僕も自然研究者の端榑《はしくれ》として、顕微鏡や試験管をいぢつて、何物をか発見しようとしてゐた事があつた。  併し運命は僕を業室《げふしつ》から引きずり出して、所謂《いはゆる》事務といふものを扱ふ人間にしてしまつた。二三の破格を除く外は、大学出のものに事務の出来るものはないといふ話である。出来ない事をするのも勤なれば是非が無い。そこで発見とか発明とかいふことには頗《すこぶ》る縁遠い身の上となつた。  考へて見れば、発見とか発明とかいふ詞《ことば》を今のやうに用ゐるのは、翻訳から出てゐるのだが、甚だ曖昧《あいまい》ではないかと思ふ。亜米利加《アメリカ》を発見したとか、ラヂウムを発見したとかいふのは、あれはdiscoverである。クリストバン・コロンが出て来なくても、亜米利加の大陸は元から横《よこた》はつてゐたのだ。キユリイ夫婦が骨を折らなくても、ラヂウムは昔から地の底にあつて、熱を起したり、電気を起したりしてゐたのだ。今まで有りながら、目に見えなかつたものを見えるやうにする。衣被《きぬかづき》を取つてお顔を拝ませる。これも発見発明である。  竹の台に発明品博覧会があるなどゝいふのは、あれは又意味が違ふ。あれは何か今まで無かつたことを工夫したものを陳列して見せるのだ。さういふ新工夫をするのをも、発明するといひならはしてゐる。意匠をするのである。創意をするのである。inventするのである。これも発見発明といはれてゐる。  そこで洋語の未熟なものは、飛んだ間違つた話をして、西洋人に笑はれたり何かする。僕なんぞもさういふ目に逢つたことがある。発見といふ話をしようと思つて、一寸《ちよつと》思ひ出したから、御丁寧なわけではあるが、最初にことわつて置く。  僕は生れつき鈍い方であつて、新工夫なんぞをする機智には甚だ乏しい。又宇宙の秘密をあばくといふ側もさつき言つたとほり、最初に職業として、諸先生の下風に立つて、少し遣《や》つて見たこともあるが、いつか運命が顕微鏡から僕の目を離させ、試験管を僕の手からもぎ取つてしまつた。旅行は僕はめつたにしない。北海道は箱館《はこだて》より先を知らない。九州は熊本より先を知らない。満洲や台湾は戦争をする兵隊に附いて歩くので、職務の為めに行かねばならない処まで行つたに過ぎない。欧羅巴《ヨオロッパ》は学問修行を申附けられて、独逸《ドイツ》へ行つて、帰りに倫敦《ロンドン》と巴里《パリ》とを見たばかりだ。近頃評判のスヱン・ヘヂンやシヤツクルトンのやうに土地を発見することも出来ない。  但し学者仲間に発見といふことが今一つある。これは俗に掘り出すといふのに当る。勿論これもdiscoverなのである。坪井正五郎君なぞは、十字|鍬《ぐは》や円匙《ゑんび》を使つて、正確な意義に於いて掘り出してをられる。僕の弟にも一人土器を掘り出して歩くのがある。隠居が骨董《こつとう》店を覗《のぞ》いてまはるのを、言語の転用で、掘り出すと云つて、それからこの掘り出すといふ詞の意味が広くなつた。こ丶に古文書の掘出しといふのがある。僕の友人にもさういふ発見を遣つてゐる人が沢山ある。職業として遣る人は格別として、これは随分時間を要する為事《しごと》であつて、僕が端《はた》から見ると、釣《つり》をする人に似てゐるやうな心持がする。一体掘出しはのん気な為事に相違ないのだが、これも功名心が伴つて来ると、危険がないでもない。其辺《そのへん》は仏蘭西《フランス》のアルフオンス・ドオデエといふ先生が不死者といふ本に十分書いてゐるから、僕は復《ま》た贅《ぜい》せずとして引き下る。