園藝小考  園藝とはいかなるものぞ。山水なき地に山水あらしむるなり、山水なきにあらず、其地の自然は自然のまゝにてあらせんには、観るに足らざるべきが故に、別に自然なる活植物を材として山水の趣をなし、観るに足るべからしむるなり。  地の平なるには仮山を築きて変化あらしめ、境の寂しきには、遺水を引きて活動あらしめ、清土をば沃土に化せしめて近きあたりには見難かるべき草木をもこゝに繁茂せしむるなり。抵その境地にあるべきものに趣を添ふるは、園藝の想 化の側にして、その境地になかるべきものをも移し来たるは、園藝の聯合の側なり、想化と聯合とは模倣の一歩を進めたるものに過ぎず。  園藝の材とするところは活植物なれば、その美きは実相に即きたる美にして、やがて自然美なり、人ありてその美を亨けんとするときは、先づその実を脱せざるべからざること、自然の山水に対すると殊なることなし、唯誉この園藝の美の山水の美に殊なるは人の抜巧のこれに加はりたるがためなり、人の技巧はこれを想化しこれを聯合せしなり。  人の園藝に対して美を享くることは疑ふべくもあらず。されど園藝は果して美を亨けんがためにのみ作らるゝものか、将た別に目的とするところあるべきか。答へていはく、園藝には明白に美の外なる目的あり、実用あり。庭園はおほよそ人の逍遥遊覧の時に発すべき興をば残ることなく発すべきものなり。目に若葉の緑を見、耳に禽虫の声を聞くは、猶高等なる官能を介して享くる所あるものとすべけれども、いろ/\の花はいふもさらなり、木立より草むらまで、そのめぐりなる空気に香を伝へて人の嗅官を快からしめ、涼しき風は人の庸を爽にす。この疲を医し鉗を忘れしむる功は、固より美術的受用と同じからず。園藝に実凧あることも復た疑ふべきにあらざるべし。  園藝は実用ありて、兼ねて人に美を享けしむ。されば園藝はかの彫塑絵画なんどの如く単に美ならんがために美なる自由の術にあ参ずして、その実用に覇絆せらるゝこと、猫家屋の輸集の美ありと雖、その用は主として実生活の側に存するがごとくなり。自由なる彫塑絵画にては、その材体は金石にもあれ、絹にもあれ、紙にもあれ、美術品の価を上下することなく、また上下すべきにあらずして、畢竟泥土に殊ならず。覇絆せられたる家屋庭園にては、大理石道には大理石の価あり、榊普講には檀の価あり、前栽の草木花卉には草木花卉の価あり。かなたは美の背後にこれに相応せる実体あるにあらずして、こなたは実体よりして人その美 1 を抽きて享くるなり、実を脱すとはこれを謂ふなり。  扱建築と園藝との関係を考ふるに、建築には死せる材体を用ゐ、園藝には活ける材体を用ゐるなり、建築家の死せる材体に賦するところは自ら作せる美術にして、園藝家の活ける材体に加ふるところは既に存せる自然美の想化と聯合とのみ。故に作者の個人たる袴とは、園藝にては建築に於けるが如く充分に現はるゝに由なく、庭園に入るものゝ誰かこれを営みしと問ふ念は家匿に入るものゝ講かこれを建てたると問ふ念の如く切ならず。  かの自由なる彫塑絵画に至りては、作者のその材体に賦与するところのもの建築より進むこと更に一歩にして、建築にて価あり、又価あるべき材体の作者に形式を受くる如く、彫塑絵画にては価なく、又価なかるべき材体新に作者の気息を塵き込まれて性命を得るなり、この第二の造化たる作者の能力は、自由なる蓼術にこそ明に存したれ、建築既にこれを発揮するに足らず。況や園藝いかでか能くその作者をして駿足を展べしめむ。  凡そ藝術品位の高下は、その作者の個人的特色の現ずる多少によりて定まること、独り古今の種々なる理想派の認むるところなるのみならず、所謂現今主義の最も晩出なるものも亦遂にこれを諾せざること能はざるに至れり。