大庭柯公『其日の話』(江戸団扇)大正七年十月、春陽堂 江戸団扇 占 い 楽天宗 お伽噺 看 板 維新史挿話 薫 香 貧乏の棒 風 呂 狂詩狂歌 ハイカラ史 文身 釣り 菓子 蝦夷 風俗詩 琉球 蚤と蚊 人相 かわや 五色 酒 動物の芸 書と鉄筆 髭数裸翻妻    訳妾 ゆかし味 A衣 枕 雅 号 三時代 交通機関 路傍樹 対贅六 カフェー 桜 神信心 三越と白木 公園私園 芝と麻布 鳥影樹陰 ポンチ 日比谷大神宮 道 路 聖堂と大学 見える山々 電車哲学 火 事 郊 外 警視庁 食通 臭い都 売り声 秋気春色 三都是非  衣装哲学  長短方円  中斎先生  官学私学  言葉尽し  風来山人  川魚川船  洒落気分  代表趣味 江戸団扇  一杯のアイスクリームが一片のアイスクリームとまで進化した今日、十銭銀貨|一個《ひとつ》 を奮発して、籐椅子へ身を寄せておれば、アィスクリームの一皿は容易に我が前に運 ばれて来る。が、この時にかえっておもうことは、両三年前の夏帰省の日、田舎なる 我家の瀬戸の井戸で、欠け茶碗でその冷たい水を飲んだ時の涼味と清例の気分とであ る。ちょうどこれと同じように、何の労もなく指頭《ゆぴさき》で捻った扇風機が、忙しい音を立 てて送って来る忙しい風よりも、形も円く感じも円い団扇《うちわ》から、自在に送り出す涼風 の方が、むしろ趣《おもむき》を添えることが多い。  初夏の声で今残っているのは苗売りぐらいのものであるが、享保以前には団扇売り と云うのがあった。竹に団扇を通してかたげたり、物に入れて背負いなどして、 「更紗《さらさ》団扇や奈良うちわ、本、渋うちわ、うちわ  」 などと呼び売り歩いた風を想像して見ると、いかにも江戸の街の初夏の気分が浮かん で来る。  団扇の東西の大関は、江戸団扇すなわち東《あずま》団扇と奈良団扇とであろう。縁《ふち》までも白 い紙の奈良団扇や、青紙で縁を取った更紗団扇は、団扇の清楚なものであり、最初は 墨絵から紅絵へ、それから次第に文晃《ぶんちよう》や抱一などの画さえ板行するようになった東 団扇は、団扇中の進化したものであろう。このごろ榛原《はいぱら》が清方、百穂両画伯揮毫の涼 しげなものを売り出しておるのなどは、東団扇のいよいよ美化したものといえよう。 絹団扇は優美ではあるが、とうてい輸出向きたるを免れぬ。さらに羽団扇と来ては、 天狗にあらざればシナの文人、もしくは西洋貴婦人の愛用に適するに過ぎまい、重苦 しい感じのみで、団扇の生命である軽快と云う点が、痛く害《そこな》われる。  裸体即野蛮と断ずる西洋人は、白の上衣に赤の襟飾《ネクタイ》を、扇風機の風に吹かせて、人 前の道徳を絶対に維持することを、文明と心得ておる。しかるに「我汝(団扇)に心 を許す、汝我に押《な》れて、裸身の寝姿を、あなかしこ、人に語ることなかれ」と奈良団 扇の賛を書きし古人の心は、やがて日本人の自在郷である。東西の文明観と言おうか、 東西の道徳観と云おうか、それについては人造の風の上にも、かほどの相違が見られ る。  さらに渋団扇に貧乏神を配した我国古来の伝説は、ことに面白い。台所用の隙《ひま》には、 用いてもって涼風を入れるにさしつかえがなく、かかる境遇は貧居《ひんきよ》ではあるがしかも 安居である。緑蔭の籐椅子には東団扇が必要であろうが、夕顔棚の下涼みには渋団扇 こそふさわしい。日本橋の堀江町は団扇河岸と云って、昔から団扇問屋で有名な街で、 「堀江町春狂言を夏見せる」などと例の川柳子が言ったのは、豊国あたりが描いた春 狂言の人気役者の似顔絵の団扇を、ここから売り出したことを句にしたものだ。今日 では氷水屋が冬になると芋屋に化けるが、江戸時代には団扇屋の冬籠りは芋屋か菓子 屋かにきまっていた。「夏渋く冬甘くなる堀汀町」の句は、渋団扇屋にお菓子を利か せたものである。 占い  東京の街にも売卜者《ばいぽくしや》の舗《みせ》がだんだん減って来た、減っては来たが滅びはせぬ。否、 滅びぬどころではない、自い巾《きれ》を幕代りに張った辻の占い者が、かえって金看板に一 家を構えた、易者先生となりすますまでに進化したのかも知れぬ。満州は奉天城内で、 有名な盲目易者の包膳子《ピオシイヤツ》という老先生のように、大小の政治をト笠《ぽくぜい》で割り出して、事 実上歴代奉天総督の顧問でござると云うような、奉天や北京に較べると、東京はまさ かに内閣の運命やら政党の消長などを、易者に占わせるようなことはなかろう。しか し知識階級という仲間には、案外に御弊担ぎが少なくなく、ことに政界の雲行などに ついては、なんとかある超自然的な方法によって、未来の運星をト知したいと云うよ うな念を起こす先生方も皆無ではない。  この点になると西洋人もまったく東洋人同様だ。シナにも日本にも昔からある夢占 いというものは、西洋でいわゆる「オナイロマンシー」(夢卜)で、古代にさかんに行 なわれたものである。シナには占夢の官があったほどで、西洋には夢の吉凶を判断す る職業があった。その他占いの心理と歴史は、東西符を合せたように一致しておる。 我国の古代には灰占いと云うのがあったが、西洋の「パイロマンシー」は火の燃えよ うによって、吉凶|禍福《かふく》を占う術である。最も面白いことは、「ビブリオマンシー」で ある。現に私どもでもフトした機会に、ある事をするかせぬかをちょっと決しかねた 場合、なんの気なしに机上の辞書を取って、指頭《ゆぴさき》の行くままにそれを開いて、何番目 かの字へ目を落して、その字の意義に勝手な解釈をつけて、一種の自家判断をやるよ うなことがある。それがすなわち西洋に古くあった「ビブリオマンシー」である。な おそれどころではない、茶柱が立ったといって江戸の娘ッ子が喜ぶ一種の吉凶判断は、 西洋にもある。  つれづれ草の兼好法師以来今日に至るまでト部《うりべ》姓は少なくないが、これは申すまで もなく古い時代に、占いをもって朝廷に奉仕した役人の姓であった。それが多く壱岐、 対馬から来たものとすると、彼等は元卜笠の術と共に朝鮮から渡って来たものではあ るまいか。  白人種とは云うものの髪の毛の黒い、暗膚《あんぷ》のジプシーの女が、頭に巾を鉢巻きにし て、占いを渡世に世界を漂泊して歩いておるのは、世界的の乞食巫女とも呼んでよか ろう。しかもその乞食巫女が、欧州諸国を股にかけて生活して行けるところを見ると、 すなわち西洋人の間にも占いを要求する一部社会のあることが肯《うなず》かれる。それにして も亭主は鍛冶屋、女房は易者というジプシーは、よほど珍妙な民族に相違ない。  天文学の先祖のような占星学に、なんとか新しい科学的の意味をコジ付けようとし たのが、近頃の西洋の学者先生じゃないか。荻生徂徠が「易は変易の義なり、往来変 化の名なり、君子易を学べば、命を知り時を知る、故に惑うことなし」などと言った のと同程度の考えだ。