黒岩涙香 血の文字 前置(著者の) 「あアく|斯《こ》うも警察のお手が|能《よ》く行届き、|何《ど》うしても逃れぬ事が出来ぬと|知《しつ》たら、決して悪事 は働かぬ所だッたのに」とは|或《ある》罪人が|己《おの》れの悪事露見して判事の前に|引据《ひきすえ》られし時の|繊悔《ざんげ》の言葉 なりとかや・余は此言葉を聞き此記録を書綴る心を起しぬ、此記録を読むものは何人も悪事を働 きては間職に合わぬことを叢り、算盤珠《そろばんだま》に掛けても正直に暮すほど利益な事は無きを知らん、殊 に|今日《こんにち》は鉄道も有り電信も有る世界にて警察の力を|潜《くゴ》り|果《おお》せるとは|到底《とうてい》出来ざる所にして、|晩《おそ》か れ早かれ露見して罰せらる》は一つたり。  斯く云わば此記録の何たるやは|自《おのずか》ら明力ならん、|値《ニ》は罪人を探り之を追い之と闘い之に勝ち 之に敗られなどしたる探偵の実話の一なり。 第一回 (怪しき客)  余が医学を修めて|最早《もはや》卒業せんとせし頃(時に余が年二十三)余は|巴里府《ぱりふ》プリンス街に下宿し |居《い》たるが余が借れる|間《ま》の隣の|室《へや》に中肉中背にて|髭髯《くちひげ》を|小綺麗《こぎれい》に|剃附《そりつけ》て容貌にも別に癖の無き一、人 の下宿人あり、宿の者等此人を旦秋康」とて特に「様」附にして呼び、帳番も廊下にて摺違う たびに此人には帽子を脱ぎて挨拶するなど大に持倣ぶりの違う所あるにぞ、余は何時とも無く不 審を起し目科とは抑《そ》も何者にやと疑いたり、素《もと》より室と室、隣同士の事とて或は燐寸《まつち》を貸し或は 小刀を借るぐらいの交際は有り、又時としては朝一緒に宿を出で次の四辻にて分る、まで語らい ながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろう様《よう》も無く唯《た》だ此の目科に美しき 細君ありて充分目科を愛し且つ恭う様子だけは知れり、去れど目科は妻ある身に不似合なる不規 則千万の身持にて或時は朝猶暗き内に家を出るかと思えば或時は夜通し帰り来らず又人の皆寝鎮 りたる後に至り細君を叩き起すことも有り其上時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、 斯も不規則なる所夫に仕え細君が能く苦情を鳴さぬと思えば余は益々証しさに堪えず、終に帳番 に打向いて打附に問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は佛然と色を |作《な》し、|毎《いつ》も宿り客の内幕を遠慮も無く話し|散《ちら》すに|引代《ひきかえ》て、余計な事をお|間《とい》なさるなと厳しく余を 醤近めたれば余が不審は是よりして蝦マ益々鑑り、欝作法をも打忘れて熱心に目科の律を 見張るに至れり。  見張り棚めてより鰍櫻も無く余は目科の振舞に最と怪しく馳恐ろしげなる事あるを見て呼うせ 礒な人には荊ずと思いたり・其事は輝ならず・或日目科は当時の流行を窮ちたる艇立派なる服を 襖かざり胸には「レジョソ・ドノル」の勲章を灘めかせて湘より帰ると見たるに篤欝か数日後に 彼れは最下等の職人が纏う姉ぎ灘ぴしき仕葺ポに破れたる帽子を熱ぎて家を此たり、其時の彼れ が顔附は|何処《どこ》とも無く悪人の|相《そう》を帯び一目見るさえ|怖《こわ》らしき程なりき、是さえあるに或午後は又 彼れが臨律かんとするとき其細君が曝げ誰まで送り出で、斜静団にも灘計る>ほど繊伊に彼れが 首に手を巻きて別れのキスを移しながら「嚢、大事をお聡なさい、醜には株いが気遣うて待て 居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、|委細《いさい》の心は分らねど|扮《さて》は、拐は、細君が彼 れの身持を餓めぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞を 瀞さしむるにや、斯く思いて余は礎〜震い上り世には恐ろしき夫婦もある磁と嚥じたれど、此後 の事は是よりも|猶《か》お|酷《ひど》かりき。  余は修学に身を委ねながらも・夜に〃りては「レローイ」礁環餓と云えるに行き斑や耽る膵の勝 負を楽むが襟辮き灘蕪なりしが、'磁知箏の楽み終りて帰り来り、櫛お斑鴛の鑑"を想いながら 眠りに|就《つき》しに、夢に球と球と相触れて|憂《かつく》々と響く音に耳を襲われ、驚き|覚《さ》めて|頭《かしら》を|櫻《あぐ》れば其響は 球の音にあらで外より余が室の戸を急がわしく打叩くにぞありける、時ならぬ真夜中に人の眠り を妨るは僻れの灘胤灘をと携晦計ながら、趣伊きて戸を開くに、窯て〃る'ち川は是なん目科其 人にして衣服の昔構は轍れ、飾り礎の胸板は引裂かれ、帽子は失い襟飾りは曲りたるなど一目に 他人と組合い|櫻《つか》み合いたるを知る有様なるに其うえ顔は一面に血|塗《まみ》れなれば余は全く仰天し「や、 や、貴方は|何《ど》う|成《なさ》ッた」と叫び問う、目科は其声高しと叱り鎮めて「いや此傷は、なに|太《たい》した事 でも有ますまいが何分にも痛むので幸い貴方が医学生だから手当を|仕《し》て貰おうと思いまして」と 答う、余は無言の|儘《まユ》に彼れを|据《すわ》らせ其傷を|検《あらた》むるに|成《な》るほど血の出る割には|太《たい》した怪我にもあら ず・爾れど左の頬を耳より口まで肥柵れたる者にして逃ろ《に肉さえ露鵬たれば痛みは㌍こそと 察せらる、櫨て余が其傷を洗いて知《の手術を施し終れば目科は厚く礼を述べ「いや是くらいの 怪我で逃れたのは隷しもです。伽し此事は誰にも言わぬ様に願います」との注意を避して避ぎた り、是より夜の明るまで余は眠るにも眠られず、様々の想像を浮べ来りて是か|彼《あ》れかと考え廻す に目科は趨籟か催塊か低しは又強盗か、何しろ穣烈の悪人には相違なし。  |爾《さ》れど彼れ翌日は静かに余が室に|入来《いりきた》り再び礼を繰返したる末、意外にも余に晩餐の饗応せん と|言出《いいいで》たり、晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらも|唯《たゴ》彼れが本性 を慰塊さんと思う一心にて其招きに応じ、気永く構えて耳と目の及ぶだけ気を附けたれど露ほど も余の疑いを晴す如き事柄は聞出しもせねば見出しもせずに晩餐を終りたり。 爾は云え是よりして余と目科の間柄は」と爬近くなり、目科も何やら余に郊叶を求めんとする如 く幾度と無く余を招きて細君と共々に|間食《かんじき》を|為《な》し|殊《こと》に又夜に|入《い》りては|欠《かト》さず余を「レローイ」珈 俳館まで避鷺り共に勝負事を試みたり、貯くて七月のあ「ゆ外、五時より六時の間なりしが例の如 く珈俳館にて麟パ居たるに、衣類も灘くるしく壌しげなる男」ち川、あ嵐,しく刈飛り何やらん目科 の耳に縦謡くと見る間に目科は顔色を変て身構し「婦しく藤に行く、早く帰ッて皆に爾云え」 と、命ずる間も響しげなり、男は此返事を律るや又」っ聾走去りしが・後に目科は余に向い 「誠に残念ですが、勤めには代られぬ|讐《たとば》です、此勝負は明日に譲り今日は是で失敬します」とて 早や立去らん様子なり、勝負の中止も快からねど知よりも不審に律轡えず・彼れが秘密を見現す は今なり、と余は思切ッて同行せざるの遺憾を避るに「麟さ、たに構うものか・来るなら一緒に お鵬なさい、随分面白いかも知れませぬから」貯く聞きて余は嬉しさに"遷き、返す言葉の暇さ え惜しく、篤儘帽子を勲ぎて彼れに従い珈俳館を赴㎜だ㌦ 第一一回 (血の文字)  目科に従いて走りながらも余は|唯《た》だ彼れが本性を知る時の来りしを喜ぶのみ、此些細なる一事 が余の後々に勢κなる影響を及ぼす"しとは思い寄ろう欝も無し・目科は慰"足を渡猷の嚢に せる人なる|乎《カ》と怪しまるゝほど達者に走り余は|辛《かろ》うじて其後に続くのみにて|喘《あえ》ぎくロデオソ|街《まち》 に達せし頃、一轍か馬車を認め目科はきれを呪盤めて舟ず余に乗らしめ駿都には「出来るだけ早 く昼れ・バチグノールのレクルース機三十九番館だ」と告げ其身も続て飛乗りつ冊鷺罵を麓し並 たり、「は>ア、行く先はバチグノールだと見えますた」とて余は最も謙遜の|詞《ことぱ》を用い目科の返 事を|釣出《つりだ》さんと試むれど彼れ今までとは別人の如く其唇固く閉じ其眉半ば|螢《ひそ》みたるま・にて言葉 を発せず其様深く心に思う所ありて余が言葉の通ぜぬに似たり、彼れ何を貯く考うるや、ま腱い借 らに餐を眺めて動かざるは精かしき問題ありて乗を解かん嶽め苦めるにや・螂て彼れ姦を探り 艇鷲やかなる囎齢翼め箱を聡蹄し幾度か鼻に当て我を忘れて其香気を欝る如くに見せ齪る、弁れ ど余は耗てより彼れに此癖あるを知れり、彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるも幣だ豊の箱を襟ぞ 啓り・喜びにも悲みにも其心の動く脇撫顔色を悟られまじとて煙草を噺ぐに縄らせるなり、粛餓 するうちに馬車は早やクリチーの坂を登り其外なる穂遷び横に切りてレクルース饒に入り約束の 番地より少し手前にて停りたり、停るも道理や三十九番館の前には|凡《およ》そ≡二百の人集り巡査の制 止をも聞かずして掛俘える程なれば馬車は一歩だも進み得ぬなり、余は何事なるや知らざれど嵐 にて目科と共に馬車を隊り群集を檎嬬て館の戸口に進まんとするに巡査の一人強く斜箏を選ゲて 弗避がしめんとす、目科は麟島離に巡査に向い「貴官は携都を矧ませんか、拙者は目科です、是 なる若者は拙者と|一処《いつしよ》に来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや|貴方《あなた》でした か、|爾《そう》とは思いも寄りませず」と|遽《あわたサ》しく言訳するを聞捨て|閾《しきい》を一足館内に歩み入れば驚きて|薙《こム》 に翼える此家の麟ヂの中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら遷逓て話しせる一老女 あり定めし此家の店番なる|可《べ》し、目科は無遠慮に話の先を折り「|何所《どこ》だ、何所です」と急ぎ問う 「三階ですよ、三階の|取附《とつつき》です、|本統《ほんとう》に|先《ま》ア此様な正直な家の中で、|夫《それ》に日頃あの正直な老人 を」と老女が答え飛るを半分聞き藤櫨段梯子を四段ず2足に穐雌る、余は肺の臓の破る主思 うほど呼喚の世諦しきにも構わず其灘をして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開 放せし儘なるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎボ㎎き寝塾へと刈遅みぬ、見れば莚に は早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其天の鱒に蘇齪恭三色の線ある蟹軋薦 たるは|問《とう》でも|著《しる》き警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、|卓子《ていぷる》に向 い何事をか講識砂つ》有るは麿ぽ判事の書記生なり、鳳筆の人々何が為に此室にきたりたるぞ、 余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして|仰《あお》 鶴に携機れ、脇醜よりいでたる血潮は既に挺りて黒くなれり。  余は驚きの余り|瞼眼《よろめ》きて倒れんとし|績《わずか》に傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得 しま>鶴しが程は僻〜身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは 幾度なるを知らず病院にも之を|見《み》学校にも之を見たり、|然《しか》れども|面《まのあ》たり犯罪の跡を見たるは実に 此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、|唯《たゴ》余の隣 人目科は余ほどに驚き恐れず厩蹴も確に警察官の謹に進むに、警察官は其顔を見るよりも「ア ア目科君か、折角聡に遣たけれど君を迎えるほどの事件では鱒ッたよ目「とは又呼う云う訳で 「いや君の智慧を借るまでも無く罪人が分ッて、仕舞ッた、実は|最《も》う逮捕状を発したから今頃は 樺縦された時分だ」罪人が解りたらば舟ずほッと安心すべきところなるに目科は醇は無くて痛く 失望の色を現わし冊を伐婦く紛らさんため例の嗅煙草の箱を取出し鼻の先に≡二度当て「おやお や罪人が分ッたのか」と云う、今度は予審判事が之に答えんとする如く「分ッたにも、|最《も》う明白 に分ッたよ、罪人は此老人が死切れた物と思い安心して逃て仕舞ッたが実は|是《こ》れが|本統《ほんとう》に|天帝《てんてい》の 見張て居ると云う者だろうよ、老人は荘だ残躍ずに居て、必死の思いで頭を上げ、傷口から出る 血に指を浸して床へ罪人の名を書附て|置《おい》て|死《しん》だ。|先《ま》ア見たまえそれ血の文字が|歴《ありく》々と残ッて居 る」蛎像ましき語を聞きて余は直ちに麻哺び見廻す晟るほど死骸の頭の辺に恐ろしき血の文字 ありきζけの綴りは殖鷹の苦痛に震いし如く揺れくになりたれど識擁う研くもあらず目科 も之を見しかども彼れ驚きしか驚かざるか嗅煙草を振るのみにて顔色には現わさず幣だ単に「知 で」と云う、今度は又警察署長「知で分ッて居るじゃ無いか藻酊が鵬と云う者の名前の初めを謹 概て事切れと鵬たのだ、藻西太郎とは此老人の唯一人の甥だ・老人が余ほど臓灘いそ居たと云う 事だ」と説明す、目科は唯口の|中《うち》にて何事をか眩くのみ、|更《さら》に予審判事は今言いし警察官の説明 を補わんとする如くに「此文字が何よりの証拠だから|何《ど》の様な悪人でも|剛情《ごうじよう》は張り得まい、|殊《こと》に 此老人を殺して知が為に得の行くのは唯此藻西太郎」ちMだ、老人は壌笈の財産を持て居て、恐さ えすれば甥の藻西へ転がり込む様に|成《なつ》て居る、のみならず老人の殺されたのは昨夜の事で、昨夜 老人の誰へ来たのは嘩だ藻西一人さ、帳番の証言だから鳳も確かだ、藻西は宵の九時頃に来て十 二時頃まで居た構だ、其後では誰も老人の室へ鷺兇た者が無いと云うから是ほど確な証拠は有る まいL目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明か に藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其 疑いを避る様に、鵬て催塊の耽瀞にでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を聴欝して置く とか|夫《それ》くらいの事は|仕《し》そうな|者《もの》だ、老人を殺しながら|夫《それ》をせぬとは余り馬鹿過ると云う|者《もの》だ警察 官「|爾《そう》さ別に此室を|取散《とりちら》すとか云う様な疑いを避ける工夫は仕て|無《なか》ッた、殺すと早々逃たのだろ う、余り智慧の|逞《たくま》しい男では無いと見える、|此向《このむき》なら捕縛すれば|直《じき》に白状するだろう」と云い、 |猶《な》おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向い|是《これ》も何やらん 差図を与え初めたり。           