魔像 蘭郁二郎  |寺田洵吉《てらだじゆんミち》は今日も、朝から方々職を探してみたが、どこにもないとわかると、もう毎度のこと だったが、・やっぱり、また新たな失望を味わって、当てもなく歩いているうちに、知らず知らず に浅草公園に出ているのであった。    これは寺田の『淋しい日課』だった。|郷里《くに》で除隊されると、もう田舎で暮すのがバカバカ しくてならず、いろいろ考えた末、東京のたった一人の叔父を頼って、家を飛び出しては来たも のの、叔父の生活七て、彼を遊ばせておくほどの余裕はなかった。そして、彼の淋しい日課は始 まったのだ。  寺田は溜息と一緒に公園へ出ると、なかば習慣的に|瓢箪《ひようたん》池に突出した藤棚の下に行き、どこか でメタンガスのわくような、陰惨な音を聞きながらぼんやりとして、あくどい色をした各常設館 の広告旗が、五彩の|暴風雨《あらし》の'うに、やけにヒステリカルに、はたはたと乱れるのを見詰めてい た。 (相変わらずすごい人出だなア  )  そう我知らず咳いたとき、フト思い出したのは、ここで二、三日前、,偶然に行き会った中学時 代の同級生|水木《みずき》のことだった。  それと同時に、 (あの水木のところへ行けば、何かツテがあるかもしれない)  と、思いつくと、それを今まで、忘れていたのが、大損をしたような気がし、あわててよれよ れになった|一張羅《いつちようち》の洋服のあちこちのポケットを掻き回してみた。  あのときは全く偶然であったし、それに、裕福そうな水木の姿にいかにも自分のみじめな生活 を見透されそうな気がして差し出された名刺を、ろくに見もせずにポケットに突っ込み、 (是非遊びに来てくれたまえ  )  といった水木の声を、背中に聞いて、逃げるように別れてしまったのだが  。  でも、幸いその名刺を失いもせず、くしゃくしゃになってはいたが、思わぬポケットの底から 拾い出すことが出来た。  ほっとしながら、鐵を伸ばしてみると、それには〈水木|舜一郎《しゆんいちろう》。東京都杉並区荻窪ニノ四〇〇〉 と新東京の番地が入って清朝活字で刷られた小奇麗な名刺だった。  寺田は、もういっぺん読みなおすと、すぐ決心をきめて青みどろの臭いのする藤棚の下を離れ、 六区を抜けて、電車通りに急いだ。  そして、幾度か電車を乗換えて、やっと荻窪へついたのはもう空が|薄鋤《うすぐろ》く|槌《あ》せた頃だった。  駅から道順を訊きながら、どんどん奥の方へはいって、小川を渡り、一群の商店街を過ぎると、, もうそこは、新しく市内になったとはいえ、ごく蹴らにしか人家がなかった。  寺田洵吉は、ふと|郷里《くに》の荒れ果てた畑を思い出しながらぐんぐん墜落する西日の中に、長い影 を引きずって、幾度か道を間違えた末、やっと『水木舜一郎』の表札を発見したときは、冷え冷 えとした空気の中にも、体中がぼかぼかするのを感じた。  彼は水木の家の北側の屋根が、ガラス張りになっているのをゆっくり見廻すと、幾らかの|蹟躇《ちゆうちよ》 と一緒に玄関の戸を押し開け、含んだ声で案内を乞うてみた。だが、誰もいないのか、家の中は 深閑として、なんの返事もなかった。  寺田はしばらく間をおいて、冷えてきた足を小さく動かしながら、もう一度、ムユ皮はいくらか 力をこめて呼んでみた。そして、耳を澄ましてみると、どこか遠くの方で、 (誰だ  )  という返事がしたように思えた。洵吉は伸び上がるように、 「僕だよ、寺田、寺田洵吉だ  」 「あっ寺田君か、よく来た。今ちょっと、手がはなせないから上がっていてくれたまえー」  そう返事をしたのは、矢っ張り遠い声であったが、確かに水木自身の声だった。  寺田は、汚い足を気にしながら、不案内の他人の家をうろうろして声のしたらしい部屋のドア を、ひょいと引いて、のぞきこんだ。 (お  )  寺田は、その瞬間、思わずドキンとして、心臓がグンと激しく喉元に押し上がったのを感じた。  