。 西洋定芝居の始  西洋の芝居がいつ頃今のやうな定芝居になつたかといふ事に就いて、大略のお話を致す積でござります、や枠は風より西洋の芝居の歴史に明るい方のために、耳新しい事をお聴に入れやうといふ考ではござりませぬ。唯ミの鮒の書物はあるが余暇がないからまだ見ない、然し一寸聞いて分かるなら聞いて見たいといふやうな諸君に、この話で更に深く西洋芝居に関する事蹟を取り調べる興を起させ、又は日本の芝居の歴史に通じて居られる諸君に、彼と此と比べて見るといふ便利を与へることが出来れば、私の望はそれで達して居る次第でござります。  既にお聞及もありませう松、西洋には二千三百年も前の希臘時代から立派な芝居がありました。それが羅馬時代に絶えて仕舞つて、今の芝居は丸で新しう興つたものでござります。その希臘時代の古い芝居の事に就ては、又折もあつたなら別に一席のお話をいたしても宜しうござります。さて今の芝居の始は何から出たかといふと、全く宗教が本になつて居ります。宗教といふのは基督教でござります。今から九百年程前に基督教の寺で耶蘇の伝記を仕組んで興行することが始まりました。坊さんが自身で面などを被つて役々を勤めたといふことでござります、この狂言を旨毒宥ユ$と申します、文字の上から訳したら、法の業とでもいふことになりませうか。この時代の舞台は寺の内の段々になつたところで、これが天蛍、娑婆、地獄に擬へてあつたのでござります。  追々二の寺の中の狂言が寺の外でも広くおこなはれるやうになつて、街や広こうぢで興行する事になりました。役者の組が零聰Φ彗誌といふ車に乗つて押して廻つたさうでござります。丁度やたいといふもののやうな祷へとおもはれます。車の上が三段に出来て居て、それが寺の間の代になつたのでござります。又広こうぢ、市場のやうなところへ様々の仮小屋を掛けて興行するときも、おなじやうに三段に造つたさうでござります。英吉利、西班牙では料理星などの広庭で興行することがはやりました、庭の一方に闘鶏につかふ大卓を据ゑさせて、それを舞台にするのは、英吉利の風でござりました、広庭に向いて居る廊下や窓は見物の居どころになつたのでござります。瑞西などではこれより大い工夫をして、市場をそのまゝ舞台にして仕舞つたことが物に書いてあります、三方の家の窓、出窓、屋根が皆桟敷になつて、その外家の壁にそうて棚を掛けて見物を居らせました。この棚を卑轟o・gといつて、それがいくつにも割れて居て、客はその;くの曽竃ω又纐。{といふものを買つて坐を占めることでござりました。棚の下は即ちω汁ぎ守又α阜宵といつて、これが役者の部星でござりました。かういふ舞台になつてからも、矢張天堂と地獄とを椿へることは止みませんでした。さて場所がかう変つて来まする前に、初め坊さん達のして居た時とはおのづから正本の模様が代つて居たと申します、初の頃の正本は。雷o巨冒といつて拉甸文で書いてあつたものであるのが、次第に仏は仏、英は英、独逸は独逸とその国々の言葉で書くやうになりました。筋に至りましても、昔は真面目に耶蘇一代記を繰返して、間々いはゆる不思議狂言竃−墨2$と申しまして、宗教上の奇怪な事を仕組んだ物を雑へたものであつたに、漸く耶蘇の伝記のうち又は使徒の伝記のうちなどから、人の教になるやうな、道話じみた筋を見付けて仕組むやうになつて、終には宗教と金く関係のない筋も出てまゐりました。善人とか悪人とかとい言のが、茎くその徳不徳を代表して舞台に上るといふやうな有様になりました、この流義の狂言を旨o鼻宰μ覇と申します。をしへの狂言といふ意味でござります。  四百年足らず前に新基督教が起ると共に、新しい教を奉じて居るものと旧い教を奉じて居るものと、おの/\舞台を利用してその宗旨を弘めやうとしました。この頃から舞台が穀物小展、座敷、学校の広間なざになりました。家の内になりました、独逸あたりでこの頃興行の場所が不自由なために、中世の胃①軍①邑轟雲といふ謡うたひの仲聞から出来た役者もあつて芝居を好む人情から、宗教戦争の最中なるにも拘らず、やうやく定芝居らしいものが出来てまゐりました、その建て方は例の中庭芝居から工風したものであつたと申します。然しこの独逸芝居の模様よりは、余程英吉利の方が面白くもあり、また広く世界の芝居の発達に影響を及ぼしたものでござりまするから、その方を少し詳しくお話申しませう。  