身上話 森 鴎外 「御勉強。」  障子の外から、小声で云ふのである。 「誰だ。音をさせないで梯を登つて、廊下を歩いて来るなんて怪しい奴だな。」 「わたくし。」  障子が二三寸開いて、貧血な顔の切目の長い目が覗く。微笑んでゐる口の薄 赤い唇の奥から、真つ白い細く揃つた歯がかゞやく。 「なんだ。誰かと思つたら、花か。もう手紙の代筆は真平だ。」 「あら。いくらの事だつて、毎日手紙を出しはしませんわ。」 「毎日出すとも、一時間に一本づゝ出すともするが好い。己はもう書かないと 云ふのだ。」 「ひどい事を仰やるのね。たつた一遍しきや書いて下さらない癖に。」 「一遍で沢山だ。」 「そんなにお厭なの。」 「厭も好きもないのだ。まあ、這入つて障子をしめて貰ひた いものだな。こなひだぢゆうのやうに暑い時は好いが、もう そろく寒くなつたのに、そこから覗いてゐられては協はな い。」 「さあ、這入りました。」  ついと這入つて、片膝衝いて障子を締める。  輪の太い銀杏返しに、光沢消しの銀の丈長の根掛をして、' 翡翠の釵を挿してゐる。素肌に着たセルの横縞は背が高いか らの好みか。帯は紺の唐繻子と縞お召との腹合せである。  浪の音がする。涼しくはなつても、まだ夏なので、暮れて から暫くは、雨戸も締めてないのである。  花は机の向うに来て据わつた。 「又電気を低くして入らつしやるのね。」 「この儘にして置けば好いのに、毎日天井の処まで吊るし上 げるもんだから、日が暮れれば卸さなくてはならない。面倒 で為様がありやあしない。」 「はい/\。さやうなら、あしたからは足で蹴爪衝くやうな 処に卸して置きます。」 「蹴爪衝きやあそゝつかしいのだ。泊つてゐる奴が皆なまけ ものだから、電燈といふものは天井に吊るし上げて置くもの だと思つてゐるのだ。卸さなくちやあ、横文字の本なんぞは 読まりやあしない。」 「えゝえゝ。お客様もなまけもので、わたくし共もなまけも のでございますよ。」 「なまけものだとも。辻村に遣る手紙の事ぱかし考へてゐる のだ。」 「おや、名前なんぞを覚えておしまひなすつて、まあ、いや だ。」 「覚えなくつて。なんでも覚える。お前なんぞには分からな いが、博聞彊記といふのだ。」 「英語なんぞおよしなさいよ。ねえ、あなた、けふは遣りま せんけど、又そのうち書いて下さいますでせうね。男の手で なくちやあ、遣られないのですから。」 「いやだ。」 「なぜでせう。」  右の手の指尖で、左の袂の尖を撮んで、首を右に傾けて、 ちよいと圭一の顔を覗く。かういふ目の要求を拒絶するの は、なかく容易な事ではない。 「なぜだといふのか。書かない理由が聞きたいといふのだ な。うん。言つて聞せよう。先づ僕の書いた手紙が辻村辰五 郎といふ奴、失敬、辻村辰五郎といふ先生の処へ行くのだ な。そこでその辰五郎先生がそれを読む。読むと、何か考へ るのだな。僕は先生を知らないから、何を考へるか分からな い。併し手紙を出したお前の事を考へる丈は慥かだ。お前の その美しい、意気な姿を想像する。そこで先生は独りものだ か、細君があるか、それも知らないが、仮に細君があるとす る。さうすると其細君がいやになるかも知れない。それから 先きはどんなむづかしい事にでもなるのだな。」 「まあ、あなたは余つ程苦労性だわ。そんなに先きの先きま で考へた日には、わたくしなんぞ、とつくの昔死んでしまは なくちやあなりませんわ。」 「さうかなあ。女の事を丸で知らないもんだから、余計な心 配をするかも知れないよ。」 「嘘ばつかし。いろくおありなさるでせう。」 「なに、あるものか。第一色になるにはどんな工合でなるも んだか、知らないのだ。