礼儀小言

森鴎外

     その一

 歳旦は褻衣を著て迎ふべきものではない。それゆゑに新聞紙が前年来わたくしの稿を累ね来つだ儒者の伝記を載することを欲せざるのも理である。しかしわたくしは特に一文を草せむがために、咄嵯の間に新題目を捉ふることを得ない。已むことなくんば頃日農人と言つた所のものを録して、責を塞ぐ資となさうか。

 わたくしにかう云ふ事を言つたものは独一両人のみではない。車上舟中我邦人の外人に接触するを見るに、大抵外人には礼があつて我邦人には礼がない。是は恥 づべき事である。奈何かして此弊を括ふことは出来まいかと云ふのである。

 これを言ふものは啻に坐談として言ふのみではない。某々は嘗て社交形式を改良する目的を以て社を結び、機関雑誌を発行し、わたくしに助力を乞うた。所謂改良は礼なき邦人を変じて礼ある邦人となし、此を以て外人の漫侮を禦がうとするのである。

 此の如き時、わたくしの人に答ふる所はいつも同一である。彼結社の某を引見した時の如きは、わたくし は縦説横説して更の閑くるを知らなかつた。しかしわたくしの云ふ所はいつも人の意表に出でた如くであつた。結社の某の如きは、初めわたくしに助力を乞ふことが甚だ切であつたに心かかはらず、一たび去つて復来らなかつた。

 わたくしの答はかうである。君等は外人に対して邦人の礼なきを恥づると云ふ。それは美徳である。わた くしと雖、敢て其羞恥の心を同じうせぬとは云はない。しかしわたくしの内に顧みる情は外に応ずる情よりも切なること一層である。車上舟中君等の撹て恥辱となす所のものは、又平生わたくしの目にも触れ、わたくしの心にも惑ずる。しかしわたくしは此の如き時、専ら邦人の社交形式の奈何を顧みる、邦人の礼の奈何を顧みる。その奈何に外人の目に映ずるかと云ふが如きは、わたくしの問ふに遠あらざる所である。是は或はわたくしの外人を崇敬する念の薄きがためかも知れない。それはともかくも、此の如き時、わたくしの目中には外人は無い。

 わたくしの目中には外人ほ無い。しかしわたくしは十分に君等の外人に対して恥づる情を領会する。何故かと云ふに、現状を以て言へば、礼は彼にあつて我にないからである。

 仮に車上の外人が途上に車上の外人に逢ふとする。 二つの車は皆窓が鎖されてある。二人の外人は相認めた時奈何するか。彼等は必ず手を窓に掛けて、窓を開かうとする。しかし車の走る間には、窓を開き畢つて帽を脱する余裕のないことは明である。それゆゑ彼等は惟手を窓に掛くるのみである。窓を開く為するのみである。是が礼である。

 些一つの車の上に邦人がゐたとしたらどうであるか。二人は相認めた時奈何すべきかを知らない。硝子の背後に於て脱帽して、人には識られずにしまぶものもあらう。単に順を動すものもあらう。策の出すべきなく、睦目して過ぐるものもあらう。是が礼のないのである。

 しかし邦人と雖、昔より此の如く無躾であつだのではない。古くは車を留め牛を放ち禍を立つる礼があつた。近くは縞の戸に乎を掛け、乃至戸を開き、乃至戸より片足出す等の礼があつた。然るに此の如き礼は皆滅び尽して、これに代るものは成立してをらぬのである。

     その二

 わたくしは人に語つて、外人は車上人に逢つて窓を開く礼を知り、邦人はこれを知らぬと云ひ、又邦人の知らざるは昔より知らざるのではなく、近ごろこれを失つたのだと云つた。その奈何にしてこれを失つたかは追窮し難くはない。王朝時代の牛車の事は姑く措く。明治の初に轜が廃れた。そして輯と云ふ乗物と共にこれに乗る方法が失はれた。さて新に馬車が西洋より輸入せらるるに及んで、これに乗る方法を併せ伝ふることを忘れた。その既に失ふものは復追ふべからずして、その未だ得ざるものは曾て求めずにしまつた。替へば都鄙歩を学ぶ人の如くであつた。