彫塑絵画は作者の我を含むこと最多く、建築はこれに次ぎ、園藝は自然を去ること遠からず。彼は藝術、此は自然、彼は製作、此は模倣、その縛ふところの相殊なるよりその品位にも亦高下を生ずるなり。  こゝに園藝と相隣せる一藝術あり。平索人のその性質の甚近きに心付くもの稀なりと雖、試に論理上より推究するときは、その相隣せるを認むること亦難からず、化粧即是なり。建築の材体の死物にして、園藝の材体の活物なることは既に言ひぬ。今園藝に於ける活材の植物に代ふるに、活材たる動物を以てし、人身を以てするときは、化粧となる。化粧は人身を想化す。或は衣服を以てし、或は髪膚の修飾を以てす、皆人身といふ自然美に加ふる想化の手段なり。  我国の園藝は特にこれを記述したるものいと少し。古くは後京極摂政良経の作庭記、後成恩寺兼良の尺素往来、中院康平の山水秘伝抄あり。近世に至りては鰹島翁の築山庭造伝、石組園生八重垣伝、都林泉名所図絵、菱川師宣の築山庭作伝あり。横井時冬氏の園藝考(明治二十二年大八洲学会出板)出づるに及びて、纔に藝術吏の体裁をなせり。姑く横井氏が説に従ひて、沿革の梗概を挙げむ。  いにしヘ庭園の国吏に見えたるは、推古帝二十年(西暦六二一年)百済の人路子工といふもの須弥山を造りしことあり。横井氏はその浮屠氏の教より出でたるを論じて、仮山の始とすべきにあらずと断したり、されど庭園の沿革上よりは、その形迹を取りて必ずしもその目的を顧みざること、古来藝術史家の僚例あれば、踏子工が須弥山をも築山の中に算して可ならむ。同じ帝の三十四年(六二六年)蘇我馬子飛鳥河の畔の家に池を掘り轟を築きて、島大臣の名を得たり。天平十二年(七四〇年)聖武帝橘諸兄が相楽の別業に幸せらる、諸兄は又井手里に山吹を植ゑしことあり。これより庭園の事稍ζ盛に興りて、聖武帝の松林苑、甫苑、廃帝の西南池など出来ぬといふ。  桓武帝の平安城を築き給ふや、(七八四年)南殿の桜、御階の橘より呉竹河竹の台など物に見え、離宮には神泉苑あり。巨勢金岡石を畳みきといふ、雲林、嵯峨、淳和等の諸院も亦此類なり、当時縄紳の第宅は所謂寝殿造又四阿造と定まりぬれば、その庭園も亦こゝにけて様式をなしにき。正殿は南面して、その東西若く一北に対屋あり。正殿の前には池を湛へ島を築き橋を一す。対星より南に通ふ廻廊ありて、その内を中庭と、立石築山の外、遺水あり、所によりては滝ありき。一の河原院等最名あり。横井氏は名づけて寝殿式の摩いふ。  頼朝の覇府を鎌倉に建つるや、(一一九二年)その一築は猶寝殿式に拠り、その園藝には浮屠氏の立石法一を用ゐることゝなれり、所謂鎌倉式の庭是なり。  室町氏に及びて、(二二九四年より)端を鎌倉時代一啓きたる玄関書院造の建築盛に行はれき。玄関とは土院に入る二扇門にして、その内には瓦を敷けり。僧一西が伝ふるところにして、支那の寺院を模したるな・その園藝は僧疎石(憂窓国師)最もこれに長したり、…木を苅り込みて方円種々の形をなし、活物に賦する一建築の形式を以てしたり、義満の金閣、義政の銀閣等、費名苑あり。これを室町式と謂ふ。  織同豊臣氏以来(一五七三年より)建築の数寄星式あると共に、庭園の様式も亦一変せり。数寄星は義政が東山に建てしに始まる、その庭園は富麗を避けて幽選に就き、野趣あらしめむとす。小堀遠州の桂離宮抔をその純粋なるものとす。世にいふ跨次式にして、横井氏の数寄星式と称するは是なり。  徳川時代の庭園に至りては、横井氏唯ξ吹上、浜、芝の諸離宮、戸山、後楽の諸園を列叙して別に様式を立てず。  