第三回(又不審)  嵐にて舟ず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり・彼れは催塊にも辮ず追剥にも非ず 純然たる欝鳳更なり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、射窃時々変ぜしなれ、鳳く細 君に気遣われしなれ、「櫨」隅にも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無 し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代て職鳳く余の心に留り初めしは床の上の死骸な り、余が心は全く彼の死骸に|縛附《しぱりつけ》られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりも|猶《な》お切に彼の 死骸を思う、初て譲を見し時の驚きと恐れとは何畔しか消えて次第に物の理を考うる力も哉に 償りしかば余は嘩だ瞳た遍に在る綴ての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口に並 し儘なるも瞬ば塾弗び職煙れり、今まで絵入の雑誌たどにて爬麓か場所を写したる図などは見し 事あり辮れにも期遍齢と耽髄したる景色見えしに、実際なる此人殺しの寝塾の内には取散したる 跡を見ず老人の日頃不自由なく暮し耐も質素を齢として万事に注意の叢計事は鳳だけにて察せら る、寝床及び窓掛を初め在ゆる品物に手入|能《よ》く行届き|塵《ちヴ》も無ければ汚れも見えず、此老人の殺さ れしは必ず警察官及び判事等の推量せし通り昨夜の事なりしならん、其証拠とも云う|可《べ》きは寝床 の用意既に整い・寝巻及び肌着ともに寝台の働に齢しあり轡お樵ら瞬なる"職の上には轡隅に鰍 ん為なるべく、砂糖水を麟たる碓っ蕊も難儘にして又其横手には昨日の毎夕新聞一枚と備に世っ鵬の 箱一個あり、小棚の隅に置きたる燭台は其蟷燭既に|燃尽《もえつく》せしかど定めし此犯罪を照したるものな らん、曲者は蟷燭を吹消さずに逃去りしと見え燭台の|頂辺《てつぺん》に|氷柱《つらエ》の如く垂れたる|燭涙《しよくるい》は黒き汚れ の色を帯ぶ、|個《こ》は蟻燭の自から燃尽すまで|燃居《もえい》たるしるしなり。  織て嵐箏の織計事柄は礎〜一目にて余の瞬に映じ康せり、今思うに此時の余の眼は慰"写真の 印騨鎌の如くなりし野眼より直ちに衝楓とも云う研き余の心に写りたる所は最と鎌瞬がるのみか は|爾後《じご》幾年を経たる|今日《こんにち》まで少しも消えず、余は今も|猶《な》お其時の如く|覚《おぼ》え|居《お》れば少しの相違も無 く端罫を描き得ん、予審判事の書記が寄れる軋飛の足の下に転がりて瀦楓の栓の苗りし事をも記 臆し・罵猷はコロップにて其一端に青き舞蟻の郁したる事すらも忘れず鵬傑千年虫瑠るとも是 等の事を忘る可くも蠣ず・余は真に此時まで貯く仔細に静て仔細に心に留る事の出来ようと臨臨 ら思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の|如何《いかん》を|詳《くわし》く|思見《おもいみ》る 職も無かりき。  我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸に|近《ちかづ》き|度《た》き望みを起し自ら制せんとして制し得ず、 球心よりも撒強き一種の望み轟され推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此書在る をも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科 は警官と|密《ひそく》々語らう最中なりしかば、余は|瞥《とが》められもせず又瞥めらる可しと思いもせず、|最《いと》平気 に、|最《いと》安心して、|宛《あたか》も言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸の|許《もと》に行き、|其《その》 搬ふ耀ヂきてそろくと死骸を検査し初めぬ。  此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉|清《や》せたれど健康は充分にして随分 百歳までも生延得る容体とし|頭髪《かみのけ》も|猶《な》お白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も|剃《かみ》 濡を当ぬかと思うばかりに欝響の延たれど揮死人籍く有る例しにて死したる傑急に延たるも のなる可く余は|開剖室《かいぽうしつ》などにて同じ|類《たぐい》を実見せしこと|度《たびく》々なれば別に|怪《あやし》とも思わず|唯《た》だ余が|大《おおい》に 怪しと思いたるは老人の顔の様子なり・老人の顔附は鼠と聯がにして難を浮めしとも云う研く斑 に唇などは今しも友達に向いて親密なる話を|初《はじめ》んとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の 顔には笑こそあれ畿祉の様子は少しも存せざることを、是れ峰だ」と篶に、痛みをも苦みをも感ぜ ぬ|中《うち》に死し去りたる証拠ならずや、余は実に|爾《そ》う思いたり、此老人は|突《つか》れてより顔を|盛《しか》むる間も 無きうちに巽賦と瀞りしたりと・普し真に顔を整むる間も無かりしとせば如伊にして轟σZ一げ の五文字を端麻に護識せしぞ、残るほどの傷を負い、其痛みを櫨えて我宝血に指を染め其上にて 字を書くとは一通りの事に荊ず、充分に顔を整め充分に檎を瞬さん、知のみか名を書くからには、 死せし後にも此悪人を捕われさせ我が傭を健さんとの念あること四赴がれば顔に恐ろしき怨みの 相こそ現わるれ笑の浮ぽう|筈万《はずぱんく》々無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、 今にも我が敵に職隅んずる程の怒れる配餓誉存すべき筈ならずや。  斑に老人の協処を機み見れば嘘を一突にて深く刺れ「謹」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、 麟都の去りたる後まで宝儲ぞしとは讃む可からず、笑の浮みしは実際にして又道理たり、血の文 字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あ》余は|唯是《たゴこれ》だけの事に気附てより、後にも先 にも欝がき程に擢聯ぎ胸のうち腕げ騒ぎ此して、轟く聾惨に身も裂くるかと疑わる。  去れば余は|猶《な》お老人の|傍《そば》を去る|能《あた》わず、更に|死体《しがい》の手を取りて|検《あらた》むるに、余の驚きは更に強き を加え飛れり、読者よ、老人の右の手には少しも血の癖を見ず幣だ左の手の人差指のみ纏く血に 璽れしを見る・此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云う町きか、翫、否、否、左りの手に て|書《かこ》う筈なし余は|最早《もは》や我が心を|抑《おさゆ》る|能《あた》わず、我が言葉をも吐く|能《あた》わず、身体に|満《みちく》々たる驚きに、              あたか          せい    ま、 臨あが  つつたち 余は其外の事を思う能わず、宛も物に襲われし人の如く一声高く叫びし儘、膠上りて突立たり。  余の驚き叫びし声には室中の人皆驚きしと見え、余が自ら我が声を怪みて身辺を見廻りし頃に は判事も警察官も目科も書記も皆余の|周囲《まわり》に立ち「何だ「何事だ「|何《ど》うした「|何《ど》うしました」と 蹴妙しく識碍う声、矢の如く余が耳を突く、余は聾お一語をも発し得ず嘩だ「あ、あ、あれ、あ れ」と嚇りつ》儒か鴉凧に指さすのみ、目科は幾分か余の意を曜りしにや蔵櫨恥伐に郵ヂ掛り其 両手を検め見て、|猶予《ゆうよ》もせずに立上り「|成《なる》ほど、血の文字は此老人が書いたので無い」と言い怪 む判事警察官が猶お|一言《ひとこと》も発せぬうち又|踏《せくゴ》みて|死体《しがい》の手を取り其左のみ汚れしを|挙《あ》げ示すに、 警官も此証拠は争われず「あ>大変な事を見落して麟たなア」と嚇げり、目科は例の饗煙草を急 ぎて其鼻に|宛《あて》ながら「|好《よ》く|有《あ》る奴さ一番大切な証拠を一番後まで見落すとは、|併《しか》し老人が自分で 謝たので無いとすれば事の具合が全く一変する、さア此文字は誰が書た、勿論老人を殺した奴が 書たのだろう」判事と警官も一声に「藤とも爾とも目「齪烈爾とすれば齢都が老人を殺した後で 自分の名を書附けると云う馬鹿はせぬたら、此曲者は無論藻西で無いと思わねばたらぬ、|是丈《これだけ》は 誰も異存の無い所だから、此|断案《だんあん》は両君何と下さる>か」警官は|弦《こエ》に至りて言葉無し、判事は深 く考えながら「爾さ、曲者が自分の名を書ぬ事は明かだ、|書《かく》のは|則《すなわ》ち自分へ疑いの掛らぬ為だか ら、爾だ|他人《たじん》に疑いを掛けて自分が|夫《それ》を逃れる為めだから、此名前で無い者が曲者だ、|吾《われく》々は曲 者の計略に載られて居たのだ、藻西太郎に罪は無い、爾とすれば|本統《ほんとう》の罪人は誰だろう警「爾さ 誰だろう目「夫を見出すは判「目科君、君の役目だ」  貯く一同の意見が全く一変せし所へ、慰"外より川鷲る一巡査は藻西太郎を捕縛に行きたる」ち |人《にん》なる可し「唯今帰りました」の声を先に立て・第一に警察官の前に行き「命令通り夫々手を尽 しましたが是ほど|旨《うま》く|行《いつ》た事は有ません警「では藻西を捕縛したか、|夫《それ》は大変だが巡「はい手も 無く捕縛して仕舞いました夫に彼れ全く逃れぬ所を見てか|不残《すつかり》白状して仕舞いま↓た警「や、や 藻西が白状したとな」 第四回(白状) 罪警人が白状する讐ければ藻西太郎が白状芒と云うを聞き一同は言葉も出ぬまでに驚き 果て・中にも余の如きは響夢かと思うばかりなりき、今まで余の集め得たる証拠癒て野の 獺に難び罪人あることを示せるに彼れ自ら白状したりとは何事ぞ、欺る事の有り得べきや、人々 亀にて蕃早く心を欝めしは目科なり彼れ五六遍農煙草の空箱を鼻に響簑、爆巡査 に打向いて荒々しく「知は全く間違いだ、お前が自分で欺されたのか醇無ぐば吾々を欺して居る のだ必ず其|二《ふたつ》に|一《ひとつ》だ巡「|其様《そのよう》な事は有ません|夫《それ》は私しが誓います目「いや誓うには及ばぬ|無言《だまつ》て 居なさい、何でも藻西太郎の言た事をお前が聞違て白状だと思たの|力夫《ノニれ》ともお前が手柄顔に何も 彼も分ッた様に一一一一。い吾々を驚かせようと思ッたのだ」此籍き一一一。葉を聞くま毒と謙遜に構蓬 る巡査なれど今は我慢が出来ずと思いし如く横柄に肩を從耳動し「へえ御免を蒙りましょう、揮り ながら私しは其様な馬鹿でも無ければ嘘つきでも|有《あり》ません自分の言う事くらいは心得て|居《おり》ますか ら」と趣選す・此儘に捨置なば二人の間擬み合も初り峯る剣幕たれば警察長は捨置かれずと 思いし如く割て入り「いや目科君待ち給え詳しく聞終ッた上で無ければ分らぬから」と云い更に 巡査に打向いて「さ事の次第を細かに述べ今一応|説明《ときあか》して見ろ」と命じたり、巡査は此命を得て 髄㌍己の重きを増したる如くjトボと目科を尻目に掛け留僻ぶりて説き始む「私しは貴官の命を受 け検査官一名及び同僚巡査一名と共に、都合三名で、ビ・エソ街五十七番館に住む飾物模造職藻 西太郎と云う者をば、バチグノールの此家に住で居る|伯父《おじ》を殺したと云う嫌疑で捕縛の為め出張 致しました」警察長は、成る|可《べ》く彼れの言葉を|切縮《きりちゴめ》させんと思う如く、|将《は》た感心する如くに「其 通り、其通り」と軽く舞蔚く巡査は益々力を得て「吾々三人馬車に乗り螂て其ビ・エソ街に達 しますと藻西太郎は丁度夕飯を初める所で妻と共に店の次の間で席に|就《つこ》うと|仕《し》て居ました、妻と 云うのは年頃二十五歳より三十歳までの女で実に驚く可き美人です、吾々三人引続て其家に入込 ますと藻西太郎は|斯《かく》と見て|直様《すぐさま》何の用事だと問いました、問うと検査官は|衣嚢《かくし》より逮捕状を取出 し法律の名を以て其方を捕縛に参たと答えました」此長々しき報告を目科は聞くに得堪ずと思い し如く「お前は要点だけ話す事が出来ぬのか」と|迫《せか》し立るに巡査は一向頓着せず、「私は今まで 随分捕縛には出張しましたが、捕縛と聞て此藻西太郎ほど灘驚したのは見た事が有りません、彼 れは|漸《ようや》く我れに復りて其様な筈は有ません必ず誰かの間違いでしょうと言ました、検査官が|推返《おしかえ》 して決して人違いで無いと答えますと知では何の腱で捕縛しますと問返しました、オイ何の廉な ど》其様な塔鵬聡しを琵ても騨序だよ其方の仔"は呼うした、既に死骸が其筋の目に留り其方が 殺したと云う沢山の証拠が有る其方に於いて覚え有う、と詰寄る検査官の言葉を聞て驚いたの驚 か無いのと云て|全《まる》で度胸を失ッて仕舞ました、何か|言《いお》うとするけれど其言葉は口から出ず|瞼蹟《よろめ》い て椅子に倒れると云う騒ぎです、検査官は彼れの首筋を捕えて柔かに引起し今更彼是れ云うても 無益だ郁僻に白状しろ白状するに越した事は無いと議しました、彼れは早や魂も抜けた様に成り 馬鹿が人の顔を見る様に検査官の顔を見上てハイ何も彼も白状致します全く私しの|仕《し》た|業《わざ》ですと 答えました」警察長は聞来りて「静く違た、能く遣た」と再び賛成の意を示すに巡査は全く勝誇 りて「私し共は|素《もと》より出来るだけ早く事を終る所存です、成る可く人を騒がすなと云うお差図を 得て居ましたが伊畔の間にか早や弥次馬ががやくと其戸口に集りましたから検査官は罪人の手 を引立てさ>警察署で待て居るから直に行こうと云いますと罪人はやヅと立上り|有《あり》だけの勇気を 絞り集めた声でハイ参りましょうと答えました吾々は是で|最《も》う何も彼も|旨《うま》く行たと思て居ました が実は彼れの|背後《うしろ》に女房の控えている事を忘れて居ました、此時まで藻西太郎の女房は気絶でも 仕たかと思わる>ほど静で、腕椅子に沈込んだま>一言も発せずに居ましたが吾々が藻西を引立 ようとすると|宛《まる》で女獅々の狂う様に飛立て戸の前に立塞がり、通しません|弦《こト》を通しませんと叫び ましたが載雛に凄い様でした、濃耐に検査官は慣て居るだけ静に制してイヤ噸欝腹も立うが仕方 が無い其様な事をするだけ|不為《ふため》だからと云ましたけれど女房は仲々聴きません|果《はて》は両の手に左右 の戸を捕え|所天《おつと》に決して其様な罪は無い彼に限ッて悪事は働かぬとか所天が牢へ入られるなら私 しも入れて下さいとか夫はく最う聞くも気の毒なほど立腹し吾々を罵るやら|誹《そし》るやら、容易に は収り|相《そう》も見えませんでしたが、何と云ても検査官の承知せぬのを見、今度は泣ながら詫をして |何《ど》うか所天を許して呉れと願いました、気の毒は気の毒でも役目には代られませんから検査官は 少しも動きません、女も織には思い鵬たと見え所天の首に手を巻て貴方は此様な恐ろしい疑いを 受けて|無言《だまつ》て居るのですか覚え、が|蕪《ない》と言切てお仕舞いなさい貴方に限て其様な事の無いのは私し