 是は昔に路上の礼を然りとするのみではない。我邦は初より坐礼の国であつた。既にして唐の制度が輸入 せられ、邦人は始て立礼と云ふもののあることを知つた。しかし是は湖岸の上に行はれたのみで、曾て民間に行はれずにしまつた。その日常生活の圏内に延及したのは、近年洋服の輸入せられたためである。しかしその能く延長した所のものは立礼の形似であつて、真の立礼ではない。

 現状を以て言へば、外人は立礼を知つてゐて、邦人は知らない。わたくしの如きは成人として官吏として将校として洋行し、立礼を知らざるがために屈辱を受けた。この笑ふべき逸事は曾て一たび「大発見」と題する文中に記した。意識して同一事を再三言するはわたくしの敢てせざる所であるから此に贅せない。

 当時椋烏であつたわたくしは驚いて、ニツクハウトを準 げて四辺を見た。そして彼にあつては立礼が貴賤を問はず少時に敦へられてゐることを知つた。男子は官校にあつて礼法を学ぶ。士官学校の職具申にバレツ トマイステルが名を列してゐる。女子は堅振の時を過ぎて舞踏を学ぶ。舞踏の第一教程は行住の礼法である。

 此の如き教育は今の邦人の間には、小学児童若くは新兵の受くる訓錬を除く外、開 却せられてゐる。邦人は立礼を知らない。

 是も亦昔より闘 けてゐたのではない。立拝立揖の礼の創められた古は措く。近くは伊勢小笠原の礼式が維新の直前に至るまで諸藩に於て講習せられてゐた。その今闕けてゐるのは、前なるものが既に亡びて後なるものが興らぬ故である。

 わたくしは此の如くに説いて、更に問題の範囲を廓大した。君等が礼のないことを外人に恥づるのは、既に云つだ如く、不是ではない。しかし其羞恥は何故に外に応ずる時に存して、内に顧みる時に存ぜざるか。わたくしは君等に且現今の冠婚葬祭を一顧せむことを望む。

 わたくしは此に人に答へた言を反復して、偶一の葬字の筆下に来り趨るに会した。是は此文の歳首の新聞紙を飾るべきものなることを忘れたのではない。此字は礼を説くに当つて避くべからざる字である。縦令元服と霊祭とは略することを得むら、婚礼と葬礼とは言はずして已むことが出来ぬのである。

     その三

 わたくしは人の邦人の礼なきを外人に恥づると云ふを聞いて、これが内顧を促し、これに今の婚礼を語つた。

 婚礼はいづれの国を問はず、古俗の頗牢因に保存せられてゐるらのである。それ故唐代の制度の摸擬もこれに影響すること少く、又西洋の風俗の輪入王父代 を迫り成さずして、並行を馴致した。彼の俗が我の俗を排除して来り代つたのではなく、彼の俗が遅れ至つ て、我の俗の先づ在るものと並び行はるることとなつた。

 然るに此に一のイロニイがある。彼の所謂会堂贅卓の前の誓が我に輪入せられた時、彼方にあつては其儀式が漸く廃滅の運に向つてゐた事が即是である。何故と云ふに、所謂スタンデスアムトの婚礼が国法上位側をなすことを妨げぬので宗教上の儀式は夙く独占の威力を失つたからである。

 さて彼の会堂の婚礼が我邦に輸入せらるるに及んで、イロニイは更にイロニイを生んだ。将に滅びむとする会堂の礼は料らずも新に興る神社の礼の藍本となつだ。わたくしは敢て此新礼の是非を言はない。しかし諾再の二神は定ておもひまうけぬ世話を焼かせらるることよとつぶやき給ふことであらう。

