水滸伝 竹二。この度は水滸伝を合評することになりましたの で、私は森槐南膏を尋ねて、水滸伝に関するお話を伺 ひました。爰に同君の語の儘でそれを述べます。  まづ水滸伝の類本から中しませう。李卓吾が評を加 へました百二十回本は明の万暦間即ち神宗の時代、豊 太閣征韓の頃に出来たものでござります。金聖歎が評 を加へた七十回本はこれより後のもので、中に明末崇 禎の年号が記してはありますれど、実は清初に出来た のです。この外に明初の板で、やはり百二十回本を見 たことがありまするが、これには回毎に初に詩と致語 と表ふ者とがついて居りました。尤も之れは普通の百 二十回本にもいくらかついて居りまするが、この方が 多く附いて居つたと思ひます。水滸は有名の小説です から、明清以来の随筆雑記類に多く此の本のことが敵 見して居まして、近比の曲園老人徳清愈檀が茶香室続 抄巻十三にも左の文があります。此れは重もに周櫟園 が囚樹屋書影を引きましたものですが、支那最近の通 儒が考証ですから、此れを挙げます。      水滸伝原本  国朝周亮工害影云。故老伝聞。羅氏水滸伝一百回。  各以妖異語引共首。嘉定時郭武定。重刻某書。削其  致語。独存本伝。金壇王氏小晶中亦云。此書毎回前  各有襖子。今倶不伝。  私の見たのは多分この旧い分であつたらうと思ひま す。襖子は今通行の水滸伝にもありまするが、忠義水 瀞伝の極初めに宋の初まりのことが書いてあります。 あれが襖子です、七十回本では金聖歎が水滸本伝の第 一回を改めて操子と致しました。旧い分には各巻に樸 子があつて共れに所謂る妖異の語も雑つて居つたのを。 郭武定本で初めのばかりを残して、その外のものを削 つたものと見えます。李卓吾、金聖歎等の前に水滸評 本といふものがあつたのですが、今伝はりませぬ、茶 香室続紗の同巻に左の文があります。      水滸評本  国朝周亮工書影云。葉文通名昼、無錫人。多読書。  有才情、故為誼異之行。或自称錦翁、或称葉五葉。  或称葉不夜。最後名梁無知。謂梁難無人知之也。当  温陵焚蔵書盛行時。坊間種種借温陵之名以行者、如  四書第一評第二評水滸伝琵琶拝月諸評。皆出文通子。  按今人止細有金聖歎水滸評本、前平此有葉文通則無  聞突。  それから七十回本の後を書いた蕩窟志といふものが。 百回ほどあります、原来金聖歎が水滸伝を七十回で裁 つたのは文章を評するだけの為で、趣向の方には関係 しなかつたのです。詰まり水滸伝をおもちやにしたの です、蕩窟恵の作者は、聖歎が七十回本の初に乱臣賊 子をして懼れしむといふやうなつまらぬ事を書いたの を、大趣意のやうに重く見て、蕩意志では水滸の英雄 を賦として、これを平げる為に外に百八人の人物を祷 へて、水滸の百八人に対してあります、固よりその愚 さ加減は論ずるに足らぬほどのものです。  その外水滸の後を書いたものに後水滸伝と水滸後伝 とがあります。後水滸伝は十二冊四十五回より成つて 居ります、一旦死んだ宋江等が生れかはり、又は人の 体に魂が糧つて、生残つたものと共に南宋に忠義を尽 し、岳忠武王の下に附いて遼金と戦ふと云ふ趣向です。 これは好蓮伝を作つた天花才子(本書には天花蔵主人 と記してあるが、世間で天花才子と申して居るので。 名は不明です)の作で、二十巻ばかりあります。趣向 は兎も角、文字は水滸伝のやうに活きて居りませぬ。 櫨く軽跳な奄のです。多分明末のものでせう、水滸後 伝は十冊四十回ありまして、古宋遺民雁宕山樵編韓。 金陵怒答野雲主人外書と巻首に記してあります。雁宕 山樵といふ人のことは分りませぬが、曾て依固先生と 此の後伝を論じまして、彼の野雲主人の評は、他人の 書を取つて評をしたのではかうは行くまいと思はれる ところがあるから、恐らく作者が自評をしたのであり ませうと断定しました、野雲主人の名は序に察界冗枚 甫(元枚甫は字です)と出て居つて、時は清の乾隆三十 五年としてあります、この人は外に東周列国志の評を 書いて居ります、東周列国志は元來から明初にかゝつ て出来た小説ですが、この人の評したのは坊間に伝は るものでなく、古本を得て評したのだと云つてありま す、成程普通の列国志とは物が遠つて居りまするから。 やはり自分で書いたものかと思はれます。それから撞 しまして水滸後伝も白作であらうといふのです。とこ ろが茶香室続紗を見ますると左の文があります。      後水滸  沈登撮南薄傭志看。陳雁宕枕、前明遺老。生平著述  並快、惟後水滸一書乃潜戯之作、託宋遺艮刊行。按  此書余會見之、不知為陳雁宕作也。  初め水滸後伝は察界の作だと思ひましたが、後に陳 眈といふ作者のあることを知りました。併し事の真偽 は詳でありませぬ。  次に水滸伝の作者の事でござりまするが、これも同 書に出て居ります。  書影又云。水滸伝。相伝、為洪武初越人羅貫中作。  又伝為元人施耐庵作、固叔禾西湖遊覧志又云。此書  出來人筆、近日金聖歎自七十回之後。断為羅所続。  極口舐羅。復偽為施序於前。此書遂為施有棄。  書影又云。続文献通考以琵琶記水滸伝。列之経籍志  中。雖稗官小説古人不廃。然羅列不愉。何以垂遠。  羅貫中は明初の洪武の時まで存生した人ではありまするが、元代は僅か百年ばかりの短い間ですから、多分元の人であつたらうと思はれます。演義三国志も羅貫中、(竹二曰く、近頃列伝体小説吏で陳寿の三国志を紫式部の源氏物語と並称したのは可笑く存じました)平妖伝も羅貫中、施耐庵が作つたといひ伝へて居りまするが、これ等は水滸伝が行はれた為め、その名を被らせて売つたので、真の羅貫中の作ではなく、莫の羅貫中の作は水滸伝はかりであらうと思ひます。三国志は筆の着け方が違ひまして、俗語を写すにも講談師の話を聞書した様な風にしでありまするが、水滸伝は之れと違つて始より小説を作るといふ方から筆を着けたものと思はれます。されば縦令同人の著としても、大に変はつて居ります、作者の話が出ましたから、序に申して置きまするが、彼の西遊記なども、尤の邸長春の作と中して居りますのは間違です。邸長春といふ人は元代の道士で、仙術にも通暁して居るといふので尊ばれた人です、その人は支那西睡の地を沸歴して西遊記といふものを書きましたが、これは金くの遊記なのです。名称が同じであるのと、西遊記中には三教(仙儒仏)一致を主眼と致し往々不思議なこと枢書いてあるのでこの道士が作つたのであらうというたのとが。此錯誤の本になつたのです。その証拠は西遊記の中に出て来る人の官職に、明の地方官の職制が用ゐであるのです。これから推して見ると、西遊記の出来たのは宋元時代ではなく、水滸伝よりも後で、明の中世であらうと思はれます。又此書を評した悟一子といふのは注憎掬といふ人ですが、この評は訳らぬもので、太上感応編と易理とを持つて来て括り付けたものに過ぎぬのです。  次に水滸伝が出来た趣意ですが、これは難い問題です。しかし聖歎が宋江を悪いものにして、李逮をもつて来て來江の悪いところを顕したのだといつたのは言語同断で、水滸伝にはそんな意味はないのです。又馬琴が因果話にして、宋江等は盗賊や人殺しをした応報で、朝廷のために力を出しても、尚非命に終り、又は毒殺せられるといふ様に説き明したのも、随分可築なことをくつゝけたものだと思ひます。要するに水滸伝は、設し此の如き一団体あつて天下を経営せば、経営することが出来やうに朝廷は之を用ゐぬ、又後に用ゐても、兎尽きて狗煮らるといふ始末になつた、世の中は不平なものであるといふことを小説に書いたとすれば、一番真に近いやうです。されば作者その人に不平があつて、その不平を池したといふと、ちと買ひ被りになるやうです。いつぞや早稲田文学に書いたことがありまするが、中村敬宇が人に寄せて水滸を論ずる書に次のことが出て居ります。宋の太祖が天下を一定して、宋の基が立つた、水滸はこの宋初の歴史を暗に用ゐたものだ、宋の太祖と太宗と兄弟で、趨普を用ゐて軍師にした、趨普は初めは兄に附いて居つたが後には弟に附き、太宗の為に計るところがあつた、歴史の疑案になつて居る燭影斧声といふことがあつて、太祖が病の篤い時誰も行かず、斧の声がしたといひ伝へて居る、この隠徴腰味のところを托塔天王晃董と宋江との上にして影に写しである、呉用が初め晃蓋の為に計つて、共に梁山泊を再興したが、宋江が移に入つたからこれと結び、兄分の人を戦に遺り、その戦で晃藍は蕎箭に中つて死んでしまふことになる、後に百八人が出ても、晃蓋の名は出ない、原来は元祖にしなければならぬ人だのに、その事がない、これが暗に正吏を水滸に寓したのだといふのです。