長谷川辰之助 鴎外 逢ひたくて逢はずにしまふ人は沢山ある。 それは私の方から人を尋ねるといふことが、殆ど絶 待的に出来ないからである。何故出来ないか、私には 職務があると詳解して見る。併し此詳解は通らない。誰だつて職務の無いものはあるまい。何かしらしてゐるだらう。  役所に出る前、役所を引いた後、休日などがあるから、人を尋ねれば尋ねられる筈である。ところが、朝なぞは朝飯を食つてゐるとお客に掴まる。夕方帰つて見ると、待ち受けてゐる人がある。土頃日の午後、日曜日、大祭日なぞには朝からお客に逢ふ。一人と話を してゐるうちに、後の一人が見える。とうく日が暮れてしまぶ。  面会日といふものを極めてゐる人もある。極めると心ると、なんだか自分で自分を縛るやう心心持がして不愉快である。それも嫌だ。  あるときお客の淘汰をしようとした。お客の話の中で一番面白く心いのは、何か書け、書けません、是非書けの押問答である。それを遣るに極まつてゐる新聞雑誌の記者諸君丈を謝絶して見ようと試みた。取次に教へてある挨拶はかうである。お話に人らつしやつだのなら、どうぞお通り下さい。新聞社や雑誌社の御用で人らつしやつたのならお断中します。先づこんな風に言はせるのである。  併し此淘汰法は全く失敗に終つた。個人の用だと云つてお通りになる。自分の心得の為めに承知して置きたいといふので、色々心事を聞いて帰られる。それが 矢張何かに出るのである。  新聞の探訪は手段を選んでは出来ない。訪問記者だつて殆ど同じ道理であらう。その位な事を遣られるのは無理はない。  その外素直に帰つた人は憤感してゐるのだから、飛んだ処で、其需憤を洩すこともある。人の名誉とか声価とかといふやうなものは活板で極められる活板時代であるから、新聞雑誌の記者諸君を片端から怒らせるのは、丸で自分で自分の順に泥を塗るやうなものである。お客の淘汰は所詮出来ない。依然どなたにでもお目に掛かる。常の日の内にゐる時間も、休日も、祭日もお客のお相手をする。人を尋ねる余裕はない。  私はこんな風に考へてゐる。尤も私だとて、こんな風に考へてゐるのを立派な事だとは思つてゐない。こ んな風に考へざることを得ないのは、実に私の拙なの である。  私の時間の遣操に拙なのは、金の遣操に拙なのと同一である。拙は蔵するが常である。併し拙を蔵するのも、金を蔵すると同一で、気苦労である。今は告白流行の時代である。但て私は私の拙を告白するのである。  長谷川辰之幼君も、私の逢ひたくて逢へたいでゐた人の一人であつだ。私のとうく尋ねて行かずにしまつた人の一人であつだ。  浮雲には私も驚かされた。小説の筆が心理的方面に動き出しだのは、日本ではあれが始であらう。あの時代にあんなものを書いたのには驚かざることを得ない。あの時代だから驚く。坪内雄蔵君が春の屋おぼろで、矢崎鎮四郎君が嵯峨の屋おむろで、長谷川辰之幼君も二葉亭四迷である。あんな月並の名を署して著述する時であるのに、あんなものを書かれたのだ。謔の名を著述に署することはどこの国にもある。曹もある。今もある。後世もあるだらう。併し「浮雲、二葉亭四迷 作」といふ八字は珍らしい矛盾、稀なるアナクロニスムとして、永遠に文酉史上に残して置くべきものであ 願訳がえらいといふことだ。私は別段にえらいとも思はない。あれは当初だと思ふ。願訳といふものはあんな風でなくてはならないのだ。あんな風でない煎訳といふものが随分あるが、それが間違つてゐるのである。あれがえらいと云はれたつて、亡くなられた人は決して喜ぴはせられまいと思ふ。  著作家は葬Gれる運命を有してゐる。無常を免れない。百年で葬られるか、十年で葬られるか、一年半年で葬られるか?問題である。それを葬られまいと思つてりきんで、支那では文章は不朽の盛事だ何ぞといふ。 莞束ない事である。枯を蓋うて名定まる何ぞともいふ。その蒼枯の後の名が頗る怪しい。Stendhalの作を Goetheが評した。それがギョオテの全集に残つてゐ て、名前の誤植が何板を重ねても改められずにゐた。そのスタンダルの掘り出されてもてはやされる時も来 る0 Gottschedは敵役であつだ。ギョオテやSchiller が吹聴せられるので、日本にまで悪名を伝へられてゐた。それがどうやら昨今掘り出され掛かつてゐるやうだ。  死んで葬られるのは当初とも言はれる。生きてゐて葬られるのは多少気の毒である。生きてぴんくしてゐる奴を、穴を掘つて押し落して、上から上を掛けふことは珍らしくない。  自分が頭を出すために人を生垣にすることがある。頭を出す位の人なら、人を生埋にしなくても頭を出すに差支はない。