 それはともあれ、家庭に於てする旧礼、会堂に於てする外礼、神社に於てする新礼、かててくはへて料理 店の下女任せにする市井の便法、凡そ此等のものが、今や並び行はれて相伴らない。現代の新郎新婦はおもひおもひのフアソンに由つて婚嫁することを得るのである。

 しかしいづれの世を間はず、旋毛曲の人のあることは免れ難い。此の如き人はかう思議する。己は俗に随ふことを嫌ふものではない。故らに異を立てょうとするものではない。しかし世上に既に劃一の儀式がなくなつて見れば、己は適従する所を知らない。己は寧これを暗に取つて、我より古をなさう。

 此の郊き人は決して少くはない。姑くわたくしの耳目に触れわたくしの記憶に印したものを挙げて見ょうか。孔子、釈迦、基督の三像の前に婚を成した人がある。本願寺の本堂粗豪自作像の前に婚を成した人がある。能舞台の画松屏を以て芸術の象微となし、其前に婚を成した人がある。日何、日何。愈出でて愈奇で ある。

 わたくしは敢て断ずる。今の我邦には婚姻の礼がない。

 わたくしは此より去つて喪葬の奈何を一瞥しようとおもふ。喪葬はこれを婚嫁に視るに、その真面目なるべきこと、慎重なるべきこと同日の談ではない。既に礼を説かむと欲して口を問いだからは、わたくしは松の内の佳節なりと云ふを以て、喪葬の題目を忌み、措いてこれを間はぬわけには行かない。わたくしは此に予告する。担幣癖ある読者は明日以後の紙上わたくしの署名する欄を避けて読まぬが好い。

     その四

 わたくしは人に語るに婚嫁の現状を以てし、次で喪葬に及んだ。しかし今これを歳首の新聞紙に写すのは、わたくしの無頓著を以てしても、猶梢忌憚なきに過ぐ る惑があつた。わたくしは暫く沈吟して分疏の辞を求めた。

 此の如き時能初に意識の閥上に上り来るものは、平凡にして陳腐なるを例とする。詩人文士は努てこれを排し去らなくてはならない。しかしわたくしは其労煩を避ける。そして無造傲に第一の落想を捉住する。

 それは何であるか。晋一休が元旦に側験を杖順に懸け、御用心御用心と呼びつつ街を歩いたと云ふ事である。是はわたくしの咎此の日の記憶より出でてゐる。誰の口より聞いたか、何の書に就て看たかを知らない。

 しかしわたくしは径にこれを筆に上して恬然たるを得ない。考証癖の撃討を被る故である。わたくしは手近にある一体伝やら年譜やらを拍き出して検した。一も此事を載するものがない。

 わたくしは電話機を籍りて一友人を呼び出した。

 「もしもし今物を書き掛けてゐるのですがね、ちよつ と知らない事を伺ひます。あの一休が圓酸を杖に引つ掛けて元日に街を持ち廻つたと云ふ事は何に出てゐますか。」 

 先づ亥の倫笑 をする声が聞えた。「難問ですね。なんだつてそんないかがはしい典故を捜すのです。なんでも一休が書いた本に、燭骸 と云ふ標題の小冊子がありますよ。僕は古板も見たのですが、近くは明治十九年にも印刷したものがあります。つい此頃一休自筆の本心見ました。銀泥に絵人で、見事な物でしたよ。いづれあんな物を種子にして、いつの頃にか作つた話でせう。」

 「はあ、さうですか。ありがたう。お呼立中して済みません。」杖頭の属盤は堂々と引用すべき典故ではなかつだ。しかしままよ。只有の優を書いて置かう。此作物語も中に棄て難い道理を包蔵してゐる故である。

 鎌を揮ふ禎 子は暦日の吉凶を見て後に乎を下しはしない。何を苦んでか独わたくしの手中の筆にのみ拘束を加へよう。

 今の我邦の喪葬には神葬があり、仏葬があり、新に輸入せられた基督教の葬式がある。そして彼に於て久しく基督 教徒の抗争した荼晩は、我に於ては古く仏葬と倶に伝へられて、世はその外来の俗たることをさヘ忘れてしまつてゐる。