これは面白い説です。併し縦令此位な意味は存ずるとしても、作者が故らに大抱負を述べたものではないといふ方が、実に近いやうに思はれます。  それから七十回本の可否で御座りますが、これは無論不都合です。尤も不都合なのは蔵俊義と燕青とを写すのが、七十回本では写し足らず、到底どんな人か一向分多ぬものになつて居ります、此人達は最後に移に入つて夢に首を斬られるといふだけです。盧俊義は金聖歎が云ふ如き騎駝的人物には相違ないが、其の泰然としてどつかに落ち付きがあつて貫目のある処が得色で、これでこそ梁山泊にては第二位の椅子を占め、招安を受けてからは、副輯軍として常に宋江と対時して居る、彼れを写すのも、全く共の必娶から起つたことで、又燕青を模した作者の筆意は外の衆好漢とは違ひ、才子で、歌舞音曲に通じ、韓名も浪子といふ位ですから、色男に書いてあります。原来水滸伝の中には色気を写した所のないのが欠点です、一丈青や母夜叉の様な女はありまするが、これは唯一種風変なところがあるだけ、又潜金蓮の様な淫婦はありまするが、これも椿外として、一向に花がないのです。浪子を出したのは、花を持たせる為で、この人ありて始めて後の李師々の家の段が面白くなります。燕青が李師々に慕れるといふのは、始より立つて居た趣向なのです。今一つの注意すべき人物は柴進で、これは又孟嘗君見たやうな人です、あの人を初めに写したのは、後に汗京の宮殿に入つて、徽宗の居間近くまで忍び込むといふことがあります。それを写すには、外の無骨な好漢では行ぬ、どうしてもあの人でなければならぬので、初めか参帝室に関係のある、話公家様じみた人をその穣で設けたのです。水滸伝では衆好漢が招安を受けるのが前後の関鍵になる大事な所ですが、この筋道を作るはとても粗芥な人達ばかりでは行かぬ、上には柴進の様な晶の好き人があり、下には燕青の様な気の利いた人があつて初めて妙なることを得るのです。快活な事のみを写して好いのなら、何もかういふ人物を出す必要はないのです、この必要があつて設けた人物を、何の用をもなさぬ様にしたのは、聖歎の尤も不都合なところです。  次に水滸伝の出処に就いて申しませう、世に宋版の翻刻ものと言ひ伝へたもので、宣和遺事といふ書が二巻あります。その事は百二十回本の初にも節略して書いてあります、宋末に出来たものだと申しまするが、俗語で徽宗欽宗二代の事を書いたもので、我国の源平盛衰記や太平記の様なものです。その中に宋江等三十六人の謀反の事が出て唐つて、宋江等が出る処の文章は尤も面白く出来て居ります。これから思ひ付いて、これに七十二人を加へたものが水滸伝なのです。宣和遺事の文は水滸に似て居りまして、その宋の初を叙した辺をば水滸の襖子が踏襲して居て、其詩こそ水滸と遠ひまするが、共に郡康節の詩です、三十六人の名には異同があります。一二を挙げれば、智多星呉加亮、玉麟麟李進義などです。それから馬琴がよく引旭しまする周密の癸辛雑識の中に三十六人の賛が出て居りまするが、これは又宣和遺事の三十六人とも違つて居る処があります、同書中に襲聖与作宋江三十六賛並序目、宋江事見於街談巷説、不足朱、云々とあります。この衛談巷説とは宣和遺事のことであらうと思はれます。序ながら梁山泊は宣和遺事、癸辛雑識共梁山漢となつて居ります。  次に水滸伝の文章ですが、固と小説の文章は支那の文学からいつたら度外のものでせう。併し咄々人に逼り、鬚眉皆見れる様に書いてありまするから、今日の様にこれを以て文章の能事と致しますれば、絶頂に達しましたものだらうと思ひます。俗語は土地によつて区別しであります、譬へば宋江呉用三防等は山東乱、魯智深楊志は関西誰と云ふ様な風で、全書を挙げて較べて見るとそれが分ります。澄金蓮の事を書いた段は前後と筆が運ひ、郡狼な処を目当にして書いてあります、金瓶梅は其の遠つて居る処を面白いとして即ち此部狼な二一回を根原として、已が書けばかう書くといふ考で後を書いたものです。金瓶梅は物諸としては水滞程面白くはありませぬが、徴細な事を漏さず書くといふところは水滸も及びませぬ、李瓶児が死ぬ処で、皆枕元に集つてか参、息を引取つて、棺に入れるまでの間を百枚以上に書いて、一巻にしでありまするのを見て、どこまで徴細であるか分らぬと依田先生が賞美せられたのは尤です。西洋の小説の様に細かく折つたものを支那で求むれば、まづ金瓶梅と紅楼夢とが之に近いのです、水滸は塞に支那人の特性を見るに足るもので、歴史小説でもなく、人憎小説でもなく、丁度その間を行つたものであります。  水滸伝に出る人物の性格は種々ありまして、中々一朝一夕には中されませぬが、彼掛命三郎石秀などは余程変つて居ります、李違、魯智深、武松などの様に乱暴でもなく、さうかといつて温順い方ではなく、往々世間にありさうな人で、至概面白いと思はれます。この人物の相予に楊燈の様なぐづを出して、性格上に反映せしめたのです。尤も七十二人の中には困つたものもあります、多くは呉卒のやうに使つたのですが、それでも中には書家とか、馬医者とか相応に役はつけてあります。又三十六人の中でも没遮欄穆弘や、船火児張横なざは随分曖昧で、張横は張順に株を取られてしまひ、配家の三兄弟の役は眈小七が一人で占めて仕舞ひました。  終に水滸伝の翻訳のことですが、馬琴は好きなので、骨を折つて熟読したと見えます。然し三個の秘事なぞと申したのはどういふ了簡か分りませぬ。高井蘭山はむづかしいところや分らぬところは抜いてしまつたのですが、馬琴はどうなりかうなり、一字一旬とは行きませねど兎に角善く訳してある。致語といふものは巻の初めにもあり、又中にもありまするが、誰々が戦をするといふやうなところで、正に是れとして一字下げてあるのが是れです。金聖歎は何となく文章を港漫にする、勢をなくするといふので削つて思ります、百二十回本には残つて居りまするが、その餉にはあれよりも太董しいのがあつたのでせう。あれが馬琴などには尤も必要で、景色などを綾なして来るには、あれがなくては花が出て来ませぬ、それだから馬琴の訳本には、本文の中に巧に、障りにならぬ様に、あれを点綴してあります。あれは馬琴の力の見えるところかと思はれます。  それから水滸伝の翻案といふ風のものでは、京伝の恵臣水涛伝は和語に直して居つて、本文の趣を失はず、よく叙し方を真似て居ると思はれます、馬琴は其作の中で、腰ζ水滸を使つて居りまするが、日本の事にした方が水滸伝の訳よりも面白く出来て居るやうです。鴛鳶楼を八犬伝の対牛楼に使つたなどがその一例です。新編金瓶梅でも、淡路の施恩吉といふ角力を出して施恩を利かせ、やはり鴛鴛楼に類したことを書いて居りまするが、あれは余り丸出しで対午楼ほど面白くありませぬ。又雲の絶間雨夜の月にも武松澄金蓮西門慶が事を丸出にしてあります。傾域水滸伝に至つてはお話になりませぬ。兎に角水滸伝後の作者が水滸伝の恩恵を被つたのは一と通ではありません。  此話の筆記を終りました時、槐南若より補遺一編を寄せられましたが、これを前段中に播入しましては、却りて紛雑の鎌を生じまする故、その傑次に御披露致します。      水滸伝作者の事  水滸伝の作者は、田叔禾が西湖潜覧志余に、「銭唐の羅貫中は南宋の時の人なり、小説数十種を編撰す、水滸伝は宋江の事を叙し、機巧甚だ詳らかにて、人の心術を壌りければ、其の子孫三代皆な唖なり」と云へる説一般に通行す。然れども羅貫中其人の本伝は甚だ詳らかならず。周櫟園が因樹星書影には貫中を以て明の洪武の初、越中の人なりと云へり。考ふるに南宋の亡ぶるは元の世祖至兀十六年にして、それより明の太祖が兵を挙げしまでは大約六十余年に過ぎざれば、若し貫中にして甫宋の末に生れ、七八十余年の長寿を享けしものと仮定すれば、即はち之を宋末の人とも明初の人とも秀はるべし。要するに元代の人にして、其の本書を撰述したるも亦元代なるは疑なきに似たり、臓晋叔が元曲選に羅貫中が雑劇「竜虎風雲会」と題せる一篇を載す。然れば彼れは独り小説を編せしのみならず、亦雑劇院本にも指を染めしものと見ゆ。  