ロビンソン・クルソオ (序に代ふる会話)  人物 主人 客 訳者  場所 主人の書斎。主人と客と対坐せるところへ、訳者登揚。 主人。暫くでしたね。何か御用ですか。 訳者。あのロビンソンですね。あれがこれまで翻訳にはなつてゐましたが皆文語体ですから、今度口語体  に訳したのです。そこで序文を一つ書いてお貰ひ中したいのですが。 主人。さうですか。どうも忙しくて、序文なんぞは書いてゐられませんがなあ。 訳者。併しわたくし共のした事は、あなたのお考へでも無益な事だとはお思ひなさらないでせう。 主人。さう。至極結構な事だと思ひます。 客。御中言だが、僕なんぞはあんな本は、そんなに幾種類も翻訳本を出して流布させたくはないね。 訳者。なぜですか。 客。僕は子供の時に読ませられたことがあるが、怪しからん本だ。ロビンソン・クルソオと云ふ男は、航海がしたいと云ふので、両親が泣いて留めるのを聴かずに、家を飛び出す。不孝ではないか。夫から無人島に漂泊する。単身で、人の助を借らずに、物を食つたり、着物を着たり、家に住まつたりする様になる。フライデエと云ふ黒ん坊を掴まへて、共同生活のやうな事を始める。そのうち舟に助けられて国へ帰る。その間、人の助を借らずに、自活したのを 得意としてゐるらしい。そんな事がなんになるのか。  人間は親があつての子である。先祖があつての子孫である。国家があつての臣民である。家族や国家を離れて生話したつて、そんな生活はなんの価値心ない。その価値のない生活をしてゐる間、本国たる英国政府に対する、あらゆる義務を果さずにゐる。不忠ではないか。 訳者。なる程。あなたのお考へは大抵分かりました。詰まり忠孝を標準としてのお説ですね。多分あなたは漢学者でお出でなさるでせう。それはロビンソンが父の言ふことを聴いて、法律学を勉強して、商業の手伝をして育つて行つて、めでたく父の跡続ぎになり、自治団体の名誉職にでもなつたら、それも結構でせう。併し権は経に反して道に合ふとか申すではございまぞんか・生れ附き航海が好きで、親の家で、平凡な生活がしたくないので、飛び出したのですね。そして非常な靫難に遭遇する。それに屈せずに、人の力を借らないで、生活の基礎を据ゑる。獣と闘ひ、人と闘つで、秩序ある社会の萌芽とも見るべき状態が出来るまで漕ぎ附ける。此間の行状を見ると、ロビンソンと云ふ男は、あれで法律を学べば、立派な法律家になり、商業をすれば立派な商業家になる人物だと云ふことを証拠立ててゐるのではありますまいか。そこでわたくし共の考へでは、ロビンソンのやうに権変に処して行くととの出来るのは、矢張経に反して道に合つてゐるやうに思ふのです。 客。ふん。あなたの御辨解は少しも辨解になつてゐないね。あなたは吾輩が忠孝と云つたと云ふので、吾輩を漢学者扱ひにして、経だの権だのと云はれるが、それは犬間違である、吾輩は漢学は犬猿ひだ。受禅 だの放伐だのと云ふ怪しからん事をした時代を、黄 金時代だと心得て、先王の道がどうのかうのと難有がる。革命なんと云ふ語をさへ、易の中で造り出し たのを、結構な事だと思つてゐる。吾輩は漢学者の道と称してゐるものを、凡て危険思想だと信じてゐ るから、吾輩の立場から見れば、道に合ふも合はぬも無い。 訳者。ははあ。さう云ふお考へですか。そして忠孝といふ標準的概念はどこからお取りになるのでせう。客。君は忠孝といふものが支那にしか無いと思ふのか。 訳者。そんな事は思ひません。併しあれは漢学から出た概念ですから。 客。漢学から出ても、今の国家が好いと認めてゐゐから宜しいのだ。漢学が宜しいのではない。葬式は僧 侶にさせる。これも国家が許してゐるから宜しい。仏法が宜しいのではない。政治は立憲政体になつてゐる。これも国家が立ててゐるから宜しい。西洋の政治学が宜しいのではない。 訳者。なる程。それではあなたの宜しいと仰やるのは、只国法の許すことをしてゐて、それから国家が好い  と認めてゐる徳義の標準に隨つて生活してゐると云ふ丈ですね。それ丈の事なら、それは誰だつてして  ゐますでせう。