陶庵随筆 西園寺公望 国木田独歩編 陶庵随筆  ガムベッタの理想国  大院君の一国の骨髄  アコラス翁の政治家  中島椋隠の耕講  大原三位と切腹を賭す  西園寺の風呂屋談  唯一事を欠く  微公の伯林会議談  外務大臣の待合室  水戸斉昭の贈りし瓢  邦人某巴黎に胸壁を築く  仏の大統領ビスマルク公の賄賂を受く  紅蘭女史に一本まいらる  火は木を焼く  日本料理  秘事は旨きものなり  演説に喝采を得るの秘訣  如何なるこれ風流  五百年後、再来救世  人情の愚一にここに至るか  香山山谷の奴隷  先生は如何 懐旧談 陶庵侯に就て 編者 国木田独歩 ガムベッタの理想国  余が始めて巴里に遊びし頃はガムベッタの声名、その絶頂に達し たる時にして、世人の彼を仰ぐこと、|蕾《ただ》に泰山北斗のみならず、余 また好奇心にかられて、一日親友の紹介を得て彼を訪うや、|四方山《よもやま》 の談話の末に、彼余に問うに、日本に於ける新聞紙のことを以てし、 余が新聞紙の発行に関しては、日本政府が何等の制限法をも、何等 の取締法をも設けざるを語るや、彼大いに驚きて曰く、果して然る か、日本民風の美、以て知るべきなり。余は一日たりとも|如此《かくのごと》き 国に於て政ごとを為す事を得ば、我願い足らん、これ理想の自由境 なるべしと。その後間もなく新聞条例は発布せられ、ガムベッタが 理想国は|須臾《しゆゆ》にして消え失せぬ。 大院君の一国の骨髄  二十七年、夏秋の交、余欽命を奉じて朝鮮に入るや、大院君しき りに余を促して当今の務めを問う。余縷々として改進の道を説くや、 彼ほぼ諾するが如き面色にて聴聞せしが、余が朝鮮道路の疎悪にし て交通に便ならず、ために開物成務、智識伝播の妨げたるを論じて、 その修繕の急務なるを言うや、彼これを遮って曰く、朝鮮道路の疎 悪は命の如し、独りその岩石崔鬼にして開斬し難きを如何せんと。 余これを穿つに火薬あり、ダイナマイトあり、その甚だ容易なるを 云うや、彼催然として曰く、閣下果して真に岩石を開斬せんことを 告げらるるか、それ岩石は一国の骨髄なり、人にして骨髄を穿つ、 それ|豈《あ》に久しきを得んやと。彼の容体は甚だ真面目なりき。 アコラス翁の政治家  余が師エミル●アコラス翁はこの世紀の半ば頃より、仏国の政治 思想界に少なからぬ勢力を有し、学問の淵博と云わんよりは、寧ろ 識見の透徹を以て知られたる碩儒にしてまた一種の僚慨家なり。ク レマンソウ、フロッケ1等の急進党多くその門に出入し、余もまた 彼等と翁の家に於て相会したること少なからざりき。今はその時代 は已に過ぎ去れりと難も、仏国が余りに武権政治に傾き、もしくは 政治家が余りに温和に傾くの時は、今後とても反動の勢力は、この 流派より復現せんこと少なからざるべきか。余が少時巴里にあるや 多く交遊を主として一事を勉めざるを見て、アコラス翁余に告げて 曰く、君が悠遊もまた已に足りしならん、悠遊必ずしも不可ならず と難も、君門閥一世に秀づ、何ぞ国に帰りて政治を行わざると。余 曰く、師よ我れ思うに凡そ政治家たらんと欲するものは常にその思 う所を云う能わず、云う所を行う能わず、時に虚言を吐き、偽善を 行わざるべからず、これ余の堪ゆる所にあらずと。翁愕然として曰 く、君が国に於ては政治家は時に虚言をし、時に偽善を行うて以て 足れりとするか、我が仏国の如きは凡そ政治家たる者は時にすら真 実を語らざるなりと供然大笑す。余が翁を辞してより已に二十年、 思うに今日の政治家は二十年前に我が評したるが如くなるか、そも そも又アコラス翁が評したるが如くなるか、余は翁の言を思うごと に、撫然たらざる能わざるなりo 中島椋隠の耕講  中島椋隠は幕末に盛名あり。京都の詩人にしてその楯間に掲たる 銅駝余霞楼の額は、文人学士間の談柄たり。余五歳の時火災のため に家を失い、鴨東の家臣の家に僑居するや、触目の光景、極めて物 珍らしきがため、日夕籠を透して四方を見るを常とす。一日疎簾の 彼方に坊主の一農夫が鍬を取って畑を耕しつつ、何事をか講説する が如き風あり。そして書生数十名、みな袴を着けて縁側に居並び、 極めて礼儀正しくこれを聴聞するが如くなるを見る。余は小児心に もこの事を怪しみて、心に記して忘るる能わざりしが、長じて後、 家臣に聞きて、その農夫は即ち中島椋隠、家は銅駝余霞楼にして、 彼が且つ耕し且つ講説するものなりしを知れり。且つその講説する 所は詩書易礼記の類にして、百家を折衷し、分毫折開、考証明確、 一々暗記して一字の参差なかりしと云う。余はしばしばその風采を 憶起すことあり。 大原三位と切腹を賭す  維新の改革は、今日より回顧すれば、泰西の文明を理想としたる 改革なりしが如く見ゆると難も、当時主として改革の原動力たりし ものは、尊王撰夷の二事を標榜して起りたる志士なりしが故に、大 業定るの後朝廷の権力を握りし者、また守旧家、撰夷家の徒少なか らず。然れども彼等を戴きたる無言の時勢は、矢の如く奔流しつつ あるを以て、人と勢いと相添わず、これを以てその間には滑稽演劇 に類すること少なからず。余が山陰道より京都に帰り、越後口に赴 くの前にあたり、洋服を着けて参内したることありき。洋服は当時 称して戎服と云う。趙の武霊王が胡服して武事を習うたるが如く、 戎事を習わんには、泰西の衣服より習わざるべからずと云えるは、 当時識者の心得なりしなり。然れども京都朝廷の百僚に至りては、 多くこれを喜ばず、中にも当時有名なる大原三位は、深く余が外国 の服装をつけたるを憤り、余が膝の辺りまで近づき「外国の服を着 するは、外国の制令を受くるに同じ、閣下何の心かこの事あるに至 る」と云う。余は事理を論明せんと欲したるも、対手が対手なれば ことさらに軽くこれに答えて曰く、「余は今より一年にして朝廷の 礼服、外国様となるを信ず。故に閣下と相賭せん。余の説にして誤 らば、余は屠腹せん。余の説にして|中《あた》らば、閣下は何を以て余に報 いんか」と。余の答辞には流石の大原三位も苦笑して退きしが、後 六月を出ずして、朝廷の服装は、,泰西風となりぬ。後数年ならずし て今の大礼服の制度定まりぬ。この洋服は余の知人が当時神戸に在 りし今の伊藤侯に托して、外国より購求したるものなりき。 西園寺の風呂屋談  広瀬青村は、余が学塾を開きたる時に招待したる学士の一人なり。 後余が明治十三年を以て欧州より帰るや、余を訪うてしきりに欧州 の事を問う。余また政制、文教、思想に関して言うところ甚だ多か りき。後数日、或る新聞紙は「西園寺公の風呂屋談」なるものを公 にす。これ青村氏が、余が政治論文教論には甚だ意を留めず、欧州 風呂屋の制を説けるを聴て、大いに趣味ありとして新聞記者に談話 せるものなり。ためにその頃西園寺の風呂屋談とて友人間より大い に冷評を受けたりき。そもそも聴く所の人、その心彼にあらずして 此にあるや。大事は略せられて小事は伝えらる。世事往々この如き ものあり。 唯一事を欠く  |奈勃翁《ナポレオン》三世の時なりしと覚ゆ。皇后の統御の下に、婦人保護会な るもの巴里に起りたりしが、その目的は賎業に身を委ねたる婦女を 救って、正業に帰らしめんとするにありき。これ|固《もと》より間然する処 なき事業なりしが、これに就き空文虚偽が如何に善事を破るかを示 すに足るべき一話あり。この話は巴里に在りては人々の知る所にし て、余り珍らしき話には非ず。或る時、身を保護会に投じて、救済 を求むる少女あり。保護会の幹事、規則に照してその身分境遇を訊 問し、そして後に曰く、卿は一々我会に救済せらるべき条件を備う、 ただ遺憾なるは、肝要なる一事の欠たることこれなり。この条件に して具わらずんば、卿は我救済を受くること能わずと。遂にこの不 幸なる少女を拒絶したり。蓋しこの少女が未だその身を汚さざるを いうなり。 微公の伯林会議談  老人は好みて過去を語り、少年は好みて将来を談ず。老人の最も 得意とする所は、過去の功勲に存し、少年は勃々たる理想によりて、 その勲業を将来に望めばなり。故に年歯已に老い、功名転た高くし て後は、自家の過去を語るは、老人通有の性癖にして、英雄豪傑の 士と難も免れざる所なるを知れば宥恕せざるべからざるものか。今 を距る十年前、余が公使として独逸|伯林《ベルリン》に駐在するや、ビスマルク 公、時に首相兼外務大臣として、独逸の天長節に列国の使臣をその 官邸に饗応せしが食後の雑談に公、しきりに伯林会議の歴史談を語 り、列国の大天狗を一堂に会し、自らこれが議長となりし事なれば、 如何に良結果を収めんかと、苦心経営したるを説き、某国大使を指 して閣下の令兄にも、その時共に尽力ありたりなんどと眼前の事を 引きて、回想を助けたりぎ。公|固《もと》より会話に巧みに、その事また甚 だ興味ある問題にして、殊に余が公を見ることなお甚だ多からざり しがため、余には一層の興味ありき。余某国の公使に向て個は甚だ 面白き談柄ならずやと云えば、彼曰く然り。然れども余はこの談話 を聞くこと已に二回に及ぶと。某国大使は低声に余に告げて曰く、 否な諸君こそ実に多福なる方々なる哉、余の如きはこの談話を聞く こと、已に五回に及べりと。 外務大臣の待合室  外務大臣の待合室に面会を求むる外交官が、一時に落合う時は雑 談閑話、殆んど書生クラブの観を呈する事あり。この種の交際には 興味有り、利益ある事もまた少なからず。時としては人をして噴飯 せしむるの言語を聴く事もまた多し。