この発見の方にも、僕は先づ縁が遠いやうだ。  然《しか》るに僕は此頃《このごろ》期せずして大発見をした。今そのお話をしようと思ふ。  かう吹聴したら、諸君は頭から僕を法螺吹《ほらふき》とせられることであらう。それも御尤《ごもつとも》である。大発見。ちと大袈裟《おほげさ》かな。併《しか》し大小なんぞといふのは比較の詞《ことば》である。お山の大将も大将である。僕なんぞも文学の大家ださうだ。啻《たゞ》に比較の詞であるのみでない。大小は又主観的に物を形容することに使つても差支《さしつかへ》ないのである。子供に餡餅《あんもち》を遣らうと云へば、大きいのをと云ふ。大きいと云つたつて知れたものである。僕は主観的に僕の為《し》た発見を大なりとするに過ぎないといふことを、前以てことわつて置く。主観は私で、客観が公だなどと云ふ。それはさうに相違ない。併し公平だ、客観的だといふ触込《ふれこみ》で書く批評なんぞといふものも、何だか余り正直には受取りにくいやうだ。僕が僕の発見を大なりとするは固《もと》より私であるから、左様御承知を願ひたい。  僕が洋行した時の事である。僕は椋鳥《むくどり》として輪出せられて、伯林《ペルリン》の真中に放された。先から来てゐる友達が、何でも最初に公使に伺候《しこう》せねばならないと云ふから、ドロシユケといふ辻馬車、しかも青硝子《あをガラス》の嵌《は》まつてゐる、がたぴしするやつに乗つて出掛けた。  公使館はフオス町七番地にあつた。帝国日本の公使館といふのだから、少くも一本立《だち》の家で、塀《へい》もあるだらう、門もあるだらうなどと想像してゐたところが往つて見ると大違である。スウテレンには靴屋の看板が掛かつてゐる。その上がパルテルである。戸口に個人の表札が打ち附けてある。今一つ階段を上る。そこが公使館であつた。這入《はい》つて見れば狭くはない。却《かへ》つて広過ぎて、がらんとしてゐるといふやうな感じのする住ひであつた。  若い外交官なのだらう。モオニングを着た男が応接する。椋鳥は見慣れてゐるのではあらうが、なんにしろ舞踏の稽古《けいこ》をした人間とばかり交際してゐて、国から出たばかりの人間を見ると、お辞儀のしやうからして変だから、好い心持はしないに違ない。なんだか穢《きたな》い物を扱ふやうに扱ふのが、こつちにも知れる。名刺を受け取つて奥の方へ往つて、暫くして出て来た。 「公使がお逢になりますから、こちらへ。」  僕は附いて行つた。モオニングの男が或る部屋の戸をこつ/\と叩く。 「ヘライン。」  恐ろしいバスの声が戸の内から響く。モオニングの男は戸の握りに手を掛けて開く。一歩|下《さが》つて、僕に手真似《てきね》で這入れと相図《あひづ》をする。僕が這入ると、跡から戸を締めて、自分は詰所に帰つた。  大きな室である。様式はルネツサンスである。僕は大きな為事机の前に立つて、当時の公使S.A.閣下ど向き合つた。公使は肘《ひぢ》を持たせるやうに出来てゐる大きな椅子《いす》に、ゆつたりと掛けてゐる。日本人にしては、かなり大男である。色の真黒な長顔の額が、深く左右に抜け上がつてゐる。胡麻塩《ごましほ》の類髫《ほおひげ》が一握程《ひとにぎりほど》垂れてゐる。独逸婦人を奥さんにしてをられるとかふことだから、所謂《いはゆる》ハイカラアの人だらうと思つたところが、大当違《おほあてちがひ》で、頗《すこぶ》る蛮風のある先生である。突然この大きな机の前の大きな人物の前に出て、椋鳥の心の臓は、歛《をさ》めたる翼の下で鼓勘の速度を加へたのである。 「旧藩主の伯爵が、閣下にお目に掛つたら、宜《よろ》しく申上げるやうにと、申す事でござりました。」 