それにまた一時凝り固まって、国家の運命も個人の禍福も、み な星で占えるなどと真面目顔で講演していた某《それ》の高等な学校の前校長さんも、あんま り自分で吹いて廻った星占いの、現戦役終期の予言が、マンマンと幾度となくちがっ たので、このごろではさすが自慢の星占い談《ぱなし》も火が消えたようだとは、いかにも罪の ない話だ。 楽天宗  手首に時計まではめて忙しい世の中である、楽天宗などはもってのほかだと叱られ るかも知らぬが、世間の智者が皆一様に能率増進を叫べば、私どもはあくまで静思黙 念無為、しからざれば放談清議悠遊、もって十二分に楽天気分に耽りたい。勿忙者 流《そうぽうしやりゆう》の能率万能よりも、道学先生の窮屈の方がむしろ望みたく、道学先生の窮屈よりも、 楽天家の自在境がヨリ多く欲しい。希臆《ギリシヤ》の七賢はあまり古いから持ち出すまい、竹林 の七賢に至っては、幾分たりともその気分が味わえる。もしまた古い事やシナの事が 嫌いで、西洋の例でなくては得心が行かぬと云うならば、十八世紀の英吉利《イギリス》の文人仲 間を例に出そう。  いわゆる酒を呼んで清談に耽り、竹林に放言談笑したというのが、竹林の七賢人で あるが、ドクトル・ジョンソンやレノルズや"コールドスミスなどを中心としたいわゆ る「クラブ」の連中の気分は、竹林の七賢人そのままで、当時の倫敦《ロンドン》の空気にも、今 日とちがってよほど面白味のあったことがうかがえる。玩籍《げんせき》の伝を見ると、あるいは 戸を閉じて書を読み、あるいは出遊して累月《るいげつ》帰るを忘るとある。母の喪に会うた時に、 来り弔した者があったら白眼をもって迎えた、酒をもたらし琴を挟《さしはさ》んで到る老に対し ては、青眼をなしてこれを迎えたとある。彼をもってただちにジョンソンに比較する 必要は無いが、「クラブ」の一人リチャード・サベモシと一処に、家賃の工面に一晩中 |倫敦《ロンドン》の街々を歩き廻ったというジョンソンとは、活淡《てんたん》で清貧で、しかも高識であって 布衣の誇を持していた点が、いかにもよく似ておる。  今日の倫敦《ロンドン》やら現代の欧州人などから考えて見ると、あのゴールドスミスが、襯衣《シヤッ》 一枚で欧州を旅行したなどと云うことは、ほとんど想像も出来ぬほどの事である。そ の他このグラブ・ストリートの連中の中には、家が無くって樽の中に住んでいた先生 もある。トーマス・ナーシなどという先生は、文学者としては大した人でもなく、文 学辞典にも名の出ていないほどの人ではあるが、「クラブ」の同人中ではこの先生な かなかに幅を利かせておる。有名なボズウェルの『ジョンソン伝』はジョンソンの伝 と云うよりは、むしろジョンソンを中心としたこの連中の気分や言行を描写《うつ》し出した もので、十八世紀の英国の七賢人共の心事が十分にうかがわれる。  大愚良寛の伝が相当に歓迎されるところを見ると、清貧にして楽天的な気分は、大 正の人々にも理解されぬでもないらしい。風来山人の放屍論を読んでは、いながらに して天下を漫罵《まんぱ》し得る処士の尊さを感ぜぬ者があろうか。竹林の七賢には酷酔《かんすい》が付き 物であり、ジョンソン一派には清貧が共通の状態であるが、しかしこれは今日のいわ ゆる文士に付きものの遊蕩気分では断じて無く、布衣の誇りということがすなわち彼 等の生命だ。天子呼び来れども船に上らずと云う、李白のアノ誇りがあってこそ、酒 中の仙に王侯も奪えぬ尊さがある。雪嶺翁と魯庵先生とが、学者と文人の上に超然と して居られるアノ自在の心境は羨ましい。-酒仙としては和田垣博士を算《かぞ》えようか。電 話や自動車などいう人間の忙殺機が、ますます践雇《ぱつこ》する現代には、楽天宗の修業が必 要である。 お伽噺  丁抹《デンマーク》といえば地図の上でこそ見すぼらしい半島国に過ぎぬが、世界の小児が、こ の国のアンデルセンという小父さんのお噺《はなし》から、お伽《とぎ》をされたヴ訓《おし》えられたりして、 |嬉戯《さざ》するありさまを考えると、丁抹《デンマーク》は小児のためのパレスチナである。それでは我 国の小児、特に昔の小児は、このパレスチナに無縁であったために、どんな発達をし たお伽噺を持っていたかと云えば、まず第一に注意を竹取物語に喚ばなければたらぬ。 竹取物語は通常我国古代の小説として取り扱われておるが、じつは立派なお伽噺であ る。竹の中から生れた赫耶姫《かくやひめ》が、ついに月界に帰り去るという筋に、天子様まで現れ て来るところなどは、立派なお伽噺で、しかも西洋風のお伽噺である。文章のきわめ て平淡|簡僕《かんぽく》であるところから、作者も時代も不明な点などは、我国でのもっとも古い、 上乗のお伽噺と見るが至当である。  次には桃太郎が控えている。これには古事記から出たという説と、倭窟《わこう》時代に生れ たという説と二種あるようであるが、竹取物語同様あるいは印度《インド》伝来のものではなか ろうか。どんなえらそうな顔をしている親父どもでも、日本人に限って桃太郎君のお 世話にならぬものはない、したがって桃太郎君の来歴を知らぬのは、我家の系図を心 得ぬと同様であるが、今はただ我国最古のお伽噺というよりほかはない。桃太郎から 見ると、カチカチ山や猿蟹はよほど甘いもので、無理に武士道に当てはめて、しいて 教訓的に作られてあるだけが気障《きざ》だ。竹取や桃太郎には教訓本位の厭味がない。世界 の昔噺が多く印度《インド》から出て東西に分れ、それに民族の伝説やら心理やらが加わって、 それぞれ特殊な発達を遂げた跡を見ると、東洋人の間に発展と瑞気の具象であるよう に考えられておる桃に、犬や猿や雑を配したところは、印度《インド》伝来のものが日本民族的 に、特殊の発達を遂げたものではあるまいか。  イソップ物語を明治になってから初めて訳したものは、中村敬宇先生であるが、驚 くことには今から二百五十九年前の万治二年に、『伊曽保《いそほ》物語』として絵入仮名草紙 もの三巻の出版されておることである、多分は長崎あたりの通事などの翻訳であろう か。おそらくは我国最初の西洋文学の翻訳ものであって、今日では容易に比類のない 珍本であろう。これらの事を考えると明治の初年に村田勤という人の『狐の裁判』や その他の、かなり沢山の西洋昔噺の翻訳などは、当然の発達である。しかし東西お伽 噺の創作翻案三百余篇に及んだ巌谷小波《いわやさざなみ》君は、正しく我国のアンデルセンと称するこ とが出来る。その日本のアンデルセンが一昨年、お伽噺創作の二十五年を迎えたのは めでたしめでたし。  それにしても印度《インド》が童話やお伽噺の源泉であって、有名な『五巻書《パンチヤタントラ》』の童話やら、 『大讃《プリハトカター》』『獅子座三十二諏《シムハーサナパアトリムシカー》』その他のお伽噺か、古い時代から東西に翻訳され、西 洋でも十六世紀前後から珍重されていたことを想うと、どうやら小児のパレスチナは 北欧から印度《インド》の方へ宿替えしそうにも見える。