余が|填太利《オ ストリア》のヴィンナに駐在 せる時、一日外務大臣カルノキー公を訪うや、その待合室に露国大 使、英国大使、その他五、六人の交際官落合し事あり。露国大使甚 だ談話に巧みなりしが、彼その少年の頃、曾て英国大使館の書記た りし旧事を叙して曰く、時に余が長官たる大使、賦性甚だ卑吝にし て余が封蝋を用ゆる過多なるを数えて、その費を吝み、余が事多け れば、封蝋もまた多からざるべからざるを言うも、甚だ喜ばず。余 不平に堪えず。即ち一策を案出して、彼の胆を落さんとし、一日彼 の書斎に入り、封蝋を以て机上に大書し、ア・ヴォートル●サンテ i(閣下万歳)と記す。卑吝の大使も、これよりまた封蝋を云々せ ざるに至れり。然れども余はこれが刑罰として過多の写字を命ぜら れ、一週間ばかり苦しみし事ありと。余はこれを聞きて曰く、吾国 にまたこれに相類似したる一話あり。我|倫敦《ロンドン》駐在の某公使、性また 卑吝にして、その書記官が|漫《みだ》りに、机上の巻煙草を用ゆるを喜ばず。 書記官が手を巻煙草の筐に加えんとするや、常にこれに目視し、遂 には筐底に紙を布き、「この筐の中に何本あり」と記すを常とする に至る。蕊落なる書記官、甚だその卑吝を憎み、一日公使の在らざ るに乗じ、筐中の巻煙草数本を取り去り、筆を取って筐底の紙に書 して、「但しその中五本頂戴致し候」。と云うと、満座この話を聞き て大笑せり。しかも座上の某国大使は、有名なる吝薔家にてありき、、 水戸斉昭の贈りし瓢  水戸斉昭は後世に烈公と称せられ、声名隆々として一時に秀で当 時の諸侯中、彼に比すべきものは、島津斉彬あるのみなりき。彼が 京都の朝廷を尊重しておかず、交りを公卿に結びしも事実なり。余 が十歳の頃なりしが、或る時突然余に書を寄せ、かつ瓢の如き形せ る自作の琵琶一面を添え、その甲に左の歌を|雛《ほ》りてありし。 風によりとにもかくにもなりひさこ ならすは人の心なりけり 邦人某|巴黎《パリ》に胸壁を築く  余の巴里遊学は仏国の近世史中最も多端なる時期に際会し、普仏 戦後のコムミウヌ党変乱、チエール政府並びにガムベッタ盛時等を 見たりしが、コムミウヌ党が内乱を起して、一時巴里の政権を取る や、余が寄宿したる学校は、その教師多く官軍派たるがため、極め て危険を感じ、武器を穴蕨の中に|蔵《かく》すに至りき。時に官軍ヴェルサ イユより巴里に攻め寄すると聞くや、コムミウヌ党の首領等巴里の 市民を強迫し、四通八達の地にバリカードを作りてこれを防ぐ。バ リカードは街上の敷石を起してこれを積みあげ、もしくは酒樽その 他あらゆる障害物を以て、一種の胸壁を作り、これに拠りて敵を防 ぐなり。此役激戦数回にして、|兵覆《へいせん》のために名区を焼失したるもの 少なからず。火絶えざる数日、竜動より消防隊来りて力を貸すに至 る。余が師の一人の如きも、コムミゥヌ党のために銃傷を受けしが、 その死に垂んとするや左右を顧みて、余を銃撃したるものは、余明 らかにこれを反撃したるが故に、|柳《いささ》か遺憾なしと語りて瞑目したり き。かかる危険の地も、余には極めて珍らしければ、同学の士と共 に、戦場に出でて見物したること数々なりき。一日去る街端にてバ リカードの建築、未だ十分ならざるに、官軍已に寄せ来ると聞くや 激徒倉皇、邦人駒留某を促して、バリカードの営造に与らしむ。駒 留氏がウイ・モッシュ(諾、君)と云うや、彼喜びずして曰く、何 ぞ「モッシュ」(君)の語を除かざると。駒留氏声に応じて改めて 曰く、「ウイ●シトワイヤン」(諾、市民よ)と。彼悦びて握手し、 且つ曰く我友かくてこそ我同志の士なりと。 仏の大統領ビスマルク公の賄賂を受く  余はこの前後激昂したる巴里人が、あらゆる輩語流言を放つを見 て、殆んど吹き出さんばかりに、|可笑《おか》しく感じたること少なからざ りき。当時巴里にてコムミウヌ党の新聞紙、雨後の春草の如くに発 生したりしが、その中には時の大統領チエール氏を罵りて、ビスマ ルク公の賄賂を受けて平和条約を締結せりと云うものあるに至る。 そもそもチエールは|此如《かくのごと》き人物にあらざるは論なく、働叩犬せんば かりに哀求して、平和を得たるものにして、ビスマルクは道に拾え る黄金あるも、これをチエールに呈すべき理由なかりし。去れどか かる見易き理由も、激徒には見得る能わざるかの如く、露誕、罵署 至らざるなく、甚だしきはナポレオン三世の子、実はユウゼニI后 と、|羅馬《ロ マ》法王との私生児なりと放言するものあるに至る。激昂した る人心があり得べからざる事をも、あり得べきが如くに言い、且つ 信ずるに至りては東西の別なしと云うべきか。 紅蘭女史に一本まいらる  衰世の民は、故なくしてしばしば驚くとは曾て聞く所なりしが、 余は維新の前、我国人の故なくしてしばしば驚くを見たり。そのう ち最も著しかりしは、慶応元年かと記臆す|所謂《いわゆる》天符の妖なり。何人 が出しけん。伊勢より天照大神の神符下ると伝唱してより、関西諸 国、至る所神符の下るを見たり。そのうち京都最も甚だしく、後に は神符に止まらず、往々にして絹布、握飯その他種々なるものを下 すに至る。現に余が家の如きも、後園の手水鉢の傍に、握飯の下り しを見たり。已に神符異物の下るやその家祭祀もしくは謝恩祝賀の 意を以て、業を休め、赤飯を炊き、家人相集て、杯を挙げ、舞踏す るを常とし、市民逞々、殆んど生業を忘れ、士大夫、また盛んに神 符を語るに至る。思うにその初めは何人かの悪戯ならんか。又は何 かためにする処ありて作為したるものなるべしと雛も、後に商家の 小僧が、頼りて休日を得んとするの術策となり了りたるが如し。時 に梁川星巌の未亡人、紅蘭女史、詩会を機とし時に余が家に出入し、 一日天符の事を以て余に語ること甚だ詳し。余その真偽を論ずるを 煩わしとして曰く、子は怪力乱神を語らずと云う、天符の如きはこ れを語らざること、儒道の本旨なるべしと。女史これを遮って日く、 孔子の語らざりしと云うは怪力乱神なり。天照大神は我国の祖にし て、正神なり。その神霊を示すは決して怪乱にあらずと。座に一客 ありて曰く、主人公、女史に一本まいらされたりと。 火は木を焼く  独逸帝室に於ては、外国使臣を演劇に招待して歓を共にすること 数々あり。或る歳のはじめ余は、皇帝陛下よりの招待を受け、定め の桟敷に着席して観劇しつつありしが、中頃、事ありて桟敷の後な る廊下に出でたりしに、ふと彼方より従臣を引つれ来る皇帝と撞着 しぬ。皇帝は余を見るや極めて愚勲に、余の健康なんどを尋ねし後、 思い出したる如く曰く、聞く所によれば貴国の議院は焼失して灰燈 となりたりと云うにあらずやと。余は、然り、陛下、外臣もまた昨 夜その報道に接したりと答う。皇帝は最も怪訊に堪えぬ調子にて、 然れども足下議院が焼失して灰燈となるとは、甚だ不思議ならずや、 と。数度これを繰返す。余これに答えて、然れども火が、木を焼く に何の不思議もあらざるべしと云うや、皇帝は微笑を漏らして曰く、 ああ然るかと頓悟するものの如し。蓋しその脳中に無意識に議院は 石造又は煉瓦造の如くに映じたるなり。 日本料理  明治の初め、初めて巴里に遊学したるころ、万里の故郷を恋想せ るは、日本料理の得がたきに始まる。一日邦人相会して日本料理を 手製したりしが、野菜、魚肉はほぽ調い得たるも日本料理の眼目た る、醤油の得がたきに窮し手を分ちて、市中を捜して、漸くリゥド ラペーといえる所の商店にて、白瓶に盛りたる醤油を発見したり。 当時同人の悦は趙壁を得たるに同じ。日本人、相伝唱してこれを得 んことを競い一遂に一瓶二合入の価三円余に達したりき。これ徳川 氏の中世より、オランダ人が東洋通いの帰り船に積み込みて、欧州 に輸入したるものなりと云う。慶応元年なりしか、曾て徳川民部太 輔(今の昭武君)が巴里に使するや、ナポレオン三世、彼を饗応する に、各邦人に対し卓上一瓶ずつの保命酒を供したりと。またこれ蘭 人の輸入に係るものなり。これは昭武君より直接にききたる話なり。 秘事は旨きものなり  明治二十年の冬、余独逸の国都に駐在することとなり、既に発せ んとするに臨みて、更に道すがら|羅馬《ロ マ》法王を訪問するの欽命を受け、 一羅馬府に入りたり。今や法王の教権は赫々たること、欧州の帝王を 雪中に侍立せしめたるが如くなる能わざるも、法王レオ十三世はそ の英雄の姿を以て、よく欧米の人心を繋ぎ、羅馬教の勢力を衰頽の 世に保ちたるの人なれば、その宮殿に於ける帝王的尊大は、古に変 らず。法王に謁見するものは、帽子以下一切の装飾を去らざるべか らざるは宮中の内規なりと聞きぬ。故に余が法王に謁見を求むるや、 剣と帽子と手袋とを脱するは、この内規に適合する所以なりと注意 せらる。然れども余は法王に対すること、列国帝王に対するが如く、 大礼服を着用するの礼儀を尽すとせば、余はまた我大礼服の装飾を 全うするの必要なるを感じたるがため、宮内官に向いて暗にその意 ・を示したるに、そのままにて差支なしとの事なる故に、余は剣帽を 捨つる事なく、ただ手袋のみを捨たりき。  法王の風采を見るにヴォルテールの彫像に酷似の老人なるもまた 一奇なり。其人春風和気、需然たる中に、一種精桿の風あり。誇謹 としてよく語り、よく聴く。余は法王に対する使命を果して後、そ の総理大臣即ち国務僧正ランポラを他の宮殿に訪問したりしが、年 齢三十六、七にして一見、有為の才物なるが如く感ぜられたり。ラ ンポラ僧正が余を饗応するや、その飲食の美、余が経験したる宮中 の食物中に於て最も秀でたるものなるを感じたり。僧正は余が亜細 亜人なるを以て、欧風調理の口に適するや否を気遣い、数々これを 問う。