安田善次郎伝 矢野竜渓 序 余は安田松翁と相ひ識ること久しく、晩年特に親しかりき、故に翁残して後ち数月、安田家よ り伝記編述の嘱ありしを以て、乃ち之を諾したり、翁には自筆の日記あり、明治五年に始まり て、其の残する年に及ぶ、五十余年の永に亘て、公私の動静、概ね記して遺すことなし、唯其 の生れてより明治四年まで、三十四年間の事に至ては、更に索聞捜査の必要ありしが、幸に翁 に縁故ある蓄旧宿老の尚ほ存するありて、其の資料を充たすを得たり、翁は特異の性格を有す、 故に親交ありし余を以てするも、尚ほ其の平生を悉くす能はざるを恐る、然れども後人が翁の 人と為りを窺ふに於て、本書に拠り其の大体を知るに足るべき歎。 本書は大正十二年に脱稿せしも、後半年は震災の為め世事忙勿、校訂全からず、年を越て之を 安田家に送るを得たり。   大正十三年初秋                               矢野文雄 識 目 次 序                    矢野文雄 前記の一  矛盾に似たる二様の性格  進取と堅守  細心と太っ腹  堅  実と機略  貨殖と多趣味  器用と執着  強剛と温潤  積  財と愛才 前記の二  治世にも乱世にも  心志を苦しめ筋骨を労す  白刃の下に立  つ  知識の欲求  地位と与に人格を高む  酪の話 前記の三  誘惑  悪戯  強健  模範の商家  使用人の仕込  その  質実  人無きにあらず 前記の四  羨むべき一の幸福  父の健在  致富の二法  称賛と嫉悪  不移怒、不宿怒   取膳の話 前記の五  明察  己を以て人に望む  旧時の商店風  進んで止まず  完人と仁人  情緒の人  悠揚不迫  損得に対する喜憂 前記の六  囲碁  書画  大借金家  良将の退軍  根気 本伝の一  生誕  富山の地勢  安田村  富山の人気  売薬行商  幼時の環境  その父祖 本伝の二  下士の内職  七歳の花売り  十二歳の行商人  寺子屋  分別者  賃写巧筆  昼夜の辛勤  江戸に出る決心 本伝の三  太閤記  十七歳の家出  山路に迷って引返す  二十歳再度  の脱出  江戸に着く  富山に連れ戻さる  許されて三度目  の出発  奉公稼ぎ 本伝の四  六年問の奉公  両替業の習得  小売業の見習  災厄不幸  露店の両替商人  小両替店の主人公  妻を迎えて共稼ぎ  小売の繁昌  通貨の大変動 本伝の五  世界物価の変革  金銀対価の変動  開港の影響  両替商の  大活動  一躍して大両替店の主人公  仲間の肝煎役  冒険  の大得益 本伝の六  紙幣の発行  その下落  金楮の差価  厳罰の布令  紙  幣の買入れ  妹婿の撰択  質屋の鑑札  東京大阪の為替取  組店 本伝の七  江戸両替屋の業体  硬貨の種類  大胆不敵の両替屋  両替  屋の所得  六年目に大両替店 本伝の八  平吉の不幸  弗相場  独立後七年目の財産  同九年目の財  産全国各地金融機関の変動好担保の出現 本伝の九  秩禄公債金禄公債の利廻り  新旧公債多額の持主  預金の増  大  半期賞与の一例  父を東京に迎う  前途の商略  官  府の遊金 本伝の十  人蓼の売買  栃木県の為替方  京阪神の視察  明治九年の  資本  預金の巨額  司法省の預金  銀行条例の改正  華  士族の銀行  第三銀行の創立  暖簾店 本伝の十一  明治十年の行動  栃木県下の施設  長閥に負縁あるも取入ら  ず  簿記の学習  知識の欲求  字体の変遷  杜会上の地  位  田安邸の購入  鳥居の寄進  茶湯の稽古  府会及び  商法会議所議員辞退 本伝の十二  安田銀行の設立  夫婦京畿の遊覧  新設農商務省の為替方  二省二県の遊金吸収  満ちて驕らず 本伝の十三  非常に対する準備  取引の膨脹、準備の不足  屈竟の機関  日本銀行の創立  同銀行の理事  最初の割引局長 本伝の十四  明治十六年の帰郷  親戚故旧の賑血  富山県の為替方  双  方与に失す  将来投資の方面  拙碁会 本伝の十五 一代の基礎定まる時代  風を望んで款を送る  前田家に出入 託伝より取付け  実況の説明  官金公金の減退  民間預金 の膨脹 第二十二 本伝の十六 日本銀行理事辞退と賞与  地処の買入れ 道為替方  松方伯及び毛利公を招く  金融の迫塞  北海 大木伯松方伯に招かる 第二十三 本伝の十七 保険、金融、運送  三菱の先鞭 営の端緒  浜町大地面の買入れ 日本保険業の始め  上州川張  前田侯の招宴三業経 第二十四 不幸なる年 居喪  哀歌 良き子あれば一人にて可なり 盛大の葬儀 本伝の十九  東本願寺と高野詣  歓迎を競う  製麻事業の端緒  雲竜出  没法 本伝の二十  東京電燈会杜の救済  雪団の浪転  囲碁、茶会、謡曲、乗馬  茶会の記 本伝の二十一  神戸の土地手入れ  日本銀行監事  同銀行の新築主管  濃  尾震災地の視察  日本銀行基礎工事  旧池田邸の買入れ  木馬の献上 本伝の二十二  金融界の好材料  株式と取引所  大利益の材料  海上保  険  兵庫運河  杜交上の交際饗宴  釧路の硫黄山 本伝の二十三  代議士候補の固辞  煩を避けて旅行  新洋館の落成祝  十  数回の饗応  馬術の卒業  再度候補に擬せらる 帰郷の歓迎 本伝の二十四  代議士に当選及び辞退  日清開戦  砲運丸と運搬会杜  家  族同伴京畿旅行  戦後の好景気  有利なる新会杜の株式 本伝の二十五  地方鉄道に放資するの企て  各種保険会杜の遊金  貸出の苦  心, 口数少く金高多きもの  本業以外の事業  日本銀行新  築の落成  主管任務の完結と賞状賞金 本伝の二十六  日本の養子  欧米支那の例  戦国時代の養子  余との初対  面  電燈会杜との関係 本伝の二十七  大阪市築港公債  間接の利益  茶事の交友  貸出の観察法 本伝の二十八  硫黄山の結局  使用人の手当  一族子弟の教養法  品格良  き遊戯  政府事業の委員  諸銀行の救済合併  諸事業の施  設 本伝の二十九  竹竿の如し  日露開戦  大阪第百三十銀行の救済  七十歳  の資産 本伝の三十  事業と私交との区別  京都の紳商  支那の張之洞  老婆を  避く  和敬会 本伝の三十一  保善杜の組織  二種の資本金  一族の生活法  通租脱税の  為にせず  半隠居の姿  公職と会社銀行の施設  叙位授勲  済生会  彼此の撰択取捨  使用人の忠実 本伝の三十二  四分利公債の献策  慈善事業の意向  富豪の心懸け  事業  次第人物次第  洋行せぬ巨人と英物 第三十九 本伝の三十三        欧州の大戦  好景気の時代来る  三井三菱に次ぐ  養子離        居  再ぴ事務を視る  大正九年の財力 第四十 本伝の三十四        一代富限の第一人  損益与に莫大  株式価格売崩しの噂        宿志未遂の二大事業  懐抱せる新大計画の三カ条 第四十一 本伝の三十五        晩年の傾向  義指の度数と金高の増加  会者定離の悟入        大正十年の奇禍  竜を描いて晴を点せず  安田氏の家系  安田善次郎年譜 安田善次郎伝 第一 前記の一 矛盾に似たる二様の性格H進取と堅守"細 心と太っ腹H堅実と機略11貨殖と多趣味" 器用と執着-強剛と温潤"積財と愛才 第一前記の一  江戸を距《さ》る百里の僻境に生れ、陋巷《ろうこう》の寒家《かんか》に人と為《な》り、寺子屋の外は、高等の教育を受くるの 機会なく、赤手《せきしゆ》単身にて郷関を出でたる一少年が、その一代において、弐億円と称せらるる資産 を積み得たるは、我が国数百年の財界を通じて、蓋《けだ》し希観《きこう》のことに属す、而《しか》してその主人公たる 者、また希観の性行なくんばあらず。  人皆多く特長あり、進取して止《とど》まるを知らざる者あり、堅く守りて失わざる者あり、前者はそ の得る所甚だ多しと雛《いえ》ども、これを失う所また多し、後者はこれを失う所少しと雛ども、その得 る所また甚だ少し、これ一方に偏する者が、与《とも》に大を致すこと能《あた》わざる所以《ゆえん》なり、然るに今もし 人ありて、その進取するや止まる所を知らず、その守るや得る所を失わずとせば、何人《なにぴと》も蓋《けだ》しそ の成功を疑わぬであろう。  また絶代の巨富を得んと企つる者は、多く皆太っ腹である、而して経営の事柄が有利の者たる にも拘《かかわ》らず、十の八九まで失敗するもの多きは何故《なにゆえ》であるか、他なし、事を成すに当って、細心 緻密を欠ぐ所あるが為である、また中級の富を致す者を点検するに、その多くは細心緻密である、 彼等は大低十の八九まで成功する、しかしその成功たるや規模|編小《へんしよう》にして、雄大の気象を欠ぎ、 |幾《ほとん》ど観るに足る者がない、然るに今もし人ありて、その事を謀《はか》るや太っ腹、これを成すや細心級 密ならば如何《いか》ん、恐らく何人もその成功を疑わぬであろう。  進取と堅守とは両立し難《がた》く、太っ腹と細心とは矛盾に近い、故にこれを兼有併備《けんゆうへいぴ》する者は、世 間|幾《ほとん》ど稀有《けう》と言うて可《よ》い、而して余は独《ひと》りこれを安《やすだ》田|善次郎《ぜんじろう》氏に見出し得るのである、余が二十 余年の交際より観察して、氏は実にこの特異たる性格の所有者であった。  我邦《わがくに》の財界において、幾百年間に絶無僅有とも称すべき絶大の巨富を、氏が一代に積み得たる に、七の原因、一《いつ》にして足らぬこと勿論《もちろん》である、然れどもその主なる者を挙ぐれば、先ず上記せ る稀有《けう》の性格を、その一と認めねばならぬ。  しかし上記する如きに止まらず、氏はなおその他、常人に両立し難き二様反対の習性数種を兼 有して居たことは今更|一奇《いつき》と考えられる。  およそ堅固なる人は、機略に乏しく、機略に富む者は堅実を欠くが世間の常である、然る処氏 は商略において縦横機敏であるが、その本領は却って堅固な所に在る、手堅きことは氏の長所で ありながら、一方における商略駈引は、実に目覚《めざま》しき者がある。  また致富貯金を一生の大事と心得て、孜々《しし》|屹々|《こつこつ》磨腺《ごぴ》にもこれを忘れぬ貨殖家には、多趣味の 人は極めて稀である、また諸事に多趣味風流なる人は、動《やや》もすれば貨殖に凝《こ》り固まらぬものであ る、ところが氏は大貨殖家たるにも拘らず、実に風流多趣味であった、書画も大好き、骨董も大 好き、茶の湯もやれば、謡曲もやる、囲碁も大好き乗馬も好きであった、余は初め或はこれを交 際の道具に利用して居るのではたいかと疑ったこともあったが、決して左様《さよう》でなく、全く自己の 真趣味からであることを知った、書画の如きも氏|自《みずか》ら日本|古今《ここん》諸名家の死生年表たどを作って楽 しんで居た、また骨董も非常に好きで、苟《いやし》くもその展覧や売立てなどあれば、これを見に行かぬ ことは幾《ほとん》ど無かった、また謡曲の如き、茶の湯の如き、皆大好きである、石黒況斎《いしぐろきようさい》翁は氏と多年 の茶友達であるが、余は嘗《かつ》て翁に、安田氏がこの道に真趣味を有するや否《いな》やを問いしに、「氏は 真の愛好家で、晩年は特に造詣も深く同好の茶会《さかい》には必ず参じ客として主人の用意を察知するに |頗《すこぷ》る周密で真に茶会の旨味《しみ》をよく了解|会得《えとく》せられ都下でも有数の茶客《さきやく》であった」との答であった、 自余のこともまた蓋し同様で、皆全く天性の多趣味から出たもので、決して貨殖致富の交際に利 用する為では無かった、一方にはあれ程まで貨殖致富に熱心でありながら、あれ程まで諸事に多 趣味風流な人もちょっと看出《みいだ》し難いようである。  また世の中には、諸事に器用な人があるもので、何をさせても相応にやって除《の》けるが、多くは 散漫で、一事一芸に徹底して凝《こ》り固まる性質に乏しいようである、然る処、氏は器用な上に事物 に凝《こ》り固まり、緬奥《うんのう》を究《きわ》めざれば休止せぬ性質を持って居た、乗馬を始めると四五年も熱心に研 究して、馬術練習所から卒業免状を取る、また茶の湯を始めると、千家《せんげ》の奥伝を得る、書を学ぶ と晩年美事に上達《じようだつ》するまで休止せぬ、画を学ぶとまたちょっと観られるまでに上達する、謡曲を 始めると暇さえあればその筋の師家を招いて学ぶことを怠らぬ、一方にあれ程の大事業を為しつ つ、一方に斯《か》くまで、余芸に熱心な人は、幾《ほとん》ど他に看出し難いと思われる。  また強剛不屈の性を有する人は、その気象が自《おのずか》ら外に表われ、その言動が動《やや》もすれば無愛想 に傾き、不遜傲慢に見えることが多い、内は強剛不屈にして、外は愛矯ある謙遜温雅の態度を失 わぬ者は頗《すこぶ》る稀である、ところが氏はまたこれを併有して居た、その人に対するや常に温乎《おんこ》とし て愛矯がある、どこまでも謙遜辞譲でありながら、その内心の強剛不屈なることは、已《すで》に世に知 らるる如くである、これらもちょっと他人に看出し難い所である。  氏の体格は長大でなく、いくらか小造りの方であったが、さればとて決して短綾《たんわい》でもない、肥 肘《ひはん》ならず、痩灘《そうるい》ならず、先ず俗にいわゆる、中肉中背で、がっしりと緊《しま》った方であった、"ての容 顔も若年の頃は、秀麗と称して宜《よ》いほどの男振であった為め、自然に人なつかしき所が有った、 かかる風手《ふうぼう》がまた更に氏の態度を、一層温潤に見えしめることを助けたようである。  貨殖家は、よく金の力を知り、大抵のことは金力で片付け得るを熟知し居《お》る為め、動《やや》もすれば 人に対するの態度が、富を侍《たの》み不遜に傾くことがある、右は金満家の通弊と目せられて居るとこ ろであるが、善次郎氏のみは全く然らず、或人が氏を評して、日本の富豪家中に、未だ曽てかく の如き謙譲の態度ある人を見ぬ、と日《い》いしも証言《ぶげん》でないと思われる、百万円時代の氏も、千万円 時代の氏も、億万円時代の氏も、その腰の低きこと、いつも同様で、曽て異なることが無かった、 もしその姓名を知らずしてこれに接見せば、尋常中産階級の、紳士としか思われず、千万長者の 安田善次郎氏たらんとは誰人《たれびと》も思い寄らぬほどの態度であった、蓋《けだ》しその能《よ》くかくの如き所以の 者は、封建の旧時における商人の態度をそのままに持続するの心懸けと、また一《いつ》には事理に通暁 して、金銭以外になお広澗の天地あるを知り、世態は万相《まんそう》にて、富のみを以て誇り難きを知悉し たると、また一には、その志望の宏壮にして、飽くまで進みて止まらざるが故にいつも己《おのれ》の富を 以て足れりとせず、自《みずか》ら視ること甚だ小なるに因《よ》りしなるべし、百万の富も千万を望む者の目に は小富なり、千万の富も、億万を望む者の目には小富なり、百億を望む者の目には、一億も物の 数たらず、その志いよいよ大なればその見ることいよいよ小なるは人の情なり、氏が常に己の富 を大たりとせざりしことも、また氏をして傲慢の態度たからレめし一大原因なりし如し、氏の態 度が常に愛嬌ありて、いつも謙遜に見えしは、氏を知る者の、何人も否む能《あた》わざろ所たらん。 また世上の金満家の中には、富の力を過大視して、金力以外の天地あるに気付かず、芸術技能 の士に重きを置かぬ者が多い、たまたま彼等を愛する如く見ゆるも、多くはこれを封巾間視するに 過ぎぬ、紀文《きぶん》の其角《きかく》における如き類である、彼等にして真に芸術の士を愛敬する者は誠に蓼《りようりょ》《う》々 と言って宜《よ》い、然るに善次郎氏はこれに反して、士を好み才を愛するの天性を有《も》って居た、ただ 自家の大目的たる致富の事業に忙《せわ》しくして、広く士に接するに邊《いとま》あらざりし為め、人のこれを知 る者が少いのである、氏は年少なる彫刻の名工に後援を与えて、遂に名を為さしめたる如きこと もあり、また重野成斎《しげのせいさい》、森|春濤《しゆんとう》、大沼|枕山《ちんざん》、向山黄村《むこうやまこうそん》等当時著名の詩人六七名を時々別荘に請じ て、会合を催さしめし如きこともある、然れども右も名聞《めいぶん》の為めにあらず、ただ詩客《しかく》の吟詩を見 て自《みずか》ら楽しむに過ぎざりき、故にこれを知る者もない。  また陋巷に未知の一寒儒を訪《と》うてその窮《きゆう》を賑《にぎわ》したる如き、隠れたる事実もある、氏を知悉せざ る人に向ってこれを説かば、或は疑い怪しむ者すらあるべしと錐《いえ》ども、苟《いやし》くも氏と親交ありし者 は必ずこれを首肯するならん、余の如きも余に対する氏の交際振りより推して、必ずこれあるべ きを信ずるのである。  氏は菊花を好み、自ら植木屋を督して、これを後園に栽培せしは人の知る所であるが、毎年開 花の時に至れば、必ず美事なる懸崖《けんがい》の一鉢を、余に贈りくれざることなし、また手道具類を注文 作製せしめ、面白き物あるときは、折々之を贈りくるることもあり、余が訪問する時は、いかに 多忙の際にも延見せざることたく、書面を送る時は、匝ちに白筆の返書を寄せざりしことたし、 余に対してすら右の如し、況《いわ》んや著名なる芸術技能の人々に向っては、尚更《なおさら》のことなるべし、ま た余は七八年前重患に罹《かか》りしが、回復期に向っても、衰弱の為め読書すること能わず、ただ書画 幅を壁上に懸け、終日これを眺めて消光するのみなりき、この時など氏は煩を厭わず三日目ごと に、その蔵幅を取替えて貸覧せしめた、また海外より得たる珍果などあれば、見舞としてこれを 贈りくるる等、頗る親切の仕打なりき、そもそも余は已《すで》に政界を謝し去りたる一閑人に過ぎず、 余に郊4とも氏の事業において寸毫も益する所なきは明白のことなり、また氏と余とは経済界に 何等の関渉もなく、趣味上においても碁の相手にもあらず、茶の湯仲間にもあらず、謡曲の附き 合いもなければ、乗馬の友達にもあらず、然るに余に接するかくの如き所以の者は、蓋し余が嘗 て政界に奔走せしとか、読書を好むとかの為めに外ならぬのである、これを要するに、氏の多趣 味なる天性は、氏をして才を愛し士を好むに至らしめたものであり、また一には自己が幼時教育 の不充分なりしを恨悔《こんかい》して、学芸技術の士を羨み、これに交るを楽しむの情を生じたものらしく も見えた、また一にはこれらの人々の談話を理会し受入れ得るほどの明敏なる天性ありしにも因 るのである、然らざればいかに胆勉《ぴんへん》するとも、その談話に倦み、厭怠の情を生じて、交際は永続 せられぬものである・鰍にしてもこの点において、氏は世間普通の貨殖家と、大いにその趣を 異にして居た、氏が早く接するの機会ありし文士は、成嶋柳北《なるしまりゆうほく》氏にして、その交際は、成嶋氏の |かわ《せんじよう》 残するまでも楡らず、残後の建碑も善次郎氏が自ら担当して力を尽せし所なりき、村上専精氏 もまた氏の接せ上人なりき、この人の為めには帝国大学講座の基本金数万円を寄附したり、大《おお》 擁嫡鑑氏も氏と懇親の間柄らしく見ゆ、定めて礼を以て永く遇せられしならんと察せらる、余が 知る所を以てするもこれその例の二三たり。  世人の知る如く、福地《ふくち》源一郎氏は一代の丈豪であった、日々新聞杜長時代における氏が一枝《いつし》の 鑑は、静く挙国の人心を左右し得て、当時の盛名は、これと肩を比する者が無かった、然るに不 幸にしてその晩年は、実に落魄《らくぱく》を極め、特に死に垂《なんな》んたる病中家計の不如意は、説くに堪えなか った由、その時のことである、善次郎氏は一日その親近者を使として、氏に一封の書を贈った、 氏はこれを延見し、その書を披封すると、書面と与《とも》に小切手が現われた、氏は書面を読み了《おわ》り潜 然《さんぜん》として落涙し、使者に向いて日《い》いけるは、某《それがし》より求めもせざるにがかる厚意を尽さるる段、実 に何とも御礼の申しようがない、しかしこれを受くるも心ならぬ故に、金員だけは持ち返って貰 いたいと、ここにおいて使者は、持ち返れば自分の役目も立たず、且つは主人の意にも反すべし、 一応御受けありてその上のことに願いたいと答えた処、氏もこれを受納した、右はその時の使者 から後年余が聞く所の事実である、福地氏の全盛時代に、持てはやしたる金満家等の、氏を救う 者も無き窮時において、人知れず善次郎氏が、心を用うることかくの如きは、文豪の末路に深き 同情を寄せたに外ならぬ、特に最近親者の一人《いちにん》をこの使に選びしは、このことを人に知らしめざ るの注意に出でし訳《わけ》にて、福地氏の為に謀《ばか》るの深きを察するに足るのである。  また著名の塑像家北村|四海《しかい》氏はその成立ちまでに善次郎氏の後援を受けしことあるを以て、洋 行の時には氏の助けをからずしで.出発した、かくて在欧中氏に予期する研究を積みしが帰朝に臨 んで病の為め旅費に差支えを生じ、遣かに書を日本の知友等に送って、援《たすけ》を求めたが、その調達 心に任せず、彼等も策の出づる所なく、当惑を極めて居た、而《しこう》して四海氏からは、催促の書状が 頻着すると云う有様であった、善次郎氏はこの窮状を漏れ聞くや、直ちに充分なる資費を給し、 別に安田の名を知らしむるなかれと固く戒めた、これは安田家に厄介を懸けたくなしとの本人の 意志を重んずる為であった。  右に掲ぐることどもは余の見聞する所に止まるのである、なおこれに類する事実の隠れたるも の少たからざるべしと思われる。  全豹《ぜんびよう》を知らずして一斑《いつばん》を見、これを批評の基礎と為すときは、正鵠《せいこう》を誤らざる者|幾《ほとん》ど希《まれ》なり、 況んや善次郎氏の如く、反対に類する種々の性格を併有して、上下、前後、左右の六面とも各不 同の物体に似たる者においてをや、氏を評するの難《かた》き蓋《けだ》しここに在るものとす。 第 二 前記の二 治世にも乱世にもH心志を苦しめ筋骨を労 す"白刃の下に立つ"知識の欲求H地位と 与に人格を高む11肇の話  勤倹力行は氏が常に唱道した所である、しかしそれのみでは善次郎氏と為《な》り得ぬのである、真 個の安田善次郎を生出《せいしゆつ》せんとすれば、進取と与《とも》に堅守であらねばならぬ、太腹《ふとつばら》と与《とも》に細心緻密で あらねばならぬ、堅実と与に機略を併有せねばならぬ、強剛不屈と与に温潤柔和であらねばなら ぬ、貨殖に熱中する傍《かたわ》ら、多趣味であらねばならぬ、単に勤倹力行を以て氏の本領を尽せりと考 うる如きは未だ深く氏を知るに足らぬものである。  かく希観《きこう》なる諸種多様の性格を具有する点より観察すれば、氏は治乱を問わず、いかなる時代 にありても致富に成功し得たるべく思われる、その冒険太っ腹のみの事業家が、或る時運に際会 せぬ限りは、その力を伸べ得ざること、恰《あたか》も一坪の大凧《おおだこ》が大風を待たねば飛麗《ひよう》し得ざる如き類と 同じからぬ、氏は平時普通の風にも十、二十の小凧を放って、氏の志を遂ぐるの技禰を有して居 た、氏の材を以てすれば、平穏無事の日に出づるも、なお能《よ》くその志を遂げ得たであろう、況ん や我邦《わがくに》千古|未曽有《みぞうう》とも称すべき杜会大変革の時代に遭遇せしにおいてをや。 「天の将《まさ》に大任をこの人に下さんとするや、必ず先ずその心志《しんし》を苦しめ、その筋骨を労す」と云 える古語は、蕾《たた》に済世利民の大政治家、大宗教家、大道徳家の身の上のみならず、筍くも何等か の大業を為さんと欲する者の総てに向って、皆|当嵌《あてはま》るべき言葉である、氏の如く一生に絶代の富 を致す人に在っても、また先ず非常に心志を苦しめ、筋骨を労する後に非《あ》らざれば、その大本願 は遂げ得られぬのである。  氏が幼齢から少年までの間、また少年から成年までの間、肢体の勤苦《きんく》は一通りでなかった、ま た僅かなる独立営業の資本を得るまでの心志の苦労も、また異常であった、かくその心身に一大 試練を経来《へきた》って、ここに始めてその本願を達するの資格が完備したものである、特に少額ながら も必要の資本を造り出す為には、強剛不屈の性格が最も必要であった、氏が江戸に出で、二十歳 前後に、辛うじて両替の小店を出《いだ》せしは、時|恰《あだか》も幕府の末造《まつぞう》、維新の二三年前で、その頃の世上 の物騒なるは、想像に余りがある、已《すで》に幕府の威令行われず、法網地に墜ち、白昼にも強盗|匪徒《ひと》 が、大手を打振って横行する紛乱の折柄である、その頃は未だ銀行なるもの無く、世上金銀を所 有せる者は、ただ両替屋《りようがえや》のみであった、故に強盗も窃盗《せつとう》も、浪人も暴徒も、目を注ぐ所は、皆 |悉《ことごと》く両替屋に在った、故に当時この商売ほど、危険至極なる者は無かった、特に維新の前年な どは、物騒もその極に達し、江戸市中の両替店は大抵、戸を閉じ休業せぬ者は無かった、この間 に立って、この危険を物ともせず、ささやかながら、なお店を開いて営業して居たものは、蓋し 善次郎氏一人であった、その為めこの店の繁昌はたいした物であったが、これと同時にその危険 もまた大変であった、朱鞘《しゆざや》の長刀を帯《たい》し、腕を掩した浪人匪徒の、ゆすり強談《ごうだん》は、本より覚悟の 上であらねばならぬ、これらの者は店に坐り込んで、単に脅威を示すのみではない、事に依れば 実際に一刀を見舞い兼ねぬ時代であった、これらの場合において、その優男《やさおとこ》とも見ゆる善次郎氏 は少しも動ぜず彼等に応対してこれを追返すのであるが、その危険千万なること彩《おびただ》しい、今日 なお生存せる老人中には、その頃近所に丁稚《でつち》同様に追使われて、常に氏の両替店に往来し、この 状況を目撃して、恐しさのあまり、遠方に離れて、手に汗を握りながら眺めて居たと云う者もあ る,(長井|利右衛門《りうえもん》氏|直話《じきわ》)、致富の為には、氏は若年からかように白刃の下を潜《くぐ》って来た強《したた》か者《もの》 で、その強剛不屈なることは稀有《けう》である、氏のこの性質は、どこまでも、また何事にも、附随し て離れず、その成功も実は多くこれに帰せねばたらぬと同時に、この性質はまた或は他日奇禍の 刃を助けたかも知れぬ、敦《いず》れにもせよ、その心志を苦しめ、その筋骨を労する、大試練場を経《へ》来 った強《したた》か者《もの》である、然るにも拘らず、氏は平生極めて謙遜温和であり、また人に対して、毫も往 事を談ずるを好まぬ、故にこれらの事実を聞いて往々意外に感ずる人さえあるのである。  また氏は、自己の知識を増すことにおいて、非常に心懸けの篤かった人である、本伝にも記す る如く、氏は元|寒微《かんぴ》の出《しゆつ》である上に、その幼時は世上の教育も、今日の如く普及せぬ旧幕時代の ことであるから、寺子屋にて手習、素読の外は、深き教育を受くる機会の無かったこと勿論《もちろん》であ る、而《しか》して氏も常に深くこのことを遺憾として居たから、成人の後、特に独立後は、その知識を 増益するに、些《いささ》かの油断もしなかった、小店ながら両替店の主人公となれば、それ相応の知識を 得るに勉め、進んで大両替店の旦那となれば、また共に相当する知識を貯うる等、自己の位置次 第に昇るに従って、共に相当するだけの知識を得つつ、その位置を辱《はずか》しめぬだけに、人格を上げ て進み行くことが出来た、これまた致富の一原因で、なかなか常人の能くし難き点である。  中級の富に甘んずる五十万円、百万円の富家翁たるには手広き交際も必要ならず、従ってさま での知識を要せずして済むが、筍くも一国金融の管鍵《かんけん》を把握するほどの大富豪|大立物《おおだてもの》たらんと欲 するには、それ相当の識慮と人格とが無くてはならぬ、何となれば幾千億の金を繰り廻わす身分 となれば、或場合には大蔵省との聯絡をも図《はか》らねばならぬ、一国政府要路の人々とも交渉を試み ねばならぬ、この関係この交渉を為し得ぬようでは、とてもその地位を全くすることは出来ぬ、 この交渉を為《な》しこの関係を結ぶには、財界朝野の最高位に在る人と、対等の交際をなさねばなら ぬ、この場合においていかに我より対等の交際を望むとも、その識慮人格が下劣ならんには、先 方はこれを相手とせず、自然と除外されて仲間はずれとなり、その間に伍することは出来ない、 |而《しか》してこれら最高位の人々は、敦《いず》れも皆識慮人格ある者と思わねばならぬ、故に氏が銀行家とな り、更に進んで大銀行家となり、一国金融の関鍵を握らんとせば、上記する人物に伍して恥しか らぬ識慮品格を持たねばならぬ、而して氏は実にこれを持って居た、この間に処する氏の知識慾 とも称すべき苦辛《くしん》は、非常であったらしい、しかし諸事に器用なると天性の明敏なるが為め、人 の話を受入れることも早く、いわゆる往《おう》を告ぐれば来《らい》を知るとも云う程であった、或は他人の談 話論説を聴き、或は書冊雑誌を読み、種々の手段を以て、自己の修養を企て、人知れぬ間に自ら 識慮を錬《ね》ってその地位の高まると共に、その人品を進めて行ったのである、実に敏慧《ぴんけい》とも云うべ きか、器用と云うべきか、寒微より出でた無教育の身を以て、かほどまでに人格を仕上げたのは、 実に珍らしい材である、世間の富豪の中には談がたまたま国家の大経済などに亘《わた》ると、或は頓珍 漢の応答を為《な》すものも砂《すくな》からぬようであるが、氏は決してこの類で無かった、或人が氏を評して、 もし彼をして官海の人たらしめば、たお裕《ゆう》に高級の地位に上り得たであろうとは蓋し当を得た言 であるかも知れぬ、氏は何事も器用であり何事もやってのける、実に調法の材であった、余は氏 と初対面の折、氏の言語応対の品格よき所から、定めて相応なる富家の出《しゆつ》ならんと思った程であ る、氏の残後に至り、家人が座右の秘書冊など片付けし折、英学手引とも称すべき書などを看出《みいだ》 したと云う、さすれば氏は、あの繁忙多事の中において、人知れずなお英学独修を心懸けた時代 もあったものと見える(仮令《たとえ》熟達し得ざりしにせよ)、大隈《おおくま》侯にもまたこれと似寄った話がある、 余は永年の間、未だ嘗て侯が自ら洋書を読むを見しこと無かりしが、或人が嘗て急用の為め、侯 の寝室に行きしに、侯は燈下にて字引を用い、英書を研究しつつあったと云う、右はその人から 余が近頃聞得た直話《じきわ》である、大業を成す人々が、人知れず内証にて、こっそりと、かかる心懸《こころが》け あるはまた面白いと云わねばたらぬ。  氏はその天性、案外|涙脆《なみだもろ》き方であった、時折|甥姪《おいめい》等に過ちありてこれを訓戒する時たど、往々 眼中に涙を含むことが多かった、また芝居を観る、義太夫を聞くにも、哀れた場合には、常に落 涙することが多かった、故に殺生《さつしよう》を好まず、人より生魚を贈らるる時は常にこれを邸内の池に放 流せしめたものである、右について地方に巡歴の節、随員が困った一話が今に残って居る。  或時、氏は雲州に旅行した、そこで鄭重《ていちよう》な饗応を受けた後、旅宿にて調理せしむる為めにとて、 大なる騒《すつぽん》を数多《すうた》贈られた、氏は例に依って直ちにこれを川に放たしめんとしたが、狭き土地の ことゆえ、すぐ人にも知れる、然るときは先方の折角の厚意を無にして、いかにも面当てがまし くも見ゆるを倶《おそ》れ、快くこれを受け、遠くこの地を去ってこれを放たんと考え、騒を神戸までわ ざわざ持ち帰ったが、未だ汽車の便なき時のこととて、随員はこの余計な荷物に大閉口を為せし と云う、而して神戸にてこれを放ちし時には、已《すて》にその半数は擁死して居った由(しかしこれも |鄭子産《ていしさん》の使の如く、煮て食うたか、否かは保証の限りでない)、とにかくわざわざ雲州から神戸 まで持ち返って、これを放ったのである、しかしその人が事業の世界では、全く別人の如く厳格、 否な厳格と云うよりもむしろただ契約を履行するに忠実な人であった。 第 三 前記の三 誘惑11悪戯"強健H模範の商家"使用人の 仕込11その質実H人無きにあらず  氏は圧迫に対して、剛強不屈であったのみならず、誘惑に対しても、また剛強不屈であった、 前者に対抗するも容易でないが、後者に対抗するは、また一層の至難である、俗諺《ことわざ》にも、「好男 子身が持てぬ」と云う、青年の好男子には、色界の魔障が特に多い、況《いわ》んやこれに加うるに、金 廻りの宜《よ》きを以てすれば、尚更らのことなるをや、然《しか》る処、氏は充分これに合格して居た、若年 の頃は、その風《ふうぼう》キ秀麗で、態度は温和であり、言語は愛嬌あり、財嚢《ざいのう》も空しからぬ(小ながらも 両替店の旦那で)、近所の女小供にも騒がれる質《たち》てある、苟《いやし》くも足を花柳界に投ずれば,大歓迎 を受くるに足り、身を持崩すべき資格は、充分に完備して居った、また両替屋伸間の交際で、狭 斜《きようしや》の地に出入すべき機会も多かったに相違ない。.  仮令《たとえ》その胸中に、色界以上の大望を懐《いた》き居たるにもせよ、多少の風流事は世間に有り勝ちの ことである、然るに氏は能《よ》くかかる誘惑に打勝ち得て、絶えて楚花折柳《はんかせつりゆう》の遊びを為《な》さざりしは、 |幾《ほとん》ど常人に望み難き堅固の心志を持って居たことを証するに足るのである、血気盛んなる壮年時 代においてさえ、この難関を切抜け得る以上、既に相応の資産を作り、また中年以上に至っては |尚更《なおさら》のことである、氏の平生を最も能《よ》く知り居《お》る或老輩から、余は下《しも》の如き話を聞いたことがあ る。  氏が既に頭角を経済界に露《あら》わして、屈指の銀行家となりし頃、その親交者中には、好んで花柳 界に出入する人も多かった、就中《なかんず》く政府の高官で、華族の栄典にまで浴した某氏と、銀行界の巨 肇《きよはく》を以て目せらるる某氏とは、この道の強者《したたかもの》であって、また氏と殊に睨懇《じつこん》で、各処の宴会には 絶えず同席する仲間であった、或時右の二氏が、氏をその仲間に引入れんと、相謀《あいはか》って一計を廻 らし、柳橋にて氏の最も喜び居《お》ると考うる一美妓に向い、密《ひそ》かに内意を授け、もし氏と患勲《いんぎん》を通 ずるを得ば、莫大の賞金を与うることを約した、妓は固《もと》より望む所とて、充分にこれを承諾し た、因って二氏はこのことに便なる或機会を与え、氏と妓とをして相押《あいな》れしむるに充分なる場合 を作った、ここにおいて彼《か》の妓《ぎ》は氏に向って、心のたけを打明け、これに継ぐに涙を以てした、 この時氏は悦《よろこ》んでその好情を謝した後これを諭《さと》して曰《い》いけるは、御身もまだ年若く、これから充 分に売出して、土地第一と称せらるる大望を持って居ることであろう、余もまた少しく望みを持 って居る者である、然るに、今もし艶聞でも広まりては、御身の為には出世の妨げ、余にも少か らず迷惑の種とたるであろう、因っては両人ともにその志を達せし上のこととしたら、どうであ ろうと、優《やさ》しく懇《ねんご》ろに慰められて、事済《ことず》みと為《な》った、その二氏もこの失敗を聞いて大いに頭を掻 いたと云う、右は氏が既に中年以後のことでもあり、これらの罠《わな》に掛らぬは不思議もない、ただ 氏の感ずべきは、壮年血気の二十歳台から、三十前後の頃において能くも色.界の魔障を排し得 たと感嘆する、安田善次郎となるには、またかかる難関をも切抜け来らなければならぬのであっ た。  また氏が成功の一因は、これをその身体の強健にも帰せねばたらぬ、氏は中肉中背で恰《あだか》も肥痩《ひモう》 の中を得て、がっしりと緊《しま》った体格である上、幼年時代から難苦《かんく》に遭遇し、飢寒に堪え辛苦を忍 び鍛え上げたものである、いわゆるその筋骨を労することも、十人以上であった、これがまた成 功に必要である、何となればおよそ事を誤るの原因は躬自《みみずへ》らその境を踏みその事を実験せずして、 他人の言を軽信するに因らぬ者はないからである、事業の成敗は、初めに聞く所と、後に見る所 との相違より生ぜぬものは少い、氏は飽くまでこの呼吸を呑込んで居た、故に萄くもその為さん と欲することは、必ず躬《み》自らこれを実査せねば承知せぬ、例せば或鉄道敷設に資金の申込みを受 くるとせん鱗、己れ必ず先ずその地を充分に踏査し、利害を確信するに至らざれば、決してこれ を承諾せぬ、また或工場に放資を望まるとせん鰍、躬自らその事業とその現場とを実査するにあ らざれば承知せぬ、銀行の一支店を設くるかまたはこれを合併する等のことあるときも、躬《み》自ら 先ずその地の盛衰及び人気の如何《いかん》までも実査して、然る後でたければこれを承知せぬ、故に氏の 一生中、その足跡は、幾《ほとん》ど海内《かいたい》に遍《あまね》しと言っても宜いほどである、北は北海道のはてより、南は 鹿児島、琉球、台湾に至るまで、氏の足跡を印せぬ処はない、何事についても悉く皆実地を調査 せねばならぬ、貸金の申込みを受くれば、その担保たる土地の調査に出懸ける、山林の抵当を申 込まるればその調査に出張する、而してその行先きは便利なる繁華の都会のみでない、随分不便 |極《きわ》まる山郷僻地も多い、それにも辟易《へきえき》せずして必ずこれを践渉し、利害得失を研究する、故に氏 の日記を閲《けみ》すると、一年中にその旅行の頻繁なること驚くべきものである、それも五年十年に限 られず、長き一生を通じてかくの如くであった、右の如き苦労は大抵の体格の者にては、とても 堪え得る所でない、僅か四五年の間とても、その真似は出来ぬ程のものである、またその旅行先 においていかなる難渋《なんじゆう》に遭うも、少しもこれに屈託せぬ、男爵武井|守正《もりまさ》氏は氏と年来の知人で、 山林などの調査に同行せしこともありし由なるが、窮境の僻邑《へきゆう》などに投宿して、南京米《なんきんまい》以下の粗 飯を饗せられしこともある、武井氏も壮時には随分困難を経て来た人で、大抵のことには閉口せ ぬ方なるも、幾《ほとん》どこれを口にし得たかった、然るに善次郎氏は得意気に独り鼓腹して、喜んで居 たには驚き入ったとは、同氏から聞きし所である、実にかくの如き強健の体格を有せざれば、ま た安田善次郎とは為り得ぬのである。  氏が江戸にて、始めて小店の主人公となった時は、幕府の末年ながら、まだ封建の世である、 |仮令《たとえ》幕府は危うく見え、行くゆく天朝の御政治となったとて、封建制度が近く全廃されようとは、 当時の有識者すら、これを察し得なかったのである、況んや理財一方にのみ心懸くる商人の身に おいてをや、恐らく何人も将来大変動が生じ来て今日の如き世の中に為《な》り得べしとは、思いも寄 らぬことである、封建制度の骨髄たる、その士農工商の四民がおのおのその業を世襲する仕組は、 いつまでも永く継続する者と仮定し、これに応じて万事を計画するのは当然のことである、国家 一切のことは、独り士族のみの為すべき本分である、素町人は単に富を積み家を全《まつと》うすれば事足 れりと考えられた世の中である、特に商人は四民の最尾に置かれ、士、農、工の下に立つ者とし て、末作《まつさく》の民と卑しめられた程である、故に当時|致富《ちふ》を心懸くる商人は、大いに今日とその趣を 異にして居たことを知らねばならぬ、氏の如きもまたその胸中には、一切の模範を、江州《ごうしゆう》商人等 の家風に取ったのも無理からぬことである、店向きは一切質素倹約を主とし、手代《てたい》番頭に至るま で、その頃にいわゆる御店風《おたなふう》の様式に依って育て上ぐるを第一と考えたらしい、衣服は唐桟《とうざん》に限 り、絹物を着るは御店者《おたなもの》の恥とせし如く、何事もこの流儀で進んで来た、かくて四五年を経過す る内に、幕府は倒れて王政の世となり、氏の財産も思いの外、早く膨脹するに至ったが、使用人 をばなお従前の御店《おたな》風に仕立てることを主とした、これ氏の業体が両替店、為替方《かわせかた》、銀行等の如 き極めて地味なる性質の者であったからである、もしも三井物産会杜などの如く輸出入の貿易を 主眼としその懸引の華々しき業務ならんには、新式に人材を仕立てる事も必要たる訳であるが、 銀行、為替業はもと金貸屋である、金貸業には手堅き人物を主とする為め、従3、旧式が適合す るのである、これ氏の身代がますます膨脹するに至っても、なお旧式にて事足りし所以である、 故に氏の中年までの間、即ち前半生においては、旧時の商家に共通たる御店《おたな》風に使用人を仕立て る事を第一義としたのである、然る処、その後半生に至っては、世態に大変革を来たし、旧風を 変ぜねばならぬようになった、明敏なる氏はたちまちこれを覚り得て、漸次にその方向を新式に 転換したが、なお幾分の旧式を加味することをば忘れなかった、前にも記する如く、使用人に最 も多く活澄の才を要するのは貿易業で、製造工業またこれに次ぐ、銀行業務は却って地味な人材 を好むのみならず、善次郎氏は何事も、これを自らしなければ承知せぬ人である、故に事を謀り 事を決するも多く自己の一存に出で、使用人は忠実にその命を奉ずるを可とするの考えがあった かも知れぬ、これら種々の理由からであろうか、氏が初年及び中年に、その使用人を択《えら》ぶには、 専ら忠実を主とした傾きがあるかと思われる、また昔時の大商店が使用人に対する仕向け方は極 めて質素であり、使用人等もまたこれに甘んじて居た、永年の勤続者には暖簾《のれん》を分《わか》つとか、紋服 を賞賜するとかの類である、氏はまたこの御店風を以て使用人に臨んだから、新式を主とする他 の銀行、商店、会杜等、に比較して使用人の待遇が薄きに失する如く評せられたかも知れぬ、し かし氏自身から言えば決して不思議はたいのである、何となればその胸中の模範が、既に上記の 通りであったからである、氏の身代が後年非常に増大して幾千万円となり、使用人の数も幾千人 に上るに及んでは、その末端下班までは、目の行届かぬ所も有ったであろうが、当初|小身代《こしんだい》の時 に当っては、人を見るの明において驚くべき所があった、何となればその主なる使用人等は打揃 って忠実|至極《しごく》の者が多かったからである、その例の一二を挙ぐれば、氏が新たに両替店を開きし 頃、使用した十六歳ばかりの丁稚《でつち》があった、この者に現金を持たせ横浜に赴かしむる途中、築地《つきじ》 にて不幸にも汽船の汽罐が爆発し、多数の死傷者を生じた、この丁稚も重傷を負うて不幸の死を 遂げたが、死に至るまで主人の金を失わじと努め、金のことのみ璽語《うわごと》を吐きつつ絶命した、傍人《ぼうじん》 皆その忠実を憐まぬ者はなかったと云う、その金は当時の氏に在りては非常な大切なもので、氏 は後年に至るまで、この丁稚の家を手厚く世話をなして居る、また氏の店の最初の番頭役を勤め た忠兵衛の如きは、実に忠実無比の評判を取った者であった、その他氏が抜擢して店の要地に置 いた者は、皆忠実ならざるはなかった、しかし既に大銀行家となり幾千の人を使用するに至って は、一々自らこれを選抜採用する訳には行かぬ、その末流に時として不心得者を生ずるも、また 余義なき次第である、しかし氏が自ら撰択する範囲の者に至っては、何《いず》れも忠実の者のみである、 而して全体より論ずれば、総体の使用人中辛抱し切れぬ者は早く中途に退き去るか、または不正 を働きて落伍する、かかる淘汰《とうた》を経て永勤した者は、皆非常に忍耐勤勉た者である。  また幹部たりし使用人中には、本来才幹ある人々多かりしも、氏の好む所の型に嵌められて、 その鋒錐《ほうぼう》を現わさず、ただ手堅く質実に勤務し居《お》るに過ぎなかったが、もし彼等を放ってその才 を発揮せしめなば、随分縦横の手腕を振い得べき力量ある者も多かったであろう、少くも我女が 知る所の人々はかくの如くであった。  また氏の後半生とも称すべき五六十歳以後には、既に安田象の事業は非常に手広きものとたり、 いかに明敏なればとて、氏は三|頭《とう》六|管《び》の人でない限り、自己一人のみを以て百事に当り、一の失 敗なしと云う理窟はあられぬ、いかに細心にして注意周到たる氏を以てするも、なお失策失敗の 多々あるを免れぬ、然るに大破綻なきのみならず、年と与《とも》に家運の盛んとなりしは何故《なにゆえ》であるか を思わねばならぬ、これ皆一に忠実なる使用人等が、氏の過ちを補うに依るからである、彼等の 或者は失敗を事前に予防し、或者は破綻を事後に弥縫《ぴほう》し、或は,顔《かんぱせ》を犯して忠言を揮らざる人も あり、或は陽にその意を承順して、陰にその失を調諌《ふうかん》する人もあり、内外表裏にかく過ちを補う 部下ありてこそ、始めて彼《か》の絶大なる資産が作り得られたのである、しかも氏の晩年に至り、使 用人に対する手当も、世間に劣らず手厚くなりたれ、中年の頃には他の銀行会杜に比して、決し て多しとは云えぬ程の割合であった、然るにも拘らず、能《よ》く使用人等の心を得ることかくの如き 所以のものは、氏が部下に対するに優しくして、人の懐《な》つく一種の徳を備えて居たからである、 「威その愛に勝てば誠に成る」の古語の如く、氏が事業上において、部下に対するの威はその愛 に勝ち、随分やかましく厳格を極め、毫も節度に違《たが》うことを許るさぬ流儀であったが、しかもな お云う可からざる温情がその間に流露して居たに帰せねばならぬ。 第四 前記の四 羨むべき一の幸福11父の健在"致富の二 法"称賛と嫉悪11不移怒、不宿怒H取膳の 話  善次郎氏の一世を通じて、最も快心で、最も幸福で、最も人に誇るべく、最も我々が羨《うらや》ましく 感ずるのは、厳父の健在中に、氏が早く世上著名の人物と為《な》り得た一事である。  およそ人が、壮年時代に早くその志を得ることは、誠に少ないもので、十の八九は、中年以後 の成功である、特にその多くは晩年である、故に我が父母に立身出世を見せてこれを喜ばせ得る 者は実に蓼々《ね よ コれ もん》たるものである《りさ》|、  古人も「富貴《ふうき》は須《すべか》らく身を致す早かるべし」とも云い、また「子養わんと欲すれども親待た ず」とも云い、「孝行をしたい時には親が無し」との便諺《りげん》もある、総て人が身分相応に志を得た ときに、先ずこれを見せて宣Rばせたいのはその両親でへ次は伯叔父母《おじおぱ》や親戚故旧知人である、こ れらの人々に見すればこそ、立身出世の甲斐《かい》もあると云うものf、これらの人々が、もはや皆世 を去りし後に至って、我独り志を得たればとて、誰《たれ》にか誇り、誰をか喜ばすべき、もしも我が身 に富貴を得るの運命あるものならば、古人の言う通り、身を致す早かるべしで、一年でも半年で も早く成功したいものである、ところがなかなか左様に行かずして多くは両親の残後とたる。  然る処、氏がやや已《すで》にその志を得て、世上屈指の銀行家の中《うち》に数えられ、日本銀行創立の委員 にも選ばれ、同銀行最初の割引局長嘱託ともなり、経済世界において、一二流の人物とたりし時 にも、氏の親父は実に健在であったのである、氏の父|善悦《ぜんえつ》氏は明治七八年に東京に迎えられ、明 治二十年頃に残したが、その間十幾年は、善次郎氏に取って実に幸福た歳月であった、善悦氏に 取っては尚更《なおさら》のことである、善次郎氏の日記を見ると、芝居の替り目ごとに、または大相撲の催 しあるごとに、必ず家族と共に父を奉じて見物に行かぬことは無い、その他、春の花、秋の紅葉《もみじ》 は云うに及ばず、およそその心を慰め得べしと考える処には必ず父を奉じて行った、この一事は 蓋し氏の生涯の最大幸福と羨まれるべきものである、氏の慈母は氏を膝下から遠離して出府《しゆつぷ》せし め、未だ氏の成効を見るに及ばずして早く残し、氏はこれに対して孝養を尽し得ざりし憾《うらみ》ありし より、生存せる父に対する孝養には一層の心を尽したらしく見ゆる、親父善悦氏は、善次郎氏が 出世して以来、我が身に何の不足なく、子孫の繁栄を見るのみたらず、筍くも己《おのれ》の親戚縁類たら んものは、善次郎氏の御蔭にて皆その処を得、不自由なく生活するに至り、満足から満足のみで、 何の思い残すこともなく、世を去った、かくのごときは親に取っての幸福と云わんより、子に取 りて無上の幸福と云わねばならぬ。  善次郎氏はその父母祖先に対して、ちょっと風変りの仕方を為した人である、世人は大抵神社 には正月元旦に参詣するが、寺詣りをする者は少いようである、然るに氏は毎年恒例として、元 旦に起出づると先ず四方拝を為し、家族と雑煮を祝い、それから必ず父母祖先の墓に年始詣りを したことである、これは何十年間、幾《ほとん》ど廃したことがない、死する年までも、この通りであった、 氏の知人中に、その妻と仇麗《こうれい》の情の、極めて深き人が有った、妻の残後に巨費を厭わずして壮麗 な墓を築いた、氏はその墓を見た後、余とたまたまこのことに語り及びしが、その後に附言して 曰く、「夫人をあの通り鄭寧《ていねい》にせらるるは感服ですが、父母の墓はまたあれ以上にせられたでし ょう、ねえ」とて微笑したことを、余は今に記憶して居る、氏はこれらの点に能く留意した方で あった。  氏が一方にて世人から称賛せられる事柄が、一方にはまた暗に恨みを買う種子《たね》と為って居たの は是非もない事である、およそ巨富を致すには二種の手段がある、その一は官府を相手とするこ と、その二は民衆を相手とすることである、官府を相手とするとは、官府の御用品を納めまたは 払下品を受け、または運送を引受くる等の類である、民衆を相手とするとは、世人一般を相手と して取引を為す者である。  およそ商売取引は、本来|売人《うりにん》にも買人《かいにん》にも、双方に利益あればこそ、成立つ筈のものであるが、 事後になって回顧すると、一方には利となり、一方には損となって居る場合が多い、損をした者 は失敗し、利を得た者は勝った如く考えて居る、敗者が勝者を恨むは人情の常である、然る処官 府は国内唯一の大有力者であり、また大富者であるから、その相手方に、多少の利益を得られた とて、これを恨む者ではない、ただ第三者たる世間が、これを妬み羨むに過ぎぬ、然るに世間一 般を相手とする者はこれに反して、取引の相手は多く微力にて、而かも多数である、これら多数 の人々は恰《あた》かも自己の利益を奪い取られた如くに思うかも知れぬ、故に善次郎氏は官府を相手と せずして、能く巨富を致し得たと、世人から称賛せらるるけれども、これと同時にまた或る部分 の恨みを受ける場合もあったであろうと思われる、これ官府を相手とする者よりも、民衆を相手 とする者に、不利の多き一《いつ》であらねばならぬ。  氏の使用人等が氏に対する評を聞くに、氏は随分口やかましかった方で、少しでも節度に違《たが》う と、随分手痛く叱り付ける、しかしどことなく温情のある人であった、と云うことに皆一致して 居る、また毫も怒りを宿さぬ人で、一事の失錯は非常に叱り付けるけれども、他事に関しては全 く別人のようで決してこれに怒りを移さない、また午前には怒っても、午後には闊然《いつぜん》として、幾 ど意に介する所がない、況んや今日の怒りを、明日までも持越すと云うが如きことは、幾ど無か ったと云う、また人の阿訣《あゆ》に類する言動を喜ばずして、非常にこれを嫌悪《けんお》した、自己が若年から、 険悪の風波を凌ぎ、百戦を経来《へきた》って居る苦労人だけに、甘いも酸いも飽くまで万事呑込んで居る、 故に漫《みだ》りにこれを士骨ばせようとか、煽動《おだ》てようとかしても、なかなかその手に乗らぬ、直ちに見 透されてしまう、それであるから、部下は皆恐縮して、その明察に閉口する、然るに氏の考え違 いまたは失策ならんと認むることあるに当り、使用人が顔《かんぱせ》を犯してその不利を説く者があると、 一時は不機嫌であるが、暫くの後は非常にこれを喜び、その人を優賞することが少なくなかった、 また主人の怒りを畏《おそ》れず、これに抗論するが如き忠実硬骨の人を、余は往々彼の使用人等の中に 認め得たのである、とにかく、一時は怒ってもたちまち、思い直して諌《いさ》めを納《い》れる氏の美徳は、 今日に至るまで使用人等が追憶して、昔を忍ぶ種子《たね》となって居る。  しばしば記する如く、商取引においては厳格を極めて、少しも仮借《かしやく》せぬが、他の一面には、ど こかに温情あって、それが自然と流露する事実が頗る多い、単に人を御《きょ》する方便のみでは無かっ たようである、山中清兵衛氏(今の清兵衛氏の父にて、先年物故す)は書画好きにて余の知人な りしが、氏は丁稚《でつち》時代より善次郎氏に使われ、漸次に引立てられて銀行役員となり、後には独立 して両替及び株式仲買を営み、相応の資産家と為りし人たるが、その談に、氏が銀行員たりし頃、 因作二州に急行を命ぜられて出張し、商用を果して帰京するや、草臥《くたぴ》れを厭わず直ちに善次郎氏 の許《もと》に報告に行った、時|恰《あだか》も夕方であったが、氏は喜んでその労を謝し、夕飯を与《とも》にせんとて、 家人にその支度を命じた、膳を進むるに至って、二人に別々の膳を出だせし処、氏は給仕に向い 「あっ、取膳《とりぜん》にしてくれるとよかったが」と言うた、取膳とは両人が一つの膳を共にして食する ので、そは最親の同輩間に限ることにたって居る、然るに御主人が、自分と取膳で食するつもり であったかと思うたら、涙がこぽれようとした、自分に取ってこんな有難いことは無い、この人 の為めなら、どんなことでも、奮励しようと思うたそうである、こんなことは、折々あったこと だと云う、右に限らず他の使用人からも、往々似寄りの話を聞くことである。  また使用人を信用して、一たび或事《あること》を担当せしむる以上は、一切打任せて、あまり製肘《せいちゆう》せぬ、 またやかましくも言わぬ、故に託せられた人々は、非常に責任の重きを感じて、これに従事する 有様であった、また決断の早い人であったから、何事を報告するにも、一から十まで、くどくど しく言うに及ばず、半分も述ぶれば、すぐ要領を呑込み、「ああ宜《よ》しよし、それで遣《や》れ」と云う 風な調子で、何事も早く埒《らち》の明く人であったとは、今に至るまで使用人等の説く所である。 第 五 前記の五 明察H己を以て人に望む"旧時の商店風H 進んで止まず11完人と仁人"情緒の人11悠 揚不迫"損得に対する喜憂  人の欠点は、多くその長処に伴うが常である、善次郎氏に欠点が有ったとすれば、またその特 有の長処に附随して居らねばたらぬ。  総て人の上に立っ者は、幾分かぽんやりとして、鷹揚な処が欲しいものである、古人も、「水 清きに過ぐれば魚棲《うおす》まず」と言いし如く、在上の人が、余り明察に過ぎて何事も見透すようでは、 使用人等は手足を措《お》く所なきように感ずる、この点に至ると、氏は天性明敏で、何事も見透す性 質であった為め、使用人等は頗る窮屈に感じたようである、どちらかと云えば明察に過ぎて、輻《とう》 晦に欠げて居たかと思われる、これが一失とも云える。  また自己が幼時よりいかなる難苦にも堪え来り、極度の質素に慣れ、不自由を物ともせぬ習性 があったから、他人もまたかくの如しと思惟して、動《やや》もすると自己と同様の難苦を他人に求めた、 およそ人としては、誰でもかくの如き辛抱をなす筈のもの、為さねばたらぬものと思うて居たよ うである、故にいわゆる、己《おのれ》を以て人を律し、他人に在っては堪え難きことも、さほどに思わな かったかのようにも思われる、およそ人を御するには、忍耐も勤勉も、皆中庸の程度を標準とし て、これを人に求めねばならぬ、ところが氏は己の堪うる所は人もまたこれに堪うべきであると 考えて、これを人に強《し》いた場合があったかも知れぬ、かかることよりして冷酷なりとの評を受く ることを免れなかった。  加うるに氏が当初胸中の模範とせし近江《おうみ》商人などの商家風(則ち俗にいわゆる御店風《おたなふう》)より云 えば、使用人等はその手当も僅少で、永年勤続の後には、紋服の一襲《ひとかさね》をも受け、暖簾《のれん》を分けて貰 う位に過ぎず、そして主従《しゆうじゆう》共にこれに満足して居たものである、然るに物換り時移り、維新の 後は会杜銀行の使用人等も、毎月相応の給料を受取り、万事賛沢となりて、紋服の幾|襲《かさね》、暖簾の 分与よりも、幾百千円の手当を受くるを悦ぶ世の中と為った、明敏なる氏はその後半生に至って、 早くこの変遷に心付きたれども、元々胸中の模範は彼《かれ》に在って此《これ》に在らざりしが故に、その前半 生は動《やや》もすると、御店風を以て部下に臨まんとするの傾きを免れなかった、これが為め安田家の 使用人は、他の銀行会杜に比して、手当が豊かならぬように見倣《みな》され、従ってその主人公も、薄 恩の仕打多しとの評を受けたのかも知れぬ。  商売にはその取引を厳格にし、互に仮借《かしやく》せぬことは普通の法則とは云うものの、一方の相手は 数千万円の巨資を擁し、一方の相手は薄資者であるとすれば、薄資者は自然に無理の註女や、身 勝手の苦情を並べ、その憐みを乞うは人情の免れぬ所である、この場合において富者たらん者が、 その間に手心を加え、百の利益を九十に止めて、残る十を相手方に存留せしめんには、その人の 事業に、一の光彩を加え、世評もめでたき者である、然れどもかくの如きは事業上に慈恵を混ず るものにて、商業の常事とは云い難い、且つ已《すで》に成立せる世間の富豪中には、往々これを能くす る者あるべきも、新たに財を積まんとする努力中に在る者に向って、これを望むは困難である、 氏の如きは、今や方《さニご》にその努力最中の身である、故に氏に向ってこれを求むるは、また無理な註 丈である、しかし世人の或者はこれを恕《じよ》せぬようであった。  氏はまたどこまでも、進んで止まざる、不思議な根強い性質の人で、苟《いやし》くも或地歩を得れば、 これを踏台として必ずその上に登らんとする、寸を獲ればこれに依って尺を得、尺を獲ればこれ に依って丈を得んとし、行き得る処まで行かんと欲する風であった、故に十万を積めば百万とし、 百万を積めば千万とし、更らに億万までにも上らんとする、これが氏の一生に巨富を致した必要 の特性である、然るに他人はこれを目して「足るを知らず、飽くたきの人」と評する、もし氏を して知足《ちそく》の方針に出でしめたたらば、彼の如ぎ絶大の富は、到底致し得られぬ筈である、故に氏 に向って足るを知れと望むならば、その富を棄てよと云うに等しい、これまた望み難き註女であ る。  また辛苦して巨富を致し得た人は、これを守らんが為め、非常の苦心をなすは世の常である、 大抵のことをば犠牲にしても、永くこれを子孫に伝えんとする、従って親族一門をば、厳格たる 家憲の下《もと》に置かねばならぬ、然れどもこの心を察せぬ者より見れば、いかにも過厳の人らしく見 ゆる、およそ人の行いにおいて、正を守るを義とし、恵みを施すを仁と云い、両者の区劃|自《おのずか》ら 整然と分れて居る、他人に対して一の不義理をなさず、一の迷惑を掛けず、能く我が家族一門を 養い得れば、則ち立派に正を守り義を尽せる一個の完人である、人たるの道はもはやこれにて充 分である、然るをなお一歩を踏出し、その余行を以て他を恵み人を助くるは、則ち善を施し仁を 行うのである、今日の流行語で云えば、義は消極のもの、仁は積極の者である、義と仁とを兼ね 行えば、これに超《こ》すことは無いが、已《すて》に義を尽せば、仁を行うに至らずとも、欠行の人では無い、 天下の人皆かくの如き完人たらば、世の中に仁を行う必要は無い筈のものである、しかし人の習 癖に依って、一方には不義理を為しつつも、一方にて仁を施すを好む者あり、また人を恵むこと を好むも、自家の経営に拙劣な者もある、或は先ず義を尽して、然る後ち大いに仁を行い恵みを 施さんと心懸くる者もあり、実に世は様々である、然る処、世人の多くは、富豪金満家が完人た るのみでは承知せぬ、なお進んで大いに仁を行い恵みを施せと望むのである、しかのみならずそ の恵みを施し仁を行うの大いに早からんことを求むるものさえある、而《しか》して善次郎氏は、仁を行 うに意あるも先ず正を守り義を尽すに重きを置き、恵みを施し仁を行うはこれを或時機と、或方 法に拠らんと、考えて居たようである。  