無理もない。  正面の壁には、直径一尺もある大きな眼の玉が、精一杯に見開かれて、それが洞穴のような、 ゾッとする冷めたい視線を、彼の全身にあびせかけているのだ。  そして、白眼にからまった蜘蛛の巣のような血脈、林立した火箸のような|腱毛《まつげ》、またその真ん 中には、何かしらとてつもない恐ろしい影を写している虚黒な眸があった  。  洵吉は、一瞬も、面と向かって直視することができなかった。 .そして危うく眼を床に落として、息をついた彼は、すぐ次の壁に|旭大《ぼうだい》な脛を発見して、また驚 かなければならなかった。それは普通の四、五倍もある大きな、毛むくじゃらな脛だけが、天井 からぶら下がって、風もないのに、その脛の毛がむじむじと|縫《もつ》れあっているのだ。  そしてまた次には腕だけ、腹だけ、あるいは耳だけ、乳だけの、ずたずたに切られた巨大な人 間の各部分が、薄暗い空間に浮いて、音もなく|轟《うごめ》いているのだ。  そうしてそれらの蠕醐は、次第に力づいてくると、夕闇のしみこんだ部屋の中を乗り越えて、 寺田の周囲に泳ぎ寄って来るのであった。  彼はあまりのことに、力の抜けた体を、やっとドアにもたせかけた。 2  もし、そのとき、水木が、 「もうすぐだ、ちょっと、まってくれ  」  と、次の部屋から声をかけてくれなかったら、寺田は、当然、一目散にこの化物屋敷のような 水木の家を、飛び出していたに違いない  また、あとから考えてみれば、このとき、一目散に 逃げ出してしまっていた方が、寺田にとって、どんなに幸福だったかしれないのだが  。 「暗いだろう。ドアのそばにスイッチがあるから、つけてくれたまえ  」  また、次の部屋から、水木の声が、聞こえてきた。  だが、寺田は、その声を聞いても、まだ返事が出来ずに、それでも不甲斐なくガタガタ震える 手で、あわてて壁を撫で廻すと、やっとスイッチを見つけて、力一杯おした。  パッとかすかな音がして、部屋の中はくらくらするような光線に満たされると、洵吉が、二、 三度ま瞬ぎしている間に、あの空間に浮動していた巨大な手や、足や、唇どもは、壁に貼られた、 それぞれの引き伸ばし写真の中に吸い込まれて、"知らん顔〃をしているのであった。 (なんだ写真だったのか)  寺田洵吉は、これが水木の、悪趣味な写真だったのか、と見極めがつくと、やっと、ほっとし た気持になったが、それでもまだ胸の動悸が頭の芯に、ジンジン響くのを意識しながら入口のと ころに突っ立っていた。  1そうして待つ間、思い出すともなく、浮かんできたのは、中学生時代の水木舜一郎のこと だった。  洵吉の記憶では、もうその時分から『水木』と『写真』というものは不可分のものであった。  水木は家がよかったためか、田舎の中学生としてはぜいたくな写真機を持っていた。  そして初めのうちは同級生なんかを撮って喜んでいたのだがそれにも飽きると、今度は自分で 逆立ちをして写してみたり(おかしなことには、大苦しみをして逆立ちで撮った写真も、出来上 がってみれば普通の写真だった)、あるいはまた、毛虫をキャビネ一杯くらいに大きく写して、そ のむやむやとした、|毛《 ヤちも》むくじゃらな、醜悪な姿を見せて、級友達の気味悪がるのを見て喜んだり していた幼い美少年であった彼の姿  。  しかし、そんな思い出の中で、たった一つ、寺田自身も、 (こいつは傑作だ!)  と思ったのがあった。それは、水木が町の絵葉書屋から、いろいろな女優のブロマイドを買い 集めて来て・それを切り抜いたり・重ね合わせたり、複写したりして、口は東活纂肇撃、眼 は東邦プロの鶴漏卦i、耳は  、というように多くの女優の顔の中から、特徴のある部分だけ を取って、それで一枚の美人写真を、すこぶる巧妙に造り上げたものだった。  