 徳川時代には、某々の特例を除く外、仏葬がオブリガトアルであつだ。事は基督 数を拒絶せむとした政策に聯繋してゐる。今は国法上に何等の束縛もない。何の儀式に遂つて葬るかは、人々その欲する所に従ふことが出来る。

     その五

 わたくしは今の我邦では喪葬の儀式は人々その欲す る所に従ふことが出来ると云つた。しかし婚嫁の儀式に較ぶれば、其間 に相異なるものがある。それを奈何と云ふに、家々のトラヂション若くは人々の信仰は予め神葬、仏葬、基督葬式中の一を要求するのである。隨つて事に臨んで選択に惑ふと云ふ虞が少い。

 然らば旋毛曲の人と雖、安んじて因襲若くは信仰の命ずる所に従つて三老中の一を行ふであらうか。否、なかくさうは行かない。此にも新奇の考案が相睡いで出て来る。

 是は世上に劃一の礼がない故に然るのではない。その由つて来る所は此の如く簡単ではない。此には深い根抵があつて存する。

 根抵とは何であるか。わたくしは答へて時代思潮であると云ひたい。

 時代思潮の影響は、上に説いた婚礼の如きも、早く已にこれを被つてゐる。しかしそのこれを被つてゐる ことの較著なるは葬礼に若くはない。何人と鉄火故に逢つては真面目ならざることを得ない、慎重ならざることを得ない。平常は項事納故に遭つて、菊且にこれを辨じてゐても、一旦真面目に慎重に思量するに至つては、人は前轍を踏んで進むことを躊躇する。人は蹟 わたくしは此鎚蹟の心理状態を語らむと欲して、頗辞を措くに苦んだ。わたくしは遂にかう云つた。

 礼は荘重なるらのである。就中葬礼を最とする。神葬もさうである。仏葬もさうである。基督葬式もさうである。

 人生の所有形式には、その初め生じた時に、意義がある。礼をして荘重ならしむるものは其意義である。

 「失之者死、得之老生」とさへ云つたのは此意義より見たらのである。古は人類が淳撲であつたので、容易に形式の約束を受けてこれに安んじ、形式は其荘重を 維持することを得た。我邦の古の邪心、仏葬も、基督葬式も此の如くにして其荘重を維持してゐたであらう。

 今の人類の官能は意義と形式とを別々に引き離して視ようとずる。そして形式の中に幾多の厭悪すべき説服を発見する。荘重の変じて滑稽となるは此時である。是は批評精神の醒竟に本づいてゐる。そして批評精神の醒覚は現代思潮の特徴である。

 批評精神が既に形式の説服を発見する。荘重なる儀式は忽ち見功者の目に映ずる緞帳芝居となる。是に於て此説服を排除せむと欲する欲望が生ずる。此欲望は政もすれば形式を破壊するにあらでは口まぬものであ わたくしは畏葬に臨んで踊躍する人の心理状態を視ること此の如くである。此心理状態は、わたくしの観察する所を以てすれば、人を岐路の前に立たしめる。それは単に形式を棄てて罷むか、形式と共に意義をも 棄つるかの岐路である。

     その六

 わたくしは人に葬礼を語つて、其形式を破棄するものが単に形式のみを破棄して罷むか、併せて其意義をも破棄せむとするかの岐路があると云つた。

 わたくしは人の何故に大なる路標を此岐路に立てむと欲せざるかを怪む。人は形式を破棄するを以て危険なりとし、真の危険は意義を破棄するに至つて始て生ずることを暁らざるが如くである。