余はその食物の趣味の高尚なる事を称賛せしに、彼は驚きた る様子にて、思わざりき絶東の貴客にして、|如此《かくのごと》き料理通を得ん とは、実に主人の大幸なりと云う。既にして煙草を供するや、余は 僧正に向って余もまた思わざりき、法王の宮殿中に、如此き絶好の 煙草あらんとはと云う。僧正大笑して日く、「是れ黙許なり、寧ろ 宮中の秘事なり、閣下知らずや、凡て秘事は旨きものなるを」と。 演説に喝采を得るの秘訣  英の白卿来遊の頃なりし。一客あり。余の病床を訪うて曰く、昨 は帝国ホテルに於て白卿の演説あり。余もまた臨席せしが、さて人 情と云うものは奇なるものなり。窃に観察すれば、聴衆の中に原語 はとても解し得ざるべしと思う人々も、或は拍手し、或は傾耳首肯 するなど、百端身振を粧うを看る。|豊《あ》に自ら欺くの甚だしきものに あらずやと。余これによりて思い出せし事あり。シモン氏嘗てその 小日誌に記して曰く、「余は昔年有志家の依頼に応じ、南方某の処 に於て、即ち仏蘭西と、伊太利亜との国境に於て演説せることあり。 演場は市街を距ること一里許の村落にありて、或る富豪の別荘を以 てこれに充てたり。聴衆は無慮二千余人、館の内外より庭園に到る まで、殆んど立錐の地なきが如し。一言を吐き、一句を説く毎に、 拍手喝采湧くが如く、『ビース』の声、家屋を震動す。演説終りて二、 三の親友と同じく馬に乗りて旅宿に帰るに、道すがら後方猶も|鯨波《げいは》 の声を聞く。余友人を顧みて曰く、生来演説せしこと幾百千回なる を覚えず、そして今日の如き大勝利は初めてなりと、頗る得々たり。 旅館に帰りて後、その筋の人に依頼して、聴衆の種類、党派なんど を取調べしめたるに、この聴衆の使用言語は伊太利亜語、又は『パ トワ』にて、仏蘭西語を解せざるもの十中の七、八なり。解する者 も、議論の曲折、言辞の妙処を咀噛し得るほどの語学の力を有する ものありたしと云う。余ここに於てか諮然として大悟して曰く、演 説に大喝采を得んと欲せば、聴衆の解せざる言語を用ゆべし。これ 秘訣なり」と。余曰く、客の言にして真ならば、白卿もまた演説の 秘訣を知るものと云うべし。 如何なるこれ風流  余巴里に遊学せし時、一夕、星旗楼に飲す。先に一客あり。欽光 燭影杯盤狼籍、余はその光妙寺三郎なるを知れども、未だ親近の人 たらざる時なれば、知らぬ様して堂の一隅に座を占めて独酌す。既- にして彼の視線は数々余の方に向いしが、突然起て余の前に来り日 く、如何なるこれ風流と、余声に応じて曰く、執拗これ風流と。余 の意、実は調する処ありしなり。彼咲然大笑して余の手を執て曰く、 真に知己なり、乞う今より交を訂せんと。これ余が彼と友たるの初 めなりき。今を距ること三十年に近し。そして三郎の墓木もまた已 に挨す。そして余の意は猶昨日の如し。 五百年後、再来救世  僧為然は光妙寺三郎の弟なり。三郎に先立って死す。独逸に遊学 して才名あり。その示寂の時に既に瞑し、又忽ち眼を開いて曰く、 「時機未熟、妙法難説、五百年後、再来救世」 人情の愚一 にここに至るか  余盆栽を愛し、画として草木竹石を視るの説あり。盆栽を名づけ て栽画と云う。一日自ら盆栽を造りこれを栽ゆると云うべきを、こ れを画くというや。一友人傍観せるもの覚えず、絶倒して曰く、人 情の愚一にここに至るか。 香山山谷の奴隷  余一日或る先生と詩を談ず。先生曰く今の詩人は、 山山谷の奴隷なかと。余その故を問うや、先生曰く、 多くはこれ香 眼中唯黄白あるのみと。 先生は如何  余更に問うて日く、然らば則ち先生は如何。先生笑て曰く、 また初学集、有学集を以て足れりとするものなり。 僕も 懐旧談  何か懐旧談とでも題して維新前後の事か何か私の記臆に存してお ることを話をして呉れということですが、私は実はこの懐旧談或は 昔語り又は自叙伝随筆というような、自分で自分の過去の事を話し たり書いたりする程の事がないからでもありましょうか、それはと もかくも全体故人の遺したそういう類のものを見るに、和漢洋に論 なくとかく虚飾の話がまじって俗にいう手前味噌になっておるが多 いです。故に一面に甚だ面白く感ずると同時に一面に於ては嫌気の さすものです。私は今まで自分で自分のことをいうのはなんだか恥 かしいような心持がして、たびたびそういう依頼を受けましたけれ ども尽く断りました。また自分でも書きかけて見たこともありまし たけれども、それもすぐ止めてしまいました。そういうわけで、ま た一方からいうと、維新前後|柳《いささ》か私も国事に関わらぬでもなかっ たのですが、まだごく少年であって、維新になった時が漸く十九歳 です。その真相を穿つとか、実際こうであったとかいうような事は、 当時にあっても、実は解りも何にもしていやしないのです。故に自 分では覚えているように思っても、さて人に話をして見ようと思う と思違いがあったり、順序が立たなかったりして、纏めるには、実 は一朝一夕には無理です。又もう一つは、前から腹稿でもしておい たなら、多少当時の光景だけなりとも、描く事が出来たかも知れま せぬが、つい彼是しておって、荘々余り実のある話は出来ぬのです。 甚だたわいもないような事かも知れませぬが、頭に浮んで来ること をボツボツお話して見ようと思います。取捨は全くおまかせ申しま す。  何からドウいう風に話して宜いか、チョッと困りますが、私の小 供心を刺戟した出来事というものは、異人が来た、壌夷をせねばな らぬ、という話は勿論でしたが、内裏炎上がそもそもの始まりで、 この時は六歳でありました。それから京都の地震、彗星が見える、 コロリが流行というようなこと、また林大学頭が開港を願いに上京 した、堀田が来た間部が来た、青蓮院宮が幽閉せられる、公卿が落 飾させられる、或は有志家が陸続捕えらるる、この時は私の家の家 来も一人やられました、彦根閣老の要撃、酒井若狭守の激文、公武 一致の説、和宮降嫁など、一々数えることは出来ませんが、これら の事が皆少年の頭を刺戟したのです。  それで、その時分の京都の状態というものは、段々騒がしくなっ て来て、私共がまだ十二、三ぐらいの小児で、何にも知らぬながら も|頻《しきり》に僚慨しておるような次第で、喩えば稽古ごとでも、元来公卿 の家では中世以後の儀式的のことを多く学ぶのであったが、そんな ことを覚えた所が仕方がない、|畢寛《ひつきよう》そんな馬鹿なことをしておっ たから、今日のような王室式微の状態になったのだというような考 えを起し、私の家は琵琶を弾く家であって、今朝廷で行う|伶人《れいじん》のや ることなどを学ばなければならぬ家であったが、私はそれが大変嫌 いであって、物心がついて日本外史のようなものを読むようになる と、|弥《いよいよ》々増長して、何でも王政復古になさなければならぬというて 力んでいた。多少気概でもあるような公卿は、多くそういうような 風潮に傾いていました。  全体京都には限らぬ、何処でもそうでしたろうが、この頃公卿の 政見に関する党派とでもいうようなものを、類別して見ると、第一 勤王、これには王政復古がしたいというものと、単に皇室の尊厳を たもち、名分を正したいというものとの二ツがあったようです。次 が佐幕党、これにも幕府を|佐《たす》けて勤王をなさしむるというのと、単 に討幕党に対するのとの二ツがあったようです。それから討幕党、 それから開国派、それから撰夷です。この開国派は公卿には殆んど なかったが、それでも二、三人はあったと覚えます。たしか四、五 年以前に亮去せられた醍醐侯爵なども、開国論者であったと記臆し ます。  さて京都の公卿に、佐幕派があったというと、随分変に聞えます。 すぐ幕府の威力が怖いからであろうかと、或は鼻薬でも貰うたから であろうかと聞えますが、勿論そういうのもあったでしょうが、必 ずしもそればかりでもなかったのです。|柳《いささ》か心あるに係わらず、佐 幕を唱えた者があるのです。それは勿論長州征伐も始まらぬ先であ って、幕府の実力をしらぬからでもあったでしょうが、こういうわ けであったのです。幕府が腐敗したとはいえ、要するに三百諸侯の- 上に立って秩序を保っている。そこへ持って来て、脱藩の青二才や ら、有志家とかいう乱暴ものやら、そういう老が集まって、幕府を 倒すといった所が、それはなかなか行くものではない。一たびそう いうことをして秩序を破ったならば幕府だけは或は倒れるかも知れ ぬが、その幕府の倒れた後に朝廷の力を以て三百諸侯を駕御するこ とは思いも寄らぬ。たとえ一たび取った所が、すぐまた頼朝とか家 康とか来ればまだよいが、或はあとが天下の大乱になって、人民長 く塗炭の苦しみを受けるかも知れぬ。|荷《いやしく》も国を憂るものの実に寒心 すべきであると、こういうことを、正直に考えていた者もあったの です。要するに、社会の実勢を看破するの卓識がなかったからなの で、今日のある一派が、頻りに政党を憎悪するのも、必ずしもため にするばかりでもないのと、同じようなものでした。  それから討幕という中にも、一向当時の幕府が、何処まで腐敗し ておるのであるか、如何なる事が弊害であるかというようなことは、 よくも研究せず、また如何なる手段を以てやれば、その目的を成し 遂げるかというような画策もなく、ただただ糠慨心に駆られて|頻《しき》り に騒いでいたのもあったのです。それから穣夷、これは前にも申し た如く、二、三人を除けば、公卿を挙げて撰夷家ならざるはなかっ たのです。