お前が辻村さんと深くなつた時の事 が聞きたいものだな。」 「いやですわ。馬鹿らしいですもの。」 「いやかなあ。いやなら為方がない。話して聞せれば、手紙 は幾らでも書いて遣るのだがな。」 「あら。書いて下すつて。そんなら話しますわ。」 「現金な奴だなあ。」  がらくと雨戸を繰り出す音がする。無遠慮に、忙しさう に繰る。みしくといふ足音が、圭一の部屋の近所まで聞え て来る。いつもの積鼻揮一・つの上に、印半纏をはおつた男が 繰つてゐるのであらう。  花は急に立つて、部屋の入口の片隅に茶道具の置いてある 処に行つて、茶碗をがちやく云はせる。 「もうお湯がありませんわ。一寸行つて持つて参ります。」  特別に大きい声をしたのである。  火鉢に掛けてあつた湯沸かしを持つて、障子を手荒く開け て、梯をばたく降りて行つた。 .圭一は机の上に開けてあつた洋書の読みさしたペエジに栞 の紐を挟んで、ぱたりと閉ぢた。そして傍の箱からトルコの 紙巻を取つて、マツチを摩つて火を附けた。  暑い盛りに大原には来たので、洋服の外には浴帷子しか持 つてゐない。雨の跡が急に涼しくなつてから、頗る閉口した が、幸にフランネルのシヤッを持つてゐたので、それを浴帷 子の下に着てゐる。  二夏潮風に吹かれて、褐色になつた顔に、楽しげな微笑を 浮べてゐる。  圭一は生活の上には殆どピユリタンだと云つても好い。併 し美しい女と話をするのは愉快である。殊に其女が面白い、 何等かの疑問を持つてゐると思ふと、一層愉快である。  大原に来てゐる問に、奥さんやお嬢さんを大勢見た。併し 目に留まつたのは、女中の花である。料理屋を兼ねた、此宿 屋には、≡二日前まで西洋人が泊つてゐて、花は其部屋の受 持であつたので、折々廊下で出合ふとき、一寸笑つて会釈を する位な事であつた。  その時から此女の蒼白い顔の目口の間に、人世の苦痛を嘗 めた痕が深く刻まれてゐるやうなのが目に留まつてゐた。そ れで西洋人が立つた跡で、自分の部屋へ花が来るやうになつ たのを喜んだ。  それからは終始花を観察してゐる。  初め圭一は花の顔の表情を見て、余程怜倒な女だと思つて ゐた。段々心易くなつて話をして見るのに、さうでもないら しい。大分お人好しの処がある。美しい、締まつた顔が、其 持主を実際より賢さうに見せるのである。  花は東京生れだと云つてゐる。詞にも託がない。併し爪外 れは綺麗でも、好い人の落ちぶれたのではなくて、卑しい社 会にたまく美人が出来たものらしく思はれる。  圭一は花がどんな事を話すだらうと思つて、別に何故とい ふでもなく、其話が早く聞きたいやうな心持がしてゐる。そ して花は本当の事を云ふだらうか、嘘を衝くだらうかと、独 りで心に問うて見る。圭一は女に就いての経験はないが、頗 る鋭敏な触角を持つてゐて、いつの問にか、女は嘘を衝くも のだといふ、動かすべからざる鉄案を成就してゐる。花も嘘 を衝くには違ひない。併しどれ丈嘘を衝くだらうか。嘘と誠 との比例がどんなだらうか。その嘘がどんな嘘だらうかな ど系思ふのである。  雨戸を締めてから外はひつそりとして、鈍い、低い海の音 に、清い、高い虫の声が交つて聞える。  梯に足音がする。優しい、軽い音である。青い脈の浮いて ゐる、白い素足の、据わつたとき背後から見ると、踵と指の 腹と指の根とが、板の間の土埃で薄墨色に染まつてゐるのを 思ひ出す。  圭一の心臓が跳る。不意に来られたさつきとは違つて、花 が次第に近づくと共に、鼓動は劇しくなるのである。恋だら うか。なに、恋なものか。これは期待の興奮だと、圭一は自. ら説明した。 「お静かですこと。」  声と一しよに、こん度は障子をすうと開ける。廊下に置い た台十能を取り入れる。 