郎英が七修類稿に、始めて水滸を以て元人施耐庵が作なりと云へること見え、荘岳委談にも、「水滸伝は今持に盛んに世に行はる、率ね其の襲空にして拠なきものと謂へるは、未だ之を尽さず、余一小説を閲するに、称す、施某なるもの、嘗て市津に入り、放書を敝楮中に抽閲し、宋の張叔夜が檎賊の招語一通を得て、一百八人が由つて起る所を備悉す、因つて潤色して以て此の篇を成す」と云へり。然かも施耐庵其人の伝記亦董だ具らず、是を以て伝聞異辞多く、従つて是正する所なかりしが如し、李卓吾が忠義水済伝を定本とせるに当りて、亦実に両者の就札に適従すべきを飼らず、因て巻首に「施耐庵集撰、羅貫中纂修」と並挙し、此の両説を倶に存して疑を闕けり、金聖歎の第五才子書出るに及び、自ら施耐庵の序ある水滸伝の古本を得たりと称し、党に七十回以上を施耐庵の作に属し、其の以下を羅貫中が続選に出づるものとしたれども、彼の施耐庵の序と云へるものは、金聖歎が争筆に出づる二と其証左歴々たれば、曲亭馬琴すら、彼れが踊席記の序と対照して其の偽作なるを榮へり、今鼓に繰述の葵なし。  以上の次第にて元代を去る遠からざる明の時に於てすら、此書の作者に就き異説紛々たる此の如くなれば、今日に於て究寛其の何人の手に成りしものなるを判定せんは出来得べからざるの事にして、斯く異説の妓亙を致す所以に濁れば、亦実に施羅二人の伝記の到底不詳なるに坐するなり、敵に余は唯李卓吾が筆法に依り、疑を葎して可なりと謂ふのみ。      水滸伝に忠義の二字を冠したる事  此れは全く李卓吾が加へたるなり、明の楊鳳里は卓 吾の門生なり。其の水滸命名の義を釈して。  梁山泊属山東。秀州府志作漢。称八百里張之也。然 昔人欲平此泊、而難於貯水、則亦不小棄。伝不言梁  山、不言宋江、以非賊地非賊人、敵僅以水滸名之。  瀞水涯也。虚其砕也、蓋明率土王臣。江非敢拠有此 泊也、共居海浜之思乎、羅氏之命名徴棄。 と云ひ、次に  忠義者事實処友之善物也、不忠不義、其人雖生已朽。  而其言雖美弗伝、此一百八人者。忠義之聚於山林者  也。此百廿回者。忠義之見於筆墨者也。失之於正吏。  求之於稗官。失之於衣冠、求之於草野。董欲以動粛  子。而使小人亦不得借以行其私。故李氏復加忠義二  字。有以也夫。 と云へる、原書の単に水滸伝を以て書名として、卓吾 更らに加ふるに忠義の二字を以てしたるは、此れ白か ら瞭然たり。其の必らず此二字を冠せんと欲したるの 意は、鳳里の前文略ば其の娶を提挙したれども、卓吾 をして自から之を説明せしむるの勝れるに如かず。卓 吾の序に目く。  太吏公は目ふ、説難孤慣は賢聖の発慣して作る所な  りと。此に由りて之を観れば、古の賢聖、慣らざれ  ば則ち作らず。慣らずして作るは譬へば寒からずし  て頭ひ、病まずして坤吟するが如し。恥づ可きこと  焉れより甚きは莫し、作と雖何をか観ん。水滸伝は  発慣して作る所なり、董し宋室の競はざりしより。  冠履倒施す、大賢は下に処り、不肖は上に処りて。  夷秋の上に処り中原の下に処るを馴致す、一時の君  桐、猶ほ然かく堂に処るの燕雀のごとく、幣を納め  て臣と称し、犬羊に屈膝することを甘心するのみ。 施羅の二公は、身は元に在れども、心は宋に在り。 元の目に生ると雖、実は宋の事を慣れり。是の故に  二帝の北狩を憤りては、則ち大に遼を被ると称して。  以て其の慣を洩らし、甫渡の萄安を憤りては、則ち 方臓を滅すと称して、以て其の慣を洩らしたり。敢 て問ふ慣を洩らすとは証ぞや。則はち前日水滸に囎 聚するの強人なればなり。之を忠義と謂はざらんと 欲するも不可なればなり、是敬に施羅の二公は水滸 を伝して、而して復た忠義を以て其伝に名つけたり。 夫れ忠義は何を以て水滸に矯する、某の故知るべき なり。夫れ水滸の衆は何を以て一々皆忠義なる、之 を致す所以のもの、知るべきなり、今夫れ小徳は大 徳に役せ参れ、小賢は大賢に役せらるゝは理なり。 若し小賢を以て人を役し、而かも大賢を以て人に役 せられば、其れ肯て苛心に服役して恥ぢざらん乎。 是れ猶ほ小力を以て人を縛して、而かも大力者をし て人に縛せられしむるがごとし、其れ肯て手を來て 縛に就きて辞せざらん乎、其勢必らず天下の大力大 賢を駆りて、尽く之を水滸に納るゝに至らんのみ。 則ち水滸の衆は皆大力大賢にして、忠あり義あるの 人なりと謂ふも可なり、然れども未だ忠義宋公明の 如きはあらず、今一百単八人なるものを観るに、功 を同うし過を同、フし、同生して同死す。某忠義の心 は、猶宋公明のごときなり、独り宋公明は、身水滸 の中に居り、心は朝廷の上に在り、摺安に一意にし て、専はら国に報ぜんことを図り、卒に大難を犯し。 大功を成し、毒を服して白縫し、同死して辞せざる に至つては、則はち忠義の烈なるものなり、真に以 て一百単八人の心を服するに足る。故に能く義を梁 山に結び、一百単八人の主となりしのみ、最後に方 臓を甫征し、一百八人なるもの陣亡已に半に過ぎ。 又且智深は六和に坐化し、燕青は沸泣して主を辞し。 二童は計に混江に蹴けり。宋公明も知らざるに非ざ るなり、以為らく明哲の幾を見るとは、小丈夫が自 から完うするの計に過ぎずして、決して蒼に恵に友 に義なるものゝ忍び層しとする所に非ざるなりと。 是れ之を宋公明とは謂ふなり、是を以て之を忠義と は謂ふなり、伝共れ作る無かるべけんや、伝其れ読 まざるべけんや、赦に国を有つもの、以て読まざる べからず。一日此の伝を読めば、則はち忠義は水澄 に在らずして皆葺側に在るなり。賢宰桐以て読まざ るべからず、一日此の伝を読めば、則はち忠義は水 瀞に在らずして皆朝廷に在るなり、兵部の軍国の枢 を掌れる、督府の聞外の寄を専らにせる、是れ又以 て読まざるべからず。荷も一日にして此伝を読まば。 則ち忠義は水滸に在らずして皆千域心腹の選となる なり。否らざれば則ち朝廷に在らず、君側に在らず。 千域腹心に在らず、いづくにか在る、水滸に在り。 此れ伝の発慣を為す所なり、若し夫れ好事の者の其 談柄を資け、用兵の者の共謀画を藉るは、要するに 以て各ζ所畏を見るのみ、なんぞ所謂る忠義なるも のを購んや。 忠義は断として矯激の謂に非らず、赦に卓吾が之を 以て水滸に冠したるの是非は肯て辯ずるを待たざれど も、其の此種の方面よりして水滸を見たる一片の眼識。 亦自から廃すべからざるものあり、聖歎卓吾の後を承 けて水滸を評し、力めて後来居上の名を資らんと欲す。 故に好題目を尋ねて、以て錦心繍腸を写すの説を創し て以て卓吾が発慣の言に反対す、是れ猫ほ通ずべし。 水滸の命名は、作者が乱臣賊子を痛悪するの余、之を 水泊に投卑して絶意を示すものなりとの奇異なる論鋒 に至りては、殆んぎ人をして唖然失笑せざるを得ざら しむ、蓋し聖歎と雖、亦自から共の非理なるを知らざ るに非ず、只卓吾に雷同したりとの嫌を避けんが為め に、故らに立異して以て卿か自ら快としたるに過ぎず。 此れは是れ古今文人争名の通弊、王望如輩之を悟らず。 反つて共の弊処を把りて無上の発明なるが如くに激賞 し、董しきは則はち此の意を推演して五才子書の後を 続き、陳腐固晒の筆墨を浪費したる蕩意志の如きあり。 殊に歯冷に堪へざる所なり。      水滸伝を戯曲に上ばしたる事   元人百種曲中、李文蔚が「燕青榑魚」康進之が「李 達負刑」「黒旋風老収心」高文秀が「黒旋風双献功」及 「黒旋風借屍還魂」等、皆水滸の人物を譜して戯曲と なしたるものにして、某の「黒旋風」の事実を作りた るもの殊に多きは、本侯の黒旋風を写す、最奇最快。 作者が全幅の精神を以て之に赴きたるに依り、水滸と 云へば則ち黒旋風最も多く記臆せられ喧伝せられたる に由る、亦以て本伝が如何に元時に流行したりしかを 徴見すべきなり、明に及びて則はち南曲水滸記あり。 余未だ共全本を寓目する能はざれども、曲譜に散見す る所に拠り其の首脳とせる所の数酌を見たるに、宋江 と閻婆惜とが一場の葛藤に付き、種々の敷演を加へて 以て一都を完成し、又今本水滸伝に削除したる致語中 の事実も幾分か加味せし所あるが如し。又紅楼夢の記 する所に拠れば、北曲に「魯智深大闇山門」の劇あり。 此れ想ふに元曲の遺ならん、雁宕山樵が水滸後伝に串 でたる王婆は、則はち水滸記中に見えたる閣婆惜を宋 江に媒介せしものにて、水滸本伝の西門慶潜金蓮を煤 介したる王婆とは別人なり、其の余「燕青博魚」「黒 旋風双献功」等も皆な本伝に見えざるの事実にして。 自から詞曲家の点染に出づ、此れ又知らざるべからず。      