水木は、それをわざわざ教科書の間に忍ばせて来て、 (おい、これ誰だか知ってるかい  )  ともったい振って見せびらかし、『通』自慢の級友たちが、頭をひねっているのを見て、手をう って喜んでいた水木の姿。また、それを洵吉自身もちょっとのぞきこんで、そのあまりの整った、 創造された美人の顔に、思わずゾッとして冷たさを感じたことを、今、ありありと思い浮かべる のであった  。  そんなことを、ぼんやり考えていると、 「どうもお待ち遠  」  といいながら、水木が、この部屋の向う側にあったドアを開け、手にはまだ水のたれている乾 板をもって出て来た。 「この間は失敬、ずいぶん待たしちゃったね。写真はやりかかると、手がはなせないんでね 何をぽかんとしてんだい」 「うん、いや、なんでもないさー」  洵吉は、笑ってみようとしたが、どうも頬がこわばっているのに気がついた。だが、水木はそ んなことには気がつかなかったようで、手に持って乾板をのぞいてみると、寺田の眼の前につき 出しながら、 「どうだい 素晴らしいだろーこれはあの浅草の小川鳥子なんだぜ。やっと承知させて裸のや つを今日撮って来たんだ」 「小川  」 「小川鳥子といえば、今売り出しの踊り子じゃないか  」  洵吉も、ちょっと興味をひかれたので、差し出された乾板をのぞいてみたが、あまり乾板とい うものを見馴れない彼にはただ乳白色のバックの中に、真っ黒で、眼のはたや、口のまわりばか り白い、黒人のような少女が、|全裸《まつぱだか》のまま無作法な姿をしているだけのものであった。 「君、この鳥子が、珍しいさめ肌なんだぜ、すごいぞ  」  水木は嬉しそうに、口の中で、そんなことを眩くと、もういっぺん、その乾板をかざして見て から、 「今日はもう少し現像するのがあるんだ、一緒に来てみたまえ  」  そういうと、水木は今出て来たドアの方へ、洵吉を連れてゆくのだった。        3  その部屋は、小さな暗室になっていて、周囲には真っ黒い厚ぼったい力ーテンが重そうにゆる やかな|嚢《ひだ》をうって垂れ下がっている中に、小さい赤い灯が、ぼんやりと、いまにも絶え入りそう な弱い光の輪を描いていた。 「中学時代の友達っていうものは懐かしいね。全く久しぶりだからなあ、あ,の浅草で会ったなん て、実に偶然なチャンスだ」  水木は、いかにも懐かしそうに、そういって、ドアをばたんと閉めてから、赤灯のかげで、水 を測っては、白い器の中に、流し始めた。  洵吉は、その器用に動く、奇麗な指先を見詰めながら、 「うん、全く久しぶりだった。……君はなぜこう写真が好きなんだろう。学校時代も、有名な写 真気違いだったな  」  水木は白い器の中に卵色の乾板を入れると、ゆらゆらとゆらし始めていたが、この寺田の言葉 を聞くと、さすがにちょっと苦笑したようだった。でも、すぐ真面目な顔になって、 .「君、僕はこの|気分《 へ》が、たまらなく好きなんだよ。誰になんといわれようと、そんなことは、平 気なもんさ。見たまえ、このなんにも見えなかった乾板から、景色でも、顔でも、  ソラこう いう風に、影のように出てくるだろう。僕には二の気持がぞくぞくするほど、たまらなく嬉しい んだ。  このなんにも見えない乾板から、ムユ皮は何が出てくるだろう、と思う時の軽い(そして快い) 興奮は、君にも充分わかってもらえると思うよ。  とうに忘れちまった顔でも、搬一本違わずに、恐ろしいほど正確に現われてくるじゃないか 写真は五官を超越した神秘が、美しく絵をかたちづくっているんだ。僕はこの写真というもんに 溺れ切ってしまった自分自身を、かえってとても幸福なやつだと思っているよ」  そう眩くようにいっている水木の青白い顔は、赤灯の光を吸って、脳溢血患者のような、無気 味な色になって闇に浮き出し、あの、真っ赤な唇はここでむしろ緑色にさえ見えるのだった。    