食堂　鴎外 　木村は役所の食堂に出た。 　雨漏りの痕が怪しげな形を茶褐色に画いてゐる紙張の天井、湿淡の ある鼠色に汚れた白壁、廓下から鵡かれる処だけ紙を張つた壁刊搬、 性の知れない不潔物が木理に染み込んで、乾いた時は灰色、濡れた時 は薄墨色に見える床板。かう云ふ体裁の広間である。中にも硝子窓は 塵がいやが上に積もつてゐて、硝予といふものの透き徹る性質を金く 失ってゐるのだから、紙を張る必要はない。それに紙が張つてあるの は、おほかた硝子を張つた当座、まだ透き徹つて見えた頃に発明の才 のある役人がさせた事だらう。 　二の広間に白木の長い卓と長い腰掛とが、小道具として据ゑ附けて ある。これは不断片附けてある時は、腰掛が卓の上に、脚を空様にし て政せられてゐるのだが、丁度弁当を使ふ時刻なので、取り卸されて ゐる。それが食事の跡でざつと拭く丈なので、床と同じ薄墨色になつ てゐる。 　一体役所といふものは、随分議会で経費をやかましく言はれるが・ 律外質素に出来てゐて、貧乏参しいものである。 　号殉に続いて、がらんがらんと銅の鐸を撮るを合図に、役人が待ち 兼ねた様に、一度に出て来て並ぶ。中にはまかなひの飯を食ふのもあ るが、半数以上は内から弁当を持つて来る。洋服の人も、袴を穿いた 人も、片手に弁当箱を提げて出て来る。あらゆる犬さ、あらゆる形の 弁当が、あらゆる色の風炉鏑に包んで持ち出きれる。 　づらつと並んだ処を見渡すと、どれもどれも好く選んで揃へたと思 ふ程、色の蒼い痩せ二けた顔ばかりである。まだ二十を越したばかり のもある。もう五十近いのもある。併し此食堂に這入つて来るヨンマ 以下のお役人には、一人も脂気のある顔はない。たまに太つた人があ るかと思へば、病身らしい青ぷくれである。 　木村は此仲間では殆ど最古参なので、まかなひ所の口に一番遠い卓 のＬ層樺炸近い端に据わつてゐる。角力で言へば、貧乏神の席である。 　く牢甲くげの先生は、同じ痩せても、目のぎよろつとした、色の浅 黒い、気の利いた風の男で、名を犬塚といふ。葉局長の目金で任用せ られたとか云ふので、木村より跡から出て、暫くの間に一給俸まで漕 ぎ附けたのである。 　なんでも犬塚に知られた事は、直ぐに上の方まで問える。誰でも上 官に呼ばれて小言を聞いて見ると、その小言が犬塚の不断言ってゐる 事に好く似てゐる。上官の口から犬塚の小言を聞くやうな心持がする。 　犬塚はまかなひの飯を食ふ。同じ十二銭の弁当であるが、此男の菜 だけば別に煮である。悪い博突打ちがいか物の餐を使ふやうに・まか なひが此男の弁当箱には秘密の印を附けてゐるなぞと云ふものがある。 　木村は弁当を風炉鋪から出して、その風炉鏑を一応丁寧に畳んで、 左のずばんの隠しにしまつた。そして弁当の蓋を開けて箸を取るとき、 犬塚が云った。 「とうとう恐ろしい連中の享が発表になつちまつたね。」 　木村に言ったわけでもないらしいが、犬塚の顔斜差し当り木村の方 に向いてゐるので、木村は箸を畷めて、「無政府主簑者ですか」と云 つた。 　木村の左に据わつてゐる、山田生いふおとなしい男が詞を挾んだ。 此男はいつも毒にも薬にもならない享を言ふが、思の外正直で情を偽 らないらしいので、木村がいつか誰やらに、山田と話をするのは、胡 坐を掻いて茶漬を食ってゐるやうで好いと云ったことがある。その山 田がかう云った。 「どうも驚いちまつた。日本にこんな事件那出来しようとは思はなか つた。一体どうしたといふのだらう。」 　犬塚が教へて遣るといふ口吻で答へた。「どうしたもかうしたもな いさ。あの連中の目には神もなけりやあ国家もない。それだから刺審 になつても、人を殺しても、なんの為めに殺すなんといふ理芯はいら ないのだ。