英吉利では初め宮廷で謡うたひの童を育てたのが、後には芝居をするやうになりまして、これが古来甚だしく卑まれた俳優の位地を幾分か高める媒となりました。奴竜動の市中の芝居はもと料理屋などの中庭ですることで、客は下等社会はかりでござりましたが、三百年余り前に段々品の好い芝居仲間が出来て、客種も前列の方に居るものは善くなりました。それは年の若い貴族などで、我芝居の土間に当るところの前列に、役のない俳優、作者などゝ並んですわつたり、又は随分幕より奥にまで陣取つて、寝転んだり、姻草を喫んだりして見物するといふ有様でござりました。役者の勢をして居るのに話を仕掛けるなどは珍しくなかつたさうでござります、誌りこのやうな貴族違は已を卑うして役者に附き合つて遺るといふ心持で居たのでござります。その頃の桟敷に来て居た婦人客は貴族の妾又は所謂 風の品行の怪しい女ばかりで、稀に良家の女房などが来るときは擾面して這入つたさうでござります、要するに当時の芝居の晶負は貴族と下等社会とで、中等社会は多く宗教、道徳の上から芝居に反対して居たのでござります、そこで市中の警察などは兎角芝居を邪魔にして、遂に竜動の町中では興行させぬといふことになりました、これが却つて英吉利で定芝居といふものゝ出来る端緒になつたのでござります、市の外の里8斥卑ぎ易といふ僧侶の居た寺の跡が、前から芝居道具の庫になつて居りましたのを、この時劇場にして不断興行することにいたしました、シエクスピイヤの始めて出たのも此里8パ軍酎易座でござります。それから間もなくg3易座といふのが巣て、ぎく立派轟になつたさうでござります。  勿論立派とは申しましても、道具立は甚だ幼稗でござりました、青い布が下れば昼、黒い布が下れば夜といふ位、又舞台の中程の高いところが出窓にもなれば車にもなるといふ位で、場割が変るたびに地名を書いた札を出したといふことは、よく人も話にいたすことでござります。その割には衣裳に著つたものださうで、これは役者が自分の見えにする、暗れにするといふ心特から起つたことでござりませう。  狂言の方もその頃から余程変つてまゐりました。宮廷などで興行するために、一時は希臘の真似などをした作も出ましたが、民間の芝居では昔話でも年代記のやうなものでも昨日今日の市中の出来事でも、何でもござれと仕組むことでござりまして、座附の作者は頭を揃へて急きの正本を栴へるといふ工合でござりました。そこで其狂言の善い悪いを言ふのは例の貴族の答で、作者の方でもその評判を得やうとして大競争が始まりました、この競争の結果は、力のない作者が所詮及ばぬと手を引いて、次第に選り抜きの人物が残るやうになりました、その親玉が即ちシエクスピイヤでござります、欧羅巴で定芝居の出来た始の頃の景況はざつと申し上げた通りでござります。 劇場の大さ  此度は劇場の大さといふ事を談話の題に選びました。芝居見物に参つたものが、この中に何人位這入るだらう抔と申すことは間ζ有りまするが、それを確に答へ侮る人はめつたに無いものでござります、私もこのあ話の材料に致すために、東京の諸劇場の大さ即ち看答が何人置入るかといふ事を調べたいので、岡野紫水君に頼みましたところが、岡野君は余程尽力せられまして、只今お目に掛ける材料を獲られましたのでござります。その出処は警視庁でござりまするが、警視庁とてもさういふ帳簿などが特に作つてある訳でもござりませぬから、取調に多少の時日を要したとの事でござります、この調査の始終に就きましては、こゝで一寸岡野君にお礼を申して置きます。  扱右の調査の結果の一目に見えるやうに、表を作つて御覧に入れます。此表では、我国の習として椅子などは無いことゆゑ、一尺六寸平方を一人席としであるのでござります。一尺六寸は○、四八米突で、その面積は○、二三平方米突になります。数字の単位は此一人庸でござります。  此表に拠りますると、一幕見とか立見場とかいふものを除いて、歌舞伎座が千七百四十二人、市村座が千八百九十八人などで、即ち大劇場には約そ二千人足らずの席があります。又小劇揚は浅草座が千三頁二人、深川座が千二百五十三人などで、約そ千人余りの府があります。  これから欧羅巴著名の劇場の大さを御覧に入れます。これは後に至りまして、欧羅巴の劇場と我国の劇場とを比べて、お話するためでござります、拠此方の材料でござりまするが、これとても私はまだ纏まつた調査をば見当りませぬ、こゝに表に作りましたのは、有合せの書籍から抜いて集めたのでござります。