夜なかに思つた事  森鴎外  光風の巻頭に、岩村透君が書く筈であつたのが、どう した事か書かれないので、差支へる。何か書け。今年の 文部省展覧会で惑じた事でもあるなら、それを書けと云 はれる。処が、それが私に書けようか。先づ物を書くに は時間がいる。読者も私の時間の経済がどんなものだが、 少し考へてくれるが好い。今日なんぞは、朝から午頃ま で、新橋停車場に立つてゐた。これは天子様が大演習地 にお出になるので、それをお見送り中上げるのであつた。 それから役所に出て、会議をした。三時に済んだので、 英国大使館の園遊会に、芝生の上で寒風に吹がれに往つ た。それから途中で晩飯を済ませて、又新橋の停車場に 往つた。今度は長官の大演習地に立たれるのを見送つた のだ。それから内へ帰つて来ると、鈴木春浦君が待ち受 けてゐる。これは歌舞伎の原稿を筆記してくれに来たの だ。歌舞伎は弟の遣つてゐた雑誌だから、其雑誌を続け て行く為めには、何かして遣らねぱならないといぶ義理 合なのだ。いつも西洋の一幕物を片端から読んで、ロ訳 して遣る。願訳杯といふものも、画のCopieを作るくら ゐなものではあるが、Copieだからどうでも好いといぶ 事はない。明窓浄几で、気を落ち著けて遣らねば、ろ くな訳が出来はしない。それを口から出任せに遣つて 退ける。私だつてこんな無責任な事をするのを好い事 とは思はない。悪いと知りつこmる。それが済んで鈴 木君が帰つて行く。時計を見れば十二時になつてゐる。 そこで筆を乎に取つて書きはじめるのがこれだ。頭は もう疲れ切つてぽうとしてゐる。何を書いて好いか我乍ら分か 204 らない。一体感じた事を書くといふのはどんな事だらう。 文部省の展覧会ばかりではない。何を見ても時々は感ず る事があるに相違ない。併しその感じた事を正直に書く といふ事が私に出来ようか。人はそんな事を遣つてゐる だらうか。さ様さ。世には多少本当に感じた事を書いて ゐる人がないでもない。西洋などには随分そんな人があ るやうだ。政府が禁じても構はない。君主の憎を受けて も構はない。世の人に攻撃せられても構はない。朋友に 見棄てられても構はない。さういふ風に書いたものは、 兎に角書いた丈の甲斐はある。Nietzscheでも、〇tto wemingerでも此の如くに感じて此の如くに書いたのだらう0 Baudelaireは仏蘭西の大戦争が、替術の上に現れねばな らぬ、唇術の上に現れて愛国心を養成せねぱならぬとい ふやうな説は、分からない奴の寝言だといふやうな事を 書いたことがある。彼はさう感じてさう書いたのだらう。のo目乱 i^angeは大きな蔓術論を作つてかういふ事を書いてゐる。 人は社会に立つてゐて盗坊は出来ない。盗坊と交際する ことも出来ない。併し人には盗坊をも実験したい情があ る。そこで小説や何ぞで盗坊の事を書いて穴填をする。 人は社会に立つて裸体は見られない。併し人には裸体が 見たい情がある。そこで絵画や彫刻に裸体を作つて穴填 をする。社会で或る事を許さぬのが法律だ。文手蔓術は 社会で許さぬ事を遣る筈のものだから、法律が社会に対 する定木を持つて来て、文手蔓術に当てゝ見るのは、大 間遠だといふのだ。これが所謂Ergaenzungstheorieで、 訳したら穴填論とでもいふことになるだらう。これも蔓 術を此の如くに感じたから、此の如くに書いたのだらう。 併し是はみんな遠い、遠い西洋の事だ。読者はさぞ呆れ られるだらうが、西洋にはこんな風に感じてゐる人があ ると見えて、こんな事を書く。兎に角正直に、無遠慮に 書く。そこで 205 若し日本で、人生に対し、碁術に対し、文部省の展覧 会に対して、何か感じて、其の感じた所が、世間普通 の感じと相違してゐたら、果してそれが正直に無遠慮 に書けようか。これは頗る覚束ない。少くもこれ迄そ んな人はなかつた様だ。そこで感じても書けない事が あるといふ丈の事は読者にも会得せられたかと思ふ。 そんなら書けるのはどんな事が書けるのか。世間普通 の感じと一致してゐる事なら書けるだらう。それは誰 ゝにも書ける。誰にも書ける事なら、殊更に私が書く には汲ぱない筈だ。これは人生に対してばかりではな い。日々の出来事に対してもさうだ。暮術に対してば かりではない。一々の作品に対してもさうだ。文部省の展 覧会に対してばかりではない。