらいに思ってたのだからよく覚えてい る。小原君は、その頃はまだ男爵ではなかったけれども、すこぶる貴族的であってしかも野蛮な、 我儘であってしかも無邪気な坊っちゃんで、学生仲間には「専公」として有名だった。彼の当時 の名は、騷吉でなく、専吉だった。馬場|孤蝶《こちよう》希もちょうどその頃、この学校にいたそうだが、級 が違ったものか、お互いに記憶がない。(もっとも、その時の私は堺姓でなく、中村姓だった。)  その年の秋、国から犬塚武夫、横山|直槌《なおつち》の二友人がやって来た。私は半年ばかりの先輩として、 二君の引廻し役を勤めた。二君も共立学校にはいった。それで前記の杉元君と私と、四人ながら みんな背ひくだった。横山君だけがほんの少しばかり高かった。(犬塚君は後に不動銀行の重役 になり、今はたしか東京府民銀行というのを経営してる。横山菻は何でも久しく朝鮮の銀行にい ると聞く。杉元君は前にも言った通り、先には三井銀行におり、今は三井信託にいる。当年の私 の相棒は、どういうわけか、かくてみな銀行屋になっている。)  共立学校はずいぶん汚ない学校だったが、しかし、私らは非常に愉快だった。何しろスウィン トンの万国史、マコレーのクライヴ伝、グ1ドリッチの英国史、ア1ヴィングのスヶッチ.ブッ クなど、いろいろ|六《むつ》かしい英語の本を読むのが嬉しくて堪らなかった。ロビンソンの算術、トド ハンタ1の代数、ジョーヴネーの幾何など、すベて英語でやるのが、それがまた非常に嬉しかっ た。ある時、学校の記念日か何かに、ある先生が演説をやって、「今にこの共立学校の|塵埃《じんあい》の間 から幾多の人傑が輩出する」と言ったので、私はその後、教室にほこりの多いのがあまり厭でな いような気がした。  私らの生活舞台はこうして牛込から神田に移った。|駿河台《するがだい》鈴木町の|崖《がけ》の上の下宿屋から九段の 方を見晴らした景色は本当によかった。その頃、すぐ崖下の三崎町一円はまだ練兵場だった。あ る日、降りつづいた雨の中にその景色を見晴らしていると、崖に茂った樹木の青葉に、大小の|蝸 牛《かたつむり》が無数に|一《は》一一.氾いずっているのが、非常に面白く私の目にとまったことを覚えている。翌年の春頃 には錦町の武蔵屋という新築の大下宿屋の六畳の一室に、例の四人が一緒にはいりこんだ。六畳 に四人は勿論少し窮屈だったが、それでなくては、三円五十銭の予算でこの新しい堂々たる下宿 屋にはいれないのであった。  ある時、共立学校で、ある学生が「ソワレーに行く」という話をしているのを聞いて、その 「ソワレー」が何のことだか分らなかった。あとで聞くと、夜会ということだった。ちょうどそ の頃、政府の当局が条約改正に骨を折っていた時で、欧化主義が盛んに奨励され、鹿鳴館の仮装 舞踏会などいうことが流行していた。その流行の波の一端が、私にソワレーという言葉を覚える 機会を与えたのであった。  またある時、同じく共立学校で、ある学生が「一里半なり、一里半」という歌を歌っていたの が私の注意を引いた。あとで聞けば、その頃、帝国大学の|外山正一氏《とやましよういち》の主唱で「新体詩」という ものが試作されていた。そして右の「一里半」は即ちその一つで、イギリスの詩の|反訳《ほんやく》だと言う ので、何だか無性にありがたくなった。それから学生間にそれの原詩が流行して、「ユアース、 ナット、ツー、リーズン、ホワイ」 得意になって暗誦していた。 「ユアース、 バヅト、ツー、 ヅー、エンド、 ダアイ」などと 四 当時の物価  当時の下宿料は三円五十銭内外が普通だった。私が杉元菻と一緒に初めてはいった牛込の下宿 は二円六十銭だったが、それは破格で、思うに、馬場家から我々のために然るべき下宿を探して やることを命ぜられた人が、出来るだけ安いのを然るべきと解釈して、忠義顔に最下等の処を|択《えら》 んだのだったろう。  当時の物価の標準としては、蕎麦と湯とが各一銭三厘だった。しかし、それを今日に比ベると、 前者は約八倍、後者は約四倍の騰貴だが、どういうわけのものだろう。  私が初めて西洋料理というものを食った時、それが一人前十七銭だった。それでもスープ、パ ン、コーヒー、ケ1キの外に、二品か、三品かの皿があった。紺足袋が一足十八銭には驚いたが、 真黒い紺足袋をはかないでは書生の体面に関するので、奮発して買っていた。  |小川町《おがわまち》で五銭五厘で食える|牛屋《ぎゆうや》があった。肉が一人前四銭、飯と新香が一銭五厘だった。ある 時、例の四人組がその牛屋でたらふく食って帰ろうとする時、勘定方を受持っていた犬塚が、何 かわけありそうに早く早くとしきりにせき立てるので、皆がドンドン|梯子段《はしごたん》を降りて、下足を待 ちかねて表に出ると、犬塚はドンドン真っ先に走り出して、駿河台の方に行ってしまう。何だか わけが分らないが、我々もそのあとについてドンドン走って行った。すると、戸田の邸の辺まで 行って、モウ大丈夫だと言って犬塚が話すのを聞けば、三十幾銭かの勘定に対して五十銭銀貨を 出したら、女中が二十幾銭かの釣を持って来たと言うのであった。つまり四人で十銭もうかった ので、向うの奴の気のつかない内に姿を消したわけだった。  その頃、学資は月七円ぐらいが標準で、私は育英会から五円ずつ貸与され、外に二円、あるい は二円五十銭、馬場家から貰っていた。それを君はらくだと|言《ち 》って、ある人からは羨まれたこと すらある。実際、五、六円でやっている者もあった。  私が国を出る時、実家の母が、まさかの時の用心にと言って一円札を一枚くれた。私はそれを 内証金として、後生大事に持っていた。ところがある日、神楽坂で友達が四、五人よって、ぜひ 牛肉が食いたいと言いだした時、とうとうそれが「まさかの時」になった。私の大事な一円がた ちまちにして半分以上、飛んでしまった。 五 寂しい心  学校と、下宿屋と、飲食店以外において、私が人の家にはいる|機《イ》会は|幾許《いくばく》もなかった。  第一は言うまでもなく馬場家。ここは叔父の家で、しかもそこの娘の一人が(まだ僅かに七、 八歳ではあったが)私の将来の妻になるはずで、国元に連れて帰られているという関係であった が、しかし幾人もの書生が世話になって出入りする家のことだから、それらの釣合い上、私をも 他の書生並に取扱うという申渡しがあって、私は叔父さんに対しても、別だん深い親しみを感ず ることが出来なかった。私は馬場家において家族的に飲食させられたことは滅多になかった。馬 場家の人々の中で、ただひとり私が親しみを感じたのは玄関番の竹中清君であった。(竹中君は 後に大阪毎日新聞の有名な記者として久しく神戸に働いていた。)  奥保輩さん(今の元帥、そのころ少将)は私の養父の|甥《おい》に当っていた。これも牛込に大きな邸 があって、私も幾度か行ったことがある。ある時、おばさんが御病気だというので、私はその見 舞に行った。病室に通されたが、外に幾人も見舞客はあるし、きまりが悪くて、私はただ一つお 辞儀をしたばかりで、何も言えなかった。結局、無言のままで、また一つお辞儀をして引下がっ た。ここにも何らの暖か味がなかった。  間宮家は麹町の番町にあった。おじさんは陸軍の監督(大佐相当)で仙台の師団に行っており、 おばさんがその留守をしているのであった。ここには私の大おば(父のおば)もおり、多少の親 しみを感じたが、それでも毎度出入りするほどの関係にはならなかった。外に、一、二の親族つ づきもあったが、それも大して心安くなれなかった。  小笠原伯爵家に対しては、まだ何となく特別な敬愛を捧げる気持であった。市ヶ谷河田町の邸 に御年始に伺候して、大勢の同藩人と共に伯爵の謁見を賜わり、そのあとで膳部を下されたりし たのは、大へん嬉しかった。  |本吉《もとよし》の兄は慶応義塾に来ていた。彼は英語を学ぶべく、長崎に行き、福岡に行きしていたが、 やはりどうしても東京でなければ駄目だというので、強いて内の許しを得て上京したのであった。 その時にはもうお浪さんと緕婚していた。私は折々兄を慶応義塾に尋ねたが、日比谷の練兵場を 横ぎったりして行く道がずいぶん遠かった。しかし兄と一緒に食う、塾の寄宿舎の暖かい飯はい つもうまかった。兄は間もなく国に帰った。家庭の事情が永く遊学を許さないのであった。  自分にはハッキリ気がついていなかったようだけれども、その頃の心は寂しかった。 第一高等中学校  二十年の夏、私は第一高等中学校の入学試験に及第した。その頃、例の四人組は本郷あたりに 分散して、私は元町の下宿にいたが、入学試験の成績を発表される日、早朝から見に行くのもあ まり慌てたようで残念だという気持もあっただろう、ゆっくり朝飯を食ってブラブラ出かけると、 水道橋の辺で、たしか犬塚が向うから来るのに会った。どうだと言うと、君の名と杉元の名はあ ったと言う。そうかと言って平気な顔はしたが、実はまずよかったと大きに安心した。実際、そ の時の心持は、意外なようでもあったしまた当り前のようでもあった。  その時、鬨の者で及第したのは、杉元看と私と、外に|小関雅楽《こぜきうた》君と|加来《かく》源太郎君とであった。 小関君は盟津中学で私より大ぶん先輩で、秀才として有名な人だった。前にかいた異人館志津野 は即ち小関君の家だった。私が漢詩の本で父から叱られたのも、小関君の真似をするというわけ であった。小関君は私に取って、半ば崇拝の目的物だった。私が共立学校にはいった時、小関君 は既に東京英語学校の最上級だった。ナゼ小関君がその前年に、大森君と共に及第しなかったか を、私は不思議に思っていた。加来君は同国人ではあるが豊津中学の出身でなく、東京では三田 英学校にいたのだった。加来君は珍しく少しその顔にアバタがあって、性質もごくおとなしく、 才気の現れないジミな人だったが、それだけに英語の「学力」などは出来ているのだった。私は 加来君が、両方の|袂《たもと》に手先を入れて殊勝らしく歩いているのを見て、その古風な作法に驚いたこ とがある。  かように小関君のような秀才が一年二年も遅れて及第する、加来君のようなジ、、、な人が存外及 第する、また杉元君や私のような比較的年少老が打揃って及第する、試験はとても当てにならな いと思われた。それで私らより多少年長で、駿河台鈴木町の下宿に一緒にいたりした人たちは、 方面を転じてしまった。即ち堀富太郎看は高等商業学校に、中野徳一看(後に柏井姓)は札幌農 学校に向った。犬塚、横山の二君もやはり高等商業に向った。第一高等中学と高等商業とは、一 ツ橋|外《そと》に向いあって、当時の少年が志望する、最も人気のある二つの発竜門であった。(堀君は 後にバ嘘の製鉄所で失敗をやった人で、当時新聞紙上に「元兇」だと歌われていたが、私にはや はり懐かしい旧友だ。柏井書は近ごろ福岡県あたりの中学校にいることを聞いた。)  第一高等中学校は即ち大学予備門であって、当時日本にたった一つの「大学」に進む、たった 一つの道だった。だから何しろ、そこにはいれたということは、大変な誇りとなり、大変な羨み                           たちばな  きしよう            沁ぎわら を受けることだった。私は勿論、非常に得意だった。早速、橘の徽章を買って来て麦藁帽子に つけた。実はその徽章のついた帽子をかぶって国に帰りたかったのだが、それは馬場家で許され なかった。それでその夏休み中、少々ヤケ気味で、犬塚とふたり毎日碁を打って暮した。初めて 少し碁がわかって来た。ある時は、えんどう豆のゆでたのをウント買い込んで、二人で上野公園 に行って、木蔭の草原でそれをムシャムシャ食ったりした。また、この夏休みに、私は初めてヂ ッヶンスの小説『オリヴァ・トウィスト』を少し拙砒んだ。初めて学校の制服を着た時の心持は、 何とも言われぬ昂奮状態だった。鼠色の木綿のジャケツで、色も艶もない物だったが、初めてそ れを着て神保町あたりを歩いた時、人がみな自分一人を見ているような気がした。  九月になって学校が始まった時、大きな堂々たる建物の中に、それを自分の物としてズンズン はいって行くのが得意だった。しかしまた、建物があまり広くて、幾つもの廊下、幾つもの梯子 段で、道に迷ったりしそうなのに、少々気おくれがしないでもなかった。  学校の課程は五年で、予科が三年、本科が二年であった。中学卒業牛は初めから上級に|澄刃《まち》れ るはずになっていたのだけれども、実際上、英語の学力などが足りたいので、私らはやはり予科 一年にはいったのだった。予科一年がく ¢ の四組に別れて各組が五十人ばかりだった。学科 はすべて中学校の繰返しで面白くなかった。ただ、数学とか、地理とかいうものを英語でやるの が少し嬉しかった。今さら『十八史略』など読まされるにはウンザリした。英語としては、スマ ィルスのセルフ.ヘルプ、ジョンソンのラセラス、チェンバァの第五読本などがあった。ラセラ スは非常に面白いと思った。初めて少し深遠な思想に接したような気持がした。学校の中で一ば ん困ったのは図画だった。二時間もブッとおしでやらされているのに、私は三十分かそこらで粗 末なのが出来あがる。それ以上、どうにも念の入れようがない。残る一時間半をマゴマゴして、 手持ち無沙汰で過すのが非常な苦痛だった。                  いくぱく             ふるしよう沁もん  先生の中では、今記憶に残ってるのが幾許もない。校長は古荘嘉門。古苔のはえた岩のような、 いかにも熊本人らしい頑固親爺だと思った。漢文の先生の岡本監輔さんは、田舎親爺のような|好 好爺《こうこうや》に見えたが、あれで大変えらい人だそうだと言われていた。幾何の先生の小林|好古《こうこ》さんが、 レット、アス、ドロウ、ッー、パラレル、ラインス、〈 、アンド、¢ 、などと日木流の英語 で、ゆっくりゆっくりやってくれるのが、とにかくよく分って嬉しかった。英語の先生では、ま だ若い粟野健三さんが、「そうじゃたいです」と我々の考えを断乎として退け、極めて明晰な訳 解をしてくれるのが、非常に頼もしかった。会話の先生のミスター・ストレンジは、「アッテン ション! ボ1イス」などと我々をボ1イ扱いにするのが甚だ癪だった。それについて思い出す ことがある。ストレンジ先生が出席簿を読みあげる時、我々は銘々「プレゼント!」と答え、欠 席者があれば、その隣席者が「アブセント!」と答えるのだったが、私の隣席の|末延直馬《すえのぶなおま》君は大 のどもりで、|右《さ さ》の手で膝頭を叩きながら、プ、ププ、プとやりかけるが、どうしても「プレゼン ト」が出て来ない。そこで私が見かねて、プレゼントの代弁をやると、サア先生が承知しない。 ナゼ本人が返事をしないかと言う。本人はどもりですと|弁《  さ》解したいのだけれど、その「どもり」 という英語が分らないで非常に困った。 七 ツ橋の寄宿舎 私は学校が始まると頂ぐ寄宿舎にはいった。寄宿舎の生活は珍しかった。第一、椅子テーブル が嬉しかった。二階の寝室のベッドも嬉しかった。|賄料《まかないりよう》は下宿屋より少し高かったが、毎日一 度は牛肉を食わせるのが嬉しかった。日曜にはパンと玉子を弁当にくれるのも嬉しかった。冬に なってストーヴの|薪《たきぎ》が足りないので、夜ふけてからよく盗みに行ったものだった。便所が西洋風 で、四角な箱の上に丸い穴のあいてるのも、珍しくて嬉しかった。  寄宿舎の一室には八、九人ずつ入れられていた。私の|室《へや》には、菊地忠三郎、|西《にし》加二太、末延直 馬、加来源太郎、高田|采松《さいしよう》、横井|実郎《じつろう》、里村|敏吉《としきち》、柴野|是公《ぜこう》、などの諸君がいた。  菊地君は水戸の産で、肉づきのいい、ドッシリした、馴れやすい人だった。(後に後藤新平氏 の秘書官になっていた。今はどこやらの保険会社の社長さんだと聞いている。)西君は霄弱で痩 せていたが、「ひてい、ふつか」などという広島弁が私の記憶に残っている。(後に久しく夕張炭 山の技師長か何かになってると聞いたが、近年のことは知らない。)末延君はどもりの愛矯者で、 大きな顔の大きな鼻をうごめかしてどもりたがら一口浄瑠璃をやったりしていた。彼は土佐人で、 末延道成氏の弟だった。彼はよく、これからベルリソ会議を開くのだと言って、ストーヴを赤く して皆をその周囲に呼び集め、自分は英国の全権アール・オブ・ビーコンスフィールドを気取っ ていた。(今は北海道で然るべき役人をしているはず。)加来君は前に言った私の同国人で、温厚 な長者だった。(久しく検事や判事を務めていたが、現在は知らない。)高田希は背の高い上品な 人、横井君は八字眉の可愛らしい人だった。(二人とも消息を知らない。)里村君は岐阜の人で、 貧家に生れた秀才だということで、医科の志望で、少し出っ止困の、おとなしい、いい人だったが、 中途で病歿したと聞いている。柴野君は二年ばかり上級生だったが、何かの都合で私らの室に来 ていた。笑う時には愛矯もあるが、黙ってる時には恐ろしいような、六かしい顔の人で、折々酔 っばらって帰って来ては、私らの椅子やテーブルを放り投げたりした。たしか西君と同じ広島人 だった。(これが今の東京市長中村是公君だ!)  他室の同級生では、例の小原専吉君を初めとして、清野長太郎、|俵《たわら》孫一、池内卓二、松田三弥 らの諸君をよく覚えている。小原書は戸田伯爵家の元の家老という家柄で、後に男爵になったほ どの小貴族であるに係わらず、前記「専公」の尊称の外、更に「インデヤン」の敬称を有してい た。けだし色が黒いからであった。俺は大学を卒業したって、エライ者なんかになりたくはたい。 俺はただ、鉄砲をかたげて猟をして歩きたいのだというのが彼の抱負だった。ある時、岡本先生 から「梅」という作文の題を出された時、小原君は、「予が祖父鉄心、梅を愛す」という書きだ しで、大いに家系を現わし、岡本先生を驚かしたと言って大ぶん得意だった。小原鉄心と言えば、 維新の際、国事に功労のあった一英雄であったそうだ。清野君は共立学校で、小原君や私などよ り上級生で、物が出来るという評判だった。たしか宇和島の藩士で、旧藩主の貸費生だった。我 我同級生の間では一ばん老成の方で、多くの者から|兄分《あにぶん》あつかいにされていた。俵君は色の白い、 しかしながらニヤケ気味のない好男子で、清野君らと共に最も有望な人物と目されていた。(果 して、彼は、後に北海道長官に出世し、近ごろ山陰道から代議士に出で、政務次官になってい る。)池内君は強度の近眼で、非常に善良た、温厚な、親しみいい人だった。たしか清野君と同 国で、清野君を崇拝するようにしていた。池内君は何でも僕のする通りを真似るので困ってしま うと、清野君が言っていた。僕がセルフ・ヘルプを読むと、池内君もセルフ・ヘルプを読む。僕 がアルゼブラを始めると、池内君もアルゼブラをやりだすと言って、清野君が笑っていた。それ ほど池内君はまじめで人がよかった。(彼はたしか、後に宇和島の中学校の校長になっていたが、 今は知らない。)松田君は私の二倍もあったろうかと思うほど背の高い人で、これがまた、無類 の好人物だった。何でも、婚約の人のことについてしきりに可愛らしい煩悶をして、|生《き》まじめな 顔で清野君あたりに相談を持ちかけていた。(彼は後に立派なお医者になっていたが、今はどう しているやら。)今一人、杉山君という、おとなしい人を思い出す。杉山君は色の青い、肉体的 にも、精神的にも、いかにも弱々しく見える人だった。性質の善良なことは、池内君松田君より もまた一層で、馬鹿にするのも気の毒なというほどだった。ところがある日、その杉山君がたっ た」人で、室内に勉強している時、誰のいたずらだったか知らないが、野良猫をつかまえて来て それに赤いんきをぶちかけて、いかにも大怪我をしているかのように見せかけ、それを杉山君の 室に放りこんで、善良な杉山君がどんなに驚いて、その猫を憐れむかを見ようという計画を立て たことがある。それが何処まで実行されて、どういう効果を示したかは覚えていないが、とにか く当時、我々の間で有名な話になっていた。その外、同級生の中で覚えているのは、老成な|三好《みよし》 愛吉(後に有名な教育家になった人)、鼻眼鏡の川村金五郎(後に宮内次官になった人)、美少年 の林春雄(今の医学博士)、桜色の好男子田中尚(?)(後の工学士)、田丸兄弟(欣哉および卓 哉)、小野塚喜平次(今の帝大教授、これはその古風な名前で記憶してる)の諸君であった。 八 運動、遊戯、 心の寂しさ  しばらくいて見ると、学校はサッパリ面白くなくなった。英語以外には一つも楽しみになる学 科がなかった。末延君のベルリン会議に列席したこと。上級生の企てた|賄征《まかない》伐に参加したこと、 折々神保町の川竹亭に円朝を聞きに行ったことなどが、せめてその頃の慰みだった。ただし、円 朝の出る頃には、いつも門限が切迫するので、滅多に聞くことは出来なかった。  運動や遊戯はあまりやらなかった。兵式体操は最も嫌いだった。例の背ひくで、私より左側に 並ぶ者はたった二人しかなく、しかもその一人は既に不具と目される人だった。自分が僅かに不 具たることを免れているのだと自覚するのは、あまり嬉しいものでなかった。どこかへ行軍の催 しのあった時、私は教室のボールドに「アンチ・コーグン・リ1グ」(行軍反対同盟)と英文で 書いているところを、先生に見つけられて大いに弱った。それは「アンチ・コ1ン・ロウ・リー グ」(英国の穀物条例反対同盟)をもじって見たのだった。勿論、私は行軍に加わらなかった。 器械体操も少しはやって見たが、あまりょく出来ないので、好きにはならなかった。テニスがは やって、大森藤蔵君などがやってるのをよく見かけたが、あれはどうも女の遊び事のような気が して厭だった。ただすこし好きなのは|大弓《だいきゆう》とボートだった。ボートで|言問《こととい》の団子を食いに行くの は非常に面白かった。  ある冬の夜、たったひとり学校の庭にたたずんで、澄みわたった星の空を眺めたことを覚えて いる。宇宙の絶大、人間の微小などということを初めて痛感して、非常にセンチメンタルな気持 になった。その頃同級生の中に、日曜ごとに教会に行く人のあることを聞いて、非常に羨ましく 感じた。|耶蘇《やそ》教というものについては少しの知識もなかったが、ただ教会に行く人たちは、地位 とか年齢とか性とかを論ぜず、みな親しい友達になるのだと聞いて、それが無性に羨ましかった。 私の心は誠に寂しかったのである。それでもしその頃、何かの機会があったら、私も他の多くの 青年と同じく、少くとも一時は、殊勝なクリスチャンになっていただろうとさえ考えられる。私 の一面には、そういう処もある。 九 飲むことと遊ぶこと  明治二十一年、十九歳の春、私は既に飲むことと、遊ぶこととを覚えていた。私の体質は発育 のおそい方で、十七、八にはまだほとんど子供の姿であったが、十八の冬から十九の春にかけて、 初めて少し丈も延び、やや大人らしい骨組になって来たように思う。従ってまた、酒色の欲がち ょうどその頃から発達した。  たしか十八の冬であったろうと思うが、忘れもせぬ、眼鏡橋のそばの牛肉屋に、杉元君と横山 君と三人で行った時、彼ら二人はいつの間にか既に吉原の知識を持っていて、その晩、私をその 悪事仲間に誘いこむ計画を立てていた。私は不安を感じながらも、あえて親友の勧告を拒絶する ものではなかった。つまり、それから遊びということを覚えた。四人組の中、犬塚君だけは用心 ぶって(あるいは臆病で)、当分はこの仲間に加わらなかった。あいつは話にならんというのが、 三人組の結論だった。  それから三人の間に『英学雑誌』を発行するという、人真似の計画が立てられた。これも横山、 杉元両先輩の|智慧《ちえ》から出たもので、けだしそれに依って遊びの費用をもうけだそうというのであ った。私は無論、直ちに賛成して、それには寄宿生活は不便だというので、三人一緒に|美土代町《みとしろちよう》 に下宿した。そして金策などは主として両君がやり、編輯には私が幾分の才能を現わした。両君 としても、まさに三つ子の魂であった。それでとにかく薄っぺらな雑誌が出来て、市内の雑誌店 に並べたのを、ソット見に行った時の心持は、恥かしいようでもあり、恐ろしいようでもあった が、何しろ大胆な、無茶な仕事だった。勿論、その結果は多少の収人を飲んでしまって、大ぶん の負債を残したに過ぎなかった。  こんなことからして、私らの酒飲み癖と、遊び癖と、金使い癖とがついた。杉元君と私とは、 最下等の成績で辛うじて二年級に進んだが、学校の成績などはもう二人とも問題にしていなかっ た。二年級からは将来の分科を定めて、それに依って第二外国語を|独逸《ドィッ》にするか、|仏蘭西《フランス》にする かを決することになっていたので、杉元君も私も、政治科で独逸語ということにした。しかしそ の頃はもう欠席がちで、ことに独逸語の最初の時間をはずしたので、非常に困った。それでその 頃、私の得た独逸語の唯一の知識は、イヒ、カン、ニヒト、フェルステーエン(私には独逸語は分 らない)ということだけだった。 十 立派な放蕩者  その年の夏休みには国に帰ることを許された。国では、実家の堺家は豊津を引きあげて、小倉 に移っていた。平太郎兄は小倉の銀行の簿記係として、かなりの地位になっていたらしかった。 家もなかなか立派で、父と母は二階の四畳半の小座敷を居間にして、御隠居様らしく暮していた。 本吉の|乙槌《おとつち》兄も豊津から来て、兄弟三人が久しぶりで落ちあって、盛んに飲んだ。私も既に一人 前の飲み手になっていた。平太郎兄は真白い皮膚の、まるまると太ったからだを、越中褌ひとつ になって、上機嫌で私らに飲ませた。私はその時、乙槌兄と二人で、門司から|馬関《ばかん》ヘかけて一日 遊びあるいたが、その時の門司はまだ一面の塩浜で、四、五軒の|藁屋《わらや》があるばかりだった。乙槌 兄は国に帰ってから、『福岡日日新聞』に小説を書いていた。けだし彼は坪内遒遙さんの『小説 神髄』の随喜渇仰者であった。  養家(椎田の中村家)では、酒ずきの父が毎日、肴の趣向に苦心して、晩酌を唯一の楽しみに して私にもその|相伴《しようばん》をさせた。しかし父は年のわりに健康が衰えて、私の学校卒業が待ち長いと 言って嘆息していた。馬場から連れて来た小さい娘のお|力《りき》さんは小学校に通っていた。その小学 校の先生に、私と同期で豊津中学を卒業した大森君がいた。父は大森君を招いて、|一夕《いっせき》、小宴を 開いた。お力さんの可愛らしい東京言葉が田舎言葉に変ってしまうのが惜しかったと、大森君が 話していた。  私はそんなことよりも何よりも、東京に拵えてある借金のことが心配になっていた。何とか口 実を設けて、少しばかり臨時の金を貰って行かねばならぬのであった。思いやりのある平太郎兄 が来て口添えをしてくれたりして、ヤット幾らか貰うには貰ったが、それだけでは杉元、横山二 君の手前、誠に面目ないのであった。  