余が多年の交際より知る所では、氏は小善を喜ばずして、常に下《しも》の如く考えて居た、一時の賑 窮《しんきゆう》も善事には相違ないが、与えた物が尽くれば、その人は依然たる貧困である、ただ人の助けに 依ってただ一時の快を得たに過ぎぬ、またこれを屡《しぱしぱ》すれば怠惰の習いを長ずるばかりである、 故にかくの如きは人を益せずして、却ってこれを損ずることが多い、むしろ職業を与えて働かし め、その人をして永く困窮を脱せしむるに若《し》かぬと、故に氏の故旧またはその子孫などが困窮を 訴えて来《きた》るときには、確実なる方法を持出し、この如き事業、この如き方法を以てするから、将 来永く貧困を免れ得ると申込むときは、その事柄を調査し、果して的確であれば、大いに喜んで 直ちに救助したものである、もしこれに反して、何等の方法見込をも立てず、ただ一時の助けを 求むるときは、頗る不機嫌で、余り多くを施与せず、またはこれを辞するが例であった、総じて 助けを求むる人が、永久に貧境を脱する企てならば、いつも喜んでこれを救助する、一時の恵み ならば多く与えざるのみならず、或はこれを断わると云う風であった、故にこの呼吸を呑込み、 方法を確立して援助を乞うときは、必ず十の九までは容れられる、一時の恵みを望むときは、十 の十まで断わられたようである。  氏はまた商取引に厳格で、取引上の契約を国法の如くに見倣し、互にこれを途越《ゆえつ》せぬ事を悦《よろこ》ん だ、もし互に退譲を望むときは、商行為は到底成立ち得られぬからである、およそその事業の狭 少なる者は、人に対する取引の度数も金高も知れたものである、故にこれを交譲するも、さまで の大損得はないが、取引の大規模なる者に至っては然らず、もし常に退譲を事とするときは、双 方の所望に、はてしなく、到底事業が行い得られぬのである、これ氏が契約履行に厳格なる所以《ゆえん》 であったが、相手方は、人情の常として、多くの仮借《かしやく》を氏に望む者が多かった。  また氏は、事業と私交友誼とを、全く区劃することを悦んだ、私交友誼は篤《あつ》しとも、取引上に おいてはこれを混同せぬ、取るべきは取り、与うべきは与えた、しかもたお、氏に交際ある者の |中《うち》には、私情を雑《まじ》えて取引を緩和せんことを望む者も少からざりしようである。  世人の多くは富豪に向って、完人たると同時に仁人たらんことを望む、而して氏は先ず完人と なりて後に仁人たらんと欲した、世人の多くは事業取引にも私情を混ぜんことを望む、而して氏 は全くこれを区劃せんと欲した、世人の多くは富豪が財を積みつつこれを散ぜんことを望む、而 して氏は先ず大いに積みて後ち大いにこれを散ぜんと企てた、氏は事を処するに極めて緻密であ る、緻密の極は苛察《かさつ》に類する、氏は極めて厳格である、厳格の極は冷酷に類する、もし世上の或 部分において、氏に対するの批難があったとすれば畢寛《ひつきよう》右の訳合《わけあい》に職由《しよくゆ》する、而して氏は更にこ れらの批評に頓着せぬ、何となれば自己の所行は理に惇《もと》らず義に背《そむ》かずと、飽くまで信じて居た からである、もし氏にしてその所信の励行に、少しく手心を加えたらんにはかかる批評は容易に これを打消し得たりしならん、氏に対してもし批難があったとすれば、蓋《けだ》し以上列記する所に他 ならぬであろう、なお氏の性格、習癖を知悉せしむる為め、雑然として無秩序に、余が知る所の 事柄を左に列記する。  或は氏は若年から楚花折柳《はんかせつりゆう》の遊びに耽《ふ》けらなかったと聞かば、氏を以て冷々たる木石《もくせき》の如く思 う者もあるべきが、事実はこれに反して、氏は元風流情事を解し得る多恨の人であった、故にそ の手控日記などの中に、某々の宴会には、非常な一美人を見た、たどと戯記したものがある、さ すれば氏の眼にも、美人はやはり美人と見えたのである、小町も醜女に見えた訳《わけ》では決してない、 また器用であるから、若年には富本《とみもと》に堪能で、爪弾《つめぴ》きで端唄《はうた》と云うくらいは為し兼ねぬ多情多恨 の風流子の資格を備えて居た、ただその胸中の大目的達成の為め、己に克《か》ち得たに過ぎぬのであ る。  また氏は吝畜《りんしよく》たる守銭奴にして、十円の金を人に贈るべきところも、一円にてこれを済ませる 人ならんと、氏を誤想する者もあるようであるが、それも間違って居る、その一例を挙ぐれば、 嘗て氏の自作に係る三四枚の文稿を或文芸家に托して、添削を求めたことがある、氏は器用であ るから相応に出来て居り、その人が筆を加えた所は僅かに、三四箇処に過ぎなかった、ところが 後ちその礼として、最上の塩瀬白羽二重一疋《しおぜしろはぶたえいっびき》を贈った。  右は余の親しく知る所である、決して非薄《ひはく》と目すべき謝儀では無いようである、その他これに 類することが往々あった、故に氏は強《あなが》ち何事にも、倹約ではなかった、ただ無用の場合に、有用 の財を多く費さぬ、と云うだけである。  しかしその昔、米一|石《こく》の価が七F内外、浴銭《ゆせん》は僅か二三文鶏卵一箇が一銭にも上らぬ物価低廉 の時代に生立《おいた》ちし人は、昔にたずむ傾きを免れぬ、明敏なる善次郎氏にしてこの今昔の金の桁《けた》の 相違は、飽くまでも知り居《お》るべき筈なるも、なお昔時《せきじ》の慣《ならい》を脱し兼ねたかも知れぬ、これらのこ とが節倹に過ぐとの評を起したかと思われる、氏を目して何事にも、ただ出し惜しむ人とのみは 云い難い。  また自己の目的は、貨殖に在るからして、悟淡《てんたん》無欲なる君子の別世界あることを知らぬ人かと 思うと、それはまた大間違いである、氏はこの類の人の尊《たっと》ぶべきことを能《よ》く知って居る、嘗《かつ》て或 地の旅行より帰京の後ち、余が面会せし時、旅行中にこの如き君子人《くんしじん》に遭逢せしことに語り及び、 |頻《しき》りにこれを称賛して居たこともある、これらも蓄財以外の事を知らぬ者とは、大いに趣が違っ て居る。  氏の狂歌は、大倉鶴彦翁の如く口を衝《つ》いて出る程ではないが、稀に詠出すると、なかたか灰汁《あく》 ぬけた面白いものがある、余は折々氏からその近詠を聞かされたが、その折は、いつも手控と見 ゆる小さな手帳より繰出された、因って氏の残後家人に話し、この手帳を求めしが、未だこれを 見出し得ぬ内に、大震災の為に焼尽されたことは残念である、さも無ければ一冊の狂歌集が出来 たであろう、日夜ただ貨殖にのみ心労し居《お》るべく見ゆる人に、かかる余裕のあるのも面白い。  また氏の甥姪《せいてつ》中には、氏の邸内で成育せられた人々も少からぬが、これらの人々の話に依ると、 氏は暇あるときは多く庭園に出で、樹木を眺め、または植木屋を指図して、その手入れを為すが 常で、いつも悠々緩々たる様子であった、机に向い算盤《そろぱん》を手にし、沈思熟慮する如き態度は、幾《ほとん》 ど見なかったと言うて居る、金融業から一代に巨富を積み得た者は、多く日夜算盤と頸《くぴ》っ引《びき》をな す者のみである中《うち》に、その巨肇《きよはく》とも云うべき氏が、却って悠揚迫らざることかくの如きは、これ またさすがに時流を超越して居る、それもその筈かと思われるのは、氏が極めて思い切りの宜《よ》き ことである、例せば或事に失敗して非常に損失を受けても、いつまでも、くよくよ愚痴をこぽさ ぬ、その当座は無論善後策に苦心しても、忽ちこれを忘れたかの如く、閲然として居った、右に 付いては、氏の近親及び使用人等の言う所が、幾ど皆一致して居る、蓋し氏は今これを失うとも、 また再びこれを得る時機が来る、と云える経験を積んだ為めかと思われる、仮に一時は大損をな すとも、或機会が到来すれば、また大儲けをなすは珍らしからぬ、「災《わざわい》も三年たてば役に立つ」 の諺《ことわざ》の如く、一時は損失と思うことも、堅忍持久する中《うち》には、妙な風の吹廻わしで、また非常 の儲けになるものである、かかる実例を、幾たびか実験し来れば、成敗のたびに、大なる喜憂を |懐《いだ》かぬようになる、故に多く世故を経て得失の場数に慣れた者には、往女見る所である、大隈侯 などもやはり同様の風が有った、侯は事の成敗に逢うて、甚だしき喜憂をなさぬ人で、愉快に楽 天的に見えた、成功の時には喜ばないでもないが、失敗が来ても意外に悲しみもせず、落胆もし なかった、これは畢寛、侯の局量の大なるにも因るけれども、また一は栄枯盛衰の順環して常に すべからざるを悟って居たからである、いわゆる天下は廻り持ちと云うことを、切実に知って居 る、今日内閣を失っても、三四年の中には、また入閣の時機が来ると思うて居たらしい、仮令《たとえ》こ れを言語に現わさぬまでも、総.tの事情から、ン.う察せられて居た、財界における善次郎氏の態 度も、多分これとその趣を一にして居たのであろう。 第 六 前記の六 囲碁H書画11大借金家"良将の退軍11根気  善次郎氏が貨殖家に珍らしき多趣味の人なりしことは已《すで》に上記せし通りで、謡曲も、乗馬も、 茶の湯も、書画も、骨董も、大好きであったが、その中《うち》にも囲碁は、最も好む所で、暇さえあれ ば師を聰《へい》し友を求め、無暗にやったものである、一連に引続いて二三十局を囲むくらいは平気で あった。  ところが余の事には皆器用なるに拘らず、囲碁のみは大下手《おおへた》で、いかに熱心に勉強しても、余 り上達し加かったようである、さすがの勉強家も、免許を取る訳には行かず、初段に対して六七 目を置くぐらいの所で、行き詰ったらしいが、地方出張中にても暇さえあれば、誰彼を選ばず相 手にしたもので、その辺に知人が無ければ先ず宿屋の主人を引張り出す、主人が出来ぬとその辺 の碁好きの老人を捜し出してもらい、二日も三日もこれを相手にする、故にその随行員中に相手 になる者があれば、これと対局して厭くことを知らぬ、これには皆|頗《すこぶ》る閉口せし様子である。  碁の勝敗は、元数理より割出すこと少からぬ故、算勘に明るい人の中に、名手が多かるべく見 ゆれども、実際は必ずしも然《しか》らず、また世事においては機略縦横の人も、碁に至っては頗る拙劣 なる例が少くない、豊公《ほうこう》の如き天性頓智縦横の人にても、碁は随分下手であったもので、その頃 の豪傑連を相手とし、無理やりにこれを負かし、「勝った勝った」とて喜んで居たのである、こ の稚気ある所に英雄の嘉落《らいらく》さが窺われる、また世間の智者必ずしも碁の上手《じようず》でない、近き例は伊 藤公たども、あれほど事理に通暁する才略を有しながら、碁は随分下手なりしこと、人の知る所 である、善次郎氏の明敏を以てしても、知れ切った手に全く気付かざりしは不思議と思う程であ ったとは、常に氏の相手をなせし人の直話《じきわ》である、もし氏の活《い》きぬ筈の石が活き、勝てぬ筈の一 |隅《すみ》が勝ったりすると、その喜びは非常であって、よほど稚気を帯びて居たとて、今も一笑話とし て遺《のこ》って居る、ただその根気よき天性は、ここにも発露して居た、また氏が書に巧みなるは、人 の知る所であるが、画もまた晩年にはちょっと見られるだけは描き得た、世間では氏の画は大黒《だいこく》 の像に限る如く思う者多けれども、強《あなが》ちそうでもない、時々余に贈りし品の中にも、大黒以外の ものが相応に多い、その画の二三を本書に掲げて置く、但し氏が画に対してやや熱心となりしは、 その晩年で、暇の時こば手本を求め二れを学んだが、美ず独学自習で、素人としては相応と目す べきで、巧妙とは称し難い、嘗て余に向って、己の画が甚だ拙きを憾《うら》む話ありし故、余は「画は その拙き処に妙があるので、もしも画工の画の如くならば、却って趣を失するであろう」と答え しに、「そうかも知れませぬ」とて、笑って頭を掻かれて居た。  天性の書画骨董好きであり、また充分の購買力を有ちながら、能《よ》くもその欲を抑え得て、漫《みだ》り に買入れなかったことは感心である、しかしよくよく欲しくてたまらぬ逸品に出逢うときは、平 生の戒めを破って、内密に買入れた例、一二はあるようである、しかし右は中年以後の事で安田 家に遺存した至局価の器物類は概《おおむ》ね五十歳以前に買入れたものであった。  氏は手堅き勤倹家である、故に借金などは、なかなかせぬ人であろうと思う者もあるようであ るが、この想像は大違いで、その実氏は大の借金家で、借金好きであり借金を苦にせぬ人である、 時としてその使用人等に向い「返せぬ借金をするは愚人であるが、力に堪え得る大借金をたす程 の者でなくては、大事は成せぬ」と語り聞かせたことが有った、右はこれを聞いた使用人の直話 である、いかにも氏が小店《こみせ》を開きし以来、いつもその力|一杯《いつばい》の借金を為さぬことは無かったよう である、その資産が二三万台の時にも、二三十万の時にも、二三百万、二三千万のときにも、い つでも力一杯、張り裂く程の借金をして居たい時は無かったのである、そしてまた力一杯に、こ れを振廻して居る、ただその振廻し方、貸付方が堅固である為め、大失敗を来さぬのである、も し氏をして尋常手堅き金融家の如く、常に借金を避け、自己懐中の資力のみに依頼せしめたなら ば、彼の如き人を驚かす大業は、とても望み得られなかったであろう、晩年こそ安田家の資力は 充実して借金も少なかりしも、氏が中年頃の安田家は、日本銀行からの借出しが、常に他の銀行 よりも多かったことは事実である、これらは世人の想像と相違した氏の太っ腹を見るに足ること である。  善く兵を用うる良将の技禰は、敗軍の時に現われる、苟《いやし》くも勢いよく勝に乗じて進むときは、 良将も庸将《ようしよう》もほぽ同一に見ゆる、然れども一朝味方が利を失って総崩れと為《な》るに当り、兵器を榔《なげう》 ち輻重《しちょう》を棄て、全軍隊伍を乱して四散八落するは庸将である、この際にも旗鼓《きこ》堂々として隊伍を 乱さず、軸重をまとめ、整然として繰引《くりひき》に引揚ぐる者は良将である、即ち街亭の敗に、諸葛《しよかつ》武侯 が軍を全《まつと》うして退きしが如き類である。善次郎氏の取引も、常に全勝とは行かぬ、数多き貸付の 中には、随分幾多の失敗も有った筈でなければならぬ、氏はその場合において、いつも軍を全う して引揚げるだけの技禰を有して居た、軸重を棄て隊伍を乱し、潰走する如きことは幾《ほとん》ど無かっ た、これがまた大業を成し得た所以の一《いつ》である、他人と難《いえ》ども、時機に乗ずれば、氏の如き大儲 けを為し得たであろう、しかし敗軍の場合に、氏の如く軍を全うして帰ることは、為し得ぬであ ろう。  また取引の談判において、氏の根強きことも非常である、談判がもはや破裂に問一髪、と云う 処まで持耐《もちこた》える、その一例を挙ぐれば、氏がその根室硫黄山《ねむろいおうざん》の在荷《ありに》を、非常に沢山抱え込んで居 た時、或外商がこれを引取る相談に横浜より出京した、再三談判しても不調で、もはや相談破裂 と見て取った氏の店員等は陰に譲歩を望むに拘わらず、氏はその主張を曲げず談判を打切って手 を分った、その時硫黄山の会計主任たりし原田虎太郎氏も、この談判に参加して居たが、もうこ の辺で譲歩して貰わねば、あの持荷をこの先きいかにすべきかと、はらはらしたそうである、と ころが一両日を経て先方が、また会見を申込んだ結果、遂に氏の主張の値段に落着いて事終った、 後原田氏が「よくもあの通りに御持耐えになりました、どうして向うの折れて来るのが分って居 ましたか」と問うたら氏は笑って「欲しくない者がわざわざ横浜から出て来る筈がない」と答え し由、右は原田氏の直話である、その他往々これに類することが多い、談判破裂の鍔際《つばぎわ》まで、持 耐え得るが氏の常で、その根強き性質の一端が、またここにも現われて居る。  勤倹の二字は、氏が常に唱道し、且つ実践した所の標語であった、氏の特異たる幾多の性行習 癖も、皆この二字を以て律せられ、この二字の中に含蓄された、苟《いやし》くもこの二字を服鷹して努力 する者あらば、仮令《たとえ》善次郎氏とは為り得ぬまでも、皆天分相応の富を致し得るであろう、一面か ら云えば、氏の特異なる性習は経《けい》であり、この二字は緯《い》である、彼《かれ》と此《これ》とが織り雑《まじ》って、ここに 一疋の錦が織り出されたと云っても宜《よ》い。  しかしなお備わらんことを求むれば、勤倹の二字に配するに、正愛の二字を以てすることであ る、勤の弊は取るべからざるものも取らんとする、倹の弊は与うべきものも与えざらんとする、 取らざるは正であり、与うるは愛である、善次郎氏は完人たらんことを期した、故にその弊に陥 るを免れたが、しかもなおこれを疑う者があった、他人に在っては特にこれに配するに、正と愛 とを以てするを、安全の道とする、上記する如く異常なる性格の持主たる善次郎氏は、そもいか なる地に生れ、いかなる風に生立《おいた》ち、いかなる径路を経て、いかなる商略を用い、彼《か》の絶大の巨 富を致し得たのであるか、左に述ぶる所を見よ。 第七 本伝の一 生誕"富山の地勢"安田村"富山の人気" 売薬行商"幼時の環境11その父祖  徳川覇政の三百年間、太平の絶頂とも称すべき天保《てんぽう》九年(今を距《さ》ること八十八年前)十月九日、 越中国|富山《とやま》の町外れなる陋巷《ろうこう》の茅屋《ほうおく》中に、一男児が瓜々《ここ》の声をあげた、これぞ後年我が邦《くに》の財界 一代の風雲児たる安田善次郎その人であった。  余の郷里は九州の偏隅、日豊《につ う》の境に位して居る、故に九州と上国《じようごく》との交通には何の関係もなく、 |且《か》つ交通不便の地であるから、他郷の旅客は、幾《ほとん》ど通行する者のない場所である、然《しか》るにただ越 中富山の売薬商人だけは入込んで居て、富山売薬の名は、余の幼時にもこれを耳にしたが、右に 関して老輩等の物語るを聞きしに、越中富山は山間の僻土《へきと》で、俗にいわゆる立山《たてやま》の地獄谷《じごくたに》などの ある処、産物僅少、生計不如意なるため、その土俗は他所稼ぎを以て生業とし、山中に多き熊を 猟し、その胆《きも》准どを原料として薬を造り、これを他国に販売するのであると、故に余は子供心に も、越中富山は険阻《けんそ》なる山また山で地勢|狭険《きようあい》、曉硝《こうかく》の清土《せきど》であると想像して居た、交通不便なり し旧時においては、世間にも或は余と同様に考えて居た人も多かったかも知れぬ、然るに近年親 しくその地に遊んで見れば、この想像とは大違いにて、富山附近は打開けたる平原広野で、いわ ゆる沃土《よくど》千里、坦々たる平地であり、その最寄《もより》には山を見ぬ、ただ海岸から八九里もしくは五六 里を隔てて、遙かに立山の高山脈が屏風《ぴようぶ》の如く列立して、飛騨信濃と越中との境を為《な》して居る、 この大山脈より海岸までの間は、実に一望、砥《と》の如き沃野と言って宜《よ》い、なかなか熊の足跡一つ も見られる土地柄ではないのである。  富山市の名は、中世まで日本の歴史に、多く現われる機会がなかったが、織田信長が地を北陸《ほくろく》 に略せしとき、その部将|佐々《ささ》成政《なりまさ》を始めて越中に封じ、成政が富山に治せしより、その名がやや 世に知られた位のものである。  立山の山脈より出でて、日本海に注ぐ大川が二三ある、その一《いつ》なる神通川《じんつうがわ》の水運を利用して、 往代よりこの河畔に一の聚落が形づくられた、それは海口を湖《さかのぼ》る一二里の地で、則ち今日の富 山である、佐々成政もここを城下とし、この河を要害に取込んで、いわゆる半月城《はんげっじよう》を築いた、即 ち一面は河に拠って城を築いたものである、後前田家が加能越三州を領するに及び、その支藩を この地に封じたが、この藩もまた成政の旧に依り、この地を城下とした、それより世は泰平とな り、戸口《ここう》の蕃殖《ぱんしよく》するに従い、富山の町は河を超えて新開の附属地を生ずるに至った、勿論その広 さは本部の二三割に過ぎぬ、而《しか》してこの二箇所を連結する為に、舟橋を架設した、右は架橋の経 費を省くと同時に非常の時はこれを撤去して、河の要害を利用する為でもあった、而してこの新 開地には粗末なる町家と、末班の土族軽輩の居宅だけがあった、善次郎氏の旧宅は、即ちここに 在ったのである。  列屏《れつべい》の如き立山の高山脈以外には、この平野に山なしと記したが、ここに柳《いささ》かの例外がある、 それは山と称すべき高さのものではない、むしろ高丘《こうきゆう》とも名づくべき一連の高地がある、この高 丘は立山から海岸に向い数里の間、起伏して小山脈を為し、富山市を距《さ》る里余の処に止って居る、 この山脈がかくこの地に止まるが故に、往代には留山《とめやま》と称し、遂に富山と託称することとなった と云う説もある、とにかく一脈の高丘は、遙かに連なりてこの地に止って居るが、富山附近にて は、その高さ約東京|愛宕山《あたごやま》の二三倍に過ぎぬ、しかしもし兵を用いて富山を攻囲する場合あらば、 この山脈は同地の死命を制するに足るとは、誰の目にも見ゆる所である、昔し秀吉《ひでよし》が柴田を越前 に亡ぼし、長駆して北陸に入り、柴田の同盟たりし佐々成政を挫《くじ》かんと、兵を富山に進めしとき、 果してこの丘上に陣取った、因《よ》って今に至るまで、その地を太閤山《たいこうやま》と呼んで居る、その麓から程 遠からぬ地に一小村落が有ってこれを安田村と云う、ここの一農家の二男に善次郎と称する者が あったが、今を距《さ》ること百五十余年前に、富山に移住して商業を営み、その出所に因《ちな》んで屋号を 安田屋と称えた、封建時代には、百姓町人は苗字を許るされざりし故に、ただ善次郎と云える名 前のみをその後、代々相承けたものである、後年士籍に入るに至り、その店名を苗字として、安 田を姓とした。  前にも記する如く、熊の足跡すら見出し得られぬ平原沃野の富山藩に、何故に売薬が創製せら れたか、これまた一問題である、これを聞く、昔時《せきじ》富山藩の三代目に前田|近江守正甫《おうみのかみせいほ》と云える藩 主あり、極めて総明の人にて、殊にその心を本草学《ほんそうかく》に用い、斯学の大家を招聰《しようへい》し、従って藩内に もこの学に篤志の人物等を生ぜし結果から、遂に薬剤の製造を始め、これを領内の土民に頒与し たるに、人を利すること甚大なりき、これを伝聞せし他の諸侯等より幕府の殿中などにて往々藩 主に薬剤を所望する等のことあり、また領外の各地より、薬方の伝授を望む者も生ぜしかば、む しろ広くこれを世間に頒布せば、一は衆人をも利し、一は藩民をも富ますべしとの考えより、次 第に藩外に向って売薬行商の途を開きしが、その評判ますます盛んとなり、遂に日本国内には富 山売薬行商の足跡を印せざる地たく、いかなる僻邑《へきゆう》辺土にも反魂丹《はんごんたん》、熊胆丸《ゆうたんがん》、妙振出《みようふりだ》し等の名を 知らざるものなきに至り、年を経、世を重ぬるに従い、その事業はますます発達し来った、現今 同市の売薬行商の収入金額は一カ年数百万円に上るを見ても、その往時の盛大が想い見られる、 人ロ僅か七八万を出でざる同市にして、一カ年数百万円の収入ありとすれば、売薬たるものがい かに同地を潤《うるお》し居たかを知るに足らん。  昔交通が不便を極め、殊に各藩割拠して、藩外の事は露知らぬ者ばかりなる時代においf、、独 り富山の売薬行商人等のみは、日本全国到らぬ隈もなく、年々の売捌《うりさぱ》きに赴く者、売上金を取立 つる者、これらが富山に帰来せし時の物語は、いずれ各地の商況または利益を得るの巧拙、また は諸方の奇談珍説等、数限りもなくこれを齋《もたら》し帰ったであろう、従って同市の青年等は勿論、婦 人子供に至るまで、筍《いやしく》も利益のある所は、日本国内|何《いず》れの地にも踏出さんとする壮快の気分は、 自然と全市内に液《みなぎ》って居たと想像しなければならぬ、他藩では江戸まで行くにも、泣別れを為し たる時代に、富山商人が外遊出稼ぎを喜ぶ人気は、本篇の主人公なる善次郎氏に、いかなる刺撃《しげき》 を与えたであろうか、これまた想像に難からぬ、およそ諸種の方面に、大事を成せし人々の経歴 を点検するに、その周囲の事情と、環境の形勢とに左右されたいものはない、これを思えば、こ の土地とこの人気とは、善次郎氏なるものを出現せしむるにおいて、また大いに力ありと言わね ばたらぬ。  氏は父を善悦《ぜんえつ》と云い、母は太田氏、名は千代《ちよ》と云う、氏の祖父母に、実子加かりし為め、善悦 氏夫婦共にいわゆる取婿《とりむこ》取嫁である、しかし善悦氏は搦裸《きようほう》の中《うち》より、早く安田家に養われ、恰《あだか》も 実子の如く育て上げられた、その父母は子なきに反し、善悦氏夫婦は、沢山の子福者で、十余人 を挙げたが、その三男三女、合せて六人は不幸にして天折《ようせつ》し、留存したのは僅か一男三女で、善 次郎氏はその長子で幼名を岩次郎と呼んだ。  かく多数の子女を失った後、僅かに残りし唯一の男子なりし故、父母の鍾愛《しようあい》は一方ならなかっ た、また他の天折せし兄弟と違い、氏は至って強健に成長し、今は巳《すで》に六七歳となった。  善悦氏も勤勉にして材幹あり、貧苦の中《うち》から若干の貯金をなし、士族の末班たる軽輩の株を買 って、士族の末に列することが出来た、当時士族は農工商から羨まれた上に、左《さ》の事情が大いに 善悦氏を促して士族の株を買うに至らしめた、氏の祖父の頃に北陸が嘗て凶歳に逢い、平民は糊 口《ニこう》に差支え、幾《ほとん》ど餓死するほどの境に在りしに、士籍に列する人々は、その末班《まつばん》の者までも、藩 主より俸米を受け、その生命を維《つな》ぐに、些《ちと》の苦労もしなかった、これを見た氏の祖父は、仮令《たとえ》軽 輩たりとも、生活の安全を図るには、藩主の俸米を受くるに如《し》くはないと考え、常にこのことを 子孫に話して居た、右の訓《おしえ》に従って善悦氏は苦心の上貯金し、辛うじて下士《かし》の株を買い得たので ある、なおその後も勤勉の結果として、茶坊主にまで取立てられた、父の行為がその子に影響を 与うるものとせば、この人の勤勉材幹は、その子岩次郎に多少の感化を与えたでなければならぬ、 仮りに氏はその子の出世なしとするも、とにかく自身に余生を送るだけの手当覚悟はあったもの と見え、後年善次郎氏から東京に呼迎えられた時には、その嚢中に千五百円|乃至《ないし》二千円を携え来 たようである、この一事を推しても、親の代から既に勤倹の家風であったと察せられる、しかし これは後年のことで、岩次郎の生れた頃の安田家は、極めて不自由の家計であった、元と元と株 を売買せらるる程の下士故に、その俸米も裕《ゆたか》なる筈はなく、一日に受くる所は、僅かに四合五勺 乃至一升に過ぎなかったようである、故にこれらの下士は俸米のみにては、到底立行き兼ぬるよ り、何《いず》れも皆内職を心懸けたもので、右は各藩とも同様であったが、特にこの藩には、この風が 行届いて居たかと思われる。 第 八 本伝の二 下士の内職"七歳の花売り11十二歳の行 商人H寺子屋"分別者"賃写巧筆H昼夜 の辛勤H江戸に出る決心  徳川氏が覇権を握って以来、その常に憂慮する所は、大諸侯の向背《こうはい》であった、大諸侯と云う中 にも、外様大名《とざまだいみよう》、言換えれば太閤《たいこう》大名、則ち豊臣時代からの雄藩強国、西においては島津、毛利《もうり》、 北に在っては前田の如き、皆徳川家の目の上の瘤《こぶ》である、実に徳川氏に取ってこれら有土の主の 離反抗敵ほど恐るべきものはない、特に前凪家は百万石の大封を擁して、中原豊饒《ちゆうげんほうじよう》の地に居たか ら、幕府|猜疑《さいぎ》の眼《まなこ》は、絶えずその動静に注意されて居た、かかる状態の下《もと》に在って、もし前田家 たるものが、常に武備を張り、殺気を帯ぶる士風を鼓舞すること、薩藩の如くならんには、それ   ゆゆし                   さくほう               わざわい こそ由々敷き大事にて、小なれば削封、大なれば転封の禍は、立ちどころに至ったであろう 故に前田家の為に計るに、第一の良策は、この猜疑を散ぜしめ、幕府をして、彼前田家何をか能《よ》 く為し得ん、彼また与《くみ》し易きのみと安心せしむるに若《し》くはなし、かくの如ければ前田家は実に安 穏無事である、故に前田家の謀臣智士は、一藩の士風を儒弱に陥らしめざるに留意し、武を修す るの心懸を怠らしめざるは勿論ながら、その士風を標桿《ひようかん》殺伐ならしむることは、たるべくこれを 避けたかも知れぬ、その為めには、人気を温和にし、士風を優雅ならしめ、彼《か》の加藤清正が、そ の藩の将士に謡曲乱舞を厳禁せしとは反対に、謡曲、茶の湯、骨董の愛好を公許して居たかも知 れぬ、近年東京における書画骨董商が加、能、越より出づる者多きも、畢寛はこれらの関係より 生ぜしには非ざる歎《か》、加賀本藩の風気、既にかくの如しとすれば、支藩たる富山の如きも、また その意を体し、士族をして他藩よりも営生にその意を用いしめたかも知れぬ。  右は或は穿《うが》ち過ぐる評かも知らざるも、とにかく富山藩にて下士の末班に在る者は、自己は勿 論、その子弟をして内職商売をなさしむることは、公許されて居た由である、当時善悦氏と同地 位なる士族の子供は、一般の慣例として、七八歳より寺子屋に入ると共に内職を為して十二歳に 及び、十二歳以上となれば、寺子屋を退き、全くその家の内職を手伝い、商業に従事する慣《ならわ》しで あった、さて七八歳より十二歳まで、児童等はいかたる内職をなすかと尋ぬるに、彼等は朝早く 起き出で、寺子屋に行く前に、花売りをすることである、同地においては何れの家も、朝ごとに 花を神仏に供するの習俗があるので、可憐なる花売児童の手から、これを買取ってやったもので ある、この風は今日までも遺存して今の児童等も小学校に行く前、必ず花売りをなす由、岩次郎 も、はや七八歳となり、寺子屋に入り、毎朝例としてこの花売りをしたものである、かくして幼 年から、彼は既に商売に慣らされて成長した、また同地にては子供等の売上げから生ずる僅少の 利益は、小遣として彼等に与えらるる慣《ならわし》なりしが故に、岩次郎もまたこれを得て貯金をなしつ つあった。  寺子屋の日課は何れの地も同様で、先ず習字を主としてその傍ら実語教、または四書五経の素 読を為さしむることであった、岩次郎はその時代から、已《すで》に利発者と称せられた、この寺子屋は、 氏の旧宅を距《さ》ること二三町の所に在って、氏の旧宅と与に、今なお存在して居る。  岩次郎の勤勉貯蓄の天性は、早くこの時代から現われて来た、彼は寺子屋の同年輩を結合して、 毎日一丈ずつの貯金を始め、組合の者が一箇月ずつ、輪番にこれを掌《つかさど》るの規約を定めた、嘗て その一人が管理の法を誤りしとて、氏は痛くこれを責めて、喧嘩をしたなどの話が今に土地の老 人間に伝えられて居る、岩次郎は寺子屋の成績において、既に優等と認められて居た、十二歳で 寺子屋を出る頃には、既に人に依頼されて、帳面の表書《うわかき》を為し遣る程に上達し、子供仲間で、岩 さんは手書きと誉められて居た。  その寺子屋は、神通川《じんつうがわ》の附近にありし故に、彼は寺子屋友達と与《とも》に、河伯《かつば》の如く朝夕《ちようせき》この川に 出没した、その為め水泳も達者であった、彼の幼時を知り居《お》る古老の話に拠ると、岩次郎は腕白 ながらも、手におえぬと云う程ではなく、執《いず》れかと云えば、少しませて居た方で、子供仲間でも、 |分別者《ふんべつもの》と云われる質《たち》であったと云う、彼が後年の態度から推して、いかにもそうであったろうと 思われる、或は子供同志の喧嘩の仲裁に這入《はい》るとか、或は組合を作って、その采配を振るとか云 う性質であったらしい。  さて寺子屋を出た十二歳以後の岩次郎は、直ちに稼業に従事せねばならなかった、彼はなお屏 弱《かよわ》き身を以て、子供相応の小なる天秤棒を担い、富山から近在にかけ、日々往復二三里の所を野 菜の行商をしたものである、その時から已に、友達朋輩より勉強で、且つ商売に工風《くふう》を用いたよ うである、朋輩はその荷物を売り了《おわ》れば、肩を休め空手《からて》にて家に帰るのが通例であるのに、岩次 郎はまた戻り荷を持返った、彼は富山から野菜を仕入れて、二三里を隔てし岩瀬と云える地にこ れを売込む、同地は漆器の産地であるから、戻り荷には、その漆器を荷って、これを富山に売捌 いたから、朋輩に比すれば二重の利潤を得て居た、而して彼はその一割を父母から貰い受けて、 これを貯金したのである、十二三歳の子供が、力に堪えるだけの重荷を背負うて、毎日往復五里 以上の道を辿《たど》った訳《わげ》である、かくして十六歳頃まで、この苦労とこの勉強とを毎日繰返しつつあ ったが、貯蓄好きの天性はこの時にも現われた、父善悦氏が数年前に土蔵を作ったが、力足らず して蔵の扉だけは、これを後廻しとして、そのままに打過ぎて来た、然るに、岩次郎は四五年間 に積み得たる己《おのれ》の貯金を割《さ》いて、父の為に土蔵の扉を造った、またその妹等が始めて寺子屋に入 りし時、その入用なる机丈庫の類は、兄からの進物として、自己の貯金より買入れ与えたと云う 話も残って居る、およそこれらは当時を知り居《お》る老人等の実話である。  岩次郎は、かく日々行商に辛苦し、身体の疲労し居《お》るにも拘らず、夜はまた写本を為して金を 取ったものである、例の根気よき天性は、既にこの時から現れ来った、当時彼の写本は太閤記《たいこうき》で あった、徳川時代には太閤記は、ちと揮かる場合もあり、また大部のもので版本の価格も高かり し故に、これを買入るるは余程の金持に限られ、大抵の者は写本を弄《もてあそ》んだのである、太閤記は 大部であるから、写本の金も相応に取れたらしく、彼は太閤記を二部まで写し了ったと云う、彼 は字が得意の方で、写本も美事であり、定めて割合|好《よ》き仕事と為ったであろう、常人なれば稼業 の時間を割いても、遊戯を為したき若年の頃でありながら、昼は行商、夜は写本、貯金の為めに は身に柳《いささ》かの余裕をも与えぬ所、已に稀有《けう》の若者である。  さて、彼は已に十七歳となった、この頃は諸藩とも同様の風儀で、下士は門地《もんち》ある上役に懇意 な人があると、その家の手伝いに頼まれ、折々行って働くことがある、例えば組頭《くみがしら》ならば組下の 足軽が時々来て家事を手伝う等の類である、父善悦氏は茶坊主であったから、その支配頭たる何 某《なにがし》の家に、若年なる岩次郎を代人として出入りせしめ、他日引立てを受くるの助けともなさん為 であった、岩次郎は暫くその家に住込んで居たとも云われる。  然る処、黒船の出没が始まり、世上には騒動の風がそよそよと吹初め、何となくただならぬ有 様となって来た、加うるに日本全国を跨《また》にかけ、利益のある所は山間僻地をも厭わず、頻繁に往 来する売薬行商の若者等と、日夕《につせき》談話を交うるごとに、岩次郎の胸中に、大刺撃を受けずして已《や》 むべき歎《か》、また明敏なる彼は今の忍耐と今の勤労とを以てせば、より大なる利益を得るの道なき やとの疑問を生ぜずして已むべき歎、日々重き荷を負うて五六里の道を往来し、夜は遅くまでも 写本をなして、得る所は実に僅少である、聞くが如くんば、都会には広闇《こうかつ》の天地ありて、大利は 路上に墜《おと》されてある、これを拾い得るの容易なるは、恰《あだか》も芥《あくた》を撰《つか》むに同じからんなどと、考えず して已むべき歓、自己の忍耐勤勉は已に深き所信あり、ただこれをいかなる地に用いて、最も多 くの利益を獲得し得べき歎と、財界の風雲児は めた。 、今や漸《ようやく》く彼の前途を、種々に考慮することを始 第九 本伝の三 太閤記H十七歳の家出H山路に迷って引返 す"二十歳再度の脱出"江戸に着く"富山 に連れ戻さるH許されて三度目の出発H奉 公稼ぎ  彼《か》の少年が太閤記《たいこうき》を、全部二回まで写し了る間には、充分にこの書を熟読したること勿論にて、 豊公の立身出世は、彼に多大の刺撃を与え、人は働き次第にて、一生にいかたる大業をもなし得 べきもの、また草履《ぞうり》取の如き微賎からも、関白《かんぽく》に為り得べきもの、特に松下嘉平次の家から逃出 した事などは、その胸中に一つの手本を描いたかも知れぬ、かくして十七歳の彼は、江戸に出で て身を立つべしと決心した。  已に三|男《なん》三|女《によ》を失い、唯一の男子として、彼を育て上げたる父母に取っては、彼は全く彼等の 生命であワ、掌中の珠である、その膝下より彼を手放すことは、とても為し兼ぬることは明白で ある、危険なる旅稼ぎよりも、安全たる下士の株を守らせ、父子|団簗《だんらん》の楽しみを失わざらんとす る父母の至情は、見え透いて居る、いかに彼が志を立て、幸運を他郷に求むるの利益を説けばと て、父母の承諾を得難きは、幾《ほとん》ど疑いを挿《はさ》むに及ばぬ、ここにおいてかこの少年は、父母に告げ ずして、家郷を脱出すべく決心した。  氏が商業を以て、身を立てんと決心した動機に付いては、種々の説がある、本人の直話とて世 に伝うる所は、或年大阪の町人が富山に出張した、その時藩中の主なる役人等が、これを迎えて 鄭重を極めた、その役人等には下士軽輩が、途中にて逢えば土下座をなす程のものである、然る に彼等がこの客人に対する応接は、また非常の歓待を極めた、而してその客人はいかなる者かと 尋ぬれば、この藩に金を貸付け居《お》る大阪の用達《ようたし》商人であると云う、ここにおいてか、彼は金力が いかに世事を左右し得べきかを、染々《しみじみ》と悟ったと云うのである、かかることも無論一つの動機と は為ったであろうが、概して言えば当時は封建の世の中で、士農工商ともに皆|門地《もんち》世襲であり、 特に杜会の百事は、総て士族の掌中に帰し、その士族中にても、門地に依って役柄の高低を生ず る、故にいかなる俊才英物でも、志を得ることは容易でない、農工の二職も、その範囲は高の知 れたものである、ただ商業界のみ、やや自由の天地に見えたであろう、尤《もつと》も主なる商業に、大抵 みな特権株と為って居たから、何人もその好む事業を、随意勝手に経営し得る時代では無かった が、しかし他の士農工の三民に比すれば、駿足《きそく》を伸ばし得べき余地は、比較的広闊であった、こ れらのことは明敏なる少年の脳裡に、早くも映じ出されたに違いたい、つまり彼は、今の如き辛 労を以て、狭き田舎《いなか》に働くよりも、むしろ広き大都会に出づるの得策なるを覚ったのである、山 間の小池に躍るよりは、激荘《びようぼう》たる大海に泳ぐの面白きを想像したのである、自己が将来大鯨とな りて踵躍すべき、その広大無辺なる槍漠《そうめい》の愉快を、胸中に描き出しては、もはや矢も楯も堪らな くなった。  ここにおいて乎《か》、彼は独り江戸に出づべく決心した、その旅費は僅かながらも多年の心懸けで 貯え居たりとするも、ここに当惑したのは、通行の旅券が得られぬ、従って道中の関所を越すこ とが出来ぬことである、ここにおいてか尋常の手段では、その志を遂げられぬと覚悟し、普通の 本道たる富山|直江津《なおえつ》より、信濃路を経て、江戸に出づるの路を取らずして、富山より飛騨《ひだ》の山越 しを為し、信濃に出づるの間道を経《ふ》ることにした、則ち樵夫《きこり》の通う細道を辿って、信州に出でん と決心したのである。  頃は安政元年九月、富山にては牛《うし》が頸《くぴ》神社の祭礼にて、町内の賑《にきや》かなる日に乗じ、窃《ひそ》かに飛騨 に向って出発した、普通三日程である所を、二日程にして山越しをなさんと企て、誤って道に迷 い、深林を彷裡《ほうこう》して日暮に至り、遙かに渓間の燈火《ともしぴ》を認め、その茅屋《ぽうおく》を叩いて、一夜の宿を求め た、この家の主人は猟夫《りようし》にして、妻は既に世を去り、その子とただ二人にて、淋《さみ》しき歳月を山中 に過して居る者である、主人は深く少年の心事に同情したが、その来歴を聞いて大いに驚いた、 彼は己《おの》がその子に対する依閻《いりよ》の情の常に切なるに思い較らべ、この少年の両親が郷里にて、いか に愛児の失踪を心配し居るかを痛感し、父母の意を安んずる為め、是非とも一応は立帰るべしと |懇説《さと》した、ここにおいて岩次郎も、終夜この忠告を思い続けて、父母の歎きに想い到り、遂に意 を翻《ひるが》えして、再び家に帰ることにした(一説にはこの樵夫が、自ら富山まで送り来りしとも云う、 後年岩次郎がその志を得し時、往時の大恩に酬いん為め、この樵夫を尋訪《じんほう》せしに、家を挙げて早 く既に北海道に移住せしとかにて、その行衛を知るに由なく、非常に残念に思いしと云う)。  悲《つつが》たく還り来りし愛児の顔を眺めたる時の、隻親《ふたおや》の狂喜は言わずもがたである、しかし父は且 つ喜び且つ怒り、その不心得を叱責し、以後は商用の外、決して他出を許さぬことにした、氏は また頗る謹慎してよくその訓《おしえ》を守り、狸《みだ》りに外出せぬ程であったと云う、かくして安政二年も過 ぎ、三年となりしが、その間も少年は、初志を翻えすべくも見えぬ、狭き郷里に結果の少たき辛 労を為さんより、是非とも大都《みやこ》に出でて、その志を成さんと決心し、心中にては絶えずその用意 を為し、時機を伺い居たりしが、安政四年二名の知人が、江戸に出でんと欲するを知った、彼は この機逸すべからずと為し、同年四月二十八日同行三人にて早朝富山を出立したが、東水橋町《ひがしみずばしまち》を 離るる前に、偶然にも母方の叔父《しゆくふ》なる太田|弥助《やすけ》に出逢った、彼は止むを得ず、弥助に対して、ま た潜かに江戸に出づるの意を説述した、この時彼は既に二十歳《にじっさい》であったから、叔父も無下《むげ》にこれ を妨げずして相い別れた、故に氏が出発後、双親《ふたおや》は弥助から、早くも既じてのことを知ったので、 前回ほどには心配をせぬまでも、未だ心の定まらぬ少年が、誘惑多き都会に出づるの不利を様々 に胸中に描きつつ、彼の行末を案じ続けて居た。                   い                    びようぼう  一方岩次郎は、首尾よく江戸の地に足を容れた、彼が多年胸中に描き来りし澱荘たる大海は、 今その眼前に展開された、しかし砂乎《ぴようこ》たる彼は、恰《あだか》も浮薄《うきぐさ》の如くどこと目指して身を寄すべき所 もなかった、幸いに知人があるので、一《いつ》の風呂屋に草鮭《わらじ》を脱いだが、暫くしてまた或両替屋に奉 公した、湯屋に居た間は、無論その手伝いぐらいは為したことであろう、次の両替屋は、相応に |大店《おおみせ》であったからして、その業務の見習は、将来に多大の便宜と為った、氏は出府《しゆつぶ》して名を忠兵 衛と名乗った。  然るに故郷の双親は、いかにも子の行末が心配に堪えぬ、是非ともこれを呼戻さねばならぬと、 叔父弥助にこのことを託した、因って弥助は江戸に出て、本人を説諭して、その嫌がるのを顧み ず、遂にこれを連れ帰った、ここにおいてか岩次郎が二度目の脱出もまた徒労に帰し、再び富山 に住むこととなった、彼が江戸に在りしは、僅々四五箇月に過ぎなかった。  しかし短時日ながら、一たび江戸を目撃せしことは、将来彼が父母を説得するに、非常た便宜 となった、彼はその江戸にて見聞せし事実を述べ、将来の出世に最も利便あることを、最も都合 好く両親に吹聴したことであろう、また在府中の自己の行動をも、双親の安意する如く話したに 相違ない、而《しか》して初志を貫徹する為には、また機を見て必ず脱出すべく、その志の到底|回《めぐ》らし難 きことをも、叔父を通じて暗に双親に知らしめたことであろう、ここにおいてか双親も、彼の志 の遂に奪うべからざるを察し、また将来却って彼の為に幸福なるべきやに思い到り、遂に公然と その出府を許可するに至った。  岩次郎の再従兄弟《ふたいとこ》に、林|某《ぽう》なる青年があった、このとき恰《あだか》も彼は江戸の聖堂に入学する為め、 出府することとなった、かくの如き佳伴《かはん》は、またと無かるべしとて、父母に請うて、これと同行 することとなり、彼の多年の宿志は、始めてここに達せられ、天下晴れて江戸稼ぎをなす身とな りて出発した、右は安政四年にして、今を距《さ》ること六十八年前、彼が二十|歳《さい》の時なりき。  鬼には金棒、商人には資本、いかに縦横の商略ありとも、資本なき赤手《せきしゆ》空拳では、商人は何事 も成し得られぬ、他人の助けを借らず、少額なりとも、自立営業に足るの資本を積み得れば、先 ずここに商人たる一段階を登ったものである、次《つい》では右の自立営業の利益を以て、生活の安定を 得るに至れば、第二段階に進み得たものである、これ以上は当人の働き次第で、破竹の勢いで進 み得る訳であるが、さてその第一段階たる資本を、赤手空拳にて積み得ることは、難中の難事で、 大低はこの第一段を昇り得ずして、世を終るものが多い、而《しか》してその第一段に達するの道は、先 ず雇人生活に入るの外は無い。  この度の出府で、彼が最初に住込みたるは先度一旦奉公せし両替店なりき、それより後、或は |玩具《がんぐ》の受売りをなし、或は海苔《のり》、鰹節《かつおぶし》の小売屋の若者となり、かく商売と奉公とにて、約六年の 歳月を経た。  その間の辛労は、勿論尋常で無かったらしい、さすがにこの人の根気と勤勉し」セ以てするも、 給金の中《うち》から、剰《あま》し得る所のものは実に少額で、容易に自立自営の資本を得るには至らなかった、 この時においてその心志を苦しめたことは、また却って後来の大成に資すべき好箇の試錬であっ た。  彼は奉公先において、いつも主人の気に入ったのみならず、近隣の人々にまで、気受けが宜か った、例せば早朝に起きて、その家の店前《みせさき》を掃除するのみならず、近隣の前まで、必らず掃除し てやるなどの働きをする、その為め氏の評判はなかなか宜しく、万事この調子で行く上に、愛嬌 もあり世辞も宜《よ》し、そこらにて良き奉公人の模範と噂《うわさ》された、横浜の富豪故|増田《ますだ》嘉兵衛氏は、氏 と奉公友達で、同氏の奉公|店《みせ》と、氏の店とは向合いであって、朝夕《ちようせき》互いに交遊したと云う、また 大倉喜八郎氏も、その頃は或両替屋の雇人であり、同業である所から、知面《ちめん》相識の間柄になった と云う、これらの三人が、何れも皆後年に、我が商界に著名の人となりしも奇縁である。 第 十 本伝の四 六年間の奉公"両替業の習得U小売業の見 習"災厄不幸"露店の両替商人11小両替店 の主人公"妻を迎えて共稼ぎ11小売の繁昌 "通貨の大変動  右六年の奉公稼ぎの間に、氏が習得せし商業上の心得は甚大であった、尤《もつと》も右六年の中に、自 分稼ぎに類せし商業を為《な》せしこともあり、そは玩具《がんぐ》の行商なりき、氏は或玩具店の主人の信用を 得て、同店の貨物を借入れ、市中を売歩き、日々売上げの歩合《ぶあい》を、貰い受くる約束なりし如し、 この行商を為《な》せし為《た》め、江戸の地理風俗、その他を会得《えとく》せし利益は少からざりしも、金銭上の得 益とては、誠に僅少にして、到底充分の資本を稼ぎ出すことの至難なるに思い当った、'因ってこ のことは間もなく廃止して、また奉公稼ぎをなすこととなった、右玩具の行商は、僅かに一年以 内で、後の五箇年余ケは、専ら両替屋《りようがえや》の奉公人であった、この頃の両替屋には、専業と兼業との 二種あり、専業の店は両替のみなれども、兼業の店は鰹節、砂糖、鶏卵の小売と、両替とを兼ぬ るものにて、かかる業体は、今日もなお東京市中に見得るようである、氏は専業両替屋にも、兼 業両替屋にも、奉公をしたのである。  兼業の店に奉公せしときは、両替のみならず、鰹節、鶏卵、砂糖、などの仕入れより、顧客の 取扱方まで、習い覚えたる訳《わけ》にて、その専業両替店に在りしときは、古金銀《こきんぎん》、贋金《がんきん》等の見分けよ り、貴金属の品位等の鑑別までも、習得したのである。  利発明敏なる氏は、早くも右諸品の小売などの呼吸を充分に呑込み、後年独立開店の基礎を作 りつつあったのである、また専業両替屋における、金銀及び貴金属の鑑定に至っては、最も熟達《じゆくだつ》 することが早かった、その頃、両替屋の奉公人が、専ら尽力せしは、古き大判《おおぱん》小判を始め、当時 の金銀貨、二朱金|一歩銀《いちぶぎん》等の見分け方で、右は余程難儀なるものなりし由、先ず普通の方法とし て、金銀の判定には、専ら試金石を用いたれども、両替屋の奉公人たる者は、肉眼にて直ちに金 銀の品位を判定し得るほどでなくては、役立たぬものであった、氏はこのことに最も熟達せし為 め、奉公先では頗《すこぶ》る重宝がられたと云われて居る、氏が右貴金属の鑑定に特に熟達せるその技能 こそ、実に将来氏をして、巨富を致さしむるの一大|階梯《かいてい》となったことを記憶せねばならぬ。  当時は幕府の威力|已《すで》に衰え、政令行われず、諸藩において往々金銀貨を私鋳《しちゆう》するものありて、 これらの私貨は、已にぼつぼつその顔を市場に現わし始めた、一方においてはまた外国貿易の端《たん》 開らけ、洋弗《ようどる》などの輸入も始まりかけた、ここにおいてか両替商の金銀品位の鑑定は、世上に於 て非常に大切欠ぐべからざるものとなった、何となればその頃は世上一般、総べて現金通用の世 の中にて、紙幣なるものはなかったからである(諸藩においては、藩札なるものありて、紙幣通 用の世であったが、江戸始め大阪京都の如き大都会は、総て現金取引であった)、またその頃は、 銅銭の種類も非常に多く、各箇ごとに品位の高低種々なること、殆ど想像の外である、加うるに 外国貿易開けてよりは、銅銭の如きも、種類に因って色々と価格の相違を生ずる時代となり始め た、故にこれらの鑑定取扱いは、総てこれを両替商に待たねばならぬ。  日用物品の売買は、総べて硬貨を用い、全く紙幣なき世の中で、その貨幣に種々の真贋《しんがん》ありと せば、両替屋が世間に必要にして、且つ重宝がられたことは、紙幣通用の今代の人には、想像し 得られぬことであろう、氏がかかる時代において両替屋に奉公し、諸金属鑑定の技能に熟達した ことは、将来の発展に大便宜と為《な》ったのは云うまでも無い。  氏は六年の奉公稼ぎに因って、得る所かくの如くなりしと難《いえと》も、その間に二回の災厄を蒙った ことがある、その一つは奉公先の両替店が、贋金使用の嫌疑にて、主人が拘留せらるるに至り、 その取調べの為め、証人として店員の重《おも》なる者もまた二三日の拘留に逢い、氏もその中の一人と して、その厄を免るることが出来なかった、しかしそのことは元過失に因ること判明した為め、 主人は固《もと》より、店員等も何等の答《とが》めなく放免された。  また他の一つは、氏が奉公先の主人に随行せし折のことと思われるが、一年上国を巡遊して、 大和国|多武峰《とうのみね》に詣でた時、氏は不図《ふと》寺塔の何れの所にか楽書《らくがき》をした、世間の青年が旅行先にて、 後の記念の為め、または知人の来遊者に誇るが為に、「何年何月何某来拝」などと、神杜仏閣の 壁に記名するは珍らしからぬことであるが、氏も多分これを為したものと見ゆ、然るに多武峰に ては、楽書が非常の禁物で、見廻りの役人に見各められ、直ちに引立てられて拘留所に打込まれ たのである、その頃同山は自治制を許されて居たから、領内の小犯罪たどは、自分で処理する権 力があったものである、拘留所の主任等は、犯禁の旅客から、賄賂《わいろ》を得て放免する慣習のあるも のと見え、氏に向って金の要求を初めた、この時氏は、これに応ずる程の金を持たなかった、因 って到底このままにては、とても放免されぬことと考え、拘留所から隙を狙《ねら》って逃走した、然る に山内の関門において、再び取押えられ、厳重の符めを受けんとせし所、折よくその場に来合せ た一人の老僧がこれを憐み、氏が禁を知らずしてこれを犯したる所以を陳謝し、幸いに無事放免 されることとなった、(氏が後年成功せし時、その恩を謝せんとて、同山に赴きしに、この僧は 肥後の天草《あまくさ》に転住して面会を得ず、氏がその後機を得て九州に至り、彼を訪問せし時は、既に残 後であったので、その墓に香花《こうか》を供し篤《あつ》くこれを弔《ちよう》したと云う)。  またこの外に、氏の為には一大不幸と目すべきことが生じた、それは氏の母|千代子刀自《ちよことじ》が、氏 の独立営業を始むる前年の十二月、富山において逝去した一事である、母堂は実にその最愛なる 唯一の男児が、身を立つるを見るに及ばずして、早く逝ったのである、右は氏に取って蓋《けだ》し終生 の一大恨事であったであろう。  さて、六箇年余の奉公稼ぎの後、今は何とかして細々たりとも、自立の稼業をなさんものと企 てたが、何分にも資金がない、氏の勤勉と貯蓄とを以てしても、その頃の給金、一年僅かに二両 二分、即ち二円五十銭にては、いかに当時の諸物価が低廉なりしとは云え、一年に余し得る所、 幾程もない、仮令《たと》え六年の歳月を重ぬるも、その高は気の毒たほどに僅少なものである、しかし 氏はこの僅少なる資金を以て、独立の営業を為さんと決心した。  依って先ず日本橋|楽屋新道《がくやしんみち》の棟割《むねわり》長屋に陣取った、無論独身である、この長屋には独身者が多 く割拠して居たと見える、氏の隣家には渋谷嘉助氏も居たと云うことである(今の嘉助なる人の 祖父なるべし)、この長屋住居の若者等は、日々稼ぎ歩いて帰り来れば、互いにその日の得益の 多少を誇り合うたとの話も残って居る、当時善次郎氏の資本は、僅かに五六両であったからして、 この資本にては両替店を開く訳に行かぬ、依って日本橋の小舟町《こぶなちよう》辺の或四辻に露店を出すことと して、戸板の上に小銭を並べ、ここに哀れなる一の両替店が開らかれたのである、ところが例の 愛嬌と利発とで、相応に得意が出来て、氏が日夕擁《にっせきたゆ》まぬ勉強振りには、有力な人々が自ら目を注 ぐ程になった、長井利右衛門氏の家は従前からの富家であったが、同氏の父なる人も「あの両替 屋は若いけれども、非常に辛抱者である、贔負《ひいき》にしてやるが宜《ょ》い」などと云いしことを記憶して 居るとの話である、同氏の父も風変りの人で、富豪にも似ず、一家の惣菜《そうざい》は、必ず自身で買入れ る、それは奉公人共の喜ぶものを成るべく喫《たべ》させたいとの心懸けからである、従って右の惣菜を、 日々日本橋に買出しに行く、往復の途には、いつも彼《か》の薄資な若き両替商人の露店の前を通行す るので、時々両替を頼むことから、この若者に目を着けたのであると云う、これまた同氏の話で ある。  かくして善次郎氏は辛抱を積み、やや店らしき小両替屋を、人形町通《にんぎようちようどお》りの乗物町《のりものちよう》に開くまで に漕ぎ付けた、その時今までの儲け溜めやら、秘蔵の懐中物、煙草入、諸道具やら、一切を売払 って得た所の資金が辛うじて二十五両に上った、氏が致富の段階は即ちこの時から始まるのであ る、それは元治元年《がんじがんねん》、則ち王政維新には五年前、横浜開港からは五年後で、氏が二十七歳の時で あった、今までは忠兵衛と称して居たが、この頃は善次郎《ぜんじろう》と改名して、安田家世襲の名を継いだ、 さて、始めて開かれたこの店は、当時世間の小両替店の慣習に従い、上記せし兼業両替屋である、 則ち主なる日用品鰹節、海苔、砂糖、と両替との兼業である、ところが氏は例の愛矯と如才ない 態度とで、顧客を引付くること、なかなか巧妙であった、当時を知り居《お》る老人の話に、氏は鰹節 など買いに来る客人に向って、あれ宜からんこれ宜からんと、陳列品中の最も宜さそうた、しか も価の安きものなどを、自分の袖にて拭いたがら差出す、と云うようた調子で、いかにも親切丁 寧であり、また品物も他より格安であると云うことから、鰹節は勿論砂糖までも、日々顧客の数 を増し、碁年《きねん》たらずして、大いに繁昌し、人形町界隈は云うに及ばず、京橋あたりからも、わざ わざ買人《かいて》が来ると云う有様で、大評判の繁昌店となって来た、今やこの店には二十七歳の主人公 と、小僧一人、炊事を掌《つかさど》る老婆一人、主従合《しゆうじゆう》せて三人である、なかなかの繁昌にて、両替よ りも、むしろ右雑品の売行きが多く、多大の利益を得るに至った、しかし氏は専業の両替が、将 来に大利益あることを忘れなかった。  かくして氏の店は次第に繁昌する、人手は不足するという訳から、氏に妻帯を勧むる知人等が 多くなり、本人自らもまた、いかにも人手の不足に閉口し、ここに内助の人を得て、家を為さん と決心した、依って開店後一年余りにして、藤田家の娘なる房子《ふさこ》を嬰《めと》ることとなった、氏が妻の 選び方も、また甚だ思慮深くして、彼は女子の容色に重きを置かず、むしろその貞淑と確乎たる 性質とを選んだ、当時江戸の習慣として、相応なる商家は、皆その女子を諸侯の奥向《おくむき》に奉公せし め、行儀万端を見習わしめたものである、藤田家は元|刷毛屋《はけや》を世業とし、この業体においては旧 家であり、堀部安兵衛の書せし看板なども、持って居たと云うことであるが、しかしこの頃は家 道が大いに盛んなと云う方ではなかった、先ず普通の商家に過ぎぬ、而して当時の慣習に従い、 その娘房子を十二歳の時より松平|下野守《しもづけのかみ》の奥向に奉公に出《いだ》し、後また長州侯毛利家に永く奉公さ せ、その内に世は勤王佐幕の騒ぎとなり、毛利家の奥向も、旧領に引越すこととなりしため、房 子は首尾好く暇《いとま》を賜わり家に帰った、その時二十一歳であった、それが或縁故から、媒《なこうど》に依って 善次郎氏がこれを納るる所となったが、氏は能く能くその性質を見究めた所があったと察せられ る、その頃の房子嬢を知って今日に存生《ぞんじよう》せる老人の話を聞くに、容色は余り艶美な方ではなかっ たらしいが、しかし長く武家方に奉公して行儀作法は充分に心得居り、また貞淑にして且つ確《しつケ》り した性質であったから、この繁昌する両替店の妻として内助を与うるには、実に恰好の女子であ ったと云う、朝から主人に代って日暮まで、帳場格子《ちようぱごうし》の内に坐り、店を監督する傍ら、台所の指 図をも為した、ここにおいてか善次郎氏は、大いにその全力を大規模の取引に用うるの余裕を得 た訳である、いわゆる夫婦共稼ぎで、その店は繁昌する、生活は楽になる、恰《あだか》も順風に帆を揚げ し舟の如く、家運は隆々として将《まさ》に興らんとして来た、殊にこの時代こそ、日本|開開《かいぴやく》以来、絶え て無くして僅かに有りと称する、通貨大変動の世の中とたった。 第十一 本伝の五 世界物価の変革"金銀対価の変動"開港の 影響"両替商の大活動H一躍して大両替店 の主人公H仲間の肝煎役H冒険の大得益  古今東西列国の経済を通覧するに、通貨と物品とは、年を経《ふ》るに従い、双方とも漸次にその高 を増加し来ること勿論である、一方において戸口《ここう》増殖し、百貨|豊阜《ほうふ》となり、一方には通貨貴金属 の産出も、また増加する、しかし両者の増加率が、互に平均すれば、物価は誠に平穏無事で、安 定して進む訳《わけ》であるが、どうもそう都合|宜《よ》くは行かずして、何《いず》れか一方が過多となる、それは貴 金属が物品よりも超過し来るが常である、その為《た》めに金賎しく物貴く、物価は次第に上り行く、 右は東西を問わず、列国皆な然《しか》りと言うて宜い、蓋《けだ》し発掘さえすれば、直ちに労力の代償物たる 貴金属を得ることが、尤《もつと》も手早き致富の手段であるが故に、何れの国にても、万人の着目する冒 険は、何よりも先ず金銀の発見である、故に杜会の需要高よりも自然貴金属産出の方が、長足に 進歩し来るのである。  