蘭郁二郎(らん・いくじろう)  一九一三(大正二)年、東京生まれ。本名・|遠藤敏夫《えんどうとしお》。東京高等工学校電気 工学科に在学中の三一(昭和六)年、平凡社版『江戸川乱歩全集』の付録雑誌 「探偵趣味」の懸賞に、掌編「息を止める男」で入選する。「探偵文学」の創刊 とともに本格的な創作活動に入った。三ハ年から科学小説を手掛け、翌年にか けて「小学六年生」に連載した、『地底大陸』で一躍人気作家となる。さらに、 「脳波操縦士」「地図にない島」「植物人間」『海底紳士』など、SFの先駆者と して作品を発表した。一九四四年一月、海軍報道班員としてインドネシアに向 かう途中、乗っていた飛行機が台湾の山に激突して死去。代表作は『火星の魔 術師』(国書刊行会)にまとめられている。  三六年に発行人となったこともあるだけに、「探偵文学」には積極的に作品 を発表した。曲馬団の少年の白日夢を描いた長編『夢鬼』は連載を途中で打ち 切っているが、後半を書き下ろし、三七年に古今荘から刊行された最初の著書 『夢鬼』に収録された。「シュピオ」では編集実務を担当し、のちに同人となる。 「探偵文学」と「シュピオ」にまたがって連載された『白日鬼』は、『孤島の魔 人』と改題され、四一年九月、大白書房より刊行。 し ---------------------[End of Page 2]--------------------- 白日鬼 蘭郁二郎 第一章 『ルージュ』の少女 一  私は、その日トテモ朗らかであった。  街路樹の葉は、|恰度《ちようピ》年の暮のカレンダーのように|遽《あわただ》しく名残惜しく、一枚一枚みち行く人の 肩に散りしきっていたが、それでも、晩秋-初冬の空はトテモ高かったし、陽ざしはまるで 春のように柔らかく暖かであった。  又、それにも増して、朗らかならざるを得ないのは、実は、久しぶりに私の原稿が売れたの である。私のような三文文士にとって、たまたま原稿が売れた、ということは、どんなに朗ら かならざるを得ないことかー、とまれ、久しぶりで|纏《まと》まった原稿料を握った私は、雑誌社の 玄関から|颯爽《さつそう》とぺーヴメントに足音を響かせながら、|銀座《ざんざ》の街を|闊歩《かつぽ》していたのだ。  初冬の陽は斜めにあったけれど、蒼宥は紺碧に澄んで、僕は若い。そして懐には珍らしく膨 らんだ紙入がある。 (これで美しいアミが私を待っていてくれたら、世の中は何んと楽しきところであろう)  私は、銀座の空に|讐《そそ》りたつビルディングの|縁《へり》を、曲芸師のように渡って見たいような、なん ともいえぬウズウズした気持で一杯であった。  然《しか》しこの喜びに興奮した私が、尚一層、モノスゴイ身動きも出来ぬ焦熱の増禍《るつぼ》の中に叩き込 まれようとは、|其《そ》の瞬間まで、夢想だにしなかったことなのだ。  そして、この事件は|漸《ようや》く散歩にも疲れた私が、フト、とある|銀《ちちち》座裏の喫茶店ルージュのドア ーを押したことに始まる。 × 123白日鬼  その日は恰度土曜日ででもあったのか、私のような生活をしている者には、まるで今日が何 曜日なのか、すっかり忘れてしまっているのだけれど、それにしても、ふっと、 (今日は土曜日かしら  )  と思わせる程、喫茶店ルージュのテーブルというテーブルは一杯であった。  当惑した私は、 (出直そうか……)  と思って、もう一度見渡した時、タツタ一ヶ所空いたボツクスをようやく見つけることが出 来た。  何気なく近寄って、身を入れようとした途端、私の見た方からは、陰になっていたが、そこ には、まだうら若い少女が独りポツンとコーヒーを|畷《すす》っているのであった。  その少女も、ハッとしたようであったが、私も、 (ナンダ)  と思ったと同時に、お恥しい話だけれど、ドキンとしたのである。  (スゴイ……)  思わず、立止まってしまったのである。  私は、極めて物静かに、彼女と向合いの椅子に腰を下すと、改めてさり気なく彼女を観察し て見た。  一言にしていえば、私の「夢の中の恋人」であった。私が日頃、小説を書きながら私の扱う 麗人、それは|何時《いつ》とはなく頭の中で発酵し醸成されて一個の完全な女性の姿を形づくっていた  …ソレが、今、現実に私の眼前に置かれたのである。 (コンナ暗合があろうか  )  私は、しばし、呆然とした気持であった。  その洗練された洋装の|厭味《いやみ》のないモダーンな中に、たまらない優し味を持ち、そして又、理 智的な瞳は何ものにも犯かされぬ高嶺の花のように露を含んでいた。  妖しいまでに完成されながら、少しも冷めたさのない柔かい|萌《はなぴら》のような彼女を私はナント形 容したらよいのであろうか。  彼女が、まだ私の頭の中にいる時は、色々の角度から彼女を批評し、紹介して来たのだけれ ど、その私の偶像が|忽然《こつぜん》と目の前に現われた今、私は形容の|詞《ことば》を全然喪失してしまった。  ただ私は彼女の美しさと優しさに、心底から叩きのめされてしまったのだ。 (すごい……)  タダそれだけであった。  私の何気なく観察していた眼は、何時か|舐《な》めるような視線に変っていたのであろう、前から 時々、厭な横顔を見せていた彼女は、たまり兼ねたのか、 (厭な奴!)  とでもいうように、ふいと立ってさっさとレジスターの方へ歩み去ってしまった。  私ははっと現実に呼戻されて、テレ隠しに冷えきったコーヒーを、がぶり、と一口飲んだ時 であった。フト、彼女のいた椅子の傍に、揉みくちゃな紙片を見付けた。  手にとって、鐵を伸ばして見ると、 125白日鬼 父上は危機に|曝《さしリ》されています、 解決はただ一途、五時にルージュにて、 同行者、他言謝絶。 とだけあって、ありふれたザラ紙に鉛筆の走り書きであった。  もう一度読みかえしてみたが、さっぱり訳の解らぬ文句ではあったが、 (アンナ美しい少女にも、何か暗い裏面があるのかー)  と思うと、私のロマンチズムは|優《はか》なく崩れて、たとえようもないいやあな、|淋《ちちヘヘ》しさを覚えた。  だが、それも一瞬であった。 (これを届ければ、或は彼女と話が出来るかも知れない) (タッタ一ことでも……)  と思いつくと同時に、あわてて入口の方を見透かしたけれど、もう彼女の姿はなかった。  私は急いで伝票を|握《つか》むと勘定を済ませ、漸く日の落ちた|遽《あわただ》しい銀座の街へ飛び出し、忙しく |四辺《あたり》を見渡したが、もう彼女の美しい姿を二度と目に入れることが出来なかった。 (遅かったか……)  私は、深い失望を味いつつ、未練がましく幾度も人通りの激しい往来を見直してみた。  晩秋の銀座街はもう|薄黒《うすぐろ》く暮れかかって、空に残った|茜《あかね》を写すようにネオンが震えだし、あ の銀座特有のねっとりした羊嚢色の闇が、もう何処からともなく覆い被さって来ていた。  私はグッと両手を上衣のポケットに突込んだまま、外套の欲しさを覚えながら、あてもなく ネオンの街へ歩きはじめた。  |先刻《さつき》までの朗らかさを、すっかり喪失してしまった私は、ほろ苦い|慢欝《ゆううつ》な酒を含みながらも、                                  さがずき ともすれば、又生々しく甦がえって来るあのボックスの少女の姿を、フト、盃の中に泳がせる のであった……。  さて、私が狂騒なネオンの街から抜け出して、肌寒い風を|熱《ほて》った頬に快よく感じながら、|鍛 冶橋《かじまし》を渡って、深閑としたビルディング街の方へ、当てもない|彷僅《さまよ》いをはじめたのは、もう大 分、夜も更けていたに相違ない。  そこには澄みきった黒の世界があった。  私は深夜難谷のように|從耳《そそ》りた2局|度《か》の立並んだ物凄い静けさの中を、独りあてもなく|歩《ちち》き廻 るのが、いつからとはなく好もしいものとなっていた。  この沸きあがるような騒然たる大都会東京の真ん中のその又真ん中に、こんな深閑とした一 画があろうとは、一度実見せぬかぎり想像も出来ぬことだろう。  昼間のビジネス・センターであるだけ、深夜の静けさは、却って絶え入るほどの物凄い寂し さの底にあるのだ。  真黒な冷めたい石の建物は、四方からのしかかるように|立軍《たちこ》め、その僅かな隙間を拾って右 往左往する蒼黒い疲れ果てた道は、|悪血《おけつ》のように滲んだガソリンの|汚点《しみ》をのせて、ぐったり《  ちち》|と 倒れているのだ。そして所々にある地下室への入口は、その|儘《まま》地獄への通路のように、深刻な 淋しさをもって、ポッカリと黒い|陥穽《おとしあな》を見せている。  その目も眩むような巨大な建物の下を、独りぽつぼつと歩いて行くと、|不図《ふと》足を止めた瞬間、 建物同士の囁きが、ぼそぼそと聞えて来るように思われるほど、モノスゴク静かな、モノスゴ ク虚無な、黒一色の世界である。  時々、たわむれな星共が隙見する外、この世の中に棲息するものは、この私一人である……。  といった気持が、私の心の中の虚無的な気持と同居したロマンチズムを、|甚《はなは》だ満足させてく れるのであった。  それで、私は何時からとはなく良くこの暗黒横丁(と自分で名付けていた)を彷僅いながら、 |纏《まと》まらぬ考えを纏め上げるのが習慣となっていた。  今日も、来るとはなく、その道へ来かかりながら、頭の中に|轟《うご》めくのは、ただ、あの『ボッ クスの少女』の姿であった。  今迄、こんなに胸を打つ女性1というものを経験しなかった私は、 (なんだ、アンナ奴。どうせ|砥《ろく》な奴じゃなかろう)  ……あの妙な紙片から、私はあの美しい少女(実は闇の女であろう)と訳のわからぬ呼出し の手紙を書いた脂ぎった四十男の|淫狸《いんわい》な姿を想像し、ペッと唾をはき捨てるのであった。  だが、 (でもあの少女は、決してソンナ女じゃない、何か|意味《わけ》があるに違いないー)  とも思い返して見るのだ。  こんなことを、私は幾度も幾度も繰りかえし、考え直しながら、その暗黒横丁を行手を失っ た蟻のように、行きつ戻りつしていた。 (ナンカ訳があるに違いないi) (彼女は天使のようであった……)  彼女の美しさは、遂に私から「疑い」の気持を叩ぎ落してしまった。むしろ、彼女を一時で も疑ったことは、恐しい冒漬のようにも思えて来た。 (これ程、私を心そこから打ち|前倒《のめ》した少女……一体、彼女は何者であろう)  私は、|鳴《ほ》っと溜息を捨てた。私の|熱《ほて》った頭は妖しく混乱してしまうのだ。  |四辺《あたり》には、誰も人影がなかった。タッタ一度、巡回の警官が、私の顔を覗き込むようにして 通り過ぎて行ったが、幸か不幸かこの暗黒横丁では私は顔馴染の常連であったので、別に私の 思索は乱されなかったけれど……。 二  突如、 「ダン……ン」  と、一発の銃声が、私をこの世の中に呼戻した。  昼間であったならば、或は世間のざわめきに消されてしまったかも知れないけれど、 |無沼《なしぬま》のように|澱《よど》んだ空気は、その一発に激しく掻き乱された。  その音は、私の行く手にあるビルディングの三四階あたり、と思われた。 この|底《そこ》  ハッとした私は、|腸《こゴむ》ようにして、闇を|透《す》かして見たが、四辺には依然として人影もなく、も う、何ごともなかったような空気が、しのび寄ろうとしていた。  なお、耳を澄ますと、向う側から|侃剣《はいけん》の音を足にからませながら、警官が馳けて来る気配で あった。  私も、思わず無意識に馳け出した。  警官と私とは、|殆《ほと》んど同時に、そのビルディングの入口に馳けついた。  暗がりを透かして、入口を仰ぐと、『第百ビル』とブロンズの標字が、薄く浮き出して見え た。  私も警官も、無言であった。  入口は真暗だったけれど、|鎧扉《よろいとぴら》は半分程上に捲き上げられて、覗き込むと、突当りにはエ レヴェーターが見え、その傍には階段が横縞のように浮んでいた。  それも一瞬であった、直ぐ警官がエレヴェーターの|釦《ポタン》を押すと、ポッとランプが点いて、 |自動昇降機《オ トマツト リフト》の籠が、ゆるやかに降りて来る様子であった。 『僕、階段から行ってみます』 『うん、三階らしい』  と警官のいった言葉を、背中に聞いて、私は階段を精一杯に馳け上った。  真暗な階段を|蹟《つまず》きながら、三階まで馳けつけた時は、|恰度《ちようど》エレヴェーターで警官が上りつい たのと同時であった。  不案内の廊下に立って、四辺を見廻すと、闇に馴れた目には、向いの部屋だけが、ほんのり と薄ら明るかった。近寄ると、  「|兜島《かぶとじま》新興株式会社」  とドアーの|摺硝子《すりガラス》に金文字が浮き出していた。  警官が、そのドアーを念の為、押して見たが、ビクともしないようであった。 (何んだろうP……)  と闇の中で、私とその顔見知りの警官とが顔を見合せた時、四階の方からコツコツコツと足 音がして、白っぽい着物を着た男が、闇に浮き出すように下りて来た。  私と警官とは、ハッとして身を固めた。  だが、直ぐその男は小使だ、と気付いて、|鳴《ほ》っとしながら、 『おい、何んだ1』  と警官が鋭く訊きかけると、その男は、 『ハッ、何んでしょうか……』  と矢張り不安気であった。 『誰も居ないのか』 『へえ、上まで行って見ましたが、……どうもここのようでi』  といいながら、「兜島新興株式会社」と書かれた部屋を指さした。 『鍵を持ってるか』 『へ》え・:・:』  とその男は、大束な鍵の中から、合鍵をさがしながら、 『何んでしょう……今頃』 (厭になってしまうー)  とでもいうように、ヤケに鍵束を鳴らしながらドアーを押し開けた。  先ず警官が、夜目にも判るほど身構えをして、中を覗きこんだ。部屋の中は、真暗で深閑と していた。鼠一匹も飛出さなかった。  恰度、真向いの窓から、遠く銀座の商館からの照明がもれ込んで来て、薄ら明るく見せるの であった。 『電燈を点けろ』  小使が手を伸ばすと、パッと音がして、瞬間、眼も|眩《くら》むような光の中に、部屋全体が浮き出 された。 『おッ:::』  三人とも同時に低く坤いた。  】番奥の大型のデスクと椅子との間に、鼠色の洋服を着た|恰幅《かつおく》のいい男が、崩れるように《 》|の めり込み、気のせいばかりでなく、確かに手にはピストルが鈍く光っているのさえ見えた。そ してその男の前の机の|抽斗《ひきだにし》は乱暴にあけられ、床の上にも書類らしいものが散り棄てられてあ った。  私は唖然としながらも、つい二一二歩近寄ると同時に、グッと警官に引戻された。 『こらっ、側へ寄っちゃいかん』  といいながら、小使の方を振り向いて、 『直ぐ、本署へ知らせて来い』  と|畷鳴《どな》るようにいった。小使の足音が、だんだん遠ざかって行くのを聞きながら、私と警官 とは、しばし、ポカンと突立っていた。  その部屋は十坪ばかりの貸事務所で、五六脚のテーブルと衝立に仕切られた小さな応接間と から成っていた。  真白い壁には、鮮やかなポスター・カラーで|彩《いろど》られた「兜島新興株式会社」のポスターが吊 され、突当りの、男の倒れている向うは本棚になっていて部厚な本が、艶々とした背皮を|並《なら》べ ていた・机の上には如何にも事務所らしく色々の帳簿が、齪ピげな金文字を光らせてならんで いた。  その一番奥の、机と椅子との間に|落崩《おちくず》れた男は、こちらからは顔は見えなかったけれど、濃 鼠色の洋服を着た小肥りの中年紳士らしく見えた。私には気のせいか、最初見た時よりも、そ の無器用に突出された手の先が、青白く変って来たように思えた、もっともこれは私だけの気 持かも知れないけれど……。 『君』  と警官に呼びかけられて、私は、ドキンとして振向いた。 『君、ここに来るまで、誰も見なかったかね・…-』 『さあ、誰も、気がつきませんでしたね……ハッと思 って、耳を澄ませたんですが、足音もしなかったよう でー』 (ふん、俺も見なかった)  というように警官は|頷《うなず》きながら、 『自殺かなー』  と眩いた。 『兜島1って、あの、今有名な奴ですか』  ともうすっかり|微酔《ほろよい》を忘れてしまった私は、今度は いろいろと好奇心が湧いて来るのだ。 『うん、そうさ』  警官は|無切棒《ぷつきらぽう》に答えた。 (兜島といえば……)  私は一ト月程前、各新聞に書きたてられたこの島に 関する記事を想い出すのであった。   伊豆兜島の身売り 一大歓楽境の建設 島人も既に略承諾済  といったようなトップ四段ヌキ位の見出しのもので私も、 (こいつあ、面白そうだ)  と思ったことなどを、今又思い出すのだった。  その計画は、もう誰でも知っていることだろうけれど、一島全部を買収して、国際的なあら ゆる娯楽設備を設けようという、私のような物好きな男には、誠にうッてつけの計画であった。 (うまいことを考えたもんだ、|屹度《きつと》儲かるぞi)  と羨ましくさえ思って見たものだが、新聞記事だけの知識の私には、もうそんな所に事務所 を持った、株式会社が出来ていようとは、今、はじめて知ったことであった。 『社長は誰ですか』  と私は沈黙を破って、警官に聞きかけた。 『社長ああ|海老澤達爾《えびさわたつじ》氏さ』 『ああ海老澤さんですか……』  と返事をしてしまってから、名前だけ何処かで聞きおぼえた実業家を、思わずさん付けにし て呼んだことが、フト何かしら恥かしくなった。 『君は知ってるのか』 警官は手持無沙汰な顔を、私の方に向け直した。 『イヤイヤ別に知っている、という訳では……』 私は思わず図星を指されたようにドキンとした。 警官は、 (何んだー) といったような不機嫌な顔をして、 『何時頃だったかね、音がしたのは』 『さあ、今十二時を少し過ぎてますから……五分位前だったでしょう』 私は懐中時計を眺めながら、こういいつつ、 (もう十二時を過ぎたのか) と思った。 『すると、ほぼ十二時、という訳だナさ』 『そうですね、その見当でしょう』 と私達が話しているところへ、小使が、又上って来て、 『直ぐ、来られるそうで……』 と告げた。 警官は、今度は小使に向って、いろいろと訊きはじめた。 『この人を知ってるか』 小使は、確かめるように背伸びをして(倒れた男の方を覗き見、 『海老澤さん……でしょう』  といった。 『海老澤!』  なかば、予期していたことではあったが、私と警官とは、ほとんど同時に、低く叫んだ。 『海老澤さんは何時も、こんな遅くまで事務所にいるのかね』  と警官がいうと、小使は、 『いえ、このビルは全部貸事務所になってまして、遅い会社でも六時には電話の交換手が帰る ので終ってしまいます。ここなんか四時半頃には皆さん帰られるようで…-・』 『下の入口の扉は君が開けたのかね』 『は、そうで、今晩に限って十一時頃海老澤さんから御電話で、ぜひ必要なものを忘れたので 取りに行くから、済まないが入口だけ開けておいてくれるように……と頼まれましたので』 『フン、その時の電話は海老澤さん自身だったろうね、別に変なところはなかったかね』 『いえ、別に……』 『海老澤さんは、独りで来られたのかい』 『さあ、実は、私も無用心ですから海老澤さんが御帰り次第、直ぐ扉を閉めようと思ってお待 ちしていたのですが、なかなかお見えにならないし、寒くなりましたんで、実は、一寸、部屋 で火にあたって居りますとあの物音なんで……。  大急ぎで三階まで馳上って見ましたが、四辺が真ッ暗なので、念の為、四階から上の方も気 をつけて見廻ってみましたが、その時は別に何んでもありませんでした……で、又下りて来ま したところで、恰度あなた方とお会いして……』 『君が、音を聞いてから我々に会うまで、どの位だったかね……時間は』 『そうですね、五六分……というところでしょうか、何しろあの音がしたのが、丁度私の部屋 の柱時計が十二時を打ち始めて、一ッニツと四ツ五ッ勘定した時だったんですから、これは間 違いありません……(もう十二時か、海老澤さんが来られたかどうか、見て来よう)と思った 時ですから』 『うん』  警官は軽く|頷《うなず》いて、 『海老澤さんという人は、何かこう最近困ったことがあるような様子はなかったかね』 『さあ、私共には一向II』 『警官。海老澤さんは、殺されたんじゃないですか』  私は、思わず口をはさんだ。 『何ぜ』  警官は鋭く反問した。 『なぜって、これという訳はないんですが、……唯、そう思われるので』  私の頭の中では、 (|屹度《きつと》、兜島のことで、誰かから恨みを買ったに相違ない)  と思われた。それは「兜島新興」という非常に思い切った、派手な、センセイショナルな計 画の実行者であっただけに、そのハデな裏には、ともすれば執拗な、思想的な反対者が、想像 出来ぬことでもなかったから……。 『君、あんまり軽はずみなことをいっては困る』  警官はたしなめるように、私の言葉を押し戻した。  そして、私も黙ってしまうと、暫らくは、三人顔を見合せた儘、白々しい沈黙に落ちた。 三  私が、手持無沙汰から、火をつけた煙草が、半分ほど灰に変った頃、下の方から数人の気配 がして、|臆《やが》てドヤドヤと警察署の人が、階段伝いに上って来た。  こういう事件に、全然無経験な私は、こんな際、警察署からどういう人が来るのか、まるで 知らなかったが、上って来た人は、背広の洋服を着たのが二人と、官服の警官が一人であった。  私服の二人は刑事であろうか。気のせいか、鋭い視線を私の全身に浴せかけると、無言で死 体の方へ歩みより、何か細々しく調べていたようであったが、間もなく入口に立った我々の方 へ戻って来て、 『君は』 と私に呼びかけた。私はとっくに|覚《ちちヤ》めてしまった|微酔《ほろよい》のあとに来る寒々とした気持に襲われな がら、 『私、私はこういうもんです』  と紙入から一枚の名刺を抜いて、その刑事へ渡した。 河  村  杏 二  刑事はその名刺を読み下すと、裏をかえして住所を刷った七号の小さい活字を、 見た。そして、 『職業は』  と聞いた。私は、この訊問されるような調子を、甚だ不愉快に感じて、 『著述業』  と|無切棒《ぷつきらぽう》に答えた。刑事は、そんなことに頓著なく、 『今頃、なんか用があったんかね』 『別に用なんかありません、散歩するのは私の自由でしょう』  といくらか不愉快気に答えた。 闇にすかし 刑事は、 『ふん』  と鼻をならして、最初からの警官と、何か曝きあっていた。 私はこの不快な空気から、一刻も早く|遁《のが》れたい気持であった。 『じゃ、私は帰りますから……』  というと、 『一寸、待って』  といいながら、又ボソボソ耳打ちをしていたが、 『住所は|名刺《これ》に間違いないね、若し用があって呼んだら、直ぐ来てくれなくては困るが…・-』  と漸く私を解放してくれた。  私は逃げだすようにビルディングを飛出した、妙な自殺男の為に、折角のあの「ルージュの 少女」の幻を打壊わされたのが、大損をしたように思われたのだ。  私はもう暗黒横丁の散歩もやめて、その儘アパートまで円タクを乗りつけた。  さて、部屋の鍵をかけて、 作ノートの裏をはぐって、 寝ようとしたが、なぜか目が冴えざえとするのであった。私は創 ×月×日 苦心の「愁の雲」文学新潮に。 帰途銀座ルージュにて素晴らしき少女に逢う。その少女の|如何《いか》に佳人であったことか、形容 するに|詞《ことぱ》及ばず。|暗黒横丁《ち ち 》にて奇怪な自殺男あり、「兜島新興株式会社」の海老澤社長の由、 引合いにされて迷惑千万。気分を壊すこと甚だし。 私は書終ると、ペンを放り出し、 (良いことの次には、厭なことが起るもんだなー) と独り眩いた。 第二章 奇怪な殺人 一  翌朝、私は目が覚めた儘、暫らくはなま暖かい床の中で、うつらうつらとした気分を楽しん でいた。別に早く起きたからといって、勤めに出る訳でもない私は、結局、思う存分に寝覚め の陶酔を味わうのが、あまり感心したことではないが、毎日の習慣となっていた。 (ルージュの少女……)  フト、考えるともなく浮んで来たのは、きのうの少女の姿であった。  一睡の後の私には、なお、生々しく彼女の姿態が甦って来るのであった。 (ルージュに行けば、又逢えるかも知れないぞ)  現金ながら、私は直ぐ床を脱け出したものの、何気なく見た時計は、まだ、十時にまでしば らくの間があった。 (こんな早く行ったって……)  私は、午前中の銀座がドンナものだかに思い及ぶと、少々がっかりし、所在なく部屋の中を 二三回歩き廻ってみたが、なんだか落着かない、なんだかせわしない、|苛《いらいら》々とした気持が、い や増すばかりであった。 (これが恋というものであろうか)  今迄、左程にも思わなかった恋というものが、こんなに他愛なく生れ、こんなにセッパ詰っ たものであろうとはー。思い出すまい、としてもいつか思いに落ちている私であった。  ……無意識な私の目が、ドアーの隙目から投込まれて、床に平べったくのびている朝刊に気 づいた。 (海老澤氏は……)  少女のことばかりに考えを奪われていた私は、新聞を見ると同時に、暗黒横丁の出来事を思 い出した。 (出ているかなー)  と、まっ先きに社会面を拡げてみると、 深夜・ビル街の事務所で  海老澤達爾氏の怪死 という二段ヌキの見出しが目に飛込んで来た。 (|遺《さすが》に、早いもんだナ)  と思いながら、一気に読んでみると、大体私がきのう体験した通りであったが、要点は、十 二時頃、突然一発の銃声が海老澤氏の事務所で起ったので、小使と折柄巡回中の警官とが飛込 んで見ると、海老澤氏はピストルを握った儘、心臓部に受けた一発で絶命していた。なお、不 審の点があるので死体は解剖に附す筈というのであるが、私の居合せたことには一言も触れて いないし、なお不審の点がある云々というのが、私には不安に思われて来た。 (つまらぬ引合いにされなければいいが……)  それが、遂に|杞憂《きゆう》ではなかった。  朝食を済ませ、私には最上等の茶のダブルに着かえて、さて、ぶらぶら歩きながら、銀座へ 出て又ルージュヘ行ってみようか……とドアーへ手をかけた、と同時に、外から力強くドアー を押し開ける訪問者を感じた。 『誰ー』  返事のかわりに、その男が這入って来た。 『どなたですか』  私は詰問するようにいった。折角の外出を、こんな男に乱されるのが|癩《しやく》であった。 『|河村《かわむら》、|杏二《きようじ》さんですね……』  その男は平然と私の前に立ち|閉《ふさ》がって、私の肩越しに部屋の中を一瞥してから、|徐《おもむ》ろに 警視庁捜査第一課 警部鷲  尾 匡  平  と書かれた大型の名刺を、太い指先きでつまみ出すようにしながら、私に渡すのであった。 私は、もう一度読みかえして、 (なんだろう……)  とか、 (警部殿がわざわざ来るなんて、よっぽど重大なことかな-….)  とか、 (海老澤氏のことだな……)  とか、色々なことが、一遍に頭の中を馳廻るのを意識しつつ、ポカンとしていた。 |鷲尾《わしお》警部は、私のポカンとした顔を見て、にっこり笑いながら、 『河村さん、一寸御足労願います』  それだけいうと、クルッと向うを向いて、コツコツと歩き出した。 私は、その肩巾の広い、がっしりした|体《ヤ ちヤ》が濃紺の洋服に包まれ、.精力的な|毬栗《いかぐり》頭がゆるやか にゆれて行く後姿に見とれながら、|追《つ》いて行くより仕方がなかった。 二  警視庁の前で円タクを乗棄て、石段を上ると、直ぐ右へ折れて、あまり日の射さない、寒々 としたコンクリートの廊下を、ニツ三ツ曲って、同じような部屋の、ズラリと並んだ廊下へ出 た。  私は遅れないように、足早について行くと、右側の「鷲尾警部」と白い字で書かれた名札の 掛った部屋へ、黙って這入って行った。こんな場所へ、はじめて来た私は、自分自身少しも後 暗い気持はないのだけれど、でも、何んとなく落着かぬ気持であった。  続いて這入ってみると、その部屋は寸づまりの四畳半位で、一番奥の正面に警部のテーブル があり、其の傍に山と積まれた書類棚があった。その外、部屋の入口にテーブルが一つ、あと はこの狭い部屋一杯に、如何にも堅そうな禿ちょろな長椅子と、数脚の丸椅子とがあって、ほ んの歩く所だけが、僅かに残っていた。  その入口のテーブルでは一人の若い背広を着た男が、力ーボン・ぺーパーを使って、何かし きりに書きものをしていたが、私達には、目もくれなかった。 『さて……』  と小さく眩いた警部は、机に頬杖をつくと、 『まアお掛けなさい』  と私に椅子をすすめるのであった。  私と警部とは、|疵《きず》だらけの机をはさんで、向い合った。 『ゆうべのことですがね、一寸、面倒なことになって来たので、お出で願った訳です……一寸 電話でもすればよかったんですが、恰度あちらへ行く用事があったんで、|序《ついで》におよりしたんで すが……』  とその警部は、様子に似合わぬ如才ない、優しみを持っていた。私は、 (近頃の警部は、ひらけたもんだナ)  と思ったり、この如才ない警部が、前からの知人ででもあったかのような心安さをさえ覚え て来た。 『一体、どんなことなんですー』  と私から聞きかけた。 『実は困ったことにゆうべの海老澤氏が解剖の結果、どうしても他殺としか思えないんだ…… あなたも恰度居合わせたそうだから、いろいろお聞きしたいと思うんで……』 『へえ、矢張り、殺されたんですか、どういうところから解ったんですか』 『それは』  警部は、大きな体を一ゆすりすると、 『それは自殺か他殺かハッキリしなかったんだが、海老澤氏のお嬢さんが脅迫された事実があ るし、それに、解剖して見ると、胸の盲管銃創の中から出た銃弾が、海老澤氏の持っていたピ ストルと、どうしても口径が合わないんだ……』  こういいながら警部は、私の顔を覗き込むように見守って続けた。 『……ということは、とても変な話で、海老澤氏のピストルも一発打った形跡がありながら、 肝腎の銃弾が、まるで違うピストルから打たれたことになってるんだ……君はこれをどう思う ね』  気のせいか、警部の語気は、だんだん激しくなって行くように思われた。 『どう思うって……ソンナ妙なことが、あり得るでしょうか。とに角、私はあの時タッタ一発 しか銃声逢聞かなかったし、それに直ぐ馳けつけたんですが、全然人影なんか見えませんでし た』 『皆、そういうんだ、だが実際他殺としか思えないんだから仕方がない』  警部は投げ出すようにそういった。  学生服を着た給仕が、私達のところへお茶を持って来た。私はそれを畷りながら、警部のが つしりした肩越しに、窓の外を眺めた。恰度窓の外は電車道を隔ててお濠端になり、黄を帯び て来た芝生のスロープが、|亭《ていてい》々とした松と一緒に、お濠りに影を写して、ひたひたとゆれてい た。街路樹の銀杏が、降るように晩秋の葉を散らしていた。  私の頭は熱っぼく回転していたが、こんな奇々怪々な事件へ、突然直面して、解決の手掛り どころか、憶測すらも浮んでは来なかった。  タッタ一発の銃声で海老澤氏が|驚《たお》れ、海老澤氏の撃った銃弾と、受けた銃弾とは全然違って いるー。 『では、海老澤氏は何処か他で撃たれて、あそこへ運ばれて来たんじゃないですか』 『でもそれなら他で殺されて来たものが、なぜあそこでピストルを撃って音を立てる必要があ ったと思う……それに、運んで来たのなら、その運んで来た男は何処から帰ったのか、……音 がすると同時に小使が飛出し、直ぐ又君と警官とが下から上って行ったのだ、階段とエレヴェ ーターと二つしかない逃道を、完全に閉がれてしまって、一体、ドコヘ行ってしまったと思う ねi』 (コンナ妙なことがあろうか……)  犯人は蒸発してしまったのである。 (私達の目に見出だすことの出来ぬ力を持った男が、私達の周囲にいたのである)  私は思わず|榛《ぞ》っとした。と同時に、あの警官はさて|置《 ち》き、私と小使とが重要な嫌疑者ではな いか、も一つ進めて、小使はあそこの番人である……と考えれば、用もないのに、深夜あんな ビル街を|迂路《うろ》つき廻っていたこの私こそ、第一、然も最大の嫌疑者ではないかーと思い及ん だ時、今更ながら、愕然としてしまったのであった。 (これはいかん……)  次に私は焼けつくような焦燥を感じて来た。 (私のアリバイを証明せねばー)  私の頭は、又もや激しい混乱に|墜入《おちい》って来た。 (|落着《おちつ》かなければいけない) 何処かでそんな声を聞きながらも、体全体は、ぽーっとあがり気味であった。 『然し、然し私はナンの関係もないんです。音がした時は、遠くにいたことを警官は知ってら れるでしょうし、それに、小使さんがスグ上って行った、という後から、私は行ったんで、決 して私一人があそこに居合せた訳じゃないんですから…-とに角、全然無関係です、絶対私の 知らないことです』  私は、暫らくの後、漸く|問《つか》え問えこれだけ弁解することが出来た。 『それはよく解っています』  鷲尾警部は私の苦心の弁解を、軽く聞き流して、 『あなたがあのビル街を夜更けに歩くことは、今度ばかりでなく、前からだっていうことも、 巡査と一緒に、アトから行ったことも、すっかり解ってますよ、何もあなたを疑っている訳じ ゃありません、ただ重要な参考人だ、という丈ですよ:…』  こういって、にやりと子供っぼい笑顔を、見せるのであった。  そういわれながらも、私はまだサッパリとした気持にはなれなかった。 (重要な参考人、だなんて……)  私は、こんな思いを度々しなければならないのか、と思うと、どうにもやりきれないなさけ なさを感じた。  私が腐りきって、ぼんやりとしていると、机の隅にあった卓上電話機が、ジリジリジリンと、 押し潰されるようになった。  警部が、 「ふん、ふん、じゃこちらへ来るように……』  といっているのを耳のはしに聞いて、硝子越しの蒼空に、あれこれと想像の雲を飛ばしてい た。         三  |鰭《やが》て、コツコツと柔らかいノックの音がして、この殺風景な部屋の中に、花束のような明る い感じを与えながら、一人の若い女性が這入ってきた。  一眼見たとき、私は、 (アッ!……)  と思わず驚きの叫びをあげるところであった。 (ルージュの少女ではないか)  私は自分の眼を疑った程であった。 然し、いかにもそれは、あの「ルージュの少女」に違いなかった。あの素晴らしき少女に相 違なかった。  彼女の方でも、私のどこかに見覚えがあったのであろうか、一寸・目礼をして警郎の前へ進 んで来た。  私はあわてて立って彼女に椅子を譲り、私はその傍へ腰を下した。 (一体、ナンで来たんだろう) (こんなところは普通の少女の来るところではないのに……)  私がそんなことを考えている中に、彼女と警部とは既に顔見知りであったと見えて、簡単な 挨拶から、直ぐ用件にはいったようであった。  私はそっと彼女の横顔を|楡《ぬす》み見た。その横顔は正面にも増して美しいものであったが、気の せいか、きのうよりも|蒼《 ヤ 》白く、|面竃《おもやつ》れていた。 (この少女は何者であろうか)  私は、】言も聞き漏らすまいと、二人の会話に聞き入った。 『又、来ましたか……一寸見せて下さい』  少女は小さく頷いて、ハンドバッグの中から四ツ折りにされた紙片を取り出し、警部の前へ 押しやった。  鷲尾警部は|六《むずか》ヶ|敷気《しげ》な顔をして、それを読んでいたが、 『これは、私の方に頂戴して置きます。……海老澤さんも、とんだことになってあなたもさぞ お力落しでしょう』  と慰めるようにいった。私は海老澤という名を聞いて、 (この少女もこの事件に、何か関係があるんだナ)  と思った。少女は、 『父もあんなことになって……もっと早く解ればお助けを願ったんですのに・-…』  と潤んだ声で、いうのであった。  私はこの言葉で、 (この少女は海老澤達爾氏の令嬢なのだ!)  と思い当ることが出来た。  一寸、場がとぎれると、警部は|先刻《さつき》の私達の目礼を、|目利《めざと》く見つけていたのであろうか、そ の少女に、 『こちら、お知合いですか』  と聞いた。私はハッとして、横から、 『別に知合いという訳ではないんですが、きのう銀座でお目にかかったんで:--』  と答えると警部は、薄く笑いながら、 『若い方は目が早いですね』  そういって私の方を見かえした。 『いや、そういう訳でもないんですが、実はこの方の帰られたあとに、紙片が落ちてましたん で、一寸印象的だったんです』  私はこの警部の軽い|椰捻《やゆ》に、いくらか赤らんだのを意識しながら、こう弁解した。その少女 は私の紙片といった言葉に、思わず顔を上げて、 『あの、変なことを書いた手紙でしょうか』  と問いかけるのであった。私はその愁いを含みながらも、美しい声に魅せられながら、 『ええ、何か妙な文句でした、父上の危機迫る、とか書いてあったようです。お忘れになった んだと思って、あとから直ぐ追いかけたんですが、お見えにならなかったので……』  というと警部が、 『ああ、脅迫の手紙だったんだな。お嬢さん手紙通りに行って、誰か来ましたか』  と聞くと少女は、なお一層愁わし気な顔をして、 『いいえ、誰も来ませんでしたわ……待っている中に時間は過ぎてしまうし、なんだか|怖《こわ》くな って来ましたので、帰ってしまったの……そしたら、そしたらあんなことになってしまって』  と、今迄歯を喰縛って、|泳《こら》えに泳えていたであろう涙が、耐りかねてはらはらと銀線のよう に、彼女の美しい頬を伝うのであった。  私は今にして思い当ることがあった。それは「同行者謝絶」と書いてあったのに、店が混雑 していたとはいえ、彼女のボツクスに私が馴れ馴れしく落着いていたので、この手紙の脅迫者 が、私を連れだと思って帰ってしまったのではないか、それが一つの原因ともなって、海老澤 氏が殺害されるような破目に墜入ったのではないか。 .(知らないこととはいえ、大変なことをしたぞ)  私は|舞《ひしひし》々と自責の念に馳られて来た。  若しあのボックスを開けて置いたならば、彼女と脅迫者と会うことが出来、話し合うことが 出来て、彼女一家にこれ程までの悲しみを与えないでも済んだかも知れないーこう思うと、 ジッとしてはいられぬ責任を感じて来た。 『すみませんでした。もし私があの席へ行かなかったら、まさかこんなことにはならなかった でしょうに』 『そんなことはない』  警部が口を挟んだ。 『あれだけ周到な犯行だから、あの手紙なんか一種のいやがらせさ。お嬢さんと会った位で解 決出来る問題なら、急に計画を変更して殺人まで犯す筈はないよ、・…-見方によれば、家にお 嬢さんがいられることが邪魔だったのかもしれない。お嬢さん、お留守に誰か来た様子はあり ませんでしたか』 『はあ、……』  彼女は薄く目をつぶるようにして、考えていたが、 『そう|仰言《おつしや》られれば、頼みもしない電灯工夫が来て、なかなか帰らなかったそうですわ、…・ でもうちの|貞枝《 ちさだえ》はとてもしっかりして居りますから大丈夫でございましょうけど……』 『それもまア、一概に疑ってしまうわけにも行かんでしょうが。その応対した貞枝さんとかい う人に、一度会っておきたいですね……どういう人ですか、その人は』 『うちは母が居りませんので、ずっと古くから、私の生れた頃からうちの切り盛りをしていて くれる人ですわ、乳母ですわね、まア。……|黒崎《くろさき》貞枝、ですの、名は』  私はこの会話を聞きつつ、 (一体、彼女になんといってお詫びをしてよいのか)  と苦しんでいた。 『トテモ私も責任を感じていますが-…・でもこうなった上は一刻も早く犯人の捕われることを 考えなければいけませんね、おせっかいなようですが、私も不思議に銀座であなたにお目にか かり夜は夜であの現場へ直ぐ馳けつけた因縁もあり、出来るだけのお力添えをさせて頂きま す』  私は、突然父を奪われたこの少女の心情を想う時、とても耐らない、涙ぐましいものを感じ て来るのだ。 (こんな美しい少女を、|斯程《これほど》までに苦しめる悪魔は何者だ) (よし、どんなことがあっても、この事件を解決しなければならぬ) (この痛々しき若き佳人の為にも……)  と、固く堅く決心したのであった。この時から、私は「恋の探偵」となってしまったのであ った。 × 私はその日、アパートに戻ると、 この日一日の出来事を、 きのうのノートの続に書きつけた。  ×月×日  彼女の名は「海老澤|美何子《みかこ》」美しき美何子は父を奪われてしまったのだ。私は彼女の為に、  この奇怪極まる事件へ飛込もうと決心した。