亡くなつた原稿 鴎外  私共弱者を迫害する強者が世間に多い中に、新聞雑誌の記者は先づ指を屈すべきものゝ一である。大抵一日平均四五人はお出になる。午前に二人、午後に二人として、それにお目に掛かつて、ゆつくりお話を伺へば、私は終日何事も出来ぬのである。さて其人達にはそれ%\御註文がある。それを|悉《こと%\》く承諾して実行したら、私は生涯新聞雑誌のお誂に応じて談話をしたり文章を書いたりして暮さなくてはなるまい。  記者に面会して註文を謝絶しようとすると、|所謂《いはゆる》押問答と云ふのが始まる。それが私のためには大なる苦痛である。  面会しなかつたり、註文をことわつたりすると、祟る記者がある。一度同僚に代人になつて面会して貰つたことがあつたが、それが倨傲だと云つて、面会を求めた其記者は私に暴行を加へた。中には初対面に、註文を聴かぬと復讐をすると云つて、所謂|威文句《おどしもんく》を並べる記者もある。早稲田大学を卒業したものだと|名告《なの》つて来た、まだ二十になるかならぬの若い男にさう云ふのがあつて、私は随分驚いた。私は驚きつゝも、世に謂ふ不良少年とはこんなのかと思つたので、非常な興味を以て、其人の口吻や態度を観察した。勿論早稲田大学にゐたやらゐなかつたやら、それは少しも信ずべきではない。  私の上官であつた石本新六君は世慣れた人である。これは一日に十人以上の記者を引見するのが常の事であつた。或時私が「記者はどう扱つたら好いものですか」と問うた。「どう扱つてもいけない」と、石本君は答へた。実に名言である。記者はどう扱つてもいけない。記者の扱方と云ふものは絶待的に無い。此名言は、記者と云ふものが無上の強者たることを証する。  或時私の所へXと云ふ雑誌の記者が来た。三四度ことわつて帰したが、少しも屈せずに毎日来る。とう/\根負をして引見した。  髪を四五寸伸ばして、それを五味だらけにして、鋤鍬でも把りさうな、巌畳な体に、木綿縞の綿入、同じ羽織を著用してゐる。  此人はXに文藝上の事を書けと云ふ註文を齎した。私はXと云ふ雑誌の存在を知らない。況やそれを目撃したことなんぞはない。  私はかう云つて辞した。「私は縁故のある雑誌三つ程に毎月物を書く。其外折々頼まれて書く雑誌が二つ程ある。私の零砕な時間はそれで全く費されてしまふ。それより外へは手が出されない、どうぞ御免を蒙りたい。」  「いや。是非共あなたに書いて貰はなくてはなりません。」記者はかう云つた。私は例の押問答が始まるなと思つて、熱の出る前に|悪寒《をかん》を感ずるやうな心持がした。  「なぜ私でなくてはならないのですか。」  記者の答は頗る特色があつた。尋常一般の押問答ではないのである。「僕は田舎から出て、X社に入つたばかりの男です。そこで僕の社から命ぜられた最初の任務が、あなたの所へ来て|文藝種《ぶんげいだね》を取つて来いと云ふのです。だからそれが取れゝば、僕の位置が極まる。取れないと免職になるかも知れない。此訪問は僕の試金石です。是非共種を下さい。なんでも好い。長くても短くても好い。」  「併し私にはなんにも書かれない。長いものも短いものも書かれない。私の所へ差し向けられたのが、君の不運だ。」  「そんなら前にお書きになつたものでも宜しいから、下さい。」  「私は書いた物をしまつては置かない。」  「そんなら前にどこかへお出しになつたものを下さい。」  「そんな物を捜す時間がない。」  「それは僕が捜します。」  「君が捜すにしても、前に|余所《よそ》へ出したもので、今新しく雑誌に出されるやうなものがあるか、ないか。それが第一わからない。」  「でも兎に角捜します。」  こんな問答をして記者は帰つた。  二三日立つてX記者が又来た。捜し出したと云つて持つて来たのは、例の「文責在記者」と云ふ類の談話筆記を載せた古雑誌である。私の談話だとは云ふが、私が読んで見てもなんの事だかわからない。例の押問答の間に|騙《かた》り取つた|詞《ことば》の|端《はし/\》々を、勝手に繋ぎ合せた|貨《しろもの》である。所詮安じて転載させられるやうな物ではない。  それと一しよに、記者は一通の紹介状を持つて来た。どう云ふ縁故で頼んで書いて貰つたものだか知らぬが、つひ近頃まで同僚であつた辻村楠造君の鄭重な書状である。私は辻村君に物を頼まれたことが、それまで一度もなかつたので、此依嘱を無下にことわるのがつらかつた。此意味に於いて、記者の持つて来た紹介状は頗る有力なものになつたのである。  併し古雑誌の怪しげな談話を転載させることは出来ない。私はとう/\何か書かなくてはならぬ事になつた。