上古事記表 太ノ|朝臣《あそみ》安万侶が『古事記』を|上《たてまっ》るの表は、文辞典麗、詞藻|炳蔚《ヘいい》、もとよりわが邦上代の文 章中の逸品たり。ただその漢文をもつて邦史を修むるの難きを言ふ一節、本居宣長あるいはそ の脱漏あらんことを疑ふ。宣長は一生の心血を|竭《つく》して『古事記』を|伝《でん》す。|榛芥《しんもう》を拓き、道途を 通じ、|恵《めぐみ》を後の『古事記』を読むものに|貽《おく》ること甚大なり。援引繁多、考証精確、その言多く は従ふべし。太ノ朝臣の文に曰く、 |然《ルニ》上古《ノ》之時、言意|並朴《ニニシ》、|敷《テキ》ノ|文構《ヲフルコト》ノ|句《ヲ》、|於《テ》ノ|字《ニ》即|難《ノ》、|已因《ニテ》ノ|訓述者《ニヘタルハ》、詞不ノ|逮《バ》〆|心《ニ》、|全以《クテ》ノ|音 連者《ヲネタルハ》、|事《ノ》趣|更長《ニシ》、|是以《ヲテ》今|或《ハ》一|句《ノ》之中、|交《ヘ》禁|用《ヒ》音|訓《ヲ》→|或《ハ》一|事《ノ》之内、|全以《クテ》ノ|訓録《ヲス》、即|辞《ノ》理|巨《ガタキハ》レ|見《エ》、 以ノ注|明《ス》ノ|意《ヲ》、況|易《キハ》ノ|解更非《リニス》レ|注《セ》。(訓点従一本居宣長一) と。宣長、即辞理匝ノ見、以レ注明ノ意の二句を註して曰く、 理は意にて、即明レ意とある意これなり、|巨《は》ノ字は、不可也と注して、難と同じく用ひた り、さて記中に種々の注ある中に、辞ノ理を明したるはいといとまれにして、只|訓《よむ》べきさ まを教へたるのみ常に多かれば、|此《ここ》は文のままに心得ては少し違ふべし、ただ|大概《おおかた》に心得 てあるべきなり、(また|訓《よみ》ざまを教へたるが殊に多きにつきて、|此《ここ》の文を助けていはば、 辞とは字をいひ、理また意とは訓を云と心得てもあるべきか、訓はすなはち其字の意なれ ばなり、|仮令《たとえ》ば訓ノ立云二多々志一とあるたぐひ、訓を教ヘたるなれども、多々志は即ち立 ノ字の意なれば、明ノ意とも云ひつべし、されど又多く某々字以ノ音とあるは、仮字なるこ とを注したるなれば明〆意とは云ひがたかるべし、かにかく当り難き文なり、) と。また、況易ノ解更非ノ注の句を釈して曰く、 況ノ字はことに意無し、ただ軽く見べし、(字書に発語之辞とも注せり、)非ノ字は不の意 に用ひたるなり、此例本文又書紀などにもおほし、さて全篇対句なれば、|此《ここ》も然るべきさ まなるに、意は上と対して、字の対せざるは、易ノ字の上に二字、更ノ字の上か下かに一 字ありしが、共に|脱《おち》たるにやあらむ、 と。予ひそかに|謂《おも》ふ、この文の数句、解すること宣長のごとくにすれば、文勢まさに脱字有る べきを疑はざるを得ず。しかれども解すること宣長のごとくせざるときは、脱字有るを疑はざ るを得、と。試みにこれを言はむか。宣長曰く、況字はことに意無し、ただ軽く見るべしと。 これ強言に近し。すでに況ノ字を読んで発語の辞となす、すなはち況はなほ|矧《いわんや》のごときたり、 ことに意無しとするを得ず。経伝の況字を用ひる、時に興の義有り滋の義有りといへども、尋 常の|況《きよう》字を用ゐるや、上を|承《う》け下に接し、中に比擬の意を含むこと多く、無意の語辞とする を得ず。辞の理の見え難きは注を以て意を明かす、|況《いわん》や|解《さと》り易きは更に注せずといふがごとき は、況字を用ゐるの通例に違ふもまた甚し。かりに宣長の意に従ひて、易ノ字の上に二字を填 し、更ノ字の下もしくは上に一字を填して読むも、況字|浮涯《ふへん》して|繋《かか》るところ無く、文理通ぜず、 |辞気|属《しよく》せずといふべし。太ノ朝臣の文を考ふるに、その文いまだ必ずしも|法度《はつと》森厳、辞句洗錬 を極むとすべからざるも、その才の人に超え、その学の世に抜くる有る、またもつて|窺《うかが》ひ知る べし。太ノ朝臣の才、学、あに一況字を|下してかくのごとくそれ|妥《だ》なる能はざる有らんや。す でに況字を読んで語辞となし、而してまたことに意無し、ただ|軽看《けいかん》すべしといふもの、太ノ朝 臣を|誕《し》ひて、才学有る無しとするに近からずや。 予ひそかにおもへらく、宣長、太ノ朝臣のこの文、多く対偶を用ゐて、而して辞理巨ノ見以 下数句、意対して字対せざるの故をもつてこれを疑ふは甚だ|可《よ》し、ただ読みて宣長のごとくに せざらば、強ひて脱落あるを疑はざるも、文おのづから通じ、句もまた対を為すに近きを得、 と。けだし古来の|此《ここ》を読む、意ノ字の下をもつて句となす、宣長また従ふ、予はすなはち意字 の上をもつて句となさんとするなり。 即辞理巨ノ見、以ノ注明、意況易ノ解、更非ノ注。 読むことかくのごとくなれば、以レ注明と更非レ注と、対偶精ならざるを免れずといへども、 文理善く通じ、辞気相属すといふべく、而して強ひて況字を軽看し、脱落有らんを疑ふ無くし て可なるを得ん。辞理と意況と対し、|巨見《はけん》と|易解《いかい》と対す、対偶また粗なりとすべからず。意況 の況はなほ客況の況、官況の況、老況、旅況の況のごとし、而して意況の二字また世のすでに 存するところたり。宣長注をもつて意を明すと読めるをもつて、釈もまた|礙《さわ》るところあり、も し辞理匝レ見、以レ注明と読めば、すなはち|漏《ろう》を訓して|久伎《くき》といひ、|垂《すい》を訓して|志殿《しで》といひ、小 竹を訓して佐々といふと記せるがごとき、書中処々の挿注はすなはちこれ漢字邦辞、その真の 見え難きを注せるものなりとして解するを得べし。知らず安万侶朝臣の文の今に存するもの、 果して真に字を脱する有りや、あるいは後人みづから誤読してもつて古人措辞当らず用字精な らずと為すや否やを。|今舷《いまここに》たまたま太ノ朝臣を祭るのことを聞きて、その文を考へてこれを記 すと|云爾《しかいう》。 附記。この稿をなし|了《おわ》るの後、前人すでに予に先だつて予と見を同じうせるものありしを知 り、自から|遼豕《りようし》をはづること深し。露伴また|記《しるす》 明治四十四年四月