殊に二百年来、欧米における交通機関、並びに学術の長足の発達は、ますます金銀の発見と精 錬の巧妙を助け、米阿二州の未開地に新良坑が続々出現するに至り、世界貴金属の高は、俄然と して未曽有《みぞう》の増加を示した、殊に最近百年間の貴金属産出力は、実に千古未曽有である、その為 めにはますます金賎しく物貴く、列国物価の騰貴もまた非常である、苛《いやしく》も交通の連絡ある場所 ならんには、世界の何れの地も、早晩免れ難き変動の運命を有《も》って居る、欧米二州は最も早くこ の影響を感じたが、最遠隔地たる極東の諸国すら、次第にその影響を蒙ることを免かれぬ、日本 に比すれば、外国交通が少し早く開けた支那の如きも、物価は騰貴を始めてきた、また貴金属の 産出が激増するに従い、金属相互の間にも、また非常に相場0狂いを生じた、則ち金価と銀価と の間に、大なる開きを生ずるに至った、余は嘗て清《しん》の銭泳《せんえい》の随筆を読み、左の記事を記憶する。      銀  価    明《みん》の洪武《こうぶ》十八年(日本至徳二年にて五百四十一年前)後は、金一両が銀五両に当る、永楽   十一年(応永廿年)には則ち銀七両に当る、万暦《まんれき》中(天正年代)にはなお七八|換《かん》に止《とどま》りしも、   崇禎《すうてい》中(寛永年代)には已《すで》に十換に至る、国朝(清《しん》朝を云う)康煕《こうき》(寛丈年代)の初年は、   また十余換に過ぎざりしに、乾隆《けんりゆう》の中年(明和の初年頃)には則ち貴きこと二十余換に至る   (金一に対する銀二十余)近来は(寛政七年頃)則ち十八九換、二十換の間に在り(中略)   近歳洋銭盛んに行われて、則ち銭銀|倶《とも》に賎《いや》し。  右に依れば支那において明《みん》の初めには金一銀五なりしものが近年に至っては金一銀二十とまで 開きたるなり、なお欧州における金銀の差価の大略は左表の如し、但し金一に対する銀の数位を 示す。   一六〇一年至二〇年    銀 一二、二五   一八五一年至六〇五年   銀 一五、四〇   一九〇一年至五年     銀 三八、○〇   一九二一年      銀三一、○○  欧米においてもまた銀価は、古《いにしえ》に比して近年は下落の一方のみとたり、横浜開港の頃は、先 ず十五六の間であった、然るに日本では却って銀価が高かったのである。  支那においてすら、金銀両者の差価が、かかる変動を示して居る、而《しか》してその変動は金に対し 銀価が非常に下落することである、右は畢寛《ひつきよう》、中米|墨斯古《めきしこ》等における、銀産出の非常に彩《おぴただ》しき 余波の遠く及びしものに外ならぬ、我が国において外国貿易の為め、大いに物価変動の端《たん》を開き しは、実に横浜開港の頃を以て始めとする、即ち善次郎氏か両替店を開きし頃は、早や已《すで》にその 勢いが法《みなヴゴ》り来った時代である、今まで金貴く物賎しき国が、始めて金賎しく物貴き国と大規模の 貿易を開くときは、貴金属通貨が俄かに膨脹して、物価は大騰貴をなすべき筈である、この変動 は直接に当時の両替店にその影響を及ぼすには至らなかった、しかし金銀間の差価が大変動を生 ずるときは、善かれ悪しかれ直接にその衝に当る者は、先ず両替商である。  洋商はその安き通貨を以て、我が国に高く通用せしめて、物品を買入れ巨利を得るのみならず、 我が国より受取るべき通貨が金であるとすれば、金の差価においても、またここに二重の利益を 得る訳である、否、物品を売って金を得るまでもなく、自国の安き銀を持来って、我国の金を買 入るれば、手早く巨利を得られたのである。  我が国開港の頃には、金一銀六七の差価なりし処、欧米においては百年以来、銀の産出莫大な りし為め、その頃は金一銀十六|乃至《ないし》二十までの開らきを見るに至った、故に洋商は、武陵|桃源《とうげん》の 如く全く世界の別天地たりし我が国に来って、金価の非常に安きを見るときは、銀貨にて我が金 貨を買込まんとするは当然のことである、かく洋商が金貨を歓迎するより、自然開港後の金商売 は年々盛んとなり、従ってその金貨を買集《ばいしゆう》するには、皆両替店の手を借らねばならぬ、ここにお いてか非常なる仕事は、今や両替商の前に出現した。  本来両替店の利益は、小銭を金銀貨に引換え、または金銀貨を小銭に引換うるに在って、これ らの引替に付き、僅少の歩合を取るに過ぎぬ、また大規模の専業両替屋に在っては、五十円、百 円を封金と為して、その上に金高を記入し、開封を為さずして、その真金なることと員数の正確 なるとを保証した、而《しか》して封金の依頼人より封印料とも云うべき打歩《だぶ》を取ったものである、多額 の金銀を取扱う大店では、この収入は少からぬものであったが、これとても平常は高の知れたる ものである、故に両替商は手堅き業体とはいえ、その利益は莫大とは云い難い、然るにこの古金 銀の買集に至っては、その高も莫大なるのみならず、その口銭もまた尋常でない、何となれば外 商等は多大の利益を得るが為めには、最も早く最も多くを買入れんことを望み、これが為めには 割合よき手数料を払うを辞せぬからである、故に横浜の金銀取扱商等は、皆江戸の両替商に向っ て、金の吸集を懇嘱《こんしよく》せねばならぬこととなった、この機会こそ両替商の為には、またと得難き大 利益ある時代であった、およそその頃まで存在した往代の大判小判には、種々の品質があり、ま  にせもの                             いつ た贋物あり、その品種と真贋とを判断して、手広くこれを買集むることは、一に両替商の手腕に 懸って居た。  また金銀のみならず、銅銭に至っても、また洋商及び支那商等との取引に、新らしき種々の相 場を見るに至った、その頃我が国に通用せし銅銭には、種々雑多の種類あり、その中の或ものに は幾分の金を含有せりと称せらる、また或ものは銀をも含有すると称せらる、銅性の好きもあり 悪るきもあり、また銅の分量の同じからざるものあり、実に様々であった、故に或ものは価安く、 或ものは価貴き筈なるに、世上一般では、まだこれらの区別なく、やはり一文は一文として通用 して居た、故に両替商は、その中より高価なるものを択出して、ここにまた相応の利潤を得るの 途があった、加うるに国内においてすら或地には小銭少くして為めにその価貴く、或地には多く して価賎しき相違が有った、二れまた両替商の着眼すべき儲け口であった。  氏の如きも嘗てこの点に注目し、江戸附近の或金満家と組合い、折柄《おりから》小銭の貴き北陸地方にこ れを送らんと目論《もくろ》んだが、その頃は交通不便にて、幾百両の小銭すら、幾十駄の馬を用いねばな らぬので、これらの輸送不手廻りの為め、四五箇月を遅延する内に、送り先きの銭相場は既に江 戸と同格に下落し、氏の企ても遂に失敗に帰したが、幸いにして大いに資本を損するには至らな かった、氏の企ても常に順調とのみは行かずして、随分苦い経験をも経来ったことはかくの如く である。  金銀の差価が、大いに開きたる初めに当り、もし幕府が安き外国の銀地金《ぎんじがね》を買入れ、これを日 本の銀貨に新鋳し、金価に対する従前の差価にて、世間に発行したらんには、則ち二三倍の鋳貨 の益金を生み出し得たるならん、然れども利に暗からぬ筈の幕府の役人も、漸《ようや》く末年に至ってこ の企てを起したものと見え、江戸市中の両替屋に命じて、古金を買収せしめたのである、即ち市 内の主なる両替商は、この御用を承わり、善次郎氏の如きも、またその一人であった、当時幕府 は、右の古金買占めの為め、相応の資本を両替商に貸渡して、これを働かせたものである、氏の 如きも、また官府よりこの資金を貸し下げられたので、右の御用の下働き及び上記する古金の買 集めにおいて、頗《すこぶ》る利潤を得たのであった。  その頃氏の両替店においては、鰹節、砂糖、海苔《のり》等の小売も繁昌したが、右は主として夫人及 び小僧等が専らこれに当り、主人公は大規模にして大利多き両替事業、即ち古金及び銅銭の買集 めにその力を尽しつつあった。  氏が始めて出府の瑚《みぎり》、一時湯屋の手伝いをなせし時の経験より、湯屋に小銭の多く集まるを熟 知し居りしため、両替店を開らきし以来、小銭は多く湯屋から吸集し九、氏は毎日早朝に起出で て、附近の湯屋は勿論、京橋神田界隈までを経廻り、各湯屋の前夜の溜銭《ためせん》を両替して引受けこれ を持帰ったものである、何にせよ銅銭のこと故、その重量も非常にて、右には随分閉口せしとは、 氏の直話を聞いた人の語る所である。  かくして氏は、以前と違い、金廻りも大いに宜しく、店の小売も両替も大いに繁昌し、手狭の 家に売溜めの金銀銅銭を貯蔵する所なきに当惑し、氏を引立ててくるる長井家などの穴倉に、こ れを預って貰うたと云う、今や世は既に慶応二年となり、御維新一二年前のこととて、世間は次 第に物騒となり、人気は荒立ち、斬ったり張ったりは珍らしからず、氏はこの頃既に二度も盗難 にかかった程で、或時の如きは、持帰った古金銀を、その夜いかにして貯うべきかを案じ煩い (例の懇意な家の穴倉に持ち行くには夜更けて致し方がない)、依って一の窮策を案じ、家の壁を 切破ってその奥に納め、反故《ほゴ》などにてその切口を貼り蔽《おお》い、一夜の安全を計りしことさえありし と云う、かかる始末にて、次第に繁昌するにつれ、この家にては手狭なるに因り、慶応二年四月、 |小舟町三《こぷなちよう》丁目に転宅し、そこで両替店を開き、前の住居は他人に譲渡すことにしたが、砂糖、鰹 節などの小売が、頗る繁昌した評判の店のこととて、非常に割合よき高価で人にそれを譲った、 この引受人はこの老舗《しにせ》を利用して、一儲けすると云う訳である、実際それ程に小売においても氏 は大いに成功して居た。  さて、小舟町に移って、始めて両替屋の体面を全くすることを得て、総べての体裁が、先ず世 間の信用を得るに差支えないほどの構えとなった、而《しか》してこの時は早や既に、両替一方の専業と なって居たが、夫人はやはり店の帳場格子の中に坐して、総べての取引を監督して居たと云う、 右はその頃この店に出入せし老人の話である。  さて、もはや維新の前年なる慶応三年となりては、世間の騒動もますます甚だしく、江戸市中 においてさえ、徳川覇府の威令が行われ兼ね、浪人あぶれ者などが、市内を俳掴《はいかい》し、軍用金など と称して、脅迫強奪を行い、下手に抵抗すれば一命も危いと云う有様であった、当時世上には未 だ銀行もなく、金銀のある処は独り両替店ばかりである、依って強盗浪人その他のものの注意は、 皆両替商に集まった、かくては堪らぬとて、市中大抵の両替店は、皆な戸を締めて休業した、こ の時において危険を畏《おそ》れぬ氏の大胆はその本性を現わし、他店が休業する間に立って、独り小舟 町に営業して居たが為め、その繁昌も目覚しかったと共に、あぶれ者の注目する所となるのも避 け難い訳で、朱鞘の長刀を横たえた二三のあぶれ者共が、折々これを襲うて強談《ごうだん》するも、氏は臆 する所なくこれと対談し、緩急を計って彼等を逐《お》い返したものである、為めに他人はこれを危ぶ み、その場に近寄らぬ位のこともしばしばあったと云う、氏はかく危険を冒してまた大なる利益 を得た。  氏に武芸の心得があったか否かは疑問であるが、藩政の頃は、何れの藩も、中士《ちゆうし》以上には弓馬 ㌶機を習得させ、写末班には、柔術と棒とを習得させたものである、富山藩も右と同様なりし と見え、善次郎氏も十七歳より十九歳までの間に、同藩の柔術師範藤田|豊蔵《とよぞう》に就いて、柔術を学 んだことの実証がある、氏は武芸のことを我々に語ったことはなかったが、多少柔術の心得はあ ったらしく思われる。 第十二 本伝の六 紙幣の発行"その下落U金楮の差価"厳罰 の布令"紙幣の買入れ"妹婿の撰択"質屋 の鑑札"東京大阪の為替取組店  伏見の開戦より王政一新、慶応四年は明治元年と改まりたるも、国内の通貨は種々雑多にして、 大混乱の有様に加うるに、ここにまた両替商をして手腕を振わしむべき一事が出来した、それは 外でもない、明治政府の創立に間もなく、通貨の大宗《たいそう》として紙幣を発行したことで、硬貨の世は、 たちまち一変して紙幣の世と為った、従来三百諸侯はその領内において、多く藩札を発行し居た りしと雛《いえど》も、これらは皆領内阪りの通用にて、我が国の通邑大都《つうゆうたいと》は、総べて皆金、銀、銅、鉄の 硬貨のみ流通して居たのである、然《しか》るに今や一国を挙げて、一般に紙幣通用の世の中と為《な》った。  およそ一国に新政府が樹立されたとか、または国内に騒乱が発生したとかの場合には、何れの 国も、国用の不足を補う為め、紙幣の発行に依頼することは、欧米に珍らしからぬ、殊に維新の 二三年前には米国の内乱で、有名なる南北の大戦争あり、同国政府はその急を救う為め、紙幣発 行の挙に出でた、右は手近き眼前の例である、幕府を倒した新進の政治家等は、直ちにその範を 米国に取り、紙幣発行の挙に出でたのである、京阪においては、紙幣の発行は同年夏頃より已《すで》に 始まったと覚ゆるが、江戸において発行されたことは、同年十一月頃であった、この年は聖上も 江戸へ行幸あり、遷都の議が定まりて、江戸もいよいよ東京と改称され、将来はこの地が帝国の 首府となることも明白になって来た、しかし江戸は元《も》と幕府の御蔭で、三百年来繁昌した土地で あるからして、江戸の人心は、なお徳川家に未練が残り、帝政を喜ばぬ傾きがあった、特に三百 年来、金銀の硬貨に慣らされて居た処から、新政府の発行した紙幣に対する気受けが、甚だ宜《よろ》し くない、加うるに東北地方北海道辺には、なお幕府の残党が、官軍に抵抗して居る等の始末で、 新政府その者さえ、果して永続きすべきや否やの疑惑を懐《いだ》く者すらあり、従って金楮《きんちよ》両貨が同様 に通用すべき筈がない、為めに紙幣は全く厄介物視せられて居た、故に当時江戸市中にて、物品 売買には二様の価が付せられ、硬貨なれば何程、紙幣なれば何程と云う有様であった、右に対し 金楮を同一に取扱うべき布令が、度々発せられたにも拘らず、その差価は依然として存在した、 その為め表面を揮る商人等は、紙幣も両替屋に預け込み、その時の紙幣相場である割引値段にて 硬貨を引出し、これを使用した者も少くなかった。  ここにおいて、新政府も持《もて》余まし、同年末には、両替屋一同に、金札十万両を無利子にて下渡 し、世人を金札の使用に慣らしくれるようと、依頼する程の始末であった、右貸付金は年賦弁償 として、毎年一万両|宛《ずつ》を上納すべき契約である、然るところ両替屋仲間にても紙幣を所望する者 は甚だ多からず、政府へ対する申し訳の為め、渋々ながらこれを引受けたもので、五十両宛引受 けた者が二人、百両宛引受けた者が五十一人、その他三百両、五百両、千両の多額に至っては、 誠に少数で、全く御免を蒙る者の方が多数であった、氏の両替組合(最も盛んなる両替町の商業 地の組合)においてすら、顔の最も宜き世話人等八人が、僅かに千九百両|宛《ずつ》を引受けたと云う記 録が残って居る、右の如く一人にて二千両近く引受けたことは、両替屋中でも大奮発と看倣され たのである。  当時は維新の改革|勿々《そうそう》のこととて、新政府の財政、甚だ豊かならず、江戸市中の主なる両替屋 から、硬貨三万両を徴集してこれを借上げた、上納した連中は、皆旧幕時代の如く、借上金の名 はあるも、実際は体のよき税金と思って居た者もあった、右はこの年の秋頃であったようである、 然るに同年末の十二月二十九日に至り、右上納者に対して、百両に付百二十両の金札を政府より 下渡し、たおその外に正金六百両を、御褒美として一同に下付された、政府の右の処置は彼等に 取っては意外であったらしく、両替商等は睨《もささ》か政府を信用し始め九、↓かし一般の人気はなお紙 幣に不利にして、翌明治二年四月二十八日に至っては、百両紙幣は正金三十八両にまで下落した、 即ち僅かに三割八分ばかりの実価を有するに過ぎぬこととなった。  ここにおいてか、政府は已むを得ず意を決して、五月二日に厳重なる布令を発して、紙幣の割 引き売買を厳禁し、犯す者を厳刑に処することとした、この時より紙幣の価は、やや回復の緒《ちよ》に 就き、物品の売買には、紙幣を正金同様に取扱わねばならぬこととなった。  かかる風雲の到来は、機敏なる善次郎氏が、また巨利を博すべき絶好の機会であった、当時氏 はなお三十歳余の若年でありながら、前記せし如く、既に同業者仲間の肝煎役《きもいりやく》となり、その枢軸《すうじく》 とたって居たから、政府が金楮《きんちよ》同価の厳命を発する一日か半日前には、逸早くこれを漏れ聞いた に相違ない、ここにおいてか、氏は全力を挙げて、力の能《あと》う限り、手の届く限り、多額の紙幣を 買込んだ、正貨の僅か三割に当る紙幣が正貨同様になるとすれば、即ち幾《ほとん》ど三倍の利益である、 千円の資《もとで》を投ずれば二千円の利益は確実であった、当時の氏の店における棚卸帳《たなおろしちよう》を見ると、明 治二年と三年との間に、その資本金が三倍に増加して居るのは、或は専らこの事に因るものであ る歎《か》と察せられる、右の紙幣買入れのことは、氏の遺せし記録類には記せられて居たいが、当時 氏のことを詳知して今に生存する老人の話に対照し、右は事実らしく考えられる、しかし氏が右 の秘密を早く知りしと云うも、僅かに半日か一日|前《ぜん》のことらしく、時間が余りに切迫し居て、買 入れに蓬《いとま》たきと、手元の資金がなお多からざりし為め、さまでの大利を得るには至らたかった、 しかし前記せし金銀相互の差価の変動が、氏の発展を助けし如く、この度の紙幣発行財界の混乱 は、また大いに氏の発展を助くるの機会となったのである。  但し前にも述べし如く、金楮の差価の生ぜし時においては、紙幣を担保として、両替店より硬 貨を借入るる者多く、この紙幣の質流れとなりて、善次郎氏の有に帰せし分は、紙幣の騰貴に因 って相応の利益と為《な》りしは勿論なるも、未だ質流れと為《な》らざる担保中の分に対しては、氏は貸金 高を以てその受戻しに応じ、何の利益をも要求せざりし由、右はその頃立合いたる一老人の物語 りである。  安田商店は、かく隆々として繁栄し、その使用人も既に十余名となったが、前途ますます大規 模の営業をなすには、氏の股肱《ここう》腹心たるべき羽翼がたくては叶《かな》わぬ、ここにおいてか氏は明治二 年、富山に帰省し、その妹|清子《きよこ》の婿《むこ》に房太郎たる者を迎えて、これに己《おのれ》の旧名たる忠兵衛の称を 譲り、東京に伴い来ることとした、蓋し氏はこの時|已《すで》に一大商店の主人公として非常の成功を遂 げ、且つ前途なおいかほどの発展を為すやも測り知れぬと云う勢いであったから、その親父|善悦《ぜんえつ》 氏に対しては、これほど結構なる土産《みやげ》は無かった、この時の対面における父子両人の喜びは、こ れを察するに難からぬ。  氏が人を見るの明は、先ず妻を迎えし際に現われし如く、妹婿《まいせい》を撰《えら》むにおいても、また果して |過《あやま》らなかった、尤《もつと》も富山において、勤勉忠実の評ある人物中より、これを撰みたることながら、 この忠兵衛を得たことは、氏が将来の発展に非常なる助けとなったのである。  上記せし如く善次郎氏は幼名を岩次郎と称せしが、江戸稼ぎを許され、奉公をなすとき、忠兵 衛と称《とな》えたものである、然して独立営業を為す頃に及んで、始めて善次郎の称を用いたようであ る、人形町時代の書類には、既に安田屋善次郎の名にて取引されて居るが、奉公稼ぎの間は長く 忠兵衛であったようである、氏が今や忠兵衛の名を妹婿《いもうとむこ》に譲りしことは、その名を辱《はずか》しめぬよ う、万事に戒慎せしむる為であった、而《しか》してこの忠兵衛なる人は、固《もと》より富山の生れで、この時 二十五歳であったが、已《すで》にその前から早くも他国に行商を為し、商売には十分なる経験を積みし 身であった、かくして小舟町の安田商店は、内には貞淑なる夫人ありて、家庭と店とを取締り、 今またこれに加うるに忠実なる縁類の支配人を以てす、ここにおいてか善次郎氏は、始めてその 力を外向きの大取引に専らにすることを得るに至った、氏が将来の商戦準備は、かくの如くして 整えられた。  この時安田商店は、単に両替事業のみではたく、質屋をも兼業することとなった、何となれば 銭両替の店においては、貸付及び預り金を営業と為す事を禁ぜられて居た、故に貸付預金の取扱 いを為さんとするには、質店の鑑札を持たねばならぬ、然る処、その頃普通の両替店ではこれを 避けて、単に両替のみに仕事を限る者が多かったそうである、然るに氏はこれより先き、既に質 業の鑑札を受けて、貸付預金の取扱いをもして居た、即ち今の銀行営業を小規模ながら、実際に 取扱いつつあったのである、ところが後日これが大いに氏の発展を助くるの階梯となった。  また両替屋の間に、氏の信用が日に高まると共に、都合好き事柄が色々と生じて来た、その一 例を挙ぐれば、話は少し岐路に入るの嫌いあれども、幕府時代において、江戸大阪両地の商人等 は、互に莫大たる貨物の取引を為しつつあったが、平常双方の勘定が、うまく消合いとなること もあり、またその過不足の帳尻を、送金にて決済せねばならぬこともあり、従って両地の間に自 然為替の取組を生ずるのは、必然の成行きである、右の為め江戸と為替取組をなす大阪の両替屋 中主なる者が総数十軒あり、これが大阪総両替屋の幹部とも云うべき者で取引上の要項は、大低 この十人組で解決せられたものである、その中の一人に、逸身某《いつみぽう》なる者があった、これは大阪年 来の旧家で、常に江戸|為替《かわせ》の多分を引受けて居た、而してこの大両替屋の部下には勿論多数の小 両替屋が隷属して居た訳である、然る処明治維新の大変革に際し、大阪の十人組の中にも、自ら 種々の盛衰が有って、この組合も解散することとなった、その為め江戸大阪間の諸取引に言うべ からざる不便を生じた、その際にも、逸身商店はなお独《ひと》り為替業を継続し来ったが、江戸の為替 取組店等にも、この変革の為め、非常な盛衰が起り、以前の如き取引を為し得ぬ場合が多かった、 因って何とかして、江戸に適当な為替取組店を、新たに見出さねばならぬと云う訳になった、こ の時江戸の吉村|甚兵衛《じんべえ》小林|吟次郎《きんじろう》等が善次郎氏を紹介して逸見商店との為替取組人と為した、こ の一事は安田屋善次郎の名字《みようじ》を、広く江戸大阪両地の商業界に宣伝するに屈竟の機会と為った、 何となれば大阪と取引を為す多数の江戸商人等は皆氏の店に為替を依頼せねばならぬ、また大阪 商人等が逸見商店に依頼する為替中江戸宛のものは、江戸の安田屋善次郎店でこれを受取らねば ならぬ、かくして江戸大阪両地取引の商界に安田屋善次郎の名はたちまち一般に宣伝せらるるに 至った、これらは氏の手堅き信用の結果で、自ら求めずして来る所の幸運である(その後逸見商 店にも種々の変遷浮沈か生じ、一時悲境に陥ったこともあったが、その間において善次郎氏は旧 誼《きゆうぎ》に報ゆる為め、これを援助したと云う、また逸見家の出《しゆつ》で、今日他姓を冒して居る福本元之助 氏の如きは、その力を宗家の恢興《かいこう》に尽し、常に善次郎氏と親交を続け来りし由にて、その説く所 右の如くなりき)。 第十三 本伝の七 江戸両替屋の業体H硬貨の種類11大胆不敵の 両替屋11両替屋の所得U六年目に大両替店  当時江戸町内の両替屋《りよちがえや》の業体を細説せざれば、善次郎氏の得益のいかなりしかを、推知するこ とが出来ぬ、その頃の市中両替商の総数は、六百四十三軒で、その中に本《ほん》両替店と、銭《ぜに》両替店と の二種がある、本両替店は官府の為替御用を勤むる大店で、三谷、竹川、竹原、三井、小野、村 田の六軒と新加入者なる島田、吉村、永井を合せて九軒であった、右が大店で、その他は小店と 称すべきものである、而して大店は専ら金銀の両替を取扱い、小店は小銭の両替を扱った、尤《もつと》も この頃に至っては、小店の手を経て金銀が大店に廻るような場合もあった、右六百四十三軒を八 組に分ち、両替町組、京橋組、神田組、浅草組、本郷《ほんごう》組、四谷組、芝組、本所深川組と称えた、 総集会所は両替町にあって、市内大小の両替店員は、毎日定刻に皆この処に集合して、古金銀及 び銭の売買をした、而してその売買の中値が、その日の江戸市中の銭相場となり、上下一般これ を標準とする慣例であった。  当時の通貨は固《もと》より金、銀、銅、鉄、の硬貨のみで、金一両を銀六十|匁《もんめ》と定め、銭はその日の 相場次第にて、一両に何貫《がん》何百何十|文《もん》と称えて取引した。  またその頃の通貨の種類は、小判、二分判《にぶぱん》、一分判、二朱金、一朱銀、天保銭《てんぼうせん》(当百《とうひやく》)、四文 銭、一文銭(一文銭には銅銭、鉄銭を含む)、等にて、頗る煩雑なものであった、なおその外に ・大判と丁銀《ちようぎん》などもあって、古金銀の種類は、慶長金、元禄金、享保《きようほ》、寛政、文政、天保、安政、 丈久等の大判小判、及び二分《にぶ》や一分《いちぶ》の金銀があり、その品位の良否に従って、それぞれ相場を立 てて売買したものである、幕府は二百年来、新貨を鋳造しつつあったが、鋳造ごとにその品位を 下す傾向があった為め、通貨の品位は次第に賎しくなり、物価は漸次に騰貴する傾きがあった、 そして、古金銀の引換えは、前記の大両替店の取扱いであった、善次郎氏等の店は無論銭両替の 方であったが、この頃はもはや維新の間際であり、世間はますます物騒となり、何れの両替店も、 皆暫く店を締め休業する者ばかりであった、その為め幕府の金銀座においては、古金銀の吸集買 上げに差支え、善次郎氏にこの取扱いを依頼することと為った、氏は好機逸すべからずとなし、 直ちにこれを一手に引受くるの御請《おうけ》を為して、毎日四五千両、乃至一万両の取扱いをなすに至っ た、なおその頃、いかに世間が騒がしく、人心不安であったかを知る為めには、左の話が残って 居る、安政二分判は、百両の目方が三百|匁《め》であり、新鋳の二分判は二百匁である、故に両者の真 価から云えば、何人も安政判を望まなければならぬ筈の処、その頃の世人は皆却って新貨を望む 者ばかりであった、その仔細は、万一の時に新貨の方は軽くして携帯に便なると、貯蔵に嵩張《かさぼ》ら ぬ為であった、かかる人気の世の中であったにも拘らず、氏が大胆不敵にも危険を冒して独り営 業を続けたことは、これが則ちその致富の一階梯となったのである。  その頃古金を政府に上納する手数料は、金貨百両に付き鑑定料二|匁五分《もんめふん》(およそ四銭一厘強)、 また上納取扱手数料は百両に付き三匁五分を下付された由、故に百両の上納金については利益十 銭を得る訳となる、今や幕府の買上金を氏の一手に引受けたること故、その利益の大なりしこと は想像に難からぬ、氏の店にては、この頃既に七八人の手代を使って居たが、彼等が打寄って二 分判桝《にぶばんます》、一分判または一朱桝《いつしゆます》と称《とな》えた小盤で、ざらざらとこれを取扱い、店員総掛りで、真贋を 鑑定する者あり、これを包む者あり、封印する者あり、引渡す者あり、目の廻るほどの繁忙なる も、彼等は何れも熟練な腕前を振い、これを取捌《とりさば》く有様が頗る美事であったと云う、而して店頭 には来客が市をなして押懸けるので、とてもその求めに応じ切れず、「今日は御断り」「翌日渡 し」「翌々日渡し」と断るも、それでも構わぬと云う訳で、どしどしと古金を預けに来た、店方 よりはこれに対する預り証を出して金を受取る、一方に金座では氏の便宜を謀《はか》り、資金は何程で も前渡しをすると申込んで来ると云う訳で、儲け放題、取り放題であるが、何分にも物騒千万の 時節で、何時《いつ》いかなるあぶれ者が襲来して、奪い去るかも知れぬので、なるべく多額を謝絶して、 出来るだけ少々ずつ取扱ったそうで、それすらもなおかかる繁昌であるのに、他の同業者は危険 を恐れ、この際一人の競争者も出なかったことは、氏に取って非常の仕合せであった、右の如く 手代番頭は目の廻るほどのことであるから、主人公も勿論これを手伝い、主従ともに一生懸命に 働いたのであった、「かかる快心の面白き金もうけは、生涯忘れられぬ」と氏は後女までも人に 語ったほどであった。  百両についての上納手数料は十銭、千両については一両、万両について十両、その頃十両の価 は今の百円以上にも相当するとすれば、この状勢が続いた間の氏の得益は、また想像し得べきで ある。  右は官府のみに対する利益で、その外一般客人に対する得益も、また少からぬ訳である、当時 は金銀貨に贋金《にせがね》多く、幕府の威令行われざるを幸いに、一二の強藩では、公然とこれを鋳造使用 し始めた、なおその外にも内密に贋金を造る者が非常に多かった、その為め取引上において、商 家は勿論、一般民衆もその鑑定に苦しむ不安は実に甚だしかった、彼等の唯一の頼みとする所は、 ただ両替屋の鑑定である、故に信用ある両替屋の封印ある物、または鑑定済みのものなれば、こ れほど安心なことはない、依って両替屋の封印ある金を何よりも珍重すること、この時の如く甚 だしきはなかった、信用ある両替屋の封金なれば、江戸市中は勿論のこと、横浜大阪までも通用 したものである、この頃にこの封金を出したものは、江戸町内の両替屋中で、僅か四五軒あるの みにて、その主なる者は善次郎氏の店であった、さてこの鑑定料は、何程であったかと云うに、 通例二分金ならば、百両包を一箇とする、一分銀と一朱銀なれば、二十五両を一包とする、その 封印料は一包に付き銀二匁(約三銭三厘)であった、而して毎日の取扱高は平均約百箇乃至五百 箇であったと云う、もし五百箇とすれば、この得益また一日に十五六両である、その頃の十五両 は今の百五十円にも当るべきもの故、これまた相応の利得である、もし上記せる官府に対する得 益と、これらとを合算すれば、一日の純益は、平均二十五六両で、今日の二百五六十円ともなる 訳である、故にこれらの状勢が永続きすれば、氏の身代《しんだい》は途方もなべ膨脹する筈であったが、右 は長くは続かなかった、しかもなおこれらに依って相応の利益を収め得たのである。  今や慶応三年も已に暮れんとし、年が明くると間もなく王政維新の戦いが始まった、この大変 革と共に、士農工商を世襲とする杜会組織は一朝にして打壊せられ、市場における諸商売の特許 株は全く廃止せられ、腕次第働き次第の世の中と変化し、財界の風雲児たる善次郎氏をして、ま た大いにその駿足《きそく》を伸べしむべき時運が到来した、今や蚊竜《うりゆう》が雲雨を得て、将《まさ》に中天に飛揚せん とする場合である。  明治と改元せられたる慶応四年の正月における、氏の棚卸帳を見るもまた興味ある事柄である、 この時主人公は年歯《ねんし》甫《はじ》めて三十一歳で、夫人は二十五歳、台所には下碑《かひ》三人、店には手代《てだい》番頭七 八人を使用する身分と為《な》って居た、しかしこの頃は已《すで》に両替業専門で、鰹節、砂糖たどの小売は、 その株を他人に譲り渡して居た、文久三年氏が独立営業を細々と始めし以来、年を経《ふ》ること六年 である、当初二十五両の少資本であった彼は、今この年首の勘定において、幾《ほとん》ど百倍に近くこれ を増殖している、実に隆々,たる商運である、同年正月三日における勘定の大要左の如し。   一金銀在高 千七百四十九両   一貸付金  千九百八十五両    合計金三千七百三十四両   一預り金  千七百五十両三歩二朱    預り金差引千九百八十四両  即ち右の千九百余両が自己の財産で、また純粋の資本である、六年前の資本二十五両を右より 差引くときは、残金千九百五十四両で、これが則ち六年間に得た利益と看倣すべきである、もし 当時の一両が今の十円に当ると仮定すれば、二百五十円の資金にて、六年間に一万九千五百余円 の利益を得た計算になる。  二十歳なる一青年岩次郎が、郷関を出づる時に、何とかして千両の富限者《ぶげんしや》に為りたしと思いし 志望は、十一個年にしてこれを遂げ得たのみならず、たお右に二倍するの多額を臓ち得た次第で ある、当時の手代は佐助、彦七、徳蔵、庄吉、政吉《まさきち》、音五郎、の六人でこの外に、平吉《へいきち》等の丁稚《てつち》 小僧二三人を使役し居たと云う、今や氏は江戸町内にても有数なる両替屋の主人公と為り、その 勤勉誠実の営業振りは、六年間に早くも同業者に認識せられ、この時は既に両替組合中の肝煎《きもいり》に 挙げられて居た、また前記の計算中における他からの預り金が、幾《ほとん》ど自己の資本高に匹敵する程 に至るを考えなばその手堅き営業振りが、いかに早く他の信用を博し得たかを知るに足るであろ う。 第十四 本伝の八 平吉の不幸11弗相場11独立後七年目の財 産"同九年目の財産H全国各地金融機関 の変動11好担保の出現  新政府は明治元年に、古金銀銅貨相互の差価を公定して、これを布告した、ここにおいて我が 国の金銀及び貴金属の対価は、やや世界普通の相場に近づき、従って幾分か金貨、金地金《きんじがね》の海外 濫出の勢いを殺《そ》ぎ得たが、しかしなお古金《こきん》の横浜に吸集さるることは絶えなかった、安田商店も 引続き金の買入れをたし、毎日もしくは隔日に、これを横浜に輸送しつつあった、而《しか》してその取 引先は主に同地の西村喜三郎商店であった、当時は京浜間に未だ汽車なく、交通|頗《すこぶ》る不便で、陸 には始めて乗合馬車が出来た、俗に云う円太郎がた馬《ちへ》車の元祖であった、また海上では、五六十 |噸《とん》の小汽船が、築地《っきじ》の波止場《はとば》と横浜の間を往復した、故に貨物携帯の商人等は、主にこの小汽船 に乗ったものである、氏の店では、現金輸送役の忠兵衛氏差支えある場合などは、丁稚平吉《でつちへいきち》(十 六歳)なる者が、頗る利発でよく役立つところから、現金輸送の使に、この者を用いて居た、明 治二年の夏、ここに一《いつ》の不幸が出来した、それはこの小汽船の汽罐が築地にて爆発し、乗客に多 数の死傷者を生ぜしことである、平吉も不幸にしてこの難に逢った、しかし死生の間に在っても、 主家の金を失わじと、深手《ふかで》を負いながら、嘆言《うわこと》にまで金を金をと言い続けて死亡した。  その金高は四千両で、もしこれを失えば当時の安田商店に大打撃であった、傍人《ぼうじん》もこの若者の 忠実なる終焉《しゆうえん》を、憐れまぬ者はなかったと云う、主人たる善次郎氏の歎きは言うまでもない、手 厚くこれを葬った上、平吉を養子格としその家に充分の慰籍料を与え、後々までも手厚く面倒を 見てやった、氏は生涯の間、その命日には何事を措《お》いても、必ず墓参したものである、石黒況斎《いしぐろきようさい》 翁は、善次郎氏と永年の懇意であったが、明治三十年頃、一日善次郎氏を訪問せしに「今日は亡 杜員の法要の為め、今外出するところである」とて玄関に立出でて断り、数日の後、その詫《わぴ》の為 め石黒翁を訪うた、その時、翁は杜員の法要とは物故せし総杜員の法事を営むことならんと思い、 これを問いしに、「否《いな》、先日の法要は或縁故の一杜員の為めなり、そは明治の初年、かくかくの 次第」と物語りしより、翁は覚えず膝を打って「妙な奇縁もあるものである、その時に急報に接 し、医科大学より急行し死傷者を介抱せし医員の監督として、赴きたるものがこの石黒で、その 死傷者の中に手に風呂敷包を緊縛した一少年があったので、別にこれに手当をさせたことを覚え て居るが、さてはその少年が、君の法要を営む本人であったか」とて互に今昔の感に堪えなかっ たと云う、右は翁の話である。  その後ほどなく、古金銀の売買も下火とたるに従い、横浜にて盛んに行われ来りしは洋銀(墨《めき》 |其古弗《しこどる》)の投機である、いわゆる横浜の弗《どる》相場なるものが、全盛の時代となった、投機心強き京 浜の商人は、これに指を染めざる者なき勢いであったが、金銀に最も縁近き両替商たる善次郎氏 は、曽てこのことに携わらたかった、故に弗《どる》相場の損益は、安田商店の勘定には殆《ほとん》ど見ることが 出来ぬ、またこのことは暗に氏の手堅きことを人に知らしめ、将来の信用上に大なる間接の利益 を与えたらしい。  但しこの時東京にも、弗《どる》相場所を設けなば、大利あるべしとて、鹿島万兵衛など云える当時の 有力者が集まって発起人となり、これを開場するに至った、その発起人中には、氏も加入して居 た、しかしこれは取引所の口銭より得る利益の配当を目的としたもので、今の株式取引所の株主 となった如きものである。  また紙幣の騒ぎも、明治三年には既に下火となり、紙幣流通の基礎も大いに定まり、これに関 する不時の利益とては、もはや求むることは出来ない、ここにおいてか氏の力を致すべき方面は、 質業及び金銀貸借の一事と為《な》った、氏が一生の事業を金融貸借と定めしは、その端《たん》をこの頃に発 したのである。  今明治二年正月三日(三日は毎年|棚卸勘《たなおろし》定の定日である)の概計は左の通りである。   一金銀銭在高 一万三千四百四十三両三分一朱二匁五分   一貸付金     六千二百一両三分二匁五分    合計金一万九千六百四十六両二分二朱一匁二分五厘   一預り金   一万七千三百八十三両二分    差引金二千二百六十三両二朱一匁二分五厘    右の外別口在高 三千両    合計金五千二百六十三両二朱一匁二分五厘      内訳   一金二千九百八十五両三分三朱     右は昨年十月二十日の在高   一金二千二百七十七両三朱一匁二分五厘     右は昨年十月二十日以後本年正月三日までの利益高  なお同年中に銅貨の取扱高は、十万五千百四十四貫七百六十二文に上って居る、相応に小銭も 取扱ったことを知るに足る。  右に依って見れば、真の資本金は五千余両に過ぎざるに、預り金は一万七千余両に上って居る、 氏の手堅き信用が、.他人の金をいかに多く吸集し得たかを察するに足る、但しこの中には自ら求 めて借入れたるものあること勿論である、自家の資本は殆ど四分の一に過ぎずして、四分の三は、 他人の金を繰廻《くりま》わして居たのである。  また計算中の貸付金に対し、手元|在高《ありだか》の多額たることは、蓋《けだ》し預り金の不時の引出しに応ずる が為めのみたらず、有利なる古金銀の買入れ等臨機の予備金と察せられる。  我が兵力に限りある場合、同盟国の大軍を借り来って戦うときは、大勝を得ること問わずして 明らかである、自己一人の僅かなる資金のみを、後生大事に繰廻すのみにては、その発展も遅々 として高の知れたものである、然《しか》るに借り得らるるだけ多額に他人の資金を引出してこれを我が 手に融通し、我が資本に幾十倍する多額と為し、これを操縦するときはその発展の速かなること、 |恰《あだか》も同盟国の大援兵を得るものと同様である。  氏は本来太っ腹であるから、筍《いやしく》も返済し得べき見込ある借金ならば、手の届く限りこれを借 り出すを辞せぬ流儀である、故に自己の資金は僅々五千円なるに、右に三倍する一万五千円の預 り金を得て、これを二万円に繰廻すとすれば、真の資本に三倍するの利益を得るに難からぬ、氏 が一生の商略は則ちこの外に出でぬのである。  氏は後年に至っても、時として幹部の使用人等に対し、「返し得ぬ借金をなすは以ての外だが、 返し得る借金を手の届く限り借入れて、力一杯にこれを働かせるが商家の道である、借入金は決 して忌むべきものでない」と語ることがあった、右は氏からこの語を聞きし人の直話であるが、 いかにも始終石橋を叩いて渡る底《てい》の安全をのみ心懸け、借金を忌避するようならば、氏の如き巨 億の富は致し得られぬかも知れぬ。  また翌明治三年正月三日の棚卸《たなおろし》にはその資本が一万四千二百八十四両二分二朱一匁四分六厘に 増加して居る、その内訳は、   一金五千六百八十八両一分一朱     右は前年九月七日の在高である   一金八千五百九十六両一分一朱二匁二分九厘     右は前年九月七日よりこの年正月三日まで僅か三箇月間に生じた利益である  蓋し通常|得益《とくえき》の大なる外に、なお紙幣買入れなどのことがあった為めかと思われる。  かくして安田商店の貸借業務、則ち銀行同様の業務はますます発展し、明治四年正月三日の棚 卸勘定は左の如くである。   一金六千七百五十四両一朱と銀十匁一分     右 金銀銭貨在高   一金三万四千四百六十四両二分     右 貸付高   一金五百五十両一分二朱     右 別口貸    合計金四万千七百六十九両一朱と二匁六分   一金二万二千六百五十九両二分三朱     右 預り金    差引金二万百九両一分二朱二匁五分  即ち女久三年独立開店より第九箇年目の正月には、已にかくの如く膨脹した、二十五両の主人 公たりし彼は、今既に二万に余る巨額の資金を擁するに至った、その頃の二万円は現今の二三十 万円にも匹敵する程のものであるから、随分目覚しき発達と言わねばならぬ、これから地味に進 んでさえ、必ず相応の発展を為すべき事態の下に在るに加うるに、今また彼の為めには大有利な る未曽有の変革が世上に発生し、彼をしてその手腕を揮わしむべき大なる舞台と、一つの大なる 材料とが与えられた、それは則ち廃藩置県と、秩禄金禄公債の発行とである。  三百年来、諸侯はおのおのその領内において、大小ともそれ相応に皆金融機関を有して居た、 然るに今や廃藩と共にこれらの機関は解体せられて、金力の集散は別処に移動するの時機となっ た、三百諸侯の財政権は皆総べて中央政府に集中せられ、全国各地の租税徴収は、新置の府県が これを管掌することとなった、故に各藩諸侯の融通を勤めた用達商人はここに失職して、更に新 しき者がこれに代らねばならぬこととたった、旧時の商人は、何れも皆旧風に慣れ、旧式に安ん ずるのみで、維新大変革に応ずるに足る者は多くなかった、実にこれこそ新進気鋭の善次郎氏の 為には好箇の活躍舞台にして、その状《さま》は恰《あたか》も千里の騒騒《きりゆう》を、荘々たる無辺の大野に放った如きで ある。  またその頃の金融界において、貸借に用うる担保品は貴金属の外、恰好なる質草はただ地所家 屋のみと言っても宜《よ》い、然るにこの品は金融業者に取って甚だ不便なものである、何とたればか かる不動産は取扱いに頗る困難で、その権利を移動するごとに手数を要すること甚だしく、これ を担保に用うる場合には、地の遠近に拘らず一々実物を一見せねばならぬ、かかる億劫《おつくつ》たる質草 のみにて機敏に且つ巨額の金高を取扱うことは、到底その煩《はん》に勝《た》えられぬ。  然るに今や非常に便宜なる担保物が世に現れた、則ち政府の公債である、これより先、政府は 既に新公債旧公債と称うる公債を発行せしかども、その高は未だ甚だ多からざりしに、今や廃藩 置県と共に、華士族の世禄を廃して、彼等に債券を交付することとなり、ここに秩禄公債及び金 禄公債が発行せられ、その数量もまた非常の巨額に上った、これこそ盤石《ばんじやく》の如く確実であり、且 つ取扱い至便な品物である、かかる質草を得たる氏は、定めてその心中に膀躍《ゆうやく》を禁じ得なかった であろう。 第十五 本伝の九 秩禄公債金禄公債の利廻り"新旧公債多額 の持主-預金の増大"半期賞与の一例11父 を東京に迎う11前途の商略一官府の遊金  発行高の多額なることにおいては、金禄及び秩禄公債を第一とするも、右の外に旧公債及び新 公債と称うる公債が、少額ながらこれより先、已《すで》に発行せられて居た、総べての取扱い上におい ては、右二種の公債は、前者よりも金融界に便利であったろうと思われる、何となれば、秩禄金 禄公債は元《も》と華士族の世襲禄の代りに交付された者であるから、なるべく本人に永く所有せし め、人手に渡さぬように為さしめんとする政府の希望は、恰《あだか》もたお今日の恩給年金、または軍事 公債を、長く本人等に所有せしめんとすると同様である、故に金禄、秩禄公債は、その初め売買 を禁ぜられた、この禁を解かれたるは、四五年の後である、尤も公然と売買取引は許されなかっ たが、内実には種々の名義で、担保売買の行われたことは、恰《あだか》も今の恩給年金証書と同様であっ た。  右の金禄、秩禄公債の当時の市価は、頗る割合よきものであった、またその公債には種類に依 って利子に高低があり(小禄の者に与えられた利子は高く、大禄の者に与えられた利子は低かっ た)、その高きは七朱であって、当時の売買相場は額面百円が七十円であった、それ故非常に割 合よき次第で、右の百円券を七十円にて買入るれば、差向き利子が一割となる勘定で十五箇年後 の償還期には、更に三十円の余金《あまりきん》を受取る訳となる、即ち七十円に対しては四割強の附加金が得 られることとなる、而してその上にこれを担保に用いて借入金を為し、高く貸し廻すときは、ま た利鞘《りざや》が得られるから、かかる好箇の質草は誠に有難きものである、氏は早くもこれに着目して 公債の買入れを努めた、而してその担保品として至便なることは、氏の貸借業務を非常に助長し たに相違ない、氏がいかにその多額を買入れ居りしかは、その棚卸し勘定書の金銀証券|有高《ありだか》にお いて、この公債の最も多額なることを見て知り得らる。  また新旧公債においても、氏が東京において有数な多額の所持人たりしことは、明治八年にこ の公債|元金《がんきん》払戻しの時、東京府から、右公債所有者の全国総代人として、多額の所有者十二人を 呼出し、これを抽籔《ちゆうせん》の立会人たらしめた、その時に氏がその中の一人でありしを見てもこれを知 るに足るのである。  当時は未だ今日の如き株式会杜と云えるものたく、従って今日の貸借上に便利の質草と目せら るる株式証券もなく、地所家屋が唯一の質草なりしとせば、世上の不便はいかばかりなるべきぞ、 この時に当ってかかる公債の出現せるは、氏の発展上、これを一の幸運と云わねばならぬ。  手代《てだい》には忠実なる忠兵衛を始め、その他十余名の者が貸借業務に習熟したるありて、家業総べ て順調に進むのみなりしかば、この頃は氏も少しく心身の余裕を得たものと見え、明治五年五月 頃には、避暑の為め家族を携えて、上州|伊香保《いかほ》方面に、一箇月ばかり旅行した。  この年に、南茅場町《みなみかやばちよう》二十八番地の家蔵を買取り、これを修理して住居となすこととし、また四 日市《よつかいち》の八番地九番地の地所を買入れた、またこの年に司法省の御用を勤め、乾字小判《けんじこぱん》を上納した、 この頃から司法省に縁故が出来た、これが後年氏が開運の階梯の一となったことは、後に述ぶる 所の如くである、越えて明治六年も、氏は前同様の順境で、八月頃には箱根熱海などに、二十日《はつか》 余りも避暑旅行を為した。  但しその間にも、時として小災厄の来るを免れなかった、この年末には、亀井町よりの出火に て、小舟町の本店が類焼した、この頃は火災保険の仕組もなかりしこととて、火事には相応の損 害を免かれぬ世の中である、然れども氏はいわゆる焼け太りにて、火災にも屈せずますます繁昌 した、翌明治七年、氏は三十七歳、この年七月一日の棚卸し勘定を見ると、   一金三万九百一円六十九銭九厘     右 在 高   一金三万六千六百二円八十七銭五厘     右 貸付高    外に金千九百十一円五銭     右 日歩貸付高    合計金六万九千四百十五円六十二銭四厘   一預り金四万五千五百八十六円六十一銭    差引金二万三千八百二十九円一銭四厘 とたって居る、その総高六万九千余円の中、預り金が四万五千余円とは、預り金高の増加、驚く べきである、またこの時の勘定に立会いたる、手代番頭十六人の姓名が列記してある、使用人の 数もまたかくの如く増加した。  旧江戸時代からの名家と称せられし両替商中にて、三井の外は、島田と云い小野《おの》と云い、その 他も皆衰微の姿で、この頃では善次郎氏は、已《すで》に第一流の両替商の中に数えられるようになって 来た、而《しか》して氏の店では棚卸《たなおろし》のとき、使用人その他に賞金を与うる例であるが、この年(明治七 年)における賞金の書付を見ると、頗る面白いものがある、先ず第一が店主善次郎氏賞金五円、 その次が番頭忠兵衛及び徳兵衛また五円|宛《ずつ》、その次に親父|善悦《ぜんえつ》氏、夫人房子、養女|某《ぼう》、実の妹某 たど各三円|宛《ずつ》としてある、然れば表方の店員のみならず、家庭の者にも、賞金が及んで居た訳で あるが、今日からその高を見れば、甚だ軽微なようでもある(その時の一円を今日の拾円と引直 して見るも)、この年の始め神田区|美土代町二《みとしろちよラ》丁目七番地の地所家屋土蔵を買取った、右は親父 善悦氏を東京に迎うるが為めの準備であった、またその次に大伝馬塩町一《おおでんましおちよう》番地、並びに七番地を 買入れた、またこの年|小銭《こぜに》払底の為め、大蔵省に銅貨一万円の払下げを願出て居る。  初め善次郎氏が江戸出稼ぎを望んだので、これを許した時の親父善悦氏の心では、ただ一応世 間のことを見せる為に過ぎぬ、結局は是非とも富山に呼び回《か》えして、その家を継がせると云う考 えであった、前にも記せし如く善悦氏は材幹ある手堅き人であるから、田舎相応に貯金もし、一 と通りの生活を営んで居たので、善次郎氏からの仕送りを望むとか、または養って貰わねばたら ぬとか云う心持は、少しもたかった、但しその子を江戸から富山に引戻すには、今までの陋巷茅 屋《ろうこうぼうおく》では、とても帰り来る気遣いはない、せめて相応の商店らしくもなりたらば、帰り来ることも あろう歎《か》との親心から、旧時の随宅を去って、富山本部に相応なる町家を求め、ここに体裁よく 暮して居た、然るに一方では、江戸なる善次郎氏の商運が、隆女として旭日《あさひ》の勢いであり、もは や一廉《ひとかど》の東京商人と為《な》り、資産も既に万円以上の身とたって居た、これを見ては、もはや富山に 帰れとも云えず、却ってその子の求めに従い、自ら東京住居とならざるを得ぬ場合となった、因 っていよいよ上京することに決心した、善次郎氏は父を安居せしむる為め家屋敷を求めなどし、 その用意が全く整ったとのことでこの年の六月に、善悦氏はその子女を伴い、上京してめでたく この新宅に住居することとなった、父子の喜び知るべしである、この時善悦氏は、今日の通貨に 見積り、約六七千円の金を持参したようである、何となればこの時から安田商店の預金の中に美 土代町預りとある一口が出来て居るので知れる、善悦氏も下士の末班に在った人としては、随分 心懸けの好き方であったと見ゆる。  彼が善次郎氏の幼時に、折々教訓せし言葉に、「禽獣《きんじゆう》はその日限りの食を求むるに止まり、毫 も貯うるこ止を知らぬ者が多い、貯うることを知り居《お》るは人間だけである、故に萄《いやしく》も人として 貯えをたさぬ者は、人の資格がないと言わねばならぬ」とこの言がいつも訓話の一つであったと は、善次郎氏が、後年人に語ったことである。  善悦氏出京後は実に楽隠居であった、何の道楽もない人で、ただ植木が好き位で、それも縁日 ・ものを買入れるに過ぎぬ、これが唯一の楽しみで、後日縁日から購《あかな》い帰った植木が、庭に充満し たには、皆困った様子である、また父の上京以来、善次郎氏は商務いかに繁忙なりとも、毎月 三四度は、必ず父を奉じて芝居、相撲、花見|遊山《ゆさん》に行かぬことはない、当時父子の境涯は、実に 羨むべきものであった、但し善次郎氏は例の態度で、父に事《つか》うることも極めて謹慎で、仮初《かりそめ》にも 礼を崩さぬように注意し、畳に手をつかねば応答せぬと云う風であったから、善悦氏は却って窮 屈に感じた場合もあったらしい、実に「富貴ならば須《すべから》く身を致す早かるべし」で、人が得意の 絶頂のときを、その父母に見せて、これを喜ばせるほどの快心なことは、またと無いものであ る。  これより先き、善次郎氏の夫人房子は、一たび子供を挙げて大いに喜びしも、間もなく天折《ようせつ》し た、結婚からその時まで既に拾年を経て、もはや子を挙げなかった、因ってその体質が、子に宜《よろ》 しからぬことが知れて、子を育する望みが絶えたから、夫婦相談の上で、当時の習俗に従い、一 人の側室を納《い》れた、氏の実子五人、暉子《てるこ》、善之助(今の善次郎氏)、峯子、真之助、善五郎(旧  さぶろうひこ   ぜんゆう   ころくろう               しゆ"              ふで、、      一んこ 名三郎彦)、善雄(旧名小六郎)の諸子は皆その出てある、この側室筆子(通称辮子)は何事も 内輪にして、慎み深く、謙譲淑良で家族一門より店方杜員に至るまで、褒《ほ》めぬ者のない婦人であ る、今なお生存し本年七拾四歳である。  仮令《たと》え、他人の有にもせよ自己の物にもせよ、荷《いやしく》もこれを我が掌中に握る間は、則ち我が実力 である、力の上に自他の差別は無い、一切自己の力となるもので、他人の金銀でもこれを預かる 以上、その間は則ち我が力だと云うことを、善次郎氏は切実に感じて居た人である、これが氏の 大を致す所以である、今や古金銀の相場も既に落付き、紙幣の混雑も大いに定まり、世は常態に 復したる平時において、専ら貸借上の差益を得るを将来唯一の業務と決心したる上からは、いか ほどにも多く手元に、世上の金銀を吸集して、運用資本の高を増さねばならぬ、右に心を用いた る結果は、氏を手堅しと信用する範囲の人々が皆預け金をなしくれる勢いとなったが、しかしそ の高には限りがある、これのみでは大を致すに足らぬ、もし世上に金銀の、大いに存在する潤沢 の処ありとすれば、それは官府の遊金《ゆうきん》であらねばならぬ、これが氏の逸早く気付いた所である、 氏はこれより先明治三年に、仙台藩の用達《ようたし》となったが、これもその藩の便を達すると共に、その 遊金を取扱う為の手段であったであろうが、間もなく廃藩となって、その効果を収め得なかった、 しかしその後も氏の眼《まなこ》は、常に官府の預金《あずけきん》に注がれて来たが、今や伝手《つて》を求めて司法省の金銀取 扱御用を命ぜられることとなり、なお進んで同省の為替方を願出て、これも許可された、右は何 れも皆明治七年のことである。  明治七年司法省の定額金は、八拾八万三千余円にして、同八年は壱百拾壱万壱千余円であった が、その頃は未だ今日の如き厳密の会計法なく、一省の定額金を、一年中一、二回に大蔵省から 受取り、これを各省の為替方に無利息で預けたものである、尤も公金を預けることであるから、 預り人から相応の担保物を差出させ置くのは勿論である、氏が予《かね》て用意し居りし地所、及び公債               くつきよう                     いえど 証書は則ちこの保証物となすに屈竟の品である、これを担保物として官省に差出し置くと雛も、 これより生ずる地代または利子は、自家に収得し得るのである、而して預りたる無利子の金は、 相応の利子を取ってこれを廻すことは随意である、尤も年末までには各省ともその定額金を支出 し尽すものながら、その期の初めにおいては非常の遊金であり、またこれを上納するにも、月々 定まりし高を上納すること故、その間において為替方がこれを利用すべき充分の余裕がある、且 つ時機の長短を問わず、多額の遊金を掌中に握り居《お》ることは、誠に都合よきことなるは人の知る 所である、かくして一省の游金を預ることとなりし氏は、則ち大利を得べき好箇の一大財源を得 たのである、なおここに注意すべきは、官府を相手にして金儲けをなさんとするものは世上に少 からぬ、何となれば官府は物事が鷹揚で、個人の如くけちけちせぬ、況んや新政府樹立の際とて、 諸事不整頓の時節に在っては、官府の買入れ払下げとも、その間に巨利が存在して居るは勿論の ことである、故に世の事業家の多くは、資本を民間に得、官府を相手として大利益を得んとする、 然るに善次郎氏はこれに反し、官府の遊金を引出して資本とし、広く世間を相手として利益を得 んと欲したのである。  官府を相手として、巨利を得んと欲するものは、官府の事務が年を逐《お》うて整頓し、世間の注視 もまた厳密を加うるに従って、その利潤は次第に減退すべき運命を持って居る、故にこの類の商 人は、年と共にその領域を狭められ、その利益を失い行くは当然である、然るに世間を相手とす る善次郎氏の商界領域は、年と共に広きを加うるも、狭きに失せぬ、氏の財力が年と共に増大す るは、蓋しまたこの商略の結果に外ならぬのである。  実際はたお二三万の資本に過ぎざる氏が、今やこの商略を用いて、数十万の大金を繰廻し得る 有力者となった、しかしかく云えばとて司法省の金ばかりではない、明治八九年の棚卸勘定書を 見るに、司法省の預金はさほどの多額ではたい、やはり多きを占むるものは個人の預金であろ、 察するに官省の金は、一時多額に預かりても、またこれを支出するが故に、或場合の帳簿には、 その顔を現わさぬ高もあるべきが、実際は我々の想像する程の巨額でもなかったようである、但 しとにかくその預金の御蔭は多かったに相違ない。 第十六 本伝の十 人蓼の売買"栃木県の為替方"京阪神の視 察"明治九年の資本11預金の巨額11司法省 の預金11銀行条例の改正"華士族の銀行" 第三銀行の創立"暖簾店  前に記せし司法省の用達《ようたし》のみならず、この頃には陸軍省の或一部の用達をも勤め、また東京府、 その他役場の金銀取扱いをもしたようである、司法省も本省は云うに及ばず、主なる各裁判所と も金銀取扱いの契約を結び、資金の吸集に断えずその力を用いた。  翌八年に至っては、またその手を栃木県に伸ばす機会が生じた、その発端は、同県の富豪鈴木 某なる者が、同地方の朝鮮|人蓼《にんじん》の売買を企てたに始まる、已《すで》に維新前から、栃木及び福島の或部 分等には、朝鮮|人蓼《にんじん》の栽培を試みたが、この頃に至っては、その産出がかなり多額に上って来た、 依ってこれを買入れて横浜に搬出し、支那商人に売渡すの企てである、支那は同品の需要が最も 多き地であるから、この事業は有利に見えたもので、右の鈴木某は或縁故から、善次郎氏の援助 を求めた、幸いに相談が成立して、二人組合の事業と為《な》し、四分六分の分配を定め、この年を初 めとして、年々その輸出を試みたが、相応に利潤があった、しかし氏の本業に比ぶれば、高の知 れたものであるが、とにかくかかる業務を開いた為めに、氏は頻々と栃木に往来した、その間に 鈴木の縁故からして栃木県の為替方用達《かわせかたようたし》を、善次郎氏の手に入れる端緒が開けた、ここにおいて 氏は大いにその力を用いて、安田商店の出張所を新設した。  当時は未だ汽車の便なく、東京と各地の交通は、甚だ不便なるに拘らず、栃木県庁の所在地な る栃木町は、他に比較すると交通容易の場所であった、道路平坦にて軽快の人車を馳《は》するに便な るのみならず、水路にては利根川の支流を利用して古河《こが》に下り、東京に達する川舟の便がある、 この頃は既に小汽船の便が開らけ、東京栃木間を往復せし故に、金銀紙幣を輸送するには、恰好 の交通機関であった、これもまた氏が当時栃木に着目せし一因である、かくして明治八年の終り には、既に同県庁と、為替方及び金銀取扱いの契約済となった、ここにおいてか、同県の定額金 は勿論《もちろん》、全県下の税金まで、総て氏の取扱いに帰することとなり、これまた一《いつ》の大なる財力と為《な》 った、東京に金銀必需の場合には、この地の余力を繰廻し、この地の急場には、東京から金銀を 廻送し、同県の金銀集散は総べて安田商店の金融上に、大なる勢力を与えた、栃木県にかくしば しば往来するの序《ついで》があるので、翌年には父を奉じ夫人を伴って、日光見物をなすに至った。  