フアスチエス (対話) 森鴎外       一 官吏。(血色好き、肥えたる男。カイゼル髭。四十歳許。洋 服。大いなるデスクに向ひて坐し、左手にくゆる葉巻を持 ち、右手にて書類を願しゐる。暫くありて、手を書類より 放し、記者に面を向く。)なんの用事ですか。 記者。(敏捷らしき、痩せたる男。三十歳許。デスクの傍に 立ちゐる。)御繁用中に済みませんが、少し承りたい 事が。 官吏。はあ。どんな事で。 記者。近頃風俗を壊乱する著作物を出したといふので、  処罰せられるものが大分ございまするが、あの処罰になりまする標準といふやうなものが承りたいので。官吏。その事ですか。それに就いては、世間のものが我輩其の遣る事を誤解してゐるやうですょ。丁度好 い機会ですから、我輩の考へてゐる所を話して置いても好いです。 記者。(手帳を取り出す。これょり時々談話の要点を筆記す。)難有うございます。 官吏。(講義をするやうなる調子。)一体発売を禁止せられる著作物には、安寧秩序を楽才といふ側のものも あるが、多くは君の云はれる通りで、風俗を壊乱するといぶ側のものです。どちらでも、或る書籍を著 達しだのが、罪を構成するか、しないかといぶ触接点があるのです。安寧秩序を楽すといふのは、現在 の一般思想が我国の共同生存に害ありと認むる程度のむので、風俗を壊乱するといふのは、現在の一般 道徳観念が我国の共同生存に害ありと認むる程度のもので、此程度で罪が構成せられるのです。この 「現在の」といふこと、それから「一般の」といふこと、それから「我国の」といぶこと、この三つが重要な条件です。道徳観念の側で云つて見ても、此観念は時代にょつて変化して行くですな。例之ば源氏物語のやうな古いものに、云云の記事がある。それが敦科書にも用ゐられてゐる。発売を禁止するどころではないぢやないかなんぞといふものがある。それは時代が違ふから、頭への感じが違ふ。文体が違ふから、美化して見る。議論にはならないですだ。又今日我輩共が風俗を壊乱すると認めるものが、未来に於いては差支ないことになるかも知れないですよ。さういふものを書く人は、文壇の先覚者であるかも知れない。時代の革命者であるかも知れない。執法者は娼妓になることを恥ぢない裏店の娘や、女  邦貨を不道徳と思はない熊公ハ公の考を持つて遣つ てならないのは無論ですが、それかと云つて現代を 超脱するやうな、聖人君子とか高僧智識とかの考を 以て道つてもならない。其時代の一般思想が標準と なるのですな。それからフランスやロシアにこんな 本がある。それが我国にも輸入せられてゐるではな いかといふやうな事を言ふ。それ心議論にならない ですな。フランスやロシアの共同生存には差支のな いものでも、我国では有害と認めるのですからな。  原書の輸入せられるのなんぞは、それは一般に読ま ない。ペルシヤからどんな狽褒な書籍が輸入せられ ても、一向差支ないですな。 記者。(筆記を一寸頼めて、官吏の顔を仰ぎ視る。)それで は問題になつてゐます或る書籍を、同時代の他の書籍に比較して議論いたしまするのは宜しいわけでご ざいまするね。現在の御標準は御一定になつてゐる のでございまするから。 官吏。それも行けないですだ。警保局、警視庁、検事 局と、事件を取り扱つてゐる宮貨が違へば、その思 想感情が違ふ。又同じ人でも日にょつて思想感情が 違ふから、前には寛仮したものも後には処罰すべき ものと認めることもあるだらう。又検間者が更はれ ぱ、その見る所が必ずしも一様でないのは当前です な。若し今罰する著作物と同程度若くはそれ以上の 他のものが見遁がされてゐたなら、それは見遁がし た検関宮の乎落ちですな。我々に責任はない。それ に動かされては、裁判は出来ないですからな。 記者。はあ。なる程。それから先刻先覚者の著述とい ふお話がございましたが、さういふものと、其他の 目的で書いたものとは違ひますでせう。 官吏。それは差別はある。併し処罰することは同じで すな。目下多くの場合に於いては、その中に多少の  高低はあらうが、文士が名を売るため、又は其著作 物を多く売るため、即ち名利のためにする階劣な所 業だと認めて然るべきだらう。