それで東京に帰って来ると、いろいろな焼け気味で、たちまちまた遊ぶ癖が募り、年末の頃ま でには、まさに立派な放蕩者になってしまった。金ぽたんの外套を嬉しがったりしたのは昔のこ とで、今は寒空に夏服を着て、ズックの破れ靴をはいて吉原の廓内をさまよいあるいたりした。 国で母が丹精をして拵えてくれた博多の帯も、奉書の羽織も、糸入の|袷《あわせ》も、ことごとく質屋にま げられてしまった。  末延君も酒好きで、私はこの先輩からもその道の指導を受けた。末延君の同郷の友人に川村藤 吉君というのがあった。それが末延君に、寄宿舎に誰か語るに足る人物があるかと言ったのに対 し、末延君が私の名を挙げて答えたというので、私は川村君の下宿に連れて行かれた。この川村 君は私より二つばかり年上で、既にどこかの法律学校を卒業し、今弁護士の試験を受けるために 勉強しているのだった。しかし彼は、飲むことと遊ぶこととにおいては既に多大の経験者で、末 延君と私とを指導するには十二分の資格を備えていた。ことに彼は、強情我慢、小男ではあるが 精槹の気が眉宇の間に溢れて、人を威圧するに足るものがあった。私は彼を一代の英傑だと信じ ていた。彼が|盃洗《はいせん》で酒をあおる時、私もまたそれに|倣《なら》わずにいられなかった。彼が路傍の|鍋焼饂 飩《なべやきうどん》の屋台店を蹴とばしたりする時、私は一面にその乱暴を厭う気持がありながら、一面にはまた その豪快を喜ばずにいられなかった。 末延君と私とは全く彼の追随者になってしまった。 十一 除名、離縁、帰国  明治二十二年二月十一日、憲法が発布された。その日、私は川村、末延の二君と共に、小川町 の牛肉屋で、雪か雨かの中に大盃を挙げて祝意を表していた。川村君は土佐の自由党気分を多量 に持った人で、いやしくも憲法発布の日に、飲まずにはいられないのであった。ところがそこに 文部大臣森有礼暗殺の号外が来て、我々の酔いは悲壮|淋漓《りんり》の感を漂わした。  その時、私は既に、月謝不納の故を以て学校から除名されていた。そして馬場家からは離縁の 申込みを受けていた。私は馬場さんに対して、中村家が私を東京に遊学させたのだから、離縁す るなら私を国に帰すが当然だという理窟を言って、帰国の旅費を請求した。馬場さんは止むなく 旅費として金十円を出し、玄関番の竹中君をして私を新橋停車場まで送らせて、私の出発を見届 けさせようとした。しかし竹中君は、私に対する同情からか、あるいは恐怖からか、とにかくそ の任を果し得る見込みがないと言って断った。私は直ちにその十円を飲んでしまった。  実家の父からは、叱責と嘆息との手紙が幾度も来た。利彦さんについて悪評が多いと、間宮か ら言って来たと言うのであった。父としては、「悪評」という言葉に甚大の苦痛を感じたのであ った。その時、母は、道楽も仕方がない、学校をしくじるも仕方がないが、もしや困った余りに、 ツイ、盗みでもしはしまいかと、そればかり気遣ったという話を、後に聞いた。  こういう間に、ある日、国から電報が来た。平太郎急病死去、すぐ帰れというのだ。理由も何 も分らないが、私は間宮家で旅費を貸して貰って、早速出発した。ただし、間宮家では(馬場家 と同じく)私が素直に帰国するか否かを危んで、長男の直道さんが、私を横浜まで送って来てく れて、私の乗船を見届けた。  然るに私は、船が神戸に着いた時、船の酔いがあまりに苦しいという理由で、船の碇泊中、上 陸して宿屋にとまった。その結果、下の関に着いた時には、小倉までの小蒸汽船の賃銭が不足で、 止むなくまた下の関に一宿し、郵便を出して迎えの者をよこして貰って、それでヤット小倉の家 に帰った。  この帰国の月日がどうもハッキリ分らないが、まだ少し寒かったと思う。私はある友人から貰 った糸入れの|単物《ひとえもの》を着て、その上に川村君から貰った|双子《ふたこ》の袷羽織を着ていた。そして|懐《ふところ》には 尾崎紅葉の『二人|比丘尼《ひくに》色懺悔』を一冊入れていた。 十二 学校以外の読書  紅葉の『二人比丘尼』をただ一冊持って帰国したほどの私であるから、当時の丈学熱に充分感 染していた事は無論である。紅葉君らが|硯友杜《けんゆうしや》を起して『|我楽多《がらくた》文庫』を発行した時、その紅葉 が自分と同じ第一高等中学校の二、三年上級の生徒であると聞いて、ことに興味を持たされ親し みを感じさせられた。  坪内逍遥さんの『書生|気質《かたぎ》』は、もちろん愛読した。大学生というものを学生生活の最高の理 想としている少年が、『書生気質』の魅力に捕えられないはずがない。『妹背か父み』の薄い分冊 を神楽坂の麓の雑誌店で買ったことを特に覚えている。『小説神髄』に依って、新しい小説とい うものの性質を教えられたことも無論である。  雑誌『国民之友』が初めて夊芸附録をつけた時の珍しさは今に忘れない。山田美妙斎の言文一 致の短篇小説、ことにその口絵の、若い武者と裸体の美人との配合が、いかに新奇に我々少年の 目に映ったことよ。 『国民之友』は新思想の雑誌として学生必読であった。徳富蘇峰および民友社一派に対する我々 の崇敬と愛慕はほとんど絶対であった。インスピレーションという言葉を初めてこの雑誌から教 えられ、その幽玄な意味が「天来」という訳語に依って僅かに|髣髴《ほうふつ》し得ベきことを教えられた時、 我々少年はたちまち何か「天来」の妙音を感得したごとくであった。しかし『日本人』が『国民 之友』と対立の形を以て出現した時、我々はまた|三宅雪嶺《みやけせつれい》を尊崇した。丈学において、紅葉の艷 麗でも、露伴の|豪宕《ごうとう》でも、一緒くたに貪り読んだと同じく、政治社会評論において、平民主義の 蘇峰でも、国粋主義の雪嶺でも、みな同じく丸呑みにしたわけであった。  そうした新人物のもの以外、中江篤介の『三酔人|経綸《けいりん》問答』、矢野竜渓の『経国美談』、島田|沼 南《しようなん》の『開国始末』などみた手当り次第に乱読した。末広鉄腸の政治小説『雪中梅』『花間|鶯《うぐいす》』も また大いに愛読した。東海散史(柴四郎)の『佳人の奇遇』はその長篇の漢詩の故を以てことに 愛誦した。「月は大空に横たわって千里明らかに。風は金波を動かして遠く声あり。夜|寂《せきせき》々、望 ひ寸うびよう 渺々。船頭何ぞ堪えん今夜の情」などという吟声は、当時、下宿屋の到る処に聞かれていた。 西村天囚の『屑屋の籠』、鈴木天眼の『独尊子』などいうのも、一種の新人の、奇警な新著述と して歓迎した。明治二十三年に開かるべき国会の『未来記』も幾種か読んだ。  その頃はまだ、貸本屋というものが大きな風呂敷包を背負って、下宿屋などを廻っていた。我 我は主としてその貸本屋から新著を供給された。しかしそれは必ずしも新著ばかりでなく、『梅 暦』『春告鳥』などいう古い|艶《なま》めいた物も供給してくれた。  新聞では『改進新聞』が書生間に多く読まれた。須藤|南翠《なんすい》の『新装の佳人』という小説を記憶 している。         いくばく             メるしまつねき  政治上のことは幾許も印象がない。来島恒喜の大隈狙撃ほどの大事件も、『二人比丘尼』には 比ぶべくもない。 第三期 大阪時代(上) 一 長兄の死  放蕩の子、堕落の子、失敗の子を、老いたる父母はやはり喜んで迎えてくれた。その時、主人 たる兄(平太郎、三十五歳)を失った小倉の堺家には、六十四歳の父と、六十二歳の母と、二十 幾歳の未亡人と、外に十四歳の志津野又郎がいた。そこに二十歳の利彦が悄然として帰って来た のであった。  兄の病気は急性腹膜炎であった。非常な苦痛を訴えて一夜の間に悶死したというのであった。 死後、全身処々に紫色の斑点を見たというのであった。あの雪のように白かった皮膚に紫色の斑 点を想像した時、私はゾットせずにはいられたかった。父はおもむろに語った。兄のこの急死に はすこぶる怪しむべき節があった。兄みずからも疑っていた。兄はその日、銀行の重役の家に行 って重大な事件の相談にあずかって来たが、特に自ら注意して、茶一杯の外、何らの飲食もしな かったというのであった。しかし医者は急性腹膜炎と診断した。大酒家にはありがちな病気だと いうのであった。兄は実に大酒家であった。ことに近来、銀行の問題について欝々たる余り、平 生の大酒がいよいよ大酒になっていた。病気はその結果とも見られるのであった。いずれにして も事は既に過ぎた。致し方はないというに決していた。  銀行の問題は、やはり海山社事件を大きくしたようなものであったらしい。この銀行はたしか 第八十七国立銀行で、一時の威勢は素晴しいものだった。私はかつて兄に連れられてその建物の 内部を見せて貰ったが、それが私の初めて見た西洋館であった。重役は松田、斎藤という兄弟で、 やはり+族だった。この兄弟ことに松田さんの豪奢な生活振りはエライ評判で、四季折々の庭園 の作り、ことに|綺羅《きら》びやかな菊の花壇を前にした盛宴の趣きなどが、嫉妬と羨望とをこきまぜて 語り伝えられていた。何でも金もうけは銀行に限るそうだと言われていた。然るに堺平太郎はそ ういう重役の|下《もと》に簿記係を務めていた。彼は小心者であった。簿記係として帳簿を正直につける より外のことを知らなかった。彼は恐らく種々の誘惑を受けただろう。彼は敢然として重役に反 抗するほど大胆な男ではなかったらしいが、しかしまた、そういう誘惑に乗るほど不正直な男で はたかった。そこで彼が邪魔物になって来たのであった。兄が死んでまもなく、二人の重役は行 衛を|晦《くら》まし、銀行は破産してしまった。これもやはり、士族の間からブルジョアを出そうとした、 そのモガキの一つであった。  何しろ兄は死んだ。これは大変だというので、隠居の父が鉢巻をして元気を出した。しかし父 にはもう何事も出来なかった。私は中村家から堺家に復籍して兄の家督を相続した。そして兄の 未亡人には記念の懐中時計を一つ持たせて里方に帰って貰った。私の相続した家督は、豊津に残 してあった家屋敷と、先祖の位牌と系図と、その外、多少の雑品だけであった。負債は大抵、兄 の死と共に消滅してしまった。豊津の家屋敷は月五十銭で人に貸してあったが、後に七十円で売 れた。その内、無尽の掛金か何かに二十円だけ引去られて、五十円だけ受取ったが、当時の我々 としては、それがチョット大金だった。  それから私の身の振り方について、笠津の友人からは、村役場に世話しようと言って来てくれ たが、それはあまりになさけなくて厭だった。その時、次兄の乙槌は大阪に行って『花かたみ』 という小説の雑誌を出したりしていた。彼はそれより以前、坪内逍遙の『小説神髄』で洗礼を受 け、|欠伸《けつしん》という号をつけて、『福岡日日新聞』に続き物の小説を書いたりしたのだった。それで 私もその縁故をたどって、とにかく大阪に出ることに方針を極めた。実は私自身も、紅葉の『二 人比丘尼』を懐中して帰国したくらいで、みんごと小説志願の文学青年になりおおせていたので ある。そしてまた、早くも短篇小説を一つ書いて『福日』に送ったところが、早速それが同紙に 連載されるという不幸に遭遇したのであった。 二 英語の先生  明治二十二年の夏、私は大阪土佐堀|湊橋《みなとはし》南詰の何とかいう宿屋の一室に、私自身を見出した。 そこには兄の乙槌(欠伸)と、芝尾|喜多夜叉《きたやしや》君(|入真《にゆうしん》)とがいて、文学修業をやっていた。芝尾 君は兄と私との中間ぐらいの年配で、前に記した仏山塾の漢学書生だったが、それがやはり坪内 氏の文学洗礼を受けたのであった。そこで私も『福日』に連載された「処女作」を両先輩に示し たりして、得々として小さな丈才に誇るという|気障《きさ》を極めた有様であった。  しかし私は何か別に職業を求めないではいられなかった。それにはまず英語の先生より外にあ るまいといちのだったが、それが結局、天王寺高等小学校の教員と極まった時、前に藍津の村役 場を勧められたと同じなさけなさを感じた。けれども仕方がない。私は毎日、汗を流し流し、土 佐堀から天王寺に通った。その夏の記憶の中に、宿屋が毎度|酢鮪《すだこ》を食わせるのに困ったことと、 通勤の途中、町の辻に出してある接待の麦湯の嬉しかったこととが残っている。  かようにして私は初めて職業に就いた。小学教員ということはいかにもなさけなかったが、そ れを「英諾の先生」というところで僅かに自ら慰めていた。月給は八円五十銭、それを初めて全 部五銭の白銅貨で貰った時、ずいぶん沢山あるものだと思った。  先生として初めて生徒を扱った時の心持はずいぶんへんだった。何しろこちらはまだヤットニ 十歳の少年で、生意気ではあるが体は小さいし、大人らしく生徒を叱るなどということは気恥か しくて出来ないし、そうすると生徒が我艤を始めて騒ぎだすし、それを取鎮めて行くだけの気転 もなく、毎度教場がワイワイと湧き立って、どうにもこうにも仕様がないで困ってしまった。そ んな時、隣室の受持教員がこちらを|覗《のぞ》きこんで、騒ぐ生徒たちを叱ってくれるので、わずかに一 時の鎮静を見るのが、私としてはいかにも面目なくて辛かった。しかしそれは一年級二年級のこ とで、三年四年になると、生徒の数も少ないし、年もとって物も分っているので、不慣れな教師 を馬鹿にするよりも、むしろその実力を認めるのであった。それで私は段々に、英語の先生から 数学の先生ともなり、歴史の先生ともなり、作文の先生ともなった。その頃の天王寺はまだ半分 いなかで、生徒の中には屑糸織の着物に金糸入りのビロ1ドの襟をかけているような古風な娘も あった。そしてそういう娘は「先生」のことを「お師匠はん」と呼んでいた。 三 豊津士族の大阪移住  秋の初め、私は天王寺の東門外に}軒の古家を借りた。それは農家の隠居処で、元来は相応な 建築なのだが、今はずいぶんと荒れていた。しかしそれがちょうどわたしに似合っていた。家賃 は一円二十銭だった。私はそこに国の父母を迎えた。志津野又郎も一緒にやって来た。  かくて私の一家は、まるで空中からでも落されたように、ポツリと天王寺の片ほとりに置かれ た形であるが、しかしそれには色々の因縁があった。前にも言ったように、大阪府知事|建野《たての》郷三 氏は豊前人であった。それに連れて多くの盟前人が大阪に来ていた。浦橋家が早くから大阪に出 たことも既に記した。|二月谷《にがつだに》志津野の拙三さんが住吉神社の|瀰宜《ねぎ》になったことも既に記した。し かるに拙三さんは程なく身まかり、その跡に直文君という養子が来て、それが東成郡役所に務め ていた。私を天王寺小学校に肚話してくれたのは即ちこの直文君であった。(この人は後に阪鶴 鉄道に関係したりして、一かどの実業家に出世した。)そこで私は天王寺に来ても、すぐ近処に 二軒の親戚(浦橋と志津野)を持っていた。要するに、豊前の士族が生活を求めて続々と国外に 出る時、その一部は相率いて大阪に向い、そして本吉の兄にせよ、芝尾君にせよ、皆その跡を追 うたわけである。  ところが、堺の一家がかようにして大阪に移ると同時に、篠田の一家も同じく大阪に移った。 篠田家にはその後、恒太郎君という養子が出来ていたが、これもいよいよ費前では法が立たない ので、やはり大阪を目ざした。そして江戸堀辺に小さな薬種店を出した。堺家の移住に志津野又 郎が附属していたと同じように、篠田家の移住には、志津野|郎《いらつ》が附属していた。つまりこれで志 津野家も同じく大阪へ移ったわけであった。然るに堺家が私の月給八円五十銭で立ち行かたいと 同じく、篠田家の薬種店も立ち行かなかった。八十幾歳の蒼安老が遂に窮迫の中に死んだ。「来 て見れば花も紅葉もなには潟、|只《ただ》身を尽す処なりけり」という辞世があった。それから間もなく、 叉郎君は横須賀の親戚の|許《もと》に走って海軍工廠の職工となり、郎君は大阪で何かの工夫になった。 かくて士族の子は一部は労働者となりつつあった。(篠田恒太郎君は近来まで静岡県庁の官吏で あったが、今は同地に隠居していられるよし。) 四 天王寺の塔を中心  それから三年ばかり、私の教員生活、天王寺生活が続いた。今でも天王寺は私に取って最も懐 かしい場所の一つである。  あの天王寺の高い塔に幾度登って四方を見晴らしたことか。私の目に映った大阪は、今でもあ の天王寺の塔を中心として、すべてが展開しているような感じがする。  天王寺の西門の石の鳥居を出で|逢坂《おうさか》を西に降ると、|左手《ゆんで》に一心寺がある。そのすぐ前に浦橋家 があった。小さい石垣の上に建った家で、その石垣の片隅に|來竹桃《きようちくとう》が毎年美しく咲いていた。 (今では勿論、家はスッヵリ変っているが、來竹桃だけが残っている。)浦橋家には男女の子供が 五人もあり、お婆さんが二人もあり、ずいぶん賑かな家であった。主人の|憫《たけし》さんは、その頃は遊 んでおられたが、元は河内辺の郡長など務めた人であった。父はこの憫さんの夫婦といとこで《 ささ》|あ る関係上、よく遊びに出かけては晩酌の馳走になるのを楽しみにしていた。私もずいぶんよく出 入りして厄介をかけた。  逢坂を降りて今宮を出ると、今の「新世界」のあたりが一面の畑だった。ただその間に「商業 倶楽部」という一廓の遊鬨地があり、また一心寺のすぐ下の処に「丸万」という料理屋が新しく 出来ていた。逢坂の下には綺麗な清水があって、浦橋の娘たちや子供たちがよくそれを汲みに行 くのであった。夏の夕暮など私はほとんど毎日その|辺《あたり》を散歩していた。  天王寺から谷町筋を北に何町か行くと、|生魂《いくたま》神杜、高津神杜などがある。その辺までの処が私 の天王寺生活の、言わば縄張り内であった。生魂神社の前を少し東に行った梅が辻の辺に志津野 直文肴の家があった。そこのおばさんや、ねえさんは、|勿《ち ヤさ》論、二月谷以来のなじみであった《ヤささ》|。  道頓堀にも、心斎橋筋にも、中之島公園にも、もとより毎度行くには行ったが、それらはただ 大阪の町であり名所であって、特に自分の親しみを感ずる土地ではなかった。後に兄が|靱《うつぽ》の大阪 日日新聞社にはいった時、下町の中で、そこだけを少し懐かしく感じた。  私の家の裏はすぐ畑であった。大部分は|棉《わた》畑であった。そしてそれで河内一面、生駒山の麓ま で続いているように思われていた。夏になると、その広い棉畑の到る処にある深い|井《いど》から、|丈《たけ》の 高いハネッルベで毎日せっせと百姓たちが水を汲みあげては、その畑を|湿《うるお》しているのが、大変な 骨折りに見受けられていた。それがいわゆる河内木綿の原料であった。然るにその棉畑も、河内 木綿も、いつの頃からか全く消え失せてしまった。そして天王寺東門外の一帯が市中になってし まった。 五 天王寺の小学校  天王寺小学校は天王寺の北手につづく空地の間にあり、尋常校と高等校との二棟から成る粗末 な平家建てであった。村役場もすぐそのそばにあった。すべての様子がいかにも都会の町はずれ という感じであった。  校長の野村|隼彦《はやひこ》君は三十五、六でもあったろうか、非常に元気た、よくさばけた、しかしなが らかなり我儺で強情な、いわゆるヤリ手であった。私が東京の学生生活の失敗者だというところ に同情してくれて、大へん可愛がってくれた。この人がすべての教員中で、幾らか書生風を帯び たただ一人であって、私に対して君だの僕だのという言葉使いをしてくれたので、私もいい気に なって、十幾つかの年長者に対して君だの僕だのとやっていた。それがさぞ生意気に聞えただろ うとは、よほど後になって初めて気がついた。野村君は江州人で、あちこち渡りあるいて教員生 活をして来た人だった。大の酒好きで、少し耳が遠くたっていた。  主席の訓導は生田君と言って、「|上《かみ》の宮」の神主さんであった。色の白い好男子で、俳諧の方 では「南水」と言って宗匠株であり、歌も作り、画もかき、書もうまし、オルガンもひけるとい う、多才多芸の人であった。上の宮のある処が昔の|百済野《くだらの》に当るというので、百済という号もつ けていた。社内に|樗《おうち》の木があるので「|樗《おうち》の|舎《や》」とも号していた。私はこの生田君から「風流」の ことについていろいろの教育を受けた。生田君の家の茶室で、中板を挾んで静かに酒を酌んだこ と、古い瓦の置き棄ててある間に|秋海棠《しゆうかいどう》のゆかしく咲いていた小庭の景色などが思い出される。 生田岩の風流はまた、色町の方面にも及んで、南地の「|芦辺《あしへ》踊」の歌たども作ったりしていた。 (南水君は今なお健在で、大通人として大阪に有名だと聞いている。)  |常石礎《つねいしもとい》君は土佐の人で、針を並べたような短い髮、|金糞《かなくそ》の塊まりのような大きな顔が、子供た ちを恐れしめるに足りた。これで大の酒好きで、酔うと存外、無邪気な笑い顔を見せるのであっ た。美しい小柄の細君に煙草店を出させていた。森田金三郎肴は鳥取の人で、背の高い、鼻の高 い、|痩《や》せられるだけ痩せた人だった。|平生《ふだん》は全く火の消えたような人だが、酔うと昔の火が発作 的に燃えあがるという風で、この人も(その燃えあがった時の火で)非帯に私を愛してくれた。 中尾勇三郎君は土地の人で、天王寺の東門外(私の借宅のすぐ前)に家があって、富裕を以て知 られていた。私は当時、中尾君に幾らかの負債をしたが、今日に至るまで返済しておらぬ。|伯水 義順《はくすいぎじゆん》君はまだほんの青年で、たしか真宗|寺《でら》の息子さんだった。その外、もうこれ以上に年を取っ た先生はあるまいと思われる老先生や、もうこれ以上に若い先生はあり得ないだろうと思われる 若先生など、まだ数人の教員があった。校番の「おっさん」はかなりヨボヨボした、目のしょぽ ついた老人だったが、そのおかみさんは存外若かった。  野村校長はよく田舎の学校にいた時の話をして、教員室の窓から釣竿を出して裏の池の魚を釣 ったりするので、「まるで無茶や」などと笑っていたが、それだけ現在の天王寺校の整頓してい るのを誇りにしていた。しかし一面には、飲み会の多いこと、歌の会、碁の会のはやることなど、 ずいぶんノンキなものだった。  村長は橋本善右衛門氏で、まるまるとよくふとったその風采からして、いかにも土地の物持ち らしい人物だった。(後に衆議院議員になったりした。)私は何かの時、少しこの人に突っかかっ て、あぶたくそのために免職されかけた。助役の赤田|瑳一君《さいち》はまだ若くて、すこぶる私を愛して くれた。ある時、私が割前の払えない断りをすると、「遊ぶに勇にして払うに|怯《きよう》なる、|之《これ》を真の 遊興と言う、意とする|勿《なか》れ意とする|勿《なか》れ。」と大いに腹のふといところを示した。(この人はたし か現衆議院議員である。)  その頃の男女の生徒の中に、まざまざと私の記憶に残っている人たちが少くない。それらが皆、 今どうしてどこにいるやら。多少、消息を伝え聞いたのもあるが、大部分は私にわからない。人 生はさようにわからない。しかしただ一つ、最も著しい人物がある。それは竹林男三郎、即ち後 の野口男三郎看である。彼は当時、たしか古本屋の息子として、可愛らしい生徒であった。(私 は後に彼と、獄中で最後の交わりをした。) 亠 ノ丶 俳句、和歌、 花見、月見  私の女学熱はまだ小説熱となる機会を得なかった。俳句熱、和歌熱、古文熱、徳川文学熱、そ れらが当時の私の思想生活であった。  俳句の方ではもちろん、南水君が中心だった。しかし南水君は宗匠ぶらずに、やはり外の連中 と一緒に初心顔をしてやっていた。野村君は何でも自分に出来たいものはないという調子で、無 茶苦茶に作っていた。「僕は檀林派だ」などと言って威張っていた。檀林派は当時の|素人《しろうと》仲間に 大流行だった。兄の|欠伸《けっしん》も折々はこの仲間に加わっていた。後には父も|眠雲《みんうん》宗匠として点者の一 人になっていた。父の無聊はよほどそれに依って慰められていた。私が「|枯川《こせん》」という号をつけ たのはその頃のことだった。「かれ野」「かれ川」などいう俳諧趣味から来たので、「澗川」と書 いたこともあるが、「|禿山《とくざん》枯川」という字面を見つけ出してから、それに極めてしまった。当時 の私の句の一つ。「白壁にブツつけて見る|熟柿《じゆくし》かな」  歌の方では|小菅秀治《こすげひではる》君というが中心だった。これは天王寺から大ぶん東の方の鶴橋小学校の先 生だったが、家は逢坂の下の、安居天神のそばにあって、相当の資産家だった。入口に藤棚のあ る、二階の広い、落ちつきのよい家で、よくその二階で歌の会が開かれた。そこのおかあさんは 切髮の品のよい人で、いかにも歌よみらしく見受けられた。選者は大江神社の神主の石橋さんだ ったが、堅くるしいことは少しも言わないで、例の野村君や私はずいぶん無茶を通していた。真 剣に歌をよむというよりは、むしろ皆がよって遊ぶという方が主であった。  しかし私は自然に歌に関するいろいろな本を読んだ。『百人一首一夕話』『和歌麓の塵』たどい う俗本から、『古今』『新古今』『万葉』『山家集』『金槐集』など、大抵のものにはひとわたり目を 通した。それからさらに私の趣味は、古い和文書類に向って行った。例の『竹取』『徒然草』『枕 草子』など、一通りの物が済むと、今度は『源氏物語』を読破しようという野心を起した。果し て読破したのかどうかは分らないが、とにかく『湖月抄』をみな読んだ。それからさらに悪い癖 がはじまった。 一面には擬古文を書きだし、一面には古夊法崇拝をやりだした。本居宣長の『詞 のやちまた』だの『玉霰』だのを熱心に読みおぽえておいて、それにのっとって「ぞるこそれ」 流の文章を書いてみたのだから堪らない。しかし私はまだまだ自分の文章を活字にする機会を持 たなかった。  和文熱、文法熱の次には徳川文学熱が来た。それは主として近松の浄瑠璃であった。馬琴、三 馬、種彦なども少しは読んだ。『八犬伝』は既に艶津で読み、『梅暦』『春告鳥』の類は東京で読 んでいた。西鶴は世間の流行に係わらず、私は初めからあまり好きでなかった。  こうした読書は、私に取ってみな面白い遊びであった。和歌や俳句はもとより遊びであった。 碁の遊びも少しはやった。まだその外に、花見、月見などの遊びもあった。桃の頃に桃山の花を 見るべく、親戚の人たちを招き集めて、銘々に弁当を持ち寄って、掛茶屋で半日を遊んだことも ある。私はそんなことが好きだった。ある仲秋の夜、浦橋の一家と私の一家とで、安居天神の内 で賑かな月見をしたこともある。滅多に外出しない私の母なども、そんな時には出かけるのであ った。安居天神は今でもあるようだが、桃山はすべて町になってしまった。  遊びと言えば、私はその頃、学校の若い教員二人(伯水君と萩君)と共に、月夜に暗がり峠を 越えて奈良に徒歩旅行したことがある。