その頃東京における氏の業務も大いに発展し、前途ますます有望なるに因り、氏はまたその手 を大いに関西に揮《ふる》わんとするの志を生じ、この年の夏海路より大阪に赴いた、先年奉公稼ぎの間 にちょっと一度は、京畿を遊覧せしことありしも、この度は始めて緩《ゆつ》くりと、諸般の事物を視察 した訳《わけ》である、前にも記せし如く大阪の逸身《いつみ》両替店との為替取組に依って、安田善次郎の名声は、 既に大阪の財界に知られて居た、逸身は大阪の旧家である、これと取組をたすからには、東京の 安田商店は、堅固にして手広きものならんと、已《すて》に大阪商人の間に想像されて居たので、この度 の視察にも氏は少からざる便利を得て、将来の為替取組は勿論、その他充分の企画を立てた、ま た神戸にはこの度が始めての出張であり、同地の貿易等につき大いに知見を広めたこと勿論であ る、氏は尚更に長崎までも巡視し、九州一部の状勢を見て帰京の途に就いた。  蓋《けだ》しこの時の視察にて、氏は関西また与《くみ》し易しと考えたものらしい、神戸大阪に向っての営業 心算は、始めてその端《たん》をこの時に発した、氏は東京に限られたる一両替店を以て満足する人では ない、例の進取気鋭で、寸を獲れば尺を望み、尺を獲れば丈を求むるの大志がますます現われて 来た。  明治八年下半期の決算、則ち明治九年一月三日における棚卸勘定を見るに、   一金拾九万八千五拾三円三拾五銭一厘     右 古金銀紙幣及び諸公債所有高の時価   一金拾四万七千三百八円五拾八銭三厘     右貸付金   一金三拾万五千九百四拾八円七拾一銭五厘     右 預り金 右の預り金を引去りたる残高左の如し。   一金三万九千二百六拾三円二拾一銭九厘     内訳    一金三万四千百三拾円九拾六銭      右は八年上半期の残高    一金五千百三拾二円二拾五銭九厘      右はこの半期の利益金となって居る  右の如く半期五千円の純益で、一年には已に一万円余の利益ある計算となって居る。  なお注意すべきはその預金三拾万円の中《うち》にて、司法省の分は拾六万二千円、また栃木県の分は 一万円である、外に陸軍省の分が一万六千円とある、さすれば前記せし如く陸軍の或一部の金銀 も取扱って居たようであるが、これは一時のものと見え、その前後には陸軍省の金と看倣《みな》すべき ものが見えぬ。  さて総額三拾万円の中で、拾八万円余は官府の遊金を吸集したもので、その以外は個人の預金 で、口数が三拾一口ばかりになって居る、故に個人の預金も、既に相応の高に上《のぼ》って居た次第で ある、なおここに注意すべきは手元在高拾九万余円の中、   一現金一万九千余円   一古金銀千余円   一所有地所二拾一箇所 となって居る、然《しか》ればこの頃は既に相応の地面をも手に入れて居たのである。また、   一秩禄公債の所有高は拾二万三千四百七拾五円   一新公債の高は    七万四百円   一旧公債の高は   拾三万七百円 と為って居り、公債の総所有高は、幾《ほとん》ど三拾万円を超えて居る、これを見ても公債証書なる質草 が世上に現われたことが、いかに氏の取引に便宜を与うるに至ったかを察するに足る、氏は本年 が三十九歳で、独立開店の後十四年目であった。  東京各地の為替取組及び預金の受入れ、貸付等およそ銀行の本務と目すべき主なる業務は、上 記する如く安田商店にては、既に数年前から経験を積み、その実は宛然《えんぜん》たる銀行の実を立派に行 い居たものである、これより先、明治五六年と覚ゆ、政府は銀行条例を発布して、見換券《だかんけん》発行の 特権を銀行に付与することとし、三井、小野、島田、等の富豪は卒先して第一より第五までの銀 行を設けた、但し仔細《しさい》ありて第三銀行だけ出来ずに居た、当時の銀行条例には不備の点があり実 行に差支えが多かったが、その主なる欠点は、銀行に紙幣を発行する特権を与えたるも、望人《のぞみにん》の 需要次第に、これを正金《しようきん》と引換えて渡さねばならぬ一条である、則ち紙幣を発行する者は、正金 引換えに備うる為め、多額の正金を積み置かねばならぬことであった、またもしも金の価が紙幣 より貴くなるときは、尚更らこのことは難儀である、故に銀行の働きも自然に渋りがちで、更に |捗々《はかばか》しくなかった、ところで政府はその後|下《しも》の如くこれを改正した、則ち銀行設立者は秩禄公債 を政府に預納し、その高に応して紙幣を発行することを得、而《しか》してその紙幣はこれを政府発行の 紙幣と引換えを為すに止まり、政府の紙幣は政府自ら金銀貨とこれを引換うるの責《せめ》に当ることと 為った、これは銀行の為に非常な便利である。  右の如く改正した所以は、俸禄に離れた華士族が、空しく秩禄公債を所有し居ても、前途の生 活に窮する者あるべく、その救助の一法として、彼等にその所有公債を以て銀行を起さしむるの 趣意であった、華士族の公債所有者は、その公債にて当然六七朱の利子を得る上に、これを引当《ひきあて》 として発行した紙幣が、通貨同様世間に流通し、これを貸付けてまた一割以上の利息が得られる、 さすれば彼等は、秩禄公債で一割七分乃至二割の利益を得る訳とたり、彼等には非常の救助とな ったのである。  氏は早くこの条例の利益に気付いたが故に、その知合いの富豪川崎|八右《はちえ》衛|門《もん》、松下|市郎右《いちろうえ》衛|門《もん》、 その他懇意の有志を結合して、二十万円の国立銀行の出願を企てた、二十万円の中、氏の持株は 八万円余である、他の株主も大抵氏を信用する者のみであるからして、この銀行は幾ど氏が薬籠 中のものであった、而してこの年に銀行設立の願書を提出した、最初はその名称を東京銀行とな したき志望であったが、この願いは容れられなかった、ここにおいてか第三なる名称を懇望した、 前記せし如くこの名称の銀行が今まで無かりし仔細は、大阪の鴻池《こうのいけ》一派が、嚢《さき》に出願して第三銀 行の名称を得る筈に為り居りしも、何か事故ありてその設立を躊踏《ちゆうちよ》し、今に涛《らち》があかぬ有様であ った、ここにおいて大蔵当局は、氏の懇請に応じて、この名称を与え第三銀行と称することとた った、当時第一銀行は財界に著名-なる渋沢氏の管掌に係り、第二銀行は横浜著名の富豪原善一二郎 氏等の経営に係る、今や第三の行名が安田氏に与えられたとすれば、先ず世間体も大いに都合よ き次第であり、且つ第三なる数が、氏にとりては何か縁起よき意味もあったらしい。  さて各地に華士族の銀行が営業を開始した、ところが何れもその主脳者は、多く士族出か、ま たは官僚出身の人のみで、且つ万事を西洋式に取扱う為め、銀行と云えば、世間では恰《あだか》も御役所 の如き感を為すに至った。  この時に当って、実際に銀行業に経験ありし者は、蓋《けた》し善次郎氏一派だけであったろう、何と なればこれまで仮令《たとえ》銀行の名称をこそ冒さざれ、事実は已に立派に銀行営業をなして居たからで ある、氏は安田商店の中からこの訓練せる者を引分けて、ここに第三銀行を開業したが、他の銀 行の御役所風とは全く反対にて、御店風《おたなふう》を用い、来客にも出入し易からしむる為に、銀行の店先 には、旧《もと》の両替屋の如く、暖簾《のれん》を下げたものである(震災まで第三銀行はたお店の入口に短き暖 簾がぶら下って居たように記憶する、蓋し右は設立当時からの遺風であろう)、また客人の取扱 いも、総べて丁寧親切を旨とし、行員をしてなるべく腰を低く、言葉を卑しくせしめ、両替店の 者と同様の行動を取らしめた、且つ為替等の事務は無論、手に入って居るから、第三銀行の評判 は頗《すこぶ》る宜《よ》かったそうである(氏の両替店が、早く既に銀行の如き取扱い振りをたせし一例を挙ぐ れば、預り金に対して、鄭重《ていちよう》なる鳥《とり》の子紙《こがみ》を用いて預金証書を作って居たことを目撃せし人など 今なお存して居る)、かかる次第で、他銀行から事務見習の為め、第三銀行に行員を派するなど のこともあったそうである、かく第三銀行を創設しても、一方に安田商店は存立して居たのであ る。  第三銀行は、氏が大株主にして掌中の物とは言いながら、他に株主もあること故、その行務は 総べて開放せられ、何事も正々堂々とやる訳である、故に善次郎氏はこれを正戦《せいせん》に用うるの機関 とした、また安田商店は自己一人の物であるから、いかなる貸出方を為し、いかたることにこれ を振向くるも、勝手である、また失敗ありとてこれを答《とが》むる者もない、故に奇戦《きせん》に用うるには便 利である、因って第三銀行と安田商店とは、これを正奇二様の陣立としたように思われる、或は 最初それ程の考えでもたかったかも知れぬ、或は偶然の成行きかも知れぬが、とにかく第三銀行 をば正戦に用い、安田商店(則ち後の安田銀行)をば奇戦に用いたことは、自然《おのず》とその形跡があ る。 第十七 本伝の十一 明治十年の行動"栃木県下の施設"長閥に 費縁あるも取入らず"簿記の学習H知識の 欲求11字体の変遷H社会上の地位11田安邸 の購入"鳥居の寄進11茶湯の稽古H府会及 び商法会議所議員辞退  越えて明治十年、また大阪神戸方面に旅行した、この時大阪に先ず第三銀行の支店を設置し て、自分の手で東西両地|為替《かわせ》取組の組織を定めた、これが関西にその羽翼を伸ばす第一歩であっ た。  またこの年には、しばしば栃木に往来して、その根拠を固めることに尽力した、同県下の多額 の金融を取扱うにはこれまでの如く安田商店の出張所では、もはや間に合わぬこととなり、大規 模の機関を設くる必要が生じたので、栃木人士を結合して、同県下唯一の有力なる銀行を組織す ることを企て、遂に許可を得るに至って、四十一銀《しじゆういち》行と称した、ここにおいて同県下各地の主な る都邑《とゆう》には、同行の支店及び出張所を置き、この時に行われたる郡区改正に応じて、各所の官公 金の取扱いに差支えなきまでの設備を備え、同県の金融を左右する勢力は、幾《ほとん》ど氏の手中に帰し、 場合に依っては東京方面にもこれを利用する便を得た。  この年には西南戦争あり、経済界にもその余沢を蒙る者が多かった、就中《なかんずく》官府を相手とする巨 商等は、御用を勤めて少からぬ利益を得たが、善次郎氏は官府を相手とせぬ流儀であったから、 何等不時の利益を得たように見えなかった。  なおここに氏の動静について感ずべき一事がある、当時は未だ維新を距《さ》ること遠からず、改革 の原動力たりし薩長二藩の勢力は、官府において非常たものであった、この二大勢力に負縁《いんえん》して 利益を得んと欲する商人等は少からぬもので、何等かの伝手《つて》を求めて、薩長二藩の主なる人物に 取入らんとするは、彼等唯一の目的であったのである、然るにこの間に立ち善次郎氏は、毫もこ れらの希望がなかった、その証拠は、氏の夫人房子は長州毛利家に長く奉公せしことは前にも記 した通りである、氏が財界に頭角を現わすに従い、毛利家の奥向《おくむき》にても房子を遇すること一層の 重きを加え、房子が四季折々に、毛利家の奥向に機嫌伺いに出ることは勿論、時としては奥に留 められて、一泊して帰ることもありしは、氏の日記中にもしばしば見えて居る程である、然れば この縁故をたどれば、長閥の利物《ききもの》たる井上侯、及びその他に取入ることは容易であったにも拘ら ず、氏は更に長閥の人士に交《まじわり》を結ぽうともせず、彼等と往来することさえ幾ど皆無と云って宜《よ》 い、尤も毛利家の園遊会などに招かれて行く程の間柄であったが、事業上においては交際を求め た等の迩《あと》は絶えて見えない、また実際絶無であった、これを見ても氏が風変りの人物であること が知られる。  また氏は前記せし如く、幼時充分の教育を受け得なかったが為に、常にこれを憾《うらみ》とし、業務の 繁忙にも拘らず、柳《いささ》かも余暇あるときは、書籍を独習して自己の知識を増加することを努めたこ とは非常である、無論明敏の質《たち》であるから、大抵のことは独学自修し得て、この頃の主なる人物 と交際しても、決して頓馬《とんま》な応接振りなど為《な》す如きことはなかった、また銀行業務の実際は、既 に実行して居たから、洋式の銀行事務の如きも、その大体を聞けば、たちまちこれを理会し得た、 また人に就いて修得を要することは決して質問を恥じなかった、西洋簿記法の如きも日本にその 例なく、銀行の事務を洋式に行うと共に、西洋簿記を用いざるを得ずして、各銀行はその計算に 携わる行員等をして、俄かに簿記学講習を為さしめた、氏の部下の行員もまたこれを伝習したが、 氏自身も親《みずか》ら彼等に伍して、簿記を学習したものである、而して行員等よりも逸早くこれを習得 した、その知識慾の盛んなることかくの如くである、また財界以外のことにおいても、世上の人 心を動かすべき学説などには、耳を傾けて留意する質《たち》であった、その一例を挙ぐればかかること もある。  日本にて明治五六年までは、世上で演説と云うことを知らなかった、福沢先生が卒先して、演 説は欧米にて欠ぐべからざるものと為って居る、邦人もこれを習熟せねばならぬと説き、慶応義 塾の食堂を仮りの演説場として、日本に始めて試みに演説会を開くこととなった、当時余はまだ 義塾の書生であったが、この時における最初の演説者中の一人であった、その後、先生は演説を 奨励流布せしむる為め、木挽町《こぴきちよう》の元の厚生館を建築して演説堂となし、これを公開された、右様 のことから、我々も頻《しき》りに公開演説をしたものである、明治九年頃に、米国から、「バチェラー、 オフ、ロゥ」の学位を得て帰朝した井上|良一《りよういち》、江木高遠《えぎこうえん》など云える若手の人々が大学教授と為 り、傍ら演説会に肩を入れたが、就中《なかんずく》江木氏は天性美事な能弁家で、音声と云い、言廻し方と云 い、実に天晴《あつばれ》の上手であった、氏自身もまた第一流の演説家を以て自任し、公開演説をなし始め た、右二氏は福沢先生に親しかりし故に、先生も後援を与えられた、この江木氏の会主たる演説 会は、一月二三回、日を定めてこれを両国の井生村楼《いぶむらろう》に公開するのであった、その頃の主なる演 説者は江木、井上両氏及び余の三人で、時折福沢先生も加入せられ、また沼間守一《ぬまもりかず》、河津|祐之《すけみき》な ど云えるその頃の若手の人物も参加することがあり、一時はなかなか盛んであったが、善次郎氏 は多忙の身にも拘らず、時々その聴聞に出懸けたのである、当時余は更に気付かざりしが、氏の 残後にその日記を見て始めてこれを知った、然れば氏は若手の新説にも留意して折々聴聞に出懸 けたものと見える、これらも普通金儲け一方にて他事を顧みざる者とは、少しく違った処が知ら れる。  氏はいかにも器用で且つ明敏であるから、時世に応じてこれと与《とも》に推移って行くことを忘れな かった、氏の手蹟が最も能《よ》くこのことを証拠立てる、氏は固《もと》より手筋のよき方であったが、維新 前の文久、慶応頃の氏の字を見るにその頃まで世上に専ら行われ来った御家流《おいえりゆう》である、則ち世に いわゆる俗様《ぞくよう》であった、然るに御維新となって以来、読書人や書生が時を得て、世事を左右する に至り、官府のこと総べて漢学風に変り行き、願《ねがい》、伺《うかがい》、届《とドけ》の文言《もんごん》まで、漢文崩しに変ぜしは勿論、 文字までも、正楷の漢字となりしは、人の知る所である、氏の書風がまた恰《あだか》も時代と共に変遷し て居る、明治十年頃に至っては、氏の字は已《すて》に当世風な唐様《からよう》の書体で、以前美事に俗様の御家流 を書いた人とは見えぬようである、而してその晩年に至るほど、ますます美事の唐様となって来 た、氏の人格が次第に品格よく進み行ったことが、恰もその字の変化と一般であった。  明治十年は上記する如き有様で経過し、越えて十一年、氏はまた父を奉じて箱根熱海より静岡 浜松辺まで遊覧して二十余日を費した。  氏は財界においては、この年福岡県|博多《はかた》の第十七銀行と為替契約を締結した、後年同行が安田 関係の銀行になった縁由《ゆかり》はこの時からである。  また第三銀行はますます繁昌し、二十万円の資本にては到底不足を感ずるに至り、増資の企て を起して、この年遂にこれを実行し、ここに三十五万円の資本と為《な》った。  この年東京にて始めて商法会議所なるものが設けられ、氏も選ばれて第一回議員の一人と為っ た、氏はもはや財界においてかかる場合には、その名が無くて叶《かな》わぬ一人と認めらるるに至った。  この年はなおしばしば栃木へ往来して、支店設置の挙に努めたが、同県下における施設もこの 年に至ってほぽ完成したようである。  越えて十二年には、氏が杜会上における地位も既に高まり、各処で催される大夜会、または大 園遊会には、必ず招待せらるべき身分と為った、この年三月、安田商店の向い側の家より出火し たが幸いに類焼を免れた。  この年大蔵省の出納《すいとう》局に、収税預り人たる者を設くることとたり、氏はこれを命ぜられた。  また始めて東京府に東京府会を開くこととなり、氏はその第一回の議員に選ばれて就任した。  この年夏、米国の前大統領グラソド将軍が来遊するので、東京市民はこれを接待することとな り、氏はその接待委員に挙げられた、また同将軍を上野に饗応するにつき、同所に聖上の御臨幸 をも仰ぐこととなり、右の請願委員に選ばれた、この夏は右接待で東京は大賑いであったが、氏 は委員たる廉《かど》でこれらのことに奔走し、極めて多忙であった。  右の事果てて、八月末より父を奉じ夫人を携えて上州伊香保方面に三十余日遊んだ。  政府はこの年、海外貿易の取引上、正金《しようきん》の繰廻しをなさしむる為め、正金銀行なるものを起こ すこととなり、善次郎氏はその創立委員として、発起人中に加えられた。  かくの如く我が財界に何等かの新起業あるときは、公私を問わず、氏は必ずその創立委員また は発起人に加えられ、相談を受けざることなき身分となった。  前《さ》きに第三銀行を設けた時にも、安田商店はなお一個人の商店としてそのままに今日まで経過 せしが、已に銀行条例が発布せられた以上、撮然《げんぜん》たる銀行ならでは、貸借為替の諸事を大規模に 行い難くなって来たので、この年十一月に至り、遂に私立安田銀行の設置を出願することとたっ た、その資本を二十万円として、安田家一族の銀行とし、株主は安田一門及び縁故者のみである。  またこの年十二月、本所区|横網町《よこあみちよう》の田安侯の広大なる邸地を買入れ、後には撮然たる一邸宅を 構えることとなったが、その頃或者の落首に「何事もひっくりかえる世の中や、田安の屋敷安田 めが買う」とあったと云う。  さて明治十四年には、内国博覧会を開く企てあり、その準備としてこの年東京府から、氏を日 本橋区出品人総理に命じた。  富山市における、氏の旧宅の所在地たりし鍋屋小路《なべやこうじ》を距《さ》る一丁ばかりの処に、愛宕《あたご》神杜がある、 無論それは小杜であるが、しかし場末としてはかなりの杜殿が建てられて居る、ところがその鳥 居が歳久しく腐朽して、修理を要する場合とたったが、何分|陋巷寒家《ろうこうかんか》の多き場所柄で、これを如 何ともすることが出来ず、空しく歳月を経て来た、氏の父善悦氏は、何とかしてこれを改造した いものと、多年心懸けて居たが、それ程の力もたく、今日に至った、然るに今やその子の出世を 見るに至りしかば、父子|相謀《あいはか》りてこの鳥居を寄進するに決したが、さて美事なる御影石《みかげいし》の鳥居を 作るには、東京に恰好たる良質の石材も少く、且つ石工も不手際であるとて、大阪にてこれを製 造せしむることとなり、氏が前きに大阪に至りし節にこれを註文し今やそれが出来したので、父 善悦氏に請い、上方見物かたがた大阪に出張してこれを検査して貰うた、さていよいよ出来に及 び、大阪からこれを富山に輸送し、この年右の神杜前に美事なる新鳥居が出現した。,  これより先、富山にても、同地出身の善次郎たる者ありて、財界に発展しつつありとの噂はち らちら聞えて居たが、右は氏を知る範囲の者に限られ、一般にはさまで聞えて居なかった、然る にこの鳥居の評判からして、同市中一般に、氏の姓名が始めて喧伝さるるに至ったと云う、右は 同市の老人等の話である、善悦氏の多年の希望はここに満足せられ、その旧里の故老に対して、 大いに面目を施し得意|極《きわ》まったことと思われる。  明治十三年、この年には元岩井町なる所有の邸宅が類焼した。  この年、成島柳北《なるしまりゆうほく》氏等と謀って共済五百名杜と云えるものを起した、右は今の生命保険会社類 似のもので、杜員が一定の掛金を為し置き、凶事ある時互に助け合う仕組であった。  今や氏の心身には多少の余裕を生ずる時代と為るに至り、その多趣味たる天性は自然と現われ 来り、この年から茶湯《ちやのゆ》の稽古を始めた、茶事は余程の好きと見え、これより一生絶えず茶道に心 懸け、斯道の交友は年と共に拡がり行くこととなった(右は氏の日記に拠るが、氏は六七年前か ら、已にぽつぼつその道を心懸け、その頃或師匠の家で、氏に逢うたと云う老人さえも存生《ぞんじよう》して 居る、然れば以前から已に始めて居たらしい)。  この年の春、東京府知事松田|道之《みちゆき》氏が、市内に防火線を設くる為め、府債を起すの議案を提出 した、氏は府会議員の一人として未だ起債の時機にあらざるを痛論し、その修正建議を提出した、 六回ばかり討議の末、遂に多数を以て、氏の修正案を通過せしめた、これより後、幾《いくば》くならずし て、府会議員及び商法会議所議員をも辞職した、その理由は、多事にして自家業務の発展に少か らず不便を与えらるるが為めと云うに在った。  同年夏よりまた宝生流の謡曲の稽古を始めた、氏は壮年の頃、頗る俗曲に巧みで、富本《とみもと》たどは 得意であったが、その品のわるきを感じたと見え、中ごろからこれを見合せたりしが、この頃に 至り高尚なる能楽にその心を向け始めた、右は自己の位置の高まるに顧みる所があった為めと、 また一族店員杜員の若手共に、何等か音曲《おんぎよく》上の趣味を与うるには、謡曲が最も上品にて弊害少し と考えたからである、これより後氏の一族中の少年青年等には、必ず謡曲を学ばせることにした、 |蓋《けだ》しこの高尚なる能楽に趣味を有するときは、他の都哩《ひり》なる俗曲に足を踏入るる倶《おそ》れ少きと、ま た青年の慰みには何物にかその熱を噴出せしめねばならぬものと考えたからである、故に今に至 るまで、安田一族の中には、謡曲の心得なき者なく、中には幾《ほとん》ど黒人《くろうと》の塁を摩する者すらあるに 至った。 第十八 本伝の十二 安田銀行の設立U夫婦京畿の遊覧"新設農 商務省の為替方"二省二県の遊金吸収"満 ちて驕らず  明治十三年に安田銀行が開業となりて、安田商店が安田銀行と改称し、いよいよ嚴然たる一つ の銀行となった。  この年も氏は、しばしば栃木地方に出張して、四十一銀行及び同県下の各支店を巡視し、柳《いささ》か も油断失敗なからしむる為め、十分の警戒を与えた。  この年夏季においては、夫人を伴って京阪地方遊覧の途に上った、先ずその途次|江之島《えのしま》に立寄 り、湯本箱根等に遊び、静岡より浜松に向い、豊橋を経て伊勢に出で、内宮外宮を参拝し、二見 ヶ浦に遊び、それより三本松に出で、大和路を巡り、有名なる初瀬《はせ》の観音、三輪《みわ》の杜を参拝して 奈良見物を為し、法隆寺に至り、神武御陵をも拝し、高野山《こうやさん》に参詣して、同地より堺《さかい》を経て、大 阪に着した、右は専ら遊覧の為めであったけれども、氏は傍ら各地の財界を視察して、その金融 状況にも、留意したらしい、大阪においては銀行業者等と会見して、この地における業務の発達 を計画し、それより京都に赴き、大津に遊び、三井寺《みいてら》、石山寺《いしやまでう》に参詣し、引返して伏見の稲荷《いなり》を 拝し、京都より大阪に帰り、有馬《ありま》の温泉に赴き、同所より神戸に出て、須磨舞子《すままいこ》の勝景を賞し、 神戸より玄海丸にて帰京した、この行は氏に取っては珍らしき長旅で七月三十日に東京を発せし より、四十余日を費した。  この頃公債証書の価格が、下落の傾きありて、勘《すくな》からず不便を受くる者多きより、価格維持の 方法を献策し自ら大蔵省に出頭してこれを陳述した。  この年の晩秋には、岩代羽前《いわしろうぜん》地方に出張したが、先ず栃木に至り、各支店の帳簿現金を検査し、 宇都宮、太田原《おおたわら》、白河《しらかわ》を経て、若松に着し、同地の第三十一銀行の重役等と会合し、その帳簿を 検査し、同銀行に関係するの端を開いた、初冬には若松を発し、中山峠を越えて松川宿《まつかわじゆく》より福島 町に着し、それより白河に出で、宇都宮、鹿沼《かぬま》の両支店を検査し、また足利《あしかが》佐野に行き、銀行支 店の検査を為して帰京した、右の如く氏は各地における既得の勢力を確立し、且っ新領域を拡む ることを怠らなかった。  この年の冬、照降町《てりふりちよう》より出火し、氏の商店の奥向及び台所が類焼の厄に会うた、罹災の細民に 対して、恒例の通り若干の恵与金を為した。  明治十四年となり、三月一日予定の第二回内国勧業博覧会が開かれた、前記せし如く氏は日本 橋区出品者の総代理人たりしかばこれらのことの為めに慌《あわたた》しかった、この年は千葉県にも出張 し、同地の第九十八銀行の帳簿を検査した、右は同行が不振にて有力者の援助を求むるの必要を 生じ、氏に請求せし所あるに因る、これより遂に同行に助勢を与うることとたり、氏はまた千葉 県にもその手を伸ばすに至った、しかし同地には第九十八銀行の外二三の銀行もありしかば、未 だ同県下の全金力を握る場合には至らなかった、但し後年第九十八銀行が、大いに勢力を同地方 に張るの端緒は、この時に始まったのである。  またこの年末までに、福島県若松の銀行を助勢するの相談が進行して、氏の手はまた福島県ま でも伸ぶる端《たん》が開らけた、この年は以上各所に勢力を伸ばす外、また氏の大発展を助くべき時機 が到来したのである、従来政府内閣の仕組は、政府第一流の有力者が各省の卿《きよう》となり、その下に |大輔少輔《たいふしようふ》を置き、右各省の卿が内閣に集まって、各その所管の事務を提出し、大事は閣議を経て、 これを決行することであった、則ち内閣の首脳者等は、出でては各省を分掌し、入りては内閣を 組織する仕組であった、この仕組は最も適当の、最も普通な方法であったが、当時種女の事情よ り、この仕組を一変するが宜《よ》いとの議が起り、第一流の有力者等はすべて内閣に集まり、各省の 卿には別の人物を以てこれに任じ、内閣の諸参議は、内閣中に部門を置いて、各省の卿を統括す ると云うこととなった。  なお右の説明として、例の財界に重大の関係ある大蔵省について云えば、従来は大隈伯が大蔵 卿であり、また参議として内閣の一員であった、然るにこの度の新法に依れば、大隈伯は太政官《だじようかん》 参議として、内閣専任となり、大蔵卿には佐野|常民《つねたみ》氏がこれに任ぜられた、以前各省に在って旧 時の卿の下に働いた若手などは、この変革と共に皆太政官に移ってその書記官とたった、例せば |中上川《なかみがわ》彦次郎氏が旧時は外務卿井上氏の下に外務大書記たりしが、井上氏が外務を去り内閣専任 の参議に任ぜらるると共に、内閣大書記官に転じた如きである、余の如きも、旧時において大蔵 大書記官であったが、この時同省を去って太政官大書記官と為り、内閣における財政の部に勤務 したような次第である。  政府はこの新組織を行うと同時に、始めて農商務省を新設し、河野|敏鎌《ぴんけん》氏を以てその卿と為し、 品川弥二郎氏を以て大輔とした、この内閣の変革は、偶然にも間接に善次郎氏の大発展を助くる 一段階となったのである、その仔細は今や一省を新設するについては、その定額金を取扱うべき 為替御用方が新たに出来ねばならぬ、同省の定額金は、その時壱百拾壱万余円であったからして、 その取扱いを命ぜらるる者は、巨額の遊金を預かる訳である、ここにおいてかその用達《ようたし》を希望す る者が三四人現われた、その中で最も有力なるは第一に善次郎氏であり、第二には川村|伝衛《でんえ》氏で ある、双方の財力より言えば、その頃の川村は無論善次郎氏の敵ではないが、しかし川村家は旧 家であり、江戸時代にはなかなか名の知られた家柄であり、且つこの時も一つの銀行|頭取《とうどり》であっ たが、実はその家運が已に衰えかけて居て、内輪の事情に通ずる者の目には、あまり安全の状態 とは思われなかった、品川大輔はこれを知らずして川村氏に許可せんとし、河野《こうの》卿は善次郎氏に 許可せんとし、ちょっと二氏の間に衝突を生じたが、品川氏も川村家の現状を探知するに及んで その主張を中止した、一省の御用達として適当なる技禰と力量とは善次郎氏の方に団扇《うちわ》の揚るの は元より当然であるから、遂に善次郎氏がその許可を得ることと為った、これは頗る公平なる処 置とせねばならぬ。  その頃は今日の如く会計規則も未だ厳密ならず、且つ官府の金銀取扱機関も備わらなかったか ら、同省百余万円の定額金は大蔵省よりこれを一二回に受取り、その全額は挙げてこれを為替用 達方に委託したものである、無論担保物は徴収し居《お》るも、その高は取扱金の何分の一に過ぎぬ、 而してこの百余万の金は、総べて無利息である、善次郎氏がこの許可を得たのは、これまた鬼に 金棒で、且つ一方にはこの頃の司法省の定額金も、既に幾百万に増加して居たから、司法、農商 務、両省の遊金が、総て皆た氏の掌中に帰したとすれば、その金力が俄かに偉大となりしは、想 像するに難からぬ。  この年の秋には、世間にていわゆる明治十四年の政変が起った、則ち内閣の一大|更迭《こうてつ》を生じた、 そもそも明治十年以後、有栖川宮《ありすがわのみや》、三条、岩倉、三大臣以外の大臣則ち参議の筆頭は大久保利通 氏で、氏は当時の中心勢力であった、然るに明治十一年氏が遭難逝去の後は、大隈伯が筆頭参議 となった、薩長の勢力は政府内に重きを為して居たにも拘らず、大隈伯は一身のみの力量を以て 最高の地位と権力とを支持して来た、大久保氏の存生中から、大蔵省方面経済界のことは、既に 大隈伯の独占であって、久しき間の実権者であったが、今や氏はこの十四年の変動の為に退き、 松方《としみちまつかた》伯が代って財界の権力を握ることとたった、それのみならずこの政変の為め、河野敏鎌氏も また辞職し、品川大輔がその後を襲うて卿となった、しかし善次郎氏の為替御用の契約は、既に 取結ばれて居たから、この更迭も氏の業務には何の差障りもなかった。  今や善次郎氏の掌握する金力、即ち預り金については、司法省、農商務省に加うるに栃木全県 の用達で、これらの金力を合《がつ》すれば、その一年の取扱高は実に幾百万円の巨額に達するに至っ た。  かかる場合において、大抵の者は多く失敗を招くのである、何となれば、およそ世上にて取扱 金が漸次に膨脹するときは、その貸付繰廻しもまた漸次に拡まるからして、さほどの失脚はたい のであるが、これに反して俄然と二三倍の大金を一時に取扱うに至っては、不行届きの貸附、貸 出を為し、回収不可能に陥る口が増加するは、世上の常である、もし尋常人ならんには、恐らく この時において、回収不可能なる大失敗の種子を蒔《ま》いたであろう、然るにさすが善次郎氏は、例 の細心緻密の特性を発揮して、少しも貸出、貸附の手を緩めぬ、総べての貸附、貸出に対する担 保品の厳選に至っては、些《いささ》かの隙間もなかった、およそかかる大金を吸集することは、他人と雛《いえ》 ども或は為し得たかも知れぬが、この吸集した大金を少しの欠損なく繰廻して、毫も回収不能の ものなからしめたことは、独りこれを善次郎氏のみに望むべき技個である、氏の致富の要訣《ようけつ》は、 蓋しこの辺に存して居る。 第十九 本伝の十三 非常に対する準備11取引の膨脹、準備の不 足"屈竟の機関11日本銀行の創立"同銀行 の理事"最初の割引局長  金融貸借の業務を営む者に在っては、或場合に俄然として、一時に多額の金員を支払わねばな らぬことが、第一の痛手である、彼等が平生受入るる預金は定期ものばかりではない、当座口も 少からぬ故に、その引出しが一時に輻湊《ふくそう》する時は、いかなる有力者でも、これに応ずるは難渋で ある、もし下手《へた》を働くときは、たちまち年来の信用を失墜すること勿論である、故に預金の性質 に依っては、多くこれを受入るるは、却って難儀と認められる程の者である。  この一段に至っては、官省の預金は頗《すこぶ》る便宜で、年度|首《はじめ》には巨額に上り、年度末には皆無に帰 するとも、その引出しは決して一時に来る倶《おそ》れなく、一定の高を十二箇月に割って、漸次にこれ を引出し行くに過ぎぬ、故に、些かの心配を要せぬ。  然るに民間の預金はこれに反していつ取付けられるやも知れぬ、また銀行の信用に、柳《いささ》かでも 疑点を挾《さしはさ》む者があると、一斉同時の取付けに会うこと勿論である、さればとて、これらの当座 預金に対して、常に充分の予備金を空しく積み置くときは、氏が予ねてよりの商略たる有りたけ の金を繰廻す訳には行かぬ、氏が未だ官省府県の預金を吸集せざりし時代においては、臨時巨額 の支払に対しいかなる手段を以てこれに応じたかを案ずるに、氏はその頃の有力なりし個人の富 豪に結んだ、則ち中井新右衛門とかまたは長井利右衛門とか、その他屈指の二三富豪と親交を為 し、或場合には彼等の便を達する代りに、また或場合には彼等の力を集むることと為して居た、 その頃氏の使用人にして、今日に生存する人々の話を聞くに、氏は必要の場合に、これらの富豪 の許《もと》に駈付けて、折々用を弁じたものであると言う、右は事実のようである。  然る処氏の業務が年を逐うて大発展を為すに従い、官府以外民間の預金も非常の巨額となるに 至ったから、もはや右等諸人の力にてはこれに応ずるに足らぬ、何とかして、更に応急の別法を 講じ置かねばならぬこととなった、銀行条例の発布以来、財界には多数の仲間銀行が成立したが、 何れも未だ有力とは云えぬ、僅かに自ら支うるに足る位のものである、殊に士族銀行の多きが為 め、貸出、貸廻《かしまわし》、不行届きにて白家の整理にさえ手廻り兼ぬる者少からぬ、その間において真に 頼るべき者はただ三井銀行、第一銀行等の二三に過ぎぬ、然れども今や売出しの新店として、世 間に好評を博し、信用厚き善次郎氏としては、これら銀行の助けを受くるは面白からぬ事情もあ り、内心これを屑《いさぎよ》しとしなかった、蓋し氏の心中にてはこれら銀行の引立てを受けず、飽くま でも独力を以て推通し、あわよくばこれら銀行をも凌駕せんとの大志があったかも知れぬ、それ も無理からぬことである、これが氏の苦心の存する所で、明治十四年に至って、氏の唯一の画策 は蓋しこれに在ったに相違ない、然るにここにまた氏の発展に資すべき、偲強《くつきよう》なる一大機関が現 れた、それは則ち明治十五年日本銀行の設立である、夫《か》の英蘭《イソグラソド》銀行(バソク、オフ、イソグラ ソド)が英国財界の中心勢力と為りて、国内金融の調節を計る如く、我が国も早晩右と同様の働 きを為す大日本銀行なるものを設立するの必要は、先年より朝野財界の人々が既にこれを感じて 居た処であったが、松方伯が大蔵卿となるに及び、痛切にこれを感じ、明治十五年いよいよ日本 銀行設立の計画を始めた、欧米の銀行業務は書類にて大抵これを取調べ、その研究に不足なきも、 日本実際の銀行業務に至っては、最も実験ある人物についてその意見を徴せねばならぬ、ここに おいてか松方伯は、善次郎氏と数次《しぱしば》会合して、日本における銀行業務実際の便不便を聴取し、西 洋式を折衷掛酌《せつちゆうしんしやく》することとなった、かくしてこの時に、氏は伯の顧問格であった、政府の議い よいよ熟するに及び、ここに日本銀行創立委員の選任と為り、氏もその任命を蒙《こうむ》った、その時同 行最初の総裁に擬せられたるは吉原重俊氏であった、氏は大隈伯時代より既に大蔵の少輔大鮪を 経て、我が財政には実験あり、殊に温厚にして徳望もあった、維新前後に鹿児島藩から秀才五六 名を選抜洋行せしめた際に、氏もまたその中の一人であった、故に氏は実にこの職務には適任者 である、また氏を総裁としてこれを助くるに富田鉄之助を以てした、この人も早き頃の洋学者で、 適任と言うて宜い、そして旧来の商人でこの時委員に加わりしは、三井派の三野村利助《みのむらりすけ》と善次郎 氏両人であったと記憶する、氏はこれより数次の会合に出席して、業務の開設に必要なる諸条件 を議定した。  この年十月同銀行の開業間際に氏は創立事務御用掛を免ぜられ、慰労として白縮緬《しろちりめん》一匹を下賜 され、更めて日本銀行理事を拝命した、そして十月十日に同銀行もいよいよ開業の式を挙げた。  銀行内の諸局は皆枢要ならぬものはないが、貸出を掌《つかさど》る所の割引局は、その中でも最重要の 地位である、而して開業最初の割引局長嘱託は、則ち善次郎氏であった、銀行内の実務において、 氏がいかに重きを為して居たかが察せられる、日本銀行は国内大銀行の求めに応じ、預金、貸出 の中心で、その勢力は絶大である、故に普通銀行にして一朝有事の場合、即ち銀行取附等の危急 の際に、飛込んで金融を求むべき所は則ちこの銀行である、善次郎氏は今や必要の場合に援助を 受くべきこの大切なる機関を得たのである、氏の財界の地位より言えば、正面より申込んでも相 応の便宜を得らるべきに、況んや銀行創立の初めより、その諮議《しぎ》に携わり、大蔵省の大官は勿論、 銀行内の重役等、苟《いやし》くも日本金力の枢軸に携わるほどの人々とは懇意親交の間柄ならざる者なき 身とすれば、日本銀行より融通を受くることは内輪の相談にても、直ちに埒《らち》あく程のものである、 その便宜は他の何れの銀行よりも多いに相違ない、ここにおいてか氏の発展に資することますま す甚大と言わねばならぬ、しかしかかる時機に際し、かかる便宜を得るに至ったのも、畢寛は氏 が常に知識を増加するに努め、その人格が地位と共に向上したる結果である、然らずんば、何人 も氏を日本銀行の重役に擢用《てきよう》するを避けたであろう、換言すれば氏は当時財界顕要の地位に在る 人々と、対等の交際をなして恥しからぬまでに人格を進めて居たからである、いかに巨富を擁す ればとて、その人格が卑下たらんには、決してかくの如き地位職任を得る訳には行かぬ。  下に記することは余談に属するけれども、二三年後に氏が北海道の北部に遊んだ時の記録に 「北洋盛夏肝胆寒《ほくようせいかかんたんさむし》」の句を得たことを手記してある、これを見ると、氏はこの頃には既に詩作の 初歩位は心得て居たようである、一方に大貨殖をなしつつ、一方にかく優《やさ》しき丈学の嗜好《しこう》あるは、 氏一流の特長である、もはやこの時代の善次郎氏は、いかに考うるも、幼時寺子屋のみの教育に 終った人とは思われぬ程に向上して居た。  この年の春は、大阪神戸に赴き、支店及び関係銀行の取締りを為し、また小田平兵衛《お だへいべ え》なる者が 小田銀行を起すにつき、その規則を起草して助勢を与えた、この小田なる人は、先年氏が大阪の |逸身《いつみ》商店と、為替取引を開くに当り、大いに尽力しくれた一人である、且つその後も大阪におけ る氏の活動に加勢したのに酬ゆる為である。  なお大阪においては同地の銀行家連を招待して、ますますその顔を広くすることを努めた、ま た京都に赴きその財界を視察し、神戸を経て帰京した、右はこの年春初めのことである、また東 京においてはこれまで取引せる紀州の岩橋徹輔《いわはしてつすけ》の経営せる第四十四銀行が営業振り面白からざる に至りし為め、同行を引受けて、第三銀行に合併するの企てを始めた、また初夏には栃木方面よ り宇都宮を廻り、各支店を警戒した、氏は少しにても余暇あれば、苟《いやし》くも寧処《ねいしよ》することたく、必 ず各地部下の検査に廻ることである、その健康と精力は実に絶倫である、この年八月に至り第四 十四銀行を第三銀行に合併するの許可を得て、これを実行した。  この年九月、横浜の豪商|茂木惣兵衛《もぎそうべえ》、東京の朝吹英二《あさぷきえいじ》、馬越恭平等《まごしきようへいち》諸氏と、倉庫会社の設立を 相談した、この頃に至っては日本におけるおよそ目欲《めぽ》しき企業には、何れの方面にても、必ず氏 の加入を請わざる者なき身分となった、この倉庫会杜は、この年十一月に開業した、この年十二 月には日本銀行が大阪にその支店を設けた。  明治十六年春三月、大蔵省は銀行局長加藤|済《さい》、日本銀行の富田鉄之助、三野村利助、渋沢栄一、 及び善次郎諸氏を集めて、銀行条例の改正案を諮問《しもん》し、氏もまたその意見を陳ずる所があった、 四月においては日本銀行開業の祝典を挙ぐることとなり、氏は同行重役と共に、横浜在留の外国 銀行の重役等を祝宴に招いた、この年五月には第三銀行の華客《かかく》百二十余名を、向島の八百松楼《やおまつろう》に 招き、将来ますます発展するの企てなどを吹聴した、また同月には、運輸会杜より日本銀行に対 しその手形三十万円割引の申込あり、その可否を同銀行にて評議する等のことがあった、しかし かく同銀行の為めに余程時間を費すこと多きを迷惑に感じた様子が見える、この年六月富山県の 為替方を拝命した、また同月には大蔵省国債局に出頭して古金《こきん》買入れ方資本金拝借を申出でた、 蓋し氏が従来古金の買収に熟《な》れ居《お》るが為め、同省より古金興入れのことを氏に託するの内命轟り しにつき、その資本を借用する訳である、同月大阪の日本銀行支店が、開業の祝典を挙ぐる為め 盛宴を張った、氏も重役の一人として同地に赴き、なおその暇《ひま》を以て、宇治の平等院、釣殿等を 見物した。 第二十 本伝の十四 明治+六年の帰郷H親戚故旧の賑仙H富山 県の為替方11双方与に失す"将来投資の方 面"拙碁会  善次郎氏はこの時大阪からの帰途、久々にて故郷富山に帰ることとし、従者二名を伴い、敦賀《つるが》、 金沢を経て富山に着した、当時日本の財界において、氏は既に著名有力の銀行家たる地位を占め、 勢力は隆女として日々に加わり、杜会上の交際においては、朝野第一流の人物と、対等の往来を なすほどの身分となり、今また財界中心の一大勢力たる日本銀行において、理事の要地を占むる に至った、夫《か》の富山町外れの晒巷《ろうこう》に生れ、赤裸々の身を以て、二十五年前に郷里を出た一少年岩 次郎としては、実に人を驚かすに足るべき出世である、当時氏はその年歯《ねんし》なお四十六歳の男盛り で、この先きなおいかほど発展すべきか測知すべからずと、心ある人々の注意を惹いて居た折柄 である、彼《か》の少年がこの度の帰郷は、実にこれ錦を衣《き》て故郷に帰ったものである。  氏の帰郷するや、富山にては知事、書記官は云うまでもなく、郡区長等の如きまで、氏に対し て相当の敬礼を払うは勿論《もちろん》、氏の親戚故旧は、氏の出世を以て彼等の誇りとする次第で、この年 の帰郷は、蓋し氏の生涯における、大快心の一つに数うべきものであった、同地滞在の間、諸知 人の出入や諸所の歓迎等は、一々記するまでもない。  氏は帰郷するや、直ちに祖先の菩提所《ぼだいしよ》なる安田村の西円寺《さいえんじ》に参詣してその墓を祭り、また母氏 の里方なる太田家の菩提所等にも参詣した、なお富山における親戚故旧の為に、彼等の負債は悉 皆《しつかい》これを償却し遣りしのみならず、後来生活の憂いなからしむるの法を定め、且つ主なる親戚、 及び旧来恩義ある人々に対しては、毎年若干|宛《ずつ》終身年金を与うるの約を定めた、また寺々にも相 応の寄附をなし、ここに氏は全く郷里の親縁に対する平生の宿志を遂げた訳である、右親戚中に ても、母氏の里方なる太田家に対しては、殊にその意を用いた。  氏はかく郷里のことどもを遺憾たく処置した後、直江津より信州に入り帰京した、右に記する、 氏が郷里においての処置は、無論氏の意中より出でたものではあるが、父善悦氏が、平生より望 んで居た所であることは勿論である、今や我子がかかる異数の出世をなし、郷里の人々には羨望 の的となり、帰郷に際しては、親戚故旧、菩提所までかく行届いたる処置を為したことは、善悦 氏に取っていかばかり嬉しかるべきか、蓋し善悦氏の為めにも、また生涯における一の最大快心 のことたりしならん。  この年夏、氏は父を奉じ家族を携え、避暑の為め箱根に出遊し、その附近を遊覧した、今やそ の志を得ると共に、やや心身の余裕を生じた訳と見ゆ。  これより先、氏は富山県官と謀《はか》って、県の為替方御用達《かわせかたごようたし》を引受くる相談を始めたが、帰京後に 至り遂にその命を拝した、しかしこのことは、氏に取りて余り得策ではなかった、むしろ小失錯 の一《いつ》と見るべきである。  その仔細は、銀行条例発布の後、富山県にても、士族富豪等共同して相応の一銀行を設立し、 既に幾分か官公金の取扱いを為しつつあった、然るに今や安田銀行支店の為めに、この大切なる 一利源を奪い去らるるとせば、彼等が何条指を咬《くわ》えて引込むべき、第一には土地の多数株主の利 益を減削せられ、第二には県下の游金は預金となりて、安田銀行支店から東京に持去らるる倶《おそ》れ ありとし、同地において次第に善次郎氏に対する反抗の気勢を昂《たか》めて来た、右の反感は無論一部 の人士に限られ、同市全般の人気ではなかったが、しかしながら多数の有力者等は、皆暗に不快 の念を懐《いだ》き、氏の行為の不都合なるを唱え、その筋に陳情書を提出して、排斥がましき挙動をな すに至った。  今日から公平にこれを評すれば、双方共に失して居る、善次郎氏のこの挙も、氏に取りては不 利であったが、富山人士の挙動も、また彼等に不利であった、もしこの時において彼等が初めよ り快よく氏と提携し、彼が郷里に手を伸ばさんとするを好機として、深くこれと相結び、氏の財 力を利用して同地の物産開発の資源たらしめたならば、同地の発展はなかなか今日の比では無か ったであろう、然るに却ってこれを排斥し、後年までその力を借らざりしが為め、同地の発展は 遅々たる観がある、彼等も後年に至り始めてその非を悔い、氏と提携するに至ったが、もし前《さ》き に早くこの挙に出でしならば、彼我双方の為に非常の便宜であったであろう。  また善次郎氏としては、この時既に司法、農商務二省の外、なお栃木、福島の御用を勤め、資 金に不足を感ぜぬ場合であるから、小なる一の富山県などを相手とせずして、郷里の事業は、む しろこれを同地の人士に譲り、為替方の利益も挙げてこれを彼等に提供し、なお且つ出来るだけ の助勢を郷里物産の開発に与うるを惜しまなかったならば、郷里におけるその声望は非常であっ たに違いない、然るに上記する如き双方感情の行違いから、この後幾年間、互に疎隔の傾きを生 じたのは遺憾の次第である、富山人士の当時の処置が、甚だ彼等にも不利であったことは、今日 同地の父老が繊悔話《ざんげぱなし》に為す所である、而して当時氏もまた郷里の人気がかく面倒なるに鑑み、か かる土地に小面倒なる紛転《ふんうん》を見るを面白からずとして、その煩を避け、爾後当分の間は、同地の 事業にはむしろ関係を避くるの方針に出でたようである、氏が同市に数万円を寄附して工芸学校 を設け、同市の開発に資した如き挙は、幾年かを経て、双方の感情が次第に融和した後のことで あった。  元治元年安田商店開業当座より、番頭の首位に在りて、永年忠勤を励みし峰沢《みれさわ》徳兵衛がこの年 に病残した、依って善次郎氏はその後事を処置し、懇《ねんご》ろに遺族の成立を図って遣った、これより |前《さき》に同人の勤功を賞する為め、已に一商店を開かしめ、小両替業兼油屋を経営せしめて居たので あるが、なおその死後に懇情を尽して世話をなした。  前《さキに》にも述べし如く氏がその業務において、最初に全力を注ぎし所は、資金の吸集であった、則 ちいかにして巨額の金員を我手に握るべきか、言換うればいかにして多くの預金を吸集すべきか であった、然る所氏の計画が図に中《あた》り、その信用の広まると共に、預金の高は年々に増大し、殊 に官府の遊金を取扱うてより以来、氏の苦心する所は、この巨額の資金をいかなる方面に向って、 いかに安全に繰廻し得べきかの一事であった、今や金力吸集の方便は既に備わった、この上はい かにこれを放下《ほうか》運用すべき乎《か》が氏の苦心する所と為《な》った。  東京以外の地としては、先ずその力を関西に用いんか、将《は》たこれを東北に用いんか、これが損 徳の分かるる所である、右の際において氏はむしろ東北を先にすることを選んだ、右は当然のこ とである、何となれば、氏の新興の財力を以てするも、大阪関西方面には、旧来の富豪が頗る多 い、これと対抗すれば、力を用うることが容易でない、且つ大阪以西は遠隔である、これに比す れば、東北は、東京を距《さ》ること遠からず、殊に有力なる対抗者は幾《ほとん》ど絶無である、ここにおいて か氏の慧眼《けいかん》は、関西を措いて、先ず東北に注がれた、加うるに東北にはたお不便の地多く、有力 者も少なき為め、関西に比して、金利が非常に高分である、これがまた氏の東北を選んだ一因で ある。  右の商略を実地に施行する為め、氏は翌十七年夏に至り、先ず北海道に向って出発した、函館 に着し小樽《おたる》に赴き、札幌に至り幌内《ほろない》炭坑等を視察し、一たび函館に引返した、これより先、同地 の銀行にて、氏の助勢を請う者ありしを以て既に取引を開いて、これを助け居たりしに因り、氏 は函館を以て、北海道発展の根拠地とし、なお函館より釧路《くしろ》及び厚岸《あっけし》に赴き、根室《ねむろ》に廻り、この 地に在る山田銀行支店の状況を調査し、更に千島に至り、国後《くなしり》の硫黄山を調査した、これは北海 道の硫黄事業者より、往々資金の援助を求めらるること有るを以て、硫黄製出の実地を調査する 為めであった、氏が後年硫黄山の経営に関係せしは、蓋し端をこの行に発したものである、それ より再び根室に赴き、厚岸を経てまた函館に帰り、縁故ある山田銀行の諸帳簿を検査した。  北海道の視察を終えて、その帰途青森に至り、小湊《こみなと》村、七《しち》の戸《へ》を経て、三本木《さんぽんぎ》、藤島村、伝法 寺《でんぽうじ》、五《いつ》の戸《へ》、清水村、三の戸、一の戸、等を巡視し、それより中山峠を越えて盛岡に出で、盛岡 より花巻《はなまき》を経て、黒沢尻《くろさわじり》に至り、水沢、衣川《ころもかわ》、等の地を経て、一《いち》の関《せき》に出で、同所より川舟にて 北上川を下り、石《いし》の巻《まき》に至ってこの地を視察す、同地より海路を取りて野蒜《のぴる》港を見、松島に至っ て瑞巌寺等を見物し、塩釜《しおがま》に渡り仙台に出た。  同地より福島に赴き、二本松、郡山《こおりやま》を経て宇都宮に入り同地の支店銀行を調査し、また宇都宮 より途上一二の支店を調査し終りて帰京した、東京を出立してより帰着まで、およそ四+余日を 費した、この時から氏は北海道に向って、着々とその手を伸ばすことを始めた、この年の秋、ま た北陸銀行を助勢するの相談が起った、  氏は飽くまで質素を守る方針ではあるが、しかし多趣味なる本来の天性は、遂に抑え切れぬこ とがあり、書画骨董に対し、たまたま逸品妙品に出逢うときは、往々これを買入るることを免れ ぬ、徳川三代将軍家光が、筑波山へ寄附せし銅製燈籠一基、この頃松本某の手から売りに出た、 その価三百円であったが、氏がこれを買入れた如き、則ちその一例である。  嚢《さとぞ》に栃木県の書記官たりし藤川某が、栄転して島根県知事と為った、その栃木に在りし頃、善 次郎氏を県の用達として、官府に便宜多かりしことを思い、氏をしてまた島根県の用達を勤めし むるの相談が開かれた。  善次郎氏が碁を好むことは、前《さき》にも記する所であったが、この一二年は余暇さえあれば、囲碁 に凝《こ》り固まった、理財には明敏なる氏も、碁は全く別物と見え、頗る平凡《へぽ》であった、然るにも拘 らず、そのこれを好むこと、また非常である、いわゆる下手《へた》の横好きと評すべきであった、この 年氏は同好の連中と拙碁会なるものを作ったが、その会則は左の如し。 拙碁会は、毎月二十四、五、六、の三日内に於てす 会主は、会員順次に之を定む 会主は、自宅に於て開会す、若し差支あれば、他所を借るも随意なり 開会は午後一時にして、閉会は午後十時を過ぐべからず 会主は、会場を必ず五日前に会員に報告すべし 事故ありて出席せざる者は、前日若しくは同朝、断り書を会主に送るべし 当日は碁盤三面を用意すべし 此の会は永続を主とすれば、総べて奢修を禁ず、毎会会主の弁ずべき食事は、 菓子、酒、飯、汁、香の物 平椀一種、焼肴、煮肴、刺身の内一種 左に限る  当時の会員は、喜谷市郎兵衛《きたにいちろうべえ》、中沢《なかざわ》彦吉、成島柳北、子安峻《こやすしゆん》、山中隣之助等であって、この会 は大分永続した、氏は実に碁好きであった、筍くも暇さえあれば、その宅に師匠または名手を招 いて稽古したものである、晩年は碁に巧みな喜多文子《きたふみこ》を招いて常にこれを対手とした、蓋し女子 は温順にして、碁の外は五月蝿《うるさ》き雑事を語らぬからと見ゆる、また各地への出張中も暇さえあれ ば、直ちに随員を対手《あいて》にして厭くことを知らず、昼夜続ける為め、これには皆々閉口したそうで ある、また随員に碁を打つ者なきときは、先ず第一に宿屋の主人を呼出して、これを対手とする、 主人が碁客でなければ、相宿の旅客を相手とする、知面ならざると否とその辺は一向構わたい、 また相宿にその人なければ、館主に依頼して、近所近辺の老人隠居たどの碁客を招き集むるので ある、その根気よきこと実に人を驚かした。 第二十一 本伝の十五 一代の基礎定まる時代"風を望んで款を送 る"前田家に出入"託伝より取付け11実況, の説明11官金公金の減退"民間預金の膨脹  古今事業を成した人の生涯を通覧するに、必らずその人一代の中で、今ここで事業の基礎が定 まった、と認むべき時代がある、そこまで漕付けるのが非常の困難で、大抵の者は、そこまでに |蹉跣《さてつ》する、もし能《よ》くこの難関を切抜け、一代の基礎が定まる以上は、仮令《たとえ》その後は諸事大規模と なるも、働きは存外に楽となり、いわゆる破竹の勢いで、節々|刃《やいぱ》を迎えて解け、万事順調に進む を常とする、またいかなる事業にも大切たるは、その人の命数である、少くも五、六十歳、もし くは七八十歳までは生存せぬと、その志業が完成せぬものである、云い換ゆれば、第一は基礎が 定まる時代まで切抜けること、第二は早死《そうし》を為《な》さぬことである。  織田信長の一代について見るも、初め彼が同族間の内乱を定め、桶狭間《おけはざま》に奇功を奏して義元《よしもと》を 討取り、浅井、朝倉の両雄と戦って、能く朝倉を抑え、浅井を什《たお》し、江州《ごうしゆう》一円をその手に入れた 処で、もはや一代の大事業は、その基礎がここに定まったのである、これより後は坐して天下を 定むるに足る有様で、東北を征するには滝川を派し、北陸《ほくろく》を略するには柴田を使い、関西には羽 柴を差向け、両丹《りようたん》には明智《あけち》を遣《ゃ》る等にて、四方平定の功は、容易に奏せられ、日女続々として、 その手元に来るものは、ただ版図を拡むる捷報のみであった。  また秀吉について見るも同様である、草履取《ぞうりとり》より身を起して、姫路の城主となり、十箇国の領 主毛利家と云う大敵を押え、山崎合戦に明智を平げ、柳ケ瀬に柴田を破るまでが、この人の難関 である、ここまで来れば、もはや一生の事業の基礎は已に定まったのである、これから後は仮令 大規模の働き多きも、四国征伐、九州征伐、最後の小田原征伐まで、さほどの苦労もなく、すら すらと成功し行ったのである。  那破翁《ナポレオソ》とても同様である、彼が共和政治の下に、襖伊《おうい》の地に苦戦し、度々戦功を立て国内乱麻 の如き大紛擾の中に、大統領に選ばれるまでが、この人一代の難関で、この時を過ぐればその基 礎は既に定まったのである、これ以後はその働きが大規模と為り、伊《い》、襖《おう》、普《ふ》、西《せい》、白《はく》、諸国を 征服し、天下無敵の華々しき大功業を立てしも実は破竹の勢いでただ順調に進み行ったばかりと 言うて宜い。  およそ事を成すの勢いは、いかなる事業も大抵は同様で、一個人が巨富を致すの有様も、また やや似たものがある、善次郎氏が大富豪となるべき一生の基礎は、蓋し明治十五年日本銀行の理 事となるまでの時代に定まったのである、我が国財界の中心勢力たる日本銀行の当時の資本が、 五百万円である頃に、善次郎氏が掌中に動かし得た資本は、既に百五十万円以上に上って居た、 加うるに日本銀行の内部に立入り、その重役の一人として、押しも押されもせぬ財界の重鎮と目 さるるに至り、その手堅き信用は、ますます世に現わるるのみで、謂わば旭日|沖天《ちゆうてん》の勢いである、 この基礎を築き上げるまでが、この人一代の難関で、已《すで》にここに漕ぎ付けたる以上、その将来は、 いかに事業が大規模複雑となるとも、ただ順調のみと言うて宜い、その富がますます膨脹し、そ の力がますます拡大すると反対に、その苦労は却って旧来より減じ行くのである。  信長、秀吉、那破翁《ナポレオソ》、ともに一代の基礎既に定まり、前途の運命ほぼ想像せらるるに至れば、 |竜鱗《りゆうりん》を楚《よ》じ鳳翼《ほうよく》に附き、この人に附随して利便を得んと図《はか》るは、世人の常情にて、近きものは云 うに及ばず、遠地にある者さえ、風《ふう》を望んで款《かん》を納《い》れ、招かずして遙かに降附《こうふ》する者、続々とし て相続ぐに至る、大小の相違こそあれ、他の世事もその状態はやはりこれと同様である、荷くも 前途有望の人と認むれば、これを歓迎しこれを助勢して自家将来の便に資せんとする者が多数と なる、今や善次郎氏が、既に右の地位に進む以上は、財界の人皆氏に注目せざる者なく、萄くも 有利なる一事業を企つれば、その組合人として氏の加入を望み、一銀行の不振に陥らんとするあ れば、先ず第一に氏の援助を請う、世間あらゆる有利たる事業の相談は、招かずして日夜、その 身辺に輻湊《ふくそう》し、従前なれば、苦心惨櫓の結果、辛うじて探り得べき、隠れたる利源も、今は求め ずして先方より、持懸けて来ると云う次第となったのである、故に氏の生涯に、最も大切なりし 時代は、独立開店より、明治十五六年の頃までで、これこそ氏が一世の基礎を築きたる時代と見 るべきである、氏の日記について、日々氏が面接する人名を見るときは、これらの状況が、能く 推察せられる、その年月と、その人物と、その事業とを思い合するときは、これらの有様が能く 実証せられる。  しかしかく財界を風靡する身分となりても、氏の謙譲なる態度は、少しも以前と変らず、やは りこれまで通り腰も低く愛想もよく、人に接するにも如才なく、極めて親切であった。(但し取 引上に至っては厳格であること勿論である)  また翻《ひるかえ》って、商業以外の善次郎氏を見ると、誠に無邪気千万である、前にも記せし如く、絶 えず平凡碁《へぼご》の会などに招かれもする、招きもする、また茶の湯は先年来引続いて、一箇月に≡二 回の催しなきことなく、謡曲も家元の師匠を招いて勉強するのみたらず、同好仲間の謡曲会には 必ず出席する、また家族を伴って、一箇月に二三回は必ず芝居遊山《しぱいゆさん》に出懸けたものである。  殊に美術展覧会は、きっと見物に行くのである、それのみならず、書画骨董の売立入札などの 会には、必ず行って見るが例である、常に商機を逸せず、商略には些《いささ》かの脱かりもたき人とは思 われぬほど、他力面には紳々《しやくしやく》たる余裕を示して居る、余程不可思議の人である。  