王進王慶の事  水滸伝開手に写したる王進は水滸好漢が正面の影子 にして、末幅に写したる王慶は水滸好漢が反面の影子 なり、一百八人の大半は高陳察京等が謹害を受く、王 進も亦高徐が譲害を受けたるものなり、王進は孝子な り、其武藝は実に東京八十万禁軍の敦頭たるに適す。 此の人にして猶且倉皇として落荒し、僅かに老稗経略 の府中に隠れ、蓼々として聞くことなきに終る。謹害 の畏るべ書此の如し。一の王進を以て之を例せば、当 時の天下、英雄豪傑、恵臣義士の彼の講手に曜りて。 屈を抱き恨を呑み、志を費して以て歿するもの将さに 屈指に堪へざらんとす。是れ一百八人が水泊に粛聚し て督天行遺の旗を蘇さざるを得ざる所以。是を正面の 影子と目ふ、王慶は罪を得て刺配せられ、機に乗じて 獄を越え、身を容るゝ地なきに至りて落州し、遂に王 師に抗して威四郡に撮ふ、其形跡に就て之を論ずれば。 殆んど一百八人と異なることなし。然かも彼れの行為 の魎劣なる、心術の不端なる淫縦狡槍至らざる所なし。 是れ一百八人の肯て為さゞる所、作者特に共形跡の相 似たるものに就て、反つて真の賊心賊骨的の人物を絵 出し、以て他の頂天立地的の好漢を形出す、其の恵は 猶ほ王慶の如くにして始めて之を盗賊と称すべし、一 百八人の如きは此れの謂に非ずと看ふが、ことし、所謂 反面の影子なり、曲亭馬琴此の義を峨らず、只漫然一 百八人の外、別に王慶の為めに伝を立てたるを模倣せ んと欲して、其の八犬伝に於て、犬士の外、特に墓田 権頭索勝が為めに数回の筆墨を費したり、夫れ馬琴の 八犬士を写す、一として仁義八行具足の士に非ざるは 無し。十目の視る所、則はち婦人竪子と雖、之を以て 完然無欠の人物と為さゞるものなし、何を苦んでか復 た反面の影子を借らん。故に嘗つて謂ふ、水滸の王慶 は必らず無かるべからざるもの、八犬の索藤は有る可 く無かる可し、寧ろ無きを可とするもの、馬琴の模倣。 往々一知半解にして原意を誤れる此の如きもの太だ多 し、妓に偶ミ共の一を挙ぐ。 醐洲。槐南君のお説は岡より専家の言で、私共の敢て 曝を容るべきところではない。それだから私のこゝで 述べやうとおもふ事は、平生の見聞のうちで、餉説と 重複する嫌の少いもの三二を抽き出すに過ぎぬ。縦ひ 補遺とする程の価はなくとも、或は詮脚の用をなすか も知れぬ。  宋吏の宋江等の事を言ふ処は、金聖歎本にも抄出してあるが、原文の鐘ではない。先づ徽宗紀宣和三年二月の条に、「准南盗宋江等犯准陽軍、遺将討捕、又犯京東江北入楚海州界、命知州張叔夜招降之」とある、次に侯蒙列伝に、「宋江憲京東、蒙上書言、江以三十六人、横行音魏、官單数万、無敢抗者、其才必過人、今清渓盗起、不若赦江、使討方磯以自牘」とある、次に張叔夜列伝に、「宋江起河朔、転略十郡、官軍菓敢嬰英鋒、声言将至、叔夜使間者脱所向、賊径趨海瀕、劫錘舟十余載鹵獲、於是募死士得千人、設伏近城而出軽兵距海誘之戦、先匿壮卒海労伺、呉合挙火焚其舟、賊聞之皆無闘志、伏兵乗之、檎共副将、江乃降」とある、歴史的事実はこれ丈である。  此事実は宣和遺事によつて敷演せられた、同書の前集宣和四年の条に左の目録がある。   楊志等押花石綱違限。配衛州。   孫立等奪楊志。往太行山落草。   宋江因殺閣婆惜。往専毘謹。   宋江得天書三十六将名。   宋江三十六将共反。   張叔夜拐宋江三十六将降。  これが水滸伝の本づくところである。二の中楊志の事が最初に写しであつて、次に晃蓋等の事が写してある。押司宋江は晃蓋によつて出すことになつて居る。然るに楊忠は朱動の花石綱のために身を誤つて、晃萱等は梁師宝の生辰買のために禍を招くのであるから、花石綱と生辰頁とが梁山溌囎聚の因縁をなして居る。御承畑の通り花石綱は正吏の事実で、宦者列伝に、「徽宗頗垂意花石、京(察京)諷励語其父、密取漸中珍異以進、(中略)至政和中始極盛、舳艦相御于准汁、号花石綱」とある、漉醒雑志に、「凡官吏居民、旧有睡眺之怨者、無不生事害之、或以蔵匿花石破家、越州有一大姓、家有数石、動求之不得、即遺呉卒、徹共星盧而取之、恵山有棉数株、在人家墳墓畔、動命掘之、欲尽英摂、遂及棺瀞、若是之類、不可勝数、故陳畏老以謂、東商之人欲食共肉」とあるのを見れば、其官民の累ひをなすことの甚しかつたのが分る。吏に拠れば方臓もこれを機会として起つた。宦者列伝に、「時呉中困於朱動花石之擾、比星致怨、磯因民不忍、陰聚貧乏漉手之徙」とあるのは是れだ。之に反1して北京留守梁師宝(水滸伝の梁中書世傑)が藝夙の生辰に当つて、金銀担を送るといふことは、宣和遺事の外には見えぬ、水滸伝には花石綱を陰に写して、却つて生辰買を陽に写して屠る。これは小説家の用筆としては、至極面白いと思ふ、併し花石綱といふ事が、殆ど何だか分らぬやうになつて居るのは惜むべしだ。何敵といふに小説中に吏を読まぬものに解せられぬ事のあるは、余り褒めた話ではない。  楊志の刀を売る事は、水滸伝が宣和遺事を襲いで写し出して居る、両者の間に大差は無い。晃董等松金銀担を奪ふ事は、水滸伝が余程変易して用ゐて屠る。宣和遺事では馬安国といふものが押送するのを、改めて楊志として、又拾奪の場処は五花営堤であるのを、改めて黄泥岡としてある、扱楊志が先づ梁山藻に居て、晃蓋等は宋押司の密報を得て往いて投じ、尋いで宋江も閣婆惜を殺した為めに、英移に入ることになる、宋江入移の時分には晶萱は已に死んで居る。その時梁山漢には、賊将が三十二人居る。然るに九天玄女の宋江に授けた天書には、天毘院三十六員の猛醤の名があつた。便ち是れ   智多星呉加亮   玉麟麟李進義   青面獣楊意   混江竜李海 九紋竜吏進 入雲竜公孫勝 浪裏白条張順 露露火秦助 活閣羅配小七 立地太歳配小五 短命二郎防進 大刀関必勝 豹子頭林沖 黒旋風李違 小旋風柴進 金鎗手徐寧 撲天鵬李応 赤髪鬼劉唐 一撞直董平 摘翅虎雷横 芙髭公朱全 神行太保戴宗 養関索王雌 病尉遅孫立 小李広花栄 没羽箭張青 没遮欄穆横 浪子燕青 花和尚魯智深 行者武松 鉄鞭呼延緯 急先鋒索超 掛命三郎石秀 火船工張峯 模着雲杜千 鉄天王晃蓋 で、呼保義宋江は之が帥たるべしといふ事である、そこで「宋江遺、今会中只少了三人、那三人是、花和尚魯智深、一丈青張横、鉄鞭呼延緯」と書いてある。未だ幾もあらず呼延緯は李横を率ゐて来り攻めて投降する、次に魯智深も単身来り投ずる、好し是れ三十六人の数是るといふのだ、爰に可笑しいのは、船火工張峯が忽ち一丈青張横となり、忽ち又李横となつて厨る事である。恐らくは宣和遺事の今本(学山海居主人の蚊ある重刊宋本宣和遺事前後集二巻)には誤が有るのであらう、水滸伝は宋江及升六員中から、晃蓋孫立杜千を除き解珍解宝を加へて、宋江ともに天曇二十六員をなし、更に孫立杜千に七十人を添へて、地殺七十二員をなし、こゝに百八人を得たのである。  宣和遺事では梁師宝の金銀担を送るのが宣和二年で、宋江の帰順が四年であるから、宋江の始末は三年間に落潜して屠る、水滸伝はそれに頭を接ぎ尾を続いだ、先づ筆を宋の初に起して、洪信が妖魔を走らする発端を、仁宋の嘉祐三年即ち宣和を距ること六十年許前とし、これより本文に入つて、徽宗の高懐を挙げて太尉とする来歴を述べてある。史に徴すれば、徽宗の即位は元符三年正月で、それから「没半年之間、直鐘挙高隊、傲到殿帥府太尉職事」といふ、即ち宣和を距ること二十年前に当る。実は高隊の太尉となるのは攻和七年だから、これは十八年繰上げてある、又水滸伝で宋江が遼を征し、田虎王慶方臓を討つて仕舞ふのは、宣和六年になつて居るやうだ。吏に徴すれば、臓は宣和二年十月に反して、三年四月に檎にせられる。宣和遺事でも麟の顛末は早く宣和二年の下に係けてある。其目録は   方騰反於睦州   差童貫収方臓   辛嗣宗楊惟恵生檎方磯 とあつて、後の宋江の条には、只「後遺宋江収方磯有功、封節度使」と註しであるばかりだ。水滸伝は都合上これを繰上げたのである。そこで水滸伝の本文は、元符三年より宣和六年迄とすれば、凡二十五年間の事を記して居る、即ち余程引き延ばしたものだ。  水滸の人物のうちで、宣和遺事中に稍ζ面目を現して居るものは、楊惹晃蓋宋江等三四人に過ぎぬ。水滸伝は幅を拡げて許多の性格を描き出したもので、就中魯知深武松石秀李違の諸人の如きは出色と謂はねばならぬ。