海老澤氏の死は、  一、当夜友人の宴会の席にあった海老澤達爾氏は何者かからの電話に、急遽十一時頃席を外  した。  二、そしてどこを歩いたのか十二時少し前に|有楽町《ゆうらくちよう》の第百ビルの事務所に現われ、事務所  に這入った儘、十二時頃一発の銃声がしたので馳けつけてみると、既に死体になっていた。  三、その時往来にもビル内にも全然人影はなかった。  ここまで書きつけた私は、もう一度、 (自殺ではないかー)  と思った。  然し、銃弾の違っていることは、厳として海老澤氏の他殺を物語っているのだ。  こういうことに、全然素人の私は、どこから手をつけていいのか、ただ呆然とするばかりで あった。 (美しき、優しき美何子さんの為に……)  これだけの気持が、私自身の気持を馳りたてるのであった。  美何、美何、美何子。  私は|先刻《さつき》おぼえたばかりの名を、無意識に反易して、ノートに書 き散らしていた。 第三章 |遽《あわた》だしき日 一  様々な想像と幻影と、折ふしクローズアップされる美何子の顔…-とに夜通し報転とした私 は、夜も白々とした頃、漸く睡りに落ちた。  だが、それも束の間、激しくドアーをノックする音に、浅い眠りから、はっと呼び覚まされ てしまったのだ。  |不承不承《ふしようぶしよう》に床を脱けた私は、思わずぶるっとする|暁方《あけがた》の寒さを感じながら、鍵をはずすと同 時に、戸にくっついたように一人の男が這入って来た。  その青年は三十前後であろうか。モダーンな洋服を|大雑把《おおざつぱ》に着、蓬髪の頭を時々掻き上げな がら簡単な挨拶を口の中ですると、 『|東邦日日《とコほうにちにち》の者ですが……』  といった。 (新聞記者か。海老澤氏のことだなー) と思いながら、 『御用件は……』 といい終らない中に、 『今朝の朝刊を御覧ですか』 そう追っかぶせるようにいった。私はその語気の中に、不愉快なものを感じて、 『御覧の通り、今あなたに叩き起されたばかりで新聞は……あ、そこにありますよ』 も少しで彼に踏みつけられそうな、床に落ちた東邦日日を指さした。 彼は黙って拾い上げると、乱暴な手つきで社会面を開け、私の目の前に突出した。 何気なく眼を通した私は、思わず、 (あッ……) と叫ぶところであった。 目をこすりこすり見直すと、 怪死の海老澤達爾氏  果然 他殺と判明   ピストルで射殺と認定 とあって、 次の割見出しには、 ,奇々怪々なる犯跡  犯人の手がかり絶無   現場に|彷律《さまよ》う怪青年  そんな黒い柱のような大見出しが、紙面一杯に立ちならんでいた。 (現場に彷裡う怪青年1)  私は、この一行に愕然とした。|周章《あわて》て記事を読み下してみると、 「某青年(特に名を秘す)が当夜なんの目的か数回に亘って現場附近の暗闇を俳徊し、銃声を 聞くや真先に馳付、然も調査の完全に済まざる中に、|蒼慢《そうこう》として姿をくらまし、目下極力行方 捜査中云々」  というのであった。私が唖然としながら読みいっている視野へ、突然彼のずんぐりした指先 が這入って、その記事を指さすと、 『これが社の特ダネです……』  と、 (ど>つだ・:・:)  というように、私の顔を覗きこんだ。 『バカな、こんな|莫迦《ばか》なことがあるもんか』  私ははき出すようにいった。 『怪青年だの、特に名を秘すだのと侮辱するのもいい加減にしてくれたまえ……何が、何処が、 一体怪青年なんだ!』  私は、トテモ堪らない憤愚を感じて、夢中で|畷鳴《どな》りつけた。 『一体どこからコンナことを聞いたんだ、|莫迦《ばか》なことを……』  その青年記者はきょとんとして、 『それは……ナンですが、主任の鷲尾さんも返事がハッキリしないし、さては、と思ったんで すが、ははあ、……もうきのう、鷲尾さんとお会いになったんで、……はあ、それはどうも』  まずそうな顔をして、髪を掻上げた。 (鷲尾警部が、私をかばってくれた為に、却って誤解されたんだナ……)  と私も考える余裕が出て来た。 『お宅を捜すんで苦労しちゃいました……何処かで一度・…-アルロの会だったかな……お目に かかったことがありましたね』  彼は、新聞記者らしく、すぐ会話の転換を求めて来るのであった。 (そういわれれば……)  私も、どうやらそんな気がして来た。 『どなたでしたっけ……』 『僕は、|北條五郎《ほうじようごろう》です』 『あ、そうでしたか』  私は漸くあの文芸愛好者-下積文士達-と、或る雑誌社が主催した会の席上で会ったこ の記者とのことを思い出したのであった。 (東邦日日の社会部の方で、第一線で活躍されている方です……)  そんな紹介の辞も思い出した。  --・漸く私達は打とけて来た。彼はなかなか|饒舌《じようぜつ》であった。 『河村さん、どうです犯人の心当りはありますか』 『それが……全然ないんだが、とに角私もこんな関係があるんで、あのお嬢さんも気の毒だし、 ゼヒ解決したいと思ってるんだが』 『お嬢さん、ああ海老澤美何子さんですね、なんとか小町といったような人ですね、お嬢さん の為に、なる程、しっかりおやんなさい……』  彼は、ポンと私の肩を叩いた。私は、一寸妙な気持になって、訂正しようとしたが、彼の言 葉に|遮《さえ》ぎられた。 『けど、この殺人の原因を御存知ですか、殺人事件という奴を解いてゆくには、|先《ま》ず兇器です ね、兇器がナンであるか、ピストルであるか短刀であるか1今の場合はピストルですが…… それならドンナ種類のものか、ブロー二1か、コルトか……これは銃弾の口径から推定するん ですが。  海老澤氏の持っていたのは、御承知かも知れませんがコルト銃で、受けた銃弾はブロー二1 のものと推定されてます。従って、絶対断然他殺です……なれば今度は全警視庁管下のブロー 二1銃所持者について調査すれば  最近発砲したかどうかは大抵解りますから1該当者、 被疑者を発見することが出来るかも知れません……|勿論《もちろん》これは犯人のピストルが未届の時はダ メですが……。  も一つ、原因から調べるテがありますよ、原因なしに殺人まで犯す奴もないだろうし、その 原因が解れば、非常に捜査範囲が縮小される訳ですからね……どうですか、原因の心当りはあ りませんか……』 『それが……サッパリないんです』  私は、ただもういかにも馴れた口調で話す彼の言葉に、 (なる程1)  と|頷《う ハず》くばかりであった。我れながら心細くなって来た。事件を解決する、なんて断言した自 分自身が恥かしくなって来た。 (こんなことじゃダメだ。もっと|確《しつか》りしろ)  自分に畷鳴りつけた。でも、 『お忙しいところを色々どうも……これから手におえなくなったら御相談に行きますからよろ しく……じゃあ……又』  とお茶を濁して、彼を送り出すと、やっと|鳴《ほ》っとした。 (|間誤《まご》間誤してはいられぬぞ) ピストルの調査なんて、とても警視庁でなければ出来ないことだ。 (原因、原因が第一だ……) 私はこの事件に漸く興奮して来た。 二  朝食も、そこそこに済ますと、私はアパートを飛出した。 (美何子さんの家へi)  麻布の高台を上って、右へ……。  私は電話帳で調べた住所を|口吟《くちずさ》みながら、宏壮な塀にかこまれた道をトボトボと歩き続けた。 初冬の陽射しは私の影を長く引いていたが、小春日和は私の肩の上にぼかぽかと、暖かであっ た。  道傍で|御用聞《ごようきき》が一人、自転車に|椅《よ》りかかった儘、雑誌を読みふけっていた。 『君、海老澤さんの家知ってるかい……』 『え』  雑誌から目をはなした小僧は、 『あああの殺された……海老澤さんちはこの|先《ちじ》の|十文字《ゆうもんじ》んとこを左へいって、ええと、角か ---------------------[End of Page 46]--------------------- ら三軒目の、門の中に菊のある家だよ……』  こういって、今話題になっている家を尋ねる私を、興味深そうに見上げた。 『ああ、そう、ありがと……』  私はさっさと足を運んだ。  海老澤達爾と書かれた表札は、直ぐ見つかった。成る程、門から玄関まで見事な黄菊白菊が 並んでいた。それが、今の私には弔問者の行列のように思われた。  海老澤氏の邸は、左程大きくはないが、でもゆっくりとした敷地に建てられてあるように見 えた。  そして主人の変死した家は、耳を澄ましてみても深閑としているのであった。  案内を乞うと、間もなく四十七ハの女の人が出て来た。私は、その哀しみの中にも、しっか りした物腰から、 (これが、聞いていた貞枝さんだナ)  と思った。 ×  応接間に通されると、 た。 入れかわりに、美何子さんが現われた。 私はフト玄関の白菊を連想し 『昨日は……だんだんお淋しくなりますねー』 『はあ、|到頭《ンマつしヤつ》両親とも別れてしまいましたわ』  彼女はもの柔らかに、椅子にかけると、 『でも、昨夜大阪から兄が戻ってくれましたので-…・いま、参りますから御紹介しますわ ……』  トテモたまらない哀しさの中に立って、うち克ってゆこうとする彼女のいじらしさ、けなげ さ。私は言葉を失って無言であった。  …-|鰭《やが》て廊下に確りした足音を感ずると、ドアーが開いて、ぴったり身に合った洋服を着た 二十六七の青年が、 『やあ……』  と小さくいいながら這入って来た。 『兄の|健爾《けんじ》です、よろしく……』  美桐子さんは立ち上ると、その体の頑丈な意思の強そうな青年を紹介した。私は、その青年 の顔にも、深い憂いの|霧《かげ》を読みながら腰を上げた。 『こちら、お話した河村杏二さん。こんど大変御迷惑をおかけしてしまいました方ポ。御存知 でしょう、小説をかかれている方よ……』  私は、その最後の言葉に、思わずハッとし、いくらか顔が赤らんだようであった。 (美何子さんはどこで私の小説を見たのであろう……) なんとなくうれしいような、いやあなような、いいようのない気持であった。 『やあ、こんどは妹が……、色々御迷惑をおかけしました』 『とんでもない、私こそ、お詫びしなければならない様な訳で……』 『妹が誘拐の手紙を貰った時、お助け願ったそうで・-…』 私は、 (おやっ……) と思った。と同時に、美何子さんが、ちらっと|目《ちちち》くばせをし、|椀《えん》と笑うのを見て、 (そうかi) 気づくと一緒に、ドキドキと心臓が踊り上って来た。 (美何子さんがうまく話してくれたのだナ) (私に好意を持っていてくれるのだ……) 私は千万の味方を得たような気がした。 『どういたしまして、私こそいろいろと』 私は言葉を濁すと、 『で、兜島の方はどうします、やっばり……』 『やります』 健爾氏は私のいうのを押しかえすようにいった。 『やりますよ、これは父の遺志でもあるし、|既《かつ》てない新計画ですからね、どんなことがあって も、どんな迫害があっても、必ずやりとげますよ、既に認可も得てるし、今止めてはこれまで 御賛成を得た方に、大損害を与えることになりますからね』  ドアーの外に、ことりと音がすると、さっきの貞枝さんが這入って来て、冷めたお茶をとり かえて行った。 『それで私は大阪の方の勤めも|辞職《やめ》ました……今日からでも私は兜島の事業に没頭するつもり です』  健爾氏は厳然といい切った。 『それは結構なことです。私も成功を祈ってます…・-だが、父上の兇事も考えなければいけま せんね、一日も早く犯人を挙げて……』 『無論です、ですがそれは、私は警視庁を信頼しましょう』 『勿論そうですが、……でもこれは非常に難事件ですよ、私は迷宮入りの|惧《おそ》れがあると思われ て仕様がないんです……こんどのことの原因は何か御心当りがありませんか、原因がまず第一 ですから……』  私は喋りながら、あの北條記者の口調を思い出した。 『そいつが、実はー』  健爾氏と美何子さんは、顔を見合わせて黙然とした。 『それが……警視庁からも訊かれるし、又新聞記者が|執拗《しつ》こく来るんですが、困ったことに全 然ないんです……』 『父は家へ帰りますと、勤めのことなんか一口も申しませんので……それに頑固なところはあ りますけど、別に人様に恨まれるような……ございませんわ』  又、哀しみが新らたに湧いて来たのであろうか、美何子さんは、語尾を濁らすと下を向いて しまった。  私も健爾氏も、顔を見合わすのをさけて、暗然としたのであった。 (困ったことになった……) (犯人のいない、兇器の出ない、そして原因も不明の殺人事件……)  こんな難問題が、又とあろうかー。 三 171白日鬼 何処かで電話のベルが鳴ったような音がしたが、しばらくすると又貞枝さんが這入って来た。 『又東邦日日からお電話でしたが……。お留守だと申しましてもしつっこくて』 そういいながら|項垂《うなだ》れた美何子さんを見ると、 『お嬢さま、もうあんまり御心配なさいませんように……』 『貞枝さん、お父様が何か心配されていた様子はないかね---何んでもいいが』 健爾氏がききかけた。 『さあ、わたくしにも一向……良いご主人様で、なんといって……』  じみながらきりりとした貞枝さんは、心から困ったように考え込んでいたが、 『……ええと、こんなことがございました、お亡くなりになる十日程前でございましょうか、 夜遅くお電話がありまして、ご主人さまがお出になりましたが「兜島に。ソンナことがあるも んか、とんでもない昔の夢みたいなことを…-・なに、古い記録に……駄目駄目、絶対ご免|蒙《こ つ》む る」と大層固く|仰言《おつしや》っていられましたが……』 『どこからかかって来たんだね、その電話は』 『公衆電話でございました……』 『それだけですか・…:』  私も口をはさんだ。 『はあ、……』  貞枝さんは、 (弱った……)  といわんばかりに黙りこんでしまった。 『実際、これだけじゃ夢のようで、どうにもしようがないナ……』  健爾氏も小さく眩いて、腕を|供《こまね》いた。  私も、時計を見たりしてから、 『では……』  と腰を上げた。 『美何子さん、お力落しないように……』 そういったものの、我れながら|柳《いささ》か自信のない響であった。 その時、 『ご免ください……』 とドアーを細目にあけて、若い女中が顔を出した。 『新聞社の北條さまがおみえでございます……』 『北條p……』 健爾氏が頸をかしげた。 『ああ、東邦日日の記者ですよ』 私は立ったまま口をはさんだ。. 『タッタ今、電話があって断ったばかりじゃないのかい』 健爾氏が貞枝さんを振かえると、 『はあ……東邦日日……でしたか、どなたかわかりませんでした……のでございます』 と貞枝さんは、 (又新聞記者がー) とでもいうように、厭な顔をした。 『じゃ……まア通してみろ』 女中が引込むと入れ違いに、北條記者が相変らず蓬髪を掻上げ掻上げ現われた。  ぴょこんと頭を下げると、私を見つけて、 『やあ、さっきは……』  と人のよさそうな笑い顔をみせて、 『ご活躍ですな。どうも新聞記者はワリが悪いですよ、会うのもやっとだ……』  と貞枝さんに聞えよがしにいった。貞枝さんはツンとして、 『ごゆっくり……』  そういうとさっさと出ていってしまった。 『少し前、あなたの社から電話でしたよ……今出先から戻ったばかりなんで、おことわりした そうですがー』 『ああそうですか』  北條記者は軽く笑って、 『どうです原因がお解りになりましたか、……ピストルの方はダメです、|遺《さすが》は警視庁ですね、 もう一渡り、一ンちのうちに調べたんですが該当者がないそうで……非常に特徴のある銃弾な んだそうですが……僕もそんな気がしたんだが、|兎《と》に|角《かく》、夕刊までにゃ、もっとハッキリする でしょう……。  ところで兜島の事業はどうなさいますー』 『断じて実行します』  健爾氏は不興気に答えた。 ×  私は健爾氏達の不愉快さを|慮《おもんぱか》って、早々に北條記者を連れて海老澤家を辞した。道々、 『河村さん、困った問題ですね、何かタッタ一言でもいわなかったかなあ、ヒントさえあれば、 |一気呵成《いつきかせい》に解決すべき成算ありだが……』  いかにも敏腕な社会部記者らしく、警視庁何者ぞ、といったような無念気な眩きを漏らした。  私は、 (貞枝さんが電話で……)  と口のはたまで出かかった言葉を、危うく呑んでしまった。 (こいつは滅多にいえないぞ、1この敏腕な記者に対するハンデキャップとして、とって置 かなきゃいかん……)  そんな曝きが聞えた。 (貞枝さんのあやふやな聞き憶えだが、いまの私には千金にも勝るぞ)  私達は、黙々と|麻布《あざぷ》の高台を下った。 『じゃ……』  交差点まで来たとき、私達は手を挙げて別れた。  独りぼっちになった私は、又黙々と歩き続けた。そして、どの位歩いたであろうか、 (古い記録i)  といった言葉に、合言葉のような霊感を感じた。 (|春日井泰堂《かすがいたいどう》先生……)  春日井泰堂先生1の名が浮ぶと同時に、 (そうだ、あそこに行けば……)  思わずハタと手を|拍《う》った。|博覧強記《はくらんきようき》、見聞古今東西に亘るーという大学時代の偏屈講師、 泰堂先生。  1私は手を挙げて円タクを呼びとめると、 『|根岸《ねぎし》……』  心憶えのところを告げた。 (あの博大な脳味噌の中から、何かうまいことが引張り出せるかも知れないぞ……)  私は、期待に胸を膨らませたのであった。  泰堂先生は、もう六十位であろうか、見事な白髪を頂いて、いつも和服の着流し、なかなか 堂々たる|風采《ふうさい》であったが、有名な独身主義者で---先生にいわせれば主義ではなく、機会を逸 したのだ、といっているが……今日まで|既《か》つて妻帯の経験がない、その上、書と共に眠り、本 と共に起きる、といった|塩梅《あんばい》で恐らく先生の読破した書は数万巻に及ぶであろう-…・とは下馬 評ばかりとはいえないのであった。私も学生時代卒業論文にしようと「浮世絵より見たる史的 考察」を書きかけた時、引用書目は図書館に行くより、先生のところへいった方がずっと早か った……。  ーそんなことを考えている中に、車は|日暮里《につぽり》駅の近くに来ていた。私は、 『ここでいい:・:・』  と乗棄てると、見当をつけて歩き出した。  しばらくゴミゴミした町を歩き続けると、漸く見覚えのタバコ屋を見つけた。 (タバコ屋の角を右へいって……)  口の中で道順を|反舞《はんすう》すると、なお一層細い露地へ折れた。しめっぽいドブ板はばくぱくと反 って、路は家と家との間に建てのこされた隙間でしかなく、土は泥沼の沼ヘリのようにしっと りとしてい、|頭《ヤ》の上はなんとまあ、所せまきまでに|禰裸《おしめ》の満艦飾であった。  私は思わず顔をしかめながら、そのぽたぽたと雫のたれる横裸の下をかけ抜けて、四畳半位 の空地になっている共同水道のところへ出た。その水道栓のまわりには昔の儘、おかみさん達 が手に手になにか洗いものを持って|蜻集《いしゆう》していた。  泰堂先生は、その先きの長屋にいるのである。泰堂先生はその長屋の二軒をぶち抜いて、一 軒を住いに、一軒をその全財産の書庫にあてていた。  私はすぐこの長屋の|家主《おおや》兼|城東《じようとう》大学の講師、春日井泰堂の表札を発見した。 『ごめん下さい……』  案内を乞うと、すぐ返事があった。  建てつけの悪い格子障子をあけると、二畳の玄関を|隔《へだ》てた突きあたりの六畳の書斎に、天井 まで届くような本棚を背にして、 端然と書見をしている泰堂先生の姿があった。 四  久しぶりの挨拶をすると、すぐ用件に入った。 『実は先生のお智恵を是非拝借したいと思って上ったんですが……兜島、伊豆の兜島について 何か重大な記録……といったようなものがありませんでしょうか』 『どういうことについての重大な記録だね、……浮世絵についてのかね、|下田《しもだ》港のlI』 『先生、ソンナ|暢気《のんき》な話じゃないんです、殺人事件を惹きおこす位重大なコトです』  先生は面喰らった顔をしたが、 『ああ、あの海老澤……氏のことだね、怪青年はどうしたんだ捕まったか』  私は途端に情けなくなった。 (新聞とは恐しいもんだ……)  と思った。 『先生、ソノ怪青年、というのが私なんです、あれは新聞の|出鱈目《でたらめ》なんで……大迷惑ですよ、…… それはそうと何か』 『一体どういう方面の文献なんだ、……ソレが解んないと困るナ』  先生も頭の中の抽斗を、どれから開けたらいいか、困ったような顔をした。  でも、やがて、 『君も知っているだろうが……』  とぽつりぼつり話し出した。私は一語も聞漏すまいと思わず乗出した。 『大体、兜島ってものは、昔はなかったんだ、あれは言ってみれば富士火山脈の一|支瘤《しりゆう》で、今 の伊豆半島の突端に從耳えていた山で……なんといったかな、|甘利《あまり》山……といったらしいな、そ れが或る年の大地震であの辺一体が大|陥没《かんぼつ》を起してマンナカに海が這入り、島になってしまっ たもんだよ、だから今の|石廊崎《いろうざき》と兜島とは地続きだった訳だ。1兜島って名が大体若そうな 名じゃないか、山が海の中に凹んで上だけ出ている恰好が兜に似てるから、というだけだよ、 君、あそこだけは特別な地殻運動があるらしいナ、この邦全体からいえば日本海方面が次第に 陥没し、太平洋面が隆起しつつあるのに、あそこだけは独り陥没を続けるんだ。早い話が大正 の地震もあの附近の陥没が原因じゃないか……』  私は、先生の話が段々横みちに|外《そ》れるので軌道に引き戻そうと苦心した。 『よく解りました、では昔は兜島も地続きだったなら、色々文物も流通したわけですね。ほか の島に比らべれば……』 『うん、それはそうさ、第一附近に下田港という良港がある、往時|般賑《いんしん》を極めたことは想像に かたくないな、豪商は争って珍宝を蒐集した……というたいしたものだったろう』 『>えつ・::・』 (珍宝1) この言葉に、|痺《しび》れて来た足の痛みを忘れてしまった。 『先生、珍宝というのはドンナものですか』  『それはいろいろあるだ  ろう、書画骨董、なかで  も|秀吉《ひユはしよし》の政策で勲功厚い  ものに一国一城の賞与に  かえて茶器陶器を与えた  ーというから焼物も名  器になるとメッタに拝む  ことも出来なかったもの  があったろうよ、……今  でも数万、数十万の金を  積んでもかえられんもの ..があるからナ』  『その当時の、誰が何を 一持っていたーといった 瀦ような記録はありません  か』 『さあ、……』  先生は目をつぶった。 『当時の名品所持者目録、 といったものはありませ んか』  私は、 (もう一歩だー)  そんな気がして、矢つ ぎばやに質問した。だが |流石《さすが》の泰堂先生も目をつぶった儘、 『さあ……』  と銀髪を撫上げていた。 『それは……ないナ、わ しも見たことがない…… あれば先ずわしが見た い』  そういって目を上げた。 『そうですか……』  私は、|落胆《がつかり》してしまった。なまじ|気《 ち 》をもませた泰堂先生が、却って恨めしかった。  先生も、余り私ががっかりした様子に、気の毒と思ったのであろうか、 『じゃ君、ものはためし、|南小路露滴《みなみこうじろてき》のとこへいったらどうだ……|彼奴《ち あっ》はそんな山カン的な ことをよくやっとるからナ、|古文書《こもんじよ》を|漁《あさ》って時に妙なことをやる奴だ……』 (南小路露滴1)  私も何処かでその名を聞きおぼえていた。非常に成金趣味の男だが、古陶器古美術界では相 当重きをなしている……というアウトラインも。又、この町の大学者春日井先生とは常に反対 の立場を執る男であることも……。 ×  私が、泰堂先生のところを辞して、外へ出てみると、最早暮れやすい日は低く傾いて、から からに乾燥した冬の闇が迫りかかっていた。  この狭い露地露地を縫って、金切声の豆腐屋のラッパが響き、|庇《のき》を接した長屋の台所では、 いかにもせわしげに食器の触れ合う音が聞え、いつの間にか満艦飾の禰裸も取りいれられて、ー ずーっと向うの方まで羊葵箱のような露地が見通せた。  私は赤茶けた畳の上に、押し潰されるような赤ン坊の泣声の|軍《こも》った一画を抜けると、ひんや りした空気と共に、激しい空腹を感じて、思わずぶるっと震えた。  あの泰堂先生のところの時代がかった空気は、久しぶりに私の心を落着けさしてくれたよう であった。1いつもながら、この泰堂先生のところへ行くと、あの浮世離れのした雰囲気に ツイ同化されてしまうのである。 五  私が途中で空いた腹を満たすと、今日一日の気づかれが、一度に出たように思われたので、 その儘まっ直ぐにアパートに帰りついた時、入口の事務室のおじさんが、 『河村さん、この方が……。断髪洋装の御婦人でー』  と名刺をごそごそとり出した。 (美何子さんP……)  私はハッとして名刺を受とって、読み下した。 『|葭村海子《よしむらうみこ》……』  聞いたこともない女の名前が、鮮やかに刷られてあった。 (葭村海子……誰だろう)  私が不審の目を上げた時、又おじさんは、 『また後に見えるそうで……』  と意味のない笑い顔を見せた。 (葭村……海子……)  もう一遍口の中でくりかえしてみたけれども、矢張り、全然記憶にない名前であった、その 上、名刺には住所も何もないのだから、この上考えるのは無駄であった。 (アトで来るというから……)  私は、今まで孤独であった身辺が、漸く騒がしくなって来るのを感じた。  部屋にはいって、さて、と椅子にかけてみると、夕刊が目についた。早速二面を拡げて見る と、 海老澤氏殺害事件  またまた迷宮入りP   令息健爾氏の決意  そんな見出しが、又大きな柱をたてていた、読んでみたが、結局私の知っている以外の新事 実は一つもなかった。「近来の怪事件」なことを巧みに、センセイショナルに書きたて、最後 に「令息健爾氏の談」として、 「父は何人にも恨まれるような人ではなかった、今度の事件についても誠に不可解の一言に尽 きる。ただ警視庁の努力に全幅の信頼をもって、一日も早く事件の解決することを祈っている。 然し兜島新興株式会社についてはいかなる犠牲を払っても、必ず為しとげる決心である……云 云と固き決意を以て語った」  とあった。私は、 (成るほど……)  と思った。北條記者の笑い顔を思い出した。 (新聞記者というもんは、こういう創作をやるんだな)  と感心すると同時に、 (おや……)  いくら捜しても、あの「怪青年」のことには一行も触れていないのである。幸い名が秘され てあったからいいようなものの、危うく私は「|斬捨御免《きりすてごめん》」に会うところであった。  若し貞枝さんから聞いたあの電話のことを何気なく話してしまったら、 (深夜の怪電話に海老澤氏興奮、兜島に|絡《から》まる奇怪な謎ー)  なぞと、でかでかと特報したに相違ない、 (危ぶなかった……)  私は首筋を撫ぜた。ソンナことになろうものなら、美何子さんの信頼を一挙に失墜してしま ったに違いないのだから……。 (メッタなことはいえないぞ)  私はいよいよ自力独行を、固く決心したのであった。 『ご免ん下さい……』  ……フト気がつくと、ドアーの外で、そんな声がしたようである。耳を澄ますと、 『ご免ん下さい……』 確かに女の声がした。 『はあi』 (誰?……)  ドアーを開けてみると、若い洋服の女が立っていた。 『どうぞ……』 『河村さん、でいらっしゃいますか』 『はあ』 『わたくし先きほどお伺いいたしました……』 『ああ、そうそう、留守にしてまして……』 『お|忙《いそが》しいところを∴…なんでございますが、お|差《 ち》支えなかったら、一寸……』  部屋に這入ると、 『わたくし葭村でございますが。至急お目にかかり度い用がございましたので、夜分……』 『いいえ、一向構いませんよ  で  御用件は』  その女は黒い外套を着ていたが、前のボタンを外していたので、洋服は濃茶のスーツである ことが解った。とりたてて美人ではないが、何処か野性的な美を思わせるところがあった。薄 化粧の顔は小麦色で、ものをいうたびに、|玲羊《かもしか》のような躍動をみせていた。  彼女は椅子にかけると、ハンドバッグから名刺入を抜いて、 『どうぞよろしく……』  と一枚の名刺をテーブルの角に置いた。 (お名刺はさっき……)  といいかけて、 (おや、こんどの名刺には肩書があるな……)  手にとってみると、 山村探偵事務所  葭  村 海  子 187白日鬼 私は、もう一ぺん、肩書を読みなおした。 『あなたが……』 と思わずききかえした。 『はあ、さようでございます……よろしく』 『どんなご用で……』 『実は私共の|山村《やまむら》が海老澤様と大変ご懇意に願っておりましたのでございますが、それが、こ ん度のようなことになりまして、それに、その犯人もわからないようでございますので「こん なことでは海老澤さんも浮ばれまい」と大そうご心配申し上げまして……実はナンでございま す、警察のほうは警察のほうといたしまして、出来得るだけのことはいたしてみたいと申して おりますので』 『それで……』 『それで-…・現場に恰度あなた様がいらっしゃいましたそうでございますから、失礼でござい ますが、参考までにお話を|承《うけたまわ》りたいと存じまして、お忙しいところをお邪魔に……』 『ドコでそんなことを聞かれました、私がそこにいた、なんて……』 『それは……』  彼女は、 『おほほほ……』  と笑いにまぎらしてしまうと、 『|兎《と》も|角《カく》、どんなご様子でしたでしょう、その時……』  私は、 (北條記者から聞いたのかな……)  と思いながらも、なんだか尾行されていたような、軽い不愉快を感じた。それは、彼女の名 刺の肩書のせいかもしれないけれど……。 『どんな様子1って、新聞に出てた通りですよ、ただ東邦日日に出てた「怪青年」というの が私ですがね、それ以上、私の知ってることよか新聞の方が詳しいですよ……あの記事による と、私が一番疑わしいけど、私はなにしろ海老澤氏には死骸になられてから初対面というわけ でね……』  一寸、弁解じみたことに口が|辻《すべ》った。これも彼女の肩書のせいかもしれない……《  》|。  これ以上、私は知らぬ存ぜぬで押通してしまった。彼女は非常に|落胆《がつか》りしたようであった、 でも、今の私には、本当に何も知らないし、又滅多な口を利くのが恐しくもあったのである。 ×  女探偵、葭村海子が帰ってしまうと、私は|鳴《ほ》っとした。 (今日は忙がしかったな)  口の中で咳いた。海老澤達爾氏の死を|続《めぐ》って、私、北條記者、葭村海子、とこう三人の男女 が、イヤ警視庁の鷲尾警部を入れて四人の脳味噌が、「原因の糾明」に酷使されているわけで ある。  |素人《しろちつと》は私だけーと思うと、一寸心細くなるが、 (わが、美何子さんの為にー)  その片句が、私の心に、不思議な闘争心を燃やすのであった。  ペンを執り上げた。  ×月×日  東邦日日の北條記者来訪、殺人事件、しかもこの如き難事件の解決には、ただ原因より調査  するほかなし、と教えられる。  海老澤家訪問、美何子さん、健爾氏、貞枝に逢う。貞枝の一言---  と、書きかけて、 (これは書かない方がいいかな……)  と思いかえした。 (若しこのノートを見られるようなことがあったらー)  ソンナ気がしたので、この「貞枝の一言」という一句を消し潰してしまった。そして、  午後、久しぶりに春日井先生を訪問、夜、探偵事務所の葭村海子氏来訪、いよいよ多角的な 捜査がはじまったらしい。  書き終って、 (あしたは……)  と考えた。 (先ず南小路露滴を訪ねてみよう……それから…・-図書館の古記録を片っ端から調べて…・-そ れでダメだったら……古本屋を軒並みに-…)  恐しく遠大な計画であった。だが、若し、 (貞枝さんの聞き違いであったら……) (デタラメであったら……) この大計画も画餅に帰し、水泡にかえってしまうわけだが……でも (ただ手を|供《こまぬ》いているより、出来るところまで糾明しなければ……) 、 第四章 第二の犠牲者  フト、眼を覚ますと、ほのぼのとした|陽射《ひざし》が、少々色の槌せて来た力iテンに、 た。  数日振りで、ゆっくりした寝覚めを味わった私は、 (きょうからいよいよ本格的な調査だ……)  と眩いて起上った時、ジリジリジリンと電話が鳴った。  受話器を手にとると、耳の中に、はりのあるバスが流れこんで来た。 『河村さんP 僕、北條だ』 『ああ、きのうは失敬、……どうも君に起されるのが悪い習慣となったらしいな』 『なんだ、寝てたんですか、……でどうですあなたの方は、有望ですか』 『有望もなにも、五里霧中ですよ、そちらは……』 ゆれてい 『実は海老澤氏の友人と株式の株主関係を洗ったんですがね』  私は思わず唇を噛んだ。 (ナンダ、こいつに気がつかなかった) 『で……』 『方々捜してみたんですが、一人いましたよ、|山村一甫《やまむらいつぽ》、という男です、御存知ですか、銀座 裏にちっぼけな貸事務所を借りて、結婚信用調査なんかやってる男ですよ』 (山村……、きいたような名だナ) (山村探偵……事務所) 『ああ、知ってます。あそこに葭村海子という所員がいるでしょう』 『そうそう、サスガですね』 『イヤ、きのう、ゆうべ来たんですよ、その所員が……』 『へえ、もう……』  北條記者のあっけにとられた声が伝わって来た。 『どういう風にあやしいんですか……』 『いや、その山村って男は大体南小路露滴という男の家にいた書生上りでね、インチキ相談み たいなことをしてたんですが、この男なら海老澤氏の兜島の事業にケチをつけて、幾らかにし よう…-・といったような奴ですからねー』 (南小路露滴……)  又、この男の名が浮び上った。 (山村より、この男が黒幕ではないのか……) 『で、ケチをつけたとか、脅迫したとかいうことがわかったんですか・…-山村の』 『それが、まだハッキリしないんですがね、僕はこの方面に臭いものがあると思うんです…… こいつあ臭い飯も喰った男で、あの怪奇至極な事件なんか、斯ういった男でなけりゃ考え出せ ませんからね、僕ア断然自信を持ってます。……ご意見はどうですか』 『別に私に意見なんかありませんよ、だが証拠があるんですか』 『証拠、それがいまいったようにハッキリしないんですが、……でも、あの美何子さんに来た 妙な手紙の字と、山村の筆蹟と、いま鷲尾さんのとこで鑑定中です、これは私の進言ですが ね……』  私は勝誇ったような北條記者の語気に、|脚《いささ》か不愉快なものを感じた。  子供みたいに、得意になって、電話をかけて|寄来《よこ》した北條記者に可愛いとこもあるのだけれ ど、 (もう、だし抜かれたか……)  と思うと、美何子さんに対して顔向けが出来ないような、背負投をくったような、情けない 気持を感じた。 (山村が犯人でなければいい:--)  ソンナ気持さえ浮かぶのであった。 ×  私は味気ない食事を済ますと、もう南小路露滴の訪問も気がすすまなくなってしまったので、 当てもない散歩を、銀座にのばし、裏通りの喫茶店ルージュにふと立寄ってみた。  まだ十二時を過ぎたばかりの店内は、漸く昼食を済ませたサラリーマンがちらほら一一一旭入って 来るだけで、あの、私をこの事件に引き入れたボックスも、人まち顔に空いていた。  私はその思い出深い椅子にかけると、向う側に美何子さんの姿を想像しながら、ぼんやりと コーヒーを畷っていた。  |他人《ひと》から見れば、私も誰かを待ち合わせている様子であったかもしれないが---。  …:|鰭《やが》てラジオは狂騒な昼間演芸がすむと、ニュースを送り出した。  そのニュースの中に、私を愕然とさせる一句があった。 山村探偵事務所長の怪死 本日午前十時半頃、かねての海老澤達爾氏殺人事件につき警視庁当局で内偵中でありました 銀座西六の三十、幸神ビル内山村探偵事務所長、山村一甫氏が午前十時頃出社し十時半頃 |丁度《ちようど》尋ねて行きました所轄|京橋《きようばし》署の|寺町《てらまち》巡査により変死しておるのを発見、直ちに本署へ 急報目下係官出張取調べ中であります。  タッタそれだけの内容であったが、私を唖然呆然愕然とさせるに充分であった。, (ヤット北條記者が嗅ぎつけた男が、又、|殺《や》られてしまった) 私は、北條記者の狼狽の様を、頭に描いた。 (いよいよ紛糾して来たぞ……なま|易《やさ》しい間題じゃないぞ)  私は思わず手を握りしめた。 (どんな様子かなー) .電話をかりると東邦日日を呼出した。 『社会部の北條……五郎さんいますか』 『はあ、一寸おまち下さい』  若い交換手の声が聞えると、ポツンと線を継ぎかえる音がして、 『ああ、もしもし、いまお出掛けですが-…・』 『そうですか、ありがと』 (|活《や》躍ってるなー)  私は今朝の得意気な電話の声を思い出して、人が悪いようだけれど、一寸気が軽くなったよ うに思われた。 (よし、こっちもやるぞ……) 二 (さてー)  私はルージュを出ると、 (どっちへ行こうか)  と迷った。ここからはすぐ目と鼻の幸神ビルヘ行こうかーと思うのだが、現場へ行ったと ころで、私達にはそばへも寄れないだろうし、又あの附近をうろうろしていて、詰らぬ疑いの 上塗りをすることも莫迦莫迦しい。この前だって私は非常に疑われやすい立場にい、|亦《また》今度も ソンナことになったら殺気立った鷲尾警部は私に参考拘留位、いい渡すかも知れないーと思 うと、一寸足が進まないのだ。 (自分は自分の道へ……) 『スロー、バット、スチューデイ……』  口の中で眩いた。 (あせっちゃいかんぞ)  私は1|麹町平河町《こうじまちひらかわちよう》1と憶えた南小路露滴を訪ねようと、ぶらぶら歩き出した。  |舷《にしヤい》数日間暖かい日が続いていたが、今日は日が昇るに従ってうそ寒く、暗くなって行くよう に思われた。 (もう間もなく雪かー)  灰色の薄雲が、墨のように流れて、スキー用具の広告旗が、|遽《あわた》だしく乱れていた。  ひびのはいったぺーヴメントを|踏《ちち》んで、裏銀座へ抜け、|内幸橋《うちさいわいばし》を渡ろうとした時、横合か ら出て来た男が 『河村、河村さんでしょうP』  と呼びかけた。 『え』  振返ってみると、緊張した顔の北條記者が立っていた。 『やあ、どちらへ……』 『河村さん、大変ですぜ、山村一甫が|殺《や》られちまった……』 『そうですってねー』  私は|故意《わざ》と落着いてみせた。 『え、もう知ってんですか!』 『ラジオで聞きましたよ、ドンナ様子ですか……』 『なんだラジオかー』  北條記者はやっと呑込めた顔をして、 『それがね、困ったことになっちまいましたよ、ラジオじゃ詳しいことは、まだ御存知じゃな いでしょう、こんな訳ですよ……寒いナ……そこらでお茶でも……』  喫茶店の椅子に落着くと、 『コーヒー、二つ』  北條記者は給仕に指を二本立てて見せた、 『それがね』  彼のチェリーを挟んだ指先きがかすかに震えていた。 『それが、僕の調査じゃ山村が非常に臭かったんです。あなたに電話したアトで解ったんだが、 美何子さんのとこへ来た脅迫状、これは二度目のヤツを鷲尾さんが保管してんですがね、これ を調べると、ですね、あの山村事務所に同じザラ紙のメモがあるんです、それに筆蹟が同一人 とみれば見られぬこともないーという鑑定なんでね、僕はもうスッカリ喜んじまって、鷲尾 さんも大乗気でね早速呼んでみて、返事の様子に依っちゃ、入れちまおうというわけで巡査が 行ったんです。  で行ってみるとですね、巡査が。部屋に鍵が締ってるんだそうで、暫く待ったけど誰も来な いし、隣りの部屋の人が十時頃いつものように出社して来たのを見た、というんで事務所の人 と一緒に鍵を開けてみると、ですね、|殺《や》られてんです。この前の海老澤さんの時と同じように、 ただ一発で|殺《や》られてんです。尤もこんどは山村はピストルを持っていなかったそうですがね。  トコロがここが大変なんだが、その山村がね、あなたそっくりの恰好をしてるんですよ! あなたそっくりの……』 『えっ、私そっくりの……』  私もドキンとした。次の瞬間、呆然としてしまった。 『全く……』  北條記者は私をもう一度見直して、 『故意か偶然か、紺の洋服といい、縞のワイシャツ、そのネクタイまで、いやあなたの顔かた ちまで……|双生児《ふたご》のようでしたよ。僕がその知らせでまっさきに馳つけて、一目見た時、あ《ちち》|な たが|殺《ちや》られたんじゃないか……と思った位ですからね……』 (そんなに、おどかさないで下さいー)  といおうとしたが、それもいいそびれてしまった。 