先覚者なら、自ら法 に甘んずるだらうから、泣き言は言ふまい。心事の 階劣な著作者は仮借なく法を以て罰すべきですな。記者。(手帳を願して見る。)いや。これまでどなたに伺 つてもはつきり分りませんでしたが、あなたに承り まして、始て好く分りました。難有うございます。  (手帳をしまひて去らんとす。) 官吏。たにお易い事でした。併し一寸御注意しますが な、わたしが話したからと云つて、此標準はわたし 個人の人格とは全く別であることは無論ですょ。聖 人君子をも棚準としないし、熊公ハ公をも標準とし ないし、又自己をも標準としないで、現在の我社会 一般を標準とするのですからな。 記者。いや承知いたしました。御繁用の処をお邪魔いたしました。さやうなら。(去る。) 官吏。さやうなら。(火の消えたる葉巻に火を附く。)      二 文士。(色蒼き痩男。髪も瓢も伸びをる。産地疑はしきパナ マ帽。羽織袴。飛び飛びに柳を栽ゑたる堀端の道にて、前 を行く官史に、帽を況して、声を掛く。)一寸覗ひまする が、あなたはN判事ではお出なさいませんか。 官吏。(洋服。ステッキ。葉巻を飲みながら歩きゐたるが、  振り返る。)我輩はNですが、君はどなたですか。 文士。(名刺を出して、恭しくわたす。)これからお邸へ参 らうと存じてをりましたのです。御挨拶をいたした ことはございませんが、お顔を存じてゐたものです から、失礼ではございまするが、お呼び掛け中しま した。(間。)いつも徒歩でお帰りになりまするか。官史。(名刺を見る。)医者が運動が足らんといひます  ので、をりをり歩いて帰ります。(間。)我輩もたま には小説を読むことがあるので、君のお作を見たこ ともあります。何か御用ですか。 文士。いさえ。いつもろくな物は書けませんので、恥 ぢ入ります。(間。)用事と申しまするのは外でもご ざいませんが、文芸に関する処罰の事をお話しにな りましたのを、雑誌で拝見いたしまして、少し伺ひ たい事がございますので。 官吏。はあ。其事ですか。(葉巻の灰を落して、一口飲む。  歩き出す。) 文士。(左側に添ひて歩む。)あの問題に就いて、これま で当路者の意見の発表になりましたことも度々ござ いまするが、此度のあなたの御意見のやうにはつき りした、要領を得たものはなかつたやうに存じます。  そこでわたくし共の考へてをりますることをお聴に 入れて見まして、又それに就いてお示しを受けるこ とが出来ますると、為合せまするのでございまするが。 官吏。はあ。どういふお考へですか。 文士。それをお話し申しまするには、最初におことわ り申して置きたい事がございます。それはわたくし 共の持つてをりまする理想といふやうな物は一切申 しません事にいたしまして現在に行はれさうに思ふ ことに限つて申し試みようと存じまするのでござい ます。失礼な事を申すやうではございまするが、丁 度あなたが御自分個人としての人格は措いて、社会 一般を標準としての御意見をお話しになつたやうな わけでございます。(間。)そこであのあなたのお話 のうちにございました、著作をする目的といふやう なものでございますね。あなたは世の先覚者として 作るものと、名利のために作るものとを別けてお話 しになりました。あそこに、筆記には少し不明瞭に なつてゐる廉がございました。それは「多少の高低がある」といふやうなお詞がございまして、その前後の文章の続きが不嘘かになつてゐましたのでございます。併しわたくし共はかう解釈いたしました。 先覚者と名利を趙ふものとは、言はげ両極のやうなものでございまして、二つのものの問に移り行きがあるといふことかと存じました。これは実際がさうだらうと存じます。世の先覚者とか、思想の上の革命者とかいふやうな人物でも、文芸者であるからは、名の聞えることを願はないわけには参りますまい。又著作物が喪服も刊行せられて、収入の饒かなのを喜ばないわけには参りますまい。それはどこの国、いつの時代の鋲匠大家でもさうでございませう。それから名利と一口に申しましても、名を求めるとなると、梢高尚でございまそう。単に射利を目的として、批評の上で暮術的価値のないものを書いてゐる と認められても構はない人もありますが、それが一番賤しいのでございませう。