石塀幽霊 大阪圭吉 一 秋森家というのは、吉田雄太郎君のいるN町のアパート のすぐ西どなりにある相当に広い南むきの屋敷であるが、 それはずいぶんと古めかしいもので、ところまんだらにウ メノキゴケのはえた灰色の|甍《いらか》は、アパートのどの窓からも ほとんどうかがうことのできないほどに欝蒼たる櫟や赤樫 の雑木林にむっちりとつつまれ、そしてその古屋敷の周囲 には、ここばかりは今年の冬にあたらしく改修されたたっ ぷり一丈はあろうと思われる高い頑丈な石塀にとりまかれ ていた。屋敷のおもてはアパートの前を東西に通ずる閑静 な六間道路をへだてて約三百坪ほどの東西に細長い空地が あり、雑草に荒らされたその空地の南は、白い石を切り断 ったような十数丈の断崖になっていた。  吉田雄太郎君はここへ越してきたときから、この秋森家 の古屋敷になぜかかるい興味をおぼえていた。雄太郎君の いだいた興味というのは、ただこの屋敷の外貌についてだ けではなく、主としてこの古屋敷にすむ秋森家の家族を中 心としてのものであった。まったく、雄太郎君がこのア パートヘ越してきてからもうほとんど半年になるのだが、 ときたま裏通りに面した石塀の西のはしにある勝手口で女 中らしい若い女をみかけた以外には、まだ一度も秋森家の 家族らしきものを見たこともなければ、またその古びた高 い木の門のひらかれたことをさえ見たことはなかった。よ うするに秋森家の家族というのは陰欝で交際がなく、雄太 郎君の考えにしたがえば、まるで世間から忘れられたよう に、この山の手の静かな丘のうえに置きすてられていたの だった。もっともときたま耳にした人の噂によれば、なん でもこの秋森家の主人というのはもう六十をこした老人 で、家族といえばこの老主人とまだ独身でいる二人の息子 との三人で、これに中年の差配人とその妻の家政婦、なら びに一、二名の女中を加えたものがこの広い屋敷のなかで 暮しているということだった。が、そんな報告をした人で さえ、その老主人と二人の息子を見たことはないといって いる。ところが、とつぜんこの秋森家を舞台にして、しご く不可解きわまる事件がもちあがった。そしてふとしたこ とから雄太郎君は、身をもってその渦中にまきこまれてし まったのだ。  それは蒸しかえるような真夏のある日曜日のことだっ た。午後の二時半に、ちょっとした要件で国元への手紙を かきおえた雄太郎君は、ちょうどこの時刻にきまっていつ ものように郵便屋が、ア。ハートの前のポストヘ第二回目の 廻集にくることを思い出して、アパートを出ていった。習 慣というものはおそろしいもので、雄太郎君の予想どおり 実直な老配達夫は、もうポストのまえへかがみこんで取出 口にガチャガチャと鍵をあてがっていた。そこで雄太郎君 は彼のそばにあゆみよってちょっと挨拶をし、郵便物を渡 して、さてそれから、じっとり汗にぬれた老配達夫のしわ の多い横顔をみたがら、暑いなア、と思った。1ことわ っておくが、この附近は山の手のうちでもことに閑静な地 帯で、平常でもあまり人通りはないのであるがとくにその 日は暑かったためか、おもての六間道路はまっ昼間だとい うのに猫の子一匹も通らず、さんさんとふりそそぐ白日の もとにまるで水をうったような静けさであった。その静寂 のなかでふいに惨劇がもちあがったのだ。  はじめ、雄太郎君と集配人の二人は、西どなりの秋森家 の表門の方角にあたってひくい鋭いえもいわれぬ叫び声を 耳にした。きせずして二人はその方角へ視線をなげた。す ると二人のたっているポストの地点から約三十間ほどへだ たった秋森家の表門のすぐ前を、なにか黒い大きた塊を飛 ぴこえるようにして、白い浴衣をきた二人の男が、横にな らんで、高い頑丈な石塀ぞいに雄太郎君たちの立っている のと反対の方向へ、たがいに体をすりつけんばかりにして 転がるようにかけだしていった。が、つぎの瞬間もう二人 の姿は、道路とともにゆるやかな弧をえがいて北側ヘカ ーブしている、秋森家の長い石塀のかげに隠れて、そのま ま見えなくなってしまった。