また何かの拍子に独りで嵐山の花見に出かけて、帰りに 汽車賃がなくなって、それを借りるつもりで松井先生-先に整津中学の先生だった人で、今は 京都の第三高等中学の教諭ーの処に行ったが、久しぶりによく来たと言って歓迎されたので、 とうとう一ばんとめて貰って、金なんどのことはとても言いだされず、翌日五銭の金を握って、 京都から大阪までテクテク歩いて帰った。その時の句。「十三里、|銭《ぜに》は菜の花の中の旅」 七 不平と飲酒癖  こういう風に書くと、大阪教員時代の時は、ただのんきた、おとたしい、無事平穏な男のよう であるが、実は決してそうでなかった。相応な野心を持ち、|自惚《うぬほ》れを持ち、希鯉を持った青年が、 たとえそれが一度飲酒遊蕩に身を持ちくずした、失敗の後であるとは言え、東京の学生生活から 一転して、たちまち老父母を奉じた極少の月給取生活に落ちたのだもの、それが不平でなくてど うするものか。  しかし何と言ったところで、養わねばならぬ老父母が眼前にある。兄は本吉家に養われた人で ある。堺家を相続したのが私である。私は父母と共に一家を支えて行くより外に道はない。それ に母は既に老いて毎日の水仕事が出来かねる。私が妻を持つか、女中を置くかせねばたらぬ。前 者は差当り出来そうなことでないので、後者を取った。月給は八円五十銭から少し上った。府庁 の検定試験を受けて、英語科専科正教員という資格がついてから後、十円、十一円まで昇給され た。志津野又郎はまだ少年ながら、こういう有様の間に居候をしているのが辛くなって飛びだし たが、それでも親子三人と女中とが十円や十一円で生活するのは容易でない。ただ、父母が豊津 以来、質素の生活に慣れているのと、女中が少し愚かなくらい正直で、よく忠実に働いてくれた のとで、家の中は存外無事に過して行かれた。しかし金はどうしても足りない。兄が少しは助け てくれることになっていたが、それも約東どおりに実行はされなかった。  しかしそれだけならば、ただ少し足りないというだけで、大した困難には落入らないはずであ ったが、東京以来の私の酒飲み癖が改まらなかった。酒を飲まないほどの|意久地《いくじ》なしは人間の数 に入らないという位の時勢であったので、生来酒の好きな、見え気味の少なくない青年が、貧の ために克己的な生活をすることなど思いも寄らない。否、それどころではない、失意の境遇にあ る彼利彦としては、その失意をごまかして、己れを欺くために、わざとでも|満酔淋鴻《まんすいりんり》として人前 に気を吐くという趣きであったから堪らない。しかもそれが酒ばかりではなかった。酒は自然に 女遊びを伴っていた。 八 飲み仲間、 東京の友人、 新聞記者 酒飲み仲間は第一に学校の職員たちであった。野村校長が率先して飲みあるくのだから、 多く の者がそれに附き従った。私はことによく近処の料理屋などを連れて歩かれた。清水の八百松、 逢坂下の丸万、生魂の夜桜など、そうした思い出は数々ある。天王寺の北門脇に「金剛」という 小さた料理店があったが、そこは学校に弁当を持って来たりする家で、職員たちがみな顔たじみ で、私もずいぶんよく飲みに行ったが、ある月の夜に、野村校長が酔っばらった勢いで、そこの 娘に料理と酒とを持たせで学校の運動場に連れだし、運動用の高い台の上に小宴を開いて「月 見」をしたことがある。ずいぶん乱暴な先生たちであった。ある時はまた職員たちが総出で、南 地あたりに押しかけることもあった。村役場の書記に植田定一君と言って、私の同郷人がいた。 豊津中学の知り合いが偶然こんな処で落ち合ったのだから、たちまち無二の友人になってしまっ て、ずいぶんよく二人で遊びに出かけた。  東京の友人が折々は私を尋ねて来てくれた。それが私に取っては、懐かしくもあり、羨ましく もあり、そしてまた、恥かしくもあった。犬塚君は高等商業学校にはいって、ある夏、横笛一本 を携えてやって来たことがある。この人だけは品行方正であったので、一緒に今宮の商業倶楽部 を散歩して、月下に横笛を|弄《ろう》しただけで別れた。小林助市君は白金の明治学院をやめて、先輩で あり親戚である岩崎小次郎さんが滋賀県の知事をしているのをたよって、しばらく大津にいると 言って遊猟者姿で鉄砲を持ってやって来た。川村藤吉君はまだ弁護士にもなれないので、しばら く国に帰ると言ってやって来た。末延直馬君も学校をしくじったという話を聞いた。杉元平二君 は私と一緒にしくじったが、さらに慶応義塾にはいったと闢いた。川村君と私と会って、もちろ ん飲まないではいられなかった。もちろん遊ばないではいられなかった。小関|雅楽《うた》君もやって来 た。これは首尾よく高等中学にいるにはいたが、むしろ文学的な人物が工科を志願して、図を引 くことなぞ僕にはとても出来ないんだといってムシャクシャしていた。ムシャクシャはお互いな ので、ずいぶん盛んに二人で飲んだ。その時、小関君の私に示した詩をよく覚えている。「|袗上 酒痕旧時態《しんじようしゆこんきゆうじのたい》。十年|遊子《ゆうし》又|逢春《はるにあう》。」小関君はとても学校を卒業したいだろうと思われた。  私は東京の友人に会う度に、今の生活のみじめさをつくづく感じた。友人たちが必ずしもみな 得意ではなかったけれども、私のような困難の地位にいる者は一人もなかった。東京に対するあ こがれ、小学校の先生たる身の上、私はジレジレして堪らない気持になって来た。その間に、た だすこし私を慰めるのは、兄を通じての新聞記者方面の交わりだった。  その頃、芝尾君は既に国に帰り、兄は『大阪日日新聞』という小さな新聞の記者になっていた が、私もその縁故で、たまには少しくらい何かの雑文をその新聞に載せて貰ったりして、ようや くその方面に希望を持ちはじめた。勿論まだ、例の「ぞるこそれ」を大いに発揮するところまで は行かれなかったけども、いつかは自分も新聞記者になれそうだと思われた。そして同時にまた 新聞社の人たちが皆だらしのない|放縦《ほうしよう》な生活をしているのが、何か大へんエライ、脱俗的なこと のように思われたりして、自然にそれを真似る気持になった。そんなようなことからして、新町、 松島などの夜景にも大ぶん親しんだ。  ある時、新聞社の人たちと一緒に堺の大浜に遊んだ。新聞杜の人たちと一緒にブラブラ遊んで 歩くということがしきりに嬉しく感じられた。ところがその帰り道に、皆が連れ立って天王寺の 前から谷町を北に向う時、ちょうど私の学校の前を通った。「ここが僕のいる学校だ」と私が言 うと、「ハハア、これが君のプリズンか」と一人の新聞記者が言った。私は突然に (牢屋)という言葉を聞かされて、内心深くヒヤリとした。 「プリズン」 九 土佐落ち  こういう私の放縦な生活は私の身辺を借金だらけにした。ある日、今日こそはどうしても、せ めて五十銭でもどこかで借りだして持って帰らないでは、父や母に申しわけがない。申しわけは どうでもいいとして、実際、年寄り二人を干ぽしにすることになる。と言ってどこの誰にすがり つこうようもない。すがりつけるだけの処には既にすがりついてある。私は進退きわまって、と うとう道ばたの石に腰かけて、永いあいだ途方に暮れていたことがある。  そうした当惑の結果、ある月の末に、私は月給を貰ったまま、それを旅費にしてフイと土佐に 走った。川村宥が鬨に帰っているのだから、それにすがりついて見ようと考えたのであった。こ れは後に考えて見ると、川村君にこれこれの金策をして貰って、それを持って帰って借金の片付 けをしようという風に、ハッキリ見込みをつけ、方策を立てたわけではなく、むしろただ、しば らくでも、苦しくて苦しくて堪らない現在の立場を、どうにかして逃れたいという一心であった かと思われる。  たしか秋のことだったが、私は飄然として土佐の高知に着いた。高知から川村君の家(|安芸《あき》郡 井の口村)までまた十里以上もあったろう。途中の山畑に|蕎麦《そば》の花が白く咲いていたことを覚え ている。川村君は近ごろ細君を迎えて、しばらく国に落ちつくつもりで、鉱山か何かの事業をや りだしているところだった。そこに、東京の悪友、大阪の道楽者が尋ねて来たのだから、それが 親たちから歓迎されるはずはなかった。それでも遠方からたよって来たものを突き放すわけにも 行かず、おっかさんがいろいろと世話を焼いてくれ、ことに若いお嫁さんがずいぶんと心配して くれた。川村君も少々持て余したに相違ないが、そこは親分肌で心よく引受けてくれた。それで およそ一月たらず、あるいは一月あまりも、私は川村君の家にいたり、あるいは川村君について 近処の土地を歩きまわったりした。  ある時は、蛇の多いという山を、夜中に|松火《たいまつ》を振り照らして越えたこともある。ある時は高岡 の宿屋にとまって|長曽我部《ちようそかべ》だの|香曽我部《かそかべ》だのの昔話を聞いたりして、「旅あはれ、昼は|機音《はたおと》、夜 は|砧《きぬた》」などやったこともあった。どこかの茶店で、大きな鰹のおかずで昼飯を食った時、その代 が二銭だった。何しろ鰹は盛んに食わされた。例のタタキがうまかった。安芸の町では、いわゆ る料理屋(実は|瞹昧《あいまい》屋)でずいぶん飲んだ。この辺では、女郎や淫売婦に士族の娘が多いと聞い て、少し変な気持がした。井の口村は岩崎弥太郎、弥之助らの出生地だと聞いて、何だか非常に 特別な土地柄のような気がした。我が川村君がその土地の生れとして、あるいはそれと同じよう な大成功をするのではないのかとさえ、私は空想した。私はまた、井の口村の|彼方《かなた》に聳えている 高い山の昔話を非常に面白く聞いた。昔そこに山城があったが、それが豊臣勢か何かのために攻 め落された時、そこの奥方やお姫さまや女中たちが、火のついた高い御殿の上から、そのすぐ裏 の深い古い池の中に、みんな飛びこんで死んでしまった。  私は長い滞在で川村君(ことに若い妻君)に厄介をかけただけでも済まないのに、まだその上 に何ほどかの助けをして貰って、神戸行きの汽船に乗った。その頃の高知の港はまだ古風なノソ キなもので、川村君は二、三の友人と、一、二の女とを連れて、ハシケで私を汽船まで送り、汽 船の今出るというまで、ハシケの中でジャンジャン三味線を鳴らしながら飲むという騒ぎだった。 土佐の高知の播磨屋橋で、盲が目がねを買いよったり、坊んさんがカンざしを買いよったりする、 例のヨサコイ節を無茶苫茶に繰返すのが、何とも言われず無邪気で面白かった。 」《ム》|ー 一 教員生活の足抜き  しかし大阪に帰って見ると、なかなかそんなノン気な話どころではなかった。堺はもう帰って 来ないかも知れない。.利彦はもしか死んだのではあるまいかという騒ぎだった。しかし苦労人の 野村校長は私のためにいろいろと取りつくろって、私の地位を繋いでおいてくれた。しかも不在 中の月給もスッヵリ貰えるようにしておいてくれた。それで私は諸方面に対して極まりの悪い思 いはしながら、やはり引続いて「先生」を勤めた。  けれども私の家の財政は、もうどうしてもそのままではやって行かれなかった。それでいよい よ仕様がないので、差当り、しばらくの間、私の一家を挙げて兄の家に同居することになった。 兄はその頃、朝日新聞に入社して、大分工面もよくなったので、国から妻子を呼び寄せて、家を 持っていたのであった。それで私が兄の家に同居したというのは、モット適切に言えば、兄の家 に転がりこんだのであった。  兄の家は初め清堀にあり、後ち|桃谷《ももたに》にあった。兄と私とは兄弟でもあるが、友人でもあった。 共に飲み、共に語ることは、二人の最も愉快とするところであった。私が兄の家に転がり込んだ と言って、兄は厭た顔をするでもなし、私がしょげた顔をするでもなかった。ただ、兄嫁(お浪 さん)と父母との間には、双方、遠慮や苦労の多かったことと思う。しかしその頃の若い私は、 まだ大してそんなことの思いやりもなく、従って何らのヒガミもなく、またその姉さんなる人が いかにも温順ないい人であったので、別段、何事もなくて済んだ。  ある時、清堀の家で、兄と私と、|箕面《みのお》の若葉を見物に行くと言うので、|草鮭《わらじ》をはき、|檜木箏《ひのきがさ》を かぶって、大変な身仕度をした。ところが、表に出てから考えて見ると、あまり懐中が寂しすぎ る。いっそこれは宿車に乗って行くことにしよう、それなら月末払いで済むからと、草樒檜木笠 が二台の車を連ねて箕面まで往復した。そんなアザけた真似もあった。しかし桃谷の家になって から、私はどうしても酒に制限をつけねばならぬことを痛感した。しかし全く禁酒もなし得たい ので、一月に一回、月給を貰って来た日だけ、一升でも二升でもウンと飲む。その外はちょっと も飲まぬと極めた。そんなことがいつまで実行されたか覚えないが、何でも兄と二人で、家内の 人たちを皆寝せてしまってから、玄関の三畳で夜明けまで飲みつづけたりしたこともある。  その頃から私もいよいよ新聞方面、文学方面との縁故が深くなって、ヤットのことで教員生活 から足抜きをすることが出来た。私は初めて新聞記者というものになった。ずいぶん怪しい小さ な新聞ではあったが、とにかくそこの雑報記者になった。何しろこれは私の生涯にとって、一つ の発展であった。小学教員から新聞記者への立身出世であった。月給も十五円に昇った。ところ が、その立身出世の新しい地位は僅か二ヵ月ばかりで免職になった。それは新聞社の経済上の事 情にも依ることだったろうが、一つには、堺は生意気でいけないということだったらしい。今で はその新聞の名も忘れてしまった。  その以前私はヤット兄の家を出て、すぐそのそばの小さな家に移っていた。五軒長屋の一軒で、 ガサガサの二階建てだった。私はその小さい城廓に立てこもって、新聞社免職後の浪人生活をや ることになった。まさか再び教員生活に跡戻ろうという気持はしなかった。それが明治二十五年、 私が二十三歳の時だった。 十一 中江、 征矢野、末松 廿  大阪における三、四年の間、私は丈芸癖と遊蕩癖とのために、政治上のことにはすこぶる冷淡   であった。しかし間接ながら自由民権思想の洗礼を受けて来た青年として、全くその方面の情熱 鵬がたく・萋はずはなかった。保安条例で東京を|逐《お》われ、大阪に来て新聞を出していた中江兆民の 奇矯な逸話などは・ずいぶん私の心を刺戟した。兆民先生はある時・糀綴股引の職人姿で演説を やった。兆民先生はまた、自ら好んで西浜の新平民を代表して議会に出た。兆民先生は毎晩、盛                                     かんせいらい  んに飲み、盛んに談ずるが、コロリと横になるとたちまち鼾声雷のごとく、傍若無人に眠ってし  まう。それかと思うと、翌朝早く行って見ると、いつの間にかチャンとその日の新聞の論説が出 来ている。兆民先生はまた、金の煙管を持っているが、気烙を吐くついでに、それを滅茶滅茶に 叩きつぶして、ペチャンコにしている。兆民先生はある時、さんざん酔っばらってエライ勢いで どこかの遊廓へ押し出したが、フト途中で母親のことを思い出したと言って、たちまち車の向き をかえてサッサと家へ帰ってしまった。そんなような話が無数に伝わっていた。(その時、幸徳 秋水が兆民先生の玄関番をしていたのだそうだ。これは後に聞いた話。)  第一回の衆議院議員の選挙の時(即ち明治二十三年)、私の非常に失望したことが一つある。 豊前の国からは、我々の尊信する先輩、|征矢野《そやの》半弥さんが、勿論出ることだとばかり思っていた のに、それが末松謙澄との競争になって、とうとう末松が当選してしまった。末松と言えば仏山 塾出身の先輩ではあるけれども、伊藤博文の婿として藩閥官権の代表者である。それが多年民権 自由の功労老たる征矢野さんを圧倒するとは何事だろう。ことに、行橋、大橋辺の富豪らがみな 末松方に傾いたので、金力のない征矢野さんが遂に負けたのだと聞くに至っては、自由党びいき の青年として、実に堪らない気持がした。実際その時には、末松謙澄が憎くて堪らなかった。 十二 つのまじめな恋  お前は自分の恋愛について少しも書かないじゃないか。遊びをした、放蕩をしたというような、 抽象的のことばかり言って、婦人との関係を一つも具体的に白状しないじゃないか。こういう批 評がどこからか出そうな気がする。いかにも|御尤《ごもつと》もです。  しかし私はあまりそういうことを書きたくない。一つには、現にその人、もしくはその人の近 縁者が生存している時、それの迷惑を思わず、それの感情を揮らないで、自分の勝手なことを書 き散らすに忍びない。また一つには、とにかく私はそういヶ恥を書くのが恥かしい。それも大し た悪事と感じていることなら、恥を忍んでも告白を|為《な》し、|懺悔《ざんげ》を為す必要があるかも知れないが、 ありふれた小さな恋愛事件を何も仰々しく書き立てるには及ばないだろう。ありのままに書くの が自伝の精神だという説もあるだろうが、恥かしいことを恥かしいとしておくのも、また自然の 行き道ではあるまいか。懺悔と称し、告白と称し、ありのままを書くと称して、実は自らの恋物 語に我知らず有頂天になっている場合も、世間にはあるように見受けられる。それも無邪気な、 人間の弱みだとすれば、別だん|咎《とが》めだてをするほどのことでもないが、それがために、他の人が 恥かしがる心持をおしつけて、強いて自分の流儀に従わせようとするのは、少し無理だと思う。  私にも勿論、多少の恋愛事件がある。豊津の少年時代にも、幾分かの匂い、何ほどかの接触 はあった。(九州の土地柄として男色事件も勿論あったが、それはなおさら恥かしくて話されな い。)東京の学生時代には、ただ吉原の無茶な遊びがあっただけで、恋愛らしいものは一つもな かった。つまり、それまでのところ私の性的生活は極めて平凡な、物質的なものであった。  大阪では一つのまじめな恋があった。それが私の初恋だと言ってもいい。しかしそれは失恋に 終った。そして彼女は程なく死んだ。私は彼女に対して深い知己の感を持っていた。私が貧弱な 教員生活をして何ら将来の希望も示していない時に、彼女は堅く私を信じてくれた。彼女は、私 が他日必ず、何らかの方面に多少の頭角を現わすべきことを期待していた。それも、愛を感じた 男に対する、若い女のありふれた心持だと言ってしまえば、誠にただそれまでのものだが、当の 男としてはやはり感激せざるを得ないのだった。  私は彼女と手を触れあったことすらもない。その交わりは極めて古風な、極めて堅くるしい、 あるいは極めて|幼釋《ようち》な、あるいは極めて臆病なものだった。一面において、飲酒遊蕩の乱暴|狼藉《ろうぜき》 を演じている男が、他面において、どうしてそんな道徳的態度を取ったのだろう。それは女の理 智的な気品に圧せられたのだと解釈することも出来る。しかしまた、それが即ち私の性質の一方 面だと見ることも出来る。さらにまた、私が一面に物欲を|恣《ほし》いままにしていた緕果、一面に精神 的であり得たとも考えられる。  何にせよ、彼女は情を|矯《た》めていた。そしてただ、私の理解を求めていた。彼女は家庭の事情に 身を殉じていた。しかしながらあくまで私の面目を傷つけないことを誓っていた。彼女は私と結 婚することなしに、いかにしても私の面目を保たしめるつもりだったろう。ところが、その疑問 は無用になった。彼女は早くから既に病いに|罹《かか》っていた。そして間もたく死んだ。「螢一つ、闇 に呑まれて消えにける」 第三期 大阪時代(下) 西村天囚  私の大阪時代の前半期が天王寺の塔を中心としていたと同じように、その後期は朝日新聞を中 心としていた。朝日新聞には西村|天囚《てんしゆう》氏がいた。朝日新聞を中心としていたというのは、むし ろ西村天囚氏を中心としていたのだった。  西村天囚(時彦)氏は、私の学生時代、既に東京で名声を挙げていた。『屑屋の籠』という、 時事を諷刺し評論した奇抜な新著が、たちまちこの青年の女名を高からしめた。東海散史(柴四 郎)の『佳人の奇遇』も、その一部分は天囚氏の手に成ったのだという噂であった。その『佳人 の奇遇』の中にある長篇の漢詩、「月は大空に横たわって千里明らかに、風は金波を動かして遠 く声あり。夜|寂《せきせき》々、|望渺《のぞみびようびよ》々、|船《う》頭何ぞ堪えん今夜の情。……」というのは、当時の青年書生が ほとんどみな喜んで暗誦していたのだが、それも実は天囚氏の作だと言われていた。私はその頃 から天囚氏に惚れていた。  ある時『国民之友』に天囚氏の寄稿が載っていた。それは『屑屋の籠』にも似ず、『佳人の奇 遇』とも違った物で、「秋の夜は長いものとは真丸な……」という俗謡を、感慨ぶかい筆致で評 釈したものであった。天囚氏は大学古典科の卒業で、漢文が専門だと聞いていた。然るにその一 面には、こうした和丈的な、しかも俗謡的な、かつは風流的なところがあることを知って、私は ますます天囚氏が好きになっていた。そしてなおそれと同時に、この文名を挙げた天囚氏が実は 盛んに飲みかつ遊んだ結果として、|重野安繹《しげのあんえき》先生から破門され、都を去って放浪の旅に上ったと いう話を聞いて、私はさらにまた、|窃《ひそ》かにその豪放|潤達《かつたつ》の風を|欣慕《きんぼ》したのであった。  然るに私の身が大阪の地に吹き寄せられて見ると、そこの大新聞『朝日』に名声|嘖《さくさく》々たる天囚 氏があった。そして私の先輩たる芝尾|入真《にゆうしん》氏や、兄の欠伸などは、既にその門に遊んでいた。し かし私が天囚先生に接近することを得たのは、それから二、三年後であった。そして初めて直接 その人に会った時、私はさらに、また深い感銘を受けた。  天囚氏は偉大なる体格と、|堀爽《さつそう》たる風姿とを持っていた。私のような、あまり風采の揚らない、 小さな男は、その前において威圧を感ぜずにはいられたかった。しかし天囚氏はまた、絶えずそ の身辺に暖かい情味を放射している人であった。一面には「豪陝不覊」の人であり、一面には 「忠厚惻怛」の人であった。私はスッヵリこの先輩を崇拝する気持になって、それから絶えずそ の門に出入した。  天囚氏は私より五歳の年長で、私の兄とは同年であった。兄は天囚氏に引立てられて朝日新聞 社に入社したのだが、同年だけにほぼ対等の友人として交わっていた。私としては、五年の違い くらいのことではなく、大先輩に対する遙かな後進の関係であったが、それでも私は天囚氏を 「先生」と呼ぶほどの素直さを持っていなかった。心では充分「先生」にしていたのだが、口で はどうもそう呼べなかった。  天囚氏は初めしばらく清堀に住んでいた。そしてすぐその側に兄が家を持った。そして前に言 った通り、私がそこに転げこんだ。程なく天囚氏は桃谷に移った。兄もまたすぐその側に移った。 そして私もすぐその側の長家にはいった。そこらから見ても、兄は天囚氏の衛星であり、私は兄 の衛星であった。その頃、桃谷には、同じく『朝日』の小説家として有名な渡辺|霞亭《かてい》氏が住んで いた。桃谷はまさに文十町であった。 二 浪華文学会  東京では文学界が非常な賑いを示し、「硯友社」「都の花」「早稲田女学」「|柵草紙《しがらみぞうし》」「逍遥"対 11鷓外」「紅露二家」などいう形勢であったが、大阪では天囚氏を中心として、明治二十五年に 「|浪華《なにわ》文学会」という団体が起った。そして雑誌『なにはがた』『浪華丈学』などが出た。それら と前後して、他に幾つもの小丈学雑誌も出た。大阪の文学界もかなり賑かだった。  浪華文学会には天囚氏の外、『朝日新聞』の小説家として渡辺霞亭、加藤|紫芳《しほう》、本吉欠伸らの 諸氏があった。紫芳氏は既に老いを示しかけていたが、霞亭氏はまさに売り出しであった。そし て欠伸がようやく頭角を現わすところであった。私はその頃、何かのついでに、天囚氏を蘭に、 霞亭氏を桃に、欠伸を|茄子《なす》に|喩《たと》えたことがある。それから少しおくれて、須藤南翠氏が東京から 『朝日新聞』に下って来た。浪華丈学会はこの小説大家を迎えて大いにその賑いを増したわけだ が、実を言えば、若い連中が寄ってたかってこの老先生をいじめた形であった。南翠氏は桜の宮 に住んでいて、客があれば必ず「鮒卯」の料理を取り寄せて御馳走すると言うので、若い連中は 全くそれを目的で押しかけたりした。甚だしきは昼と晩と二度続けてその膳部にありつきながら、 却って南翠先生の見え坊を嘲笑した者すらあった。それからまた少しおくれて、美文の名手とし て東京に知られていた堀紫山氏が同じく『朝日』に降って来た。勿論これも浪華文学会に加わっ た。私はすこぶる紫山氏と善かった。  小説家以外の朝日記者として、藤田天放、長野|圭鬥《けいえん》の二氏があった。圭円氏は超然たる先輩で あり、天放氏はほとんど唯一の英学者であった。私は天放氏の手から朝日杜の蔵書たるヂッケン ス、サカレーなどを借りて、少しずつ読んだ。  大阪はえぬきの小説老大家として宇田川文海氏があった。若い連中はそんな人を小馬鹿にする のを自慢のようにしていた。生意気な私はある時女海先生を訪問して、あまり長く玄関で待たさ れたので、とうとう大の字になって一睡したことがある。岡野|半牧《はんぽく》氏も大阪はえぬきの古い小説 家であった。これは温厚な人で、若い連中とはほとんど何らの交渉がなかった。  大阪出の新しい文士としては、武田|仰天《ぎようてん》氏があった。同氏はたしか官吏出身であったが、急に 小説家として売出し、早く東京に行ってしまった。|高安《たかやす》月郊氏も既に多少の名声を馳せていたが、 浪華文学会には|幾許《いくばく》の関係もなかった。朝日記者以外における浪華文学会の花形は、木|崎好尚《こうしよう》、 磯野|秋渚《しゆうしよ》の二氏であった。二氏は共に大阪の小学校教員であったが、好尚氏は西鶴張りの美女な どが得意であり、秋渚氏は和文と漢詩とに長じていた。秋渚氏はまた、書において一家をたし、 ことに仮名丈字が|麗《うる》わしかった。「なにはがた」の表題など大抵同氏の揮毫であった。私はこの 二先輩と常によく交わった。ことに好尚君とは、よく談じ、よく飲み、よく遊んだ。  ある時、好尚、秋渚の二君と私と、三人が坂口徳二郎君の家に招かれた。坂口君は河内|蛇草《はぐさ》の 人で、好尚君の旧門人であった。私は天王寺時代に教員同士として相知っていたが、女学趣味に おいても相通ずるところがあった。それである日の夜、大阪から蛇草まで、四人が月を踏んで歩 みつづけ、語りつづけ、そして夜ふけに坂口君の家に着いて、鶏を|割《さ》いて貰って徹夜の小宴を催 した。秋渚君詩あり、「水田漠々|不知処《ところをしらず》。星三四点|乱蛙鳴《らんあなく》。」そういうのが当時における丈士交遊 の趣きであった。  天囚氏の家に客となっている人に、大谷是空君という人があった。これは帝大行きの半途失敗 者で、英文を読むことにおいて浪華文学会中の一異彩であった。私は是空君の持っていた本で、 初めてゾラの小説「レデース、パラダイス」のかじり読みをした。