それにしても今後興る新しいお伽噺は、 ちょうど独逸《ドイツ》の言語学者でお伽噺の作家であるグリム兄弟のように、言語学研究の副 産物のような場合が多くはなかろうか。郷土伝説やら民族心理やらに触れる場合の、 比較的多い研究家が、もっとも興味多きお伽噺の新作家たり得るであろう。 看板  羊頭《ようとう》を懸《か》けて狗肉《くにく》を売るということは、たれでも知っておる無門関の語であるが、 漢書には羊頭を懸けて馬踊《まま》を売るとある。黄面の崔曇《くどん》傍若無人と、お釈迦様を叱った 無門の評は猛烈だが、さて何時の時代にも内実に添わぬ大きな看板を掲げる奴は絶え ぬものと見える。しかし同じ誇張でも九里より美味《うま》い十三里の芋の看板やら、昔の饅 頭屋《まんじゆうや》の看板に木馬を吊るして、「あらうまし」などはいかにも罪がない。シナの城市 で商舗《しようほ》の列んでいる街を通ると、例の空に餐《そび》えるほどの高い高い招牌《かんぱん》に、立派な金文 字で勝手な文句を書きつらねて、必ず言不二価と結んであるのが、たれにもおかしく なる。お客次第で勝手な掛値を吹っかけるシナの店で、言不二価が聞いてあきれる。  しかしシナの看板には雅味のあるものが少なくない。「整容《チオンルン》」の二字を現して朱檀 で縁《ふち》を取り、黒の模様のある布を尾のように下げたシナの理髪店の看板は、動脈と静 脈とに象《かた》どった赤と青の飴ン棒式の、西洋伝来の床屋の看板に優ること万々である。 |燥堂《そうどう》すなわち湯屋の看板はさらにふるっている、屋根よりもなお一丈も高いほどの丸 太の竿に横木を付けて、昼間は釣瓶《つるべさ》を逆《かさ》に、夜分は金網に紅紙の行燈《あんどん》を吊るし揚げて、 遠くの方から湯屋の所在が知れる具合は、名実ともに招牌《かんぱん》の字に適当する。昔の我国 の銭湯に、弓に矢を番《つが》えたものを看板に出して、「弓射《ゆい》れ」と利かした滑稽趣味に比 べると、シナのは功利主義とでもいえよう。  三越の入口に英国渡来の獅子を並べたのは、新時代の招牌である。暖簾《のれん》と看板との 発達の順序は、いずれが後先であるかちょっ÷調べがつかぬが、暖簾を旧時代の招牌 とするならば、今日のポスターや窓飾りは新時代のそれであらねばならぬ。元日光を さえぎる目的の商家の暖簾が、漸次用途を変じて看板の性質を主とするに至ったよう に、窓や入口の装飾も、自然に招牌の性質を主とするに至るであろう。それにしても 遊女屋の柿暖簾、呉服屋の長暖簾、居酒屋の縄暖簾など、暖簾の種類に職業の別を配 した面白味は、日本独特と誇れよう。  人間界の看板にもかなり面白いものが少なくない。軍人の軍服、紳士のシルクハッ ト、裁判官の法服、皆看板に相違ない。職人の印半纏《しるしぱんてん》を「かんばん」と呼ぶのも、 |畢竟《ひつきよう》目印と云う同意義から看板に通わせた本のであろうが、印半纏が「かんばん」 なら、階級をも月給をも一目に表示した軍服は、人間界の立派な看板である。学者が 何時でもその頭の上にかざしておる博士号は、ちょうど寄席の招貼《ぴら》にでも相当しよう。 警察のやかましい眼の下にでも、牛肉と称する馬肉を売る店があるように、文部省官 許の下に、獅頭《しとう》で世をおどかして馬脚を露わさんとする、招貼連《ぴられん》も少なくはないよう だ。  両国の涼みにも甘酒の店がメッキリ減った。その甘酒屋の行燈《あんどん》の「三国一」に富士 の看板などは、今ではモーほとんど見られない。いわゆる「ひとよさけ」の甘酒に、 一夜の内に出来たといわれる富士を利かせたなどは、古人の雅懐に甘酒以上の美味《うまみ》が ある。 維新史挿話  維新の皇護《こうぽ》と一口に言うが、大正のこの頃から顧みて、じつに涙がこぽれるほど有 難くも嬉しくも感ぜられる事が多い。また当時来て居た外国人等も、頭数が少なかっ たせいか、今よりも人物が多かったような気がする。フルベッキなどという先生は、 元蘭人には相違ないが、二十歳代に米国ヘ渡った際には、もはや和蘭《オランダ》人としての国籍 を失って、米国人となっていた、その後またどうしたものか米国の籍をも喪っていた。 ツマリ国籍の上ではあっちこっち迷った人である。米蘭迷《ペランメー》という言葉はそれから起っ たのかなどと、落語家のような茶々を入れてはイカン。その国籍不明の外国人、いわ ば赤髭の天竺浪人を、あくまでも重用し信用したのが、維新当時の当局者のえらい所 であった。この頃のように風来の西洋人と見れば、探偵を尾《つ》けるのとは大分筆法が違 う。  同時代にウィリヤム・ウィリスという英人があった。ちょうど戊辰戦後の奥羽征討 で、官軍方に西洋人の医者を傭おうという議があったが、洋医の先生方だれもかれも、 やれ年俸がいくら、やれ万一死傷の際の手当がいくらとご託を列べている間に、ただ 一人のウィリスがあって、無報酬で従軍しましょうと申し出た。その気分がスッカリ 大西郷の気に入って、たちまち従軍を許され、会津や越後の戦争で、野戦外科術の上 に大功を建てた。ところがウィリス先生には内々大野心があっての事で、東北平定の 後和泉橋通に大病院と医学校を興して、ウィリス先生ここを根城として、日本将来の 医学を、英国派の医学で固め上げようとの大決心を持した。  そこへ現れたのが旧佐賀藩人の相良弘庵(知安)で、日本将来の医学は、あくまで も独逸《ドイツ》を宗とせねばならぬとがんばった。しかし義に感じ男気に惚れることの好きな 大西郷は、あくまでもウィリス方《がた》である。一方は一個のお医者弘庵、対手は人格の高 く威勢の盛んな参議である。事かなりに面倒になり行《ゆ》いた末が、当時政治顧問という 名の米蘭迷《べいらんめい》先生フルベッキに諮問《しもん》しようということになって、現今世界で医学医術の もっとも進歩した国はどこかとたずねると、それは独逸《ドイツ》でござるとフルベッキが答え た。政治顧問の一言だと云うので、相良案が勝利を得た。しかも義に篤い大西郷は、 その故山への帰臥とともに、ウィリス君を鹿児島へ伴うて、そこに鹿児島医学校を開 いて、英国系の医学を興した、今の高木男爵などはそのお弟子である。が、今から想 うて見ると、我国医学発達の道中で、岐《わか》れ道に出会った際に、天竺浪人の一言を標 木《ひようぽく》として、その指定に信頼した維新当局者の腹は、面白くもまた大きくもあった。  しかし相良弘庵はこの事に坐して遂に入牢《じゆろう》までしたが、フルベッキは後政治顧問を 廃業して、純然たる宣教師に帰り、聖書の翻訳に与《あずか》って、六十八歳で青山墓地の土と なった。五稜廓の戦争あたりには、幕臣方にずいぶん仏蘭西《フランス》人の手伝いもあったとや ら、奥羽北越へ転戦従軍したウィリスの心事もきわめて面白い。