「独りで騒ぎやうもないからな。」 「今に下が賑かになりますわ。五番へ芸者が来ましたの。」  花の詞が切れないうちに、音締め悪い三味線の音がする。  風炉に火を活けて、湯沸かしを掛けて、茶を入れる。例の 足の裏が見える。`  持て来た茶を、圭.一は左の肘を机に衝いた儘で受け取つ て、一口飲んで下に置いた。そして目で笑ひながら、そこに 据わつた花の顔を見たd 「さあ聞かう。一体茶を飲ませて貰つたばかりでは、惚け賃 が少し足りないが。」 「惚けなもんですか。本当に地味なお話でございますの。わ たくし本当に恥かしいわ。」 「幾つになる。」 「女に年なんぞを聞くのはハィカラでないといふぢやござい ませんか。」 「生利な。西洋人に附いてゐたもんだから。どうも話を聞く といふものは骨の折れるもんだなあ。黙つてゐては果てしが ない。辻村といふのはどんな男だい。好男子だらうなあ。」 「あんな事を。なんにしろ、もう四十より五十の方へ近いの ですから。」 「ふん。そんならまあ、色の浅黒い、苦味走つたといふ風の 男だらう。矢つ張ここで心易くなつたのかい。」 「えお。さうでございますのQわたくし思ひ切つてしやべつ てしまひますわ。」 「それが好い。それが好い。」 「あの初めの内は只当リ前よリ善く気を附けてくれたり、ち よいとした反物なんぞを持て来てくれたりしましたの。似合 ふやうなのを見立てた積りだがなんと云つて、くれました のQT度其頃わたくしひどく困まつてゐまして、可笑しなお 話ですが、.着物も体に附けてゐるのしきやないのでせうρそ れが方々一摩り切れて、お客様の前へ出る度に、気になつて気 になつてならないのでせう。困ると智慧が出るものでござい ますのね力わたくしその摩り切れた処を、鐵の寄つたやうな 工合に畳みましてね、糸で縫ひ附けて着てゐましたの。それ もあんまり方々に山仙来て来ますと、でまかし切れなくなつて しまはうぢやあございませんか。其頃つひ一しよになつてし まひましたの。色気も何4あつたものぢやあございません。 わたくし只お金が欲しくつて欲しくつてなりませんでした の。」 「うん。そりやあさうしたものだらう。それから段々可哀く なつたのだな。」 「あら、いやな。黙つて聞いて入らつしやいよ。本当に思つ て見れば不思議でございますわ。いつでしたか、ふいと喧嘩 をいたしましてね、何時だらうと云つて時計を出して見てゐ るのを、わたくし引つたくつて畳の上へはふつて遣りました の。さうすると硝子がこはれて針が一本折れたぢやあござい ませんか。わたくしびつくり致したのを、悔やしいから知ら ぬ顔でゐますと、辻村さんはそれを拾つて見て、大さうおこ つた様子で、こんなになつては、もう役に立ちやあしないと 云つて、行きなり庭へはふつてしまひましたの。それが不断 いやになる程大事にしてゐる金かはなのでせう。かちやつと 云つて、砂の上におつこつてぴかく光つてゐますの。わた くし悔やしくつて悔やしくつてならなかつた時だもんですか ら、拾ひに降りようともしないで、ぢいとして見てゐて遣り ましたの。そしてお中の中では、辻村さんがどうするか知ら と思つて考へてゐましたの。辻村さんは辻村さんで、大分長 い間黙つて時計を見てゐましたの。余つ程してから、辻村さ んが拾つて来いとさう云ひますから、わたくし黙つて降りて 拾つて来ましたの。それから其次の度に東京から来ましたと き、わたくし時計をどうしたかと思つて見ますと、矢つ張持 つてゐますの。.幾らで直りましたのとさう云ふと、紙入から 服部の三十円の受取を出して見せるぢやあございませんか。 一体辻村さんはけちだと云つては気の毒ですが、なか!