『早速、大騒ぎになったんですが、隣室の人達に聞いても、そんな物音は聞えなかったそうで、 ただ椅子かテーブルか衝立か、何かそんなもんの倒れるような音は、したように思える……っ ていうんですがね、何しろ耐震耐火の厚いコンクリートで仕切られているんで、少々の物音は 聞えないようなんですよ、巡査がドアーを開けて発見するとスグ医者を呼んだのが十時半を少 し過ぎていたんで、医者の診たところではまだ死後十五分か、二十分……何しろこの寒さの中 で、洋服を脱がしてみたらまだ体は暖かかったといいますからね……海老澤氏の場合とソック リじゃありませんか、部屋には鍵がかかっていたんですし』 『部屋は、その部屋は何階ですか』 『二階です。廊下のはずれで、階段からは一番遠いところです……』 『ふーん、困ったことになっちまったな、|兎《と》に|角《カく》、なにがなんだか解んないうちに、犯罪だけ はどんどん進んでいっちまいますね』 『ああ困った……』  |流石《さすが》の北條記者も頭を抱えこんでしまった。 『折角、もう一歩、というとこで犯人と思った男が|殺《や》られちまった、|然《しか》も、いまんところ証拠 もなさそうだ……原因もわからん、こんな間の抜けた、それでいて恐しい事件なんてはじめて だ……』 『私とソックリの様子をしていたナンテ、気味が悪いですね、私と間違えられて|殺《や》られたんで しょうか……ナゼ、そんなことをしたんでしょうかね』  私は|頸筋《くびすじ》に|寒《さむざむ》々としたものを感じた。なんだか兇悪無惨な犯人が、私の背後からジリジリ迫 ってくるような錯覚さえ憶えた。 (いや、錯覚であってくれればいいが……) (一体なぜ私と同じ様子をした男が、殺されたのかー)  私には|他人《ひと》に殺されるほどの怨みを買った憶えはない、又、ないだけに、ドンナ原因でどう して山村が殺られたのか、が堪らなく不安であった。恨みを買う原因があれば、又それに応じ た防ぎようも考えられようがー。 『全然|遣《や》り直しだ、|新規蒔《しんきま》きなおし。僕が直感したよりも、もっともっと恐しい事件だ。犯人 は山村じゃなかったんですね、もっと|上手《うわて》な奴なんだ』  北條記者は、今朝の電話の元気をすっかり喪失してしまった。意気消沈、ただ唇を噛むばか りであった。  私も、|諸《もろもろ》々の想像、幻想に頭を掻き乱されるばかりで、 雲のようなミルクの縞を見詰めているのみであった。 |冷《さ》めきってしまったコーヒーに浮く、 三  陽はいつの間にか密雲に閉され、魔都東京は泥沼のように|沈倫《ちんりん》し道往く人は厚い外套の中に 丸くなって、|索漠《さくばく》たるぺーヴメントを彷僅していた。一歩、表通りに出れば、歳の瀬をひかえ た人浪の雑沓があるのだろうけど、このガランとした裏通りは荘漠たる灰色に覆われていた。  北條記者と別れた私は、あてもなく木枯しに追われていた。 (南小路露滴の訪問1)  私はそれを思い止まってしまった。山村一甫が南小路と深い関係があり、その山村が私と同 じ恰好をして殺された  という今、なんの心構えもなく、のこのこと南小路という見知らぬ 男を訪問するとは……我れながら無謀な冒険ではなかろうかー。  私はしばらく思案した後、 (泰堂先生を訪問しよう……)  と、決心した。  山村の殺人事件がどんな原因であれ、海老澤事件と密接な関係があることは、彼が私と同じ 扮装をしていたことや、その殺された男が、海老澤事件の犯人と|目《もく》されるほどのことから容易 に想像出来る。それならば、海老澤氏の方から解決して行けば、これは必ず解決出来る問題で あろう……と思われた。  この犯罪は先きの海老澤氏の場合といい、今度の場合といい、犯跡は殆んど完全に抹殺し、 璽沸されている。この難解な事件の科学的捜査は専門家の警視庁や北條記者の方にまかせても、 側面からは私もなんとか割込まなければならないー。 (原因の糾明……) (兜島に関する古記録1の一語)  コレダケが私の、いってみれば受持である。 (貞枝さんから、モット詳しいことが聞けまいかー)  でも、それは徒労であろう。あの時だって貞枝さんは、極く極くボンヤリした記憶を、あれ だけの言葉に|纏《まと》めたのであろうことは、その様子からもハッキリ観取されていたことであった。 (ナゼ、私と同じ扮装を、山村がしたのかー) (ナゼ、海老澤氏は殺されたのかー)  こう考えて来ると、ナゼナゼと限りなく疑問符が沸き上って来る。トテモ堪らない、ジッと していられない焦燥を感じて来るのだ。 (落着け!) (泰堂先生のところへ行って、時代離れのした空気を吸ってみろ!) 脳細胞の一 つが、 そう号令するのであった。 ×  下根岸の長屋の奥に、私は又春日井泰堂先生を訪問した。今日は、急速に下降した気温の為 か、共同水道の|辺《あた》りも、ひっそりとしていた《 ヘキ 》|。  私は豆火鉢を抱えて、泰然としている泰堂先生を想像して行ったのだが、先生もお年のせい か狭い赤茶けた畳の上に置炬燵をかけて|情《しようしよう》々と鳴る北風の音に|聴《き》き入られているところであ った。  先生は私の訪問に気付くと、 (いい話し相手が来たー)  とばかり|拍手《カしわで》を|搏《う》って、隣りの家から手伝いのばあさんを|呼《 ち》び、赤く色の出た番茶をいれて くれた。 (長屋住いというものは、誠に便利なものだ  )  と考えて、その手伝いばあさんと|先《ち 》生とを見比べ、一寸|可笑《おか》しく思った。 『寒くなったナ……』  先生は眩くと私にも炬燵をすすめてくれた。私は遠慮なく、その|微温《ぬる》い炬燵に|這入《はい》った。 『どうだナ、事件は。うまい記録があったか……』 『いや、それがです。まだちっとも手をつけていませんので……南小路を訪問しようと思って たところが、山村一甫という男が殺されちまいましたんでねー』 『ナニ、山村一甫が  』  先生は老眼鏡を|外《はず》して、私を見直した。 『ふーむ、そうか……』 『先生も御存知ですか、山村という男を』 『うむ、知っとるぞ。君達の先輩だ……尤も卒業前に退学したがナ……小才の利く奴でな、南 小路のところで書生をしとった奴だ……いまでも|親分乾分《おやぷんこぶん》の間柄でナ、南小路という奴は頭の ない奴で、ただ株でバカ当りしただけの男だが、山村がおって、万事采配を|揮《ふる》っていたらしい ナ……』 『なかなか|遣《や》り手ですね』 『そうさ、頭はいい男だがたちが|悪《ちヤ》い、類は|知《ちとも》を呼ぶ  だ』  先生は論敵南小路露滴をこき下した。私も、 『じゃ|智慧嚢《ちえぷくろ》をなくしちまった訳ですね、南小路はー』  とバツを合わせた。  泰堂先生は、山村の死を|寧《むし》ろ痛快に思っているらしかった。  先生の話を総合すれば、山村は南小路の金でインチキ探偵事務所を設け、あくどい立廻りを やって|勘《すくな》からぬ悪銭を積み、書画骨董の名品は言葉巧みに捲上げて南小路と共謀して売捌き、 中でも今日現存しない|遠州《えんしゆう》公好み|七窯《ななかまど》の中、|赤膚《あかはだ》焼の|下手物《げてもの》を、買占めて値を吊り上げて おいてから、一挙に売りとばして莫大な儲けを取ったとか……相当悪事をはたらいた男である から、恨みを買う、ということになれば、とても五人や十人じゃあるまい……というのであっ た。  いくらかは掛値もあろうけど、全然冗談じゃあなかろうし、信じられぬことでもない……と なると、海老澤氏の場合と正反対に、買う恨みが多過ぎて、却って|曖昧模糊《あいまいもこ》としてしまうのだ。 (|恐《おそ》らく、その関係には、刑事がハ方に飛んでることだろう……) (私一人では手に負えぬ……)  |嘱《ほ》っ。私は溜息をもらした。 『で、どんな具合だったね、その場は……』 『……海老澤さんの時と、殆んど同様です、ただ前の時は三階、こんどは二階の部屋です、そ れに海老澤さんの場合は、あたりに全然人気がなかったんですが、山村が|殺《や》られたのは昼間で、 人気が多過ぎたんです。始終人の出入りするビルディングですからね、ですがピストルの音は しなかったそうですよ』 『ふん、消音ピストルというのがあるからナ』  泰堂先生は、簡単に眩やかれた。  (あっ、そうだー)  私はハッとした。 (コンナことに気づかなかったのか:…・) (では、海老澤さんの場合も、タッタ一発しか聞えなかった訳だ……)  冷静な第三者の泰堂先生は、カンタンにこれを解いてしまった。私は柳さか狼狽した。 『で、それは全然音がしませんか』 『そばにいればするさ、ブスッというそうだ……離れていればわからんだろうが……』  アンマリ簡単な解答に、私は呆気にとられてしまった。  私は、追っかけて、すぐ次を質問した。 『じゃ先生、もう一度詳しく海老澤さんの殺られてしまった現場をお話ししますから、なんか ヒントがあったら教えて下さい』  私は手帳の紙を一枚裂いて、図を書きながら話し出した。 『海老澤さんの「兜島新興株式会社」はこのビルの三階の道路に面した、恰度入口の真上にあ るんです。で、音を聞いた時は、私と警官が、そのビルをはさんで両側に居、小使が地下室に いたわけですが、その音と一緒に小使が飛出して、階段をかけ上って行って、三階まで行きま したが、別に人にも会わず、変った様子もないので、念の為、四階から上の方も見廻ったそう です。各部屋はみんな鍵が違っていて、厳重に締っていました。窓からも遁げられません、エ レヴェーターは海老澤さんが乗って行った儘三階にーこれは貸事務所ですからエレヴェータ ーボーイはいなくて、自動昇降機ですからボタンを押さなければ降りて来ないんです。で、馳 けつけた私と警官が、私は階段から、警官はエレヴェーターを下して、それに乗って上って来 た-…・のですから、小使と入れ違いにエレヴェーターで犯人が降りたとは考えられないんです。 私達が入口へ来た時は、まだエレヴェーターは三階にちゃんとあったんですから……。小使が 上へ行ったのを行きすごしてその隙に階段から……といっても、狭い階段を私が上って行った んですからソンナことはありません……』 『ふーん……』  泰堂先生は、ゆっくり老眼鏡の曇りを拭ってから、それを鼻の先きにかけて、私の書いた図 を眺め透かした。 『……先ず小使だナ、怪しいのはー』 『それが最も妥当な解釈です。……私もそうだと、一度はきめたんですが、其後警視庁の調査 によると、小使はこの問題から除外しなけりゃならなくなったんです、という理由は色々ある らしいんですが、平素の様子から見ても、典型的な好人物ですし、第一こんな頭の入り組んだ 人殺しの出来る男でもなし、又その必要もない……といったわけです。第一の小使を除外し、 私を除外し、警官を除外したら……アトには唯被害者の海老澤氏だけがのこるということにな りますね、これでは実に不合理じゃありませんか……』 『ふーむ……』  泰堂先生は目をつぶって、頭の中を整理しているようであったが、|臆《やが》てぽつぽつと話しだした。 『君、これは一見、甚だ不合理なようだけど、きっとアッサリ解決する鍵があるに相違ないナ ……ただ一寸わからんが……その部屋には錠が下りていたんだからと……』  先生は忙しく|顎《あご》を撫でだした、これは先生が苦慮するときの習慣であった。 『ええと、先ず第一に海老澤氏が自殺した場合1』 『先生、それは考えられません。海老澤氏も発砲した形跡はありますが、致命傷の|銃弾《たま》は全然 違うピストルから打たれたものです・…:自殺の原因は全然ありませんー』 『第二は、窓越しに打たれた場合……』 『窓は全部|閉《しま》っていましたー』 『第三、犯人は犯行後他の部屋に隠れたとしたら---』  先生は、やっぱり目をつぶった儘、ゆっくり口を動かしていた。私はこれも否定しなければ ならなかった。 『全階綿密な捜査をしたそうですが、それも徒労だったそうです』 『若し犯人なし、とすれば……』  先生は突ッ拍子もないことをいい出した。 『そうすれば、もう一つのピストルはドコヘ行ったか……』  先生は直ぐあとを眩やかれた。 『矢張り犯人はいなければならぬ、そいつは何処へ行ったのか・-…』  結局、堂々めぐりに終ってしまった。  犯人がいれば我々の目に触れぬ訳がない。もし犯人がいなければ、兇器が消えてなくなる訳 がない。この甚しき矛盾を結ぶ|等符号《イクオ ル》は何か。 この難問題に、 真正面からぶっつかっても、 なかなか解けそうにも思えなかった。 四  私と泰堂先生とは、しばらく無言であったが、やがて私が話題をかえて口を切った。 『先生、この前珍宝1というお言葉を聞きましたが、兜島に関係するもの……といったらド ンナものでしょうか』 『そうさな、書画の類はああいうところでは保存が六ケ敷いからまず珍陶雅器……或は金銀、 というところかナ』 『でも金銀1というのは誰にでも値が解るから|散逸《さんいつ》する|惧《おそ》れがありますね、そこへ行くと焼 物のヨサなどは素人にはわからないとこがありますから、この方が保存されている率が高いか もしれませんね』 『そうだ、えらいナ、くだらんものだと思うて押入の隅に押込んどいたもんが、案外たいした ものだ……という話はよくあるナ』 『で、そのいまの兜島が生れたーというのは何時頃の事ですか』 『ハッキリ記憶せんが……江戸時代だったかな、元禄、宝永年間と思えばよかろう』 『その頃の南伊豆の風土記みたいなものがありますか……』 『ある、尤もこれは写本だ「|阿津加波《あつかわ》の記」(|熱川《あつかわ》の意)というんだ。見るんだったら貸して もいい……』  先生は気軽に立って、三巻ばかりの薄汚れた写本を持って来てくれた。薄茶色の表紙はなか ばぼろぼろに存って、テッか白と「阿津加波の記」とかかれている表題が読めた。私はその和 本をぱらぱらとはぐりながら、 『じゃ、拝借して、ゆっくり拝見します。……それから各地の陶磁史みたいなものがあります か、なるべく系統的な……』 『そんなものはないよ、大体君陶工なんてもんは筆がもてんからナ、|粕薬《うわぐすり》の調合でさえ、み んな口伝だぜ、……たまに茶人なんかで変った奴が書きとめた位のもんだ、もっとも|会席《かいせき》なん かは記録があるがね……』 『その頃の陶書ではどんなものがありますか、なんでもいいですがー』 『陶書1と名のつくやつで、そんな古い系統的なものは先ずなかろう---色々他書に散見す るのを集めるより仕方ないナ』  先生はあっさり|否《   ち》定してしまった。私は消音ピストルを発見して喜んだのも束の間、又|落胆《がつか》 りしてしまったのであった。 × 泰堂先生の長屋を辞すると、外はいつの間にか、 密雲を吹払って、キンと澄みきった北風が、 夜色の底に渦を巻いていた。私は外套の襟を立てて頸をすくめた。鼻の上に来た襟の先から、 ほのぼのとナフタリンの匂いがし、お馴染ののれんをフト思い出した。 (よし、南小路露滴を訪問してやろう……)  私は決心した。  質屋ののれんと南小路-誠にヘンな連想だが、山に対する川のように、直ぐそれが浮んで 来たのだ。 (まず腹をこしらえて……)  行きあたりばったりの食堂で、冷えきった椅子に、がたがた震えながら|待《ま》つ|間《ま》、目の前に投 げだされた夕刊を手に取った。 山村一甫殺さる  海老澤事件にからまる   謎! のかずかず-: 213白日鬼  期待していた見出しは、直ぐ目に飛込んで来た。  読んでみる中、私は次の一項にぶッつかって、ドキンとしてしまった。 「尚、事務所所員等について目下調査中であるが最近雇入れた葭村海子(二七)がその前日山 村より特に海老澤氏事件に関係して調査するよう命じられて外出した儘、本日午後二時に至る も更に行方不明の為、自宅に刑事を派したところ履歴書の住所は全然|出鱈目《でたらめ》とわかり同女の不 可解な行動について目下当局は極力行方厳探中である」 (これは|不可《いか》ん……)  葭村海子はゆうべ私のところを訪ねて来たのだー。 (あれから行方不明になるなんて)  この事件では常に私が、ワリの悪い役に置かれるようである。 (北條記者にいわなければよかった……)  私は今朝の電話で、葭村海子の訪問を喋ってしまったことが、たまらなく|悔《くや》まれた。 (知っているのは北條氏だけだが-…)  夕刊の欄外を確めると「東邦日日新聞」と書いてあった。 (北條記者は黙っててくれたのかな……)  私はここまで来て、やっと|噂《ま》っとしながら、電話をかりて東邦日日へかけた。 『北條さん、社会部の……』 (なんといって断ろうかなー)  と思っている中、 『もしもしおまち遠さま、いまお出掛です』  私は、その声をきくと、却ってほっとした。 (どうしたもんかな……)  冷えてしまった食事を|掻込《かきこ》むと、お茶で|咽喉《のど》を通しながら、考えた。 (矢ッ張、南小路のとこへ行ってやれー)  アパートに帰っても、何も手につくまいし、逃げるわけではないが警察からの訪問者に会う かもしれぬーと思うと、一寸足が向かないのであった。 第五章      さだえ も一人の貞枝         一 「南小路露滴」  ぼんやりと|黄色《きいろ》い輪を描いた外燈の光りに、筆太にかかれた表札の字が、風雨に|曝《さ》らされて、 ぽこんと飛出していた。  麹町平河町の高台、低く暗く低迷した水蒸気の一団は、|寒気《かんき》の為に、青黒い夜の縞となって 流れていた。  私はさんざん歩き廻ったので、ポカポカする体を、ぐつと引きしめると、玄関に立って案内 を乞うた。 『私、こういうものです。実は海老澤氏のことやそのほかの……ことで一寸、お目にかかりた いのですがーああそれから私葭村海子さんに最後にお目にかかったものです』 『はあ、一寸おまち下さい……』  女中が私の名刺を奥へはこんだ、私は居留守を使われると心外なので、わざと葭村海子の名 などをもち出して置いた。  その為かどうか、私はスグ応接室へ通された。その応接間はイカにも豪奢なものであった。 床の絨毯はほんもののエジプト織であろう、その|朱《しゆ》の|発色《はつしよく》はとてもイミテーションを許さぬ 落着いた美しさがあった。数脚の椅子もどっしりした見事なもので、つづれ織の張布が張って あった。その洋間は二つの隅に飾棚を持ち、その硝子張の飾棚の中には、壼だとか茶碗だとか 水滴だとかーそういった陶器共が、いかにも横平な顔をして並んでいた。  こういった方面に、全然無智識な私は、一山いくらのものか、一個何千円のものか、サッパ リ見当もつかなかった。然し、この立派な応接間にあって、|四辺《あたり》にまけぬ、見劣りのせぬこれ らは、|屹度《きつと》驚ろくほど高価なものに違いないーと思われたが……。 ×  しっかりした|足音《ち ち あしおと》を感ずると、ドアーが開いて、一人の大島の着流し、 らした|賭顔童髪《しやがんどうはつ》、|大兵肥満《だいひようひまん》の男が、ゆっくり|這《 ち ち》入って来た。 『やあ、……南小路です』 『はじめて……夜分伺いまして……』 『いやいや、珍らしく夜家にいたもんだから……』 太い黒枠の眼鏡を光 『実はー』 (何から切り出したらよいかー)  思い迷っている中に、南小路の方から話し出した。 『海老澤さんの件ですか、どうも困ったもんですな、どうです、その後犯人の目ボシはついた んですかな……』 『イヤ、それが一向、何しろ原因からして不明なんですから……』 『ふーん、いずれにせよ、兜島に関係したことでしょうな』 『それから山村一甫氏が、何かご関係あるそうで……』 『いや君、関係というほどじゃないが、困っとるから金を貸してやった位でね……なあに・-・-』  言葉を濁してしまった。誰だって殺人事件の引合なんて厭なもんだろうけど…-。 『葭村海子1という婦人を、ご存じですか、あそこのー』 『しらんね、一向。素性がわからん……というから、なお変だな。あの男は人間を雇うのに、 そんないい加減なことはせんやつだが……』 『然し、その女がきのうの晩私んとこへ来ましたので……山村さんに命ぜられて海老澤事件の 調査をするんだ、といってました』 『ふーん、どんな女だね、それは……』 『……そうですね、洋服で断髪で……あんまりしっくりした洋装じゃなかったですが、野性的 な、張り切ったところがありましてね、まア……田舎の小学教員……といったような---』  注意深く南小路の|傲岸不遜《ごうがんふそん》な顔をみていた私は、かすかではあったが、眉毛の痙攣するのを 見遁さなかった。 (山村一甫-葭村海子  南小路露滴-海老澤達爾。何か鎖があるな)  と思いながら、何処から解いて行くべきか、に思いまよってしまった。この四人の中、二 人は殺され、一人は行方不明に。タッタ一人残ったのが、今、目の前にいる南小路露滴なの だ。 『どうも困ったことですが、友人知人関係は全部刑事が調べているそうですね、これっぱかし も|後《ろし》ろ|暗《ぐら》いとこがなくてもイヤなもんですからね、……先生のところへも来ましたか---尤も 裏面から調査してるらしいですが』  この言葉はたしかに|利《き》いたとみえて、南小路は露骨に厭な顔をした。 『けしからん話じゃないか、君。むろん僕だって後ろ暗いところはないさ、ないのに調べられ るーと思うと、余計不愉快だな、…-・フーム警視庁でこそこそ調査しとるのか、なぜハッキ リ面と向って来んのか、不愉快至極だ……』 (南小路は調査されてはイタイところが所々にあるのだろう---) 『でも、海老澤さんの方の関係だけでしょうから、たいしたことはないらしいですがね……』  私は一寸手をゆるめて置いた。あまり彼を興奮させてしまうことは、あとの質間に支障をき たす|惧《おそ》れがあったからだ。 『ところで、先生は古陶磁にかけては極めて御造詣が深いそうですが』 『いや、そんなことはないよ、いまは|止《や》めとる: まだ予防線を注意深く張っていた。 -』 二  私はしばらくの間、なけなしの古美術の智識を傾注して、南小路露滴との話題を継いだ。 『日本で、いま一番いいもの、高いもの……といったら誰のものでしょうかー、|柿右《かきえ》衛|門《もん》で すか』  南小路はこの質問にはじめて破顔一笑した。 『君、素人だね。柿右衛門っていったって幾代も続いているし、第一柿右衛門の初代の作品な んか、何個現存しているかが問題だよ、先ずあっても|値《ね》はたいしたもんじゃないな、高いのは |仁清《にんせい》、|木米《もくべい》、|乾山《けんざん》とこの三人位のもんだよ……』 『ははあ』  私には初耳の名ばかりであった。                  ` 『|木米《もくべい》というのは|青木《あおき》木米でしょうか  』 (古い画幅にそんな讃があったな)  とうろ覚えであった。 『そうさ。青木木米だ。だがこの中で一番いいというと、いいというのは語弊があるが|仁清《にんせい》の ものなんかには大きなものがあるからな、国宝にもあるぞ、壷、茶碗にいいのがある……』  南小路露滴は漸く元気になって来た。 『ははあ、その仁清  というのは何時頃の者ですか』 『|野《のの》々|村《むら》仁清は京焼の開祖だ、開窯は|寛永《かんえい》年間……というから先ず三百年位前だな、|尾形乾山《おがたけんざん》 は元禄だからそれより百年位下る……この乾山という男は京と江戸とを往来したらしいな、京 焼をする一方|享保《きようほう》には江戸へ来て乾山焼をやっているからな……』 (京と江戸とを往来した名工、これに何か関係がありはしないか……) (よし、尾形乾山の伝を洗いざらし探ってやれ……兜島に関することがあったら、しめたもん だ  ) 『兜島に行ったような記録はありませんか…-・』 『ええ、兜島にー』  不意に思わず口を滑らして、 (しまった  )  と思った。南小路露滴の面上には、又不快な曇りが、むくむくと現われて来た。 『兜島、兜島って、一体なんだねー』 『イヤ、なんでもありません……一寸……甘利山と-:-』 『甘利山  』  南小路は、ハッと椅子から腰を上げた。顔の色は、私の気のせいかさっと|蒼白《 ちあおじら》んだようであ った。 『君は、君は一体誰だ』  南小路の面上には覆い切れぬ不安が|濠《みなぎ》って来た。 『私、私は名刺を差上げた通り「河村杏二」と申します。三文文士で…-」 『君は何者だ、俺は知らんぞ、全然知らんぞ……島のことを・-…』 『ははあ、そうですかー』  この傲岸そのもののような南小路露滴が、甘利山の一言を聞くと同時に、俄然として狼狽と 不安の|俘《とりこ》となってしまったかの様子に、その不安の真意を知らぬながらも、自分の言葉に彼が 斯くも周章狼狽するのか、と思うと軽い愉快さを感じ、却って|糞落着《くそおちつき》を覚えて来るのであった。 (南小路をこれほど驚愕させた甘利山の一言にドンナ意味があるのか-・-.) 『南小路さん、甘利山といったら、大変驚かれたようでしたが、どんな意味があるんです か……』 『知らん  』  南小路露滴は考え深そうに口の中でいった。 『ね、ご心配は無用です。私は探偵でもないし刑事でもありません、・-:・』 『知らんよ。探偵でも刑事でもないものが、人を調べるのは変じゃないかー』 『調べるーんじゃありません、お聞きしているんです。一寸でいいんです』 『君はナンの為にそうおせっかいなことをするんだね、どういうわけで赤の他人の海老澤事件 にこう力を入れるんだねー』 私はこの逆襲に、一寸言葉を切られると一緒に、 (美何子さんの為に……)  と思っているのを覗かれたような気がして、いやあな気持がした。 『別に……理由はありません、あなたと同様正義を愛するからです……』 『ふん、……じゃ、|勘《すくな》くとも僕は犯人じゃないと見たわけなんだね、君は』 『なぜ……』 『だって、犯人のところへ事件の解答を貰いに来るめい探偵もなかろうからね……』  漸く私の事件について無智識なのに安心したらしい南小路露滴は、こんどは|椰楡的《やゆてき》に逆襲し て来るのであった。又、情ないことには、私は、 (成る程1)  と感心してしまったのであった。 (|兎《と》に角、南小路はクサい……)  と考えて、玉砕的に訪問して来たまではよかったが、思いかえして見ると、それは全然無意 味なことのように思われて来た。  これが何か聞き|質《ただ》すことでもあって、言質をとりに訪問するというのならばまだしも、ぼん やりと訪問して誰にでも構わず、事件の核心の解決を求めたって、それは結局無駄と徒労1 ばかりでなく、モシ相手が犯人だった場合、却って警戒を与えるようなもんだ……と、ヤット 気附いて来たその情なさ、|依《たよ》りなさー。でも、 (たしかに甘利山1に謎があるぞ)  と南小路の狼狽から推察されたのが、せめてもの慰めであり、 収穫でもあった。 三  |外《そと》は|墨染《すみぞめ》の空であった。平河町の高台には箒のような大櫻が、ばかばかしく從耳え立ち、病的 に|蘇弱《るいじやく》した月の一片が、かろうじて、その一枝にひっかかっていた。  高台の上に立って、遥かの街々を見渡すと点々とした漏火の中に、千億の謎を抱いて|暗転《あんてん》す る地球があった。ふんわりと悪霊のような夜の雲が散っていた。 (一体この事件は、ドコまで進展するのであろう……)  あえぎ、あがけばあがく程、事件の進展と逆行するような自分1 (貞枝さんの一言1) (南小路の狼狽)  期せずして一致したのは、兜島-甘利山-にからまる疑問符であった。 (一体、兜島とはドンナ処かー)  それも知らずに、事件の核心を|握《つか》もうとは、少し無理だったかも知れないー。  私は、南小路露滴邸を辞すると、急がぬ足をアパートの方に向け、|非道《ひど》い寒さの中で考え続 けた。 (ヨシ、兜島へ行こうー) (兜島へ行けば、何か手がかりもあろう- :) ×  その日、私がアパートに帰りついたのは、もう大分、夜も更けていた。 『お留守中にこの方が……』  と渡された名刺には、葭村海子。  私は唖然としてしまった。 (夕刊にあんな記事が出ているのに、堂々と名刺を置いて行くとは……)  私はその不敵さに、気味の悪さをまず第一に感じた。 『この人、きのう来た人だね』  私は何気なく訊いた。 『いいえ、はじめてのお方で……ゆうべのご婦人は……断髪洋装1でしたが、きょうお見え の方は---さ様、四十位……でしょうか、落着いたきりりとされた方でー、髪は束髪で渋い 立縞の……』 (貞枝さんソックリだ!)  私は|傑《ぞ》っとしてイだ《たたずん》|。 『君、その人の右-か左だったか、|兎《と》に|角《かく》小指の先き位の|黒子《ほくろ》がなかったかねー』  私は貞枝さんの特徴を思い出しながら訊いた。 『ああ、ありましたよ、左でしょう……』 『……君、まちがいないネ、その人がこの名刺を呉れたんだネ  』 『はあ、そうです……』  事務所の人は私の権幕に、びっくりしたようであった。だが、それ以上私はビックリ仕切っ ていたのである。 (黒崎貞枝-葭村海子)  この間にどんな関係があるのであろう。 (黒崎貞枝、とは真ッ赤な嘘、葭村海子が真の姿であろうか) (いや、貞枝さんは永年海老澤家に勤めているのだ、きのう来た貞枝こそ葭村海子の仮装では なかろうかー) (では、なぜわざわざ私のところヘソンナ姿を現わしたのであろう---)  とても、解釈しきれない難問題が、次から次へと飛出して来て、 (まごまごしていると大変なことになるのではないかー)  とさえ思われる程だ。 (海老澤家  は) (トンデもないことが、起っていなければいいが……)  私は無我夢中で事務所わきの電話機に飛ついた。ダイヤルが|独楽《コマ》のように廻った。 『もしもし、……もしもし』  ボツン、と受話器の外れた音がすると、 『もしもし』  そう答えてくれた声は、確かに美何子さんの声であった。私は、なんとはなく、|鳴《ほ》っとし|乍《なが》 ら、 『もしもし、河村です。美何子さんですか』 『まあ、河村さんー、ええ美何子よ。どうなさって、其の後。心配してましたわ』 『ええ、元気です。美何子さんは……』 『淋しいけど、元気よ、あたし』  私は、そのか細い電線を伝わって来る彼女の声調を、一ッかけらも聞きのがすまい、と受話 器を痛いほど耳に押付けた。 『実は、一寸おききしたいんですが……貞枝さんお変りありませんか今、お家にいますか』 『貞枝?』  美桐子さんの声は|怪訴《けげん》らしかった。 『貞枝、元気ですよ、でも今いませんわ、一寸お使いに行ったの、もう帰るわ、……なぜ』 『ヤッパリ、いまいないんですかー』 『やっぱり……って……』 『美何子さん、変な話ですけどね、貞枝さん……らしい人が私の留守中来たんですよ、葭村海 子ってご存知でしょう、その名刺を置いて行ったんです……』 『まア……』 『それで、何がなんだか解らないけど、とても不安になったんで一寸お電話したわけですが』 『まア……、こわいわ』 『失礼ですが、貞枝さんに変ったところありませんか、最近……』 『さあ、一向気がつきませんでしたけど』 『……そうですか、お兄様も元気ですか』 『ええ、兜島の会社の方を一日も早く進めたいって、一生懸命ですわ、もう殆んど整理がつい たようですわー』 『それは結構ですね、でも、呉々も御注意と御用心をお忘れないように、美何子さんからもお 伝え下さい…-・』 『ええ、ありがとうございます。よく、申しておきましょう……、河村さんは、あしたあたり お見えになりませんP……でも貞枝がそんなことになると、こわいわ』 『そうですね1実は私、兜島へ行って見ようと思っていたんです。兎に角原因は兜島にある らしいことは、なかば決定的なんです……私の調べたところに依りますとね……ですから、遥 かはなれた東京でまごまごしているより、一度行ってみなければならないと思いましてねー ですが……と、あ、そうそう、明日お伺いします、一つお頼みすることを忘れていました、少 し面倒なお頼みなんですが、構いませんかー』 『なんでも構いませんわ、出来るだけお手伝いさせて頂きたいと思ってましたわ……』 『そうですか、じゃ、明日改めてー』  私は、美何子さんの声を聞き、さそわれてみると、急に兜島行の予定を半日延ばして、海老 澤家訪問を、決心してしまった。美何子さんに頼む用なんて、今衷で考えてもいなかったこと だが、行きがかり上、そういわざるを得なかった。 (何を、頼もうかな……)  一寸、困ってしまった。 (えーと、そうだ、古書目録の分類を頼んでみようーどうせ、なかなか出来るはずもない が……)  1はじめとは逆に、ゆっくりと電話機の中に美何子さんの笑顔を想像し、甘味のある連想 を楽しんでから、電話室を出ようと、ドアーを肩で押し出した瞬間、私は妙な男が、外の廊下 をうろうろしているのを発見した。 『河村さんP……ですか』 『え、あなたは……』  その男は、馴れ馴れしく、私を呼びとめた。 『へ、てまえは、南小路先生のところに居りますもので……』  私はドキンとした。アパートの廊下の光度不足の照明の下でみると、その男は、極く細かい |久留米飛白《くるめがすり》の着流し、頭は一寸位に伸びた蓬髪で、極めて目立つ特徴は、今時メッタにみられ ぬ長い|月代《さかやき》をのばし、|檸猛精惇《どうもうせいかん》な書生風で、一寸、幕末から|鹿鳴館《ろくめいかん》時代1といったものを|彷 佛《ほうふつ》させるような、しっかりした|骨《ちヤちへ》組の青年であった。  つき出された名刺を覗くと、「|木野重司《きのじゆうじ》」とあって、住所のところに「南小路家書生」と麗 麗しく刷られてあった。  私はアッ気にとられると同時に、 (今の電話を聞かれはしなかったろうかー)  と先ず心配になって来た。そして、|周章《あわて》ていたとはいえ、自分の部屋へ行ってから、電話を 掛ければよかったのに……と|悔《くや》まれて来た。 『で、ご用は-…・ここではナンですから、私の部屋までー』 『いや、別に構わんです。先生からの御言付で参りましたんで、へ、寒いですネ……』  その男は懐へ手を突込むと、懐手の儘、私と肩を並べて歩き出した。  私は、その懐手に、なんとなく気味の悪さを覚えたが、でも、部屋へ行くまでの間に、この 男の話し振りから、余り頭のいい男ではないーと感づいた。  案の定、この男は、少し足りないようであった。部屋へはいると、先ずよろよろと見廻し、 『お一人ですかー』  とにやにや笑った。 『てまえの国にいいのが居りますんですがね、お世話しましょうか……へ、へ』 と眩いた、私は、フト、 (この莫迦を利用してやれ-…) と気づいた。 『……どんな御言付ですか、先生の』 『へつ』 その男は急に気付いたように、注意深く私の傍に来ると、 『先生が、|仰有《おつしや》いますには、兜島の件は、一切口外されませんように……とのことで、 『タッタ、それだけですか』 『へえ』 『それだけなら、電話でもくれればいいのに……まアいい。御苦労さま』 私は、≡二の銀貨を、その男に握らした。 少し具合の悪そうな顔をして、もじもじしていたが、口を私の耳元へよせると、 『実は、先生があんたの様子を見て来い、といわれましたんで……』 そういうとその男は複雑な顔つきをして、私を見返した。 『そうでしょう、そうだと思ってたよ』 『じゃ、御存知で……』 『どうせソンナこってしょうからね。私の電話を聞いたかね……』 へえ』 『いえ、一向、聞きませんでした、どちらへおかけで……』 『聞いてなけりゃ、いいんだ、もし聞いていたんなら、も少し、口止料をあげようと思って ね……』 『へーえ』  そのぼんくら書生は、残念そうな顔をした、私はその顔色から、 (本当に聞いていなかったんだなー)  と確かめることが出来た。          、 『まア、君、ゆっくりしてゆきたまえ……今お茶でもとるから……』  私はいつもの店ヘコーヒーとケーキの出前を注文して、彼の御機嫌をとってから、 『どうだね、南小路先生は忙しそうかね』 『そりゃもう、尤もナンで忙しいんだかしらんけど、毎晩遅うてな、奥さんが御機嫌ななめで すわい……殊にな海老澤さんが殺されよってから、えらく多忙でな、あんたさんは全く運がよ かったぞ……』  あんたにも「さん」が|附《ちヤ つ》いて来た。私は|可笑《おか》しさを|堪《こら》えて、 『ふーん、どこを歩いてんのかな』 『それがね、山村さんと行ったり来たりしてたんが、死んじやったでしょう。大狼狽ですわ い。……なにせ、奥さんちゅうのがチャッカリもんでな、いまもてまえが来るに電車賃を出し 渋るんやからなあ……』  ぼんくら書生は、くだらぬ愚痴をこぼしはじめた。私は、 『うんうん』  と聞き流すと、 『じゃ、山村一甫という男は、始終出入りしてたんだね、……殺されるような原因は、何かな いかな、なんでもいいがー』 『そうですな……』 木野書生は、ねらいをつけていたケーキに喰つくと、 『何しろ、あいつア|殺《ち ヤ》されてもいい奴ですからね、イカサマ師で、|女蕩《おんなたら》しで……、大きな声 ではいえないが、うちの先生よか、もう一まわり上ですよ、テがー』 『ふーん、で、最近何か問題になるような事はなかったかね……』 『……|表面《おもて》立った問題じゃないんですけど……私が睨んだところでは、女の問題じゃないかい ーと思ったんが一つありますんで……、うちの先生と山村とがえらく畷鳴り合っとりました ことがあるんで』 『いつ頃1』 『へえ、えーと十日ほど前、でな……』 『海老澤さんの事件の起る前だなー』 『へえ、そうで……』 『ふーむ、で、その女の名前はー』 『それがね、山村の奴が最近どこからか雇った女でね、それを又、うちの先生が、いい年をし てナンだとか、そうでない:…どか、うるさいこってネ……、名前……、えーと、そうさな、 妙な名前だよ、葭村ー海子Ilだったナ……』 『えっ、葭村海子!』  このぼんくら書生も、私の声にびっくりして、眼をぱちぱちさせた。そして、はっと気づい たように、 『どうも、御馳走さま……さよなら』 『君、君まちたまえ……』  私は呼びとめて、 『君、手ぶらで|帰《  》ったら|怒《おこ》られるぞ……河村はあれから|神田《かんだ》の方をぶらぶら散歩していてなか なか家へ帰りませんから、あきらめて帰って来ました、と、そういっときたまえよー』 『へえ、承知しました。……ありがとございましたー』  あたふたと帰って行ったテイノーな書生のうしろ姿が廊下に消えると、私は思わずこみ上げ て来る微笑を感じた。 (バカな奴も、こういう時は便利だナ) ()・ ・)(・ .)( 四  それから私は、休む間もなく又、外套をひっかけると神田の古本屋街へ急いだ。  そして帰りには百冊ほど古書目録を円タクに押込んで来た。  これは、明日美何子さんを訪問する為の「かこつけ」.の材料であった。私はこの中から、陶 器に関するもの、|古文書《こもんじよ》に関するもの、などの|撰《よ》り抜きを頼もうーというのである。|勿論《もちろん》う ら若いお嬢さんに、トテモ満足なことは望まれまい、とは予期出来ることであったが、でも、 いまの私には、そんなことはどうでもよかった。ただ、わざとらしからぬ、さも重要げな用事 にかこつけて美何子さんに逢うことが、楽しみであり欣びであったのだ。  私はその彪大な図書目録を部屋の隅に、積上げると、手をはたいて、もう一度見直した。彼 女との明日の会話が、その中にかくされているかのように、思われるのであった。  ×月×日  多事多端なる一日であった。その中にも事件は、粛々と迷宮への進軍を続けているのである。  山村一甫が忽然と眼前に登場し、間髪を入れず殺され去った。泰堂先生を訪問、この事件に  使用されているピストルは消音装置を持ったものであることを発見した。南小路露滴を訪問、  彼はたしかに一癖ある男である。追って精査する必要あり。夜、留守中奇怪なる黒崎貞枝の  来訪あり、葭村海子の名は銘記すべし。南小路の書生木野来る。却って南小路の人物の一端 をうかがい得たり。 (さてー) (あしたは、美何子さんを訪ねて……)  私は、手ざわりも痛くなった髭を剃ろうと、鏡に向った。ゆっくり鏡の中の自分を見つめる と、|薙《ヤこら》タッタ三四日の気苦労の為か、げっそりしたような、|青《ち   》黒い不健康な顔に変ってしまっ ているのを発見した。 (いまから、コンナことじゃ駄目だぞlI)  髭がうす|黒《ぐろ》い影を作っているせいか、|頬《ち 》骨の下が、ぺこんと凹んだように思われ、瞼が腫れ ぼったくぶる|垂《さが》って、|大袈裟《おおげさ》にいえば、見るかげもないーように思われた。  