月草叙  世界の舞台でいふ第十九基督世紀は最早お仕舞に近くなつて来た。その間に際立つて吾人の眼を射る文学の方の新顕象から看へば、仏蘭西のゴンクウル、フロオベルこの方の製作に、自然主義といふ名の附いた一種特異な産物がある。その筆の使ひかたは、ざこまでも実際のまゝを平に叙して、くだらぬ事をも除かず、特色のあることにも別に録をとめぬ。その種子を挙げて見れば、酒のみの子に親の囚果が報つて来て、気ちがひじみたものになるやうな話を書くのは、いはゆる遺伝を詩の種予に使ふのだ。かういふ類の詩の出て来たのはラマルク松発見して、ダルヰンに活用せられた方則が詩の境にはいつたからだ。又人間の動物的な側を奇張して、性欲すなはち劣等な色気を行為の唯一の原働力にしたやうな人物を写すのは、いはゆる病理を詩の種子に使ふのだ。  かういふ類の詩の出て来たのは、伊太利のマンテガツツア、独逸のクラフト、エエビングなどの医学上の論説が詩の境にはいつたからだ。たとひ又病理にまではならぬ、まだ生理の中に立ち留つて居る種子があつても、それは男女の間がらを糞と蜜との混合物と看徴して居るに過ぎないのだ。絵画の方では色に重きを置くことが新に始まると一しよに、標準的人物の美人や英雄なんどを種予にすることが廃れて、貧乏人、労働者を写すことになつた。そのうちにクウルベエ、ミレエあたりから次第に自立つて来た傾向から、外光主義が生れた、画面はたゞ流動する日の光ばかりだ。その作には意味だの、趣意だのといふものがあつてはならぬ。人物の並んで居るのも、果ものがころがつて居るのも同じことだ。  さてかやうな風潮がいつまでも人に満是を与へる訳に行かぬのは、始から分つて居る。文学の方では、スカンヂナヰヤの偏屈者イプセンと仏蘭西の野暮人ゾラとの全盛時代はいつか過ぎ去つた。外の形をありの儘に写す手段から、内の心を同じやうに写さうとして、しばらくは心理的分析に熱衷して居た。それから進んで今独逸の劇場を占領して居るハウプトマンの一派がいかに卑い人物にも、動物的でない真人間の憎があるといふことを戯曲の上に見せ始めれば、ステフアン、ゲオルゲの派は但俗を避けて期面の情を明白な言葉に歌ふ一種の餅情詩を起した。絵画の方では、エヅワアル、マネエが一派の全擁時代がやはり下り坂になつた。クレエン、ビヨツクリンその外すべて一種の甜情的な興を寓した変体が際立つて重んぜられ始めた。靱この第十九世紀の新い産物たる藝術は我国にどういふ影響を与へたか。此間はもとより明治このかたの藝術に対して発するのだ。文学の方を見れば、僅に一人の二葉亭が自然派の一面たる心理的分析の作を出した事がある外には、挙げていふ程、此影響を受けて居ぬ。紅葉が自然派の他の一面として、外の形を平に叙する法に傾いて屠るといふことは、其の作のすべてに通じていはれるといふ訳ではなく、逍遥はむしろ第十六から第十七世紀に跨つた、シエクスピイヤ盛時の文学に眼を注いで居て、露伴の熟した作は、ギョオテが彼ヲルテエル、ルウソオと違つて、その生活して居た第十八世紀に縛せられて居ぬといふ評に似た特別な色を見せて来るやうだ。絵画の方では、日本画に西洋趣味を入れるの入れたのといふ人もあるが、その過去の分だけ取り上げて言つて見るに、勿論此世紀の特産物の事ではない、これに反して今そつくり這入つて来た外光派は英吉利の「プレヲフエリツト」派から得るところが有つたと同じく、幾分か日本画からも或る物を取つて居る、さて世界の舞台でいふ第十九世紀の文学美術には、その始に遡つて見ると、抹殺し難いあまたの病弊があるとしても、その間には又多少の不朽の価のある製作品がある、そこで吾人の美に対する心理上の働きには、一面に製作があれば、一面に感納があるから、此製作品に対する感納は奈何と問ふ必異が生ずる。これが審美学上の問題になる、固より審美学には製作の側も入つて居るが、作者はその天分次第で勝手に何でも作る習になつて居るから、さほど審美学の検束を受けはせぬ。