殺す目当になつてゐる人間がなんの邪竈になつてゐるとい ふわけでもない。それを除いてどうするといふわけでもない。こなひ だ局畏さんに聞いたが、十五年ばかり前の事ださうだ。巴里で国§昌① 曽竃員とかいふ奴が探慎の諸所に爆裂弾を投げ込んで、五六人殺し た。それから今一つの玉を如排店に投げ込んで、二人殺して、あと二 十人ばかりに怪裁をさせた。そいつが死刑になる前に、爆裂璋をなん 昨投げ附けても好いといふ弁明をしたのだ。社会は無政府主義者を一 幻めに迫害してゐるから、こつちも社会を一幻めに敵にする。無享の 犠牲とはなんだ、社会に生きてゐるものに、講一人労働者のπ血を絞 つて、旨い物を食ったり、温い布団の上に寝たりしてゐないものはな い。どこへ投げたつて好いと云ふのだ。それが君主を目差すとか、大 統領を目差すとかいふことになるのは、主義を広告する効果が大きい からだと云ふのだ。」 「焼けな話だね」と、山田が云った。 　犬塚は笑って、「どうせ色々な原因から焼けになつた違中が避州る のだから、無政府主義は焼けの偉大なるものと云っても好からう」と 雪つた。 　役所には所々の壁に、「静かに歩むべし」と書いて貼つてある位で 劾るから、食堂の会話も大声でするものはない。だから方々に二一二人 宛の会話の群が出来て、遠い庸からそれに口を出すことはめつたに無 い。 「一体いつからそんな無法な事が姶まつたのだらう」と、山田が犬塚 の顔を見て云った。 「そんな事は学者の木村君にでも聞かなくちやあ駄目だ」と云って、 「さうですね。僕だつて別に調へて見たこともありませんよ。無政府 主簑も虚無主義も名附親は分かつてゐますがね。」いつでも木村は何 か考へながら、外の人より小きい声で、ゆつくり物を言ふ。それに犬 塚に対する時丈は誰よりも詞遣ひが丁寧である。それを又犬塚は木村 が自分を敬して遠ざけるやうに感じて、木村といふ男を余り好くは思 つてゐない。 「虚無主義とは別なのかね」と、山田が云った。 　木村はかう話が面倒になつて来ては困るとでも思ふらしく、例の小 さい声でしぷしぷ云った。 「別に虚無主義なんといふ纏まつたものがあつたのではないから、無 政府主義のやうな極まつた思想が成り立つてからば、人があんな誠び 使はなくなつたのだらう。」 「名附親は誰だね」と、犬塚が云った。 アナルヅスト なｏ 「自分で凶§８旨峯Φと名告つて、君主だの主権者だのといふものを ブ　ル　ウ　ｒ　ソ 認めない、人間の意志で縛つては貰はないと書いたのは虫ｄ邑｝ｓ で、六十年程前（畠も）の事でした。峯巨冒富の方は、犬塚君はい ろんな文学雑誌なんぞを好く見てをられるから御承知でせうが、 弓弓電旦①ミの父等と子等といふ小説に書いてある造誘ですね。あれ の出たのは五十年程前（Ｈｏ．ｓ）でした。」 「それでは無政府主義の方が先きぢやないか」と、山田が云った。 。「それはさうだ。併しツルゲニエフがあの小説を書いた時には、まだ 寄巨巳昌が無政府主義をロシアヘ持つて帰つてはゐなかつたのだ。 それに虚無といふことも、あの小説に書いてあるのと、後に広く使は れるやうになつてからの虚無とは、丸で違ってゐる。丁度竃◎びとい サ　ツ　カ　し　イ ふ詞だつて、最初に弓臣ｏぎ旨｝が書いた時の意味と、今の意味とば 丸で違ってゐるやうなものだ。バクニンがロシアヘ帰つてからの青年 の思想はツルゲニエフが、父等と子等ではない、あの新しい国といふ 方の小説に書いてゐる。」 「なに文学の方の歴史に、少しばかり気を附けてゐるだけです。世間 の事は文学の上に、影がうつるやうにうつつてゐますから、間接に分 かるのです。」木村の詞は謙遜のやうにも問え、弁解のやうにも問えた。 「さうすると文学の本に発売禁止を食はせるのは影を捉へるやうなも ので、駄目なのだらうかね。」 　