梅龍の話 小山内薫  著いた晩はどうもなかつたの。絵端書屋の女の子が、あたしのお|煎餅《せんべ》を泥坊したのよ。それを あたしがめつけたんで大騒ぎだつたわ。でも|姐《ねえ》さんが可哀さうだから勘弁してお遣りつて言ふか ら、勘弁してやつたの。((赤坂のお酌|梅龍《うめりよう》が去年箱根塔の沢の鈴木で大水に会つた時の話をする のである。姐さんといふのは一時は日本一とまで唄はれた程聞えた美人で、年は若いが極めて落 ちついた何事にも繿褸《ぼろ》を見せないといふ質の女である。これと同じ内の玉龍《たまりよう》といふお酌と、新橋 のお酌の若菜といふのと、それから梅龍の内の女中のお富といふのと、斯う五人で箱根へ湯治に 行つてゐたのである。梅龍は眼の涼しい鼻の細い如何にも上品な可愛い子だが、食べる事に掛け ては、今言つた新橋の若菜と|大食《たいしよく》のお酌の両大関と言はれてゐる。梅龍の話に喰べ物の出て来な い事は決して無い、))水の出たのはその明くる日の晩よ。あたしお湯へ這入つて髪を洗つてゐた の、洗粉を忘れて行つたんでせう。為方がないから玉子で洗つたのよ。臭くつて嫌ひだけど我慢 して。さうすると、なんだか急にお湯が黒くなつて来て、杉つ葉や何かが下の方から浮いて来る のよ。妙だと思つてると、お富どんが飛んで来て、「水ですから、逃げるんですから、水ですか ら、逃げるんですから。」ツて|大慌《おほあわ》てなの。何だか分らないから、よく聞くと、山つなみとかで 大水が出たから逃げるんだつて言ふんでせう。それから大急ぎでお湯を出たの。髪がまだよく洗 ひ切れないんでせう。気持が悪いから香水をぶつかけたら、尚臭くなつちまつたの。為方がない から洗ひ髪をタオルで向う鉢巻なの。好い着物は|汚《よこ》すといけないからつて、お富どんがみんな鞄 の中へ|納《しま》つてしまつたんでせう。あたし宿屋の貸浴衣の長いのをずるずる引き摺つて逃げ出した の。でも若し喰べ物が無くなると困ると思つたから、牛の鑵詰と福神漬の鑵詰の口の明けたのを 懐に|捩《ね》ぢ込んで出たの。ところが慌てて福神漬の口の方を下にしたもんだから、お|露《つゆ》がお|腹《なか》の中 へこぼれてぐぢやぐぢやなの。気味が悪いつたらなかつたわ。  外へ出ると、真暗で雨がどしや降りなの。|半鐘《はんしよう》の音だの、人の騒ぐ声だのは聞えるけど、一体 どこにどの位水が出たんだか、まるで分らないのよ。兎に角向う側の春本つて芸者屋へ逃げるん だつて言ふから、あたしも附いて行くと、もうそこの家は人で一ぱいなの。鈴木のお客さんをみ んなそこへ逃がしたんでせう。下駄なんか丸でどれが誰のだか分らないやうに沢山脱いであるの。  その内に向う川岸の芸者屋が川へ落ちたつて言ふのよ。なんだか少し恐いと思つてると、|水 力《すゐりよく》が切れて電気がみんな消えてしまつたの。  蝋燭を上げますから一本宛お取りなさいつて言ふ人があるの。それからみんな手探りで一本宛 貰ふのよ。あたしそつと二度手を出して二本取つてやつたわ。あたし達はそれから二階へ通され たの。貰った蝋燭は、|大根《だいこ》の|輪切《わぎ》りにしてあるのを台にして、それへ一本宛さして、みんな自分 の前へ一つ宛置いてるのよ。姐さんはお守りをちやんと前へ置いて、お行儀よく坐つて両手を合 せて一生懸命に何か拝んでゐるの。  春本の芸者はあたし達を東京の芸者だと思つたらしいの。((梅龍は時々こんな物の言ひやうを する。自分は芸者といふ者と一向関係がないやうに言ふのである。それではお嬢さんぶつてゐる のかと言ふと、さうでもないのである。要するに唯何でも構はず思つた通りをどしどししやべる のである。))だけど、聞くのも悪いと思つたんでせう。なんだかもぢもぢもぢもぢしてるのよ。 「こんな所にゐては|充《つま》りません。」