武松の伝は後に一部の金瓶梅を生み出したものだが、其出処は分らぬ、併し秋雨禽随筆に、香祖筆記を引いて、「秀州陽穀県西北、有酉門家、大姓潜呉二氏自言是酉門妻呉氏妾潜氏族」とある、想ふに別に一種の伝説があつて、水滸は之を取つたものかも知れぬ、扱百八人が水滸に聚つた処で、金聖歎が一部の局を結んだのは、勿論不都合である。聖歎は梁山泊英燈排坐次の一段を改めて、梁山泊英燈驚悪聾として、「是夜盧俊義帰臥帳中、便得一夢」より以下の文を作為した。此文は実に拙劣だ。聖歎は稽康といふ夢中の人物に百八人を斬らせる。これは張叔夜の字が槽仲で、稽康の字が叔夜であるからの思付で、一の駄洒落たることを免れぬ。H思3。HくぎぎHの霊冨汁論に象徴身苧げo夢と寓瞭≧−墨冒{①との別を論じて、象徴を以て出すとは能く観相をなさしむる謂で、寓楡を以て出すとは唯ヒ概念に止まる謂だと云つてあるが、一部の水滸伝どこを取つて読んで見ても、観相の浮ばぬところは無いに、此夢丈は最後の「却有一個牌額、大書天下太平四個青字」といふまで、総て概念に拘し理窟に墜ちて居る。彼は鱗甲皆動く活竜で、此は染模様の竜紋だ。  水滸伝の百八人未だ聚らざる前と、その既に聚まる後とを較べると、前が優つて後が劣つて居るのは、争ふべからざる事だ。併しそれは材料の然らしむるところで、聖歎の木に竹を接いだやうな文と同日には語られぬ。作者は先づ招安の一事を成就せしめて、次第に遼田虎王慶方磯の四遭を討つことを叙するに、其間李師々を借りて緒を発き、又李師々を借りて局を収めて居る。李師々の事は宣和遺事宣和五年の条を取つたのだ。徽宗易服拙後載門遊金環巷から冊李師々為明妃まで、此記事は頻る繁であるが、初め宋江の事とは干繋せぬ、宋江が観燈のために京に入つて、李師々の家に詣るといふは、水滸の作者の構へ出したものだ、私は其当否は知らぬが、此に一説がある、それは宋江の観灯は、或は方臓の事を用ゐたのではないかといふ事だ、方磯が睦婆欽諸州を陥れて、声勢大に張る時、「乃入銭燈観燈、飲稿遠日」といふことがある。これは独醒雑誌の文だ。作者は徽宗の訪妓と方磯の看灯とを結び合して、汁京元夜のはでなる一段を成したのではあるまいか。独り此のみではない。水滸伝中にはまだ方贈の事を取つて、他人の上に使つた迹があるやうだ。即ち田虎の来歴である。田虎が沁洲の家中には漆園があつて、其地に造作局を置いてある。田虎は官府の困暦を慣つて起ると云ふことだ。是は金く方磯の事を使つたものらしい。宋吏には「方磯者睦州青渓人也、世居県場村、託左道以惑衆、(中略)県境梓桐鴛源諸胴、皆落山谷幽険処、民物繁移、有漆楮杉材之饒、冨商巨頁多往来」とあつて、それから花石綱の事に叙し及んであるが、独醒雑誌に至つては、「方磯家、有漆林之饒、時蘇杭置遺作局、歳下州県、徴漆千万斤、官吏科率無謹、麟又為里膏、県令不許共優募、騰数被困辱、因不勝芙憤、聚衆作乱」とあつて、字旬の徴に至るまで、水滸田虎の伝と相類して居る、之に反して水滸の臓は本と徽川山中の一樵夫である。  宋吏に於ける宋江の末路は、唯降とあるのみで分らぬ。江を赦して臓を討つといふのは、唯ビ侯蒙上書中の意見に過ぎぬ、招安といふことは鷺曝雑記に出て屠る。其文は「居易録載宋張恵文公叔夜招安梁山櫟梼文、有撃獲宋江者賞銭万々貫、翠獲盧進義者賞百万貫、撃獲関勝呼延緯柴進武松張清等者賞十万貫、撃獲董平李進者賞五万貫有差、今葉子戯有万々貫千万貫百万貫逓降、皆用張叔夜梼文也」と云ふのである。宣和遺事は菅に招安を言ふに止まらずして、亦始めて方臓を収めしめて功ありといふ旬を着けて、以てこれを事実にした。併しその磯の事を叙する段には童貫と王稟劉鎮と來み攻めて、「王稟及辛嗣宗楊惟恵、生檎方臓於帯浪山東北隅石澗中」とあつて、宦者列伝の「三年(宣和)二月貫横(誤頽)前鋒至青州堰、水陸並進、臓復焚官舎府庫民居乃宵遁、諸碍劉延慶王菓王換楊惟忠辛興宗相継至、尽復所失城、四月生檎臓及妻郡子毫二太子偽相方肥等五十二人於梓桐石穴中、殺賊七万」と香ふと大差は無い、即ち江の事は絶てこれを載せぬ。水滸伝で魯智深が単身磯を檎にするのは、却て來吏韓世恵列伝に「臓入青渓洞、世恵挺文、独入檎之出」といふ趣がある。四達の中猶遼と王慶との事があるが、王慶は槐南君の説之を尽して居て、遼は宣和四年の役を取つて勝敗を転倒したに過ぎぬ。  水滸が暗に宋初の吏を用ゐたといふ事は、槐南君敬宇氏の書牘を引いて挙げられた成、此説は敬宇氏より前から有るらしい、私とても確な出処は知らぬが、嘗て十四五歳の時、貸本星から照世盃といふ翻刻小説を借りて読んだことがある。某書に孔雀遺人といふ人の序があつたのを抄して置いた。  水滸は文面の外に真の水滸あり。宋一代を一部の中  へ収入す。晃董は太祖、宋江は太宗、呉用は趨普。  関勝は魏勝、張樸張順は張貴張順、一丈青は楊妙真  を謂ふ抔の類は、大に正史の助をなす、簿陽楼の反 書、還遺村の玄女などは、倶に宋呉二人が密謀秘計  から巧み出したる者にして、読者或は作者の為に穿  鼻せらる。其余も文面の外に深義奥旨あるもの甚多  し。さしもの金人瑞も桃花村の名義には気が付かず。  柴進は水滸中第一宮貴薪文の人なるに依て井底へ下  し、李逮は水滸中第一貧賎騒鹵の人なるに依て天上  へ上る抔も論出し及ばず。韓清の太祖は水滸を読で。  金遼を併呑すと黄参玄も云へり、是れ余が文面の外  に真の水滸ありと云ふ所以なり。  孔雀遺人とは何人か知らぬ、又文中挑花村云々から下は随分くだらぬ。併し趨普の事は敬宇氏の説の如く頗る妙である、趨普列伝には太祖と普と相会する処を叙して、止ピ「世宗(後周世宗)用呉准上、太祖抜漁州、宰相萢質秦普為軍判官、宜祖(趨股)臥疾源州、普朝夕奉薬餌、宣祖由是侍以宗分、太祖嘗与誘奇之」と看つてあるが、咳余叢考を見れば、「王明清揮壁録、及王錘黙記皆言、澱州之戦、太祖兵已敗、訪村民、畑有趨学究、教授郷塾、多奇計、乃叩之、即趨普也」といふ文がある、これを読むものは、早く既に妨佛として呉学究の面目を認めて、必ずしも燭影斧声を待たぬであらう。但し趨呉の相似たる形迹は、水滸が晃蓋の死期を遅くしたゝめに、愈ξ較著になつたことは勿論である、その外魏勝の大刀の如きも列伝に見えて、多少当つて居る。序に云ふが、水滸伝に張順襲漏海鰍肛といふ事がある。この海鰍などまで宋代の艦名を用ゐて居るから妙だ、宋吏兵志に、建炎の初に凌波楼船軍の出来た事を記して、戦艦の名を列挙した内に、海鰍といふ目がある、此類は尚多いだらう。  水滸伝は一の歴史的小説で、その出すところの人物は、或は既に有る名字若くは二三の性僻行状を取て、附会鋪張し、或は全く新に作り設けたものだ、さてその出来工合はといふと、決して完璧を成しては居ぬ。その全体は今の批評の定規を以て測るべき者ではない、唯ピ作者が実に製作力に乏からぬ人であつたと見えて、書中詩人の所産と認むべき妙処は往々にして有る。此書が体裁上猶彼の幾多の小説的歴史即所謂演義類の上に出づる所以は、或は此に在つて存ずるかと思はれる、其他水滸伝の性質上には、尚一の注意すべきものがある。それは此書の含む所の支那文明史的分子は、径に是れ支那杜会的分子だといふ一事だ、別言すれば宋代の支那と今の支那とには同一顕象があつて、それが此書中に影を印して居て、随つて水滸伝はどこまでも特殊なる支那産たることを失せぬといふのだ。支那には何故に疫薦凶萩氾濫が相継いで至るか。支郵の官府は何故にこれを防過するζとが出来ぬか。支那には何故に匪徙が横行するか、支那の官兵は何故にこれを蕩平することが出来ぬか。これは宋時既に有る問題で、今に至るまで未だ解釈せられぬ、私は水滸を読む、ことに、未だ曾てこれに想ひ到らざることはない。謹。水稜の評は、いづれ雲まが大抵いろ/\の書を御引なされて、考証十分に挙げてあるから、最早百川などのいふ事は少しも無い。唯ζ諸君の博学宏覧には魂消るばかりだ、しかしその中に少し漏れた事もあるから、それをすこし中ませう。まづ王漱洋の香祖筆記に銭氏の私誌を引ていふ、徐神翁察京に謂ていはく、天上方に許多の魔君を遺し下して人間に生ぜしめ世界を作壊すと。察いはく、安ぞ其人を識ることを侍んや、徐笑ていはく、太師もまた是なりと、按ずるに水滸伝奇の首に誤て妖魔を走らしむることを述ぶ、意ふに亦此に基く、されども識らず、薬京は是れ天塁たるか地殺たるかと見えたり、いかにもこの言を種子として妖魔を一百八人としたものかもしれません。  