だが、そうして寺田も、この現像の操作を見ているうちに、あのつるつるとした乾板の片 隅に、ぼつんと薄暗い|汚点《しみ》が浮くと急にそれが、乾板一杯に広がって、不思議な影像を造つてゆ くときの、あのなんともいえない期待に、強い魅力を感じ、幾枚かの現像を手伝っているうちに、 彼もいつか水木と同じように写真によって始めて、胸の引きしめられるような、陶酔感を覚えて くるのだった  。  やっと現像が一とおり終わると、今度は焼付けをするはずなのだが、まだ乾板で水がぬれてい るので、ひとまず一服しよう、とさっき洵吉が青くなって驚いたあの異様な引き伸ばし写真が壁 一面に貼ってある部屋に出た。  あの真っ暗な闇の中であえぐ、赤灯の雰囲気は、いかにも弱々しいものだったけれど、それは たったあれだけの時間の中に寺田に未知の世界を知らせ、そして、洵吉自身の気持を急回転させ る|妖《あや》しい力を持っていた。  寺田はもう|微塵《みじん》も、それらの妖しい写真に、圧力を感じなかった。いやむしろ、その悪夢のよ うに繰り広げられた、醜悪な写真が眼にはいると、足早に近寄り、飽かずしみじみと見詰めるの であった。  その肌は|鴬大《ぼうだい》に拡大されて、一つ一つの毛穴が、まるで月面の天体写真を見るようであり、ま た、それからむくむくと生え上がったうぶ毛が、あるものはそびえ、あるものは肌にからみ、ま たあるものはその先が二股に分かれているのが、がらりと性格の変わってしまったような洵吉に は、なぜか、わけのわからぬ嬉しさを感じさせるのだ。  彼はもう水木のことも忘れ、壁に貼られた写真の高さにつれて、伸び上がったり、|屈《かが》み込んだ りして、なめるような観賞をほしいままにしてゆくうち、洵吉は、いよいよこれらの写真から音 もなく|葡《は》い出る妖しい波動に、シッカリと身動きも出来ぬほど固く、心を奪われてしまった。  それは全く、素晴らしい芸術の極致のように思われた。  ずたずたに切られ、夢のように拡大された頸、乳、瞬の中には、山も川も、森も谷も、そして 風の音も、すべてが|油然《ゆうぜん》と混和されて、ぞよぞよと息づいているのだ。 Il洵吉の激しい動悸が、シーンとした部屋のうちにひびくと、ぽつんと隈の方で、黙って寺 田の様子を見ていた水木は初めて薄く笑いながら、話しかけた。 4 「寺田君、バカに気に入ったようだな  。どうだい今日はもう遅いから、泊まって行かないか、 ここは僕一人だから気兼ねなんかないよ」  水木にそういわれ、はじめて、気がついてガラス越しに庭を見ると、妙に白けた月光の中には もうねっとりとした闇が|澱《よど》んで、真っ黒な風が、ガラス戸の外を、|蹌跟《よろめ》いていた。 「とにかく、もう遅いよ。よかったら叔父さんのところを引き払って、ここで手伝ってくれない か。そうしたまえ。君も、いつまでも叔父さんのところへいるつもりでもないんだろう、1写 真も好きらしいし、ちょうどいいじゃないか」  そういって、水木は、真っ赤な唇を薄く結び、返事をせかすように、洵吉の顔を見詰めるのだ った。 (叔父さん  )  その言葉を聞くと同時に、洵吉の眼の前には、あの鬱然とした長屋の片隅、赤ん坊の泣き声、 赤茶けて妙に足にこびるような畳、そして切り込まれたような陰影を持った叔父の顔…-が、連 絡もなく現われては散った。 「ウン! 是非助手にしてくれたまえ  」  洵吉は、水木の言葉に飛びつくように答えた。あの疲れ切った叔父のところで、気兼ねをしな がら、世話になるより、この金持の水木の家で素晴らしく魅力のある写真の手伝いをして暮した 方が、どんなにましかしれないと思われた。  こう決心した洵吉は、とうとうその夜は水木のところへ泊まると翌日は大急ぎで叔父のところ へ帰り、わけを話して少しばかりの荷物を受け取ると、それからは、すっかり水木の家へ腰をす えてしまい、二人がかりで奇怪な『影』の創造に没頭してしまったのだ。  