予が立場 森鴎外  現代の思想とか、新しい作者の発表してゐる思想とか云ふものに嵐 いて話せといふのですか。それは私の立場として頗る迷惑です。  若し私が現に批評壇に立つてゐる諸君と同一な思想を持つてゐたな ら、別にそれを発表する必要がないわけでせう。若し変つた思想を持 つてゐたなら、それを発表した結果が何うなるでせうか。  それに就いては多少の経験を持つてゐます。ついどうかした機会に 何空曽ふことがある。そして其郭度不愉快極まる反響を聞くのです。  咋今は私が何か云ふと、愚療とか厭味とか云つてからかばれること になつてゐる。それ丈で何の効果もない。何の役にも立たない。人に 利益は与へずに、自分が不愉快な目に逢ふのみです。そんなことは私 だつてしたくないのです。  現在の文芸界では8弍く①に何かしてゐる、重立つた諸君は極まつ てゐます。国山君とか、島崎君とか、正宗承とか、それから少し後に 仲間入をしたやうな小山内君とか、永井君とか秀ふやうな諸君でせう。 それと少し距離のある方面で働いてゐるのは夏目君に接近してゐる二 三の人位なものでせうか。小説以外の作品を出してゐられる諸君は数 へません。  そこで私がさう云ふ諸君の下風に立つてゐて、何だか不平を懐いて ゐるものとでも認められてゐるらしく見えます。私の言ふことを愚凝、 厭味と極められてゐる意味はさう云ふ意味かと思ひます。  おほかたこんなことを言へば、即ちそれが厭味だと云ふかも知れま せん。然らば口を閉ぢるより外はないやうなものです。  所が、私の考へてゐる事は全く違ってゐます。尤も此考へてゐる事 といふのが、告白であるかないか、矯飾をしてゐないかといふ疑問が 直ぐに伴って来る。もつと立ち入つて云へば、自分では云々と考へて ゐると思っても、それは自ら欺いてゐる、即ち自己の為に自己を矯飾 してゐるのかも知れない。そんな風に穿鑿して見ると、寧ろ頭から其 の考へてゐる事を言はずに置くのが好いかも知れないのです。  併し何と云はれたつて、云はれ序だから云ひませう。私は田山君の やうに旨くないと云はれても、実際どうでもない。田山君も、正宗君 も、島崎君も私より旨くて一向差支がないやうに感じてゐます。それ は私の方が旨くても困りはしません。併しまづくても構ひません。ち つとも不平が無い。諸君と私とを一しよに集めて、小学校のクラスの 席順のやうに並ばせて、私に下座にすわつてお辞儀をしろと云ふこと なら、私は平気でお辞儀をするでせう。そしてそれは批評家の嫌ふ石 田少介流とかの、何でもぢいつと堪へてゐるなんぞと云ふのではあり ません。本当に平気なのです。  私の考では私は私で、自分の気に入つた事を自分の勝手にしてゐる のです。それで気が済んでゐるのです。人の上座に据ゑられたつて困 りもしないが、下座に据ゑられたつて困りもしません。  かう云ふ心持は愚療とか厭味とか云ふ詞の概念とは大へんに違って ゐると信じてゐます。いつか私は西洋にある詞で、日本にない詞があ る、随つてさういふ概念があちらにあつて・こちらに無いと云ふやう な事を話したことがありました。縦令両方に其詞はあつてもそれが向 うでは日常使はれてゐるのに、こちらでは使はれてゐないといふ関係 もあるのです。これは確に思想の貧弱な徴候だらうと思ふのです。  批評壇が、時を得てゐない人は、時を得てゐる人に対してきつと不 平を懐いてゐて、そんな人の云ふことは、厭味、愚簾の外にないやう に思ふのは、批評家の思想の貧弱ではあるまいかと思ふのです。  私の心持を何といふ詞で言ひあらばしたら好いかと云ふと、おω尉・ 墨饒sだと云って宜しいやうです。私は文芸ぱかりでは無い。世の 中のどの方面に於ても此心持でゐる。それで余所の人が、私の事をさ ぞ苦痛をしてゐるだらうと思ってゐる時に、私は存外平気でゐるので す。勿論おω尉§■sの状態と云ふものは意気地のないものかも知 れない。其辺は私の方で別に弁解しようとも思ひません。  こんな事を言ってゐると、お尋ねに対しては何も言はないで、身勝 手ばかり云ってゐるやうですが、先づ立場から極めて掛らなくては、 何も出来ないのです。併し此立場は矢張一股に認めて貰ふ事は出来な いでせう。私のこれ迄の経験によれば出来ないものだと前から極めて 置いても差支へなささうに思はれます。  私だつて色々言ひたい事もありますが、先づ今日は自分の立場の事 だけで御免を蒙りませう。多分これも雑誌へお出しになつたら、又あ いつが愚凝を云ふ、厭味を言ふといふことになつてしまひませう。所 詮駄目ですね。  どうぞこんな下らない話でも、出すならそつくり出して下さい。此 頃は談話の校正をさせて貰ふ約東をしても、殆んど全く其約束が履行 せられないことになつて来ました。話には順序や語気があつて、それ で意味が変つて来ます。先づ此頃談話して公にせられるものは、多く は本人の考とは違ふものだと承知してゐた方が確なやうです。先日の 文章世界では千葉窟に気の毒な思をしましたよ。どうぞそんな間違の 無いやうに、此話は此燼そつくり出して下さい。                    (明治四十二年十二月)