氏は器用た天性だけに、何でもやって見る癖がある、この頃はまた自転車の修行を始めた、久 しからずして相応に乗り得るまでに上達したが、氏の身分としては、常にこれを利用する場合が 少きを悟りしと見え、余り深入りをせずにこれを見合せた。  また先年北海道旅行のとき、舟車《しゆうしや》の便なき地にては、馬背に頼るのであったが、氏もこれには 閉口したと見え、これより後、乗馬の修行を始めた、例の緬奥《うんのう》を窮《きわ》めねば承知せぬ凝り性のこと とて、なかなか熱心であった、なお後に記す所を見よ。  氏が世間に撞頭すると共に、その旧富山藩主前田家も氏に依頼すること多く、氏もまた旧誼《きゆうぎ》を 重んじ同家の利便を図りし為め、先年より親しく同家に出入して居た、その縁からして、また宗 家《モうけ》の大前田家にも出入することとなったが、このことは独り前田家に便なりしのみたらず、氏に 取っては蓋しまた大なる便宜であったらしい、氏が或官庁に、身元担保品として、嘗《かつ》て三十万円 を容易に提供せし時など、世上にては前田家の力によるものと、想像するものさえあった、しか し事実は必ずしもそうでもなかったらしい、但し前田家の会計上について、折々多少の相談は受 けたらしい、かかる有様であるから、明治十七年に、同家に貯蔵せし古金十五万両を、氏は一手 にて買受け、四十日余に総べてこれを売り尽した、この時は余り利益は得なかったようである、 無論損失もなかったらしい、多少の利益はあったにしても、さほどではなかった、然るにこのこ との誤伝されたものか、または他に何等かの風評より生じたものか翌十八年二月頃に至り「安田 は銀貨の相場にて今度こそ大損を為《な》した」と云う噂が、ちらちら世間に拡がった、その為めであ ろう第三銀行の預金に、ぼつぼつ取付が始まって来た、ここにおいて氏は同行の華客《とくい》二百余名を 向島|八百松《やおまつ》楼に請待《しようたい》し、古金売買の実際と、第三銀行業務の実情とを、明白に打明かした、これ に依って華客等も大いに満足すると共に、その噂も自然と消滅したが、かくの如き風評は、氏の 一生にも余り多からざる出来事の一である。  この年の末、成島柳北氏が残した、氏は善次郎氏と親交ある丈学者の一人で、如才たき人では あり、善次郎氏とは双方互に合口《あいくち》であったらしい、第三銀行開業の時の新聞広告なども、柳北氏 の朝野《ちようや》新聞に専ら掲げられて居る、柳北氏は謡曲も心得、碁も囲み、その居宅も遠からず(氏の 家は向島にあり)頗《すこぶ》る親しかったものである、柳北氏の為には善次郎氏も金融の便を与えた等の ことも多かった、柳北氏の残後、或は追悼会を催し、或は遺族の為め後図《こうと》の相談に与《あず》かる等、頗 る厚意を尽したものである、また柳北氏の碑石なども、氏が自ら石屋に赴いてこれを択び、これ を注文したもので、浅からず情誼を尽した。  日本銀行の設立が、氏の大発展を助けしこと少からぬは、前に記せし通りであったが、またこ れが為に、幾分の不利を蒙ることを免かれなかった、その仔細は、政府の機関たる日本銀行の設 立前には、官府の遊金は、皆これを民間の銀行に預け込んだものであるが、既に政府にこの大機 関が出来せし上は、官庁の定額金は勿論、全国の徴税金等、総べてここに取扱わしむるが当然で ある、ここにおいてか、日本銀行内に、この議が始まった、因って氏は自家の経験に依り、一《いつ》の 便法を起草して提案した、日本銀行は当時なお草創のことで、その支店とては、大阪京都の如き、 枢要の二三箇所に設けられたのみで、未だその他の地に行届かぬ、故に支店なき場所においては、 各地の有力銀行を以て同行の代理店たらしめ、これを取扱わしむるの外はない、氏はこのことの 必要を論じ、右に関して大蔵省より発すべき布達の草案を起草したのである、これは多少の修正 を経て発布されたが、その大体骨子は、氏の案である、右の草稿など、今なお安田家に存して居 る、右の布達により、全国の各種税金は、各地の有力銀行が、日本銀行の代理店として、これを 取扱うこととなるに及んでは、これらの特典を受くる地方銀行を吸収することが緊要大切と為っ て来た、これよりして、荷くもこの特典を有する地方銀行から助勢を望み来るときは、氏は必ず 踏込んでこれを助け、これを自己と聯絡せしめ、その求めに依っては、これを自己の銀行に併合 することを努力した、しかし合併収拾は、此方《こなた》から強《し》いて求めたとて、行われ得るものでない、 ただ気永く根強く心懸けて、機会の至るごとに、これを取外さぬようにする他はない、氏は断え ざる努力の人であるから、年を逐うて機会あるごとに、これを実施することを怠らなかった、こ れが則ちまた能く大を成したる所以である。  また政府の方面では、逐年事務の整頓するに従い、官金の取扱い方も、ますますその制規が緻 密に行届いて来る、当初は何《いず》れの省も、一箇年の定額金を、一二回に大蔵省より受取りこれを用 達《ようたし》の銀行に、そのまま預け入れたものであった、これも元来は鷹揚過ぎる訳《わけ》で、各省の定額金は 一箇月分ずつ、毎月大蔵省、または日本銀行から受取って宜《よ》い筈である、総高を一時に受取り置 く必要は無い、故に年を逐うて政府の会計事務が整理すると共に、また各省定額金の渡され方が 改まると共に、預金の取扱い方も改革せらるるは当然のことである、故に当初善次郎氏が受け入 れを熱望せし官府の游金《ゆうきん》も、次第にその額を減ずるに至るべきは勿論である、然るに恰《あだか》も好《よ》し、 氏が一箇人としての堅実なる信用は、年と共に知れ渡り、官府以外の民間個人の預金が、非常に 増大して、数年の後には、各省の預金を仰がずとも、民間の預金のみにて、幾《ほとん》ど不足なきまでに その手許は充温した、これらの推移変遷は、氏の為めに誠に都合よく行った、則ち官府の預金を 吸集し得ざる時世には、民間の預金がこれに代って余りあるに至ったのである。 第二十二 本伝の十六 日本銀行理事辞退と賞与"地所の買入れ" 金融の迫塞"北海道為替方"松方伯及び毛 利公を招くh大木伯松方伯に招かる  金融界における善次郎氏の勢力範囲が、年を逐うて次第に拡張するに従い、諸般の事務、また 繁劇を加え、日本銀行の理事を勤続することは、到底不可能とたった、因って明治十七年十月十 三日、同行総裁に左の辞職願を差出した、卒然に引退する時は、後任者の選定などに、不都合を 来たすの倶《おそれ》ある為《た》め、本年十二月に退職すべき心算《しんさん》を、予《あらかじ》め申出で置いたのである。     辞 職 願                                   めいぜられ      あ勺がたく   拙者儀一昨十五年十月、日本銀行創立の際、大蔵卿閣下より、同行理事を被命、爾来難有   相勤め罷在候処自《まかりありそうろうところ》家に不得已《やむをえざる》事故出来、何分勤続|仕兼候《つかまつりかね》に付《つき》、甚だ自儘《じまま》の儀、恐縮   の至りに御座|候得共《そうらえども》、本年十二月三十日限り、御差免奉願上度《おんさしゆるしねがいあげたてまつりたく》、此段閣下より可然《しかるへく》上   申|奉願上候《ねがいあげたてまつり》也    日本銀行総裁  吉原重俊殿  右の如くして、翌年後は、一層自己の本業にその力を尽すべき見込であった。  この年、栃木県の新築庁舎開庁の式あり、氏は招かれてこれに臨み、なお同県下各地支店の巡 視をなせり、またこの年|本所横網町《ほんじよよこあみちよう》の新築落成して、祝宴を開き、第三、安田、両銀行及び第四 十五銀行杜員を招いて饗応する等のことあり、前《さ》きに緒《ちよ》を開きたる島根県の為替方用達《かわせかたようたし》の契約も、 この年に実行の運びとなり、更にその手が山陰にも伸びた訳である。 また本年には地所の価格割安なりし為めか、その買入れを始め、本町《ほんちよう》三丁目にて四箇所、室町《むろまち》 二丁目にて一箇所、小網町《こあみちよう》三丁目にて一箇所、都合六箇所の買入れを為した、この年はまた氏の 摩叶望嚇蹴の二+三回忌を営み、仏壇を改造し、一族親類を集め、心を尽したる仏事を営み、部 下の杜員及び出入りの者までに、葡舞を饗する等のことあり、また当年冬は、朝鮮事件に関し支 那との紛議を生じ、その為め人心甚だ穏かならず、銀貨の相場、俄かに騰貴して、一円四十五銭 となり、公債は俄かに下落して額面百円のもの、八十五円となる、しかしこれらの変動について、 その間にあまり多大の損益は無かったようである。  この年十二月二十九日、大蔵卿より日本銀行理事の依願免職の達しがあり、なお日本銀行総裁 より左の達しがあった。     こい             そうろうところ ほんこう             すくなからず   今般乞に依り理事解任候処、本行創立以来、尽力不勘候に付、慰労の為、目録の通贈与   致候也 日本銀行総裁 吉原重俊    安田善次郎殿  右の目録は金五百円たりし由。  要するに、この年の下半期は、世間の金融極めて逼迫《ひつばく》の様子で、氏は幾分の利益を得たにして も、その困難は一方《ひとかた》ならず、自己の金融上にも多大の苦心を為した、この頃は余は洋行中にて、 当時における日本の実情を知らぬからして、氏の手書《しゆしよ》せし当時の書類中より左の一節を抜抄《ぽつしよう》す るo   本年下半期、金融の景況は、七、八、九、十、の四筒月間は至って緩漫、利子も追々低落、   公債証書の抵当にて、同業中の貸借利子、年七分五厘より八分位までなり、また銀貨は一円   六銭位、米価は五円内外たり、然るに十月末より少しく繁忙を来たし、十一月初旬利子(抵   当附)九分より一割位なり。   十一月中旬頃より、日本銀行は東京割引手形の再割引を中止せられ、頓《とみ》に金融|塞迫《そくはく》し、同業   中の困難|甚《はなはだ》し、その他の利子も、一割二三分位に上《のほ》れり、而して諸株券の抵当、または信   用貸借、高利と難《いえと》も貸出す者なし、依って公債証書の相場は、七分利附九十三円位なりしも   のが追々下落するの傾きあり。   十二月初旬、朝鮮暴徒我が公使館を襲いたる旨|京城《けいじよう》より変報ありしより、銀米《ぎんべい》の価《あたい》、頓《とみ》に上   騰し、銀貨の如きは、一円十銭内外なりしものが、急に十五銭以上に上り、それより金融の   繁忙、従って急を告げ、大阪より、市場塞迫の報、比々《ひひ》として到る、一時公債証書を抵当と   なすも、借口《かりくち》なきが如し。   十二月二十日頃に至り、ますます銀米騰貴し、銀貨は一円四十五銭まで、米価は七円五六十   銭となる、時に諸取引所より、国税金の現送ありし為め、一時の融通ながら、右は第三銀行   に廻し、これを横浜支店に送り、洋銀と預合《あずけあい》をなして、多少の利益を得たるは、至極《しごく》の好都   合なりし。   十二月|月末《げつまつ》に至り、大阪第三銀行支店よりは、続々送金を請求ありしも、右の如く手元繁忙   なるが故に、心ならずもその望みに応せざりし、然るに三十一日に至り、是非共《ぜひとも》三万円の電《でん》   為替《かわせ》ありたしと、請求し来るも、最早《もはや》何方《いずかた》にも組む先きなし、依って日本銀行に至り、総裁   に依頼し、二万円を至急電為替にて取組みたり。  右の記録に依るときは、氏は折々小利益を得たりしも、資金繰廻しの上には、随分苦心したよ うである、ただ日本銀行と云える中央勢力からの援助ありし為め、非常の利便ありしは、この書 類にても推察L得られる。  越えて十八年となり、財界はやや常態に復しかけ、春晩《しゆんばん》には既に日清両国の間に和議成りて、 世間も平穏に復した、この年は右の外には、氏に取りて、さしたる波瀾もたく、極めて平穏なる 歩調を以て、徐々として発達を遂《と》ぐる有様であった、この春桜花満開の好季節には、父を奉じ夫 人を伴い、上野、王子の観桜などに、楽しき歳月を送りつつあった、概して十八年は世間も無事、 財界も平調、何の奇もたかった。  明治十九年には、北海道庁の現金取扱方を命ぜられた、同方面の金融の大半を掌握するの計画 が、漸《ようや》くその端を開いた、しかしこの年栃木県にては、地方税金の取扱いを免ぜられ、これを他 の銀行に移されたが、国税その他大部分の金融機関は、なお氏の手に留存して居た。  この頃における氏の杜会上の地位を知る為め、当時はいかなる人々と、いかなる往来交際を為 しつつありしかを見るも、また必要である、前きに横網町の新築落成せしを祝するの意味ならん か、この年五月には、その邸に松方《まつかた》大蔵大臣及び郷《ごう》次官|松尾出納《まつおすいとう》局長等数名を招いて饗宴を設け、 余興には広川たかの一連、芳町《よしちよう》芸者の手踊などがあった。  また六月には、長州の旧藩主毛利従二位(元徳《もとのり》)及び奥方、若奥方、家扶《かふ》、家従及び女中八九 名を新宅に招き饗応した、余興には野呂松《のろまつ》人形、堅田《かただ》連の余興など、歓を尽して夜十一時頃ま でも遊び興じた、この日は天気晴朗なりし為め、邸内の池にて釣魚《ちようぎよ》の慰みなども為したそうであ る。  また桜花の頃には、当時有名の老|詩客等《しかくら》五六人を招いて饗応した、その人々には岡本|黄石《こうせき》(七 十六)小野湖山(七士二)大沼|枕山《ちんざん》(七+)森|春濤《しゆんとら》(七+一)櫨松塘《すずきしようとう》(六士二)向山黄村《むこうやまこうそん》(六+一) |重野安繹《しげのあんえき》(六+一)浜村|大溜《だいかい》(六十一)等にて余興には狂言などあり、深更まで遊び興じた。  この年は、諸方からも招待を受けたが、その中の主なものは、松方大蔵大臣に招かれたことで、 本人のその時の手記を左に抄録する。   六月十九日、午後六時より、三田《みた》松方侯に招かる、相客は武井守正《たけいもりまさ》、小林|年保《としやす》にて、余興に   は円朝の昔話、琴曲等にて十一時半退散した、この日は天気晴朗にして、主人公の先導にて、   庭園中を造《しようよ》遙するに、新《う》樹|欝蒼《うつそう》、池水澄明、酒掃《せいそう》の行届きたること、広馬場《ひろぱぱ》の結構、花園の   美麗等、愉快千万なり。 とあり、右は蓋《けだ》し松方伯から答礼の招宴と見ゆ、氏を主客として、相客を氏と親交ある武井、小 林の両人に限りたるを見ても察せらる。  またその外に、元老院議長大木伯からの招きも受けて居る、その日記を抄録すれば左の如し。   六月二十四日、午後五時より、大木元老院議長の招きに応じ、房《ふさ》(夫人)暉《てる》(女子)善四郎を   伴い、巴町《ともえちよう》の別荘に伺候す、同所には御主人、並びに相伴《しようぼん》の蒲原《かんばら》福岡の両氏と、碑《ひ》数名待   受けられ、庭園中を御案内にて、広間奥二階において、茶菓《さか》を供せらる、二階を出づれば平   地にて四季の草花を植え、桜紅葉の大樹欝蒼として、四方の眺め、何れも趣を異にし、東方   は愛宕山《あたごやま》を望み、遠くは国府台《こうのだい》に対し、近くは京橋区、深川区を眼下に見る、北方は日本橋   区、浅草寺《せんそうじ》、本願寺の屹立《きつりつ》、三井、第一銀行の高塔、市中は雲霞《うんか》の如!、、近くは御域内、参   謀本部、永田町《ながたちよう》を見る、西方|麻布《あざぶ》一円を見て、高く芙蓉峰《ふようほう》に対す、南方|品海《ひんかい》より、入港の船   艦は手に取る如く見え、愉快極まりなし、樹間《このま》の涼風、暑気を忘れ、知らず知らず歩《あゆみ》を進め   て、黄昏《たそがれ》に至れば、永田町の御本邸に御誘引あり、たお右本館庭園を拝観して、奥の広座敷   にて御酒宴あり、令嬢三名の琴曲、帰天斎正一《きてんさいしよういち》の手品等ありて、奥方始め、御賢息等の御酌、   最も鄭重《ていちよう》なり、深更一時に退散せり。  右大木伯は長く司法卿たりしこと、人の知る所にて、伯の時代に善次郎氏は、為替御用達とし て旧誼ある間柄故、かかる饗応も受けたものと見ゆ、しかし同伯の司法省在任中には、氏は伯の 邸に多く出入せしことを見ず、但し同省の書記官及び会計係の人々には、当事者として往来親交 ありしが如し。  前に記せし松方伯の饗宴の時に、相客たりし武井守正氏のことに付き記し置くべきことあり、 氏は少年にして勤王論を唱え、五六年の間投獄せられ、維新の際に始めて獄を出で、或は県知事 となり、或は省の書記官、局長となり、後年男爵を授けられ、今は枢密顧問官たること、人の知 る所なるが、氏は善次郎氏と長く親交ありし一人にて、氏のことを詳知せり、今日に生存せる氏 の知人中にて交《まじわり》の最も古きは、蓋しこの人なるべし、石黒況翁《いしくろきようおう》氏もまた永年の交りながら、武 井氏よりは近きやに思わる、武井氏が善次郎氏と知合となりしは茶の湯からの由にて、明治八年 頃湯島に茶の師匠あり、そこにて折々落合いたるが懇意の始まりたる由、その後善次郎氏が、農 商務省の為替方たりし時、武井氏もまた同省に在りし為め、親交の機会も多く、また同氏は山林 局長たりし時、洋行を命ぜられたが、その折善次郎氏は同氏に向い、欧州事業界視察の土産《みゃげ》話を 持帰りくれよと懇嘱《こんしよく》せし由にて、武井氏が帰朝の時(十五六年頃かと覚ゆ)善次郎氏は予期した る土産話を所望した、その時武井氏は見聞中の所感を語ること左の如くなりし由。 第二十三 本伝の十七 保険、金融、運送11三菱の先鞭"日本保険 業の始め"三業経営の端緒"浜町大地面の 買入れ"上州出張11前田侯の招宴 武井氏は視察に因りて得た所の感想を、大要下の如く語った。  欧州にて英国は最富の国ながら、専ら貿易にて国を立て居り、我国の俄かに摸倣《もほう》し難《がた》き国情  がある、むしろ仏国などを摸範とするが宜いかも知れぬ、仏国について云えば、  仏国は、その面積、人口、やや日本と同様でありながら、その富は非常に我が国より優れて  居る、右には無論種々の原因があるけれども、生産物に対する諸機関が能く整備して居るこ とも、櫨《たし》かにその主なる一因である、例せばここに一,の林産物を製出するとせん乎《か》、直ぐ金  が製造者の手に入る仕組にたって居る、従って彼等は直ぐその後の仕入製作に取掛ることが  出来る、日本における如く製品は出来ても、金が手に入らずして長く困ると云うようなこと  が少ない、その仔細は彼等は製品を担保として借入金を為し金融を得るの道があるからであ   る、而して金融業者が彼等に向ってかく容易《たやす》く貸出す所以は、その製品に直ぐ保険が附いて   居るからである、則ち一方では保険業が発達して製品に保険を附くる為め、金融業者も安心   して貸出が出来る、その他運輸の便は海陸共にょく開けて居るからして、運賃も低廉なるこ   と我が国などの比でない、で一口に言えば第一には保険業の発達、第二には金融業の敏活、   第三には運送業の行届きたるに因るものと察せられる、故に日本の如きも生産者に向って、   これらの便宜を悉《ことごと》く与えなければ、到底国を富ますことは覚束《おぽつか》ない。 との趣きであった、善次郎氏はこの時から、保険業と金融業と運送業とは、相待って発達せねば ならぬ理由を会得したようである、而して将来はその財力を、この三方面に発達せしむるのが順 序であると云う考えを起し、なおその後も、種々の方面から、欧州諸国の致富の方法を聞知《ぶんち》して、 ますますこの考えを強めたようである、右三者の中にて、金融業は已《すで》にその身が銀行家として経 営しつつある、これに次いで力を致すべきは、保険業と運送業等とであると思考した、これが則 ち後年に至り、氏が汽船会杜等に巨額の援助を与え、出資をなした根源と為って居る。  氏はまた生命と火災と海上と物品との四種の保険が、世に欠ぐべからざること、及びその事業 は、必然盛大とたるべき者たることをば、この頃より巳に理会し得たが、これらの保険会杜なる ものが、世上の金を吸集して、世上余金を貯うべき一大沼沢になることまでは、未だ考え及ばた かったかも知れぬ、右の如く氏が、保険運送の二方面に発展しようと企てを起せしとき、我が国 には、既に先鞭を着けて居た者のあることに気付いたであろう、これより先き我が財界に、三菱 杜たるものが堀起《くつき》した、三菱は人の知る如く、元海運を根拠として起ったものであるから、その 業務の必要上より、先ず海上保険が、我が国にこれなき欠点を痛切に感じた訳である、また多数 の海員社員を使用する処から、生命保険の必要をも悟り得た、右に関聯して火災保険の必要をも 覚知した、これは当然の成行きである上に、その頃の政府当局者は、火災、海上両保険について、 |已《すで》に取調べを為し、これが実行を民間に望み、幾分の補助すら支出するの決心を示したほどであ るから、海上保険は第一に着手せられたのである。  また、我が国にて生命保険業の始祖とも称すべき今の明治生命保険会杜は、元三菱社と深き縁 故ありて、出現発達したものである、余はほぽ当時のことを知って居る、明治十三四年の頃と覚 ゆ、荘田平五郎《しようだへいごろう》氏(後に同杜の大黒柱と称せられし人)等は、三菱の杜員船員等幾千人が死亡の 場合に、その遺族の扶助をなす為め、積金《っみきん》をたさしむるの必要を感じて来たが、本人等と三菱杜 の積立金だけでは、到底十分には行い得られぬ、依って欧米の大船舶会杜の、社員船員等のこと を調べて見ると、生命保険会社なるものが有って、これに掛金を為さしむることになって居る、 そこで日本にも生命保険会杜を起させ、一」れと聯絡を取るが良策であると考えた、が当時保険な るものの性質を知る者は、世上に皆無である、故に最初から多数の加入者を得ることは容易でた い、されば保険会杜が出来ても、最初の幾年間は損失続きで、或は成立し得ず、そのままに倒れ るかも知れぬのである、然る処、ここに三菱の多数の社員船員等を、差向きこれに加入せしむる とすれば、最初から相応な申込人が得られる訳である、先ずこれを基礎として、世間を勧誘すれ ば、申込人も漸次に増加し、大抵成立し得べしとの見込を立てた、その頃|阿部泰造《あべたいぞう》氏が、官を罷《や》 めて閑地に在ったから、荘田氏等は保険会杜創立のことを挙げて、同氏に託した訳である、阿部 氏は手堅き緻密の人であり、英書にも通暁せるより、この事業には最適任者であった、しかし我 が国には、まだ統計など絶無であったからして、氏は先ず欧米諸国の保険会杜の統計を基礎とし、 これを折哀して、営業方針を定め、いよいよ会社が成立したのは明治十四年であったと覚える、 尤も福沢先生を始め、小幡篤次郎《おぱたとくじろう》氏なども、最初からその相談を受け、非常にこの挙を賛成であ ったから、慶応義塾に縁故ある多数の人々は、皆申込をなすに至った、余の如きもまた、最初の 申込仲間の一人であった、日本に始めて生れた生命保険会杜も、かくして当初より何等の損失を 蒙らずして順調に発達することが出来た、元来保険事業は、早晩我が国に発達すべき筈のもので はあったが、かく早く実際に生れ出て、順調にその模範を示したのは、全く荘田氏阿部氏及び三 菱杜の尽力が、多きに居《お》ると言っても誕言《ぶげん》ではないと考える。  これより先き善次郎氏は、成島柳北、子安|峻《しゆん》等の諸氏と共に五百名杜《ごひやくめいしゃ》次る者を設けたことは、 前にも記したが、右は杜員死亡の時に、その遺族を救う手当を、組合の掛金から支出する仕組の もので、生命保険に類似の性質を有して居た、もし右の組合中に、欧米の新知識を有する人があ ったならば、早く正式の保険会杜となったであろうに、当時はただ無尽講の掛金の如く、組合の 掛金を以て会員を救うごく単純なる仕組であって、未だこれを生命保険と称するを得ぬ、しかし 元来生命保険の性質を有する組合であったからして、我が国に生命保険の事業が発達するに従い、 後にこの五百名杜も、正式の保険会社となった、しかしこれはずっと後年のことである。  右の如く運送と云い、海上保険と云い、生命保険と云い、我が国には既に先鞭を着けた者があ ったからして、これらのことに向っての善次郎氏の発展は、甚だ遅徐であった、しかし三者を発 展せしむる氏の初志は、生涯変らずして、後に記する如く、三菱一派より別に、海上保険をも、 生命保険をも、火災保険をも、その手で成立せしむるのみならず、東洋汽船会社の如き海運業に まで、大なる助力を与うるに至ったのである、氏が後年これらの事業にその手を伸ばすの端緒は、 既にこの頃より開らけたのである、右の次第をここに記し置くのは、後年の氏の事業を見る為め に必要のことと考える。  さて明治十九年頃において、氏の行動に注意すべきは、地面の買入れを為したことである、こ の年、日本橋区|浜町三《はまちよう》丁目一番地の地所を買入れた、これは薩州島津家の旧邸で、日本橋区内で は目星しき大地面である、これを買入るるに至った手順は、その頃の大蔵大臣松方伯の口入れに 依るもので、かかる大地面を買入るるを得た欣《よろこ》びとして、そのことに奔走した、富田鉄之助、天 野《あまの》仙輔、島津家|家扶《らふ》竹宮某等へそれぞれ祝酒など贈与し九程である、玄た安田銀行半期勘定の定 日なる七月三日において、同行の利益金配当の祝宴と共に、浜町地所買入れの祝を兼ね、家族一 同杜員出入りの者等百六十余名に、反物《たんもの》を配り祝宴を開いた、この地面は今の安田家の主なる所 有地の一に数えられ、世間からは、数百万円の価格を付せられて居るものである、この年は先年 横浜通いの小汽船中にて、遭難した丁稚《でつち》平吉の、十七回忌に当るので、懇ろに供養を営み、墓参 たど残る所なく済ませた、この年夏は、虎列刺《これら》の大流行あり、氏の隣家太田万吉宅にも病人を生 ぜし為め、悪疫と暑気を避けんとて、氏は父及び妻子と共に、上州塩原方面に旅行した、然るに 塩原は遊客充満せる為め、俄かに栃木の親知なる鈴木某の居村、奈良部《ならぶ》に遊ぶことと為った、右 の鈴木某は、先年|人蓼《にんじん》の売買を共にせし人にて、爾来多年の懇意である、その家は地方の豪農に して、この時には恰も新築の家屋落成して、氏等が止宿するには恰好の設備ありし由、氏の手記 せる当時の遊記の一節を抄録すれば左の如し。   八月二十日午後、主人の好意にて、近処の黒川《くろかわ》に鮎《あゆ》漁を催さる、臨んでこれを観るに、鈴木   家東北の方を屈曲する黒川は、常には小流の清水あり、京都鴨河の如くなるも、出水のとき   は、幅四五町の大河とたり、下奈良部村に接して、思川《おもいがわ》となり、栗橋の上流にて、利根川と   なると云う、この黒川の上流を渡れば、その向うに小屋を設け、天幕《てんと》を以て日蔽いとし、こ   れに一同休息して、見物をなすの都合なり、漁者数人|投網《とあみ》を以て、魚を一処に駆り集め、而   して上下を瀬切って、これを手捕りになし、または手鍵を以てこれを引懸け、手網にて捕う   る等鮎の多数を得たり、小児《どども》等は足に草鞍《わらじ》を穿《うか》ち、小流を上下奔走して、漁者の得たる小魚   を受け次ぎ、または小魚一尾を追い歩るくあり、小石に蹟《つまず》き泣出すもあり、笑うもあり、   種々様々の状態を、老父と共に快よく笑覧し、思わず盃を傾けたり云々。  この地に七八旦逗留し、なおそれより同県下の支店などを巡視し、八月二十六日、日光に赴く、 既に打合せ置きたりと見え、輪王寺住職|彦阪湛厚《ひこさかたんこう》上人は、同処に待受け、山内の藤本院にて饗応 す、庭園|酒掃《しやそう》、屋内の修理、道路の修繕等まで頗る行届き、上人自ら指揮せるものの由にて、氏 をここに逗留せしむるの設けである、この時は蓋し輪王寺との相談にて、氏の別荘をこの辺に建 築するの企てがあったので、宇都宮より然るべき大工を呼寄せ、家屋の絵図面等を調製した、こ の月三十日、外山《とやま》に登った記事がある、同地は頗る絶景らしく、その遊記の一節左の如し。   八月三十日午前八時頃より、一同歩行にて、外山に行く、本日は快晴にして、四方《よも》の絶景を   見て、老父を始め、愉快極まりたし、頂上にて用意の弁当を喫し、緩々《ゆるゆる》下山せり、この山は   寓所《ぐうしよ》より稲荷川を隔てて、およそ十町ばかり行き、直立の瞼岨《けんそ》を登ること、およそ七八町、   ちゆうはん  きりふりのたき                   なかんずく  いまいち   中坂にして北に霧降滝を見る、頂上よりの遠景は第一の眺めと云うべし、就中東南には今市   辺の平野等五七里の間、瞳中に入り、大谷川《 おおやがわ》の流れは白蛇の横行するが如し云々。  九月には日光を出て、塩原に帰り、九月十八日帰京す、最初は二十一日間くらいの旅行の見込 なりしに、塩原の入浴が、父善悦氏の意に叶《かな》いたると、東京の悪疫がなお流行し居《お》る為め、三十 余日を経て帰京せり。  この年初冬、演劇改良相談会の催しあり、渋沢栄一、川田小一郎、西村虎四郎、伊集院《いじゆういん》兼常、 千葉勝五郎、大倉喜八郎、岩崎弥之助、益田《ますだ》孝、原六郎、及び善次郎氏の十名を発起人とし、学 者連の福地源一郎、末松|謙澄《けんちよう》、穂積陳重の諸氏、専らこれに当る企てである、なおこの会は一二 度開らかれたが、遂に成立を見るに至らなかった、氏は右様の企てが、平素の業務と性質を異に し居《お》る為め、出金難儀なりとの理由にて、末松氏の勧誘を断ったのである、事業上についてこの 年は、目立つほどのことはないが、釧路の硫黄山を引受くるの相談がいよいよ熟した、この山は 元と山田某の経営に係り、安田系より貸付を為せしに過ぎたかったが、業務の不振にして貸金の 回収困難に陥りし為め、氏が個人としてこれを引受け、遂に踏込んで経営することとなったので ある。  またこの年冬、両毛鉄道建設の発起人会に臨席してその議に与《あずか》った。  また年末には、有栖川家の依頼により、宮家の所有地を抵当として金員を用立てた。  十二月に至り、旧加賀藩主の前田家からその所有地なる深川の鴨堀に招かれた、前田家におい ても、今や氏を鄭重に待遇する有様となって来た、その状《さま》を知らしむる為め、同日に関する自筆 日記の一節を左に録す。   十二月十九日、老生今暁八時より、深川|小田新田《おだしんでん》の加州侯の御控邸において、鴨狩の御催し   の御招待を受け、生、善四郎、善助、善郎《ぜんろう》、政定《まささだ》、の五名参候す、該控邸は、洲崎新田《すさきしんでん》より   五七町にて、八万坪ばかりの新田、一郭の中に鴨堀あり、邸守を久徳猶行《ひさとくなおゆき》氏とす、本日は天   気清朗にして、家令村井氏を始め、早川|隆正《たかまさ》、辻四郎、小川|多賀《たか》、太田|久徳《ひさのり》等の諸氏待受け   らる、生等五名は、洋服着用臨場、鷹匠鳥目《たかじようとりめ》等奔走し、直ちに引堀に臨む、一番より七番ま   でにして、就中三、四、五の三箇堀を重《おも》とす、着手の初めに、善四郎二羽を汲む、続いて政   定一羽、午後三時頃に、生一羽を汲む、午後二時頃、主公来場あり、園中の堀にて猟せる鯉   鴨等を料理して、野立《のだち》の昼飯を喫す、三時過ぎ主公と共に酒菓の餐応あり、夕五時頃まで、   四十七羽を猟す、終って平清《ひらせい》に臨み、晩食の宴会あり、主公は直ちに帰邸せられたり。   この日天気晴朗にして、何れも未曽有の愉快をなせり、主公を始め、接待の諸氏と共に、手   網を以て東西を奔走し、または海岸の堤上を遣遙して、養騒場《ようへつじよう》を見物す、十分に運動して、   手料理の酒飯を喫す、その美味筆紙に尽し難し、各自十分の愉快を極め、八時半帰宅す、鴨   二十七羽、小鴨七羽、を持帰る、小鴨は主公手猟の分なり。  氏の地位が年を逐うて進むに従い、到る処杜会上流の人々より厚遇を受くるの有様かくの如し、 殊に維新前には、氏は支藩富山の下士にして、その藩の上役人にも土下坐をなしたる身分たれば、 御本家と仰がるる百万石前田家の殿様には、御目見えすらなかなか叶わざりし者が、今やその老 公より、かかる厚遇を受くることは、氏は勿論のこと、父善悦氏などはいかばかりか喜ばしかり しならん、氏が帰宅して、父に対するこの日の物語は、さぞかしと思いやらるるなり。  前に記した北海道釧路の硫黄山の経営は、この年から始まり、これより以後連年資本を注込む こととなれり、この山は本来豊富なる硫黄量を有し、後年盛んに産出せしときは、その年額約百 万円にも近づく程で、日本にては有数の硫黄山の中に数えらるるに至った、またその経営規模も 次第に拡大し、新式の精錬機械を裾付け、輸送の鉄道を築造するに至った、またこの山と関聯し て、釧路に炭坑を開き、これまた相応の繁昌を見るに至った、元来硫黄に対する内地の需要は素《も》 と限りあるもの故、産出の目的は、専ら海外輸出に在ったが、世界にて本産地と称せらるる伊太《イタ》 利の産額も、この頃は相応に増加し、世界の市場における硫黄の相場は、余り振わざること年あ り、その為め釧路にてもその製品の売惜しみをなし、非常なる荷嵩《にがさ》みとなり、常人ならば已に経 営困難に陥り、或は中途に蹉跣《さてつ》して起つ能《あた》わざりしならんが、そこはさすがに有力にして且つ飽 くまで辛抱強き善次郎氏のこととて、容易に在荷を売放たず、ますます産出を続けたものである、 かく歳月を経る中に、遂に相場も立直り、相応の利潤を以て、その在荷を売抜くことを得たので ある、この山の経営は通じて、数箇年の永きに亘ったが、これを概評すれば多大の利益を得たと は言えぬ、しかし後年この山を片付くるまでを概括すれば、差引き多少の利益は残ったものと評 して宜い、但し常人ならば夙《つと》に失敗し居たに相違ない、氏がその本務の銀行業以外、他の生産事 業に自ら手を下せしは、蓋しこの硫黄山が最初であったようである。 第二十四 本伝の十八 不幸なる年11良き子あれば一人にて可なり 11盛大の葬儀11居喪11哀歌  さて明治二十年と為《な》ったが、この年は氏の生涯における不孝なる年の一つであった、前記せる 如く、親父善悦氏は、昨年中頃まで機嫌よく、各地の遊覧などを為しつつあったが、去る十一月 頃より、身体に違和を感じ始めた、越えてこの年に至り、初めはさほどのこととも見えなかった が、二三月に至り甚だ面白からざる容態と為った、その病症は明らかならねど、横隔膜に患処を 生じたものらしい、しかし病勢はなお一進一退であった、ここにおいてか善次郎氏は、その父を 別荘なる奥の中二階に引移らせ、治療の手当も等閉《とうかん》ならず、主治医には当時著名なりし大医池田 謙斎氏を聰《へい》したが、本人善悦氏は昔風の人とて、漢法医を喜ぶ等の事情もあったと見え、漢法の 大家と称せられた浅田|宗伯《そうはく》老をも参加せしめた、かくして種々に手を尽せし甲斐もなく、衰弱日 に加わり、遂に身体に水腫《すいしゆ》を来し、三月十六日さまで苦痛の体もなく、穏かに睡るが如く遠逝し た、享年七十四歳であった、この人はその生前において、我が子の異常なる出世に逢い、家運の 日に隆々として栄え行く有様を目撃し、且つ自分は楽隠居として、何一つも不自由を感ずること とても無く、また郷里富山と東京とにおける親戚故旧は、我が子の援助に依って、皆それそれそ の処を得ざるものなく、その恩恵は彼等総体に行渡り、郷里の知人は勿論、世上に対しての面目 を全うし、毫も思い残す所なき身分と為って居た、またこの時は善次郎氏にも既に五子あり、ま た氏の妹なるつね子(太田弥五郎の妻)にも既に六|子《り》あり、またその妹|丈子《ふみこ》(井上|兵蔵《ひようぞう》の妻)に も四子あり、またその末の妹せい子(忠兵衛の妻)にも三子あり、孫児の数は総べて十八人とな      につせき               だんφん り、彼等は日夕祖父を訪ねてその膝下に遊戯し、一家団簗はまた格別であった、内外ともに実に 仕合せの人と云うて宜い。  伊藤博文公は重蔵《じゆうぞう》翁の一人息子で、翁にはその他の子女が無かったが、翁は折々人に向って 「子は多く持つには及ばぬ、博女のようなのが一人あれば沢山だ」と言って自慢しつつありし由 なるが、善悦氏も蓋《けだ》しまた同様で、その胸中には定めて「男子は善次郎のようた者が一人あれば 沢山なり」と誇って居たに相違ない、蓋し善次郎氏は実にただ一人の男子であった。  早く家を興し名を揚げた善次郎氏は、父の東京移住以来、十三年のその間、心の及ぶ限り、手 の届く限りの孝養を尽し、世の中の早く父母を失って後|富貴《ふうき》となりし人々をして、深く羨ましむ るに足るほどの仕合せ者であった、さて、今や父を失いし歎きは、これを察するに難からぬ、氏 が平生何事をも質素にするに拘らず、父の葬儀だけは非常に盛大にこれを営んだ、蓋し亡父の最 後を飾る孝養の一つと思うたからであろう、三月二十日にその葬儀を執行したが、筍くも当時朝 野の名を知らるるほどの人にして、氏に交際なき者は無い程であり、特に財界の重鎮として崇敬 されしこと故、この方面の人々は尚更のこと、弔問会葬者の盛んなる、実に驚くばかりであった、 この時の記録が下の通りである、「葬式当日は前日より引続いたる晴天にて、早朝より出棺の用 意をなす、先ず表門の内両側に、到来の生花《せいか》を三尺ごとに置き並ぶ、その数、百二十四|対《つい》及び造 花三十四|対《っい》合計百五十八|対《つい》であった、菩提所は浅草|清島町《きよしまちよう》の聞成寺《もんじようじ》である、当寺は余り大寺でな いからして、幾《ほとん》ど会葬者を以て填充《てんじゆう》され、近来珍らしき盛儀であった云々」と。  氏は七日の間、沈思黙坐して喪に服し外出もせず、非常緊要のことにあらざる以上、来客は一 切謝絶し、日々墓参するのみであった、この時返礼の配り物を為せし数は、五百軒以上なりしと 云う、また四月には亡父の形見分けをなし、永年父に侍して介抱せし女中等に対し、その労を謝 する為め、中には千円を贈り与えた者などもある、かくして残る所なく葬事を終えたが、この春 は氏に取りて、誠に心淋しき年であったと見ゆ、今存して居る氏の書類の中に、この年庭中の桜 花に対する左の自詠二首が記されてある、その一つに、   物思ふ涙にそらや曇るらん       おぽろに見ゆる庭の初花  また、   長閑《のどか》なる春の日影はてらせども       袖のしぐれははれむともせず なおその次に医師|桑田《くわだ》某より贈りし歌が記されてある。  鳥辺野《とりべの》の煙を空に見送りて      雲の行衛やたほしたふらん また氏が花の頃墓参の帰途に、上野の桜の下を過ぎしとて左の自詠あり。  花もみな浮世のいろと眺むれば      なほあぢきなき我が身なりけり 第二十五 本伝の十九 東本願寺と高野詣"歓迎を競う11製麻事業 の端緒"雲竜出没法  二十年五月、氏は亡父の遺命に従い、その歯骨《しとつ》を奉じて京都東本願寺の東大谷《ひかしおおたに》に納め、また高 野山《こうやさん》に常明燈二箇を奉納する為め京畿に向って出発した、同行は夫人(房子)子女(暉子《てるこ》善之 助)その他随員|僕碑《ぽくひ》とも主従合せて八名なりき。  先ず京都に至り、東本願寺に詣で、東大谷に納骨の手続を為した、それより奈良を経て長谷《はせ》に 出で、吉野山を経て高野山に登り、常明燈を納むる手続を終え、金員を寄附し、同寺の宝物など を一覧した、それより紀州に出ることとし、川舟にて紀の河を下り、真田幸村《さなだゆきむら》の旧蹟|九度山《くどさん》など を見て和歌山に出で、和歌浦を巡覧して大阪に着した。  神戸より海路を取って九州を巡視することとし(家族はここより帰京せしめた)、神戸より発 して先ず小倉《こくら》に上陸し、門司の新港を巡覧し、兼ねて関係ある埋立地などを一覧した、それより 引返してまた海路|宇品《うじな》を巡視した、当時はこの湊《みなと》の新築漸く成りし時にして、その視察には多少 の意味があったようである、なおそれより広島をも視察し、厳島《いつくしま》神社に参詣し、呉《くれ》港に立寄り、 |尾道《おのみち》を視察して多度津《たどつ》に渡り、金刀比羅宮《ことひらぐう》に参詣し、神戸に帰り大阪に入り、また西京に赴き、 岐阜を経て帰京した、岐阜にては同地の第十六銀行|頭取《とうどり》渡辺|甚吉《じんきち》と兼約ありて同氏を訪問せしに、 名古屋第四十六銀行重役等が来訪して、是非とも名古屋に一泊を請いしが、日程の変じ難きを以 て同地に赴くこと能わず、ここにおいて渡辺氏の第十六銀行と、.右の第四十六銀行との間に引張 凧《ひつばりだこ》の姿となりしが、遂に双方の名を以て岐阜の酒楼に饗応することとたり、互に歓を尽して別れ た、今や氏が各地到る所にて歓迎を受くるの有様は右の如くである。  この年、政府は海防費に充《あ》つる為め、富豪及び有志者の金員献上を窓漁《しようよう》する所あり、善次郎氏 もまた一万円を寄附した(その賞としてこの年秋|従《じゆ》六位に叙せられ黄綬章《こうじゆしよう》を下賜せらる。  この年、事業上においては、大分県中津の第七十八国立銀行を買収して、その名称のままにこ れを営業せり(この銀行は後年八王子銀行に売渡したり)。  これより先、氏が関西に旅行するや、大阪にて麻糸紡績のことに付き、助勢を懇請するものあ り、調査の結果、始めてこの事業の経営は相応の利益あるべき者たることを知った、今日我が国 にて、麻糸紡績会杜中の一大会杜と称せらるる帝国製麻会杜の発達は、その端をこの時に発した ものである、なお氏はこの時と前後して、栃木における製麻事業を企つる事業家等の相談を受け、 その援助を企てた、かくして我が国の製麻事業は、善次郎氏の助力に依って、始めて発達の端を 開いた。  明治二十一年、朝野上流の人々の間に帝国ホテルを建築するの企てあり、我が国も年を逐って 外客の来遊ますます増加するに従い、これまでの如く精養軒と一二の旅館のみにては、到底これ を収容する能《あた》わずして、その不便少からざるが為め、東京の有力なる富豪連の力を借り、株式組 織を以て一大ホテルを建築せば、帝都の体面上甚だ宜しかるべしとの議が生じ、有力なる実業家 を発起人とするに至り、氏もまた発起人に加入した。  この年水戸鉄道の建設を企つる者あり、氏に援助を請い来りし為め、これに加入してその創立 に従事した。  また両毛鉄道創立の企てあり、これにも懇請せられて、その力を貸すこととなった。  氏が正戦には第三銀行を用い、奇戦には安田銀行を用うることは、前に記した所であるが、こ の頃においても両者の働きが、おのおのその方面を異にし居《お》ることは、頗る注意すべきである、 氏が第三銀行の外に、自分一手で、縦横自在に振廻わし得る安田銀行なるものを控えて居ったこ とは、氏の商略に非常の便宜を与えつつあることを忘れてはたらぬ、これがまた氏の発展に大た る助けをなしたのである。  余の知人なりし秋山|恒太郎《つねたろう》氏(維新後は太政官及び丈部省の高等官となり、また地方の学校長 など歴任したが、今は已に物故した)は慶応義塾の出身である、氏は越後に生れ少年の頃に、勤 王撰夷論の盛んなるを見て、郷里を飛出し、京畿《けいき》に流浪して、志士と往来し、阪本竜馬に愛せら れて、常に親しくその許《もと》に出入して居った人である、同氏の話に、阪本は時々氏に向って「英雄 の世に処するは、須《すべから》く雲竜出没法を学ぶべきである、彼《か》の竜なる霊物は、常に雲霧を帯びて行 動する、東雲に首を現わすかと思えば、西雲に尾を現わす、右辺に肢《し》を現わすかと思えば、左辺 に脚《きやく》を現わす、変幻出没、人をして端侃《たんげい》する能わざらしむ、これ竜の竜たる所以である、もし彼 をしてその全身を露呈せしめ、人をして大小長短を見透さしめなば、竜の霊はたちまちここに失 われて、何人もこれを畏れぬであろう、英雄は常にこの心掛なかるべからず」と語り聞かされた と云う、いかにも、単身を以て海援隊を起し、或は京都|緒紳《しんしん》の間に来往し、或は木戸西郷を握手 せしめて、薩長の連合を策し、天下の大勢を一変せしむるなど、この話が能く阪本の行動を表明 して居る、善次郎氏が安田銀行を擁して、我が財界に臨める行動も、やや阪本の雲竜出没法に髪 |髭《ふつ》たる所がある、何となれば、安田銀行は彼の独有である、人をしてその虚実を窺い得ざらしむ ることが出来る、唇えば雲霧を帯ぶるが如きである、当時安田氏の実力は、世人が想像せしより も、実際或は寡少であったかも知れぬ、然るに財界において、氏が人に畏敬せられし所以は、そ の全力が測り知られぬ処に在る、則ちその深さの測られぬ処に彼の重味もあり、彼の信用も生ず るのである、もし竜をしてその全体を露呈せしめ、彼の金力を明示せしめたたらば、世人は案外 あれ程には畏敬しなかったかも知れぬ。 第二十六 本伝の二十 東京電燈会社の救済"雪団の浪転"囲碁、 茶会、謡曲、乗馬"茶会の記  さて明治二十一年より二十四年までのことを概叙すれば左の通りである、明治二十二年に氏は、 東京電燈会社の破綻に瀕するを救済する企てを始めた、同杜は東京全市の過半に亘る電燈供給の 権利を有し、且つその業務は最も安全確実の性質を帯びて居る、もしその経営が宜しきを得たば、 この特権を利用して、相応の利益を挙げ得べき筈でありながら、当時その営業甚だ拙かりしと見 え、損失は頻年相継ぎ、已にその資力を澗渇し尽して、幾ど蹉跣《さてつ》の危機に瀕した為め、氏に向っ てその援助を求めて来た、氏はこの事業が、将来必ず有望なるべきを看破して、大いにその力を 同杜の回復に尽すことを決心した、当時同社の株式は、勿論払込以下に下落し居りしゆえ、氏は 手を廻して先ず相応の株数を買入れた、その高は未だ同杜を左右するまでの過半数には至らざり しも、已に重要なる勢力と為った、ここにおいて同杜は氏の説を容れ、杜務調査委員若干名を設 けて、氏をその主脳と仰ぎ、調査を開始することとなり、この年より引継き両三年間、氏の力は 大いにこの方面に傾注された、氏が助力の甲斐ありて、同杜の事業も漸次に有利となり、その株 式市価も回復するに至った。  右の外この年には新たに着手した業務は無かりしも、氏の本務たる銀行業は、年と与《とも》にますま す発達して来た、前《さき》に記したる明治十五六年より既に八九年を経過したが、その間も極めて順調 に発達膨脹し、その勢力はますます増大して来た、その状《さま》を形容すれば、恰《あだか》も雪中に雪団《ゆきだま》を浪転《こんてん》 せしむると同様で、従って濠転すれば、従ってその嵩《かさ》を増加し、初めは拳《けん》大のものも、遂には巨 諾《きよがん》の如く、また巨屋の如く為って来た。  雪団《ゆきだま》を浪転《こんてん》する如く順調に資力を増進するは、普通の金融業者も皆同様であるが、銘々その力 の限りある処に至って、猿転を中止するのである、何となればその初め手軽く自己の力にて渡転 せしめつつあるものも、雪団が次第に増大して、非常の重きを加うるときは、これを浪転するこ とは、もはやその力に及ばぬこととなる、その時には雪団の膨脹も、ここに止まるのを常とする、 金融業者もその資本を増大して、己《おのれ》の力量の絶頂に達すれば、もはやこれを推進する能《あた》わず、こ こに満足して浪転を止むる訳となる、然るにもし雪団の大を益《ま》すに従い、我が力もまた増大すれ ば、果てしなくこれを推して、家の如くまた岡の如く、また山の如くもならしめ得べきである、 善次郎氏が常人と異る所は、雪団を浪転する力量が限りなくして、その停止する所を知らざるに 在る、これが氏の能く大を為せし所以で、またその大いに人と異る所以である、十万円を渡転し て百万円となせば、ここに推進力の止まる人もあり、百万円と為し、千万円となせば、そこで力 の尽くる者もある、然るに氏の力は測り知られぬ、一千万を一億に、一《や》億を十億にも、これを推 し進むるの力量と根気とを有《も》って居た。  なお雪団《ゆきたま》を濠転《こんてん》推進して止まざるのみにても、その嵩を増大するは驚くべきものたるに、もし 更に他所より多量の雪を持来って、傍《かたわら》より常にこれに附加増益せば、その増大する割合は、ま た更に驚くべきものでなければならぬ、氏が致富の有様は、雪団浪転の増大に依る外、なお時々 他所より多量の雪を持ち来って、これに附加すると同様であった、その発展の速かにして且つ大 なるは、畢寛この故である。  元金より生ずる利子を元金に加え、この元利より生ずる利子をまた元金に加え、かくして増進 するを、俗に複利法と称うるが、第三銀行の如き株式組織のものは、毎期の得益を株主に配当せ ねばならぬ(その幾分は積立てて資本の増加を図るにもせよ)、然るに安田銀行に至っては、安 田一族の所有物である、なお厳格に言えば氏の懐金《ふところがね》である、もしその増大を図らんとすれば、 利得も配当に及ばず、これを悉く積立つるも容易である、一人の独力にて左右する銀行は、それ らの働きを如何様《いかよう》にもなし得たのであるから、氏の資産は複利法の如く、漸々増大し行ったもの である、複利法は進み行くほど非常に膨脹する、氏の身代もこれと同様、右八九年間は非常な膨 脹をなし、単にこれだけでも、随分目醒ましき発展であった上に、氏は例の商略を用いて、他所 の資金を吸集するに、その全力を用うること常人に超越せし故、預金の膨脹は年々甚大であった、 この預金からの収益は、右の複利法以外の収益で、この預金より生じたる利得を以て、複利法の 元利金に附加うるのであるから、その複利法は更に複々利法と目しても宜《よ》い。  上記の九箇年間は、さほどの事業に従事せざりしも、その本業たる金融貸借の利益は、確実た る歩調を以て、ずんずんと増加した、而してこれらの働きは、専ら安田銀行を機関としたもので ある。  この頃、氏は業務の外、心身の娯楽をも求めた、先ず毎月一二回の碁会を催し、また同好仲間 と謡曲会も折女これを開いた、乗馬の練習をも怠らなかった、また茶事はその最も好む所で、茶 会も頻繁であった、いかに多忙中でも、茶会のことは日記に必ずその詳細を記載し、後年までも この通りであった(後には別に茶会の記録を作りたれども)、この頃の氏の手控記録を見るも、 また面白き故左に抄録す。   四月七日、火、曇                  ししど たまき  はちろうじろう          たにむら 午前六時、松浦伯爵の茶事に臨む、宍戸磯君、生、三井八郎次郎、前田健次郎、 名なり。 |寄付《よりつき》、書院 床《とこ》、文晃蘭亭 席櫓騨床・牡丹花葛文糀駿云々筆鰯雛銘野沢書棚桑 水指赫灘擬ヤ鵬灘律罐蕎坪欝卿寄共飾 懐石\蜥…鰍ぬり椀 む匪附}喋ぞミからすみ 汁・赫殊噌 楓轡㎞翫い、鴨、  焼物、竹の子 八寸《はつすん》、稲伽し 香のもの、鱒概横根 菓子、草牛肥 詰 谷村 |後座床《ござとこ》、鮒酢睡鯛僻ま竹靴撫駐r箱書付 茶碗、魁h鹸桝鵯蓬箱書 茶杓《ちやしゃく》、遠州共筒  茶入、撤献輝興肩衝銘早蕨 ひらきま         清巌和尚二幅対、 披の間、詠帰亭 床、青山 緑水 吸物、さしみ、でんがく  取肴御酒《とりざかなごしゆ》、蓬莱園《ほうらいえん》の記《き》二冊ずつ 十時半退散。 一、同日午後四時、佐藤進氏の茶事に臨む、渡辺|験《き》、生、小川|松民《しようみん》、出淵《でぶち》円朝、柏木彦兵衛 の五名。 寄付、書院 屏風《ぴようぶ》、桃山時代藤と山吹の画 席、八畳広問 床、槻鵜櫨物 釜、紋晒鱒清 棚、紹鶴好 薄茶入時代蒔絵中裏 炭斗欝羽箒・大鳥灰器信楽薦辮 懐石、鮮櫨蹄作 椀、璽再椀 向附、嚇搬灘州 汁、赫蛛岬 椀盛、蠣縦…凄うど  焼肴、騨鰍辮鉢 吸物、歓げりみ 八寸、鮎 香の物、瓢趾軒 菓子、牛肥種おぽろあん 後座床融の肋り香炉戴鷲屋香盆・唐物朱四方水指・譲鞭茶入繍一戸瑠  袋、鯖蔽 茶碗、彫一一蔦 茶杓、宗拙共筒 建水《けんすい》、踊搬 蓋置《ふたおき》、鎌鮒  薄茶碗、麟概靖…㎜ 香△具鉱清 干菓子、聴的麟櫨 披の間、κ鵬座敷 床、麟楓顯西行 床脇、唐物青具長箱 肚酷概繊|帖《じよう》、 次の問六畳 床、薦呪舳編文房具飾  十一時半帰宅 右の如く一々明細に記録しあり、 随分綿密の人なるを知るに足る。 第二十七 本伝の二十一 神戸の土地手入れ"日本銀行監事"同銀行 の新築主管"濃尾震災地の視察11日本銀行 基礎工事"旧池田邸の買入れH木馬の献上  明治二十二年、始めて東京特別市制を布かれ、市会議員を選挙す、この時善次郎氏もまたその 選に当り、議席に列して市の事務に関係し居たり、今の東京市の紋章などもこの時に定まりし由 にて、その形の発案者は氏なりしと云う説もあり、かく市務に携わり居たりしも、何分多忙なる 本業に差支えを生じて、不便を感ずること少からざる為め、二十三年に至り、遂に辞表を呈出し た。  前年神戸の地所が、担保流れとなってハ氏の手に入りしもの多し、氏は同地方が将来繁栄して 地価の必ず騰貴すべきを先見し居た、この頃に至り、右を市街地となすの計画を実行する為め、 時々出張してこれを監視せり、東京市会議員を辞するの理由の中にも、このことをも挙げて、こ れらの為め多忙にて云々《うんぬん》と記した、この頃より氏は折々狂歌を詠む、この年の手記中に「山居の 心」と題し左の句あり。   慾ばりはまだいつまでも山猿《やまざる》(已《や》まざる)が     木《こ》の実《み》(此の身)にあきて今日も暮しつ  尤も以前から既にその作ありしならんが、氏の記録中にはこれより以前には見当らず、本歌は 折々記したるものあり、氏は先に一たび日本銀行理事を辞職したりしが、その後また勧誘を受け、 同行の監事を拝命したり、この職は監査役の性質を帯び、理事の如き繁劇の任にあらざるが故に、 これを引受けしものと見ゆ、その後明治二十三年に至り、政府は日本銀行を、今の所在地なる両 替町《りようがえちよう》に移して、完全なる永久の大建築をなすの議あり、氏はその新築主管に任ぜられ、これを引 受けた、而して技師は工学博士辰野金吾氏等二三名なりき、善次郎氏はこれより専ら同行新築の 担当者となれり。  明治二十四年十月、大地震ありて、濃尾《のうぴ》二地はこれが為めに大損害を蒙る、ここにおいて家屋 の建築は、震災に対する一種の防備なかるべからずとの考えを懐《いた》く者多く、依って日本銀行にて も、その建築技師、及び主管善次郎氏をして、震災地の建物壊崩の有様等を攻究せしむるに決し、 氏もその為め十一月八日を以て名古屋及び岐阜に出張なした。  氏はこれより濃尾二地を経歴して、その震害の程度、及ぴ和洋建築の利害等、同行の技師等と 共に、十分の視察研究を為して帰京し、同銀行の新建築にはこれが為め幾分の掛酌《しんしやく》を加うるに至 った。  同行建築の基礎工事も追々進捗し、翌年三月十日、定礎式を挙行することとなった、その時の 氏の日記を左に抄録す。   三月十日前十時、日本橋区両替町なる日本銀行新築基礎式に臨む、臨場の列位は、陸軍大将   あ、、すがわのみやたるひと                                                  しんぜん   有栖川宮熾仁親王、総理大臣兼大蔵大臣松方伯、大蔵次官渡辺国武、監理官松尾臣善、田尻   稲次郎、加藤高明、その他本行重役及び筆頭書記、技師監督、技師等にて、祭主は本居豊頴《もとおり まにうえい》   氏なり、十時二十分頃式始まり、十一時二十分式|畢《おわ》る、これより銀行を巡覧し、食堂にて洋   食菓子を饗す、正午各位退散す、この日は曇天と雛《いえと》も、微風もなく、首尾好く式を終れり、   宮殿下をば自分(善次郎氏)が始終御案内の役をつとめた、東北の隅石に埋めたる銀板には、   左の丈字を彫刻す。     基礎式票   日本銀行建築地斌臓刊"脇照糠萌齢㎜本橋区   紀元二千五百五十二年    明治二十五年三月十日  陸軍大将大勲位有栖川宮熾仁親王    臨場列位      嬬丑寸雌兼鰍臓大範     伯爵  松方 正義      大蔵次官従四位勲一二等        渡辺 国武       大蔵省主計喝長日本銀行監理官       従四位勲四等       大蔵省主税局長日本銀行監理官       法学博士正五位       大蔵省監査局日本銀行監理官       従五位       日本銀行総裁貴族院議員       従四位       日本銀行理事       日本銀行理事       従五位勲六等       日本銀行理事       日本銀行監事       従六位       日本銀行監事       工事主管日本銀行監事       従六位       工事監督工学博士       従六位 外に金貨一箇、 て埋め納む云々と。 銀貨一箇を添え鉄の函《はこ》に納れ、 松尾臣善 田尻稲次郎 加藤高明 川田小一郎 三野村利助 与倉守人 川上左七郎 広瀬宰平 森村市太郎 安田善次郎 辰野金吾  これを隅石の下より八|側《かわ》目の石に凹《くぼ》き所を掘り  先に氏が買入れし田安邸の東南に隣接して、池田侯爵の旧邸(本所区横網町二丁目七番地)あ り、宏大にして五千坪以上を占め、邸内の園池は有名のものなりき、二十四年この邸地の売買の 相談|捗《はかど》り、七月末に取引を終り、八月一日より善次郎氏の所有に帰した、その大掃除、及び模様 替え等に慌《あわただ》しく、この月九日より、新邸に引移って居住することとし、旧田安邸の方はこれを 別荘と称う。  三四年前より、氏が馬術を練習することは既に記せし所なるが、本年頃までも熱心に引続いて これを怠らず、またこの頃は、その長子善之助氏も既に十四歳となりしかば、氏はその子をして 壮武なる運動に慣れしめんとの趣意より、頻りにこれを練習せしめ、この年に至っては父子轡《おやヱくつわ》を 連ねて、各地に遠乗りすること多く、且つ善之助氏のみならず、善次郎氏の甥《おい》及びその親族の少 年青年をして、善之助氏同様に馬術を練習せしめ、業務の暇あるときは、数名の一族、打連れて 郊外十里内外の地に遠乗りをなすこと多かりき、また各宮殿下に随行し、近地の遠乗りをなすこ とも珍らしからず、伏見宮、閑院宮、両殿下の御供をなすこともしばしばたりき。  かくして、氏が馬に関する趣味も、非常に加わりしと見え、この年には、馬の彫刻にて妙手と 称せらるる彫工をして、木馬一頭を製造せしめ、松方総理大臣の手を経て、これを宮中に献進し たり、陛下は深く馬を愛し給う故に、右巧妙の木馬は殊《こと》の外《ほか》御意に叶《かな》いたる趣にて、松方大臣よ りその旨伝達せられたり、この木馬は人足八人にて、宮内省に持込みしと記せしを見れば、相応 に大なるものなりしと見ゆ、かかる訳《わけ》からして、"'、の新邸にもまた厩《うまや》を作り、乗馬三頭を飼うの 設備をなせり、一頭は「春鳥《はるどり》」と名づけ、一頭は「モジリヤ」他は「与市《よいち》」と名付けた(蓋し北 海道の産地名の縁から取ったものかと思う)、二十四年一月、馬術練習所の新年宴会には、旧冬 試験済の者に、卒業証書及び修業証書を授与するの式あり、松平信正、上杉|茂憲《しげのり》、前田|利同《としあつ》等の 諸氏九名は卒業にて、氏はこの時中等二級に及第す、同所の総裁は、伏見宮|貞愛《さだなる》親王殿下たり、 なおこの後両三年も絶えず、一族の若手と共に、遠乗りの慰みをなすこと多し。  その頃世上にて新たに有利の企てをたすものあれば、氏は必ずその加入を要求せらるるを常と せしが、この時浅草に「パノラマ」会社創立の企てをなす者あり、氏もまたその株主に加入せり。  この年は「イソフルニソザ」流行して、氏の妻子、一族、女中まで一同感染して難儀せしにも かかわらず、氏一人はこれに罹らなかった。  これより先、芝公園の紅葉館の経営は合資会杜にて、氏もまたその出資者の一人たりしが、そ の繁栄に随いこの頃株式会杜と改め、初めての定時総会を開き氏もこれに臨席した。  また山口県岩国の第百三銀行は、維持困難の為め、氏の救済を望み来りしに依り、種々調査の 上、その救済を始めた(後年に至りこれを日本商業銀行に合併す)。  