ある時天囚氏が、『伊勢物語』 の一節の、漢訳と英訳を作って見ようと言いだして、天囚氏が漢訳を作り、是空君と私とが英訳 を作った。その英訳がほんの真似事に過ぎなかったことは言うまでもない。しかし天囚氏は絶え ずそんなことで後進の勉学を励ましていた。ある時はまた、天囚氏の宅で心理学の輪講会を開い たこともある。  天囚氏の親友に山内愚仙という油絵師があった。これは東京で天囚氏と共に飲み過ぎて、天囚 氏と共に大阪くだりした人で、その飄然たる趣きがいかにも「愚仙人」であった。「鬼の念仏、 娘のかけとり」と題した画は、当時我々の間に評判だった。浮世絵師としては年峰、年恒、年信 らの諸君があった。  その外、浪華女学会に多少の(あるいは間接の)関係を持っていた人々。哲学者を以て任じて いた久津見|蕨村《けつそん》君。大阪のぽんちを代表した武富|瓦全《かせん》君。大和の|人関如来《ひとせきによらい》君(今有名な音楽家関 |鑑子《あきこ》さんのお父さんで、|集《ふくろ》が鶯を産んだと言われている人)。対馬の産、|畑島桃蹊《はたじまとうけい》君。紫芳氏の 弟、加藤眠柳君。|上司《かみつかさ》小剣君。小剣看は最も年少で、ただ折々天囚氏の門に出入りするというに 過ぎなかった。しかし私とはかなりに交わりが深くなって、ある夏の夜、二人が一緒に中之島公 園で夜を明かしたことなどもあった。小剣君が初めて私の家に来た時、私には極めて珍しい奈良 人形を持って来てくれたことを覚えている。  今一人。奥泰輔書というがあった。これは坪内逍遥さんの門弟子で、『早稲田女学』に|擲襖生《ていおうせい》 という名を出したりしていた才人だが、何か女に関係することで逍蓬先生から破門され、東京に いられなくなって大阪に来ていたのであった。私とはちょうど同年で、ずいぶんよく一緒に不平 の酒を飲んだ。ある時、日清戦争に関する美談逸話を集めて編輯しろと天囚先生から命じられて、 奥君と私とが私の家の二階で、一升徳利を抱えながら二晩か三晩か徹夜したことがある。ところ が、その原稿が、本屋の違約に依って一文にもならなかった時、サアまた二人が飲んだ! 飲ん だ!  その頃、巌谷|漣山人《さざなみさんじん》が京都の日出新聞に|聘《へい》されて来ていたので、それが連鎖となって、私ら は尾崎紅葉君らの硯友杜一派と多少の関係を持った。堀紫山君が尾崎君と親しい間柄であったの も、それに導く一つの因縁であった。  私は勿論、浪華文学会の会員であった。かようにして私は全くの女学青年となり、例の「ぞる こそれ」調の文章を得意にして、小説や随筆を書いていた。英語はまだ本当には読めなかったけ れども、アーヴィングの『|肥《スタウト》えた|旦那《 ジエントルマン》』を|反訳《ほんやく》したりした。その反訳からヒントを得た『|隔墻《かくしよう》 物諮』という短篇が、鷓外先生の『|柵草紙《しがらみぞうし》』に採録された時など、内心ずいぶん得意だった。 私の文章が東京で印刷されたのは、それが最初であった。 三 浪人生活、文士生活  私が初めて新聞記者になった時、それはやはり天囚氏の口入れであった。そしてそこの主筆格 たる人に中西|牛郎《うしろう》君があった。中西君は熊本で徳富蘇峰と並び称せられた大秀才で、学問女章共 に素晴らしいものだという評判だった。しかしこの秀才、実は非常に放縦無頼な、箸にも棒にも 掛らぬほど、だらしのない秀才だった。そして新聞社そのものがまた、ずいぶんダラシのない、 エタイの知れない小新聞だった。私がその社と人物とに親しむ|暇《いとま》もなく、二、三ヵ月で退社を命 ぜられたことは前に話した通りである。  小学教員から一躍して、折角新聞記者に立身したが、今度はたちまち無職の浪人に成りさがっ た。しかし私としては、その無職の浪人がむしろ誇りで、文学者もしくば小説家と言ったような 資格で、極った勤め先もなくブラブラして暮しているのが、少なくとも小学教員以上と考えられ ていた。それから一年か一年半あまり、私はずいぶん苦しい原稿料生活をやった。天囚氏や兄の 世話で鹿児島の新闢や神戸の新聞に小説を書いた。それらは大抵、英文の小説の焼直しであった。 その頃まだ英女の小説が本当に読めたわけではないが、どうせ自由自在に焼直すのだから、本当 に読めねばならぬ必要はない。大体の筋さえボンヤリ分れば、それを種にすることが出来る。そ んな風で、私は無茶苦茶に英文小説を乱読したが、お蔭でその間に、自然相当の読書力が養われ た。  その頃、心斎橋に|驤《しんしん》々|堂《どう》という有名な本屋があった。ずいぶん安っぽい本屋ではあるが、商売 の規模は小さくなかった。従って我々は、何かと言うとそこに出かけて、幾らかの金をねだるよ うにして取るのだった。しかし『なにはがた』や『浪華文学』は、そんな品のわるい本屋にやら せてはいけないというので、大日本図書会社から出していた。それで私らはまた、何かと言うと そこの武田という番頭を口説き落して、幾らかの金にするのが常習であった。  そんな間にも、私の飲むこと、遊ぶことはほとんど間断なしであった。従って私の家の経済は 無茶苦茶だった。「もう|八木《ハチボク》がないぞよ」と、よく父が言ったりした。八木とは米のことだった。 その米を掛買いにしている時でも、それが月末に払えないと(実際、大抵の月は満足に払えなか ったのだが)、父はやかましく私を責めた。父の考えでは、我々は米屋の仕送りに依って活きて いるのであった。然るにその代金を払わないのは、非常た不義理、不道徳であった。米というも のは、父に取っては、主君から頂戴するのでも、商人から買い取るのでも、同じように神聖な物 に感じられていたのではたいかと思われた。それで私は、米屋から経済的に責められるのと、父 から道徳的に責められるのと、内外両面の敵に当ることになっていた。私は折々、その意味にお いて父と論争し衝突していた。しかし私はまた、とにかく武士の生涯を送って来たいわゆる小廉 曲謹の老父をして、晩年にそうした貧苦を嘗めさせることを、非常に済まない、非常に気の毒だ と感じていた。けれども私はまた、それがために飲酒遊蕩の悪癖を改め得る者ではなかった。私 はその一家貧苦の間にあって、なおかつ先輩の尻につき、友人の先に立って絶えず遊びあるき、 飲みまわっていた。  ある時、母が私に向ってしみじみとこう言った。お前もさぞつらいことであろう。若い身空で 年寄りの親を負わせられているのだから、それを思えば、わたしは気の毒でたまらぬ。お前が毎 日出て行く時、わたしはいつもそのうしろ姿を見送ってはそう思うている。お前も万ざらの馬鹿 とは見えぬ。人並に劣るほどの男とは思われぬ。だからもし、親のわたしたちがおらぬなら、何と でもして相当の立身をするであろうに、ただわたしたちがその妨げになっている。それを思うと、 いっそ死んでやりとうなって短刀を取り出して見たことも何度かある。けれども、年を取っては 自害する気力もない。それにやはり、可愛いお前を跡に見棄てて死にとうは決してない。……母 は遂に|啜《すす》り泣きをはじめた。これには私も心の底から驚かされた。母は子に自由を与えるために 死のうとした! 然るにその子は、それでもやはり飲みかつ遊ぶことを止め得なかった。 四 吉弘茂義、 高橋健三  そうする中、私らの桃谷時代が過ぎて、曽根崎北野時代が来た。天囚氏が曽根崎に移り、欠伸 もすぐその側に移った。霞亭氏、紫芳氏らもみなその辺にいた。そして私も北野の長家に住んだ。 北野にはその頃、「鶴の茶屋」だの、「九階」だのという遊園地があったりして、面白い郊外の土 地だった。  その、「九階」の、|枝垂柳《しだれやなぎ》の多い園の内に|吉弘《よしひろ》茂義(|白眼《はくがん》)君が住んでいた。吉弘君は「文士」 ではなかったが、新聞だの雑誌だのの計画屋で、兄だの私だのとは自然懇意になっていた。色の 白い、奇麗な痩せぎすな小男でありながら、吉弘君には何となく親分肌があった。ちょかちょか した才子のようで、しかも、大胆な、機敏な、親切な、熱心なところがあった。自分が親と妻子 とを養いかねておりながら、困った文士連を庇護するという態度を忘れなかった。私とは近所で もあり、同年でもあり、すぐに大の仲好しになってしまった。その頃わたしは、春先になって羽 織というものを持っていなかったが、吉弘君のただ一枚の|飛白《かすり》の|袷羽織《あわせばおり》が、少々肩行きは合わな いながら、しばしば私の背にも着られていた。つまり吉弘君と私と、二人で一枚の羽織を使用し ていたのであった。吉弘君と私とはまた、米の使用においても常に共通であった。即ち、吉弘君 が米の一斗も買っておれば、私がすぐに行ってその中から二、三升も借りて来る。そうかと思う とまた、私の家に米が五升しかない時、吉弘君が来てその中から一、二升も持って行くのであっ た。(この吉弘君が今は大阪に有名な新聞社長であり、大紳士である。)  右は多分、明治二十七年(私の二十五歳)の春だったと思うが、その時、私は計らずも新聞記 者の地位を得た。今度もやはり天囚氏の世話だった。しかも天囚氏はその話をまとめてくれて、 いよいよ明日、社長の|籔広光《やぶひろみつ》氏に会いに行けと言ってくれたと同時に、|紬《つむぎ》の袷羽織を一枚、私の 家に持たせてよこしてくれた。それは私がねだったわけでも何でもないが、吉弘君との共同使用 物以外、私が羽織というものを持っていないことを天囚氏が知っていて、その前晩、奥さんを古 着屋にやって、わざわざ私のために買わせてくれたのであった。  この新聞は『新浪華』と言って、前に記した新聞の後を継いで、その同じ家屋機械を使用した ものではあったが、経営者は全く別であった。社長の藪広光氏は熊本人で|佐《さつさ》々友房氏の子分であ った。つまり『新浪華』は国民協会の機関紙であった。  その頃、朝日新聞には高橋健三氏が新たに主筆として赴任していた。高橋氏はもと官報局長の 地位にあり、後に|松方《まつかた》内閣の書記官長になった人で、気節と学識とを以て聞えていた。東京では 日本新聞の|陸実《くかみのる》氏、大阪では朝日新聞の高橋氏、まさに東西相呼応する、日本主義、国粋主義の 鼓吹者であった。朝日新聞は|頓《とみ》に活気を呈して来た。川辺貞太郎君が日本新聞から朝日に転じて 来たのも目についた。また、高橋氏の門下に、後に有名になった内藤湖南君が潜んでいたことも、 人の噂に上っていた。天囚氏はその気質から言っても、薩州人たる因縁から言っても、まさにこ の系統に属する人で、氏に取っては自然に得意の時代が来たわけであったろうと考えられる。そ して『新浪華』もまた同じ保守的傾向の国粋主義系統に属するものであった。天囚氏が私をそこ に世話することの出来たのも、その因縁からであった。かくて私はいつの間にか、この保守系統 の一小分に成されていた。  天囚氏は新文学興隆の時代に際して、浪華丈学界の中心勢力になったりしたものの、実はいわ ゆる女学者ではなかった。もとより坪内流でもなく、鶴外式でもなく、露伴紅葉とも全く異質で あった。『朝日新聞』に書いた小説でも、「老女村岡」などという教化的の物語がその本色であっ た。さもなければ、表題は忘れたけれども、ある豪傑の一群が一艘の船を家として海外に発農を 試みるという、冒険的英雄譚にその感興を寄せるのであった。福島中佐がシベリヤ横断の騎馬旅 行をやった時、天囚氏がその記事において特殊の精彩を発揮したのなどは、まさにその処を得た ものであった。しかるに今、天囚氏は、新たに高橋氏一派を朝日新聞に迎え得て、そこで初めて 政治的の態度を定め、その活動を開始する機会を得たわけであった。そして私がまた、自然にそ の波動の中に巻き入れられたのであった。  私は初めて高橋さんに会った時、深くその気品に打たれた。痩せた、縞麗な、弱々しい、そし て底に強味のある格好が、あたかも|籐《とう》の|鞭《むち》と言ったようた感じであった。また高橋さんが扇面に 細字で般若心経を書いたその書風が、いかにも|勁抜《けいばつ》で好きだった。私は高橋さんから『|社会科 学叢書《ソきシヤル サィエンス シリャス》』の中の「ダアヰニズム、エンド、ポリチクス」(進化論と政治)を反訳して見ろと言われ て非常に嬉しかった。しかしやって見ると、とても駄目だった。不審の個所を質問に行くと、高 橋さんはよく面倒を見て教えてくれた。反訳の英語の原稿は半分ばかり出来るには出来たが、結 局物の役には立たなかった。しかし私は、それで初めて英語の論丈物(小説以外の書物)に接触 したのであった。 「条約励行」ということが、欧化主義者に対する国粋主義者のその頃のモットーで、そのモット. ーに依る示威的の大宴会が大阪で開かれた。『朝日』も、『新浪華』も、皆それに声援を与えた。 私も袴をはいて出席した。天囚氏から指図されて、私は席上で何かの挨拶をやった。そんなこと は私として初めての経験だった。堺はやれそうだと、天囚氏があとで評していた。そんなことで、 私はいつか、国粋主義者の一|雑兵《ぞうひよう》になっていた。 五 新浪華 『新浪華』の社長藪広光氏は色の黒い、髭の濃い国言葉の|著《いちじる》しい、生粋の熊本人だった。「条約 励行」は藪氏の口において、「ジョウヤク・デイコウ」と発音されていた。主筆格としては、熊 本の『九州日日新聞』の主筆山田珠一君が「当分」手伝いに来ていた。山田君は蟹後の生れであ ったが、若くから佐々友房氏に育てられて、ほとんどすべての点において熊本人になっていた。 小柄ではあったが、がっちりした、堅実味の多い、質朴な人物だった。(この人が後に、九州憲 政会派の有力な人物になったことは、特に記すまでもあるまい。)その外、社中に二、三の熊本 人があり、社外にも熊本出身の先輩(例えば弁護士芳賀貞賢氏など)が顧問格の地位に立ってい た。どういう関係かよくは知らなかったが、「浪人」として名望のある広瀬千磨氏なども折々は 社に顔を見せていた。  編輯局は僅かに十人あまりで、幾らか記者らしいのは、少し後れて入社した|月輪望天《つきのわぼうてん》君と私と ぐらいのものだった。外勤連の中には、後にどこかから代議士に出た加賀宇之吉君などがあった。 私の月給はやはり十五円だった。そしてそれが「山田君を除いては」最高であった。月輪君も私 と同格だった。ところがその月給の払い渡しが時としては翌月の初めになることがあり、甚だし きは二た月分一緒になることもあった。そこでおかしいことには、編輯局内に金貸し業者が出現 した。それは相場係の記者で、少々工面がいいものだから、月給受取りの委任状に対して、一割 か二割の天引で貸付をした。編輯局員のほとんど全部が大なり小なり皆この人の手に掛っていた。 社の会計も実はそれを便利としてむしろ奨励していた。  私は小説を書いたり、随筆を書いたり、雑報を書いたり、たまには論丈を書いたりした。私は 記者として便利だというばかりでなく、天囚氏からの推薦として人間の素性が知れているので、 すこぶる藪社長から愛された。藪氏の家には新たに国元から奥さんと子供たちとが引越して来た。 奥さんは五尺三寸もあろうかという大女で、気質も甘皎だ潤達であった。若い時には馬にも乗り、 |游《およ》ぎもしたという、|熊襲《くまそ》的婦人であった。「そぎゃん事おっしゃったちが」「いさぎゆう」などと いう生粋の国言葉が面白かった。子供たちはお父さんお母さんのことを「デエさん、ダアさん」 と呼んでいた。私はこの一家の人たちと極めて親しく交わった。  私の月給が十五円で、それが社中の最高だったというのは、今ではよほどおかしく聞えるだろ うが、その頃では、十五円あれば、どうやらこうやら小さい一家の暮しは立つのだった。私の北 野の家は二円十銭の家賃で、父母と下女と四人暮しであった。米が一升幾らであったか忘れたが、 普通の酒が十八銭で、二十二銭も出せば飛切りだったことを覚えている。私は煙草も吸っていた が、いよいよ金のない時、「百目十銭の煙草も飲めば飲まれるものなり」と日記に書いたことが ある。普通は十五銭か二十銭もしたのだったろう。だから、もし私が放縦の癖を改めることが出 来たら、そんなに父母を苦しめないで済んだはずである。ところが実際には、例の八木の欠乏を 来たすことがしばしばであった。  その頃、私が父に変な|土耳古《トルコ》帽を一つ買ってやると、これは面白い形だと言って、父は喜んで それをかぶっていた。しかし父は、年寄りがあまり見苦しいナリをしては歩かれぬと言って、滅 多に親戚などにも行かなかった。その頃、間宮四郎さんは陸軍の役を|罷《や》めて、|灘《なだ》の住吉に新宅を 構えて隠居していたので、父に|宿《とま》りがけで遊びに来いという毎度の案内があった。そこには父の 叔母もまだ生き残っていたし、父も行きたいのは山々であったが、例の「見苦しいナリ」を見せ るのが厭さに、とうとう一度も行かなかった。父のスキヤの夏羽織の折目がすりきれて、それを 父が糊で裹打ちをしていたことを思いだす。母の前歯が久しく欠けていて、それを手細工で、桐 の木の入歯をしていたことも思いだされる。 六 日清戦争、 広島臨時議会  明治二十七年の夏、朝鮮の変乱につづいて、遂に清国に対する宣戦の公布となった。特に国粋 主義者でなくても、青年の血が湧かずには居られなかった。私はその時『新浪華』に無邪気な小 説を書いていたが、いよいよ戦争が始まると、もうどうしても、そんなノンキらしい物を書いて いる気がしないので、その続き物を中止にして、その代りに戦争美談を載せたことを覚えている。  ある日、私は梅田停車場のそばで、第四師団の兵が出征するのを見送った。道の両側の群集が 歓呼すると、軍隊中の騎馬の将校が挙手の礼をする。私はその光景に痛く胸を打たれて、しきり に涙を垂らしていた。それほど私は愛国者であった。  秋にたって広島大本営に臨時議会が開かれた。私は、『新浪華』記者としてそれの傍聴に出か けた。しかし今考えて不思議なのは、その臨時議会に関する記憶が少しもない。浅野侯の園遊会 に招かれたことや、呉の造船所を見たことなどは覚えているが、議場の光景などは少しも覚えて いない。  私は国民協会所属新聞記者として、東京から来ていた朝野新聞の杉田藤太(天涯)君、中央新 聞の水田|栄雄《ひでお》君、それから前記の、九州日日新聞の山田珠一君などと共に、協会で準備した合宿 所に宿っていた。その中で、私はことに杉田君と親しくなった。杉田君の朝野新聞は川村惇氏の 経営であったが、私の『新浪華』と同じ程度の貧弱さであった。外の新聞記者が旅費や電報料を 豊富に持っている間に立って、見すぽらしい服装をした、そして文章自慢の二青年が、たちまち にして、意気投合したのは誠に自然であった。杉田君は二十四歳であり、私は二十五歳であった。 杉田君は古ぽけた背広を着ており、私は怪しげな羽織袴を着ていた。  他の新聞記者には、私は一人の知己も持たなかった。しかし日本新聞の古島一雄などが記者仲 間で幅を利かせているのを見たり、また議員である末広|重恭《しげやす》(鉄腸)氏が、僕も君らの仲間だよ と言って記者の会合に来たのを見たりした。議会では、国民協会の佐々友房、|古荘嘉門《ふるしようかもん》などの諸 氏に会った。古荘さんは以前に高等中学の校長として知っていたが、ただ岩の塊まりのような人 間だと思った。佐々さんには初めて会ったが、色の白い、丸顔の、少し額に皺のある、いかにも 先輩らしい人物だった。音に聞えた策士という感じよりも、むしろ温厚の長者という風が見えた。 少し頭痛がすると言って、横になって人に頭を揉ませたがら、我々青年に対して諱々と説き、懇 懇と教えるところが、さすがに佐々先生だなと思った。 七 六年ぶりの東京  その年の暮、私は久しいあこがれの東京に向って出発した。大阪生活の五、六年間、大阪言葉 には少しも親しむことが出来ないで、半熟の東京言葉を誇りとする形であったが、それだけ絶え ず東京に対するあこがれが強く、いつかは東京へ、東京へ、ただそこにこそ人生の希望はあるの だと考えていた。およそ大阪へ来る他国人で早く大阪言葉を使いたれる者(即ち早く大阪に同化 する者)でなくては、成功は駄目だという話があるが、それは確かに当ったところがある。浪華 丈学会の連中で、渡辺霞亭君は程なく少しずつ大阪言葉を使いはじめていたが、果して久しく大 阪の「大家」として繁昌した。勿論一がいにそんなことは言えないが、私はとにかく大阪で栄え そうに思われなかった。  私ばかりでなく、兄も大阪で失敗した。兄はそれまで幾許も東京を知らず、慶応義塾の生活も 一年には満たなかった位で、大阪こそ彼にとっての、むしろ初めての世間だった。そしてその大 阪で早く西村天囚という知己を得て、程なく『朝日』という大有力な社会機関の一部となったの だから、言わば意外の成功であって、本吉欠伸の名は世間には相当知られたのであった。そして 妻子を呼び寄せて、かなりな家に住んでかなりな生活をしたのであった。ところが、放縦な癖は 文士の常(むしろ誇り)で、それが兄のはずいぶん徹底したもので、流連荒亡帰るを知らずと言 った趣きが、よほど永く続いた。その結果は負債の堆積となり、家庭の不和となり、国元の養家 との不折合いとなり、遂に細君のお浪さんが子供を連れて国元に引揚げた。兄は「妻子を取られ たる身の上」などと言う皮肉な言葉で自分の境遇を嘲っていたが、それからの放縦は一層甚だし くなった。その次の結果は『朝日』の退杜であった。ある時、兄は病気に罹って長堀の病院には いっていたが、私が見舞に行って見ると、新町あたりの安っぽい芸妓が来て、その病室に宿って いるという乱暴な始末であった。要するに兄は大阪にいられなくなった。そしてほうほうの体で 東京に流れて行った。しかし私としては、兄がとにかく東京へ行くということが羨ましかった。 それほど東京に対するあこがれが強かった。兄が東京ヘ着いてすぐよこした手紙には、東京の女 の言葉を聞くのが第一の楽しみだと書いてあった。  そんなわけで、私もどうかして東京へ行きたいと考えている中、支那へ出征した軍隊に対する 酒保の仕事をやりたいという人たちが、天囚氏の処に来てそのことを相談していた。そして天囚 氏が私をその人たちに紹介した。私の親戚の間宮氏(灘に隠居していた人)が陸軍の監督として 就任しているので、そこに頼みこむ何かの便宜が得られるだろうというのであって、私としては、 いかにも柄にない仕事であったが、東京にさえ行かれることなら何でも構わないと言うので、大 喜びで承諾した。  かくて私は六年ぶりに再び東京の土を踏んだ。私は早速、酒保計画の人たちを連れて間宮氏を 尋ねてみたが、それはもう時機が後れて全く駄目だった。私はむしろそれを喜んだ。私はただ東 京に来られたことが嬉しかった。私は兄のいる有楽町の下宿にはいって、女+兼新聞記者連の小 さな一群に加わった。先頃まで大阪に放浪していた一奇人の畑島桃蹊君が、今は『めざまし新 聞』の記者になって、そしてこの下宿に陣取り、しかもそこの働き手の年増の娘と何かの関係を もっていたので、そこが自然に我々の根城となり、|倶楽部《くらぶ》となった。そこに遊びに来る人たちの 中には、『めざまし』の小林|蹴月《しゆうげつ》、『読売』の関如来などの諸君があった。私は『新浪華』の記者 として議会の傍聴に行くということにして、当分滞在の計画を立てた。『新浪華』が滞在費を出 してくれるほどの力のないことは無論だが、留守宅に私の月給だけを運んでくれるというので、 私は何かこちらで稼ぎながら議会の傍聴記を書いて送ることにした。それには、せめて」着の袴 が必要だと言うので、牛込の佐々友房氏を尋ねて無心した。佐々氏は私を引見して金十円をくれ た。私は早速、神楽坂で袴を買い、ついでに下宿の娘に贈るべき襦袢の袖か何かを買って帰って 来たが、その晩に火事があってその下宿が丸焼けになった。  何しろ一味の根城が落ちたわけで、銘々離散するより外はなかった。私は兄と共に、大晦日の 夜、霊岸島から船出して房州に落ちのび、明治二十八年一月一日、|那古船形《なこふながた》から少し奥にはいっ た|多《たた》々|良《ら》という処の田舎宿に陣取った。そしてそこから『めざまし』へ約束の原稿を書いて送る ことにした。しばらくすると蹴月が来る、桃孃が来る、そしていずれは飲んで騒ぐのであった。 甚だしきは、ある日、桃蹊と兄と私とが、クルクルと頭を剃って、三個の青坊主を拵えたという ほどの馬鹿な真似までした。  たしかその時、岐阜名古屋の大地震があって、それが房州にもかなり響いたのだが、ちょうど その時刻、私は酒に酔っばらって、ヒョロリヒョロリと歩いているので、まるで地震を感じなか った。そんな馬鹿な日を送っているところに、「ハハキトク」という電報が大阪から来た。私は あわてて東京に帰り、間宮氏に駆けつけて旅費を借り、蹴月の綿入羽織を外套がわりにして、せ めて母の死に目に会うべく大阪に帰った。 八 母の死、 大阪立退  母はまだ生きていた。篠田のおばさんが来て介抱してくれていた。お医者さんは親戚の木下愛 水さんが来ていてくれた。「乳房にぶらさがった奴らを一人も見せずに死なせるのはあんまりだ と思っていたが、貴様が戻ったのでモウ言うことはない」と、父が喜んでくれた。母は半醒半眠 の状態であったが、それでも私の顔を見て安心したらしかった。  二、三日おくれて兄も帰って来た。それから兄と私と、毎晩交代で徹夜の看病をした。二人と も大変な孝行者になった。母の病気は永びいた。ある日、木下さんが母の背中に注射をしてくれ ると、母は夢うつつで変なことを言い出した。「永わずらいをしてお前たちもさぞ迷惑ではあろ うが、それかと言うて、そんなことまでしては篠田のおばさんの手前もあろうに、-…・」私らは 全く驚いた。早く死なせるために注射をするものと母は感じたらしい。それと言うのも、貧乏の 苦労が骨までしみていたからのことだったろう。  しかしその時、私らは経済上案外らくだった。兄が房州にいる時から『朝日』に小説を書く約 束をしていたので、それを兄と私との合作で(たしかこれも西洋小説の翻案で)やりだしたから、 差当り必要なだけの費用は容易に得られたのであった。  二月二十四日、母は遂に死んだ。六十八であった。「凍てる夜の明くるも待たぬ別れかな。」こ れが父の句であった。その前年あたり、父はよく気兼ねそうに、「またすこし足をもんでくれぬ か」と母に頼んでいた。すると母は、「わたしもモウ自分のからだだけを持てあつこうているの じゃから」と言いながら、それでも別だん厭な顔もせずに揉んでいた。老いた夫婦の間柄は思い のほか濃やかだった。  それからしばらくして、兄はまた東京に行った。そして間もなく都新聞に入社した。ところが 私の方では『新浪華』が没落した。何の事件であったか忘れてしまったが、藪社長ほか一、二名 の社員が未決監に入れられた。新聞は出なくなった。社は自然に解散した。