 今概評を以て例とする。若し全く慎鋳造遠の意義、ピエテエの意義を破棄して顧みざるに至つたら、どうであらうか。わたくしは嘗て一外人の議を聞いたことがある。それは人の屍を燃料とせむとする議であつた。又嘗て仏国革命史の奇怪なる事実を伝ふるを見たことがある。それは刑屍の皮を用ゐて、袋物を製したと云 ふ事実であつた。我邦の現状がいかに形式の疵瑕を拙発する傾を有呻るも、猶未だ併せて意義を揖擲せむと欲するに至らざるは案ゼある。

 今の邦人は苦に意義を揖擲せむと欲せざるのみではない。わたくしの観察する所を以てすれば、今人はもはや意義を寓するに堪へざる旧形式に恒温たるがために、別にこれを寓するに宜しき形式を求めてゐるものの如くである。

 わたくしは此よりして後、喪葬新形式の実例を語るに当つて、遺言してこれを行はしめた人々の名を斥すことを憚らない。何故と云ふに、わたくしの云ふ所は央実だからである。わたくしは諸例を列挙するに先つて、衆人皆知る所の一例を抽き出す。それは加藤博士弘之の葬儀である。 Eわたくしは此に加藤氏の葬儀を細叙することを欲せない。惟加藤氏が神官、僧侶若くは牧師の手を薙らず して儀を行はしめたと云へば足る。

 当時世上の人は此を以て未曾有の事となすものの如くであつた。しかしわたくしの見る所は少しく異なつてゐた。わたくしは古来儒葬のあつたことを思つたのである。

 儒葬は昔の哲学者の葬儀である。加藤氏は今の哲学者である。その葬儀の今の哲学者の葬儀たるは怪むに足らない。わたくしは此の如くに思惟した。そして儒葬の或は今の喪葬の新形式を求むる人々に満足を与ふべきものなりや否やを知らむと欲した。

 わたくしの初より儒葬に関して知る所は極て少かつた。わたくしは惟儒葬の朱子家礼に従つて行ふものなるを知るに過ぎなかつた。それゆゑとりあへず手近な書を検して見た。

 儒葬は江戸の林家と土佐の野中氏とに始まつたさうである。林家の例は鵬峰が母荒川氏を葬つた時で、明 暦二年三月である。野中氏の例は兼山が母秋田氏を葬つた時で、慶安四年四月である。野中氏のこれを行つたのは林家に先つこと五年で、これがために兼山は耶蘇を信じ叛逆を謀ると云ふ嫌疑を受け、自ら江戸に来つて分疏したさうである。彼は鶏峰文集、此は野中兼山伝に見えてゐる。

 (右礼儀小言は大正六年十二月三日全篇を草し畢り排印に 付したる者に係る)

     その七

 わたくしは彼神仏基督諸政の葬儀に従ふことを肯ぜざるものも或は儒葬を拒まざるべきを思つて、儒葬のいかなるものなるかを知らむと欲した。

 わたくしは先づ朱子の家礼を復読した。それから諸書に就て略我邦の先儒の云ふ所を窺つた。わたくしの他日の覆検に使せむがために、雑記帳に抄録して置い た書は下の如くである。熊沢蕃山の葬祭僻論(寛文七年丁未)、中村悦斎の追遠疏節(元禄三年庚午)、浅見綱斎の喪祭小記(元禄四年率朱)、中井梵庵の喪祭私記(享保六年率丑)、大蔵、村士二氏のニ儀略(天明八年戊申)、共催猶水戸義公の世に藩士に頒布したと云ふ葬礼儀略、荻生徂徠の葬礼賂考、天野借景の祭儀抄等があつた。

 諸儒は各共学派を同じうせず、その宋学に対する態度に径庭はあるが、皆朱子の家礼中時代を異にし国上を異にするがために行ひ難きものを除いて、多少の斟酌を試みた。そして単に形式上より看るときは、彼諸宗教の儀式を嫌ふ人々の反感を招くべきものは甚だ少い。若し人々がこれに依傍することを肯じたならば、繋空に新形式を案じ出さむと欲するものに比して、共便否は同日の談でなからう。就中極めて簡易にして行ひ易きものは、天保中水戸藩が領内の民に海へた所謂 自葬の式である。是は我邦の古式に復らしむるものと去つてあるが、その儒葬に本づきたる形迫は歴然としでゐる。