この年業務上においては、桑名支店員の不行届きょり、多少の損失を被《こうむ》りし為め、支店支配人 を更迭せしむる等のことがあったが、しかし損失は支店のこと故、さほどの多額でもなかった。  また本年は、各地二三の銀行が、氏の助勢を求めて来た、豊前小倉《ぶぜんこくら》の第八十七銀行の如きもそ の一つである、そして夏の末頃から、同行の維持法について相談が開らかれた。  また秋に至っては、松方大蔵大臣より、工業銀行及び農業銀行を創立するの件について、その 内談を受け、意見を陳述する等のことがあった、日本銀行の新築も、着々進歩して、この年末に は、松方《まつかた》総理大臣、大木《おおき》文部大臣、榎本《えのもと》外務大臣、高島《たかしま》陸軍大臣、樺山《かばやま》海軍大臣、仏国公使、北 垣《きたがき》京都府知事、山田《やまだ》大阪府知事、安場《やすぱ》福岡県知事、松平《まつだいら》熊本県知事等を招待して、工事中の諸処 を一覧せしめ、後ち紅葉館に招請して、晩餐を饗する等のことがあった。  通例銀行家及び事業家が、杜員慰労の祝宴等には、遊芸手踊を余興となす者多きに、善次郎氏 は例の馬術に堪能なると、且つ武張ったことを喜ぶの癖から、十一月三日の天長節に、第三、安 田、両銀行の杜員及びその家族、百余名を招待せしが、その余興には古今亭|今輔《いますけ》の落語の外、大 弓馬術の競技を示した。  越えて二十五年となった、一月には日本橋区の実業家、米倉一平《よねくらいつべい》、雨宮《あめのみや》敬次郎、中沢彦吉、喜 谷《きたに》市郎右衛門、永富謙八等より、氏を国会議員の候補者として選出したき一同の希望なる旨を以 て、再三勧誘せられしも、当初はこれを固辞した、然れども衆心移し難くして、遂に候補者に立 つに至ったが、前東京府知事|楠本《くすもと》正隆氏と競争の姿となり、同年九月十七日の選挙には、楠本氏 二百四十八票、善次郎氏二百二十四票、則ち二十四票の差を以て失敗せり、然れどもその相手が 前知事にして、有力の人なることを考うれば、氏の敗もまた椀《は》ずべきにあらざるべし。 第二十八 本伝の二十二 金融界の好材料11株式と取引所11大利益の 材料"海上保険11兵庫運河H社交上の交際 饗宴11釧路の硫黄山  明治二十五六年頃に至り、氏の為にまた大発展の便宜たるべき機会と材料とが出現した、この ことは氏が将来その大を成すにおいて見遁《みのが》すべからざる者である、即ち従来金銀貸借の担保には 第一が地所家屋であるが、その取扱いに不便なるは言うまでもない、而して公債証書なるものが、 世に出づるに及んで屈竟《くつきよう》の材料となり、非常の便宜が金融界に与えられたことは、前にも述べた 通りである、然るところ公債の高はその頃たお限られたるものにて、非常の場合、例えば廃藩置 県とか、対外戦争とか、または何等かの大事変とかにあらざる限りは、漫《みた》りにこれを発行せぬ慣 わしであった、加うるに公債はその市価に高低なき性質を帯び、仮令《たとえ》多少の変動があっても、そ の鞘《さや》は高の知れたものである、三割以上の高低を見ることは幾ど絶無で、五割もしくは七八割た どの変動を致すべきものでない、故にもし金融界の質草が、公債だけに止まったならば、善次郎 氏の働きなども、従って大いに局限されたであろう。  何れの邦《くに》にても、その国運が隆盛に趣き、物産の開発が次第に歩武を進むるに従い、ここに株 式会杜勃興の気運を生じ、個人の資産にのみ依頼せず、世間の力を集めて大規模の事業を営むの 仕組となるは世の順序で、この仕組が欧米に発達せし以来、彼の富力が膨脹せしに鑑み、我国の 産業家も、ややこの境に進まんとし、政府もこれを誘導して、その発展を図るに鋭意した。  ここにおいて株式会杜たるものが、既に数年前よりぽつぽつと現われて来たが、何分にも充分 に発達せぬ、右も無理からぬことにて、仮令《たとえ》株式会杜を起し、その株券を発行しても、その時価 を定むる場所が無いのである、いわゆる株式の取引所なきが為め、その株券を質草となす価格が 定まらぬ、故に金融業者はこれを引受けても、他に同一価格で担保とし広く仲間に通用する訳に は行かぬ、されば取引所が設けられ、株券に取引の時価が定まるに至って、始めて金融業者も安 んじてこれを取扱い得べく、株主本人も緩急の場合、容易にこれを売買し得る訳である、故に株 式取引所の無かりしことも、株式会杜不振の原因ではあるが、株式会杜の内容が不完全なりしこ とも、また取引所の成立を妨げて居たのである、何となれば会杜が自ら無限責任とか、有限責任 とか称しても、右は自分勝手の吹聴で、未だ国法を以てその形式が定められて居なかったからで ある、然るに明治二十六年に至り、始めて商法が制定発布せられ、ここに会杜設立の制度が定ま り、合名会杜、合資会杜、株式会杜等の区別を明らかにし、また会杜の義務責任をも明らかにし た、この時から株式会杜も始めて本物とたり、従って取引所もその用を為し、互に相待って発達 した。  右の株式券状が、かく発達流布を始むるに至って、善次郎氏の業務も、ここに大発展の資料を 得たのである。  貸付の見返品として、受入るる有価証券の将来におけ至局低、及びその会杜の営業振りの良否 を探知するは、固《もと》より氏の手に入ったこと故、抵当品が流れ込むとも、得益とはなるとも、損失 を蒙る如きことは幾《ほとん》ど希《まれ》である、また銀行に余力あるときは、株式の時価と、実際の配当率とを 考較し、幾分の差益あるときは、これを買入れ置きたるべく、これらの手段にて、確実なる相応 の利益を得るに加えて、世上の金融状態または会杜の利益配当の激増より、株券の市価が、一時 に暴騰する場合が無いでもない、この時にこれを売放つの得益はまた莫大である、そもそもこれ らのことたるやもと投機に類すれども、元来有価証券の利廻りを押え、確実安全なる利率に立脚 して売買する者である以上は、強《あなが》ち投機と目すべきではたい、而して買入価格の一割二割の利益 を得るとも、それは決して処《とが》uむべきではない、氏が将来に大利を得しはこの種の事柄も少からぬ ようである、さすれば有価証券及び取引所の出現は、氏の財力を迅速に膨脹せしめたるに与《あず》かり て大いに力ありしと云うて宜い、もしこの機会と資料とたく、公債証書のみならんには、氏の発 達もあれ程に目覚ましくはたかったかも知れぬ。  なお氏はこの年に、帝国海上保険会杜を設立し、議長としてその創立総会を開いた、同杜株主 の過半は皆氏の系統に属するが故に、同杜は結局安田派の一会杜と称して可なり、而してこの年 十一月五日に、同杜の開業をなすに至った。  また今年、兵庫県神戸市の兵庫運河の開鑿《かいさく》に助力を与うることとなり、運河会杜の成立はこれ を氏の尽力に待つの有様となった。  また二十五年頃における、氏の杜会上の地位如何を知らんと欲せば、当時互に往来交際せし人 人との間柄を叙記するを可とす、氏は元来当路の貴顕に結交を求めぬ方であるが、日本銀行創立 当時より、政府の金融政策あるごとに、松方伯から折々内談を受けた間柄ゆえ、この人だけとは 最も心易く交際したのである、二十五年四月には、総理大臣松方伯に招待せられ、主人及び令夫 人等の歓待にて、他客を交えず、懇親の宴を開かれ、伯の幼時より今日首相の地位に至るまで の履歴等につき自慢話あり、善次郎氏もまた自己の今日までの履歴を語り、互に快談した、また 右の返礼なるべし、同月中旬には、松方伯夫人並びに令嬢を横網の自邸に招きて饗応し、隅田川 に屋形船《やかたぶね》を浮べて氏の家族をも相伴《しようぱん》せしめ、向島の観桜を為し、五時頃また自宅にて開宴す、こ の時松方伯もまた来会し、種々の余興などありて十時頃まで快談せり、また翌年四月には、宮内 大臣|土方久元《ひじかたぴさもさ》伯を自宅にて饗応せり、また同月|副島種臣《チえしまたねおみ》伯同夫人及び令嬢を自宅にて饗応せり、 この年桜花の頃には、伏見宮|貞愛《さだなる》親王の御供をなし、馬術練習所の知人、清棲《きよずみ》伯、前田伯、松平 信正子等と共に氏の令息善之助(今の善次郎氏)善吉(今の善四郎氏)孝次郎(今の善助氏)等 その他の人々十六騎にて、小金井に遠乗りをなし、帰途は宮家に参上し歓を尽して帰った。  この年五月、川田日本銀行総裁の宴会に臨む、同席の相客は、大倉喜八郎、茂《もぎ》木惣兵衛、渋沢 栄一、原善三郎、小野義真、小阪善之助、広瀬|宰平《さいへい》、朝田又七、間中《まなか》忠直、小野光景、堀越角次 郎、森村市太郎、河原信可、平沼専蔵、三野村利助、松田源五郎、原六郎、山中隣之助、米倉一 平、三井高保等二十一名、皆当時財界一流の人々のみなり、氏が交際宴遊する所は概ねこれらの 人女なるを知るに足る、およそ一箇月の内に、他に招かれまたは人を招く等の宴会は、その幾度 なるを知らず、然るに特に上記のことのみを記するは、氏がこの頃交際の一斑を知らしむるが為 めなり。  日本銀行の新築はこの年に至るも未だ落成に至らず、氏は主管の任にある為め、絶えずこれを 監視せり、この年六月に、同行新築の専任事務主任石原|豊貫《とよぬき》が、同行銀行局第一課長に専任せし に依り、その後任として、農商務省の旧特許局長高橋|是清《これきよ》氏を補任することとなった、この時 より高橋氏は、日本銀行を階梯として、出世せし訳にて、善次郎氏とはかかる旧交の間柄なり き。  氏は業務上において、この年春晩より、福島、宮城両県下の硫黄山一覧の為め旅行せり、右は 氏の経営中なる釧路硫黄山の事業の参考に資するが為であったが、しかし氏はこの頃既に硫黄山 に趣味を持ち、もし良好の山あらば、買収し兼ねまじき胸算もあったらしく、かくて磐城《いわきく》の国平《にたいら》 より郡山、二本松を経て棚倉等を巡歴し、白河より宇都宮に入り二週間を費して帰京した。  この頃、氏はなお電燈会杜の経営を助勢して居たが、業務追々発展して、燈数一万以上に上っ た為め、この年夏は大いに祝宴を開き、杜員を饗する等のことがあった、今日から見れば一万の 燈数は、歯牙にも懸るには足らぬ数であるが、当時に在っては、余程の成功と思われたものであ る。  この秋は、硫黄山監視の為め、子息善之助氏を伴い再び北海道に出張した、その道程は、盛岡、 青森を経て各地支店の調査を為し函館に入り、この地の第三銀行支店を検査す。  氏は例の馬好きのこと故、同地にては小川牧場を訪い、色々の馬種を見た、この頃は馬に対し て頗《すこぶ》る興味を持ったと見え、その日の日記中に左の記事がある。   四時半、桔梗野《ききようの》牧場に行く、主任|武《たけ》彦七氏、馬匹洋牛を見せらる、種馬の洋馬「ザリーフ」   「アラビヤ」(六歳)は美事なりき、土産の馬、巴《ともえ》号(四歳栗毛)六寸位逸物と見ゆ、明日札   幌競馬場へ遣すなりと、鬼小島、華山、その他数頭何れも美事なり、橋本某の「ザリーフ」   号に乗るを見て後、帰途に就く云々。  因《ちなみ》に氏は馬好きであり、自ら馬を駅《ぎよ》すことを好み、この年「モジリヤ」号を自用馬車の挽馬《ひきうま》に 用い、自分でこれを駅して外出することなど始めた。  さて函館より釧路に着し、硫黄山を検閲す、この頃は山も次第に発展せしと見え、日記中に左 の記事がある。   八月一日、六時半山元事務所に着す、七時より硫黄山第六号口より登山す、五号、四号、三   号、二号、一号より旧事務所に降り「レトルト」精練所に入り主任松浦|篤《あつし》に逢う、暫時休息   して、再び一号山の口より登山す、十三号、十二号、十一号、十号、九号、七号より下山す、   目今の採堀は、四号、五号、六号を主に着手し、その他は諸処に採堀するもの三四箇処あり、   何れも去る二十一年登山せし時より進歩して、一車百貫目内外|宛《ずつ》を運び居れり、また山道よ   り汽車に積込むまで、総べて完全に行届き居るが如し、磯物の採堀法も、以前と違い、余程   順序ある者の如し、また確量も二十一年に一覧して想像せしよりも今日に至り幾分の大量な   るは明白にして、この末精練方を改良して、劣等品をも採堀するに至れば、また三四箇年の   継続の見込は必ずあるべし、要するに販路の価値次第にて、この山の命脈を伸縮すべきのみ、   十時半頃杜員合宿所に休息し云々。  然《さ》れば礪量は当時相応なりしものと見ゆ、同所より再び函館に引返し、この処にて函館区共有 財産たる地所及び倉庫貸渡の入札あるに会い、これを落札し、これを手に入れたるに因り、右の 現場等の検査を了り八月に至りて帰京す。 第二十九 本伝の二十三 代議士候補の固辞"煩を避けて旅行"新洋 館の落成祝H十数回の饗応11馬術の卒業" 再度候補に擬せらる"帰郷の歓迎  明治二十七年、氏の齢既に五十七歳となり、杜会上の地位はますます高まり、世間は氏を目し て財界の重鎮となし、筍くも何等かの著しき企業あるときは、朝野を問わず、必ず氏にその加入 相談を持込まざるもの無き身分とたり、氏の財力もまた輩固《きようこ》を加え、その勢威は侮るべからざる ものと認められ、氏は次第に得意の境に進む一方なりしが、この年もまた氏に取りて快心のこと 多き年たること下に記するが如し。  去歳衆議院議会解散せられ、臨時総選挙の期日は、この年の春晩となれり、ここにおいて東京 市本所区の主なる人々は、氏をその候補者とすることを希望し、彼等一致の決議を以て、氏にこ れを懇請するに至れり、なおその素地を作らんが為め、同区の有力者相謀って、氏を本所区公民 会に入会せしめんとし、この年一月その春季懇親会に出席入会を勧めしかば、氏も已むを得ず、 一月中旬中村楼の同会に出席したるに、直ちに会長に選挙せらる、副会長は天野《あまの》仙輔、青木庄太 郎の二氏にて、右二氏は専ら氏の衆議院議員の立候補を要請する人々なりき、然れども氏は未だ 容易にこれを諾せざりき、是より引続き同区の有力者等は、しばしば訪問して氏の承諾を得んと せしかば、氏はその煩《わずらい》を避くる為め、一月以来旅行を試むること多かりき、且つ在京の時と難 も、旅行を口実として、右に関する来客を断り居たりしが、右の煩《わずらい》を避け併せて各地の視察を 為すに決し、二月初旬より関西に向って出発し、先ずその途次において、尾州の各地を遊歴し、 |武盟町《たけとよちよう》、半田町に遊び、大浜町、新川町、亀崎町等尾州南部の主なる各地を視察して、他日の発 展に資せんとし、また同地より大阪を経て、神戸に入り、なお岡山より尾道《おのみち》に至り、更に四国に 渡り、三津ケ浜より道後の温泉に遊び、それより周防《すおう》新港に向い、岩国に遊び吉川《きちかわ》家の款待を受 けたり、同県二三の銀行は、これより先既に氏の助勢を受け居たりしかば、氏はその状況を視察 する為め、特に心を用いたるなりき、それより厳島《いつくしま》に詣で、西京を経て帰京せり。  当時氏は日本銀行監事にして、且つ日本銀行の新築主管なりし為め、在京の折は、幾ど日々の 如く日本銀行建築地を検分し、それより安田銀行、第三銀行等に出勤するを日課とせり、且つこ の頃はますます乗馬の趣味を増し、毎朝一時間余は、必ず馬を近郊に馳《ま》するを常とす、則ち朝早 く起きて乗馬し、それよりそのまま、出勤先に向うこともあり、また一たぴ帰宅して出直すこと もあり、日々乗馬の嗜《たしな》みは怠らざりき。  氏が関西より帰京するや、立候補の請求絶えざるを見て、また更に静岡県静浦などに遊び、必 要の場合にのみ帰京する有様なりき、これより先、天皇、皇后両陛下二十五年銀婚の祝典を挙げ させられ、酒饒《しゆせん》料を百官及び杜会の功労者に下賜せらる、氏もまたその恩典を蒙りしかば、右酒 饒料の披露と、その横網町西洋館の新築落成祝いと、自己の誕生祝いとを兼ね、この年三月九日、 安田銀行、第三銀行、第四十五銀行、第八十二銀行の杜員一同を招き、祝宴を開いた。  これより先氏は本所区有志者の求めに依り、その会合に出席し、「自分は何分にも衆議院議員 を引受け難き事情あるを以て、最適任者と認むる奥三郎兵衛氏を推薦するが故に、右に同意せら れたき旨」を演説し、奥氏の後援を誓いたり、因って有志者等は右の説に従うこととなり、奥氏 いよいよ当選せしかば、三月十九日中村楼において、氏と渋沢栄一氏二人が有志総代となりて、 奥氏議員当選の祝宴を開いた。  この頃兼ねて氏の関係せる共済五百名社の組織を変更するの企てありしが、この年三月総会を 開き、氏の提案通り会則を修正するに決し、いよいよ純粋な合資組織の生命保険会杜となるに至 った。  今や四月初旬、春光駝蕩の候となりしに因り、桜花の好時節を機として、氏は改めてその新築 西洋館の落成祝いを開くこととし、この月朝野の知人をその邸に招請して座敷開きをした、先ず 四月六日はその第一回目の宴会で、洋館建築の担当技師その他多数の関係者を招きて盛宴を張り、 この洋館を成務館と命名せり。  同月七日には、第二回目の宴を開き、旧藩主前田|利同《としあつ》君及び老公令室等を招待す、また八日に は第三回目の宴を開き、馬術練習所の連中なる清棲家教《きよずみいえのり》、松平信正等の諸氏を請待《しょうだい》し、同九日に は第四回目の宴を開き、松方伯夫妻、令嬢等を請待し、十一日には第五回目の宴を開き本所区の 有力者北村泰一、天野仙輔、武藤|直中《なおなか》、青木庄太郎等十数名を招く、同十八日には第六回目の宴 を開き、毛利公爵、同令夫人、新夫人、大村男爵等を請待す、同十九日に第七回目の宴を開き、 蜂須賀侯爵、渋沢栄一、小野義真、原善三郎、茂木保平、大倉喜八郎、益田孝、喜谷市郎右衛門 等の紳商連十数名を招く、同二十一日第八同目の宴には、電燈会杜の重役、藤本文策、松下市郎 右衛門、浦田治平、藤岡市助等十数名を請待す、同二十四日には第九回目の宴を開き、深川の米 穀、肥料商の連中を招く、奥時之助、中村清次郎、岩出《いわで》総兵衛、臼井儀兵衛、恒川新助等十数名 なり、同二十六日には第十回目の宴を開く、日本橋区区会議員渡辺治右衛門、柿沼谷蔵、今村清 之助、永富謙八、籾山《もみやま》半三郎、佐々木慎思郎、菊地長四郎等十数名なり、同二十九日には第十一 回目の宴を開き氏の女|暉子《てるこ》の師家たる跡見花膜女史並びに女生徒二十余名を招く、同三十日には 日本銀行関係者|与倉守人《よくらもりんど》、三野村利助等を始め、同行の局長、課長等十数名を招き、殆ど一箇月 間客待続きにて頗る賑かなりき。  越えてこの年五月に至り、馬術練習所の卒業証書授与式あり、氏は卒業証書を授与せらる、氏 と同時に卒業せる人々の中には、清棲伯、阪谷芳郎等の人々もあった。  六月一日に至り、議会解散せられて、またここに臨時総選挙の騒ぎ,を見るに至った、善次郎氏 は先に候補を辞退して奥氏に譲りしが、今回の選挙にも、またまた衆人の為に候補に擬せられん ことを倶《おそ》れ、右の片付くまでは、また専ら人を避け、用事を兼ねて、地方に旅行勝ちとたれり、 而してその第一着は、郷里なる富山に帰ることなりき、この度の帰郷は、氏における一大記念に して、また生涯における一大快事の中に数うべきものであった。  この年六月中旬、氏は房子夫人及び従者二名を伴い、富山に向って出発せり、時|恰《あだ》かも富山開 市の二百五十年に当り、これを祝する為め、同市に博覧会の開設あり、同地の出身にして最も著 名なる一人として、この際における氏の帰郷を、郷里の人々熱望して止まざる事情あり、且つ 久々の帰郷なれば、勇三《かたがた》二週間以上滞在の予定であった、房子夫人には同地が始めての旅先でも あり、緩々逗留して新旧の知人にも引合せ、昔のことどもを偲ばんとの企てなりき、時は恰《あだか》も初 夏にして、気候は軽寒薄暖なり、当時の氏の日記を見るも愉快の旅行なりしを察するに余りあり、 氏の一行は上野より汽車にて直江津に出で、この地に一泊せしが、当時は同地と富山間の鉄路、 未だ開通せざりしかば、直江津より小汽船に搭じて、親不知《おやしらず》、子不知《こしらず》の浜の沖を航し、富山に程 遠からぬ岩瀬に着船す、同地には既に富山の主なる人々、親戚知人等の出迎え居《お》る者多く、これ らの人々に擁せられて共に同市に趣きたり、旧藩主前田伯も、右博覧会の為め帰郷し居りしか ば、氏は翌朝直ちにその許《もと》に伺候し、それより市内に著名なる鎮守神杜の祭式に列す、旧藩主前 田伯爵、同老公、奥方、県知事、市長、県会市会議員その他市内の老若男女ここに群集し、式|畢《おわ》 りて能楽などの催しあり、市中の雑踏讐《ざつとうたと》うるにものなしとは、氏の日記に記する所なり、これよ り日々氏は親戚故旧に招かれ、一日の中に数回の宴席に列する有様にて、訪問、往来互に歓を尽 し、また同地の主なる人々との往来饗宴も、殆んど虚日なかりき。  前にも記せし如く、氏が先年富山に銀行支店を設けんとせし時、一部の士人と暗闘を生じたる 以来、氏はなるべく郷里のことに関係せざりしなり、然るにその後ち年を経《ふ》るに従い、日本財界 における氏の声望は、隆々として旭日《あさひ》の昇るが如く、全国中屈指の富豪と仰がれ、三井三菱にも 比肩せんとするが如き勢いとなりしより、かかる人物を出せしことは、郷人もこれを誇りとする が如き傾きとなり、殊に先年より、氏は郷里の人気を損するが如きことは、なるべく慎みてこれ を避け、何事も無関係に打過ぎし為め、往年の感情は既に消散して跡をも留めず、この頃に至り ては、富山市は勿論、全県下において、一人も氏に敵意を懐かざるのみならず、皆進んで結交を 競うの勢いとなり、また旧主前田家は、財政上、氏に因りて便宜を得るの場合もありしなるべく、 その待遇を鄭重にする等、一般の事情は全く先年とその趣を異にし来りしかば、氏に対する人気 は頗る盛んにして、氏は再び二こに衣錦帰郷の思いありしなり、故にその日記中にも左の記事あ りo   故郷の旧誼懇篤にして、日々数箇所の招待に与《あずか》り、新故の知己絶えず音信あり、僅々の日数   と雛も、一身生涯の名誉、長く記念すべきなり云々。  この行や、もと三週間以上滞郷の心組なりしに、中頃大阪より急電の来るあり、已むを得ず予 定以上に早く帰京することとなり、往復とも日数僅か十日間余に過ぎざりしは、氏に取って頗る 遺憾らしく思われたり。 第三十 本伝の二十四 代議士に当選及び辞退"日清開戦11砲運丸 と運搬会社"家族同伴京畿旅行11戦後の好 景気11有利なる新会社の株式  二十六年の冬、一たび衆議院の解散ありて、二十七年三月に臨時総選挙あり、善次郎氏が衆望 を負うにも拘わらずこれを固辞し、己の代りに奥三郎兵衛を推挙せしはその時なり、然るに二十 七年六月に至り、また衆議院は解散せられ、同年八月更に総選挙を行うこととなれり、氏は嚢《さき》に 候補者を辞したりしにも拘らず、この度もまた氏を推さんと欲し、本所区の有力者、挙《こぞ》ってその 運動に取掛りたるを灰聞《そくぶん》せしかば、氏はこれを面倒とや思いけん、前記せし如-く、旅行を続け、先 ず富山に帰郷せしなり、然るに打捨て置き難き事務ありて、程なく帰京せしに、本所区の有志者 等より果して公然の勧説あり、氏はこれを避くるため、再び家族と共に日光に遊びしが、本所区 有志者の主なる世話役たりし天野仙輔氏め如きは、氏が出立の即夜、直ちにその後を追って日光 に来り、懇談を試みたりしも、氏は固く辞意を表し、なお続いて諸処に旅行をして居た、然るに 八月三十一日の総選挙において、氏の承諾なきにも拘わらず、本所区民は百七十九票の大多数を 以て氏を選挙せり、而して次点者太田実氏は僅かに一票なりしと云う、いかに区内の衆望が、氏 に帰したるかを知るに足る、三十一日日光に向け、天野、青木の二氏より「ダイタスゥ、タゥセ ソ、オハヤク、カヘリヲ、コフ」との来電あり、氏は実に当惑せしが、止むを得ず九月三日に至 って帰京し、翌日より選挙関係の人々を訪問して、辞退するの止むなき次第を述べ、また懇親な る武井男爵始め知友親戚を集め、辞退の意を表し、これら諸氏の同意を得しかば、乃《すなわ》ち九月七日 附を以て、左の辞表を東京府に提出した。   本府第五区衆議院議員当選之趣御通知被下拝承仕候然二拙者家政上無余義差聞有之候二付難   応候間謝絶致候可然御取計可被下候此段貴答迄如斯御座候也                                    安田善次郎    九月七日   東京府知事 三浦 安殿  右の如く衆議院議員を辞する上は、他の諸会に関係し居りては相済まずとの懸念ありしと見え、 本所区公民会の会頭、及び同盟銀行委員等の職も、皆辞退するに決し、その旨をそれぞれへ届け 出で、大いに安心せし様子に見えたり。  先年の衆議院議員の選挙の時に、氏が楠本《くすもと》正隆氏と競争して落選の敗を取りしは、前に記せし 所なり、然るに今回はかくも二回まで勧誘せられ、特に第二回の如きは毫も自ら関係すること なくして、当選の栄を得し訳なれば、常人に在りては往年の雪辱として、一たびはこれを受くる を名誉と思うべきに、氏が二回までもこれを辞退して顧みざる所以のものは、氏の社会上の地位 が、年と共に向上して、衆議院議員の栄職も、その身に余り重きを加えざるに至りし故なるべ し。  今や氏が胸中の大望を遂ぐるには、日本国内何れの地にも敵を作らざること必要なり、仮令《たとえ》中 立の地位を標携《ひようぽう》して議員に就職するとするも、場合に依りては時の政府に楯《たて》をつかざるを得ざる こともあるべく、また時としては政府に加担し、在野党に抗敵する如き破目《はめ》に陥らずとも限らず、 かかることは氏が後来の大発展に、毫も益する所なきのみならず、却って障碍《しようげ》を来すにも至るべ し、また当時の氏の地位は、已に財界の重鎮として、天下に嘱目《しよくもく》せられ、政府と錐《いえど》も財政上重大 の計画をなすときは、予《あらかじ》め協議すべき財界の巨頭四五名中の一人として必ず氏を加えざるを得 ず、また民間において一つの重大事業を興す者ありとせんか、その後援助力を求むべき財界の有 力者四五名の中には必ず氏を加えざるを得ざる程の有様となり、朝野における氏の勢望は既にか くの如く大いに、その交遊する所は、皆日本第一流の人物のみとなった、従りて衆議院議員の職 を帯ぶると帯びざるとは、何の軽重をもなすに足らざるのみならず、却ってその累《るい》を来たすの倶 れあり、前には競争して敗を取りし身分が、今は両度の必勝当選も、その喜憂をなすに足らざる に至りしことは、僅々前後数年の間ながら、氏の地位のいかに大いに変化し向上せしかを見るに 足るなり、一口に言えば氏の当時の身分は衆議院議員の職を帯ぶるも帯びざるも、何の軽重なし と言うべき程に進み来りしなり。  この明治二十七年には、日本の国威を発揚すべき時機到来して、この年八月日清戦争が始まっ た、両国いよいよ干父《かんか》を交うるに当り、政府の先んずる所のものは財力なり、こ`こにおいて伊藤 総理大臣は、開戦となるや直ちに当時我が財界の有力者たる中上川《なかみがわ》彦次郎、荘田平五郎、園田孝 吉、山本|直成《なおなり》、及び氏の五名を招いて、軍事公債の発行につき、内密に謀る所あり、その他戦時 中は政府の金融に便宜を与うる上について、氏は松方大蔵大臣などの内議に与《あず》かりしことも少か らざりき、これらのことを考うれば、氏が衆議院の一議員たる職に重きを置かざりしも、また答 むべきにあらず。  これより先氏が議員当選の煩《わずらい》を避くるが為め、各地に旅行せしは、右と兼ねてその本業を拡 張するの視察を為せし訳にして、八月一日には大阪より下《しも》の関《せき》に向いたり、この時同船者に山口 県人|山県某《やまがたぼう》なる陸軍少佐あり、朝鮮に出陣する由にて、もはや開戦は避け難き場合なりしかば、 氏は初対面の人ながら、その行を壮として、持合せの単物《ひとえもの》一枚、帯一本、銘酒若干瓶を贈りて |櫨《はなむけ》となす等のことあり、氏は三田尻《みたじり》に上陸して同地より門司に向い、その築港を一覧した、蓋 しこの工事には多少の関係あるを以てなり、而して門司より引返し柳井津町《やないづちよう》を経、岩国に出で新 港を経て厳島《いつくしま》に渡り、大阪に入り帰京せり。  この一年有余の日清戦争の間、氏はこの戦役を利用して特種の利益を得んとて別に施設せし所 あるを見ず、ただ本業の銀行業務を拡張し、貸付を手広くするの外なかりし如し、然れどもここ に例外とも見るべき一事あり。  そもそも陸軍の銃砲兵器を運搬するには、特殊の設備ある船舶を必要とす、然らざれば荷物の |揚卸《あげおろ》し捗《はかど》らず、取扱い方渋滞して迅速の用を達し難ければなり、しかしこの特殊の船は、平時に おいて他事に用うるには不便多く、単に陸軍の兵器運搬を相手にするのみなりき、この船は有事 の場合には巨利を博するのみならず、平時にも銃砲輸送に相応の御用がある、ここに砲運丸と名 づくる運送船を有し、銃砲兵器運搬の特許権を得|居《お》る商人某なる者ありしが濫費を節せざりし為 め運転資金に差支え、遂に人を介して、善次郎氏の助けを乞い来れり、氏は何か見る所ありしと 見え、その人に資金を貸与することとし、併せてその業務の監督権を握りたるは、恰《あだ》かも一年前 のことであった、当時善次郎氏も、日清交渉の破裂すべしとは、まさか予知せざる所なりしが、 幸運の人はどこまでも幸運なるものと見え、氏が砲運丸を助勢し、なお進んでその事業をも監督 し、種々の曲折を経て、銃砲兵器の運搬事業が、遂に氏の手において多分を経営することとなり し後、間もなくここに日清交渉は破裂せしなり、ここにおいてか砲運丸が兵器輸送に活躍せしこ とは、非常にして、その利益も莫大なるべく、氏にこの事業を拡張して、遂に大阪に安田運搬所 なるものを設立したり、この戦役において、我が国の兵器運搬作業に、この運搬所が貢献する所 の多大なりしは、元より想像に難からずして、その利益を博せしことも、また大なりしなるべ し、この戦役中に、氏が格段の利益を得しと見ゆるは、ただこの一事のみにして、その他は別に 利益を撰得《かくとく》すべき何等の施設をもなさず、ただ本業の銀行事業をますます手広くなすまでのこと なりき。  明治二十七年、主上広島に御進発の時より、翌二十八年和議成るに至るまで、その間十余箇月、 この間善次郎氏が処々旅行すること多かりしは、何れもその本業を拡張するに外ならざりき、こ の二十七年九月には、下総《しもうさ》成田方面を経て、香取鹿島《かとりかしま》の神杜に詣で、銚子《ちようし》地方を経て帰京せし如 きも、また金融機関を設くべき地方の情勢を視察せしに過ぎず、また同年十月下旬神戸に出張し、 須磨に遊びて大阪に返りし如きも、またただ銀行業の拡張と、上記せる兵器運搬を巡視せしに過 ぎざりき。  開戦以来、我が軍の連戦連勝を祝する為め、東京市民はこの年十二月上旬、上野|池之端《いけのはた》におい て東京市の大祝勝会を催し、氏もまたその発起人の一人たりき。  二十八年一月には、浦賀より三崎を経て、鎌倉に入り帰京せり、この行は蓋し将来横須賀、浦 賀において船渠《とつく》会杜等を起すの伏線なりき、二十八年四月には、また関西に向って旅行す、大津 を経て大阪に入り、神戸に出で宇品に赴き、それより広島、呉を経て熊本に赴き、天草を経て長 崎に至り、大阪に帰り、西京《さいきよう》を経て帰京せり、この行もまた既にその勢力範囲たりし九州各地の 銀行支店、及び将来支店を設置すべき土地の情勢等を視察するに在りき。  この年四月、日清両国の和議成り、始めて平和を恢復したるを以て、氏はその業務の発展と大 捷の喜びの意味にてもあるべきか、夫人及び家族若干名を携えて、この年五月下旬より上方《かみがた》見物 の旅行を思立ち、一同とともに京都各地の名所|巡《めぐ》り宝物観覧をなし、なお開設中なる博覧会をも    かつらのご しよ                                                          み い でら 見物し桂御所、修学院、二条の離宮を始め、東山の有名なる寺院に詣で、大津に行き三井寺よ り近江八景を見物し、なお有馬の温泉に滞在して、若干日入浴し、それより須磨、舞子《まいこ》に遊び大 阪に入り、また奈良を見物し、帰途は名古屋に立寄り、七月二日を以て帰京せり、その間およそ 一箇月、これ蓋し氏が得意時代における旅行の一つなりき。  我が国にて著名なる富豪の財産の大いに増加せしは、三回の好機会に乗ぜし者多きが如し、明 治十年以前のことは暫く措《お》き、その以後についてこれを言えば、第一の機会は日清戦争なり、第 二の機会は日露戦争なり、第三の機会は欧州大戦なり、この一大機会に遇うごとに、有力の富豪 は概ねその資産を倍加せざる者なきが如し、この三回の大戦において我が国はいつも勝者の地位 に立ちしゆえ戦後の好景気は諸物価の騰貴を促し、その為め自然と財産の高を増したる訳にて、 好景気の端は、先ず戦争当時の通貨の膨脹より発し、勝戦の後一両年、もしくは三両年の間は、 常に非常の好景気たること多し、通常の富豪すら、その資産はこの機会に因って増加すること多 しとすれば、明鋭にして商機に敏《さと》く巨額の資金を擁せし善次郎氏が、この三大機会において非常 の発展を為せしこと、また論無きなり。  前に記せし如く、氏は砲運丸、安田運搬所の外は日清戦役において、別に利益を得しとは見え ざるも、この戦いの終りたる両三年後の日本は、実に好景気たりしこと、今なお世人の記憶する 所なるべし、この好景気と共に、氏の財産はここに第一回の倍加を来せしものにて、右はその所 有物に付きてのみ、これを言うものなるが、およそこれら好景気の時代においては、諸種の有利 ---------------------[End of Page 26]--------------------- なる計画の籏生《ぞくせい》するを常とす、而して計画者は富豪の助けを借らんが為め、その株式の幾分を富 豪に提供して株主たらんことを望まざる者なし、故に当時の善次郎氏の如き地位に在りては、お よそいかなる有利の計画にても、その加入を勧誘せられざることなく、これに加入せし上、会杜 が有望なるときは、その株式払込以上の昂価は則ち資産の増加にして、好景気の時代におけるこ れらの利益は、また大たるものありしたるべし、今やその二十八九年度における第一回の大機会 は、ここに善次郎氏の為めに開かれたり。 第三十一 本伝の二十五 地方鉄道に放資するの企て11各種保険会社 の遊金H貸出の苦心"口数少く金高多きも の"本業以外の事業"日本銀行新築の落成 11主管任務の完結と賞状賞金  氏の経営せし諸会社の中には、既に戦前より計画されたるものもあり、一概に戦後の好景気に 乗ぜしとは言うべからざるも、とにかく戦後に作興された者もまた多い、これより先、東京火災 保険会社は氏の掌中に帰し、海上運輸に関する保険会杜、及び生命に関する保険会社等の諸機関 も一通りこれを収拾せしに因り、なお兼ねての意見たる陸上の運輸機閨に向ってその手を下さん と企てた、本邦鉄道の幹線たる東海道線、及び奥羽本線の如きは、国有たるにつき、その支線と も目すべき線路に向って、機会あるごとに資本を下すことを始めた。  氏がかくの如く各種の保険会杜を、その手中に収めしは、その宿論たる国富を増すの最良方法 が、運輸を開き、金融を円滑にし、保険を興すに在りとの見地からではあるが、しかしその他に なおここに一つの理由があったのである、それは外でもない、諸種の保険会杜は、何れも皆大な る遊資を擁するの場処であるからである、およそ保険の掛金なるものは、則ち一種の遊資であり、 その金高もまた莫大である、保険会社として、これを利殖することは、その利源の一つである、 而してこの大なる遊資を受入るる銀行は、また大なる資力を増す訳である、氏が諸種の保険会杜 を手中に握りしは、この遊資にも著目したのであろう、しかし氏がこのことに気付きたるは余り 早くではなかったようである、独り氏が気付かざりしのみならず、日本の総べての金融業者が、 この一大遊資の利用の大なるに気付きたるは、何れも皆ずっと遅かったようである、前にも述べ し如く、余は少しく我が国の生命保険業が端緒を開きし時の有様を知って居る、我が国にて最初 に且つ完全なる発達をたせしは、蓋《けだ》し明治生命保険会杜であるが、同杜の如きも創業の本意は、 決してこの遊資を目掛けたものではたかったのである。  嘗て略記せし通り、明治十三四年と覚ゆ、三菱会杜が多数の海員杜員の遺族を賑血《しんじゆつ》する為めの 積金をなさしめんと企てしに始まり、賑血法を孜究《こうきゆう》し、外国諸会杜の振合いを調査せしに、彼《か》の 地においては生命保険会杜なる者が、多大の役目を為し居《お》ることを看出した、ここにおいて当時 同杜の機務に参せし荘田平五郎氏等はむしろ日本に一つの生命保険会社を起し、三菱会杜の海員 杜員等を挙げて、強制的にヒれに加入せしむるとせば、先ずここに若干の被保険人を得て、会杜 の成立に大なる助けとなるべしと思考した、これは実に名案であった、因って最も適任者たる阿 部泰蔵氏に創立事務を託し遂に会杜は成立したので右は前にも略記せし通りである。  以上の如く会杜の本意はかくの如き者で、当初よりその掛金たる遊資の利用など、曽《かつ》て目的と せざりし訳にて、当事者と雛も、またこれを利用するの本意にはあらざりしなり、余の記憶する 所にては、会杜が掛金たる遊資を濫費するの嫌疑を避け、被保険人は会杜の安全を得心せしむる 為め、明治生命保険会杜の最初の趣意書中には、掛金全部は悉皆《しつかい》これを政府の公債証書と為し置 くべしと云う一条件が、槌《たし》かにあったと記憶して居《お》る、一方に掛金を受取り、一方にはこれを公 債証書に換え置くとすれば、これほど安全なる事業はない、まだ経験もない日本で、最初の保険 会杜に向って世人が信用を置いたのは、その当事者たる阿部氏の人《ひと》と為《な》りの堅実なると、三菱会 杜から多数の被保険人ありしと福沢、小幡《おぱた》、両先生の賛成などに、その信用を懸けたるに因ると は云え、この公債証書を積置く一条が、また大いに世人を安心せしめたと言っても宜いのであろ うo  最初は邦人も、保険の便宜を知らず、その発達も甚だ遅女たるの観ありしが故に、余の如きは これをもどかしく思い、新聞紙に関係し居たりし頃には、論説などを以て邦人の保険思想に乏し きを非難し、これを勧誘せしこともありしほどである、然るに年を逐うてその便利が知れ渡るに 従い、東西の大都会にて、これに倣う会杜が続出し、従って会杜はその遊資を擁することが、そ の一大勢力たることに心付くに至った、ここにおいてか保険会杜の企業者は、その事業の収益を 目的とするのみならず、その莫大たる遊資余金を利用するを以て、一つの大なる目的となすもの さえあるやを疑わしむるに至った、善次郎氏が諸種の保険会杜を企でしは、国富を増すの見地よ りせしものなりと難《いえど》も、これら諸会杜の莫大なる遊資余金が、氏の資力を増大し、その働きを一 層大ならしめたことは勿論である。  さて善次郎氏が、金融業者としての最初の苦心は、いかにして多大の資金をその手中に吸収す べきかに在ったのである、然るところ自家の手堅き身持と、その貸付方の細心安全なるとに因っ て、世上の信用を博し得て以来、その努力は空しからずして、安田系なる都鄙《とひ》各地の銀行は、莫 大の預金を集め得た、加うるに氏は筍くも游資ある処に向っては、これと関係を結ぶを怠らなか った為め(例せば米穀取引所または株式取引所の如く、遊資を擁する場所には常に連絡を保ちし 類)尚更資力は増大する一方であった、然るにこの好況でありながら氏は第二の困難に逢着した、 則ち第一の目的たる資力はやや満腹に向ったが、いかにすれば安全にこれらを利殖し得べきかの 点である、自家の手元に巨額の預金を引付くることにおいては、既にその望みを達したが、いか にせば安全にこれを繰廻し得べきか、いかなる方面に貸出すが有利にして無難なるべきかの一事 である、今一億円の游資を吸収するとすれぱ、いかに低利なりとも、利子を仕払わねばならぬ、 維新初年の官金の如く無利子の金筋は極めて少い、一日貸出しを怠れば一日の損となる、これを 貸出すべき安全なる相手を見出だすことの困難は、当初第一の目的たりし預金の吸収よりも、な お一層の困難事であったであろう、右は蓋し貧しき者の味わい得ざる苦痛にして、独り大金持の みこれを感知する所なるべし、されば極めて安全なる担保を取って、貸出しを為すは最上の策 ながら、それは五十万や、百万以下の少額には、さまでの難事にはあるまじきも、早や何百万、 何千万と云える金高となれば、多数なる小口の手堅き借人を相手とせんには、取調べの煩雑、手 続の面倒なること実に厄介千万と言わざるべからず、むしろ少数にて確実なる大口の相手を見出 すの簡易利便なるに如《し》かざるべし、また数千の小口よりも、二三の大口に貸付くる方が、監督 注意も行届き、且つ纒まりたる大事業を援助することとなり、事績も著しく眼前に見ゆる次第で ある、故にこの頃より以後善次郎氏が貸付の目的とする処は、多くこの後者に在ったかと思われ る。  氏は事を為すに謹厳緻密なるも、本来太っ腹のことを好むが為め、筍くも事業その物の性質が、 果して有利なりと考うるときは、仮令《たとえ》その発起人が多少の冒険性を帯び、危険と目せらるるもの に向っても、これを援助することを吝《お》しまなかった、前記せる砲運丸の如きも、則ちその一例で ある、事業者その人について言えば、決して堅実とは目せられぬ、またその事業も極めて地味と は言えぬ、しかし陸軍省を相手とする面白き企業である、元来他の金融家はかかるものに向って は投資し能《あた》わぬが通例である、然るを氏はこれを援助する、而して当事者が不始末なるときは、 その監督者たる権利に依って自らこれを経営し、損失を免るるのみならず、却って巨利を得るの である・あ献齢敬次郎氏の如きもまたその一例である、この人は面白き事業家であり、且つ冒険を 厭わぬ方である、しかし感心に種々の事業を営むのみならず、極めて大胆たる処がある、余も一 二回の面識はあるが、侠気を帯びたる面白き人物と見えた、しかし動《やや》もすればその事業に纏まり が付き兼ぬる場合もあるので、安全を貴ぶ金融家は、先ずこれを危険人物と目する者が多かった、 然るにも拘らず、善次郎氏はこれを助けて貸出しを吝《お》しまぬ、これらも大口に巨額を貸出した一 例である、また浅野総一郎氏の如きも、また世間で事業家と目せらるる一人であるが、この人も 思い切った大計画をたすようである、勿論時として失敗はあったにもせよなかなか図太い、勝敗 は兵家の常と云う如きやり口で、その事業には当るもあり、当らぬのもある、しかし百敗|挫《くじ》けざ る所は、一の事業家たるに擁《は》じぬ、世間の噂にては第一銀行が元その後援者であったが、氏の計 画が花々しく且つ大規模なるが為め、後年はむしろ出資を差控え、そろそろ用心を始めたとも云 われた、然るに善次郎氏は、この人の事業に莫大の金額を貸付くるを吝しまない、これ一つはそ の人をも見るに因るが、また一つにはその事業の良否を見るのである、その事業さえ宜《よ》ければ、 万一本人に蹉跣《さてつ》ありとも、自《みずか》らこれを経営して損失をせぬと見込むからである、故に氏が貸出し をなすに当っては先ず第一にその事業の性質|如何《いかん》を孜究する、筍くも事業さえ宜ければ、必要の 場合には自分が引取ってこれを経営すると云う度胸を持って居る、この点は氏が普通の銀行業者 と、大いにその選を異にする所以で、また貸付方の大胆なる所以である、普通銀行業者はいかな る良好の事業なりとも、本人に代って自らその業を経営すると云う度胆《どぎも》はない、またさような人 物もない、然るに善次郎氏は万一回収不可能の場合には、自己が踏込んでこれを経営する決心で ある、氏が大口の貸出しを為すには、種々の理由もあろうが、上記せる所もまたその一《いつ》たるを失 わぬ、氏がまた各地の鉄道建築に援助を要請せらるるに当り、身自ら必ずその沿線地方の貧富盛 衰を調査七なければ承知せぬ所以は、万一将来経営当事者が失敗の不幸あるときは、結局自身こ れを経営する量見があるからである、氏が貸出しを為す前に、いつも必ずその地につきそのこと を放究調査するは、畢寛この最後の手段に備うるに外ならぬ。  氏は本業たる金融の外、余り他の事業に手を出さぬように自ら戒慎して居たが、本来は事業好 きである、著名な事業家に貸出しを為すも、事業その物の有利を見込むに因ること勿論ながら、 一つは自分が事業好きの天性があるからである、往々大規模の計画を立つる人をば、金融業者は 通例これを危険視して、余り褒めぬものであるが、氏は全くこれに反し、さようた事業家、さよ うな人物をば、心から愛好する傾きがあった、藤田伝三郎氏の、小阪鉱山の経営について、氏は 一年小阪の実地を見る為め、同地に赴いたことがある、帰京の後、余に面会せしとき、氏は同鉱 山の大袈裟なること、及びその計画の大胆なることを、衷心から称讃して居った、その時にも余 は、氏が元来事業好きの性質なることを覚った、これらのことより察すると、大口の貸出しは事 務上の煩《わずらい》を省くとか、割合に利率が宜いとか云うばかりではない、畢寛は事業好きであり、ま た事業家を愛好する天性の人であったからのことと思われる。  明治二十八年には、氏の事業中において、珍らしき一事がある、氏は従来金融業を主とし、余 儀なき場合に陥らざる限り、自分が引取って事業を経営することは為さぬ方である、則ち氏が自 ら経営する場合は、いつも貸出しが失敗に傾いて来た時である、故に氏が事業に手を下だすは最 後の時に限って居た、例せば釧路硫黄山の如きも、その初めは自家経営の本旨ではない、貸金の 不回収より、止むを得ず自らこれを経営するに至ったのである、然るにこの二十八年に至って一 つの製釘《せいてい》会杜を企てた、当時我が国の釘は、一切これを輸入に仰ぎつつあった、依ってこれを内 地にて製造し、単に輸入を防ぐだけの量を製出しても十分の利益がある、尤も海外から半製品の 鉄棒を輸入し、これを釘に仕上ぐるの目的であった、米国人某と協議してその設計に依り、この 業を始めんとするのである、この事業は他人の後始末をなすにあらずして、最初より一つの工業 を自ら経営することは、氏において蓋しこの時が始めであったようである、さて開業以来、この 事業は随分苦境に陥り、その経営も容易ならぬ有様であった、他人たれば既に廃業したであろう に、さすがは氏のことである、忍耐と力量との二つに依り、これを持続して今日に及び、その分 工場の如き、燃料に便利な九州に設くる等の企てを為したが、時|恰《あだか》も欧州大戦の時機となり、莫 大の利益を収め得て、遂に先年来の損失を償い得て余りあると云う噂である、当初より善次郎氏 が自ら経営せし工業は、蓋しこのことのみであったろう。  またこの年には共済生命保険会社を株式組織となした、また二十九年秋田県の国庫金取扱を命 ぜられた、同年七月には武相《ぶそう》中央鉄道の創立総会に臨んだ、同年八月には建物会社の創立総会を 開いた、また同月に鳥羽《とば》鉄工所を引受くる契約が成立した、なお明治商業銀行の開業もこの年十 月である、同行の金沢支店の開業は同じく十一月一日である。  今や善次郎氏が、問接に関係を有する銀行及び諸会杜は多数となったが、就中《なかんずく》その中堅本営と も称すべき直属の者を挙ぐれば、安田銀行、第三銀行、明治商業銀行、帝国海上保険会社、東京 火災保険会社、共済生命保険会杜、東京建物会社、安田製釘所、の八社である。  また一身上については、二十九年一月、日本銀行理事監事の連中、与倉守人《よくらもりんど》、三野村利助、川 上左七郎、森村市左衛門、と共に勲四等に叙せらる、右は日清戦争に関し日本銀行における功労 を賞せられたものである、前にも記せし如く、氏は同行の監事にして且つ同行新築の主管たり、 新築の礎石を置きしは三四年前にして、その後絶えず氏は担当技師辰野金吾氏等と共に、引続き その監督に任ぜしが、二十九年三月に至り、新築全く竣工せり(即ち今の日本橋両替町の建物な り)、依って同月十日新築落成の内宴を開き、この建物を日本銀行総裁に引渡すの手続をなし、 更に新築落成の正式宴会を開くこととなり、監事三名その委員となる、氏はその委員長として、 宴会等の準備に取懸り、同月二十二日、新築落成の正式祝宴会を開いた、当日は皇族、大臣、各 国公使、朝野の紳士、約一千八百名を招いて行内を観覧せしめ、立食の饗応あり、氏はここにめ でたくこの新築担任の重責を果すことを得た、ここにおいて同年四月一日、日本銀行総裁より、 新築功労者に向ってそれぞれの挨拶あり、工事監督辰野金吾氏へは、金盃一組金一万円を賞賜し、 善次郎氏へは、同じく金盃一組、感謝状と共に金一千円を賞賜された、その他以下の事務員まで それぞれへ慰労金の賞賜あり、めでたくその局を結んだ、氏は同行普請中は、日々もしくは隔日 に、新築場を視廻り居たりしが、これよりその労を省くを得た、氏もこの任を首尾好く果せし心 祝いの為め、且つ同行より賞賜ありし謝礼を兼ね、四月桜花の候に至り、本所区横網町の自宅に 日本銀行重役、その他諸係を招き盛宴を開く等のことがあった。  越えて明治三十年、この年氏は六十歳の齢に達した、今この時における氏の財界における勢力 を一瞥《いちべつ》するに、   安田銀行   第三銀行   明治商業銀行   東京建物株式会杜   東京火災保険株式会杜   帝国海上鰍赦保険株式会杜   共済生命保険株式会杜   製 釘 所   日本商業銀行 氏の勢力範囲に帰したる銀行会杜の大略は、                 円 第百三銀行 大阪の安田運搬事務所 北海道硫黄事業  合  計  一、○○○、○○〇 二、四〇〇、○○〇 三、○○○、○○〇  一、○○○、○○〇 五、○○○、○○〇 三、○○○、○○〇   三〇〇、○○〇   四〇〇、○○〇 二、○○○、○○○    八○、○○〇    七〇、○○〇   三〇〇、○○〇 一八、○○○、○○○ 左の通りである。 第三十二 本伝の二十六 日本の養子"欧米支那の例11戦国時代の養 子11余との初対面"電燈会社との関係  この年、氏は伊臣貞太郎《いとみていたろう》を迎えて養嗣《ようし》と為し、これにその娘|暉子《てるこ》を妻《めあ》わせた、この時氏には六 人の実子(四男二女)があって、暉子はその長女で、長男善之助、二女峯子、二男真之助ハ早 世)、三男善五郎、四男|善雄《よしお》の人々であるが、当時長男善之助氏も未だ成年に達せず、次三男は 無論幼齢である、而《しか》して氏は既に六十歳に達し、やや老境に向うた、氏は自己に万一の場合ある とき、養子をして後見人の地位に立たしめ、実子の成立までこれを輔《たす》けしめんとの意向を持った ものと思われる、従来日本は、養子を許るす習慣の国柄で、商家には最もこの風か大いに行われ し故、氏もまた習俗に依ってこれをなせしものと見ゆ。  本来、養子なるものは、日本の外、世界の東西文明国においては、その例なきことにて、これ は日本特有の習俗と云うて可なるが如し、今の主なる欧米諸国において、法律上に養子なるもの を認めざることは勿論、東洋においてすら支那の如きも、古代から歴世の法律にこれを認めぬの である、支那の法律においては一家の継承はこれを男子のみに限りて、女子に許可せぬ、今まこ こに一の富豪ありとし、その家に女子ありとも男子なき場合は、女子に継承権を許さずその家の 女子に入婿《いりむこ》の養子を為すことを許可せず、その家は断絶する訳となる、日本の如く何等の血縁も なき他人を以て養子とし、その家を継承せしめ遺産を与うることは、幾《ほとん》ど世界の諸国にその類少 きものとす、故に旧幕時代の著名なる漢学者中には、日本の養子を以て惇倫《はいりん》の一事とし、その攻 撃論を草せし人すらありき、蓋し我が国養子の慣習は、封建時代の産物なるやに思わる、右の時 代には、武家の一門は兵役に服せざるを得ず、主人残して兵と為る者なきときは、軍伍に欠員を 生ずべきが故に、個強《くつきよう》なる男子を養子としその家を継がしめて欠を充たすの必要ありしたるべし、 これらの便宜上から、我が封建時代に、養子の必要を生ぜしにはあらざるか、特にその家に女子 あるとき、養子をこれに配すれば、その家の血縁をつなぎ、誠に都合がよかったからである、故 に仮令その家に継承の男子ありとも、なお幼年にして軍役を勤むる能わざるときは、差向き養子 を為して兵役に当らしめし風習もこれありし如し、大切なる一家の継承すら、養子を以てこれを 為し得るものとせば、継承権なき幾人の養子を為すとも無論これを許可せしものにて、もしその 家に相応の資産ありまた多数の女子あるときは、然るべき幾多の男子を養子となして、これを女 子等に配し、その姓を名乗らしめて、分家別家を興こさしむる者も少からざりき、これを要する に、我が国においては、養子なる一つの便法ありて、大いに門族を支うるの手段を助けしなり、 旧藩時代の武家方に在りては、泰平の時に多数の養子をなすものなかりしと錐も、商家農家に在 りては、随分多数の養子をなす者も多かりし如し、特に商家の如きは、多数の手代番頭を使役す るに当り、その中に養子を雑《まじ》うるときは、家族なるが故に事に当ることも親切なるべく、またそ の地位も高くして店の監督にも、他店との取引上にも、便宜多かりしなるべし、右は独り商家の みならず、乱世においては、武家方にても元亀天正の如き戦乱の世には、大小名《だいしようみよう》の家に多数の 女子あるとき、武勇の若者を撰《えら》び迎えて養子とし、女子等に配して当主を輔佐せしむる場合も少 からざりしその利益は、養子なれば或場合に大将の名代ともなり、臣下たる将士よりも威信高く して人も服し、そのことに当ることもまた親切にして、万事に都合|宜《よろ》しければなり。  法律において養子を認めざる支那の如きも、戦乱の世には、養子を為せしもの少からず、例せ ば明《みん》の太祖が天下を平定せる時の如きは、廿余人の養子ありて、これを将士の中に雑《まじ》えた、これ 兵を諸方に配置し、戦いを各地に開くに当り、養子を用うるときは、その権力普通の将士よりも 重く、本人が国に尽すの心は、則ち家に尽すの心にて、その利益少からざればなり、而してこれ らの養子には、必ずしもその主人公の女子を配するとは限らず、親族中の女子を以てこれに配す る者も多かりしなり、また全く女子を配せずして、ただ養子と称する者もありき、右等の養子は 大抵これを智勇ある若者の中より撰ぶこと故、戦陣における彼等の立功は、毎《つ》ねに普通の将士よ りも優れたるが如し、右は明の太祖のみならず、その頃天下を争いし他の連中にもまたこれあり しなり、この支那の状勢は恰《あだか》も我が戦国時代と相似たるを思えば、我国の養子なるものが、戦国 または封建時代の産物なることも、これを想像するに難からぬ、而して商家の商売は、即ち平和 の戦いなるが故に、我が国の商家において養子を為して、手代番頭以上の効果を収むる風習あり しも、また同様の訳合《わけあい》なるべきか。  また善次郎氏が養子を為せしは、この時に始まりしにあらず、これより先き、既に慶三郎たる 者を養子とせしが死亡し、その後また善四郎及び善助なる二人の養子ありしが、不幸にして善助 もまた死去したのである。故に貞太郎氏は即ち四人目の養子で、ただ長女を配せしが故に、前の 人々の時に比すれば、事態も鄭重《ていちよう》を極め、且つ将来その家事を託するの望みを属したりし如し、 この養子貞太郎は後に善三郎と改名し、善次郎氏の名代として安田家の業務を取扱わしむること 多かりき。  余が初めて善次郎氏と相知りしは、この明治三十年に在り、この年余は特命全権公使に任ぜら れ、北京駐創《べきんちゆうさつ》を命ぜらる、氏はこの頃より、既に支那に羽翼を伸ばすの深意ありしと見え、余を 訪問して、将来支那方面のことについて、何か世話にたるべしとの挨拶たりき、然れども具体的 に、かくかくの事業に手を下すべしとの話はなかりき、何か将来の伏線の為め来訪せし者の如く 感じたり、余は元と財界のことに無関係たれども、渋沢|子《し》、森村市左衛門|男《だん》等を始め、杜会に著 名なる財界の人々とは、大低面識なき者はあらざりしも、善次郎氏とは曽て一面の識なく、この 時が初対面なりし、当時余は氏を相応の資産ある家に生れた人とのみ思い、寒微《かんぴ》の出《しゆつ》とは実際考 えなかったのである、何となれば、その言語動作が、総て旧家にでも生長した人の如く見えたか らである、暴富を致せし人の中には、動《やや》もすればどこか品格の卑しき所ありと評せらるる者多き に反し、氏には幾どさる点を見出し得なかったからである、氏が実に寒微より出たことは、その 後にこれを知った、この時から余との交際は始まってその残するまで続き、後年に至るほど親密 になったのである。  この三十年頃まで、氏は東京電燈会杜のことに尽力し居たが、その後間もなく手を引いた、世 間では氏を評して、或一会杜が倒れんとするときは、資力を貸してこれを助勢し、その復興して 株券の価格が昂騰するときは、たちまちこれを売り放って引き退る、これが氏の慣手段であるか の如くに言い倣《た》されて居た、その例として、いつも電燈会杜のことが持出されたようである、氏 が時に或会社を救援するも、真実これを救援するのではない、ただその会社が復興して、株価の 昂るを待ってこれを売らんが為めであるとの世評である、当初は余も信じて居たが、その実情を 知るに及んで、全くさようでなきことを覚った、東京電燈会社の如きも氏は当初より長くこれを 助けて、その会杜に尽さんと欲する真意であったが、旧来の株主中に、会杜の全権が氏に帰する を喜ばずして、これを妨ぐる者あるを知り、氏も初念を翻して会社から退いたので実は大いにこ れを遺憾としたものである、当時の事情を知る人について聞かば、自ら明白たことである、決し て株の昂騰を待って売逃げをなす初志ではなかった、氏に対する世評が、往々その実を失して居 ることかくの如きは、氏の為めに気の毒な次第である。 第三十三 本伝の二十七 大阪市築港公債11間接の利益"茶事の交友 H貸出の観察法  明治三十年前後において、氏の働きの著しきものは、蓋し大阪市築港公債を一手に引受けたる 一事なるべし、同築港の計画は、当時の我が国力に対しては、相応に大規模の者なりしが故、そ の必要にして速成を要する大切の事業なるにも拘らず、半途にして財力の窮乏を告げ、当局者を して頗《すこぶ》る困難の地位に立たしめた、その頃の主任者西村捨三氏は、ここにおいて、北浜銀行の岩 下|清周等《せいしゆう》と密議し、築港局より千七百余万円の市債を募ることとなった、その時代の千七百余万 円は、随分の巨額にして、仮令《たとえ》この公債は事業の進行に随って、時々に払込むものとは云え一手 にこれを引受け得る者は甚《はなは》だ稀なる有様なりき、ここにおいて氏は進んでこれを引受くべく決心 し、明治三十年十一月の入札において遂に氏の手に落札した。  大阪は日本における財力の中心たることが、従来大阪人士の常に誇りとせし所なりしに、この 公債を全然挙げて東京方面に引受けらるるさえ体面に関する訳なるに、況んや善次郎氏一人の手 に委することは、いかにも大阪人士が脇甲斐《ふがい》なく見ゆるとの不平を懐く者もあり、特に岩下清周 は最初より内密に関係し居たる行懸りもあり、是非とも応募者中に加入したき旨を主張し、善次 郎氏との間に迂余曲折の交渉ありし末、氏も幾分を譲歩して岩下にその一部分を引受けしむるこ ととせり、然れどもその過半は無論安田家の独力にてこれを引受けたるものなり、故にこの公債 成立は、大阪方より小部分の加入あるにもせよ、世間にては幾《ほとん》ど安田一手の公債なるが如く看倣《みな》 したりき。  