支那の造園の書にして単行するものは、僅に計無否が園冶(明崇棟四年成)あるを聞く、この頃露伴子に借りて読むことを得たり、歴史上には周の霊圃(基督前一〇七八年)より秦の阿房宮苑(前二二一年)、漢(前二百年頃より)の上林、楽潜、樽望、黄山諸苑、後漢(初世紀より)の鴻徳、畢圭、霊毘、広成諸苑、階の西苑、(六〇五年)唐(七世紀より)の翠徴宮苑、宋(十世紀より)の壇林苑に至るまで、記述するところ少からずと雖、一面宏大なる丘陵池沼の形を成せると共に、一面又猟圃の性質を帯びたるもの多かりき。天子は董に乗りてその中に沸猟し、人臣その或は逸猷狂夫のために犯されむことを催れしなり、その遊園のいかに明代(十四世紀より)に発達せしかは、略ξ園冶の鋪地、擾山、選石等の諸条に就いて窺ふべし。その所謂借景に至りては、自然の山水に椅頼するものにして、既に藝術の外に逸山せり。  西洋の園藝はイエゲル、マイエルの書()その技巧を詳にし、シュナイデル、モレルの書()成すこと我室町式の如くなり、その井泉の彫鐘など精巧なるものありしは、ナポリの博物鏑に蔵したるポムペイの井亭を見て知るべし。  中古の暗黒世界は園藝にも利あらざりき。再生期に及びて仏王路易十四世(一六四三年立)の下に園藝家ルノオトルあり。樹木を苅り込みて台樹人獣の形をなすこと盛に行はれぬ。当時又中古の遺制たる迷路式あり、昔デダロスの造りぬといふ宮殿に擬して、入るものゝ道を失ふべきまで迂曲せしめたる藩鰹にして、我俗の八幡の森と称する類なり。亦建築的方式の外に出でず。  伊太利の再生初期(十五世紀)には多く植物園を造りぬ。これも中古の遺制なれど、能く植物をして天性を守ることを得しめしより外、技巧の取るべきなかりき。その梢ζ一種の技巧をなせりしは小園式なり。小園は家墨と沸苑との間にあり。その区劃の形は猶ほ平面測地学的なれども、色彩の差別によりて花卉を選び、その排列によりて紋理をなせること彩艶の如く寄木細工の如し。この慨ナ鰍チ梛に近き様式は明に一進歩をなしゝものなりと雖、その傭色に左右相斉からしめ、中外相反せしむるなど拘泥の迹あるは今の趣味を満足せしむるに足らず、再生後期(十六世紀)は園藝の金権を挙げて建築家の掌握に帰せしめき。羅馬ワチカノの松苑の経営より以来、造家者は即造園者となり、燈道式の庭園は建築の羽翼として欠くべからざる姿となりぬ。井泉濠布と云ひ、金石の彫像といふも、その変化の用をなすこと建築に於けると殊ならざりしなり。  西洋園藝の建築の覇絆を脱せし始は、再生後期の半にビエロ、リゴリオ(一五八○年死)が造りしチヲリのヰルヲ、デステの燈道上に喬木を集めて森林をなしゝ時にありて、こは沸苑の外辺に余命を保ちし猟圃の自然を移植しつるなり。これに郊原の趣を添へたるは羅馬の乎ルヲ、マツテイ抔その最古きものゝ一なるべし、仏国ユルサイユ宮苑の成るや、ルノオトルの名一時を傾倒して、全欧の大小の王者争ひてその典型を模したり、然れども仏の園藝は終に新様式を成さずして止みぬ。学者或は仏の園藝を以て、伊の形式より英の自然に之く間級となせども、その所謂間級は早く伊の有せしところなり。  園藝独立の功は英青利のヰリヤム、ケント(一六八五年生)に待つことありき。そのケンシントン苑は絵画より悟入せる新様式の権輿なり。木は建築的樸型に嵌めらるゝことを免れたり。丘はなだらかなる起伏をなせり、径は窮らむとして又通じ、或は小河に沿ひ、或は原曝を婁めり。この欧洲近代の金岡師宣は始て自然の想化たる庭園の性質を成就せしなり、されどケントの様式は一蹉蛛を経ることを免れざりき。そは形式を被ること極端に達して、変化に偏し、反映に傾き、山に宜からざるところに山を起し、水に宜からざるところに水を引き、暢びやかなる趣を忘れて、箱庭めきたる態に陥りしに由る。この形式を出でゝ形式に入りたる病は、支那の園藝を学びしより出づ。ヒルシュフエルドが潜潮なる著述(一七七九年成)は此病の膏盲に入りたるものなり、レプトン出でゝ此弊を一洗せり、その言にいはく、園丁の其地を相せずして計岡するは、猶医の其人を診せずして治療するごとしと。