表の中で私の参つて観た芝居は独逸の五箇処丈で、その外は畑らぬ劇場でござります。又私の観た処で著名なものも、只今その大さの分らぬ分は止むことを得ず省きました、譬へば巴里の弓ま津8白量虐生ωの如きものでござります。 ************************************  甲、槙逸の都  乙、仏蘭西の都 ************************************ 一五〇〇人 一八○○人 二〇〇人 三〇〇人 八○○人 ************************************ 二一五六人 ************************************ 二〇〇〇人 一七〇〇人 一〇〇〇人  五〇〇人 四〇〇〇人 一〇〇〇人 ************************************   丁、伊太利の都          ご一六〇〇人  この中で好い大劇場と称せられて居るものは、独逸  ミユンヘン で民顕の宮廷及国民劇部即ち二千二百人入りのもの。 仏蘭西で巴里の阿百拉劇都即ち二千百五十六人入りの もの、魯西亜で菓耕科の大劇部即ち四千人入りのもの でござります。又小劇場の模範と称せられて居るもの は、民顕の王都劇都で八百人入りのものでござります。 甲、大劇場の部 ************************************ 乙、小劇場の部 ************************************ 明 東 都 春 市 歌 治 京 木 村 舞 座 座 座 座 伎 座 座 小 小正東 小 計 計面西 計 公ら共正二 誼_を他両階 漉添奉 四 一 小中正下二 一一一 一計等面?階 四一一一る一 不○○○○ら○ 詳○○○○)O 二一桟 六○六五八七一 ○一一 ’敷 平高 平高 九五三 四 一中平高 五三二 八 ○七二 土 同 五九六 八二六 八 一 上 九九○ 四九〇四 四〇四 四 五 二○五七 間 二 一 同一 一 O 二一 上一 一 九不 五九 一一 同一 上一 七一 一 一詳 一詳不二○ 二 一’一 ■、一 O一五 九 山二一一一 O1一 一○割 栄○■、一 一 一 一二八 座演五五一 一 一四二場込 詳不一 一 一座伎八一二○ 同!、五 山宮六一幕一 上八五二座戸深九見 四四○一 一 一座ハ一八 』 上同一 /。 一四四淺 上同二一 一 一一五 』四一 一 一座草計 O五四一詳不五ノ、一 一 一桟 詳不四一/、⊥ ⊥敷 O一二五五 一四O七 一九一 一○七二二間 一 一 一 一五 一一一 ○四 一 ○O山 一 一込割 四O/、二場見立場 計 一寸お断り申して置きまするが、欧羅巴でいふ大小劇場は純粋に建物の大さを以て言ふので、其役者の品位抔から言ふのではござりませぬ。建物の大さの違ふのは、そこで興行する脚本の質が違ふのでござります、同じ民顕にも右の上品で小い王都劇部の外に、Ω腎旨−弩官掌・の芝居などのやうに品位の下つた劇場は別に立つて居ります、少しお話が脇へ逸れさうになりましたが、こゝで申上げやうと思つたのは、右の通り欧羅巴の大劇場は二千乃至四千人入りで、小劇場は約そ千人入りだと申す事でござります、  これで東西劇場の大さの比較をするに必要な材料は大抵御覧に入れましたが、我国の分には桟敷、土間などの区別が致しでありまするのに、西洋の分には其区別が致してござりませぬ。西洋芝居の見物席に就きましては、先年外でお話を致しました。それは歌舞伎新報にも載りまして、今では月草(六一五面)〔「欧洲の劇揚」〕に這入つて居りまするから、お暇の時に御覧を願ひます、二言で申しますれば、我芝居の見物席は、歌 −舞伎座の三階は例外として、下が平土間と高土間と下桟敷即ちうづらとで、上が二階桟敷で、二層になつて屠ります。諸藝太平記に元禄年間の事を書いて、「江戸の芝居は京大阪に替つて三重の桟敷賑ひ聞きしに勝る繁昌」とありまするから、楽屋ばかりでなく、一時は見物席まで三階造りになつて居たのだと申す事でござります、此後正徳四年に御承知の江島事件で二階、三階共禁ぜられ、享保九年又下桟敷の名義を以て二階を詐されたと申す事でござります、これに拠つて見ますると、我芝居は昔は三層、今は二層と却つて低くなつて居ります。西洋の芝居はこれと違つて六七層位になつて居つて、その代りには客が一人々々椅子を占めて、楽に見物することが出来るのでござります。