陸次雲湖矯雑記に、六和塔の下に旧魯畑深の像あり。今は殿たれたり。当日聴潮而円といふ偶は此処にありしなり、進滝浦の下に鉄嶺関といふ所あり、是れ宋江が兵を蔵せしところなり。石門といふもあり。此より進むもの毎に伏警の為に射らる。又国初江瀞の人地を堀りて石隅を得たり、武松の墓といへり、当日進て清渓を征するとき兵を此に用ふ。稗乗伝ふるところ、殆尽く誕ひざるなり、惟涌金門金華将軍人もつて即ち張順が神に帰せしと為せしは是に非ずとあり。これによれば魯知深武松もその人は慥かにあつた者と思はれます、しかし好事のものが水滸伝によつてこしらへたものかも知れませぬ。我邦でも随分小説からでた故蹟もあるやうですから。  居易録にいふ、稗宦小説も尽く襲空ならず。必ず本づく所あり。施耐庵の水滸伝ひとり三十六人が姓名襲架予が賛に見ゆるのみならず、首篇に高隊が出身を叙したることは、揮塵談後録にのする所と一々踏合す。鯨は東坡先生の小吏にして筆札に工みなり。披出て中山に帥たるとき、留めて曾子宣に与ふ、これを辞してもつて王晋卿に属す、晋卿一日昧を遺りて箆刀予を端王の邸に送る、たま/\王園中に在りて鞠を蹴る、俸これを脾睨す、王呼び来り前ましめ詞うていはく、汝。もまた此を解するかと、目くこれを能せり、対し蹴せしむ、大に喜び、隷を呼びていふ。往て都尉に伝語せよ、箆刀の睨を謝し、併せて送人も皆鞍留すと。月を験て王大宝に登り、眷渥日に厚く、不次に遷拝せられ、数年間に節を持して使桐に至る、父敦復も節度使となり、兄伸もまた八座に登れり。子姪皆郎となる。伝にいふ所の小蘇学士は即東坡にして、稍その文を変するのみ、都尉は即跣なり。練宮貴蘇氏を忘れず、予弟都に入る毎に間郎茜厚し。また取る可きあり。時に梁師成みづから東坡の子と誼り称す。二人皆襲倖権勢を壇まゝにして、叔党卒に小官に終る、屯つて賢を知るべし、叔党は東坡の子なり。或は謂らく。二蘇党禁方に厳なり、李公麟蘇氏の子弟至るに遇ふとき、扇をもつて面を障うてこれを過ぐと、披が族孫元老といふもの時相に啓を上りて乃ち念ふに党人と偶高祖を同うするに至るといふ、此輩昧師成に塊ることまた多からずやとあり、これで見ると水滸伝の高隊と云ふ男は随分気節もあつて愛すべき人なり、しかるを本文に反して大さうな悪人としてあります。高除は甚不幸なる人物であります、八犬伝などは善人を証ひて悪人とはせずといひながら、古河の足利成氏を愚痔としてひどくそしつてありまするが、全体歴史で見ると成氏は鎌倉の中興といつても善い位の大醤だのに、馬琴は歴史が不案内ゆゑに成氏はとんだ馬鹿ものになつて仕舞ました、高昧が悪人にせられたのも大方そんな類でありませう。  さて襲聖予の賛といふ事が前にありましたが、それは癸辛雑志続集にあります、(この書は元人か明人の著か、百川はくはしくしらず。)襲聖予宋江三十六賛を作る。その序にいはく、宋江の事蹟は街談巷説に見ゆ。採るに足らずといへども、士大夫の間に細けられず、余年少の時その人を壮なりとし、これが画賛を作らんとし、いまだ信書の事実を載するを見ず、ゆゑに敢て軽しく為さず。異時東都事賂のうちに載するをみるに、侍郎侯蒙伝に書一篇あり。賊を制するの計をのす。いふ宋江等三十六人をもつて河朔に横行す。京東官單数万も抗するもの無し。その材必ず人に過ぐるものあるべし、過を赦るし招降して方磯を討たしめ、此をもつて自ら償はしむるにしかず、或は東南の乱を半ぐべしと、余しかるの後知る、江が輩真に時に聞ゆるものありしを。是に於て三十六人に即きて一賛を作る。而して歳体あり。蓋その本擾す輯に一に正に婦せしめむとす、義勇あひ戻らず。是詩人忠厚の心なり。余嘗ておもへらく。江の為す所は自ら歯せずといへども、然れどもその識性超卓にして人に過ぐるものあり。号を立ること僧修ならず。名称徽然として猶軌轍に循ふ、これを記載に托すと雖も可なり。吉柳盗妬を称して盗賊の聖とす。その壱を守りて極処に至るをもつてなり。能類を出て華を抜く江の如きものそれ殆ぎ庶幾書か。然りと雖も彼妬と江との盗は名ありて辞せず、鶉つから盗跡を履て講むことなきもの。宣世の乱臣賊子の影を畏て自ら走るの所為の如くならんや。近く一身に在りてその禍いまだ曾て四海に流れずばあらず。嗚呼その逢聖公の徙とは妬と江とに執れぞやとありて、次に三十六員の賛あり。事長ければこれを略します。この三十六員はすべて宣和遺事のとぼりで、その緯号は水瀞の本書とちがひます。賛は四言四旬にて韻を用ひてあります。あまり上出来とは見えませんが、水済の人物の賛はこれが始と思ひますから、その序のみを訳してのせました。  さて百川が家に所蔵の李卓吾評の水滸伝の首には、楚人鳳里揚定見といふ人の序があります。次に凡例が十則あり。その第七則に日本は詩詞の煩蕪を去る、一は事緒の断を慮り、一は眼賂の迷ふことを慮るなり、頗直戴にして清明なれども、唯これを得てもつて人態を形容し文情を頃挫するもの、又いまだ尽く削る可らず、蛙に復増定を為すとあります。さすれば日本といふものに尽く但見を削り去つたものがあると見えます、さてその次に宣和遺事の花石綱の一段がのせてあります。又その次に水滸忠義一百八人籍貫出身として、豪傑の人々が出生の地ともとの官位身分をのこらずしるしてあります、さてその次が惣目録、それより本文といふ順叙であります、李卓吾本にもいろ/\あると見えまして、和版の十回本にはこのやうなものは一切載せてありませんか多、御参考の為にこゝにしるしおきます。  本伝の趣向等については、槐南先生の御論が尤も徴細でありますから、別段申しません。唯一寸考証のみを申て仕舞といたします。露伴、今日諸費の水滸伝の評を郵送せらるゝにあひ一読したるところ、其各般の関係皆諸賢の云ひ尽すところとなり了りたれば、今さら取り出でて予のいふべきところもなし。  たゞ柳かいひたきは、元に於ける水滸伝の勢力の甚だ大にして、衛星のやうなる著述を甚だ少からず有せしといふことなり。槐南君の挙げられたるのみにても僅々幾千種か伝はらぬ元の劇の中に既に幾種の水滸伝を根とせるものゝ存ずるを見て、我が邦に曾我の二孤の課の行はれし如く流行せしを知るに足りぬべし。酒虚子が挙げしところの元人の作にかゝる幾多の雑劇中猶水滸伝と関係あるもの二一ならず覚えしが、今こゝに其書なければ摘出して示しがたし。およそ元の時に行はれしもの一は此水滸侭一は包竜図が事蹟談ともいふべきほどにして、水滸伝に関するもの包子事蹟に関するもの元の文学をおほひたりと表はんは大袈裟なるべけれど、雑劇中にては両大関と云はんもよきほどなり、一はすべて官をあしざまに記し、一はすべてたま/\一個の好官人ある婁記せる、いとをかしといふべし。二者の記するところ要するに台閣の非を嗚らし草蒼の気を吐く、聊か考ふべきところあるに似たり。  争報恩といへるもまた水滸伝に無きところに新意を出したりといはんよりは、むしろ水滸伝をかりて脚色をなせる元劇なりとおぼえし。  椀商君あげ玉ひたる中の李達負荊の劇は聖歎の所謂古本に無くして百二十回本には見えたる一節に本づけるものなり、聖歎強言すとも人を欺く能はずといふべしo  水滸伝の作者の何人なるべきや、書の成りたる時の何時なるべきやを調査せんには、衛星的著述の明以餉に成りたるものゝ作者等に眼をつくる事最も功あるべし。されどまことは異無き詮議なるべし。  水滸詞は汲古閣六十種曲の第四十四なり、高陽生の作、詞白ともに悪きといふべきほぎにも覚えざりき。本書に無くして風静趣味あるは第三十一酌に閣婆息の幽魂張三郎松ところに現はれて、我既不捨欄、又活不得我、不如我与傭結一箇鴛鴛壕、完了両人的夙願罷とて、三郎を批く一段なり。某他いふに足らず、宋江妻孟氏なるものゝあるなど、をかし。  序なればとて鴎外着のいはれたる海鰍船は一種の船の名なるべきにや、一個の艦の名なるべきにや、蓋し一種の船の称にて、作者別に意を用ゐずして捻り出せるなるべく、爾雅翼かなんぞを引きて説けるものを見たることありし。  かつて歌舞伎座にて瓦官寺の場を観たる時、某鴛は瓦官などとは字面をかしきゆゑ出鱈目に使ひたるなるべしといはれたれど、すべて水滸伝には余りさる事無きやうにて瓦官寺も金く名ある寺なり。  さて水滸伝中おもしろく描かれたりと見ゆるは、予の眼を以てすれば林沖、武松、石秀を描きたる段なり、此三人を描きわけたるは、既に能く描きわけられたるを眼にする故に、左まで難かるべしとも我人ともに思はねど、実は易かるべきことゝもおばえざるに、面貌風果精神意気全く水際立ちて異るやう写しなせるは畏るべき才なりといひつべし。