1まったく不意のことでは あったし、約三十間もはなれていたので、その二人がどん な男か知るよしもなかったが、二人とも全然おなじような 体格で、茄なじような白い浴衣に黒い兵児帯をしめていた ことはたしかだ。雄太郎君はかるいめまいを覚えて思わず かたわらのポストヘよろけかかった。が、カソカソに灼け ついていたポストの鉄の肌にハッとなって気をとりなおし たときには、もう老配達夫は秋森家の表門へ向って馳けだ していた。雄太郎君もすぐにそのあとを追った。けれども 二人が表門に達したときにはもう二人の怪しげな男の姿は どこにも見当らなかった。黒い大きな塊に見えたのは案に たがわずはうようにしてうつむきにたおれたまま虫の息に なっている被害者の姿だった。見るからに頸の白い中年の 婦人だ。鋪道のうえにはもう赤いものが流れはじめてい る。郵便屋はすっかり狼狽し、かがみ腰になって女をだき おこしながら雄太郎君へあちらを追え! と顎をしゃくつ てみせた。  秋森家のおもてを緩やかな弧を描いて北側ヘカーブして いる一本道の六間道路は、秋森家の石塀の西端からその石 塀とともにぐっと北側へ折曲っている。雄太郎君は夢中で その右曲りの角へ馳けつけると、体を躍らすようにしてむ こうの長い道路をのぞきこんだ。その道路の右側は秋森家 の長い石塀だ。左側は某男爵邸の裏にあたるおなじような 長い高い煉瓦塀だ。おそらく隠れ場所とてない一本道 1。だが、犯人はいない!  犯人のかわりに通りのむこうから、一見どこかの外交員 らしい洋服の男がたった一人、手に黒革のカバソをさげて やってくる。雄太郎君は馳けよると、すかさずたずねた。 「いまこの道で、白い浴衣をきた二人の男にあいませんで したか?」 「   :」男は呆気にとられ瞬間だまったまま立ちすく んでいたが、意外にも、すぐに強く首を横にふりながら、 「そんた男はみませんでした。……なにか、あったんです か?」 「そいつア困った」と雄太郎君はあきらかにどぎまぎしな がら投げだすように、「いま、この秋森さんの門前で人殺 し……」 「なんですって,」男はみるみる顔色をかえて「人殺しで すって! いったい、だれがやられたんですp」と引返す雄 太郎君にならんでかけだしながら、とぎれとぎれにいっ た。 「私は、この秋森の差配人で、戸川弥市ってものです」  けれどもすぐに石塀を折曲って秋森家の門前がみえる と、二人はそのまま黙ってかけつづけた。そしてまもなく 郵便屋に抱きおこされて胸の傷ロヘハソカチを押当られた まま、もうガックリなっている女をみると、洋服の男は飛 びかかるようにして、 「あ、そめ子!」  と、そしてものに愚かれたようにあたりをキョロキョロ 見廻しながら、 「……こ、これは私の家内です……」  そういってべったり坐りこんでしまった。  曲り角のむこうから、きちがいじみたチソドソ屋のばか 騒ぎが、チチチソチチチンときこえてきた。 二  それから数分の後lN町の交番だ。  新米の蜂須賀巡査は、炎熱のなかに睡魔とたたかいなが ら、さすがにぽんやり立っていた。  そこへ一人のチソドソ屋が、背中へ「カフエー・ルパ ソ」などとかいた看板を背負い、腹のうえに鐘や太鼓をか かえたまま息せき切ってかけこんでくると、いま秋森家の 前を通りかかったところが、おそろしい殺人事件が起きあ がっていた事、死人の側には三人の男がついていたが、ひど く狼狽している様子だったので、とりあえず自分が知らせ にきた事などを手短かに喋りたてた。殺人事件! 蜂須賀 巡査は電気にうたれたようにキッとなった。時計を見る。 三時十分前だ。とりあえず所轄署へ電話で報告をすると、 そのまま大急ぎでチソドソ屋をしたがえて馳けだした。  現場には、もうれいの三人のほかに、秋森家の女中やそ の他数人の弥次馬が集っていた。蜂須賀巡査の顔をみる と、いままで弥次馬どもを制していた雄太郎君がすすみ出 て、被害者の倒れていた地点から約五間程西ヘヘだたった 塀そいの路上からひろいあげたという、血にまみれたひと ふりの短刀を提供した。  蜂須賀巡査はさっそく証人の下調べにうつった。 「……じゃあ、つまりたんだね……吉田君がこちらから、 その浴衣を着た二人の男を追って行く。むこうから戸川さ んがやって来る。