数字で申しますれば、西洋の一人席即ち椅子一つは約そ幅○、五米突、深さ○、八米突で、其平面は○、四平方米突になつて居りまするに、我国のは既に申しました通り、僅に○、二一二平方米突になつて居るのでござります。殆ぎ西洋の一人席が我二人席になつて居るのでござります。西洋では近頃立見の揚ですら、一平方米突に三人を瞼えぬやうに仕たいと申して居ります。私はこの度衛生の問題には立ち入らぬ積でござりまするから、かやうに究屈にして居るのがどれ程健康を害するか、そのために空気がどれ程悪くなるか抔と申すことをば論ぜぬのでござります。又救難の問題にも立ち入らぬ穣でござりまするから、かやうに詩め込んであるのが、火事などのためにどれ丈危険であるか抔と申すことも論ぜぬのでござります。併し今の我国の芝居に這入る人は、観劇といふ心の上の楽を得るために、殆ど必ず体の上の苦を求めねばならぬやうになつて居るといふ事は申して置かねばなりませぬ。勿論一人や二人は賛沢に桝を買ひ切つて楽に居ることも出来ませうが、それは例外で大体の論にはならぬのでござります。こゝに西洋芝居の見物席の割方の一例として、民顕の宮廷及国民劇部の見物席の割含を挙げてお目に掛けます。   勺嘗ρ自g      四五一   ω汁害零〜g汁   九六   霊阜①§    二〇三 ************************************ 計 ************************************  八六  二二九  一〇〇  一一八  一八九 三四〇 一七ニニ人 ************************************  これは所謂売切彗署Φ詳書串の時の数でござります、此千七百二十二人は先に表に写して置きました二千二百人よりは少うござりまするが、二千二百人といふのは民顕の市中で驚いで居る案内記に出て居るので、此方は又千八百八十五年一月六日に崔o冨邑考品霊〔の楽劇弓與冒鼻易亀を興行した目の実数で、いづれも王家の一族のために取つてある桟敷を除いたものでござります。案内記には又強ひて入れゝば二千五百人這入ると書いてありまして、此二千五百人といふ数は彼の著名なる卑8夢竃ωの大会話辞書にも出て居ります、この事をお諦致すのは、総てかやうな数は計へ方次第で種々になるといふ事をお断り申して置きたいからで、外の劇場の数もこれに準ずるものと御承知を願ひたいのでござります、有の席の中で、勺胃ρ亮寸撃淳罵H、弓鼻勺胃宙旨Φは平床で、就中勺害壱g即ち仏蘭西で申す冒艮gμ;、。H3窃弍①が我芝居の平土間の前に当る辺に設けてある椅子の数列で、好劇家の喜ぶ場所でござります。勺胃皇黒と舞台との間は所謂08臣津弩で、楽人百人を容れることが出来ます。それからω巴。ポSより二:二四等と屑が設けてあつて、其上が下等 −搾の入るΩ巴邑①でござります。小劇場の方は同じ民顕の王都劇都の見物席八百人前の中で、勺胃得gが百九十人前あるといふ事丈申して置きませう。  扱材料の説明のために御退屈を招いて恐れ入りまするが、これから弥ξ此お話の本題に入ることになります。全体劇場と申すものは、何人入りに致すが至当でござりませうか。これが学問的に解釈せねばならぬ間題でござります。又我国の現在劇場はその健の大さで置くべきものであるか、拡むべきものであるか、又は狭むべきものであるか、これが応用上に解釈せねばならぬ問題でござります、前に申した問題の解釈が出来れば、後に申した問題はこれに基づいて解釈せられるといふ事は、論理上明白でござりませう。  学問上に劇揚の適当なる大さを定めやうとする段になりますると、先づ決して置かねばならぬ緊要事件がござります。それは劇揚といふ建築物即ち一種の抜術家の作が劇の要索であるかといふ問題でござります。劇、我国で申す歌舞伎には色々な要秦を含んで居ります、脚本は詩人といふ技術家の作で、詩で、第一の要素でござります。台詞と仕草と即ち科白は俳優といふ技術家の作で、これも歌舞伎の要素、狭い意味で申す歌舞伎其物でござります。科白を作と中すのは、或は少し異様に思召すか存じませぬが、これは作に相違ありませぬ、作でなくてはならぬ筈でござります。譬へば忠臣蔵の脚本ありてよりこのかた、由良之助といふ役がござりましても、団十郎の由良之助は団十郎の前にもなく、又団十郎の後にもござりますまい、恵臣蔵に見えて居る豊之助の性質にはいろ/\に漫すことの出来る余地が存じてある。