其他賞讃すべき個処はもとより少からざるべきも、厭ふべき節も少からず。たゞ大体に於て予をして評語を下さしめんには、支那が一国として存ずる限りは、水滸伝は一都の書として存ずべきの価値を奪はるゝ事無かるべしといふを以て足れりと信ずるなり。若しそれ文那亡びんか、水滸伝一億部を四百余州に分ち与ふべし、すなはち無類の好小説いたるところにあらはるべきなり、呵々、思軒。本書の作者、本書と正吏との関係、其他本書にかゝる掌故は、諸君の考据辮証爬羅扶則既に至り尽して、殆ど復遺すなしである、古人が昔賢の書を読で、2 かう書にくと言ひつくえては已の言ふ所がなくなると、嘆息したといふのは蓋し薪るをりの情であら ・つO 然し塊鶴二君の評中に引かれた本書の晃蓋と宋江と の関係は、趨宋の太祖と太宋との間にありし燭影斧声の醜を影写したものだといふ一派の説は首肯し難い、若し本書の作が超宋金盛の世に成た者だとすれば、其国に居て共国の悪を直書することの出来ぬのは当然の事であるから、或は蓋江の関係を借りて匡胤と匡又との間を刺つたといふことも出来やう。然し本書の作者が異代の人であつてみれば、然るまはりくどい事をして往代の醜事を刺る必要はない。若し其迹の相類するに由て必ず之を往代に繋けむと欲するのなれば、是等の説者は何敵に潜金蓮と武太郎との事は即ち唐の軍后と中宗との関係を影写した者だといはぬのである敷、何故に即ち魯の姜氏と桓公との関係を影写した者だといはぬのである敷、作者が世間多く有り易き所の事を把て之を其小説の上にうつし出し、読む者之を読で其心に甲事は世間実に有りし所の茉事に似たり、乙事は世間実に有りし所の菓事に同じなど感ぜむは読む者の随意だ、然し之れに由りて作者の初念乃ち此を以て彼に擬した者だ此を仮りて彼を諷した者だなどと断ずるのは婆に過ぎる。抑も亦諷に近い。  水滸伝はたしかに作者が生存した時の支那の杜会の一面の写真だ。而も支那の社会の状態は水滸伝の出来た時と今日と甚だ多くの相違がないとすれば、即ち亦今日の支那の杜会の一面の写真だ、本書が臓官汚吏踏に当りて政を私する時は、真正忠義の士は寛を蒙り堀を含で落草して盗賊となる趣をかいて、以て上に在る者を罵つたのだといふのは古今評家の一致する所だ、作者がかくして以て上に在る者を罵つたのか否かは僕の知らない所だ、が其臓官汚吏路に当りて政を私し、真正忠義の士は反りて多く社会の下層にしづむといふのはたしかに真である。抑も支那の社会は不思議の杜会で、人と人とを緒びつける交際の膠は第一が愛想でもない、意気でもない、信義でもない、たゞ贈物だ、即ち賄賂だ、随園随筆に「左伝小人行賄、皆用幣用壁、不用金也、行賄至戦国而用金、董資利至戦国而愈巧秦」といひ、国策史記等に見ゆる諸例を引て、戦国の時の人が金を食れることを書きたてたのは訳のわからぬ説で、戦国以前には使ひたくも金といふ者がまだ多く世になかつたのだ。若し賄賂といふ上から論ずれば、金にせよ幣壁にせよ同じく是れ賄賂だ。管此ばかりではない。戦国よりはまだ一千余年のむかし、股の湯王が桑林の野で雨乞をしたとき、六事を以て自ら貴めたといふことがある。其六事の一は萄直行欺といふのだ。即ち賄賂が行はれて居る欺といふのだ。日本や西洋諸国やの君主が自ら徳を貴めるときに、賄賂云々を其箇条の中にいれることは、昔からあまり多く其例を聞かぬ。若し舞文巧諷者流に之を解せしめたなら、支那では股の世から既に賄賂といふものが、人の尤も迷ひ易い誘惑になつて居つたのだ、故に湯王が袴に之を某六事の中にいれたのだと書ふかも知れない、亦いふことも出来る。然し大むかしの事は姑く置くとして、中古以来支那では贈物のことを人情或は人事といふ。本書の中にもこの詞は数ば見えて居る、而もこの詞が既に明かに支那の賄賂公行の国であることを表はして居る、何となれば此詞を観れば、即ち支那の祉会では贈物を以て、当然の人憎当然の人事だと認めて屠ることが見えるからであるq恰も我徳川氏の世に於て官揚では賄賂のことを役得と称して、当然其職に伴うた所得の如くいうて居たのを観れば、当時官場に於て賄賂が如何に公行して居たかゞ推し量らるゝと同じことだ、十数年前日本人菜が支那に遊で、初めて爺曲園を訪ひしと き、刺を通ずるのには先づ共門子に幾百文かの贈物をせねばならぬと聞てあきれたといふ話があるが、是は支那普通の俗で支那の名人官人の門子は皆鷺阪伴内である。支那には節敬、蟄敬、修敬、炭敬、別敬、騒敬、謝敬、善敬、祝敬、氷敬、使敬、購敬などいふ多くの敬がある、是が皆其時其場あひに随て贈物をすることだ、即ち節敬とは佳節に贈物をすることで、使敬とは贈物を持て来た使の者に金を為くることをいふ類だ、平生の交際さへ斯の風であるから、共官揚政治界の事が、細大となく、一切賄賂でなくては運ばないのは当然だ、随て即ち忠義の士が多く柾屈沈倫するやうになるのも亦怪むに足らない、之がためには王進の如くたゞ柾屈沈滞して終る者も多からう。又梁山泊の諸豪傑准西の王慶などの如く、自棄自暴して社会の害をなす者も多からう。水滸伝に記する所の如き迹は、縦ひ多く有らざるにもせよ、水滸伝に記する所の如き憎は、必ず支那の社会に多く有るに梱遠ない。  本書の林沖宋江等が配所に至りて、某役人の管営或は差擾などに金を餉ると、其金の多少によりて某役人の挨拶が忽ち手のうらを覆すやうに変じる。駿にこれを看るとあまりに現録すぎるやうに思はれるが、徐に考れば必ずしも書大の言でなからうと思はれる。我徳川氏の世でも大名若くは旗本が御側御用取次のものに願ひ事があつて、其登城前に謁を講ふをりは、必ず目貫料というて若干の金を餉る、某所餉の金が二十五両以上の額であると、対面の時;冒「過分」といふ挨拶がある。若し以下なれば其挨拶がない、是が定例であつたと聞く。今日からおもへば気悦かしくて、さう現銀に挨拶の差をたてることは出来にくからう様におもはれるが賄賂公行の世の中では人皆恬として怪まなかつたものと見える。又本書の臓官汚吏が無華の人を罪に陥るゝさまは至残至忍で、普通の人の憎を具へた者には胎来にくい事のやうであるが、我徳川氏の世江F の町方与力同心のうちに定廻臨時廻といふがあつて、一年の中に集首はりつけ火あぶりの三刑のうちに当るほどの大罪人一人を捕へると、歳暮に至りて其職に出精したといふ廉で、与力なれば白銀五枚、同心なれば三枚の賞を賜はる。渠等の中には斯の賞を資らむため、ぼつと出の岡舎ものを捕へて、窃に共袖の中に燧石火鎌などをいれ、居を燭として放火犯に陥れて以て已の功にするといふやうの非遺をなす者もあつたといふ。此外本書に見ゆる賊官汚吏の事は之を今日の支那の状態に照し、又我徳川氏の世に攷れは、其情其景皆妨佛として眼前にうかぶを覚えるが、然しかういふ処へ我徳川氏の世をしきりに擾証するも甚だ好む所でないから、余は之を読む者の瞑目一想に任せやう。  支那に所謂盗賊、即ち多くの手下を集め、薬鐙を構へて劫を行ふ、大げさなる盗賊の多いのは一の不思議である、漢の黄巾、五斗、本書に見ゆる方臓、元の紅巾、明の唐嚢児、清の長髪賊等は皆共尤も若く旦大なる者だが、此外史冊に載せらるゝ程のものでなくて、山隈水曲に繍薬して一時一地方の害をなす者は殆ど世としてこれ無きはなしといふ状態のやうに見える。一にたゞ之を賊官汚吏が審追の所為にばかり帰しても置かれないやうに見える、嘗て茶原因を数へてみたが、其一は昔は姑く置き、中古以来科挙といふことが出来て、競争試験で士を取ることになり、其試験には種々の弊があつて、其及落が多く賄賂によりて決するは勿論、試−験の問題を潟洩する試験官あれば、替人を借て答案を作らしむる受験者もある。これが為に力量はありながら是等の弊に勝つ能はずして下第する者も多い。又是等の弊に勝つ勝たぬは取りのけて、運あしくして下第する者も多い。又真に力量不足して下第する者も多い。娶するに是等の下第者は皆世の中に不平である。2 敵に其中の築賭なる者は、或は変を喜み乱を希ふやうにもなる。其二は河底多く深からず、堤防多く固からずして、水災が蕎りにある、之に加るに交通運輸の機関備はらず、賑位の政がゆき届かぬから、飢謹が屡ξある。而も其域の広くして其禍の烈しいことは、想像の外である、千里の野幾万の民が皆食すべきもの無くて、或は土をくらひ、或は僵戸の肉をくらふといふのは真である。