 然るに此に一の疑問がある。それは今の我邦の人が能く家礼を作つた末孫に反感なきことを得むや否である。

 此反感は祖採が既に有してゐた。祖採集を読むに、割礼、伝礼、行礼を分つて論じてある。礼を制したものは三代の聖人である。惜むらくはその制する所のもめが悉く存してゐない。「夏殷雖善、奈其亡滅、周礼雖倫、奈其散快」である。礼を伝へたものは仲尼の徒である。その功は残経を恪守して私見を厠へなかつだ処に存ずる。礼を行ふものは遂に先王の礼を取り、斟酌してこれを行ふ。已に斟酌するときは、必ずしも先王の礼に合はない。しかし斟酌は人情に本づくらのである。朱子は妄に理を胸臆に取つて、礼の本真となした。 是は聖人に擬し古制を乱るらのである。

 徂徠は断じて云つだ。「以制礼言之、程栄之擬聖人非也、以伝礼言之、和栄之乱古制非也、若以行礼言之、程栄之礼亦可、世俗之礼亦可」と云つだ。当時の所謂世俗の礼は仏葬である。既に儒葬(程栄之礼)と仏葬と両つながら可なりと云へば、仏葬を捨てて儒葬を取ることを須ゐざることとなる。徂徠の「人々以己心所安断之可也」は、訳して云へば「手ん手に気の済むやうにするが好い」となる。

 朱子の権威は徂徠が既に認めなかつだのに、今人をしてこれを認めしめようとするは難からう。しかし徂徠は尚三代の聖人を以て侵すべからざる権威としてゐた。今人は果してこれをだに肯ずべきか疑はしい。今人は口々に孔子を説いてゐる。しかし是は恐くは孔子を透して其背後なる三代の聖人の権威を認むる意ではなからう。恐らくは今人は狭義の儒たることを肯ぜぬ であらう。その孔子を説くは惟孔子の人格を尊重すると云ふに過ぎぬであらう。果して然らば伊川考亭の権威を以てこれに臨むことの難の又難たるは言を須たぬであらう。

     その八

 わたくしは喪葬の一形式として儒葬の事を言つた。談話の調子はこれがために頗る学究めいて来た。わたくしも「もうそろく乾燥無味な調子に厭いて来た。」しかし徂徠コントラ程来の論議が余りに抽象に偏してゐたから、これに具体の一例を添へて置くこととした。それは神主の事である。

 諸儒は儒葬を説いて各別の斟酌をなしてゐるが、傀を地下に葬り、魂を神主に遷し、これを奉じて家に帰ることは、皆家礼の云ふ所の如くである。

 陰陽より説き起せば、陰は精である、鬼である、魂 である、官能を司るらのである。陽は気である、神である、魂である、理性と意志とを併せ掌るらのである。死は魂魂の分離である。「魂升干天、以従陽、魂降干地、以従陰」と云ふわけである。神主は此魂を依せて奉じ帰るのである。

 神主は家礼治葬の条下に出でてゐて、これに名を題することとなつてゐる。「故某官某公諒某字某第幾神主」の類である。若し官がないなら、「以生時所称為号」と云つてある。熊沢蕃山の如きは、和栄に対する特殊の立場を有しながら、これを連用してゐる。

 狙抹の駁議は此に生ずる。神主は宗廟の主である。宗廟は采邑に立てられたらのである。古の諸侯の如く采邑があつてこそ宗廟がある。宗廟があつてこそ神主がある。それゆゑに神主には題識がない。伊川考亭は庶人に至るまで神主を作らしめ、これに題名せしめょうとした。是は「無知妄作」だと云ふのである。