それを団十郎は団十郎の睨んだ方向に現はすのでござります。これは肉Φ。月o旨o直冒とは中きれませぬ、再現とは申されませぬ。これは甲。雪o¢冒でござります、作でござります、反面から中せば、例の二銭の団十郎の如きは、巧は則ち巧で、感服すべきではござりまするが、再現でござります、このお話はまだ充分に陳べませぬが、あまり縁遠い論になりまするから、これ位で切り上げます。拠歌舞伎の娶索には、最一つ舞台と中すものがござります、これはいかなる技術家の作と看做すべきものでござりませうか。これに答へれば、則ち劇場が歌舞伎の要索であるか、否か、自ら分つて参るのでござります。  御承知の通り劇場といふ語の我国に普く通ずるやうになりましたのは、咋今の事で原と唯ピ芝居と申して居りました、芝居は古いことばでござります。雅言集覧以来頻りに引用せられまする夫木集の歌に、芝居する山松蔭の夕涼み秋おもほゆる日暮しの声といふのがござります、これは芝生に居ることで、それが劇場の称となつたのは、慶長年間に京都四条河原で興行したお国歌舞伎がまだ芝居して演して居つたからの事であると申します。又舞台と申しまするは、敵楽の行はれた時代から某の地に舞台を建てると申します。これも劇場の意味であつたと存ぜられます。それを今では建物の全体を芝居と申しまして、その内の役者の伎を涜ずるところを舞台と中すことになつて居ります。欧羅巴でも劇場全体をHぎ掌胃と中しまする外に、舞台をば と中すことで、この語は希臘の から出て天幕の義であつたのでござります。  私は舞台はいかなる技術家の作かといふ間を出して見たのでござります。劇場は申すまでもなく建築家の作で、舞台もその一部ではござりまするれど、その建築物たる鋪板や天井や柱は、決して直接に演劇のために娶求せられるものではないやうでござります、否、その鋪板や天亦や柱は却つて涜劇の時に隠されねばなりませぬ、蔽はれねばなりませぬ。それを隠したり蔽うたり致すには、何を用ゐて致しまするか。即ち大道呉小道具があらゆる変化を尽しまして、いつも同じ鋪板、天井、柱のかはりに、或は宮殿楼閣を起したり、或は山嶽林木を現したり致すのでござります。この道具立が芝居の進歩に遠れて次第に精くなり美くなりまするのは、どこの国も同じ事でござります。西洋でも希臘の昔は、霊H町犀8といふ三角形の柱が舞台の左右に立つて居りまして、その柱に製あつてくる/\廻ると、その面、ことに画がかいてあつて、今は宮の内とか、今は山の中とか、見物が暁るに過ぎぬのでござりました、それが後世宗教芝居となり、今の芝居となり、種々の変遷を閲しまして、遂には後壁の大きな書割の外に、ω。穿εといふ弔物やら、脇O。邑器①といふ引道具やら、随分複雑なものになつたのでござります、扱此道具立といふものは畢竟何だと申すことは、学者がいろ/\考一たのでござりまするが、つまりこれは画に過ぎぬといふことになつて居ります、画といへば平面の技術でござります、後壁の書割が画だといふことは誰も争ひませぬ。又引道具とても一面丈に画いてござります、唯ピ机とか腰掛とか、役者の身に触れるものは立体になつて居ります。道具立は画に過ぎぬといふのは、此類の小道具を除けての説で、私は尤な事であらうと存じます。然るに此説と衝突致しまするのは、建物の大道具でござります。西洋でも室内の場になりますると、実際と変らぬ天井、壁、建具を用ゐます。我国もその通りでござります。これはどういふ奄のでござりませうか。山の中や岡圃道を致すときに、此割に実際らしくすることは所詮出来ませぬ、さうして見れば旨宥ま弓即ち室内の道具立と、外の道具立とは始終不釣合でござります、此世紀の前半に名を轟かした建築家 は建築も出来。 絵画も出来る人で、今の伯林の をも 建て、そこに仕舞つてある重な大書割をも書いた人でござりまするが、かやうな不鉤合な事は趣味の上から排斥せねばならぬと申しまして、大道具は総て書割で往きたい、その積で芝居の建築をして見たいと、立派な計画をいたしました、併しこれは行はれずに仕舞つたのでござります、そこで先程申した舞台は画だといふ説は、東西の芝居の現況に照して、多少差支があると致しましても、私はせめて舞台は画である筈だと申すことを諸君に承認して戴きたいのでござります。さやうなりますれば、舞台は画工、取り分けて申しますれば粧飾画 といふ技術家の作だと中すことが出来ます。