木村が犬塚の顔を見る目はちよいと光つた。木村は今云ったやうな 犬塚の詞を聞く度に、鳥さしがそつと覗ひ寄って、黎竿の尖をつと差 し附けるやうな心持がする。そしてかう云った。 「併し影を見て動くものもあるのですから、影を消すの淋金く無功で はないでせう。只僕は言諭の自由を大事な事だと思ってゐますから、 発売禁止の余り手広く行はれるのを欺かばしく思ふ丈です。勿論政略 上巳むことを得ない場合のあることは、侵だつて認めてゐます。」 「ロシアのやうな国では盛んに遣ってゐるといふぢやないか」と、山 田が云った。 「そりやあｏ婁ポ■にする」と、犬塚成厭らしい笑ひ顔をした。これ も局長に聞いた詞であらう。 　山田は目を際つてゐる。 　木村は山田の顔を見て、気の毒がるやうな様子をした。そしてかう 云った。 「あれは外国から這入る印刷物を検閲して、活版に使ふ墨で塗り消す ことさ。黒くするからカヰアにするといふのだらう。ところが今年は はさみ 兜刀で切つたり、没収したりし出した。カヰアは片側で済むが、切り 抜かれちや両面無くなる。没収せられ机ぱ丸で無くなる。」 　山田は無邪気に笑った。 　暫く一同黙つて弁当を食ってゐたが、山囲は何か気に掛かるといふ 様子で、又言ひ出した。 「あんな連中がこれから殖えるだらうか。」 「殖えられて溜まるものか」と、犬塚は叱るやうに云って、特別に厚 く切つてあるらしい沢庵を、白い、鋭い前歯で咬み切つた。 「木村君、どうだらう」と、山田は不安らしい顔を右隣の方へ向けた。 「先づお国柄だから、当局が巧に柁を取つて行けば、殖えずに済むだ らう。併し遣りやうでは、激成するといふやうな傾きを生じ兼ねない。 その侯補者はどんな人間かと云ふと、あらゆる不遇な人間だね。先年 。壮士になつたやうな人間だね。」 　茶を欽んで席を起つものがちらほらある。 　木村は隠しから風炉鏑を出して、弁当の空箱を畳んで包んでゐる。 　犬塚は楊枝を使ひながら木村に、「まあ、少しゆつくりし給へ」と 云った。 　起ち掛かつてゐた木村は、又腰を据ゑて、茶碗に茶を一杯注いだ。 　二人と一しよに屠残つた山田は、頻りに知識欲に責められるといふ 様子で、こんな間を出した。 「実は無政府主義といふものは、どんな歴史を持つてゐるものかと思 つて、こなひだも或る雑誌に諸大家の話の出てゐるのを読んで見たが、 一向分からない。名附親は別として、一体どんな人が立てた主義かね え。」 ’ 　犬塚は、「なんにしろ五六十年二のかたの事だから、むづかしい歴 史はないさ」と云って、木村の顔を見て、「君は大概知つてゐるだら う」と言ひ足した。 　木村は少しうるさいと思ったらしく顔を愛めたが、直ぐ思ひ直した 様子でかう云った。「さう。僕だつて別に研究したのではありません が、近代思想の支流ですから、あらまし知つてゐます。五十年余り前 マツクススチルネル （旨３）に死んだ呂良撃μＢ８が極端な個人主義を立てたのが端緒 になつてゐると、一般に認められてゐるやうです。次は四十年余り前 ヲ　ル　ウ　ド　ソ ク　□　’　ト　“　ソ （Ｈｏ．ａ）に死んだ冑◎β｛｝８で、内８冒芹巨が無政府主義の父と云 つたのが当つてゐるかどうかば別として、さつきも言ったやうに、名 附親だといふこと丈は確かです。次は始て無政府主義を実行しようと …　カ ’ ル　ペ ク 一−　ソ した旨ざ冒９冒庁６旨で、三十年余り前（旨ま）に死んでゐます。 それからこつちで名を知られてゐるのは、ロンドンに逃げて行ってゐ ぺ’テル　７　リ’、１牛ヲ｝ て、もう七十近くなつてゐる（旨§生れ）嵜富■トー異①］①ヨμ蓼げ 郷　内嘗官津巨で、其外には亜米利加に弓ｇ庁ｇのやうな人物がある丈 でせ・ろ」 「なかなか精しいね」と、犬塚が又冷かした。 