これが両極で、その中間に先程申しました移り行きがございます。それが著作者の多数でございませう。この移り行きの著作者は、卑い方から言ひますると、自分の書いたものをなるべく多く売らう、なるべく高く売らうと云ふぱかりではありますまい。所羽二重宛もいたしませう。又イタリア復興時代のPietro Aretinoなんぞのやうに、多少の伎倆を持つてゐて、それを人を迫害する利器に伎つて、諸国の帝王貴族を脅かして、財物を獲ようとするまでにも至りませう。それと反対に、善い方から言ひますと、けちな文士にもけちな文士相応に、萌術家としての良心もあり、アンビシヨンもありませう。あなたは多少の高低があるだらうとは仰やいましたが、あの御口気から推して見ますれば、あなたは一方には絶無住有とお認めにな つてお出なさるらしい、先覚者といふものをお立て になり、他の一方には名利を址つてゐる、心事の阻 劣な文士をお置きになりまして、今の文壇の殆ど悉 皆を後のものとお認めになつて、お話をなされたや うに存ぜられます。失礼な申しやうかは存じません が、その為めにお話が梢や刻薄にわたつてゐはいた しますまいかと存ぜられましたのでございます。併 しそれは只わたくしの惑じに過ぎないのでございま す。兎に角あなたも先覚者といぶものを日中にお置 きになつたには相違ないのでございます。さういた して見ますれば、検挙せられた或る著作者が、所謂 先覚者であらうか、さうであるまいかといぶ情を尽 きずに処罰をなさりまするのは、ょしや御意見の通 りに、そのものは甘んじて処罰を受けるといたしま しても、戦法者たる御精神に於いて、御本意に背いてお出なさるわけではございますまいか。又わたく  し共の観察してをりまするところでは、小さい文士にも小さい文士相応に芸術家たる良心はあると存じ まするから、此疑問は殆ど総ての場合に生ずる筈だらうと存じます。そこで一事件ごとに必ず鑑定人と して、文芸に従事いたしてをりまするものを召喚せられることになりました方が宜しくはございますま いか。先づ此点を承りたいのでございまするが。官吏。(短くなりたる葉巻を棄つ。)そんな必要は認めま せんな。仮に我輩が個人として文芸上の価値を秤に 掛けて見ることが出来るとしても、それを標準とは せずに、我社会一般を標準として裁判するのですからな。 文士。その御意見は領解してをりまするのでございま す。それでございまするから、社会のために有害か 無害かといふ鑑定をおさせ下さるやうにと申すので はございません。その点に就きましては、健かプロ  孝センの法相Beseler ・&>あなたの御意見と同じ言明 をいたしたことがございましたがと存じます。わた くしの中しまするのは、同じ処罰をなさるものとい たしましても、それを受ける著作者がどういふ目的 で著作をしたかといふことを、鑑定させて御竟にな りまして、其上で御判決になる方が宜しくはござい ますまいかと申すのでございます。あなたのお詞を 以て申しますれば、先覚者を先覚者と御承知なさら ないで処罰をなさることのないやうに一応鑑定をお させなさる方が宜しくはございますまいかと中すの でございます。心理を顧みない法の執行は形式に流 れるといふこともございますやうでございまするか官吏。それは揚合に依るですな。心理を究めないでは 判決を誤ることがあるから、さういふ場合には心理 問題も生ずるです。風俗を壊乱する著作をしたもの は、縦ひ先覚者であつても、処罰せられるのですから、先覚者であるといふ鑑定は、法の執行上になんの影響をも及ぼさないですょ。隨つてそんな鑑定の 必要がないですよ。 文士。はあ。さやうでございますか。実は其辺も承つ て確めて置きたいと存じましたのでございます。名利のためにする、心事の暇劣なるものは「仮借なく 法を以て罰する」といふお詞がございましたので、  その反対の側には先覚者には酌量をお加へになるといふ意味が含まれてゐるかとも存じましたのでございます。 官更。そんな意味はないですな。 文士。はあ。領解いたしました。続いて承りたいと存 じましたのは、あなたが現在の我社会一般を標準に なさると仰やいまする、あの現社会一般といぶ御見 解でございます。