随ひまして劇の三要秦は詩と科白と絵画とであると申すことが出来ます。阿百拉の方では科白の代りに歌と仕草とが這入りまして、即ち科唱になりまして、それに鳴物が這入るので、詩、科唱、器楽、絵画と、かう四要索になるのでござります。劇にも嗚物を使ひまするが、それは劇といふものに質の上から除けられぬものではないので、その偶ζ除けられぬやうに見えまするのは、阿百拉臭い劇であるからでござります、そこで劇場といふ建築家の作はいかどでござりませう。若しこれが劇や阿百拉の異索であるなら、劇には四要秦、阿百拉には五要索があると中すことになるのでござります。近世の大音楽家で といふ人は、自分の領分に総ての技術を引き入れやうとしまして、阿百拉に建築を入れました。劇揚をも阿百拉の要秦と致しました。幸謂目胃がためには阿百拉は人間無上の藝術で、所謂総藝術≧岸冒黒で、建築の如きも劇場を作つてそれに加はることになつて、始て其目的を達したものになるのでござります、併しかやうな我岡に水を引くやうな翫は、公平な目から見て何の価もないことは勿論でござります。先程も申しました通り、芝居を致すときには、劇場といふ建物は隠されねばならぬ、蔽はれねばならぬのでござります。芝居を観て興に入つて居る間、誰がこゝは木遺りの小墨だとか、錬瓦造りの劇場だとか思つて居るものでござりまするか、明りが自由に出来る劇場では、慕の明いて居る中は、見物席を闇く致します。これも劇場といふものを掩ひ蔵す一端でござります、今一歩進めて申しますると、劇揚はなくても立派な演劇が出来ます。幸乱旨胃といふ国でΦαま①が盛に脚本を作つたり芝居を致したりして居ました頃には、 とか とか中しまする彼国の片田舎で、外で夜芝居を興行いたしました。その演劇の松火の光で照し出した光景は、何とも言はれぬ面白さであつたと中すことで、英人の の書いた 伝を読みましても、そこの処が極面白く写してござりま(四肘、ハ一二乍)汀済の人略f「といふもの刻弥山壬辻りしことあり。枇ル氏はその浮峠氏の教より…でたるをがじて、仮山の始とすべきにあらずと断したり・されど以、胴の沿巾上よりは、その形迩を収りて必ずしも一。の〔的を醐みが、ク勺二と、片火典術史家の倣例あれば・蹄子工が利弥山をも築山のψに∬して可ならむ。河じ帝㍗、下川年一六二六年一妹我κ子飛鳥河の畔の家に也を批りルを築メ、て、鳥人胆の名を得たり。人平十二年 ************************************ 淳泉御  州の兄( 和地附イーl一何11享は七 笠あの八池仙又!一 σ)り柵竹な ζプト) 一1ゲよ2ど七け$ 陀!いいr川にりいll! も外μ’女火災に八 小企竹城ぬり・い桁 此舳河をとて吹柵 側イ1竹梨1い、を、諦 なをのきゲ1・刷似兄 りイ圭台紛O八ゑが  ○みなぶ・ 1桁し州 ’一1きどや  のこ楽 叶と物二 松との 納いに七 林あ洲 糾ふ児八 苑り業 毒ユ∵“叶;∴ξ 七林 )苑れせ は、’、1イゾ汀  、よら 所吠に蚊  脆りる 舳峨はの  帝庭 ・ 班 ’仰桜  の幽、;考         。 ************************************ 股隻㍑逃走まりぬれば、その吃胴ネニ・に始 てば式をなしにき。パ雌は附血して、その火川片−は 北に対κあり。『蚊の舳には池を浪へ島を築き柄壬架 す。刈片より血に迦ふ廻脇ありて、その内をψ比とすb 北^築山の外、地水あり、所によりては沌ありき。孤 の河以陀笠、劣あり。枚井氏はζけて泌殿式雇と 湖の絡轟介に讐るや、一二九二年一その処 驚猟壮箕に号、その胴埜には浮峠崇井法杯 を川ゐろことゝなれり。所川州鎌介式の地是なり。  窄町氏に及びて、(二∴九川年より)端を鎌介叶代に 管、、たろ玄悦妹辻の処築挑に行はれき。玄脚とは苫 院に人る二一桝にして、その内には砦炊けり。桝栄 アカ仁、^るところにして、文那の寺院を伐したろなり・ その附禁は舳蛛打(抄窓N阯)彼もこれに長したりC逝 木牟、苅り込みて方円椰々の形をなし、河物に蛛するに す、これは全く劇場といふものをなくして仕舞つた芝 居でござります。さうして見ますると、建築家の作の 劇場そのものは、いかに建築物として価のあるもので ござりましても、劇の要棄ではないといふ事に自らな つて参ります、これで先決問題丈は片が付きましたか ら、これから劇場は何人入りに致すべきものであるか といふ本問題に入られるやうになつたのでござります。  