これに反して感納性の働きの藝術的批評は、古来審美学を以てその根拠として居る。扱西洋に有り合せのシエルリング等の抽象理想的審美学から、フエヒネルが折衷的審美学に至るまで、いづれも第十八世紀頃までの製作品そ評するには充分の根拠とするに足るものであるが、これを第十九世紀の製作品に応用して見ると、到底不充分だといふ事が掩はれぬ事実になつた、イプセン、ストリングベルク、ズウデルマン、ハウプトマン等の戯曲に心を崇うし情を清めるといふばかりの標準を持つて行く訳にも行かず、フオンテエンブロオ、エヂンボ引利の絵画に美の線はかうなくてはならぬといふ定規を当てゝ見る訳にも行かぬ。西洋に原理に騎るという諺がある、文学美術の批評の上でも、何か一つの原理を据ゑておいて、これに會はぬものは一切排斥することゝなれば、これが原理に騎つて跳ね廻るのだ。今はかの古い審美学の原理に騎り廻つて、排斥せられぬ新藝術を排斥するやうな詰らぬ事は、誰もせぬ。古い審美学の狭くて用に立たぬものになつたことは分明だ。  それだから現にゾラなどの初の頃の議論は、この隙間に突込んで、きつぱり審美学は不用だと断ずるまでになつた。この審美学不用論のやゝ精細に尤らしくなつて居る一派は仏蘭西ではテエンの藝術哲学、鐘馬ではブヲンデスの十九世紀文学を始として、独逸人ヰルヘルム、シエエレルの詩学のやうに、審美学を叙述的学問とすることを勉めて居る。此叙述派の一人たる漢太利のバアルは、審美的博物学の外には、審美学は無いと云つた。此流義を極端に推して行けば、勢一種の平等見に墜ちざることを得ぬ。人は人で、虫は虫で、牡丹の花は牡丹の花で、徽の花は徽の花なるが如く、甲の詩人は甲の詩人、乙の詩人は乙の詩人、唯どその一人々々に就いての研究は出来るが、とれが好いどれが悪いとは言はれぬ。彼のブヲンデスが種々の製作者を評した模様は実際此の如き方法であつた、この頃或人はこれを護謹人形主義と称したのも無理ではない。已は何もフエヒネルのとぼけた流義に倣つて、高等女学校の生徒を集めて、その常識をたよりにホーレバインの聖母の像を鐙定せしめやうとはせぬが、試に普通の人情にも訴へて見るが好い。一冊の小説を読む人も、一幅の図画を観る人も、これに対して貯いとか悪いとかいふ判断を下すのは、已むことを得ぬ。判断を下すには標準がいる。標準を立てれば最早少くも一種の藝術観松生ずる、その藝術観はかやうな物が好いと感納の側からいふと共に、かやうな物を作つて貰ひたいと製作の側へも注文をするやうになる。さて斯う成り立つた藝術観といふものに、自然の景色などの美、自然美に対する自然観をも加へて、学問的に組み立てる段になると、即ち標準的藩美学になる。、たとひ今までの標準的審美学が用に堪へぬやうになつたといつても、すぐにそれに懲りて、もう審美学はいらぬと断ずるのは、固より太早計である。又審美学のおのづからにして標準的なるべ養を忘れて、これを叙述的にして仕舞はうといふのも、矢張り無理な考に相違ない。已は人の解剖圭の解剖と博物学上にそれくの興味があることを一面に認めるけれざ、近松が戯曲の性格論と仮名垣魯文の小説の性露とにそれくの価値があらうとは一面に認め得ぬ。已は牡丹の花の構遺と徽の花の嚢と博物学上にそれくの見どころがあること三面に認めるけれど、団十郎の藝と福円の藝とにそれくの妙趣があらうとは一面に馨得ぬ、倫理学は人間といふものは、こんな事をすると叙述する計でなく、人間の所行はかうあれかしと教へる、論理学は人間といふものは、こんな風に考へて居ると叙述する計でなく、人間の考はかくなうてはならぬと教へる、己は審美学に限つて、こんな詩がある、こんな画があると言つたのみで済む筈がないと信ずる。已は倫理学の善悪を分つ如く、論理学の正否を分つ如く、審美学はこの側からの好いか悪いかを分たねばならぬ、美か醜かを辮ぜねばならぬと僑ずる。