仰せの通りに道徳は時代と共に変 遷いたします。国ごとに相違いたしてゐる廉がございます。尤もこの国に依つての相違と中しまするも のは、世界の交通が自在になり、国々の教育も隆盛になりまするので、わたくし共の観察いたしまするところでは、存外大きくはビざいますまいかと存じます。どこの国でも自分の国語で読み書きの出来ないものの減じて行くことは中すまでもございません。小学校から始めて、少く-& facultatifにどれか一つ位の外国語は教へることになつてをります。そこで文化といふものは次第に共通のものになるらしく存ぜられます。御意見を筆記したものを見ますると、ペルシヤからどんな狽褒な書籍が輸入せられても、読む人がないから差支ないと仰やいましたやうでございます。なる程ペルシヤの書物は差支ないかも知れませんが、それは読む人がないから、多く輸入はいたしますまい。英仏独の書物なんぞは、学者とい ふ程の人でなくても、随分読みますから、沢山輸入いたすのでございませう。外国文学の社会との関係は、失礼な申しやうかも知れませんが、或はお見込よりは広く且深くはございますまいかと、わたくし共は存じまするのでございます。随つてあなたの法に問はなくても好いと思召す外国の原文と、法に問はなくてはならないと思召す訳文との懸隔が、実際に於いては大分小さくはないかと存じまするのでございます。併しそれもわたくし共の観察に過ぎないのでございます。兎に角時代に依つての変遷がございまするやうに、幾分か国に依つても相違の廉はございます。猶ここで一寸申し上げて置きまするが、時代の違つだものを、現在の著作物に比較しても、なんにもならないといぶことをお示しになるとき、その時代の違つたものの例に、今まで法に間はれたことのない源氏物語をお引きになりまして、先年法 に問はれたことのある井原西鶴の著作物なんぞをお引きにならなかつた事でございます。「時代が違ふから、頭への感じが違ふ、文体が違ふから、美化して見る」とか仰やるのは、西鶴の物なんぞの法に問はれたのを見ますると、その法に問はれたのが間違ひでなかつた限りは、その違ひが白と黒との違ひではなくて、鼠色の濃淡の様なものと承知いたして宜しからうかと存じます。時代に遠近があるから、頭への感じに厚薄がある。文体に雅俗があるから、美化とやらをして見るのに難易があると仰やつたやうなものでございませう。さやういたして見ますれば、なんにもならない、議論にならないとまで仰やる理由といたしましては、失礼な中しやうかは存じませんが、和や薄弱ではございますまいかと存じまするのでございます。併しそれは只わたくし共の感じに過ぎないのでございます。兎に角時代が違つて、感 じが違ふといふことは、わたくし共にも領解が出来ます。美化とか申すことは好く分かりませんが、文体が古ければ、尊敬して見る、又は重に他の興味を以て見るといふやうなことも、領解が出来ます。それから時代も同一、国も同一でありまする今の日本の事になりまして、あなたの仰せには、高僧智識や聖人君子の目を以て見たり、熊公八公の目を以て見たりするやうな、一方に偏した見解でなく、一般思想を以て標準となさると中すことでございました。高僧智識は世を挙げて罪人だと見るかも知れない。聖人君子は現在を超脱して見るから、現在有害と認められるものをも、有害と認めないかも知れない。熊公ハ公は、女邦貨を不道徳と思はない位、道徳的意識が発展してゐないから、有害のものが分からずに、平気でゐるかも知れない。さういふものの立揚に偏せずに、一般思想をお求めになると仰やるので ございませう。此一般思想をどうしてお求めになるかといふことは、わたくし共の考へまするには、余程重要な問題であらうかと存ぜられまするのでございます。聖人なんぞのやうに、高い方に偏してもな らず、熊公なんぞのやうに低い方に偏してもならないから、もつと広く' implicite聖人、イムプリチ テ熊公とじて、一般思想をお求めになるとしますると、それは余り漠然としてをりまして、掴まへどころがなくなりはいたしますまいか。