さて、何を書いたものだらうと、私は暫く考へた。 丁度其日に私は新日本と云ふ雑誌に出た訳文Noraの評を読んでゐたので、咄嗟の間にそれに就いて少しばかり書かうと決心した。  訳文ノラの評と云ふのは、私のノラをドイツ文から訳したものだとし、島村抱月君のノラをイギリス文から訳したものだとして、評者自己はノルヱイの原文に拠つて右の二つの訳の当否を裁判することにしてある。詰まりすばらしく高い処に地歩を占めて、私と島村君とを脚下に見て、えらい事を言ふ。脚下に|蠢《うごめ》いてゐる私や島村君は、どちらもノルヱイ文を見たことがないのだから、私にしろ、島村君にしろ旨く訳し当てゝゐたら、それは|偶中《ぐうちう》である。頭から当るも当らぬもあつたものではない。  評者はノルヱイ文に拠つて宣告をするにしても、若し私の訳をばドイッ文に引き較べ、島村君の訳をばイギリス文に引き較ぺるだけの手数を掛けてくれたら、二人の訳の当否と云ふものが定められたであらう。併し高く止まつてゐる評者は、そんな事をするのを|屑《いさぎよ》しとしない。  私は此評を読んで腑に落ちぬ事が多かつた。そこで何か書かなくてはならぬとなつた時、此評の評を書かうと決心したのである。  私はX記者を待たせて置いて、大急ぎで書きなぐつた。  私は当時書いた事を一々記憶してはゐない。併し其中にきれ%\に記憶に残つてゐる事がある。  新日本の評は随分長文で、訳文中から抜き出された箇条は非常に多かつたが、私は先づ其内容の全体に不服であつた。それは私の訳と島村君の訳との相違してゐる主な処を、評者は一つも指麺してゐぬからである。二人の訳には大いに相違してゐる処がある。中には前 後数ペエジに跨がつた見解の相違がある。評者は少しもそれを顧みない。それを顧みずに、只二人の訳の単語の違つてゐるのを、沢山に|臚列《ろれつ》してゐる。私は先づそれに不服であつた。  私はノルヱイ語を知らない。併し新日本の評のやうなものを書かうと思へば、私にだつて容易に書かれる。それはどうして書くと云ふのか。それはかうして書くのである。  私は二つの訳を読み較べて、単語の違つた処に印を附ける。そしてノルヱイの原文から其単語を拾ひ出す。それからノルヱイ語と、自分の知つた他のヨオロツパ語との対訳辞書を調べて見る。此の単語を拾ひ出すことや、辞書を調べることは、ノルヱイ語を知らぬ私に だつて出来るのである。かうして書いたつて、あの評のやうな評は出来る。  私は評者がそんな事をしたのだとは云はない。私は只かう云ふ事を言ふ。評者はノルヱイ語が出来るのだらうが、其癖評者はノルヱイ語の出来ぬものにも出来るやうな評をしたと云ふ事を、私は言ふ。  かう云ふ意味で、私は評の内容全体に不服であつたが、私はそんな事は書かなかつた。私は只単語の評に答ふるに単語の評を以てした。其中の記憶に残つてゐる二三を左に復活させて見よう。  ノラの家に「|前房《ぜんばう》」があると云ふことを私は書いた。評者はかう云ふ。前房とはなんの事だかわからない。ノルヱイの家の戸口を這入ると、廊下のやうな処がある。そこに外套を脱いで掛けたり、杖を立てゝ置いたりして、さて室内に入るのである。それを知らずに、前房と云ふわからぬ語を書いたと云ふのである。  これは実に人を馬鹿にした評である。私はノルヱイに往つたことがない。又ノルヱイの家を見たこともな い。併し評者の云ふやうな家の構造は、何もノルヱイに限つた事ではない。ドイツの家だつてさうである。フランスの家だつてさうである。イギリスの家だつてさうである。Vorstubeと云つたつて、avant-chambreと云つたつて、fore-roomと云つたつて、皆入口と室 内との間にある廊下のやうな処である。私の書いたものには、二十年も前から、此処を指すために前房と云ふ語が用ゐてある。私の書いたものを読む人は|疾《と》うから前房がどんな処だか知つてゐる筈である。何もノラの訳に始まつたことではない。  評者は「玄関」と云へと云つてゐる。玄関とは禅寺か何かから書院造の家に転用せられた|詞《ことば》で、入口の事である。前房は玄関よりは内である。評者はノルヱイ語は知つてゐても、日本語は知らぬのである。  ノラの夫がKrogstadに謂ふ詞に、「わたしは君にお帰なさいと云はなくてはならぬ」と云ふやうな句があつたと思ふ。  評者はこれに就いてかう云つた。これはノルヱイ文に「わたしは君に戸を指ささんではならぬ」と書いてある。帰れと云ふ意味になるには相違ないが、訳は当つてゐないと云ふのである。  これも前房と全く同じ筋の評である。戸を指さすと云ふことは、何もノルヱイ語に限つたことではない。