だの何だのつて言ふの。なんだか愚痴見たいな心細い話ばかり するのよ。  その内に向うの山が崩れたツて噂なの。  すると何だか、転がつて来たものがあるから、見ると、おむすびなの。一つ宛つきや呉れない のよ。それでもお腹が減つてたからおいしかつてよ。姐さんはどうしても喰べられないつて言ふ から、あたし姐さんの分も喰べて上げたの。お|数《かず》は懐の福神漬を出したんだけど、若菜さんは、 そんなお腹ん中でこぼれた物なんか|穢《きた》なくて喰べられないつて言ふの。だからへあたし一人で喰 べたわ。  たうとうその晩は夜明かしよ。  朝の三時頃にお星様が見えたの。その時のみんなの喜びやうつたら無かつたわ。  明くる朝は、又雨風がひどいのよ。いつまでそこの芸者屋にもゐられないし、それにもう塔の 沢は一体に|危《あぶな》くなつたから、今度は|湯本《ゆもと》の|福住《ふくずみ》へ逃げるんだつて言ふのよ。  出ようと思ふと、床の間に紙入が一つ乗つてるのよ、あたし姐さんのだと思つたから、澄まし て自分の懐に入れっちまつたの。すると、そこへどつかの奥さんが上つて来て、「あの、若しや この床の間に紙入が乗つてはゐませんでしたかしら。」つて、あたしに聞くのよ。さあ、あたし どうしようかと思つちまつたわ。あたしは確に姐さんのだと思つてるけども、若し姐さんので無 けれぼ、その方のに違ひないでせう。でもそこで自分の懐から出して聞いて見る訳にも行かない わ。自分の懐から出して見せて、若しその奥さんのだつたら、きまりが悪いでせう。だから、あ たし目を白つ黒しながら、「いいえ。そんな物ありませんでしたよ。」つて言つたの。さうすると、 「さうですか、どうも失礼しました。」つて、その方は直ぐ下へ降りておしまひなすつたの。  姐さんは恐い顔をしてよ。「梅ちやん。お前さん、知つてゐて隠してゐるんぢやあるまいねえ。 人間てものは、かういふ時には妙な気を起し易いもんだから、気を附けなくちやいけないよ。お 前さん若し持つてるなら、お願ひだから出してお呉れ。」つて言ふんでせう。あたし何だが気味 が悪くなつて来て。「だつて、これは姐さんのでせう。」つて、懐から紙入を出して見せたの。す ると姐さんは尚と恐い顔になつてよ。「ほら御覧。持つてるぢやないか、、よそ様の物を懐へ入れ るといふ事がありますか。」つて言ふの。「だつてあたし姐さんのだと思つたんですもの。」つて 言ふと、「直ぐ下へ持つてつてお返しして入らつしやい、」つて言ふのよ。それから、あたし下へ 持つてつて、「今よく探しましたら、戸棚のわきにありました。」つてその奥さんに渡したの、奥 さんは幾度も幾度もお礼を言ふのよ。ほんとに、あたしあんなに困つた事は無かつたわ。顔がぽ つぽして、汗びつしよりなの。  それから仕度をして外へ出ると、ざあざあつて雨なの。橋を渡らうとすると、橋の板が一 枚々々めくれさうにしてゐるのよ。姐さんは死んでも渡るのは厭だつていふの、でも逃げないと 危いからつて、あたしとお富どんで、抱へるやうにしてやつと渡らせたの。あたしも若菜さんも 平気なものよ。あんな面白い事なかつたわ。((大抵な人は一度斯ういふ目に会ふと|懲《こ》りるものだ が、梅龍は一向平気なものである。これから却つて水が好きになつたと言ふのだから驚く。こな ひだも|溜池《ためいけ》に水が出て、梅龍の家の揚板の下まで水が這入つた時も、自分の荷物だけはちやんと 二階の安全な所へ納つて置いてから、尻つぱしよりで下をはしやぎ廻ったといふ利己的な奴であ る。))  やつと湯本の福住へ着いて、やれ安心とお湯へ這入つてると、こゝも危くなつたから、又逃げ るんだつて言ふの。大変な|雨風《あめかぜ》で傘も何もさせやしないのよ。姐さんは、お金がないと困るつて、 信玄袋だけ持つて逃げたの。  