ふむ、つまり、はさみうちだ。しかも道 路は、一本道! ……ところが、犯人はいないP ……す ると:::」  蜂須賀巡査は眉根に鐵をよせ下唇をかみながら、道路の 長さを追いはじめた。が、やがてその視線が、秋森家の石 塀の、曲り角に近い西の端に切抜かれた勝手口の小門にぶ つかると、じっと動かなくなってしまった。がまもなく振 りかえると、ほほえみをうかべながら二人の証人を等分に 見較べるようにした。もちろん雄太郎君も戸川差配人も、 すぐに蜂須賀巡査の意中を悟って大きく頷いた。 「困ったことですが」と差配人の戸川が顔をくもらしなが らいった。「どうもそこより他に抜け口はございません」  そこで蜂須賀巡査は意気込んで馳けだし、勝手口の戸を あけて屋敷のなかへはいっていった。が、やがてその戸ロ から顔をだすと、勝誇ったようにいった。 「ふむ。図星だ。足跡がある!」  ちょうどこのとき、司法主任を先頭にして物々しい警察 官の一隊が到着した。蜂須賀巡査は、雄太郎君の提供した 証拠物件にそえて、下調べの顛末を誇らしげに報告した。 そしてまもなく証人の再度の訊問がはじめられた。被害者 は秋森家の家政婦で、差配人戸川弥市の妻そめ子。凶行に かんしては雄太郎君と郵便屋との二人の目撃者があった し、死因が単純明瞭で|一目《いちもく》刺殺であることは疑いない事実 と判定されたため、女の死体はまもなく却下になった。そ して雄太郎君と郵便屋と戸川差配人との三人の証言の結 果、司法主任は蜂須賀巡査の発見したれいの足跡の調査に うつった。  まず勝手門をあけて屋敷内へはいる。五間ほどへだたっ て正面に台所口がある。左は折れ曲った石塀の内側。右は ひろい前庭の植込みをと茄して、むこうに母屋がみえる。 日中の暑さで水をまくとみえて、地面は一様にわずかなが ら湿りをふくんでいる。勝手門と台所とのあいだには、御 用聞きやこの家の使用人たちのものであろう、靴跡やフェ ルト草履の跡が重なるようにしてついている。蜂須賀巡査 のみつけた足跡はこの勝手門からすぐに右へ折れて、前庭 の植込みから母屋へつづく地面のうえにてんてんとつづい ている。庭下駄の跡だ。ひじょうにたくさんついている。  調査の結果、だいたいその庭下駄のあとは、四本の線を なしていることがわかった。つまり、二人の人間が、庭下 駄をはいてこのあいだを往復したことになる。すると、外 からはいって、外へ帰ったのか?内からでて内へ帰った のか? けれどもこのような疑問は、庭下駄という前後の 区別のはっきりした特殊な足跡が解いてくれる。そしてま もなく母屋の縁先の沓脱ぎで、地面にのこされた跡とひっ たり一致する二足の庭下駄がみつけられた。  秋森家の家族があやしい。  警官たちは俄然色めきたった。司法主任は、蜂須賀巡査 を足跡の監視にのこすと、雄太郎君、郵便屋、戸川差配人 の三人立会のもとに、いよいよ秋森家の家族の調査にとり かかった。  老主人の秋森辰造は、動くことのできない病気で訊問に おうじかねると申しでた。そしてその病気については差配 人や女中の証言が出たので、司法主任は二人の息子を呼び だした。ところが、出てきた二人の男を一目みた瞬間に、 雄太郎君と郵便屋は真っ蒼になった。  二人の息子は、体格といい容貌といいまるで瓜二つで、 二人とも、おたじような白いかすりの浴衣を着、加なじよう な黒い錦紗の兵児帯を締めている。名前は宏に実、年齢は 二人とも二十八歳。1あきらかに|双生児《ふたご》だ。  一瞬、人々のあいだには気不味い沈黙がみたぎった。 が、すぐに郵便屋が、たえかねたようにふるえる声で叫ん だ。 「こ、この人たちに、違いありません」  そこで司法主任は、一段と厳重な追求をはじめた。とこ ろが秋森家の双生児は、二人ともついいましがたまで裏庭 の藤棚の下で午睡をしていたので、たにがなんだかさっば り判らんと答え、犯行に関しては頭から否定した。前庭な どへでたこともない、とさえいった。  そこで二人の女中があらためて呼びだされた。