文部省の展覧会の第二 回の一々の作品に対してなら、人と違つだ感じがあつ で、それを書いたところで、問題は小さい。併し問題 は小さくても、うるさい事は一屑甚だしいから、書き にくい。私も大した鑑識などはないが、誰も惑ずる位 の事は惑ずるので、それを書いて書けない事はないや うなものだが、私だからつて、屋上に屋を架するやう な事をしなくてはならぬといふ筈はない。「ちつとも お年が寄りませぬな」、「ますく御盛んで結構です」、  「ぼつちやん大さうお身大きくおなりなさいました ね」といふやうな挨拶の交換は、沢山拝見する。中に は非難を加味することもあるが、「お色はお黒くつて も、お目鼻立が尋常で人らつしやるから結構です」と か、兎に角「色の白いのは百難隠すと中します」とか いふ工合だから、始末は好い。こんな事を言ふのは、 別に世道人心に関係するといふわけでもないから、差 支ないが、私一人くらゐ隅の方に引つ込んで黙つてゐ たつて好いではないか。おやく最う一時が打つ。こ なひだの盗坊が今夜這人つてしやがんでゐたら、風を 引くだらう。いや、これは飛んだ事を書いた。これだ 夜なかに思つだ事 から頭がぼうとなつてゐると困る。一体私は惑じた事 を自分で書くよりか、人の惑じた事を書いだのを見る のが好だ。批評といふものを読むのは、私は大好だ。 読者は誤解してはいけない。批評家何の某君の批評を 読むのは、其批評によつて黒田清輝君の画を知らうと 思ふのでもない。中村不析君の圃を知らうと思ふので もない。批評家何の某君の頭を知らうと思ふのだ。雨 なんぞは偶然此先生の頭を運転させた機縁に過ぎない。 石に蹟いてびつくりした時の感じを書いたのでも宜し い。画や彫物には限らたいのだ。一体圃や彫刻も作者 の自白には相違ない。併しこれは作者のtemperamentを 通過して来た匂がどこかにある位に過ぎない。批評家 はそこに行くと大に違ふ。ぺら/\と饒舌つだり、だ ら/\と書いたりする内に、臓厨の奥まで見える。隠 さうとすればする程顕れる。犀を燃やしてのぞく迄も ない。Boecklinの波の戯なぞよりは、もつと面白いも のが見える。要するに私は正直に白状すれば、見せ物 を見るのが好で、自分で見せ物になるのは嫌だ。哲学 なぞは好い見せ物だ。Systeme %>なんて、大きな 小屋を掛けて見せるのもあるが、Nietzscheなんぞは ほし店のやうに並べて見せる。かういふ見せ物は人生 を見せるのではない。Nietzscheの頭を見せるのだ。 此意味で、私はJtumgerの作つだ首は好いと思ふ。全 集を見ると手間が取れるが、彫物なら一目で見られる。 文覚は大分評判だが、まだあのNietzscheの首ほどに は惑ぜない。おやく。又余計な事を書いた。これだ から頭がぼうとしてゐると困る。えゝと、どういふ話 の筋だつけ。さうく。一体美術の批評なぞといふも のも好い見せ物だ。団子坂の菊人形は、木戸番の呼声 で人を引き附けるが、Richard Mutherは造語で人を 驚かす。萄術を見ょうとしてはいけない0 Mutherの頭 を見る積になると面白い。兎に角見せ物は見られる よりも見る事だ。黙つて見る事だ。黙つて見て腹で楽 む事だ。おや最う二時が打つ。一体惑じた事の書ける やうになるのは気運だ。時勢だ。暮術でも、全身の裸 体は一切無用といふ時代があつたが、それはいつか過 ぎ去つた。新しい自然主義だとか何とか云つて、大分 騒がしいが、あれも文学のerotiqueの方面に、これま で正直に書けなかつた処があつたのが、いつか少し書 けるやうになつたのだ。それに、これまで一定の意義 ある一Naturalismeにまぎらはしい自然主義といぶ名 を附けるのが、気まぐれなのだ。強ひて名が附けたけ りやあ、無遠慮主義とでも云ふが好からう。労働なん かも、あの燎燃のやうに、目立つやうにして見せては いけないといふ時代があつては困るが、これまでそん な時代は来ずにしまつたからどうやら来ないでしまふ らしい。これからは追々批評なんぞも、感じたとほり に書けるやうになるかも知れない。やれ/ヽ∫。これ は飛んだ未来記になつた。三時にならない内に寝ない と、あすの朝寝惚けてゐて、役所へ出掛けに、馬から でも墜ちては大変だ。どれ、寝るとしよう。(10. XI.o8.)