宗教のようなものでありました。元来公卿の社会と云う ものは、御承知の通り、少しも外へ出る事はならず、一小天地の内 に棲息しておった。漸く維新前になって各藩の士と交わったのです が、それも今日の言葉を以ていえば、所謂かつぎに来るというよう なのが上等の部で、中には|難有《ありがた》やの神主然としたような論で盛んに 神風の必ず吹くということを主張しておる有志家も見受けました。 つまり狭い所に|腸蹟《きよくせき》として束縛されていなければならぬのですか ら、交わらんと欲するも人なく、|事《つか》えんと欲するも師なしという状 態で、青年の者には実に堪えられなかったのです。国家の存亡如何 をさえ気遣うているという世の中に、いやそれは古格に背くとか、 いやそれは先例があるとか無いとか、|些《ささ》々たる事で以ていじめられ たり、少しく危言を吐くと、直に古老の機嫌に障ったり、私の十二、 三の時に撃剣の稽古をはじめると、一月たたぬ中に関白から書付が まわった。近頃少年の公卿が剣術の稽古をするという評判がある。 よくない止めたらよかろうと。こういう次第でありました。  当時大臣摂家を除いて、また役人即ち議奏伝奏を除いて外の公卿 というものは、或る年齢まで小番と名づけて、それが六番に別って あって、月に四度か五度宮中に出て勤番宿直をしなければならぬ。 大抵それが一日に十人ぐらい出るはずであるが、中には不参する者 があったりするから、多いときは七、八人、少ないときは四、五人 ぐらいのこともある。そうして番所が三つに分っておって、家によ って詰める所が決っておった。三つというがその実二つであって、 「内々」と名づける所と、「外様」と名づける所とある。その中から また選ばれて「御近習」と名づける所へ出るようになる。内々へ勤 める家と、外様へ勤める家と、その二つは決っているが、その中か ら人選と云うか何というか人を選んで近習というのへ勤める。その 近習へ勤めるのが|柳《いささ》か栄誉のような風になっておった。さて勤番す るにも所謂相番なる者が好い人に出会したときはよいが、そうでな い人に出会すと、漢文の書を読んでも余り機嫌が宜くない。彼奴は 孔子みたような顔をしているというようなことをすぐ言われる、そ ういう風であった。私の初めて勤番に出たのは十三の年であって、 私の家は外様という方へ出る家であったから、その方へ出て五、六 箇月も勤めている中に、今度は近習という方ヘ出ることになった。 三条、岩倉なども矢張り近習であって、一緒に宿直をしたことも覚 えております。三条は宿直の時なども誠に行儀のよい人でありまし た。この小番がまず我々の常務で、それから|豊明《とよのあかり》の|節会《せちえ》とか、|白 馬《あおうま》の|節会《せちえ》とか、又は|新嘗祭《にいなめさい》あるいは臨時祭というようなことに出な ければならぬのでした。こう云う次第であって、我々の生活は実に 区々の小礼に拘泥してたわいのないもので、馬鹿げきって事々物々 が歎息の種であって、自己の必要からいってもこの社会に安んじて おる事は出来なかったのです。そこで少年が言合せて建白をすると 云うようなことをやって見たり、どうせ小児輩のやることですから 用いられるわけもなし、それがまた叱られる種になるというような ことで、実に八方塞りという按排で苦しんでいたのです。はじめて 西洋事情を読んだ時などはこれは余程たってからではありましたが、 こういう天地に生れたならば、さぞ面白かろうという感じを起した くらいでした。  中山忠光ですか……一番はじめに脱走したこの人は、これも一緒 に勤番した人であって、よく私は知っておった。丁度脱走した日が 小番へ出る日であって、その小番へ出ることについてチョッと談が ありますが、受取という者があって、毎朝順番に一人ずつ早く出て 引継を受けることになってある。前日の人は引継を済まして帰る。 その中に当日勤番の老が出て来て、その日の人が揃うという順序で ある。丁度その日、私は受取の当番で一人先へ出ておると、中山の 不参届を持って来た。ところがその不参届は、今日は所労によって 不参とか、或はこういうわけで今日は誰某を以て代番せしむるとい う理由附の届でなければならぬのに、ただ今日不参仕候というだけ で、病気とも何ともない。私はそれでも別段差支はなかろうと思っ て受け取っておいた。すると後から外の者が出て来て、こう云うも のを受け取ってはならぬ。しかし受け取って使いは帰して仕舞った。 それはいかんから何とかしなければならぬと、一場の波瀾が起って 大きに閉口したことがある。ところが後になって見ると、その日が ちょうど中山の脱走した日であって、なるほど脱走するとも書けな かったから、ただ不参と書いたものであろうと後に感じたことがあ ります。彼は私よりも年長で古い方であったから、初めは随分彼に |虐《いじ》められて酷い目に遭されたけれども、後には幾分か交が好くなっ て、或る日つまらぬ小説本であるが二十冊ばかりくれた。変なこと だと思っておったが、つまり脱走の遺品でありました。その本を存 じておけば宜かったのに、西洋へ行って来る間に失して仕舞いまし た。  七月の十七日の暴発ですか……当時の宮中の光景もよく記臆して います。その日が私の養父の祥月命日であって、その日は習慣で宮 中を輝らなければならぬ。ところがその前晩大変|八釜《やかま》しいことにな って来て、私も宮中に詰めておったが、もう夜の十二時になると翌 日になりますから遠慮をしなければならぬ。それで宅へ帰って来た、. 私の家は蛤御門のつい近辺であって、戦場の一つで私の門の前には 大分人が倒れたり何かしておった。何でも朝であったか、戦争が始 まってブンブン屋根の上を鉄砲弾が飛んで行くような、それからこ れは遠慮しておる場合でないと、直ちに服を改めて門から出ようと すると、戦場で出ることが出来ない。すると私の家の裏の方に小さ な公卿がいる。その家の塀を破って、そこを通して貰って東の方の 日の御門というのから漸く参内したのでした。どうもその時の混雑 は非常であって、それから主上の御在になる所に詰めておると、ド ーンドーン砲火の音が聞える。そのうちに彼方此方から火の手が揚 るというようなこと、その時によく覚えておるが、会津肥後守あれ が京都の守護職で、大分兵隊を連れておった。私の家の前に、もと 御花畑というた広い空地があって、そこが御馬屋というものになっ ていたが、そこへ陣取っておった。|固《もと》より守護職のことですから、 それが常の御殿の前へ向けて警衛に出るというときに、混雑の中で、 その間に中門が閉っていて行かれない。その時に確とは記臆しませ ぬが、柳原光愛という人であったと思う、なに構わぬ破れと云うの で、皆中門を破って|這入《はい》って来た。誰も号令を掛けたことなどは知 らぬものですから、直ぐに解りはしたが、一時は大いに驚いて関の 声を揚げたようなことを私は覚えておる。それから肥後守が御階の 一番下の段に腰を掛けて弁当をつかっていたのも歴々眼に残ってい ます。  その時に淀藩が、これはドウいうわけであったか、その中で白鷺 を献上するといって確かその翌日であった、まだ京都の町はドンド ン焼けている時に何でも大きな籠に白鷺を十羽か二十羽入れて献上 した。するとこの中ヘ白鷺などを持って来て怪しからんという者も あったが、しかしこれは御覧には入れなければならぬというので、 御覧に入れた。そこで御沙汰によってかドウかこれもしらぬが、そ の白鷺をみな籠から出して放して仕舞うた。ところがその騒動の中 で欄干に|伶《とま》ったり方々の縁先に止っておったりして、よく馴れてい て頗る奇観であった事もまだ目に残っています。この時が私の十六 の時でした。 四  慶応三年の十二月と思います。日は記臆しませんが午餐しておる 処へ突然御用召ということであった。それから出た所が参与という ものに命ぜられた。その時分は議定というものと参与と二つあった。 その時初めて政府に|這入《はい》ったものだから、それまでは所謂暗中に模 索していた、天下の形勢が大分解ったような心持がしました。岩倉 その他よりも色々それまでの苦心を聞きました。この時分に議定と か参与とかいう人は、多くは有志家の自動的であったが、私は全く 受動で以てこの職に就いたのです。これから私が山陰道へ出張する まで、誠に短い間でしたが、頭に浮んで来る事は沢山にあります。 岩倉と容堂との舌戦、大久保一蔵と後藤象二郎との争議、または尾 越が内意を受け大阪城に往った時の復命、慶喜採用如何の三条、岩 倉反対主張など。その他にも私は現にその席に列していましたから、 当時の光景がたお眼前に髪髭としています。そうして世間伝うると、 ころとは、事実はなはだ異なっている事もあります。しかし右等の 事は他日猶よく調べてから御話をしましょう。万一誤りを伝えては 死者に対しても、後世に対しても済みませんから。  伏見に戦端が開けたとの報が宮中に達した。するとその藩から出 ていた参与の某々が、戦争がはじまったらこれは私闘にしてお仕舞 いなさい、然らざれば他日朝廷のために如何なる憂を遺すかも知れ ませんといった。そのとき私は言下に、この戦を以て私闘とするが 如きことあらば、天下の大事去るといった。ところが、岩倉が側に おって思わず知らず、小僧よく見た、この戦を私闘にしてはどうも ならん|哩《わい》……と叫んだ。