が知て居ますと泣きつ|口説《くどき》つする|様《さま》に一同涙を|催《もよお》しました、|夫《それ》だのに藻西太郎と云う奴は本統に 醐い奴ですよ、呼うでしょう其泣て居る我が女房を鴉匿にも寒穐しました、本統に自分の醜どで も云う様に荒々しく突飛しました、女房は次の塾まで蹴蹴て行て傭れましたが知でも舟ア幸いな 事には夫でいさくさも収りました、何でも女房は什れた|儘《まいヨ》気絶した様子でしたが其暇に検査官は 古7王を引立て藤櫨蔑舞に待せある馬車へと贈いで行きました、いえ本統に藻西を昇いだのです彼 れは足がよろくして馬車まで歩む事も出来ぬのです、え何と恐ろしい者じゃ有ませんか、我が 悪事が早や露見したかと失望したので足が立なく成たのです、|先《まずく》々是で厄介を払たと思た所ろ女 房の外に|猶《ま》だ一つ厄介者が有たのですよ、夫を何だと思います、彼れの|飼《かつ》て居る黒い犬です、犬 の畜生女房より猶だ手に合ぬ奴で、吾々が藻西太郎を引立ようとすると獄烈と吠て吾々に飢い随 うとするのみか追ても追ても仲々聴ません、実に気の強い犬ですよ、夫でも|先《ま》ア味方は三人でし よう敵は|繍《わずか》に一匹の犬だから|漸《ようや》くに|追退《おいのけ》て藻西を馬車へ引載ると今度は犬も調子を変え、一緒に 馬車へ乗うとするのです・夫も到頭避搦いやッとの事で引上る運びに達しましたが、其引上る道 道も検査官は藻西太郎を慰めようとしますけれど彼れ|首《こうべ》を垂れて深く考え込む様子で一言も返事 しません、夫から警察本署へ着た頃は少し心も落着た様子でしたが、櫨て牢の中へ㍊ますと、彼 れ唯一人淋しい一室へ閉籠られただけ又首を垂れあ・|何《ど》うしたんだたア本統にと繰返しく眩き ます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服す るかと問ますと彼れは|爾《そう》ですと云わぬばかりに|頷首《うなず》きながら何うか独りで置て下さいと云うので す・夫でも苔しや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々は織げ見張を醐 て牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と 世に珍しき長談議も|弦《こト》に|漸《ようや》く終りを告げたり。  聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と眩き予審判事も同じ思いと見え「|左様《さよう》、 明々白々です、外に|何《ど》の様な事情が|有《あろ》うとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云 う、余は実に驚きたれど轡お合点の行かぬ所あり横鎗を入んため擁に摩鍵を動さんとするに目科 も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「憲を明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自 分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無い欝だが、警「無さ橿でも婦いじ ゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬ けれど是も当人に|篤《とく》と問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬから|未《ま》だ合点 が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分の|危《あやぷ》む念を浮べし如く「今夜|早速《さつそく》牢屋へ 行き|篤《とく》と藻西太郎に|問糺《といたゴ》して見よう」と云う。  鳳にて判事は轡お警察長に向い先刻死骸検査の瀞め避ロ遭りたる医官等も尉早や蒲るに間も有 るまじければ知まで砥に盤ぴれよと頼み置き其身は書記及び報告に来し儒げ巡査と共に此家より 引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて|踏留《ふみとゴま》りは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、 成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろく|室中《しつちゆう》の|抽斗《ひきだし》及び押入等に封印を施し初めぬ。  余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は|徐《そろく》々と其疑いの鎮まり し如く「|爾《そう》さなア、矢張り皿の文字は老人が書たのかも知れぬ」余は|忽《たちま》ち目を見開き「老人が左 の手でかね、其様な事が有うか知に老人が慮」と鴛で文字などを書く間も無く砥だ事は僕が受合 う」あ奈と目科との間柄は早や稀欝と云う程の隔て無き郊7瀞れり目「全く相嚢いのかね 余「傷から云えば全く|爾《そう》だよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、|尤《もつと》も僕は|猶《な》お 卒業もせぬ書生の事だから|当《あて》には成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を 取出しながら「此事件には|猶《ま》だ吾々の知らぬ秘密の点が有るに|極《きま》ッて居る、其点を検めるが肝腎 だ|夫《それ》を検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、|爾《そう》だ更に初めても構いはせぬなア面白い 初めようじゃ無いか婦しく端撹で舟ず第一に此家の店番を呼び除丑して見よう」鵜丑いて目科 は襯ヂ蹴の隣に行き・驚櫛より「階を羅きて声を張上げ店番を呼立たり。 第五回 (|種《しゆハち》々の証拠)  店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にも|此室《このへや》の入口の戸に最も深く心 を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如き|痕無《あとな》ければ|是《これ》だけにて|曲 勧が好にも餓にも老人と懇慧の人なりしことは艦がり、余は又目科が貯く詮蟹する間に室中を岸 方此方《くせちこち》と見廻して先に判事の書記が寄りたる|卓子《てえぷる》の下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、 |要《よう》も無き|唯一個《ただひとつ》の空瓶の口なれば是が|爾《さ》までの手掛りに|為《な》ろうとは思わねど少しの手掛りをも見 落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げて|検《あらた》め見るに是れ通常の酒瓶の 栓にして別に|異《かわ》りし所も無し、上の端には青き封蟷の着きし儘にて其真中に|錐《きり》をもみ込し如き穴 あるは是れ蛾磁欣のコロップ擁に魂擁たる癖なるべし、旭蕃讃同様に縄聾する概灘なれば 其穴はお解から舞がりて曙だ其傷だけ残れるを見るのみなれば更に罷ぞしてπの端を眺れば砥には 異様なる|切創《きりさず》あり、何者が何の為にコロップの栓の裏に|斯《かト》る切創を附けたるにや、其創は|最鋭《もつとも》 き刃物にて刺したる者にて老人の職が刺せし賎双"鰍る鷺伽なりしならん、老人の咽を突きしも 此コロップを突し如くに突しにや、|斯《か》く思いて余はゾッと身震いしつ、|其儘《そのまエ》持行きて目科に示す に彼れ存則萄則携鵬めたるすえ「コレハ大変た手掛だ」と云い嗅煙草の空箱を取出す間も無く喜 びの色を浮べたれば、余は|何故《なにゆえ》是が大変の手掛りなるやと怪みて打問うに彼れ今も|猶《な》お押入其他 の封印に忙わしき彼の警察長を尻目に見、彼れに何事も聞えぬ様小声にて|説明《ときあか》す「何故だッて君、 此コロップは曲者が捨て行たのでは無いか、|先《ま》ず此傷を見給え此傷を、是は確に老人を刺した刃 物で附けたのだ」余も同じく小声にて「何の為に目「何の為に、其様な事を聞く奴が有るものか、 曲者は余程鋭い|両刃《もろは》の短剣を持て来たのだ、両刃と云う事は此傷の形で分る、傷の中程が少し厚 くて両の犠が次第に細く薄く鵬て居るじゃ無いか余「成るほど麟だ目「藤すれば蛎鎌糀い短剣を 曲者は|何《ど》うして持て来たゞろう、人に見られぬ様に隠して居たのは明かだ、さア隠すなら|何所《どこ》へ 隠す、着物の|衣嚢《かくし》とか其他先ず自分の身の|中《うち》には違い無いが其|鋭利《するど》いものを身の中へ隠すのは極 めて隊叡だ、少し間違えば自分の身に怪我をするか或は又鋸鑓の刃を欠くと云う麟ポ有る、して 見れば何かで其剣先を包んで置かねばならぬ、さア何で包んだ、即ち此コロップだろう、コロッ プは鷲がで少しも刃を傷める膨いが無いから知で之をそッと其剣先へ刺込で薮瓢へ入れて来たの だ余「説き得て妙目「老人を突く時に此コロップを外したが後では|最《も》う誰にも認られぬうち早く 立去ろうと思うからコロップたどは打忘れて帰た、:?)余「成るほど目「|所《ところ》で比ココップには青 い封蟷が附いて居るから何か一種の銘酒の瓶に用いて有ッたに違い無い、貯く段々推して行けば 次第に捜すのも易くなる、何にしろ此コロップは大変な手掛だ、是が手に入る以上は僕必ず曲者 を捕えて見せる」と却耀りて其コロップを数藪に心るに此所へ入来るは別人ならず今しも目科が 呼置きたる此家の店番にして即ち先刻余と目科と此家に入込しとき店先にて大勢の|店子等《たなこら》に泡を 吹きつ>話し居たる老女なり、女「何御用か知ませんが少々用事も有ますので余りお手間の取れ ぬ様に願います」と云いつ>老女は目科の差出す椅子に寄れり、目科は|何所《どこ》と無く威光高き調子 を現わし「少し|聞度《きふた》い事が有るので、是から一々お前に問うから何も彼も腹臓なく答えぬと返て お前の|不為《ふため》だよ女「はい心得ました」目科は判事の尋問する如く己れも先ず椅子に寄りて「殺さ れた老人の名は何と云う、女「概芹鵬と職卦した目「何畔から蛎製に住で居る女「はいハ年前か ら目「其前は|何所《どこ》に住だ女「|夫《それ》まではリセリゥ|街《まち》で理髪店を開いて居ました、老人は理髪師で|身《しん》 繊を作ッたのです目「仔れほどの身代が有る女「麿げは知ませんが老人の甥が時々申ますに伯父 は命を取られると云う場合には随分百万|法《フランク》くらいは出し兼ぬと云いました」目科は心の中にて 「ふゝむ予審判事は何かの書面を|頻《しき》りと書記に写させて居たから梅五郎の身代を残らず調べ上て 行たと見えるな」と|打眩《うちつぎ》き更に又老女に向い「して梅五郎老人は|平生何《へいぜいど》の様な人だッた女「|極《ごくく》々 の善人でした・旭廿少し撫儘で剛情な所は有ましたが高ぶりは致しません・少し機嫌の静い時は 面白い事ばかり言て人を笑せました、|爾《そう》でしょうよ流行社会の理髪師で|巴里《ぱり》中の美人は一人残ら ず|彼《あ》の人の手に掛ッて髪をくねらせて貰ッたと云う程ですもの目「暮し向は女「|先《ま》ア当前ですね え、自分で|儲溜《もうけた》めた金で暮す人には丁度相当と思われる暮し方でした、|夫《それ》かとて無駄使などは決 して致しませんでしたが目「夫だけでは|確《しか》と分らぬ何か是と云う格別な所が有そうな者だ女「有 ますとも老人の室の掃除|向《むき》と給仕とは|私《わたく》しが引受けて居ましたもの、大層|甲斐《かいぐ》々々しい老人で室 の掃除などはκ櫟一Mで仕て仕舞い私には手を掛させぬ程でした、何がなし暇さえあれば楡たり 撫たり鶴だり仕て居るが癖ですから目「給仕の方は女「給仕の方は毎日昼の十二時を合図に私し がお膳を持て来るのです、夫が老人の朝飯です、朝飯が済でから身仕度するが|凡《およ》そ二時まで掛り ます、大層着物を|被《き》るのがハかましい|人《や》で|毎《いつ》でも婚礼の時かと思うほど|身綺麗《みぎれい》にして居ました、 身仕度が終ると家を出て|宵《よい》の六時まで散歩し六時に外で|中食《ちゆうじき》を済せ、夫から多くはゲルボアの珈 俳館に入り昔友達と珈俳を翫だり蜘蔵を仕たりして遅くも夜心十一時には帰て来て騨艘に就きま した、ですが|唯《たつ》た一つ悪い事にはあの年に|成《なつ》て|猶《ま》だ女の後を追掛る癖が止みませんから私しは 時々年に恥ても少しは誼かが嬬ろうと云いました、ですが誰でも落度は有る都で知に若い頃の商 売が商売で女には|彼是《かれこ》れ云れた方ですから言えば無理も有りますまいが」と云い少し笑いを催し |来《きた》れど目科は極めて真面目にて「して梅五郎の|許《もと》へは|沢山《たくさん》尋ねて来る人が有たのか女「はい有ッ ても|極極僅《ごくくき》かです其うちで|屡《しぱく》々来るのが甥の藻西太郎さんで、土曜日の度には必ず老人に呼ばれ てラシウル料理店へ中食に行きました目「甥と老人との間柄は女「此上も無く好い仲でした目 「是までに言争いでも仕た事は女「決して有りません、尤もお|倉《くら》さんの事に就ては両方の言う事 が折合ませんですけれど目「お倉さんとは誰の事だ女「藻西太郎さんの|細君《おかみさん》です、実に奇麗な女 ですよ。あの様なのが知ア立派な女と云うのでしょう・知に外に悪い癖は有りませんけれど其お 倉さんも大変な加脚灘難で藻西太郎さんの身代に釣あわぬほど立派な象蜘をして居ますから鰯儲 が一層引立ちます、ですから全体云えば老人が大層誉め無ければ成らぬ筈ですのに|何《ど》う云う者か 老人は其お倉さんが大嫌いで藻西太郎さんに向ッては手前は女房を愛し過る今に見ろ女房の鼻の 先で追使われる様になるからとか、お倉は手前の様な亭主に満足する女じゃ無い、今に見ろ何か 間違いを|仕出来《しでか》すからとか其様な事ばかり言て居ました、|爾《そうノヘ》々夫ばかりでは有りませんよ昨年も 老人とお倉さんと喧嘩をした事が有ます・お倉さんは亭卦に騨る餓。