 徂徠の云ふ所を以てすれば、邑もなく廟もなきときは、隨つて主もない筈である。その用ゐるべきものは神版である。神主と神版との別は、彼には孔があつて神を寓し、此には孔がなくて神を寓せない。さて既に神版を用ゐるとすると、仏家の位牌と大差はなくなるのである。以上神主の事は儒葬に関する徂徠の立脚地を明にすべき具体の一例として挙げたのである。

 會に徂徠のみではない。わたくしは嘗て中井竹山の某に与へた簡順を見たことがある。中井氏は神主を僣とする説を持してはゐなかつた。しかし某が位牌を改めて神位としょうとして、其制を問うた時、これに答へて軽挙を戒めた。要は一家親族悉く同意するにあらざるょりは不可なりと云ふにあつた。

 是に由つて観れば、神葬、仏葬、基督葬式に従ふことを肯ぜざる今の邦人に説いて、儒葬に従はしめむことは難からう。諸宗教の権威を認めぬ人々は、伊川考 亭の権威をも認めざるべきが故である。

 今人の窓側を観察するに、大抵全く追遠の意義を破棄しようとしてはゐない。しかし其理性は昔に宗教家の権威を認めざるのみではない。哲学者の権威と雖、亦これを認むることの肯ぜぬであらう。望を儒葬に繋ぐことの難き所以である。

     その九

 わたくしは今の我邦に婚嫁の礼なきが如く、又喪葬の礼なきことを言はうとして、先づ神葬にあらず、仏葬にあらず、基督葬式にもあらざる一例を拳げた。それは加藤氏の葬儀であつだ。

 加藤氏はわたくしの先輩で、これを葬つだ継嗣はわたくしの旧知である。然るにわたくしのこれを拳ぐることを憚らないのは、その史実なるを以ての故である。且わたくしは加藤氏が礼を知らぬと云ふのではない。

 今の我邦に礼がないので、加藤氏は遺命して己の為さむと欲する所を為した。そしてその為す所が多数と同じきことを得なかつたのである。わたくしは前に婚嫁の新形式を作るものを旋毛曲と云つた。旋毛曲も亦わたくしのこれを既する語ではない。多数と歩膝を倶にせざるものを斥して言つたに過ぎない。わたくしは此に此数語を揺むことの必要を感じた。次に挙ぐべき例の又知人の上に繋るを思へば、わたくしのこれを感ずることは愈切であつた。

 加藤氏に先つて知人平出修と云ふものが死んだ。平出氏も亦遺言して、一切の宗教の形式を籍らずに葬らしめた。告別式を以て葬式に代へ、知人が交るぐ旧を談じ、楽人をして楽を奏せしめて別れたのである。

 わたくしの相識の間には只此二例があつたのみである。しかし近時此の如き喪葬の頗多がるべきは、わたくしの信ぜむと欲する所である。何故と云ふに、今は 法にも問はれず俗にも怪まれずしてこれを行ふことを得るからである。

 更に近人の著述に就いてこれを求むるに、中根香亭の自叙伝に下の如き文がある。「晩節会家。浪遊於江湖之間。最後到岳陽興津。而傲居鳥。大正二年一月二十日。渡鳥而逝。行年七十五。於同地松林中火滅。遺命不留骨。非敢行怪。従其所好也。」伝は病革なる時、香亭が口授して、門人伏見道太がこれを書し、歿後月日を補入したらのである。是より先香亭に「答依田朝宗書」があつて香亭蔵草に出でてゐる。書には児を喪つた後、義子を養ふことを肯ぜず、自ら祀を絶つことを論じ、末にかう云つてある。「若夫尺休大城不留骨。弟年来所口。豚犬在時。嘗遣言莫違鳥。今復委託得其人。無労先生過慮。」所謂委託其人を得たりとは伏見氏の事であらうか。想ふに香亭の遺骸は遺命の如く荼晩に附せられ、其灰は遺棄せられたことであら