一寸、美何子さんの訪問に、気おくれを感じた私は、鏡の中の自分を|蔑《さげす》むと、丹念に石鹸の 泡を掻きたてはじめた。 第六章 事件の核心 一  矢張り|蕊《しん》が疲れていたのであろうか、|不図《ふと》目を覚ましてみると、もう冬の陽が、力ーテン一 杯に手を拡げて、部屋の中も、うっすら|温《 ちち ぬく》もりかけていた。  私は、力を|軍《サし》めて、起上った。 (さあ、シッカリしろよー)  自分自身にいい聞かせ|乍《なが》ら……。  準備はO・Kl午前中に美何子さんを訪問して、それから一旦帰って、昨夜揃えて置いた 手鞄一つを提げて、兜島へー。  麻布高台の海老澤家は、きのう|一《   》日の|暗潅《あんたん》たる密雲から解放された太陽の下に、明るく暖め られていた。門前に並んだ黄菊白菊の一群は、タッタきのう一日の不順な寒気と朝霜の為か、 もう葉の先々が褐色にちぢれはじめていた。 『まア、ようこそ……、おまちしてましたわ』  美何子さんの歓迎をうけて応接間へ通された。椅子にかけると一緒に、 『貞枝さんは……』  と訊いてみた。 『はあ、ゆうべお使から帰って、……きのうはとっても寒かったでしょう、あれで風邪をひい たらしいのよ、で、寝てますけど……、ご用ならー』 『いえ、別に用なんかー、ただゆうべお電話したように……』 『あ、そうそう、どうでしたの……』 『それがね、どうもハッキリしないんですが……どういうわけで葭村海子の名刺をもった貞枝 さんが私のところへ見えたのかー』 『でもおかしいわね、貞枝はきのうあなたのとこへ行かない、っていってましたわよ……』 『フーム、では……と、いよいよヘンですね、じゃ「も一人の貞枝さん」が来たのかな』 『へんねえ、どうしたわけでしょうねえ』  美何子さんは、いかにも愁わしげに、その美しい三日月のような眉を曇らせて、ジッと|卓子《テ プル》 の上を見詰めるのであった。  私は、目の前の、彼女の美しい黒髪が真中から夢のように、あざやかに分けられた毛筋のあ とに、たとえようもない沁み透る美を感じた。 『:・…山村一甫が、私と同じ扮装をして殺されてしまうし……問題の葭村海子は、なぜか私に 会いたがっているし……私とこの事件とは、もう不可分のものになってしまいましたね』  そう眩きながら、 (もしや、山村一甫は私と問違えられて殺されたのではないかー) (葭村海子は、この私をつけねらっているのではないかー)  思わずドキン、とした。 (でも、私には、つけねらわれる道理がない……執拗につけねらうのならば一遍位は警告があ ろうけど……)  私は一息ついた。でも、 (海老澤氏も山村も、殺されてから後でさえ、原因がわからないのだぞ……)  となおも心の片隅で|脅《おび》やかす曝きがあった。 『河村さん……』  はっ、と現実に呼びもどされた。 『河村さん、きのうのお電話では、何か御用がおありのようでしたけど、……お手伝い出来る ことなら……』  と、彼女は退屈したのであろうか、沈黙を破った。 『あ、どうもすみません、うっかり考えごとしてたもんですから……』 『あれは……』  彼女は私が抱え込んだ大きな荷物を指さした。 『ええ、実はこれなんです。……「古書目録」なんですがね、この中から、まず古い陶器に関 する記録のもの、と、一般的な|古文書《こもんじよ》1といっても、ええと、|慶長《けいちよう》年間から享保頃までが トクに必要なんですがね……』 『まア、大変なものね……どんな必要がございますの……』  美何子さんは、|吃驚《びつくり》したように美しい眉を上げてききかけた。 『いやあ……ナンですが』   一寸思いためらったけれど、  『実はね、……誰にも口外しないで 甲下さいよ・私が今日までにやっと調  べたところによりますとね、どうも  事件の第一の原因は、兜島にあるら  しいんです。ところでその兜島とい  うのはね、約二三百年位昔に地震が |原因《もと》で伊豆半島の突端にあった甘利  山というのが海の中へ陥没して、出  来たもんなんですよ。ですから今日  の|石廊崎《いろうざき》と甘利山とは、甘利山即ち 兜島ですが、地続きだったことがわ かります。そしてですね、これから は私の想像なんですが……でも古文 書とか古記録とか電話でいったそう ですから、殆んど間違いないと思い ますが……甘利山に非常に珍重すべ き何か品物(っ-・)が残っているんじ ゃないか……それがこんどの殺人事 件を|惹起《ひきおこ》したのではないか、と思う んです、又、甘利山にそういった品 物が残っているべき確実性も、多分 にあるんです。いつだったかーそ うでしたねこの春頃の新聞だったか に、|蓮台寺《れんだいじ》附近の山村から|黄瀬戸《きせと》の 徳利が一対、|高取焼《たかとりやき》の|色絵皿《いろえざら》が数枚、 完全に保存された儘発見されたー ということがありましたね、黄瀬戸 の徳利は、あの|喧《やか》ましい腹といいま すか、胴といいますか、あそこに|輔櫨《ろくろ》のつぎのある|素《ち 》晴らしいもの、もう一つは御存知かも知 れませんけど高取焼の色絵というものの実物は非常に珍らしいもんなんですが、これが、いと も完全に、魔術のように現われたのです……』  私は彼女の前で、珍らしく|饒舌《じようぜつ》となった。泰堂先生から仕入れた智識とうろ|覚《ちち》えの新聞か らとった|資料《デヤタ》とからで、自分ながら立派な説をなして来たように思われた。  勿論、美何子さんは、 (いかにも……)  というように、感心してしまって、私の饒舌に聞き入っていたのである。 『……ところで、これは魔術でもナンでもありません、伊豆半島の突端の|僻村《へきそん》からナゼこんな ものが出て来たのか……といいますと、いまはもう鉄道が発達してしまったので、一寸忘れら れ勝ですが、この附近には下田港という非常に開けた良港があったからです。昔はすべて海運 によったもんですから良港の附近には、|屹度《きつと》移入、或は輸入された珍らしい異国のものが、《 》|ふ んだんにあったことは、疑いのないところでしょう……、これですよ、この船1という最高 能力を持った運輸機関が、盛んに出入した土地であり、その附近ですから北九州に産する高取 焼の珍器や|尾張《おわり》の黄瀬戸などが、ひょっこり|出《へちヤヘ 》現するんです。実に理の当然です……。  私は、これから考えたんです。本当に大昔から兜島というものが、一孤島であったならば、 或は大船の寄港もなく、こんなことは夢であったかもしれませんが、これがタッタ三百年前位 までは下田と地続きであった……ということは、何か非常な珍器、重宝がいまの兜島の前身、 甘利山に伝わっていたのではないか、いや、現にのこされているのではないかーという疑問 が起るのは、これまた当然ではないか……と思われるのです。  そして、そしてです。それがナゼ今日までほーって置かれて、いまになって、急に殺入まで 捲起すような事件になったのか……といいますと、1これはヤッパリ私の想像ですが1珍 器の存在していることが、最近になって漸くある人にわかった、ある人がその古記録を入手し た、のではないかーと思います。  で、早速兜島へ掘出しに行ってみると、既にお父様の「兜島新興株式会社」が設立されて、 どこへも鋤を入れることが出来ない、仕方がないのでお父様へ交渉したが、ソンナ夢のような ことを種に、島のあっちこっちを掘りかえされていた日には、「兜島新興株式会社」の事業が あがったりになりますから、お|父《 へち ち》様からは|断乎《だんこ》はねつけられた……というのが、あの貞枝さん の聞いた電話の一節ではないかーと考えたのです。  又、そのある人が意外に兇悪な男だったと見えて、交渉手ぬるし、と見たのか、最も野蛮な る殺人まで犯したのでないか:…。お父様はその兇悪なる金儲け捜しの犠牲になられたのでは ないか……と思うのです』  私は饒舌を続けて行くうちに、頭の中にもやもやしていた色々様々な「ではないか・…-では ないか……」の疑問が、理路整然と|纏《まとま》って、口をついて出て来るのであった。  私は、われながら、こんなうまいお|饒舌《ちちちしやべり》であるとは気づかなかったので、自分自身、柳かア キレ気味であったほどだ。 『その、そのある人っていうのは誰ですの!』  美何子さんは、思わずその美しい顔を、固くこわばらせて、椅子から腰を浮かせた。 (父上を死地に堕し入れたものは誰か:::) 『……それは、それは、まだ残念ながら指摘することが出来ません、でも、もうここまで来れ ばあと一歩です。1誓って私がその犯人を指摘して御覧に入れます……』  彼女の心情を思うと、誘いもせぬ泪が、熱っぽく瞼の裏に集まって来るのだ。 (犯人は誰だ-…)  いくら、|咽喉《のど》のはり|裂《さ》けるほど、畷鳴ったとて、向うから返事をして来るワケはないのだ。 (一歩一歩、その兇悪無惨な犯人を追いつめて行くより仕方がないー)  その|歯掻《はがゆ》さ、口惜さ-…・。でも、私は美何子さんと一緒に泣いてはいけない、ただ|犯《 ち》人を呪 ってはいけない、堂々とその犯人を向うにまわして、その悪を|発《あば》いてやらなければいけないの だ。  美桐子さんは、漸く私の慰めに耳をかしてくれた。そして、私と共に雄々しく犯人と戦って くれることを口約してくれたのであった。 二 『で、どういう大切なものが、 兜島に|匿《かく》されてあると思うの、 河村さん--』  彼女はけなげにも、かすかな微笑さえ見せながら、問いかけて来た。 『さあ、それです。勿論重宝があるだろう……というのが仮定ですから、それがナンであるか、 ということになると、いよいよ困難を感じるんですが……でも、やっと調べたところによると、 タッタ一つ、非常に有望なヤツが現われたんです』  私は少しもったいをつけて話し続けた。 『というのは、|尾形乾山《おがたけんざん》-という名工がいるんですが、この乾山作というものは、今日では 非常に珍重されてましてね、日本で最も高価を呼んでいるのはこの乾山と|木米《もくべい》、|仁清《にんせい》、先ずこ の三人に指を屈するわけですが、その中でもこの乾山という男は、もともと京の人間ですが、 |偶《たまたま》々江戸へも下って、然も|窯《かま》を|築《つ》いたこともある……という事蹟があるんで、伊豆へも全然因 縁なしというわけでもないし、或は東海道の道中で、伊豆路を通ったかもしれない、何か晶物 をのこしたかもしれない……という確率を、非常に多分に持った男なんです。  ですから私は、この男の伝記にまずねらいをつけたわけで、この男を発見したということは、 今日までの色々な発見の中、最大の大発見だと、私は思っているんですが---』 『まあ……』  彼女は、三百年も遡った昔に、この事件の核心が萌芽していようとは、思いがけぬことであ ったのであろう。ただ唖然、荘然とアッ気にとられていた…-・。 『驚いたでしょう。私もその源流のあまりに昔だったので、呆然とした位だったんです。でも、 がっかりしてはいけません、希望をもって解決の努力をしようじゃありませんか、一面からい えば萌芽が大昔だった、ということは、今日のこまごました感情問題から出発した突発的な事 件に比べれば、長い間に人間の感情というようなものを振り落し、洗い落して、事件の核心だ けが残っているのだ、と考えられますから却って真ッ正面からブッツカって行ける強味がある と思うのです……。  当時の記録に、如何なる大事実が残されているか、これを第一に発見しようじゃありません かー。それを美何子さん、あなたにお手伝い願おうと思うのです。ね、お願いします。この 古書目録を整理して、この中からグッド・ニュースが飛出せばいいですが……』 『やるわ、死んでもやるわ、…-・そしてお父様の仇をうって……』  彼女の声は、興奮にうるんで来た。 『そして、河村さんは-…・』 『私、私は今日これから帰って荷物を纏めてから兜島に行ってみます。一度この事件の震源地 を見極めて来ようと思いますから……』 『そお、大丈夫ですの・…-』 『大丈夫ですよ、そんなことは御心配無用です……で、あの健爾さんは、……会社ですか』 『ええ、あの兄は兜島の会社の方に夢中ですわ、父の遺志を果すのだ……と大変な元気ですわ、 でも犯人のことではトテモ心配しているらしいの、早く|捕《つか》まってくれればいいと始終いってい るんですけど……』 『そうですね、ご心配でしょう、……どうぞよろしくお伝え下さいー』         ×  私は、思わず長居をしてしまった海老澤邸を辞すると、急ぎあしで高台を下りはじめた。  兜島に旅立つ今日の私は、美桐子さんの優しい激励を受けて、よい|幸先《さいさき》に恵まれたように思 われた。  謎の島、兜島に旅立つ私としては、|柳《いさ》さか心が軽かった。  アパートに帰りつくと、すぐゆうべ荷造りしておいた鞄を下げて一寸、事務所へ挨拶しによ った。 『おじさん、二三日、旅行して来ますから……、ええ、一寸、京都の友人のところへー』 『ああそうですか、いってらっしゃい、あ、この方が:…』 『北條五郎……、ありがとう。又来たら二一二日関西へ行って来るーといっておいて下さい、 お願いしますー』  :…・東京駅へ馳つけると、恰度|熱海《あたみ》行の列車が、長々とした体を、プラットホームに休めて いるところであった。そして、私が乗り込むと同時に、もう快よいショックが、久しぶりの旅 情をゆすってくれた。  ……兜島へ行く路。それは陸路では熱海又は最近通じた|網代《あじろ》まで行き、そこからバスで下田 まで、そこから又バスで石廊崎まで行き小舟を雇って兜島へ渡る、という行き方。も一つは海 路を大島周りの船にのって下田に行き、そこから陸路と同じ方法をとるか、或は一週間二遍ず つ交う郵便船に乗って下田から直行するか、の二つしかなかった。時間的にいえば陸路は東京 から下田まで調子よくいって汽車が二時間半、バスが五時間半とみればよかろう。若し海路と するならば東京を夜の十時に出帆して下田につくのは翌朝七時である、そして海路は一日一航 であるし、私自身船酔いについていやあな思い出を持っているので、半ば無意識に陸路を採っ たのであった。 第七章 謎の兜島へ 一  汽車は寒気を|衝《つ》いて、湘南をひた|駿《はし》りに、|駿《はし》っていた。箱の中は暖房装置の為に、ムッとす るほど暑く、窓硝子はみんな|摺硝子《すりガラス》のように曇っていた。窓外の風景は、ピントの狂った天然 色幻燈のように、ちらちらとよろめきながら、何処までも後退を続けていた。箱の中はタバコ の煙と、|諸《もろもろ》々の話声とがわーんと|軍《ヤヤヘこ》もって、一種の旅情を構成していた。  私は熱海駅につくと、ひやっとした外気を感じながら、直ぐ駅の改札口にお尻を並べた榿色 の「|伊東《いとう》行」乗|合《バ》自|動《ス》車に乗継いだ、バスは最後の旅客が改札口を出切ってしまうと一緒に、 むっくりと巨体をゆすり始めた。  このバスに乗った客は、全部で十二人であった。私は|徒然《つれづれ》な盤に一人一人観察してみたが、 主に沿線の住人らしく、旅行者1とみられたのは、柏の葉の帽章をつけた学生の二人連だけ であった。だが、それも、切符を切る時に、 『伊東……』  と聞えたので、その先まで行くものは、この私、一人のように思われ、一寸、淋しげな気持 を覚えぬでもなかった……でも、移り変る沿道の風物は、私の網膜に新らたな印象を与えて|過《よぎ》 っていた。町を抜け、|魚見崎《うおみざき》の観魚洞を|過《す》ぎると海岸線に沿って、坦々たる薄鼠色の道路が、 ジグザグに山の出鼻を縫うのであった。右はマンネリズムな山脈の一端であったが、左に隠見 するのは、物凄く冴えた寒い海流と、ほのかに浮ぶ|初島《はつしま》の姿があって、眼を楽しませてくれた。 私は海を|航《ゆ》くことを、|半《なか》ば迷信的に|厭《い》みながら、その癖海岸線の美しさに酔うほどの|好《この》もしさ を感ずるのである。  約三十分にして|網代《あじろ》の町に|這入《はい》った。町に|這入《はい》ると同時に、ぷーんと|鱗臭《うろおし》い、魚類の集団 的な臭気が、窓の隅々から遠慮なく|沁《し》み|透《とお》って来た。ここでバスはいくらかの乗客を交換する と検札を済ませて伊東に向うのである。  伊東は、熱海からバスで一時間であった。私はここで|下車《おり》ると、約十五分後に発車する下田 行に乗換えなければならなかった。私は伊東の町を、往来の真中に立って見廻しながら、ニコ チンの補給に|努《つと》めた。  下田行の乗|合《ハ》自|動《ス》車の乗客は、私を入れてタッタ四人であった。大抵の旅行者は午前中に東 京を発って来るので、|謂《いわ》ば、この時間の旅行者は時間外であったのであろう。私を除いた三人 は、服装から見ても、旅行者ではなかった。運転手は黙々と力強い手首でハンドルを切ってい た。道が進むに従って、ハンドルの廻転は、いよいよ目まぐるしくなって来た。道は、砕石を |敷詰《しきつめ》られた峰を駿っていた。急速に墜落する冬の|陽射《ひざ》しは、もう|天城山《あまぎさん》の峰の林を、すさまじ い|茜《あかね》色に染めかかっていた……。  私は漸く退屈してしまった、時計の針は極めて悠然と廻転していたし、ただ足元からブルル ルルン……と響くエンジンの音と、急力ーブにスリップするタイヤの悲鳴と、切り迫った崖を 飛抜けるときの、けたたましい空気の摩擦音……とが、エンジンから漏れる暖気と一緒になっ て、とても溜らないカッタルサとなって、襲って来るのであった。  マダ下田までは、|裕《ゆう》に二時間の走行距離を残していた。私は、所在なさに、手を|伸《の》ばして居 眠りをはじめた少女車掌から「伊豆の|栞《しおり》」というリーフレットを取ってもらった。  それは安っぽい石版刷の案内図であった。緑色の芋虫のようないやあな格好の伊豆半島の|鳥 轍図《ちようかんず》で、|虹矧腫《みみずばれ》みたいな毒々しい赤いバスの路線が|隈取《くまど》るように、その芋虫を|取廻《とりま》いていた。 そして、遠く裾を引いたように、本州がバックになり、右手の方には、遥か「北海道」まで眺 められた。  私はその図をアクビをしながら、ぼんやり見直すと、裏を返してみた。  裏には六号活字のベタ組で、伊豆の温泉の所在だの効能だの、交通だの、特産物だのが盛沢 山に押込まれ、「伊豆の|温泉《いでゆ》に|長居《ながい》はおよし、縞の財布がからになる……」の|下《 ち》田小唄などま でが刷られてあった。だが、その次に、一寸、私の注意を引く一項があった。  それは「伊豆に関する昔時の文献」という最後のちっちゃいスペースを占めた記事だった。 読下してみると、 「当伊豆国は往時より風光の|明媚《めいび》を持って知られ、殊に下田港は海運の要港として知られ、幕 末の風雲の中にあっては|亜米利加《アメリカ》よりのペルリ提督が我邦に於ける第一歩を印したところであ ります。従って|文人邊箏《ぷんじんぼつかく》の操協繁しく伊豆を|謳《うた》った|詩歌《しいか》も其紗徽倣詳|躰肇《いとま》誼く、又文献にみま しても『伊豆日記』『阿津加波の記』『伊豆国山水録』及び『春夢温泉旅心』等貴重なる風土 記であり天下への紹介の辞であり昔時の伊豆を|躍如《やくじよ》たらしめるものであります」  私は、激しくゆれるバスの中で、摩滅した六号活字を漸く読み終った。その|下手《へた》くそな文章 は兎も角、最後に並べられた古文献の名に興味を持ったのであった。 (阿津加波の記1)  これは、あの泰堂先生のところで借用して、私の机の抽斗に入れたまま来てしまったが、床 へはいって、寝るまでの間に、ぱらぱらっと頁をはぐって目を通したきりであったが、一種の 温泉とそれに関係した|湯女《ゆな》評判記みたいなもので、さして期待した記事を発見出来なかったけ れど、まだこのリーフレットには未見の書名が二一二載っているーそれが、私の注意を引いた のであった。  私は、ノートを出すと、他の書名を控えた。 (いずれ、ゆっくり調べてみよう:…・)  窓外は、もう豊かな夜の|帳《とま》りが、垂れ|軍《こ》めていた。二条のヘッドライトの焦点は、|道面《みちづら》赤茶                                 きようらん瓦んとう けた山の出鼻、骸骨のような林……を舐め廻わしながら、物狂わしげに、狂乱奔騰していた。 時々|土埃《つちぼこ》りが|金粉《きんぷん》のように散っていた。道はいよいよ|険《けわ》しくなって、所々に「この先六〇米迄、 交換不能」と書かれた注意標が、グッと迫った断崖の|破目《われめ》のような道のはたに|白《ちちしらじら》々しくならん, でいた……。  私はふと気がついて、後ろの座席を見かえしてみた。いつ切間にか、乗客はみんな下りてし まったと見えて、後部座席はガランとしていた。この大型乗合自|動《ス》車は運転手と、少女車掌と、 たった一人の乗客-私とを乗せて、巨大なお尻をはげしく振り乍ら、下田の町を目がけて、 遮二無二下っていた。  漸く窓外に下田富士が、深夜の入道雲のように浮んで来ると、遥か下界の方に、ポツンポツ ンと外燈の光りが、湖水に写った星影のように漂って来た。  私は|慮《ま》っと溜息をもらした。時計は熱海駅からもう、五時間の経過を示していた。  ーバスは古い|土塀《どべい》の町角を、≡二回曲ると、下田町の中央にとまり、ラジエーターのてっ ぺんから、ぽっぽと白い湯気をはいていた。私は車を棄てると一緒に、かねて考えていた通り、 わざと|石廊崎《ちちいろうざき》から少し離れた|下賀茂《しもがも》に宿を取ろうと、ハイヤーを雇った。下田には温泉がなか ったけれど、すぐ附近の蓮台寺か下賀茂へ行けば、豊富な塩類泉があることは、汽車の中で調 べた智識であった。私は開けた騒がしい蓮台寺よりも、田園の下賀茂を撰んだわけである。 × 宿につくと、私は早速温泉へ飛込んだ。豊富な湯槽から立登るムッとした濃密な水蒸気は、 くしゃくしゃにバスで揉れた私の体をどこからともなく、快よくほぐしてくれるのであった。 |物見遊山《ものみゆさん》に来たように、うっとりと|目《 ちち 》をつぶると、窓外ではあり|余《ちち》った温泉の、裏川へ奔流す る音が、|濤《せんせん》々と響いていた。  私は、その夜、すべての問題と一緒に、東京の垢を洗い落して、ぐっすり眠った。 二  翌日。伊豆第一日は、|麗《もつら つら》々と明けはなれた。寝覚めの耳に、先ずはいって来たものは、水蒸 気の|送《ほとぱし》る、|轟《ごうごう》々たる響であった。床を脱けて開はなたれた廊下に立つと、朝霧と温泉から立登 る湯気とが、遠く|吊棚《つりだな》のように|靡《なび》き、|迫《さすカ》に南国を思わせて気温はぐっと暖く、東京の九月中旬 頃のようであった。  ここからは、山一つ蔭になっている為に、石廊崎の燈台も、兜島も見えなかった。私は温泉 利用のメロン栽培用温室の硝子板が、あちこちに林立して、しっとりと露に濡れているのを一 渡り眺めてから、早速朝食を済ませて、|妻良《めら》から来た石廊崎行のバスに乗込んだ。携帯晶とい ってはベストの写真機一つの軽装であった。  バスは相変らず、がらんとしていた。私は、昨夜宿の女中が、 『もうすぐお正月にでもなれば、皆さんお見えになりますが……』  と暗に、淋しさの弁解をしていたのを、思い出した。だが、私には、却ってこの昼間の暗黒 |横丁《  》のような静けさが|好《この》もしかったのだが……。  |溢《あふ》れ|渡《こぼ》れるような豊富な陽射しの中を、バスはぐんぐん進んで、間もなく湊を過ぎ、石廊崎 へかかって来た。眼がパッチリするほど鮮やかな海の色が、現われて来た。 『石廊崎終点でございます。……どなた様もお忘れものないように……』  タッタ一人の乗客の私に、車掌はそういうと、扉を押しあけた。車をすてると、右は崖が迫 り、左手は、すぐ足元の磯まで海水が寄せて来て、白い泡を沸かしていた。  私はそのすがすがしい空気の中で、二三遍深呼吸をすると、すぐ矢印のついた指道標に従っ て、石廊崎を登りはじめた。激しく傾斜した≡二軒の|煤《すす》けた集落を過ぎると、もう深閑たる自 然の真ッ只中にほーり込まれてしまうのだ。  径はうねうねと相当な勾配を以って雑木林の中に続いていた。気をつけて観察すると、もう 桜の枝の先に、ぽつんぽつんと膨らんだものを発見することが出来た。大地も空気も、既に早 春のように張切った力に満ちていた。都会には尖鋭な鋭角的な厳冬が訪れているのに、ここで はもう|円《まろ》やかな、春の曲線が、楽しげに|謳《うた》っていた。 (こんな平和なところから、あんな悪夢がまき起るとはー)  一寸、想像も出来ぬ、奇妙なコントラストであるように思われた。  勾配を登りきって、数分の平坦地を行くと、こんどは下り気味になった。始終道の両側には 肩位の雑草が繁茂し、一丈位の密林が覆いかぶさって、視界を極度にせばめていた。  ぼかん、と明るいところへ飛出すと、先ず真白い燈台が眼についた。白亜の燈台はあくまで 紺碧な、蒼宥をバックにして、まるで画用紙の切抜細工のように鮮やかに飛出して見えた。私 は足を速めた。  燈台へ通じる径を、右にそれて、岬の出鼻の方へ、崩れかけた岩のあいだを進んだ。恰度燈 台の下でグルッと一廻転して、径は伊豆の突端、その又石廊崎の突端へ抜けると、ポツンと切 った断崖になって、消えていた。そこには小さい祠があって、鼠色にうす汚れた紙きれが、海 風にひらひらと乱れている。  眼の下をぼんぼんぼんと輪型の煙をはいて、荷物船が通ってゆく、海の水は驚くべきほど紺 碧に澄んでいた。そして空も、どうにも仕様がないほど、何処までも透き通っていた。|陽射《ひざ》し は毛穴の一つ一つからシーンと|沁《し》みとおるほど豊富であった。あたり全体が、南国そのものの ように強烈な色彩と躍動する情熱にひくひくと|轟動《しゆんどう》している……。  その、目の前の海上に、戦さ兜のような恰好をして浮んでいるのが、謎の島、兜島である。  南国の強烈な陽射しを受けて、兜島の周囲の波は、ギラギラと耀き、眼はともすれば眩惑を 感じ、烈しい痛みを覚え、眼をつぶると、瞼の裏が、緑色になるほどであった。  今、.私の立っているところから、兜島までは、一浬か、一浬半の海上のように思えた。  空気はあくまで澄切っているので痛さをこらえてじーっと目をこらせば、≡二点の人家が、 見えるような気がした。  私はなおしばらく双眼鏡を忘れたのを後悔しながらも、島全体を観察した。 (なる程1)  いかにもその島は昔の山脈が陥没して出来たものらしく、周囲にはぐると、海岸線にまで迫 った崖をもっていた。  私は厚ぼったい外套を脱いで、小脇に抱えると、うっすらと|浮《ちちちち》ぶ汗を感じ|乍《なが》ら遥か右方にあ る、小さい入江の集落へ戻りはじめた。私はそこで舟を頼んで、いよいよ謎の兜島へ渡ろうと いうのである。 三  私を乗せた小舟は、贈の調子にゆたりゆたりとゆれながら春のように暖かな海へ出た。水は ガラスのように澄み切って海底の模様が手にとるように眺められた。 『お客さん、どんなご用だね……今ごろ』  潮焼けのした船頭は、太い|腓豚《たこ》の出来た指を、シッカリ組んで旛を押していた。 『なあに……、一寸、会社の用さ……』  私は何気なさそうに答えた。 『ああ、そうかね……』  船頭は一寸言葉を切ったが、 『どうですかね、もう出来ますかい……』 『いいや、そう簡単にゆかんよ……色々面倒があってね』 『へーえ、そうだかナ』  この平和な船頭は、東京に捲起った殺人事件なぞ、まるで知らぬようであった。 『どうだい、島の人は会社のことをどう思っているね』 『そりゃあ、よろこんでまさあ、大金になるからな、……尤も奴は別だけんど』 『え、奴ってのは、誰だい』  私はこの一言を聞き遁す訳にはゆかなかった。 『ご存知ないんで……、あの|醜吉《しゆうきち》をー』 『醜吉p……』 『へーえ』  こんどは船頭の方が驚ろいたように、一寸手を休めた。 『ご存知ないんで、1|西村《にしむら》醜吉、尤もほんとは|秀《ひで》の|吉《きちし》の|秀吉《ゆうきち》というんだそうだが、皆んな 醜吉、醜吉って呼んでまさあ』 『何をしてんだい……』 『さあ、何をしてんのか知らねえが、高利貸みたいなことをしてただぶらぶらしてるようだね、 もう六十を過ぎた爺さんだが、因業な奴は体はいつまでもしっかりしてらアねー』  或はこの船頭も、その御難に会った一人かも知れない、そういい乍ら横を向くと、ペッと唾 を、蒼い海に吐いた。  船頭は、|猶《なお》も西村醜吉という男の些細な悪口を、口の中でぶつぶつ眩き乍ら、旛を押してい た。  その中にも兜島は、 見えて来た。 刻一刻と近附いて来、 もう磯を物珍らしげに、 馳廻る子供等の姿が二一二 × 259白日鬼  私は舟べりから、兜島の磯へ飛下りた。うす汚れた着物を着た子供が、ポカンと並んで、こ の時節はずれの訪問客に見とれていた。 『待ってますかね、帰りをー』 『そうだね、帰りの舟はーと、ここにはないんだね、じゃ二時間ばかりで帰るから、待って 貰おうか』  私は背後に迫っていた鬼気を、その時は微塵も感ずることが出来なかった。 『じゃ、二時間したら帰るから  』  そういい置いて、さっさと磯を登り始めた。  兜島の土地の構成は、確かに石廊崎と同様であった。薄黒い火成岩の上に、赤土の層があっ て、その赤土の層の厚みも、石廊崎で観察したのと、殆んど同様であった。 (泰堂先生の説は、正鵠を射ているな)  私は眩きながら、足に力を軍めて崖を登り始めた。  頂上へはものの十分もあれば充分のようであったが、意外北径は|紆余曲折《うよきよくせつ》が烈しく、真冬 仕度の洋服の下で、大汗をかいて登りついたのは、二十分もかかってからであった。  登りついてみると、そこからは、島全体が一眸の下に不規則な円形の海岸線を持って海に浮 いていた。戸数は全部で六戸1と見られた。皆申合せたように、背戸に小さい畑をもってい て、何んの苗か、青々とした縞を作っていた。その中で一番大きな一棟は、島の南方を占め、 二三棟の附属した家屋が、それをカギの手に囲っていた  これが「兜島新興」の反対者、因 業爺西村醜吉の家であるというー。  島全体は、南国特有のキラキラする太陽に照らされ、ソンナ陰気臭いところはまるでなかっ た。いかにも心のうきうきするような、爽やかな空気に充ち満ちていて、十二月だというのに、 汗をさらう風が寧ろ快よいほどであった。  私は暫らくそこに立った儘、兜島の地形を望見すると、一種の好奇心に誘われて、南方の醜 吉の屋敷の方に、細い径を下りはじめた。  醜吉の屋敷は、こんもりと生い繁ったヒバの生垣にとりかこまれていた。だが、生垣なので 覗こうとすれば、いくらでも屋内を窺うことは出来そうだった。  私は殆んど無意識に足音を忍ばせながら、生垣に沿った小径を歩いていた。 (おやー)  生垣の隙間から、障子を放たれた室内が見られ、そこに、ここの雰囲気とは、およそ不釣合 な若い洋装の女の姿が、ちらりと目を射た。  はっ、として生垣の方へ顔を寄せた時だった、そして、 (葭村海子p……)  と思ったのと、同時、いつの間にか背後に忍び寄っていた何者かの為に、力一杯、ガンとば かり梶棒で叩き|前倒《のめ》された。 (アッー)  ぐわッ……。  一瞬、瞼の裏が、パッと赤くなると、咄嵯に振り向いた網膜へ、とても巨大な黒衣が、写っ た::-と一緒に、もう私の感覚は吸取紙に吸取られるように、薄れ去ってしまった……。 第ハ章 疑問の西村屋敷 一  フト、冷めたい冷めたい|雫《しずく》が、顔に当った。  ウーム、捻ると、気のせいか、いくらか体が楽であった。あたりは|真《ま》ッ|闇《くら》1。そしてじめ じめとした空気が、深閑とした周囲に|垂《た》れ|軍《こ》めていた。  私は|暫《しば》らくそこに投出されたように寝た|儘《まま》、目の玉ばかり動かした、多分、目が動いている のだろう、と思うのだが網膜にはナンニモ|写《うつ》らなかった、ただ真ッ|闇《くら》であった。なおも力をこ めて目玉を動かすと|後頭部《うしろ》の痛みが又じくじく|甦《よみ》がえって来た……。  ・…どのくらい時間が|経《た》ったであろうか……又、ふと|気《ちち》がついた。こんどは、 (生きているナー)  と感じた。手足は重い鉛がつまってしまったように、なかなか持上らなかった。  私は、やっぱり仰向にひっくり返った儘、何度も何度も目をパチパチした。  漸くして、うっすらともののけが写って来た。その嬉しさー。  大変な努力で、やっと上半身を起した。体中が「棒しばり」のようにしゃちこ|張《ヤヘちへま》っていた。 そのかったるさ、やる瀬なさ……。指の先は|石片《いしくれ》のように固く冷めたかった。 (一体、こここはどこであろう……)  脳細胞に漸く血液が循環し始めたような感じがした。途端にアタマ全体に、ジンジンと|痙《うず》き わたるような痛さを覚えて来た。 (一体、何時かな……)  時計をポケットから出すのも、|億劫《おつくう》であった。 × 263白日鬼  それから又、どの位時間が経ったものか、漸く私は立ち上った。  天井は私が立って、殆んどすれすれであった。手で|擦《さわ》ってみると、凸凹に削られた岩のよう で、うっかり擦ると、雨のように砂が崩れ落ちて来て、頭といわず肩といわず砂まみれになっ てしまうのであった。  どこからともなく漏れこんで来る、蛍光のように淡い光の中で、じーっと闇を凝視すると、 ここは岩を掘った洞窟か、或は地下室1といった感じであった。光りが余りにも弱々しいの で、一体、どの位の広さなのか、それすら一寸見当がつかなかった。 (一体、ここはどこなのであろう……)  私は、漸く醜吉屋敷の生垣のところで、ぶん撲られたことを思い出したー、ソレッキリで あった。 (すると、ここは兜島のドコカだなー)  そうかー、 (西村醜吉に|囚《とら》われたのだなー)  でも、一寸屋敷の中を|覗見《のぞきみ》した位で、こんなわけのわからぬところへ幽閉されるとは、|御念《ごねん》 が入りすぎているぞ……。  私の脳細胞は、一瞬、最高能力を発揮した。 (そうか。西村醜吉こそ、この事件の黒幕に違いない。それでなければ別に私を幽閉する必要 もないわけだー、エライ奴に|捕《つか》まったぞ)  私はゾッとしたものを感じた。 (一体、|何時《なんじ》かなー)  又ポケットから時計を引っぱり出して、文字盤を鼻の先にくっつけるようにして、やっと針 を捜し出した。  六時五分過ぎ、であった。 (午後かなー、それとも午前かな)  このうす明りは、夕方のものか、朝のものかー、 (午前だ、午後の六時なら、もう日没を過ぎている……)  私は、愕然とした。 (してみると、今日は|何日《なんにち》であろう……)  私はたまらなく|伯《こわ》くなって来た。居ても立っても居られぬ泣き叫びたい衝動にかられて来 た……。  私が生垣を覗いたのは、午後の一時頃-だったから、もう|勘《すくな》くとも十七ハ時間|経《た》っている わけだ、イヤ、その間に、もう一日はいっているかも知れない、或は、今日は三日目かもしれ ない……。  地下水が、ぼたぼたぽたと五月雨のような|獺《ものう》い音をたてていた。たまらなく空腹を感じて来 た。私は手さぐりで岩の一つにかじり付くと、ぺろぺろ、ぺろぺろと、岩肌に浮いた地下水を 舐め続けた。そのわけのわからぬ岩に浮いた汗のような地下水の|美味《きつま》かったこと……。  やっと、私は人間らしくなった。ト同時に、マッチとライターを思い出した。  マッチは、長い間|湿地《しつち》にぶっ|倒《ち たお》れていたので、すっかり|湿《しめ》って用をなさなかった。|堅《かた》くこわ ばった指先で、ライターを点けると、パッと音がして、それだけの光りが、目をぱちぱちさせ るほど|明《あか》るかった。  肩の辺に|窮《かざ》して、あたりを見廻すと、ナント、私の投込まれたところは、タッタ四畳半位の、 いわば岩と岩との破れ目であった。  私は独楽のように、そのせまい岩の間をかけ廻った、そして改めて|落胆《がつかり》してしまった。  |怪詔《おか》しなことに出口がないのである。いや、私の入れられた入口がないのである。  私はぺたんと腰を落すと、揮発油の経済を考えて、ライターを消してしまった。又、物凄い 闇がかぶさって来た。岩に背中をもたせかけると、いままで気がつかなかったけれど、どこか らともなく、磯に寄せる潮の音が、極めてわずかに、消え消えに、|戯歓《むせびな》くように聴こえて来た。 それが、どうやら頭の上らしいのだ。……その|遣《や》る|瀬《せ》なさ、頼りなさ、情けなさ、不覚にも、 地下水とは違った生暖かいものが、頬を二つ三つ伝わったようだ-・…。 二  突然ザラザラッと砂の崩れる音がした。途端に、ハッとして現実に呼び戻された。  闇の中に目を|据《す》えると、気のせいか|天《ち 》井の片隅の岩が、もくもくと動きはじめた。 (何事が始まったのであろう……)  思う間もなく、その岩がぽっかり取り除かれると、そこから、奇妙な頭が覗いた。  ぼんやりと不規則な円形の光りが流れこんで来た。その光線は、気のせいか桃色に見えた、 『あんちゃん……』  その小さい頭が、ものを|喋《しや》べった。人間の言葉に接したのは、トテモ久しぶりのような気が した。 『うんー』 私は短く答えた。 『どうたい、面白いかい、ヘッ、ヘッヘッ……』  子供にしては声が太かった。 『飯、やろうかー』 『うん』  私はその言葉に|飛《と》びついた。 『ヘッヘッヘッ……、|内緒《ないしよ》だぜ……』  その光りの下に|旬寄《はいよ》った私に、鼠色のお|握《にぎ》りが一つ渡された。 (あの醜吉屋敷の縁側で手を拍っていた子供だー)  |間近《まぢか》で見ると、子供ではなく、もう青年iといった容貌であった。ただ極度に頭部が発育 不良なのであった、あの俗にいう豆あたまなのである。 『あんちゃん、寒いだろう……ヘッヘッ』  と覗き込んだ。この男は話し|好《ず》きらしかった。 『寒くって、仕様がないよ。そっちへ出しておくれー』 『いけないいけない』  その男は急に真顔になって手を振った。 『おやじに殺されちゃう……』  トテモ真剣な顔をした。よっぼど「おやじ」を恐れているようであった。重ねていえば又蓋 を閉めてしまいそうであった。 『おやじ、何処行った?……』 『うん、浜だー。もう帰るよ又来らア……ヘッヘッ』  私は|周章《あわて》た。 (このチャンスを|遁《のが》してはいかんー)  私は、懸命であった。 『君、君の名はなんというの……』 『ヘッヘッヘ……|友《とも》ちゃんだよ』 『友ちゃん、か、いい名だね。いくつ……』 『ウーン、 ヘッヘッヘッ……』  何をいっても、へらへら笑うばかりであった。  私は|忙《いそ》がしくポケットを掻き廻した、ライターに手が触れた。 『ほら、友ちゃん、いいだろう……』  私は、彼の目の前にライターを|窮《かざ》して、点けたり消したりしてみせた。  彼の目に好奇の色が浮んで来たのを、私は素早く読みとった……。どうだ、 らかした。彼は|瞭《あき》らかに欲しそうな態度を現わして来た。 『どうだ、これは銀だぜ、火が点くんだぜ……』 『くれよ!……』 どうだと見せび 友ちゃんは、|喰附《くいつ》くようにいった。 『さあ……』 私は、わざと頸を傾げて、 『いうことを聞いてくれれば、あげてもいいけど---』 『聞くよ、聞くよ。なんでも聞くよ。ね、ね---』 体が、ずり落ちそうに覗き込んで来た。はッ、はッと汗くさい息が、真ともに私の顔にかか って来た。ずるずるっと忙がしく鼻汁をすすっていた。 『よし、じゃ友ちゃんにあげよう……、その代り、ここから引っぱり出してくれれば---』 『ウーン……』  一寸ためらったようであったが、 『きっとだぜだましっこなしだぜ……』  手をのばして来た。頭に似合わぬ頑丈な手であった。そして思いがけぬ莫迦力がずるずるっ と私を洞穴から引張り出してくれたのである。  だが、そこも、まだ地上ではなかった。人工的に掘られたトンネルの途中らしかった。そう してみると、私の入れられたところは、このトンネルの下に、ぼっかり開いた岩石の破れ目で あったようだー。  私は改めて|標《ぞ》っとした。 (よくもまあ、出られたものだ……)  この、莫迦の友ちゃんが、のこのこ遊びに来てくれたからいいようなものの、もしあの儘、 忘れられていたら……、私はあのじめじめとした暗黒地獄の中で|野垂《のた》れ死をしたに相違ないの だ……なんという恐ろしいことであろう……。  友ちゃんは相変らずへらへらと笑いながら、ライターに夢中であった。