厨の株を買せるからと云い 老人に大変な無心を言て来たのです、すると老人は一も二も無く蹴隅て、哉が死んだ後では己の 金を藻西太郎が|何《ど》の様に仕ようと勝手だけれど|兎《と》角も己の稼ぎ溜た金だから生て居る間は己 の勝手にせねば成らぬ、一文でも人に貸して使わせる事は出来ぬなんぞと言ました」読者よ余の 考えにては此点こそ最も大切の所なれば目科が充分に問詰るならんと思いしに彼れ意外にも|達《たつ》て 問返さん様子なく余が康醗するも知らぬ顔にて更に次の問題に移り「したが老人の殺されて居る 所は|何《ど》うして見出した女「何うしてとは、夫は私しが見出したのですよ、|先《ま》あ何うでしょうお聞 下さい私しは|毎《いつ》もの通り十二時を合図に膳を持て老人の室まで来、|兼《かね》て入口の合鍵を渡されて居 る者ですから何気なく戸を開て、内魯兇て見ますると、可哀相に、此有様です」と一乱鷺りて老 女は真実|欄《あわ》れに堪えぬ如く声を|畷《すふ》りて泣出せしかば目科は之を慰めて「いやお前が|爾《そう》まで悲むは 尤もだが、|最《も》う時が無い事で有るし先ず悲みを|堪《こら》えて1女「はい堪えます、堪えます目「|私《わし》の 問う事に返事を仕て、さ>、夫から何うした、其老人の死骸を見て其時お前は何と思ッた女「何 と思わ無くとも分ッて居ます甥の畜生が伯父の殖るのを待兼て早く其身代を自分の物にする気 になり殺したに極て居ます、私しは皆に|爾《そう》云て|遣《やり》ました目「|併《しか》し、何故其甥が殺したに極て居る 人を人殺しなど>云うは実に容易の事で無く其人を首切台へ|推上《おしのぼ》すも同じ事だ、少し位は疑ッて も容易に口にまで出して言触す事の出来る者で無い、夫くらいの事はお前も知て居るだろう女 「だッて彰恭、甥で無くて誰が殺しましょう、藻西太郎は昨夜老人に漸に来て、帰て行たのは擢 加夜の十二時でした、毎も来れば這入がけと轍劔どに大抵私しへ声を掛る人ですのに昨夜に限り 来た時にも帰る時にも私しへ一言の挨拶をせぬから私しは変だと思て居ましたよ、何しろ昨夜其 甥が帰てから今朝私しが死骸を見出した時まで誰も老人の室へ這入ッた者の無いのは確かです夫 は私しが受合います」  読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる|可《べ》き|乎《か》、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く 経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ 無益なりと思いたり去れど目科は|流石《さすが》経験に富るだけ、|且《か》つは彼れ如何に口重き証人にも其腹の |中《うち》に在るだけを充分|吐尽《はきつく》させる秘術を知れば|猶《な》お失望の様子も無く|宛《あたか》も|独言《ひとりごと》を云う如き調子にて 「肺る程昨夜藻西太郎が老人に灘に来た事は最う確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有 ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔を|確《しつか》り|認《みとめ》たのだね女「いえ少しお待なさい、見 たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、 何でも私に序認められまいと思う様に載繊に憎いじゃ有ませんか廊下の燈剛が充分で無いのを幸 いちょいくと早足に遷避華した」余は些鰍を聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽 軽しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼て|傍《かたわら》より問を発し「|若《も》し夫だけの事ならばお前が 確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女は耽壌伊に余を頭の鷹迎より足の先まで畷 なく見終り「なに貴方、|仮令《たとい》当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連 られて来る脇に私しが可愛がッて遭りますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私し魂翁伽 を還うとして居ると1麗其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は溜飢て三階へ聯嬢ツて 仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱 にて之を|避《よ》け「して藻西の犬とは|何《ど》の様な犬だ」と老女に問う女「はい|前額《ひたい》に少し白い毛が有る ばかりで其外は真黒な翫弗ですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、 知ぬ人には誰にでも胤りますが囎私しには時々食う者を貰う為め少しばかり機がです・藻西太郎 より外の者の云う事は決して聴きません」|是《こき》だけ聞きて目科は「夫で好し|最《も》う聞く事は無いから お前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを|看送《みおく》り|済《すま》し更に余が|方《かた》に打向いて「|最《も》う|何《ど》う しても藻西太郎の|仕業《しわざ》と認める外は無い」と|嘆息《たんそく》せり。  目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いに|遣《やり》しと云いたる医官二名出張し来り て此時までも|共《ともぐ》々に手を取りて老人の死骸を|検《あらた》め居たれば余は一方に気の揉める|中《うち》にも又一方に 医官が検査の結果郷体と礎ど心配の思いに堪えず、腱そ医師ゴM以上立会うときは十の場合が廿 爬まで銘々見込を異にする者なれば普し此場合に於ても二人其見る所同じからず、纐し一方が余 の見立通り老人は唯一突にて|痛《いたみ》を感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然ら ずと云わば何とせん、畿書生の余が言葉は鰍る医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非 ず・餓思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方は瀞せて背高く一方は膿て背低し餓も似寄たる所 少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望み辮き所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちより臨 に失望し居たる所、彼等は螂て検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告 を|為《な》したり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字 は老人の書し者に非ずと云うに在り。  余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科 に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろうい 藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無いく何うして も無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」  余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目の|漸《ようや》く終り、やッと晩餐に有附く可き時の来り しを歓びながら|出《いで》て行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如 く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君が|六《むず》かしく道理を附け独り六かしがッて居る のは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「|左様《さよう》、馬鹿さが過るかも知れぬ、 事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察 長は聞流して帰り去り、目科も|亦《また》言流して余に向い出し|抜《ぬけ》に「さア是から二人で警察本署へ行き、 捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」 第六回 (犬と|短銃《ぴすとる》) 藻西太郎に撃見んと筆より余の願う所ろ何かは以て譲缶き、早速目科に従いて又もや 此家を走㌫たり・余と云い目科と云い共に晩餐難れど欝事件に心を奪われ全く撃打忘れ て自ら磯たりとも思わず、|只管《ひたすら》走りて大通りに出で|茜《こユ》にて又馬車に飛乗りゼルサレム街に|在《あ》る警 察本署姦して鋳せたり目科は馬車の中にても心」と箏らず騒ぐと見え、鶴芒曇の煙草を 噺ぐ真似し時々は「倖うしても見出せねば、麟だ何うしても見出して呉れる」と打眩く声を洩す、 余は目科に向いて馬車の隅にすくみしま》一つは我が胸に浮ぶ様々の想像を畷騨するに謙∬しく 一は又目科の様子に気を附けるが忙わしさに一語だも発するひま無し、目科は又暫し考えし末、 響姦を探りて先刻のコロップを取出し餐初めて羅を得たる小猿が其の難を知ずし曇 く指先にて楓り廻す如くに其栓を拮り廻して「何にしても此青い封蝋が大変な手掛りだ何うかし て静磁らねば」との声を洩せり・榊……て長き間走りし末馬車は織に警察本署に達し其門前にて冷 筆二人を躍したり、日頃ならば警察の庭と聞くのみも先ず身震する方にして仲々足踏入る心は出 ねど今は勇み進みて目科の後に従い入るのみかは常に|爪弾《つまはじき》せし探偵|吏《り》の、良民社会に対して容易 ならぬ恩人なるを知り我が前に行く目科の身が急に重々しさを増し鷺り、其瞥島さえ七ハ寸も延 しかと疑わる、|即《やが》て其広き庭より廊下へ進み入り曲り曲りて|但有《とあ》る|小室《しようしつ》の前に|出《いず》れば|中《うち》には二三 の残り|員《いん》、|卓子《てえぶる》を囲みて雑話せるを見る、余は小声にて目科を控え「今時分藻西太郎に逢う事が 出来ようか」と問う、目科は「出来るとも僕が此事件の詮馨を頼まれて居るでは無いか|仮令《たと》い夜 の璽ざも必要と認れば其罪人に逢い胤総す事を許されて居る」と云い余を入口に待せ置き内に 入りて二言三言、何事をか|残員《のこりいん》と問答せし末、|出来《いできた》りて再び余を従えつ又奥深く進み行き、裏庭 とも思わる》所に出で、|升《そ》を横切りて長き石廊に登り行詰る所に至れば|厳《いか》めしき鉄門あり、番人 に|差図《さしず》して之を開かせ其内に踏み入るに是が牢屋の入口たる可く左右に広き室ありて室には幾人 の巡査集れるを見る、室と室との間に艇腱しき階段あり之を登れば廊下にして廊下の両側に残な れる密室は|悉《ことぐ》く是れ|囚舎《ひとや》なるべく其戸に一々逞ましき錠を卸せり、廊下の入口に立てる一人、 是が世に云う牢番ならんか、|兼《かね》て小説たどにて読みたる|剛《こわ》らしき人とは違い存外に気も軽げなれ ど役目が役目だけ|真面《まじめ》には構えたり、此者目科を見るよりも腰掛を離れて立ち「やア旦那ですか、 多分|入《いら》ッしゃるだろうと思ッて居ました何でもバチグノールの老人を殺した藻西とか云う罪人に お逢い|成《なさ》るのでしょうね目「|爾《そう》だ、何か其藻西に変ッた事でも有るのか牢番「なに|変《かわつ》た事は有り ませんが幣ツた今警察長がお殿に成り彼れに逢て帰たばかりですから目「知だけで静く己の来た のが藻西に逢う為めだと分ッたな牢番「いえ夫だけでは有ません、警察長は僅か≡二分囚人と話 て帰り掛けにアノ野郎言張て見る気力さえ無い、|斯《こ》う早く罪に服そうとは思わなんだが是で|最《も》う 充分だ今に目科が遣て来て|彼奴《きやつ》の言立を聞き失望するだろうと何か此様な事を眩いて居ましたか らL目科は之を聞き撰は罪人恥や既に爾まで罪に服したるやと驚きしも?如く、嗅煙草を取出 す事すら打忘れて牢の入口を鋭く則遭れり、牢番は目科の様子に気を留ずして言葉を続け「成る ほどあれでは服罪しましょう・株しは百見た時から此野郎濃与融ぽ出来まいと思いました目 「して藻西は今何をして居る番「私しは役目通り今まで彼れを|窺《のぞ》いて居ましたが、彼れ|疾《と》くに後 悔を初めたと見え泣て居ますよ、|宛《まる》で身体の大きい赤坊です、声を放ッて泣て居ます目「|何《ど》れ行 て見よう、だが|己《おれ》の逢て居る間、外で物音をさせては|了《いけ》ないよ」と注意を与え目科は先ず抜足し て牢の所に寄り|窃《ひそ》かに内を窺い見る、余も其例に従うに成る程囚人藻西太郎は|寝台《ねだい》の上に身を投 げて傭僻せしま>牢番の言し如く泣沈める伐にして折々に肩の動くは泣じゃくりの為なるべく又 時としては我身の上の恐ろしさに堪えぬ如く|総身《そうしん》を震わせる事あり、見るだけにても気の毒なり、 郎ありて目科は牢の戸を開かせつ余を引連れて内に入る、藻西太郎は泣止みて起直り、寝台の上 に身を置きしまゝ目科の顔を仰ぎ見るさま、痛く恐を帯びたるか|爾《さ》なくば気抜せし者なり、余は 目科の|背後《うしろ》より彼れの人と|為《な》りを|情《つくぐ》々見るに歳は三十五よりハの間なる|可《べ》く背は並よりも|寧《むし》ろ高 く肩広くして首短し、辮.れにしても美男子と云わる》男には非ず、美男子を遙か離れ、強き窟麟 Q癖ありて顔の形痛く損し其騨、高きに過ぎ其鼻長きに過るなどは余ほど羊に近寄りたる者とも 云う可し・弁れど期畷ば穏和げにして歯は白く則揃いたり。  目科は牢に入るよりも穂ぽ彼れが気を引立んとする如く鳳《しき調子にて「おやおや何うした と云うのだ、其様に|欝《ふさ》いでばかり居ては仕様が無い」と云い彼が返事を待つ如く言葉を停めしも 彼れ更に返事せざれば目科は|猶《な》お進み「え、奮発するさ奮発を、これさこれ藻西さんお前も男じ ゃ無いか、枇が普しお前なら決して其様に撮れては居無いよ、男の知製を見せるのは此様な時だ ろう、何でお前は奮発せぬ、嵐で一つ我身に覚えの無い事を知せ判事や警察官に」と溜吹せ鼻よ うじゃ無いか」実に目科は巧なり彼れが言葉には筆に尽せぬ力あり妙に人の心を動かすに足る、 余若し罪人ならば|唯《たゴ》彼れの一言に奮い起き|仮令《たと》い何れほどの疑いに囲まれようとも其の疑いを蹴 散して我身の潔白を知せ呉れんと励み立つ所なり、|爾《さ》は云え目科は気も気に非ず、此一言実に藻 西太郎の罪あるや無きやを探り尽す試験なれば胸の|中如何《うちいか》ほどか|騒立《さわだ》つやらん、藻西太郎は意外 にも・無愛想なる調子にて「麟僻郁ッても仕方が有りません、自分で殺した者は到底隠し鵬ませ んから」と答う、此返事に余は殆ど腰抜すほど驚きたり、あ》当人が此口調では最早や疑いを容 るゝ余地も無し問うも無益、疑うは|猶《な》お駄目なり、爾れど目科は猶お|挫《くじ》けず「何だとお前が殺し た、本統か、本統にお前か」藻西太郎は鶴鰐として、殖"狂人が其狂気の発したるとき、擁に暴 れんとして趣が如く、怒れる瞬ぼ朱を灘ぎ口角に泡を吹きて立上り「私しです、はい私しです、 私し|一人《いちにん》で殺しました、全体何度同じ事を白状すれば好いのですか、今し方も判事が来て、同じ 事を問うたから何も彼も白状しました、ヘイ其白状に調印まで済せました、此上貴方は何を白状 させ膨くて来たのですか、夫とも私が泣いて居るから胤堀に夫を慰めようとて来て下さッたのか も知ませんが、今と鵜ては恐しくも有ません、首切台は知て居ます、はい私しは人を殺したから 其罪で殺されるのです」彼れの|言条《いいじよう》は|愈《いよく》々|出《いで》て愈々明白なり、|流石《まが》の目科も絶望し、今まで熱心 に握み居たる此事件も殆ど見限りて捨んかと思い初めし様子なりしが、空箱を一たび鼻に当て|忽《たちま》 ち勇気を取留し如く、彼の心を知る余にさえも絶望の色を見せぬうち早くも又元に|復《かえ》り「|爾《そう》か、 本統にお前が殺したのか、夫にしても|猶《ま》だ首切台ノ殺されるノと其様な事を云う時では無いよ、 裁判と云う者は少しの証拠で人を疑うと同じ事で其代り又少しでも証拠の足らぬ所が有れば其罪 を疑うて容易には罪に落さぬ。