右の公債の利廻りその他の条件も、実は余り香ばしき方にあらず、当時の金融上より言えば、 何人も飛付いてこれに応ずべき程のものにはあらざりしなり、一般の金融上より算盤《そろぱん》に抜目なき 大阪商人が、これにその指を染めざりしを見ても、余り羨望すべき投資口にはあらざるを知るべ し、然るを何故に善次郎氏が、自ら進んでこれを引受けたる乎《か》、且つ他人の加入を欲せず、成る べく自分一人にてこれに当らんとせし乎、然る所以の者はその間に何か見る所なくんばあらず、 蓋し氏は公債その物に依って、眼前の利益を撰《つか》まんと欲せしにはあらずして、世人をして安田は その独力を以て、かかる巨額の公債を引受けたり、その力畏るべしと驚嘆せしめ、依りて以てそ の財力の偉大なるを吹聴せしめ、他日大なる間接の利益を得るの素地を作るに在りしなるべし、 当時安田善次郎の名声は、已に財界に重きを為し居りしと難も、この挙に因りて更に一層の実力 を世上に宣伝し、自家の信用を高めて、全国の企業家は必ずその加担者として氏に相談せざる者 たきに至らしめ、且つ氏の配下たる、都都《とひ》数十の銀行に、莫大の預金を吸収するの方便とも為《な》さ んが為に外たらず、これ蓋し氏の真意の存する所にして、その取らんと欲する所は、此《これ》に在って |彼《かれ》に在らざりしや必《ひつ》せり、氏が財界における駈引は、往々これに類すること勘《すくな》からず、この企て も、果して各方面に間接の好影響を及ぽせしこと甚大なりしが如し、但し氏自身に取りては、こ の応募は本来甚だ気楽たるものにはあらざりき、何となれば、築港公債は、当初未だ日本銀行の 見返品となること能わずして、ただ空しくこれを握り居《お》るに過ぎざればなり、この公債が融通の 範囲甚だ狭くして、他にこれを流用し能わざりしは云うべからざる不便にして、これ氏が実に忍 ぶ能わざる苦痛なりしたるべし、その後、大いに奔走せし結果と見え、日本銀行も遂にこれを見 返品の中に加うるに至りしも、それまでの間、一千七百万円の公債は全く死蔵せらるるに同じく、 氏の金融はこれが為め多少の窮屈を感じ居りし訳なり(後年外国に売出して、この窮屈から免れ 得たにもせよ)。  明治三十年、氏の一身上に付いて言えば、これまで日本銀行監事として、監査役を勤め来りし が、この年八月に至りこれを辞職せり、また三十一年には、衆議院の解散ありて、議員総選挙の 騒ぎとなる、この時本所区民の多数は、また氏を推挙せんと欲し、頻りに交渉を始めたりしが、 この度も氏はまたこれを固辞して他人に譲れり、蓋しこの頃に至っては自家の業務ますます発達 し、その身分も重きを加え来りしが為め、或職務に束縛せらるるは甚だ不便多しと考えたるに因 るたるべし。  氏は従来茶の湯好きにて、茶事仲間との往来は絶ゆることなかりしが、その茶友達はいかなる 人女たりしかを知るも、また興味あることなるべし、今明治三十二年十一月において、茶事に招 きたる人々の姓名を左に略記すべし、第一日の茶事に招きたる人々は原六郎、喜谷《きたに》市郎右衛門、 中沢彦吉、毛利金助、春田源之丞、川崎覚太郎なり。  二日目の来客は、佐藤進、近藤|廉平《れんべい》、加藤正義、南郷茂光、梅沢安蔵。  第三日目は、渡辺|洪基《こうき》、武井守正、吉武誠一郎、岩永|省一《しよういち》、桑原平七。  第四日目は、渋沢栄一、馬越《まごし》恭平、益田|克徳《こくとく》、浅田|正文《せいぶん》、栗山善四郎。  五日目は、益田|孝《たかし》、有島武、久保|扶桑《ふそう》、朝吹英二、中村作次郎。  六日目は、条野《じようの》伝平、金沢三右衛門、松浦|恒《ひさし》、岡崎|維素《ニれもと》。  七日目は、石黒|忠恵《ちゆうとく》、青地幾次郎、久松|勝或《かつもち》、加藤|嘉庸《よしつね》、岩見鑑造、  八日目は、東久世《ひがしくぜ》伯、松浦伯、伊東|祐麿《すけまろ》、東《あずま》子爵、三田|裸光《ほこう》。  九日目は、山本達雄、高橋是清、三野村利助、山口宗義。  十日目は、松方大蔵大臣、同夫人、大倉喜八郎、同夫人、山澄《やまずみ》力蔵。  十一日目には、川田小一郎氏未亡人、渡辺|騒《き》氏未亡人、米林《よねぱやし》俵作、木村|正幹《まさみき》、内田耕作、高津 金七。  十二日目には、瓜生震《うりゆうしん》、伊藤幹一、中島行孝、河上金次なり。  右の姓名を通覧するときは、氏の杜会上における地位とこの頃交遊せし人々とを知るに足るべ し。  前にも嘗て記せし如く、氏が貸出しをなすは、他の普通銀行の如く、公債に限るとか、または 某々の株券に限るとか、これを局限するにあらずして、荷くもその担保が価値ありて、その事業 の確実なるものたらんには、往々思い切ったる巨額の貸出しを為すことあり、これは日々劃一の 事務を繰返す普通銀行者には、望み得難きことにして、氏の如く何事も独裁の駈引をなす人にし て始めてこれを能くし得べきたり、その代り筍くも貸出しをなす場合には、いかなる山間僻地、 舟車不便の場所と雛も、簸苦《かんく》を忍んで自ら実地を踏査せざることなし、而してその観察方がまた 頗る奇抜なりき。  嘗て氏に随行して、東海道某地の田晶《でんばた》に対し貸出しの為め実地を踏査せし人の話を聞きしこと あり、その言に曰く、善次郎氏と共に検査せし田畠は、何れも相応の価値あるものにて貸出金額 に対すれば、先ず大丈夫のものたりき、故にこの担保は定めて及第するならんと考え居たり、然 るにこの地を去るに臨み、矯《ひそ》かに氏の意向を伺い聴きしに、氏の日いけるは、この村に来て田畠 その他一体の様子を観察せしに、神杜の手入れ修覆極めて行届かず、また学校の様子を視察せし に、これまた甚だ不行届なり、学校、神杜の取扱いをかくの如く打棄てて置く村方《むらかた》は、その人気 余り撲実ならぬもの多し、万一これらの田畠が後日担保流れとたり、これを処置する場合に至ら ば、必然大いに手古摺《てこず》るべき懸念あり、学校神杜の有様、かくの如き土地柄は、これを避くるを 可とすとて、この貸出しは遂に不調となれりと、また氏が各地に出張するときは、いつも朝早く 起出で散歩を為し、その節は必ずその地の富豪、または銀行家の門前邸宅の様子などを眺むるを 卿 常とす、これらも何かその胸中の参考に大なる資料となること、恰《あだか》も前記せる学校神杜の如くな   りしなるべし。 第三十四 本伝の二十八 硫黄山の結局11使用人の手当H一族子弟の 教養法"品格良き遊戯11政府事業の委員11 諸銀行の救済合併H諸事業の施設  先年より氏が経営し来りし釧路の硫黄山《いおうざん》は、この年(三十一年)の夏、一段落を告げ、事業を 片付くることとなれり、因って該山の主任者たりし杉山裁吉には賞状を与え、これに添えて二万 三千円の賞金を贈与した、今日にては二万余円はさほどの金と思われざるも、明治三十年頃に在 りては、相応の金高にて、賞金としては随分手厚き方と看《み》て可なりである、加うるにこの山は、 元と貸金の回収不能の為め、氏の手許に流れ込みしものにて、最初より自ら進んで経営せし者に もあらず、また我が国の硫黄は、常に海外(就中伊太利《なかんずくいたり》市場)の価に左右せられ、氏が数年に亘 りし経営中には、随分困難の時代多く、他人ならば疾《と》くに廃業し居《お》るべき場合も少からざりしに、 幸いに氏の如く有力にして根強き人の経営に係りし為め、永年の忍耐を以て、好き相場の時機ま で持ちこたえて、貯蔵品を売却せしかば、辛うじて利益を挙げ得たる訳《わけ》なり、故に氏の硫黄事業      菰れて   ああ  Pか                     た か は、決して濡手で粟を撰みし如き気楽のものにはあらざりき、故にその利益もまた多寡の知れた るものなりしに、その頃の金にて二万何千円の大金を賞与せしは、決して吝畜家《りんしよくか》の能くし得べき 所にあらず、世間にては往々氏を目《もく》して、賞謝に吝《やぶさか》たる人の如く考うる者なきにあらざりしも、 これらの事実を考うるときは、右の世評も当を得たりとは言い難い、尤《もつと》も氏が使用人に対する手 当は、十分ならずとの評は、多少の根拠なきにあらず、然れども一概に人を賞するに吝《やぶさか》なりと するは誤れり。  氏がその使用人等に対して、給与の潤沢ならざるに似たるは、事実その傾きありしも無理から ぬ場合あるべし、その仔細は、氏が生い立ちし頃の物価を考うれば、生活の必要品として諸物価 の標準たりし米価も、金一両に対し米二斗何升と云える相場なり、もし一両を一円と見れば、} 円にて二斗何升乃至三斗に近き米を買い得た訳である、右は氏が少年時代のことなるべきも、そ の既に出府して門戸を張り営業を始めたときと雛《いえど》も、米価はたお一石僅かに六七円を超えざりき、 都会すらかくの如し、地方に至りては三円乃至四五円は、まだ高価の方なりき、またその頃の都 下における湯銭の例を見るも、我々が記憶せし明治十年以前は、一銭にも上らざりし時代甚だ久 しかりき、故に維新前後は、江戸における下女下男の給料も、一年僅かに四五円に過ぎず、従っ て手代番頭の給料も、月十円たどとは思いも寄らぬことにて、年中の仕着せ、食料を仕賄《しまかな》う上に て、給料が三四円に上るものは、高給の部類なりしなり、故に氏が辛うじて、店らしき一戸を構 えたる時などは、その物価の賎しきこと知るべし、氏はこれらの年月中に、簸苦《かんく》を経て資産を積 上げしこと故、物価の極めて賎しかりし時代のことのみ、深くその脳裏に印象され、且つ氏自身 が人に勝《すぐ》れて忍耐節倹なりし故、己《おのれ》を以て人を計り、筍くも成功を心掛くる者は、我が身の如く 難苦に堪え、窮乏に甘んずべきものなり、との主義を固執し、その使用人等に臨むにも、またこ れを以てせしは、無理からぬことなり、氏がかかる成立ちとかかる主義とを以て進み行くとすれ ば、使用人等に対して、他杜に比較し或は潤沢ならざりしは、事実なるやも知れず、夫《か》の中上川 彦次郎氏の如き財界の新進有為の人が、物価昂貴の時代に雄飛を試《こころむ》るため、三井一派の使用人 に対して、思切ったる高額を給与し、世人をして三井一派の給与の潤沢なるに喫驚せしめしとは、 自らその趣を異にせざるを得ず、勿論善次郎氏とても、貨幣の昇降に因る物価の桁《けた》が、今昔の間 に非常の懸隔ある一事に気付かざるの理は、万々これなき訳にて、今の金は昔の金に対して、こ れ程の隔たりありなどとは、百も承知、二百も合点《がてん》ながら、人情習慣の弱点は、また致し方なき ものにて、昔に対し今は五倍に昂騰せるものをも三倍くらいに感じ、昔に十倍せるものをも五六 倍に感ずる如き場合は、或はこれありしならん、故に昔に比して今は使用人に増給せねばならぬ 位のことは、万々承知し居りたがら、その増し方の程度が、実際よりも多少内輪に見積られたる 如きことは或はこれあるべし、氏も常にその辺の権衡《けんこう》をば懸念し居たるらしく思わるるは、氏の 晩年に至り、社員の主なる連中、即ち安田家の幹部とも称すべき人女を集めて、使用人に対する 手当支給方の厚薄につき、各自の意見を聴くため、特に会議を開きし節、列席中の硬骨なる一二 の人々は、「他杜に対し安田家の給与の低落なること、及び今のままにて増加せざれば、世間と 歩調を共にし難く、安田家の将来に甚だ利あらず」と論ぜし時、氏は一も二もなくこれを頷《がん》し、 「左様《さよう》であろう」、「左様《さよう》のこともあろうかと思って、心配して居た」とて、直ちにこれを採用し、 給与法を潤沢に改正した由である、これは氏の残する六七年前のことのように聞いて居る、右の 如き進言者に対して、氏が直ちにこれを採納する如きは、平素より給与の過不足に留意懸念せし 一証と見て可なり(但し安田家の中級以下の使用人の手当は、他に比して決して低下にあらず、 以上の点は専ら上級幹部の給与についてこれを云うのみ)。  善次郎氏が、その子女に対する教育法も、当初と晩年とは多少の趣を異にしたようである、維 新後より明治十年頃までは、氏はどこまでも、旧来封建時代の商家の慣習に従い、その子女を教 育する考えであったらしい、これも尤《もつと》も千万のことで、封建時代には、士族の一階級が専ら世事 を取扱い、農工商は見物人の地位に立ちし三百年の風習を承けしこととて、維新後に至り、四民 の別は全廃せられても、なお世事に関し、杜会を操縦するものは、士族階級の特権なるが如く思 い倣し、農、工、商の種族、就中商人は、なるべく世上の紛転《ふんうん》を避け、その行動を商売一式に限 る方が、家門の為め、職業の為め、安全無事なりとの主義は、商家一般の方針なりぎ、而して遠 からぬ将来に、世間の万事が総べて士族階級の手を離れ、資産ある商人富豪も、これに関係せね ばならぬ世の中と変化すべしとは、何人も思い寄らざりし所にて、子弟の教育も、学芸よりはむ しろ商売の実際に親しましめ、小僧より慣らされて手代番頭に昇ると云える如く、実地に習熟せ しむるを必要と考えたるは尤も千万のことなり、右は当時の商家一般の風習にて氏もまたかくの 如くその親戚一門の子弟を教養するの方針を取り、たるべく早く実地の奉公を主とせしむるの傾 きなりしが如く、然るに一門の子弟等は、自然《おのず》と世の変遷を覚知し、小学教育に甘んぜずして、 中学及び高等教育にまで進まんとするの切望懇願をなす者多きに至れり、ここにおいて氏も已《や》む を得ず彼等の請求を許可して、高級教育を受けしむることとし、ここに氏の子弟教育法も遂に変 更を生ずるに至れり、また彼等がその成長するに従い、自然に下品なる音曲《おんぎよく》遊戯に踏迷うを予防 せんが為め、氏は彼等を強制して、謡曲及び茶の湯を習熟せしむるを常とせり、人性は元と無味 乾燥に甘んずるものにあらず、何等かの遊戯遊芸を以てその心を楽しましめざるを得ざるものな り、氏はこの人性の微妙の点を覚りしが故に、その子弟をして、音曲遊芸に楽しむの道を得せし め、無難なる方面に彼等を誘導せんと企てた、故に氏の門族に生れたる子女は、何人も皆謡曲及 び茶の湯に堪能ならざる者なく、その中には、まま玄人《くろうと》の塁《るい》を摩する者すらこれあるに至る、氏 が心を教養に用うるもまた至れりと云うべし、また謡曲、茶の湯だけにてはその身体|屏弱《せんじやく》に陥り、 勇気を欠ぐの倶れあるが為め、また彼等に強《し》うるに乗馬を以てせり、故に氏の一門の子弟は、皆 な乗馬の心得なき者なし、氏が六十歳位までの間は盛んに乗馬をなせし時代にして、殆んど毎日、 もしくは隔日の如く、その長男善之助氏を伴い、近郊に出馬せざる日なき程たりき、これまたそ の心を壮《さかん》ならしむる一種の教養法と見るべきである。  氏の事業方面については、明治三十年以来、三十五六年に至るまで、順調に各方面の業務を拡 張して止まず、別に特記すべき新事業なきも、旧来の営業はますます発展するのみなりき、即ち 銀行業より言えば、経営困難に陥りて、援けを氏に求むる諸銀行を救助して、これを我が勢力範 囲に加うることを怠らず、また地方鉄道の有利なるものあって、助勢を求め来るときは、これに 対して応分の力を貸して、これを部下に収め、また官民合併の事業にして、加入を促さるるもの あれば、その有利なるものは、これを引受けて株主と為り、将来の利益を得るの地歩を作りし等、 著々として拡張を怠ることなかりしかば、その財力は年と共に倍加し行くのみたりき、今上記の 年次における、その主たるものを略記すれば、官民合同の事業として政府より委員に命ぜられた るもの左の如し。   明治三十年には、台湾銀行創立委員を命ぜらる。   同三十一年には、農工商高等会議議員を命ぜらる。   同三十二年には、鉄道国有調査委員に任ずる内命あり。   同年、北海道拓殖銀行創立委員を命ぜらる。   同三十三年には、日本興業銀行創立委員を命ぜらる。   同年、京釜《けいふ》鉄道創立委員を命ぜらる。  右の如くおよそ政府の施設する重大なる事業にして、委員の選抜ある時は、必ずその選に与か るを常とす、また右の事業が成立するときは、委員の一人として、その株式を引受くるを常とす、 而してまたこれら事業は、政府の保証附のもの多く、通例払込額以上に騰貴するが故に、労せず して坐《いな》がら有利の事業を、手中に収め得るの有様なりき。 また民間の銀行事業方面についてこのころのことを略記すれば左の如し。  明治三十一年には、根室《ねむろ》銀行を設立す。  同三十三年には、群馬商業銀行を設立す。  同三十四年には、千葉第九十八銀行を救済す。  同年、熊本第九銀行の整理を引受け、これを開店せしめ。  また、岡山第二十二銀行の整理を引受く。 以上の諸銀行は皆これを復活せしめて安田系統のものとせり。 また銀行以外の事業としては、  明治三十二年、安田商事合名会杜を設く。  同年、浪速《なにわ》紡績会杜の競売において、入札の上これを引取る。  同三十二年九月には、自分一手において東京湾築港の請願を提出せり(但し許可を得ず)。  同三十三年には、大阪の天満《てんま》鉄工所を引受けて、これを大阪安田鉄工所とす。  同年、東京大阪間に高速力の電気鉄道敷設請願をなせり(許可なし)。  同三十五年には、横浜電気鉄道会杜を救済し貸出しを為す。 また土地の買入れにおいては、  三十二年、東京市芝区佐久間町二丁目の地所数千坪を買入る。  同年、東京市麻布区|仙台坂上《せんだいざかうえ》、水谷町《みずたにらよう》の地所を買入る。   また東京神田区錦町の地所を平沼家より買取るの地歩を作る。  右の如く、年を累《かさ》ぬると共に、各方面に向って、氏の勢力はますます発展し、氏の声望はます ます日本の財界に重きをなすのみなりき。  右は単に、著しき者のみを掲ぐ、この他小会杜及び小商店の救済貸出し等に至っては、その多 きこと知るべきのみ。  この年、この勢力範囲内の八会杜の幹部員を集めて、八杜《はちしや》会なるものを設け、毎月一回|打集《うらつど》う て懇談会を開くことを協議す、議成りて、三十三年十一月八日上野精養軒において発会式を挙ぐ、 ここに初めて八社会が生れた、その杜名は下の如し、株式会社第三銀行、合名会杜安田銀行、帝 国海上保険株式会社、東京火災保険株式会社、共済生命保険株式会社、東京建物株式会杜、株式 会杜明治商業銀行、安田商事合名会杜。  以上八杜なりしにこの会合は二十余年継続して今日に至り、会杜の数も左の如く増加して二十 一杜となれり、然もなお八杜会の名を改めず、合名会杜安田保善杜、株式会社安田銀行、株式会 社安田貯蓄銀行、株式会杜日本昼夜銀行、株式会社第三十六銀行、株式会杜帝国商業銀行、株式 会杜第十七銀行、安田商事株式会杜、共済生命保険株式会杜、水戸鉄道株式会社、東京建物株式 会杜、帝国製麻株式会杜、東京火災保険株式会社、東洋火災海上再保険株式会杜、帝国海上運送 火災保険株式会杜、群馬電力株式会杜、秋田電気株式会杜、小湊《ニゐなと》鉄道株式会杜、興亜起業株式会 杜、日本紙器株式会杜、京浜電気鉄道株式会杜等、都合二十一杜を網羅して居る。 第三十五 本伝の二十九 竹竿の如し"日露開戦"大阪第百三十銀行 の救済"七十歳の資産  善次郎氏の財産の太り方を形容すれば、恰《あだか》も竹竿《たけさお》を逆《ごかさま》に立てたようなものである、平均三四 年口に大利益を得る好機会が来る、その機会を竹の節《ふし》に傍《たと》えて宜《よろ》しい、竹は一節ごとに太って来 る、一つの機会ごとに氏の財産も太って来る、竹は太ると共に節が近くなって来る、財葭も太る ごとに機会が早く来る、節が来れば竹が太る、太さを増すごとに、節が近くなる、財差を増すご とに、機会もますます早く来るのである。  しかし柳《いささ》か竹竿《たけざお》と異る所もある、竹竿の節《ふし》は大抵同一の割合で太っで.来るが、資産家の生涯に は非常にその富を増すべき大機会か三四|度《たび》は来るものである、これを竹竿に讐うれば、非常に不 釣合なる大節《おおふし》が、時として生ずる訳になる、善次郎氏に取っても、三大機会があった、その第一 は日清戦争、第二は日露戦争、第三は欧州大戦争である、而《しか》しイ、その第二の日露戦争は明治三十 七年に開かれた。  戦捷に必要なる者の一つは、国家の財力である、日露開戦は同年二月六日であったが、これよ り先、我が政府は既に決する所があったと見え、一月十八日において大蔵大臣は、その官邸に、 我が国の金融機関に関係せる首脳者五六名を招待した、その人々は松尾日本銀行総裁、正金《しようきん》銀行 |頭取《とうどり》、三井の早川千吉郎、三菱の難川良平、第一銀行の佐々木勇之助、第百銀行の池田謙三及び 阪谷|芳郎《よしろう》、目賀田《めがた》種太郎、添田|寿一《じゅいち》と善次郎氏とであった、この時右の来会者は開戦の避け難き を知り、我が国の安危を決すべきこの大切の場合において、無論十分の心力を尽すべきことを打 合せた。  越えて同月二十一日、氏は山県元帥を訪問し、時局の財政について、その意見を陳述する所が あった、かくして二月六日、日露交渉の談判はここに行詰り、いよいよ開戦の外なきに至り、同 月十日旅順の露艦襲撃の挙となった、而して十一日を以て宣戦の詔勅は発布せられた、かかる多 事の際に、氏の配下なる福岡第十七銀行の本店は翌十二日に焼失したが、幸いに大いなる損失も なかった、戦時中氏は財界の主なる人女と共に、政府の財政に貢献する所が多かったが、その中 特に氏の努力を要すべき一事件が発生したウ  大阪の第百三十銀行は、同地において主なる銀行の一に数えられ、その経営者は、同地有力家 の一人にして、且つ交際も手広く、後輩の引立てにも尽力するの評ある人であったが、種々の事 業を援助せし為め、貸出金は多く回収不能に陥り、この頃に至っては、やや破綻を露呈せんとす るの徴が現れた、ここにおいてかその当事者は、善次郎氏を訪問して助力を求めたが、右は容易 ならぬ大事なるを以て、氏も躊路《ちゆうちよ》してこれに応ずるに至らなかった、当時第百三十銀行はその資 本金三百二十五万円にして、預金は八百八十三万余円、これに対する貸出金一千一百三十七万円、 その過半は回収不能の有様となって居たのである。  大阪は、我が国財界の中心と云い、殊に該《がい》銀行は大阪にて最も活動し来った店と云い、その預 金も巨額に達し預金者の数も多大なりしを以て、今もし破綻に任せてこれをそのままに打ち捨て 置かんには、同地の財界に大恐慌を惹起し、同地商人等に対し一斉に不安を感ぜしむるに至り、 従って他の諸銀行に及ぽす影響も甚大となるべく、殊に開戦以来、未だ三四カ月を経ざる折柄に もあり、全国にいかなる余波を及ぽさんも測り難い、然る時は戦時の財政上甚だ面白からざる現 象を生ぜんも知るべからずとし、政府当路者の心痛も一方《ひとかた》ならず、桂総理大臣、曽根大蔵大臣を 始め、何等か応急の手段を施すべき必要を感ずるに至ったが、その方法はただ財界の最有力者を 見立て、これに整理を託するの他なく、且つ戦時のこととて人心の動揺を防ぐには、急速にその 救済を遂ぐるの必要あり、仮令これを救済し得るとするも、多くの時日を空過する如きことあら ば、その効力は減殺せらるべし、故にこれを処理するに足るべき十分の財力と、急速にこれを切 捌《きりさば》くべき技禰ある人物とを見出さざるべからず、かく考え来れば当時の財界において、善次郎氏 の外これを託すべきものあるたし、依って両大臣よりその内談を初め、また井上伯もこれに後援 することとなり、この相談は同年六月中旬より氏に向って開かれた、時恰かも大戦最中と云い、 且つはその救済も極めて困難なるべしと察せしかば、当初氏はこれを固辞したのである、然ると ころ当時氏を除いては他にその人なし、「是非に引受けくれよ」との、井上伯始め、桂総理大臣、 曽根大蔵大臣等の懇嘱ありしに依り、氏も奮ってこれに当らんと決心し、直ちに大阪に出張して、 第百三十銀行の帳簿検査に着手した、しかしその救済はなかなか困難であることを見て、氏はそ. の引受けを蹟踏した、とは云え上には朝野先輩の懇諭あり、下《しも》には大阪の有力者、藤田伝三郎|土 井通夫《どいニ ちお》等、その頃同地財界の著名なる人々の懇請も黙止し難く、氏は遂に救済案として、大体左 の要求を持出した、即ち同行の重役連において、壱百参万円を持出すこと、また政府より六百万 円を貸与さるることと、右は年二分の利子として、五箇年問据置き、後ち五箇年以内に返納する こと、右以外の入用の金額は自分の力を尽してこれに応ずる等であった、しかし右の条件はちょ っと纏まり兼ね、その間には、種々の紆余曲折ありて、この相談も一時は不調と見られし場合も あったが、結局双方の互譲にて、いよいよ氏がこれを引受くることとなり、いかに多額の預金引 出しに逢うとも、十分これに応じ得るの手配を調え、七月十一日、遂に同行は再開業をするに至 った。  さていよいよ鉦行を開くとすれば、預金者は取付けに殺到し、非常の巨額を払出さざるを得ざ るべしと予期し居りしに、開店の俊、五日間に、預金の引出されし総高は、僅かに三百二十七万 余円に過ぎざりき、而して一方にはその間五十万余円の新預金者ありし程にて、存外静穏なる状 況なりき、これ畢克安田善次郎が引受けし以上は、もはや安全たりと、世人が信用せしに依るも のにして、預金者はその預金を同行に据置くも、何の不安なしと考えしものなるべく、この際に おいて新たに五十余万円の預金を受入れしなどは、最も氏が信用の世上に厚きを証するに足るの である。  当時世間にては、氏が非常に有利なる条件を提出して大いに自家の利益を図《はか》りし如く想像せし 者なきに非らざりしも、実際この救済業務は、氏に取って余り割合よきものにはあらざりき、何 とたれば、その後七八年間は銀行の復旧を努むるのみにて、思わしき利益も無かったからである、 然れども氏の期する所は永遠に在りて、目前にあらず、故に爾来二十余年を経たる後日において は、五十円払込の株券の時価は、額面以上となるに至り、政府の貸下金も契約通りこれを上納し (その実は二箇年早く、これを償還し得るの準備ありき)やや完全のものとなるに至れり、氏の 引受くる事業は多くこの流儀にて、引受け当時は随分困難にして、決して世人の想像する如く、 割合よき仕事にあらざるもの多かりしなり。  日露戦争中、財界における氏の働きについて特筆すべきは、右の一事のみにして、その他軍国 の財界に貢献せし所は、他の銀行業者と別に異る所なかりき、また戦時中において、一櫻《いつかく》万金と も称すべき何等の投機事業を企てしことなく、ただその業務をますます拡張するに過ぎざりしな り、越えて三十八年、日露の嬬和《こうわ》成り、その一両年はいわゆる好景気の時代にして、その状は恰《あたか》 も日清戦争後の一二年の如く、諸株式は皆|執《いず》れも暴騰する時代となれり、この時において善次郎 氏の資産は、また多大の膨脹をなしたること、他の富豪と異ることなし、ただその規模の彪大に して勢力範囲の広潤《こうかつ》なるだけそれだけ氏の財産の膨脹も、また甚だしかりき、尤も戦前より買付 け居りし有価証券類が、この好景気の時代において、その絶頂に暴騰せし時、これを売放って収 め得たる利益は少からざるに似たれども、それ等は非常な多額には上らざりし如し、要するにこ の大好景気の為め、所有の株券及び地所等の価格が暴騰せし為め、その財産もまた膨脹せしと見 るべきなり、明治四十年における氏の関係銀行及び、諸会杜を挙ぐれば、その資本及び預金等は 左の如く増加せり、当時氏はその齢|正《まさ》に七十歳に達した。    明治四十年度の関係銀行会杜  銀行名 安田銀行 第三銀行 第十七銀行 第百三十銀行 第二十二銀行 根室銀行 肥後銀行 京都銀行 第九十八銀行 日本商業銀行 払込資金     千円 二、○○〇 二、四〇〇  五〇〇 一、六二五  六六〇  二二五 二、○○〇  二五〇  二四〇  五〇〇   預金高         円 一二、九〇五、三九五 二〇、八五五、八一五  二、九七二、四四五  九、〇六〇、○○〇  三、一五八、○○〇   九八四、○○〇  四、○○○、○○〇   五五〇、○○〇   六三八、○○〇  六、三七三、二九三 第三十五 本伝の二十九 高知銀行        八○○    合計一一、二〇〇  会杜名 共済生命保険株式会杜 東京火災保険株式会杜 帝国海上運送火災保険株式会社 東京建物株式会杜 中国鉄道株式会杜 秋田電気株式会杜 水戸鉄道株式会杜 京浜電気鉄道株式会杜    合  計  一、六二六、一五二 七二、一二三、一〇〇   資本金         円   三〇〇、○○〇 一〇、○○○、○○〇  三、○○○、○○〇  五、○○○、○○〇  五、三〇〇、○○〇  一、○○○、○○〇   二三〇、○○〇  五、一〇〇、○○〇 二九、九三〇、○○○ 第三十六 本伝の三十 事業と私交との区別11京都の紳商U支那の 張之洞U老婆を避くH和敬会  善次郎氏の生涯を通じて、最も目立ちたる習性は、氏が事業と私交との界《さかい》を劃然と区別してこ れを混同せぬ一事である、仮令対手《たとえあいて》の人格はさまで気に入らぬ者でも、その事業が確実であれば、 大なる取引をするに躊蹄《ちゆうちよ》せぬ、またこれに反して対手がいかに懇親の間柄でも、その事業が不安 なるときは、決して取引をせぬ、右は余り窮屈に似たれども、事業を堅くし、私交を全くする上 より言うときは、この行為が却って宜《よ》い場合が多いと見える、また右は氏の成功に与《あずか》って大いに 力ある箇条の一つであるとは、氏に使用されし人々の言・つ所である、また我々が知り居《お》る事歴に ついて考うるも、爾《し》かあったようにも見える、これは独り氏のみに限らず、成功せる金融業者に は大切なる一条件の由で、或有名なる金融家の言に「人から借入れを懇請されたとき、平気に断 って通ることが出来るようになれば、もはや立派な金融業者である」と、これが或は金融の秘訣 かも知れぬ。  事業の性質が不安なるものは、いかほど懇親に持掛けても、氏はなかなか貸出しを承知しない 人であったと云われて居る、或年氏が京阪に出張せし時、京都の著名たる一富豪が、その関係事 業に、金の逼迫《ひつはく》を感じ、貸出し方を薄々氏に申込んで置いた、そして氏の神戸滞在を好機として 京都より出懸け、懇親の間柄ではあり、開碁は氏の最も好む所であるからして、幾ど一昼夜の間、 氏と碁を囲みて懇情を温め、既に機は熟せりと考え、この相談を持出せしに、氏はやはり承知せ ず、これを断りたる由、このことは当事氏に随行してそのことに携わりし人の語る所である、上 記の富豪も著名の人物にて、彼の身代より言うも、この位の貸出しはさほどに危険なき対手にて、 且つ互に遊戯に打興じたる揚句のことなれば、大抵の人ならばこれを応諾せざるを得ざる場合で あったにも拘らず、その能《よ》くかくの如くなりしを見て、この随員は氏の意志の堅固たるに驚きた りと云う。  また他の一例を言えば、明治三十五年頃と覚ゆ、支那の湖広《ここう》総督|張之洞《ちようしどう》が、或事業について、 日本より資金を入手したしとの内談あり、張氏はその頃支那における最有力の人物にして、その 人格もまた当世第一流に推されて居た、我が外務省にても、この人を助け置かば、種々の利権を 我が国に得るの便宜も多かるべきを以て、何とかしてその請《こい》に応じたく思いたるも、善次郎氏の 外は右に応ずるに足るべき十分の資力者なきを察して氏に内談あり、氏もまた兼ねてより、支那 に羽翼を張らんとの志ありしが故、ともかくも実地について、これを調査し、可否を決すること となれり、因って外務省は、上海《しやんはい》の総領事、及びその向き向きの駐在官等に向って、氏と同行し、 または氏に便宜を与うべき旨を内訓し、氏もまた四五名の随員を伴い、支那に向って出発した、 右は同年の四月頃であった、そしてこの行を概言すれば、氏が漢口《かんこう》に出張するについては、同所 では相応の騒ぎであった、氏の一行が上海総領事と共に漢口に着するや、総督|衙門《がもん》からは、手厚 い接待があり、旅宿なども、別に或役所を修繕して、これに充《あ》てたと云うような鄭重な取扱いで あった、かくて先方の申込んだ事業の調査に取掛り、先方と種々相談するに至って、氏はこの取 引を余り安全たらずと考えしと見え、冷然と出資を謝絶して帰朝した。  氏は絶えず内地旅行を為し居たりしも、未だ海外の地を踏みしことたし、海外の風俗を見しこ とは蓋《けだ》しこの時を初めとす、故に支那国内の万事が不取締りにして整頓せざる状況を見、百事精 密に行届きたる我が国とこれを比較して、大いに不安を感じたるにも因るべく、また他に種々の 原因あらんも、支那全体の事物が一体に不安にして、莫大の資本を投ずるに不適当なりと感ぜし は、憧《たし》かにこれを謝絶せし一原因なるべし、氏が当時の日記中にその歌が記してある。      清国人の生活する様の如何にも      劣等に見えて憐れなれば   あはれこの濁江《にごりえ》にのみすむ魚《うを》は     うかぶ瀬《せ》もなき世《よ》をかこつらん と、支那人の生活程度の低くして、その憐れむべき有様には、氏も驚き入ったものと見ゆ。  蓋し当時支那側の考えは、その事業に限って貸出しを望むに非ず、むしろいかたる名義にても、 ただ多額の金を借入れたき志望で、必ずしもその提出せる事業には限らなかったのである、大抵 の者ならんにはこれ程の取扱いを受け、これ程の行懸りであれば、多少の貸出しは為したであろ うに、氏はその胸に落ちぬこととあれば、いかなる鄭重の取扱いを受け、先方がいかなる大騒ぎ を為すとても、決してこれに応ぜぬのである、これは氏が事業を不安たりと見れば、いかなる相 手でも、いかなる事柄でも、決して私情に絆《ほだ》されぬ意志の強さを示すの一例と言うても宜いであ ろう。  然らば、氏は曽て一滴の涙もない人かと言うに、決してそうではない、その甥《おい》たどに訓戒を加 うる時などは往々双眼に涙を浮べて居ることが多かった、今日でも一門中にはそのことを語り出 して故人を追慕する人々が多い、衷情は非常に温かい所のある人であったとは、側近者が今日も 想い出して語る所である、また或人が四谷の伊賀町《いがまち》辺の狭き小路を通行せしに、折柄の道普請《みらぶしん》で、 僅かに一人の通行を容るるほどの悪路であった、丁度向うから貧しき老婆が来た、一人の紳士が これと行逢うた、敦《いず》れか泥浮《ぬかるみ》の中に避けねばならぬ場合となった、その時紳士は足を泥に没して これを避けて通した、それを見て居た人が、後その紳士を見ると、それは善次郎氏であったとは、 当時傍観した一人が嘗て余に語った直話《じきわ》である、その人も、善次郎氏が人知れぬ処にかかる親切 あるには驚いたと云う話であった、その他にもこれに類する話を往々聞くことがある、本来は胸 に温情を蓄えながら、私情と事業取引とは劃然としてこれを区別し、毫も混同せぬ所が、一つの 特長であった、山本達雄|男《たん》が、日本銀行総裁たりし時、嘗てその友人の為め、善次郎氏に向って 或鉱山に貸出しを所望した、氏はそのことの山本氏に不利なるを説いて、固くこれを苦諌《くかん》したが、 山本氏はまた友人の窮を救うに篤《あつ》き人であるから、是非貸出しくれよと懇請した、その時善次郎 氏は「これ程に自分が留めるをも聴かず、貸出せと言わるるならば、貸出しもしようが、それで は万一回収不可能の場合には、貴君に返済を要求するが、それも御覚悟であるか」と念を押した、 山本氏は「無論のことである」と答えてこの貸借は成立したが、後不幸にして善次郎氏の恐れし 如く、その事業は不振に陥り、貸金の返済不可能となった、その時善次郎氏は用捨なく山本氏に 要求して来た、これは余が嘗て山本氏から聞きし話である、かくの如く私情は私情、取引は取引、 日本銀行総裁とて取立つるに用捨はせぬ所に、氏の特異なる一端が窺われる。  明治三十二年頃に安田商事会杜を設立したことは、前に記したが、この商事会杜なるものは、 安田一家がこれまで経営し来った雑事を挙げて、総べてこの会杜に引纏めたものである、例せば 倉庫事業の如き、また硫黄山より製出した硫黄売捌き事業の如き、または大阪に在りし安田運搬 所の如き、また製釘所の製品を売捌くが如き、その他種々なるものを一括して、この商事会杜の 取扱いとなしたのである、しかしこれらは氏の本業たる銀行業務などに此すれば、そ、の取扱高は、 さまでの巨額には上らぬようである。  氏の一身上より観察すると前にも記した如く、氏はなかなか多趣味にて、謡曲もやる、茶の湯 もやる、碁も打つ、馬にも乗る、なかなか慰みの多い人である、従って仲問の会も数多である、 例せば拙碁会とか、馬談会とか、色々の会合に参加出席したけれども、最も長く続いた会を挙ぐ れば、借楽会と和敬会とであった、なおこの外に和合会と称するものがある、これは安田一族の 内会でいかに懇親でも他人をば列席せしめぬ、氏の兄弟、姉妹、叔姪《しゆイちてつ》、子孫、だけの会合である、 一口に言えば親族会である、この会は規則として、毎月四日を定日とし必ずその催しがあった、 一同食事を借《とも》にして歓を尽すのが例である、右は内輪の会ながら氏の没するまで続いた、ソての次 に長く続いたものは借楽会である、右は有力な寓豪同好者の聚団で、明治九年から大正年間まで も続いた。  明治三十七年に、会員の写真とその筆蹟とを集めて、僧楽帖と題する物を作り、善次郎氏自ら その序文を書いて居る、その文と会員の姓名は左の如し。    借楽帖序文   友人|相見《あひまみ》え談笑するは楽之《たのしみこれ》に如《し》くものなし、況んや其《そり》志を同《おたじ》ふするもの相会し、談笑の問   に見聞を交換し、兼々積日の勤労を慰する吾が借楽会の如き、蓋し其最たるものか。    しくわい                   兼あゝ    ひ.…  くわんご    斯会や実業有志の集る所、党を作らず、派を立てず、和気鵬々能く胸襟を披いて、款昭す、   其談ずるや、主として、経済実業に係り復《ま》た政治に及ばず、其楽むや、豪奢《ハうしや》を街《ても》はず、貧素   を旨とし、清遊を期す、畢寛其本分を逸せざる為なり、真に之を後進に伝へて妨げず、叉老   人に示して、不可なしといふべし、宜《うべ》なり、明治九年以来今日に至る、二十有余年、曽て衰   ふる事なし、尚長《なほとこしな》へに、隆盛ならんとす。    頃日《けいじつ》会員|相謀《あひはか》り手蹟|照相《せうさう》の一片を此帖《このてふ》に蒐《あつ》め以て、他日の記念と為《た》さんとす、一度之を開   けば恰《あだか》も一堂の下に相会して談笑するの思あり、快といふべし、以て序となす。     明治三十七年晩秋                  勤倹堂 安田善次郎|識《しるす》。    会 員  客 員   松方正義、桂太郎、井上馨、曽根荒助。    会 員   三井高保、中村清蔵、柿沼谷蔵、大谷嘉兵衛、浜口吉右衛門、添田|寿一《じゆいち》、菊地長四郎、岩永   省一、近藤廉平、武井守正、安田善次郎、曽我祐準、原六郎、中沢彦吉、浅田正女、園田孝   吉、益田孝、山本達雄、喜谷市郎右衛門、大倉喜八郎、高橋新吉、松尾臣善、加藤正義、渋   沢栄一、馬越恭平、高橋是清、浅野総一郎、相馬|永胤《ながたね》。  この会は長年月に亘ったから、会員も新陳代謝して、多数に上つて居る、今会員たりし人々で 姓名の知れ居る分を挙ぐれば、   小野義真、成島柳北、岩橋徹輔、肥田《ひだ》昭作、熊谷武五郎、原田二郎、川崎八右衛門、藤井|能《よし》   三《ぞう》、山崎|忠門《ただかど》、井上準之助、服部金太郎、大橋新太郎、小倉久兵衛、長井利右衛門、安旧善   三郎、山本嘉兵衛、佐々田|愚《つとむ》、木村清四郎、荘田平五郎、日比谷平左衛門。  なおこの外に漏れて居る人々もあるであろう。この会は毎月一回、十日に開会したので通例|十 日会《とおかかい》と云い、氏もその都度必ず出席した。  その次に長く続いたものは和敬会である、右は茶湯《ちやのゆ》の同好者の集会であって、会員は、東久世《ひがしくぜ》 |通嬉《つうき》、松浦|詮《せん》、伊東|祐麿《すけまろ》、東胤城《あずまいんじよう》、久松|勝成《かつなり》、伊東|篤吉《せんきち》、石黒忠恵、戸塚丈海、三井八郎次郎、 三田|裸光《ほこう》、安田善次郎、岡崎|維素《これもと》、松浦|恒《ひさし》、金沢三右衛門、岩見鑑造、青地幾次郎等の諸氏であ る、その会則は左の通りである。     和敬会規約  一、和敬|清寂《せいじやく》の本旨を守るべき事。  一、器《うつわ》は新古を選ばず結構を好むべからざる事。  一、食は淡薄を主として厚味を備うべからざる事。   珠光日《しゆこういわく》茶は遊《あそび》に非ず芸にあらず叉放坐に非ず一味清浄法也。   叉日茶道を以て礼を行い茶礼を以て是を飲《のむ》、宗甫居士《そうほこじ》日茶の湯の道とても外なし君父に忠孝   を尽し家々の業を解怠《けたい》せず殊に旧友の交りを失う事なかれσ   又日道具とてもさして寄《よす》べからず珍敷《めずらしき》名物とても、かわりたる事なし、古きとて其昔は新し、                           すつ    おお斗。 うらや    す一なき   唯家に久しく伝りたる道具こそ名物なれ、形よろしきは捨べからず多を羨まず、少を、と   わず、一色の道具たりとも幾度ももてはやしてこそ、子々孫々にまで伝うべけれ。   宗関居士|日器《いわくうつわ》を愛して風情《ふぜい》を好むは形容をのみ楽しむ数奇者也《すきしやなり》。   心楽しむ数奇者こそ窪《まこと》の数奇者とこそいうべけれ、讐《たとえ》ば万貫の道具たりとも炭と瓢《ひさご》ひとつほ   どの意に叶《かなう》まじ。   又曰く見せものに 仕《つかまつりそ》 候《うら》えば実より虚になり申候右様のしなじな候故真実も道理も失い申《もうす》   につき茶道は諸道の悪魔になり叉|奢《おご》りの根本にも罷成《まかりなり》申候。   右先師の遺訓を遵守《じゆんしゆ》し相互に和平礼を正《ただし》く解怠の邪念を退け斯道の清閑雅趣を楽しみ交友の   信を存せんことを約すと云《いう》。     明治三十三年一月   古帆《こはん》(東久世)心月(松浦) 玄遠(伊東) 不羨(東《あずま》) 忍聖《にんそう》(久松)   宗幽《そうゆう》(伊東) 況翁(石黒) 市隠(戸塚) 松籟《しようらい》(三井)   裸光《ほこう》(三田) 松翁(安田) 淵沖《えんちゆう》(岡崎) 無塵(松浦)   蒼夫(金沢) 巌美(岩見) 湛海《たんかい》(青地)  この茶の湯伸間は、世事を外にした最も風流な会合であった。  またこの外にも色々・の会があったようであるが、右に記する諸会の如く、永続しなかった、ま た常に出席もしなかった、この頃より晩年に至るまで、氏の交遊する所は、何れも我が杜会の上 流に位する品格よき人々のみなりしことは、右の人名を見て察せらる。 第三十七 本伝の三十一 保善社の組織1ー二種の資本金H-族の生活 法"通租脱税の為にせずH半隠居の姿11公 職と会社銀行の施設11叙位授勲H済生会" 彼此の撰択取捨"使用人の忠実  およそ富豪が莫大の資産を積み得たる後の心配は、いかにせば永久これを子孫に伝え得べきか の一事である、善次郎氏もまたこのことには頗《すニぶ》る考慮を費したものらしく、明治十七年の頃、そ の資産が已《すで》に相応の高と為《な》りし時より、子孫の為め、一種の財産保管の組織を工風して、これを 保善社と名づけた、その大要は左の如くである。  先ずその杜の資産を二種に分ち、一《いつ》を基本財産とし、一を配当附の財産とし、前者より生ずる 利益は必ずこれをその資本に組入れ、利殖一方のものとすること、則ちこの資本金は利倍法を以 て進み行くものとし、その利率は最低三分、最高六分見当とす。  また後者なる配当附の資本は、毎決算期にその利益を配当するものとす、而《しか》して一族の地位に 拠って、銘々に、この資本金の内にてその持分を定め、これに準じて利益を配当す、尤《もつと》も各家と もにその持分を定むるのみにてこれを勝手に所蔵することを許るさず、また他に対してこれを担 保と為すことを得ざる訳《わけ》なり、つまり各家の持分はその分け前を表示するの標準に止まるのであ る。  一族をば、宗家《そうけ》、同家《どうけ》、分家《ぶんけ》、類家《るいけ》、の四種に分ち、当主善次郎氏に対する血統の親疎に従っ て、親族を右の等級に区別し、親近者に厚くして漸次に疎族に及ぼすの定めなり。  安田の一門は、総べてこの配当に依って生活するものとし、なお各家に対しては、銘々にその 一年の出納表《すいとうひよう》を提出せしめ、これを監査す、故に身柄不相応なる浪費をなす者は、その金を受取 る鰹わずと膿ボ、至当なる入費はいかなる巨額と難も、補給を仰ぐを得るの仕組なり、一言にて 尽せば、安田一族は、皆それぞれ充行扶持《あてがいふち》を受け、これに拠って生活するものとす。  然れども、その家主が或会杜に勤務して給料を取り、または賞与等を受くるときは、それは一 門の公費に関係なきものとし、各家の別途歳入として、自由にこれを消費するも差支えなきもの とした、右の組織は明治+七年頃より已に実行を始め来り、その効果の良好なるを以て、なお改 正を加えしも、大体の骨子は変更する所なく、越えて四十五年に至り、保善杜の資金を一千万円 に増加し、更に改正を加えてこれを公然たる法人組織とたせり、近年に至り世間の富豪が、通租《ほそ》 脱税の機関として、新たに保全会社なるものを興すの挙ありて、その仕組と安田家の保善杜と類 似する所あるより、動《やや》もすれば後者も右の目的を以て組織されたるものかの如く想像する向きあ るも、右は事実を知らざる者で、保善杜の主眼は、元と一門一族の濫費を制し、永久に資産を存 留し得る為めにせしものにて、今時の保全杜とは大いにその起原を異にし居《お》る訳なり。 また右の保善杜の資本は、いかなる方法を以て利殖するかを究《きわ》むるに、大体これを三四種に区 別し、その一部を土地などの如き不動産とし、一部を有価証券の如きものとし、一部を商事の運 転資金とする、而してその運転資金の如きも同杜にて直接この操作をたさずして、安田銀行など に預け込み、相当の利子を収む、また他の有価証券の売買などに至っても、保善杜自らその取扱 いをなさずして、これを安田銀行などに託するを常とす、則ち保善杜の資金は非常臨時の大利を 得るよりも、むしろ低利にて一定の収入を得るを、その本意と為すものに似たり。  配当附資金は別に増加せざるも、基本資金の方は、年々の利益を時々資本に組込むが故に、そ の高は年と共に増加するのみなり、氏は早く既に二拾余年前より、子孫一族の為め、かかる仕組 を考案し置きたるは、先見ある行為と云うべきである。  さて明治四拾年頃より養子善三郎氏を諸方面にその代人とせし以来、大正六七年までの拾余年 間、氏は表面半隠居の姿にて、杜交の煩《はん》を免れたりと難も、業務の経営に至りては、依然たる 安田一門の首脳にして、いかたる事柄と錐も、氏の裁決を経ざれば実行することを許さず、勿論 通常の細務は、善三郎氏限りにてこれを処断せしものなきにあらずと錐も、概して安田家の働 きは、やはり氏の胸中より出でたりしものなり、然れどもこの拾余年間は、従来の業務を拡張す るを主として、新たに大事業を経営することも少かりしが如し、この数年間において、銀行会杜 に関する氏の主要なる行動を挙ぐれば、氏がその筋より命ぜられて、委員とたりしもの左の如 し。   明治三十九年、南満州鉄道株式会社創立委員を命ぜらる。   同四十一年、東洋拓殖株式会杜の創立委員を命ぜらる。  また銀行方面においては、   明治四十年、第五十八銀行の整理を引受けこれを第百三十銀行に合併す。   同四十一年、高知銀行を整理す。   同四十一年、信濃銀行を整理す。  また会杜としては、   明治四十年、帝国製麻株式会杜を創立す。  等のことあるに過ぎずと雛も、本来の事業における拡張はますます隆盛に向えり、蓋し明治四 十年より大正五六年に至る頃は、氏の財力の大なること、及びその遣り口の手堅きこと等が、広 く天下に信ぜられ、且つ氏が世務に熟達することもまたその絶頂に達し、これらの事情が相待っ て、氏の財力は年々増大する一方なりき。  氏の身体についてこれを言えば、時に微慈《ぴよう》なきにあらずと難も、なお概して健康と目すべく、 業務の相談を受くるごとに、実地踏査の為め全国に旅行することは、往日に譲らず、但し従前に 比すれば、幾分かその数を減じたるを免れず、これ氏が既に七十歳より八十歳の老境に向うの路 上に在るが為なるべし、而して明治三十九年日露戦役に関する賞功として、勲二等に叙し瑞宝章 を授けられ、また大正四年に至っては、位三級を進めて従四位に叙せらる。  明治四十四年、政府は済生会なるものを設け、大いに杜会事業を営むの企てを起し、その資金 として、国内著名の富豪に向って、寄附金を窓油《しようよう》せり、当時氏と肩を比《なら》ぶる二三の紳商は、おの おの百万円を醸出し、後に至って授爵の恩命あり、氏もまた百万円の寄付金を窓慰せられしが、 これを辞して三十万円に止めたり、故に世上にては、氏が金銭を見ること爵位よりも尊《たつと》しとの批 評なきにあらざりき、然れども右に関する氏の本意については種々の理由あるべきも、蓋し氏が 兼ねての大望を成就《じようじゆ》する為めには、百万円もまた大切たるに、今これを割《さ》きて受爵の資と為すは 尚早なり、他年その資産が絶頂に達するの日は、百万円はおろか一千万円をも杜会奉仕の資に提 出するも難きにあらず、今日半途の時代に当って強《し》いて爵位を望むの要なしと考えしものに似た り、然らば氏は極めて爵位に冷淡にして一切これを希望せぬ人たるやと問わば、決して然らずと 答うるたらん、氏は爵位を以て真に栄誉とたすの人なり、然れども一方にその懐抱する大望ある 以上は、中途半端の献金を為してまでも、急に爵位を得たしとは思わざるのみ、これ蓋し氏の真 意を穿《うが》ちし評ならんか。  然れども氏と財界に比肩する大倉、森村などの諸人が、皆男爵の肩書を有し、世にときめくの 日において氏は惰然としてこれを羨むの様子ありしかと云うに、そこはまた平然たるものにて、 これらのことはさほど念頭に置かざりしが如し、これ一はその胸中の本願たる日本第一の富豪の 地位に必ず立ち得べき喜びあるが為め、他の栄位もさまでその眼中に大きく映ぜぬにも因りしな らん歓《か》。  上記せし如く、氏は年と共に世務に熟達し、日本財界のことはその胸中に明らかたること、 |恰《あだか》も熟練せし老航海者が海図を按ぜずして、各所の暗礁を諸《そら》んじ、その船舶を行《や》るの自由自在な ることが人を驚かすに似たるの観ありしなり、然れども氏と雛も神にあらず、その貸出しの見込 が常に当るのみにて一失たしとは言うを得ず、氏の勢力範囲に在る各銀行の貸出口も、その数は 幾百幾千の霧しきに上るべく、仮令その主要《おも》なるものは数十口に過ぎざるにもせよ、その貸付に おいて一失なきことは望むべからず、極めて有体《ありてい》に云わば、氏の貸付にも随分多数の失敗ありし に相違なし、然るもなお能くこれを収拾して、少しも破綻なく、順調に繁栄し得たる所以のもの は、氏の使用する安田家幹部の人々の忠実なる一事に因らずんばあらず、同家の幹部はその員数 も僅少なる上、氏は独裁君主の観ありしが故に、使用人等は花々しき働きをなすの余地なく、世 上にて動《やや》もすれば、安田家に人無しとの評を得たるが如きも、しかもその実は主人公の失敗せ る貸出しに対して彼等は常にこれを収拾し、その過《か》を補いたろ者にて彼等の大功は実に没すべか らざるなり、さすがに氏が人を見るの明は、またここに現われたり、仮令《たとえ》氏をしていかに三面|六 鴨《ろつび》を有し、一人にて百事を切廻わさしむるとも、幾百千口の対手多き事業において、毫も失敗な しと云うを得んや、而してこれを収拾|弥縫《びほう》して、順調の繁栄を致さしめたる幹部使用人等の忠実 は、ただ知る者のみこれを知り居《お》る筈である、但し末流の雇傭者等に至っては、もはや氏の目鏡《めがね》 の届き難き所にして、これらの者の中には、時として心得違いを為す者ありしは、いかにも事実 なり、然れどもこは氏の撰抜圏外に在る末流の者共にして、何れの大家にも有り勝ちのことであ る。 第三十八 本伝の三十二 四分利公債の献策"慈善事業の意向11富豪 の心懸けh事業次第人物次第"洋行せぬ巨 人と英物  資産を増し地位の高まるに従い、人の志もまたこれと共に向上するのが世の常である、況んや 氏の如き人に在りては尚更《なおヒ  ら》のことである、その初め氏の志す所は、通例の商人の如く、身を立て 家を富まし、父母を士号ばしめ、余慶を子孫に遺すに過ぎなかったかも知れぬ、然れどもその地位 の高まり、資産の増大するに至りては、国家杜会にも何等かの貢献を為したしとの志を生ずるも また当然で、ただその手段方法を撰択する為め、容易に手を下さぬまでである、氏にこの志念が 満ちて、この心が常にその胸中を往来し居たことはちらちらこの頃の言動に露《あ》らわれて来た。  その事例は明治四十年、氏が七十歳以後においてこれを見出すことが出来る、桂内閣が戦後の 大|負荷《にもつ》に苦しみ、財政を整理せざるべからざる時代において、桂総理大臣が一億五千万円の公債 募集の策を企てた時、氏を延見してその利率をいかにすべきやを問うた、依って氏は四分利《しぶり》にて |宜《よろ》しかるべしと進言し、且つ応募者なき場合には、自分一手でこれを引受くべき旨をも申述べ、 遂にこれに決定した、いかにも当時氏の手元には、非常に遊金があったには相違ないが、それが 一時の現象で、平均する時は世上の金利は四分以上であることは知れ切って居る、またこの時財 界における氏の信用名声は、既に轟き渡って居たから、今更大阪築港の時の如く、その姓名を宣 伝する必要も無い、何れより見るも、この挙は自家の不便を忍んで、ただ国家に対する奉公の一 端と考えたからのことである。  ここにおいて桂内閣は、氏の進言を納れ、いよいよ四分利公債を発行した、しかし元と元と余 り割合よき公債でないから、世間ではこれに応ずる者が少い、特に氏の進言に因ることが聞えた 為めか、他の一二有力なる富豪の金融系統は、暗にこれを妨《さまた》ぐるが如き状勢であった、その為め 専ら氏の財力を以て応募し、この公債を成立せしめねばならぬ場合に陥った、ここにおいて氏は その負担を配下の各銀行に課し、各銀行は止むなくこれに応じた、しかしこれを他に転売せんと するも、発行利率にては世間に対手なく、空しくこの公債を抱いて居らねばたらぬ為、その間安 田系統の各銀行は、相応に難渋したのである、これくらいのことは氏も先見し得ぬ筈はない、然 るにこれを決行せし所以のものは、ただ国家に尽すの一端と考えたからである、その地位と資産 の増加するに伴い、その志が次第に国家杜会に向い来りつつあったことは、これから推しても知 るに足るであろう。  また、氏の事業におけるや、先ず試みに十年を一期として投資する、第一期の成績が良好であ るとまた十年を第二期として増資する、第二期が良好なるを見るときは、ここに始めて真の投資 をする、これが氏の通則と称せられていた(時に除外例はあるも)、また慈恵方面においてもや やこれに似て居る、もし或慈善事業の仕組がその胸に落ちて、果して人を利すべしと考うるとき は、先ず幾分の資金を支出して、その成果を試むる、決して一時に巨額を支出せぬ、而してその 試験において十分の効果ありと認むるときは、これに継ぐに巨額を以てする、慈善事業に関して も、その心を用うるの深きかくの如くである、世人の多くは慈善事業と聞けば、最初から金を摘《す》 っることと覚悟し居《お》るからして、深く効果の如何《いかん》を問わず、懐中の余裕を喜捨する心持で済ませ るのである、然るに氏はその喜捨したる金が、果して生きた用をなすや否やを見届けぬ内は、決 して承知せぬ人である、これらがまたちょっと常人と異った所である、もし事業を信じ人物を信 ずるときは、直ちに喜んで寄附する、その一例を挙ぐれば、石黒況翁氏は善次郎氏が深く信じて 居た人で、その交《まじわり》は長逝の時まで永続したが、石黒氏が曽て慈恵病院において、西洋諸国の例 に倣《なら》い、病院内の臥台《がだい》(ベッド)を富豪に寄附せしめんと企て、先ず氏にこれを窓恋《しようよう》せしに、氏 は直ちに賛成したが、しかし一時に巨額を投ぜぬ、先ず安田病床十箇を作り、これに対する一切 の費用を支出する方法として、その効果如何を試みた、而して石黒氏の案は、果して予想の良果 を挙げ、病院もこれを便とし、患者にも都合|宜《よろ》しかりしかば、次第にその数を増加して三十病床 に上り、この安田病床の為め氏は数年に三万余円を費した、また石黒氏のこと故、その計算をも 綿密に纏め、時々その報告をも怠らざりしかば、氏も大いに面白きことに考え、なお追々その数 を増すのみならず、右に類する他の事柄にも義掲《ぎえん》する所あらん心組なりしに、たまたま慈恵病院 の当事者中に、皇后陛下の恩春《おんげん》の下《もと》に立つ病院にして、個人名義の寄附病床を置くは如何《いかん》との可 否を論ずる者など生ぜしかば、石黒氏、善次郎氏共にその煩《はん》を厭い遂にこれを中止せる由、氏は 荷くもその事柄と当事者とを信ずれば、必ずしも寄附義掲を吝《お》しまぬ、正にこれがその一例であ り、また常にその支出する金員の効果に注意する一証である、その後善次郎氏の晩年に、石黒翁 が救貧事業を企画して氏にその相談を持懸けたことがある、勿論その企ては貧人に対して低利で 金を借《か》すこと及び貧にして依る所なき病者を収容してこれを済《すく》うと云う事柄であった、その時氏 の答に「斯様《かよう》な賑血《しんじゆつ》のことは、私に限らず、誰でも出来ることであるから、世間一般に御相談に なったが宜《よろ》しかろう、強《し》いて私に御相談にも及ばぬかと思われる」とありしかば「然らば君が力 を致すべきはどんなことなりや」と問いしに、氏は笑って、「有力なる富豪は他人の出来ない場 合にその力を致すべきものである、常人にも出来ることは常人に任せ、富豪でなければ出来ぬこ とを富豪は引受くる心懸が必要|敷《か》と思います、今もし国家社会に一大事が発生して、早急に莫大 の支出を要すると云う如き場合に、多数の公衆から零砕《れいさい》の金を集めてはとても間に合い兼ねる危 機がある、その時に国家杜会の急に応ずるが、富豪の心懸くべきことであろうと、私は常に考え ている、誰にでも出来る小口の賑済救恤《しんさいきゆうじゆつ》の如きは、そのことの出来る人々に任せて置いても宜 しい訳かと思います」と答えし由、右は石黒翁の直話である、善次郎氏の年齢が老境に向い、思 慮も熟し、財力も増し、信用も高まるに従い、かくの如くその志も次第に向上しつつあったよう に思われる。  東京の都市改良の為め八億円を投ぜんとする、後藤市長の予《かね》ての計画を引受くるの内談を、氏 より開きたる如きも一《いつ》は氏が後藤子を以てこの大規模の企てを実行するに足る人物なりと見込ん だからのことである、荷くもその人を信ずるときは、氏は随分に太っ腹なことをする、浅野総一 郎氏に対する貸出しの如きもまたそれである、石橋を叩いて渡る底《てい》の小規模なる小金融家と非常 の相違あるは、則ちこれらの点である。  