「うむ。伯爵も近い内に来られるといふではないか。」 「さやうでござります。何《いづ》れお世話にならなければならんと申されました。」 「君は何をしに来た。」 「衛生学を修めて来いといふことでござります。」 「なに衛生学だ。馬鹿な事をいひ付けたものだ。足の親指と二番目の指との間に縄《なは》を挾《はさ》んで歩いてゐて、人の前で鼻糞《はなくそ》をほじる国民に衛生も何もあるものか。まあ、学問は大概にして、ちつと欧羅巴人がどんな生活をしてゐるか、見て行くが宜しい。」 「はい。」  僕は一汗かいて引き下つた。希臘《ギリシア》人や羅馬《ロオマ》人の画にかいたのを見ると、紐《ひも》で足に括《くゝ》り附けたサンダルといふのを穿《は》いてゐるが、なる程現今の欧羅巴に、足の親指と二番目の指との間に、縄を挾んで歩いてゐるものは無いに違ひない。但し、鼻糞をほじつてはならないといふことは、僕はこれまで考へても見なかつた。人の話に、どこかの令嬢が見あひに行つて、鼻糞をほじつて、破談になつたといふことは聞いたが、それも令嬢で、場所が場所だから不都合であつたのだ位にしか思はなかつた。まあ、公使の前でほじらないで好かつたと思つたのである。  それから僕に独逸に三年ゐた。学生に交際する。大相《たいさう》親切らしいと思つては、金を貸せと云はれてびつくりする。バンジオンの食堂に食事をしに出る。一同にお辞儀をすると、ずらつと並んで腰を掛けてゐる男女のお客が一度に吹き出す。聞けば立つて礼をする法は、此国では中学時代に舞踏の稽古をするとき、をすはるのである。それだから僕のやうな無調法《ぶてうはう》なお辞儀は見た事がないのだ。跡《あと》で人の好いお嬢さんが、責めて両手に力を入れないで、自然の重りでぶらつと下がつてゐるやうにして、体を真直にして首をお瞰めなさいと教へてくれた。大学の業室に出て、ベツヘルグラスの中へ硝子棒の短いのを取り落す。これはしまつたと、長い硝子棒を二本、箸《はし》にして、液体の底に横《よこた》はつてゐる短い棒を挾《はさ》んで、旨く引き上げる。さうすると、通り掛かつた教授が立ち留まつて見てびつくりして、どうしてそんな軽技《かるわざ》が出来るのだと問ふ。飯を食ふとき汁の実をはさむのと同じ事だから、軽技でも何でもないと答へると、教授が面白がつて、業室中にゐる学生を呼び集めて、今の軽技をもう一遍|遣《や》つて、みんなに見せて遣れと云ひ付ける。為方《しかた》がないから、器《うつは》の儀は改めまして御覧に入れますとも何とも云はずに、同じ事を遣つて見せる。師弟一同野蛮人といふものは妙なものだと面白がる。僕は腹の中で、なる程箸なんぞも例の下駄《げた》や草履《ざうり》の端緒《はなを》と同じわけだなと思ふ。併し負けじ魂は底の方にあるから、何だ欧羅巴の奴等《やつら》は日本人の台所でする事をお座敷でするから、ナイフやフオオクが入るのだ、マリア・スチユアアト時代にはそのナイフやフオオクもまだ行はれないで、指で撮《つ》まんで食つたといふではないかなどと、腹ではけなしてゐるのである。  僕は三年が間に、独逸のあらゆる階級の人に交つた。詰まらない官名を持つてゐたお蔭で、王宮のアツサンブレエやソアレエにも出て見た。労働者の集まる社会党の政談演説会にも往つて見た。但し次の分は内証である。あの時は翌日新聞に書かれて、ひどく恐縮したつけ。  併し此三年の間鼻糞をほじるものには一度も出逢はなかつた。独逸から帰りがけには倫敦に立ち寄つて、颶鼠《もぐらもち》のやうに地の底を潜《もぐ》つて歩く地下鉄道の車にも乗つたが、鼻糞をほじるものには逢はない。