旧劇の未来 森鴎外  現に旧劇と称して興行せられてゐるものは、浄瑠璃に本づいたものと、さうでないものとのいづれに拘らず、まだ看客の多数を引き附けてゐる。併し此多数は侍にはならない。それは推移して行く趣味の落伍者から成り立つてゐるからである。これは我等の判断であ 我等は趣味の相同じきもの乃至相近きものk少数を有してゐる。此少数は、縦しや今の批評家に新文芸の真諦を解せぬものとせられてゐても、世界の新文芸をも垣間見てだけはゐる。そして此少数には、旧劇は、少くも現形の俊では、味ふことの出来ぬものになつて しまつた。  これだけの事は、わたくしの此記事を読むと云ふ気まぐれをする人には、先づ承知して置いて貰ひたい。それはわたくしの言はうとする事が、これだけの事を出発点として発足しなくてはならぬからである。  旧劇はなぜ味はれぬか。  わたくしは最近に曾我を手に掛けたから、便宜上曾我を例にして言ふことにする。わたくしは此例に就いて、味ふ邪魔になる処を、思ひ出し次第に列べる。  旧劇は余りに開明史上の事実を踏附にしてゐる。これは暮術晶の効果の上から殊更に時代違をしたのではなくて、なんの理由もなく為たのである。曾我では、仮屋で工藤が羽織を著てゐることに、とがきで註文してある。これは鎌倉時代の服装としては、早過ぎるやうに感ずる。矧や上場する時、ずつと新しい叙法の羽織を著せるので、時代の懸隔が愈大きくなるのである。  次に作中の人物が尊卑共に名のりを呼び合ふことが多い。征夷大将軍になつてゐる頼朝を剥出しに頼朝公と呼ぶのを聞くと、真面目でゐられなくなる。  こんな事より重大なのは、人に心理上真実でないと感ぜさせる出来事である。例之ば鬼王、丹三郎が十郎祐成のエ藤に馳走になつてゐることを聞いて、すぐに憤つたり散いたりする。復讐の意志を揖擲したと信ずるのである。それから分疏を聞くと、又すぐに惑心して恐れ入る。年来気心を知り合つてゐる主従のやうでない。看客の側からは、此類の事は舞台でしらじらしい事をしてゐるやうに惑ずる。  歴史とし、又は伝説としては有つて好い事、劇としても白の中では聞いて好い事でありながら、それを劇の動作として見たくないことがある。例之ぱ曾我兄弟が十番新をする類である。これは看客の側からは、只残酷に惑ぜられるぱかりで面白くない。  歴史として有りきうになく、伝説としては無意識、作品としては有意識の踏襲らしく見える出来事がある。例之ば曾我兄弟が討入の前に、遊女に貰つた仮屋の図を披いて、「ここをしきつて、かう攻めて」と云ふやうな相談をする類である。  其外事件の運びを文に書く上に、紋切形と云ふやうなものがある。「様子は残らず、奥にて聞いた」と云つて、人物が登湯するなどがそれである。これは随分新劇の張本人イプセンなども使つたことのある乎であるが、どうも真面目に見聞してゐにくい。無意味に近い渡白などにも此類がある。  以上思ひ出し次第に列記して見たが、皆知れ切つた事で、殆これがために語を費すに及ぱぬやうである。併しこれを書いて煩を厭はぬのは、わたくしの改作した曾我を評して、「骨ばかり残してある」と云つた入があるからである。わたくしは右に列べたやうな物だけ を削つた。それが皮や肉や神経で、それを削つた跡に骨ばかり残つたなら、曾我には我等の保存すべき価値ある物は皆無でなくてはならぬわけになる。  さて右のやうな我等の感興を殺ぐ物が含まれてゐて、旧劇が味はれぬとすると、我等は旧劇を棄てゝしまふか、又はそれを改作するかの、二つに一つを選ばなくてはならない。批評家の一人が云ふやうに、右のやうな物を削り去つだ跡に、只骨ばかりが残るなら、旧劇は棄てーしまふに若くはない。併し我等はさうは信ぜない。  そこで旧劇は改作しなくてはならぬと云ふ必要が生ずる。  そんならどう改作するが好いか。  今日本でこれまで人の企てたことのない事、若くは企てX ・&成功したことのない事をするには、隣近所の 振合を見るのが捷径である。外国ではこんな場合にどうしてゐるかと云ふ問題に、我等はこゝで逢著する。  西洋にはグレシア劇のやうな古い物がある。それをどこかの国の現代語に訳して上場する場合を考へて見よう。厳重な意味で、そつくり其借上場することはないと云つて好からう。原作に拠るにも、いたはりつゝ多少削る。