劇場は何人入に致すが至当でござりませうか。此間 題は自ら何人まで入れられるかといふのと同じやうに なります。何故といふに成る可く多くの人を入れた方 が利益であることは知れた話であるからでござります。 即ち劇場に入るべき人数の最上限の問題になるのでご ざります。さやうな最上限は何から生じまするか。歌 舞伎は仕草と台詞とから成り立つて居ります、仕草は 観るものでござります。台詞は聴くものでござります。 舞台から最も遠い処に居るものが、能く仕草を観て。 能く台詞を騎くといふには、必ず限界があるに相違、こ ざりませぬ。扱最う見えぬといふ目の方の限界と、最 う聞えぬといふ耳の方の限界と、いづれが遠いかと申 すと、それは目の方が遠いので、最う聞えぬが、まだ 見えるといふ場処が出来て参るのでござります、我国 の芝居には向正面に聾桟敷と申すのがござります、併 し盲桟敷といふのはないのでござります。盲桟敷があ つたつても、謹も遺入るものはござりますまいが、全 体聾桟敷でからが、有つてはならぬのでござります。 それは兎も角も此道理から見ますれば、見物の人数の 最上限を定めるには、聾桟敷の出来ぬやうに致すとい ふこと、即ち耳を土台に据ゑるといふことは、これで 御承知になつたでござりませう。  現今の建築術で芝居のやうなものを作りまするには。 音響学>雪ω汁岸の原則を用ゐまして、成る可く遠いと 戸)ろまで声の届くやうに致します、さう致したところ ()〃、の珊倫を只にせり。帖むらくはそ の沁巾亡椎にしたろ{の少・・、ツツケルマンが^( )の一叶則の様式を述べたるよりして外、唯ヒ フアルケの()の舳…ζ”小るべきあろ牟」……/\のみ。  竣及()の〔の〃”{ツろあり。什バ地 刈は長方形の爪なりたるが如きものにして、樹木これ 予以り、ψ火には池を桝り引舟牟、氾べたり、中而測地 ㍗的形式の川ゐらろゝは㍗く此川に於いて仙え初めた りい波斯下(舳九六π年の則)の苑は、かのニイゥ河畔 の平而形式と殊にて、火主セミラミス(舳∵。、OO年 の則)が倒懸…の泌例に従ひ、次体なる雌述式を 収り、体人なる仮山牟、築き旭せり。その狐…には広衷 畑人なろものありて、その初に’りては〔然の山林を 冊むに灯牟。以てサるに池ぎざりしかど、漸くにして枇 仁排列にw息し、火川に〃芙を炊れ、これを今の山林 のル式()に比せん ー も、帖しネ苑oなさにボりぬ。希脳人が始て児て楽 胴のれそ命ぜしもの是なり。  燃山人作(より)の時、欧洲に始て胴埜を 児る。二け伐浮彫、巧降、雌れ犬作と同じく火より仏 ヘしたり。片布搬にはオヂュツセイアの付小にμした ろγルキノオスが…の如きムのありきと雌、火制概ね 彼川」紙小のサロモの…と休なることなく、椰菜の…た るに池ぎず。^縦κム亦火川を灯ぶ押ありしが枚に。 たしき遊地を戊すこと帷は8りき。されば胴塾の火よ り人りしものは、人上の好に投じ、ルクルルス(舳七〇 乍の則)がビンチウス山に築きし苑を始として、雁代 の桁下作^俳…処あり。凡庶も亦化々これに倣…ひき。然 れどもそのル州は洲地苧的なり。その唖典は姓築的に して、杣々。微りサ企納み、以て万円の形、肉猷の象を で、西洋劇場で五百人乃至千人入ならば、台詞が遺憾 なく通りまする。最上限は千五百人入で、二千人以上 には最早弊害が見えて参るのでござります。阿百拉に なりますると、歌と申すものは台詞、よりは引き延べて あるので、自ら緩く、随つて聞き取り易いのでござり ます、又その仕草も歌のことばに伴つて行くために。 矢張り緩くなつて、随つて見分け易いのでござります。 そこで滑稽阿百拉は通常千人入、真面目な阿百拉は千 五百人入に致して、滑稽阿百拉の最上限が千五百人。 真面目な阿百拉のが二千人と致しまして差支はござり ませぬ、滑稽阿百拉といふ方は、支那の劇のやうに唱 と白とが雑るのでござります、約めて中しますれば。 劇場の大さの最上限は台詞の芝居で千五百人、歌の芝 居で二干人と申すことになるのでござります。  この限界を先に申しました欧羅巴芝居の実況と比べ て見ますると、大劇場が二千人以上這入ることになつ て居りまする故、実は最上限を戯えて居るので、先に 申した弊害が明かに見えて居るのでござります。それ 1 はどんな事かと中しますれば、台詞の芝居では仕草が 荒つぽくなつて、口迹がξなるやうになります。