維新の大業がいかに も世界的であったことは、明治医学史のこの一小|挿話《エピソード》の上にでも知れる。 薫香  都人士のハイカラぶりもかなりの進歩を来したが、香水の使用ばかりは、我が気取 り屋連の間にもまださほどな進境を現しておらぬ。人群《ひとごみ》の中はもちろん、独居の場合 でも、夏季に最も好ましいものは香水の香である。これは高襟者流《ハイカラしゃりゆう》の外見《みえ》ではなく、 むしろ紳士淑女のすがすがしい気分の要求のように思われる。浴《ゆあみ》をおえて籐椅子へよ る前に、べーラム水でもオードコロンでも数滴頭髪ヘ落して、さて縁側で涼しい風に 吹かれる心持は、夏だけに味わえる清涼な気分である。たれであったか古《いにしえ》の名将が、 覚悟の出陣に先だって、兜《かぶと》の内へ十分に名香を焚《た》き込んで、討死ののち薫《かん》ばしい遺骸 にそのゆかしさを偲《しの》ばせたという史実は、日木人の心情の優美な点を発露し得た香ば しい話ではないか。香水を高襟《ハイカラ》さんの専有物のように考えたり、若い男女間の恋の仲 介物のように、世の親父どもが考えているのは大きな間違いだ。  それにしても東洋において動物性の香料が甲くから発達し、西洋にては主として植 物性のものが精製されたのは、なんのためであろうか。爵香鹿《じやこうじか》、爵香猫ないし同姓同 名の羊や鼠が、中央|亜細亜《アジア》地方に産するためでもあろうか。北|亜米利加《アメリカ》の北部地方に は爵香牛さえあると云うが、エスキモーという人種が、これを食料にすると云うくら いであるから、とてもいわゆる東京《トンキン》塵香や雲南塵香などと比較になるものではあるま い。もっとも東洋で香料として植物性の樟脳《しようのう》、茜香《ういきよう》または丁子《ちようじ》など、かなり古くか ら動物性の欝香や龍脳《りゆうのう》と共に、実用にあてて来たところから見ると、自然香水とし て主として花ばかりにより、またそれを補うために、化学的作用による人工香水を造 って、それ等を珍重する西洋人に比べて、動植物性香料を早くから併用していた東洋 人の方が、香料についてはむしろ進歩していたものではあるまいか。  万延元年(一八六〇年)に我国へ渡来した英人ロバート・フォルチュIンという農学 者の、日本見聞録の中の一節に、「植物すこぶる多く存すれど、香気の少なきは、総 ての観光外客のひとしくあやしむところ」とある。我国の花に香のないことはじつに 不思議であるが、これはしばらく専門家の解説に譲るとして、花を折ってはこれを襟 に挿す習慣の西洋人としては、最初我国へ渡来した彼等が、総ての花井の香に乏しい ことにすぐ気が付いたのであろう。しからば邦人は植物性の香料を利用することに冷 淡であったかと云えば、それはむしろ反対で、西洋人にも優って珍重したこと、しつ つあることが証明される、すなわち香道の発達がそれであろう。  伽羅《きやら》枕というものはいつごろからあったものであるか、香炉に伽羅を娃《た》き、厘《はこ》に蔵《おさ》 めて眠りながらその鷹《けぶ》るを聞くための枕とも云い、一説には枕頭に置いて頭髪に香を 焚き込むのだとも云うが、西洋の婦人がその寝床《ベツド》へ香水をふり撒くのよりも、一段の ゆかしさがある。香木は元シナからの伝来ではあろうが、香道は我が雲上人の間に、 その券芳《ふんほう》を聞くことを悦んだ習わしから始まって、後世いよいよ発達し来ったのであ ろう。花の香から精製した香水をじかに肌や巾《きれ》へ湿《しめ》す西洋風と、あらゆる珍奇な香木 を焚いて、その薫香を聞いたり、室のためには懸香《かけこう》、衣服のためには薫衣香《くんいこう》を焚き込 む東洋風とは、優劣はたしていずれであろうか。香水通の間にも、香水の匂いを嗅ぎ 分けてその名を当てる遊びもあるそうであるが、香合せの由来の古いには及びも付か ぬ。ある華族さんがさきごろ外国公使の誰彼を会して、聞香を催したところが、口に シガーをくわえながら、鼻でフンフンと嗅いだお客があったそうな。 貧乏の棒  まけおしみではない、私は貧乏の棒が好きだ。菅茶山の節季の狂詩に面白いのがあ る。   毎レ逢-節季-苦貧棒→平生為レ尽」弁羅《ヘラ》棒、此棒長過難振舞へ近隣称」我二本   棒→ |晩日《みそか》は古今を通じて貧乏者に取っての関所に相違ないが、古今東西の哲人高上が、 皆この関所を通ったかと思うと、貧乏も一《ひ》ト資格である。ただ貧乏を苦にするのは女 の心で、世の女房という棒が、貧乏の棒を苦にするばかりの事だ。それには辛抱とい う棒を女房に持たせて置けば、天下泰平家内安全だ。古い俗謡に「辛抱してくれ辛抱 が金じゃ、辛抱に追いつく貧乏なし」というのがあるが、もっていわゆる良妻賢母て いどの女房を激励するには足りる。が、多少とも理解のある、もしくは理想のある細 君は、貧乏に同化するていどまで行くことが肝要である。亭主が貧乏に超越し、女房 が貧乏に同化してこそ、始めていわゆる清貧の境に天命を楽しむことができる。 「加賀の百両|妾《めかけ》、彦根の千両棒」ということがある。ッマリ加州人は百両の収入が あると、早くも妾を抱える。彦根人は千両の収入があっても、なおかつ天秤《てんびん》棒を担い で行商をするという意である。一は豪宕《ごうとう》他は勤倹、双つながら大いによく、これらは けっして清貧の理想と矛盾するものではない。ただ清貧の理想眼には、百両の収入も 千両の収入も同一であって、貧富そのものが眼中になく、貧乏神も福の神も、一視同 仁皆我が友だ。「人参呑んで総《くぴ》くくる凝漢《たわけ》あれば河豚汁喰うて長寿《ながいき》する男もあり」と、 風来山人はその放庇論の壁頭《へきとう》に喝破しておる。製鉄所の人参を飲んで、総《くび》くくった擬 漢《たわけ》が、現に大正の御代にあったとすれば、豆粕飯に寿命を保つ痩男は、前者に比して 幸福者というべきであろう。  ペルシャ人の古い諺に「靴を穿いている人に取っては、地球は柔皮をもって蔽われ ているのと同じことだ」というのがある、畢竟《ひつきモつ》富者万能論だ。糠皮《なめしがわ》の敷き詰めてあ る道路も悪くはなく、黄金でたたいてある舗道も結構ではあるが、自然の土を踏んで 歩くということが、人間には最も健康に適する。清貧の境涯はすなわちそれで、件の 靴穿きにして糠皮の道を行く者を拒むものではなく、ただ自分だけが草鮭《わらじ》ばきで田舎 道を歩こうとするに過ぎぬ。杜甫の貧交行は、管飽《かんほう》二子を馬鹿に褒めたが、清貧その ものは褒めていただくものでもなく、また他に誇り示すべきものでもない。世には貧 乏を売物にする俗物もあるが、貧にして傲慢なるは見苦しい。孔子のいわゆる貧にし て楽しむもの、すなわち貧に安んずる者にして、初めて共に清貧を談ずるに足る。  我国の諺に「貧乏者の声高」ということがある。清貧の気楽さは、遠慮もなくまた 秘密もない、自然大声で談《はな》し、大声に笑うことになる。