もう|鼻汁《はな》をすするの も忘れて、ひねくり廻していた。 『友ちゃんー』  肩を叩くと、|吃驚《びつくり》したように、飛上った。 『どうして、ここに入れられたのを知ってたんだい……』 『うん、きのうね、|親《ち  》方がどこからか、寝てるあんちゃんを|担《ちち  ちかつ》いで来てね、こわい顔してここ に来たんだね、ヘッヘッヘ……一寸のぞきに来たんだ……黙っててくれよ、ヘッヘ』 (きのう  か) 漸く日の観念がハッキリした。 (やっぱり、醜吉の奴がやったんだな……) (東京の事件も醜吉の仕事ではないかー) 『友ちゃん、おやじは時々東京へ行くんだろう……』 『うーん、行かないよ。どこへも行かないよー』 (じゃ、違うのかなー) 『友ちゃん、出よう。おやじが帰って来るとまずい……』 『うん』  ぴょこんと腰を上げた。彼は|小《ち》っぼけな頭をふりふりわけのわからぬ鼻唄を歌いながら、ラ イターを眺め透かし、|窮《かざ》し眺めて|頗《すこぶ》る御機嫌であった。  そこは、前いったように、トンネルの途中らしく、左手の方は、ずーっと漆黒な闇が続いて いて、どこまで穴が通じているのか、見当もつかなかったけれど、右手の方を見すかしてみる と、ぽーっと|淡《あわ》い日射しが射していた。そのトンネルは、友ちゃんと私とが、漸く並んで歩け る程度の広さであり、天井はところによって|腸《かが》まなければならぬほど、低く垂れ下っていた。  私達は、殆んど手さぐりで先へ進んだ。ところどころの岩は地下水の為に、ぐっしょりと濡 れていた、そして、友ちゃんが時折、パッとライターを点けると、その震える焔に反射して、 汗をかいた岩肌が、めらめらと燃えるようにも見えた。空気は非常に重い比重を持っているよ うであった、しっとりとして太古の匂いを持っていた。  その長さは小半町ほどであったであろうか、私達は間もなくクラクラするような光線の充満 した地上に|脱《ぬ》け出ることが出来た。空気はすがすがしく、暖かであった。私は間違えて飛出し た|土龍《もぐらもち》のように、|周章《あわて》て目をパチパチした。  ーそこは、醜吉屋敷の裏庭の崖に、ぼっかり開いた|洞穴《ほらあな》の入口であった。どうやら自然の 穴に、いくらか手入をしたものらしく、古くはなっていたが、そこらあたり打ちくだいた|痕《あと》が 見られた。 『友ちゃん、おやじはまだ帰らないかネ』 『うーん、まだだろ……ヘッヘッ……あっちへ行ってみろよ』  そういって、ピカピカ光った|袖《そで》で忙しく、|鼻汁《はな》を|拭《ふ》いた。 『そうかい、じゃもういいよ……さようなら』  私は建音をしのばせながら、ところどころ口を開いた破目板張りの家に|沿《そ》って、裏の方へ廻 ってみた。時々足元で|踏《ふみ》くだかれる落葉が、妙に乾燥した音をたてて、|鋭《とが》った神経をはっと《  》|さ せるのであった。  ふと振返えると、友ちゃんは相変らずへらへらと笑いながら、それでもとても巧妙に、遣音 一つ立てず、|追《つ》いて来るのだ。睨んでも、まるで手答えがなかった。あっけらかんとして、|余《ち へちヘヘ》 計、私の傍へ寄って来るのだ。私は|柳《いさ》さか、持て余し気味になった。 『あんちゃん、……ヘッヘッヘッ』  友ちゃんは、私の傍にぴったりと連れそった儘、又洋服の袖を引くのであった。  へらへらと笑う度に、黄色な乱杭歯と、腐った|無花果《いちぢく》のような色をした歯茎とが、いぎたな くむき出された。私はその歯茎にフト或る淫影を連想して、悪寒をすら覚えた。 『あんちゃん、あっちへ行ってみろよ、ヘッヘッ、おやじが帰ったぜ……ヘッヘッヘッ』 『えッ、帰ったP |何時《いつ》1』 『たった、いまよ……』  テイノージ特有の不思議な敏感さが、眼に見えぬ「おやじ」の気配を感じたのであろう カ...《ニ》|《リ》|. 『ふん……』  私は|頷《うなず》くと、ペッと唾をはいた、私の唾までが、地べたにペッたりくっついて、ずるそう《ち  ちちちち》|に 光つた。 『むこうだぜ……ヘッヘッ』  友ちゃんは、私の袖をぐいぐい引いて行った。この醜吉屋敷の案内をするのが、友ちゃんの 最大の好意の発露なのであろう……。  私達は、やっぱり極度に楚音を忍ばせながら、母屋の裏手に廻った。その裏も、風雨にいた められて、、ところどころ|古《ヤ》新聞が|貼《よ》られてあったが、それももう茶色に古びてしまって僅かな 風にも、ブルルルルンと|捻《うな》っていた。  その時、気のせいか、なんともいえぬ|頽郁《ふくいく》とした香気が、私の嗅覚を襲って来た……。 (この香気はなんであろう……)  友ちゃんを振返ってみたが、彼は矢張りきょとんとしてへらへらと黄色い歯を見せていた。  私は、息を|殺《ころ》し、極度に神経を|研《と》ぎ澄まして、目をその一つの節穴に近附けた---。 三 第一に飛込んで来た|一駒《ひとこま》は、 見事な床の間を前にして、泰然と坐った大きな、 黒い紬の|無地《むじ》 を着流した男であった、これが西村醜吉であろうか。  |厳属《げんれい》たる肩を張り、|短《みじ》かくかり込んだ頭のうしろ姿は、如何にも精力的ながっしりした|男《   ち》の それであった。 (俺を、|撲《なぐ》り倒した奴だな、こいつは……《 ヤち》|)  私の目は、おそらく|欄《らんらん》々と光っていたであろう……。  だが、私は甚だ奇怪な感に襲われて来た。  彼は|端然《たんぜん》と|坐《ざ》して、香をたいているのである。  簡素ながら一間の床には、山水の軸がかかり、従って香炉は中央をよけて右にあった。そし て貴布の上には十種香筥をはじめ、一式の道具が揃い、一|娃《しゆ》の香から立ちのぼる香煙は香炉の 上二三寸のところから紫色に色づいて空間に遊曳し、式はまさに古式、大枝流に|則《のつと》った香道の 席らしく見られた。  彼が静かに|爪繰《つまぐ》る|紙音《しおん》は、源氏香図帳を繰る音であろうか。席は|組香《くみこう》を静かに進めていた……。 (今、現存しないという大枝流の香道を楽しむ、この男は一体何者であろう……)  私はかつて学生時代に、あの泰堂先生のお相手を|被付《おおせつ》かって、香を聴いたり、或はお茶のお |手前《てまえ》をやらされたりしたことがあるので式の一つ二つを心得ていぬわけでもなかった。従って、 尚この男の様子が不可解に思われたのである。東京には奇怪な殺人事件が起き、それに重大な 関係があると思われる男が、これは又、時代離れのした閑寂な遊戯に洗惚としている、|寂《わび》の|三 昧《さんまい》に陶酔しているのである。  私はこの奇怪極まる|対照《コントラスト》に、唖然としてしまったのであった。  私はー、そういえば思い出すことがあった。それは、余談であるが、この香道の『源氏香 図帳』というものを探偵小説に使ってみたら、面白いものが出来はしないか…-ということで あった。  というのは、一体源氏香というのは五種の香木を|採《と》り、その一種を五つずつ、合計全部で二 十五個に刻み、これを包んでおいて、その中から五個ずつ採って|焚《た》くーと、こうすると五個 とも同じになることもあり、二個は同じであとの三個は別々、ということもあり、又全部別々 の香になることもある。でこれを香を|聴《き》く方の人が|手記録紙《てきろくがみ》という紙へ|縦《たて》に五本の線を引いて おいて、初め|聴《き》いた香と次に|聴《き》いた香とが同じだと思ったならば、その上をつなぎ、又一度目 と三度目。二度目と五度目とが同じだと思ったら、|夫《それぞれ》々つなぐーとこうすると、香を一回|焚《た》 いて一つの図が出来るわけだが、これが香の出る順序によって五十二種の変化を現わすことに なる。これだ、これを言葉に結ぶとか、イロハに予め|当嵌《あてはめ》ておいて公衆の面前で悠々と香を焚 きながら秘密通信仕合うとかーといったようなことを当時、泰堂先生のお相手で退屈のあま り考えたことであったが、数年振りで香を|聴《き》いて、フトそんな昔の一寸した|思《ち 》いつきを|又《ヤち》思い 出した……。  ダガ、今はそんな悠長な場合ではない。  この妖島、兜島に|絡《から》まって、既に二人の殺人を出しているこの謎を解かなければならぬのだ。 否、私すら危うくこの世から抹殺されかけたのだ。 (西村醜吉は、私をまだあの洞窟へ押込んだ儘だと思っているのであろうか……) (人間一匹、地獄の中へ叩きこんでおいて、悠々と、香を聴くこの西村醜吉とは、一体ドンナ 男か……)  私はジッと目を皿にして、彼の背中を見守った。然し、彼は依然として無念無想の境に遊ん でいるようであった。彼のうしろ姿は、|最前《さいぜん》から微動だにしなかった。  ・…そして、どの位経ったであろうか……。  私の鼻の|先《さ》きに|真奈蛮《まなぱん》1と思われる香の漂って来た時であった。  すっ、すっ、と|微《かす》かな気配を感じると、私の小さい視界の中に、二人の男女が現れた。 『アッ!……』  私はへ必死になって、漸くその驚きの声を呑込んだ。  愕然とした。モノスゴイ|起重機《クレン》の重錘が、私の全身を叩きのめした。|傑然《りつぜん》とした。荘然とし た。.目前に|忽然《こつぜん》と出現した男女は、男は北條五郎。女は、ああ、あの黒崎貞枝さんではない か!  万雷の轟き渡る響がし、地軸が爆裂したような気がした〕 (撲られた時に、ちらりと見た葭村海子は、この貞枝さんの見違いだったのかな……)  それにしても、何か臆に落ちないものがあった。撲られた時の錯覚であづたかも知れないと 思ってもまだ釈然としなかった。これは最後の解決の際にまで持越された疑問の一つであった が……。それにしてもー。  こんな奇蹟が、又とあろうか。  東京にいる筈の北條記者と貞枝さんーそれも百年の知己のように馴々しく連立って、私を 殺害しようとした西村醜吉を、わざわざ兜島にまで訪問に来たのである……。  私の目は破目板の、細い割目に喰込むほど密接していた。 (果して、本当に北條記者と貞枝さんであろうか……)  私は何度も目を疑った。二人はなかなか正面を向かなかったので、顔をたしかめるわけには |行《ゆ》かなかったけれど、その態度物腰から北條記者の洋服、貞枝さんの着物まで、つい私が…二 日前、東京で見た儘のうしろ姿であった。  やっとこちらを向いたその印象的な西村醜吉の醜悪な顔ももうさして、興味を持たなかった。 私はその醜吉の鋭い眼光に、 (|見付《みつ》けられはしないかi)  と|冷《ひ》や冷やしながら、だにのようにその|破《  》目板にくっついた儘、一語も聞き漏すまいと全神 経を聴覚に集中していた。  簡単な挨拶らしいものが済むと、西村醜吉はにたにたと笑いながら、床の間の一端を指さし た。私の視線も、その指先きを追った。 (あっ、私の写真機が……)  いままで気がつかなかったけれど、たしかきのう生垣の外で気を失うまで持っていた私の写 真機が、いつの間にか、ちゃんとその床の間に置かれてあるのであった。 (やっぱり、この男だったんだナ……)  私には、 (俺がやったんだー)  という証拠を見せつけられたような感じがした。  醜吉が、何か二言三言いうと、その北條五郎と貞枝さんは、 『ふっふっふっ:::』  と含笑いをして、三人膝をすすめると鼎座したまま、ぼそぼそと話しはじめた。  その声は意外に小さく、どうしても、いくら耳を澄ましても、一言片句も聴きとることが出 来なかった。その無念さ、残念さ。  やがて、西村醜吉が、太いダミ声で、 『じゃ、いってみるか、もうのびてるだろうからナ……ウン、裏の穴だ……』  それだけ、やっと聴こえるような声でいうと、三人とも、一寸腰を上げた。  私は、 (しまった……)  と思った。恐らく彼らは私の死ざまを|見《  》に行くのであろうー。ところが、お|生憎《あいにく》さま…… とはいうものの、もし私が抜出したことを発見したら、1それこそこの狭い島全体は|忽《たちま》ち隅 から隅まで厳重な捜査が始まるに違いない、 (こんど|見付《みつ》かったら……) 私は色を失った。周章て、飛のいた。 私は|馳《か》けた、|駿《はし》った、|転《ころ》んだ、でも、 馳か友 けち たや  ん  な 馳讐ん つか た '  もう眼中になかつたo 四  どこを、どう|馳《か》けたものか、私は無我夢中できのう|最《ちちち》初に舟をつけた磯にたどりつくことが 出来た。手の甲から足の|脛《すね》まで、ところかまわず引掻傷が、ぴりぴりしていた。  でも、それどころではなかった。勿論、きのうの舟が待っているわけはない。然し、それに しても、どうしたことだ、磯にはいくら狂気のようになって捜しても小舟一ぱい見当らないの だ。 『バカ……バカ……』  私は無意識に畷鳴り散らした。いまにも|襟元《えりもと》を、グッと引戻されそうであった、居ても立っ てもいられなかった。とても堪らぬ、|切《せ》ッ|迫《ぱ》詰った焦燥であった。 (なんとかしてくれ  )  フト、沖を見た。 『おお……』  二三町先の海上には、いま出たばかりらしい郵便船が、紺碧の|海風《うみかぜ》に、〒とかかれた|小旗《こぱた》を ひらひらとはためかせながら、静かに流れていた……。 『まってくれ……』  私は一声絶叫すると、十二月の海へ春の身春の儘飛込んでいった。南国の太陽は、キテキラ していたけど、|遺《さすが》に水は冷めたかった、指の先、足の先が、針の山を撫で廻しているような痛 みを感じた。 ×  私はやっと郵便船に救い上げられると、あっ気にとられた船頭に、 『……いやあ、何しろ郷里の母が病気だというんでね、……大あわてだよ』  と、洋服を|絞《しぼ》りながら弁解しておいた。 『そうかね、お客さんはどこへいたネ……』 『ウン、その……西村・…-』 『ああ、そうかね、じゃ、いま会ったろ……二人|連《づ》れに……やっぱり、西村さんとかいったけ ど……』 『うん、会った会った。あれどこから来たんだい……』 『さあ、東京かナあ、下田から頼まれたんだけど……』 『ああ、そうか……、ああ、そうそう石廊崎に用があるんだけど、あの燈台のとこにつけてく れんかナ、……』  私は幸い内ポケットにあって抜かれなかった紙入を干しながら、頼んだ。 『うん、いいともー』  船頭は、その紙入を見ながら、心安げにいった。  私は石廊崎の真下の荒磯に舟を棄ると、岩にぴったり身を寄せて|撃登《よじのぼ》った。  あの突端の|祠《まこら》のある石畳には、やっぱり陽が|粂《さんさん》々と照ってはいたが人影一つ見えなかった。 私はそこに洋服を脱いで干し並べると、じっと兜島を凝視した。  海風は|瓢《ひようひよう》々と私の頬を撫ぜていた。まるで春のように|温《ぬる》い|風《かぜ》であった。あの、鬼の住む兜 島は、いつものように、ゆったりと金波の中に浮んでいた。その何事もなかったような小面憎 さー。  私の脳|味噌《みそ》は、極度の疲労に、砂となってしまったのであろうか、頸を|傾《かし》げる度に、|頭蓋骨《ずがいこつ》 の中で、サラサラと崩れるような気がした。 (北條記者と貞枝さんはP……)  私の網膜には、まだその二つの悪夢がこびり付き、一種裏切られたような激しい悲憤を感ず るのであった。  私は北條記者も貞枝さんも、信じ切っていたのだ。  北條記者は前いったように、或る文学会の席上で一緒になったり、この事件では素人の私を 鞭鍵激励していてくれた男ではないのかー。私は彼を|寸毫《すんごう》も疑うことが出来なかった。犯人 捜査の方法を教えてくれ、彼も一時は怪人山村一甫の出現に勇躍していたではないか、そして 又、その山村一甫が殺されてしまった時の|萎《しお》れかたー。  そして又貞枝さんはー、海老澤家に永年勤めた忠実無比な、美何子さんにとっては母がわ りの女性ではないのか-…・。 (一体、この二人が、ナゼ、この魔の島に現われたのであろう……)  そして又、 (あの二人は西村醜吉から私の写真機を示され、私が陥穽に落とされたことを聞きながら、寧 ろ、喜んでいた様子ではなかったかー)  も一つ、 (貞枝さんは、確か新聞記者の北條に、会うことすら|快《こころ》よく思わない|素振《そぷり》であった。それが、 旧知の如く肩を並べて現われるとは)  ああ、私はもう疲れてしまった。目を開けていることすら|獺《ものう》い。アタマはそれ等の疑問符が、 激しく入り乱れるので、ぼーっと上気してしまった……。  でも、私は歯を喰しばって、|海面《うなも》を凝視していた。 (兜島から舟が現われはせぬか……)  私が脱走したことを知れば、屹度、あの三人は周章狼狽するであろう、そして、私の居処を つきとめようとするに違いない、それにはこの孤島からの|唯一《ゆいいつ》の連絡である舟に依るほかはな いのだ…・:。  舟が現われれば、私はその行先に廻って、一かハかの札を切るつもりであった、面と向って、 黒白を詰問する心算であった。  だがー。  どうしたことか、兜島は、眠ったように静かであった。|扁舟《へんしゆう》一つ、出入する形跡もなかっ た。  ぐっしょり濡れた洋服も、既に乾いてしまった。海面一面には、もう|組《ろ》のような夕|霧《もや》が流れ 始めた。それだのに、海面はひっそりと静まりかえって、遂に一点の舟影も、発見することが 出来なかった。  キラキラした南海の太陽も、漸く光芒をおさめて、ぶるっとする夕色が襲って来た。 (|諦《あきら》めたのかなー)  私も、たまらない空腹を覚えて来た。考えて見ると、胃袋には友ちゃんからのお|握飯《にぎり》を、一 つ通したきりである。  私も舌打ちをすると、しぶしぶ腰を上げた。 第九章 第三の犠牲者         一  私が、下賀茂の宿屋に帰ったのは、まだ|茜《あかね》が山の|端《は》に残っている時分であった。 大急ぎで車を飛ばして来たのである。 『お帰りなさい、ゆうべは……』  女中が、私の顔を覗き込むようにして、笑った。 『お疲れさま、ほほほ……』  と何か誤解しているようであった。結局、私もそれをいいことにして、 『いや何、一寸用があって……』  と誤魔化すと、 『電話あるかい!』  と訊いた。 石廊崎から  東京に電話をかけて、無論いないだろうけど、北條記者の所在を確めてみようーと思った のである。 『モシモシ、東邦日日ですか、社会部の北條さんを願います……』  私は、受話器を握った儘、 (ご不在ですー)  という交換手の返事を待った。が、ポツン、線が切換えられると、意外、北條五郎の声が、 電線を伝って来たのである。 『モシモシ、北條ですがー』  私は、その声を、夢かと思った。一寸、言葉に詰まってしまった。 『モシモシ、モシモシ、どなたですかー』  |性急《せつかち》な声が響いて来た。 『モシモシ、北條さんですね、確かにー』 『そうです、北條五郎です、あなたはー』  遠距離電話の向うで、北條記者は不機嫌らしかった。 『私、河村、河村杏二です』 『えっー』  北條記者は、なぜか|吃驚《ぴつくり》したようであった。 『河村、河村さんですか、ほんとですか、|何処《ち  どこ》にいるんです、|何処《どこ》に……』 『一寸、出先きですが……』 『|何処《どこ》にいるんだ、随分捜したぜ、京都に行くといったそうだが、その形跡がないんでね、汽 車を全部調べたが……』 『へえ、一体、何が起こったんです……』  私は狐に|懸《つ》かれたような気がした。 『フーン、あんたなんにも|知《 ちちし》らないんですか、どうも驚いたナ、あんたの|行《ヤキち》方は、いま警察で 厳探中ですよ……海老澤さんが、又|殺《や》られたんだ、こんどは健爾氏がー』 『エッー』  私は愕然とした。危うく受話器を取落すとこであった。鼓動がドキドキと|顧額《こめかみ》で踊り狂った。 空気が鉛のように、胸の中で凝固してしまった。 『ほ、ほんとですかー』  体全体が、ガクガク頭えてしまった。 『美何子さんはー』 『美何子さんは無事だ、安心したまえ……ところで|何処《どこ》にいるんだ、工、下田P 莫迦に|辺鄙《へんぴ》 なところに行ったもんだね。……兎に角、大至急で帰って来てくれないか、1委細は新聞を 見てくれたまえ、今日の朝刊だ……君は新聞も見ないんかい、|呆《あき》れたな、どうも……』  私は受話器を、投出すように引っかけると、ヤットのことで部屋へたどりついた。  私には、何が何やら、すっかり五里霧中になってしまった。 (兜島に貞枝さんと一緒にいる筈の北條記者は、東京の真ン中で大活躍をしているのだ)  ナント奇々怪々な事実であろう。兜島からは、誰も出た形跡がない、然し万々一出たとして も、東京までいかに早くいっても、あの|長《なが》ったらしいバスの時間だけも、まだかかっていない のだ。 (では、兜島にいた二人1、あれは何者であろう……) (東京と兜島に、同時に同じ人間がいることはー)  それは奇蹟である。現実にはあり得ないことである。  断じてあり得ないこと、それが現に|行《おこ》なわれているのだ。なんという恐ろしさだ。 (兜島の二人は、私の見間違いであろうか……)  貞枝さんの場合は、あの葭村海子の名刺の一件があるので或はーと思われないこともない が、あの北條記者を別人と考えることは出来なかった。強いて、訂正するならば、兜島に於け る私の見聞、印象、経験の総ても根本的に訂正しなければならぬ、夢だと考えなければならぬ。 ソンナことが出来ようか、考えられようかー。 (では、遠距離電話の向うに現われた者は何者であろう……)  それも確かに北條記者であった。彼の独特な語調を、聞違える筈はないー。  私は気が狂いそうであった。世の中全体が、いまにも大爆発を起すように思われた、否、世 の中全体が、|塵《ちり》、|芥《あくた》となって飛散った方が、どんなにスガスガしいことであろう……とすら思 われたー。         二  私は女中が持って来た新聞を受取りながら、『東京に大いそぎで帰らなけりゃならんのだけ ど、バスあるかい……』 『さあ、もうございませんでしょう……船は如何ですか、毎晩十時に一度東京行が出ますけれ ど……東京へは明朝七時頃になりますわ……』 『フーン、まあ仕様がないそれに間に合うように呼びに来てくれたまえ……』  私は食事を|済《す》ますと、なにもかも、すべて忘れようと横になった。  でも、とても忘れられるものではなかった、益々、種々様々な妄想が悪魔のように跳梁する のであった。  私は、やっぱり起上った、そして朝刊を|拡《ひろ》げてみた。   あいつぐ|殺人《さつじん》の恐怖    海老澤健爾氏殺さる     アド・バルーンに乗る死体     事件はいよいよ深刻に紛糾 という四段を抜いた大見出しがあって、 次のような記事があった。 「海老澤達爾氏の怪死に発端した奇怪極まる殺人事件は、事件に重要な役割ありと推測された 私立探偵事務所長山村一甫が逮捕直前に死体となって発見され、又々矢継早に海老澤達爾氏令 息健爾氏が、何者かの手によって殺害され、然も奇怪にもその死体は銀座某百貨店の屋上に繋 留してあった|広告球《アド バル ン》に吊され、師走の銀座の上空をゆたりゆたりと流れているのを発見され たのである。  午後六時頃、折柄人の出盛る時分であったので、群衆は唖然と空中を見上げている中に、最 初は|風変《ふうがわ》りな広告かと思われていたその人形が、意外にも死体だと解って、俄然大騒ぎとなり、 直ちに係官出張調査したところ所持品によって、前記の健爾氏と判明、この怪事件はいよいよ 紛糾し近来稀なる重大事件となって、|何処《どこ》まで進展するのか、予断をすら許されないことにな ったi云々」  文句は違うが、こんな内容であった。その他、殆んど全面を潰した記事を、摘記すれば、 「アド・バルーンを使った意味不明。なぜわざわざ人目の多い銀座の空ヘアド・バルーンにつ けた死体を飛ばしたか、その意味は不明であるが、思うにそれは恐るべき犯人の一種の茶目気 であるらしくそれ以外の意味は一寸思い当らないー」 「原因も不明。健爾氏の所持品は一点も紛失したものがないので、物取りではなく、又怨恨を 受けるような事実もなかった。父達爾氏の場合と同様、全然原因が不明である」  だが、私が行方不明だ、なぞという記事はまだ出ていなかった。思い合わせてみると、最初 からなんらかの関係を持っていた私が、恰度健爾氏の死と時間を共にして行方不明になった、 などということになれば、一寸、困ったことになるのだi。  私は|噂《ま》っとした一危うく私は窮地に|落《おと》し入れられるところであった。  京都に行くーなどといってアパートを出て、なぜ下田にいたのか1下田でナニをしてい たかーということを詰問されると、我れながら答弁が危ぶまれた。  私は確固たる理由なしに兜島を見|度《た》いというだけで下田へ来たのである。そして、そこで経 験したことは、奇々怪々な夢の様な出来ごとの連続であった、それを説明した托κ拓が信じて くれるであろうか……。私自身ですら、信じられぬ摩詞不思議な連餉である、極彩色の悪夢で あるのにー。  私は、又電話をかけると、美何子さんを呼出した。じっとしていられなくなったのである。 『モシモシ……あ、海老澤さんですかP』 『ハイハイ、海老澤でございます……』  その声は、間違いもなく貞枝さんの、|平常《いつも》に変らぬ声であった、然し、私はもう驚かなかっ た、いまはそんなことに構っていられなかったのである。 『あの、大変なことになってしまって……さぞ、御心配でしょう……いま、美何子さんいらっ しゃいますか……あ、じゃ一寸……』  間を置いて、美何子さんの声が響いて来た。細い電線を伝わって来る、その|搦《じようじよう》々たる声の |哀《あ》われさ、物かなしさ……。 『モシモシ、モシモシ、美何子さんですか:・…』 『ハイ、まあ河村さん……ほんとに、ほんとに・-…』  語尾はかなしく震えてしまった。私は送話器に畷鳴った。 『美何子さん、美何子さん、シッカリして下さいよ。さぞ御心配でしょう…・-でも大丈夫です、 もう大丈夫です、及ばずながら私、私を信じて下さい。どうぞ気を落とさないで…-・』 『ええ、大丈夫ですわ……とても、とても|哀《かな》しいわ……私。でも、いいの大丈夫なの-・-・河村 さんを頼りにしてますわ、貞枝もしっかりしていてくれますし---』 『そうです……大丈夫ですとも……あの貞枝さんはずっとお家ですか、きのうもー』 『ええ、ずっと居りました……なぜ』 『いや、なんでもないんです……』  私は、いよいよ解らなくなって来た。 (兜島の貞枝さんはり…--)  (一体、何者であろう……貞枝さんに変装した何者かであろうか-….。ナゼ貞枝さんに変装す る必要があったのかー)  (すると、北條記者も贋物であろうかー)  いやいや、そんなことは考えられない。  『モシモシ、美何子さん、あの葭村海子1という女が訪ねて来ませんでしたか-・-・』 『そうねえ……|来《こ》なかったようだわ……いつ|東《  》京に帰られるの……』 『すぐ帰ります・-…何しろ不便なところなんで、|明日《あす》になりますけど……』 『そう、おまちしてますわ……あのね……あの本の方、整理しておきましたわ……』 『そうですか、ありがとう……では、あしたゆっくりお目にかかって……』 『モシモシ、あの本の中で「|春夢温泉旅心《はるのゆめいでゆのたぴどころ》」っていう名があるんですけど、この本がどこに も|見当《みあた》りませんの……』 『ああそうですか、随分詳しく調べられたんですね、済みませんでした……では…-・』  私は残り惜しい受話器を棄てると、ふと帳場をのぞき込んだ。  その帳場の奥の部屋には、一人の|老娼《ろうおう》が丹念に積んだ古書に|払塵《はたき》をかけているところであっ た。それを見ると同時に、女中が 『うちのおばあさんは本が大好きで……』  となんかの|序《ついで》にいった言葉を思い出した。 『おばあさん、一寸伺いますけど……』 『はいはいなんぞご用でー』  薄暗い電燈の下で、ゆっくり腰を伸ばすと、入口まで出て来た。 『あの「春夢温泉旅心」っていう本があるそうですけど、ご存知ないですかね……』 『……春夢……ああ、あんた、古い本ですわい…・-、ううと|確《たし》かありましたよ、うちのなお《 へ ヤ》|じ いさんのずーっと御先祖が書かれたんじゃ、その時分の御先祖は大学者でな、この辺の御用を つとめていられましたわい……なんせあなた昔にはこの辺は大したもんだったそうな….・』 『はあ、そうですかねえ、で、あ.りますか、その本は……』 『それがあんた、ううと、なんにも本がなかった時分に、歩いて調べられたところを全部丹念 に書かれたもんでナ……たいしたもんじゃぞ……先年もな土地の保勝会の方がな、ちゃんと調 べられて、わざわざ来よりましたわい、その時お貸しましたら写されたと見えてな、十冊位は 写しもんが出来たそうやが、ほんものはどこへもやらん……』 『その本を一寸、貸してくれませんか、損料位は出しますけど-…』 『ええもう、お貸しますとも、……いいえあんな損料なんてとんでもない……皆さんに見て戴 ければ、さぞ先祖も……』  おばあさんは|人《  ち》が|好《よ》さそうに口をもぐもぐさせると、部屋に引っこんだが、間もなく一冊の 古色蒼然とした和本を持って来た。 『じゃ、たしかにお借りします。ありがとう……』 『あの、お時間ですが:・…』  女中が顔を出した。 『え』  時計を見ると、もう間もなく九時になるところであった。 『おや、もうお帰りですか……』  おばあさんは|屹驚《 ちちびつくり》したようであった。 『え、急用が出来たんで-…・この本はあとでお送りします- にとっておいて下さい……』  私は本を鞄に入れると、さっさと宿を出た。 :少しばかりですが、 これは損料 三  闇の下田港には、二三百|噸《トン》の汽船が、イルミネーションのように明るい窓を並べて、静かに 浮んでいた。対岸の|弁天島《べんてんじま》からハリス上陸記念地あたりも外燈の光りに、ぼーっと明るかった。  ボーッと太い汽笛が鳴ると、|鵬《やが》てかすかな震動が伝わって来た。私は|船量《ふなよい》を恐れて、すぐ寝 室へ潜込んでしまった。  ……東京のヒンヤリした空気が、頬を撫ぜた……。ゆうべは|疲《 ヤちつか》れの為か、量も忘れて、ぐつ すり寝ることが出来た為か東京の林立したビルディングの姿を見た時も、スガスガしい気分で、 それを迎えることが出来た。  上陸すると同時に、早速東邦日日へ電話をかけた。 『モシモシ、北條さんですか……あ、河村です、いま着きました……随分早くからお勤めです ね』 『あ、河村さんですか、待ってましたよ、え、早いって、ゆうべから家に帰りませんよ、重大 な嫌疑者が現われたんです……ほんとです……』 『誰ですか、嫌疑者ってのは……又、|殺《や》られませんか、いいえ|皮肉《ひにく》じゃありませんよ、心配な んです……』 『それはですね、一寸ナンですから、こちらまで来られませんかー』 『ええ、行きましょう……すぐ行きます』そば      プ†・ξア 『そうですね、じゃそうして下さい。社の傍の、ええと、「青い色」っていう喫茶店へ来て下 さい、私もすぐ行きますから……』  私は円タクを止めると、すぐ有楽町の東邦日日の隣り、「|青《ブル  》い|色《カラァ》」へ馳けつけた。  ボックスヘ|落《おち》ついて、コーヒーを命じると一緒に、北條記者が這入って来た。 『やあ……』  北條記者は、ゆうべ|一《ヤヤち》晩の活動の為か、聯か|腫《は》れぼったい瞼をしていた。 『下田とはえらいとこに行ったんですね…∵』 『ええ、兜島っていうのは、どんなところかと思いましてね---』 『ああ兜島に行ったんですか……何か面白いことがありましたか』  北條記者は、別にたいした感動を表わさなかった。 『いや、面白いーっていうこともありませんでしたが、全然無意義でもなかったです』 『そうですか、それは結構でした』 『ところで、健爾氏が、又殺られたそうで……』 『ええそれがね……』  北條記者は漸く膝を進めて来た。  『兎に角、複雑な事件ですな、あの、あなたと同じ扮装をして殺された山村一甫なんか、一 時は真犯人かと思ったんですが、今考えれば、あれなんか一種の景物に過ぎなかったんです ね……』  そういわれて、私は山村一甫の不思議な扮装のことを思い出した。葭村海子と黒崎貞枝との 妙な混線を思い出した。  (してみると、あの兜島の北條記者も贋物であったのかなー)  『そうきのうの午後三時頃ですー』  北條記者は、私の考えに無頓着に話しはじめた。  『銀座で妙な人殺しがあったーっていうんで、恰度夕刊を〆切ったところでしたけれど、飛 んでいってみると、銀座二丁目のあるビルの屋上でね、ドコからともなく|広告球《アド バル ン》に吊された 死体が、空中を|漂《ただよ》って来たーというんです。空中を死体が漂って来たなんて、こんな突飛な ことがありましょうか……前代未聞ですね、ところがそれが健爾氏なんです。私は荘然自失し てしまったですよ……で、調べると、そのアド・バルーンはつい向いのデパートの屋上に繋留 してあったもんで、屋上といえば相当人眼があるのに、誰も気がつかなかったそうです……』  『死因はなんですか……矢張りピストル……』  『そうです。心臓の上に押つけた儘撃ったらしいですね、無惨にも洋服の胸のところが焼け抜 .けていました……それが、音は誰も聞かなかったそうで……』 『じゃ、いつものピストルですね、消音ピストルでしょう……』 『え、……』  北條記者は、|吃驚《びつくり》したように、私の顔を覗きこんだ。 『成るほど、消音ピストルー消音ピストルとは気づかなかった、|迂闊千万《うかつせんぱん》だナ・…-よく気づ かれましたね……』 『いや、なに、ピストルで|殺《や》られて、然も音に気づかなけりゃ消音ピストルと考えられましょ うからね……』  私は泰堂先生のことは、|憶《おくび》にも出さなかった。さも私の発見のように、澄ましていた。 『一種の盲点ですね、捜査上の……、くだらんことのようだが……』  北條記者は一寸照れくさそうな顔をした。こんな些細なことは、誰でも一寸気がつかないら しい。 『あんまり事件が複雑なんで、|度忘《どわす》れ、といったかたちですね、はっはっは…-・兎も角、事件 は迷宮入りです、五里霧中ですよ……』 『嫌疑者は……嫌疑者が見つかったそうですがー』 『ええ嫌疑者がいても、それは結局嫌疑者であって、真犯人とはまだ断言出来ませんよ……私 も脚か自信を失いました。鷲尾さんなんか非常に意気込んでるんですがね……』 『誰ですか、それはー』 『南小路露滴ですー』 『えっ、あれですか、ふーん……』  私も、何かしら、 (そうかー)  と思った。 (真犯人ではなくても、黒幕位の関係はあるだろう……)  とは、思ってみぬことでもなかった。ただ、証拠がないのである。 『で、どうですか、調べの具合は……。何か新事実か、それともヒントになるようなことでも ありましたか……』 『いや、一切不明1』  北條記者は吐出すようにいって、口をへの字にした。 『この前の山村一甫があんなことになったんで、鷲尾さん、とても厳重なんだ。鷲尾さんは 「知らん、解らんー」の一点張り、南小路には誰も近づけないんだから、大弱りですよ……』  そういって、彼の癖の、蓬髪を盛に掻上げていた。そして、 『だが、南小路は確かに一癖も二癖もありますぜ……あなたも、僕も、鷲尾さんにだし抜かれ たかな……』  彼はいくらか淋げに、小さく笑った。 『じゃ、どんな理由で引張られたんですか』 『それも、矢張り解らんですが、僕が、あの南小路のとこの書生1これは少し足りないんで ねーにいくらか嗅がして聞いてみると、山村一甫と南小路とは口論した事実があるそうで、 これが鷲尾さんの耳に這入ったんじゃないかー、と思う位で……』 『ふーん、鷲尾さんの方では、着々とやってるんですね…-私だって拘引する権力があれば南 小路なんて、第一に調べるでしょうからね、やっぱり……』 『なぜですかー』 『なぜって-・-あの男は山師ですからね……やり兼ねない事実も、私はもう一歩でつきとめら れそうに思うんです』 『ナンですか、それは』  北條記者は椅子を乗出して来た。 『いや、まだお話しするまでに行ってませんよ……だが、こんど下田にいって、得るところが あったんです、多少はー』  私は、わざと余韻を残して、核心を握んだような口振をした。 『ふーん……』  北條記者は如何にも聞きたそうに、幾度か口を動かしかけたが、敏腕記者の|沽券《こけん》がそれを許 さなかったようであった。  私は、あの山村一甫逮捕の時の、私に対する凱歌のような彼の電話を思い出した。 (恰度、あの時の気持であろう……)  いや、素人の私に、こんなことをいわれては、私が感じた以上にいやあな気持がするかも知 れぬー。  でも、私はあの陶器に関する見込みと、それに関連したいくつかの事実。兜島の奇怪な住人 西村醜吉の描く疑問の雰囲気。もう一人の北條五郎と黒崎貞枝-それ等について、ざっくば らんに打明ける気にはなれなかった、これが彼ならば寧ろ得々として|述《のべ》たかも知れないが…・。 『じゃ、疲れてますから、家へ帰って一寝入りします……事実がハッキリしたらお知らせしま すよ』 『そうですか、では又逢いましょう……どうもこうも矢継早に殺人が起ると、第三者的な冷静 さを失ってしまうんでね、……北條五郎、シッカリしろー』  彼はドンとテーブルを一つ叩くと、 『じゃ……』  と手を挙げた。 四  私は家へ帰って寝るどころではなかった。早る心は、海老澤家へ、美桐子さんへ、飛んでい た。  麻布高台の海老澤家1。二人の変死者を出した呪われた家は、美しい美何子さんを抱いて、 静かに午前の陽を吸っていた。 『……河村さん……』 美何子さんの第一声は、それだけであった。 私も切出す言葉がなかった。 『お兄さんがー』  そういいかけて、声を呑んでしまった。 『ああ、河村さん、本の方、調べておいたわ、……大事らしいところ、印しておいたの---』  美何子さんは数冊の古書を抱え出した。 『ほう・…-本を揃えたんですか、大変だったですね、本の名だけでよかったんですに---』 『だって、どうせ本を見るんでしょう……閑だったのよ---きのうの午後までは---それにお 父さまが、こういう古い本がお好きで、その中にあったのよ---』 『……こういう陶器とか、伊豆に関した本ばかりですか』 『いいえ、なんでも、よ……さあ、そういえば、こんな本は近頃買われたのかしら、いままで 余り見なかったわ……』 『ほー、そうですか』  私は、 (もしや、達爾氏もうすうす気づかれていたんではないか---)  と思った。 『じゃ、一寸その本を見せて下さい-…`』 『あ、これよ、それどう……』  美何子さんがとってくれた本は『|守田左衛門旅日記《もりたさえもんたびにつき》』という古写本であった。  ぱらぱらっとめくって見ると、日記らしく何月何日と区切ってあって、お家流の、ところど ころ|轟魚《しみ》の喰った本であった。最後の頁には慶長六年、|江戸大樋太右《えどおおといたえ》衛|門《もん》、と版元か写人の名 があった。 『これとても参考になりそうよ……古書目録にも出ていない本で、珍らしいわよ……少し読ん でみたんだけど、この守田左衛門っていう人は京の人らしいの、それで「乾山師江戸へ下る道 々の語草……」ってあるからあの乾山が京から江戸へ来るとき、一緒に来たらしいのね、でこ の日記はその道々の見たこと、聞いたことを書いたものらしいわ……』 『ほう、それは大発見ですね……』  その時、音もなく貞枝さんがお茶を持ってはいって来た。私はふっと嫌な気持がして、じっ と貞枝さんの顔を凝視した。  別に変ったところもなかった、ただ健爾氏の死に瞼を泣き腫らしている以外は……。  貞枝さんは軽くお辞儀をすると、又、音もなく静かに出ていった。私は一寸間を置いて、便 所へ立った、だが、廊下には貞枝さんの姿は見えなかった。 (:::…)  私は、も一人の貞枝さんを見たせいか、どうも気になって仕様がなかったー。 『ここよ……』 美何子さんは、私が腰を下ろすと同時に、その日記のある一頁を指した。読んでみると、 「某月某日。 伊豆甘利山の豪家|甘利彌右《あまりやえ》衛|門《もん》の来り遊ぶと会し、宿の茶室にて一席を設く」  とあって、あとに会記があり、その末に、 「彌右衛門事乾山師作茶碗及染付皿痛く賞翫末懇望○○(二字不明)被勇躍候事云々」  とあった。 『甘利山、ってどこでしょう……』 『兜島ですよ、昔は甘利山っていったんですよ、地続きだったんですー』  私は、その昔彌右衛門が乾山から茶碗を譲り受けて勇躍したであろう以上に、勇躍した。 (これだ……)  と思った。 『美何子さん、これは大発見ですよ、ありがとう、お蔭でハッキリしました、矢っ張り私の考 えは的中したんです……この怪事件はこの乾山作の茶碗や染付皿を廻って捲きおこった渦巻き です。原因が解りました、タッタ今、美何子さんの努力で事件の原因があかるみにサラけ出さ れたわけです』  私は思わず美桐子さんの円やかな背を、ぼんと一つ叩いた。  美桐子さんも、思わずふっと私に笑いかえした、その無邪気さ、愛らしさ…・-。  私は意気軒昂たるものがあった。欣喜勇躍たるものがあった。既に、南小路露滴が、重大な る嫌疑者(或は真犯人)として、警視庁で調べられていようとも、私は|退目《ひけめ》を感じなかった。 私はこの怪事件の原因を握んでいるのである。又、も一人の北條記者と黒崎貞枝、及び西村醜 吉、葭村海子ーそれらの奇怪な雰囲気を持った人間が、幾人飛出そうとも、私はもうビクと もしないのだ、私は事件の原因をシッカリ握んだのである。  海老澤達爾、山村一甫、そして又、海老澤健爾……この三人は、乾山作の貴重な陶器の争奪 から生まれた犠牲者である。原因さえ判然すれば、あとは犯人を帰納すればいいのである。 『美何子さん、もう一歩です、犯人の名は目前にありますよ……』 『でも、乾山っていう人の焼物が、そんなに大事なもんでしょうか……私、ちっとも知らない んですけどー』 『そりゃあ、大したもんですよ、現にこういう記録があって、真物と解れば大変なもんです。 今日本で最高の値段を呼んでいる陶工の作品ですからね……この乾山っていう陶工はあの有名 な法橋|光琳《こうりん》の実弟なんです、ですから乾山の器物に光琳が絵付けをしたものが沢山あるんです よ……乾山っていう名は、これは京の|乾《いぬい》にいたからつけたもんで、この他「紫翠」「深省」だ の、まだ色々名を持っています、乾山の幼名は尾形権平、兄の光琳が三十、弟の乾山が二十五 歳の時、父に死別れた……と物の本にあります……』  私は脚か嬉しまぎれに、泰堂先生から得た智識と古書で見た一夜漬の智識を、知ったかぶり で述べたてた。 『じゃ、よっぼど|高価《たか》いものですわね……』 『そうです、近頃の入札会でも高値表を見ますと五万、六万はザラですね、又本当にすきな人 には、とても金銭にはかえられないほどのものでしょう。マッチのぺーパー一枚が欲しい為に その所持者を殺して奪った、という話すらありますからね。1それにこうした伝来がハッキ リすれば国宝に指定される位、容易なものでしょう……真物は極めて|勘《すく》ない筈です、名人気性 であんまり作らなかったそうですからー』 『………』  美何子さんは頷いて、顔を上げた。 『そんなものが始めっから無かったら、こんなことにならなかったでしょうに……』  弱い、潤んだ声であった。 (ああ、そうだー)  私は言葉を失ってしまった。私は柳かお|饒舌《しやべり》をし過ぎたようである……。 × 『ところで……』  私は、漸く言葉を継いだ。 『こんなことをお聞きするのは、 たことがありませんか…:・』 :なんですけど、お兄さんのことについて、 何か気づかれ 『どんなことでしょう……』 『なんでも結構ですがー』 『そうね、別になんともいわなかったし、変ったところも……』  美桐子さんの語尾が、消えた時であった。  弱い音がして貞枝さんが這入って来た。 『お嬢さま、お兄さまのポケットから、こんなものが出て参りましたので……警察の方へお届 けした方がよろしゅうございましょうね……』 『あら、何1』  美何子さんは一枚の紙片を|訴《いぶか》しげに眺めた。私もそっと覗き見ると、折畳んだ上に「海老澤 健爾様」とかかれて、中には、   兜島の件につき大至急お目にかかり度、鼠系統の色のシングルを着て午後一時Mデパート   屋上に待っていて下さい。  それだけであった。私はそれを見た瞬間、 (あっ……)  ドキン、とした。  その乱暴な鉛筆の走り書、そのザラ紙の紙質、それは|既《かつ》て美何子さんの受けた脅迫状-私  をこの事件に捲込んだ一片の手紙1と全然同一であった。   (それにしても……)   なんたる奇怪さであろう……。あの美何子さんの貰った手紙の筆蹟は、そして又あのザラ紙  ■は、山村一甫の筆蹟であり山村事務所に発見された紙であったーと鷲尾警部のもとで認定さ  れているのだ。   それだのに、山村一甫既に亡き今日、山村一甫の筆蹟で、山村事務所の用紙で、脅迫状   (?)が作成され、届けられるとはー。   (そんなことは、全然あり得ぬことである)    それならばー。   紙はありふれたザラ紙であるからさて置き、山村一甫の筆蹟1というのが根本的に間違い   ではなかったのか、極めて天才的な偽筆ではなかったのか、それとも、極く極く稀有な偶然の   一致であったのか……。偶然の一致、ということは、先ずあり得まい。と考えるとこれは極め   て巧妙に、甚だ綿密に山村一甫の筆蹟を摸写したものではなかろうかー。   (左様1、それに違いあるまい……)    と、考えられるのだ。 晩  (それは、万一、手紙から足のついた場合、山村一甫に嫌疑を転嫁させるための手段であろ 白う……) ㎜  ダガ、それならば、 (その嫌疑を転嫁さすべき山村一甫が殺害されたのは、一体どういう訳かー)  甚だ不思議なことである。  犯人の、いわば希望通り、刑事が山村一甫を逮捕に向った。そして、あの手紙が山村の手で あり、それと同じ用紙があの事務所から発見され、然も山村一甫自身の日頃の行動が黒表に載 るほどの不良であったーこれ丈材料が揃えば、一寸やそっとの弁解位では釈放される気づか いはないーいってみれば、犯人の思う壼に嵌ったわけではないか……。  それだのに、刑事の逮捕直前に、その大事な山村一甫は犯人に殺されてしまった(これは調 べた結果海老澤達爾の受けた銃弾と、山村一甫の受けた銃弾とは同一の短銃であると認定され ているのだ)。  先ず考えられることは、その殺害された時の山村一甫が、一見、私と同様の服装をしてい たーというから、犯人が私と間違えて殺ったのではないか……ということである。  だが、そんな|杜漏《ずろう》な犯人とは思えなかった。犯人は慎重に山村一甫の筆蹟から研究して行っ た位である……あの海老澤達爾氏殺害後私達の目前から、忽然と蒸発してしまった位である .--。それには非常に綿密な、常人とはかけ違った冴えた頭を持った犯人に相違ないのだ、そ の犯人が私と、犯人にとっては大事な山村一甫とを取違えるーということは、一寸考えられ ないのだ。又、殺すほど邪魔な私なら間違って山村を殺ったあとでも、執拗に附狙う筈である、 犯人お得意の脅迫状の一本位は叩きつけられる筈であろう---。 (あ・…-西村醜吉) 私は、あの男を思い出した。私はあの男に叩きのされ、|洞《  》窟の|破《わ》れ|目《め》に投込まれて、すん《ち ち》|で のところ、餓死させられるところであったー。 (さては、西村醜吉が-・…)  私は、あの奇怪な兜島の鬼を思い出した、人間一人、洞窟に幽閉した儘、泰然と香を聴く彼 の姿……浮世離れた、それこそ、この事件の渦紋の中心の乾山作茶碗の生れた慶長の頃---そ の頃その儘に悠久たる雰囲気を描く、彼、西村醜吉。  疑問の人物、西村醜吉。この名は最後の解決まで銘記しておかなければならぬ。 ×  私は、長い幻想から覚めて、もう一度、その奇妙な手紙を読みかえした。  いままで、その筆蹟と用紙にビックリして内容を考える閑がなかったけれど、 ものが、又甚しく不可思議なものではないかー。 「鼠系統のシングルを着て云々……」  とは一体どんな意味があるのであろうか。  わざわざ洋服の色から形式まで指定して来るとはー。  健爾氏はその命令通りにわざわざ家まで帰って着換えたのであろうかー。 『これ、どこにあって……』 その内容その  美何子さんは荘然とイんでいる|貞《たたず》枝さんに訊いた。 『はあ、いつもお召しの濃茶のダブルにー』  貞枝さんは、先程からの私の疑惑の視線をなんとも感じないのであろうか、ただ悲しみにの み心を搏たれているようであった。 『……あの、あの日珍しくおひる頃一寸お帰りになりますと、大急ぎであの洋服とお召換にな ってお出掛になりましたので……そういたしましたら、あんな、あんなことに・…..』  貞枝さんは、堪りかねたように、そっと目頭を拭いた、その|傷《いたいた》々しさ……私は貞枝さんを疑 ったことを、心に恥じたいように思われた。……でも、もう一人の貞枝さんに対する疑惑は、 まだ雲散霧消するわけには行かなかったけれど……。 『ふーン:::』  私は手を|棋《こまぬ》いてしまった、あとからあとからの疑問符の大群が、雲霞のように押寄せて来た、 たまらない重圧をもって、圧倒するように追ッ被さって来た……。 第十章 春日井泰堂先生 一  私は、半ば倉皇として海老澤家を辞した。  私のアタマは数々の、P符に隙間もなく占領されてしまつたのである。  どこから手をつけて、ジックリ考えたらいいのか、北條記者の言草ではないが、こう矢継早 に事件が進展し、発展しては、ただあたふたと|狼《ち ち 》狽するばかりである、|間誤間誤《まゴまご》していると事 件にとりのこされて仕舞うーといったような危惧をすら、覚えるのであった。 (誰かに、事件の疑問の数々を訴え喋ったら……喋っている中に、纏まりが出来るかもしれな い)  と思われた。 (頭の中で、あれもこれも、と考えるより一つの口で喋っている中に、却って事件の全貌がハ ッキリするのではないかー)  といったような、気がするのであった。  私の足は、いつしか春日井泰堂の家の方へ向いていた。  ……あの貧民窟1といった感じのするゴミゴミした街もいつかお馴染になってしまった。 私の足は、もう無意識のうちに、いくつかの曲角を、正確に曲っていた。 × 『やあ……』 先生は珍らしく羊葵色の黒い洋服を着て、置炬燵を抱いていた。 『ご免下さい……学校からお帰りですか……』 『いや、いま一寸出先から帰ったところだ……まア、こっちへ来たまえー』 先生は、例によって手を拍いて、お茶を奨めてくれた。 『さあさあ……で、海老澤事件はどうだね……又一人殺られたな』 泰堂先生は、私が切出す前に、もう海老澤事件を持出して来た。 『え、実は又その件で上ったんですが……』 『ふん、わかってる。……なかなか怪事件のようだな、何か新事実でもあったかなー』 『はあ、原因だけはわかりました、乾山作の焼物が原因らしいです』 『ふん、よくわかったナ』 『本があったんです。ご存知か知れませんけど「守田左衛門旅日記」っていう本です・-…』 『ほう……』  先生は珍らしそうに目を見張った。先生が本の名を珍らしがるのは余ッ程のことである。 『それは珍らしいもんがあったナ、実はわしも名は知っとるが見たことはないんでナ……一度 見せて貰いたいもんだナー1』 『え、その中借りて来てお目にかけます……その本の中にあったんです……乾山が甘利山の甘 利彌右衛門という男に茶碗とか染付皿とかそういったものを譲ったーという記事が……』 『ふーん……、それは面白いナ、そういう本はこんな事件ばかりでなく、国文学や史学の上か らいっても貴重なもんだナ……』 『それがまア甘利山が兜島になる直前らしいんですが、その大陥没を起すほどの地震があって、 そして今も尚保存されているでしょうかしら……』 『それは、あるだろう……ただ、その甘利彌右衛門の家が甘利山の麓にあったか、山の上にあ ったかーというのが問題だナ、麓にあったんなら、今頃は海の底になっている筈だからナ ……』 『それは調べました、甘利家というのは、非常な旧家でして1尤も今日は絶えているらしい ですがーその先祖というのがどこかの落武者だったらしいんです、で甘利山山頂に天然の要 害を利用して城、というより一種の砦を作って、そこに拠っていたようですが、彌右衛門の頃 には、もうそんな不安もなく普通の豪家1ということになっていたらしいんです……ですか ら彌右衛門の家は今兜島として残っている辺にあった、と見て大差ないと思われますが-…」 『ふーん、よく調べたナ、君はー。ふんふん』 『これは「春夢温泉旅心」という古書にあったんで……』 『君、それも珍らしい本だぞ、あったら一見させてくれたまえ……ふんふん』 『実は、私兜島に行って来たんです……』 『ほう、で、どんな様子だったナー』 『いや何しろ物凄いところです』  私は兜島で経験した、あの奇怪極まる悪夢の一連を、泰堂先生へ|諏《かた》った。先生も、非常に興 味深か気に、 『ふん、ふん……』  と膝をすすめて頷くのであった。  私が一渡り話し終ると、先生は大きく頷いて、 『……ふん、その西村醜吉というのは奇怪な人物だな、それからもう一人の北條五郎と黒崎貞 枝、それが問題だ、君が兜島を脱出してそのあとからは、誰も出なかった、然も、タッタ数時 間の後に東京へ電話をかけ、その電話へ間違いもなく北條五郎が現われた……というのは、常 識では考えられないナ、……若しかすると北條五郎と黒崎貞枝の扮装をした別人じゃないのか ナ……』 『イヤ、私は断じて北條五郎であったと思います…-ではなぜその二人に扮装した二人が西村 醜吉を尋ねたんでしょう……』 『それはわからん、……山村一甫がナゼ君と同じ服装をしていたか、というのと軌を一にする 問題だナ……だがこれは断言出来ぬよ』 『兎に角、この事件全体が常識外れのかたまりです……第一海老澤達爾氏の殺害犯人はその場 から揮発して仕舞う……第二犯人としては寧ろ大切にしなければならぬ山村一甫が殺られて 仕舞った、然も、例によって犯人は煙の如し、第三山村一甫の筆蹟を持った男の為に海老澤 健爾氏が殺られる。そして又、その呼出状の不可思議な文句。ナゼ、アド・バルーンを使った か……第四、原因そのものが、|慶長《けいちよう》年間というトテツもない昔に萌芽している……先生、こ んな難問題が、果して解決出来るでしょうか……』  私は、つい弱音を吐いてしまった。私ならずとも、誰だってそう感じるに相違ない…・-、私 自身も、本当の飾気のないところ、 (美桐子さんの為にー)  ただそれだけのガソリンで動いているようなものだ。あの|傷《いたいた》々しい美何子さんの為に、私は 今迄|既《かつ》て経験したことのない勇猛心を強いてふるい起しているようなものだ……。 『君、そんな弱音を吐くな……今更、醜体だぞ……第一、凶器用のピストルは終始一貫してい るーこれは犯人が同一の証拠だ……第二原因は既に君の努力で判明したではないか……シッ カリしなけりゃダメだぞー』  泰堂先生は、珍らしく語気を強めていわれた。そして尚、 『見たまえ……、君にこの事件を持込まれた時から、わしは非常な興味にかられたぞ、以来犯 罪科学に関する知識を吸収する為に、これだけの本を読んだ……』  先生は片方に小山を作った本を、毒のはえた顎で指した。 『ところが、探偵事件というやつは、ほかの調査と違って、足で調べなけりゃならん、という ことを、|沁《しみじみ》々感じたよ……はっはっはっ……新聞記者は足で書く、というが、あれだ、その北 條とかいう新聞記者が事件に精しいわけも結局「足」だナ……わしも以来昼夜兼行で調べ回っ たぞ、みろ、いまだって出先から帰ったばかりで、まだ着換えもせんところだ……』  泰堂先生は、まるで青年のように、頬を紅潮させていた。私は圧倒されるような、意気込み を感じた。|荷且《うかつ》にも、弱音を吐いた私自身は、いかにも情ない、いかにもだらしない莫迦者で あった。犯人に降伏した敗残者であった……。 (シッカリしろ、河村杏二!)  自分自身を畷鳴りつけた。 二 『先生、済みません……石にかじりついても解決に努力しますー。 私が殺られるか、犯人を 挙げるか、最後のドン詰りまでやってみますー』 『ふん……』  泰堂先生は|莞爾《かんじ》とした。 『よかろう、わしも乗りかかった舟だ……凶悪な、神出鬼没の犯人と闘って、老花を咲かすか ナ……はっはっ……』 『先生、足で調べられた-・…と|仰言《おつしやい》ましたけど、ナニかー』 『うんー』  泰堂先生は、置炬燵を抱込むようにして、背中を丸めて私のすぐそばに顔をもって来た。貧 民窟の大学者一大学講師春日井泰堂先生は、いま、一個の私立探偵となって、事件の興奮に陶 酔していられるかのようであった……。 『うん』  もう一度頷くと、声を細めて、 『第二の殺人、山村一甫殺害事件について、わしは第一に調査したよ……その結果……君もう 一度あの日の状況を思い出したまえ、いいか、あの幸神ビルというのは、商事会社が多いから、 それに昼間だったから人の出入がはげしかった……だから犯人は人の目にふれ易い、と同時に 又目立たないともいえるナ……それだのに、其後あのビルの人間に訊いても、別に変った人間 は見かけなかった……そうだろう……も一つ凶行後あの部屋には鍵が掛っていた、勿論窓は寒 いから皆んな閉めて、内部から錠が下りていたのでドアーから出て、それから鍵を締めた…- ということは犯人は鍵を持っていた、そうなるだろう---それから、あの呼出状の用紙だ、あ れも山村のとこにあったというから……どうなるね、犯人は山村事務所に始終出入していたも のか、さもなくば事務員だ、ということになるだろう……』 『そうですね』 『変った人間を見掛けなかった、というのは一面犯人とはいつも顔を見合せているので気づか なかったんだ……と考えられるからナ、それに、鍵を持っていたということは、これを裏書き するようなもんだー』 『まったくです……』  先生の説明は理路整然としていた。 『で、それからが足だ……先ず事務員全部を調べた、そうしてみると、二人いたナ、変な人間 が……』 『ほう、誰です、それは……』 『木野重司、葭村海子1』  私は目を見張った。 『木野も、あそこの事務員ですかー』 『おや、知ってるんか、君もー』 『南小路露滴の書生でしょう、少々ヌケてる……』 『その通り……』 泰堂先生の方が、却って驚かれたようであった。 『知っているーという程ではないんですが、いつだったか私が南小路露滴を訪問して帰って  来ると、のこのこ|尾行《つけ》て来たんで……逆にこっちで利用して色々聞いてみると、山村一甫と南  小路露滴とは、格別な関係があるらしいですね……』   『うん、山村と南小路の関係は、いつか君にいった通りだがほかに何かあったか-….』   『えーと、あの事件の起る前に、口論したそうです、あの二人が』   『ふん、ふん、で原因はー』   『ハッキリしませんが、どうやら葭村海子のことではないかと思うんでー』   『どんなことかナ……』   『それが、不明です』   『事件の裏に女あり、か』   『さあ、葭村海子というのは、いってみれば野性的な、一寸フレッシュな感じの女です』   『ナンダ、君はなかなか精しいじゃないか……それで弱音を吐くとは怪しからんナ……それと   も女性方面だけかー』   『飛んでもない……、あんな葭村海子なんて……』   『はっはっ、美何子さんに比べれば……か』    泰堂先生は、がらに似合わぬなかなか深刻な皮肉を飛ばした。私は一寸言葉が切れてしまっ 鬼 日た。 白-『はっはっは、君は案外坊やで善人だナ…・-いや失敬失敬、これはメンタルテストだ---疑え ㎜…ば君も疑えるんで一寸悪戯したんだよ、わしは永年の教室のカンで一目で大体人物が読めるが、 特に重大事件だから慎重に念を入れたんだ』 『でも、私を疑うーってのは遺憾ですね』  私も先生の傍若無人の態度に一寸、反感を覚えた。 『いや、悪かった、悪く思わないでくれたまえ……これも犯人が図抜けているからだよ……疑 われるのが口惜しかったら一日も早く真犯人を捕えることだナ・…-』  先生は巧みに私を煽るのであった。私も思わず苦笑してしまった。 『で、その木野重司というのは、どんな男ですか、嫌疑濃厚ですか---』 『まずまずだナ……一概にはいえんよ、だが木野という男は山村と南小路の連絡係みたいなこ とをしていた奴だから機微には触れているかも知れぬナ……』 『すると、大もとの南小路と山村がこの事件に重大な関係があるわけですね……』 『そうだ、なかでも山村は殺られる程の関係があったじゃないか……』 『では南小路露滴が臭い  ということになりますね』 『君、そう早合点しちゃいかん、それだからツイ弱音を吐,\ことになるんだ……犯人は余程の やつだ、だからこっちも慎重にやらんといかんよ……嫌疑者の黒表を作ってみよう……』  泰堂先生は、内かくしのポケットから黒い手帳を引張り出すと、老人臭く鉛筆を舐めて、 『いいかね…:・』  と次のように書いた。   南小路露滴。山村一甫。葭村海子。木野重司。河村杏二。北條五郎。黒崎貞枝。西村醜吉。   海老澤美桐子。も一人の北條五郎。同じく黒崎貞枝。  ここで一寸考えて、   鷲尾警部。春日井泰堂。  と書いた。 『先生、嫌疑者の黒表だなんて、全部の関係者じゃありませんか…-・』 『そうさ、この中から、こうして消して行けば犯人が残る筈だ……』  そういいながら、又鉛筆を舐めて、 春日井泰堂、鷲尾警部、河村杏二、と三つに棒を引いた。  私は美何子さんの名が消されなかったことが甚だ不満であった。 『美何子さんも嫌疑者ですかー、そんなことはありません絶対、断じて私が証明します。あ の優しい少女が、父と兄を殺せるでしょうか、先生、それは非常識すぎますよ、彼女が犯人な ら私がその罪を着ます……』 『えらく執心だナ……』  先生は眩くと、 『だから、わしの名も参考に書いたんじゃ』 『ですから、先生と同じように消して下さいー』  先生は無言で海老澤美何子を消去した。 『もうないか、消すのは……』 『そうですね、山村一甫は殺られちまったんですから、消しては……』 『イヤいかん。この男は重大な関係があるぞ……あの脅迫状乃至呼出状は全部この男の筆蹟、 もしくは、極めて巧妙にこの男の筆蹟を摸したもんだったことを忘れてはいかんぞ……万一の 場合を考えれば、この男が海老澤達爾氏を殺し自分も何者かに殺られたのかも知れないから ナ……』 『でもピストルが同一ですから……』 『だから万一の場合だ、山村一甫が達爾氏を殺って、そのピストルを部屋に置いたところに何 者かが来て、そのピストルで山村を撃ち、その儘持出して海老澤健爾氏を殺ったのかもしれな いからナ……』 『では、そのブラックリストに海老澤健爾氏の名が落ちていますね……先生の名まで自分で書 かれたのに似合わないですね、……例えば達爾氏が殺られる、山村に、ですね。でその山村が 同じピストルで先生がいったようにして、どうかして健爾氏が山村ってことを嗅付けて親の仇 とばかり殺ってしまった……と考えられませんか……そして又何者かの呼出しで行ってみると、 却って又健爾氏がその持っていたピストルでやられてしまう……という風に、少々|荒唐無稽《こうとうむけい》で すが、万一の場合……』 『全然、荒唐無稽だ』  先生はハッキリ否定してむまった。 『健爾氏は父の達爾氏の遺志を継ぐため、兜島新興株式会社の仕事に熱中してたんだ。一日中 机をはなれたことがない。山村一甫が殺られた時だって健爾氏が会社にいたというアリバイは あの会社全部の人によって証明されるだろう……恐らく、君が美何子さんを証明するよりか、 尚たしかだ……。もし万一、左様なことありとしても、その最後の犯人は誰か、ということだ ナ、問題は……』 『健爾氏にそういう確かなアリバイがあるんなら止むを得ません……』  私も美何子さんの証明をした手前、健爾氏はあきらめた。もともとあの好青年が殺人なんか を仕様とは思わない、ただ泰堂先生との一寸した意地からいいだしたことであるから…-。 『河村君、お互いにつまらん意地の張合いはよそう……』  泰堂先生も苦笑した。 『どうだ、ここで議論していても仕様がないナ……足だ、歩かなけりゃ駄目だ、行ってみよう かー』 『そうですね、出てみましょう、……でもどこへ行くんですか』 『M百貨店だ……健爾氏の殺られたところを調べてみよう、何か得るところがあるかも知れ ん……』 『じゃ行きましょう……、先生、ですがこの難事件に自信がありますか、解決の……』 『わしに成算あり、だナ……』  先生は、炬燵を脱けながら、傲然と|囎《うそぶ》いた。 三  師走の銀座街に|魏然《ぎぜん》とそそり立つMデパートー。それは近代商業の代表であり商品の氾濫 沸騰する|柑禍《るつぽ》であった。種々雑多の、異様に興奮した人間が、不規則な列を作って流動し、停 滞し、喋舌り、笑い、怒っていた。子供は母親にぶら下って泣きわめき、或は床に旬いつくば って塵埃を舐めていた。諸々の人間から発散する体臭、色々様々な商晶から立登るにおい、そ れらが溶鉱炉のような建物全体にわーんと軍ってなんとはなく近代的戦傑を飽くことなく展開 していた……。  春日井泰堂先生は昔さながらの、ラッコの毛皮の襟の付いたオーバー、そのラッコの毛皮は もうところどころ禿げて薄くなり、オーバーそれ自身も、黒色が日焼けの為に、寧ろ草色にさ え見え、肘と腰の回りとは、もう何年か前からピカピカと光っていた。先生は泰然とその時代 的オーバーを一着に及ぶと、その裾から、細い股引のようなズボンを覗かせ、手には茶色の毛 糸の手袋ーという服装であった。  この|村夫子《そんぷうし》然たる泰堂先生は、私を後に従えると、Mデパートの地階から回りはじめた。地 階の食料品だの、パーラーだのの間を、人浪に揉れながら一順し、次いで一階二階と登ってい った。五六階まで来た時分には、私はもうがっかりしてしまった、延長すれば相当の距離にな ろうし、一つ一つ階段を上ったり、人いきれと気疲れで頭がぼーっとし、兜島以来の疲れが一 遍に出たようにも思われた。 (先生、休みましょうか……)  そういいかけて、泰堂先生の横顔を見た途端、私はその言葉を飲んでしまった。  先生の眼は、何者かを追うように|燗《けいけい》々としていた。先生は痩せた顎に付属した白い顎髭を、 右手でシッカリと握っていたーこれは先生の心の動揺を示す昔からの癖であった・…-。  私はそれとなく先生の視線を追ってみた。だが、何も変ったことを発見することは出来なか った、ただ相変らず物凄い人の浪、浪、群、群、が色とりどりの商品を前にして狂気染みた争 奪を繰返している様だけであった。  こんな時、先生に話しかけても、却って機嫌を悪くされることは、学生時代からの経験で充 分心得ていたので、ただ黙々とあとからついて行くより仕方なかった。  泰堂先生も、むっつりと口を結ばれると、何者かに潟心かれたように四方に目をくばりながら、 巧みに人浪を分けて、まるで私というものを忘れ果てたようにずんずん先へ行ってしまった。 私は人いきれと厚い外套のために、うっすらと汗を浮べながら、一生懸命はぐれないように人 浪を掻分けるのがせい一杯であった。  ぐるぐる、ぐるぐる廿日鼠のようにMデパートの地階から七階まで歩き回った泰堂先生と私 とは、漸くのことで屋上庭園にまで辿りついた。すがすがしいヒンヤリした空気が快よく頬を 撫でた。  落ちやすい冬日が、すっかり西に傾いて真横から射込み、先生の白髪を見事に染めていた。  その屋上庭園は長方形で、銀座街に面した西側と、|芝浦《しぱうら》に面した南側とが、一間半ばかりの 金網ではりめぐらされて、遥かに市街を望見出来るようになって居り、北側は恰度北風を|遮《さえぎ》っ てエレヴェーターの機械室と事務室があり、東側には水槽タンクだの小鳥の陳列室だのがあっ て、下を望み見ることは出来なかった。 (アド・バルーンはどこに繋いであったのかな-・…)  見回してみたが、あの事件の為か、それらしい影はなかった。  その屋上庭園には所々にベンチがあり、いつも殆んど満員であった。Mデパートの制帽を被 った警備員が、子供達のブランコの世話をしたりぐるぐると巡回したりしていた。 (これでは、いかに消音ピストルであっても人を一人殺して然もアド・バルーンに吊すーと いう離れ技が出来ようか……)  とても不可能のように思われた、綿密な犯人に似合わぬ、危なっかしい、やっつけ仕事のよ うに思われた。 (わざわざこんな人眼の多いところを指定して来るとはi)  私ならずとも、この犯人の奇想天外ぶりには、唖然とせざるを得ないであろうー。  師走の空は、どんより濁っていた。灰色の密雲は全市街の上に覆い被さっていた。蟻のよう に眼下を彷径する幾千幾百の人影も、皆なにか悩みの種を抱いているかのように思われた。  私と泰堂先生とは、しばし金網越しの東京の屋根に、無言で見入っていた。  泰堂先生は、何を考えているのであろうかーその唇は堅く結ばれていた、|皆《まなじり》には、強い自 信が浮いていた。……|鰭《やが》て先生は無言の儘、その屋上庭園をぐるぐる回りはじめた---。  フト泰堂先生は立止って、警備員に二言三言曝かれると、 『ウン  』  強く頷いて、私の方をはじめて振返った。 『河村君、吉報……』  それだけいうと、さっさとエレヴェーター傍の事務所の方に歩きはじめた。  私は矢張り無言でついていった。泰堂先生は馴れ馴れしく事務所のドアーを押すと、スタス タと這入っていって、向う側のドアーを開けた。  その部屋は警備員とエレヴェーターの保守係の部屋らしく、その時は恰度誰もいなかったも のの、私は泰堂先生の無鉄砲-押しが強いというかーに、一寸アッ気にとられた。  だが、先生は一向お構いなしで、向うのドアーを開けると下を覗き見、眺め見してから私を 手まねきした。仕方なしに(畷鳴られはしまいか……)と思い乍ら、先生のところへ行って見 ると、そのドアーの外は鉄梯子になっていて、店員用屋上庭園に下りられるようになっている のであった。  その店員用屋上休憩所は、一般の屋上庭園からは、恰度蔭となって見えないようになってい た。尚乗出して見ると、数人の女店員達が盛んにお喋舌をしている姿が見られた。 (なるほど……)  私も漸く頷くことが出来た。 (ここだナ、健爾氏が殺られたのは……) 『先生……』  私が話しかけようとした時であった、 『もしもし……』  突然後ろから呼びかけるものがあった、ハッとして振向くと、案の定、警備員の一人がこわ い顔をして立っていた。 『ここは社員以外の方はお這入りになっては困りますがー』 『やあ……』  泰堂先生はしゃあしゃあと、寧ろ待っていたかのように、その警備員を捕まえて話しはじめ た。私はそっと部屋を脱けて、入口のところで耳を澄ましたけれど、先生の話の内容は掴むこ とが出来なかった。         四 『やアやア、お待ち遠1』  泰堂先生は、悠然と現われた。 『どうだナ、食堂へでもいって、お茶を飲むかな……』  甚だ御機嫌であった。私も先生の元気さに誘われて、なんとなく「楽しみ」に似た気持を覚 えた。 『先生、どうですか、吉報がありましたか……』 『うん、まア、ゆっくり話そう……』  一寸、気を持たせると、ニッコリ笑って、ラッコの襟を合わせ、食堂への階段を下りだした。 『さて、……』  泰堂先生は、教室のくせであたりを|脾睨《 へへいげい》するような格好で椅子にかけると、お茶を畷りなが ら、 『河村君、君もわしと一緒に同じように見て歩いたんだから大体わかったろう……』 『はあ、健爾氏が殺られたのは、あの店員用の屋上です…-ということだけは、大体想像がつ きましたがー』 『それだけか……心細いナ』  (それから……と)  頭を捻っても・無駄であつガ・何しろ私は泰堂先生について行くのがやい一杯であったのだ から……。 『観察には君、自信がある筈じゃないか……』  先生は、子供のように得意であった。  『はア、でも……』 『君、この犯人は……毎度いうようだが……非常に綿密な男らしいからナ、兎に角容易ならん 奴だよ、このMデパートの習慣をのみ込んでいるらしいナ、君、地下室から屋上までぐるぐる 回って何を得たと思う……』 『さあ……』 『あの妙な手紙の意味が読めたんだ、……君、ここの店員の服装に気付いたかね-…・』 『さあ、一向11』  私はふっと、 『そういえば、ダブルを着ているセールスマンはいなかったようですが……』 『ウン』  泰堂先生は、大きく頷いた。 『そうだ、わしも二三階あたりまで来て、気がついたんだ。それから一層、気をつけて見ると |両前《ダブル》を着ている店員はいないナ、と同時に色だ、これも紺若しくは鼠系統の一点張りだった ナ……』 『そう、そういえば成るほどそうでした……』 『これだ。で、わしはさっき|怒《へち》られた時に、|序《ついで》に聞いてみたよ、するとね、この支配人という 人がシッカリもんで……というか、まあ一種の堅人でナ、店員は総て服装は質実を旨とすべ しーといった訳でダブルの洋服なんか以てのほか、色調も流行がなんであろうが、紺の無地 又は鼠系統以外は御法度じゃそうだよ。どうだ流行の尖端を往く、流行を創造する近代百貨店 に、こんな規則があるんじゃ……おそらくその支配人の理想からいえば、角帯に前掛けーと いうところじゃろうが、矢張り洋服を認めんけりゃならんというのは、これ、時代の風潮じゃ ナ、……時代というもんは恐ろしいもんだナ、例えば近代建築学は太古からの通念を打破して、 「屋根」から「傾斜」というものを除去してしまったからナ。近頃の建物の屋根は平らじゃ、 従って屋上庭園などというもんが出現し、こんな近代犯罪が惹起されるんじゃ。勿論屋根から 傾斜を奪ったのは材料学の発達だ、材料学の発達は屋上庭園を生み、この殺人事件を培養し た……時代の力というもんは、史学に年輪の如く、極めて鮮明に表現され、烙印されて居 る……』  泰堂先生は、まるで講義でもしているように、椅子に反返って、すっかり脱線してしまった。 先生の顎韓は、まるで生命のあるもののように躍動した。  私は冷めたコーヒーをぐっと干すと、 『先生、わかりました、では犯人は店員を装ったわけですね……』 『そうじゃ。犯人はこのデパートの事情に精通して居るもんじゃナ。彼は予めあの店員用屋上 庭園のあるところ、及び通路を飲みこんで居った奴だナー--で自分は勿論、健爾氏にも鼠系統 の洋服を着せて、さっきわしが見たところから下へ下り、あの人気のないところで凶行を演じ たーというわけだ』 『はあ、でも、なぜここを選んだんでしょう:…・人気のないところ、といえば、郊外なんかを 指定すればいいのに……』 『君、そこだよ、犯人は頭がいい……君が若しあの手紙を貰ってだね、所が|井《いのか》ノ|頭《しら》の森の中だ とか、或はどこか|辺鄙《へんぴ》なところだとしてみたまえ、行かないだろう……恐らく』 『そうですね、前に親父が殺られてるし、淋しいところだとすると……行っても一人では一寸 考えますねー』 『そうだろう……そこだよ。ところがこの場合は健爾氏の事務所からさして遠くない、銀座の 人気の多いMデパート、となると、|真逆《まさか》-という気にならないじゃないか、ナ…・-』 『成るほど……、一寸引っかかりますね』 『相当なもんだナ犯人は……』  泰堂先生は、ゆっくりと冷めたいコーヒーを口に運んだ。 『でもー』  私は一寸疑問が起った。 『でも、さっき見たときは、あそこにも女店員がいたようでしたね、店員同士はいくらか顔を 知っているでしょうし、却って危険じゃないですか……』 『イヤ、君、服務中に勝手に休憩するわけにはいかんよ、ここじゃ……これも先刻聞いたんじ ゃが……十二時と三時、夜間営業の時は五時半から六時までの間、とこう時間が決っていて、 店員同士交代で飯を食ったり屋上へ行って休憩したりすることになっているんだ……だから君、 その間の時間にはあそこには絶対に店員は居らんことになっているんじゃ、若し居ればそれは サボっている奴で、そんな奴は又あんな一目で見えるとこなんかに行かんよ、学生と違ってお 給金を戴だいとるからナ、学生みたいに講義をしとる窓の下でタバコなんか|喫《の》んで居らんよ、 ふつふっ:::』  泰堂先生は、意味あり気に私の顔を覗き見て、人の好さそうに、小さく笑った。 『まさかー、私はサボりませんよ。……で、先生の推定を総合すると、どういう結果が出る んですか……』  私はムッとする人いきれの|暖《 ヤヘ》気と、騒然と|軍《ヤしも》った大小様々な雑音、声音の為に、|脚《いさ》さか上気 気味で、胸がむかつき、早く話を切上げようと思った。 『ウム……』  大きく頷いて、 『わしの推定では、いままでいったように、犯人はここの事情に特別精しい者、そしてうまう ま健爾氏をあの庭園に誘い出して、兎に角ピストルで殺ってしまった……と同時にだナ…・-そ の、三時の休憩を知らせるベルが鳴ったんだ、と思うんだ、デ脚さか周章狼狽の末、恰度あそ こに繋いであったアド・バルーンに、窮余の一策で結びつけて、大空に投出した……と見る ナ』 『はあ、じゃあの洋服はもし人に見瞥られた時のカムフラージュ、というわけですね、……そ れにしても三時の休憩を知っている筈の犯人が、何故狼狽したんですかー』 『それは、だ、健爾氏がわざわざ洋服を指定通り家まで着かえに帰って約束の時間より遅れた から、そんな手違いになったんじゃろうナ……』 『で、犯人はどこから帰ったんですか』 『恐らく、店員用の階段からじゃろう、あの一般の屋上に出るには警備員の事務室を通らんけ りゃならん、ところが三時のベルが鳴ったから一人や二人は部屋に帰っている筈だ、そこをの このこ通ることは非常に危険なのは解りきってる、デ死体を大空に隠匿して、一時発見を遅ら せ、その間に、さもなんか急用があるように店員達の登って来る階段を、大急ぎで下りた方が、 ずっと安全だからナ、恰度休み時間になったし、みんな同じような洋服だし、恐らく気付かれ る惧れはないからな……』 『ふーん……』  私は改めて感心した、というのは、 (犯人は、なかなか周到な奴だi)  と同時に、 (この老先生、|遺《さす》がは学者だけあって、演繹帰納には、理路整然たるものがあるぞ……)  と思わず先生の、傲然たる清顔を見直したのであった。 『それでは、犯人はP……』  と出かかった言葉を、私は周章て引込めてしまった。又、 (そう早まるからいかん、落着けー)  と怒られそうだったからである。  だが、泰堂先生は、私の聞きたげな様子を察したのであろうか、 『犯人かー』  と、私の質問を引取ってくれた。 『犯人は、このMデパートの事情に精通したもんだ、だから……と、ええー』  先生は、あの古色蒼然たる手帳を出すと、黒表を繰って、 『先ず第一に、北條五郎1が臭いナ、この男は社会部記者だから。次に木野重司、葭村海 子-これはインチキといえども探偵事務所の所員だ。…-もし山村一甫がいたとすればこい |奴《つ》が一番精しいかもしれんナ、人気商売の百貨店なんか、奴の上得意だろうからナ……』 『先生!』  私はこの話を聞いている中、山村一甫の名を聞くと同時に、突然ある霊感を感じたのだ。 『先生、山村一甫は、マダ生きているんじゃないでしょうか……』 『フン……』  先生は頸を傾げた。 『私にはどうも、そんな気がするんです。……第一山村の死後、まだ山村の筆蹟を持った男が 呼出状を|寄来《よこ》した……第二山村は職業柄一番この事件に関係が深そうです、兜島の珍器につい ても、彼の始終出入する南小路露滴のところで得たヒントから発展したのかもしれないじゃあ りませんか……第三山村は私と同じ扮装をした儘、殺されていた、ということは疑えば素顔では 下手いからかもしれません、死体のカムフラージュではありませんか……そして、彼はまんま と鬼籍に入って、司直の眼を巧みに|外《そ》らし、一面大活躍をしているんじゃありませんか、……先 生、こうしている間にも、山村は辣腕を揮っているのかもしれません、……もう兜島の珍器は、 島の外に持出されているかもしれません……南小路と彼とが口論をした、というのは、兜島の 珍器の去就を争ったんじゃないでしょうか、山村はこの為に、兜島の所有権をもった海老澤達 爾氏と発掘の交渉をして断られ、遂に巨額な珍器の魅力と蒐集狂の狂人的執心とは最後の手段 を彼に選ばせたのじゃないでしょうか……、そして彼は自分を安全地帯に置く為に、換玉を使 って眼を晦まして置きその隙に兜島の探査をしよう……としたに相違ありません、1ところ が突然健爾氏が現われて兜島の事業を継承してしまったので、もう破れかぶれで、こんどの殺 人をやってのけたんじゃないでしょうか……先生……』  泰堂先生は無言であった。腕組みをして天井を見詰めていた。  私自身も、今まで想像もしなかった山村一甫の換玉1ということを考えると、不思議にも、 われながら整然たる解釈がつくのであった。 (山村一甫i、果して彼は生きているのであろうか) 第十一章 南小路の死         一 『じゃ、先生。