併しそれ丈では、人間は永遠に因襲の範囲内に囚はれてゐて、’L歩もそれより外に踏み  出すことは出来ないのですね。新しい事と云ふものは絶待的に出来なくなつてしまひますね。進歩と云  ふものが全く無くなつてしまひますね。 客。進歩は無くなりはしない。昔律令を定められた時は支那の制度を参考にせられた。あれは日本の制度  が出来たので、支那のものを取つたのではない。又それが出来た上はもう支那の事を顧みるには及ばな  い。立憲政体が立つた時、西洋の制度を参考にせられた。これも日本で出来たので、西洋のものを取つ たのではない。又それが出来た上はもう西洋の政治 学を顧みるには及ばない。これから先きでも、新し い事を国家が好いと認めることが幾らも有るだらう。  その時外国の事を参考にせられるかも知れない。国家が好いと認めて、日本の物になつだ事柄なら、そ れを行ふが宜しい。それが進歩ではないか。 訳者。それでは我々は進歩の跡を追つ掛けて行くに過ぎないではありませんか。 客。被治者は跡から附いて来べきものだ。 訳者。それは行政上の事ならそれで好いでせう。併し宗教や学問や萌術のやうな思想上の事はさうは行き ますまい。思想上の事には自由が与へられてあるのですから。 客。それは安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背ない限りの自由である。安寧秩序を妨げたり、臣民の義務に背かせるやうな思想は危険思想である。宗教であらうが、学問であらうが、慕術であらうが、  危険思想である限りは、それを信仰したり、言論著作に発表したりしてはならない。それをするものは 危険人物である。乱臣賊子である。非国民である。 訳者。それは分かつてゐます。無政府主義なんぞは鎮 圧しなくてはなりません。 客。無政府主義は、沢山ある危険思想の中のーつに過ぎない。共和主義、革命主義、社会主義、共産主義、  民政主義、自由主義、進歩主義、無神主義、自然主義、個人主義。 訳者。それでは保守主義の外は、なんでも危険思想になるやうですね。 客。無論。 かせ  訳者。(アイロニイの調子。)併しビザンチニスム、ショオヰニスム、セル乎リスムなんと云ふのはどうでせ客。それは危険思想ではない。危険人物が保守主義に 附だ仇名である。 訳者。なる程さう思つてお出で?すか。僕なんぞのやうに文語を遣つてゐるものは、政治上の思想なんぞに就いては、余り痛癈を感じませんが、自然主義はなぜ危険なのですか。 客。自然主義は自由恋愛主義である。自由恋愛をすれば夫婦が無くなる。族制が無くなる。所有権が無くなる。国家が無くなる。 訳者。へえ。それは始て伺ひます。僕なんぞは自由恋愛と云ふ応のは、社会主義者なんぞの方では唱へてゐても、自然主義には関係がないと思つてゐましたが。 客 ○君なんぞがたんと思つたつて構はない。国家がさう認めてゐる。 訳者。そして個人主義は。 客。人は国家を組み立てゝゐる一元子として価値がある。納税をすれば好い。兵役に服すれば好い。若し 個人その物に価値があるなんぞと思ふと金も惜しくなる。命も惜しくなる。人を倒して自分が大きくならうとする。国家に対して義務を果すことを厭がる。  国家はどうなつても好いと思ふ。それを個人主義とも個人本位とも云ふのだ。 訳者。へえ。それも始て伺ひます。それでは利己主義から社会主義や無政府主義になる人の事ばかり言つ てお出でなさるやうですね。個人その物に価値があ ると思つたつて、同時に他人の価値を認めるから、  利己主義になるとは極まつてゐますまい。その価値 のあるものを社会の為め、国家の為めに犠牲にする 処に、人生の高尚な一面があるのではないでせうか。  どうも個人主義が即ち利己主義だとするのは、間違つてゐるやうですが。 客。そりやあ君一個の私見だ。 訳者。併し誰の書いた本を見ても。 客。待ち給へ。それは西洋の本や、西洋の学問をした奴等の書いた本だらう。 訳者。さうです。どうせ主義がどうのかうのと云ふやうな論をしてゐるのは、新しい学者です。