この削ると云ふのは改作の消極的手段である。これはグレシア劇程古い物には眠らない。最近にハウプトマンはシルレルを大いに削つて上揚した。僅に百年前の自国の作にも、上揚のために削る必要のあるのを認めたのである。削ることを極端まで推し及ぼして、作中の出来事の頂点ばかりを残して、山の顛から顛へ飛ぶやうな体裁にして見たこともあるが、これは真面目には受け取られぬ方法である。  此消極的手段を行ふと同時に、何物をか新に加へると云ふ積極的手段もある。これもいたはりつ≒或る 程度を論えぬやうに、補綴した限は、その出来上がつたものは猶改作の舞台本と看るべきである。ホフマンスタアルがグレシアの材料を使つて、現代思想の脚本を書いたなどとは違ふ。  かう云ふ改作には当初ょり文芸上のambitionはない。近頃Vollmoellerなんぞのグレシア劇改作本には、 序文に此意味の事がことわつてある。  我等はかう云ふ外国の前轍を、その価踏むべきであらうか、それとも外に工夫を加ふべきであらうか。これが一歩進んだ問題である。  わたくしは曾我に乎を下さうとして、此問題の前に立つた。そして西洋の前例を其価襲用することの出来ぬのを知つた。  わたくしの読んで見た曾我劇の旧脚本は、明治になつてからの第一流の作者の乎に成つたものである。其 作者には、わたくしは面識があつて、敬しもし愛しもしてゐる。併しわたくしは此人をグレシアのソフオクレエス、エウリピデエスや、又ドイツ近代のシルレルと同じ地位に置くことは出来ない。わたくしは其文章字句をいたはる責任を感ぜない。  そこでわたくしは旧脚本の揚割、出来事の進捗、人物の出入、先づざつとこれだけの物を保存して、全く新しい文章字句で書いた。稀には「西王母が園の挑」云々と云ふやうな句が、彼にも此にもあるが、これは真字木曾我物語以来の古い句で、旧脚本に始て見えた句ではない。  わたくしは旧脚本から、味ふ邪魔になる物を削つだ。併し削つたのは文ではない。筋である。わたくしは旧脚本に、曾て無かつた物を少し加へた。併し加へた物は、曾て有つだ物と共に、文としては皆新しいのである。  実にわたくしは妙な事をした。旧脚本の文をいたはらずに、場割や、出来事の進捗や、入物の出入をいたはつた。  かうして「曾我兄弟」は出来た。  わたくしの敢てした事は、こんな妙なものではあるが、今我兄弟も矢張改作舞台本である。文芸上のam-bitionのない作である。  それに狂言座の刷物に「新しい大歴央劇」だと云ふやうな事が書いてあつた。大いに事実に背いてゐる。併しあれは商売のためにする広告のやうな物で、常識のあるものは真面目には聞かなかつただらう。  批評家の中で、饗庭与三郎君は「旧劇の苅込」だと云つた。流石饗庭前だけあつて、旨い事を言つたらのである。わたくしは確に旧脚本に対して、筋の苅込をしたのである。伊原敏郎君は「旧劇をらんぴきに掛け たものだ」と云つだ。削減が筋の上に加へられたから、多少蒸溜に似た処がある。蒸溜は酒精を残して間雑物を去るのだから、これは肉を去り骨を存したと云ふ評の、丁度裏になつてゐる。併し伊原君の詞には、友人間の会釈があるかも知れぬから、わたくしは鼻を高くはしない。  或る批評家は、曾我兄弟を書くやうな、活気のないことをしてゐて、新しい人の新しい運動に助力しないわたくしの老衰を笑止がつてくれた。いかにもわたくしは老境を歩んでゐる。新しい、立派な製作をしてゐる、盛んな人達の後に瞳目してゐる。併し旧劇の改作のやうな、政綱な事業には、若い、盛んな人達は手を下すに遠がないだらう。笑止がりつ≒それを老人に任せて置くも好いではないか。そして其老人が、旧劇の改作のやうな、詰まらぬ事を、まだ誰も成功しない、新しい事だと思つて、好い気になつてゐるのは、或は 滑稽かも知れぬが、広大力萌術の園には、此位な滑稽を容れる余地のないこともあるまい。  曾我兄弟の羅ち得たものは批評界の謂であつた。狂言座には気の毒である。帝国劇場にも気の毒である。  併しわたくしは曾我兄弟を書いたことを悔いない。わたくしはあれを書いて、所謂苅込方の上に、好い経験をしたやうに惑ずる。そして未来に於いて、種々な旧劇を改作して見たく思ふ。誹膀の矢をはね返す、札よき鎧を著た興行者があるかしら。