熱心に聞いてゐた山田が又口を出した。「一体その二三人の大頭は どんな人間かねえ。」 木村は有の鵬を卓に餅いて・頭を支へて・徹退屈らしい様子をして 諸してゐる。 「スチルネルは哲学史上に大影響を与へてゐる人で、無政府主義者と 云はれてゐる人達と一しよにせられては可哀相だ。あれは本名を−９ ＾　ソ カ　スメ　ル　シ呂’７ト ペル，ソ 　旨日目内簑罵■穀旨８童叶と云って、伯林で高等学校の教節をしてゐた。 　有名な、唯一者と其所有を出す時に、随分極端な議論だから、本名を しクラム 署せずに出したのだ。併し今では肉８Ｈ彗版になつてゐて、誰でも ヲル　ウ　ｒ　ソ ペ　サ　ソ　ン　ソ 説む。冑§｛げ８は旨窒■ち目の貧乏人の子で、小さい時に活字拾 ひまでしたことがあるさうだ。それでもとうとう巴里で議貝に挙げら れるまで漕ぎ付けた。大した学者ではない。スチルネルと同じやうに、 　目謁２を本尊にしてはゐるが、ヘエゲルの本を本当に読んだのでは 　ないと、後に自分で白状してゐる。スチルネルが鋭い論理で、独創の 　竃諭をしたのとは違って、大抵前人の言った説を誇張したに過ぎない。 　有名な、占有は盗みだといふ語なんぞも、プルウドンが生れるよりニ ノロヅオ 　十年も前に、旨げ弩“が云ってゐる。プルウドンといふ人は先づ弁論 モ　ス　３　オ ベテルノルグ 　家といふべきだらう。それからバクニンは、莫斯科と彼得優との中間 ブ　，ヤ　ム　■　ノ 　にある量胆Ｂε旨巨９で、貴族の家に生れた人で、砲兵の士官になつ 　たが、生れ附き乱を好むといふ質なので、間もなく軍籍を脱して、欧 　羅巴中を遍歴して、到る処に騒動を起させたものだ。本国でシペリア ヘ流された外に、諸方で獄に繋がれたことがある。無政府党事件とし 　ては一番大きい冒８の時計職人の畷動も、此人が煽動したのだ。瑞 　スペルソ 　西にゐるうちに、思３で心臓病になつて死んだ。それからクロポト で合人を勤めてゐた。それからカザアキ騎兵の士官になつてシベリア へ迫られて、五年間在勤してゐて、満洲まで廻つて見た。其頃種々な 人に接触した結果、無政府主義になつたのださうだ。それから彼得籔 の大学に這入つて、地学を研究した。自分でも学術上に価値のある事 秦は、三十哉の時に刊行した亜紬亜地図だと云ってゐる。−ε螂へ行 つたのも、英国で地学上の用務を嘱托せられて行ったのだ。亜米利加 のタツカアなんぞはプルウドンの翻訳をしてゐる位のもので、大した 人物ではない。」 　木村が暫く黙つてゐると、犬塚が云った。「クロポトキンは別品の 娘を持つてゐるといふぢやないか。」 「さうです。大相世間で同情してゐる女のやうですね」と、木村は答 へて、又黙つてしまつた。 　山田が何か思ひ出したといふ様子で云った。「こん度の違中は死刑 になりたがつてゐるから、死刑にしない方が好いといふものがあるさ うだが、どういふものだらう。」 　數島の烟を吹いてゐた犬塚が、「さうさ、死にたがつてゐるさうだ から、監獄で旨い物を食はせて、畏生をさせて遣るが好からう」と蕃 つて笑った。そして木村の方へ向いて、「これまで死刑になつた奴は、 献身者だといふので、ひどく崇められてゐるといふぢやないか」と云 つた。 ，７３オル　ワイヤソ　アソ，イ　カゼ，オ 　木村は「内婁８巨一ーくｐ昌旨叶−申９員１ｂ蕩竃げ」と数を読むやう に云って、「随分撞んに主義の宣伝に使はれてゐるやうですね」と言 ひ足した。 「どれ」と云って、犬塚が紙巻の燃えきしを灰吹の中に投げたのを合 図に、三人は席を起つた。 　外を片付けてしまつて待つてゐた、まかなひの男が、三人の前にあ つた茶碗や灰吹を除けて、水をだぷだぷ含ませた雑巾で、卓の上を撫 で始めた。