それは事実、今までの洵吉には、想像もつかなかったほど愉快なその日その日であった。  水木と洵吉とは、蛇が蛙を飲み込む瞬間を、大写しにして喜んだり、あるときは『絞首台の死 刑囚」と題する写真を撮るために、洵吉が芝居じみた扮装をして、陰惨なバックの前で、天井か ら吊された縄に、首を|絞《くく》ってぶらさがり  馬鹿気たことには、光線の加減で、シャックーを長 くしたため、も少しで洵吉は本当に死んでしまうところだった  けれどその代わり、この写真 を焼付けてみると、正に死に落ちる瞬間の、ものす、こい形相が、画面からじわじわと滲み出て、 思わずゾッとしたものが、背筋を走るほどの出来栄えだった。 「すごいぞ、大成功だ  」  そういいながら、水木と洵吉とは、まだぬれている写真を奪い合うようにしてのぞき見ては、 手を打って喜び、部屋の中を踊り廻っていた。  こうした異様な写真を、彼ら二人は次から次へと、飽かずに作って、もう今ではその数も、非 常なものとなってきた。  ある日、水木はそれらを整理しながら、こんなことをいうのだった。 「ねえ、寺田君、こんな素晴らしい写真を、僕たち二人しか知らないというのは惜しいな。一度 どこかで、とても公開することは出来ないだろうけど  会員組織ででもいいから、展覧会をや ってみたいね。きっと驚くぜ、なかには卒倒するやつが出るかもしれないぜ  」  むろん、洵吉も、大賛成だった。 (なかには卒倒するやつが出るかもしれないぜー)  その言葉が、彼の胸の底の虚栄心をぶるぶる震わすのだ。 「是非やろう。いつがいいんだ  」  彼はもう|急込《せきこ》んで、水木の顔をのぞきこんだ。だが水木は、いかにも考え深そうに、 「いやすぐは出来ないよ。僕には前から考えている一世一代の大願目があるんだ。それを撮った ら、展覧会をやろう  」 「なんだい、それは」 「ちょっと、今はいえないんだ  けれど、それを撮りたいばかりに、今まで君に手伝ってもら ったようなもんだよ」 そんなことをいわれると洵吉は余計訊きたくてたまらなかった。 コ体何を撮るんだい、むろん僕はどんなことでも手伝うけど」 しかし、水木は、もう返事もしないで、写真の整理に夢中になっていた。 洵吉も、水木の横顔にひくひくと動く、(青白い、重大な決意)に押されて、口を|嘆《つぐ》んでしまった。  二、三日して、丁度乾板がすっかり切れてしまったので、淘吉は水木に頼まれて、駅の近くの 写真材料店まで使いに出た。  そして、いろいろな乾板を買い込んで、帰途についたが、なんだか水木の家で、変わったこ上 が起こったような予感がしてならなかった。彼は、いつとはなく足を早めていた。  黒い柔らかい土を、足早に踏んで、水木の家が、視界にぽっかり浮かぶところまで来、そして、 道を曲がった瞬間、あの採光用のため、ガラス張りになった屋根の半面が、きらりと光った。 (変わったことがなければいいが  )  ガラスの光る0は、ちょいちょい見るのだが、今日に限って洵吉は、フトそんな気持に襲われ た。なおも足を早めて、門をくぐり、玄関のドアを引いたとたん、 「おやっ  」 と、とうとう眩いてしまった。矢っ張り、彼の予感どおり、留守中に何か起こったに違いない のだ。  玄関の石畳には、水木の生活とはおよそ不釣合いな地下足袋が投げ出されるように、脱がれて、 |黄金《さん》色のコハゼが、薄暗い玄関の中に、ずるそうに並んで光っていた。  洵吉は急いで下駄を脱ぐと、 「水木君、水木君  」  と大きな声で呼びながら、家の中をうろうろと捜してみたが、その呼び声は、あたりの壁にシ ーンと吸い込まれて、水木の返事はなかった。  彼は、方々捜して、屋根裏(そこは、天井との間が広くとってあって、あの屋根のガラス張り になっているスタジオだった)のドアを、ぐいと開け、 (水  )  水木の名を呼ぼうとして、首を突っ込んだ、と同時に、あわてて、彼を制する水木の姿が眼に 入ったので、危うく、その声をのんでしまった。  