そこでどういたしましても聖人なんぞは除けて、熊公なんぞも除けて、梢や限られたる範囲に於いて、一般思想をお求めになるといふことになりませうかと存ぜられます。一般思想は聖人を離れ、熊公を離れた、その中間の一般思想になりまするでございませう。此中間の一般思想として、そこに今一つお除けになるものがございませう。それは道徳の理想でございませう。中 間の人間もそれぞれ道徳はかうありたいと望んでゐる理想がございます。これはさながらに実現はいたしませんのでございまするから、除けて置いてお考になりますることと存ぜられます。観念といふ詞は度々お使ひになりまするが、あれは思想と仰やると、別段相違はたささうに見えまするから、理想は矢張除けてお考へになるらしく存ぜられます。これ丈お除けになりましたところで、中間の人間にはまだ無数の階級がございます。執法者はおー人であつて見れば、それを同時に又は順序に思ひ浮べて御覧になる、写象して御覧になるといふわけにはなりますまい。そこで先づ考へられまするのは、中間の許多の 人間の中数とか平均とかいふものをお考へになるだらうかといふ事でございます。これは随分有りさうな事でございまして、儲か独逸聯邦の近年の判決例なんぞにも、中数人物を標準にするといふことが、 所々に言明してあるやうに承つてをりまするのでございます。併しこの中数といふものは、申すまでもございませんが、極めて不確実な、極めて動き易いものでございまして、十人の中敷と、百人の中数と、千万人の中数とは、大さうな相違がございますし、同じ十人の中敷でも、その計上せられる人間の種類が変りまする度に、即ち或る種類の人間が増減いたしまする度に、大きい狂ひを生じて参りまするのでございます。そこでこの不確実な中数をお取りにならないといたしますると是非中間の許多の人間の価値をお考へにならなくてはなりますまい。値踏をなさらなくてはなりますまい0 Normationの問題がここに生じてまゐります。原来が標準をお立てになるのでございまするから、問題は勢ここに到着しなくては已まない筈でございませう。執法者の一般思想と仰やるのは、此標準人物を写象して御覧になる ことになりませうと存じます。併しこれにも異論はビざいます。Frankといふ男は民法上には標準人物を立てて宜しいが、文芸なんぞの裁判には標準人物は役に立だないと中したさうでございます。Lazarusといふ男は芸術晶に関する裁判にも標準人物が用立つとしてゐて、さてこんな風に論じてをりまするさうでございます。判事は標準人物の一人でなくてはならない。若し芸術に関する事件に当つて、自分が標準人物になられない程、此方面の教育が足らないなら、専門の芸術家でない、白人で芸術の分かる鑑定人を召喚して問ふが好い。これは芸術家を鑑定人にする問題とは別問題である。併しそれ程無教育な判事は多分あるまい。若し自分が余り芸術が分かり過ぎてゐたならば、其方面の智識を繰り下げて、標準人物まで到達した上で、判決を下さなくてはなるまい。但し判事は標準人物といふ唯一人物で はない。許多の標準人物中の一人である。この許多 の人物は理想と中敷人物との中間に位する典型であ る。判事は写象して、種々の典型になつて見て、ど の標準人物から見ても有害だと認めたものを有罪と すべきである。単にどれか一人の標準人物から見て 有害だと認めたからと云つて、それで直ぐに有罪と 判決してはならないといふやうに論じてをりまする さうでございます。あなたの一般思想と仰やいます るのは、どうしてお求めになるものでございまする かが、伺ひたいのでございまするが。 官吏。そんな面倒なものではないですょ。我輩の頭脳 で冷静に考へれば、標準が出来る。その出来た標準 で判断をするですな。楽なものですょ。 文士。はあ。さやうで。(間。)御散歩のお邪魔をいた しまして済みませんが、今一つ承りたい事がござい ます。外でもございませんが、国が違つたり、時代 が違つたりする著作物は、法の執行の上に比較にならないといふことをお話しになつた末に、あなたは同じ国、同じ時代の著作物でも、比較することは出来ないと仰やいましたやうでございます。なる程事件をお取扱になるお役所がそれぞれ違ひますれば、自然思想にも感情にも違つだ傾きが出来て参りませう。