大杉栄 岩野泡鳴氏を論ず 大正4年6月号掲載  泡鳴は偉大なる馬鹿だ。  下世話にも、一押し、二金、三男と云ふ。泡鳴は、その生 活のあらゆる方面に於て、その押しの強きこと、恐らくは文 壇評論界の一人者である。  泡鳴の押しの強さは、図々しさは、その個性の頑強から来 る。頑は頑固の頑である。強は強烈の強である。その個性の 強烈なる、是れその偉大なる所以である。その個性の頑固な る、是れその愚鈍なる所以である。  強烈なる個性の要求するところ、表白するところ、実現するところ、そこに偉 大性のない筈はない。彼れの文章を読むもの、誰れか、その文字の、発想の、 思想の、力強い真実性に打たれざるものがあらう。彼れは、その偉大性 と、その真実性との、力強い押しをもつてゐる。  泡鳴にはこの押しの自信がある。彼れは、たゞひた押しに、その意馬心猿を奔 騰させて行く。けれども彼れは、この押しで屡三成功するに従つて、その成功の 力をみづからもつてもゐない金と男とに分帰した。くだいて云へぱ、彼れは、押 しが強いと共に、金もあり男もいゝのだと妄信した。  しかし泡鳴は、元来甚だ拙劣に出来上つた人間である。彼れには、その個性の 強烈に伴ふ、頭脳の緻密と明晰とがない。その頭脳は、甚だしく粗雑であり、 且つ、甚だしく混乱してゐる。これだけでも、既に彼れは、その一方に有する偉 大性と真実性とに、甚だしき傷害を加へた。  然るに彼れは、その粗雑な且つ混乱した頭脳を、ありのまゝに見ることが出来 ないで、それ緻密な且つ明晰なものと妄信したのだ。  その偉大性と真実性との傷害は、更に益々大ならざるを得ない。彼れの文章を 読むもの、誰れか、その文字の、発韻の、思想の、力強い虚偽性に打たれざる ものがあらう。しかも猶彼れは、この虚偽性の、力強い押しをもつてゐる。そし てこの押しを飽くまでも押して行く時、そこに彼れは遺憾なく、その愚鈍を発揮 する。  これが、泡鳴の新著『古神道大義』を読んでの、評論家としての、彼れに対する、 僕の大体論である。  僕の泡鳴論はホンの大体論に過ぎないが、猶事実に就いて読者諸君の判断を 乞ふ為めに、泡鳴の哲学の真髄とも云ふべき一部分を、次に見本として抜葦す る。(大杉栄) 『生々慾の燃焼発現たる個人は、創造的存在である、活動その物であり、分裂そ の物である。そしてそれが、死と消極とを排斥し征服せんが為めに、一層の活動 分裂をやる。想像して見ると、こゝにもかしこにも、分裂によつて生じた別の分 裂が、大小強弱二千万億の個人を1之れに相当するだけの数ある渦巻の如く 1創造しつゝある。これが平面的に見た人生である。』 『この人生面上に生きるあらゆる個人は、その渦、乃ち、創造的活動を離れては 存在しないのだ。活動してゐなければ他力的消極の死だ。一一.一口ひ換へれぱ、人生は 死を飽くまでも排斥または征服しようとナる意志、乃ち、生々慾の分裂散在であ る。この散在的活動、乃ちあらゆる個人としては、性質上必然に、その活動が燃 焼的になり、その分裂が吸収的になる。そこに一種の熱した統一力があつて、小 渦は常に大渦に呑みこまれ、弱劣者は絶えず優強者に併呑される。』 『この併呑的傾向に、おのづから、そして最初から、国家と云ふ団体の存立が予 期されてゐたのであつて、国家は、後世になつての人為的規定に基いたものでは なく、生と慾の活動出現のそも/\から無'、てならぬ条件、否、事実であつたの だ。』 『個人の存立は燃焼活動渦中に於ける優強考品としての自由存立である。そしてわ が国家の成立も亦、優強者、乃ち自由個人し.しての成立である。言ひ換へれば、 人生渦中に現ずる国家の必然的統一力は、殊焼生存を争つて個人的に出現する優 強者の統一力だ。僕の個人主義的国家主義とは是だ。』 『この個人主義的国家主義は、国家の限定力を以て個人はその自由意志若しくは 必然意志ある優強者に育て上げる。自由と必然とが、このもがき生きると云ふ熱 誠に於て合致すると共に、最も極端な個人主義と最も極端な国家主義とが、優強 者の生活に於て合致的に具現される。』 『そしてこの燃焼渦動的世界、乃ち、日本国家の中心なる優強者は1形式の上 で定めれば、無論-天皇である。』(『古神道大義』より)