好いか、此度の事件でもお前の白状は白状だ、夫にしてもお前の 白状だけでは足りぬ、轡お其外の事柄を静く調て齪烈お前に相違ないと見込が附けば其時初めて 罪に落す、若しお前の白状だけで外の証拠に疑わしい所が有れば|情状酌量《じようくしやくりよう》と云て罪を軽める事 も有り又証拠不充分と云て期儘許す事も有る」と礎〜職で餅めぬばかり講ん烈と誰議すに罪人は 心0中に得も云えぬ苦しみを感じ存せんか益答えんかと独り胸の中に闘いて言葉には轡齢さぬ如 く、空しく長き嘘き声を洩すのみ、此有様撫も如何ように見て取る可きか、目科は隠さず篶て入 り「就て蹴慶い事が有る、お前は殺すほどあの伯父が憎かッたのか藻「なアに少しも憎くは有ま                しんだい            しようぱ、    ξξ せん目「では何故殺した藻「伯父の身代が欲いから殺しました、此頃は商買が不景気で日々苦し くなるばかりです、夫は同業に聞ても分ります、幸い伯父は金持ですけれど生て居る中は一文で も貸て呉れず、残さえすれば其身代が鐸で私しへ転がり込むと思いまして、目「分ッたく、夫 でお前は殺しても露見しまいと思ッたのか藻「はい醗思いました」あ>目科は僻搬に鰍も湿濃く 問うなるや、余は必ず深き思惑の有る可しと疑い|初《そ》めしに果せるかな彼れ|忽《たちま》ち語調を変じ「夫は 醗としてお前あの・伯父を殺した瑠鑑は呼所で則た」余は藻西が何と答うるにやと殆ど姥避しさ に堪えず手に汗を握れども藻西は驚きもせず怪みもせず「なに買たんじゃ有ません余程前から持 て居たのです」と答う目「殺した後で其短銃を何うしたか藻「え、別に何うもしません、左様さ 投捨て仕舞いました、外へ出てから目「では誰か拾た者があろう、好しく|私《わし》が|能《よ》く探させて見 よう」読者よ目科は奥の奥まで探り詰ん為めこ擁らに鰍る鳳"問を設けて、試みながらも其色を 露環わさず相も変らぬ静かなる顔付なり、椴ありて又問掛けコつ合点の行かぬ事は全体犬を連 て行くと云う事は無いよ、あれが大変な露見の|本《もと》に|成《なつ》た、あの様な者は内へ置て自分一人で行き |相《そう》な者だッたのに」此問は何の意にて発せしや余は合点し得ざれども何故か藻西太郎は真実に打 驚き「え、え、犬、犬を目「爾よ、プラトと云う黒犬をさ、店番が|樋《たしか》にプラトを認めたと云う事 だ」此語を聞きて藻西太郎の驚きは殆ど|讐《たと》うるに者も無し、彼れ驚きしか怒りしか歯を噛み|拳《こぶし》を 握りて立ち、何事をか言出さんとする如く唇騨烈動きたるも灘ぐに我心を掛鍵め7え、え」と悔 しげなる声を発して其儘寝台に|尻餅掲《しりもちつ》き「え>、是でさえ|最《も》う充分の苦みだのに此上、此上、何 事も問うて下さるな、最う|何《ど》う有ても返事しません」|断乎《だんこ》として言放ち再び口を開かん様子も見 えず、目科も此上問うの益なきを見て取りしか|達《たつ》て|推問《おしと》わんともせず、是にて藻西太郎を残し余 と共に牢を出で、|階《はしご》を下りて再び鉄の門を抜け、廊下を潜り庭を|過《よぎ》り、余も彼れも、無言の儘に て|戸表《おもて》へと立出しが余は|弦《こト》に至りて我慢も仕切れず、目科の腕に手を掛けて問う「是で君は何と 思う、え君、彼れ自分で殺したと白状して居るけれど伯父が何の刃物で殺されたか夫さえも知ぬ じゃ無いか、君が留鑑の問は実毎かッたよ、彼は郷誉其計略に落ちた・今度こそ彼れの無罪 が明々白々と云う者だ、若し彼れが自分で殺したなら、なに|短銃《ぴすとる》で無い短剣だッたと云う筈だの に」目科は簡単に「左様さ」と答えしが更に又「|併《しか》し|何方《どちら》とも云れぬよ罪人には随分思いの外に 狂言の上手な奴が有て、判事や探偵を|手球《てだま》に取るから余「だヅて君目「いやく僕は今まで色々 な奴に|出会《でつくわ》したゞけ容易には少しの事を信ぜぬて、|併《しか》し今日の詮索は先ず是だけで沢山だ、是か ら帰て僕の室へ来、何か一口|喫《た》べ給え、此後の詮索は明日又朝から掛るとしよう」 第七回 (馬鹿か、|否《いな》)  是より目科が猶も余を|背後《うしろ》に従え我宿に帰着き我室の戸を叩きしは夜も早や十時過なりき、戸 を開きて出迎える細君は待兼し風情にて|所天《おつと》の首にすがり附き情深きキスを移して「あ>|到頭《とうとう》お 帰になりましたね今夜は何だか気に掛りまして」と言掛けて余が目科の|背後《うしろ》に在るを見、|忽《たちま》ち一 歩引下り「お、御一緒に、今まで珈俳館に|居《いら》しッたのですか、私しは又用事で外へお廻りに成た かと思いました、遡かお帰り磁るには余り遅過るじゃ有ませんか」帰りの遅きは用事の為とのみ 思いたるに余と一緒なるを見て|扱《さて》は遊びの為なりしかと疑い初めたる者と知らる、目科は|隙《すき》も有 らせず「なに珈俳館を出たのは六時頃だッたがバチグノールに爬麓が有たので隣室の方と共に鄭 加へ廻ッて充搬蜴遷り」と言開く・細君は顔色にて偽りならぬを悟りし乎・調子を変て「おや |爾《そう》」と眩けり、此短き「おや爾」には深き意味ある如く聞ゆ「おやく、探偵を勤めて居ること を隣の方にまで知せたのですか」と云うに同じかる|可《べ》し、目科は直ちに其意を|汲《く》み「隣の方と一 緒でも構わぬよ、探偵を勤めるが何も恥では有るまいし」と言い掛るを細君が「なに爾では有り ませんよ」と鐵μとすれど耳に入れず「成る程世間には探偵を嵐嬬う間違ッた人も鶴うけれど一 日でも此印里に探偵が無かッて見るが好い悪人が躍唇して巴里中の人は藩《眠る事も出来ぬから さ、私は探偵の職業を誰に聞せても恥と思わぬ」とて噺う烈言張んとす、細君は鰍る瞭りに慣た りと見え一言も口をはさまず、目科も櫨て我言葉の過たるを悟りし如くがらり打解て打笑い「い や其様な事は何うでも好い、夫より|先《ま》ア、二人とも空腹に堪えぬから何なりと|喫《たべ》るものを」と云 う、不意の食事は此職業には有りがちなれば細君は騒ぎもせず麟ぴ加に退きて五分間と経ぬうち 早や冷肉の膳を持出で二人の前に供したれば、二人は|無言《むげん》の儘忙わしく|喫《た》べ初めしも、喫て先ず |脾《ひ》だるさの鉾先だけ収まるや|徐《そろく》々と話に掛り、目科は今宵の一条を洩さず細君に語り聞かす流石 探偵の妻だけに細君も素人臭き聞手と違い時々不審など質問する鶉れも静く鶴魂ロ当れば余は殆 ど感心し「此の聞具合では必ず多少の意見も有るだろう」と艘げ麟徹つうちに、灘"目科の話が 終れば果せるかな細君は第一に「貴方は|失念《ぬかつ》た事を仕ましたね」と云う、目科は|宛《あたか》も今までの経 験にて細君の意見の|侮《あなど》り難きを知れる如く、此言葉に多少の重みを置き「|失念《ぬかつ》た事とは何が細 「現場を立去ッてから|直《すぐ》に牢屋へ行くと云う事は有りませんよ目「だッて牢屋には|肝腎《かんじん》の藻西太 郎が居るだろうじゃ無いか細「でも貴方、藻西に逢た所で別に利益は|無《なか》ッたでしょう、|夫《それ》よりは 何故直に藻西太郎の宅へ行き|其妻《そのさい》を尋問しませぬ」目科は成るほど》思いしか一語を発せず|猶《な》お 細君の説を聞く、細君は語を継ぎて「直に行けば|猶《ま》だ藻西太郎が捕縛されて間も無い事では有る し、妻の心も落着いて居ぬ間ですから|其所《そこ》を|附込《つけこ》み間落せば|何《ど》の様な事を口走たかも知れません、 包み耗て白状するか、知ほどまでに行かずとも貴方の瞬で顔色ぐらい読む事が艇郷かッただろう と思いますよ」此口振は云う迄も無く藻西を真の罪人と思い詰ての事なれば余は椅子より飛上り 「おやく奥さん、|夫《それ》では藻西太郎を本統の犯罪人と|思召《おぼしめ》すのですか、ヱ貴女」細君は不意の|横《よこ》 樹に少し驚きし如くなりしも、直に落着て仔所やら謙遜の様子を帯びつ>「はい轡しや麟では有 るまいかと私しは思います」余は是に対し熱心に藻西太郎が無罪なる旨を弁ぜんとするに細君は 余に其暇を与えず、直ちに又言葉を継ぎて「欝れにしても此犯罪が其妻倉子とやら云う女の心か ら湧て出たには違い有ません私しは必ず|爾《そう》だと思いますよ、若し犯罪が二十有るとすれば|其中《そのうち》の 左様さ十五までは大抵女の心から出て居ます、知は私しの聾に聞ても分ります、ねえ貴方」と |一寸《ちよい》と目科に念を推して更に「のみならず店番の|言立《いいたて》でも大概は察せられるじゃ有ませんか、店 番は何と云いました倉子と云う女は大変な美人で、望みも大きく、決して藻西太郎の様な者に満 足して居る者で無くて、夫で彼れを鼻の先で使い兼ないと云た様に私しは今聞取りましたが、|爾《そう》 ですか余「爾です細「して又藻西が家の暮しは|何《なん》の様です随分困難だと云いましょう、ですから 妻は自分の欲い物も|買無《かわな》いし、現在金持の伯父が有ながら此様な貧苦をするのは馬鹿パ\しいと 思ッたに違い有りません、既に昨年とかも藻西太郎に勧め伯父から大金を借出させようとした程 では有ませんか、|最早《もま》や我慢が仕切れ無く成た為としか思われません、|夫《それ》を老人が跳附けて一文 も貸さ驚ッたゆえ自分の望みは外れて仕舞い老人が憎くなり夫かと云て急に孤機な様子も無く あ>も達者では死だ所が自分等の|最《も》う歯の抜ける頃だろう|間《ま》が悪ければ自分等の方が|却《かえつ》て老人に |葬《とぷら》いを出して貰う|仕儀《しぎ》に成るかも知れぬと|斯《こう》思ッた者ですから是が段々と|抗《こう》じて来て|終《つい》に殺して 仕舞う心にも成り|間《ま》がな隙がな藻西太郎に|説附《ときつ》けて到頭彼れに同意させ|果《はて》は手ずから短刀を授け たかも知れません、蘂西太郎も初めD中は|河《どう》でしたか手を|更《か》え品を変えてコ説かれるうちにはツ イ其気になり、知に又商売は暇にたる此儘居ては身代限り可愛い女房も飢し兼る事に成るし・貧              くら一    ど    こう 苦の恐れと女房の嘆きに心まで暗で仕舞い何うやら斯やら伯父を殺して其身代を取る気に成たの です藻西の|外《ほか》には誰も其老人を殺して利益を得る者は一人も無いと云うたでは有りませんか、|若《も》 し催鵬ならば知らぬ事、老人を殺した奴が何一品盗まずに立去たと云う所を見れば盗坊で有りま せん|愈《いよく》々藻西に限ります藻西の外に其様な事をする者の有う筈が有ません、妻が必ず彼れに吹込 み此罪を|犯《おかさ》せたのです」と女の口には|珍《めずらし》きほど道理を推して述べ来る、其言葉に順序も有り転 末も有り、目科も是に感心せしか「成るほど」とて嘆息せり、余も感心せざるにあらねど余は|何《なに》 輝にも今まで心に集めたる彼れが無罪の腱烈を忘れ兼れば「では鰯ですか、藻西太郎は伯父を殺 して仕舞た後で|故《わざく》々自分の名前を書附けて置て行く程の馬鹿者ですか」唯此一点が藻西の無罪を 指示す最も明かたる証拠にして又最も強き箇条たれば是には目科の細君も必ず|怯《ひる》みて闘口するな らんと思いしに、細君は少しも|怯《ひる》まず|却《かえ》ヅて余の問を怪む如くに「おや自分の名前を書附たから 知で馬鹿だと仰有るのですか、私しは馬鹿には濃も出来ぬ所だろうと思いますよ余「とは又何故 です細「何故とて貴方、若し其名前を書附けずに行て仕舞ば一も二も無く自分が疑われるに極ッ て居ます、疑いを避けるには大胆に自分の名前を書附ける外は有ません、夫を書附て置たればこ そ現に彼の仕業で有るまいと思う人が出て来たでは有ませんか、貴方にしろ|爾《そう》でしょう|若《も》し|何《ど》う しても自分が疑われるに極ッて居るなら其疑いを避る為には充分の度胸を出し自分の仕業とは思 われぬ様な事を仕て置きましょう」此の力ある乱蹴きには余も殆ど槻まんとす、図らざりき鰍る 堂々たる大議論が女流の口より|出来《いできた》らんとは  余が怯まんとする色を見て細君は更に又力強き雑轍鐵を擬鶴て「知で無ければ第一又老人の左 の手に血の|附《つい》て居たのが分ら無くなッて来ます、若しも貴方の云う通り藻西太郎より外の者が老 人を殺し其疑いを藻西に掛ようと思ッて血の文字を書たのなら、其者こそ文字は右の手で書くか 左の手で書くかも|知《しら》ぬ馬鹿ものと云わねばなりますまい、夫ほどの馬鹿ものが世に有ましょうか、 老人の左の手へ血を附けて置けば誰も老人が自分で書いたとは思いません、曲者の目的は外れま す、藻西太郎へ疑いを掛けようとして|却《かえつ》て彼の疑いを掃い|退《のけ》て|遣《や》る様な者です、人を殺して後で 其血で文字を書附るほど落着た曲都が翼遡に老人の左の手を右の手とは間違えますま〜、ですか ら藻西の外に曲者が有るとすれば其曲者は決して老人の左の手へ血は附けません必ず何う見ても 老人が自分で書たに違い無いと思われる様に右の手へ附けて置きます、所が之と事かわり、其曲 者を私しの云う通り藻西自身だとすれば全く違ッて参り享㌢でも左の手へ血轟轟ねば成 らぬのです・何故と僻郁れば藻西ならば其文字を本統に老人が書たものと認められては大変です、 自分の首が無く成ります、|何《ど》うしても老人が書たで無く曲者の書たに違い無い様に見せて置ねば なりません、藤見せるには何うすれば好いのでしょう、即ち血を老人の左の手へ附けて盾くに限 ります、左の手に附て置けば誰も老人の仕業とは思わず、弁ればとて現に藻西の名を翫て有るか ら身選に藻西が自分で自分の名を書く程の馬鹿た事を仕様とは撒甦思われず、配鵬なく疑いが外 の人へ掛ッて行きます、論より証拠には貴方さえも無理に疑いを外の人へ持て行こうと|成《なさ》ッて居 るでは有ませんか、舟ア静く考えて御覧なさい」と是だけ言て息を継ぐ、余が返事の|出《いで》ぬを見、 細君は少し気の毒と思いし如く「|尤《もつと》も女の|似《え》而|非《せ》理屈とか云う者でしょう、|素《もと》より現場も見ませ んで、真逆当りは仕ませんけれど既に店番が藻西を見たと云い其上|連《つれ》て居た犬は藻西の外の者へ は辮ぬとも云たのでしよう夢夢考えて見ると藻哲云う嘉9しても近いかと思われま す、講り藻西は厩でしょう随分智慧の秤く男で、通例の手段では倒底助からぬと思ッたからずッ と通越して此様皇夫を定めたのでしξ」細君の言葉の調子蘇く薔柔かくたるに連れ余の 疑いも亦再び芽を吹き「|爾《そう》すると藻西が自分で白状したのは|何《ど》う云う者でしょう細「|夫《そヰ》が即ち彼 れの工夫の一部分では有ませんか余「だッて貴女、彼れは老人が何で殺されたか知さえ知ぬ程で すもの細「知ぬ事は有ますまい、貴方がたが鎌を掛たから|夫《それ》を幸いに益々知らぬ|振《ふり》をするのです、 此方から瑠鑑と言た時に藤轡い其瑠鑑寡r答えたのが益々彼れの譲響すわ・講り彼れは 丁度計略の裏を謝て居るのです、其時若し彼れがいえ瑠鑑では有ません短剣でしたと答えたなら 貴方がたも之ほどまで彼れを無罪とは思わず彼れの工夫が破れて仕舞いましょう、貴方がたの見 て驚く所が彼れの利口な所だと私しは思いますが」  余は|猶《な》お何とやら腋に落ぬ所あれば更に議論を進めんとするに、目科は|横合《よこあい》より細君に声を掛 け「これく、|和女《そなた》は今夜|何《ど》うかして居るよ、|毎《いつ》もと違い余り小説じみた事を云う」と制し更に 余が|方《かた》に|向来《むききた》りて「今夜は|最《も》う置きたまえ、僕は既に眠くなッた。