御一新後の新日本において、一度も洋行せずして、大事業を成し遂げた人物がただ二人ある、 一人は政界においてこれを見、一人は財界においてこれを見る、政界におけるその人は大隈侯で あり、財界におけるその人は善次郎氏である、隈侯の政治世界に遺せし功績と、その働きとは今 更ら言うまでもたい、世人周知のことである、また善次郎氏が財界において絶代の巨富を作り、 その一挙手一投足が、日本の財界を左右し得べき一大勢力と為ったことは、これまた争い難き事 実である、一たびも欧米の地を踏まずして、政界に財界にかかる威力を奮ったものは、ただこの 二人のみである、而してこの二人共に、余がその平生を詳《つまびら》かにするもまた一奇縁である、  維新以来、日本の百事は、総べて旧様を留めぬまでに、皆悉く一変進歩した、これを変革と言 い進歩と言うも、その内容を点検すれば、欧米の事物に模倣するもの十の八九に居《お》る、否十の十 まで幾《ほとん》ど欧米の真似である、何事においても欧米諸国は我より長足の進歩をなして居ること勿論 である、故に差向き彼の長を採るは、功を立つるの捷径でもあり、事を成すに安全である、故に 政治と云わず経済と云わず、何事もその範を欧米に取らざるものなきは固《もと》より怪しむに足らぬ、 故に身自ら欧米に学びし者、もしくは見学の為め欧米を巡歴せし者は、これを以て自家成立の蹴 梯となさぬ者はない、故に洋行は則ち日本人士の登竜門とも申すべく、これ無くては立身出世も 出来ない程である、然るにその間に立ち、足、欧米の地を踏まず、目、欧米の事物を見ず、而し て欧米の進歩主義を実行する杜会に立ち、少しもひけを取らず、むしろ先頭に立って世を率いた る大隈侯の如きは、実に類例なき人である、善次郎氏の如ぎは、我が国の財界を率いたりとは云 い難きも、日本の経済組織、商業制度が悉皆《しつかい》欧米の新式に変遷するの間に駆逐して、少しも後れ を取らず、一身の独力を以て、稀有の大資産を築き上げたるは、また一|英物《えいぶつ》と言わざるを得ぬ。  大隈侯が、欧米の学説及び実際を聞けば、直ちにその真髄を悟ってこれを利用せしと同じく、 善次郎氏もまた、欧米の銀行制度、会杜組織はかくかくなりと聞くや、直ちにその応用を悟って、 これを胸中に消化し、取って以て富を致すの資と為す、会杜法にあれ、銀行法にあれ欧米の理論 は直ちにこれ匁葎しこれを受入れる、そ鼠欝人に絶するものあるにあらずんばい鳳んぞ轡か くの如くならんや、一たびも洋行せずして、政界財界に大偉力を扶殖《ふしよく》せしは、我が国においてこ の二人の外、蓋《けだ》しその例なきようである。 第三十九 本伝の三十三 欧州の大戦11好景気の時代来る11三井三菱 に次ぐ"養子離居"再び事務を視る11大正 九年の財力  明治四十年、氏が七十歳の時より、越えて大正六年、氏が八十歳に達するまで、その間十余年 は新創に係《かかわ》る事業は甚だ多からずして、専らその心力を従来の各銀行、各会杜の拡張に傾注する 一方なりしが如し、而してその発展し行く有様は、前記せし雪団《ゆきだま》を浪転《こんてん》すると同様、年《ねん》一年とそ の大を増すのみであった。  然るところこの頃に至り、また俄かに資産を増加すべき第三の一大機会が現われた、則ち欧州 大戦の発生である、この時代においても、氏の挙動は日清戦争、日露戦争時代と同様、時機に投 ずる特殊応変の計画を為すでもたく、ただその業務を地味に拡張するのみであった、しかし右戦 乱の中頃より和平に至るまでの間、我が国に一大好景気の時代ありしは、今なお諸人の記憶する 所である、この時において、氏の所有する一切の有価証券、並びに土地等の如きまで皆その価格 を昂《たか》め、その資産はますます増大し、今や三井、三菱に次いで、安田家は全国富豪の第三位に数 えらるるまでに至った、ここにおいてか氏が平素の志は始めて酬《むく》いられ、我が国財界の歴史にお いて、古来|一代富限《いちだいぶげん》を作りし四五名の人物中にその姓名を列せらるるに至った。  かくて大正九年に至り、養子善三郎氏が、安田家より離居することが起った、前にも記せし如 く、善次郎氏には実子六人ありて、四男、二女である、而して四人の男子中|真之助《しんのすけ》は早世し、善 之助、善五郎、善雄三氏とも皆既に成年に達し妻子もあり、立派に一家を為して居た、世間の常 習として家の継承者は男子に限られ、立派な実子が三人もある場合には、仮令《たとえ》長女に聾《むこ》養子をな し、その家名を冒さしむるとも、多くはこれを同姓の分家として、本家を輔《たす》くるの支柱と為すも のである、仮令長女の聾にもせよ、その家の実子を差措き、他姓より貰い受けたる者に、その家 を相続せしむることは、幾《ほとん》ど稀である、然るに善次郎氏は、何か仔細ありと見え養子に家督を継 がしむる考えを有《も》って居た、我々ぽ等閑《とうかん》にかく考えて居た、氏がその養子を家督相続人とたした のは、必ず父子の間に十分の黙契があって、養子が五六十歳に達する頃には、引退して顧問の地 位に立ち、相続人の地位はこれを実子に譲り、ここに世間の常例通り、安田家の相続権が実子に 復する都合であろうと、然るに事実はさようでもなかりしと見え、大正九年に至って、養子善三 郎氏はその妻子と共に、全く安田家と離れることになった、普通たらば養子離縁と云うべき場合 であるけれども、養子善三郎氏は、この時既に安田家の家督相続人となって居り、善次郎氏夫婦 は隠居と為って居た、依って一家の当主を離縁することは出来ぬ為め、隠居の善次郎氏夫婦が別 に分れて一家を為すこととたり、ここに一つの安田家が新たに生れ出た姿となったのである、而 して氏の実子は、この新家の相続人となる訳である、安田家の資産は、隠居が別居をなしたと共 に、これに随って移り行ったと云う姿にたったのである、余程その間が入組んで居る、もし初め より世間の常例に従い、実子を以て相続人と為し、長女は他に嫁するか、または聾養子を取るに しても、これを分家として、本家を佐《たす》けしめしたらば、何の紛糾もなかりしなるべし。  今や養子が離居し、実子が父の継承者となるのは、何の不思議もなき普通のことながら、一方 において十数年の間、円満親睦なりし養父子の間柄が、隔離に至りしだけは、憾《うら》むべきことであ る。  これまでとても、安田家の事業に関する大事は、悉く皆、善次郎氏の意中より出で、善三郎氏 は、ただ表面その名代《みようだい》を勤め、父の代人として杜交場裡に出入せし姿なりし故、事の大体に至っ ては、何の変化なしと難も、善三郎氏が離居せし上は、善次郎氏が自らまた主人公として表面に 立現われざるを得ざる訳となり、このことありしより以後、氏は前の十年間に比すれば、また繁 忙の身分に立戻った次第である、その時|齢《よわい》既に八十歳を越えしとは言え、その心身なお未だ衰え ず、大正十年の春、杜員等に対する訓諭にも、「昔時《むかし》から諺にお前百までわしゃ九十九までなど と唱え、百を以て人生の局限なるが如く思うは大なる心得違いなり、人は養生次第にて優に百歳 以上に達し得べきものにて、私はこれから若返ってまたますます事務を発展せしむる志である」 と、述べし程の勢いなりき、この頃氏が浅野総一郎氏に贈った狂歌にも、   五十六十はなたれ小僧       男盛りは八九十《はつくじゆう》 と泳ぜし如く、自分ではまだ一廉《ひとかど》の働きを為すべき見込なりき、而してその胸中にはまた遠大な る成竹ありしならん。  氏が再び事務を親《みずか》らして、商界に安田家の旗幟《きし》を新たにした時、その財界における勢力の大要 は左の如くであった。   安田家の勢力範囲に在る諸銀行の資本金   及び預り金、本支店の数左の如し。     大正九年度関係銀行  銀行名 安田銀行 明治商業銀行 第三銀行 日本商業銀行 第九十八銀行 根室銀行 肥後銀行 公称資本     万円 二五、○〇 一〇、○〇 三〇、○〇  五、○〇  一、三〇  五、○〇 一〇、○○  払込資本     千円 一七、五〇〇 七、四〇〇 一五、○○〇 五、○○〇   五〇八  二、三七五 七、五〇〇  預金総高       千円 一四三、八八〇 五三、五七九 一三五、○八三 三四、五七五  六、六九五  四、五九一 二七、六九一 第十七銀行 京都銀行 安田貯蓄銀行 高知銀行 第百三十銀行 第三十六銀行 正隆銀行 信濃銀行 大垣共立銀行 関西銀行 第二十二銀行 栃木伊藤銀行 神奈川銀行  本支数   一、二五   五、○〇   三、○〇   六、○〇  二〇、○〇   一、○〇  二〇、○〇   七、○〇   三、○〇   一、○〇   五、○〇   一、○〇    二〇 合 計 公称資本金総合計額 払込資本金総合計額 預  金 総合計  一、二五〇 二、○○〇 一一、六二五 三、○○〇 一〇、○○〇  一、○○〇 九、八○〇 四、○○〇  一、六五〇   六二五 二、一五〇   六二五   二〇〇  一二、一二七  一八、〇三九 二〇、八○〇  一六、二二〇 一〇一、三五一  六、四五一 二五、二七三  一六、三六二  九、八二六  五、六〇九 二五、〇九四  二、六二一  二、五九二  二四〇箇所 一五九、七五〇、○○〇  九二、七三五、五〇〇 六六八、四五九、○○○ 円   安田家の勢力範囲に在る諸会杜の資本金   を挙ぐれば左の如し。     大正九年度関係会杜  会 杜  名 共済生命保険株式会杜 東京火災保険株式会杜 帝国海上火災運送保険株式会杜 東洋火災海上再保険株式会杜 安田商事株式会杜 日本紙器製造株式会杜 帝国製麻株式会杜 満蒙繊維工業株式会杜 台湾製麻株式会杜 水戸鉄道株式会杜 小湊鉄道株式会杜 中国鉄道株式会杜 京浜電気鉄道株式会杜    資 本 金         円   三〇〇、○○〇 一〇、○○○、○○〇 一〇、○○○、○○〇  五、○○○、○○〇 二〇、○○○、○○〇 一五、○○○、○○〇 三一、七五〇、○○〇  一、五〇〇、○○〇  二、○○○、○○〇   五〇〇、○○〇  一、五〇〇、○○〇  四、三〇〇、○○〇 一五、○○○、○○○   東京建物株式会杜              一〇、○○○、○○○   満洲興業株式会杜               五、○○○、○○○   興亜起業株式会社              一〇、○○○、○○○   群馬電力株式会杜              一二、○○○、○○○   秋田電気株式会杜              一、○○○、○○○   秋田瓦斯株式会杜                三〇〇、○○○     合計     一五五、一五〇、○○○  氏が金融界において、今日に至るまで、世間の事業または会杜の設立その他盛大を助くる為に、 資金を加勢せし主なる取引先を列挙すれば左の通りである。   東京府下                             円      製糸業六ロヘ          一、五〇〇、○○○   埼玉県下      製糸業五ロヘ          六、八○○、○○○      鉄道一ロヘ        三五、○○○   千葉県下      鉄道二ロヘ       一、二〇〇、○○○   長野県下 本伝の三十三    製糸業十ロヘ 岐阜県下    肥料商一ロヘ 和歌山県下    鉄道一ロヘ ・京都府下    製糸業二ロヘ    紡績業一ロヘ    染織業一ロヘ    電気鉄道業一ロヘ    電燈電力業一ロヘ    醸造業(味淋、焼酎) 兵庫県,下    水道建設一ロヘ    電気鉄道二ロヘ    毛織物業一ロヘ 鳥取県下 一ロヘ 一四六、三七〇、○○○ 四〇〇、○○○ 一六七、○○○ 二四、一七四、四五〇    七〇、○○〇    七〇、○○〇    四〇、○○〇    五〇、○○〇   一〇〇、○○○ 一、六九〇、○○〇 一、二〇〇、○○〇  一〇〇、○○○    製糸業五口へ    製銅業一ロヘ 高知県下    セメソト業一ロヘ    製紙業一ロヘ    製紙原料販売業三ロヘ    製糸業一ロヘ    珊瑚及真珠製造養殖業一ロヘ    電気業三ロヘ 福岡府下    石炭業三ロヘ    汽船漁業一ロヘ 北海道方面    農業林業一ロヘ    製造工業及植林業一ロヘ    鉄道一口へ 満洲方面  五六五、○○〇   四五、○○〇  二五〇、○○〇 三、○○○、○○〇  一九〇、○○〇  三〇〇、○○〇  二〇〇、○○〇  九八八、五〇〇  五〇〇、○○〇  一五〇、○○〇 五、○○○、○○〇   五〇、○○〇   一五〇、○○○      特産物一ロヘ         七、○○○、○○○      土木建築業一ロヘ        三、○○○、○○○      鶏卵輸出業一ロヘ       一〇、○○○、○○○      興業発展一ロヘ。         三〇〇、○○○      油房業三口へ           四四〇、○○○      機械製作業一ロヘ         三〇〇、○○○      山林業一ロヘ           一五〇、○○○  右の外、熊本県の米券及び水電業、門司の埋立地及び兵庫の運河等へ貸出しを為してこれを援 助せしものあり。  右は単に各地の主もなるものを挙ぐるに止まり、その他浅野総一郎氏のセメソト、及び汽船、            あめのみや 船渠《どつく》、製鉄の諸事業における、雨宮敬次郎氏の鉄山、電気鉄道等における、岩田作兵衛氏の桂川《かつらがわ》 電力及び鉄道業における等、執れも皆な多少善次郎氏の貸出しに頼らざるもの莫《な》し、また自余の 小事業に至っては、その助けを受けたるもの幾ど、枚挙に邊《いとま》あらず、故にこれを略す。 第四十 本伝の三十四 一代富限の第一人H損益与に莫大H株式価 格売崩しの噂"宿志未遂の二大事業11懐抱 せる新大計画の三カ条  一人の短き生涯を以て、氏の如き莫大の資産を積み得たるものは、日本の富豪伝中に未だ多く 見ざる所である、或はこの人以外に全くこれ無きやも知れず、近世に富豪を以て称せらるる岩崎 家の如きも、今日においてこそ国内一二と称せられ、また三井家の如きも一二の称を得たれども、 多くは歴世の増加に因る者にて、岩崎家の始祖弥太郎氏の残せし時の資産が、果して善次郎氏を 凌駕し居たるや否やは疑問なるべく、また三井家の始祖の如きも、善次郎氏ほどにはあらざりし やも知れず。  一《いつ》の幸運は次の幸運を招くものと見え氏が不利益なる高価に買入れたと見倣《みな》されたものも 後 日に至ってはなお幾+倍の高価と変ずるのみならず、入手当座は幾《ほとん》ど厄介視されたる不動産、即 ち地所、田畑の如きものまでも、またその巨富を助長したる場合が多い、殊に有価証券の如き は、非常に氏の富を増益したりと見え、欧州の大戦中、即ち大正六年の氏の記録中に「有価証券 の差益、壱千四百九十五万四千八百二十一円」と手記せし条項あり、右は蓋し所有証券の時価を 推して算出せし利益と見ゆ、他を加算せぬ有価証券のみの一時の得益すらかくの如くなれば、余 は推して知るべし、而《しか》して右の差益も保善杜のみに係《かかわ》り、氏の管轄範囲全般の利益高にはあらざ る如し、尤《もつと》も右も単に推算に止まり、実際入手せし者にはあらざるべきも、この頃における氏の 財力が大規模にして、損得ともにその高の莫大なるを察するに足る、一朝の利益すら一千万円に 上るとすれば、その資力膨脹の速かなるまた怪しむを須《もち》いず。  およそ騰貴せし有価証券の差益を一時に入手せんとて、一時にこれを売放たん乎、いかに注意 するとも必ず相場に影響するを免れず、これが為め暴落の端となることあり、氏もまたこの挙に 出でたりとなし、買方に在る者は深くこれを恨みて悪声を放ち、有価証券暴落の罪は、全く安田 家の売崩しに在るが如く言い唯《はや》し、氏の為めには暗に一大不利となりし如き場合もこれあるに似 たり、然れども事実を点検すれば、株式市場にて、さまで巨利を得たるの例なく、縦《よ》しこれあり とするも、精々五六百万円に過ぎざるが如し、右は日露戦争、欧州大戦の両度の好景気時代に、 安田家の株券売却の事実に携わりし者の一致して説く所である、実際いかに巧妙に高価に売抜け んと欲するも、その手口はたちまち市場に知れ渡り、多大の利益を独占するに至らざる内に、早 くも市価は下落するものと見ゆ。  善次郎氏が、多年胸中に経営の大計画を貯えながら、今年八十歳を越ゆるまで、未だ実行し得 ざる二大事業がある、その一《いつ》は東京大阪間の高速度電気鉄道の敷設、その二は東京湾の大築港、 これなり。  氏が運輸上に一新生面を、開かんと企てたのは、今の東京大阪間の汽車の験走《しそう》時間が、十時間 |乃至《ないし》十一時間半を要し、甚だ遅緩《ちかん》なるを以て、東海道の官営鉄道の外、更に一つの電気鉄道を敷 設し、六時間を以てこれを弁ぜんとするのであった、勿論特別急行であるが故に、停車場の数は これを少なくする、例せば東京より松田、静岡、名古屋、亀山の如き都邑《とゆう》四五箇処を以て停留場 となし、その他は急行する、然るときはこの電車に乗らんとする者は、最寄《もより》の鉄道にて、電車停 留場に赴くが故に、官営鉄道の乗客もまた増加すべしと思考せしなり、無論電車の便に頼る者多 かるべければ、東海道本線は、幾分の乗客を減ずべしと雛も、これまた余儀なきことと思考せし なり。  この電車線路はその哩《まいる》数、弐百五十|哩《まいる》にして、その資本金壱億円、数箇年間に竣功するの見込 なりき、右は氏が一手にてもこれを敷設せんと企てしものにして、亜米利加《あめりか》の如き国柄ならんに は、たとえ既成鉄道の競争線ありとも、さっさと官憲はこれを許可したらんに、我が国において は東海道線の持主たる鉄道省が、自己収入上の影響を顧慮して、氏の出願に許可を与うるを躊躇 し、空しく歳月を経過し、今にそのままとなって大いに氏を失望せしめた、もしこの大電車線路 が、逸早く出来《しゆつたい》し居りしならば、世上旅客の便はいかばかりなりしならんか。  また東京湾築港は、氏が年来の宿志にして、許可さえ得るならば、独力を以てもこれを成すべ しとの主張なりき、氏がこの企ては遠く二十余年前、芳川顕正《よしかわげんせい》氏が知事たりし時代より始まり、 歴代の東京府知事に出願せしが、いつも市会府会の異議に拒まれ、その志を達するを得ざりしな り、この企ては、築港の傍らに、大埋立地を作り、大船巨舶を東京に引付くるのみたらず、品川 湾に広大なる土地を築き立てんとの計画にて、築港は専ら世上の便に供し、その埋立地を以て自 家の利益となさんとの企てなりき、このことももし早く二十年前に許可されしならば、海運業の 利便いかばかりたりしならんか、而して荷揚|艀舟《ふしゆう》の為め、東京輸出入の物品が、無益なる運賃を 附加せらるるを免かれ、都人士にいかばかりの利益を与えしや知るべからず、然るにいつも他の |妨《さまた》げを蒙《こうむ》りて、その意を果し得ざりしは残念なりき、而《しか》して府会市会のこれを阻《はぱ》む者の言は常に |日《いわく》、「これらの事業は本《も》と公共の性質のものにて、市自らこれを経営すべし、個人の一手に委《まか》す べきにあらず」と、さらば市がこれを経営するかと云うに、自ら進んでこれを為すの力量なく、 ただ空しく歳月を経過するのみたりき、世上の利益より言えば、一個人になりとも早くこれを許 可する方、却って一般の仕合せなりしなるべし、一個人に多大の利益を与うるは惜しむべきに似 たれども、幾十年の日子《につし》を空過《くうか》して、その間世上に不便を与うるよりも、むしろ早くこれを許可 して、広くその利を世上に与うるの優《まさ》れるに如《し》かざるべし。  今や善次郎氏は既に八十の高齢を超え、幾《ほとん》ど類例たき一代富限《いちだいぶけん》を作り得たる上は、もはやこの 程度に満足し居りしかと云うに、なかなか然《しか》らざりし如し、一方より言えば不知足の段《そし》りを免が れ難きも、一方より言えば、進取活躍、死に至って已《や》まずと評すべく、生気|充溢《じゆういつ》して常に活澄澄 地の気力を蓄え居たるは、実に驚くに余りあり、上記せし宿願の二大計画の外、氏は八十二三歳 において尚更《なおさら》に一大発展の新懐抱を有《も》って居た、先ずその第一は預金吸集の新方法で、今の氏の 手中に在る預金六億万円を更に十億万円以上に増加するの企てである。氏は日本で零砕《れいさい》な貯金を、 まだ十分に吸収し得べき莫大の余地あることを洞察して居た、ついては全国各地に安田貯蓄銀行 の支店を網の目の如く無数に設置し、而してこれを吸収するに信用ある善次郎氏の名を以てし、 貯金全部の責任を負い、かつその預りたる金は、すべて東京市債八億円の如き確実なるものに振 り向け、他に濫用《らんよう》の恐れなきことを示し、またその利率も他の貯蓄銀行より一分乃至一分五厘|方《がた》 高くし、加うるに何等かの奨励法を設け、自分自ら国中を行脚《あんぎや》してこれを説法し、一《いつ》は世間に節 倹の美風を慫慂《しようよう》し、一は因って以て貯金を吸集するの趣向であった。  前年後藤新平|子《し》が、東京市長時代に企てたる、都市改良八億円計画の如きは、実に善次郎氏が |予《か》ねてより懐抱《かいほう》し来りし計画にやや符合する所ありし訳《わけ》にて、後藤子と会見しこれを引受くるの 内談を開きしと云うも、その実は予ねてよりこの大計画が胸中に定まって居たからである、故に 後藤子の都市計画中に、築港の一事が除かれ居りしことは、氏には頗《すこぶ》る物足りなく感じたのであ った、故に氏が後藤氏に築港を含み居《お》るや否やの質問を発せしと云うも、築港が善次郎氏本来の 目的の一《いつ》なればなり、何となれば氏は大築港をなす傍ら、その近処に一大埋立地をつくるは勿論《もちろん》、 京浜間に大運河を開らく計画をも持ち居たりしなり、而して運河沿道の地所の大半は、自己の所 有とし、これを以て安田家の安全なる資産の一部となさんとの深意ありし如し、然《しか》る所以《ゆえん》のもの は、今日も既に京浜間において、将来運河を経営さるべしと思わるる場所場所には、氏が買入れ 置きたる土地甚だ多きを以てこれを知るべく、いよいよ大築港、大運河の計画が決定せらるる暁 には、氏は更に手を伸ばして、多大の土地買入れを企てしならん、かくして一方には将来繁栄を 増すべき土地の大地主となり、一方には大都市を相手に貸付金をなし、一方には貯蓄銀行の大網 を無数に張って、全国の零砕なる金員の大半を収集し、安田家の資力をますます充実せんと欲せ しなり。  なお氏の胸中には、氏が一生の力を以て集め得たる都鄙《とひ》各地の大小の銀行を打って一丸となし、 その資本金五六億万円の一大銀行を打建て、日本銀行と対立する程のものとなし、善次郎氏一生 の偉業をこの一大銀行に遺《の》こすこととし、一方にはその大資産を割《さ》いて、広大なる杜会奉仕の一 大組織に貢献するの深謀を廻らして居た、この最後の一事は、未だ具体的の成案を得るに至らず して、その事柄及び方法等をとやかくと考案中なりき、故に上記せる氏が胸中の大計画がほぼ実 行の緒に就きたる暁において、一方いかなる方法を以て杜会奉仕の実を挙げたであろうかは、頗 る興味ある問題なりき。 第四十一 本伝の三十五 晩年の傾向H義揖の度数と金高の増加"会 者定離の悟入"大正十年の奇禍"竜を描い て購を点せず  一方に積みつつ、一方に散ずれば、到底大いに積むことは出来ぬ、大いに積みつつある間は、 少しも散ぜぬが致富《ちふ》の道である、氏の考えも当初はここに在ったようで、その若年から壮年まで の間は、殆ど積むの一方であった、而《しか》してそのやや富むに至るや、始めて少しく散ずることを始 め、折々は寄附金などを為《な》すことを始めたが、その金高も僅少のものであった、明治四十一年東 京|慈恵《じけい》病院に石黒氏の勧めに依3-、、安田病床爽三万円を寄吋した外、余い目立、た叱のにたか った、勿論世間における同地位の人々が寄附金をなす場合には、氏も人並にこれを為したことは あるが、さまでに目立つ程のことはなかった、然るにその晩年に至るに従い、次第に杜会に貢献 するの志を強めて、有益たる諸種の寄附を為すことを始め、以前に比すれば度数も増し、金額も 高まって来た、特に大正三年より以後、その残するまでの九箇年間には、著しくそれが目立って 来た、例せば大正三年には、富山の市立職工学校、及び商業学校生徒の貸費基金、及び学校建築 費六万円を寄附し、また大正五年には、東京帝国大学女学部仏教講座の基金として五万円を寄附 し、大正十年には帝国大学講堂の建設費として一百余万円の寄附を申出た、また同年三百万円を 以て、安田修徳会なる杜団法人を設けた。  かく晩年に多額の義捐《ぎえん》寄附をなすに至りし所以は、その胸中に期したる財を散ずるの時機が、 既に近づき来ったからである、特に先年養子離居のことあって以来、この志が盛んになって来た ように察せられた、右は蓋《けだ》し氏がこのことに因って「会者定離《えしやじようり》」の古語を切実に感じ、併《あわ》せて せいじや                  のこ         こうこん  た 「生者必滅」の理に思い到り、その遺産を子孫に遺す外に、自己の遺業を後昆に伝うる為め、何 等か杜会に貢献する事業を為し置かんとの念を起したように考えられる、その意思は我々と会談. の時などにも、折々ほの見えて来たに犀って察せられた、故に氏に数年を仮《か》して、胸中の大計画 を実行せしめたならば、これと同時にまた宏大なる杜会奉仕の大事業を施設したであろう。  氏は晩年ますます書を巧みにし、絵画も上達し、狂歌も巧みとなり、その雅号を福々子《ふくふくし》と称し、 堂号を勤倹堂とも称した、また松翁《しようおう》とも称《とな》えた、もはや氏は已《すで》に八十の高齢に達したるが故に、 今や翁《おう》を以て氏を称するの適当なることを覚ゆるから、以下には翁《おう》と記することにする、翁は元 来|挨拶《あいさつ》万端極めて謙遜なる上、頗《すこぶ》る愛想《あいそ》よき人であったからして、事業以外の交際たりし我々と の間柄にては、ただ温和謙譲の人とのみ見えて居った。  翁の笈する前年、則ち大正九年の夏、余は房州に避暑する計画で、将《まさ》に出発せんとする前日、 その地の村長から、電報が来て、同地に「チブス」患者が二三名見えたから、甚だ不安に感ずる、 来遊を見合せられたいとのことであった、さて同行する筈の子供等の失望、言わん方なく依って 急に浦賀《うらが》の海辺に赴くことにした、同地には安田家の所有に係《かか》る旧臼井家の家屋あることを知っ て居たから、翁にその借用を申し送った処、直ちに快諾してくれた、我々一行には、ちと広きに 過ぎ且つ美宅であったが、差向き同所に入って避暑の仕合せを得た、同所から帰京の期に至り、 翁は書を寄せて、帰路には是非大磯に立寄れとのことなりし故、右借家の礼を述ぶる勇訪《かたがた》問す ることにした、さて「何か土産《みやげ》を持ち行くべし、注文なきや」と問合せしに「浦賀には好き水飴《みずあめ》 あり、それを貰いたし」とのこと故、帰途これを持参して立寄りしは八月の末なりき。  行って見るに、同地別荘の家屋は、さまで広大ならず、通例富豪の別荘としては、余り数寄《すき》を 尽せし美宅にあらず、無論普通中産階級の人の別荘よりは、やや優《すぐ》れて見ゆる位である、家屋は 清潔なれどもさまで広からず、但しその地積は広大にして、一万二三千坪もあるべく、その七八 割は山にして、家は麓の平地に在り、翁の話に依ると里人はこの処を「姥《うぱ》が懐《ふところ》」と称え来りし 由にて、北に山を負い南に面し、地形頗る温暖にして、避寒には屈竟《くつきよう》ならんと考えらる、避暑に もまた宜《よろ》しかるべく、随分風入れよくて涼しかりき、屋敷の周囲の垣根などは、疎《まぱ》らにして堅固 と見えず、これを概評すれば、億万長者の別荘にはあらずして、むしろ小富豪の別宅と云って可 なる者なりき、また座敷向き万端は茶室風にて、普請《ふしん》は行届きたるも派手な所なし、ただ余がこ の家に来て最も気に入りしは、その浴室にして、広さは十畳敷余、広大華美にあらねども、その 構造いかにも清潔にして、茶座敷の如く、水はまた極めて清例《せいれつ》なり、浴槽は俗に長州風呂と称う るものにて、水溜めを始め何物も皆清潔にして、風呂の浴し心地|宜《よ》きことまた無類なりき、翁の 勧めに任せて、緩《ゆつ》くり入浴せしが、かかる入り心地よき風呂は、近来見当らぬ程なりき、その他 はこの別荘について特に記すべき廉《かど》なく、また座敷の庭は、山の麓をそのままに取入れしものに て、前住者が柳《いささ》か木石を並べしをそのままにして手を入れぬと見え、ただ樹木その他天然の野趣 を存するのみで掃除だけは行届きたりき、この天然の趣に任せ、痛く人工を加えざる所が、翁の 得意の点と見るべし、翁の案内にて山を一巡せしが、なかなかに広し、これを緩《ゆつ》くり散歩するに は、一時間を要すとの話なりき、山の小高き所より一望すれば、大磯の全景は一脾《いちぽう》の中に在り、 海上一面の見晴しよく、東南は蓬かに鎌倉方面、江之島《えのしま》などをも望み得べし、山を迂廻して路を 作り、三十三番|札所《ふたしよ》の観音を作る趣向にして、既に二三箇所は出来し居れり、翁の話によれば翁 が九十五歳までに全部出来すべしと云う、山の眺めよき所に碑を建てて、先帝が始めて御東幸の 折、大磯の浜にて観漁ありしことを記するの碑を建つ、題字は松方公にて、記事は翁の作文にて、 余が少しく添削を加えたる者なり。  殊に可笑《おか》しきは、この山に一つの鐘楼ありて、大なる梵鐘《ぽんしよう》を懸く、近づいてよく視れば、そは 貼抜きの大鐘にて、これを不鳴鐘《ふめいしよう》と称え、傍《かたわら》にその記事ありて面白く出来居たり、その筆者を 問えども、翁は笑って対《こた》えず、蓋し自分の戯作《げさく》なるかと思わる、翁と二人にて涼を樹蔭《じゆいん》に納《い》れつ つ散歩して家に帰れば、横浜の富豪増田嘉兵衛翁が帰るとて暇乞《いとまご》いに来るあり、三人|鼎座《ていざ》す、余 はこの人の名を知り居りしも、初対面と思いその挨拶をなせしに、翁は却って余を知り居《お》る由に て、余が壮年時代、大蔵省に居りし頃、弗《どる》相場変動の監視を命ぜられ、横浜に出張せし時に対面 せしなりとて、当時余が若かりし風《ふうほう》キなどを話し、互に打笑いたることなりしが、右増田翁はこ の家の主翁が日本橋小舟町に奉公せしとき、その近処に同じく奉公し居たりし由にて、奉公人同 志のこととて、日夕《につせき》互に笑語《しよう こ》せし間柄なりと言う、今や両翁共に八十余歳にて、増田翁はもはや 家督を子供に譲り、真の隠居なる旨、主翁の話なりき、この両翁は非常の親友と見え、松翁が増 田翁に贈りし左の歌あり。   なつかしき友と語らふ楽しさに     ふる雪さへも忘れはてつゝ  右に対してまた左の返歌あり。   降る雪とつもるおもひを語らんと     都を後《あと》に来つる君かも  松翁が大磯に赴《おもむ》くときは、増田翁もまた同地に赴き、増田翁が同地に遊ぶときは、松翁もこれ に会遊すると云う訳にて、双方常に打合せをなして、相往来するを非常の楽しみとなし居《お》る様子 なりき、この日増田翁は程なく辞去し、その後は他の来客もなく、極めて閑静にて、夕食に相応 の饗応を受けた、これより先、大磯の別荘に是非遊びに来《きた》られよと、主翁より予を誘《いざな》われしこと も、度々ありしが、予は体《てい》よく謝して来遊するに至らざりき、その仔細《しさい》は翁の話に先頃|清浦《きようら》子爵 が大磯に碁打ちに来り、一泊して帰られた、何の饗応もせず、ただ手作りの菜園物のみを饗せし に、子爵は大いに喜び「余り御馳走が出ると、度々来ることを遠慮せねばならぬが、かような御 馳走たらば気が措《お》けない、度々碁打ちに来るに都合が宜い」と言われたりとのことなりき、蓋し 主客共に旅碁《ざるご》と見え、一連二三十局も打つ様子なりき、これを以てその平凡碁《へぽご》たることを察する のである、清浦|子《し》は碁戦を主眼とするが故に、畑物《はたのもの》の御馳走にて満足すべきも、予の如く碁も打 たぬものが、わざわざ大磯まで行き、菜園物の御馳走にては、余り有難からぬ故、実は見合せ居 りしなり、然るにこの度の松翁の話には、大磯の鰻《うなぎ》は非常に結構なり、右を御馳走するから是非 来いとのこと故、さては菜園物にはあらざるべしとて、実は来りしようのことなりしが、果して 大分|旨《うま》き御馳走あり、例の如く美術談やら、罪もなき世間話にて、一夕《いつせき》の暢談《ちようだん》をなせしが、翁は |頻《しき》りに一泊を勧めたれども、予は辞去した、その時翁と別荘に居たのは、老夫人と二三の小間使 の女中に過ぎざりき、また予の来着せし時、翁は頻りに揮毫最中なりき、同地には俗客も余り多 くは来らぬ様子に見受けたり。  然るに越えて翌年、則ち大正十年夏、翁は例に依りてこの別荘に赴き居たりしに、九月二十八 日、朝日平吾《あさひへいご》なる者あり翁の知人の紹介状を持して面会を求む、翁は何心なくこれを客室に引見 せしに、その男は何か杜会事業の企てありとて、多額の出資を強要せる由、翁は例に依ってその 乞《いんけんとい》を辞せしに、彼者《かのもの》突然と飛掛って、翁に兇刃を加え、-その絶《 》ゆるを見て、己《おのれ》もまた自尽せり、 蓋しこの者は初めより殺意を懐《いだ》き、兇器《きようき》を用意して来訪せしものにて、翁の人《ひと》と為《な》りを詳《つまぴら》かに せず億万の富を積むも終身散ずることを為さざるものと思い込み、この挙に及びたる如し、翁の |計報《ふほう》は実に朝野を驚愕《きようがく》せしめたり、もし翁に数年を仮して、胸中の大計画を実行せしめ、且つそ の富を散ずるの心計を実現せしめなば、ここに安田善次郎一代の事業の全幅を見るを得て、百年 の下、翁の穀誉《きよ》は定まる所あるべきに、半途にして翁を奪い去られしは、翁その人の為に痛惜す べきのみならず、杜会奉仕の事業をも観るを得ざらしめたるは甚だ憾《うら》むべしとす、これを讐うれ ば、恰《あだか》も絵画の名匠が、一大竜を描出して、その肢体|鱗甲《りんこう》既に成り、今や将《まさ》に大切の眼購《がんせい》を点ぜ んとするに至って、中途俄かに筆を榔《なげう》ち去りたるが如きなり、翁の残するやその年八十四歳、決 して若きにあらず、然れどもその事業を完成する上よりこれを言えば、なお半途に在るものにて、 その事業の全幅を後世に示すを得ざりしは、翁の為め深く痛恨すべし夷。 安田氏の家系  伝うる所に拠れば、安田《やすだ》家は、 の喬《えい》三善|康信《やすのぶ》は鎌倉の問註所《もんちゆうじよ》の執事となる。 より八代の孫|貞清《さたきよ》に至り備後国《ぴんこのくに》福山に住し、 国|婦負《ねい》郡安田村に移り住みて帰農す。  清雄の三男|楠三郎《くすさぶろう》は、正徳《しようとく》元|卯《う》年に生れ、 す、 山藩士林|治郎八《じろうけち》の次女|千世《ちよきようほとり》 て、長男|竹次郎《たけじろう》、次男|新次郎《しんじろう》《もさぶろう》|、 十四。これを安田家の始祖とす。              きようほ    い  右善次郎の長男竹次郎は、 男二女を挙ぐ(室《しつ》《ね》|マサは、 文化十|癸酉《みずのととり》年十一月三十日、 もと三善《みよし》姓より出づ。      三善清人《みよしきよひと》は仁安《にんあん》年中正五位|下《げ》に叙す。そ この人の遠衣問|躬貞《ちかさだ》は近江国《おうみのくに》滋賀の郡司に任ず。躬貞 医を以て業とす。貞清の末孫|清雄《きよお》、宝永二|酉年《とりどし》越中 安田村より出でし縁故を以て安田屋と称し、           (享保二酉年生れ、             三男茂三郎の三子を挙げ、 |元丈《げんぶん》二|巳《み》年、同国富山城下|婦負《ねい》郡富山町|新町《しんまち》に別戸《べつこ》   三善姓の善の字をとって善次郎《ぜんじろう》と名を改む、富  天明《てんめい》四|甲辰年《きのえたつ》二月二十九日亡、年六十七)を嬰っ       天明《てんめい》四|甲辰年《きのえたつ》五月二十七日残す。年七  享保十六亥年に生れ、家を継ぎて善次郎と称す。 享保十七子年に生れ、文化五辰年六月五日残す)。   八十三歳にて残す。 妻マサを嬰って一 二代目善次郎は、                                      ひウじ  この二代目善次郎の時から士籍に列するの希望が生じたと伝えられて居る、天明七未年日本大 いに磯え、餓死するもの多く、疫病流行し諸民困難を極む。この時二代目善次郎氏が、その藩士 某を訪いしに、恰《あだか》も朝餐《ちようさん》を取りつつありしが主人の白き米飯を食するを見て、当時平常でも農工 商は、純米飯を食することなく、殊に磯鐘《ききん》に際しては思いも及ばぬことであったから。今これを 見た二代目善次郎は、士族に磯饒なし、子孫生活の安全を計るは、士族たるに若《し》くはなしと、深 くその心に銘じた。しかし自身はこの望みを達せず、三代目も、またこれを果さず、遂に四代目 善次郎に至って始めてこれを実行し得た、故に安田家が士籍に列するに至ったのは、実に二代目 善次郎の志望に淵源したと云われて居る。  三代目善次郎は、二代目の子である。幼名を楠三郎《くすさぶろう》と云う。天明九年(寛政元年)に生れ、三 代目を継ぎて善次郎と称し赤江《あかえ》マッ子《こ》を姿る。嘉永元年|戊申《ぼしん》六月一日、六十歳にて残す。  三代目の室マッ子は、本と赤江村より富山城下|船橋向《ふなぱしむこう》へ別家した赤江家の女主人であったが、 故あって赤江家を廃家し、三代目善次郎に嫁《とつ》いだ。そしてその際三代善次郎は、将来赤江家を再 興することをマッに約した(赤江家は後年本書の主人公たる善次郎がこれを再興した)。  三代目善次郎と妻マツ子との間には、子がなかったので養子を迎えた、これが四代目善次郎、 則ち後の善悦《ぜんえつ》翁である。  この四代目善次郎(則ち後の善悦翁)は本書の主人公善次郎氏の父である。翁は文化十一年|戌《いぬ》 六月に生れ、明治二十年三月十六日残す。  翁は元と小長谷《こながたに》家の出《しゆつ》である。富山|袋町《ふくろちよう》のッケギ屋|黒川弥三郎《くろかわやさぶろう》の女某、同市の小長谷某に嫁 いで二人の男子をあげ、長を藤七《とうしち》、次を政次郎《まさじろう》という。然るに夫小長谷某が死亡せしため、政次 郎を安田家三代目善次郎の養子に遣わし、自分は藤七を連れて岩瀬《いわせ》某へ再嫁し二子を挙げた。右 の政次郎が、則ち善悦翁である、生母が岩瀬家で生んだ二子と異父兄弟ゆえ、翁はこれと親戚の 交際をした。後年翁が善次郎氏に迎えられて出京するにつき、富山なる士籍の家を継承せしむる ため、岩瀬家の某を養子として善三郎と改称し、入家せしめたのもかかる間柄故である。  善悦翁が、三代目善次郎に養子となったのは、二歳のときで、全く養母マツの乳によって育て られた。弘化五年、養父善次郎死するに及んで、安田家四代目を継ぎ政次郎を善次郎と改称した。  この頃安田家は商業の傍ら農業を営んでいた。而して善悦翁は、二代目及び三代目善次郎の遺 志を体して、刻苦辛勤の末、遂に御長柄《おながえ》の株を購《あがな》って士籍に列するに至った。安田家が富山藩士 の列に加わったのはこの時を初めとす。  善悦翁には四男六女ありしもその三男三女は天折《ようせつ》し一男三女が成長した、長男は則ち本書の主 人公|善次郎《ぜんじろう》氏である、長女は常子《つねこ》(太田弥|五《 》郎妻)二女は文子《ふみこ》(井|上兵蔵《ひようぞう》妻)三女は清子《せいこ》(安田 忠兵衛妻)である。 安田善次郎年譜 天保九年 十月九日 弘化二年 嘉永二年 安政元年 九月十六日 安政四年 四月廿八日     一 歳 越中富山の町外れ鍋屋横町に生る、岩次郎と名づく。     八  歳 寺子屋に入る。     十二歳 寺子屋を退き、行商、写本等を為す。。     十七歳 江戸へ出でんとして郷里を出奔し、飛騨まで至れるも果さず。     二十歳 また郷里を出奔して江戸に到り、一風呂屋に草鮭を脱ぐ、暫くして両替屋に奉公す、こ の頃より忠兵衛と名乗る、再び郷里へ連れ戻さる。 父母の許可を得て再び出府し、両替店に奉公す。 辮濡讐葦鶴舳葦撮晒羅鱒㍉頃主人贋金使用の{蛤 文久二年 十二月四日 文久三年 十二月一日 元治元年 三月二日 十 一 月 慶応元年 九   月 慶応二年 四月十四日 十一月廿五日 慶応三年     二十五歳 主人に随行して上国巡遊中、多武峰において、楽書の為め捕われ、一老僧の救に由って 放免せらる。 母千代子刀自富山において残す。     二十六歳 金満家某と組合い小銭を北陸地方に送らんと企てたるも失敗す。 日本橋楽屋新道に借宅し、独立して小舟町に露店を出し両替を営む。     一一十七歳 日本橋人形町通乗物町に鰹節玉子店兼両替屋を開く、この頃より善次郎と改名し、屋号 を安田屋と称す。 日本橋田所町刷毛屋藤田弥兵衛氏四女房子(二十一歳)を取女る。     二十八歳 長女照子生る。 この年、両替町組、両替商の肝煎に選ばる。     二十九歳 小舟町三丁目十番地に転宅し両替業を専にす。 長女照子残す(二歳)。     三十歳 浪人等の強奪脅迫の為め、他の同業者は休業せしも、独り営業を継続し幕府古金銀買上 の取扱いを一手に引受けて大利を得。  明治元年   十 二 月   明治二年   三月廿八日   五月二日   七月五日   七月六日   七   月   七月廿六日   八月十五日   十月十二日 明治三年 明治五年 五月十二日 六月廿五日 七月七日 明治六年     三十一歳 太政官札発行に際し、その流通に尽力す。     三十二歳 養子慶三郎残す(三歳)。 紙幣の割引売買禁止に先だち紙幣を買込みて利益を得。 少年店員細井平吉、横浜通いの途中汽船の汽罐爆発の為め負傷す。 平吉死亡、依って之を養子格とし厚く葬る。 郷里富山へ帰省す。 河上兵蔵氏長男房太郎(二十五歳)を妹清子の婿に迎え、忠兵衛の称を譲る。 富山を出発して帰京。 忠兵衛氏出京、翌日より安田商店の事務に従う、この時より安田商店は質屋を兼業す。 この年大阪逸身両替店と為替取組を始む。     三十三歳 仙台藩の用達となる。     三十五歳 本日より一カ月ばかり家族を携え上州伊香保方面に遊ぶ。 南茅場町廿八番地の家蔵を買取る。 四日市八番地及び九番地の地所を買入る。 この年司法省の御用を勤め、乾字小判を上納す。     三十六歳 六月廿八日 七月五日 八月十一日 八月廿六日 十二月九日 明治七年 一月十九日 四月十四日 六月十二日 十月十八日 明治八年 六月十九日 七月一日 七月廿六日 九月十五日 十二月廿九日 明治九年 八月二日 鹿島万兵衛氏等と共に弗相場所開設を発起し東京府庁に願書を出す。 上記相場所業務開始。 箱根熱海に避暑旅行の為め出発す。 帰京。 亀井町より出火し小舟町の本店類焼す。     三十七歳 神田美土代町二丁目七番地の地所家屋土蔵を買取る。 司法省の金銀取扱御用を命ぜらる。 父善悦翁、美土代町七番地へ移居す。 司法省為替方仰付けらる。 この年大伝馬塩町一番地並びに七番地を買入る、また小銭払底の為め大蔵省に銅貨一万 円の払下出願、栃木安田商店出張所新設等の事あり。     三十八歳 海路、大阪、神戸、九州視察の途に上る。 帰京。 次女暉子生る。 堀川長吉の弟卯之吉(後善四郎と改む)を養女ツル子の聾養子に貰い受く。 栃木県庁と為替方及び金銀取扱の契約成る。     三十九歳 川崎八右衛門、松下市郎右衛門等と提携して国立銀行創立を紙幣寮へ出願す。   八月十三日   八月十九日   九月六日   九月十四日   十月冊一日   十二月一日   十二月十七日 明治十年 五月廿五日 六月廿二日 十月廿六日 明治十一年 一月十三日 一月廿日 二月十六日 三月十一日 六月一日 八月一日 九月四日 父善悦翁を奉じ房子夫人を伴って日光見物に出立す。 帰京。 国立銀行設立の件許可さる。 前記銀行に第三国立銀行の名称許可さる。 紙幣寮へ簿記伝習の為通学の件願出づ。 第三国立銀行開業免状を授与さる。 養老秀吉氏三男長次郎(後善助と改む)を養子に貰受く。 この年借楽会を設く。     四十歳 第三国立銀行支店を大阪に設立する為め大阪神戸方面に向う。 帰京。 栃木に国立銀行設立の件許可さる。     四十一歳 栃木の銀行に第四十一国立銀行なる名称下附さる。 父善悦翁を奉じて箱根熱海より静岡浜松辺まで遊覧す。 帰京。 第十七国立銀行と為替契約を締結す。 第三国立銀行増資の件(三月廿八日出願)大蔵省より許可さる。 東京商法会議所議員に選ばる。 大蔵省より第四十一国立銀行開業免状を下附さる。 十二月廿三日 明治十二年 一月十六日 三月七日 三月十八日 六月廿七日 七月廿一日   八月廿九日   十月三日   十月廿九日   十一月十一日   十二月一日   十二月三日   明治十三年  一月一日    一月七日  一月+四日 東京府会議員に当選す。     四十二歳 第一回の議員として東京府会に臨む。 長男善之助氏(現在の善次郎氏)生る。 大蔵省出納局収税預り人を命ぜらる。 米国前大統領グラソド将軍来朝につき接待委員に挙げらる。 同将軍を上野に饗応するにつき、同所に聖上の御臨幸を仰ぐこととなり、右の請願委員 に選ばる。 善悦翁及び房子夫人を同伴して上州伊香保方面に遊ぶ。 帰京。 正金銀行創立発起人とたる。 安田銀行創立の願書を東京府庁へ提出す。 本所区横網町田安邸を買入る。 東京府より明治十四年三月開かるべき第二回内国勧業博覧会日本橋区出品人総理を命ぜ らる。 この年善悦翁と謀り郷里富山市なる愛宕神杜に石鳥居を寄進す。     四十三歳 安田銀行開業す。 東京府において公債に拠り防火線を設置するの議あり、起債方法調査委員に挙げらる。 茶の湯の稽古を始め、この日横網別荘において茶会を催す、自邸における茶会の初なり。   一月十九日   一月廿七日   二月三日   二月十五日   二月廿三日   六月十六日   七月冊日   九月九日   九月廿二日   十月一日   十一月廿三日   十二月八日   十二月十二日   明治十四年   四月十九日   `十月廿六日   十一月廿九日   明治十五年    一月十八日   二月八日 元岩井町の宅類焼す。 東京府会において防火線設置の為めの募債不可を力説す。 東京府会において府債募集諮問案の改正を建議し、後遂にこれを通過せしむ。 成島柳北氏等と謀って共済五百名杜を起す(後の共済生命保険会杜なり)。 東京府会議員及び東京商法会議所議員辞職願を提出す。 宝生流謡曲の稽古を始む。 房子夫人を伴って京阪地方遊覧の途に上る。 帰京。 公債証書価格維持の方法を大蔵省に献策す。 いよいよ府会議員を辞す。 岩代羽前地方に出張し、第三十一国立銀行重役と会見し同行との関係の端を開く。 帰京。 照降町より出火、安田商店の奥台所等類焼す、罹災者に恵与金を為す。     四十四歳 農繭務省為替方を命せらる。 第九十八国立銀行の件につき千葉へ赴く。 三女峯子生る。     四十五歳 大阪神戸へ赴く、小田銀行創立につきその規則を起草して助勢を与う。 帰京。 二月廿二日 六月廿七日 八月十七日 八月廿一日 九   月 十月 九日   十 一 月   明治十六年   三   月   四月廿八日   五   月   六月七日   六月廿一日  六月廿八日  七月六日   七月廿三日  七月廿五日 第四十四国立銀行を第三国立銀行へ合併するの企てを始む。 日本銀行創立御用係心得を命ぜらる。 松方公邸において同公及び富田、加藤、三野村の諸氏と日本銀行創立事務につき意見を 交換す。 第三国立銀行と第四十四国立銀行との合併許可さる。 茂木惣兵衛、朝吹英二、馬越恭平氏等と倉庫会杜の設立を謀る。 日本銀行創立御用係心得を免ぜられ、慰労として白縮緬一疋を下賜さる、更めて日本銀 行理事兼割引局長嘱託を命ぜらる。 前記倉庫会杜開業す。     四十六歳 銀行条例改正案に関する大蔵省の諮問に対しその意見を述ぶ。 日本銀行開業の祝典挙げらる。 第三国立銀行の華客百二十余名を八百松楼に招く。 富山県為替方を命ぜらる。 大阪へ向う。 日本銀行大阪支店開業式に列す。 大阪よりの帰途郷里富山に帰り菩提所へ参詣し、親戚故旧に金員を贈りて謝恩及び救済 の宿志を遂ぐ。 帰京。 安田商店開業当初より忠勤を励みし一番番頭峰沢徳兵衛死去す、因って懇ろに遺族の成 八月廿四日 九月五日 明治十七年 六月十九日 六月廿八日 八月六日 八月七日 九月十八日 十月十二日 十月十三日 十月廿一日 十一月血川日 十二月廿九日 明治十八年 二   月 明治十九年 立を図るσ 家族と箱根に遊ぶ。 帰京す。     四十七歳 自転車に試乗す。 次男真之助生る(早世)。 保善杜規則を起草す。 北海道視察の途に上る。 北海道よりの帰途東北地方の視察を終えてこの日帰京す。 拙碁会を作りその会則を定む。 日本銀行理事辞職願を提出す。 栃木県新築庁舎開庁式に臨む。 氏と親交ある成島柳北氏残す。 依願日本銀行理事を免ぜられ、同時に目録金五百円を賜わる。 この年前田家貯蔵の古金十五万両を買入る、本所区横網町の新築落成、 達を命ぜらる。     四十八歳 第三国立銀行の預金に取付始まる、前記古金買入に関する風評に基く、 余名を八百松楼に請待し事理を釈明す。     四十九歳 島根県為替方用        《へ》|{ 依って華客二百 一月十三日 四月十五日 五月廿日 六月六日 六月十九日 六月廿四日 六月廿六日 七月一日 八月十九日 八月廿六日 八月廿七日 九月二日 九月十八日 十月十九日 十一月十二日 十一月十九日 十二月十九日 十二月冊日 明治廿年 北海道庁現金取扱方を命ぜらる。 当時有名の老詩客岡本黄石以下九名を招く。 松方大蔵大臣を横網町新宅に招く。 毛利元徳公を招く。 松方大蔵大臣に招かる。 大木喬任卿に招かる。 三男三郎彦氏(後善五郎と改む)生る。 日本橋区浜町三丁目一番地の地所を買入る。 虎列刺大いに流行す、悪疫と暑気を避くる為め父及び妻子と共に栃木県下奈良部に遊ぶ。 日光に赴き輪王寺住職彦阪湛厚上人の饗応をうく。 日光に別荘の新築を企つ。 日光より塩原温泉へ向う。 帰京す。 演劇改良相談会の企てあり、氏も発起人の一人に擬せられしもこれを辞す。 釧路硫黄山の調査に取掛る。 両毛鉄道建設の発起人会に列す。 旧加賀藩主前田家より深川の鴨堀に招かる。 釧路硫黄山引受の議熟し、この日事務所の予算を編成す。 この年栃木県地方税金の取扱を免ぜらる。     五十歳   一月三日   三月十六日   三月廿日   四月廿一日   五   月   五月廿日 六月一日 六月十三日 六月廿一日 九月廿一日 九月廿九日 明治廿一年 三   月 五月廿二日 十   月 十一月九日 明治廿二年 善悦翁の健康勝れず依って別荘奥中二階に移す。 善悦翁長逝す。(享年七十四) 浅草区聞成寺において善悦翁の葬儀を営む。 海防費壱万円を献納す。 両毛鉄道検査委員となる。 亡父の遺命に従い、その歯骨を京都東本願寺の東大谷に納め、 を奉納する為め京畿に向う。 神戸より北九州巡視の途につく。 馬関より海路宇品に着し中国を視察す。 帰京。 海防費の献金に依り従六位に叙せらる。 金製黄綬章を賜わる。 この年大分県中津の第七十八国立銀行を買収す。     五十一歳 水戸鉄道会杜検査委員となる。 両毛鉄道一部開通。 乗馬の稽古を始む。 四男小六郎氏(後善雄と改む)生る。 この年帝国ホテルの創立あり氏もまた発起人に加わる。     五十二歳 また高野山に常明燈二箇 八月十七日 明治廿三年 八月十九日 十月十八日 明治廿四年 一月十一日 一月十二日 七月十八日 七月冊一日 八月九日 八月廿九日 十一月八日 十 二 月 明治廿五年 一月十三日 三月十日 四月六日 四月十七日 日本銀行監事を拝命す。 この年東京市市会議員に選ばる、また東京電燈会杜救済に取掛る。     五十三歳 日本銀行新築につきその主管を命ぜらる。 養子善助病残す。     五十四歳 馬術中等二級に進む。 家族一同イソフルエンザに冒されたるも氏独り健全なり。 彫工をして製作せしめたる木馬一頭松方総理大臣の手を経て聖上へ献上す。 横網二丁目七番地池田邸を買求め受け渡し終る。 新邸(旧池田邸)へ移転し、これを本邸と称う。 先般献上せる木馬嘉納あらせられたる旨の御沙汰を拝す。 日本銀行の命により濃尾大地震視察の為め名古屋及び岐阜に出張す。 岩国第百三国立銀行を救済す。 この年パノラマ会杜の株主に加入し、また小倉第八十七国立銀行を助勢す。     五十五歳 衆議院議員候補者たらんことを求められたるも固辞す。 日本銀行定礎式行わる、監事及び工事主管として列席す。 総理大臣松方公爵に招かる。 松方公を招く。  四月廿四日   四月廿七日   五月六日   七月廿三日   八月一日   八月十四日   九月六日   九月十七日   明治廿六年   四月十三日   四月十四日   八月廿九日   九月廿五日   十一月五日   明治廿七年   一月七日   一月十二日   二月一日   二月十六日 伏見宮貞愛親王殿下に従いて小金井へ遠乗す。 硫黄山視察の為め福島宮城両県下へ向う。 帰京。 硫黄山監視の為め北海道旅行の途に上る。 硫黄山を検閲す。 帰京。 衆議院議員候補者たることを承諾す。 選挙の結果廿四票の差を以て楠本正隆氏選に入る。     五十六歳 宮内大臣土方久元伯を招く。 副島種臣伯を招く。 帝国海上保険会杜創立許可さる。 帝国海上保険会杜創立総会を開く。 同杜開業。 この年兵庫運河開饗を助力す。     五十七歳 本所区衆議院議員候補たらんことを求められたるも固辞す。 本所区公民会会長に選ばる。 西国に向う。 帰京。 三月九日 三月十九日 三月廿五日 四月六日 五月廿七日 六月七日 六月十六日 七   月 八月一日 八月十四日 八月廿日 八月辮一日 九月三日 九月七日 九月八日 九月士一百 九月十八日 十月廿五日 聖上銀婚式をあげさせられ酒僕料下賜さる、依って横網町西洋館新築落成祝及び誕生祝 を兼ね、その披露祝宴を開く。 氏の推薦せる奥三郎兵衛氏衆議院議員当選につき祝宴を開く。 共済五百名杜組織変更総会。 共済生命保険合資会杜成立。 新築西洋館落成、宴会を開く、本日を始めとし総て十一回、二十九日を以て終る。 馬術練習所より卒業証書を授与せらる。 房子夫人を伴い郷里富山に向う。 帰京。 大阪に安田運搬所を置き兵器運搬を取扱う。 大阪より下の関に向う。 帰京。 有志者等の衆議院議員立候補勧説をさけて日光に遊ぶ。 衆議院議員に当選す。 帰京。 衆議院議員の辞表を東京府へ提出す。 本所区公民会会長を辞す。 成田、銚子地方へ旅行。 帰京。 神戸大阪方面に向う。  十一月一日   十一月廿一日   十二月上旬   明治廿八年   一月廿二日   一月廿六日   三   月   四月十六日   五月八日   五月廿六日   七月二日 明治廿九年 二月五日 三月十日 三月廿二日 四月一日 六月十五日 七月冊日 八月四日 帰京。 軍事公債の件につき伊藤総理大臣と会見す。 東京市大祝捷会発起人となる。     五十八歳 浦賀へ赴く。 鎌倉を経て帰京。 製釘会杜を企つ。 九州旅行の途に上る。 帰京。 房子夫人及び家族若干名を携え上方見物の途に上る。 帰京。 この年共済生命保険会杜を株式組織とす。     五十九歳 日清戦争に関し日本銀行における功労により勲四等に叙せらる。 日本銀行新築落成す、これを総裁に引渡す、同行新築祝宴委員長となる。 日本銀行新築落成祝賀会。 日本銀行新築主管を免ぜられ金盃一組、感謝状及び金壱千円を下賜さる。 秋田県国庫金取扱の内命を受く。 武相中央鉄道創立総会に臨む。 東京建物会杜創立総会を開く。 八   月 十月一日 明治廿年 三月冊日 八月廿二日 十一月八日 十一月廿四日 明治廿一年 一月廿一日 三月二日 五月十日 六月十七日 明治廿二年 二月廿八日 五月廿日 五月廿六日 六月一日 九月廿六日 鳥羽鉄工所を引受くる契約成る。 明治商業銀行の開業。     六十歳 伊臣貞太郎氏を迎えて養子とし長女暉子に配す。 日本銀行監事辞職願提出。 台湾銀行創立委員に任命さる。 養子善四郎病残す、大阪市築港公債を一手に引受く。 この年東京電燈会杜より手を引く。     六十一歳 衆議院議員候補たらんことを勧められたるも固辞す。 農工商高等会議議員を命ぜらる。 根室銀行を設立す。 釧路硫黄山事業一段落を告ぐ。     六十二歳 鉄道国有調査委員の内命を受く。 北海道拓殖銀行創立委員を命ぜらる。 旧浪花紡績会杜を入札の上引取る。 安田商事会杜設立開業。 東京湾築港計画請願書を提出す。 この年南佐久間町二丁目の地所及び仙台阪上、水谷町の地所を買入る。 イゴイコ  明治廿三年   二   月   三月…爪一日   六月一日   六   月   十一月八日 明治冊四年 四   月 五月一日 七月十二日 明治廿五年 二月五日 四   月 四月八日 四月十三日 四月十八日 四月十九日 四月二十日     六十三歳 京釜鉄道創立委員を命ぜらる。 日本興業銀行創立委員を命ぜらる。 群馬商業銀行設立開業。 大阪の天満鉄工所を引受け、これを大阪安田鉄工所とす。 八杜会を組織す。 この年東京大阪間に高速力電気鉄道布設の請願をなす。     六十四歳 千葉第九十八銀行救済に着手す。 熊本第九銀行を整理しこれを開業せしむ。 岡山第廿二銀行救済成る。     六十五歳 張之洞の借款申込の件につき桂総理、平田農商務、小村外務各大臣に会見し内談を受く。 横浜電気鉄道会杜を救済し貸出を為す。 支那視察の途に上る。 上海着、柳樹浦、盛華、老公茂、興泰号の三紡績工場及び乾康東廠、倫華号、詳興号の 三製糸場視察。 上海出帆。 蕪湖。 赤壁通過。 四月廿一日 五月三日 五月四日 五月七日 五月十一日 明治計七年 一月十八日 一月廿一日 二月十二日 六月八日 六月十四日 六月十六日 七月一日 七月二日 七月四日 七月六日 七月十一日 明治計九年 漢口着、武昌湖北織機管局、武昌製糸局及び農学堂視察、総督張之洞と会見す。 大冶鉱山視察。 九江。 上海出帆。 帰京。     六十七歳 日露国交の危機につき都下主たる銀行家と共に大蔵大臣より内談をうく。 日ならずして開戦となる。 山県元帥を訪い時局の財政につき意見を陳述す。 福岡第十七銀行本店焼失す。 松本重太郎氏より第百三十銀行の援助を求めらる。 第百三十銀行の件につき桂総理曽根大蔵両大臣と協議す、大阪に向う。 第百三十銀行調査に取掛る。 井上伯より百三十銀行の件につき懇請をうく。 井上伯邸において同伯及び桂首相、曽根蔵相と会し、軍国多事の際なれば是非右銀行を 整理せんことを懇請さる。 大阪方面の有志者より第百三十銀行整理を懇請さる。 整理条件を提出す。 第百三十銀行を開業せしむ。     六十九歳   四月一日   七月十三日   明治四十年   七月廿六日 明治四十一年 一   月 七月廿日 九月十六日 明治四十四年 六月廿二日 明治四十五年 一月一日 大正三年 三月十四日 大正四年 十一月十日 日露戦役の功に依り勲二等に叙し瑞宝章を授けらる。 南満州鉄道株式会杜創立委員を命ぜらる。     七十歳 帝国製麻会杜を設立す。 この年第五十八銀行を整理し第百三十銀行に合併し、また四分利公債発行につき政府に 献策するの事あり。     七十一歳 東京慈恵会へ金三万円寄附す、これより先き施療病床費金壱万四千二十二円を出掲せし が改めて上記金員を寄附す。 信濃銀行整理を引受く。 東洋拓殖株式会杜創立委員を命ぜらる。 この年高知銀行を整理す。     七十四歳 済生会へ金三十万円を寄附す。     七十五歳 保善杜の資本金を壱千万円に増加し法人組織とす。     七十七歳 富山市立職工学校及び商業学校生徒貸費基金及び学校建築費六万円を寄附す。     七十八歳 従四位に叙せらる。 大正五年 大正九年 十二月廿八日 大正十年 三   月 七月四日 九月四日 九月廿八日     七十九歳 東京帝国大学文学部仏教講座基金五万円寄附。     八十三歳 養子善三郎氏安田家より離居し、善次郎氏再び事務を視る。     八十四歳 八億円を投ぜんとする後藤男爵の東京都市計画案を引受くる内談を開く。 東京帝国大学講堂建設費(壱百余万円見積)寄附申込許可さる。 三百万円を以て杜団法人安田修徳会を設く。 大磯の別荘において暴卒す。 年譜終 安田善次郎年譜 大正十四年七月.      安田保善杜刊