巴里にも立ち寄つて、天を摩するエツフエル塔の上にも登つたが、鼻糞をほじるものには逢はない。  果せるかな、欧羅巴人は鼻糞をばほじらないのである。  一体鼻糞をほじるといふことは、我党の士の平気で遣る事ではあるが智余り好い風習ではないやうだ。併し欧羅巴人がしないから、我々もしてはならないと云はれると、例の負けじ魂がむくむくと頭を持ち上げて来て、僕にこんな議論を立てさせる。  そも/\鼻糞は白皙《はくせき》人種なると黄色人種なるとを問はず、必然鼻の穴の中に形成せらるべきものである。然るに日本人がそれをほじつて、欧羅巴人がそれをほじらないのは何故《なぜ》であるか。  汗を流す為めに甘本人は毎日湯に入る。欧羅巴人はシヤツに吸ひ込ませて、度々シヤツを着更へて、湯に入らずに済ます。ペツテンコオフエルは吾人の襦袢《じゅばん》は吾人に代つて浴すと書いてゐる。鼻糞もこれに似たわけで、欧羅巴人は鼻の中がむづ痒《かゆ》くなつても、ハンケチで鼻をかんで済ます。まだ痒くても、鼻をこすつて済ます。矢張彼等のハンケチは彼等に代つて鼻糞をほじるのである。ほじらないまでも揉《も》み潰《つぶ》すのである。  揉み潰すなんぞは姑息《こそく》の手段である。ほじるのラヂカルなるに如《し》かない。  まあ、こんな議論も立てたくなるのである。序《ついで》だから言ふが、ハンケチを用ゐるなんぞといふ風習は不潔|極《きは》まる風習である。度々鼻をかんでは、ポッケットの中にしまつて置く。ポッケットの中で、鼻涕《はなじる》の水分と共に揮発分が、肌の温《ぬく》みで蒸散して、羅紗《ラシヤ》を通して外へ出る。其《その》揮発分の一部は羅紗の質の中に残つて溜《た》まる。羅紗は、諸君も御承知の如く、洗濯が利《き》かない。たま/\赤羽《あかばね》の何とかいふ店のやうに、羅紗を洗濯したり、丸染にしたりしてくれるといふので、すばらしい好男子と別品《べっぴん》さんとが、羅馬人の拵《こしら》へたヤヌスの神の像の様に、背中合せにくつ附いてゐる大看板を辻々に立てるから、僕のやうな貧乏人は、締めたと思つて、去年の暮にずぼんを二つ頼んだところが、何遍催促しても、ずぼんは取り放しで帰してはくれない。要するに羅紗は穴があいて着られなくなるまで、浄《きよ》めることの出来ないものである。ブラシ位でこすつたつて、地質に沁《し》み込んでしまつた汗の揮発分も、鼻涕の撞発分も、永遠に取れない。此処で一寸《ちよつと》活板屋に注意して置くが、しみると云ふ字はさんずゐに心といふ字を植ゑてくれ給へよ。三ずゐに必ずといふ字を植ゑるのではないよ。分泌の泌の字を植ゑるのではないよ。こなひだ昴《すばる》に沁みるといふ字の議論を書いて、誤植をせられて、何の事だか分からなくなつたから、念の為めことわつて置くよ。  話が横道に這入つたが、兎《と》に角《かく》ハンケチは不潔極まる物だ。それよりは鼻紙の方が迥《はるか》に清浄だ。使つたのは棄てるからね。此頃結核を予防する一手段として、ハンケチの代りに紙を使つて棄てるが好いと、発明らしく書いてゐる学者があるが、何もこれは結核の予防に限つた事ではない。暁《さと》ること既に晩《おそ》しと謂《い》ふべしだ。  議論は議論として置いて、僕はとう/\西洋人の鼻糞をほじるのを目撃せずにしまつた。  なる程《ほど》目撃はせずにしまつた。併しまだ載籍《さいせき》に徴しては見ない。尤《もつと》もホメロスのエポスを見ても、ダンテのコメヂヤを見ても、鼻糞をほじる事はないやうだ。シエエクスビイヤにもない。