ところが ナッとよぶ年上のほうの女中は、老主人のかかりでほとん ど奥の離れにばかりいたから、母屋のことはすこしもわか らないとこたえ、キミとよぶ若いほうの女中は、二人の若旦 那が藤棚の下で午睡をしていられたのはたしかだが、じつ は自分もそれから一時間ほど午睡した事、なお事件の鷲き るすこし前ごろにどこからか電話がかかってきて、家政婦 のそめ子が留守をたのんで出ていったが、なにぶん夢うつ つでぼんやり寝過してしまい申訳もありませんと答えた。  このように女中の証言によっても、双生児のアリバイは きわめて不完全なものであったし、なによりも悪いことに は、訊間が被害者の戸川そめ子の問題にふれるたびに、双 生児はなぜか妙に眼をきょとつかせたり|臆《ヤヤヤちち》病そうにロごも ったりした。このことはあきらかに係官の心証を損ねた。 そして司法主任は、双生児の指紋と、押収した兇器の柄に のこされた指紋との照合による最後の決定をくだすため に、警視庁の鑑識課へむけて部下の一人をいそがした。      三  さて、いっぽう足跡の番人をおおせつかった新米の蜂須 賀巡査は、奉職してからはじめての殺人事件に、もう一番 手柄をたてたかと思うと、内心少からぬ満足で、こうなる とそろそろ商売はかわいらしく、後手を組んでさかんに合 点しながら、足跡の線をあちらへぶらりこちらへぶらりと 歩きまわっていた。  こうして研究してみると、足跡などもなかなか面白い。 たとえばー、蜂須賀巡査は勝手口の小門の近くに屈みこ んで、庭下駄の跡に踏みつけられた一枚の桃色のちらし広 告をみながら考えた。1たとえば、この広告ビラは、小 門のほうをむいた庭下駄の跡に踏みつけられているのだか ら、庭下駄の主が庭の植込から出てきて、この小門を脱け 出ていく際に踏みつけられたものにちがいない。1ふ む、カフエーの広告だな。ルパン……ルパン? はて、聞 いたことのある名だぞ? ……。  たにに気づいたのか、きゅうに蜂須賀巡査は立ちあがっ .た。そして額口にはげしい困惑の色をうかべながら、しば ,らくじっと立止っていたが、やがて訊問をすまして台所へ 出てきた女中のキミを見ると、歩みよって声をかけた。  「君。ちょっと訊くがね。この家へは、新聞やちらし広告 は、どこから入れるかね?」  「え、新聞?」と彼女は体をおこしてエプロソで手を拭き ながら「新聞は、その小門をあけて、台所まで届けてくれ ますわ。郵便もね。でも、広告などは、その小門をちょっ と開けて、そこから投げ込んでいきますが」  「なるほど。有難う」   蜂須賀巡査は大きく頷いた。けれどもその顔色はみるみ るあおざめ、額口にはいっそう激しい困惑の色をうかべて  いままでの元気はどこへやら、下唇を堅くかみしめなが ら、ふるえる指先でさかんにこめかみのあたりをトソトソ と軽くたたきたがら、塑像のようにたちすくんでしまっ  た。   1妙だ……つまりここから、ちらし広告がなげこまれ る……それから犯人が女を殺しに出かける途中で、投げこ まれたこの広告をふみつける……それでいいかP それで  いいのかな? ……だめだめ。さっばり理屈があわんぞ! 蜂須賀巡査はしきりに苦吟しはじめた。   するとそこへ、取調べを終った司法主任の一行が、宏と 実の双生児を引立てて意気揚々とでかけてきた。蜂須賀巡 査はきゅうにうろたえはじめた。そしてどぎまぎした調子 で司法主任へいった。 「待ってください。ちょっと疑問があるんです」 「なんだって?」司法主任は乗りだした。「疑問? 冗談 じゃあない。ずいぶんはっきりしてるぜ。鑑識課から電話 があったんだ。兇器の柄の指紋と、秋森宏の指紋がぴった り一致しているんだー」  1蜂須賀巡査は、手もなく引退った。  やがて一行は引揚げていった。そして秋森家の双生児は ほとんど決定的な犯人として警察署へ収容され、事件は一 段の落着をみせはじめた。  ところが、虫がおさまらないのは蜂須賀巡査だ。夕方の 交代時間がきて非番になると、あいかわらずもんもんと考 えつづけながら秋森家へやってきた。そして勝手口のれい の場所で、さっきの女中に立会ってもらうと、庭下駄の跡 に踏みつけられた広告ビラのまえへ屈みこんで、もう一度 改めて考えはじめた。  1「カフニー・ルパソ」の広告ビラ。