西洋の学 問をした学者です。さう云ふ学者が個人主義と利己主義とを別にしてゐます。失敬ですが、あなたの方 が却て一個の私見ではありますまいか。 客。失敬な。国家がさう認めてゐる。 訳者。さうですかね。僕だつて日本の国体は類のない、  結構な国体だと思つてゐます。租税は甘んじて納めてゐます。一年志願兵を済ませて、今でも予備役になつてゐます。召集せられれば、いつでも出て行きます。親は大切にしてゐます。社会主義には反対です。無政府主義には大反対です。併し飯を食ふのは、租税を納める為めに働かれるやうに休を養ふのだ、戦争に出て働かれるやうに体を養ふのだと思つて食ふのではなくて、股が滅つた時旨いと思つて食ふのです。女を可哀がるのは子を生ませて兵隊にする為めだ、先祖を祀らせる為めだと思つて可哀がるのではなくて、只可哀いから可哀がるのです。要するに自分の個人としての価値を忘れることは出来ません。僕は拙いながら文驀を遣つてゐますが、只専心に自分の菊術家としての良心を満足させょうと思つて、作をしてゐます。それは書いた本が倍れて金が儲かつたら納税は甘んじてしませう。併しそんな事は、作をする時考へてはゐません。股が滅つて飯を食ふ時でも、女を可哀がる時でも、絶えず国家との関係を思つてしてゐるのではありません。勿論思慮が国  家の事に及ぶことはあります。併しそれが不断では ありません。それですから、あなたの説で見ると、  僕はどうしても個人本位とか個人主義とか云はれる ことになります。その癖僕は利己主義は大嫌ひで、  献身的行為が好きですが。 客。それは五十歩百歩の論だ。 訳者。さうですかね。それでは僕は危険人物だとせられても、しかたがないかも知れません。併し僕はあなたのお説には服しません。(主人に。)そこでロビンソンですが、只今承つたところでは、不忠不孝の人を書いた本ださうですが、兎に角僕なんぞは好きな本で、こん度訳するにも好んで訳したのです。僕は一体創業といふことが好きです。どうせ新しい事を起すには、周囲に反抗して、因襲を破つて行くのです。それですから、きつと親の同意を得てからする、きつと国家の承認を受けてからすると云ふ訳に  は行かないのですね。漢の高祖の天下を取つた話が好きです。ナポレオンが好きです。釈迦やキリスト  が好きです。マルチン・ルテルが好きです。詰まりさう云ふ人物のする事を原始的に考へて見ると、ロ  ビンソンになるのではないでせうか。それで僕の気に入るのではないでせうか。 主人。さうでせう。僕には君の心持は好く分つてゐます。詰まり君は守成者ょりは創業者が好きだ。司祭  ょりは予言者が好きだと云ふのですね。征服者も同じでせう。冒険者も或は同じでせう。兎角さう云ふ  人物は、親の言ふことを聴かなかつたり、国家の制度を守らなかつたりする。さう云ふ事蹟を危険だが  らと云つて皆厘滅させてしまふわけには行きまずまい。国家だつて、まさかさうしょうと思つてもゐま  すまい。現にロビンソンの訳本だつて、これまで発売禁止にはなつてゐません。あれ・& Alexander  Selkirkとか云ふ水兵の実事譚を種子にして作つたものださうですが、西班牙の海上権を打ち破る程の  海軍も、一人手放した時、あれ程の為事をする水夫のゐる国だから、発展することが出来たのでせう。  僕は口語体で読み易い訳本を出すことに賛成しますね。 客。僕は国家が禁止してゐない本の事だから、強ひて故障は言はない。 主人。(客に。)大そう寛大だね。僕だつて凡てレガルな行為は結構だと思ふ。併し君は官吏や官吏の手先  きの云つた事を、直ぐに国家がかう認めたなんと云ふが、あれは困るね。 客。吾輩はそれで好いと思ふ。法律命令にあることは、法律命令に拠る。官報にある事は、官報に拠る。半  官報にある事は、半官報に拠る。 訳者。(アイロニイの調子。)御用記者の書いた物にある事は御用記者の書いた物に拠るですか。 客。無論。 訳者。(主人に。)そこで序文は。 主人。駄目ですね。君自分でけふの会話をでも書いたらどうですか。