其代り明早朝に又君を誘うか ら」  実に目科は多年経験を積みし為め事に掛れば熱心に働き通し、其代り又'とぴ心を休めんと決す れば、其休むる時間|丈《だ》け全く其事を忘れ尽して他の事を打楽しむ癖を生じたる如くなるも余には 仲々其真似出来ず「|然《さ》らば」とて夫婦に分れを告げ居間に帰りて寝て後も|唯《たゴ》此事件のみ気に掛り 眠らんとして眠り得ず、「あ>藻西太郎は罪無きに相違なし」と眩き「罪なき者が何故に自ら白 状したるや」と怪み、胸に此二個の|疑団《ぎだん》闘い、|微睡《まどろ》みもせず夜を明しぬ 第ハ回 (太郎の妻)  読者よ、初めて此犯罪に疑いを容れたるは実に余なり、余が老人の死骸を見て其顔に苦痛の伐 なきと其右の手に血の痕なきを知りてより讐疑い初めたる者なれば余は如何にしても藻西太郎 の無罪なるを証拠立てねばならず、のみならず現に無罪と思う者が裁判官の過ちや其外の事情の 為め人殺しの罪に落さる》を見、知ぬ顔にて過さる|可《べ》きや、余は此事件の真実の転末を知んが為 には身を擦るも可たり職業を樒るも惜からずとまでに思いたり、思いくて夜を明し藻西太郎は 確に無罪なりと思い識るに至りしかど又翻ぞりて目科の細君が言たる所を考え見れば、余が無 罪の証拠と|見認《みと》むる者は|悉《ことぐ》く有罪の証拠なり細君の言葉は|仮令《たと》い目科の評せし如く幾分か「小 説じみ」たるに相違無しとするも道理に叶わぬ所とては少しも無し、成るほど藻西太郎は其妻に ほだされて伯父を殺すの事情充分あり「か加も自ら殺せしと白状したり」齪烈彼れが殺せしとす れば成るほど其疑を免る>奇策として我名を識すの外なきなり、我名を記すも老人の右の手を以 て記す可からず、唯左の手を以て記すの一方なり、余の疑いは実に粉々に打砕かれたるに同じ、 余は殆ど返す可き言葉を知ず、あ>余は|寛《つい》に此詮索を廃す可きか、余の過ちを自認す可きか。  余が殆ど思い屈したる折しも昨夜の約束を忘れずして目科は余の室に入来れり、彼れは余の如 く細君の言葉には感服せざるか駄風"る僻更に無く蝦で顔色も昨夜より晴渡れり、彼れ第一に 口を開き「今日も君一緒に行くが其代り今から|誠《いまし》めて置く事が有る僕が|何《ど》の様な事を仕ようと決 して口を出し給うな・普し僕に口をき壷い,なら誰も外に人の居無い本統の差向いに虎た時を見 て言給え」余は|素《もと》より自ら我が智識我が経験の目科に及ばざるを知れば此誠めを不平には思わ ず職再び此詮索に取掛るの嬉しさに一も二も無く承諾して早速に家を臨しが、目科の今日の批携 は|毎《いつ》もより遙か立派にして殊に時計其他の持物も殆ど贅沢の限りを尽し|何《ど》う見ても|衣服蕩楽《なりどうらく》、持 物蕩楽なる金満家の主人にして若し小間物屋の店の者にでも見せたらば|斯《かト》る紳士を得意にし|度《た》し と必ず|挺《よだれ》を流すならん、|何故《なにゆえ》に|斯《かく》も立派に|出立《いでたち》しや、余は不審の思いを為し、歩みながらも「君 今日は|何《ど》の様な方針を取る積りか」と問しに目科は平気にて「問わずとも知れて居よう、藻西太 郎の妻倉子を|調《しらべ》るのさ」|扮《さて》は目科も細君の議論に打負け、昨夜分る>まで藻西を無罪と認めしに 今朝は|早《ま》や藻西が其妻に|煽起《そトの》かされて伯父を殺せし者と認め藻西の妻を調べんと思えるなるか、 貯く思いて余は少し失望せしに目科は齪くも余の心を察せし如く「僕が吾が妻の意見を聞くのを 君は|可笑《おかし》いと思うだろうが、有名なる探偵の|中《うち》には下女の意見まで問うた人が有る、今までの経 験に曲り僕は仔の様な事件でも,と麟は女房の意見を聞いて見る、女房は女の事で随分詰らぬ事も 言い殊に其意見が何うかすると昨夜の様に小説じみて来るけれど、僕は又単に事実の方へのみ傾 き過る事が有ッて僕の考えと妻の考えを携藤ザると丁度好い者が出来て来る」と云う嵐にて見れ ば満更細君の意見にのみ心酔したる様にも有らねば余は|稽《や》や安心し、今日中に如何ほどの事を見 出すならんと知のみを楽みて再び又口を開かず、歩みくて遂に彼の藻西太郎が模造品の店を開 けるビビエソ擬に到着せり、此町の多く紳士貴婦人叫棚餓品を欝げる事は鷺てより知る所なれど、 心に思いを包みて見渡すときは又」と㍊立派にして鶉れの窓に飾れる品も、実に獣取し芽興し、買 慶き心の起らぬものとてはイ偉も無し、藻西太郎の妻倉子は此上も無き亦脚蕩楽とか聞きたり鰍 る町に貧く暮しては鵬かし欲き者のみ多かる可く醇すれば知箏の慾に謝げれ、織に貧苦に堪え得 ずして|所天《おつと》に悪事を勧むるにも至りし|賦《か》あ、目科の細君が言し所は余の思いしより能く|当《あたれ》り藻西 の無罪を証拠立んとする余の目的は全く|外《はず》れんとするなる欺、余は此町の|麗《うる》わしさに殆ど不平の 念を起し藻西が何故身の程をも|顧《かえり》みず此町を撰びたるやとまで恨み初めぬ、目科も立留りて|暫《しぱ》し 繊芯牲斌を眺め居たるが螂て目指せる家を見出せし如く篶烈と塊潔るにぞ藻西の家に入る事かと 思いの外・彼は縁も賦繍も無き蟻蠕傘屋に入らんとす暑蕎門違いで無いかLと殆ど余の属麓 まで|出《いで》たれど|舷《こト》が目科の|誠《いまし》めたる主意ならんと思い返して無言の|儘《まエ》に従い入るに、目科は此店の 鷲茸川に向い有らゆる形の傘を出させ知もηぬ是も気に叶わずとて半時間ほども翼則したる末、 |終《っい》に明朝見本を届くる故其見本通り|新《あらた》に作り貰う事にせんと云いて、此店を|起出《たちいで》たり、余は|舷《こユ》に 至り初て目科が響より鶴館たる訳を知れり、彼蘇く藻票家の近辺にて買物を姦しながら 店の者に藻西の乳罫の行いを聞集めんと思えるなり、射螂の立派だけ厚く避なさる>訳なれば搬 も賢き男なるかな・既に蠕幅傘屋の奎人なども目科が姿立派なると注文の翼㌘しきを見て是 こそは大事の客と思い益々世辞沢山に持掛けながら|知《しら》ず|識《しら》ず目科の巧みなる言葉に載せられ藻西 夫婦の平生の行いに付き己れの知れる事柄だけは惜気も無く話したり、難て目科は幾軒と無く又 別の店に入り同じ手段にて問掛るに、藻西太郎の捕縛一条は昨夜より此近辺の大問題と|為《な》れる事 なれば問ざるも先より語り出る程にして中に口重き者あらば実際に少しばかりの買物を為し|升《そ》を 餌に話の轍織を釣出すなど掛引万々抜目なし、六七軒ハ九軒腱そ十軒ほど裂…臥し廻りたる末、藻 西夫婦が事に付き此辺の人が知れるだけの事は残り無く聞集めたるが其大要を|摘《つま》めば藻西太郎は 此上も無き|正直人《しようじきじん》なり何事ありとも人を殺す如きことは決して無く必ず警察の見込違いにて捕縛 せられし者ならん遠からず放免せらる・は請合なり、|彼《か》れ其妻に向いては殆ど|柔《やわら》か過るほど柔か にして全く鼻の先にて使われ居し者なり、|餓《 》も妻孝行の男は此近辺に二人と見出し難し、|等《 こう》の事 柄にして殆ど異口同音なり、|唯《た》だ彼れの妻お倉に就きては人々の言葉に多少の違い有れど|引括《ひきくム》れ ば先ず、お倉は美人なり、身体に似合ぬほど其衣類立派なり、|去《さ》れど悪き癖とては少しも無し、 身持は極めて真面目なり・亭主に向いては跡楓勘が強過れど藤ればとて辮げざるに荊ず、爬曜も 勘が好ければ擬じき振舞は繊て無く、近辺の鑑一男の蝿には随分お倉に思いを掛け彼れ是れ言寄 らんとする者あれどお倉は|爾《さ》る人と噂を立られたる事も無ければ少したりとも|所天《おつと》に嫉妬を起さ せる如き身持を|為《な》したる事なし、妻として充分安心の出来る女なり、など云うだけなり。  是だけ集め得て目科は尉も満足の僻にて「倖うだ君鵜して集めたのが本統の事実だぜ普し探 偵と分る様な風をして来て見たまえ、少し藻西を悪む者は実際より倍も二倍も悪く言い又悪みも 好みもせぬ者は|成《な》る|可《べ》く何事も云うまいとするから本統の事は到底聞き出す事が出来ぬ、さあ|之《これ》 から|愈《いよく》々藻西の家に行き細君に|直《じきく》々逢うのだ」と云う、藻西の店は|余等《よら》が立てる所より僅か離れ しのみにして店先の礎吾に書きたる「模造品店、藻西太郎」の金文字も古びて樺や黒くなれり目 科は余を従え|先《ま》ず其店の横手に在る露路の所に立ち暫し店の様子を伺う体なる故、余は気短かく 「|直《すぐ》に中=一旭ろうじゃ無いか」と云う目「いや|兎《と》に角細君が店へ出て来る様子を見|度《た》い、|夫《それ》まで 先ず辛抱したまえ」とて是より|凡《およ》そ二十分間ほど立たれど細君は|出来《いできた》る様子なし目「是だけ待て 出て来ねば此上待つにも及ぶまい、来たまえ、さア律う」と云い直ちに店の前に進めば士ハ七な る下女一人、帳場の|背後《うしろ》より立来り「何を御覧に入ましょう目「いや買物では無い、外の弔事だ、 |内儀《ないぎ》は内か下女「はいお内です、是へお呼申しましょう」とて、早や奥に入んとするを目科は|逸《いち》 則叩く引留めて自ら其店に雌り、無遠慮に奥の間に進み入る、余も何をか蹴臨う呼き目科の後に一 歩も遅れず引続きて歩み入れば奥の|室《ま》と云えるは是れ|客室《きやくま》と居室と|寝室《ねま》とを兼たる者にして彼方 の隅には聯鷲たる布を以て覆える翼鼠り、室中何と無く薄暗し、中程には是も古びたる蹴を掛 し太き|卓子《てえぶる》あり、之を囲める椅子の一個は脚折れて白木の板を打附けあるなど是だけにても|内所《ないしよ》 鶴の豊ならぬは思い遭らる。  |去《さ》れど|是等《これら》の道具立てに不似合なる|逸物《いちもつ》は其汚れたる|卓子《てえぷる》に|蝿《よ》り白ぎ手に裁判所の呼出状を持 ちしま》憂いに沈める一美人なり是ぞこれ噂に聞ける藻西太郎の妻倉子なり、倉子の容貌は真に 聞きしより|立優《たちまさ》りて|麗《うるわ》しく、其目其鼻其姿、一点の申分無く、容貌室中に輝くかと疑われ、余は 鰍る美人が如何でか恐しき罪乳魂みて我が強万に勧めんやと思いたり、殊に其身に轡えるは鷺い を表する黒衣にして|能《よ》く今日の場合に適し又最も倉子の姿に適したり、倉子の美くしきは生れ附 の容貌に在りとは云え衣類の為に」と㍊引立たる者にして色も其黒きに反映して益々白し余は全く 唇心し翫身惚るあみなりしが・威芯の薄らぐと共に却て又一種の疑いを生じた久此女轡 に沈めるには相違なきも真実愁いに沈みし人が衣類に斯くも注意する暇あるや、倉子が撰びに選 びて最も似合しきものを着けしは殊更に其憂いを深く見せ掛る心には非ざるか、目科も内心に幾 分か余と同じ疑いを起したること瞬げ光にて察せらる、倉子は余等が突然に入来るを見、驚きて 飛立ちつ、涙に潤む声音にて「貴方がたは何の御用事です」と問う、目科は最と厳格に「はい警 察署から送られました、|私《わたく》しは其筋の探偵です」と答う探偵との返事を聞き倉子は絶望せし人の ごとく元の椅子に沈み込み殆ど滋麓が洩さんとせしも・麟蔵"てか又越箪り、今度は充分に怒を 帯びたる声鋭く「あ>私しを捕縛するため来たのですね、さあお縛なさいお連なさい、連て行て 強万とともに牢の中へ投込んで戴き蚤しょう、罪無き所天を殺すなら私しも一緒に殺して下さい、 さあ、さあ」と詰寄する、是が真実此女の|誠心《まごユろ》たらば誰か又此女を所天に勧めて其伯父を殺させ し者と思わん・唯之だけにて無罪の証拠は充分なり、淀耐の目科も撤髄して早えたるが此時彼方         いぬ  こわ      うな               ψね                  かいいぬ なる寝台の下にて狗の怖らしく噌るを聞く、是なん兼て聞きたる藻西太郎の飼犬プラトとやら云 えるにして今しも女主人が身を|危《あやう》しと見、余等二人に噛附んとするなる|可《べ》し、倉子は一声に「こ れ、プラト、怒るのじゃ無いよ、此お二人は恐しい方じゃ無いから」と、叱り附る、叱る心を|暁《さとり》 てか犬は再び寝台の下に隠れたれども、|猶《な》お少しでも女主人の危きを見れば余等二人に飛附ん心 と見え暗がりにて見張れる瞬∀、慰"「雇の星の如くに光れり、目科は倉子の言葉を髄争に「ほん に吾々は恐しい人じゃ|有《あり》ません、|斯《こう》して来たのも捕縛など云う恐る|可《べ》き目的では無いのです」是 だけ聞きて倉子は少し安心の色を現すかと思いしに少しも|爾《さ》ること無く、目科の言葉を聞ざりし 如くに、我手に|持《もて》る呼出状を|一寸《ちよつ》と眺めて「今朝裁判所から此通り私しを午後の三時に出頭しろ と云て来ましたが、裁判官は虫も殺さぬ私しの所天へ人殺の罪を襖せ、知で荘だ鯉匙ず、私しを まで|何《ど》うか仕ようと云うのでしょう」目科は今までに余が見し事なきほど厳そかなる調子にて 「裁判所は決して貴女の敵では有ません唯|問糺《といたゴ》す|丈《だけ》の事です、貴女に問えば若しも藻西太郎の罪 の無い証拠が上ろうかと思う為です、私しの来たのも|矢張唯《やはりた》だ|夫《それ》だけの目的で、色々貴女に問う のです・貴女の答え一つに依り嫌疑が益々重くもなり、又全く無罪にも成りますから臓鵬なく返 事するのが肝腎です、さ呼うか腹臓なく」と司れて倉子は凡そ一分間が程も其青き畷が聾げ目科 の顔を見詰るのみなりしが、|漸《ようや》くにして「さアお問なさい」と云う、あ>目科は如何なる問を設 けて倉子を|害《わな》に落さんとするや、定めし昨夜藻西太郎を問し如く敵の備え無き所を見て巧みに不 意の点のみを襲うならんと、余は|窃《ひそ》かに|堅唾《かたず》を呑みしに彼れは全く打て変り、正面より問進む目 「えー、藻西太郎の伯父|梅五郎《ぱいごろう》老人の殺されたのは一昨夜の九時から十二時までの間ですが其間 丁度藻西太郎は|何所《どこ》に居ました何をして」倉子.は煩悶に堪えぬ如く両の手を握り〆め「|是《し》が本統 に・運の構と、云う者です」と言掛けて涙に嘘ぶ目「運の尽とは呼う云う者です・強万が何所に 何をして居たか、貴女が知らぬ欝は有りますまい倉「はい」と漸く計んとして泣声に腕舞がり暫 し言葉も続かざりしが漸くに心を鎮め「はい所天は一昨夜外へ出まして目「外へ出て何所へ行き ました倉「モソトローグまで参りました、|兼《かね》て同所に此店の職人が住で居まして、先日得意先か ら注文された飾物を其職人に譜ぞて置きました礫ろ、一昨日が其出来聯りの期限ですのに、碇に 入るまで届けて来ませんから、|若《も》し此上遅れては注文先から断られるかも知れぬと云い|夫《それ》を|所天《おつと》 は心配一しまして九時頃から其職人の所へ催促に出掛ました棚甘私しもリセリウ徹の角まで送て行 ッたから確かです|其所《そこ》から所天がモγトローグ行きの馬車に乗る所まで私しは見て帰りました」 余は傍より此返事を聞き、是ぞ正しく藻西が無罪の証拠なると安心の息を饗と吐きたり、目科も 少し調子を柔げ「|爾《そトつ》すると其職人に問えば分りますね、十一時頃までは多分其職人と一緒に居た でしょうから」実に然り、衝の老人が殺されし家の店番の証言にては藻西太郎が九時頃に老人の |室《へや》に来り十二時頃まで老人と話して帰りたりとの事なれば、|若《も》し藻西が十一時前後頃に其職人と 一緒に居たりとの事分らば、老人の|許《もと》を問いしは藻西太郎に|非《あら》ずして藻西に似たる別人なること 明かなれば、老人を殺せしも|矢張《やはり》其別人にして藻西の無罪は明白に分り来らん、目科が念を|推《お》す 言葉に倉子は蝦で落胆し「さア知が分らぬから運の尽だと申すのです目「え、え、夫が分らぬと は、又|何《ど》う云う訳で倉「生憎其職人が内に居なくて|所天《おつと》は逢ずに帰ッて参りました」目科も失望 せしと見え急しく煙草を噴ぐ真似して其色を隠し「成るほど夫は不運ですね、でも其家の店番か 誰かゞ貴方の所天を認めたでしょう倉「夫が店番の有る様な家では無いのです。