だが、洵吉にも、すぐそのわけが分かった。水木が、あわてて制したのも、無理ではなかった。 水木の足元には薄い掃神一枚の若い、健康そうな娘が、のびのびと寝ているではないか  。  洵吉は、ちょっと、くすぐったい気持になって、忍び足に水木のそばに寄ると、そっと、彼の 肩をつついた。 「誰だい、君に女の友達が来ているとはしらなかった。  だけど、よく寝てるじゃないか」 「はッ、はッ、はッ」  水木はいきなり思いきった笑い声で、部屋の空気を震わせた。それはいかにも狂人のように不 規則な、馬鹿高い|咲笑《こもつしよう》だったので、洵吉は、思わずギクンとしながら、この女が眼をさましはし ないか、と心配したほどだった。 「寺田君、ヘンに誤解するなよ。この女は今日、たった今、会ったばかりなんだぜ。・--よく見 ろよ、死んでるんだ  」  洵吉は、その思いもかけぬ言葉と、緊振に歪んだ水木の奇怪な容貌に押されて、心少しで買っ て来たばかりの乾板を、取り落としてしまうところだった。 「驚かなくてもいいよ。この女は行商の女さ。  あいにく君がいなかったんで、一人でやっち まつたよ」  そういわれたとき、彼は、あの玄関にあった地下足袋のコハゼを思い出した。    それにしても恐ろしいのは、水木の巧妙な話術と、不思議に人を引きつける彼の魅力だ。 洵吉の知っているだけでも大分前のことだが、あの踊り子の花形で紡る小川鳥子を、たった二帽 三日口説いて、全裸の写真を撮らせ、今またこの行商の女を巧みに誘き上げて(まさか玄関で殺 ったのではないだろう)殺してしまったのだ。  いや、現に、洵吉自身ですら、たった一度、二、三時間の訪問で、すっかり水木の|捕虜《とりこ》となり、 彼の意のままに、奇怪な写真の創造に|欣《きんきん》々と、従う一個の|偲鶴《かいらい》となってしまっているではないか   0  ぼんやりと|仔《たたず》んだ洵吉は、考えるともなく、そんなことを思い浮かべてみた。けれど、 「さ、寺田君手伝ってくれたまえ  」  そう耳元でいう水木の声に、ハッと気がつくと、もう今までの考えは、煙のように、どこへと もなく樽瑠して、           . 「玄関にあんな足袋があると変だから、片づけなきゃいけないね そんな悪智恵をすら浮かべる、彼だったのだ。 」  それから洵吉は、水木のいうままに手伝ってその投げ出された行商娘の、儒神まで剥ぎ取って しまうと、スタジオの隣の物置にあった、大きなガラス箱(寺田は、前からこんなものがあるの は知っていたが、何に使うのか見当もつかなかった)を運び出して、彼女の死体を、まるでこ《ヤ 》|わ れ|物《ち》でも扱うように、そっとその中に寝かした。  そして蓋のガラスを閉め、縁をパテで詰めてしまうと、もういっぺん、つくづくと彼女の、赤 裸な姿体を見直してみた。  ガラスの箱の中に、のびのびと寝かされた彼女の様子は、まるで人魚の氷漬けのように見事な ものであった。ふさふさとした黒髪は、枕元に|葡《ま》い廻り、まだ色槌せぬ唇が、薄ぐ開いて白い歯 並ののぞいているのが、いかにも楽しい夢を見ているように思わせ、体全体の艶を含んだ小麦色 の皮膚は、むっちりとして弾力のある健康を惜し気もなく振り|撒《ま》いているのだった。  洵吉は、なぜとはなく、ホッと息をもらして、水木の方を振り返ってみた。水木は彼の溜息を きいたのか、にやにやと笑いながら、 「どうだい、素晴らしいだろう。僕もはじめ『今日は  』と入って来たときは、思わずハッと したよ。  前から求めていた理想的な体だからな。それに行商の女だからどこへ行っちまった んか、分からないだろう。実際絶好だったよ  」  そんなことをいうと、もう写真を撮る用意をはじめた。 「撮るのかい  だけどなぜガラスの箱なんかに入れるんだい。