全体岩倉という人はその頃は厳々格々とい う事を口癖にいうて、言葉遣いなども切口上で以て、小僧には相違 ないが同席に向って殊にかくの如き席上にて小僧などとは決して言 わぬ人であった。その時はよほど嬉しかったと見える。実はこの場 合は油断のならぬ刹那であって、随分アントリ1グもあった時です。 私も賛成を得てホット息を吐いた事を覚えています。  その時分に諸藩から出て参与になった所の彼の大久保一蔵、後藤 象二郎というような連中、幾人程であったか一日拝謁仰付られると いうことであって、今上陛下は勿論まだ御幼少で、その時分の藩士 のことですから、小御所の庭へ大きな座を設けて、その上で階下か ら拝するということになった。それから、私は厳めしくいケて、天 下の大事を議する所謂国家の柱石ともなるべき人を、、庭へ坐らせて 拝謁させるとは何事であると、争ったけれどもナカナカその議論は 通らなかった。すると或る人が側におって、そうすると西園寺さん の説では、大久保大納言とか後藤中納言とでもなさる御積りかとい うから、無論のことである、人材を登用するためには大久保太政大 臣、後藤右大臣というような者が続々出来なければならぬ、古格に |泥《なず》んでいるようでは|蓮《とて》も天下の事は出来ないと言ったが、一向その 議論に耳を貸す人もなかった。  談は少し前に戻りますが、丁度伏見の戦争の始まる前に、今の徳 川公爵であるが二条の城におって彼処で政治を執っておった。とこ ろがそういう風に切迫して来て、イッ何時暴発するか知れぬとなっ たものですから、急に二条の城から大阪へ引上げたその跡を吉井幸 輔という人と私と二人で見に行こうというので、二条の城ヘ見に行 ったことがある。確かに引上げの翌日と記臆しておる。仮屋が沢山 建ってあって、いろいろな物が散乱してある。いかにも倉皇として 引上げた有様が見えておった。それから仮屋の縁を伝うてズッと先 の方へ行くと、畳の上に血汐が一杯溢れておって、吉井幸輔がこれ は忌々しいものだといって|頻卑盛《ひんしゆく》したことを覚えておるが、それは 何か諌言をしたが聴かれないで割腹した跡だと聞きました。人の名 は聞きましたが忘れてしまいました。その時に西洋鞭の持つ所が鹿 の足の形に出来ているのが掛けてあった事まで目に残っている。  少し話が飛びますが、その後越後の戦争が済んで、会津侯の帰順 が叶って、城明渡しが済んだその後であったが、正親町と私と、私 は越後口から行っており、正親町は白河口から行っておった。今の 伯爵の養父です。それとモゥ一人今の貴族院議員の渡辺男爵ではな かったかと思う、違うかもしれぬ……と三人で会津の城の落ちた後 へ|這入《はい》って見た。その時なども屍骸が沢山庭の砂を掘返して、その 中へ埋めてある。米俵を積んで砲丸を防禦したのがそのままあると いうようなことで、惨状を極めておった。それからその前まだ城の 落ちない時に、股々城下まで迫って行って、私は藩士の家か何か知 らぬが、一軒横領しておった。なんでも一週間程そこにおったと思 っておりますが、どうも井戸の水が変な臭気がして困るけれども外 に水がないものですからそれを飲んでいた。ところが日に増して臭 気が甚だしい。仕方がないから井戸替をしたらよかろうというので、 皆寄って井戸替を遣りかけると屍骸が上った。また遣るとまた上っ た。トウトウ五つばかり出した。その水を一週間ばかり飲んでおっ たのです。  さて俗に二度ある事は三度あるというが、私が仏蘭西ヘ行って始 めて巴里へ|這入《はい》った時は、コンミュンヌ内乱の時であって、コンミ ュンヌが巴里を占領しておってナポレオン帝の住居しておった処の 宮殿を銭を取って見せていました。私も這入って見たが、もちろん 二条城、会津城とはわけが違うが、人をして無限の感慨を起さしめ た処は矢張り同じ事でありました。  私が参与になって間もなくでありましたが、西洋へ留学がしたい という事を言出した。丁度その時偶然にも、仁和寺宮様並びに五条 孝栄という人が同じく言出したと思います。他にも有ったかは知り ませんが、しかしこの五条と云う人は終に行かなかったようです。 然るに伏見鳥羽の戦争がはじまる、山陰道へ出る、引続いて越後の 軍に行くというような事で、私の洋行は明治三年まで延びました。  何故に山陰道へ出たか……これは御尤な疑問です。こういうわけ であったのです。元来昔から京都で敵を防ぎて勝った例がない。こ れは頼山陽などの説から来たようです。いつも天子様は叡山へ難を 避け給うたが、叡山は地の利を得ない。よって万一の事があったら 西の方へ行って、彼の明智光秀の上って来たと云う老の坂から丹波 の方へ出て亀山の城を乗取って、丹波の方で防ごう。それから山陰 道をズッと従えて長州と手を合する事にしようという相談がきまっ たのです。蓋し真に枢機を握っていた人々には別に見る処があった かも知りませんが、兎も角も万一の時は山陰道の方へ、御遷座をし ようという覚悟であった。そこで私は伏見の戦が始まると直ぐ山陰 道鎮撫総督というものになって、何でも長州と薩州の兵隊を大勢引 連れて丹波の方へ行きました。その日に老の坂を越えて馬地村とい う所へ行って陣取った。それから何処から持って来たか知れぬが、 薩人が妙な野戦砲みたようなものを二つばかり持って来て、車も何 もないから牛車の上か何かへ載せて、亀山の城の方へ向けると大騒 動が始まって、直に降参というようなことになった。無論初めから 朝廷に反対する考えもなかったでしょうし、降参というのは少し無 理ですがそう言っていました。その時亀山から我陣所へ使者か何か に来たものがある。それが此方より取次に出た者を見ると以前亀山 の城下で按摩をしていた者であったとかいうことで、そこで大いに 驚いて按摩の探索が|這入《はい》っているようでは、もうスッカリ手が廻っ ているに相違ないといって、大きに|狼狽《うろた》えたという滑稽談がある。  それは後に聞いた話です。  そうする中に伏見の戦は官軍が勝って、将軍は大阪から船に乗っ て江戸へ帰ったというようなわけであったから、以上の画策は用を なさなかった。それだから私は三丹因伯を廻って、天の橋立もその 時に初めて見た。トゥトウ出雲の大社まで行って、あれから引返し て来た。丁度三月頃に主上の大阪行幸ということがあって、大阪で 拝謁をして復命をしたのです。  その後一ヶ月を隔てて五月になって越後の方が大分|八釜《やかま》しいとい うので、私は会津征討越後口総督(後に仁和寺宮様が御出になって、 私は大参謀というのになりました)というのになって、北越に向って 進発したのです。色々頭に浮んでくる事はありますが、今はこれま でにいたしておきます。   左に侯が口吟中編者が記憶に存するものの中よりその   四、五を掲ぐ 梅ひとつふたつ一日二日哉 梅の咲くあたりを庵の恵方哉 るすの戸の御慶を梅に申けり 初春やなに」添えても梅の花 一枝は梅も手折りてねの日哉 水に月にさては雪にも梅の花 小流のこ二にもほしき野梅哉 留守にして今年も返す土用哉 冷し汁酒も井戸からあけに見 夕顔に見残されけり二日月  提けて居る籠にも虫の高音哉  高汐に磯の踊りの崩れけり    左は侯が維新前の作の由友人間に伝われるものなり 宵につめりしみのつめかたの     月もうすらぐ朝わかれ   漢 詩 陶庵侯漢詩少からず、今は割愛して左の一編を掲ぐ、引と評 は梶南森先生の筆なり   星旗楼題壁  二十年前。予与光妙寺三郎。飲此楼。     三郎有詩景琴樽奈秘俳之句。今再過此。不禁法     然。因作二十八字。 琴情詩景夢荘荘。二十年前旧酒場。 |無数垂楊生意尽《りりりりりりり》。|傷心不独為三郎《りりりりりりり》。 森梶南日、用意凄椀、直与稽琴向笛同悲、○又日、 公瀧漉風流、多能湧芸、襟期尤為噴達、難清華貴冑、 而与夫盛服趨朝自衿風度者週異、曾在仏国、与光妙 寺、水賓契合、後水賓病卒、家貧嗣幼、公独力為之 営葬、情礼甚備、最称盛徳、丁酉夏、再游巴黎、罹 盲腸炎症、医勧戴解治之、即賦詩云、自笑間愁核不 得、平生我是断腸人、其雅量如此、 陶庵侯に就て 編者国木田独歩 ◎西園寺侯の随筆を一冊にまとめて世に出した理由を一言する。侯は一 世の公人である。侯自身から言えば、我輩は我輩で、他人の評判には絶 対に頓着しないと申されるかも知れんが、社会の方からいうと、そうは ゆかぬ。侯が既に一の大なる公人であって見れば、侯を研究するのは社 会の権利であり又義務とも言えるのである。例せば政友会の総裁は如何 なる人物であるか全然無識で居て、而して尚お此大政党に信頼する人が あったら、それは盲従である。則ち余が此小冊子を編輯した理由の一は、 我社会に之を提供して侯を研究する一資料として貰う積りなのである。 ◎次ぎに、侯の随筆は余の見る所で言うと、一の立派なる文学上の産物 である。これを書いた人が西園寺侯なる高名な人でないにしたところで、 尚お且つ読書界の注意を惹く価は十分にあるのである。侯自身も言いし が如く随筆というものは、兎角いやなもので、どうかすると自分の手前 味噌を並べ、手柄話を吹聴するようになり、心ある人が読むと偏に恐縮 する位が落ちであるが侯の随筆に限って此臭味がないのは、全く侯の趣 味の高いが故であると余は信ずる。則ち余は此高い趣味の一端をば読書 界に紹介したいというが此小冊子を編輯した第二の理由である。 ◎先ず編輯の理由は以上の如しとして、抑も此随筆はどうして出来たか、 其来歴をここに一言するの必要があろう。明治三十二年三月の『世界の 日本』第三巻第六号を播くと次ぎの如き文字がある。 