又同じお役所の中でも、お役人のー人々々思想も感情も違ひませう。又一人のお役人でも、日に依つて、時間に依つて思想も感情もお違ひになりませう。あなたはそれが当り前だと仰やいます。人間が人間の裁判をする以上は、いかにもそれが当り前ではございませう。併し違ふのが当り前だから、違ひ放題に違はせて置く、判決例なんぞを研究するには及ぱないと仰やるわけではございますまい。こんな事で生じて来る相違の範囲は、なる丈狭くなるやうにとお努めに丈はなることでございませうと存じま す。只あんな風に仰やるのを承りますると、我々文芸に従事してをりまするものは、多少の不安を惑ぜずにはゐられませんのでビざいます。勿論それはわたくし其の惑じに過ぎませんので、申し上げたところで、いたし方のない事でございます。そこで進んでお伺ひいたしたいのは、かういふ次第でございます。お話のうちにも、現に処罰になる人の著作物と同じ程度か若くはそれ以上の著作物が、前に見遁がされてゐるとすれぱ、それは前の検間宮の手落ちであるといふことがございましたやうに存じます。検間宮にお手落ちがないにほ限りませんのと同じ事で、裁判をなさるお役人にも過つて違法の処罰をなさるといふことが、必ずないとは申されますまい。果してそれがあるといたしますれば、その処罰を受けたものは、随分ひどく権利を毀損せられたと申すものであらうと存じます。安寧秩序を斎乱したものは乱 民でございます。風俗を壊乱いたしたものは、敗他者でございます。oベ改とーしよに、crede mihi.  ヂスタyト モレス ア カルミネ ノストp  distant mores a carmine nostroと申したところで、  世間はなかなか許してはくれますまい。そこでさう いふものが訴願をいたすといふことは出来ないもの でございませうか。 官吏。出来ないですな。出版法にも、訴願法に心、明 治二十三年法律第百六号にもないですからな。 文士。はあ。さやうで。(間。)いろく承りまして難 有うございます。どうもお邪魔をいたしました。  (帽を脱いで別れ去らんとす。官吏も帽の縁に手を掛く。  暮色堀の肖うの土手の松を翠む。) 引き廻しの人。(笠の如き麦藁帽を被り、長さ課に達する鼠 色の犬引き廻しを纏ひたる大男。短き瓢順を続りて、眼光 煩々たり。いづくより来りしか、忽然二人の前に現れ、黙 つて二人を睨む。二人左右に尻餅を持く。)見苦しい奴等 だ。己を誰だが知つてゐるかい0 Heinrich Heineには影が形に副ふやうに、一人のDaemonが附いてゐだ。其デモンが云ふにはな、昔ロオマのSS巴の従者にlictorといふものがあつて、笞の束の真中に鍼を立てたfascesといふ道具を持つてゐたが、自分も其従者の様に、お前の口で言ふことを、あとがら実行して行くのだと云つたさうだ。己もデモンだ。やい。へろへろ文士。己は貴様を見損つてこれ迄附いてゐだのだが、もうこれでお別れだぞ。見下げ果てた奴め。さつきからの物の言ひざまはなんだ。物識り振つて高慢な事を言ふかと思へば、自分で自分を打ち消して、遁げ腰になつてゐる。先覚者や革命家はあるまいと云はれて、へえ、ございませんと引き下がる。己が附いてゐて遣るのに、なぜ己が先覚者だと名告らないのだ。貴様の文芸生活と俗生活とは到底矛盾を免れないと、三宅雪嶺が云つたのは、 けふ己が別れるのを預言したやうなものだ。やい。役人。国家は貴様にオオソリチイを与へてゐる。威力を与へてゐる。それはなんの為めに与へてゐるのだと思ぶんだ。己は戦法者だから、己の頭脳で己が判決する。歴史にも構はない。世界の文化にも構はない。己の判決と違つだ判決をすれば、それはそのした奴の間違ひだといふやうなことを言つてゐる。丸でロオマ法皇のinfallibilitasのやうな話だ。  ‘コヂアモチ イル パ パ ト  ケ  ヂオ チrt ifs ^ * (jodiamoci il Papato. che Dio ce 1'ha datoと、日本の暮術界がそれで恐れ人つてゐると思ふかい。威力は正義の行はれるために与へてあろのだぞ。ちと学問や暮術を尊敬しろ。(堀端を大股に歩み去る。二人腰の抜けたるままにて見送る。)