その上にわれこそ叙述派の批評家なれと名告つて居る人の著述にも、知らず識らずの間に評価の語が下してある、好し悪しが分けてある。彼等は天暗標準的学問の圏内を脱した穣で、依然共中に居る。彼等は皮の外へは出で得ぬのだ、原来昔の標準的審美学の嫌はれたのは何故であるか。例のシエルリングや、又具象理想の側ではあつてもヘエゲルなどのやうに、漫然と形而上学の中から演繹して来た美の標準で、杓子定規の論を立てたからではないか。然るに此等の系統に基いた批評をする時代は既に過ぎ去つた。キヨストリン、フイツシエルは勿論、縦令釘霞の弊はあるにしてもフエヒネルあたりから後は、藝術界の新顕象に対する帰納的解釈を求める方鍼、心理上に製作感納の両境を究める方鍼はしつかり立つて居て、標準的審美学進歩の大道はひろ%\と向に見えて居る、譬へば製作の側に於いて、空想とは何んなものだとか、神来とは何んなものだとかいふ問題、感納の側に於いて、悲壮は何だとか、滑稽は何だとかいふ間題の類の如きは、全く審美学の形而上門を離れても成り立ち得る、已は嘗て我国の藝術的批評に手を下した時、此種の審美問題の最完備して居るハルトマンの審美学を選んで根拠とした。或人はこれを見て苟くもハルトマンの審美学を以て根拠とする以上は、その哲学全系続をも信ぜねばならぬと云つた。然し已はハルトマンの無意識の研究に充分の重みのあることを認めるとはいひながら、某全系統を城廓にしてそこに安坐する積でもなければ、又其審美学の形而上門を悉く取り出して切売にする積でもない。斯ういふと瓢軽な人が出て来て、然らばなぜ古今の哲学をお究になつて、活殺の手段を壇になされて、御自分の哲学系統をあ立になつて、それから憲美学を成就せられては何如などといふかも知れぬ、ショオペンハウエルの言に、哲学で家を成した人は、網を張つた蜘珠の様なものだといふことがある。その網は即ち哲学系続で、その網の主人たる蜘錬が、外の蜘蛛に近づくには、争闘の目的より外に目的はない、ハルトマンの網として居る無蔵識哲学は、一時或人が第十九世紀は鉄道とハルトマンとを生んだといつた程盛に行はれた。併しハルトマンの流行はその無意識論に止まつて居て、その審美学は余り世間の注意を惹いたものではない。  その審美学は本人の雑著の外には、これを実地の藝術的批評に応用して見たものも殆無い。今はハルトマンの流行の一面は既に過去に属して、その次にはやつた一イチ一の人間以上の人間主警一そろ/\下火になつて居る。勿論それは流行の一面であつて不易の反画から見れば、ハルトマンと韻頑する程の蜘蛛はかのフエヒネルの流を酌んで近年新系統を公にしたウンドの外には差当り有るまい。これ等に比べて見ると、ニイチエなどの立言は殆哲学とはいはれぬ位であらう。それであるからハルトマンの審美学は、特にその形而上門の偉観をなすのみでなく、その単一問題に至つても目下最も完備して唐るのだ、それだから此審美学からは、第十九世紀の文学美術を見ても、自然派の中の存活の価のある側は、その頗る進歩した具象理想主義で包容して居る。進んで新理想派の製作はどうかといふに、たとひ技巧上に昔の所謂理想派に殊なるところがあつても、自然派の遺物と見られる分子が残つて居るところがあつても、固よりこれを包容して余あるのだ。こゝに出て一つ網を張るには、ショオペンハウエルとロツチエとの血脈を引いて居る形而上派のハルトマンなどをば土台から動かし、生理学者から化けた経験派のウンドなどをば薬籠中の物にして、新い哲学が成り立つやうにせねばなるまい。併しそのやうな仕事は、脳髄の器械が別読に出来て居て、生涯をそれに委ねる人物に任せて置いて好い事であらう。況や審美上の単一問題はその形而上門を離れて成り立ち得るものであるから、已の書く藝術的批評などには、形而上派と経験派との争はさほど密接に関繋して居らぬのだ、さて己が批評の根拠としてハルトマンの標準的審美学を取つてから、審美学といふ一科学の我国に於ける価値と、ハルトマンといふ一学者の我国に於ける勢力とに多少の影響を及ぼしたことは、反対者でも認めぬ訳には行かぬ。