これはたしかに あのチソドソ屋の撤き捨てていったものに違いない。する と、この広告ビラが先に投げこまれたのか? それとも二 人の犯人が先にここを通ったのか? ……けれども目前の 事実はビラが先に投げこまれて、その後から二人の犯人が 出てきて、庭下駄で知らずにビラを踏みつけた。としか解 釈できない。そうだ。この事実にまちがいはない。すると ……すると、チソドソ屋は、犯人がこの小門を出て行く前 に、つまり惨劇のおきるより先に、この門前を通ったこと になる……それでいいか? それでいいのか? ….:だめ だめ。チンドン屋は、事件の後から通ったはずだ。.・….ま るで理屈になっとらん!  蜂須賀巡査は苛立たしげに立上った。  1そうだ。とにかく、一度チソドソ屋にあたってみよ う。そしてあのチソドソ屋が、ひょっと犯行の前にも此処 を通ったかどうか? まずあり得ないはずだが、ねんのた めにたしかめてみよう。  そこで蜂須賀巡査は秋森家を出て、石塀ぞいに東のほう へ歩きだした。  1もしも、思った通りチソドソ屋が、犯行後にヒラを 投げこんだのが確かであったなら……あの犯人の足跡は ……そうだ。おそろしい罠だ。おそろしい誌計だ..・…。  蜂須賀巡査は、考え考え歩きつづけた。ところが、ここ ではからずも蜂須賀巡査は、またしてもひとつの不可解な 問題にぶつかってしまった。  ちょうど秋森家の表門の前の犯行の現場までくると、な にに驚いたのか蜂須賀巡査はふいに立停ってしまった。そ してじっと前方をみつめたまま、しきりに首をかしげはじ めた。が、やがていまいましそうに舌打すると、すくた からず取乱れた足取で大股に歩きはじめた。そしてアパ ートの前までくると、さっさと玄関へ飛びこんで、受付 へ、 「吉田雄太郎君をよんでくれたまえ」  といった。  訊問の立会いで神経がくたくたに疲れてしまった雄太郎 君は、自分の部屋で思わずうつらうつらしていたが、びっ くりして飛びおきると大急ぎで階段を降りてきた。そして 蜂須賀巡査の顔をみると、 「またなにか起ったんですか?」 「いや、なんでもありませんが、ちょっとあなたにきき たいことがあるんです。すみませんが、ちょっとそこま で」  そういってもう歩きだした。 「いったいなんですP」  雄太郎君は蜂須賀巡査の後にしたがいながら、せきこん でたずねた。けれども蜂須賀巡査は、そのままものもいわ ずに歩きつづけ、やがて秋森家の表門の前まできて鋪道の うえのさっきのところに立停ると、振返っていきたりいっ た。 「いま、私たちの立っているところが、現場、つまり被害 者の倒れていたところでしょう2」  雄太郎君は、このとっぴもないわかりきった質問に思わ ずぎょっとなった。そしてふるえながら大きく頷くと、蜂 須賀巡査は、こんどは探るような眼頭で雄太郎君をみつめ ながら、 「ぼくは、きみを、真面目な証人として信じているが、き みはあのときたしかに、アパートの前のポストのすぐ前に 立っていて、ここに被害者の倒れていたのを見たといった ねP」 「そうです」雄太郎君は思わずせきこんで、「嘘と思われ るなら、郵便屋にもきいてください」 「ふん、なるほど。すると、ここから向うをみれば、鋪道 の縁に立っているそのポストは、当然見えなければならな いはずだねP ……どうです。ポストがみえますか2 …・」  雄太郎君はとたんに蒼くなった。なんと雄太郎君の視線 の届くところ、そこにはポストの寸影すら見えないではな いか! ポストより数間手前にあるはずの街燈が、青白い 光を、夕闇のなかへぽんやりとなげかけている以外には、 大きく力ーブしている高い石塀のかげになって、まるで呑 まれたようにポストの影はみえないではないか!  蜂須賀巡査は、雄太郎君の肩に手をかけながら、ふるえ る声でいった。 「きみ、いったいこれは、どうしたというのだ1」      四  そんなわけですっかりあがってしまい、その晩ほとんど 一睡もせずに考えつづけてしまった雄太郎君は、けれども 翌朝早くから蜂須賀巡査に叩きおこされると、ひどく不機 嫌に着物をきかえて部屋を出た。 「ちょっと手伝ってもらいたいんですがね」と階段をおり ながら、きゅうに親しげな調子で新米巡査は口をきった。 