しかし私は独り踏止 まった形で、どこまでも藪一家の世話をしていた。藪の奥さんは賢夫人ぶりを発揮して、毎朝|水 垢離《みずごり》を取って夫の無事帰宅を祈るという風であった。佐々友房氏が京都に来たと聞いて、私は藪 夫人と二人で救助を求めに行った。佐々氏は金がないと言って、時計の金ぐさりをはずして藪夫 人に与えた。私は深くその心意気に感じた。後にそのことを人に話すと、そこが佐々の老獪なと ころさという評判であった。  藪氏は予審免訴か何かで首尾よく帰って来たが、再挙の見込みはなかった。私は前川虎蔵氏の 『阪城週報』を編輯したりしていた。それも天囚氏の周旋であった。そこに東京の兄からよい知 らせがあった。兄が都新聞にはいったのは、昔長崎で知合っていた田川大吉郎君が『都』の主筆 をしていたからであった。然るにその田川君が今度、新たに新聞をやるというので、兄が私を推 薦した。それには『阪城週報』が私の文章の見本として提出された。そして田川君が私を呼んで くれることになった。  田川君は私とも以前東京で知合っていた。その頃、田川君は同郷の先輩岩崎小二郎氏の家に書 生をしていた。ある時、前に記した小林助市君が私を岩崎家に引張って行って田川君に会わせた。 小林君としては自分の友人たる一秀才を、他の同じく友人なる一秀才に引合せたわけであった。 私はその時、まさに高等中学の入学試験に及第したばかりの、いささか得意の時代であった。田 川君は私より一つ二つ年上でもあり、既に早稲田専門学校の学生であった。然るに今、私は大阪 に落餽し、田川君は東京で新たに新聞を主宰する地位にあり、そして自分の下に私を呼んで働か せようというのであった。私は知己の感を抱いて直ちに上京した。  とは言え、私の上京はそんなに容易でなかった。私はいろいろ手段を尽して北野の家を片づけ、 多少の荷物を荷車に積んで、父とふたり人力車に乗って梅田停車場に向おうとする時、家主があ たふたと駈けつけて、滞った家賃をそのままにして立ちのくとは|怪《け》しからんと言うので、エライ 権幕で蒲団を積んだ一車を差押えてしまった。 第四期 二度目の東京時代 一 産婆の二階  明治二十八年九月二十一日、二十六歳の私は七十歳の父を奉じて、大阪から東京に着いた。ち ようどその前後一、二ヵ月のことを書きつけた兄|欠伸《けつしん》の日記が残っている。その二十日の項に 「夜|枯川《こせん》より電報来る、曰くアス一バンタツと、浜松の宿屋より発した.るなり、老体の疲れ玉ひ て彼地に休らひ玉へるならん」とある。丈体、用語、態度、すベてよくその時代を示している。 そして兄欠伸の態度は即ちまた弟枯川の態度であった。二十一日の項には「四時に汽車着す、二 人の健康なる姿は我が前に現はれぬ、相伴うて宿に帰り久しぶりに骨肉相酌む」とある。  宿は京橋南紺屋町(今、実業之日本社のある処)の「梅が枝」という産婆の家であった。石造 のガッシリした家で、表に|碧梧《あおぎり》が二本立っていた。二階に部屋が三つあって、その一つに兄が下 宿していた。私と父とはその隣りの部屋にはいった。今一つの部屋はあいていた。つまり我々が 二階全部を占領したわけであった。下には七十幾つになる主人の老婆と、十二、三になる低能児 の孫と、顔立は悪くないが、色の蒼白い、気の抜けた、たまに寂しい笑い方をする女中とがいた。 ずいぶん陰気な家だった。 「廿二日、午後二時頃より空少し晴れたれば父上を案内して枯川小林も同道にて浅草に遊び一直 に飲む」「廿三日、雨ををかし夜出で枯川と共に蕎麦を食ふ」「廿六日夜、父上枯川同道にて寄席 に行く」「廿九日蹴月枯川と京橋の角に飲む」「二日、夜父上のお供して寄席に行き女義太夫を闢 きぬ」父子三人の当分の生活の見本がこれ。  兄はその時、『都新聞』の小説記者で、小説を書かぬ時には雑報(いわゆる艷種)を書いてい た。月給はたしか三十円であった。日記の初めには「九月一日、晴、此日旧暦|盂蘭盆会《うらばんえ》に当る、 今年は母上の初盆なれば下宿住居の身ながら心ばかりの魂祭せんとて」などと殊勝なことが書い てあるが、その全般の生活は放縦を極めていた。文人らしい一面を挙げれば、「小林と倶に日比 谷の原に虫を聞く、月明かにしておかしさ限なし、其より二人は愛宕下の牛肉屋にて、一盃、… …虫鳴くや|兵士《つはもの》どもが足のあと。あれも闢く人か木か草か虫の声」などとある。その頃、日比谷 はまだ練兵場であった。また「三日、晴、陰暦中秋、観月の|企《くはだて》もありたれど何れも不景気にて 成立たず、……下谷に友を|訪《と》ひて日を暮し夕ぐれより同行して浅草に遊び其処にて一盃かたむけ、 |酔《ゑひ》に乗じて吾妻橋を渡り月夜の面白さに|不知《しらずし》々々|堤《らず》を歩して梅若塚に至りそれより引きかへして 竹屋より山谷に渡り真崎の月を見て帰る、|初《はじめ》て墨江の明月を観て快極りなし、月の秋さくらは葉 さへなかりけり」こういうことをここに書きつけるのは、それがそのまま、当時における私の趣 味を示し、私の態度を示すものだからである。  さらに放縦の甚だしい一面を挙ぐれば、「夜十時過、早や寝床に入りたる処ヘ電報来る、何事 ぞと見ればスグコイとばかり記して浅草|角町《かどまち》蹴月よりとあり、行きて大いに飲み、眠らずして明 す」「八日、ふつたり照つたり、遂にぶん流して午後五時帰途に就きしが途中平野にて痛飲、興 に乗じて引返し遂に又一泊、近来の狂態なり」「……それより宿に帰り湯に行き縁日をぶらつく、 其の後の事は記すに堪へず、余は行方|不分明《ふぶんみやう》となりぬ」「十九日、晴、あつし、昨夜より此の日 の夕ぐれまで余の行方は|猶《な》ほ不分明なり、……夜に入りて余は|何処《いづこ》よりとなく帰り来れり宿に入 つて世を隔てたる思せり」「卅日、晴、此日は勘定日なれども金大に足らず……午後一時宿を出 でたるまま処々をぶらつき、夜ふけ婆々静まりて後帰らんと思う中、途中にて我と同じく家に帰 りかねたる男に出逢ひ、其の結果遂に又行方不分明となりぬ。」これらがまた、私自身の日記と しても一向差支えのないことばかりである。  現にこういう一項が儼存している。「四日。曇、朝のほど未だ|臥戸《ふしど》を出であへぬ処へ、昨夜帰 らざりし枯川きまり悪く帰り来り怪しき男をさへ|伴《つ》れたり、如何ともせんすべなければ老婆を説 きて辛くも其の男かへしやりぬ。」この時私の共犯は白河次郎(|鯉洋《りよう》)であった。彼は艶津中学 以来の有名な秀才で、この時には帝国大学の文科にいた。年は私より四つ下。  この日記に現われた人々の名前を見ると、小林蹴月君のが一番多い。それから畑島桃蹊、「外 に行き処たし死にでもせねばならぬと云ふ事例の如し」とある。関如来君の名も毎度出ている。 「早朝関厳次郎来る、彼は例の如く女郎買の帰りなりと号す」とある。坂口徳二郎君は、「人夫の 霍なつて威海衛に行かんと云へり」とある。その外、筒井年峰、久津見蕨村、濮|廉《れん》奎の諸 君・(蹴月君を除いては)みな大阪以来の知友である。都新聞の人、としては、遅塚麗水、葉山 菊酔、岡本甚吉などの諸君の名がある。「都新聞の社長|藍《あし》来訪、下らぬ事を云うて帰る」は大い に振っている。  それから田川大吉郎君の名がしばしば出ている。田川君は新たに新聞を出すについて、兄を相 談相手の一人と為し、都新聞には内証で小説を書かせることにしていた。私がその因縁からして この新聞に関係することになった次第は、前に記した通りである。  こういう間に、今一つ兄の身の上に事件があった。「十一日、---妻より手紙来る、悲しさや る方なし」「十六日、……妻の旅費にとて五円だけこさヘたれど、あとの五円どうしても調はず、 此の三四日甚だ焦慮、彼はさぞ待ち詫びてあらん、グズくしてゐては此五円も甚だ危し、今度 こそは神に誓ふて費すまじ。」しかしその誓いは破れて五円の金は果してなくなったが、私が上 京してから、二人相談の上、ヤットのことで十円の為替を国元に送った。要するに、彼女は親の 讃を抜けだして来ようというのであった。ところが、費津の郵便局がその秘密を彼女の親に漏ら したので、計画はスッカリこわれてしまった。 一一 実業新聞 田川君の新聞の表題は「実業新聞」ということに極まった。日清戦争が大勝利に終って、実業 熱が勃興しかけていた折柄、新しく発行される新聞の名として「実業」の二字が撰ばれたことは、 いかにも当然であったろう。しかし私はまだそういう時勢を感じていなかった。そして「実業」 の二字をいかにも無趣味だと感じた。私はやや失望した。しかし大阪の落魂の中からヤッ上、道い だして来て、とにかくこの新しい東京の新聞に籍を置くことの出来たのは、私としてすこぶる得 意でないこともなかった。しかも月給は二十五円、それも悪い方ではなかった。 『実業新聞』は、たしか『改進新聞』の跡を継いだもので、社は京橋|南靹町《みなみさやちよう》にあった。持主や 何かの関係はよく知らなかったが、何しろ私としてはただ田川君との関係であった。田川君は主 筆であった。庶務の方には桐原捨三君などがいた。桐原君と言えば、改進党の名十の一人として 私の記憶に存していた人だが、会って見ると、至極貧弱な何らの趣味もない人物らしく、そして 別だん手腕家とも見受けられなかった。編輯局には古顔の記者として、硬派の|井土《いづち》霊山君、軟派 の三品|藺渓《いけい》君たどがあった。藺渓君は耳が大ぶん遠くて、小さい|喇臥《らつば》のような物を素早く耳にあ てがっては話をしていた。藺渓君の部下といったような地位に岡本狂縞掌君がいた。岡本君は後 の有名な劇作家縞堂君だが、その時はまだほんの若い、そのくせすこぶる老成じみた、小紋の羽 織などを着て取りすました、一個の小劇通に過ぎなかった。それから経済部には平野君、北川君 などという腕利きが揃っていた。田川君の直属らしい人物としては、広告部に楠虎臣君があり、 編輯部に森一兵君と私とがあった。森君はまだ二十かそこらの、極めて無邪気な、よく笑う大男 であった。その外、政治方面の外勤(その頃のいわゆる探訪)に如才のない|亀谷《かめや》夭尊君があった。 (それが後に亀谷|聖馨《せいけい》などというエライ名前で、いろいろな仏教めいた著述をしたり、何やら中 学の校長さんになったりしたのは、私に取っては誠に意外なことだった。)今ひとり警察方面の 探訪に森戸|鉦太郎《しんたろう》君という、一見安っぽい人物のあったことを覚えている。それが後にエライ株 屋になったと聞いたのも、同じく大なる意外であった。  田川君は年の割に成熟した才人で、品行方正のクリスチャンでもあり、勤勉力行の事務家でも あった。丈章にも著しい特色があり新味があったが(それは一つには、彼が長崎の外国語学校で 支那語を学んだ結果ではないかと私には考えられたが)、それよりもむしろ、彼の本当の技倆手 腕は、新聞全体の編輯計画の上にあった。『実業新聞』は確かに新しい編輯ぶりを以て出現した。 私としては、例の文芸趣味からして、あまりそれに感服したわけではなかったが、しかしその新 しい味には打たれざるを得なかった。『実業新聞』発刊の月日は記憶しないが、多分十月半ばの ことだったろう。  私は田川君に対する知己の感を以て熱心に働いた。しかし私のかいた小説は、一般の俗受けも せず、文芸品としても認められず、いかにも中途半端な、生煮えの物であったと思う。それが終 った時、田川君が「|峭抜《しようばつ》」の二字を以てそれを評したのは、それが全く、誉めもくさしもならぬ 難物であったことを想像せしめるに足る。その小説の|挿画《さしえ》がまた、新しくもあり奇抜でもあった が、あまり受けもしなかった。筆者は誰あろう(と言っても、当時はまだ大して有名でもなかっ た)寺崎広業君。  小説の外、私は雑報をかいたり、編輯をやったりしていたが、一つ面白いと感じたのは、毎日、 各新聞の論説の大要を三行か五行かに書き縮める仕事だった。それは少し人からも誉められたが、 自分でも幾らかよく出来ると思った。それについておかしいことは、各新聞の論説という以上、 横浜の英字新聞のを除外するわけには行かないはずで、私はずいぶんそれに苦労した。出来ない と言うのは残念で、平気な顔をして引受けるには引受けたが、ほんの短い時間に長い英女を読み こなして、その要点を摘むのは容易でなかった。しかし私は見えと負惜しみとでそれをやり通し た。お蔭で英語の読書力を進めるためには、よほどの効果があった。私はまた、英照皇太后の霊 枢を送るという感想文的の記事を書いて、ある人々から大いに誉められたことがある。それほど 私はセンチメンタルな皇室尊崇者であった。  しかし私はどうしても実業新闢が好きでたかった。一体の空気が面白くなかった。八尾新助と いう人が折々社に来ていた。どういう関係の人だと聞いたことはないが、多分、出資者の一人、 もしくば主なる出資者だったのだろう。あるいは社長だったのかも知れない。しかし私としては 直接その人と何の関係があるではなし、ただ本屋の主人として名を聞いたことがあるだけなのだ から、いつも知らん顔をしていた。それに、その人の、厭にブクブクふくれた薄あばたの顔、無 遠慮に大あぐらをかいたりする野蛮な傲慢な態度も嫌いだった。ところがある日、その野蛮な、 傲慢な、そして無智らしい男が、「オイオイ君」と編輯局のある人を呼びかけて、その名前が分 らないので、「オイ、そこのその立っている新聞記者!」とぬかした。なるほど新聞記者には相 違ない。ことに安っぽい新聞記者には相違ない。しかし「オイ新聞記者!」と呼ばれるのは堪ら ない。私は覚えずムカムカとした。非常な侮蓐を感じた。しかし自分が呼びかけられたのでない から、食ってかかるわけにも行かなかったが、私はモウこんな処にいたくないと思った。つまり、 近来の言葉で言えば、成上り者のブルジョアに対する小インテリゲンチャの反感であった。  それから間もなく、田川君と誰かとの折合いが面白くなくなった様子で、多少ゴタゴタする|気 配《けはい》が見えていたが、そんなことは私に関係がなかった。然るにある日、田川君が黙って帰った跡 で、井土君か誰かから、「都合あって田川君は|罷《や》められたが、他の諸君はこれまで通り働いて下 さい」と言ったような披露があった。私はそれを聞くと、何か書いていた筆をすぐに投げ棄てて、 「僕は田川君と約束してここに来ているのだから、田川君が罷めたのなら僕も罷めるだけだ」と 言って、そのままズイと席を立って帰ってしまった。「そんなら僕も帰る」と言って、森君も出 て来た。好い気持ったらなかった。それからまた話が跡戻って田川君も私らも出ることになった が、しかし壊れかかった杜の大勢はとても駄目で、とうとうジリジリ弱りに弱って潰れてしまっ た。それが多分、明治二十九年の一月の末から二月の初めに掛けてのことだったろう。  田川君と私との間にはよほどソリの合いにくい所があった。田川君が事務的であったのに対し て、私は女芸的であった。田川君が謹厳であるのに対して、私は放縦であった。田川君がクリス チャンであったのに対して、私は無信仰であった。田川君が少年時代から大のスマイルス党で、 自助主義、勤勉主義、努力主義の塊りであったのに対して、私は学校の教科書の中で、アーヴィ ングの『スケッチブック』に一番惚れこんだほどのセンチメンタリストであった。田川君がかつ て歴史上の愛好人物として智謀家竹中半兵衛を挙げたのに対し、私はかつて『論語』の中の子路 を挙げた事がある。そんな風に、田川君と私とかなり反対の素質を持っていた。しかしまた、ど こかに何か一致する点もあった。実業新聞時代、田川君と、森君と、私と、外にまだ誰かいたか もしれないが、折々田川君の家に会合してカーライルの『ヒーロー・ウオーシップ』の輪読をや ったりした。しかもそれはたしか私の提案が実現されたのだった。要するに、田川君と私との交 わりは、決して新聞社だけのことではなかった。その頃、田川君はまた、私を植村正久さんの処 に連れて行ったことがある。「かなりな論客です」と、田川君は私を紹介した。植村さんは私に 讃美歌の本を見せた。「かなりな論客」に対して讃美歌の本は少しおかしいのだが、植村さんの 心持は分らない。とにかく植村さんは、精神とか霊魂とかいうことについてよく考えて今一度来 いと言われた。しかし私は再び行くだけの興味を感じなかった。 三 落葉社 『実業新聞』以外、大阪関係以外において、私の新しく得た第一の友人は杉田藤太(天涯)君で あった。彼と私が広島臨時議会の時、貧寒なる年少の二記者として初めて相知ったことは前に記 した。その時、彼は東京への帰途、大阪に寄って私の北野の家に一宿したが、後に彼はその一宿 についてよく人に語っていた。「枯川の家」に|宿《とま》って「|環堵蕭然《かんとしようせん》」たる二階の六畳に寝せられた が、朝になると、年を取ったおっかさんが味噌汁を拵えてくれて、「サァなんにも御坐んせんが と言ってね、僕はほんとにホロリとしたよ」と。そう言いながら彼は既にまた、少しく鼻をつま らせているのであった。ああ天涯、彼は実に人情に厚い涙もろい、美しい心持の青年であった。  私は東京に来てすぐに深く彼と親しんだ。彼は、丈章は上手だったけれども、女人型ではなか った。むしろ志士型であった。彼は栃木県|小山《おやま》の産として、大いに意気を|尚《とうと》ぶという風があった。 一夜、彼と私と二人、芳原に遊んだ。彼は幾許も酒を飲まず、また常習的の遊蕩者でもなかった。 しかし彼と私とは、広島においても、東京においても、共に足を遊里に入れることに依って特に その親しみを増した。その翌朝早く、二人は上野公園の摺鉢山に立っていた。彼らは秋風落葉を 捲くという光景の間に、悲痛な顔色をして人生を語り、世事を談じた。天涯は例の鼻をつまらせ た声になっていた。枯川もしきりに胸の迫るを覚えた。その時以後、私と彼と、何か生涯の約束 をした気持になっていた。それが二青年の相許した交わりであった。  杉田君は永島今四郎(永洲)君の家に同居していた。彼らは共に慶応義塾の出身で、今は同じ く『朝野新聞』の記者であった。私はすぐに永島君と親しくなった。永島君は我々より二、三年 の年長で「温厚の長老」という風があった。その蒼白い顔と、痩せた細い弱々しいからだとに係 わらず、彼は常に友人間の先輩であった。私は間もなくして深く彼の徳風に推服した。永洲、天 涯、私はこの二友人を得たことに依って大いなる力を感じた。  そうした交わりの中からして、自然に落葉社というものが生れた。この社名はたしか私がつけ たので、摺鉢山の朝景色に取ったのであった。落葉杜は一つの女芸団体であった。あるいはむし ろ一つの俳句会であった。折々集会して皆がフザケながら俳句を作っていた。しかし必ずしもそ れが主眼ではなかった。茶を飲み、酒を飲み、飯を食い、雑談して相親しむ、その方がむしろ主 眼であった。つまり一つの友人団体であり、社交倶楽部であった。私は何かそうした、団体らし いものの一部分として生活する時、いつも非常な愉快と満足を感じた。  落葉杜の人々としては、永洲、天涯の外、まず蹴月があった。蹴月菻のことは既に幾度も記し た。それから加藤米司(眠柳)君があった。眠柳君も大阪から東京に流れこんだ一人で、蹴月君 の世話で『めざまし』にはいっていた。それから堀成之(紫山)君があった。紫山君は先ごろ 『大阪朝日』を罷めて元の『読売』に舞い戻っていた。前に記した関如来君も折々来た。筒井年 峰君も来た。欠伸もたまには来た。しかし欠伸は、そんな団体などには超然としていた。 四 父の死  多分その年の暮、私は父と共に新富町の駿河屋という下宿に移った。まだどうしても家を持つ 準備が整わないのであった。駿河屋は下宿というよりはむしろ田舎向きの商人宿といったような 恰好で、あまり晴々しない家だった。そこの奥まった六畳敷ー私は小机を一つ、父は煙草盆を 一つ控えたきり、外に道具らしい物がほとんどなく、置床すらもなく掛軸の一つすらもない一室 -に、たったひとり父を残して外出する時など、いかにも気の毒な心地がした。(大阪から持 って来た多少の荷物は、まだ停車場に置きばなしにしてあった。)  しかし私はよく外出した。用事の外出ばかりでなく、遊びの外出が多かった。外で|宿《とま》って来る ことも少なくなかった。二人の大きな男の子がありながら、父に寂しい目ばかり見せておくとは 何事だといったような良心の詰責を受けながら、その二人の兄弟が一緒になって飲みまわってい ることなどもあった。父は決して小言も言わず、愚痴もこぽさなかったが、折々は寂しそうな笑 い声をして、|疎髯《そぜん》を撫でたりしながら、|薄《うつ》すりと日のあたる縁側の障子に、梅の鉢の影が映って いるのを、ちょうど墨絵のようだなどと言って、この上ない物のように嬉しがったりしていた。 また、その縁側の午後の日だまりに、折々小猫がやって来て、チリチリ、チリチリと、可愛らし い鈴の音をさせて遊んでいるのが面白いと言って、友達の遊びに来るほど喜んだりしていた。そ れもまだいいが、たまに私とふたり向いあって膳の上に一本の徳利を置くと、父は大へんにそれ を楽しみにして、チビリチビリとやるのだった。そして、「困ったものじゃが、どうもこれがう まいのでのう」と言ったりした。  、かし近処にはツキアイの家が少なくなかった。小林君の家は同じ新富町にあった。そこには 両親もあり、若い細君もあり、路地の中の小さい家ではあったが、いつも暖かいよい家庭だった。 兄だの、私だの、ずいぶんよくおっかさんの世話になって、叱られたり可愛がられたりした。兄 は毎月、月給を貰った時、その中から必ず何ほどかずつをおっかさんに預ける約束にたっていた が、その中、着物を一組こしらえて貰ったきり、預ける方はパタリとやめてしまった。ある雪の 日、私が蹴月を尋ねて行くと、路地の入口に細君がー丸い顔の綾さんがー傘をさして立って いた。蹴月はと言うと、|一昨日《おととい》から帰って来ないので、おっかさんが私に尋ねて来いとおっしゃ るんだけれど、どこを尋ねていいか分らたいと言って、おとなしい、人のいい綾さんは、降りし きる雪をジット眺めていた。内の子も、よその子も、仕様のない奴らばかりだった。  永島君の家は築地にあった。これも小さい、安っぽい家だったが、永島君のおだやかな長者ぶ りと、若い小千代夫人の晴々しい笑顔とで、いつも小さな倶楽部のような、賑かな家庭だった。 況んやそこには、女ちゃんという少々おしゃまな可愛らしい子もあり、杉田という面白い同居人 もあった。小千代夫人は五尺二寸ばかりもあろうという見事な体格で、それが五尺未満の痩せぎ すの永島君と面白い反映を為していた。ある夜、眠柳君と私と、永島家で遊んでの帰り道に、ど こかの町の角で鍋焼うどんを立って食いながら、盛んに小千代夫人に対して蔭ながらの讃辞を呈 した。眠柳君は昂奮してしまって、天下に永島ほどの果報者はないと言って、悲憤慷慨するほど の始末だった。眠柳も私もまだ独身だった。  しかし私には縁談が生じた。それは必ずしも悲憤の結果ではないが、父をいつまでも下宿にほ ったらかしておくわけに行かないのであった。それで私は、私のこの境遇を知って、父の世話を してやろうという女があるなら、どんな人でも構わないというフレを出した。ただしそれは決し て、冷淡な、棄鉢な、無責任な態度ではない。一たび結婚した以上、どんな女でも一生涯の妻と して必ず深く愛するという覚悟である。それが私の論旨であった。すると友人間で、わけもなく その候補者を見立ててくれた。それは堀紫山君の妹であった。紫山君には二人の妹があった。姉 は美知子、妹は保子。そしてまず姉の方から片づけたいと言うので、それを私に擬することにな った。この話は主として眠柳君と紫山君との間に成り立ったので、他の諸友人が皆それに賛同し、 そして私が早速それを批准した。私は美知子、保子の二人が並んで立っている写真を貰って来て 父に見せると、父は大へん喜んで言った。「ほう、これはなかなか美しい嫁じゃ。俺もこの分な ら孫の顔を見るまで生きられるかも知れんぞ。」  ところが、それから間もなく、ある日、井土霊山君が遊びに来て、父と碁を打ちだした。私は 風邪を引いて寝ていた。父は機嫌よく、何かおどけたことなど言いながら碁を打っていたが、急 に考えこんで黙ってしまった。変だなと思う中、バタリと横に打ち倒れた。卒中であった。それ から翌日の明け方まで、父はただ大いびきをかいて昏睡していた。足の底にカラシを塗ったりい ろいろしたが駄目だった。私はその父の床にはいって最後まで一緒に寝た。父の死は明治二十九 年二月二十八日であった。年七十一。遺骸は深川の霊巌寺というに埋葬した。これが封建制度の 没落に遭遇した、一武士の生涯の最後であった。  この時、『実業新聞』は既につぶれて、私は無職であった。それでもちょうど、紫山君の世話 で『読売新聞』に「望郷台」という随筆ものを書いていたので、それの稿料を貰って来て僅かに 急場の凌ぎをつけた。落葉社の人々は種々の方法を以て葬式その他の費用を分担してくれた。 「落葉社、我父を葬る」と、私は何かに書きつけた。初七日の晩、落葉社の人々が集まった。霊 前に|唐紙《とうし》を|展《の》べて寄せ書をした。私はまず筆を取って「不孝児」の三字を題した。せめてそれを 以って父に謝罪した心持であった。 五 結 婚  去年母を失い、それからちょうど一年で父を失った。さしも|放縦《ほうしよう》な私の心も、少し性根づかず にいられたかった。悔悟、漸愧の念がしきりに起った。父の葬式の時、私が外の会葬者と同じよ うに、人力車に乗ろうとしていると、矢野俊彦君が行きなり私の腕をつかんで「オイ枯川、子た る者が父の|枢《ひつぎ》を送るのに、車に乗るという法があるか」と私を叱りつけた。私はひどく恐縮して、 徒歩で枢の後についた。良心が既に強い痛みを覚えている折柄、そうした詰責は烈しく私にこた えた。この矢野という男は熊本人で、竜谷と号し、『日本新聞』の記老で、杉田、永島らを通し ての知合いであった。さすが熊本人にはマジメなエライ処があると、私は深く彼を尊敬する気に なっていた。しかし間もなく彼がホラフキのにせ豪傑であることが、友人間に暴露した。その後、 彼は無銭飲食の常習犯になり、ッイ先ごろ死んでしまった。存外罪のない人物だとも言える。  しかし矢野竜谷の人物はどうであろうとも、私に対する詰責は道理至極であった。私はこれら のことを機会として、ようやく一身の行いを改めようとする心持になりかけた。そこにちょうど 結婚が私を待っていた。父のために求めた結婚が、父の死後直ちに実現されることになった。美 知子は既に父の葬式にも列していた。双方の心の準備は既に全く整うていた。ただ私が家を借り て住み込むという経済上の準備が出来にくいのであった。そこに意外な好音が喬された。  築地の二丁目の表通りに石造りの大きな家があった。それは茨城の人、日辻保五郎君の所有で、 日辻君は折々上京してそこに宿るが、平生は書生一人が留守をしているのであった。