写真を撮るだけなら、殺さなく てもよかったんだろう  」  洵吉にはまだ、すべてが疑問だった。 「僕はこの体を見付けるためには、ずいぶん苦労したんだぜ。それが向うから飛び込んで来たん だ。  殺したわけ、それはねー」  水木は、ちょっと、言葉を|切《え》ったが、すぐつづけた。 「それはね  、ふ、ふ、この素晴らしい健康な肉体が、次第に腐ってゆく、その過程を撮ろう というんだ。驚いたかい。  このふっくりとした腹も、明日はぺこんと凹むに違いない、眼の玉の溶ろけてゆくところや、 股の肉のべろっと腐り落ちてゆくところを撮ろうというんだ。毎日.一枚くらいずつね、いつまで かかるかしら  」  この恐ろしい計画をきいた瞬間、さずがに今まで常人の想像もしないような醜悪な写真を手伝 っていた洵吉も、思わずグッと胃の中のものが、喉元にこみ上げて来て、軽い|眩量《めまい》を感じた。  このガラス箱の中の、健康な娘の死体から、いつか赤黒い腐液が、じくじくと滲み出し、表皮 がべろっと剥げると、そこには盛り上がった|蛆虫《うじむし》が  。藍紫色に腐った臓器や肉塊が、骨から ずるりと滑って、ガラス箱の底にどろどろと澱んだ腐汁になってしまう  。むき出された骨の 上を、列をなして|舐《な》め廻る蛆虫の|姦《うごめ》き、また、それに真っ赤な唇をぺろぺろ舐めながら、一生懸 命ピントを合わせている水木の姿  。  洵吉は、そんな|嘔吐《おうと》を催すような想像に、彼女の死体にはまだ死後硬直も来ず、そのうえ密閉 されたガラス箱の中に入れられていることを、よく承知しながらも、思わずムッと鼻口を圧迫さ れるような臭気を感じて、もうこれ以上、どうにもこの部屋にいられなくなってしまった。  彼は突き飛ばされるように、屋根裏のスタジオから駆け下りると下にきてはじめて安心した空 気が吸えるような気がした。  少しして水木が、平気な顔をして、いやむしろ希望に輝いた顔色を見せながら、下りて来た。  そしてまだ洵吉が、椅子に腰かけたまま、息をきらしているのを、|喘《わら》うように見ていたが、そ れでも友達甲斐に、コップに水を|汲《く》んできてくれた。 「寺田君、バカに驚いたようだね。  体は頑丈な割に、意気地がないね」  彼にそういわれると、洵吉はちょっと照れかくしに、汲んでくれた水を、がぶがぶ飲んで、や っと少し落ち着くことが出来た。 「水木君、一体、腐ってゆく女なんか撮ってどうするんだい  」 (俺はもう、ご免こうむるよ  )  洵吉は、少し言葉を強めて、訊きかえした。 「どうするって  、いつか君に話したろう。僕の一世一代の大願目の写真だ、題は『腐りゆく アダムとイブ』っていうんだ。どうだ、素敵な題だろう  」 「アダムとイブP」 「腐りゆくアダムとイブ、だ」 「イブはいいけれども、アダムはこれから見つけるのかい」 (また殺しを重ねようというのかー.)  淘吉は、なんともいえぬ、いやあな気持に襲われてきた。  だが、水木は、平然として、 「アダムはもう出来ているよ。アダムはずっと前から決まってるんだ。イブが見つかるまで僕の 手伝いをしてもらった人だよ  」 「えッ」 (それは、それは、この俺ではないか!) 「ふ、ふ、もう顔色が変わってきたな。僕は浅草で会ったときから君の『甲種合格』の体に惚れ ていたんだ  どうだい気分は、さっきの水の味がヘンだったろう  」 「水木、俺を殺すんだな」  洵吉は、大声で叫ぶと、水木につかみかかろうとして椅子をはね除けた。  だが、もう薬が廻ってきたのであろうか。体には全然力がなく、不甲斐なくも、そのまま床に |前倒《のめ》ってしまったのだ。  そして、大声で呪い、怒鳴っているはずの、自分の声も、淘吉の耳には、蚊の鳴くほどにもひ びかなかった。  彼は薄れゆく意識の中に、もう足の先が、ジクジクと腐りはじめたような気がしてきた 。