へむ だ遣ひなんぞをしない人でしてね、こんな所ヘ来てゐまして も、わたくしに何か買つて来てくれる外には、これといふこ とはいたしませんの。それも精々十円位の物しきやくれない のでせう。それが三十円もむだに取られたのだと分かつたも んですから、わたくしひどく気の毒になりましたの。本当に 済まないわねとさう云つたとき、ひとりでに涙がぽろく翻 れましたの。妙なものでございますのね。其頃から他人でな いやうな心持になりましたの。」 「うん。なる程ロシアなんぞも戦争をして、ひどい目に逢は せてから、中が好くなつたのだからな。」 「そんな事を。あなた交つ返すなんてお人が悪いわ。もう跡 は話しませんわ。」 「あ、。御免だ、御免だ。僕は交つ返した積りぢやないの だ。真面目にさう思つたのだご  花はにつこりした。三味線のがちやノ\いふ音に大勢の笑 声が交つて聞える。 「ぢやあ話しますわ。」 「ひどく恩に被せる奴だな。L 「そりやあ少しは恩に被て下すつても好いわ。わたくし誰に だつてこんなお話を致すのぢやあないのですから。それから おと年の秋頃でございました。割下水のとこに内を借りてく れましてね、わたくしこちらを暇を取つて、東京に参つてゐ ましたの。母は苦労人ですから、喜んでくれましたが、親爺 は女中なら好い、妾なんぞになりやあがつてと云つて、ぷ りくしてゐましたの。女中がなんの好いもんですかねえ。、 わたくしお婆あさんを一人置いて、楽に暮してゐましてね、 母がちよいく覗いて見てくれましたの。矢つ張内も本所な のですから。其頃わたくしの考へてゐた事と云つては、辻村 さんの奥さんがどうにかして見たいといふ事より外ありませ んでした。辻村さんには、つひまだ申しませんでしたが、最 初から奥さんがございましたの。それがわたくし見たくて見 たくてならなかつたのでございますよ。とうく深川の辻村 さんの内へ出掛けて行きましたの。不断の日には会社へ出 て、お午まへなら、きつとゐないのが分かつてゐますから、 さうですね、十一時過ぎでございましたらう。わたくし勝手 の方へ覗いて、なんとかさんはこちらではございませんか と、好い加減な名を言つて聞いて見ましたの。さうすると、 わたくしが一心に見たい見たいと思ふ念が届いたといふもの でせうか、丁度奥さんが台所でお肴を焼いてゐましたの。な んでも暮の大分寒い頃なのでございました。毛手柄の丸髭 に、珊瑚珠の根掛をして、黒嬬子の半衿を掛けた大島紬の綿 入の上へ、古くなつたお召の絆纏をはおつて、七薗の前にし やがんでゐたのが、違ひますよと云つて、けぶたさうに整め た顔をこつちヘ向けましたの。わたくしびつくりしました わ。凄いやうな好い女だらうぢやあございませんか。藤鼠の 無地の鶉縮緬の衿の擦から、領足の長い、お人形さんの頸の やうな頸を、前屈みに伸ぜして振り向いた姿が、いつまでも 目に附いてゐて、しやうがございませんでしたの。わたくし 間が悪くなつたもんですから、追つ掛けられるやうに逃げて 帰りましたの。」 「別品を二人も占領してゐるなんて、ひどい奴だな。」 「全くわたくしのやうなものを、なんだつて世話をして置く のだらうと思ひましたの。それから去年のお正月には、二日 の晩に一寸来てから、一週間ばかりも音沙汰なしでゐるでせ う。わたくしいろんな事が気になつて、お正月らしい心持は しませんでしたの。十日の日でした。前の日から雪が降つて 大さう寒いのに、母が来ましたからお雑烹を持へてゐると、 そこへ郵便と云つて、手紙をはふり込んで行きましたの。見 ると辻村さんの手でせう。それが書留としてあるぢやああり ませんか。つひ鼻の先きなのに郵便をよこすことは度々あり ましたが、書留といふのは変だと思つて、わたくし胸がど きくしましたの。