やつと別館へ着いたと思つたら、姐さんが目を廻してひつくり返つて了つたの。別館にはもう 大勢お客が逃げて来てゐるのよ。するとそのお客の中から、大学生見たいな方がどういふ訳だか、 マントで顔を隠して、コツプに注いだ葡萄酒をマントの下から出して下すつたのよ。それを飲む と姐さんは直ぐ気が附いたの。あんまり心配したり雨に濡れたりしたからなんでせう。((この事 はその後都新聞へ文章面白く書かれた。その大学生は或博士の秘蔵息子であつた。梅龍の姉は大 学生の親切が元で思はぬ恋に落ちたといふ風な極古風な|艶種《つやだね》であつたが、梅龍はいつも「まさ か。」と言つて、否定するのである。))それからお医者を呼ぶと、|芝居《しはや》のお医者さん見たいなお医 者さんが来てよ。そりやあ、ほんとに芝居の通りよ。いやに勿体ぶつて。それで藪医者なの。な んにも分りやあしないのよ。たうとう終に分らないものだから、家の方が水で危いからとか何と か言つて、逃げ出して行つでしまつたのよ。ほんとにあんなお医者つて始めて見たわ。でも、姐 さんは直ぐよくなつたの。  別館では大勢で焚き出しをしてるのよ。あたし前の晩におむすび二つ喰べたつきりでせう。お 腹が減つてたから随分喰べてよ。姐さんの分もお富どんの分も大抵あたしが喰べちまつたの。  明くる日お天気になつたから、玉龍さんと三人で|玉簾《たまだれ》の滝へ行つて見たの。方々、水が往来を 流れてゐて面白かつたわ。玉簾の庭はめちやめちやなの。滝はいつもの倍の倍位大きくなつてゐ るのよ。あのお池の側の離れ見たいなものね、あれなんかも流れつちまつてゐるのよ。  なんにも喰べる物がないから、お茶屋で懐中じる粉を買つて、お湯で解いて飲んだの。そした ら小さい日の丸の旗が出てよ。|旅順口《りよじゆんこう》なんて書いてあるの。余つ程古い懐中じる粉なのねえ。 ((懐中じる粉は買つたのではないのである。お茶屋ではもう何処かへ逃げてしまつて誰もゐなか つたのである。梅龍達はそこらに落ちてゐた懐中じる粉を拾つて来て水で解いて飲んだのである。 これはもうお富に聞いて、わたしはちやんと知つてゐる。))  それから帰り道に大きな石を拾つたの。それは随分大きな石なのよ。三人で一生懸命に持ちや げたの。どうかしてこの石で姐さんを欺して遣らうと思つて、新聞屋へ寄つて、新聞紙を一枚貰 つたの。それからその新聞紙で石を丁寧に包んで、おはぎの積りで持つて帰つたの。  家へ帰ると姐さんは一人で本を読んでるのよ。「姐さん、おはぎをお土産に買つて来ました よ。」つて、石を出すと、姐さんは本から眼を放さないで。「あいよ。」つて手を出したの。受け ると馬鹿に重いもんでせう。きやつて言つて驚いて庭へ投げ出しちまつたの。地響きがしてよ。 姐さん随分怒つたわ。  庭に穴があいたもんだから宿屋の人にも叱られてよ。でも随分面白かつたわ。  水の時の話はそれつきりだけど、まだ跡で面白い事があつてよ。あたし達の泊つた箱根の春本 の芸者で|小玉《こたま》とか何とかいふ人が,この頃赤坂へ来てゐるのよ。こなひだ三河屋で一緒になつた ら、向うの方で頻りに水の時の話をしてゐるのよ。あの時は家へ来て泊つた鈴木のお客に余所行 の下駄を二足とも|穿《は》いて行かれてしまつて、あんな困つた事はなかつたつて言つてるのよ。水が 済んでから二三日してお座敷へ行かうと思ふと下駄が足駄も駒下駄も両方とも無かつたんですつ て。  あたし、どきつとしてよ。あたしが穿いて出た下駄に違ひないんですもの。あたしあの時なん でも構はず出てゐる下駄を突つかけて出た覚えがあるの。  それから、あたしその小玉さんとか言ふ人にあやまつたわ。あたし、あやまるの大嫌ひだけど も、泥坊つて言はれるのは厭だからあやまつたの。そしたら、向うぢやもうあたしの顔よく覚え てゐなかつたわ。損しちやつたわねえ。