そしてその 家を私に貸してやろうという話が伝わって来た。それはどういうわけかと言うに、日辻君と同郷 の人に相島勘次郎君があった。相島君は大阪毎日新聞記者として、議会の傍聴か何かのため東京 に滞在していたが、永島君、杉田君とは極めて親しい間柄で、従って私とも親しくなっていた。 そうした関係から相島君が私のために日辻君を説いたところ、日辻君はもとより世話好きの愉快 な人物のこととて、宜しい、書生を食わせてくれて、そして俺が上京中、飯の世話をしてくれる なら、ロハでこの家の大部分を貸そうと言ってくれたのであった。  そんなウマイ話はまたとない。何しろ表二階が十畳、四畳、三畳の三室、外に裏二階に六畳の 一室という、ずいぶん手広い家である。|渺《ぴよう》たる堺枯川の新婚の住居としては、チト似合わしから ぬ屋台骨であった。しかし大は小を兼ねるという格言に従って、私は平気でその大家屋に住みこ んだ。得意想うべしである。家さえ出来れば、お嫁さんはいつでもと言うので、早速、黄道吉日 を選んで結婚の式を挙げた。父の葬式が落葉社の葬式であったとするならば、この結婚式は落葉 社の結婚式であった。そして私は、忽然として、生れかわったような幸福の人となった。  堀家は日本橋浜町にあった。大人は堀直竹と言い、その昔|常陸国下館《ひたちのくにしもだて》の藩士で、今は|蠣殻町《かぎからちよう》に 大弓場を持っているのであった。紫山君はその長男で、二人の妹の外に二人の弟があった。家政 は暼かというほどではなかっただろうが、別段不自由のない暮しだったろう。.そこの姉娘、年は 二十四だがまだ初婚、これまで長し短しで片づきかねていたのを、ヤット極って見れば、その相 手は無職無収入の小文士というのでは、けだしいささか心細かったろう。もっとも、兄の紫山は 恐らく、非常に有望な秀才として私を推薦したのだろうが、それにしても花嫁たる者が、来る早 早、賛を置いて米を買わねばならぬと言うのでは、少しく|辟易《へきえき》せずにいられなかったろう。しか し彼女は、兼ねて紫山が言った通り泰然として、そんなことには一向平気らしく、ただ温良な善 き妻であった。私としては初めから、どんな人でも構わないはずであった。実際、少しの不満も なかった。むしろ十分満足した。  これで何か新しい職業の口さえ見つかれば、私の生活はまさに一新面目を呈すべきところであ った。しかし新婚の幸福に酔うた私は、ただ荘然として日を過していた。ところが、そこにまた 意外な話が一つ持込まれた。|征矢野《そやの》半弥さんが芝佐久間町の旅館信濃屋から手紙をよこして、会 いたいから来てくれということであった。少年時代から深く敬慕していながら、そしてまだ直接 には会ったこともない先輩から、こうした招きを受けたのは、私としてどんなに嬉しかったか知 れない。早速行って見ると、『福岡日日新聞』の記者として福岡に行かないかというのであった。 征矢野さんは同社の社長であって、今は衆議院議員として滞京しているのであったが、『めざま し新聞』や『読売新聞』で私の書いた物を見て、そこはやはり同郷のよしみで、私を連れて帰り たいと考えてくれたのであった。私としては、今東京を離れたくはないのだけれども、何しろ眼 前の窮迫を逃れる道として、ほとんどあいた口に|牡丹餠《ほたもち》の感もあるので、すぐに承諾して行くこ とに極めた。  妻も、あいにく里の母親が壷い病気に罹ったので、東京を離れたくなかったのだが、しかしま た一面には、この自然の新婚旅行に対する興味もあった。落葉社の人々はまた集まって私の行を |壮《さかん》にしてくれた。例の寄せ書の第一に、永洲が「蜜月行」の三字を大書した。永洲の書は流麗で あった。 第五期福岡時代 一 蜜月行 「蜜月行」は、東海道の汽車に始まり、大阪における親しき家々の歴訪となり、それから瀬戸内 海の汽船に移った。東海道の富士の裾野も私にはまた二度目の珍しさであったが、既に六度目の 瀬戸内海も、やはり珍しい、そして懐かしい船旅であった。あの静かな海、あの澄みきった海の 水、あの美しい島々、船の甲板から手の届きそうなあの島々の眺め。船に弱い私は、どうかする と播磨灘や周防灘の荒れにさえ吐き苦しむのであったが、さすがに「蜜月行」は平穏無事で、新 郎新婦御機嫌うるわしく|下《しも》の|関《せき》についた。その頃はまだ、山陽鉄道は三田尻あたりまでしか開通 していないのであった。  これまでの旅行には、いつも下の関から小蒸気で小倉にわたったのであったが、この度はすぐ 対岸の門司にわたった。僅かに数年前まで、塩浜と小さな漁村との外に何もなかった門司が、今 は既に繁昌の港となっていた。その変化は九州鉄道開通の結果であった。  門司から九州鉄道の汽車に乗って、懐かしい小倉を過ぎて博多に着いた。土地不案内の貧弱な 若紳士とその妻とは、人力車夫に案内されて、博多の松島屋という大きた旅館の三階に上げられ た。早速、福岡日日新聞社から主幹の浜地氏が来てくれた。そして福岡の栄屋という、これも立 派な旅館へ移された。栄屋が自由党方の定宿なのであった。  福岡と博多とは川の両岸にある二つの町で、福岡は昔城下の屋敷町であり、博多は商人町であ ったのだろうが、今はそれが一つの福岡市になっていた。そして今でもやはり、福岡は主として 官庁地域、博多は商業地域であった。  福岡の橋口町、橋のすぐ|挟《たもと》の川添いに福岡日日新聞社の木造の洋館が立っていた。そのすぐ近 くに県庁があり、市役所があった。栄屋も半町ばかりの距離にあった。私はその夜、博多の中洲 の料理屋で福日社の歓迎を受け、酔うて戻って栄屋の二階の柔かい夜具の上に身を横たえて、そ れで「蜜月行」の終りをつげた。 福日社.  ちょうど、天神町の芝尾入真君の隣に空家があって、私は早速そこに入れられた。家賃は僅か に三円だったが、私に取っては堂々たる大邸宅であった。天神町は県庁前の奇麗な静かた大通り で、それに沿うた私の借宅は、昔のサムライ屋敷ででもあったろうか、門内が広々として玄関先 に野菜畑があり、その片隅には大きな梅の木があり、内紫という夏蜜柑の大木もあり、門から玄 関までの道の両側には茶の木の生垣があったりした。家はかなりに古い平家であったが、それで も八畳の座敷、六畳の茶の間、三畳の玄関、外に三畳、四畳などの小間もあった。粗末ながら湯 殿もあった。妻は至極満足して主婦ぶりを楽しんでいた。  福日社に出勤して見ると、一階の事務室に六、七人、二階の編輯室に八、九人の人たちがいた。 事務室には浜地氏が主幹として控えており、編輯室には高橋光威氏が主筆として君臨していた。 杜長の征矢野さんは折々編輯室に来るが、いつも立ちながら話していた。私の同僚としてはまず 芝尾入真君があった。芝尾君が私に取って同郷の先輩であることは前に記した通り。また彼が欠 伸と共に大阪で西村天囚氏の門に出入していたことも前に記す通り。私は征矢野さんに招かれて 福日社に来り、編輯局では芝尾君と椅子を並べ、住宅も芝尾君のと相隣りしていたから、知らぬ 土地へ初めて来た者のような心持ちではなかった。その時、芝尾君は、筑前のある山城の城主 「高橋紹運」の事跡を小説に書いていた。文章は既に老熟していた。彼は編輯局中第一の故参で あったが、権勢を振うでもなく、不平を抱くでもなく、黙然として日々の事務に服し、ただ時と して酔余の放言大笑に気烙を挙げ、そして翌日は更に黙然と坐するのであった。  次に中野|唖蝉《あぜん》君。これも盟前の人で、私とはすぐに親しんだ。小男で少し藪睨みで、貧弱な風 采で、言わば丈学癖の田舎少年と言った位の男であったが、その文才には一種の鋭い|閃《ひらめ》きがあっ た。私が早速それを認めて激賞すると、征矢野さんはそのはずだと言ったような微笑をしていた。 私は野あるきの道ばたに、色は淡いが董の花でも見つけたような気がしていた。しかし彼の才は 後によほど違った方面の、いわゆる「新聞記者」として発揮されたらしい。  |海妻猪勇彦《かいづまいゆひこ》君と言うは筑前の人で、政治経済方面の、筆の記者ではなく、むしろ口と足との記 者らしく見受けられたが、私が行ってから間もなく、足を洗って実業家に成りすました。「探訪」 と言われた側の人々には、まず八字眉に愛嬌のある小河|敏郎《としお》君を思い出す。朝から編輯局のゆか の上にブッ|仆《たお》れているのが毎度のことで、それは前夜の飲過ぎの結果であった。小河君の相棒に、 年はまだそれほどでもないのに、|禿頭《とくとう》の聳え立った、好人物の(ッイ名を忘れた)某君があった。 小河君はたしか数年後に卒中で若死をしたと聞いた。禿頭氏のその後は知らないが、恐らく好人 物通有の運命だったろう。今ひとり原田徳二郎君というのは、古風な博多の商人とでも言ったよ うなジミな恰好で、いかにも温厚篤実な人物だったが、これはズット後に営業部の有力な働き手 になった。                       まきおかろしゆち    はんぶつ     ようろくあん  それから、私より少しおくれて入社した人々に、樌岡縢舟、森半仏、池元吻鹿庵、××××な どがあった旧藍舟君は上方生れの画かきで、まだ二十あまりの青年でありながら、頭は全部ツル ツルであった。それがこの人に取っては一つの大きな、愛嬌という武器になっていた。しばらく 私の家に同居したこともあるが、柳町から美しい女が尋ねて来たりした。半仏君は熊本の人で、 赤く焦げたような顔に真黒い口髭が渋く、ドッシリした体格、重々しい物の言いぶり、どこから 見ても一個の快男児であった。吻鹿庵はその庵号に似ず、まだホンの青年で、標本的の福岡士族 の子だろうと私に思われた。その吻鹿庵が後に東京の区会議員か何かになっていたのはチョイと 意外だった。半仏君には定めし面白い運命があったろうと思われるが、全く消息に接しない。蘆 舟君は近ごろ京都にいて、自ら「労働画家」と称している。最後の××××君は、その縮れた髮 と、愛嬌のある目とが、今わたしの頭の中に浮んでいながら、名前がどうしても思い出されない。 (ここまで書いて、「江口」という姓であったかという気もするが、それにしても名の方が分らな い。)彼は慶応義塾卒業のホヤホヤでやって来たのだったが、初めて私らに引合わされた時、「ど うぞ御手柔かに」と笑いながら挨拶した。その如才なさが、さすがに慶応の出身だと思われた。 彼が後に鐘淵紡績にいたことだけは、私の記憶にある。恐らく今は然るべき実業界の紳士だろう。  高橋光威君は新潟県の人で、同じく慶応義塾の出身であった。年は私より幾つか上だったが、 塾では私の昔の相棒だった杉元(神崎)平二君と同期だったそうだ。まず幾らか好男子の部類に 属する恰好で、その細長い顔と痩せぎすの骨格とが、敏捷な事務家たることを示していた。文章 の技倆は言うに足りなかったが、社交の手腕は素晴らしいものだった。思うに、日清戦後の実業 勃興時代において、福岡という土地柄の新聞主筆としては、女章の技倆などよりも社交の手腕の 方が必要であったのかも知れない。少なくとも本人自身に取っては、その方が出世の糸口だった のだろう。何しろ私に取っては、高橋君の第一印象が既にあまり面白くなかった。高橋君は確か に遣り手であり、才人であったに相違ない。しかし私を引きつけるような、志士的なところも、 君子的なところも、学者的なところも、全く欠けていた。  しかし私は征矢野さんの|下《もと》に居るということが何よりの愉快で、高橋君の存在には頓着なく、 やや勝手に振舞っていただろうと思われる。私は主として小説を書き、随筆雑録様の物を書き、 柔かい雑報を書いていた。小説は例の通り恐らく独りよがりのずいぶん歯の浮くような所のある、 変な物だったろうが、それでも何しろ東京新下りの文学者というわけで、「枯川」の名が多少の 評判になっていた。東京を立つ時、尾崎紅葉君が「これなどはチョット面白い」と言って饑別に くれた英文の小説も、翻案の役に立った。その頃、私の崇敬していた小説家は、新しい紅葉、露 伴、一葉の三人であった。征矢野さんが小説好きで、よく新しい小説の蟀などをするので、私は 征矢野さんに向って、現時の丈壇、右の三人の外、恐るるに足る者はないなどと気烙を吐いたり した。私は恥かしながら、いつか必ず小説家として売りだそうという「大望」を持っていた。 三 自由党の進化  第一議会の選挙に、征矢野さんが「吏党の末松謙澄」との競争に負けて落選した時、私がひど く失望を感じたことは前に記した。然るに今自由党は既に伊藤内閣と提携し、そして征矢野さん が末松氏に代っていた。自由党はようやく政友会になりかけていた。私は少年の時にあこがれた 自由党に、初めて今接触したのだが、それはもう昔の自由党ではなかった。  その頃、福岡県から出ていた自由党の代議士では、多田作兵衛、|藤《とう》金作の二氏が名物であった。 ことに多田氏は「百姓議員」として「ツクルベェ」と仇名された愛嬌者であった。つまり二氏は 地主階級の代表者であった。それに対し、我が征矢野さんは士族階級の代表者で、全国的にはあ まり有名ではなかったが、内部では最も多く推重された先輩であった。その後、前二氏は程なく 隠退して、資本家階級の色彩を帯びた新人物が追い追いに現出して来たが、征矢野さんはなお永 く福岡政友会の中心人物として残存していた。そして征矢野さんがなくなった時、士族の代表が 亡びると共に、自由党の正統がまた全く亡びたのであった。  私はその頃、福日社で野田卯太郎氏のあの偉大な風采を見たことがある。彼は確かに自由党の 正統であった。しかし彼の実質は既に変化していた。彼は既に三井系統の実業家であった。即ち 資本階級の色彩を帯びた新人物であった。彼が後に有力な議員となり、福岡政友会の代表となり、 内閣員中の名物男となり得たのは、決して自由党の正統なるが故ではなかったろう。  私はまた福岡で永江純一氏を見たことがある。難肉短躯の温良な一紳士。同じく自由党の先輩 として知られていたが、同じくまた三井系統実業家であった。のち議員に当選した。私はまた福 岡で富安保太郎氏と多少の交わりをした。富安氏は明治学院の卒業で、まだ一個の青年紳十であ った。彼は地主出身ではあったろうが、その時すでに製油会社の社長であった。彼もまた一個の 実業家として、後に福岡政友会から議員に選出された。私は当時また、征矢野さんあたりから、 曲豆前の炭坑主(坑夫から成り上った一豪傑)として蔵内次郎作の名をチラチラ聞いていた。それ が後に征矢野さんの選挙区から選出されて「着炭議員」の英名を天下に馳せた。現在、その選挙 区から酒造家たる神崎勲氏が選出されていることは、前にも記した通りである。これらがおよそ、 福岡県における自由党の進化、政友会の発達の足跡である。  私は当時、そうした進化発達の意味を理解してはいなかった。ただ何となく自由党の意気精神 の喪失に不満を感じていた。そしてひたすら征矢野さんの清高な人格に寄りすがると言ったよう な心持であった。それが小説家志願の文学青年たる私の他の一面であった。 四 征矢野さん  征矢野さんは政治家というよりもむしろ君子人であった。「酒色」という英雄豪傑の資格は全 く欠けていた。小説が好きというのがおかしく感じられるほど一切の道楽気がなかった。字が非 常に下手で、葉書一枚も滅多に書かなかったのも、一つの特色であった。殺風景と言うのは当ら ないが、ずいぶん没趣味であった。家は|費前《ぶぜん》の片田舎に置いたままで、福岡では栄屋に宿屋住居 をしていた。その方が便利でもあり、安上りでもあると言うのであった。ただ征矢野さんは柿が 好きで、大きな柿を女中にむかせて大きな鉢に山盛りにして、盛んにそれを貪り食いながら、人 にも食え食えと勧めるのであった。  しかし私は、征矢野さんにそれほど推服していながら、一面にどこか物足りなさを感じていた。 ある夜、栄屋の二階で外に来客もなく、征矢野さんと私と二人きりで、シミジミとした話になっ た時、私は征矢野さんに質問した。あなたが、これだけの地位経歴を持ちながら、大いに世に現 われるというところまで至らないのは、どういうわけでしょうと。すると征矢野さんは、いささ か撫然たる形であったが、私には子分がないからじゃろうなアと言われた。征矢野さんには実際 子分がなかった。現に福日社の内部においても、芝尾君と、中野君と、私とを冐して、盟前派な どと呼ぶ場合もないではなかったようだが、征矢野さんは小さな費前派を作るほどケチな首領で はなかった。つまり征矢野さんには個人的の権勢欲がほとんどなかった。子分を偏愛して朋党を 作るという、そんな賤しいことの出来ないほど、美しい人物だった。財物の私欲などは全くなか った。それで自由党が政友会に進化し発達して行く間に、征矢野さんはただ自分一個の清高を守 って、そこに自負と満足とを感じながら、全体においてはやはり大勢に引きずられて行くという 姿であった。  しかし私は征矢野さんに接する時、幾分なり古い自由党の風気を感ずるのが嬉しかった。征矢 野さんの徹底したデモクラシイの考え方などには、当時の私を驚かせるほどのものがあった。そ れを思い出すと、その後における政党の態度の保守的逆転が著しく感じられる。 五 福日と福陵、 筑前と豊前  当時『福岡日日新聞』と対立して『福陵新報』(後に『九州日報』)があった。『福陵新報』は 有名た玄洋社の系統に属するもので、保守主義、国粋主義の立場であった。福日社の人たちは、 憎悪と侮蔑との伝統的感情を以って福陵社の人たちに対していた。私にはそんな感情がないので、 機会があれば平気で彼らとも交わった。ある時私が大阪時代の、高橋健三さんとの関係、国民協 会との関係などを話すと、福陵派の一人は言った。「そんなら君は、本当はコッチの人たい。」そ う言われると、私はまた厭な気持がした。実際わたしは、本当はドッチの人だったのか。  ある時、『福陵新報』が「不敬」よばわりをして猛烈に|福日《ふくにち》を攻撃した。それは大祭日の福日 の紙上に、祝意を表した文字が一つもないと言うのであった。これには高橋主筆が少々狼狽して、 いろいろと弁明や反駁をやっていた。その頃の自由党には、儀式ばった、わざとらしい忠君ぶり などは、まだ生じていなかったのだが、しかし日清戦争後の国威発揚時代において、政友会に進 化しかけている自由党として、不敬よばわりの攻撃を受けることは、よほどつらかったものと見 える。  福日と福陵の対立には無理解な私も、筑前と費前との関係は全く冷淡であり得なかった。筑前、 筑後、農前の三国が福岡県を成しているのだが、私は福岡県人と呼ばれることがあまり嬉しくな かった。何だか筑前の附属になったような気持のするのが少し厭だった。福岡県というものは、 私に取って、故郷でない。故郷はただ豊前ばかりである。私はどこまでも、蜜前人でありたい。 ただし蟹前の中でも、北部の六郡(今では四郡)の元小倉領だけに親しみがある。それほど私の 頭の中には旧藩時代の伝統的感情が残っていた。私の征矢野さん崇拝には、もとよりその感情が 交っていた。私はずいぶん「愛国者」であった。 県会、共進会、 克己趣味  福岡における私の生活は無事平穏であった。高橋君との折合いが妙でないという一事を除いて は、社の仕事はすべて愉快であった。  私は県会の傍聴にも行った。「|由布維義《ゆふこれよし》君、議長席に就く、威儀端然たり」と書いた時、それ が意外の評判になったのに驚いた。「威儀端然たり」がいかにもよいというのであった。実際、 由布君のキチンとした、品のいい議長姿は、今でも私の目に浮ぶようだ。由布君は後に衆議院議 員にもなったと聞いたが、遂に再びその端然たる姿を見るの機会を得ない。  長崎に九州聯合共進会があった時、私は出張を命ぜられた。たしか|武雄《たけお》まで汽車で、それから 先は歩いた。途中、疲れた足を引きずって|嬉野《うれしの》の温泉にたどりついた時の嬉しさは今だに忘れな い。長崎では丸山の繁華も見た。「うんだが青餅」の歌も聞いた。しかしそんなことよりも何よ りも、強く私の心を刺激した一事件があった。共進会に集まっていた官吏たちの中に、一ツ橋時 代の私の旧友が幾人もいて、意外の|邂逅《かいこう》を楽しんで一緒に飲んだ。一人は|小原駐吉《おはらせんきち》君、一人は|俵《たわら》 孫一君、その他は忘れた。彼らは今、高等官になりたてのホヤホヤであった。俵君はたしか沖縄 県の参事官であった。年少得意、談論風発で盛んに飲む彼らを見ると、私の心は寂しかった。飲 むことにも喋ることにも、遜色はないが、貧弱な一小新聞記者は、何となく彼らの得意の前に|忸 泥《じくじ》たらざるを得なかった。  博多には中洲、水茶屋など、風流の地が多かった。高橋君あたり盛んに艶名を伝えていた。柳 町は毛剃九右衛門で有名な小女郎以来の名所であった。藍州君などしきりに出かけて行った。私 も折々はあちこちに連れられて行った。しかし私はモゥその昔の遊蕩児ではなかった。父母を失 って妻を得た私は、必然的に新しい生活に入りかけていた。そして過去数年間の放縦な生活に対 する種々なる悔恨の念に駆られて、多少反動的に克己趣味を生じて来た。酒もあまり飲まなくな った。時としては全く飲まなかった。友人たちと喧嘩してまで、二次会を避けて帰ったこともあ った。 七 論語の感激、 平和な家庭  その頃、私はフト『論語』を読んで、昔学校で読んだ時とは全く違った感激を覚えた。あの序 説の中に、「論語を読了して全然無事なる者あり、読了後、|其中《そのうち》一両句を得て喜ぶ者あり。読了 後、|之《これ》を好むことを知る老あり、読了後、直ちに手の之を舞い足の之を蹈むを知らざる者あり」 とあるのを見て、初めてそれを読んだように、いかにもと合点した。学校時代の自分は、「全然 無事なる者」ではなかったにせよ、コ両句を得て之を喜ぶ者」か、あるいは精々、「之を好むこ とを知る者」に過ぎなかった。然るに今は実に「手の舞い、足の蹈むを知らざる者」であること を切実に経験した。こんなことは、早熟の人にとっては、恐らく二十歳前後に通過するセンチメ ンタリズムの一経路なのだろうが、晩学の私は二十七歳にしてヤットそこまで到達した。それも 少年の時、キリスト教にも仏教にも接触する機会を持たたかった結果だとも考えられる。そして それが、晩学の儒教であっただけ、病毒が軽くて済み、病後に一層の健康を得たのだとも考えら れる。  私の家庭は誠に平和であった。妻と小女と犬と猫と、すべて五人の家族であった。小女は梅と 言って、元気なヒョゥキンな娘だった。「フテ1ガッテナ、ドウジャロヵイ」などと、よく人を 笑わせた。犬は小さな黒で、初め古参の猫から引っかかれて、鼻先から血を垂らしながら、それ でも怒ることを知らないほどの人好しであった。後には、黒が座敷の庭の松葉牡丹の間か何かに 寝ていると、猫がノコノコ出かけて行って、その腹にもたれかかって寝るというほど、ふたりが 仲好しになってしまった。若い夫婦は折々連立って遊びに出た。香椎の松原を散歩したり、太宰 府の天神に詣でたりした。その中、いつの間にか、「あの馬鹿八百屋が今日も梅干を持って来な い」と妻がじれているような時が来た。  学問らしい話をするような友達は、福岡にほとんどなかった。ただ栄屋の主人|倉成《くらなり》久米吉君が 変人で、英語|独逸《ドイツ》語をいじくり、カント、ヘーゲルをこねまわすほどの、自任哲学者であった。 ある晩など、栄屋の二階で、倉成君と私と誰やらと三人、夜の明けるまで哲学めいた議論をやっ たことがある。 八 故郷の訪問  福岡まで来た以上、永く故郷を見舞わないではおられない。ある時、私は費津に行った。|節丸《ふしまる》 の叔父をも尋ね、|本吉《もとよし》の|姪《めい》をも尋ねた。その時、兄と本吉家との関係は既に断絶していた。郵便 為替の失敗以来は、しばらくそのままになっていたが、「いつまで蛇の生ごろしは堪らない」と 兄が言いだしたので、私が福岡から法律上の手続きをしたのだった。それで私が豊津で、本吉に 行くと言うのを聞いて、「さばけたものじゃなア」と不思議がっている人もあったが、私が喧嘩 をしたのではたし、姪に会いに行くに不思議はないと私は思っていた。  私はまた、豊津中学校と小学校とを訪問した。中学校には緒方先生と、島田先生など、昔の先 生方もおられ、大森藤三、柏井徳一たどいう友人たちも教員になっていた。小学校には昔の横山 先生がそのまま校長で、古い友人の中村君がその下にいた。その夜、錦町の関屋で私のために小 宴が開かれた。私と中学校の同期の卒業生たる|生石《いくいし》久間太君と井村健彦君とも来た。生石君は九 州鉄道に勤めていたが、いま罷めて帰っているところであった。井村君は一時博多の駅長か何か でかなり幅を利かせていたが、近来病気のため保養かたがた小さな|雑餉《ざつしよう》駅に引込み、ツイその近 所の二日市の温泉に住んでいるのであった。そしてこの晩は何かの用事で、ちょうど故郷に帰り あわせているところであった。私の故郷熱はこれで大いに満足された。  またある時、|行橋町《ゆくはしまち》に藍前人の懇親会が開かれた。その席上で私は珍しい人にふたり会った。 一人は老壮士の|勝《かつ》平八郎さん。私の少年時代、ある日、私の家の前をドテラ姿で通って行く、豪 傑らしい大きな人があった。父と顔を見合せて、久しぶりの挨拶をして行き過ぎた。あとで父が あれは勝平八郎というなかなかエライ人だと私に話した。その勝さんは今人々から揮毫を求めら れて、「|自由棲処是吾家《じゆうのすむところこれわがや》」と大書した。そこに昔の自由民権運動の面影がしのばれた。今一人は 予備陸軍大佐馬場|素彦《もとひこ》さん。これは前に記した通り、私が東京の学生時代に世話になった、私の 養家先の叔父に当る人で、その娘のお|力《りぎ》さんが私の妻になるはずであった。しかし私の放蕩のた め、私はその中村家から離縁されたのであった。それから七年、今では私の元の養父は死去し、 椎田の中村家はなくなり、馬場さんがその因縁からして椎田の町に退隠しておられるのであった。 私はひたすら懐かしい心持で馬場さんに挨拶した。馬場さんも大へん嬉しそうにして、ぜひ遊び に来いと言われた。それからしばらくして私は椎田に馬場家を訪問した。叔母さんも懐かしそう にして、こんな田舎の住居の寂しいことなど話された。お力さんは十八ばかりの美しい娘になっ て、元気らしく笑っていた、これも「不思議」な訪問に相違ないが、私としては本吉家の訪問と 共に、非常に愉快な跡片付けであった。 九 福岡引揚げ  とかくする中、高橋君と私との不和はいよいよ増大した。細かい成行きは忘れてしまったが、 紙面のある部分の編輯を独立させて、それを私に任せてくれとか、それは出来ないとかいったよ うなモツレがあって、それらのことについて編輯会議を開くとか開かぬとかいう論争を生じて、 編輯局の全体にかなりの動揺を来たした。しかし結局のところ、言わば私の我燼から起ったこと なので、私が退くより外に道のないことは分りきっていた。