私はこれから鷲尾さんのところへ行って、もう一度山村一甫のことを調べても らって……それから兜島の警戒を頼んで来ますー』 『うん、よかろう。総ての方面から一つ一つ決定して行くことが大切だナー--、わしは幸神ビ ルの現場を精査するつもりだ……よかろう……』  先生はも一つ大きく頷くと、やっこらさと立って、禿ちょろのラッコの襟を合わせた。  あたりの人は、 (おのぼりさんの御案内かー)といったような眼で私達二人を見送っていた。       ×  私はそれから警視庁に直行した。  冷めたい廊下をコツコツと回って、鷲尾警部の部屋をノックした。  鷲尾警部は、一人の若い男と話していたが、間もなくその男は頭をペコペコ下げて帰って行 った。 『やあ、どうぞ……』  警部は大きな手で椅子を奨めてくれた。 『其後はー、如何です、着々進行していますか、海老澤氏の方は・-…』 『やあどうも……、近来の難事件でね、何かありましたか、別に弱音を吐くわけじゃないけど、 新事実があったら聞かせて下さい……』  鷲尾警部は、私がのこのこやって来たからには、何かあるだろうーといったような顔をした。 『実は、山村一甫の件ですが、も一度彼の死体をよく調べて戴きたいんです……それは……』  私はもう一度山村一甫に関する疑問を、さっきと同じように繰返した。  聞き終ると、鷲尾警部は、 『ふん、成るほど……、山村なら、そんなことは遣りかねないですね……成るほど……だが、 まさか間違いはない筈だがー』  と電話機を引寄せて、ダイヤルを回すと、 『もしもし、ああ、鷲尾警部だが、……あの山村一甫の死体について聞きたいんだが……あ あ……指紋は……ふふん……筆蹟は……成るほど……成るほど……や、ありがと』    受話器をガチャンと棄てて、   『河村さんー』    と向き直った。   『折角ですけど、あの死体は変装こそしておれ、山村一甫に違いないそうですよ、指紋もピッ   タリ一致するそうですぜ……山村はこの前二三度ここの御厄介になってますから、ちゃんと指   紋もとったんです……顔も洗って見ると警視庁の写真にピッタリだそうで1換玉説は成り立   ちませんね、お気の毒ですが……筆蹟の方は、指紋みたいに断言するわけにはいきませんけど、  `殆んど同一、と認定されるそうです。ただ、あの手紙にはいつも発信人の署名が無いんで…・   警視庁には写真に添えて署名だけしかとってないからね……』    鷲尾警部も、脚さか気の毒そうに、そういった。    ダガ、意気込んで来た私は、スッカリ落胆してしまった。山村一甫は換玉なりーという一   大発見を提げて意気揚々と来たのだけれど、その大発見は|優《はかな》くも砂上の楼閣となってしまった   のだ。同一の指紋ということは、厳然として、私の換玉を粉砕してしまった。   (早まるナ、落着け……)    泰堂先生の言葉を思い出した。 睨  (そうだ、これしきのことに……) 白  私は強いて、勇気を揮い起した。なんでもないような顔をした。 糊 『鷲尾さん、お蔭様で一つ疑問が氷解しました……ところで事件の核心、というのは御存知で しょうけど兜島です、いや兜島に隠匿されているであろう珍器なんです。1これは大体ある っていうことは記録其他で推定されますけど、兜島のどこにあるか、それがまだハッキリしな いんです。ですから、犯人は吃度兜島をうろうろするか、兜島を方々発掘するようなことがあ るーと思うんです、ですからその発掘や探索に邪魔になる「兜島新興株式会社」の社長、海 老澤達爾氏に一応交渉したけど、達爾氏はああいった一徹の人ですから株式を募集しておいて から、そんなあるのかないのか夢のような発掘の為に、便々と待って人に迷惑をかける、なんて、 そんなこと,の出来る人じゃありませんから断然断ったでしょう……だが一方の犯人もどうして も思いきれなくて到頭あの第一の惨劇が惹起された……あとはもう破れかぶれの惰性だーと 見られないでしょうか……』 『ふーん:…・』  警部は頷いて、大きな手で顔を撫ぜた。 『成るほど、……私も|略《おおむね》その見解でやってます、ただ兜島が重要なことは想像してましたが、 その珍器というのは何んですか、一体……』 『実はこれで随分苦心しました、古記録からやっと見付け出したんですけどなんでも乾山作の 陶器類が数点あるらしいんですーこれはご存知でしょうけれど時価に見積ると、相当莫大な 額になる筈で、又人に依ってはトテモ金銭には評価出来ないほどのものであるから、見様に依 っては、充分殺人事件の素因になるほどのものです……』 『ふーん、だが河村さん、そんなものが、すぐ右から左へ金になるでしょうかー』 『骨董マニアというのは、我々から見たらば二束三文のがらくたにも、数千数百金を投出して 平気です……この心理状態には非常に微妙なモノがあるらしいですね、……又もし犯人自身が この骨董マニアだとしたならば、尚可能性があるわけです。万難を排しても手に入れたいー という甚だ強烈な所有欲を生じるらしいですね、この蒐集家の心理はー』 『成るほど……そのご推定はたしかに|穿《うが》っていますね、私もそんな経験がありますよ、ふんふ ん……』 『ですから、その品物が一旦兜島から持出されたら最後ですから第一に兜島の警戒を厳重にお 願いしたいと思うんです。島の出入は特に御注意を願いたいんです……』 『よろしい、厳重な手配を伝えましょうー』 『第二に、島人についても御注意願いたいんです。あの兜島というのは、兎に角一通りや二通 りの島ではないですね、一寸、「妖島」といった感じがしますね、島全体が非常に不可思議な 雰囲気の中にあるんです……私もあの兜島に行って実地を見て来たんですが……西村醜吉とい う男がいますねー』 『ははア……』 『その男がどうも奇怪な雰囲気の源泉らしいんです。あの男についても調査がありますかー』 『西村はね……、ええと、あれはあれで相当の学者らしいナ。兎に角十年一日の如くあの兜島 に閉じこもっていて東京にもまだ一度も出たことがない、という位だそうだが、まアいってみ れば書籍の上の学者だろう……』 『はア、東京に一度も出たことがないんですか、……じゃこんどの事件の犯人じゃないわけで すねー』 『ヘェ、あんたは兜島の人間も疑っていたんですか、この事件の手口は確かに近代的都会生活 に馴れたインテリの手口ですよ、先ず西村醜吉は除外すべきでしょうナ』 『でも、本当のことをいいますと私が兜島に行った時、すんでのところで西村醜吉に殺られる ところだったんですよ、いきなり撲り倒されて岩穴に押込められたんで……』 『ほほう……、間違われたんじゃないですか誰かとー』 『イヤ、そうじゃないんです。やっとのことで私が脱け出して彼の部屋を窺うと、西村醜吉は 悠々と香なんか焚いていましてね、するとそこに北條五郎と、それから海老澤さんのところの 女中頭の黒崎貞枝さんとが現われましてね、私の落した写真機を指さしながら、何か談笑して いるんです、実に奇々怪々じゃありませんか:…・』 『いつです、それはー』 『ええと、タッタきのうです。きのうの、そうですね午後四時頃、或は四時半1かと思いま すが……』 『ヘエ・::・』  鷲尾警部は、なんともいえぬ変テコな顔をした。 『河村さん、冗談じゃないでしょうね……きのうの三時頃にはMデパートで健爾氏の殺人があ って、北條記者も活躍していたんですよ……それが、人もあろうに黒崎貞枝は海老澤家にいて 新聞記者の撃退係をしていたんで、新聞記者は大嫌いな人ですよ……それが二人同道して伊豆 の南端の離れ小島に現われるなんて……』 『そうなんです、それが変テコで仕様がないんです、私はたしかに北條記者と黒崎貞枝さんだ と思ったんですが、その後その二人は島を出た様子もないのに、私が宿から電話をかけて…… 島を見張っていたんですが、私がそこを離れたと同時に二人が出たとしても、ものの二十分位 か三十分位の間ですが……東京へ電話をかけてみるとチャンと北條五郎は東京にいたんです。 そして健爾氏の悲報を知らせてくれたんですが……』 『それじゃ、全然時間が合わないじゃないですか……恐らく別人でしょう……』 『イヤ断じて私は北條記者であったと思います。彼のくせで頭髪を掻上げるのや、声調までそ っくりでした……尤も黒崎さんの方は、一寸私に心当りがありますが……』 『テコヘンな話ですねえ、北條五郎が二人と貞枝さんが二人いるんですか・…-、その心当りと いうのはー』 『それは……実は私のアパートに貞枝さんが葭村海子の名刺を持って来たんです、そして|怪誇《おか》 しなことには、美何子さんに聞きますと黒崎さんは絶対に理由なく家を開けたことがないそう で……ですからもしかすると葭村海子ーご存知の山村のところにいた所員ですーが貞枝さ んの扮装をして私を訪ねて来たんじゃないかーと思うんです』 『ドンナ訳で……』 『その理由は解りません、ただそう想像するんで……で、そう仮定しましてその葭村海子の扮 する黒崎貞枝と北條記者とが、兜島に来たんではないか、と思うんです、いずれにしても北條 記者は断じて北條五郎です……』  鷲尾警部は黙ってしまうと、頬杖をついて、なんともいえぬ複雑な顔をした。鷲尾警部の背 後の硝子窓の外には、もうカランカランに乾燥した闇が、心地よさそうにお濠から立登るもや もやとした湯気を吸っていた。いつの間にかさっきの密雲は流れ去って、気をつけると、もう 星影さえ一つ二つ瞬きはじめていた。 『鷲尾さん……』  私はしばらくして言葉を継いだ。 『兎に角、一度北條記者を呼んでみたらどうですか、……何か得るところがあると思いますけ どー』 『だが君、相手が新聞記者だ、それも一流紙の一流記者だからねえ、メッタなことをすると、 却って収拾がつかなくなるからナ、余程ハッキリした証拠と疑問がないと……』  私は、 (成るほど、世の中というもんは、こういうものか……).  と改めて感じた。 『第一、今の場合だって時間的な無理があるし、たとえ、北條記者であったにしても、どうして 島から脱出し、極めて短時間の中に東京に帰ったか、というのが問題だナ、河村さんが見張っ ていて、誰も島から出ず、然も島にいる筈の北條記者が東京の東邦日日本社にいて電話に応じ たーというのは全然不可解なことではないですか、一言否定されればそれまでじゃないです か……』  今更、鷲尾警部からそういわれなくとも、私自身、とうから不思議でならない事実なのであ る。 (いいや、断じて北條記者であったのだ)  そう大声で叫びたく思うのだけれど、 (では、どうして彼は私の眼を掠めて東京に帰ったのだ、…-.) (どうして、そんなに早く帰れたのか……)  西村醜吉と談笑していた男が北條記者なら、いかにして島を脱けだしたのであろう…・-私は 断じて虫けら一匹島から脱け出したのも見遁す筈はなかったのだ---。 『兎に角、この問題は私がよく研究してみます……では、何はともあれ兜島の警戒、殊に西村 醜吉の身辺はよろしくお願いいたします…-・』  私はペコンと頭を下げた。第二の北條記者及黒崎貞枝さんのことを考えると、総て不合理の 連続で、またまた五里霧中に堕入ってしまうのであった。 345白日鬼 二 私は、警視庁の石段を下りると、 魂の脱け出た殻のようにふらふらと歩きながら、お濠端を 真直ぐに、銀座の灯を慕った。  溢れるような酒杯の中に、せめてもの安住を見出そうとする私の情けなさ……でもこう事件 が混迷錯綜して来ると、しばし事件の圏外に憩うことも、又無意義ではなかろう……。 (頭を冷せ……美何子さんの為に、明日の勇気を揮い起せ……)  :…私はしばし五彩の雰囲気の中に低迷した。|極月《きわめつき》の物狂わしい息吹が、紙テープの中に 喘ぎ、又、百花練乱たる造花の|萌《はなぴら》に、塵垢が|蝟《たか》っていた  。  高周波を持ったシャスの金 属音が、サイン・力ーヴを描いて、酒杯の中に波打っていた……。  ・…連日の異様な精神力の酷使は、蕩然たる暖気と、アルコホルの為に、一挙に弛緩して、 節々も脱け落ちるような、そのカッタルサ……。  夢のように耳を襲っていたラジオが、思い出したように時報を報じた、そしてアナウンサー の物馴れた音調がニュースを読上げはじめた。 『……定期航空路の遭難……本日午後四時頃、折柄本州全般を襲っていた密雲の為に、|羽田《はねだ》発、 大阪行きの定期航空機は|箱根《はこね》付近にてエアーポケットに迷いこみ不時着をしましたが幸い乗客 其他には異状ありませんでした……この為、同航空路は本日は臨時休止、及び伊豆下田行航空 路も臨時休止をいたしました……』 (アッ……)  私は荘然とした。脚さかの酔いが、スーッと虚空に吸収されていった。 (バカ、バカ莫迦……) (下田までは定期航空路があったのだー)  なんという迂潤さであろう……。 (北條記者の一人、二役……考えてみれば、なんでもないことではないかー)  そういえば遊覧コースとして下田行航空路が開けたことは大分前に新聞に出ていたことであ った……そういえば、達爾氏が「兜島新興株式会社」を目論んだのも、辺鄙な割にこの航空路 による便利なことを土台として計画されたことではなかろうか……と寧ろバカバカしい程アッ 気なく、それからそれからと思いあたるのであった。 『おーい、旅行案内を持って来い……』  私は給仕が持って来た旅行案内をひったくるようにして頁を繰った。  あった、あった午前十時と午後四時iの二往復であった。これは準定期であるから一人で も乗客があれば出発する筈である……。  スルト、きのう午後三時に健爾氏が殺られて……北條記者に、と仮定し……午後四時発には 自動車をとばして間に合う筈だーそして、恰度私の覗き見ていた頃に兜島に来られる筈であ る。そして又、すぐ帰りの飛行機で東京にとってかえせば、私が電話した頃にはもう東京にい られる筈ではないか……。 (ナント、飛行機利用の一人二役であったのだ……) (いよいよ兜島で西村醜吉と談笑していたのは、北條五郎に相違ない……)  私は内心に凱歌を奏した。泰堂先生にも、鷲尾警部にも、断じて北條記者に相違ないーと 主張していた手前、甚だ愉快であった。 (|愈《いよいよ》々北條記者が臭いぞ……)  この勢いで、一挙に解決しようと意気込んだ。わざとらしく私のアパートを訪ねて殺人事件 解決法を一席のべ、或は山村一甫に逮捕命令が出るや、得々として私に電話して来たのは思っ てみれば彼の芝居の一幕であろう……。  彼は殺人論を口実に私の様子をさぐりに来たのであろう……そして又、山村一甫逮捕に我事 成れりとばかり、嫌疑転嫁の嬉しまぎれに私に電話して来たのではなかろうか…-。 (そうだ、それに違いないー)  私は思わず膝を叩いた。  と同時に、 (まてまて、それでは、ナゼ山村一甫が同じピストルで殺られたのであろう…-) (彼は兜島からどうして脱けだしたのであろう、断じて島からは鳥一羽飛出さなかった---魚 一匹こちらへは泳いでは来なかった……)  一難去れば又一難1そんな古風な形容詞が、重厚な実感を伴なって、|舞《ひしひし》々と身内に迫って 来た。 (早まるナ、落着け……)  泰堂先生の、張りのある言葉が、耳元で囁いた。 (しっかりして、もう一と息だわ……杏二さん……) 美何子さんの優しい、そして又|虫《こ》盟|惑《わく》するような息吹を両の頬に熱く感じた-・。 ああ、私は又も酔い痴れたのであろうか……。 ×  久しぶりで私は自分の部屋に辿りついた。部屋は旧態依然としていた。机の上は旅に出る前 と同様、ノートだの原稿用紙だのが乱雑にとりちらかされてあった。 (おや……)  思わず眩いた。どうも|何人《なんぴと》かの手が触れられたような気がするのである……乱雑になってい るだけに、却って一寸手を触れられても、すぐピンと来るものがあった。それは極めて注意深 く前と同様に置かれてはあったが、私の感が承知しなかった……。 (何者が私の留守の部屋に忍び込んだのであろう……) (何が目あてにー)  私の部屋には金目のものは一つもなかった、強いていえば置時計位のものであろうが、それ には手もふれた形跡がなかった。そして又|弄《いじ》ったものを注意深く置きならべておくとは……。 どう考えても普通の窃盗とは思えないー。  私も注意深く卓上スタンドを引よせて、横から透かして見、埃の具合を調べた。 (あ、ヤッパリ……)  同じ机の上にあるほかのものに比べて、手の触れたらしく埃の砂ないのは、私のノートであ ったーそのノートには、最初の数日の、この事件の顛末が書きとめてある筈であるー。  私は、一瞬、いやあな気持になった。 (この事件の犯人は、もう影のように私の背後にもしのびよっているのだ---)  |傑《ぞ》ッとしたものを感じた。  凶悪無惨な犯人を相手に、此方が殺られるか、犯人を挙るかーのドタン場にまで来てしま ったのだ……。  私は早速事務所に行くと、 『私の留守中、誰か来ませんでしたか……』  と訊いてみた。だが返事は、 『いえ、|誰方《どなた》も……』  たったそれだけであった。犯人は私の留守を承知で来たのであろうー。  泰堂先生は「わしに成算あり……」と囎いた、だが果してこの神出鬼没、凶悪無惨な犯人を 相手に充分な立ちまわりが出来るであろうか……。 三 バサッ・ 。  疲れの為に、浅い睡りにおちていた私は、ドアーの隙間から投込まれた朝刊の音に、ハッと 眼を覚ました。  もう夜は白々としていた。窓外は峻烈な寒さであろうけど部屋の内はスティームの為に、ほ の暖かであった。  私は新聞を引よせた、ガサガサと拡げると、プーンとインクの新鮮な匂いがした。  半ば、無意識に社会面を拡げた。 (アッ……)  思わず上半身をベッドの上に起した。なま新しいインクは、黒々と、   海老澤事件で保護検束中の    南小路露滴氏突如自殺     奇怪にも脱走の上|兵児帯《へこおび》で  と奇怪なニュースを報じていた。  私は瞼が痛くなるほど擦った……唖然とした……呆然とした…・-ダガ事実である。  負るように記事を読んだ。 「近来の怪事件とし又々迷宮入りの危倶を抱かせていた海老澤達爾氏の殺害を発端とする一連 の殺人事件に関し、兼ねて事件に重大な関係ありと認定され、彼の一言は事件の核心を衝くも のとして、警視庁に保護検束中であった古美術研究家、南小路露滴氏は、昨夕八時から九時頃 までの間に監視人の隙を|覗《うかが》って奇怪にも地下室の鉄棒を破り逃走して居るのを洞航塒頃の巡回 で発見、直ちに非常手配を行って、行方厳探中のところ今暁一時頃、自宅付近の神林子爵邸趾 (目下空家)の庭の松の木に兵児帯(同氏は保護検束中で、自殺の惧れなきもの、として特に 平服のままであった)を掛け、総死して居るのを発見、直ちに応急手当を施こしたが、すでに 死後≡二時間を経過しているので如何とも手の施こしようがなかった。  しかも奇怪なのは、保護室の鉄棒に|鎗《やすり》様のものを使用した形跡があることで、これは何者 かの共犯者と|諜合《しめしあ》わせ脱走したものらしく、又、今日まで左程確定した嫌疑にまで進行してい なかったにも|不拘《かかわらず》敢えて危険な脱走を断行し、一度は自宅にまで行ったらしいが、既に手配 を感じてか遂に総死をとげてしまった、ということは、何か彼の背後に後暗い事実があったの ではないか、と思わせるものである。  |灰聞《そくぶん》するところに依ると南小路はその巨財を積むには山村一甫の辣腕に負うところ多く、又 山村一甫と相当激しい口論をした事実について追及され、その答弁は甚だしどろもどろであっ た、ということは、この嫌疑をいよいよ濃厚ならしめるものである。  彼の足取りi。其後の調査によると、南小路は脱走後真直ぐに自宅付近まで来たものらし く、何等かの事情(或は証拠埋滅の為か)の為に自宅に立寄らんとした形跡があるが、すでに 迅速な手配に自宅の内外を固められていた為、遂に進退共に窮して総死したものらしく、脱走 後総死するまでは約一時間乃至一時間半と見られ、肥満して柳さか歩行困難の南小路は、それ だけの時間を警視庁から自宅までに費やしたと見られている。  南小路の嫌疑愈々濃厚-。彼の死後直ちに同家は一家中召喚取調べを受けているが、その 中同家の書生をして山村の事務所に勤めていた木野重司が、重大な新事実を漏したものの如く、 捜査本部は果然色めき立っている…・-」  私は一気に読み終った……そして、ガッカリして又床に潜込んだ---。 (矢ッ張り、臭いと思っていたがー) (とうとう鷲尾警部にやられてしまったか---) (余程の事情がない限り、人間が死ねるもんじゃない……まして南小路のように、世の中を押 しで渡って来た男が総死するなんて…・-) (……南小路露滴か……)  瞼の裏に、あの脂ぎった|緒《あから》顔の肥大漢を思い浮べた。ドギツイ太い黒のセルロイド枠をも った眼鏡……傲慢不遜の悠揚たる面構え、物腰……。  私はなんだか、彼の様子を思い浮べている中に、 (南小路露滴が犯人だ……)  ということが、どうもピンと来なくなった。  あの歩行にすら柳さか困難を感じそうな糖尿病型の鈍重な男1、成るほどその頭の中は山 師的な悪辣な才に充ち満ちていたかもしれないがどうしても、この小気味よいほど鮮やかな犯 罪の、その下手人だとは---。 (マテ・-…彼の脱走には、共犯者がいたらしい・…-というではないか) (その共犯者とは誰1)  鉄棒に鎗のあとがあった、というのが事実ならば、新聞記者ならずとも、共犯者1という ことは、すぐ考え及ぶところだ……。  私の瞼の裏には、何人かの男、男、女、女……の顔が明滅した。  厳重な危険をおかして、南小路の脱走を助けたーその者は誰……。 (おやッ……)  私はドキッ、とした。思わず又床の上に起きなおった。 (視角をかえてみろ……)  私は自分自身の考えに、胸がドキドキして来た。 (南小路露滴は、その共犯者に助けられたのであろうか……ソレトモ……殺されたのであろう かー)  なんという恐ろしいことであろうー。  私は今まで新聞記事を盲信していた。南小路は共犯者に助けられて脱走し、総死したものと 信じ切一っていた。ダガ、 (真犯人は、自分に不利な証言をしそうな南小路を、あの保護室から盗み出して、サモ自殺を したように装わせたのではなかろうか……)  その|狡猜《こうかつ》さ、空々しさ……。  私自身、|弦《ソしこ》まで考え及んだのは、寧ろ大出来であろう。私は床からはね起きた。 (犯人はこのカムフラージュの成功に、一寸息を入れているであろう……その隙に一挙に粉砕 してやるぞ……)  私は張り切って、立ち上った。 (春日井先生の意見を聞いてみよう……)  私の眼の前には、どうも「北條記者」の周囲に、奇怪な雰囲気があるような気がして仕様が なかった。第一、兜島で不思議な彼の姿を見かけた印象が、非常に根強く私の脳裡に|刻《きざ》み|込《こ》ま れていて、何事につけ、彼を疑惑の眼で見ることが、半ば習慣的になっていたし、第二に社会 部記者である彼こそ泰堂先生もいったようにMデパートの事情に精通している可能性が多分に ある。又こんどの南小路を誘い出したその者も、北條記者ではなかろうかーと思われるので ある、それは一般のものには全然不明な筈の巡回の合間だとか、南小路の部屋を|知悉《ちしつ》していた 点……それらの彼北條五郎に関する疑惑、そして又職業を利して始終新しい捜査上の資料に接 して、それに対応工作を施こせる立場にあり、それが|斯《か》くまでもこの事件を混迷錯綜させてし まったのではないかーという一種邪推にも似た気持……。 第十二章 犯人逮捕 私は早朝も構わず、春日井泰堂先生を訪れた。 泰堂先生は、恰度朝食の卓に向ったところで、漸く空腹を思い出した私は、はからずも先生 の御相伴をしてしまった。 私は箸を置くと同時に、 『先生、朝刊を御覧ですか……』 『ウン、見た。南小路露滴が死んだナ……』  先生は別に驚かなかった。 『それで、私は、南小路は自殺したんじゃなくて、殺られたんだと思うんですが……』 『ウン、……』 先生は爪楊枝を使いながら、香り高い番茶を含んだ。 『ウン、卓見じゃナ……同感だ。南小路露滴という奴は、大体自殺するほど殊勝な奴じゃない よ、今死ぬ位なら、もういままでに、命がいくつあっても足りない位のもんじゃ……尤も死ん だ者の悪口はナンだが……』 『そんな、ですかー』 『そうさ、大抵のことはやっとるナ……』 『ははあ、ところで。……私の考えでは、この事件の真犯人は、あの北條五郎だと思うんです が……どうでしょう……』 『ふーん……』  先生は、あまり浮かぬ顔をして、 『……河村君、きのうナ、あれから君と別れて、わしは幸神ビルヘ行って見たよ、色々調べて みると、あの事件には北條五郎は関係ないぞ……』 『エッ、何故、ですか……』 『アリバイがある。北條記者はあの朝早く君のところへ電話して来たそうだナ……それからあ の事件が発見されるまで、つまり山村一甫が殺られて死体となった後まで、北條記者はちゃん と東邦日日新聞の社会部の椅子にいたんだぞ、どうだ』 『ほ、ほんとですかー』 『正に本当だ……』 (そういえば、あの日幸神ビルの付近で山村一甫が殺られたーといった時の北條記者の周章 狼狽振り……あれは心底からの狼狽であった……)  私は文字通り呆然としてしまった。私の描き出す犯人は、あとからあとからと覆えされてし まうのである。 『先生、一体どういうんでしょう、この事件は……達爾氏、山村一甫、健爾氏の三人は、確か に同一のピストルで殺られています……そして、そして山村を殺ったのは北條記者ではない、 とすれば、ホントの犯人は……』 『君、あせるナ……。沈思黙考Ilわしに成算ありじゃ……』 『じゃ、誰ですか、それは……』 『まだ解らん・-…だがきょうの夕刻頃には見当位つソ、り・い--』  先生は、何故か、そう意味あり気にいうと、やっこらさと書棚から分厚な本を引抜いた。背 文字には、「大日本興信録」と書いてあった。  先生はぱらぱらと頁を繰ると、その一頁を開けて、私の眼の前に持って来た。見ると、 「西村秀吉」とあって、 「西村秀吉。静岡県伊豆郡兜島村。明治十二年十月五日生。財約十万。君は|鄙《ひょ》まれに見る好学 者にして史籍に造詣深く殊に近来香道茶道陶道に|離蓄《うんちく》を傾く……云々」  とあった。 『あッ、これですか、先生。陶道に離蓄を傾くーというのがピンと来ますね、犯人はそれで すか……』 『早まるナ、落着け!……』  先生は、いつものように私を|窟《なだ》めた。 『西村醜吉は、君の調査で、|既《か》つて東京に出たこともない、という男じゃないか、それが東京 の真ん中で殺人が出来るか……』 (成るほど……)  と思った。性急な自分が、一寸面はゆく思われた。 (それにしても、なぜ先生は、こんなものを持出されたのであろう……) 『君、その本は昭和八年度版だ、ところがこの十一年度版には、西村の名がないぞ……』  泰堂先生は、もう一冊、同じような本を出された。成るほど、いくらひっくり返えして捜が しても、その最近の本には名がなかった。 『これは、どういう訳だと思う……』 『さあ……』 『つまり、西村醜吉は金をなくしたんだ・…-この本には財産の五万以上のものしか掲載してな いんだ……ということは、言葉を換えれば西村醜吉はここたった≡二年の間に、その財産の過 半数を消費してしまった、ということになるだろう……』 『そうですね、そうなりますー』 『一体、何に|費《つか》ったと思うナ……』 『さあ、あんな田舎で費うわけもないんだがー』 『そうじゃろう。 では、何に費った かー、わしは、 先ず骨董の類の蒐 集に、彼は財産を |蕩尽《とうじん》した、と見る ナ……』 『成るほど……』 『前の興信録にも 骨董趣味に没入し たとあるナ……茶 道、香道なんかは、 凝っても大したこ とはない、という より茶道なんかは、 よい茶器を揃えよ うーとすること に莫大な入費を必 要とするようにな るんだ……茶入一 つ何千何百金とす るのは、寧ろ珍ら しくないからナ。 つまり茶碗だとか、 茶入だとかそうい ったものの代価が、 ビックリする程、 |嵩《かさ》むんだ……いつ かもいったろう、 茶碗一個が一国一 城に、匹敵するほどのもんだからナ、兎に角……』 『それじゃ西村醜吉は、随分名品、珍器を|蒐《あつ》めたわけですね……』 『まあ、そうだ。だが、イカ物というものが横行潤歩する社会だからナ、骨董界というもん はー、よっぼどイカ物も握まされているだろう……』 『そんなにまでして、財産を蕩尽するほどのことをして、……一寸想像もつきませんね』 『イヤ、世の中には想像もつかんことが沢山あるぞ、殊に愛恋の道と、趣味の道とは、他人の 想像を超越しとるからナ……例えばわしが老骨を提げて、御苦労様にも飛回るのも、いってみ れば、一種の趣味かも知れんし、又君が清る思いをして、もしか誤まると危害を受けるかも知 れぬ危険を冒しながら、尚苦心惨憺するのも、これも趣味かも知れんし、愛恋の発露かも知れ ん……』 『え、マサカ……』  私は先生が、こともなげにいった言葉に、思わず美桐子さんを思い出した……。 (そうかも知れない  )  ふっと心の隅を見透かされたような気がした。この老先生言葉は古いがなかなかいうことが 辛辣である。  だが、泰堂先生は、知らん顔をして、 『殊に、じゃ。蒐集狂というのは想像以上に深刻じゃからナ。これは一種の本能じゃろう.- 人によって差違もあろうが、蒐集欲というのは欲しい、と思ったら、もう矢も楯もたまらんも んらしいナ……切手タッタ一枚に十五万円という話もあるからナ……』 『成るほど、……一々ご尤もです……ではこの事件の原因、というのは蒐集欲-西村醜吉の 蒐集欲というものが、重大な役目をしているわけですね』 『まあ……わしはそう睨んだ……だが断言するには、も一つの資料が入るんじゃ…-』 『それは……』 『夕方まで待て……今日中には解る筈だーどうも君は事件に興奮しているせいか子供の様に その先、その先をあせるからナ……まあ、君。きょうはゆっくり晩まで遊んでいたまえ、新事 実が展開すれば、今度は君に大活躍をして貰うことになるかも知れんからナ……』 『そうですか、成るべく早くわかればいいですね……いかなる大活躍でもしますよ……』 (本当に、泰堂先生がいうように、うまく行ってくれればいいが……)  柳さか心配でもあったが、今のところ、先生を信じて、しばし静観するより仕方がなかっ た。 二  一日かけっぱな七らしい隣のラジオが騒然たる昼間演芸を放送していた。さっき先生の背後 にある柱時計が正午を報じたばかりであった。ソプラノの叫声に似た金属音が、薄い壁を透し て、容赦なく私の鼓膜を襲って来るのだ。 『先生、毎日で|五月蝿《うるさい》でしょうね……』  私は顔を|餐《しか》めて聞いた。 『いや、馴れとるから……』  泰堂先生は平然としていた。寧ろその音楽を楽しんでおられるかのようであった。  その中ラジオは昼間のニュースに移った。 「……以上……次は…・  海老澤氏殺害犯人が自白いたしましたーかねて問題になって居りました海老澤達爾氏、山 村一甫氏及海老澤氏令息健爾氏の殺害事件並びに今暁繊死体となって発見されました南小路露 滴氏に関します怪事件は、其後警視庁当局が必死の捜査を続けて居りましたところ漸く犯人逮 捕に至り、取調の結果犯人は自白いたしました、それによりますと-….」 『アツ……』 『エッ:::』  泰堂先生と私とは、思わず顔を見合わせた。一瞬、先生の顔からも、サッと血の気が引いて しまった。私達二人は、無意識の中、ラジオの漏れて来る壁の方へ|欄《にじり》寄った。 「犯人は南小路家の書生をして居りました木野重司で、既て山村一甫氏の探偵事務所にも勤め て居り、南小路露滴氏並びに山村一甫氏の身辺事情には、精通しているものであります。尚同 人の自白内容によりますと、原因は意外に単純で、かねて主家の南小路氏が海老澤氏の計晒い たしました『兜島新興株式会社』の企図いたしますところが、甚だ我国の国情醇俗美風に惇る ものであるとの説に痛く共鳴し、再三海老澤達爾氏に中止を迫りましたが拒絶され、遂に身を 棄てて美俗を救うーという曲解した英雄主義から、この凶行に出たものであります。  山村一甫、殺害の動機につきましては、同氏の事務所に勤めて居ります中、山村一甫のイン チキ詐術を屡々発見いたし海老澤達爾氏殺害の興奮の余勢を馳って、警告し、却って逆に殺人 罪を密告すると脅かされました為、それを防ぐ為に、又も殺人を重ねたものであります。尚健 爾氏の場合も、達爾氏を亡きものにすれば『兜島新興』の事業は中絶するとの案に相違して、 健爾氏は遺志をつぎ、却って着々と事業の進行に努力して居りましたので犯人は大いに狼狽、 遂に一人も二人も殺人罪は同様iといった棄鉢の気持から、も一つは既行の二犯行が、幸か 不幸か捜査が進行いたしませんのに乗じ、又々凶悪無惨な犯行を演じましたもので事件に関連 し南小路露滴氏が検束されますや、主人の一大事とばかり、同氏を脱走せしめたものでありま すが、其際、不覚にも鉄枠に指紋を残しましたのが犯人逮捕の原因でありました。尚目下詳細 取調べ中でありますが、犯人は一種の変質者らしく、係官をてこずらして居ります-…」  私は、鉄槌で、イキナリ叩きのめされたような気がした。 (あの木野重司が……)  開いた口が|閉《ふさ》がらなかった……荘然自失・…-というのは、こんなことをいうのであろうか。 (あの薄のろの書生が……) (あの愚鈍な態度は、巧みなカムフラージュであったのであろうか……) (恐らく巧妙な愚鈍振りを発揮して鷲尾さんをてこずらしているのだろう……)  私は、文字通りガッカリしてしまった。  私が寝食を忘れて追跡、追及していたその犯人が、ナント私の目の前で、ヘラヘラ笑ってい た、あのバカ書生であったとは……。  なんだか、私には飲みこめなかった。まるで、狐に|懸《つ》かれたように、ボンヤリしてしまった。 あまりのことに、情けない、とも感じなかった……。 × 『そんな、そんなバカなことがあるかー』  泰堂先生も、置炬燵を抱いて、背中を弓なりに円めた儘、黙念としていたが、ややあって、 そう眩かれた。 『河村君。君は一体どう思う……』  先生は、まるで、私を叱りつけるように|凛然《りんぜん》といった。 『……どう思うって、どうにも……』  私は、 (わしに成算あり)  と|囎《うそぷ》かれた泰堂先生が、却って恨めしかった。私はイキナリ背負投げを食ったようなバカら しさを感じた。 『では君は、木野という書生の犯行を認めるのかー』  先生の言葉はなかなか壮烈であった。語気に叩きつけるような力があった〕 『保護室の鉄棒に残っていた指紋が木野のものだ、というじゃありませんかー』  私も負けてはいなかった。 『バカなー。成るほど南小路を脱走させたのは木野重司かも知れん、然しわざわざそんな危 険を冒してまで脱走させた主人が、みすみす総死するのを、黙ってみていたと思うのか-・-』 『二人は、その時、別れ別れだったかも知れません』 『イヤ、南小路は確かに独りで死んだんじゃないぞ、必ず助けたものがある筈だ……』 『えッ、ナゼ、ですかー』 『君、歩行にすら困難を感ずる肥大漢が、独りで木登りが出来るか、木登りをしないであれだ け高い、繁った枝に帯が通せるか……』 (成るほど……)  新聞の写真で見た南小路総死の現場からは、確かにその疑問が湧いて来るー。 『じゃ、先生は南小路も木野が殺ったんだ、といわれるのですかー』 『いや、恐らく木野じゃあるまい……ああいうバカ者は、一旦こうと信ずれば、それを信じ通 すものだ、恐らく木野という男は、南小路に心服しとったんじゃろう……』 『では一体どうなんですか……なんだか、先生の説明が混然としていて、私に呑込めません が……』 『何が解らん、第三者を想像すればいいじゃないか……第三者が主人思いの木野重司を|使咳《しそモつ》し て脱走させる、そして、南小路を殺ってしまった……とナ』 『なぜ、ソンナ手数のかかることをするんですか、その|所謂《いわゆる》第三者が……』 『なぜって、即ち真犯人である第三者が、木野重司に罪を負わせる為にさ……自身の安全を計 る為にさ……』 『でも……そんな安直に、こんな恐しい事件の罪を易々と引受けるでしょうか……あの男 が……』 『それは、わし等の想像を許さんナ、或は木野にとって、そうしなければならんわけがあった かもしれん、又、素晴らしい交換条件があったかも知れんからナ……』 『いくら素晴らしい条件があっても、死んじまっては、ナンにもならんでしょうに---』 『或は死なん、という約束があったかも知れんじゃないか、例えば犯人が身の安全を計ってし まってから木野の無実を証明してやるとか……』 『……先生、それでは水掛論です……何か木野重司は犯人に非ず、という確たる証拠がないで しょうか……』 『ふーん……』  泰堂先生は、眼をつぶって、顎毒をまさぐった。 三 『ウン、あるぞ……』  先生は、カッと眼をあけた。 『君、さっきの木野重司の自白内容を検討して見給え……、成るほど犯行の理由は、一見理路 整然と述べて居る、然し犯行の手口に到っては一言片句もいって居らんではないか…-犯罪者 が自白する時に、一番最初はその巧妙な手口を誇るもんだ、これは一種の犯罪者の本能的通念 だナ……うっかり手口を誇った為に捕縛された例は|枚挙《まいきよい》に|邊《とま》ない位じゃ……又、南小路が大体 「兜島新興」計画を|既《けな》す男かどうか、奴は好んでナイトクラブあたりを俳徊する底の奴だから ナ、……』 『でも先生、まだ、あのニュースの時までには手口の説明にまで行かなかったんじゃないです か……それに、南小路にしたって、書生の前でクダを捲いてばかりいるわけじゃないでしょ う……寧ろ、えらがりな、実行と合反した憂国の志士的な、悲憤糠慨をして見せるんじゃない でしょうか……、それに木野はバカ特有の早呑込みですっかり共鳴してしまったのではないで しようか……』 『君バカにこれ丈の鮮やかな犯行が出来ると思うのか、わしは|断《ちち》じて木野は|偲偏《かいらい》に過ぎぬと断 ずるぞ……』 『私も、まさかあの鈍重な木野がーとは思います、然し的確な反証がない限り、自白してし まった以上犯人と認めなければならんのじゃないでしょうかー』 『では君、自白さえすれば犯人というのか、いまわしが|源義経《 ちみなもとのよしつね》を殺したのはわしだ、と《 ちへ》|い えば、君はそれを認めるのか、無論ソンナ莫迦なことはあるまい、それと同等だ、ただいまの 場合は、柳さか嫌疑はかけ得る……然し嫌疑者必ずしも犯人ではないナ……』 『勿論ですー』 『わしは木野に質問を許してくれれば、必ず反証を挙げてみせるぞ……』 『そうですか、じゃ警視庁へ行って、鷲尾さんに頼んでみましょう-…私もこの奥歯にものの 挟まったような疑問のある中は、サッパリした気持になれませんから……』  泰堂先生は、何か成算があるような様子であった。私も内心、木野の自白を根底から覆えす 結果を期待しながら、大急ぎで外出の支度をした。  泰堂先生は、相変らず村夫子然としてラッコの禿ちょろの外套を着て、むっつりとしていた。 X 『やあ……』  鷲尾さんは、元気よく私達を迎えてくれた。 『こちらは、春日井泰堂先生、城東大学の……』 『はじめて……』  先生は、面倒臭そうに、ぴょこりと御辞儀をして、すぐ要件にとりかかった。 『犯人が捕まったそうで……|洵《まこ と》に結構でしたナ……』 『や、兎に角、自白だけしましたが、少し足りないらしいので、あとの取調べに手を焼いてい ますよ……最初の海老澤達爾氏を殺った手口ですね、あれがどうも私共にも見当がつかんので 色々やってますが、どうも口を割りませんで、|終《しま》いには、「忘れちまった……」なんていうん で、どうも……』 『成るほど……』  私の気のせいか、先生がニヤリとされたようであった。 『で、どうでしょう、わしも一寸一言糺したいことがあるんじゃが、質問させてくれるじゃろ うかー』 『結構です。今休ましてますから、ここへ|寄来《よこ》しましょう……』  鷲尾警部は気軽に電話機を取った。 『どんなことをお訊ねで……』 『いや、あんたも聞いていて下さい、面白いことになるかも知れぬで……』  先生は意味あり気にいった。 (一体、どんなことをいうのであろう……)  私は柳さか心配であった。  直ぐ、手錠をかけられた木野重司が、一人の官服警官に守られて、這入って来た。  私は思わずポケットの中で、手を握りしめた。  木野重司の顔は、締りなくゆるんでいた。薄く口を開けてきょろきょろ私達を見比べた様は、 どう見ても足りない人間でしかなかった。  