いかに窮屈な世の中でも、談 し声までに遠慮は入るまい、襟を開いて大声に談じかつ笑おうではないか。 風呂  風呂の起源については、東洋人は大威張りが出来るようであるが、その発達完美に 至っては羅馬《ローマ》人を宗とする。しかし古きはポンぺイの湯屋より、新しきは大森海浜の 砂風呂に至るまで、湯屋には一種の別個の意味が伴われて、発達を来しておる。仏教 徒や回教徒の間に古代から入浴の習慣の発達したのは、もと宗教の儀式に基づいたも のであるが、その神聖を悪化したのは、どうやら土耳其《トルコ》人あたりで、それをますます 美化したものが希臆《ギリシヤ》人、羅馬《ローマ》人ではあるまいか。ポンペイ廃嘘の案内人が、世界の赤 毛布におきまりのように、指さして注意する入口の隆起物を拝すると、羅馬《ローマ》の文明と やらも畢竟この一根を出ぬそうなと、大悟徹底する。  話はまた元へ戻るが、シナ人の一生三浴というのは、多少、誇張ではあろうが、日 本人の湯好きの習慣とは正反対だ。一生三浴とは、生れた時の産湯と、結婚の際の入 浴と、死んだ時の湯潅《ゆかん》とだそうなが、実際はさほどでもない。瑳操的《ツオツアオデ》という三助さえ あるところを見ると、殊勝にも人手にかけても、垢を落そうとする手合もあるものと 見える。朝鮮人には濯足《たくそく》という一種の水浴の旧俗はあっても、入浴の習慣はない。曾 子が童子六、七人と折《きん》に浴すといったのは、朝鮮人流の濯足のことかも知れぬ。  朝湯を誇りとする江戸でも、天保ごろには湯屋の株が四、五百両から千両までにも なったということは、今日の電話の相場同様小思議である。これはもちろん当時上方 でも江戸でも、湯屋の軒数を制限したためでもあろうし、また一種別個の商売が付属 していて、繁昌したためでもあろう。現に風昌屋の繁昌が吉原の衰微を来し、風呂屋 の禁止が、吉原の繁昌を増した事は、『洞房語園』や『落穂集』などを見ても知れる。 それにしても今日の奉天が、人口二十余万の満州第一の首都でありながら、燥堂《そろどう》(湯 屋)の数がわずか三十軒を出でぬことを想うと、天保のころに湯屋の株を千両までに せり上げた江戸ッ児は、由来湯好き民族に相違ない。  据風呂は高麗陣より始まると、古書に見えるが、野戦入浴の法は世界中で、日本陸 軍の誇りらしい。日露役に従軍した人はたれでも実験したことであるが、水婆《みずがめ》を即席 風呂桶に代用して、兵隊さんの器用に造った竈《たまど》で、その水髪風呂を焚き付けて、葦簾《よしず》 張りの囲いに結構な浴場が、ほとんど各宿舎ごとに一つずつできあがって、将卒の入 浴を自由にしたことは、世界の野戦衛生史上特筆すべきことであろう。現に今度の戦 争でも、独逸《ドイツ》軍では、日露役に日本軍の衛生状態の良好であった大原因は、入浴の自 由が一般に行われたためだとあって、さかんに入浴法を講じて成功しているゲナ。一 方に雁《がん》風呂などという風流至極な、地方的旧慣を有しておる邦人が、遠征の軍旅に実 用上至便な入浴法を、ほとんど無意識に行なって、世界の範を成したということは、 きわめて興味ある事実ではなかろうか。平民的でかつ田園趣味に富む行水も、けっし て廃らせたくないものである。 狂詩狂歌  人に滑稽趣味の必要なのは、一日のうちに欠伸《あくぴ》の必要なるがごとく必要である。傍 目《わきめ》も振らず勤労を続けた後、開口一番天を仰いで欠伸一両度、すなわち退屈の神疲労 の魔も、たちまちにして逃げ失せて行く。かくも欠伸は元気回復の良法であって、ま た人間の健康上自然の調節である。滑稽趣味がちょうどそれで、人生自然の調節であ り、人間元気の源泉である。で、その滑稽趣味が文芸化したものが、我に在りてはす なわち狂詩狂歌および戯文ではあるまいか。  蜀山人《しよくさんじん》はたれにでも知られておるが、銅脈先生はさほど一般に知られておらぬ。 それは前者が狂歌と狂詩の両道に秀でた、言はば上戸にして下戸を兼ね得た猛者であ ったに反して、銅脈先生が専ら狂詩の大家たるに止まるの所以《ゆえ》に因るかも知れぬ。し かし天明ごろの狂詩壇では、蜀山と銅脈とは止しく東西の両大関で、江戸の蜀山人の 狂詩に対立し得る者は、当時独り京都の銅脈先生畠中観斎があったのみだ。特に狂詩 の方は、あるいは江戸よりも上方の方が、優っていたのではなかろうかと私は思う。 すなわち狂歌は江戸において発達し、狂詩は上方において一時繁昌を見たのではなか ろうか。すなわち左の三句のごときは、対句の妙を得たるものとして有名である。   「八坂五重塔、三条六角堂」   「小僧参…北野→大仏在南都ご   「桜東山地主、梅北野天神」  そのいずれもが、京畿地方を謡ったものであるに見ても、上方における盛況の一斑 が窺える。  狂歌に至っては江戸の粋といってよかろうし、いわゆる文政風に比して天明風の風 格の高いのが、真に天下一品の観がある。時代は違うが上方の鯛屋風などは、見劣り がするように感ぜられる。『千紫万紅』『万紅千紫』の中に、狂歌狂詩文の相交って、 珠玉を連ねた趣のあるのを見ると、蜀山こそは古今独歩だ。「ほととぎすなきつる片 身初がつお春と夏との入相の鐘」辞世すらこれほどである。  しかし狂詩に至っては平灰《ひようそく》こそシナ伝来であるが、用字の上においては音訓併用、 特にその併用上に一種の面白味を存しておる点は、明らかに我国特有のものと誇り得 るであろう。「頻食餅菓子又東《ひんしよくすもちがしまたひがし》」と干菓子に利かしたところなどがそれである。私 は少しばかり狂詩に関する古本を蒐めておるが、銅脈先生の『太平遺響』『太平楽府』 などはいささか珍たるを失わぬ。その他愚仏先生の『太平詩集』というのもあるが、 昨今庶民詩、市民詩などいう言葉が流行《はや》るところからすると、狂詩を太平詩と呼ぶも また一興であろう。寛政ごろに至って同好の間に編まれたものに、寝惚《ねぽけ》銅脈東西二大 家の贈答狂詩集がある。寝惚先生から「聖護院辺君已聖、牛籠門前我如牛」と言って やると、銅脈先生から「応生祠古祇園外、物沢楼高江戸中」と酬《むく》いるという風であっ た。物沢楼《ぶつたくろう》は言うまでもない蜀山の阿房宮である。そこでこの東西の両先生はとうと う会う機会がなく、蜀山門下の問屋酒船《といやのさかふね》、腹唐秋人《はらからのあきうど》両人が五十三次を股にかけて、 京へ上って銅脈先生と相見た。かくて天明東西の二大家が、奇才を韻字に訴えて、相 応酬したさまがよく看取される。「暮春十日書、卯月五日届」という句があるところ から見ても、数篇の応酬に数旬を要したのであろう。一生に一度ぐらいは、寝惚気分 になって見たいものである。 ハイカラ史 「日本ハイカラ史」というようなものを編《こし》らえて見たら面白かろうと云うのが、巌谷 小波君の創案である。