私は征矢野さんからも、他のすべて の杜員からも、惜しまれたり気の毒がられたりして、退社した。一般の送別会あり、外に高橋君 と富安君と私と三人だけの小さな別宴もあって、私は機嫌よく福岡を出発した。それが明治三十 年の春のことで、私の福岡におることまさに一年であった。(この高橋君が今の世間に時めく政 治家であることはいうまでもない。)  それより前、妻が妊娠したらしいということを征矢野さんに話した時、征矢野さんは、「誰し も若い時、女房を持つだけではそれ以前と別段の変りはないが、子供が出来ると大いに心持が違 って来る。それによほどよく気をつけないと、とかく引込み思案に陥る恐れがある」と警告して くれた。それから|幾許《いくばく》もなく、私は早くも自分の|地《 》位を|攤《なげう》っていた。征矢野さんは、私の引込み 思案に陥らないことを喜んでくれたはずだ。  その時、私に今一つ大問題があった。兄が東京で血を吐いたという知らせがあった。そして数 日の後「病気は肺結核といふ事に相成、前途絶望に候」という手紙が来た。そしてなお「社にて は帰国せよと申し候へども、帰国したとて家も妻子もなき身の上なれば、矢張り東京を死処と覚 悟し、出来るだけ養生して生きのびられるだけ生きのびて見る積りに候」とあった。これは私に 取って大いなる打撃であった。私はそのためにも、早く東京に帰りたいという気がしていた。  しかし兄は、私の東京に帰ることに反対した。さすがに少し私よりは年を取っているだけのこ ともあって、兄は私の身の上の将来を功利的に考えていた。自分の身の上は甚だしく無計算に処 置して来た男としてすこぶるおかしな言い分だが、要するに兄の意見はこうであった。東京に立 戻って多少の丈名など得たところで、それが幾許の手柄でもない。それよりは折角、手がかりの 出来た今の地位にジット辛抱して居れば、将来の運命は必ず自然に開けて来る、と言うのであっ た。私も万ざらそれを考えないではなかった。文学ばかりが私の志願の全部ではなかった。元来、 政治家志願、代議士志願であった。高等中学では政治科を選んでいた。そして福岡の今の地位は、 その方面のことに対してまさに兄のいわゆる「手がかり」であった。しかし私の若い心はやはり 最も多く東京の生活にあこがれていた。  しかし私の福岡出発には、経済上の困難があった。征矢野社長と浜地主幹との立会いで、何分 にも勤務期間が短いので仕方がないということで、それに前借の残りもあったりして、八十円だ けの退社手当を下附された。然るに私の家にはいろいろの小負債があった。妻は幾度も質屋に通 っていた。東京育ちの奥さんは違ったもので、質屋がよいに恥かしそうな顔もせず、人力に乗っ たりして平気で行かっしゃる、と笑われた位であった。それで結局、質物などはそのままに残し ておいて、それでもなお足りないので、私は豊津に行って生石君に無心した。生石君はニヤニヤ 笑いながら、黙って二十円ほど出してくれた。それでヤット私の福岡引揚げが出来た。 第六期毛利家編輯時代 一 征矢野さんと末松さん  ちょうど一年間、福岡に「蜜月行」をやって、再び東京に戻って来た彼ら若夫婦は、まず芝公 園の或る寺の離れに小家屋を作った。そこは赤羽橋に近い、鏡が池に向ったところで、六畳と二 畳に縁側のついた縞麗な小ぢんまりした、よい家であった。家賃は忘れたが、多分三円くらいだ ったろう。(明治三十年夏。)  |住居《すまい》は出来た。次は職業だ。彼は征矢野半弥氏からの紹介の名刺を持って、末松謙澄氏の邸を 訪問した。彼は別に、征矢野氏から末松氏に返戻すべき書籍一冊を托されていた。それが名刺よ りも余計に紹介の力を持つように思われた。  末松邸は|御成門《おなりもん》のすぐ内にあった。男爵邸は言うまでもなく堂々たるものであった。彼はすぐ に応接間に通された。陰欝な、がっしりした、抑えつけられるようた西洋間だった。彼は生れて 初めてこんな大邸宅を訪問したのであった。小さな自分の体が一層小さくなったような気がした。  末松謙澄! 少年の|堺《さかい》は、郷党の先輩として久しくこの人の盛名を聞いていた。しかし征矢野 さんに対する尊信と敬愛とには、比較すべくもなかった。征矢野さんは士族であった。末松さん は大百姓であった。征矢野さんは豊津中学の前身たる育徳館の出身だった。末松さんは|京都《みやこ》郡の 仏山塾の出身だった。征矢野さんは絶えず郷里にあって自由民権の運動をやっていた。末松さん は長州の伊藤博文の婿になり、そして官吏になった。豊津の少年士族に取っては、前者と後者と、 その親しみに大差がある。況んや衆議院の第一回選挙において、自由党の征矢野が、吏党の末松 に蹴落されたのである。その時、堺が深く末松を憎んだことは、前に記した通りである。  然るにその征矢野と末松とが、今は和睦し、提携している。そして彼堺は、その征矢野さんの 紹介に依ってその末松さんに会おうとしている。彼の心中には、もう末松を憎む感情はないが、 どこかに少し変なクスグッタイような気持はあった。しかしまた一面には、ケンブリッジ大学の マスタ・オブ・アーツの学位を持ち、日本の丈学博士、法学博士の二学位を持つ末松|青洋《せいひよう》先生な るものは、微々たる一文学青年に取って、確かに一個の威圧であった。  青淬先生は大きな体躯をゆるがせて応接室に現われた。少しダラシのない日本服の着ぶりと、 眠たいようた眼付と、ボヤボヤした言葉付とが、まず堺の気持を安易にした。威圧が去って親し みが生じた。  青葬先生は今、政界の閑暇を利用し、毛利家の歴史事業を引受けているので、その編輯員の一 人に堺を使ってやろうと言った。堺は意外にも、かくて早速、生活の道を得たのであった。青淬 先生は好い人だと思った。  それから堺は毎日、三田の通りから|聖坂《ひじりざか》を登って、白金猿町の毛利家編輯所に通った。月給は 三十円、後に四十円まで昇った。これで芝公園の小家屋は円満幸福、そして色の白い、大柄た、 丸髭の細君美知子のお腹が、段々に目立って来た。  しかし、この新たなる生命の芽ぐみと同時に、一方には他の生命が枯れつつあった。堺欠伸は ある日、この小家屋の縁側に寝ころんで、独りごとのように、「俺は、この夏、死ぬるかも知れ ない」と言った。弟はそれに対し何かグズグズと答えた。「そんなことがあるものか」というよ うな、ハッキリした言葉は出ないのであった。欠伸もそれきりで、程なく帰って行ったが、雪駄 を引きずって歩いている、その薄羽織の痩せた後ろ姿が淋しく見えた。 二 欠伸の死  欠伸はその頃、都新聞を出されて、別に定まった職業もなく、神田淡路町のある宿屋の二階に ただひとり下宿していた。去年、血を吐いてから後、「酒のんで見しよ去年は今日の月」「月に向 ひ花に向ひて恥かしや、命惜しとて酒飲まぬ我」などと文人らしい感慨を漏らしていたが、例の 「妻子は奪はれたる身」の、不秩序な、不摂生た生活ばかり続けて、僅かな月日の間に、甚だし く衰えてしまった。  しかしある時、彼は弟に葉書を送って、「いたつきに身は枯れゆけど|村肝《むらぎも》の心は花の盛りなり けり」という一首の歌を示した。歌はまずいし、古めかしいが、彼は実に「花の盛り」を感じて いた。芳原|竜崎楼《りゆうがさきろう》の福寿というのが、深く彼を愛していた。彼は時としてそこに半月ばかり流 連していた。そんなことはますます彼の身を枯れさせた。  ある日、弟が淡路町の宿に彼を見舞った時、彼はもうどうしても独りでいられる容体でなかっ た。それでも彼は、荷物も道具もない寂しい部屋に、小机をただ一つ置いて、|浴衣《ゆかた》の下から竹の 筒のような足を出して、浅黒い顔をしてポツネンと柱にもたれていた。弟はとにかく彼を駿河台 のある病院に入れた。  それから弟は急に、高輪の大木戸の外の、少し広い家に引越した。家賃は七円で少し高いが、 そんなことに構っていられなかった。そして兄をそこに連れて来た。「今日は二人で歌でもよも うか」などと、弟はわざと平気らしく、兄の枕元に坐ったりした。「ウンよかろう」などと、欠 伸も言ったりした。  それから二、三日たったある日、弟は十銭の金もなくなって、麻布市兵衛町の永島永洲君の処 に幾らか借りに行った。そしてついでに永洲君と碁を打っていると、宅から迎えの人が来た。兄 がいよいよ悪いと言う。大急ぎで帰って見ると、もう駄目だった。疾が喉にからまって、何のこと もなく息が絶えたというのだった。いつも碁がいけない。年三十三。白金三光町|重秀寺《じゆうしゆうじ》に埋葬。  放縦なる一文人の死。ただそれだけである。社会に取っては何の損益するところもない。しか し彼の弟に取っては、実に無限の|寂莫《せきばく》であった。「駒なめて文の林を|兄弟《あにおとと》、行かばやとこそ思ひ しものを。」そんなことも言って見たりした。しかし実際は、女の林など、どうでもいい。ただ 欠伸、枯川、二人が折々、相対して語り、相対して飲みたいのであった。これより数年前、欠伸 が大阪から東京に行く時、枯川はそれを送って、「夜もすがら見よや百里の冬の月」と言ったが、 枯川は今それを思いだして、最後の送別をした。「とこしへに見よや幾千歳の秋の月。」  欠伸が病いを発した時、既に全く離婚の手続きを済ましていた元の妻のお浪さんが、また逃げ て行こうかと内々で言いだした。「彼らの愚なる、涙の種に候」と欠伸は枯川に書を送った。「涙 の種」であるだけ、それだけ欠伸は嬉しかったろう。また欠伸の死後、ある日、福寿が、不自由 な廓の中から、新造に連れられて、わざわざ墓参にやって来た。枯川は福寿を案内して重秀寺に 詣でた。死後にも「花の盛り」があった。欠伸のただひとり娘民子は、その時やっと十ばかりで あった。 三 『防長回天史』編輯所  堺は大木戸の家から、毎日泉岳寺の中を抜けて、白金猿町の毛利家編輯所に|通《かよ》った。泉岳寺の 裹は、林の間に墓地があって、落葉の頃などはことに面白い散歩道であった。  編輯所は清楚な新築の平家建てで、それに煉瓦作りの丈庫が一棟、附属していた。庭だの野菜 畑だのがかなり広く、門の左右には五、六軒の役宅があった。  所員は、古くからいる毛利家の旧臣たちが五、六人、外に青体先生の新たに入れた人たちが六、 七人、二十畳敷ばかりの部屋に机を並ベて、二列に向いあって着坐していた。これでもザット、 内閣の法制局くらいの人数はあると、前法制局長官たる青薄先生が言っていた。しかし編輯所総 裁たる青淬先生は、法制局長官のような威厳を示さず、皆と同じ小机を前にして一方の上座に着 席し、ふとった体を持てあましてあぐらをかいたりしていた。「|青《ささ 》淬先生の金玉」は一向珍しく なかった。  新編輯所の首席は山路弥吉、愛山と号す、民友社出身の秀才。次は笹川|種郎《たねお》、臨風と号す、ホ ヤホヤの文学士。同じく女学士斎藤清太郎。新聞記者出身の黒田|甲子郎《きねお》。末席が堺利彦。旧臣連 には筆頭の中原邦平翁、会計の佐伯翁、司籍の時山君、その外、市川君、××翁など、まだその 外、黒田君の助手、予備陸軍中尉荒川|街次郎《かんじろう》、速記者|伊内《いうち》太郎、英女|反訳《ほんやく》掛|久能《くの》某の諸君があっ た。そして旧臣連は多く役宅に住み、他はそれぞれ近傍に住んでいた。  毛利家では、既に久しい前から旧藩歴史(主として維新史)の編纂事業が行われて、材料の蒐 集整頓はかなりに出来あがっていたが、それを今回、青淬先生の手で取りまとめ、『防長回天史』 として公刊しようという計画であった。それにつき、末松は伊藤侯の婿とは言え、他藩人である。 その外、山路某は旧幕人であり、笹川、斎藤、黒田、堺など、みな他藩人である。なぜ、他藩人 の手に依って我が防長史を編纂せねばならぬかという、保守党の反対論もあった。しかし、全権 を委托された末松総裁の意見はこうであった。『防長回天史』は毛利家の|私乗《しじよう》でなく、公けの日 本歴史でなければならぬ。公正なる事実の記録は、自然に毛利家の功績を顕彰することになる。 編輯者にはただ技倆のあるものを取る。他藩人の編輯は却ってその編輯の公正を示す所以である と。  かくて青淬先生以下「他藩人」六名が編輯の主体となり、中原翁以下旧臣連が顧問となり、案 内者となり、説明者となり、それで編輯を進めて行くのであった。  堺としては、歴史の知識があるではなし、編輯の経験があるではなし、ただ多少の文才を|恃《たの》み とするに過ぎなかったが、それでもどうやらお茶は濁せた。最初は旧臣連中の監視なり、嫉妬な りが、小姑らしいうるささを|見《ささヤち》せるのではないかと、少しは気遣われもしたが、しばらく立って 見ると、そんなことは跡形もなかった。  旧臣連はいずれも浮世ばなれのした人たちで、この別天地に悠遊して、ただその日を暮せばよ いのであった。編輯本業が進捗するよりも、むしろ永久に延引することが望ましかったかも知れ ない。朝に晩に、お家流の古記録ばかり繰りひろげているこの世界は、山中暦日なしの趣きで、 いかにも天下太平であった。  この別世界、この別天地を、いかにもよく象徴するものとして、新参の外来連を讃嘆せしめた 一事実があった。即ち文庫に収めた編纂資料の中に、近来|書肆《しよし》から発行された活版本の写本が幾 つもあった。ここの人たちの考え(あるいは心持)としては、いやしくも編纂資料たるものは、 すべて肉筆物もしくは筆写物でなければならぬ。活版の印刷本などは卑俗であり、不体裁であり、 仮りの物である。そこで活版本を買入れるには買入れるが、さらにそれらの筆写本を作って、そ れを正本として備えつけることにする。そうした心理ででもあったろうか。  こうした空気の中に包まれて、中原翁、佐伯翁、××翁などと同じく、三十四歳の愛山翁も出 来、二十八歳の臨風翁、枯川翁も出来たりして、すベてが和気|靄《あいあい》々の形であった。 四 副総裁問題  しかし外来連の間には、一つ折合い上の問題が起った。前に愛山君を編輯の首席と言ったが、 別に首席として任命されたわけでもなかった。ただ、年齢において、名声において、従って青淬 先生の待遇の仕方において、また大体に月給順を示しているらしい座席順において、事実上、愛 山君が首席の地位にあった。その次は史学専攻の文学士たる笹川、斎藤の二君。二君とも同年で あり、同期の大学卒業であったが、笹川君は才人肌であり、斎藤君は|朴訥《ぼくとつ》の人であり、それに入 所の順序からしても、自然に笹川君の方が一枚上だった。黒田君は士官学校にいたことのある人 で、その関係上、戦争方面のことだけを編輯する役目であったので、年齢なり、入所の順序なり からして、所員としての地位はやや高い方であったが、編輯員としては自然別物であった。そう すると、残るは堺で、これは年齢において笹川君等と同等であるが、学歴はなし、入所の順も一 番おそいし、何から見ても最下位であった。そしてこの四人の間の関係について、ちょっと一騒 動が起った。  その前、堺の地位についてなお一言して見よう。誠にケチくさい話で恥かしくもあるが、新編 輯所としての最初のお盆の時、所員に対してそれぞれ金一封の御下賜があった。堺は入所してま だ間のないことでもあり、御下賜は僅かに五円だった。他の諸先輩は大ぶんたくさん御下賜を受 けたものと見え、山路、笹川、斎藤、黒田の四君が会計を持って、皆で懇親会を開くという話に なった。大体上、外来連が旧臣側に敬意を払う、あるいは租税を払うと言ったような気味合いで あった。そこで堺が変な地位に立った。堺は|薯《おご》る方にも属していなかったが、奢られる方にも属 していなかった。  とにかく宴会は高輪通りの、昔からの毛利家御用である「|万清《まんせい》」で開かれた。皆が着席した時、 旧臣側の人たちは、招待された客人として、改めて一応の挨拶をした。堺は変な気持で、僕は自 分で勝手に飲みに来ているのだと宣言した。一座は多少、白け気味であった。世話人の黒田君な ど、ことに不快た顔色をした。そこに女中が入浴を勧めに来た。愛山君が堺を促して浴室に行っ た。愛山君は先輩らしく、湯の中でしきりに堺をなだめた。堺は却っていい気になって、さんざ ん湯の中で|気餤《きえん》を吐いた。これが堺と愛山君との親しくなる第一の機会だった。  翌日、堺は世話人に対して、強いて昨夜の割前を支払った。それから以後、とにかく堺も末席 ながら山路、笹川、斎藤の諸君とほぽ同列の格式になったらしく見えた。  ところが、しばらくすると、愛山君が編輯副総裁になるという噂が伝わった。それはたしか明 治三十一年一月、伊藤内閣が新たに出来て、末松さんが大臣になった時のことだったろうと思う。 すると一番に不平を言いだしたのは笹川君で、副総裁設置反対論をやりだした。温厚な斎藤君も それに賛成した。堺も賛成した。すると今度は、誰かが山路君に告げた。笹川、斎藤、堺の三人 が山路排斥の運動を起したと。そこで山路君は堺に言った。君も官学派に屈するかと。この詰責 は堺に取って意外だった。山路君はこの争いを、官学派と私学派との衝突と解していた。なるほ ど、民友社出身の史学者と、帝大出身の二文学士との間に不和が起ったのだから、官学私学とい う風に考えるのも、一応道理があるに相違ない。しかし実際はそれどころでなく、愛山君が年齢、 名声、閲歴、才力、及びことには青捧先生のお覚えにおいて、とても他と比較にならず、従って 現に、総裁の政治的活動の留守中、副総裁に据えられようとする勢いであった。そこで堺は愛山 君に答えた。それは間違っている。僕はただ、弱い者の聯合に依って、強い者に対する力の権衡 を作ろうとしたに過ぎないと。愛山君は堺を理解した。二人はいよいよ親しくなった。そして副 総裁説はそれきり立消えになった。  その後の編輯所は、総裁は大臣の方が忙しくて滅多に来ず、副総裁もないので仕事は進行せず、 いよいよ以て和気靄々たる、そして惰気満々たる、一個の隠居所になってしまった。皆が自由に 出て来ては自由に帰って行く。雑談をして、弁当を食って、いねむりをして、少しばかり書類を いじって、それから散歩をする。そうした日課の間に、不和も衝突も起りようがなかった。 五 青淬、 愛山、 臨風、其の他  青淬先生は誠によい人であった。自ら青薄|迂人《うじん》と称した、その迂の字の面白味がかたりにあっ た。第一、大きな体がブヨブヨと肥えて、顔にも言葉にも荘漠とした趣きがあった。鶯前なまり を少し出して、大きな声で笑うところは、甚だ無邪気に見えた。青体先生の居間に、「|人《ひといたつて》 |至《きよけれ》 |清 無《ばともがら》 |徒《なし》」と書いた|春畝山人《しゆんぼさんじん》の額面が、掛っているのを見たが、その教訓を服膺したわけか、青淬 先生の人物全体は薄濁った感じであった。と言って、腹黒いという悪い意味は少しもなく、太っ 腹という頼もしげもなかった。俊敏でもないが、豪放でもたく、粗野なところはあるが、細心の ところもあった。折々愚痴っぽい小言を聞かされたりする時には、あまりありがたくない気持が したが、すべてを差引きして見ると、要するによい人であった。「青淬先生は少し人偏に谷の字 だね」などと言って、愛山君が大笑いしたこともあった。 「こちらは我輩の専門の方の本だ」と、青薄先生が応接間の木棚を指したりしたことがある。そ れは法律書であった。先生としては、法律が専門で、文学は余技であったらしい。堺は先生の余 技の方の文庫から、『源氏物語』の英訳や、『仏山堂詩鈔』『|催馬楽《さいばら》』などを借りて読んだ。その 応接間には、青淬先生の師、村上仏山の書額もあった。堺としては、何かにつけて同郷の先輩と いう親しみもあった。  青薄先生が初めて郷里から東京に出て来た時には、数人の書生と共に、例の志津野拙三先生に 率いられて来たのであった。 「我輩でもこれで、死ぬる時には|蕘《こう》ずるのだぜ、ワッハハハハ」と、ある時、青葬先生が何かの ついでに上機嫌で話された。先生は従三|位《み》であった。それから後、「青淬先生の金玉」が「従三 位の金玉」になった。  青淬先生が逓信大臣になった時、我々一同、|生子《いくこ》夫人から「お茶」に招待されたことがある。 先生は何かの病後であって、看護婦が来ていたが、その看護婦が小間使然として先生に向い、 「大臣はお菓子を召しあがりますか」などと、半分ふざけて言っているのが、我々には馬鹿くさく 見えた。しかし我々は、この大臣、この男爵が、「|御前《ごぜん》」と呼ばれるのを聞いたことがなかった。 やはり「旦那様」であったらしい。  山路愛山君は肥満の短躯で、大きな軽石のような顔に、口髭と鼻毛とがよじれあっていた。笑 う時には歯くそだらけの大きな黄色い歯が歯並わるく現われた。昼飯を食うと堪らぬほど眠くな る癖があると言って、青淬先生の真向いで、机に顔をうつぶせてグウグウ|鼾《いびき》を立てたりした。チ ョット傍若無人の振舞いに見えたが、しかしまたなかなかそこに愛嬌もあって、「どうもこれは 私の病気でして、アハハハハ」と頭を掻いて笑いながら「甚だ失礼ですが、どうぞ御免下さい、ほ んの五分間ばかりでいいんですから」などとやるので、青澁品先生も笑っているより外はなかった。  愛山君は饒舌多弁で、無遠慮な大笑いをしながら、ともすれば「天下を取る」話をしていた。 しかしこれも粗野は甚だしいが、豪放という柄ではなかった。酒は飲まず、煙草は吸わず、一面 はむしろ謹厳力行の人であった。堺が田川大吉郎君の話をすると、愛山看はクリスチャンづきあ いで彼を知っていたが、「田川の気取屋には|虫唾《むしず》が出る」と罵倒していた。堺が田川君に愛山君 の話をすると、田川君の方では、ある時、何かの会で皆が芸尽しをした時、愛山君の番になると、 いきなり飛びだして仰向けにひっくりかえり、大きな声で「大の字!」と怒鳴ったのに感服した と言っていた。(後になって、愛山君は田川君の新聞に何か書いたりしていたことがある。)  笹川臨風君は新婚早々であったが、|伊皿子坂《いさらござか》の上に独りで二階借りをして、土曜日曜だけ本郷 西片町の自宅に帰るのだった。愛山君も渋谷に自宅を持っていたが、一時そこを引きあげて全家 を猿町の近所に移していた。その頃の交通機関では、そうする必要があった。臨風君は好男子で もないが、ヤサ形の若紳士で、やや江戸っ児気取りだった。愛山君が民友社という背景を持って いるのと同じように、臨風君は当時『支那文学大綱』という叢書などを編纂していた新学士の一 群に属していた。その一群の中に堺の旧友白河次郎(|鯉洋《りよう》)があった。鯉洋は霊津中学における 有名な秀才の一人であった。そんなことも、堺と臨風君とを親しくする因縁になった。  臨風君について特に思いだすことが一つある。それを後に臨風君自身が次のごとく書き記して いる。「久しぶりで堺君に逢う時は、よく十余年前の昔話が出る。伊皿子、高輪、白金猿町あた りのことが話題に上る。すると、いつもみいちゃんのことが|聯《キささ さ》想される。と言って、二人で一笑 する。みいちゃんというのは泉岳寺の茶店の娘で、当時十四、五でもあったろうか、愛嬌はない が、ちょっとした清楚な子である。僕が堺君と貸間を探しに行った時、ここの茶店の|媼《ばあ》さんが骨 を折ってくれた。その縁故で、この子は時々遊びに来たものだ。その後、この娘がどこか遠くへ 往くという時に、お名残りのつもりか、僕の座敷の花瓶に梅の枝を|挿《さ》して往った。一葉のたけ《さ さ》|く らべのみどりを|思《さささちち》ってちょっと|可笑《おか》しかった。その後のことはよく知らぬ。何でもあまり香ばし くない噂を風の便りに聞いた。」  こんな情趣を語りあったりするのは、編輯所で臨風君と堺とだけだった。愛山君と臨風君との 間は、色々の意味からしてどうも充分に面白く行かなかった。はたから|見《ささ》ても、愛山君の粗野な 大笑いと、臨風君の少し鼻にかかった話しぶりとは、調和しにくいものに見えた。堺としては、 臨風君とみいちゃんを|語《さささささ》るにも適し、愛山君と天下取りを談ずるにも適していた。つまり愛山君 とは新聞記者気分を以て交わり、臨風君とは文芸家気取りで交わるのだった。  斎藤清太郎君は岡山人で、大崎の池田侯爵邸内の小さな家に住んでいた。国から細君が来るに ついて、いろいろ世帯道具を買わねばならぬというので、堺はその買物の介添役をしたことがあ る。斎藤君は口数の少ない、才気の現われない、ジミな、質樸な、堅実な人物であった。しかし 斎藤君はやや酒を飲んだ。斎藤君は片方の腕に赤い大きなアザがあって、それで|朱菴《しゆあん》という号を つけていたが、酔って来るとそのアザの赤味が著しく、鮮やかになり、同時に平生の無口が大い に|綻《ほころ》びて来るのだった。ある時、堺は斎藤君に、「君のような|木念仁《ぼくねんじん》も、ただ飲を解することに 倚って、やや語るに足る」と語ったことがある。堺は飲むこと以外において、斎藤君とやや相許 すに足るだけの一面をも持っていた。愛山君と親しみ得ず、臨風君とも充分に親しみ得ない斎藤 君が、堺とはすこぶるよく親しみ得たのである。  中原邦平翁は、青年時代にロシャ語を学んだというほどの経歴を持っていたが、当世には全く 望みを断った一個の酒仙で、飲中八仙歌の中の一人物かと思われた。「知章が馬に|騎《の》るは船に乗 るに似たり。|眼華《がんか》、|井《せい》に落ちて水底に眠る」などは最もよく翁の趣きに似ていた。白髪というほ どではないが、両鬢が白く、額が禿げあがり、そして貧寒その者のような綿服を一着したところ、 まことに洒々然たる老書生であるが、それが若い者の間に伍して、というよりはむしろ大抵若い 者の一群を率いて、「飲むことは大鯨の百川を吸うが如く」|緒顔《しやがん》を振り立てて「高談雄弁四莚を 驚かす」のであった。「昨夜、どうして帰ったものか知らないが、今朝目がさめてみると、どろ まみれの着物と、もみくちゃの羽織を着たままで寝てるという始末さ。すると、悴奴が学校に行 く時、玄関で大きな声を出しやがって、『老いてますます|壮《さか》んなりと謂うべし』と怒鳴りくさる。 イヤハヤどうも……」これは当時、有名な話だった。  翁はよく井上侯のところに出入りしていたが、いつも侯を手玉に取りながら、たらふく飲んで 来るらしかった。青薄先生のごときは、翁の眼中において全く一個の坊っちゃんだった。愛山、 臨風以下の徒に対しては、その博識を以て諱々と語り、その瓢逸を以て淡々と交わるのであった。 要するに毛利家編輯所は、ただこの大長老のあるがために、従来せめて一道の生気を保ち得たの であった。  黒田君、及び同君の助手、荒川中尉については、別に言うことがない。ただ荒川夫人が「|春風 派《しゆんぷうは》」の旗頭と目されていたことを記憶する。当時、同僚中の諸細君を品評して、「春風派」と 「秋風党」に大別していたが、荒川夫人玉子はその満月のごときかんばせを|以《ちち  》て、実に春風|齡蕩 派《たいとうは》の第一位に擬せられていた。