自分の留守には 戸を〆て|置《しめ》くほどの暮しですから」ああ読者よ、如何にも是は運の尽なり、実際には随分あり勝 の事柄なれど、裁判の証拠には鵬辮し、証拠と為らざるのみならで轡し裁判官に此事を聞せては 蝦で益々疑わしと云い藻西太郎に罪のある証拠に数えん、之を思えば藻西太郎が、藤に自ら白状 したるも之が為に非ざるか、|有《あり》の|盤《まト》を言立たりとて不運に不運の重なりし事なれば信ぜらる>筈 は無く却ッて人を殺せし上裁判官をまで|欺《あざむ》く者と認められて二重の恥を|晒《さら》す|理《り》なれば、我身に罪 は無しとは云え欝れとも免れぬ場合、灘,く伏罪し苦しみを短かくするに好くなしと無念を瀦 て瞬麓めし者ならぬか、余が貯く考え廻すうちに目科は又問を発して「だが藻西は何時頃に帰て 来ました倉「十二時過る頃でした目「何故其様に遅かヅたでしょう倉「はい私しも少し遅過ると 思いましたから問い芒たが魂蹴環奪寄り裁灘を餓で居たと云いました目「帰ッた時は仔の様 な様子でした倉「少し不機嫌では有ましたが、夫は|尤《もつと》もの次第です目「着物は何の様なのを|被《き》て 居ました倉「昨日捕えられた時と|同《ひと》一の|着《つ》物でした目「夫にしても彼の様子か顔附に何か変ッた 所は有りませんでしたか倉「少しも有りませんでした」 第九回 (詰らぬ事)  余は初めより目科の|背後《うしろ》に立てる故、気を落着けて充分に倉子の顔色を眺むるを|得《え》、少しの様 子をも見落さじと鯉めたるに、倉子が幾度も泣出さんとし礎小其涙を制し兼る如き悲みの奥底に 仔妊と無く僻げ喜びの気を包むに似たる心地せらる乏ぞ、若しもや目科夫人の言いし如く此女 に罪あるに非ざるやと疑う念を起しはじめ、幾度か自ら抑えて又幾度か自ら疑い、|終《つい》に目科の|誠《いまし》 めを打忘れて横合より口を|出《いだ》せり余「ですが|内儀《ないぎ》、老人の殺された夜、太郎どのが其職人の家へ 行かれた留守に翼英は仔所に居たのです」倉子は擢"余が斯く問うを怪む如く其畷が余が顔に上 げ来り齢鷲がに「私しは此家に留守をして居ました、知には証人も有る事です余「え、証人が倉 「はい有ります、鶴稀の通り一昨夜は鋤もより蒸暑くて知にリセリウ徹で亟万に分れ醜まで櫨御 て帰りました瀞め大層嘘が乾きまして、私しは氷を殿ようと思いましたが一人では余り淋しい者 ですから右隣の鞭鶴の触欝と左隣の尭輿鶴の内儀を招きました醗ろ、二人とも卑嵐に参りまして 十一時過までも薙に居ました、夫は葭《其薩如にお蹴斑されば分ります、斯う云う事に磁て見ま すと何気なく二人を|招《まねい》たのが天の助けでゾも有たのかと思います」あ>是れ果して何気なく招き たる者なるや、真に何気なかりしとすれば倉子の為に此上も無き好き証拠なれど心なき身が僅か 氷ぐらいの為めに両隣の内儀を招くべしとも思われず、其実深き仔細ありて|真逆《まさか》の時の証人にと 心に諮みて呼びし者に非ざるか、斯く疑いて余は目科の顔を見るに目科も同じ想いと見えちらり と余と顔を見交せたり、寿れど今は罠醗し蒼子が心に疑を起さしむ研き時に非ず、目科は又真 面目になり「いや内儀決して貴女を疑うのでは有ませんが|唯《たゴ》吾々の心配するには若しや藻西太郎 が犯罪の前に何か貴方に話した事は有る|舞《ま》いかと思うのです、何か罪でも犯し|相《そう》な事柄を倉「|何《ど》 うして其様な事が有りましょう、|爾《そ》うお問なさるのは吾々夫婦を御存無いのです目「いやお待な さい、噂に聞けは此頃商売も思う様に行かず、随分困難して居たと云いますから親や知讐の話か ら自然衝の老人の事にでも移り1倉「はい如偉にも商売の暇なのは翼事ですが、懲箏商売が暇 だからとて目「いえ藻西太郎も自分一身の事では無し最愛の妻も有て見れば妻に不自由をさせる のが可哀相で・夫や憲から呼うかして一日も早く楽に成り慶い財産を手に入れ度いと云う事情は |有《あつ》たに違い有ますまい倉「其様な事情が有たにせよ何で伯父などを殺しましょう、|所天《おつと》に罪の無 い事は呼所までも私しが受合ます」目科は麓うに煙草を噛ぐ真似して「藻西太郎に罪が無いとす れば彼れが白状したのは|何《ど》う云う訳でしょう、真実罪を犯さぬ者が|爾《そ》う|易《やすく》々と白状する筈は有り ますまい」今まで如何なる問に合ても|澱《よど》み無く充分の返事を与えたる倉子なるに此問には少し困 りし如く麓ザ顔に紅を添え鵜に其瞬ぎで迷い出せり、之れ罪の有る証跡と見る可きや母鶴"し て|亦《また》も涙の声と為り「余り恐ろしい疑いを受けた為め気が転倒したのかと私しは思いますが目 「いや其様な筈は有りません縫い一時は気が転倒したにもせよ夫は少し経てば瀧ヂます、藻西太 郎は一夜眠た今朝に|成《なつ》ても矢張り自分が犯したと言張ッて居ますから」此言葉にて察すれば目科 俵磁轍余の室を叩く前に既に再び牢屋に行き藻西太郎に逢来りしものと見ゆ、何しろ此言葉には 充分の力ありて倉子の心を打砕きし者とも云う可く、|他《か》れ面色を灰の如くにし「|何《ど》うしたら|好《よ》う |御坐《ござ》いましょう|所天《おつと》は本統に気が違ッて仕舞いました」と絶叫せり、あ》藻西太郎の白状は果し て気の狂いたる為なるか余は|爾《そう》と思い得ず、思い得ぬのみにあらで余は益々倉子の口と其心と|同《おなじ》 からぬを疑い、価れが悲みも伽れが涙も価れが失望の絶叫も纈て尉峨炉る狂言には非ざるや、藻 西太郎の異様なる振舞も|幾何《いくら》か倉子の為めに|由《よ》れるには非ざるや、倉子自ら真実の罪人を知れる には非ざるやと余は益々疑いて益々|惑《まど》えり。  目科は如何に思えるや知ざれど彼れ嗅煙草のお蔭にて何の色をも現さず、|徐《しずく》々と倉子を慰めし 末「いえ此事件は余り何も彼も分ら無さ過るから|詰《つま》り方々へ疑いが掛るのです、事が分れば分る だけ疑われる人も減る訳ですから此上曲"荊がお願ながら呼うか私しに此家の家捜をさせて下され ますまいか」と大胆な事を言出せり、余は目科が何の目的にて屋捜せんと欲するにや更に合点行 かざれど無言の|儘《まト》控ゆるに倉子は快よく承諾し「はい|爾《そう》して疑いを晴せて戴く方が私しも何れほ ど有難いか知れません」と瀦が翫や其盈藪を概機りて戸毎の鍵を差出す櫨、心に暗き所ある人の 振舞とは思われず、目科は其鍵を受取りて戸棚押入は申すに及ばず店より台所の隅までも事細か に調べしかど怪む|可《ぺ》き所更に無く「此上捜すのは唯穴倉一つです」と云い又も倉子の顔を見るに 倉子は安心の色をこそ示せ、気遣う様子更に無し、|去《さ》れど目科は落胆せず、倉子に|燭《しよく》を|乗《と》らせて 前に立たせ余を|背《うしろ》に従えて、穴倉の底まで下り行くに、底の片隅に|麦酒《びいる》の瓶あり少し離れて是よ りも上等と思わる》酒類の瓶を置き、|猶《な》お|四辺《あたり》には様々の空瓶を|堆《ヶずたか》きほど重ねあり、目科は外 の品よりも町箏の瓶鬼廿其眼を注ぎ殊に其瓶の口を仔細擬びる様子なれば余は初て合点行け り、彼れは此家の瓶の蠣に若し衝の麟勧が老人の室に投捨て去りし如き青き封蟷の附きたるコロ ップあるや配を機兜げんと思えるなり、爬そ二十分間ほども探りて全く似寄りたるコロップの無 きことを確め得たれば、彼れ余に向い「何も無い、探すだけは探したから|最《も》う出よう」と云う、 今度は余が最先に立ち襯ヂを上り、螂て元の塾に達すれば、儒びプラトが又寝台の下より出来り 歯轟出して余を目掛け飛掛らんとす・余は其剣幕に驚きて一足灘に警らんとする程なりし が・鰍と見て倉子はあ嵐"しく「プラトやこれ」と制するに犬は鶴サ鎮りて寝台の鰍に退けり、余 は灘ぐ安心して進みながら「随分隊蹴な犬ですね」と云う「なに麟では郁ません心は穣優いです が|番犬《ぱんいぬ》の事ですから私し共夫婦の外は誰を見ても油断せぬ様に|仕附《しつけ》て有ります、商売が商売で雇 人にも気の許されぬ様な店ですから」余は成る程と思いつゝも声を柔げて「来い<ブラト」と 手招するに彼れ応ずる|景色《けしき》なし「駄目ですよ、今申す通りわたくしか|所天《おつと》の外は誰の言う事も聞 きませんから」  読者よ是等の言葉は当前の事にして少しも怪むにも足らず又心に留むるにも足らざれども、余 は此言葉に依り慰"稲妻の光るが如く我が脳髄に新しき思案の差込み来るを覚えたり、一分の猶 予も無く熱心に倉子に向い「では|内儀《ないぎ》犯罪の夜に此犬は|何所《どこ》に居ましたか」と打問えり。  不意に|推掛《おしかけ》たる此問に倉子の驚きたる様は実に|讐《たと》うるに物も無し、余は疑いも無く|他《か》れの備え の最も弱き所を衝きたり、鴛魂どは鰍るをや云うならん、倉子は今も猶お手に持てる燭台を取落 さぬばかりにて「はい此犬は、此犬は、|爾《そう》です何所に居ましたか、存じませんいや思い出しませ んが」と綴る言葉も欝繭なし余「知とも太郎殿に臓て行きでもしましたか」此瀦言葉に力を得倉 「あ>思い出しました、|爾《そうく》々全く所天に随て行たのです余「では馬車に乗ても矢張其後に随て行 く様に仕込で有ますか、何でも太郎殿はリセリゥ|街《まち》から馬車に乗たと|仰有《おつしや》ッた様でしたが」倉子 は二言の返事無し、余は益々切込みて充分に問詰んとするに、何故か目科は此時邪魔を入れ「詰 らぬ事を問い給うな、内儀も|酷《ひど》く心を痛められる際と云い三時からは又裁判所の呼出しにも応ぜ ねば成らぬ事だから最う少しは休息なさらねば静く有る舞い、毅樹までして何も見出さぬから最 う吾々の役目は|済《すん》だじゃ無いか、好い加減にお|邊《いとま》に|仕様《しよう》、さア君、さア」余は実に合点行かず、 折角敵の灸所を見出し今たゴの一言にて底の底まで問詰る所なるに、目科は夫を詰らぬ事と言い 無理に余を|遮《さえぎ》らんとす、余はむッとばかりに|憤《いきどおり》しかども目科は眼にて余を叱り、二言と返させ ずして|勿《そこく》々倉子に分れを告げ、余を|引摺《ひきず》らぬばかりにして此家を|起立《をいで》たり。 「君は心を失ッたか」とは此家を出て第一に目科が余に向い発したる言葉なりしが、余は彼を|倍《きつ》 と見詰て「夫は僕の方で云う|言《こと》だ、君こそ心を失ッたのだろう、僕が発見した敵の灸所は今まで 詮策した|中《モつち》で第一等の手掛じゃ無いか、返事に窮して倉子のドギマ,ギした様が君の目に見えなん だか、今一思いと云う所で何故無理に僕を制した、君はあの女に加担する気か、え君、夫とも犬 が非常の手掛りだと云う事が|猶《ま》だ君には分らぬか」鋭き言葉に目科は別に怒りもせず「夫だから 前以て|誠《いまし》めて置たのだ、成るほど犬に目を附けたは実に感心だ、多年此道で苦労した僕も及ばぬ 程の手柄だ、吾々の|拠《よ》る所は是から|唯《たゴ》あの犬ばかり、夫にしても君の様に短兵急に問詰ては敵が 藤櫨疑うから事が破れる、今夜にも倉子があの犬を殺して仕舞うか夫とも何所かへ隠して仕舞え ば何うするか」成る程と感心して余は猶お我腕前の遙に|目《はるか》科より下なるを会得したり。 第十回(判然)  |兎《と》に|角《かく》も犬と云う|一個《ひとつ》の捕え所を見出したれば之を|本《もと》にして此後の相談を固めんものと余等二 人は近辺の料理屋に入たるが二人とも朝からの奔走に随分腹も|隙《す》きし事なれば肉刺、|小刀《ないふ》を|我《われ》 饗ぴと働かせながらも様々の意見を持出し楓嵐と闘わすに、余も目科も藻西太郎を真実の罪人に 非ずと云うだけ初より一致して今も猶お同じ事なり、罪人に|非《あらざ》る者が何故に白状したるや是れ二 人とも合点の行かぬ所なれど|個《こ》は目下の所にて後廻しとする外無ければ先ず倉子の事より考うる に、倉子も衡の夜両隣の細君と共に我家に留りし事なれば実際此罪に手を下せし者にあらぬは四 |定《じよう》なり、去ればとて犬の返事に詰りたる所と云い猶お其外の細かき様子など|考合《かんがえあわ》せば余も目科 も櫨"疑いあり、手は自ら下さぬにせよ、目科の細君が言し如く此犯罪の発起人なるやも知れず、 纐し発起人と迄に至らずとも難び罪人を知れるやも知れず、盈多分は知れるならん。  |爾《さ》すれば罪人は誰なるや此罪人がプラトを|連居《つれい》たる事は店番の|証薙《しようこユ》にて明白なれば何しろプラ トが我主人の如く|就従《つきしたが》う人なるには相違なしプラトは余等に|向《むか》いても幾度か歯を|露出《むきいだ》せし程なる 故、容易の人には従う|可《べ》しとも思われず、|然《しか》らば家内同様に此家に入込てプラトを|手懐得《てなずけう》る人の ---------------------[End of Page 50]--------------------- |中《うち》と認るの外なく、凡そ|斯《かエ》る人なれば益々以て倉子が知れる筈なるに露ほども其様子を見せぬの みかは鯉で其の人を押隠さんとする所を見れば倉子のためには我が亟充より猶お大切の人としか 思われず、あゝ我が所天よりも猶お大切のひとあるや、有らば是れ何者なるぞ。 弦まで孝粂るときは倉子に盈だあるぞとは熾㎎にも短る>ならん、密夫にあらで誰が又倉子 が身に我巽よりも大切たらんや、嘩だ近辺の噂にては倉子叫鷹正しきは何人も疑わぬ如くなれ ど此辺の人情は上等社会の人情と同じからず上等の社会にては一般に道徳最と堅固にして少しの |廉《かど》あるも|直《たゴち》に噂の種と|為《な》り厳しく世間より瞥めらるれど此辺にては人の妻たる者が若き男に情談 口を開く位は当前の事にして見る人も之を臨ど思わねば操が操に通らぬたり、殊に又美人の操ほ ど樂に成らぬ者は無く厳重なる貴族社会に於てすらも幾百人の目を儲みて不義の快楽に聡りなが ら生涯人に触れずして操堅固と戯らる>貴婦人も少なからず、物を隠すには男子も遙に及ばぬほ ど巧なるが凡て女の常なれば倉子も人知れず如何なる情夫を|蓄《たくわ》うるや図られず、若し情夫ありと せば其情夫誰なるや、如何にして見破るべきや。  