 香亭は禅を修した人である。古今内外の禅僧中には此類の遺命をなしたものも少くはない。香亭は同世の人なるを以て、特に引例に加へた。

 次に引くべきは「台水先生遺文」と題する書である。是は明治三十元年六月十日に歿した伊賀の人町井白水の著す所である。わたくしは継嗣町井鉄之助さんの寵贈を辱うしてこれを読むことを得た。白水も亦遺命して骨を留めず、又墓を起さしめなかつた。其言は中根氏に比すれば一層詳密であつた。

     その十

 わたくしは近人の著述に載する喪葬新形式の一例に、町井白水の遺命があると云つた。此遺命は白水がその欲する所を語ること甚詳細なるらのであるから、わたくしは原文の十の一を節録して人に示すに便した。

  「世俗之葬人者有三焉。面皆出自宗教。日神、日仏、日耶蘇。世人参従其所信。拘々焉行其礼。曾不怪也。然予於三歎。皆不能従。(中略。)面至共葬礼。則与痴見演戯無異。是既弄死人者。予感得信面従之乎。且方今雖不効痴見演戯。未必得罪於法律也。菊不得罪於法律。則予唯其所欲為。亦何所憚。(中略。)予常以為。一醜屍。永累後人。非連理者之所為。面談不永累後人。則莫若不留骨起墓。欲不留骨起墓。則莫若火葬。故予則欲従火葬也。世俗之火葬者。必拾一片骨於灰燧中。収之小瓶。携還療之他所。其占尺地。累後人一也。必勃勃面収片骨。夫吾柩肉既為灰。不留針骨。則無夜須墳墓。既無墳墓。則無復須碑喝。此事理之当然者也。」 台水は儒である。漢学者である。然るにわたくしの上に云つた形式の疵瑕を見る限は台水も亦これを有してゐて、痴見演戯と道破した。時代思潮の長潮は到らざる所がない。

 今の我邦に喪葬の礼のないことは、これを上に説いた所に照して、何人と雖否定することは出来まい。

 人の外人に対する我邦人の無躾を云云した時、言の詳略はあるが、わたくしは概ね此の如くに説いた。そして云つた。君等の憂ふる所は我邦人が無躾のために外人に啖笑せらるるにある。隨つて君等の為さむと欲する所は文飾を以て此弊を括ふにある。しかし君等の憂ふる所、為さむと欲する所は抑末である。

 わたくしはこれに反して今人に内省を求めたい。今はあらゆる古き形式の将に破棄せられむとする時代である。わたくしは人の此形式を保存せむと欲して弥縫の策に岨販たるを見て、心に憬ざるものがある。人は何故に昔形式に寓してあつた意義を保存せむことを謀らぬのであらうか。何故にその弥縫に労する力を移して、古き意義を盛るに堪へたる新なる形式を求むる上に用ゐぬのであら今か。       <

 試みにわたくしの挙げ来つた旧形式を忌避する人々の粟性と素養とを見るが好い。他の神を尊ばずして神社に婚し神葬し、仏を信ぜずして寺院に婚し仏葬する徒に較べて優勝の地位に居ることは、争ふべからざるものである。わたくしは此等の人物を撰斥することの非なるを思ふ。

 これに反してわたくしは彼の意義を忘るるものの世間に践厄して、全くコントロオルの外にあるを見る毎に、怪冴に堪へない。わたくしは上に形式と意義とを併せ破棄するものがあると云つた。しかしわたくしは形式を恪守するものの間に、却つて意義を忘れ果てたるものがあつて生を倫むのを見逃すことは出来ない。

 畢竟此問題の解決は新なる形式を求め得て、意義の根本を確保するにある。我邦人をして真に礼あらしむるにある。窃に今の名流の間に物色するに、能く此解決に任ずべきものは必ずしも乏しくはなささうであ る。否。若し著意して大正の叔孫通たるべき人材を求 めげ、現代は実にその多きに勝へまい。

 わたくしは人に答へてかう云つた。今は但その口に した所のものを取つて筆にしたに過ぎない。