厳格な意味から言えば「日本開国史」とか「日本新文明史」と か言うべきであろうが、今少し砕けたハイカラ史というようなものも、なるほど面白 いに相違ない。今度彦根の町に新設された「開国文庫」や、最近長崎で出版された対 外史料美術大観のごときは、前者に属すると向時に、あるいは政治的に宗教的に、も しくは通商的見地からの新文明史料であるが、これを一ッ社会的に見たいわゆるハイ カラ史なるものは、さだめて興味の多いものであろうと想像される。カステイラが 「阿蘭陀《オランダ》伝方、長崎根本製不老仙菓」と銘を打った商標で売り出されたのは、何時の ころであろうか。これに「家主貞良《カステラ》」「粕底羅《カステラ》」「賀須底羅《カステラ》」「卵糖《らんとう》」の字を当てるに 至ったのは、おそらく後年の事であろう。近世歌謡の一で、一時流行をきわめた一種 の端唄なる「メリヤス」の語源が、何処から出たかは今日でもなお、徳川時代軟文学 者の間にさえ疑問であるが、もしその一説である莫大小《メリヤス》の、伸縮自在に役者の所作に 合わせられるということから来たものとすれば、これまたハイカラ史の屈強な一資料 ではあるまいか。  大文字屋の大かぼちゃと云う童謡が、はじめて江戸で唄われたのが宝暦四年(一七 五一年一)であるとすれば、南瓜《かぽちや》がカンボチヤから渡来したのは、あるいは十七世紀中 であるかも知れぬ。「ミイラ取がミイラに成る」という諺は、何時ごろ始まったもの であるか容易に知り難いが、西班牙葡萄牙伊太利《スペインポルトガルイタリー》語の=一目句から来たことは疑いない。 |硝子《ガラス》が欧州各国に広く製造さるるに至ったのが十七世紀であるとすれば、十八世紀の なかばに江戸でビイドロの製造を見たことは鎖国の我国としては、むしろ好成績と言 えよう。  上野に彰義隊の戦争のあった翌日、巴里の博覧会から帰朝した瑞穂屋卯三郎という 男が、初めて西洋花火を持って帰った。日本橋本町三丁目の店で、彼が広告的に、初 めて西洋花火の紅色花火に点火した時に、五、六町四方が真赤に見え、ソラ火事だと 大騒ぎをやり、二番目の青光花火を点火したら、物凄いまでに真青になったので、火 事でないことは知れたが、皆がまた真蒼になったなどと云う、面白い実話が遺ってお る。後年仮名の会の主唱老も、たしかこの瑞穂屋事清水卯三郎で、「ものわりのはし ご」(化学楷梯)三冊を著わして、ほとんど今口の口語体の文体で句読を切るにも西洋 流のコンマ、ピリオドをもってしたところなどは、まさしくハイカラ史中の傑物であ る。  ムンドハルモニカ(口琴)、通称「ビヤボン」は西洋にてかなりに古く、またかなり に近時まで行なわれた準楽器の一であるが、文政七、八年ごろにはこれが江戸におい て大流行をいたしておる。オイレンスタインが十六個のビヤボンを用いて、驚くべき 吹奏を倫敦《ロンドン》で演じたという一八二七年には、ちょうど江戸で大流行の最中であリた。 明治になってからも、玉突《たまつき》は明治六年ごろに、当時の高襟者流《ハイカラしやりゆう》の手に弄ばれ、団十 郎菊五郎は、明治十一年の六月に玉突遊びに熱中すという記事が、同月十五日の有喜 世《うきよ》新聞に出ておる。社会的開国史、社会新文明史ともいうべき一篇を編みたく思う。 文身  何が可笑《おかし》いと云っても、尻に近江八景の文身《ほりもの》を彫ったなどは、自然と人生を愚弄し ている。寛政ごろから天保あたりへかけての文身《ほりもの》ときては、平民社会の一種の流行で あり、また社交的要求でもあった。もっとも寛政とか天保とか云っては、いかにも昔 語りのようであるが、大正七年の今日、甲府連隊区管内の徴兵検査に、九百七十二人 中八十九人までが、文身《ほりもの》をしていたという事実は、新しき驚きとでもいおうか。  我南洋の新占領地へ、東京理科大学の人類学のある先生が出張された、マーシャル 群島やヤップ島土人の、特にその婦人の、特にその妙な部分の剤青《いれずみ》については、かな りの珍談があるが、なにぶんにも天機漏らしがたい。河童《かつぱ》が陰所を窺う図を彫り付け た江戸のお角という女や、金太郎の口にちょうど自分の乳房を卿《ふく》ませたような具合に 彫った江戸のお竹などという手合いが、もし今日の東京に居たとすれば、南洋新占領 地の女の民政長官として、真に適材適所であろう。同占領地の女児は、六、七歳にな ると、一定の部分へ剤青《いれずみ》をする。泣こうが叫ぽうが約三十分で彫《ほ》りおわるそうな。  シナの役者がいわゆる生《シヨン》、旦《タン》、浄《チン》、丑《チユウ》の役割中、生《シヨン》すなわち役人やら、浄《チン》すなわち 悪役の役を演ずる際などにも、顔面の表情ということはまったくヌキで、それぞれの 役が一定の隈《くま》取りに依ってきまっているが、想うに我が劇道の隈は、もとシナから渡 り、シナの隈取りは南洋土人の賠面《いれずみ》から来たものであろう。土人の面剤膚割《めんさつふさつ》は、主と して示威、装飾、性欲を目的とするもので、現に南洋土族間の裁判官は、裁判する時 に限って顔に隈取りを施し、けっして素顔で裁判することはない。結局|文身《ほりもの》がマジッ ク的のものであることは争えぬ。イヤ、忘れたが南洋の裁判官どころではない、徳川 十二代将軍時代の江戸の町奉行の遠山金四郎という粋人が、腕に女の生首が玉章《たまずさ》を口 に唖《くわ》えている文身《ほりもの》をしていたことは、有名な話だ。ある時吉原の女郎がお白洲へ出て、 ふと顔を上げると、お奉行さんと思いのほか昔馴染のお客であったので、「アラ金さ ん」と思わず叫んだというのが、この腕に文身《ほりもの》の遠山金四郎景元である。下情に通じ 裁断流るるがごとき、当年の名奉行であったとは、さもありなんと思われる。  西洋でも娼婦、女優などには文身《ほりもの》をしているものが少なくない。水兵にはかなりあ る、左の手首に錨を彫っているのがおきまりのようである。質に入れても身体だけは 流すまいぞよとの洒落でもあるまいが。しかしこの外国水兵の手首の文身《ほりもの》はあるいは 我国との交通以来、長崎への寄港から得たものではあるまいか。二の腕ヘ入墨をする ということは、我国一般の旧慣になく、ただ日本の鯨刑《げいけい》において、長崎ばかりが手首 に入墨を施したものである。入墨を刑の一種としたことは、もちろんシナ伝来で、明 律《みんりつ》にも刺字《しじ》、剤青《さつせい》という刑名が見られる。それにしても山王のお祭に、揃いの刺青《いれずみ》で 祭礼に出た江戸の可可兄《あにい》ほど、人類間の文身《ほりもの》の習俗を、社会的に美化したものはなかろ う。 釣り  何人にも興味の感ぜらるる野外の娯楽は、猟と釣りとである。一は動的で、他は静 的、彼《かれ》には豪快の興はあるが、残忍の嫌を免れぬ。是《これ》には孤独の感はあれど、安禅の 楽がある。「はせ釣や水村山郭酒旗の風」この興趣は独り釣りにのみ存して、銃猟で は味わえぬ。  