でも母は気の附かない様子でしたから、 余計な心配をさせたくないと思つて、わざと平気な顔をし て、針箱の処へ持つて行つて、母の方へ背中を向けて、鋏で 封を開けて見ましたの。さうするとたつた四行か五行に、急 にアメリカヘ行くことになつて、午後一時に横浜を立つ、留 守中の費用に百円の手形を入れて置くと書いてあつたもんで すから、わたくしもう我慢がし切れなくなつて、おつ母さ ん、大変と云つて、泣き出してしまひましたの。それから立 つまでに是非一度逢はなくちやあならないと云ふと、母が掛 時計を見て、もう十一時を余つ程過ぎてゐるから、とても一 時までに横浜へ行かりやあしないと云ひますの。わたくしの 方では妙に依沽地になつて、なんでも逢ひに行くと云つて、 着てゐた綿入の上ヘコオトをはおつて、頭巾を被つて蝦蟇口 を帯の間に挟んで、一行きなり飛び出しさうにしましたの。逆 せたせいか、其時はもう涙も何も出なくなつてゐましたの、 母がまあ其手形をしまつてお置きと云つたので、わたくしや うく気が附いて、手紙と一しよにくしやくしやにして、箪 笥の鍵の掛かる処へ入れてゐると(母が云ふには、自分も一 しよに行つて遣りたいが、それでは内が無用心だから、お使 に行9た婆あやが帰るまで、留守番をしてゐて、お雑烹を食 べて帰るから、お前はなる丈気を附けて行つてお出とさう云 ひますの。わたくしは夢中で内を出て、人力で新橋まで行つ て、汽車に乗りましたの。それから横浜のステンシヨで又車 に乗つて桟橋へ駈け附けて、幌を掛けた車から降りて見ます と、人が大勢桟橋をこつちへ帰つて来ますの。それなのにわ たくしぽんやりして立つてゐますと、車夫がお車代をとさう 云ひますの。わたくしが蝦暮百からお足を出して遣るのを受 け取つて、車夫は妙な顔をしてわたくしを見て、お見送りな らもう駄目ですがとさう云つて、町の方へ帰つて行く人に、 車を勧めながら、行つてしまひましたの。わたくしやつぱり ぼんやりして立つてゐましたの。もう桟橋はひつそりしてゐ て、恐ろしく寒い風が雪を頬つぺたへ吹き附けますの。わた くしなんともかとも云はれないやうな心持になつて、涙がぽ ろぽろ翻れましたの。L  その時の事が悌にでも立つらしく、花はしばらく黙つてゐ る。` 「ひどい目に逢つたものだなあ」と、圭一は慰めるやうに云 つた。 「それから帰つて見ますと、母は心配して帰らずにゐたもん ですから、いろいろ相談しましたの。なんにしろ、いづ辻村 さんが帰るか聞いて見るのが肝心だといふので、母が会社の 人に聞き合せてくれましたが、早くて一年だと申しますの。 夏頃までぼんやりして.暮してゐましたが、手紙は来ず、ひど い面倒を見て、横文字の上書きをして貰つて、手紙を遣つて も、返事も来ないうちに、お金は段々なくなりますの。この 塩梅では本当に一年で帰つて下すつても、それまで凌いで行 かれさうもないといふので、母にも相談をして、又こちらへ 参ることにしましたの。」 「そこで辻村さんはいつ帰つたのだい、、」 「先月帰りましたの。」 「それからまだ逢はないのかい。」 「ええ。なんと云つて遣つても来ませんの。行つて見ようか とも思ひますが、来てくれない位なら、行つたつて駄目かと も思ふもんですから。」  翡翠の釵を抜いて、顔を整めて頭を掻いてゐる、  下の座鋪で拳を打つ声がする。三味線の音に騒がしい笑声 が交つて聞える。 「お花さん」と大声に、梯の中程まで登つて呼ぶ女の声がす る。  花は圭一の目を捜すやうにちよいと見た。そして「いやに なつちまひますわ」と云つて、ついと起つて部屋を出た。  圭一は暫く跡を見送つて、何か考へてゐた。