コルネイユやラシイヌにもない。ギヨオテにもない。シルレルにもない。イプセンにもない。マアテルリンクにもない。かういふものに無い位であるから、正史には勿論無い。古来宮廷のイントリグや戦争の勝敗なんぞばかりを書くのが忙しくて、それも粗筋《あらすぢ》をやつと書いて行くのだから、 拿破崙《ナポレオン》がモスクワのクレムルで、鼻糞をほじくりながら思案に暮れたとも何とも書いてはない。  所詮《しょせん》白皙《はくせき》人種が鼻糞をほじつたといふことは、正確に証明することが出来ないらしい。僕は一時|殆《ほとん》ど絶望したのである。  兎角する程に年月が立つ。僕は役所へ往つたり来たりするうちに、髭に白い筋が殖えて、内職の文芸も耕さない荒地のやうになつた。 「彼は文壇を去つた」、「彼の時代は過ぎ去つた」と、一度書かれ二度書かれするうちに、いつか有れども無きが如く、生きてゐても死んでしまつたやうになつて、たま/\く新聞なんぞを手に取つて見ると、何某の時代にはかうであつたといふ、昔話の中に自分の名が出て来る。それでどうかした拍子で何か書く。同じ月に人の書いたものは囈語《ねごと》のやうな物まで批評が出る。自分の物|丈《だげ》は選《よ》つて除《の》けたやうに批評が出ない。これが黙殺といふのださうな。かうなつてしまつても、体だけは生《なま/\》々しく生きながらへてゐる。器械的に寝たり起きたり、電車の弔革《つりかは》にぶらさがつたりして、東京といふ人の海の渦巻の間に出没してゐる。そして西洋人が鼻糞をほじるといふことは、終に未だ発見しないのである。  基督《キリスト》暦一九〇八年と算する頃になつて、独逸から取り寄せて見てゐる新聞維誌の中に、グスタアフ・ヰイドといふ名が頻《しきり》に見えて来るやうになつた。それより前に独逸では、外国の詩人としてオスカア・ワイルドが流行《はや》つた。バアナアド・シヨオが流行つた。今度はヰイドが流行児《はやりこ》になつたらしい。              .  ヰイドは|■馬《デンマルク》の人である。頗《すこぶ》る奇警な自伝を書いてゐるのが左の通である。 「おれは一八五八年三月六日に軽い産でひよつくり生れた。一八七二年に堅振《けんしん》を受けた。書肆《しょし》になつた。一八八○年に卒業試験に落第した。一八八一年に弁護士の事務所に雇はれた。一八八二年に二度目に落第した。一八八三年に家庭教師になつた。一八八四年にはブラアガアルドにある師範学校での一日の記念がある。一八八五年に大学々生になつた。一八八六年に哲学科の受驗生になつた。一八八七年に人の家を教へて歩く時間割の教師になつた。一八八七年に詩人になつた。一八九〇年の劇場で口笛を吹かれた。一八九一年に監獄にゐた。一八九六年に妻を持つた。子を拵へた。家を立てた。追つて一九二七年四月十二日には、家内ぢゆうのものどもに惜まれ哭《こく》せられて死ぬるであらう。」  ヰイドが書いたものの中で、最も名高いのは、昨年あたり盛に所々で興行せられてゐた2×2=5《ににんがご》といふ脚本である。一の諷刺劇である。しかも主人公は自分らしい。主人公の教員が思ひ切つて進歩的な事を書く。免職になる。地方長官の御覚《おんおぼえ》のめでたい保守党の外舅《しうと》に女房を取り戻しに来られる。そこへ昔|馴染《なじみ》のじだらくな女が来てちやほやする。忽ち巡査が来て拘引して行く。監獄にゐる。その間に地方長官の更迭《かうてつ》がある。進歩党の長官が出来る。外勇《しうと》が進歩主義になつて、監獄へ面会に来て、どうぞ娘をもう一遍妻に持つてくれいと歎願する。