支那でいふ子を売るといふことは、いつも斯の飢謹の時に起る事だ。其子さへも売て食に易へやうといふ揚あひであるか多、若し由りて以て食を得べきことであれば、何をか為すに忍びざらむやである。即ち乱を侶へる者には、恰好の機会を仮すことになる。某三は支那人は迷信が多い。随て即ち少しく常に異つたことがあると、直ちに其人を奇として之を尊仰し、之に帰依する、殻國文録の中で見たかと覚えるが、今靭の初め某地方に一童子があつて、家鴨を畜つてゐた、家鴨は皆能く童子の意をさとりて、寛子が一たび之を摩くと、多くの家鴨皆行を成し、列をとゝのへて堂予の指擦するまゝに進退するといふので、郷党の評判になつて、衆のために尊仰せられ、後には稚して一撲の首領とせられで、一時共地方を擾がしたといふ話餌ある。されば黄巾五斗をはじめ、唐養児、長髪賊皆多少の魔法をつかはないのは無い、且文那は背から二十余靭を吏て、其天子枢一姓でない。市井から起て天子になつた者も数多くある。故に支邦人の心の底には今こそ某姓の天子を戴け、いつ或は他の異姓の天子を戴くやうなるかも料られぬといふ考がある、渠等の多くは判然と明白には斯ういふ考のあることを自覚してをらぬかも知らぬが、然し其心の底にはたしかに斯ういふ考が伏してをる敵に、一旦或盗賊の模様に異常の事があるのを見たり、或は共気勢の笹だ盛旺するのを見ると、乃ちこの考が俄に頭を擾げて、安ぞ是れ異日の新天子たらざるを知らむやといふ疑を生じさせて、盗賊と相善くしておかうといふやうの心にもならしむる。盗賊渠自身亀亦同じ考から始まりて、終にはあはよくば已創朝の主になりもし得んかといふ大胆なる望を起ずにも至る、是れ盗賊が起るにも、亦盗賊をして起らしむるにも甚だ都合のよい状艦だと謂はなければならぬ。其四は上に在る者の侵漁があまりに甚しい所から、百姓が困病に堪へない。其中には被れかぶれといふ料簡から遂に盗賊となるといふのも少くないd陸稼書の餌盗策に一「野盗之術無他、治於既織之日、不若治於未熾之先、絶於。既萌之日、不若絶於未萌之先、丘ハ不能禦盗不是憂、官不能詩盗不足憂、勤撫不得英方不是憂、保甲不行緯捕不厳積窩不徴不足憂、観敏日増大可憂」というたのは、即ち新の一面の弊を遺着した者だ。其五は支那では官呉が急に盗賊を討平せずして、日を瞭くし久きに弥るうち、盗賊をして益ξ其威焙を増して強大ならしむるといふ弊が多いことだ。前にひいた稼書の語中憂るに足らない者を列挙した今ちに、呉不能禦盗、官不能詩盗といつたのは随分不思議の言ではない歎。目く不能詩盗的官、不能禦盗的兵どうしても上の四字と官字呉字とが相連らない。然し是は決して稼書が共文の抑揚のために故らにこしらへた言ではない。実にさういふ官兵があるのだ。それは荏上者に恩威が無いので、官呉にも亦闕志がなく、盗賊を進撃しないといふのも有る。又真に怯儒にして進撃し得ないのも有る。然し又某中にはわざと遼巡し猟予して進撃しないのも有るのだ、支那の官兵は出陣といふことを以て、民家を妙掠し、婦女を略奪する特許のおりたことゝ同様に考へて居る、故に官兵の出陣があると、其地方のものは従来の盗賊よりも斯の新来の官兵にいたく苦むといふのが通例である。又共滞陣中は官糧をくらつてすむが、凱旋除隊の後は自ら力作してくらはねばならぬといふ者もある。故に時によりては渠等は皆其滞陣の一日も長からむことを願ふといふ情があるのだ。耕る場あひには渠等は某勇気あると否とに拘はらず、遼巡猫予して容易に盗賊を進撃しやうとしない、長髪賊の時の事と聞たが、某地で官兵が敵を囲だをり、敵の食が次第に乏くなつた、すると官兵は城の急に陥ることを好まぬ所から、夜なく潜に糠米を城中にいれてやつたといふ話がある。此の如き極端の事は希有で、勿論常にある事ではなからうが、然し支那の官兵に往ξ其滞陣の一日も長からむことを祈る借あるのはうそでない。  本書に於て所謂不能誌盗的官、不能禦盗的兵の多いこと、梁山泊の兵が毎常秋篭も犯さないので、沿道の百姓が大に喜で之を送迎すること、李達が屡々宋江に向て晋々が大宋皇帝になればよいではないかと説くこと、魔法つかひの多いこと、梁山泊開基の主が下第秀才の王俺であること、河北の田虎が沁州の百姓が官府の講求に堪へ得ないで、相あつまりて盗賊をなすをりに乗じて乱を作すこと、江甫の方臓が渓辺にて水にうつりたる已の姿を見しに、異様の形にみえたといふ不思議をいひふらして衆を収めること等は、皆支那の社会の一面の状態を描し得て、読む者に実に然もあらむと点頭せしむる所である。  支那では昔から男女の別といふことがやかましい。其極女子は一種の囚人の如き境に置かるゝことになつた、極めて下等の細民は勿論別であるが、中以上の身分の家の女予で平自他人に面をあはす機会をもつて居る者は幾ど希だ、此の如く常に戸内にばかりとぢ籠てをるから、其楽を取る所が甚だ少い。故に自然閨房の楽を以て其唯一の楽とするやうの傾を生ずる敵に、支那には淫婦が多い、此箇条については僕はあまり多く某証を挙げることを好まぬ。たゞ共一を挙げやう。目本なぞの俗では兄弟娘等が相集りて、亙に其林第の間の事を語るといふ如きみだらの話は絶て無いことであるが、支那ではそれが甚だ多い。笑林笑府などにはそれを種子として作つた話が沢山ある。笑林笑府などの請は落し話であるからというて蔑視する訳にはゆかぬ。若し社会に然る事が全くないのなれば、然る落し話の出来る筈がない。菅落し話ばかりではない。椀西雑誌はまじめの随筆である。而も其中に同様の事実談が二ものつて居る。以て支琳の女子の平生の風を窺ひ見るべしだ。本書に潜金運はじめ俄漢するものが数人ある、而も其俄漢するに至る第一の原因は皆其閨房の慾に不満足なるより起つて底る。偶然でない面白い。又潜巧雲の好夫が斐如海といふ菩提院の住持であるのは殊に妙だ、支那の女子は平日外間の男予に面をあはすことが極めて少い、偶之あるのは法事の時或は寺参の時僧侶に逢ふをりだ。故に支那の女子には僧侶との通姦の話が多い、我徳川氏の世の御殿女中は平生男子に面をあはす機会の甚だ少い点に於て支那の女子と相似て居づた、又偶その機会あるのは多く僧侶とだといふ点に於て相似て屠つた敬に、ざう水すると僧侶との汚行があり場かうたのだ。延命院の話は近くしてたれもよく知て居ることであるが、昔護祷院を毅たとき其庭の池の中から女子の骸骨が多く出た。之を見て故老がこの寺簸畠のころ、犬奥の女中の寺中の僧侶と桐喝みて懐胎して御殿に婦れないといつて行方の知れなくなつた者が多くあつた、是は共遺骨であらうと語つたといふことだ。其書名は今億起し得ないが、此話はたしかな旧記で見たのである、近口曝書のをりにでもさがしたら分らう。  此外本書に見ゆる事がらで中世以来の支那の社会の状態に考へあはせて、実に然もあらむとおもはるゝ事どもは枚挙するに違あらずだ。之を一一するのも煩瑣の嬢があるから、此外は姑く置かう。又本書が我邦の読書社会にもてはやされ出した初、金聖歎が七十五回にきつたこと、曲亭馬琴の胡言乱説等については多少の考多少の説もあるが、一は是れ本書の価を論ずる上からいへば枝葉の事なり、二来はあまり下手の長談義になるから、これ等は他日復機会のあるをりに譲らう。竹二、この含評の頃竹廼舎碧は事多くて評語を附せられなかつたので、其後一日向島のお宅を尋ねまして、何か水滸伝についてお話が伺ひたいと中しましたところ、同君は別に面白い話もないが、斯う云ふ本があるといつて出して示されましたのは左の写本でござります。  忠義水滸伝抄訳   自一回至十六回  杜維鰍獺雛麟敵襯   白十七回至百二十回 猷鱗鶴山蝋蝸禰轍贈  敗に左の文があります。   右水滸伝妙訳金篇百二十回者、依奉大君爺教命而   所謹著也、児。   寛政昭陽赤奮若歳雑記月念鋒言日終業           高取藩鳥山左太夫昌盤手九拝  即ち抄訳の全本でござります、玄同放言下集に、「陶氏が水滸伝解(小冊一巻、従第一回至第十六回)鳥山氏が水滸伝解(小冊一巻、一名水滸伝抄訳、従第十七回至第三十六回)も今は獲易からず」とあるより推しますると、此書三十七回以下は初より印本がなく、又三十六回迄も馬琴の時代に最早坊間見ること少なるものであつたと見えます。されば此竹廼舎蔵本は余程珍しいものであるに、殊更発端より大尾まで同じ手跡で槽法正しく謄写しであるのは結構でござります。