レプトンが庭園は地より生ひ出づ。要は草木泉石皆その所を得て、薯も天性を曲げざるにあり。これを山水式と謂ふ、今や此式独に入り仏に入りて、就中独のビュツクレル侯の如きは、そのムスカウの領を以て庭園の模範となしたり。  熟ξ東西園藝の沿革をおもふに、我に室町式の廃れて数寄屋式の生じたるは、彼に瞳遺式の破れて山水式の成れるが如く、皆人為の拘束を斥けて天然の自由を得たるものなり。されば活植物を用ゐて営み成せる建築は、到底発達の見込なきいたづら事にして、疎石、ーレノオトルの功は僅に歴史上に地位を占むべきものなること復た疑ふべからず、横井氏の引ける棟記にいはく。昔照高院の道嵩親王の獅子軌院へ御噺に、淀の真斎の作庭は世にもいやなるものと存ぜしが、今度峰入を致して始て覚悟いたしゝことの侍りき、大ていの奥山にはなき事なり、今一峰を分けて深山に入りたるとき、谷の樹木の体今の手に入れて作りたる樹に少しもちがはず、わざと丸くも方にも作りたるやうなり、此を見、彼を見れば昔の人の深山の深山を心に写す心にて致したる物にやと仰せらる。此論は建築的園藝に対する唯一なる辯護にして、西洋人の未だ曾て言はざるところ、いと珍しき心地す。されど自然に発展したる木の姿の円くなることは或は有らむ。方にはいかでかなるべき、矧や深山の深山の姿は、いづれの地にも宜しとはし難かるべければ、この辯護は牽強ならずば曲庇となりぬべし。  支那は我国の如き島国ならねば、その古の苑圃の自ら波耕、羅馬と暗合したるも亦怪むことを須ゐず。後世遊園の盛なるや、山に宜からざる地に山を起し、水に宜からざる地に水を引きて、聯合の極端より病をなせり、その式建築家チヤムベルスが著述によりて英吉利に入り、レプトンに逢ひて命脈を絶たれ畢ぬ。借景の一事に至りては、かの羅馬時代の制に従へるポムペイ地方の園に、その地のあまりに狭きときは、背後に劇場の書割めきたる絵画を建てたりといふ園藝と絵画との混清の如く、園藝と自然との混滑と看做すべきものなり、唯ξ園藝は共審美的性質上、既に実に即きたる植物的自然美を用ゐるものなれば、欧洲の山水式も亦借景を避けず。ケントが庭園の如きはわざと塘垣を設けずして、仮山水の藝術品と実山水の自然物との間に長濠を襲り、その篭石の処をば踊内より見るべからざらしめたり。園を行きて濠に到るものは、境界を預想せずして境界に出蓮ひ、はと驚くより曽ヒ民辻と名づく。ヱルサイユ林間の小運に今もト竃昌Φ宗ω目竺国ヒと称するものあるは是なり、されば若し支郵園藝中に就いて、強ひて存すべきものを求めば、これを披巧以外なる借景に得といふも亦可ならむ。  国人の我の庭園を知りて西洋の庭園を知らざるものは、数寄屋式の幾分か自然美を回復したるを賞すると共に、西洋の庭園猶測地学的方式の縛を脱せずと臆断して、彼は須く我に学ぶべしとさへ揚言せり。然れども数密屋式の寂の極致に向ひて進歩せしは、想化の一辺に過ぎず。一昧の幽選は斥くべきものを斥くるを知りて、容るべきものを審るゝを知らず、その聯合の区域は狭くして、消極的想化はその原則となりぬ。こは数寄屋の建築式に伴ふに足ると雖、大都公園の偉観を成すに足らず。かの路次庭に花を植ゑずして、坐に入りて花を賞するが如きは、その規棋狭小なるを表するに余あるものなるべし。輯来の園勢は種々の大建築に伴ふべきものなり。その方鍼は聯合を旨とし、積極的想化を旨とし、地に拠りて勢を取り、広く異境の草木を蒐めて、自然に背かざる変化を成就し、進みて英吉利の山水式を凌駕せんことを期せざるべからず、われは数寄屋式の国粋を保存するを妨げず。若しその中に賜跨して我国の園藝世界に師たるに足ると云はゞ、われ遂にその可なるを見ず