「昨晩は、ぼくだってすこしも眠れなかったです。あれか らぼくは、一晩中飲んだくれのチソドソ屋を探しまわった んですよ。その結果、これはまだ内密の話なんだが、大変 な発見をしたんです。……つまり、犯行のしばらく後にあ そこを通ったチソドソ屋の広告ビラを、二人の犯人が、れ いの庭下駄で踏みつけているんです。だから、ね、きみ。 あの庭下駄の跡は、二人の真犯人が犯行の際につけたもの ではなくて、あれは、犯行の後から、故意に、あの双生児 を陥しいれるためにつけられた、おそろしいトリックなん ですよ。真犯人は、だれだかまだ判らないが、とにかく、 あの秋森家の双生児は、けっして真犯人ではないね!」  そしてアパートを出ながら、おどろいている雄太郎君に はかまわずに、きゅうに憂欝にたりながら、 「ところが、署では、ぽくの意見など、てんで問題にされ ないですよ……証人はあるし、証拠はあがっているし、そ れになによりも悪いことには、その後取調べの結果、あの 双生児の二人と殺された家政婦との間に、醜関係のあっ たことがばれたんです。ちょっと驚いたですね。殺された 女が、報酬をうけてそんな関係をもっていたのか、それと も、女自身の物好きな慾情から結ばれたものか、いずれに しても、その醜関係が有力な犯罪の動機にされたんです。 そこへもってきて、ほら、昨晩のあれでしょう。まったく くさっちまうね……だがぼくは、こんなところで行詰りた くない」  やがて秋森家の門前へつくと、蜂須賀巡査はポケヅトか ら大きな巻尺を取りだし、雄太郎君に手伝わして、昨晩の あの石塀の奇蹟についてのもっとも正確な測量をはじめ た。けれどもいくら試みても、ポストのところから、被害 者の倒れていた地点は、緩やかに力ーブしている石塀に隠 れてみえない。同様に、被害者の倒れていたところから も、ポストはみえない。蜂須賀巡査は、とうとう巻尺を投 げだしていった。 「吉田君。もう一度だけきくが、これが最後だから、どう かぼくを助けると思って、頼むから正直にいってくれたま え。ね、きみはたしかに、あの郵便屋と二人で、このポス トのすぐそばに立っていて、犯行の現場をみたんだね?」  雄太郎君は、この執拗きわまる蜂須賀巡査の質問に、思 わずカッとなったが、虫をころして昨晩のとおり返事をし た。 「ふん、やっばりそうか……いや、疑ってすまなかった ね」蜂須賀巡査は巻尺をしまいながらいった。「すると、ど してもこの長い石塀は、あのときょり、すくなくとも三尺 は道路のほうへ飛びだしていることにたる……まったく、 ばかげたことだ……いや、どうもありがとう」と雄太郎君 に会釈しながら、「だが、とにかくこいつは、ひょっとす ると証人の責任問題になるかも知れませんから、その点心 得ていてください」  そういって蜂須賀巡査は、いささか気色ばんで帰ってい った。  ー困ったことになったぞ。と雄太郎君は溜息をつきな がら、1ひょっとすると、おれのほうが間違っていたか な? いやいや、だんじて間違ってはいないはずだ。だ が、それにしてもまったく妙だ。しかも蜂須賀巡査は、秋 森家の双生児は犯人ではないといったぞ。すると、いった い犯人はだれだろう? だれが主犯で、だれが共犯かP いや、もう一組他の双生児でもあるのかな? それとも ……。  雄太郎君は、いまはもう不可解への興味などというと ころは通りこして、そろそろ気味悪くなりはじめた。そし て同時に、蜂須賀巡査の捨ぜりふがグッと腹にこたえてき た。  1証人の責任刷題?・チエッ、とんでもない迷惑だ。 雄太郎君は悶々と悩みつづけた。けれどもいくら考えてみ ても、問題の解決はつかない。そして結局自分の力ではに っちもさっちも勘考がつかないと悟った雄太郎君は、だれ か力になってもらえる、信頼のおける先輩はないものか、 とさがしはじめた。  1ああ、青山喬介!  雄太郎君は、ふと、自分の通っている学校へ、このごろ ちょいちょい講義にくる妙な男を思いだした。  1そうだ。なんでもあの人は、かつて数回の犯罪事件 に関係したこともあるという。