|秋風蕭殺党《しゆうふうしようさつとう》の首領としては、言うまでもたく青薄夫人生子の|方《かた》 がこれに擬せられた。いわゆるガラガラ屋の山路夫人|多年子《たねこ》は、愛山君自身これを秋風党に列し、 「おとなしい」という定評の堺夫人美知子は、もちろん春風派に編入されていた。ついでに堺本 人は忘れていたが、前に引用した臨風君の文章の中に、「当時、愛妻居士と|渾名《あだな》された堺君も」 云々とある。 六 不二彦、 今里の家  欠伸の死んだ高輪の家で、その年の秋、堺の初めての子が生れた。男であった。|不二彦《ふじひこ》と名づ けた。「|不二山《ふじやま》に|対《むか》ひ立ちてもふさはしき|男《を》の|子《こ》になれと祈るなりけり」などという古風な心持 であった。不二彦は色の白い、頭の大きい、少し弱々しい子であった。しかし親どもは、それを いわゆる「二なき者」に思って、ちょうどその頃はやりはじめた安物の乳母車を買って来て、よ くそれに乗せて連れてあるいた。乳母車は子供の頭に響いてよくないという話も聞いたが、やは り乗せて見たかった。美知子は、何は置いてもと言って、不二の宮詣りに袖の長い紋付の着物を 拵えてやったりした。それほど古風な奥さんだった。  不二彦が生れてから間もなく、堺は編輯所の命を受けて防長二州に出張した。故老を訪うて毛 利家の財政および民政のこ之を聞いたり、吉田松陰の兄君たる杉民治翁に案内されて、松下村塾 の旧跡を見たりした。帰り道には大阪に立寄って、いわゆる御銀主と毛利家との関係も少しばか り調査した。  この旅行から得た堺の随筆が一つ残っているが、その一節にチョット面白いところがある。 「山口より萩に出づるに二路あり。一は十四五里ありて人力車を通ずベし、一は八九里にして|峻 坂《しゆんばん》を越えざる|可《べ》からず。われは好奇心に励まされて後者を取りぬ。荷持の男を伴ひて行く。先づ 一の坂といふを越ゆ、甚だ嶮也。荷持の男、年老いて苦しげなり、我そ!ろに気の毒に覚えて、 『我等如き若き者の荷を、老いたる|卿《おんみ》に持たするは|逆様事《さかさまごと》なるかな』など日へば、『さにあらず旦 那、持たせて下さるが御慈悲なり、此坂の為に日々口を|糊《のり》するもの幾人あるか知れず』と日ふ。 苦しげなるが如くなれど、此男案外に老健なる也。之を話の端緒として老人さま人\の事を語る。 米の高き事、貧者は|益《ますます》々貧にして富者は益々富なる事、転じて福島中佐の事、進んで三国干渉の 事、将来の日露戦争の事、此老人決して只の荷持にあらずと思はしむるものあり。我れ言葉を改 めて老人の壮時を問へば、曰く、前原様に少し御加勢を致しまして、それで百日ばかりぶちこま れましたよ。」  高輪の家について思いだすことども。表の通りを鉄道馬車が通っていて、ずいぶんやかましか った。ちょうど、家の前にとまった馬車の中から、品川へ遊びに行く酔っばらいの友人が、大き な声で堺を呼びかけて話をしたりした。その頃、堺は毎晩|蚊帳《かや》の中で、ユーゴーの『、・・ゼラブル』 の英訳を読んで、しきりに感奮していた。そうかと思うと、一面には、『源氏物語』の|野分《のわき》の巻 を読んで、源氏の君が野分の翌朝、諸嬢を歴訪する光景に感動して、その感想を書いて『読売』 に寄書したりした。土肥|春曙《しゆんしよ》君が堀紫山君と一緒に遊びに来て、少し酔ったまぎれに、美しい声 で「長恨歌」を吟じたのが、堪らぬほどよかった。  高輪の家をあけたのはいつであったか、ハッキリした|記《さ 》憶がないが、とにかく明治三十一年に は、白金|今里町《いまざとちよう》の家に住んでいた。この家は二棟になっていて、一棟は藁屋、一棟は瓦葺、そし てそれが多くの樹木に包まれて、堺としては勿体ないくらい。しかし家賃は五円に過ぎなかった。 藁屋の方は一間を食堂、一間を寝室に使い、瓦葺の方は一間を座敷、一間を書斎に使うという有 様で、堺家が急に御大家になったような気がした。  その頃、今里は一体に、町と言うよりはむしろ山林の間に家があるという形で、堺の宅から編 輯所までの間はほとんどすべて林間の道であった。堺の家と裏向いになっていた邸には、加藤眠 柳君が住んでいた。そこは久しい前からの、眠柳君の親達の住居で、大崎方面の低地を見晴らし たその眺望は、実に絶景であった。堺の家の隣にはいつの頃からか|上司《かみつかさ》小剣君が来てやもめ幕し をしていた。美知子の妹の|保子《やすこ》も来て堺の家に住んでいた。かくて堺の家の今里の生活は、編輯 所関係を別にしても、甚だ賑かだった。  この賑かな、そして静かな住居で、不二彦は段々成長した。夏の庭の涼しい木蔭を、不二がヨ チヨチ歩いていると、小犬がうしろから行ってその|兵児帯《ヘこおび》の結び手を軽くくわえる。不二は立往 生をしてワーッと泣きだす。そんな光景が堺の目に残っている。  それと同時に、一っ堪らんほど不快な、厭な、苦しい記憶が堺にある。ある日、堺は藁屋の方 の茶の間の縁側で不二を遊ばせていた。うっかりしている中に、どうしたハズ、・・か、不二が縁側 からドサリと落ちた。ワーッ! という烈しい泣き声が起るのを待つまでもなく、堺は飛び降り て抱きあげたが、大ぶんひどい打撲であったらしい。それまでにも低い縁側から落ちたことは二、 三度あるが、いつも大して泣くほどでもなかった。こいつは頭が大きいものだから、体の平均が 取れないのだ、などと言って笑って済んでいた。然るに今度は、縁が高いのと、それに悪いこと は、地面に敷石があったのとで、大きな頭がよほどひどくやられたらしかった。しかし間もなく 泣きやんで、案じたほどのこともなかったかと思われたが、後になって思い合せると、堺は深く 自分の責任を感ぜずにおれなかった。 七 日記のぬきがき 堺は大阪生活を始めてから以後、とぎれとぎれではあるが、 大体年々の日記を残し、それが明 治三十五年まで続いた。然るにある時、よほど後になってから、こんな物を残しておくのは恥か しいという気持になって、スッカリ焼いたり、破ったりしてしまった。しかし、そこに変な未練 が出て来て、その中からたった一冊だけ、最後の分を残しておいた。それが今でも残っている。 それは『三十歳記』と題して、明治三十二年一月から始まり、同三十五年三月まで続いている。 巻頭に「芝白金今里町百四十九番地に於て」と記してある。日本紙の罫紙の|綴本《つづりぼん》で、もちろん筆 と墨で書いてある。文体は前半が夊語体、後半が口語体になっている。表紙の裹に一首の歌「更 にまた今年いかなる恥を知りて我れ三十にならんとすらん。」以下、その日記からあちこち抄録 を試みる。  編輯事務の進行。「数日前、笹川、斎藤、山路、及び我、四人して青薄を訪ひ、編輯事業の始 末につき談ずる所あり、要領を得ず。帰途愛宕山に上り、四人一書を裁して青薄に送れり、青薄 未だ答へず。我等の案によれば、来る五月或は七月にて切上げんとする也」(三月十日)。「早く編 輯を終りたき|哉《かな》、まだく随分沢山いやな取調をせねばならぬ、……勉強々々」(三月十一日)。 「此頃編輯に勉強す、五月までに成功するには非常の勉強を要す」(三月十八日)。「春やうく深く して勉強出来ず、仕事がいやでくたまらず、されど兎も角も五月中には成功せざる|可《べか》らず、無 責任なるものを作る訳にも行かず、苦しき春也」(四月二十日)。「編輯事業いよく今月中旬を以 て一段落を為さんとす、我等の分担も|略《ま》ぼ卒業せり。多少の取調残り無きにあらねど、そは追々|咄《ぜ》 にやるの約東也」(六月三日)。「編輯物修正いやでたまらず、さりながら是れ任務也……」(六月三 日)。「編輯は斎藤先づ卒業し、笹川も次いで|了《をは》り、山路も兎にかく一応の脱稿をなせり、我のみ 独り残れり、怠惰の結果。不愉快甚だし」(六月十二日)。「昨日より大いに勉強して編輯物の修正 をなす、二三日中にいよく脱稿の積りなり、猶多少の調べ残しあれど、そは追々に修正して可 なり」(六月十四日)。  伊藤、板垣、大隈、井上。「来る四月二日、笹川、斎藤、山路等と共に伊藤侯を|槍浪閣《さうらうかく》に訪は んとす。今日の大人物、果して如何ならん」(三月二十八日)。「二日、大磯に行き伊藤に会ひたり。 案外打解けて心地よき老人也。気品は少し。只若きに敬服す。酒を飲んで気餤を吐く処、|流石《さすが》と 思はしむるものあり。三日夜は我等の宿せる群鶴楼に来りて遊べり。高歌放吟する所、書生の如 し。我等を(槍浪閣の)二階の書斎に案内したるは春畝先生大得意なるべし。日く、是れマグナ カルタの写し也。曰く、是れビスマルクがアルサス・ローレンを取るの図也。曰く、是れカブー ルの肖像なり。曰く、是れ皇太子御来遊の室也。曰く、是れ予が万巻の書也。一々指点して微笑 す。細君|梅子《うめこ》の|方《かた》は案外若し。勇吉君が若旦那然たるに不思議はなし。二日午後、板垣伯、槍浪 閣に来る、応接間に待たされてゐるを見たり。三日午時、大隈伯来る。松原づたひに|枝折戸《しをりど》をあ けて夫婦して入り来る。板垣、大隈、二人の異なる所を見るべし。大岡育造も来て居たり。其の |阿諛《あゆ》の態、嘔吐を催さしむ。大橋|乙羽《おとは》も写真機を持ちて来てゐたり、是は案外見苦しき男にあら ず」(四月九日)。「昨日、井上伯を訪ひたり、邸宅の美、人を驚かしむるに足るものあり。伯が刀 痕ある顔面、|稍《やや》殺気あり、春畝の|洒《しやしや》々たるに似ず。されど我等に接するには和気靄々たり。当年 の事を語りて意気軒昂たる時、|聞太《もんた》の癇癪を想見せしむ」(四月十二日)。  交友一班。「今日、征矢野を訪うて叉遇はず」(一月二十六日)。「十八日、征矢野を訪ふ。征矢 野不平の気を吐く、高潔の君子なる哉。増税案の時、自由党を脱し洋行する心算なりきとぞ、わ れ実に此人を敬慕するを禁ずる|能《あた》はず」(二月二十日)。「風雨の日也、西郷の銅像を見たるにつき 征矢野に一書を寄す」(二月二十四日)。 「犬塚と小林と鶏を携へて来る」(二月五日)。「上司来る、鶏をさげて来る、昼飯を食うて帰る」 (五月三日)。「昨日午後、永島を訪ひぬ、永島休日にて家に在り、囲碁、雑談、夜に入りて雨ふる、 |終《つひ》に宿す」(一月二十九日夜)。 「天涯、病院の春雨を|如何《いか》にか見たる、往きて訪はんと欲すれども機を得ず」(三月一日)。「昨、 杉田を(赤十字病院に)訪ふ、相変らずの容体也、我を引とめて話せよといふ。さま人\昔話な どするに、あはれなる事共多かり。……」(三月二十四日)。「…昨日、眠柳と我と蹴月を訪ひ、三 人して天涯を訪ひぬ、此日天涯熱四十度、特に疲労の体也、|鳴《ああ》呼々々是も|亦《また》夏を過し得ざらんか」 (四月二十八日)。「杉田此のごろ独り病室に在るに堪ヘず、是非誰にても居てくれよといふとぞ、  …小千代子|能《よ》く杉田の為に病を|看《み》る、友人の交、杉田と永島の如きは稀也」(五月一日)。「黒岩 よりの帰途、杉田を訪ふ、永島夫妻|恰《あだ》かも来あはせたり、杉田やうやく衰ふ、されど四人の閑談 |猶《かほ》甚だ興あり」(六月十二日)。 「一昨日、天囚と藪と我等夫婦と|雑司谷鬼子母神《ざふしがやきしもじん》に会し焼鳥を食うて語りぬ、藪も多分大阪の中 学校長になれるらし、故き|交《まじはり》は楽しきものなり」(三月十日)。「昨夜、藪広光を金虎館に訪ふ、 自ら窮状名状すべからずといふ、人は皆窮せる時、最も親しむべき也」(三月一日)。 「廿二日、笹川、久津見、林田の三人を本郷に訪ひぬ、夜は林田が宿にとまりぬ、久津見景気よ し、久津見の家にて万朝報社の高木鋭堂、斎藤緑雨にあひぬ、緑雨は病に衰へながら皮肉の言を 吐くに苦心せり」(二月二十四日)。「……鳴呼緑雨、……才ありて病あり、独身下宿屋に寂寥の生 活を為す。僅に|蕨村《けつそん》の家庭に依りて慰藉を得るが如し、我は亡兄欠伸の末路に似たるものあるを 見るが故に特に同情を寄する也」(四月二十八日)。  遊び事。「堀父上、弓もて来ます(昨日)、われこれよりは弓を試みんとす」(三月二十二日)。 「午後、弓を試む、今日は|頗《すこぶ》るよくあたる、此頃大てい毎日試む、よき運動にしてよき慰み也」 (四月二十三日)。「昨日加藤と共に新しき的を作りたれば今朝早起|射《しや》を試む、我はトントあたらず、 加藤はよく|中《あた》る、我は少し正しく射んと欲して却つて中らぬ事となれり」(五月三日)。「毎日弓を ひく、|稍《やや》庶境に入るの感あり」(五月八日)。「青葉の問に毎日射を試む、快甚だし、此頃はよほど 上達せるを覚ゆ」(五月二十四日)。「今朝、晴、弓の的を作る、心地よきもの也」(六月四日)。「二 三日前、眠柳と競射を為す、百五十本の中にて我は五十一本|中《あ》てたり、眠柳は四十本ばかり中て たり、我勝なり、今夜眠柳牛肉と酒とを驕らんとす」(六月十日)。「昨日、山路、笹川と共に斎藤 の家に|筍飯《たけのこめし》をくひたり、晩には我家にて山路荒川と共にとろ\飯をくひたり、叉好興」(三月 二十二日)。「今日は歌舞伎座見物也、美知、保、朝早くより起きてさわぐ、|志津野《しづの》留守番也、曇 天なるが気遣はし、鶯なく(午前七時記)」(三月二士ハ日)。「廿六日、歌舞伎座面白くもなし」 「われは団十菊五を始めて見し也」「脚本について云ヘば……支離滅裂、……矢張り芝居は婦人小 児の見る物として|恰当《かうたう》なり」「帰途風雨、小林の宿にとまりぬ」(三月二十八日)。「昨夜荒川の俳 句会、……馬鹿げた俗興も亦悪しからず。窓にあたる若竹の|節《ふし》の二三本。独りゐて蚊の声を聞く 夕かな。|五月雨《さみだれ》をかやぶきの屋根新しく」(六月四日)。「近来叉落葉社俳句会あり。木造の洋館は げてかたつむり。行春を月琴乞食むれて行く。行春を賄賂に|驍《おご》る住居|哉《かな》。」(五月八日)。  美知と不二。「不二彦四五日来病気にて困る、少し食はせすぎて腸を傷けたる也、元来丈夫な 児にあらず、色白くして我が子に似ず、頭の形も甚だ奇也、行末気遣はしき事也」(二月十五日)。 「不二彦よく歩む、靴をはきて或ははだしにて歩む、……此頃牛乳も飲む、めしも多く食ふ、ラ ンプ、マツチなど言葉も二つ三っ言ふ」(四月二十日)。「不二今日はじめて|単衣《ひとへ》の|浴衣《ゆかた》を着たり、 追々いたづら盛なり、皿茶碗などこはさぬ日なし、言葉はトント出来ず」(六月六日)。「美知胃腸 を損じたること甚だし、今日医者に往かしむ、不二も下痢す、母の病によるか、願はくば母子健 康なれ、妻病み子泣かば……」(四月士百)。「美知頗る衰ふ、胃腸の病なりといふ、断然たる養 生も為し得ず、猶不二に乳を飲ましむ、かくて長く此燼に過す可らず、……不二も亦甚だ強から ず、関心之に過ぎたるはなし」(四月二十八日)。「美知今日又胃痛にて寝て居り、困りもの也、到 底、姑息の治療にては全快せざらんか……」(六月十四日)。「美知の病、如何にかなるらん、夫妻、 親子、家を成すは苦か楽か、永島と共に之を疑ふ。……」(七月五日)。 八 編輯終了、 万朝報入社  かくして我々の編輯事業は六月の末を以って終了した。(編輯の結果は、 長回天史』十二巻として順次出版発行された。)日記にはこう書いてある。 その後数年間に、『防 「六月廿六日、毛利元 照公我等を招き|昼饗《ひるげ》を供す、井上伯、杉子、毛利男、小早川子等陪席す、青淬先生も出席す、此 日我は慰労として金千円頂戴したり。」  その頃の千円は、(我々には今でもだが)かなりの大金であった。そんな大金を持ったことは、 もちろん生れて初めてだった。誠に「立寄らば大木の蔭」であった。愛山君その他四、五人と連 れだって、小切手を懐中して日本橋の銀行に行き、それを現金と引きかえて、五円札百枚ずつの 二た束を、背広の内がくしの右と左とに一と束ずつ入れて、よい心持で銀座あたりをぶらついた 時のことを思いだす。臨風君がしきりに金ぶちの眼鏡を買えと勧めてくれたが、堺は僅かに鉄ぶ ちの懐中時計を買った。彼が懐中時計なるものを持ったのは、それが最初であった。それより以 前、五月の末、堺は初めて洋服なるものを着たのであった。  一千円の内、堺はまず一百円を妻に与えた。けだし彼女が福岡で質に入れて、そしてそのまま 東京に戻って来て、遂に流失の厄に遭ったところの、その晴着の一揃いを復興せしめんがためで あった。次に彼は、大阪、福岡、費津、その他におけるすべての借金を返済した。それが百円あ まり。次に彼は、彼の周囲なる友人親戚に少々ずつ分配した。それがまた百円あまり。その外彼 自身の衣服等が(前記の洋服をも合算して)やはり百円ばかり。なおその外、飲んだり食ったり 本を買ったりの費用も百円やそこらはあったろう。何しろそれで、「堺は千円貰ったそうだ」と、 友人、知人、親戚等の間に大評判であったその千円が、たちまちにして半分消えてしまった。  さて、それはそれで一かたづきとして、堺の次の仕事はどうなったか。日記の一月二十六日に は、「わが将来」として、一面には新聞記者、一面には女学界と書きつけてある。また「楽しき 空想」として「日本廻国の事」が挙げてある。三月十六日には「内村鑑三の独立雑誌を読む、  …我は此人の丈を読むを好む」とあり、明らかにその影響を受けている。そして次に「我が将 来につきて此頃さまぐに思ひわづらふ」と書き、「政治家、教育家、丈学者、いづれをか|撰《えら》む べき」と疑い、「純女学者」は「何となし不満足」であり、「謂ゆる政治家」は「望ましく」ない ので、「此頃にては教育家といふことを少し考」えているが、それも「学閥」などの話を聞けば 「厭な心地」がすると結んである。そしてなおその次に「教育文学者、道義丈学者、宗教女学者」 などという言葉が記されてある。そこにやはり内村先生の影響が見える。  四月九日には「山路愛山は信濃毎"新閃に往くの約成れり、笹川臨風も亦新聞に入らんことの 望みあり、斎藤は大学院にでも入るなるべし、彼は洋行、博士、教授といふ段取の人なり」とあ る。斎藤、笹川の二君には、別に中学教師の話のあったことも記憶する。これら諸君の将来の計 画が堺に影響を与えたことも無論である。ことに愛山君の影響が種々の点において甚だ多かった と思われる。  何しろ実際問題として地位を求めるには新聞社より外なかった。金のある間、一、二年引込ん で読書するという案もあったが、それも実行不可能であった。そこで新聞社と言えば、報知新聞 か|万朝報《よろずちようほう》かであった。前者には田川大吉郎君が主筆をしていたので、頼めば入れて貰えそうに あった。後者にもいろいろの因縁があった。まず杉田天涯が(病気ながら)そこの記者であった。 杉田および永島永洲君を経て、朝報社の元老たる小林天竜君とも知合いになっていた。久津見蕨 村君が朝報に入る時、堺が幾らかその話の取持ちをしたという因縁もあった。そんなことからし て朝報社の幸徳秋水、鈴木省吾らの諸君とも知合いになっていた。堺としては、当時、特殊の色 彩を発揮していた万朝報が好きで、ことに杉田からいろいろ内部の頼もしい話を聞かされていた ので、出来るものならそこに入りたいという気が早くからあった。福岡から帰った当座、芝公園 の宅の前で遊んでいると、赤羽橋の方から五、六人づれの洋服の一群が、何か盛んに談論しなが ら、サッサと大股に歩んで来た。フト見るとその中に杉田がいた。杉田は立ちどまって堺と二こ と三こと話して、すぐに、一群の跡を追うて走って行った。その時、杉田が堺に言った、「あれ は内村さんと、社の人たちだ。」堺はそれを聞いて羨ましい気がした。杉田が内村さんその他の 一群に立ち交って、あんなに談論しながら、あんなに足早に歩いて行く。自分は世の中に取残さ れたような気がした。そんなわけで早くから万朝報に念がけていたので、いよいよ編輯所の仕事 が片づく頃、報知よりもまずその方を頼んで見た。すると永島永洲君が小林天竜君に話して、わ けもなく入社の手順を運ばせてくれた。日記の六月十二日には次の如く記してある。「今朝、黒 岩周六を訪ふ、洋館の応接間甚だ美なり、黒岩は一癖あるべき面魂の男なり、されど談話は|頗《すこぶ》る    めいせき                               なか 鄭重に頗る明晰にして不快を感ぜしめず、新聞の俗務なるを説き、其俗務を厭ふこと勿らんを我 に望み、追々我に適すべき職務を選ぶべきに依り、気を永くして其の処を得るを待たれよと言へ り。」  かくて堺は七月一日から朝報社に出勤した。金はあるし、新しい地位は得たし、彼の得意想う べし。しかし一面には、妻の病気が肺尖ヵタルらしいというので、せめて夏中、転地療養するこ ととなり、永島夫人千代子、その長女丈ちゃんと同行し、妹の保子と不二彦とを連れて、七月八 日、塩原の温泉に赴いた。その時の日記。「我は直ちに家を片づけ、 永島の家に引越す、当分永島の家に居候なり。」 荷物を加藤にあづけ、午後 九 発憤、自重、得意  毛利家編輯時代の二年間はかくのごとく過ぎ去った。世間から隔離して無為無益な生活を送っ たような気がして、不愉快で堪らない時もあったが、しかしそれが自然に、次の新しい生活の準 備であった。  堺はとにかく維新史に関する多少の知識を得た。またこの期間において、政治、法律、経済等 に関する一般の知識を吸収した。多年の文学青年が、普通の新聞記者としての資格を作るに|力《つと》め た。英語もどうやらこうやら一通りの本が読めるだけにはなった。それらのことのためには、山 路、笹川、斎藤らの諸君が大なる刺激になった。新聞記者として、あるいは女士著述家として、 愛山君ほどの有力な先輩と、親しく|爾汝《じじよ》の交わりを為し得たことは、何ほど堺のために発憤自重 の種になったか知れない。また斎藤、笹川、二君に対しては、別に一種の感慨を催すものが堺に あった。  笹川君は堺と同年であり、斎藤君はたしか一歳の弟であった。そして二君は共に丈学士であっ た。二君はたしか京都の…高出身であったが、二君がそこにはいったのは、堺が一中にはいった 翌年であった。実際その頃までの堺としては、自分が行きかけて行きそこなった「大学」という ものに対するあこがれを、ほんとに|女《 さちち》字どおり|夢寐《むび》にも忘れ得なかった。いわゆる「登竜門」を 踏みはずしたという失望の心持、それをどうにかして取返そうとするイライラした心持、それが しばしば夢の中に現われたことがある。然るに堺は今、斎藤、笹川二君のごとき順調の成功者と 机を並べて、ほぽ同列の地位に立っているのではあるが、そこにまたいろいろのヒケメが感じら れるのであった。それが一面には発憤の刺激ともなり、一面には自重の原因ともなるのであった。 そんな意味からして、愛山君の官学私学諭も、堺の耳に一種の響きを持たないではなかったが、 しかし堺は二君と対抗するなどという気持よりは、ただ二君と親しみ交わることを喜んでいた。  要するに堺は、毛利家編輯所において、かなりに多くの得るところがあり、そして幾分得意の 形で新しく新聞記者生活に移った。 十 上巻の総括  以上、堺利彦は自分で自分の半世三十年間のことを語ったが、一体それに何の意味があり、何 の面白味があるか。  ああ堺利彦よ。君の半世のいかに平几にして、そしていかに主我的なることよ。君は士族の子 として、少年時代からいわゆる「立身出世」を夢みていた。小学、中学、高等中学と、すこぶる 順調に行きかけて失脚した。その後、小学教員となり、新聞記者となり、丈士小説家の真似事を して、世の中を泳ぎまわった。しかもそれがやはり、少しなりとも自分の生活の程度を高め、社 会的の地位を進めようとするモガキに過ぎない。いわゆる「立身出世」の信条は依然として少し も変っていない。それから君は、とかくしている中、世間並に妻を持ち子を持ち、甚だしく貧乏 でない生活を送り得る境遇となった。そして最後に万朝報というやや人目を引くに足りるだけの 舞台に登った。それが即ち君の「立身出世」であった。それが即ち君の半世のアコガレの実現で あった。  ああ堺利彦よ。君には多少の才気があったに相違ない。その才気が君をして、放蕩無頼の生活 の間に、なおよくそこまでの立身出世をさせた。そこでもし君の「立身出世」が(もしくは、そ れの将来におけるヨリ以上の見込みが)かなりに君の野心を満足させるに足るものであったなら、 君は多分、その「立身出世」を享楽しつつ生涯を送るという運命を持っただろう。もしまた君が 最初の順調を継続して大学を卒業していたなら、恐らく君は高等官とたり、勅任官となり、知事 となり次官となるくらいの「立身出世」をなしていたかも知れない。それならなおさらのこと、 君は杜会主義者なんどになる気遣いは毛頭なかったのである。  ああ堺利彦よ。幸か不幸か、君は「登竜門」から失脚した。そして多少の苦労を|嘗《な》めた。そし て再び別の道から「登竜門」にはいりかけたが、その門は狭かった。幸か不幸か、君の「立身出 世」は甚だ哀れであった。思うに君の心の底には、少なくともそれ以上の「野心」が横たわって いた。「野心」と言っても、功名|富貴《ふつき》手に|唾《つぱ》して取るベしという漢学の英雄主義は、恐らくあま り深く君を捕えていなかったろう。それよりも君はむしろ儒教の精神に捕えられていた。儒教の 「身を立てる」ということが、いわゆる「立身出世」主義になるわけでもあったろうが、しかし 儒教には「身を立てる」と同時に「道を行う」という理想があった。それがまた一種の英雄主義 になるわけではあろうが、しかし「功名富貴、手に唾して取るべし」とは大ぶん違う。|況《いわ》んや、 幾ら手に唾して見ても、ろくな功名富貴が得られないとすれば、「道を行う」の精神が反抗的に 動いて来ることになる。それから君はまた、君の柔らかい頭に自由民権の新思想を吹き込まれて いた。然るに君が杜会に出て見た時、その新思想が与えた美しいマボロシは既に全く消えていた。 そこにも不平の気が生じないでは居られなかった。君は多少の才気を持って生れたと同時に、や や正直な素質を持って生れていた。君には自由民権の思想を守り、儒教の精神を貫こうとする、 かなり正直な心があった。そこに着の「野心」が生じた。いわゆる政治家を望まず、単純なる丈 学者に満足せず、ただの新聞記者でも物足らず、何か少し別にやらねばならぬという、少なくと も小さな「立身出世」以上の「野心」があった。  ああ堺利彦よ。君の平凡にして主我的なる半世にも、この「野心」の潜在的(もしくは半潜在 的)発展の経路として多少の意義があるだろう。君の後半世における万朝報時代は、即ち右のご とき、士族出身の、半独学の、中流知識階級者としての君が、個人的の立身出世思想から中流階 級本位の社会改良主義に移り、さらにそれから一転して社会主義者になるまでの、四年間の過渡 時代である。 (そこでこの自伝の下巻は、右の過渡時代から始めて、社会主義運動時代に入り、最後はどこま で行くか分らないが、とにかく書けるだけ書くつもりである。)