又歌 の芝居でも、その歌が叫ぶやうになります。これは見 えないところの見物にも見せたい、聞えないところの 聞き手にも聞かせたいと致すので、知らず識らずさう なるのでござります。それ故西洋の芝居好はこの風習 を歎いて、これは藝道衰微の本だと申して居るのでご ざります、阿百拉の方では、猶音楽上に嗚物が肉声を。 人の声を圧倒するといふことがござります。例の百人 も揃つて演秦する08亭津9でござりまするから、そ れも尤でござります。それで今の欧羅巴では、善い歌 は芝居では聞かれぬ、合秦会OO目8ユでなくては聞か れぬとは、講も申すことなのでござります。序ゆゑこ ゝで中しまするが、芝居が段々大くなれば、見えるば かりで聞えなくなるといふ証拠には、西洋にも好い 例がござります、それは曲馬の揚処Oま易でござり ます、あちらの曲馬では、馬術を見せる間に、弔竃ざ− 邑昌寿と云つて、おどけた藝を見せます、此藝は丁度 劇の台詞を除けたやうなもので、我国で申したら、物 真似とだんまりの間の藝とでもいつたら宜しからうと 存じます。かういふことになつて居るのは、曲馬の揚 所が芝居よりは大いので、最早見えはすれど聞えはせ ぬといふ境になつて居るためでござります、巴里の曲 馬で、O庁皇①O。向まが三千五百人入、雪O尼串。昌Φが 万人入と中せば、何故そこでする藝が台詞のない仕草 ばかりのものにならねばならぬかと申すことが分りま せう。伊太利魯西亜の芝居の大いのなどは、ちとこの 曲馬じみて居るのでござります。  扱我国の劇場のお話に戻りまするが、現今の大劇場 は最早一幕見を除いて二千人足らずになつて居ります る故、見物の人数の上からは最上限を戯えて居ると看 做さねばなりませぬ。それが二階桟敷の造りで収まつ て居るのでござります、一人前の平面の狭いに拘らず。 弾桟敷が名のみでないのも無理ではござりませぬ、こ れは此儘では置かれますまい。然らばどう致したら宜 しからうか、世間では三千人入、四千人入の芝居を作 らうと思つて居る人のある中で、私がいかに空論家で も、今の席割を改めて歌舞伎座を千人入にして貰ひた いとは申されませぬ、又そんな事をしたところで、そ れでは芝居が貴くなつて、見に往くものが無くなりま す、然らば未来の劇場が出来るときには、西洋流に五 層、六層又は七層と桟敷を積み畳ねませうか。それは 決して出来ませぬ。西洋ですら桟敷の階数の多いのを 段々嫌つて来て、千八百八十九年の普魯西の警察命は 弓害弓卑の上四層即ち四階を瞼ゆることを許さずとい ふ事に致しました、地震も慮らねばならず、火事も慮 らねばならず、私は我国では今の歌舞伎座のやうな三 階、即ち土間共に三層が高い詰だと存じます。  そこで我国未来の劇場の大さをいかにしたら宜しか らうかといふ問題は、妙なはめに陥つて参ります。見 物施は椅子であらうと椅子であるまいと、そんな事は かまひませぬが、その一人前をば殆ど借に拡めねばな りませぬ。さればとて六層、七層と桟敷を畳ねること は出来ませぬ。又敷地を拡げて、即ち土間を拡げて韓 桟敷を多くする訳には猶更行かぬのでござります。即 ち積極的に建築家に向つて注文すべき点は、桟敷は三 階以下で、音響学上の要求を満足せしめて、一人席の 面積を○、四平方米突以上にして、千五百人入の芝居 を作つて貰ひたいと申すことになります。これは余り 容易な要求ではござりませぬ。併し劇場といふ建築物 が歌舞伎の要索でないことは既に辯じました通りで見 ますれば、建築の方から歌舞伎を云々して貰はうとい ふ訳には行かぬので、歌舞伎の方から建築に向つて娶 求することを。ば、是非満是させて貰はねばならぬので ござります。勿論それとても出来ぬ相談ではござりま せぬ。先に欧羅巴の劇場を数へましたとき、例外のも の故省きましたが、彼の阿伯拉作者の雲oζ邑考品− 8Hのために、U8&昌の建築家Ω。まH一&ωΦ昌罵Hの 意匠に従つて、卑ぎ庁ミ與胃といふ人の建てましたω㌣ 宵g蓼の■けげ目菖−司$富官①量§ωは、千五再人の観答 を悉く我芝居の土間に当る勺胃皇gに入れるやうに してござります。この劇場は舞台の奥行が深過ぎて。 別な方角からは非難を免れぬ作り方でござりまするが。 千五百人を土間に入れたといふ手際だけを、こゝの例 に援きましたのでござります。これで此お話を畢りま す。