監獄から出て見ると、内は大変な始末になつてゐる。例のじだらくな女が情夫を引つ張り込んで、婆あさんの女中を追ひ廻して、我家らしく暮してゐる。情夫は馬券の売買か何かをしてゐるといふ性《たち》の男である。此三人の会話が尤《もつとも》妙である。情夫の放浪的な恬然《てんぜん》たる言草《いひぐさ》も好い。女のずるい癖に非常に狼狽《らうばい》して、出来ない申しわけをするのも好い。 主人が戸口に突立《つった》つた儘《まゝ》、始終無言でゐて、とうく二人を手真似で追ひ出すなどは、尤《もつとも》振つてゐる。元の女房が戻つて来る。麺包《パン》にありつくには、昔の恩人たる某伯爵夫人のお情で、保守党新聞の主筆になるより外|致方《いたしがた》がない。何故《なぜ》、外舅《しうと》の保守主義は進歩主義になつたか。2×2=5である。何故主人の進歩主義は保守主義になつたか。2×2=5である。2×2=5の意味はざつとこんなものである。  此脚本を始として、今日まで出板になつた作が十三種程ある。僕は先頃からそれを読んでゐる。読んで行くうちに、「手紙の往復」と題した短篇になつた。これは借家人の煙草屋が家主と手紙の往復をして、とう/\家主をへこます話である。煙草屋アアペルは得意で此話をするのを、店の売卓《うりづくゑ》の前に坐つて、柔い帽子を阿弥陀《あみだ》に被《かぶ》つた船頭ハアルリヨフが聞いてゐる。聞きながら、此船頭は何をするか。嗚呼《あゝ》。此船頭は何をするか。  僕はヰイドをして自ら語らしめるであらう。 「彼はをり/\何物をか鼻の中より取り出してゐる。さてその取り出した結果を試験する為めに、鼻の穴の中に一ぱい生《お》ひ茂つてゐる白い毛を戦《そよ》がせて、彼は空気を通過させて見てゐる。」  読者はクリストバン・コロンが望遠鏡の中に、白玉盤上一点の青螺《せいら》を認めた時の心持はどうであつたと思ふか。キユリイ夫婦が幾桶《いくをけ》かのヨアヒム谿谷の鉱屑《かなくづ》を製錬し尽して、一ちよぼのラヂウムを獲《え》た時の心持はどうであつたと思ふか。発見者になつて見なくては、発見者の心持は知れないであらう。  発見は力つくでは出来ない。一目の羅《あみ》は鳥を獲ず。鳥を獲る羅は唯《た》だ是《こ》れ一目である。  併し始から羅を張らなくては、鳥は獲られない。脚気の病原はなかなか攫《つか》まらなくても、脚気調査会といふ羅は張つて置かねばならない。  僕は昼飯の弁当に、食麺包《しよくパン》に砂糖を附けて齧《かじ》つてゐる。馬の外は電車にしか乗らないで、跡《あと》はてく/\歩いて、月給の大部分を書物にして読んでゐる。そのお蔭で、是《かく》の如く欧羅巴人の鼻糞をほじるといふ大事実を、最も明快に、最も的確に、毫釐《がうり》の遺憾なく、発見し得たのである。  欧羅巴の白皙人種は鼻糞をほじる。此大発見は最早|何人《なにびと》と雖《いへど》、抹殺《まつさつ》することは出来ないであらう。  前《さき》の伯林駐剳《ベルリンちゆうさつ》大日本帝国特命全権公使子爵S.A.閣下よ。僕は謹《つゝし》んで閣下に報告する。欧羅巴人も鼻糞をほじりますよ。      *          *          *  これを書いた後に、Leonid Andrejewの「七人の戮《りく》せられたもの」といふ小説を読んで見ると、これにも主人を小刀で刺した百姓Iwan Janssonが法廷で、節榑立《ふしくれだ》つた指で、鼻の穴を掘つてゐるといふことが書いてあつた。うすけも矢張ほじくると見える。                       (明治四十二年六月)