猟の歴史と漁の歴史といずれが古いかは、専門学者の研究に譲るとしても、ふたつ ながら人類生存の歴史上に、よほど古くから至大な関係があったことは、疑う余地の ない事であろう。東西ともに太古から、王侯将帥の大仕掛けな出猟の記録が遺ってお るところから見ても、猟は貴族的で、したがって武張った意味がある。漁が生存的の 必要から職業的になり、その内の釣りがさらに娯楽の一種とまで進んだのは、何時ご ろからであるかは知らぬが、それがきわめて平民的で、かつきわめて平和的であるこ とによって、猟とは全然反対の立場にある。しかし文王が出猟して、滑水の陽で獲た ものがいわゆる熊《ゆう》にも非ず罷《ひ》にも非ざる、一漁翁の太公望呂尚《たいこうぽうりよしよう》であったことは、漁 の人は時に猟階級の人の師父と成りうるという、最も面白い史上の教訓ではあるまい か。  もっとも釣りをあまりに平民的だとばかり断定すると、考証学者から多少の抗議が 出るかも知れぬ。平安朝時代には釣殿という水殿を、貴人の邸第の内へ設けたことさ えあり、シナでも唐宗のころには、釣魚の宴という事が行なわれたことなどを想うと ある時代には貴族の間にも、釣魚が高等な娯楽とされたことが知れる、が、釣りの生 命は野外にある、野水にある。禁廷内の釣殿の釣魚のごときは、死水であり死魚であ るに過ぎぬ。貴族がたまたま平民の楽しみを奪うと、往々こんな風な死んだ楽しみに なってしまう。  ウォルトンの『コンプリート・アングラー』(釣魚全書)は、著名な書《ほん》であるが、疎 瀬《そらい》なる私は、いまだそれを手にしたことすらない。王政復古時代の英国の文学界に、 かかる特色の作物があり、十七世紀中葉の英国に、鉄物商からの出身で、五十歳にし て田舎に引っ込み、文芸と釣魚《つり》とに余生を捧げたウォルトンのごときを見ることは、 後世|釣魚《つり》党のために心強い歓びである。しかもちょうどそれと同じような心持ちの 『何羨録《かせんろく》』という釣りの書《ほん》が、享保九年に某侯の著作だと言われて出来ておることは、 またたしかに我国著作界の誇りとするに足る。  宋の康節先生|郡尭夫《しようぎようふ》は、たれでも知っておる漁樵《ぎよしよう》問答の著者である。彼は漁者 の六物を、竿也|鉤《はり》也|論《いと》也|浮《うき》也|沈《しずみ》也|餌《え》也といって、その一にして具《そな》わらざれば得べか らずと言うておる。しかして漁樵問答のかたわらに、もっばら哲学的思索に耽った彼 は、一方において漁者の六物を語るとともに、さかんに一元論を説いておる。今日の 哲理論から見れば、畢竟《ひつきよう》知るべきもののようではあるが、人間社会を一個の小宇宙 視した点において、シナ思想史上の一角を占めておる。漁樵問答の著者が、哲学者で あったごとく、釣道楽の先生達も、また多少とも無意識な哲学者に相違ない。 菓子  我国の菓子は、ほとんどその大部分が舶来のものではないかと私はつねづね思う。 |葡萄牙《ポルトガル》、和蘭《オランダ》、シナ、仏蘭西《フランス》の関係を省いたなら、我国の菓子史は、きわめて貧弱な ものであろう。饅頭《まんじゆう》は古い時代には、万十と書いたものであるが、畢竟シナの饅頭《まんとう》 の伝来に過ぎまい。浅草金龍山聖天宮麓の、鶴屋の娘お米が製《こしら》え始めた饅頭を米万十 と云った。遺扶《いいつ》の狂歌に「根元はふもとの鶴やうみつらん、米万十は玉子なりけり」 というのがそれだ。延宝年間江戸名物の一に算《かぞ》えられていた塩瀬《しおせ》の万十、高砂屋の縮 緬《ちりめん》万十などとともに、いずれも饅頭の改製に過ぎまい。求肥《ぎゆうひ》はたしかに牛皮の字が正 しく、羊葵《ようかん》とともに、その名称から見てもシナ伝来のものとうなずかれる。  今は過去のものとなったが、金平糖《こんぺいとう》、有平糖の西班牙《スペイン》、葡萄牙《ポルトガル》伝来のものたるは、 人のあまねく知るところである。落雁のごとき、ほとんど純日本ものと想われるもの までが、シナの軟落甘《なんらくかん》の和製であるとすれば、菓子類中の純日本ものとては、餅と飴 の二つだけではなかろうか。近来大流行の各種のキャラメルが中世紀の拉丁《ラテン》語「キャ ナメリ」から来ておることを想うと、私どもはとんだ旧いものをシャブっておるしだ いである。ある観光客の西洋人が「今日はキャラメル親王のお墓へ詣って来ました」 と話すので、どうしてもわからぬのを、だんだん問質《といただ》すと、モリナガ親王のお墓であ ったことがわかって大笑いをしたなどは、森永の広告の広まっていることも驚かれる が、旧いものの新しい話として上乗のものである。  菓子ではとうていシナに匹敵《かな》わない。上等のものはしばらく省いて、子供だましの 一文菓子にしても、はるかに我が「鉄砲だま」の類に優っておる。梨膏的《リカオタ》というのが ある、やや我粟おこしに似ておる。核桃穣児《ホタロアンル》という胡桃入りの菓子がある。鍵子醇々《ターツボボ》 という咳止め菓子までがある。水糖子児《ピンタンツアル》はさながらドロップである、形も色も味も 種々変っておる。その他|鶏水糖《チイシユイタン》というは、口中で表皮《かわ》がとけて、焼酎の芳香が味わ える。小核児《ことも》相手の駄菓子だけでも、シナでは数十種を下るまい。  独《ひと》り団子と煎餅に至っては、純日本産れで、どうやら国民性にも適合しておるよう で、国民的菓子とも言えよう。ことに団子のごときは、伝説も昔噺も沢山にもってお ろう。桃太郎から腰の黍《きぴ》団子を取り去り、お月見に月見団子を供えず、隅田川に言問《こととい》 団子が無かったら、我が国の童話と詩歌の半ばは滅びるであろう。天保四年出版の狂 詩集に『茶菓詩』というがある、「山本ノ山本山、船橋ノ煉羊嚢、一碗喰二切「一樟 土瓶傾」などとあるが、いっこうに団子に言及せぬのは失当の甚だしきものである。 狂詩歌や漫画が団子を閑却《かんきやく》するようでは、資格がない。それにしても我が団子と煎 餅が、シナ古渡りの羊嚢や、和蘭《オランダ》伝来のカステラなどと拮抗して今日に至り、さらに キャラメル、ドロップの羽振りよき今日、なおかつ優に菓子界の一角に、団子が古雅 の風格を、煎餅が活淡の情味を保って、小児によく婦人によく大人に佳く、総ての階 級を通じて賞味せられつつあることを想うと、吾々は衷心《ちゆうしん》から団餅二子の徳を頒せざ るを得ぬ。 蝦夷  近年はアイヌも弱くなり、熊も弱くなったというが、それもそのはずで、北海道庁 は開拓五十年記念博覧会を、この夏開催するという。松浦武四郎の『近世蝦夷人物 誌』、大内鯨庵の『東蝦夷夜話』などを見ると、アイヌの剛勇ぶりの面白い話が沢山 出ておる。対手はたいがい熊だ。