是れ実に難中の至難なり、余は及ぶだけ工夫せし末「何うだ目科君、倉子へ見え隠れに探偵一 人を附けて置ては、え君、必ず此犯罪の前に情夫と打合せて有るのだから当分其情夫が此辺へ尋 ねて来る事は有るまいけれど、女と云う者は心も細く所天が牢に入られ、其筋からも|時《しぱノち》々異様な 字                 ひとり                                    文 人が来て尋間するなどの事が有ては独で辛抱が出来なく成り必ず忍で其情夫に逢に行くだろうと の 思うが」目科は余が言葉に返事もせふ餓に考うるのみなりしが忽縦として顔を上げ「いやηぬ・血 了ぬ、優讃にも鉄の禰ぬうちに打てと云う事が有る、麓濫を冷ましては何も彼も後の祭だ余「で 01 は余温の冷めぬうちに|甘《うま》く見破る工夫が有るのか目「随分険呑な工夫だけれど一かハか|当《あたつ》《ユ》|て砕け るのさ余「夫にしても何う云う工夫だ目「工夫は唯だあの犬ばかりだ、犬を利用する外無いから 齪く行けば詰る所君の手際だ、犬に目を附け初めたのは君だから、夫にしても醤て見るまで羅で 居たまえ、今に直ぐ分る事だ余「今に直なら夫まで無言で問ずにも居ようが真に今直遣るのかえ 目「|左様《さよう》、裁判所から倉子に出頭を命じたのが午後三時だから倉子は二時半に家を出るだろう、 家を出れば其留守はあの下女が一人だから吾々の試験す可きは其間だ余「と云て今既に二時を打 たぜ目「爾だ、さア直に行う」と云い早や勘定を済せて立上れり、目科が当ッて砕けろとは如何 なる工夫なるや知ざれど、余は又も無言の儘従い行く、行きて藻西の家より遠からざる所に達し、 再び|但《と》ある露路に潜みて店の様子を伺い居るに、幾分間か経ちし頃、倉子は店口より立出たり、 先ほどの黒き衣服に猶お黒き覆面を施せしは死せし|所天《おつと》の喪に服せる未亡夫人かと疑わる、目科 は口の中にて「仲々食えぬ女だわえ、悲げな風をして判事に|欄《あわれ》みを起させようと思ッて居る」と 眩きたり、暫くするうち倉子は足早に裁判所の|方《かた》へと歩み行き其姿も見えずなりしが是より猶も 五分間ほど過せし後、目科は「さア時が来た」と云い余を引きて此隠場を出で一直線に藻西の店 先に到るに果せるかな先刻見たる下女唯一人帳場に|据《すわ》りて留守番せり、目科の姿を見て立来るを、 目科は無雑作なる言葉にて「これく、|内儀《ないぎ》を|一寸《ちよつ》と呼で呉れ下「|内儀《 かみ》さんは|最《も》う出て仕舞いま したよ」目科は驚きたる風を示し「其様な筈は無いよお前先程来た己の顔を忘れたな下「いえ爾 では有ませんが、全く離み臓は出て仕舞たのです、戯と思えば奥の間へ行て御覧なさい、最う誰 も居ませんから目「やれく、あ、夫は困ッたなア実に|困《こまつ》た、己よりも|先《ま》ア内儀が|嚥《さぞ》かし失望す る事だろう、困たなア」と頭を掻く其様如何にも|誠《まマしと》しやかなり、下女は何事かと怪しむ如く、開 きたる眼に目科の顔を打眺む、目科は猶も失望せし体にて「実は己が余り|粗勿《そユつか》しく聞て行たから 悪かッたよ、折角内儀の|言伝《こちけ》を|受《うけ》て、先の番地を忘れるとは、|爾《そうく》々お前若しあの人の番地を覚え て居やア仕無いか、何でもお前も傍で聞て居たかと思たが女「いえ私しは初めから店へ出て居た から|聞《きト》ませんでしたが、でも|何方《どなた》の番地ですか目「何方ッてそれ|彼《あ》の人よ」と言掛て目科は|忽《たちま》ち 詰り「え》己の様な|疎勿《そトつ》かしい男が有うか、肝腎の名前まで忘れて仕舞ッた、え>何とかさんと 言たッけよあの、それ何とかさんよあの、え》|自裂《じれつ》たい口の先に|転《ころく》々して居て出て来ない、え> 何とかさん、一何とかさん、おうそれく彼のプラトが大変に能く瞬んで居る人よプラトが己に曝 |附《つこ》うとした時内儀が|爾《そう》云た、他人で此犬の従うのは唯何とかさんばかりですッて」下女は合点の 行きし如く「あ>分りました夫なら|生田《いくた》さんでしょう、生田さんなら久しく此家の旦那と共に職 人を仕て居ましたからプラトを自由に扱います」目科は真実に喜びの色を|浮《うカ》め「あゝ生田さん生 田さん、其生田さんを忘れてさ、今度は能く覚えて行う、其生田さんの居る所は|何所《どこ》とか|云《いつ》たヅ けたア」下女は唯此返事一つが己れの女主人には命より大切たる秘密と知らず|易《やすく》々と口に|出《いだ》し 「生田さんならロイドレ街二十三番館に居るのです目「爾々、爾云たよロイドレ街二十三番館だ と・夫を望かり忘れて居た、辮轍いく、お前のお影で助かッた内儀が帰ッて来れば必ずお前を 戯るだろう」と反対の言葉を残して震姦へと走り出たり。  あ>、ロイドレ街二十三番館に住む生田と云える男こそ吾々の|当《とう》の|敵《かたき》なり、此上は一刻も早く 其館に掛僻て生田を捕縛する外なしと余は思えど目科は「是から裁判所へ行て逮捕状を得て来ね ば何事もする訳に行かぬ」と云う余「ダッて君、裁判所へ行けば倉子が既に行て居るから吾々が 逮捕状を得るのを見て、生田を逃す様た工夫を|廻《めぐ》らせるかも知れぬぜ、夫に又ぐずくする間に 倉子が内へ帰り下女の言葉を聞くとしても吾々の目的は破れて仕舞う目「何が何でも逮捕状が無 い事には此上一歩も運動が出来ぬから」と云い、早くも通り合す馬車を呼留め、之に乗りて僅か 4 三十分と経ぬうちに裁判所に達すれば先ず其小使を呼びて問うに判事は今正に倉子を尋問しつう 《 》|ー ありとの事なり、目科は更に手帳の紙を破り之に数行の文字庖|認《したユ》め是非とも別室にて面会したし との意を云い入る>に・暫くして判事は別室に入来り目科が蟹擁みて云う報告を聞き「成る程夫 は面白いが|最《も》う藻西太郎が白状して仕舞たよ、|全《すつ》かり白状したから外に何の様た疑いが有ても自 然に消滅する訳だ」と云い取上る景色も無きを猶も目科が|喋《くしやく》々と|説立《とミて》て漸くの事に「|然《しか》らば」 との畿を得生田馨者に対する逮捕状議みて差出すや目科は受取るより早く・余と共に狂 気の如く裁判所を走り出・徹せある馬車に乗り、ロイドレ街を指して馬の足の続く限り赴ぜたり、 螂てロイドレ街に遷〃ば町の入口に馬車を待せ、幾度か彼の嗅煙草にて掛て顔色を落着けっ㍗ 二十三番と記したる館を尋ねて、先ず其店番に向い「生田さんは居るか」と問う店「はいお内で す、四階へ上れば|直《すぐ》に分ります」と答う、目科は|階段《はしごだん》に片足掛けしが|忽《たちま》ち何事をか思い出せし 如く又も店番の|許《もと》に引返し「今日は生田に一杯振舞う積りで来たが生田は|毎《いつ》も何の様な酒を呑む 店「何の様な酒ですか、常に此筋向うの酒屋へは能く行きますが目「好し、|彼所《あすこ》で問うたら分る だろう」と云い大足に向うの灘鶴に馳せて入る、余ば薄々と其目的を察したれば同じく酒店に駝 て入るに目科は給仕に向い「あの青い口を仕て有る銘酒を持て来い」と云う、給仕が心得て持来 るを目科は受取るが醜藤ちに其口なるコロップを抜き其封蟷の青き所を余に示してにッこと笑み、 瓶は酒の入たる儘にて|幾法《いくふらん》の銀貨と共に|卓子《ていぶる》の上に残し置き、コロップを|衣嚢《カくきし》に入れて再び二十 三番館に帰り、今度は案内を請わずして四階の上に飛上る、成るほど生田の童は「|飾職《かざりしよく》生田」 と識したる表札にて明かなれば、直ちに入口の戸を叩くに内より「さア|華《は》一|実《し》り|成《な》さい」との声 聞ゆ、鍵は錠の穴に差込みしま>なれば二人は遠慮なく戸を開きて内に入る、内には窓の下なる 軋再に打向い、今現に金の指環に真珠を騨むる細工に掛れる、年三十≡二の衡さ男、成るほど女 にも好かれ|相《そう》なる顔恰好は是れが則ち曲者生田なるべし、生田は二人の入来るを見て別に驚く様 子も無く立来りて丁寧に「何の御用でお出に成りました」と間ラ・目科は鰍る事に慣れし亦け 突然進みて生田の腕を捕え|大喝《だいかつ》一声に「法律の名に於て|其方《そのほう》を捕縛する」と叱り附る、生田は初 て驚きたるも猶お度胸を失わず「鶴欝誕を蔚さるな私しが何をしました」目科は肩をそ蟹かして 「これく今と成て|仮忘《とぼ》けても|了《いけ》ないよ、其方が一昨夜梅五郎老人を殺し其家を出て行く所を確 かに認めた者も有り、殊に其方が短剣の刃の欠けぬ様、其剣先に差して行て帰る時に忘れて来た コロップも持て居る、其証拠を見せて|遣《やろ》うか」鋭き言葉に敵し得ず全く逃る>道たきに失望せし 如く蹴踊きて軋充に偲れ掛り、唯口の中にて「私しでは有りません、私しでは有りません」と 眩くのみ。  目「其様な事は判事の前へ出た上で云うが好い、云た所で|連《とて》も採用はせられ|舞《ま》い、既に其方の                                       鵬 共謀者藻西倉子が何も彼も白状して仕舞たから」此言葉に生田は電気にでも打れし如く拶返り 「え、え、あの女が、其様な事は有りません、少しもあの女の知ッた事で無いのですから」驚き の余り芯らせたる此言葉は充分の白状に同じければ目「して見ると其方が天で誰んで一人で行 ッたと云うのだな、夫だけ聞けば沢山だ」と云い目科は更に余に向いて「君、あの|卓子《ていぶる》の|中《うち》など を擁げたまえ必ず藻西倉子の写真や欝静などが苧居るから」と云う・余は髪2従わんとする に生田は痛くい櫛おり籔計握りて目科に打て掛らんとせしかども・二人に一人の到底及ばぬを見て 取りし如く|唯《た》だ悔しげたる溜息を洩すのみ、果して|卓子《ていぶる》其他の|抽斗《ひさだし》よりは目科の推量せし通り倉 子よりの欝静も出で則其写真も出たる上、猶お争われぬボの証拠と云う可きは鵬瀧の痕を留めし |最《いと》鋭き|両刃《もろは》の短剣なり、殊に其形はコロップの裏の創にシックリ合えり、生田の罪は|最早《もまし》や|秋毫《ゆうごう》 の疑い無し。  是より半時間と経ぬうちに生田は目科と余の間にはさまりて馬車に乗せられ警察本署へと引立 られしが余は其道々も余り捕縛の容易なりしに|呆《あき》れ「あ>案じるより産むが易い」と眩けば目科 は「|先《ま》ア探偵に成て見たまえ斯う易々と捕縛されるのは余り無いから」と答えたり-  鰍て生田は藤ちに牢屋へ入られしが、牢の空気は全く彼れの強情を擬きし者と見え彼れ何も彼 も白状したり其大要を撒擁めば彼れは久しく藻西太郎と共々に飾物の職人を勤めしだけ太郎の伯 父なる梅五郎老人とも|何時《いつ》頃よりか懇意に成りたり、此度老人を殺したる目的は全く藻西太郎を 憎むの念より出しものにて彼れに人殺しの疑いを|被《き》せ其筋の手を借りて亡き者とし其後にて倉 子と瀦趨ると云う黙算なれば・職人の衣類を捨て撫《藻西の如き商人の風に把撚ちプラトを連れ て老人の許へ眠律きしなり、是だけにて充分藻西に疑いの掛るならんと思いたれど猶お念の上に も念を入れ・老人の死骸の手を取り、傷より出る血に染めて、慰"老人自らが書きし如く床に血 の文字を書附て立去りしとなり、是だけ語りて生田姦讃卿げ「仲々解護だと思いましたが老 人を殺せば倉子の亭主は疑いを受けて亡き者に成り其上老人の財産は倉子に|転《ころが》り|込《こん》で倉子は私し の妻に成ると云う趣向ですから石|一個《ひとつ》で鳥二羽を殺す様な者でした、夫が全く外れて仕舞い此通 り成たとは悪い事は出来ぬ者です」目科は是だけ聞き「成るほど趣向は|旨《うま》いけれど|仕舞際《しまいぎわ》に成て 其方の心が暗み大失策を|遣《やらか》したから仕方が無い、其方は自分の右の手で直に老人の手を取たから 老人の左の手であの文字を書せた事に成て居る」此評を聞き生田は驚きて飛上り「何と|仰有《おつしや》る、 だッて夫が為に私しへ疑いの掛ッた訳では有ますまい目「夫が為に掛ッたのさ、左の手だから 老人が自分で書たので無いのは明白で、既に曲者が書たとすれば藻西太郎が自分で自分の名を書 附ける筈は無いから」生田は|宛《あたか》も|伯楽《はくらく》の見|落《おとさ》れたる千里の馬の如く呆れて其顔を長くしつ「是は 驚た、あ>美術心が有ても駄目だ、余り旨く|遣過《やりすぎ》ても無益の事だ、貴方は|猶《ま》だあの老人が|左得手《ひだりえて》 で、筆を持つまで左の手だと云う事を御存じないと見えますな」あ・く|扮《さて》は彼の老人左き>に して曲者の落度と見しは|却《かえつ》て其手際なりしか、目科の細君が|最《いと》賢き説を立てながらも其説の当ら ざりしは無理に非ず、後に至りて|聞糺《さエたゴ》せしに老人は全く左|利《きユ》なりしに相違なし、|左《さ》すれば余が自 ら大発見大手柄と心の中にて誇りたる事柄も実は全くの間違いなり、夫を深くも正さゴりし余と 目科の手落も浅しと云う可からず、探偵の事件には携へ餓までに意外なる事多し此一事は此後余 が真実探偵社会の一員と為りてよりも穂"余をして自らか鶴みる所あらしめたり、既に寒び罪人の 捕まりし事なれば倉子の|所天《おつと》藻西太郎は此翌朝放免せられたり、判事は放免言渡しのとき、彼れ が我身に覚えも無き事を|易《やすく》々と白状して殆ど裁判を誤らしめんとするに至りし其不心得を痛く叱 るに彼れ|屡《しぱく》々|首《こうべ》を垂れ「私しは自分より女房が可哀相です、自分で一|層《そ》罪を引受け、女房を助け る積でした、はい実は一図に|最《も》う女房が殺した事と思い詰めましたので、はい|畢寛《ひつきよう》云えば女房 が私しに貧しい暮しをさせて置くのが可愛相で夫ゆえ伯父を殺して呉れたと思いまして、はい爾 とすれば其志ざしに対しても女房を懲役に|遣《やつ》ても済ぬと思いまして、はい夫でも昨夜|探偵吏《たんていり》のお 話に曲者が犬を連れて行たと聞き若しや生田では有る舞いかと思い附き|忌《いまノち》々しくて成ませんでし たが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思 いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後を|誠《いまし》めて 放免したりとなん。  藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房を|斯《かく》も罪人と思い詰めたる所を見れば、 何か女房に疑う可き|廉《かど》の有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと|説勧《ときすト》 めたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え|真逆《まさか》に唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得 ざりし故、言葉を托して|一月二月《ひとつきふたつき》と延し居るうち女房は我|所天《おつと》の|活智《いくじ》なきを見、|終《つい》に情夫の生田 に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も|由因《ゆかり》も無き他人と思えば|左《さ》まで躊躇す る事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の|身代《しんだい》は我愛する美人倉子の持参 金と為りて我が|掌底《たなそこ》に|落《ころ》がり込む訳なれば承知したるも無理ならず。  個は余と目科の考えにして欝れとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に 湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言 渡されたり。  藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらる》や|直《たサ》ちに引取 りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば 永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローソの近辺へ不評判たる酒店を開業し倉子はヨ 夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其|綺禰《きりよう》も今は|頽《くず》れて見る影たし、太郎も倉子が酔たる 時は折々機嫌を取損ね擁っち齪せらる>事もありと云えばゴ川はそろく零落の谷底に堕落し行く 途中なりとぞ。              (以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシル|記《しる》す)                                       (終)                         (小説集『綾にしき』明治二十五年ハ月刊収載) 血の文字