ドイツ語でjemandem die Thuer weisen と云ふのも、フランス語で mettre quelqu'un a la porte と云ふのも、イギリス語で to show one the door と云ふのも、全く同じ事である。ノルヱイ語を承つて、あつとばかりに感服するわけにはいかない。生憎日本にかう云ふ語がないから、そつくり訳することが出来ぬと云ふだけの事である。  評者もそつくり訳することの出来ぬのを認めて、 「お帰なさい」は丁寧過ぎるから「帰れ」と云つたら好からうとか、なんとか云つた。  併し私の「お帰なさい」と書いたのは、ノラの夫がクログスタツトを尊敬して言ふ敬語ではない。ノラの夫が自ら尊敬して言ふ敬語である。日本語には自家の紳士的地位のために、賎しむべきものに対しても使ふ敬語がある。どうもノルヱイ語に通じてゐる評者には、 日本語に対する理解が乏しいやうに思はれてならない。  ノラが夫に禁ぜられてゐながら、外に出た|序《つひで》に買つて来て、こつそり食べる菓子がある。私はそれを「マクロン」と書いた。島村君のには「パン菓子」と書いてあつたさうである。  評者は云つた。ノルヱイ文にはマクロンとある。パン菓子ではない。これだけは森の訳が当つてゐる。但し当つてはゐるが、読者にはなんの事だかわからないと云ふのである。  所が|可笑《をか》しい事には、私の内では子供がマクロンが好なので、青木堂から買つて食べさせてゐる。マクロンはブリキの罐に入れて沢山輸入して来る。尤も今は戦争のために、青木堂にも切れてゐるか知れぬが、平和になつたら、又来るだらう。私の内の子供も知つてゐる菓子なので、|余所《よそ》の人にもわかる積でマクロンと書いた。わからぬ読者もあるかも知れぬが、わかる読者も必ずある。  評者は「飴玉」と書けと云つた。駄菓子商に問うて見ると、飴玉とは一般に鉄砲玉と称する駄菓子ださうである。パン菓子と云ふと大層大きく感じるが、鉄砲玉では又|梢《やゝ》小さくなる。それにノラと云ふ女の人品から見ても、鉄砲玉を食はせるのは、ちと残酷ではあるまいか。フランスの誰やらの小説に、Quartier Latinの下宿あたりで、女学生が失恋の話をしながら、マク ロンを頬張ることが書いてあつた。こゝでも鉄砲玉を食はせては気の毒である。況やノラに於てをやである。  ノラがクリスマスの木を買つて持たせて帰る男がある。私はそれを「|伝便《でんぴん》」と書いた。  評者はノルヱイ語を挙げて此男の身分を説明した。これは一定の制服を著て、辻に立つてゐて、人の用事を受け合ふものである。品物を預託せられると、会社の印章のある札を渡す。間違があれぱ、此札を以て会社に掛け合ふことが出来る。イギリスではメッセンジヤア・ボオイと云ふ。伝便ではなんの事だかわからないと云ふのである。  所が此説明は私にはちつとも難有くない。評者の親切に説明してくれた職業は、ノルヱイにあるばかりではない。イギリスにあるばかりではない。日本にも疾うからある。只東京になくて田舎にあるから、これは知らぬ人が多いかも知れない。  田舎とは豊前の小倉である。小倉では此職業を伝便と称へてゐる。それを私は使つた。田舎の詞ではあるが、立派な日本語で、これ程好く当つてゐる訳はないのである。  評者は「使屋」の類だと云つた。使屋は江戸時代にあつたもので、私が東京に出た頃まで、まだ残つてゐた。併し郵便制度の普及と共に滅亡してしまつた。使屋は伝便と違つて家にゐた。そこへ出向いて人が物を頼んだ。殆ど手紙の送達ばかりであつて、伝便のやうになんでも受け合ふものではなかつた。使屋の方が却つてわからぬ事になるのである。  私はこんなやうな事を幾つか書いた。そしてX記者に持たせて帰した。  然るにX記者はそれきり|杳《えう》として消息を|絶《ぜつ》してしま つた。いつまで立つてもなんの沙汰もない。  私は役所に通ふのに、神保町で電車を乗り替へる。そこで停留揚の|傍《わき》の稲葉書店で雑誌を見ることがある。或日其店でXと云ふ雑誌を見付けたので、表紙をまくつて見た。なんでも記事の標題に一号活字を使つて、極めて粗大な趣味に|愬《うつた》へてゐる雑誌であつた。どうも 文藝上の記事なぞを載せさうには見えない。又私の原稿が載せてもない。併し私は次号に出るかと思つた。或日次号の出たのを見付けて、又表紙をまくつて見た。矢張私の原稿は載つてゐない。  話はこれ切りである。髪の長いX記者はどうしたか。私の原稿は、格別惜しくもないが、どうなつたか。これも私が|許多《きよた》の記者にだまされた中の一つである。