事情を打明けたなら、きっ と相談にのってくれるかもしれない……。  そこで雄太郎君は、学校がひけるとさっそく青山喬介を 訪ねて行った。 「あの事件は、もう解決済みじゃなかったかね」  そういって喬介は、無愛想に雄太郎君へ椅子をすすめ た。けれどもやがて雄太郎君が、自分が証人として見聞し た事実や、蜂須賀巡査の発見した新しい犯人否定説や、石 塀の前の妙な出来事や、それからまた自分の証人としての 困難な立場などをこまごまと打明けると、青山喬介はだん だん乗り出して、話の途中で二、三の質問をしたり、眼を つむって考えたりしていたがやがて立上ると、 「よく判りました。力になりましょう。だが、その蜂須賀 君とやらのいう通り、犯人は秋森家の双生児じゃあない ね。……だれとだれが犯人かってっ-・そいつは明日の晩ま でまってくれたまえ」 五  翌日一日が雄太郎君にとってどんなに永かったことかい うまでもない。時計の針の動きがむしょうにもどかしく、 やもたてもたえきれなくたった雄太郎君は、やがて日が暮 れて夕食をすますとそそくさと飛びだしていった。  青山喬介は安楽椅子に腰かけて雄太郎君を待ちかねてい た。「今日、蜂須賀巡査というのにあってきたが、なかな か間にあいそうな男だね」喬介がいった。「この事件で、 あの男の昇給は間違いなしだよ」 「じゃあもう、真犯人がわかったんですか?」 「もちろんさ。昨晩きみの話をきいた時から、もうぽくに はだいたい判っていた。……なにも驚くことはたいよ。 ね、きみ。事情はたいへん簡単じゃあないか。……つま り、あの一本道で、きみと郵便屋が、こちらから二人の犯 人を追ってゆく。差配人がむこうからくる。ところが犯人 がいない。そこで、たったひとつの抜道である秋森家の勝 手口をのぞきこむ、すると、犯人の足跡がある。ところ が、その足跡が、犯行よりずっと後からつけられたもので あった、としたなら、いったいどうなるかね2……」 「……犯人が、そのとき、勝手口からはいらなかったこと になりますが……」 '「そうだよ。そして、塀の外には、きみたち三人の男がい たんだ。……わかるだろうP」 「……わかるようで……わかりません……」 「じれったいね……その塀の外に、犯人がいたんだよ… つまり、きみたち三人のなかに、犯人がいたんだー」  1冗談じゃあない! 雄太郎君は思わず声をあげよう とした。が、喬介は押かぶせるように、 「きみたち三人のたかで、犯行後チソドソ屋が勝手ロヘビ ラを投げこんでとおりかかったときから、そのチンドン屋 の知らせで蜂須賀巡査が馳けつけて足跡を発見するまでの 間に、勝手口から邸内へはいった男があったろう……そい つが犯人だ」 「じゃあ、戸川差配人が犯人?」 「そうだ。ところで、戸川は何分ぐらい邸内にいたかね?」 「約五分?ぐらいです。でも、差配人は、カバソを置きが てら急を知らせに……」 「そのカバソだよ。今日ぽくが、蜂須賀君と一緒に調べた のは。そのなかに、白い浴衣と黒い兵児帯が一人前はいっ ていたんだ! ……つまり戸川は、みんな午睡の最中に、 電話で自分の女房を呼びだすと、きみたち証人の前であら かじめ双生児の指紋をつけておいた兇器で刺殺し、きみた ちの目のとどかない曲り角のむこうで、洋服の上へきてい た浴衣を脱いでカバソヘつっこむと、そいつを邸内へ置き にいったついでに、大急ぎで庭下駄のトリックをろうし、 女中たちをたたき起したという寸法だ。……なんのことは ない。秋森家の双生児と殺された女との醜関係から、警察 が双生児にもたせた犯罪の痴情的動機を、ぼくはぎゃくに そうしてきわめて自然に、女の夫である戸川弥市にもたせ たまでさ」 「じゃあいったい、もう一人の共犯者は?」 「共犯? 共犯なんてはじめからないよ」 「まってください。あなたは、ぼくの視力を無視するんで すか? ぼくははっきりこの眼で、二人の犯人を……」 「いや、きみがむきにたるのももっともだ。きみのいうそ の共犯者はあの石塀の奇蹟とひじょうに深い関係があるん だ。そしてその奇蹟をみつけた犯人が、そいつを利用して 故意にきみたち証人、とくに郵便屋のように一定の時刻に きっとあのへんをとおる男の面前で、巧妙な犯罪を計画し たんだよ。