文部省が非形而上学派といふよりは、寧ろ非学間派なるヱロンの美学を中江篤介氏に訳させて印行したのは、明治十六年であつた。これは我国の文学美術には、殆何の影響をも及ばさなかつた。大学はじめ処々の学校で、或は審美学の講義に今までにない重みを置くやうになり、或は始めて審美学の講座を置くことになり、今では専門の審美学者といふ人々さへ出て来たのは、少くもその動因の一つとして已が明治二十二年から二十七年まで、三二の同志の友達と一しよに出した柵草紙の中の、極めて揖い論文に促されたものだといつても過言ではあるまい。これと同時に、或は直接に或は間接に、ハルトマンの哲学に目を注ぐ人が出て来て、今まで我国では殆全く経験派に押し潰されて居た形而上派の哲学さへ、こゝかしこで講究せられるやうになつた。そこで審美学の専門家である、ハルトマンなどをば高閣に束ねても好いと威張る人のある今の世になつても、まだ審美学といへば己の名が出る、己の名が出れば、すぐにハルトマンの名が相伴つて来る。僕をハルトマン一忠張の批評家として冷かすと共に、人を射るには先づ馬を射るとかいふ訳で、ハルトマンに対する攻撃さへ始つた、己も迷惑だが、ハルトマンの迷惑も亦想ひ遺られる、己は果してハルトマン一点張であらうか。ハルトマンの審美学に騎りまはつて、馬を射られると落ちるであらうか。事実は立派にこれに対する灰証を挙げて居る。己の文学美術上の批評は略ど柵草紙時代を限つて、≡二それより前のものとそれより後のものとを加へて、こゝに月草の一巻をなした、この巾に集めてある文章は、目次で見られるとほり、種々の機会に遭遇して作つたものであるが、又その諸篇を一貫する標準的審美学の脈絡の存じて居ることは、索引で見られるとほりだ。巻の過半は批評の批評ともいふべき性質のものであつて、すべての議論めいた都分、それから短評、解潮に至るまで、此範囲内に在る、これに画評と劇評とが添へてあるが、画の方は擾崖子(原田直二郎君)の技巧上の鑑識に負ふ所のものが多い。また劇の方は金く三木竹二(弟篤次郎)の筆に成つて居る。文学的製作品の評の少いのは、当時已が此区域に手を出す意がなかつたためで、所謂近刊雑評の数篇は或は著者の委頼に依り、或は新聞雑誌社の請求に応じたに過ぎぬ、要するに此等の諸篇に著しである難駁は、皆厳重に論理的に筆を下したもので、ハルトマンの説はその引証の主要なる部分を占めて居るに過ぎぬ。已は某の事はハルトマンの所見に會はぬから悪いといつたことは決してない、それだから他人がこれを反駁するには、縦令ハルトマンの説が引いてあつても、何の妨にもならぬ筈だ。但し或る時はわざと身をハルトマンが地位に置いて立言したこともあるが、(烏有先生の論)それとてもハルトマンの或る所見を借仰箇条らしく提起した訳では無い。その上ハルトマンの前後の審美家の説で、ハルトマンの筆に上らぬものも、又審美家でない藝微史家、藝術批評家の説も、及ぶ限り顧慮しである。それだから已は自分の書いたものを、悉くハルトマンから出たやうに評して居るのを見るたびに、その人のハルトマンを読んだか読まぬかを疑はずに居られぬ。さて今から後の審美学の進歩は、どの方面から来るかといふに、要するに藝術史上の事実が積つて来て、学問上の解釈を促すのであらう。即ち経験の方面であらう。若し第十九世紀の自然主義に根ざした藝術を包容するために、昔の拙象理想的審美学が不足になつたやうに、後の藝術を包容するために今の具象理想的審美学が不足になることがあつたら、已は喜んで今の藝術観をその方角に拡めもし、又ずつと土台から変へもする積だ。已はこの意味で、前途の進歩を塾んで居る。これが叙だ。明治二十九年十一月千駄木の観潮楼で               鴎外漁史が書く。