それを人を生垣にしなければならないやうに思ふのは、目が昏んでゐるのかも知れない。併し人は皆達観者ではない。著述家だつて目の昏んでゐるのがあるのはしかたがない。  人を生理にすることにばかり骨を析つてゐて、自分の頭はどうしても上がらたいのもあるやうだ。こんなのは御苦労千万である。  西洋人は人を葬るとき、土は汝の上に軽かれと云ふ。生理にしたとき、頭め上の上が余り軽いと、又ひょつくり頭を出すことがある。  長谷川辰之幼君などもこんな風にレサアレクションを遣られた一人かと思ふ。  平凡が出た。 私は又逢ひたいやうな気がした。併し此人の所謂自 然主義の牛のよだれが当つて、「しゆん」刑れめ人に 「しゆん」が又循つて来だのが、即ち葬られて更に復 活したのが、却つて一肩私を尋ねて行きにくkしたやうな心持がした。 流行る人の処へは猫も杓子も尋ねて行く。何も私が尋ねて行かなくても好いと思ふ。かういふ考も、私を 逢ひたいる。 人に逢はせない でしまぶ一の原因になつてゐ  中江篤介君なんぞは、先方が一度私を料理屋に呼ん で馳走をしてくれたことがあるのに、私は一度も尋ね て行つたことがない。それが不治の病になつたと聞い て、私はすぐに行きたいと思つた。そのうちに一年有 半の大評判で、知らない人がぞろく慰問に出掛ける やうになつた。私はとうく行かずにしまつだ。尾崎 徳太郎君も私の内で雲中語といふ合評をする席へ、一 度来てくれたことがある。これも不治の病になつだ。 今度は私も奮発して、横寺町の二階へ逢ひに行つだ。 此人は色の浅黒い、気の利いた好男子で、不断身綺麗 にしてゐる人のやうに思つてゐたが、病気の診断が極 まつて余程立つてからであつたにも拘はらず、果して 少しも病人臭くはしてゐなかつた。愉快に話をした。 23菓子を出して残念ながらお相伴は出来ないと云つた。 私は今でも、あの時行つで逢つて置いて好かつたと思つてゐる。  話が横道に這入つたが、長谷川辰之幼君を尋ねることは思ひながら出来ずにゐて、月日が立つたのである。  併し丸で交通がないのではない。Q会式を訳するのに、独適訳を参考したいと云つて、借りにょこされたから、私は人に本を貸すことは大臓なのに、此人に丈は貸したことがある。何とかいふ露西亜人が横浜で雑誌を発刊するのに、私の舞姫を露語に訳して遣りたいが、差支はなからうかと、手紙で問ひにょこされた ことがある。私は直に差支はないと云つて遣つだ。程 なく雑誌に舞姫が出ることになると、その雑誌社から、わざく敬意を表するといふ電報が来た。次いで雑誌を十部ばかり送つて来た。私は余り鄭重にせられて恐縮した。そんな風にしてゐるうちに、ある日長谷川辰之幼君は突然私の千駄本の家へ遣つて来られた。  前年の事ではあるが、何月何日であつたか記憶しない。日記に書いてある筈だと思つて、繰返して去年ぢ ゆうの日記を見たが、書いてない。こんな人の珍らしく来られたのが書いてないやうではといふので、私の日記は私の信用を失つたのである。  私は大抵お客を居間に通す。その日に限つて、どうかして居間が足の踏みどころもないやうに散らかつてゐたので、裏庭の方へ向いた部屋に通した。  急いで逢ひに出て見ると、長谷川辰之幼君は青み掛かつた洋服を着てすわつてをられた。私の日に移つた人は骨格の逞しい偉丈夫である。浮雲に心理状態がゑ がかれてゐるやうな、貧血な、神経質な男ではない。 平凡にゑがかれてゐるやうな、所謂賃訳をして暮しの助にしてゐる小役人らしい男でもない。 話をする。私には勿論隔はない。先方も遠慮はしな い。丸で初て逢つた人のやうではない。何を話したか。  私は、此の自ら設けた問に答へるに先だつて、言つて置きたい事がある。こゝで私は此人を、どんなにえらくでも、どんなに詰まらなくでもして見せることが出来る。此人をえらくすると同時に、私がそれにおぷさつて、失敬だが、それを踏台にしてえらがることも出来る。此人を詰まらなくして、私のえらさ加減を引立たせることも出来る。ドーフマチカルな、巧妙な対話を組み立てることも出来る。そして此人はそれに対して何の故障を言ふことも出来ない。反駁が出来ない。取消が出されない。  これと同じ場合に、言はれたり書かれたりしたことが、世の中には沢山あるだらうと思ふ。何事でも、それを見聞したといふ人の伝へは随分たしかな筈である。自ら其局に当つたといふ人の言ふことなら、一層確な筈である。 のは、用心して読むべきものであらう。意識して筆を曲げたものがあるとすれば、固ょり沙汰の限である。 縦令それまで*#くとも、記憶は余り確なものではな い。