あ、どうしたんだ。きみ、頭が痛むのかね。い や、もっともだ。あの石塀の奇蹟については、たしかに不 可解なことがあったんだ。もう、だいたいの見当はついて るんだが、ちょっと説明したぐらいではとても信じられま い。もう二三日待ってくれたまえ。とにかくぼくは、これ からちょっと警察へいかなくちゃあならんー」  さて、青山喬介が雄太郎君の頭痛のたねをとりのぞいて くれたのは、それから三日後のことだった。その日はちょ うどあの惨劇の日とおなじようにひどく暑い日だったが、 喬介と雄太郎君と蜂須賀巡査の三人は、午後の二時半の灼 くような炎熱にうたれながら、秋森家の横の道路を歩いて いた。が、やがてれいの曲り角までくると、喬介がいっ た。「これから実験をはじめる。そしてそれは大丈夫成功 するつもりだ。1ぼくたちはいまからこの石塀にそっ て、あの表門のまえの、被害者の倒れていた位置まで歩い て行くんだ。そしてその位置についたときに、ぼくたちの 前方に、ポストが、あの見えないはずのポストが、もしも 見えてきたなら、それで奇蹟は解決されたんだ。いいか い。さあ歩こう」  雄太郎君と蜂須賀巡査は、まるで狐にでも愚かれたよう な気持で歩きだした。……五|間《けん》……十間…・・十五間……も う秋森家の表門までは、あますところ五間、だがそれもや がて……四間……三間……と、ああ、とうとう奇蹟が現れ た!  まだ被害者の倒れていた位置までは三間ちかくもあろう というのに、力ーブをこして三十間もむこうのアパートの 前にあるはずの赤いポストが、いともクヅキリと、あざや かな姿を石塀のかげからあらわしはじめた。そして三人が 前進するにしたがって、その姿はだんだんと完全に、そし てついに石塀のかげからはなれた。と、なんということ だ。そのポストに重なるようにして、もう一つ同じような ポストが見えだしてきたのだ。そして三人が表門の前に立 ったときには、二つの赤いポストがヒョヅコリならんで三 十間のかなたに立っていた。雄太郎君は軽いめまいをおぼ えて思わず眼を閉じた。とふいに喬介がいった。 「見給え、郵便屋の双生児がやってくるー」  1まったく、見れば霜ふりの服をきて、大きた黒い鞄 をかけたグロテスクな郵便屋の双生児がポストのそばから だんだんこちらへやってくる! だが、ふしぎにもその双 生児は、三人に近づくにしたがって双生児からだんだん重 たって一人になりはじめた。そしてまもなくそこには、あ の実直な郵便配達夫がなににおどろいたのか眼をみはっ て、じっとこちらを見つめたまま立ちどまっていた。 「ああ、|蚕気楼《しんきろう》だな!」ふいに雄太郎君がさけんだ。 「うん、あたらずといえども遠からずだ」喬介がいった。 「つまりひとつの空気反射だね。温度の相違などによって 空気の密度が局部的にかわった場合、光線が轡曲して思い がけない異常な方向に物のすがたを見ることがあるね。い わゆるミラージュとか蛋気楼とかってやつさ。そいつの、 これは小規模なやつたんだ。……今日は、あの惨劇の日と おなじようにとくに暑い。そしてこの南むきの新しい大き な石塀は、むかいの空地からの反射熱や、石塀自身の長 さ、高さその他のこまかい条件の総合によって、ひどく熱 せられ、この石塀にそって空気の局部的な密度の変化をつ くる。するといまぽくたちの立っている位置から、あのポ ストの附近へつうずる光線は、空中で反射し、屈折しとて つもない彎曲をして、ひょっこり『石塀の奇蹟』があら われたんだ」そして喬介は郵便屋をあごでさして笑いなが ら、「……ふふ……見給え。規定された距離を無視して近づ いた郵便屋さんは、もう双生児ではなくなって、おそらく 先生も、いまぼくたちの体について見たにちがいないふし ぎにたいして、あんなにびっくりしてたってるじゃあない か。……とにかく、もう三十分もして、ちょっとでも石塀 の温度がさがったり、このじつに珍らしい奇観をつくりあ げている複雑な条件が一つでもくずれたりすると、もう それで、あのポストもみえなくたってしまうよ…..やれや れ、これでどうやらきみの頭痛もなおったらしいね」