昨年三月、余宿痢再発して以来、 大森に退居し、 人事を廃して病を 養う、久うして無柳に堪えず、往々にして医師の禁戒を破りて、親友 と雑談す、言固より戯誼滑稽口を衝いて出るものにして、要、思慮を 費やさずして閑日月を消さんと欲するに過ぎず、然るに世界の日本記 者の物数奇なる、余に勧めて此雑話を筆述して、其雑誌に投寄せしめ んとす、余平生、所謂る随筆なるもの上誇張、虚飾に失するもの多き を見て之を随なりとす、豊にまた自ら求めて之に傲わんとするものな らんや、然ども口には既に之を言う、筆には之を記すべからずとの理 なしと云う記者の「ろじっく」に敗北し、遂に筆を取りて此閑話を草 するに至る、昔はジウル・シモン氏が、ルタン新聞記者の請により 「我小日誌」と題して時々一二の閑談雑話を寄するや、其声、必しも 大ならず、其音必しも誇々たらず、軽々に、人生の外皮を撫したるが 如きに過ぎずと難も、所謂言うもの罪なく、聞く者以て戒しむるに足 るの妙ありて、余は深く之を愛読せり、今此閑話を草するにあたり、 窃かに其躰にならう、余の不文豊に敢てシモン氏を以て自ら居るもの ならんや、然れども世若し戯誼を愛する者ありて、此閑話が、多少世 界の日本記者の志を|賛《たす》くるものあらば、余に取りては望外の幸と云わ ざる可らず。   己亥三月             陶庵主人識 『世界の日本』記者とは竹越三叉氏である。則ち此随筆は、侯が特に竹 越氏の『世界の日本』のために草されたので、『世界の日本』十冊ばか りに亘って掲載されたのである。 ◎竹越三叉氏は後進政治家中、最も陶庵侯に親しき一人で、侯の曾て文 部大臣たるや、勅任参事官として用いられたことは世人の皆な知るとこ ろである。そこで余は先ず三叉氏の陶庵侯論を紹介して後、余の知ると ごろの侯を説くが事の序順だろうと思う。三叉氏嘗て侯を論じて日べ、  卒然として彼を見し者、或は久しく彼を知るも解せざる者、往々に して其一面を見て帰る、某の官あり、曾て一議論を有し、彼を訪うて 説くこと頗る熱切なりと難も、彼れ冷然として応ぜず、某帰って余に 謂うて曰く、陶庵先生と語るや、頭部より冷水を|澆《そそ》がる、が如し、余 は其識見の透徹を見る、未だ其国事を担当するの熱心を見る能わずと、 余笑って曰く、陶庵侯は禅家問答的の悪戯手段あり、足下適ま其手段 に弄せられしのみ、何ぞ更らに|渠《かれ》を訪うて、却って渠を熱せしめざる やと、然ども其人、遂に畏縮して再びせず、恐らくは此他にも此類の 事少からざらん、然ども渠決して冷然たらず、其識見の透徹するがた めに、無益に騒がざるのみ、去れば他人にありては、驚愕し、煩悶す べきことも、渠は家常茶飲の如くに之に接す、之を以て他の狼狽、激 昂、憂慮を見れば憐むに堪えず、先ず一杯の冷水を投じて己に帰らし めんと欲するのみ、渠山豆に冷然として無頓着なるものならんや、眼底 涙あり、皮下血あり、懐慨し、憂慮し、怒憤す、唯だ智力を以て強て 之を抑え、冷静の工夫を試みんとするのみ、フィガロの所謂る、泣く ことを免れんが為め、万物を笑うと云うは、渠に於て之を見る、渠が 仏京に於てアノトーに招かる\や、室内幾多リシュリウの塑像あるを 見て之を評して曰く、近時の彫刻多く刀法に重きを置くがため、人物 骨立、衣服、搬立ちて、其内なる人の精神を発揮し得ず、是れ精神を 以て外形の奴隷たらしむるものなり、彫刻の上乗は外皮柔軟にして、 而して真に能く其気塊を写すものならざるべからずと、去る頃遠征の 人に別れんがため、四五の友人、渠の家に会し、談絵画に移るや、彼 古今東西の絵画を論じて遂に云う、絵画の真諦は、筆鋒筆力の境を過 ぎて、全く之を没却し、只だ物の精神を写し出すにあらざるべからず、 筆力に拘泥するは、未だ第二流たるを免れずと、人は往々、閑談冗話 に其大哲学を洩らすものなり、彼が彫刻に於ける刀法、絵画に於ける 筆力を没却せよと云うもの、臆がて、彼が熱心、怒張、懐慨、勇気等 の外貌を排して、俳優的となし去り真個の人物は此境を過ぎたる人に ありと為す所以か、是れ世の自称熱心家、専門懐慨家、街学者流が渠 に至りて冷水を澆がる二に終り、遂に其国家担当の気魂、憂時慨世の 熱心、撃兇排姦の勇烈に探り当らずして走る所以也。  世には彼の議論を好まざるもの少からず、然ども此等の人々も、彼 を以て、立品粋然、性情高朗なる=局人とするに於て異論なきもの、 如し、余が親友、某、彼を評して曰く、余は前後二回侯が文部大臣と なりしときに面会し、其外務大臣兼文部大臣を辞したる時にも面会し たり、余は多くの大臣大将を知る、其得意失落の際皆な顔色を動かさ ざるはあらず、然ども侯のみは昇沈得失、未だ曾て平生と異ならず、 恰かも鳥の梢より梢に移るが如し、其意実に大臣大将は、我家のもの にして、異とするに足らずとするものかと、余は未だ曾てか、る事に 注意せずと難、若し之あらばまた以て其人品を示めすの一端とするに 足らん、然れども其高人たるは薙にあらず、其把持する理想の崇高博 大なるにあり、之に対する信念の堅実確固にして、曾て得失利害のた めに動かざるにあり、其識見高遠透徹にして、物のために掩われざる にあり、故に彼に接するや、一種の真気、人を襲い、人をして昂騰し て高きに上らしめんとす、昔し郭林宗は人の黄叔度を問うに答て曰く、 叔度は注々として万頃の波の如し、之を澄ませども清まらず、之を擾 せども濁らず、深広にして測量するを難んずと、世若し此評論に適す る者あらば、渠は確かに其一人ならん、所謂る三日、見ずんば、卑吝 の念生ずと云うもの、渠に於て始めて之を見る、余故に平ならざる事 あるや、即ち侯に詣りて談論するを常とす、一言にして其人品を評す れば、それ天半の朱霞か。  右は三叉氏が侯を評論せし一節であるが、此等の言に就て余は悉く同 意である。侯の人品を説明し得て透徹せりと言わざるを得ない。 ◎殊に末段の、彼に接するや一種の真気人を襲い云々の言は余も亦た切 に感ずるところで、余の侯を知ったのは四五年来のことで日も未だ浅い けれども、知れば知るほど侯を包囲する瀬気の真且2局なるを感じない わけにはゆかぬのである。侯には些の虚偽がない。些の虚飾がない。何 時遇って見ても有りのま、で、言わんと欲すところを言い、為さんと欲 するところを為す。所謂悠々自適の趣が其一挙一動に示されるのである。 だから余の如き、侯と相対して語って居ると、何時の間にか平易にして 自然なる心持になり、親切なる、賢明なる師の前に坐って居るような気 がして来るのである。 ◎凡そ後進生が世の先輩の前に出て、雑談の際、先輩が口を喋んで他を 見てでも居ると、後進生たるもの、頗る所在のないもので、気の塞る思 をするのが例であるが、余の陶庵侯に就ての経験はそうでない。余はし ばく侯の傍で一時間も新聞を見て居ることがあった。侯は書きものを して居るか或は同じく新聞を見る、時には盆栽に手入れをして居る、そ ういう時に余は此政治上の記事は如何とか此議論は如何とか教を請う。 すると侯はそれはかく、これはかくと明晰なる一言半句の断定を下して 示教される。か、る時、余は些の窮屈をも感ぜず、恰も慈父の傍にでも 居るような気持がしばくしたのである。思うにこれは侯の寛厚なる徳 性の然らしむるところだと思う。一寸としたことであるが、人物の性情 は得てこういう場合に露呈するものだと余は信ずるから一言した。 ◎余はこれより侯に関して知るところの二三を左に掲げて、侯が閲歴の 一端をこ、に紹介する。 ◎侯は明治三年の春、洋行の途に上って其時が二十一歳、普通から言え ば単に一個の青年たるに過ぎないが、侯は家門高き身を以て維新の革命 に遭遇したるが故に、十九にして参与となり、山陰道鎮撫使となり越後 口総督となり、岩倉公と山内容堂との有名なる大議論、大久保と後藤の 討論などの席にも列し、長岡に戦い会津に戦うなど、随分場数を踏んだ ものである。併し有体に言えば幕府に対する薩長の平侍から担れたのだ、 擁されたのだ、要之利用されたのだ。其間侯は侯自からとして経編もあ り勲功もあったには相違ないが、余り面白ろくは無った様である。其処 で維新の大業成り侯は越後府の知事に任命されたが、無論感心しない、 屡々辞したが聴れない処から断然官を捨て」東京に帰えって了った。そ して兼ねて希望して居た洋行の事を決した。侯の尋常一様の貴公子であ らざりし事は実に此一点に依て説明されるのである。侯は其時既に眼中 門閥なく、当時の天下の率先者が信じ且つ論じて居た平民主義平等主義 は一平民ならざる一武士なからざる、大貴族の侯亦た熱心に之を主張し て居た。其一例を言えば木戸等が侯に結婚を勧めた時、侯は真面目に下 層の娘を取女って平等主義の実を天下に示したいと論じたことがあるのを 見て其の意気込の凄じさが|了解《わか》る。が単にこれだけなら先ず突飛時代の 産物として別に不思議はない。侯は一歩を進めて其平民主義を自家の世 に立つ根底に実行せんと決心した、即ち洋行である、即ち我は当に実力 を以て天下に立つべしとの覚悟である。其処で十九歳の参与二十一歳の 地方長官たる身を以て、甘じて一書生となり万里の旅程に上ったのであ る。 ◎洋行前の侯の生涯は先ず右の如くである。処で此処に少しばかり其時 代に於ける侯の公友知己のことを述べる必要がある、随分面白い話説も あるので。 ◎維新前天下動乱の機動いて居る際であるから当時の青年輩は武士と堂 上家とを問わず、誰しも悲歌糠慨の徒であったが、其中でも侯の如き 「余の家は歴世の閥閲たり、而して中葉以還太政大臣公経より数世間、 外戚の権を挟み位人臣を極め威朝野を傾く、降て大納言公宗に至り陰に 意を北条氏に通じて非義を謀り一身遂に天下の識と為る、年代悠久なり と錐も、其事載せて青史に在り、余幼なりと難も、筍も先祀を奉ずる者 なり、豊其汚辱を雪がざるべけんや、方今幕府其政を失い天下漸く動く、 将に身を以て天下の先と為し上皇威を挽回し、再び王家の国たらしめ、 下家門の汚名を雪ぎ以て累世の天恩に報ぜんと欲す」という精神で、意 気軒昂の度も自から他と異なって居た。そして其力味仲間が柳原前光伯、 万里小路通房伯、坊城俊章伯等皆な十六七歳の同年輩であった。 ◎当時侯等の如き血気盛な若殿原から屋守という異名を頂戴して居た、 しゃくんだ顔の、口の大きい、眼のきょろりとした岩倉公は後にこそ維 新の大功を以て公爵に叙せられしも元来家門は侯等よりも余程低い方で 参与席にては侯の方が上席であったが、彼は実力と年輩との故を以て常 に機密を決する立役者の一人を務めて居た。処で天下の事愈々切迫し朝 廷方の薩長兵と、幕府方の会津桑名兵とが遂に伏見で衝突した時に、参 与の某氏等は、此衝突をば一場の私闘と視る方が策の得たる者だと主張 した。すると其坐に列して居た一青年は猛然として席を進め、果してそ う為るなら天下の大事去ると言い放った。此一言を屋守の岩倉如何に喜 こんだろう。膝を拍て「小僧うまく観た哩!」と叫けんだ。其青年寧ろ 少年は即ち西園寺侯であった。平常上席なる侯に向ては丁寧なる言葉を 用いる岩倉が思わず小僧と叫けんだので当時の様子が思いやられる。 ◎侯が越後口方面に従軍して居る時の事であった。或日前原一誠が|憧《あわた》だ しくやって来て大変が起ったと言う、何だと聞くと榎本釜次郎等が甲鉄 艦を奪って箱館に拠ったそうな。今我国で此等の軍艦に敵する者は無い、 実に天下の一大事だという。侯、何でもない事だ少も憂うるに足らない、 若し乃公が榎本なら其艦で東海に出没して大阪と江戸の海運を絶ち紀州 藩を威迫して之を従え以て天下に当るの策を立てる、其を何ぞや箱館な んどに逃げ込むなんて愚策笑うべしだ決して憂うるに足らない今に自滅 するだろうと笑って語った。流石の前原もこれには驚き実に閣下は拙者 の小供と言っても宜しい年輩で其識見が有るとはと痛く推服したそうだ、、 ◎其後とも侯は|暫時《しばら》く前原と一処に軍に従って居たが越後府の知事にな った時も前原は侯の顧問役に立って居た。侯が官を捨て、東京に帰るや 旅宿を今の江東中村楼の別室に取った。すると筍も堂上家の身を以て斯 る場処に下宿するとは朝廷に対しても相済まぬ次第速に大名屋敷なり然 るべき処に転宿あるべしとの説が仲間内から出た。侯は馬鹿を言うな自 分の勝手だというと其座に木戸孝允が居て、侯の自由に任かしたがよか ろうと賛成した。其処で侯は其儘中村屋に滞在して居て盛に遊んだもの である。 ◎侯が越後から帰ると間もなく前原も帰って来た。而して同じく江東に 下宿した。元来前原は長州人であり乍ら薩州の人問に評判のよい男であ ったが、後に兵を挙げた程あって平常や、ともすると不平を懐き高く自 ら標置して居た。越後から帰っても頗る不平で、三条公などが彼を軍務 局に推挙した時、彼は例の癖を出してイヤ拙者などの任に非ずと妙にひ ねった事を言って出ない。其処で三条公は侯に依頼の書面を出して何と か前原の出るように説て呉れろと申越した。侯は早速前原の宿へ行くと 芸老の着物が脱ぎ捨てLある。女将に聞くと果して前原の処へ来て居る のだから直に侯は其着物を着てヌッと前原の座敷に現われた。前原は差 向いか何かで宜しくやって居たが之を見て其衣装は如何ですと驚ていさ さか面喰った処を侯は取て圧え実は之れ之れの用で来たが出た方が宜か ろうと勧めると、前原二言は無い、頗る真面目に成って拙者其任に非ず と難も、謹でおうけすると承知して了った。 ◎長州人の中にて尤も侯の人物を認め居たるは大村益次郎であった。侯 が洋行の事を決したる後、一応京都に帰り京都より更に東京に上りし時、 対州侯の持船なる一小汽船に便乗して遠州洋を航して来た。其途中で外 輪が屡々其回転を止め其を乗客が棒で衝て廻転せしめ、侯の如きも其役 を務めた一人であったなどいう奇談も有り、品川まで来て見ると大村益 次郎が迎えに出て居た。大村のいうには海上は如何で有ったか。侯、特 別の事も無かったが唯だこれくの厄介な目に遇たと以上の話をすると 夫れは残念なことである若し非常な暴風で大荒を食たなら閣下の洋行も お止めに成たろうにと大村は笑った。蓋し大村は侯の資性又た将軍たる に適するを知れるが故に、何とかして当時彼が横浜に立て」居た陸軍学 校に引入れる積りで侯にも頻りに其を勧めた程で侯の洋行を思い止まら しめたかったので有る。然し侯の希望政治に在て軍務には無かったから 洋行の事は遂に決行された。決行前侯は今一度京都に帰る用事が有って 其と前後して大村も京都に行く筈で、先着者は互に其を通知する事を約 した処が大村が先に着て侯の許に知らした。侯は其処で西京に着くや直 に大村を訪わんとする。其出先に友人某が久しぶりで訪問したから侯も 其夜は其友人と談じて過ごした。而て大村が刺客に襲われたのは其夜の 事であった。同夜大村の宿所に会して居た中には殺された者もある。 ◎侯は余り大久保とは相知るに至らずして止んだ。然に侯が洋行に就て 尤も有力なる後押は大久保で有ったとは侯の自白である。 ◎以上の如くで有るから侯が洋行前の知人は洋行十一年間に殆ど他界の 人となって了った。而も前原の如きは悲惨な最後を遂げた。而て日本の 政治史は十一年間に幾多の大活劇を演じ、木戸西郷大久保悉く去って、 寧ろ第二流政治家の手中に政治の実権が帰したる後、侯は帰朝した、即 ち侯が伊藤と相知るに至りしも全く帰朝後である。 ◎侯の伊藤侯を知り又た伊藤侯から知られたのは帰朝後の事である。留 学前は、長州に伊藤俊輔という若手の才物が居るそうだ位の樽を聞いた 計りであった。伊藤が参事院の議長をして居た時、侯は仏国から帰て間 もなく参事院議官補となり、当時天下の才俊を集めて居た参事院に在て も侯は殊に傑出して自ら異彩を放て居た。伊藤が侯に着目したのは此時 である。其処で明治十五年伊藤侯が憲法取調ベの為め欧州に渡った時侯 も亦た同行者の一人に加った。侯が伊藤の人物及び其経仏柵に就き大に感 服したのは此渡航中、伊藤と親しく談論した結果である。是より以後は 侯が政治上の進退悉く伊藤と共にするようになったと言っても宜い、と は言え侯自ら何になりたいなど奔走し運動し依頼した事は決してない。 唯だ一度、明治二十七年七月大使と為て朝鮮に行った事がある。其は日 清開戦の初ゆえ侯は一度朝鮮を見たいものだと思って、伊藤首相を訪う て其話をした結果である。 ◎伊藤侯の他に、政治上に於ける侯の提携者を求むれば故陸奥伯である。 十三年に仏国から帰った時陸奥は未だ獄窓に岬吟して居た。彼が獄から 出るや、侯は之を訪うて大に快談を試みたが、其は寧ろ放言高談した迄 で決して真面目に政治上の経論を語ったという程には至らなかった。十 八年侯が填国公使としてウインナに駐在せる時、恰度陸奥が欧州ヘ来て、 今度は互に治国平天下のじみな処を語り合たらしい、二人の交際は其の 後益々親密を加え、陸奥逝去の電報が時の外相大隈伯から侯の許に飛だ 時は侯恰も例の盲腸炎で将に帰国の船に乗らんとする間際であった。兼 ねて期したる事とは言え、侯自身も亦た生死の難病に犯されて居る際で あるから、此電報を見て侯は無限の悲痛に打たれたということである。 ◎陸奥伯が侯を以て第一の高人と評した事がある。即ち伯の侯に服した 点は一方には学あり略あり乍ら一方には持て生れた高貴の品性ある事で ある。侯に尤も親しき友人が侯の尤も嫌いな者は策士偽善家御用商人の 類なりと評したが其実侯自身決して策のない人ではない、唯だ之を卑随 なる目的の為に用いない計りである。陸奥の服したのは即ち此点である。 其処で侯は陸奥の奇才に服し陸奥は侯の品性を推し以て藩閥以外一地歩 を抜いたのである。嘗て侯と陸奥雑談の際、侯は吾輩は相手が意地悪く 出れば此方も其積りで真直には出たくなくなる、又た怒れば生意気だと 反抗してやりたくなると語るや、陸奥は、其れだから甘く行かない吾輩 は決して其なことは為ないと言った。此は二個の外交家の談話と見て宜 ・しい。侯は今日と難も人に語て、成程か\る心がけは陸奥の長所であっ たと誉めている。陸奥伯将に逝かんとするや、遺言して其墓碑には伯爵 陸奥宗光と書し其文字は西園寺侯に依頼せよと云った。其通りにして高 野山に其碑は立て居るそうである。 ◎光妙寺及び中江の二人は仏蘭西留学の際、最も親しく侯と交ったが、 光妙寺は殆ど貧乏の極に達して死し其死後其遺子を侯は引取りて今日尚 お我子と難も及ばぬほどの親切な世話をして居る。是は光妙寺が今はの 際に其遺子を侯に托したのであると聞いた。 ◎侯は今でこそ政友会の総裁として民間政治家の統領となり、従て侯の 手腕も今後に於て大に振わる可き時機にはなりしも、従来の侯は其人物 の識者間に尊崇せられ信頼せられて居たに関らず、余り多く舞台に上ら なかったのである。従て十分の技禰も発揮されずに今日までに至ったの である。其大なる理由は侯の日本に在る年月の非常に少ないことである。 十一年間の留学が済で帰国するや二年立たぬ中に伊藤侯等と渡欧し、帰 朝したのが明治十六年であって、十八年には填国駐在の公使となり、十 九年夏帰国し、二十年の冬独逸国駐在の公使となって二十四年秋帰国し、 二十九年冬又た仏国に行き、其時彼盲腸炎に罹って帰国し静養又静養、 漸く此一両年健康体に復したのである。