誰の心にも自分の過去を回護し修正しようと思ふ傾向はあるから、意識せずに先づ自ら欺いて、そして人を欺くことがある。  何を話したか。  私は小説を書いてゐるのではないといふことを、先づ十分意識の上に喚び起して置かねばならない。私は亡くなられた人に対して、大いに、大いに謹慎しなくてはならない。  さてさうなつて見ると、私の記憶は穴だらけで、到底対話を組み立てることは出来ない。  長谷川辰之幼君は、舞姫を訳させて貰つて有難いといふやうな事を、最初に云はれた。それはあべこべで、 いふも  お礼は私が言ふべきだ、あんな詰まらないものを、好 併しどこの国にも沢山あるメ七アルなんぞと く面倒を見て訳して下さつたと答へた。 血笑記の事を問うた。あれはもう訳してしまつて、 本屋の手に廻つてゐると話された。  洋行すると云はれた。私は、かういふ人が洋行するのは北上もない事だと思つて、うれしく惑じて、それは結構な事だ、二十年このかた西洋の様子を見ずにゐる私なんぞは、羨ましくてもしかたがないと云つだ。  暫く話してゐたが、北人のロからは存外文学談が出ないで、却て露西亜の国風、露西亜人の性質といふやうな話が出た。露西亜と日本との関係といふやうな事も話頭に上つだ。  一時間まではゐないで帰られたやうに思ふ。  その後、私は長谷川辰之幼君の事は忘れてゐた。あ る日役所から引き掛に、須田町で、電車の窓へ売りに 来る報知新聞の夕刊を買つて見た。その夕刊の一面に、長谷川辰之幼君の事が二段ばかり書いてある。西洋で 肺結核になられて、であつだ。 いよ/ヽ4帰郷せられると いふこと  私はそれを読んで、外の事は見ずに、新聞を置いいろ/yな事を考へながら帰つだ。容態が好くない て `● か ら帰られるのだとは書いてあつた。併し兎に角、印度洋を渡つての大旅行を敢てせられるのだから、存外悪性でないのだらうとも思つて見た。結核菌の証明せら れた肺尖加答児の人にも、すつがり快復して長生をす る人もあるなどといふことを思つた。  ある日新小説が来た。小山内薫君の途中といふ小説が出てゐる。此頃ちょいく人の小説を読むやうになつてゐるので、ふとそれを読み出した。途中の主人公も洋行する。露西亜にゐて肺結核になる。事実に拠つたらしい小説で、長谷川辰之幼君とは年代の関係が違ふが、その経歴の順序が似てゐる。私は始終長谷川辰之幼君の事を思ひながら読んだ。 途中の主人公は、肺結核になつて露西亜から帰つて  りく露語で話をする。 も、その後何年か生きてゐて死んだ。長谷川辰之助君はとうく故郷に帰り著かずに、却つて途中で亡くなられた。  亡くなられたのは、印度洋の船の中であつたさうだ。誰やら新聞で好い死どころだと云つた。私にもさういふ感じがする。  併し臨終の析の天候はどうであつたか知らない。時刻は何時であつたか知らない。船の何処で死なれたか知らない。  私はかういふ風に想像することを禁じ得ないのであ る。病気で欧羅巴を立だれたのであるから、日本人の 乗合のない船には乗られなかつたに違ひない。病が段々重るので、その同国人はキヤビンの病昧を離れずに 世話をしてゐる。心安くなつた外国人も、伺舟の夙縁 で、親切に見舞に来る。露西亜人もその中にゐて、を 或る夕、海が穏である。長谷川辰之幼君はいつもょ り気分が好いから、どうぞデツクの上に連れて行つて海を見せてくれいと云はれる。側のものは案じて留めよぅとするが、どうしても聴かれない。そこで世話をしてゐる人がやぅく納得する。  かぅいふ船には籐の寝台がある。あれは航海者がこxろざす港に著くと、船の小使に遣つてしまふ。さぅすると、小使がそれを繕つて持つてゐて、次に乗る客に売るのである。あの籐の寝台がデツクの上にある。その上へ長谷川辰之幼君を連れて行つて寝かしてあげる。海が穏である。印度洋の上の空は澄みわたつて、星が一面にかがやいてゐる。 程好く冷えて、和かな海の上の空気は、病のある胸 をも喉をも刺戟しない。久し振で胸を十分にびろげて呼吸をせられる。何とも言へない心持がする。船は動 くか動かないか知れないやうに、昼のぬくもりを持つてゐる太洋の上をすべつて行く。暫く仰向いて星を見てゐられる。本郷弥生町の家のいつもの居間の机の上にランプの附いてゐるのが、ふと画のやうに目に浮ぶ。併しそこへ無事で帰り著かれょうか、それまで休が続くまいかなどといふ余計な考は、不思議に起つて来ない。 長谷川辰之助君はぢ いつと目を瞑つてをられた。そ して再び目を聞かれなかつた。  あi。つひく少し小説を書いてしまつた。併しこれは私の想像だといぶことをことわつて置くのであるから、人に誤解せられることもあるまい。隨つて亡く なられた人を累するやうな虞もあるまい。