先生はジロリ一瞥して、 『君が殺ったそうだね……』 『ウンー』 『そうか。だが嘘をいっちゃいかんよ、あんまり嘘をいうとあとから弁解しても駄目だぞ……』 『:::…』  木野重司は、瞬きもしないで、アッ気にとられたように、泰堂先生の顎毒を見詰めていた。 『じゃ、どうして海老澤さんを殺したんだね……』 『ウチの先生が……』 『イヤ、それは解っている。何で殺したんだ、短刀かピストルか……』 『………』 『どうして殺した……』 『:::…』 『どうだ……それをあの人に聞くのを忘れたかー』  鷲尾警部は吃驚したように、腰を浮かせた。先生は、片手でシッと制すると、 『どうだ、本当のことをいわんけりゃいかんぞ…・-あの人はもうお前のことも、約束も忘れち まったんだぞ……』 『嘘だい、嘘だい、忘れることがあるもんかー』  先生の顔には、サッと血の気が浮んだ。  木野重司は身悶えをして、手錠をガチャガチャと鳴らした。 『……そんなことがあるもんか、忘れるもんか……』 『ところが、病気になっちまって、駄目なんだ、だからお前に代りに死んでくれといっていた ぞ……』 『………』 『いやだいやだ、死ぬなんていやだよ……』 『いやなら本当のことをいってご覧……お前が海老澤さんを殺したのは嘘だろう---』 『………』 『どうだ、いまのうちにいわんと、もうあとからいくらお前が頼んでも駄目だぞ---お前はこ の小父さんに殺されてしまうんだぞ-…いいか.…-』  木野重司は、ギョッとしたように、指さされた鷲尾警部の顔を凝視した。その顔は、紙のよ うに蒼ざめ、瞳孔は恐怖の為に拡大し、しまりのない、色槌せた唇は、わなわなと震えてい たー。 『小父さん、小父さん助けて……おらあ知らねえんだ、頼まれただけだ-・一-』  悲鳴に似た叫びであった。                       鷲尾警部は、のけ反るほど驚ろいたータッタの、今の今まで犯人と思っていた男が、脆《もろ》く も自白を翻がえしてしまったのだ。マンマとこの薄のろ青年に、一杯食わされたのだ。 『キ、貴様、誰に頼まれた! ……ナゼ、・ナゼそんな嘘をついたんだ---』  警部は、噛みつくように畷鳴った。 『あのう、あのう、ぼ、坊ちゃんに:・…』 (えッ、坊ちゃんP……)  一同は唖然とした。 (坊ちゃんとは、一体何者であろう……) (南小路には男の子はいない筈だが……) 木野重司は、大きな胴体をして、めそめそと泣きはじめてしまった。 第十三章 兜島陥没 一  私達三人は、総掛りで木野重司の御機嫌とるのに、すっかり手を焼いてしまった。  それでも、やっとこさ|宥《なだ》め|鎌《すか》して、彼の本当の自白を…-それは全くぼつりぽつりと、長い 間かかって聞き出したものであるけど……を纏めてみると、 「木野は坊ちゃんに頼まれて、坊っちゃんがどうか頼む、そうしてくれなければ、僕は死んで しまうーと口説かれたので遂にいやいや承知したもので、その代り一週間たったらきっと木 野は無罪なんだ、一時一寸身代りになっただけだーといって助けてくれる。そして、ほんと うに僕のいう通りしてくれたらお礼に千円くれるし、又お前が大好な人をキット世話してくれ る……というので、それなら一週間位牢屋に入れられたっていいや……と思った」  私はあまりのバカバカしさに、言葉も出なかった。 (マサカ、これほどの莫迦者とは思わなかった---) 「そして、僕がウンというと坊ちゃんは大変喜こんで、先ずお礼を十円先にくれて、ではお前 のご主人の南小路さんがいま警視庁の悪い人に捕まって、大変|虐《いじ》められているから助けてあげ なければいけないぞ……それにはこういう所から這入って、三つ目の窓で、それには鉄棒が入 れてあるから、鎗を持って行け……そして、南小路先生が、或は出るのがイヤだ、というかも 知れないけど、それはウソだから、声を立てないように、静かに連れて来るんだぞ、いいか、 人に見られないように神林子爵の空家の庭へ連れて来るんだ、そしたら僕がそこで待ってるか ら……というので、その通りにするといったように坊ちゃんが待っていて、ご苦労ご苦労、こ れは二度目のお礼だ、といって又十円くれた、そして、少し待っていろ……というので、入口 で待っていると、間もなく坊ちゃんは一人で出て来たので、先生はー、と聞くと、恐い顔を して、南小路先生は、死んでしまった、止めたけれどもきかないで、到頭木にぶら下ってしま った、といったので、僕は折角ここまで連れて来たのにーと、ガッカリしてしまった。する と坊ちゃんは、ご飯でも馳走してやろうーといって、それから銀座にいってご飯を食べなが ら、坊ちゃんは、いいか、これからが大事だから、よく気をつけるんだぞ……、そういって、 あしたはお前が警視庁へ喚ばれて色々訊かれるかもしれないけど、びくびくしちゃ、いかんぞ、 大威張りで話してやれ、こういう風にいうんだ…-と幾度も教えてくれた。僕も千円と、ナン のことを約束したから、一生懸命に覚えたよ……そして、こういえばモット御馳走してくれる ぞといったんで、待っていると、本当に坊ちゃんがいったように、ここに喚ばれて、その通り 話すと、この小父さんが、うんよくいった-…・そういって鰻丼を奢ってくれたよ」  鷲尾警部は、苦虫を噛潰したような顔をして、ぷんぷんしていた。  泰堂先生は、 (我意を得たり……)  といったように、にこにこしながら、 『うん、そうかそうか、そうだろう……わしが聞くことに、全部答えたら、もっといいもんを 奢ってやるぞ……それから』 「それから、この小父さんが、どうやって殺した、どうやって殺した、と恐い顔をしていうん だけど、僕、それまで坊ちゃんに聞いてなかったんだよ---わかんないことがあったら、忘れ ちまったといえといわれただけなんだよ……」  このテイノー青年木野重司は、しんから困ったように、憐れみを乞うような眼つきで、私達 を見回した。 『坊ちゃん、坊ちゃんて、一体誰だ、本当の名はナンていうんだー』  鷲尾警部は、憤然と畷鳴りつけた。  私達は固唾をのんだ。 『……坊ちゃんは坊ちゃんで、ぼ僕、坊ちゃんの名は、名は知らないんだよ---』 『ババカ、そんなことがあるかー』 『でも、でも……昔から坊ちゃんなんだ……名、名前なんて知らないんだよ-・-・』 『莫迦め!』  鷲尾警部は、 握りこぶしで、 ドンと机を撲った。 びっくりするほど、 力の軍った一撃であった。 ×  私達は、この悲喜劇の一幕のような木野重司告白の中から結局、木野というのは、飛んでも ないバカ者である、真犯人は、まだ未見のヴェールの中に、隠されているのだ、ということだ けしか、得るところがなかった。 『先生、随分バカをみましたね……』 『何がー。理論は実験にしかず、君との水掛論に明快なる解決を得たじゃないかー』  泰堂先生、狙いが的中して、意気軒昂たるものがあった。 『でも、あの人だの、なんだのって、なかなか誘いの手は、巧みなもんですね……あの薄のろ、 見事にやられましたね。あの人って……なんて白ばっくれられたら、相当苦戦だったでしょう にIl』 『ハッハッハ…・:沈思断行、押しの一手だったな……。だが鷲尾さん困ったろう、犯人の自白 を発表してしまったんで、とりかえしがつくまい……でも、又一面からいえば甚だ好都合じゃ よ、犯人は計画図にあたれり、とばかり|北嬰笑《ほくそえ》んでいるじゃろうからナ、この隙に、一挙に敵 艦撃滅じゃ……』 『大分、自信がありそうですね……』 『ふむ、わしの見込み通りの調査報告が来れば、もう犯人は速座に指名出来るナ・・ 『へえ、それはいつ解るんですかー』 『そうじゃナ、もう来とるかも知れん……一緒に又家へ来たまえ……』 『ええ。人が来るんですか』 『いや、郵便だ、午前の便で来なかったから、.午後の便で来おる筈じゃ……』 -』 二  泰堂先生と私とは、再びあの長屋にとって返した。  先生は、留守中に来た郵便を一渡り|撰《よ》って、 『む、あったぞ、来た来た……』 『えッ、来ましたか』 『これだ……』  先生はハトロンの封筒を切ると、中から戸籍謄本のような書類をとり出した。 ると、 『君。わかった。犯人が……』 『だ誰です、誰1』 慌しく一瞥す 『北條五郎。……実は西村五郎じゃ』 『エッ:::』  私は荘然としてしまった。 (あの、北條が……) (なんということだ、あの敏腕記者が殺人犯人であったとは……) 『西村五郎……。これじゃ』  泰堂先生の双眼は、一瞬、野獣のようにらんらんとした。|私《ちへち 》はゴクリと咽喉に|問《つか》えた唾をの んだ、その唾のまずさ……。 『先生、一体、一体どういうことなんです……私も、彼を疑ったことは幾度もあります、然し、 確証がないんです……彼にはアリバイすらあります……』 『早まるナ、落着け……、これだけの難事件が、一言で説明されるかー。  北條五郎、実は西村五郎、此奴はあの兜島の西村醜吉の子供なんだぞ、実子なんだ』  私は、唯、目ばかりパチパチして、その奇想天外振りに圧倒されてしまった。 『この西村醜吉の戸籍謄本は、かレの下田にいる教え子が送ってくれたんじゃ、それに、ほら ちゃんと出てるぞ……む、も一人妹がいる筈だナ……』  泰堂先生は悦に入って、一生懸命戸籍謄本の雛を伸ばしていられた。 『先生、一体どういうわけで北條記者を疑ったんですか……』 『む、この怪事件は、みんな近代生活を土台にしとる、と同時に、極めて用意周到じゃ…・-こ れは犯人が近代生活の全般に精通しておる者、そしてインテリの仕業じゃ、あんな木野輩の貧 弱脳味噌から捻りだした事件とはわけが違うぞ……それが第一。次にこの事件あるところには、 必ず必ず北條記者が急行する、そしてすぐさま、警視庁より先に犯人の目星をつけて、然もそ れには、相当の理由がある……ということは北條が凶行を演じるに際して、ちゃんと有力な嫌 疑者を作っておいてから殺った、という周到さの反証だろう……次に、北條記者ともあろう一 流敏腕記者が、君の如き素人に、色々の口実を設けて接近して居った、というのは、君の方の 調査進行を偵察する為だった、と思えないかい……殊に様々な重要資料を軽々しく喋った、と いうのはそれを|囮《おとり》に君から何かを聞き出そうと焦っていたに相違ないな……どうじゃ……君は 兜島の西村の屋敷で北條記者を認めた、といったじゃないか、どうしてその疑問を今日まで便 便と放榔しておくんじゃー』 『はあ、成るほど……ですが北條記者はあの島から脱け出した気配がないんです。私は断じて あの島から小鳥一羽飛去ったのも、見|遁《のが》しません……成る程、東京、下田間には飛行機があり ましょう、然し、あの|狭険《きようあい》な離れ小島には、飛行機の滑走場なんか、全然認められません…… もしあったとしても、どうしてそれを見遁しましょう……それとも、北條記者は双生児とでも いうんですか:::』 『いや、双生児じゃないぞ……成るほど巧妙極まるアリバイじゃナ……ふむ…-北條、実は西 村五郎が親父を訪ねたことは疑いない…-そして、彼奴が島にいなければならんのに、東京に 帰っていた-…⊥考を要するナ……』 て 『先生、何だか、危っかしくなりましたね、山村一甫殺害の時は、北條記者は社にいたアリバ イがあるそうですね……』  私は、なんだか、心細くなって来た。 『いや、北條五郎は、断じて犯人じゃ……』  泰堂先生、なかなか執拗に譲らなかった。 『わしは、こうと思ったらあくまでその疑問を糾明する主義じゃ……第一南小路を殺ったのは、 北條五郎じゃ、それだけでも彼奴を逮捕する必要があるぞ……』 『工、何故ですかー』 『坊ちゃん即ち北條五郎じゃ。1』  私はビックリした。 『何故です。どうしてそんなことが解ったんです……』 『いつか君にいったろう……山村事務所の所員で|怪誇《おか》しな奴が二人いる、その一人は木野重司 じゃ……とナ、わしは木野重司の身元を調査した。あの莫迦は兜島の者の一人じゃよ……西村 醜吉の養子じゃ-…・どうじゃ、幼児の中から西村家に育てられていた木野重司が、北條五郎の ことを坊ちゃんと呼馴らしていたに疑問はあるまい……』 『では、木野というのは偽名ですか……』 『いや、あれはもう離縁されてる、戸籍にちゃんとそうある……戸籍謄本一枚が疑問解決の最 大な鍵じゃ……』 先生は、ポンとその書類を叩いた。 『一体、先生の推理は……』  私の頭の中は、まだ数々の疑問が、騒然混然と乱れとんでなかなか先生の説明が納得されな かった。泰堂先生は、独りで呑込んでいるのである。  私は、 (どれから聞いたらいいか……)  とすっかり迷ってしまった。  泰堂先生は、私の脇に落ちぬ顔を読んだのであろうか。 『いいか、こういうわけじゃ、……』  と話し出した。 『わしは健爾氏殺害の現場から、デパートの事情に精通する者、という結論を得た。これは北 條記者に当嵌るナ、次に近代生活の全般に通じる者。社会部記者の北條は最適じゃ……兜島の 事業が中止されると、一番好都合の者、それは西村醜吉じゃ、西村醜吉は骨董類の蒐集に、殆 んど全財産を蕩尽しようとしていた、その彼があの古記録によって自分の身近かに、乾山作の 古名器がある、と知ったらどうじゃ、如何なる犠牲を払っても、それを手に入れたい、と思う のは、蒐集狂の本能的通性じゃろう、ところへ「兜島新興株式会社」というものが出来て、そ れが出来ない、となると、その焦燥は、恐らく想像のほかじゃ、或は自分の住んでいる家の下 に、その珍品が埋って居りはしないか、或は木立の根に、それが匿されて居りはしないか、ダ ガ、土地は既に会社に買収されているんで、石一つ動かすことは出来ぬ……どうじゃ……|垂挺《すいぜん》 ぱんじよう                                                      なげ 万丈の珍品が、ドコかにあると知りながら、捜すことも出来ぬ……全財産を拠うってもとい うほど熱中している彼に、これが黙って見ていられるかー既に金は残り勘なくて、兜島新興 株式会社を買収するには足りぬ、この上は唯、なんとかして会社を中止さすか、自分がそれを 諦めるかーのどっちかだ……』 『でも先生、西村は上京したことがないんです……』 『じゃから、自分の子の、西村五郎に、その交渉をさせたんじゃろう1恐らく「如何なる犠 牲でも払え」と言付けたんじゃろう』 『西村五郎がナゼ北條五郎といっていたんですかー。それにしても、いくら父の命令とはい え殺人まで犯すという意味がわかりませんねー』 『北條五郎はペンネームじゃ、世の中にはペンネームの方が通りのいい人間は沢山いる。早い 例が春日井泰堂の名を知っとるか、泰堂は号じゃぞ1君にしたって、学生時代はたしか|辺見 俊策《へんみしゆんさく》じゃったろう、近頃本名はトンと聞かんナ…-ハッハッハ……わしは|新《ちち》聞社の方で彼の 名を調べて、本姓西村と知った時は、遺にドキンとしたナー然し、同姓は沢山ある、念を入 れて戸籍謄本を取寄せたんじゃ……。殺人の動機、それは本人の気持を聞かなければならない なー』 『木野重司はー』 『わしの見るところでは西村醜吉から南小路に押しつけた書生じゃナ……テイノーだし邪魔だ からナ……』 『南小路は、それを断らなかったんですか……あんなバカ者を』 『南小路にとっちゃ、大事なお得意じゃからナ、西村醜吉はー。由来骨董品の蒐集という奴 はー。一人じゃなかなか出来ぬ、道具屋とか、その方面に目の利く奴が必ず仲介するもんじ ゃ、まして醜吉は兜島に居たっきり、南小路はインチキながら名は知れて居る、従って、この 二人は文通し、品物の売買をやって居ったろう。南小路にしてみれば、この素人の蒐集家は、 まるで金の成木のような上得意だ、いい加減なもんを送っても、金はちゃんちゃん送って来 る…・-書生の一人位押しつけられても、文句はいえまい……』 『成るほど……先生はまるで見ていたようですねー』 『冗談いっちゃいかん、根本を悟れば、枝葉末節は直ちに氷解する1総て苦心の結果じや、 君のように的外れではナンにもならんがー』  先生は、意気軒昂として皮肉を吐いた。残念乍ら、一言もなかった。 『…・-それで、南小路もこの書生を、持てあまして、乾分の山村の事務所に押しつけて、雑用 をやらしていたんだーどうだ説明がついたろうー』 『まだ疑問がありますが……。第一、北條記者はどうして海老澤達爾氏を殺して、姿を消して しまったか  。第二、いまいったように北條記者はどうして兜島を脱け出して来たかー。 第三、山村一甫殺害のアリバイをいかに解決するかー。第四、山村一甫はナゼ私と同じ扮装 をしていたのか  。兜島に来た黒崎貞枝さんは何者かー(実物の黒崎さんは家を明けない そうですー)。又南小路はナゼ殺されたのかー。それから-…・』 『うむ、色々あるナ……兎に角こうなったら一時も早く北條記者を捕まえることじゃ、それか らでも遅くあるまい、北條記者を捕まえて、木野重司と対質させ、鷲尾さんの目前で北條記者 を坊ちゃんと呼ばせてみろ……それが最大急務じゃ……わしは彼奴の前で全部をぶちまけてや る1君、ただ五郎に妹のあったことを忘れるナー』 『じゃ先生、遁げられるといけませんから、すぐにll』 『ウン、鷲尾さんに電話しろ……』  この長屋の大家さん、春日井泰堂先生は、電話をもっていなかったので、私は大急ぎで角の 公衆電話まで走った。 (あの疑問の数々を、先生はどう説明するであろう……)  それが、私の最大の興味であった。 (それとも、まだ先生にもハッキリしてないんじゃなかろうか……)  一寸、言葉を濁してしまった先生の顔を、思い浮べた。 (いずれにしても、疑問の男、北條五郎を逃しては大変だ--↓  私は電話室の中で、冷めたい受話器をシッカリ握った。 『もしもし……鷲尾さんをお願いします…-…・もしもし……あ、鷲尾さんですか、先程は-・ あの早速ですが、坊ちゃんというのが解りましたから  工、ホントですよ  え  北條五 郎です……本名西村五郎、西村醜吉の実子です、断じて事実です、戸籍謄本で調べたんですか ら……いや、実は、その私じゃないんで、春日井先生で……』 『うーむ……』  鷲尾警部は、電話機の先で、稔った。 『で……北條記者が逃げるといけませんから、スグ御手配を願いたいんで……大至急- はお目にかかって申し上げますが、木野重司は|瞭《あきら》かに|使咳《しそう》されているんです……』 『む、あいつが……よし、スグ手配します』  鷲尾警部の興奮した声が、細い電線をビリビリ震わせた。         三 -理由 『先生、うまく捕まってくれればいいですがね……』 『ウン……わしもこの事件には随分手を焼いたナ……それはそうと……君は兜島で岩洞に叩き 込まれたそうじゃが、その穴はどこまで続いていたナ……奥の方は』 『さあ、あの時は無我夢中で、ほんのり明るい方へ逃げたんで、奥の方は気がつきませんでし たが、大分深いようで……』 『ふーむ、君、その穴が海底を抜けて石廊崎まで貫通しているとは思わんか……』 『マサカ……。一寸考えられませんね、海の底を、あれだけの穴を開けるとなったら、莫大な 費用と人が費りますね……ソンナ必要もないじゃありませんか』 『だが君勿論今日あれだけのーといってもわしは見ないんじゃが1昔、開けたと思えない か、兜島の前身は即ち甘利山だ、甘利山には古記録によって城か砦があったことは解る-…と すれば築城術の第一歩は水利と間道だ。その穴は遠く石廊崎に抜ける間道だ、とは思えぬか、 それが甘利山陥没、兜島となっても残っていた、とはどうだ……その穴には、いくらか手を 加えた形跡があった、といったナ……それは陥没で破損したところを修理したんだと見られん かー』 『成るほど、1そう考えれば北條記者は私の見張っていた裏へ回って、私がぼんやり海面を 見ている間に、下田へ行き下田から飛行機で1成るほどそうすれば時間的にもあの不合理を 辻棲合わすことが出来ますね……それにしても、実に奇想天外ですね、海底のトンネル、とは、 冒険小説みたいですね……』 『ハッハッハ、大昔の間道が、昭和に到って悪人の役に立ったんじゃ……』 『海老澤達爾氏殺害の犯人蒸発も、そんなアッ気ない抜け道があるんじゃないですかー』 7\そうかも知れんナー実はわしも君に図まで書いてもらったが、まだハッキリせぬ、も う一遍、あのビルの構造を精査する必要があるナー』 『じゃ、先生もまだ解決がつかないんでー』  泰堂先生は一寸苦笑した。 『冗談いうナ、まだそこまで調査するヒマがないんじゃ、あとからあとからの事件で忙しい』 『よし、じゃ私が断然解決してみせます』  私は半ば意地でそういった。 『ーところで、北條は捕まったかナ……』  泰堂先生は、心配気に眩いた。 『そうですね、もう一度電話で聞いてみましょうー』  私は又公衆電話まで行って鷲尾さんを呼出した。ダガ、 『1ああ、河村さん、北條はね、二一二日前から出社しないそうだ  、早速兜島の親父のと ころへ寄るだろうから手配した、イヤ心配無用離れ小島だからあそこへ行けば大丈夫だ』 『鷲尾さん、冗談じゃない、あの島は石廊崎と海の底にトンネルがあって|連《つ》ながっているんで すよ』 『え、ホ本当か、そんなことは早くいってくれなくちゃ』 『でも、いま解ったんです。何しろ……』 『じゃ君。スグ手配する  』 (北條記者は遁てしまったのではないか……)  私は不吉な予感を感じた。じっとしていられない気持であった。  私は泰堂先生へ、そう報告すると、早々に辞して、日の暮れてしまった街々を歩いた。  私は美何子さんを思い出したのである。もし北條記者が自暴自棄で、海老澤家にタッタ一人 生残った美何子さんに、どんな危害を加えるかもしれないーそう思いつくと、傑然としたの である。 (美何子さん、無事で……)  私は海老澤家へつくまで気が気ではなかった。でも、 『あら、河村さん……ずいぶん髭が生えちゃったわね……』  と無邪気に動く美何子さんの可愛いい唇を発見して、ガッカリするほど、鳴っとした。 『どうして、犯人、解ってIl木野重司っていう人P……』 『イヤ、飛んでもない、木野なんかは問題じゃありません1犯人は東邦日日の北條五郎です よ……』 『まあ、あの北條さんが……』 『え、逢ったんですか、北條に  』 『いいえ、そうじゃないの、貞枝が追返しちゃったのを、一寸窓のところから見たのよ……』 『ああそうですか、よかった、逢ったら危なかった……いつでした、それはー』 『そうね、お兄様のあの……後かしらー』  美何子さんは、長い腱毛をしばたいた。 『でも、もう大丈夫です。北條はすぐ捕まりますともー』 『そうかしら……早く捕まってくれるといいわねー』 彼女は、じっとその|円《  つぷ》らな瞳をあげて私を見詰めた。 『ずいぶん、ご心配だったわねー』  その時だった。  ゴォーッ、と物凄い地鳴りがすると、ハッとした瞬間、この地球が、巨人に蹴とばされでも したかのように、凄まじい大地震が起った。  壁の額が墜落して、轟然たる響きをたて、戦場のように埃が舞上った。断線、天地暗黒1。  一瞬、私は美何子さんをグイと引寄せると急いでテーブルの下へ逃込んだ、同時に、|漆喰《しつくい》の 塗天井が落ちて、そのムセるような匂い、息づまるような破壊音i。  私はシッカリと美何子さんを抱いてかばった、その肩の柔らかさ……暖かさ……。 ×  間もなく貞枝さんがゆらゆらとゆれる蟷燭を持って来た。 『お嬢様1。まあご無事……』  貞枝さんは、シン底から喜んで、しっかり美何子さんを抱いた。嬉しさに、もう声も出ない ようであった。 『河村さんが、助けて下さったのよ……』  美何子さんは恥かしそうに、私を見返えした。 『まア、本当に……なんとお礼を申してよいやら……』 『いやあ。でも随分ひどい地震だったですね、関東大地震の再来みたいでした』 (震源地はどこだろうー)  と思った。消防自動車の悲鳴が、物凄く闇をつんざいた。  電燈は、なかなか点かなかったけれど、この前の震災で馴れているせいか、 しとめられたようであっ.た。  私と美何子さんと貞枝さんと三人で部屋を掃除し終え、やっと一息入れて、 る時であった。  まだ二三時間も経つまい、と思われるに、もう窓外に号外の鈴の音がした。 (早いもんだナ……)  と思っていると、女中が号外を持って来てくれた。一見、私は愕然とした。 火事も、すぐ消 色々雑談してい 大地震の震源地は南伊豆地方  問題の兜島海底に没し去る ザラザラの活字面が描く驚愕すべき事実! 一読唖然、 再読荘然としてしまった。 「本日午後七時十分、関東地方一帯を襲った激震の震源地は伊豆南端付近の海底地滑りらしく、 これがため伊豆半島の突端にあった兜島は僅か三十秒間で全島海底に陥没し去り、同時に陥没 による大渦巻が奔流せる為、海上には僅かに家屋の破片が漂うのみ、まことに惨憺たる有様を 呈している。尚東京地方にはさしたる被害なき見込み。尚同地方は数百年前にも陥没したこと があり、 今回は第二回目で、 遂に全島を没してしまったわけである」 (北條記者は、兜島にいたのではないのか……) (恐らく西村醜吉も北條五郎も、みんな海に呑まれてしまったのであろう-…一) (この事件は、遂に未解決の儘、水葬されてしまったのか……)  号外を握りしめた私の手は、ぶるぶると震え出し、訳のわからぬ泪が瞼の裡を膨らまして、 活字が、ぼーっと霞んでしまった……。 第十四章 真犯人の告白 一  私は|瓢践《ひようろう》としてアパートに帰りついた。  かくも怪奇錯雑を極めた、息づまるような怪事件は、忽然として傍なくも一片の悪夢と化し てしまったのである。総ての謎を包んで、呪いの兜島は、深く|碧海《へきかい》の底に眠ってしまったので ある……。  ……私は長い寒夜を、木枯しの音に怯えながら、|鰻転反側《てんてんはんそく》して明かしてしまった。  ……|麗《うらうら》々とした暖い朝となった。金線のような陽射しが力ーテンを乗越えて私の寝不足の眼 を、劇薬のように射った。  私は浮かぬ気持で、やっと床を離れた。暁方にいくらか寝たのであろうか、ドアーの下に幾 通かの手紙が散らばっていた。  ハトロンの封筒につつまれた部厚な一通が眼に写った。しぶしぶとり上げてみると、裏には 発信人の名がなかった。宛名は間違いもなくこの私、河村杏二である。その字体は、 みたようであったが、ハッキリ憶い出せなかった。  私は不機嫌に封を引千切った。 『アッー』  まだ内容を一行も読まない中に、私は飛上るほど驚ろいた。  そのザラ紙1、その鉛筆の走り書1。  ナントそれはあの、何時も不吉を呼ぶ山村一甫の筆蹟ではないかー。  私は息もつかずに一読したーなんと日本字を読むことのまどろしさー。 どこかで 河村杏二君。 僕はとうとう君に手紙を書かなくてはならなくなった。これは敗北の手紙である。何故こん な手紙を書く気になったか、それは追々と説明しようー。 先ず第一に、ナゼ僕がこんな悪鬼のような殺人事件を計画し、あたら一生を棒に振らなけれ ばならなかったのか、それはこんなことを言いたくはないけれども、実父の為であった。父 は既にご存知であろう、と思うけれど、兜島第一の旧家で昔は、僕達が子供の時分は、ほん とうによい父であった、母は幼なくして別れたけれども、この優しい父は或る時は母となり、 或る時は父となって僕達を慈しみ、育んでくれたのだ。然し、どうした心の迷いであろうか、 父はフト古陶磁を溺愛するようになってしまったのだ。今日まで、これという趣味もなく唯 僕達を育てるのを唯一の楽しみとしていた父は、その時から忽然と性格が一変されてしまっ たようであった。 だが僕達は、既に島を離れて東京に遊び、僕は幸いにも東邦日日新聞の社会部に勤めて居り、 しばらく兜島へも訪ねる暇もなかったんだが、つい二三カ月前久しぶりの休暇で帰ってみる と、父の骨董愛玩趣味はいよいよその極に達したかのようであった。座敷の中には、僕達が 見ては一個十銭にも達しないような古色蒼然、いびつに|歪《ヤヘヤ》んだ茶入の類-…・それ等が|霧《おぴただ》しく 氾濫していた、それが一個に夫々数千数百金を投じたものであったとは、僕ならずとも唖然 とするであろう。僕は父に蒐集の中止を願った、ダガすでに財産の過半を蕩尽し、狂気のよ うに蒐集した父の一生に一遍の興奮が、私の忠言位で止むであろうか。 寧ろ、昔の兜島には最近南小路との文通によって、発見した古記録によって、甘利彌右衛門 が秘蔵した乾山作の珍器がある筈だ、然し既にこの島は海老澤達爾氏の「兜島新興株式会 社」に買収され土塊一つ動かすことが出来ぬ、どうだお前わしがそれを掘り出すまで、海老 澤氏に待って貰ってはくれないか、もう兼ねて欲しいと思っていた乾山のものさえ手にはい れば、それでわしは蒐集を止めるから……と頼まれてみると、実の父がこれたった一回で、 これ以上は決してやらん、という言葉に対して、僕は、どうしても断り切れなかった。 「折角お父さんがそれほど仰言られるのならば承知しました、いかなる犠牲を払っても待っ てもらいましょう、その代りこれ一回きりでやめて下さい…-・」と承知するほか、なかった のだ。これ以上はやらん、と父にいわれてみると、是非にも兜島の事業を待って貰わんけれ ば……と決心した。実は海老澤氏に一寸待って貰う位、なんでもないことだと思ったのだが、 それは大変な間違いであった。海老澤氏は大勢の株主の利害も考えてか、頑として応じては くれなかった、遂には面会にいっても門前払、電話をしても電話口にさえ出てくれなくなっ た。一方兜島の父からは、どうしたのだもう会社の標柱が立った、技師が来て測量をはじめ た、と狂気のようにいって来るのだ。父の焦燥も無理ではなかった、長い間捜し求め、全財 産を投じても得られなかった乾山の実物、それが眼の前にあると知りながら、手をつかねて 居らねばならないのだから……。 僕は仲に這入って|懊悩《おうのう》した、深刻な苦悩を味わった、|洵《まこと》に死ぬほどの苦しみであった。父に いかなる犠牲を払ってもーといった手前、父に嘘をつくことも出来ぬ、---私は悪鬼に魅 入られたのか……、イヤ|管《くだくだ》々しい弁解や負け惜しみは止めましょう。 兎に角、僕は海老澤達爾氏を殺害しようと決心したのです。親の為1という自慰的な言葉 を、強いて楯にとって1板挟みの苦しみに堪えかねたのです。僕は殺人を決心すると同時 にこんどは非常な慎重さを以て凶行の手順を研究した。僕はヤッパリ弱かったんです。海老 澤を殺っておいて然も自分は安閑としていようーそんな虫のいい考えをおこしたのだ。然 もこれは、僕の思い構けぬある事件が起るまでは、極めて手順よく、僕の思う壺に嵌って来 たのであった、僕はいまにしても思い切れぬ1淋しい愚痴を喧って下さいi。 僕は第一に犯行の潭滅を計った、次に犯行がバレた場合の嫌疑者を作って置いた、即ち山村 一甫です。僕は山村一甫の嫌疑者たり得る資格を尚一層重大ならしめる為に、長い間かかっ て、彼の筆蹟を研究し模倣した。そして遂に一見見分けもつかない程になった。僕は他で職 業婦人をしていた妹を葭村海子と偽名させ山村事務所に入所させた。すると偶然にも以前家 にいた木野重司が雑用をしているのであった。色々聞いてみると、僕の父に品物を取次いで いるのは、ナント南小路露滴であったとは。僕はビックリした。あの南小路i有名なエセ 美術批評家ではないか……すると父は随分今まで莫大な金を費って、飛んだ食わせ物をつか まされていたに違いない、一日も早くそんな趣味を止めさせなければ・…-といよいよ固く決 心したのです。 さて、僕は、いかにして海老澤氏を殺害したか、それを貴君にお話ししたい為ばっかりに、 この最後の筆をとったのかも知れません、どうしてやったか、貴君には既に解決がつきまし たかー。恐らく、まだ解決されてないと存じます。僕はこの点だけ、甚だ優越感を覚える のです。だが最後ですお話してしまいましょう。 第一、あのビルには自動昇降機が設備してあった、ということをお考え下さい。そして自動 昇降機というものの特性をよくお考え下さい。あれはボタンを押されるまで二階であろうが、 三階であろうが、どこへでも止まっています、そして、一寸でもドアーが開いていたら、ピ ッタリ閉っていなかったら、絶対動かない装置になっています、それです。僕はあの日、海 老澤氏に電話して、まんまと深夜の事務所に誘いました。「兜島新興」の事業は許可取消に なったから明朝に書類を取揃えて出頭するように、と偽電話をかけたのです。海老澤氏は周 章て深夜事務所に書類をとりに来ました。 僕は海老澤氏があの自動昇降機で三階へ上ったのを見届け、すぐ階段からあとを追い事務所 で机を開けている海老澤氏にいきなり、  そう、貴君の看破された消音ピストルですー をつきつけました。途端に海老澤氏はサッと顔色をかえて|抽斗《ひきだし》から黒いピストルを出すと、 私がアッと思ったのと、引金をひいたのと、海老澤氏の狙撃されたのと、殆んど同一瞬でし た、海老澤氏は崩れるように倒れてしまいました。僕は走寄ると死を確め、ポケットをさぐ って鍵を取り、すぐドアーに鍵を下して四階へ駈上りました。そしてエレヴェーターのドア ーを開け三階に止まっているエレヴェーターの天井裏へ飛乗ったのです。一言忘れました僕 は三階に止まっているエレヴェーターのドアーの上部にマッチを挟んで置いたのです。こう すれば、万一下でボタンを押されても、僕がそのマッチを取って、ピッタリドアーの閉まる までは、エレヴェーターは動かないわけだ。 僕は安心して真暗なエレヴェーターの屋根へ乗下り、手を伸ばしてマッチを抜取ると、真暗 な機械の間に潜込み、そこで息を殺していたわけなんです。|鰭《やが》て小使が上って来た。貴君が 階段を上って来た。僕の乗ったエレヴェーターはスーッと下に下った。ガチャガチャと|侃剣《はいけん》 の音がして警官が僕の下の箱に乗ったようだ、又、スーッと上って僕は三階と四階の中間に、 置かれた。こうして僕は本署からの人と一緒に上り下り、新聞社の者と一緒に上り下り…… 夜があけました。僕は隙をみて廊下に出ると、洋服の塵を払い、新聞社の襟章を光らせて、 やあ、やあと顔見知りの警戒を突破したのです……なんというアッ気なさー。社会という もんは、なんでもない、然し恐ろしいところです、説明してしまえば、なんという莫迦莫迦 しさ……。 ここまでは、まことに調子よく行きました。だが、アトがいけない。貴君は僕の妹、その時 の名は葭村海子ーをどう思われます、格別の美人1といわれないかも知れませんが、ど こか野性的な、フレッシュな美を思わせませんか……それにあの山村一甫が、あの色魔が惚 れてしまったのです。ああいう男にはフレッシュな感じが、殊に食指を動かさせるのかも知 れませんー。 あの山村が逮捕される、イヤ殺られる前日、僕の妹が貴君を観察に行った筈です。山村は貴 君に扮して海老澤家を探ろうとしたのです、これは僕の入智慧で妹が奨めたことですが、こ れが発覚すれば、尚山村の嫌疑を深めますからねー。 で、あの朝早く、妹が彼の扮装の手伝いをしてやっていたのです。ところが、あの鍵の下り た部屋にタッタニ人限りでいる中、山村は持って生れた浅間しい心を、むくむぐと燃やした のです、そして妹に……。妹はビックリしました。そして幸か不幸か、僕が持っていては危 険なあのピストルを妹に預けてあったので、無我夢中で一撃しました-…。ああ、なんとい うことか、たとえカッとした前後不覚のこととはいえ、大切な嫌疑者を撃ち殺すとは……。 僕は文字通り愕然とした。だが妹を見殺しにするわけには行きません。元をただせば僕が命 じてあそこに入所させ、この新聞社の原稿用のザラ紙を設えさせ、其他色々の工作をさせて いたのですから……。この事件以後、僕は上気気味だった、焦り気味だった。思わぬ|蹉鉄《さてつ》を 生じて、実際周章狼狽だった。ただ不幸の中の幸は、妹があそこの所員だった為に、人眼に つかなかったことだったが……。 その中にも、健爾氏が兜島の事業を着々と進行している、山村一甫殺害は当局の調査に拍車 をかけている。僕は破れかぶれーと同時に、第二段の工作に移った。妹、葭村海子に黒崎 貞枝さんの扮装をさせて、海老澤家に住込ませ、内部から事業を中止させようとしたが、こ れも実物の貞枝さんがトテモ確りしている為、遂に失敗してしまった。この中にも、妹は貞 枝さんの扮装をして貴君の留守中に尋ね、ウッカリ職業婦人の癖が出て名刺を置いて来るな ど……バカバカしい間抜けをやってのけた……結果から見れば、却って貴君を迷わす上に効 果があったかも知れないがー。僕はこの上は、更に健爾氏を殺害して、それを南小路に塗 りつけてやろう、と決心した。健爾氏は僕の職場の関係で精通したデパートを選んだ。恰度 あの日は北風で、僕の予想通りに行けば、健爾氏の死体は、遠くお台場の方へ行く筈であっ たのに、意外に浮遊力がなかったのと、風の変化であんな間近で発見されてしまったのだ。 さて。南小路と山村が口論した事実がある、その理由は、なんと野性的な女、葭村海子のハ リ合であったのだ。南小路が訊問され乍ら逡巡したのは、こんなバカらしい理由であったか らだ---窮地に這入ってしまった僕は、この些少な問題をも利用したC然も彼は山村と特別 の関係がある、僕にとっては父にイカものを握ませた復讐があるー。 ダガ、こんなに僕が命を削る思いをして日延ばしに兜島の事業を延ばしているのに、父の方 の発掘はなかなか進行しなかった。僕は健爾氏を殺ると、その足で、黒崎貞枝に扮装した儘 の妹をつれ、兜島に様子を見に帰った。すると、どうしたことだ貴君が探りに来たそうでは ないか、シカモ父に一撃され洞窟に叩き込まれているとはー。父は|流石《さすが》に君を撲倒したこ とを気にしたらしく静かに香などを聴いて、気をまぎらしていた。僕はすぐ岩穴にいってみ た。だがもう貴君はいないではないかー。僕の姿を見られはしまいかー僕は狼狽した。 すぐあの岩穴を潜って(恰度船がなかったので、あの大昔の間道を大苦しみをして抜けて) 東京に急行した。飛ぶ飛行機の中で、僕はどれ程、焦ったことであろう、然し幸いに僕が 社につくと同時に、貴君からの電話があった。僕は完全なアリバイを持った、あの海底の間 道など兜島が島となっている今日、知っているのは、一番旧家の西村家位のものであろうか ら…・㌧ 翌朝、貴君は僕を訪ねられた、僕はお茶を飲み乍ら、ポケットのピストルを握りしめていた。 もし兜島で僕を見かけた、といったら、ただ一発、と…・-。だが貴君は知ってか知らんでか、 僕のいった南小路の疑問に盛に同感されていた、貴君は命拾いをしたのだ。 1最後に僕は南小路を長く嫌疑者として、長く警視庁に置くことに不安を感じて来た。若 し一言兜島の西村家のことをいったら、忽ち僕の周囲には、不利な証拠が山積するだろう、 西村醜吉-北條五郎-葭村海子1これが実の親子と解った時、それはもう僕の最後だ。 僕は木野の低能を利用して、一週間の時間を望んだ。僕はこの間にすべてを整理して海外に 逃走しようと決心した。最後の置土産、父を陥穽にかけて独り甘い汁を畷った南小路露滴に、 悪の|報《むくい》を知らせてやったのだ……そうだ……たとえ父の為とはいえ殺人の大罪を犯した僕に も、いま報が来ようとしている。  僕は下田まで来て、何者かに西村家の戸籍謄本が請求されどこへか送られたことを知った  ……もう駄目だ……木野重司は自白を翻がえした、とラジオが喚いた……もう破滅だ……最  後に望んだ一週間の時間の希望は、僕が兜島につくと同時に、優なくも覆えされてしまった  のだ。  海上、石廊崎の辺りには、ただならぬ灯の光りが|轟動《しゆんどう》している。もう僕は数時間と自由な  時間を持つまい……最後は銃弾のなくなるまで、撃って撃って、一生の溜飲を下げようー。  では貴君の御健康を祈ります。午後六時、最後の船便に托して。 北條五郎  私は読終って、鳴っと溜息をついた。曲ったこととはいえ謂ば父の趣味の犠牲となった北條 五郎の、颯爽とした姿が、網膜を|過《よ》ぎった。深刻無惨な「趣味地獄」……。走馬灯のように回 転した殺人の悪夢……。白日のもとに荒れ狂った鬼の姿-…。  私は、ただ暗然とした。新聞記者の仮面をもった「白日鬼」の告白!       ×  私は、やっと以上で「兜島殺人事件」の記録を|纏《まとめ》上げた。もう大分月日も経っているし、 半ば薄れた記憶もあって、前後撞着もあろう、と思われるけれど、漸くにしてここまで辿りつ いた。  さて、最後にも一つ蛇足を加えなければならない。それはこの私の書きなぐった原稿を整理 してくれていた新妻のことである。 『ご紹介しましょう。妻の、美何子です。どうぞよろしくー』    (「探偵文学」一九三六年十月号〜十二月号、「シュピオ」一九三七年一月号、三月号) 405白日鬼