其間賞勲局総裁たり、貴族院副 議長たり、枢密院に入り、文部大臣たり、外務大臣たり、随分要路には 立たが、賞勲局総裁として比較的長年月在任した他は、或は内閣瓦解或 は宿痢再発等の事情の為めに大臣たる事は皆な何ヶ月という位に過ぎな かった。以上の事情を伊藤大隈其他の一流政治家に比較して見れば、侯 が如何に自家活動の為めに不利なる経過を踏で来たかという事が解る。 ◎今一つの理由は侯の皇室に最も近く、社会階級の上には尤も高き家門 に生れて、其の為め自然の便益を得た代りには、門閥即ち束縛を意味し、 侯をして其性行と理想とにともなう自在の行動を為さしむるに非常な碍 を為した事である。「高貴のお身柄を以て斯る事は」という他よりの親 切な忠言と批難は始終侯に付き纏うて居たらしい。其も尋常の貴公子な ら一度二度で以来謹む筈であるが侯の放胆剛適なる気質と其平民主義と は、斯る束縛に対して寧ろ反抗的の態度を取らしめた事が多い。併し門 閥は何処までも束縛である。侯の性行及理想と侯の高貴なる門閥とは絶 えず侯が一生の運命の上に闘って、侯をして伊藤大隈等よりも或意味に 於て一段高き識見を懐きながら、比較的目覚しからざる生涯を今日まで 送らしめたものらしい。 ◎世に蛮勇とか申して、い」年をしながら自儘勝手な政治振りを今では 名誉の如く心得て居る豪傑あり。侯には斯る豪傑一向難有からず、何処 までも真面目な正直な文明流で無ければ承知が出来ぬ性分ながら、闊達 な気質ゆえ多少の蛮気は免ぬかれぬと見えて、随分これまでに向見ずの 挙動したる例に乏しからず。留学前柳橋あたりで盛に豪遊をやった頃の 話に、平時の如く花妓数名と飲むやら歌うやら大騒をして居ると、次の 室にも豪遊連あり、何処の藩か国なまり怪しく四五名の武士が同く芸者 を対手に驕て居ると、斯る時には能くある例で、何かの事から襖越しに 口論が始まり売言葉に買言葉、サア来いと遂には腰の朱鞘が承知せぬ事 に立ち到り、対手は四五名の荒武者、此方は唯った一人の公達で、愈々 切り結ぶと云う一段、若し此時イヤこれは西園寺様かトンダ失礼を、諸 君静にくこれなるは西園寺公ぞと一人の武士が其の中から飛出さなか ったら或は哀れ二十一歳を最後、其時鰭になって居る筈、これは三十年 も昔の話であるが、侯の性格には今も昔にかわらぬきかぬ気のところが あって、冷々たる智魂の外、別に勇猛の精神がある。これは侯に親しく して居る者の外は一寸解らない気質である。されば若し必要さえ起らば 侯は何時でも馬を陣頭に立つるを辞しないと余輩は信じて居る。 ◎貴族と平民の両極が一致したもの則ち西園寺侯である。第一の貴族で もなく第一の平民でもない、又た第一の豪傑でもない。高くして朗らか に、一点社会の下層に醸酵する処の卑随なる酸臭なく、而して酒々落々、 彼朱門高楼に欝塞する処の慢気痴気なし、と言えば少し堅苦しい文句で あるが、一寸とした例が文部大臣の時高等官会議を開く場合の如き、侯 は決して大臣然と上席に構えて席中を脾睨しない。会場は一種の談話室 とせられて了う。而も侯の威厳自ら存じて決し犯されない。そうかと思 うと属隷が退庁を急ぐを見て、君そう細君の側が恋しいかね、など」悪 口をいう。 ◎話は甘いものである、趣味が広いだけ交友の種類も亦た多い。官吏も 来る新聞記者も来る、貴族も来る平民も来る画家彫刻家其他の美術家盆 栽家は無論の事、た父侯の邸に顔を出さないものは株屋御用商人位のも の(尤も侯に近づいた処で余り儲かりそうにもない)。侯は此等種々の人を 対手にして決して話柄に窮しない。議論で行けば議論で応ずる、これが 識見透徹で少の曇がないから、若し侯の滑稽無かりせば、対手は到底正 面には立たれないのであるが、流石は巴里で磨き上げた腕前は感服、決 して対手を|畏縮《ちぢみ》上がらせるなどいう野暮は為ない。多くの場合に趣味あ る比楡を用いてしゃれる。 ◎藩閥政治家は勿論、政党の領袖多くは金銭の為めにあたら清名を濁す 銅臭界に在て、流石に侯は之に処するの道を誤らない。侯は利殖の為め に肝胆を砕くが如き随を学ばない。無い金の中から随分書生などを助け た者である。 ◎侯は文部大臣に二度なったが、二度とも不幸にして在職の日少かりし が故に十分其事業を見ること能わざりしも、教育事業には頗る熱心であ る。一定の経論を持て居る。二十九年冬の仏蘭西行は深く教育事業の調 査をする筈であったが、病のために出来なかったのは、侯頗る遺憾とし て居る。女子教育に就ても、侯は今日の盤では兎ても満足されざるのみ ならず、大に其普及を謀り且つ高等教育の程度の男子と等しからんこと を希望して居る。侯が女子大学創立のために非常に力を尽したのは全く 此精神からである。 ◎侯を能く知る者の言葉に、若し侯に嘱して文学雑誌の批評欄を持たし めたら、必ず批評壇一方の勇将として痛快なものが現われるだろうと。 侯の専門は法律であるが専門以外、其趣味の導くま、にあらゆる方面に 研究を広げつ」あり、而して必ず其事に自家の見る処を創定する。当代 の人物月旦の如きも侯から聞けば頗る面白い。唯だ徒らに他を罵倒して 以って自ら高しとするの醜を学ばない丈けである。又た自家の好悪に依 て人物の値を上下さすが如き其もしない。 ◎侯は決して荘然と日を送らない。極めて些細な事と難も、やりかけた ら根気よくやり、其為す事に自分の工夫を凝らす。交友に出す手紙など 必ず自ら書し人手を借りない。 ◎侯の盆栽を熱愛するや、病中万事を廃して専ら静養を事とする際と難 も、これの世話だけは止めなかったので其程度が|了解《わか》る。併し熱愛とい えば冷却の時あるべく、愛する中にも何となく|濃厚《しつこ》い気味があるが、侯 に限って濃厚い、こってりした|気《ち  ち》味はない。総てが|淡泊《あつさ》りして居る。静 に味う方で、先ず南向の日あたりの宜い縁端に出で、兼て自分が丹精を 凝した六寸と八寸位の鉢に対して十方里に跨る自然の大景を瞑想すると いう具合である。概してすらりとした老、特に奇を弄せずして其処に無 限の妙味あるものを愛する。其の選択は全く自家の趣味から割出し、決 して盆栽家の主人が自分免許で誉めたからと言って直に百金を投ずるが 如き愚は演じない。野生の松と難も見処あれば鉢に移して之に丹精を加 える。今日にても侯の日常の清楽は先ず盆栽の外にないらしい。 ◎余は尚お侯に就て知ること少からずと難も紙数に限りあれば略すとし て、最後に三叉氏の言を誌し此記事を終えること、する。 ◎竹越三叉氏曰く「英国の政治家、倶楽部に会するや、今の外務大臣ラ ンスダウン卿を紳名して、グラン●セiニョウルと云い、ゼントルマン と云わず、是れ卿が英語を語るが如くに仏語をも語り、其嗜好趣味凡て 仏国的なるを以てなり、恐らく我華族会館や東京倶楽部の一隅にても、 西園寺侯を緯名してグラン・セlニョウルと云う者あらん、実に彼が英 語よりも多く独逸語を知り、独逸語よりも多く仏蘭西語を知るが如く、 嗜好、趣味、韻致、否な風采すらも、仏蘭西的なるは掩うべからざる事 実なり、然かも此仏蘭西的紳士によりて、英国文明の神髄として保守な るオクスフォート大学派ーマシウアルノルト等を先鋒としてーに上 りて唱えらる|二甘美《スウイ トネス》と|光明《ライト》の福音が明確に、熱心に、間断なく道破せ られ、実行せらる二はまた奇なりと云わざるべからず、甘美と光明の福 音とは何ぞ、此人生は黄金の慾望や、宗教の圧制や、政権の争奪や、無 教育の過去や、教育の迷信や、学問の分派や、物質の進歩や、種々なる 事実の積集せるが為め余りに暗黒となり、余り重苦しくなり、余り不快 の場となり、文明と不愉快の中に安息し、絶望の中に強て満足を求むる の名となりて、人生の真義は没却せられんとす、此に於てかオクスフォ ード派の学士等は、人生の光明を来し、軽快を来たし、甘美の流を溢れ しめ、愉快の念を湧かしめて、以て人類を学問、富栄、宗教の疲労より 救うて新鮮の空気を呼吸し、清麗の水を飲ましめんことを主張す、如何 にして人生を学問、富栄、宗教の重荷より救わんとするか、曰く杜会に 『|文化《カルチユア》』を勧むる也、文化とは何ぞ、哲学に代る新哲学、宗教に代る新 宗教、学問に代わる新学問、常識に代る新常識にして、あらゆる学問、 研究、教育を|人情化《ユ マナイズ》せしむる也、公明正大、真実を愛するの心を養う也、 雁穆和楽の気象を養う也、フレドリック・ハリソン之を解して日く、文 化とは善を為さんとする道徳的、社会的の情也、完全を研究し、実行せ んとする也、而して此完全なるものは我等人類の獣性を別にしたる人情 性より生育するものにして、文化は、人間最高最貴の完全は光明と甘美 とを具うる品性にあるを教ゆと、西園寺侯が文部大臣たる時、正大有為 の気象を鼓舞して、以て興国の大機に乗じ、雁穆醇厚の心識を養うて、 以て衰世の余弊を|革《あらた》むべしと唱えたるもの、豊実に此甘美光明の福音を 唱うるの心にあらずや、思うに西園寺侯をして政治上に何等の事蹟を止 めざらしむることありとするも、此一事陶庵先生の伝記を以て我文明史 の一頁を染むるに足ると信ず」と。知言と言うべし。而も侯は今や大政 党の首領として天下に立つことになった。余輩は今の汚れ果てたる政界 が侯の甘美光明馨性情と教養の力に依て、新生命を賦与せられんこと を希望してやまぬのである。 ------- 『陶庵随筆』明治三十六年十月 新聲杜