まず一|箭《せん》を熊にお見舞申しておいて、隙を見て下手《したで》 に飛び込み電光石火の勢いで、山刀を陰嚢《いんのう》のあたりから股の辺まで刺す、中にはまた 体をかわして、熊の背中へしがみ付いて山刀を刺し通すなど、いずれも単身の奮闘で ある。徳川侯を案内して、うまく熊穴の獲物を売り付けようとする、今日のアイヌな どには、もはやこんな熊との決闘ぶりは見られまい。  蝦夷研究であくまで徹底してもらいたいのは、義経の事蹟である。西蝦夷の磯谷に 来年岬というがあり、また弁慶岬というのがある。弁慶岬は判官義経が満州渡海の地 点で、来年岬は弁慶が来年帰ることを、住民に約した場所だと伝えられる。もっとも 著老不詳の『窮髪紀謹《きゆうはつさだん》』という書《ほん》には、これはヘンケル岬で弁慶岬ではないと言っ てあるが、『北蕃風土記』には、同地方のある旧家に、代々相伝の不開《あけず》の筥《はこ》があって、 近世ふとそれを披《ひち》いて見たら、義経の証文というものが出た。すなわち「大豆五斗借 用す時の柳営より弁ずべし武蔵守弁慶承之」と書いてあったという。ともかくも北海 道の住民が、その原地語として、「ウキクルミ」または「オキクルミ」の言葉をもっ て、義経公を呼んでおることは、少なくともその語源や事蹟に関して、研究の余地が あると思われる。頼鴨崖《らいおうがい》のユゥブッ川を詠じた詩の転結に「撃壼歌罷群胡酔、源九廟 前風雨来」というのがある。  今一ッ不思議に面白いことは、アイヌの楽器に、十七、八世紀を通じて西洋で流行《はや》 った、ビヤボンに酷類した一種の口琴のあることである。ムックンという楽器で、モ ンケンウンという糸を、五寸ばかりの竹に着けて、糸を口にふくみ指にて弾く、いず れもセカチ(童)メノコ(女児)の遊戯らしい.、和人かりに名づけて「口琵琶」という と千島志料にあるのは、このムックンのことであろう。その他我が浄瑠璃ようのもの で「ユウカル」という歌がある。もっとも文字がないから一定した歌詞がなく、その 場のみの頓作《とんさく》が多いというから、彼等もまた天成の即興詩人である。また女の聴くも のにシャコロベという音曲がある、ちょうど我が豊後節に等しく、いずれも恋や義勇 を謡うものだそうな。  寛政の三助に擬した文化の三蔵というのは、近藤重蔵、間宮林蔵、平山剛蔵の三人 であるが、なんといってもこの三人は、蝦夷研究の三尊である。これに松浦武四郎と 栗本|鋤雲《じようん》翁でも加えて、開拓記念博覧会を機会に、記念祭でも催したいものである。 松浦武四郎の『壼の石』(嘉永七年板)などは、蝦夷路程便覧としてはまことに使利で かつ親切な折本で、今日の旅行案内などは、その簡明な点においてとても及ばぬ。新 井白石の閨境図《こうきようず》は蝦夷地図としてのおそらく最古のものの一であろう。 風俗詩  いかに時代が変っても、古い詩歌が、それぞれ時代に応じて、新しい意味を感じさ せるのは、そこに自然と人生とが歌われてあるからであろうが、ただ風俗詩であり、 人事詩であり、社会詩である川柳の上に見出し得る、古今対照のこの種の情味は、他 の詩歌に比して、また格別であるように想われる。「岡場所で禿《かむろ》といえば逃げて行」。 岡場所とは官許以外の魔窟で、今で言えば浜町辺へ遊びに行って、高等内侍を本職の 芸者扱いにすると、先方が恐縮してモジモジする光景を写したものである。「日本勢 一人は伽羅《きやら》の目ききもし」。文禄の役を嘲笑した、皮肉な川柳である。すなわち朝鮮 征伐には、紙袋を旗印にした薬屋の小西行長が一人いる、伽羅や沈香《じんこう》の掘り出しもの があった場合にも、薬屋がいればメッタに見のがしはしまい、と云った風の句であろ うが、文禄に限らず何時の戦役にも、行長の五人や十人はとびだして、馬蹄銀《ぱていぎん》までの 始末をする。出兵論の高い昨今、いよいよの節には、紙袋の旗印連だけは国の名誉に かけても、ごめんこうむりたいものである。  私が最も驚いたのは下の一句である「お物師の吹殻《すいがら》一つ気が違い」、これは久良岐《くらき》 派の機関紙「花束」の最近号に註釈してあったものであるが、高貴の方の衣服裁縫の 命を畏《かしこ》む御物師が、仕立て上げてお上へ出した服の中に、粗漏《そろう》の結果吹殻が一ツあっ たと云うのを責められ、また自らも誠に相済まぬと深く感じた揚句が、気が狂わしく なったと云うのであるが、そのとおりの事実が、実は大正七年のこのごろにあった。 ただしこの方は吹殻でなく一本の縫針であり、狂気でなく一週間ばかり酒を呑み廻っ た末、鉄道往生を遂げた、日本の臣民としての責任感に殉じた訳で、しごくの美談で あるが、その事は秘密に葬り去られた。深刻な人生を歌ったこの古句は、同時に最近 時の新しい人事詩ではないか。川柳のいきいきした点はまったくここにあると思う。 「長崎屋今に出るよと取り囲み」。これは多少説明がいる。慶長以後の事であるが本 石町三丁目に長崎屋源右衛門という旅人宿があった。このころから五年目に一度ずつ 紅毛人すなわち和蘭《オランダ》人が、江戸参府をやるので、上京ごとにこの長崎屋を宿にする。 カピタン一名筆者二人外科医一人の一行である。それが登城の日には、そら今に出る よというて、見物連が宿屋のあたりを取り囲んで押すナ押すナの状だ。この句はそれ を読んだものであるが、大正の今日でも英国特使の宮殿下を、銀座街頭で迎えた東京 市民には、少なからずこの気分が充ちていたではないか。 「菅笠で犬にも旅の暇乞《いとまごい》」は、「自動車の窓からポチに失敬し」と直せばただちに今 日の旅行門出の句になる。古句の方は菅笠が利いている、すなわち家人にはことごと く暇乞いを済ませ、もはや菅笠姿になって、「オー斑《ぶち》や行って来るぞ」と云った風で ある。最も適切なのは、「丸顔を味噌にしている軽井沢」。昔時の軽井沢の売女を写し 出したものだが、丸顔の女が味噌をあげているすなわち自慢しているなどは、今日の 軽井沢でも、どうやら毛唐式に適って、味噌をあげそうなことである。 琉球  琉球《りゆうきゆう》の事情を少しも知らぬ者でも、「琉球おじゃるなら草鮭《わらじ》はいておじゃれ、琉球 石原小石原」の俗謡は知っておろうが、今日の琉球は草鮭どころではなく、那覇から 北へ十七里もある名護まで、立派な道が通じて、現に自動車が通っておる。近ごろで はトルストイの無抵抗主義などを、しきりに新しがっているが、真の俄兵《しゆうへい》を現実的 に行ない来たったものは琉球である。今の尚侯爵《しようこうしやく》の遠い先祖であろう、十五世紀の 琉球の英傑|尚己志《しようきし》という人が、琉球内で鼎立の勢いを成していた三山一統の業を仕 遂げて、同時に敢兵を行なって、一切の武器を廃棄した。その結果琉球人の間に、護 身の術として興ったのが、今日も現に行なわれておる唐手の法である。  唐手とは一種の拳法《ボキシング》で、両の手の拳固を前、左右、後へと巧みに働かせて、攻撃 に用いるのであるが、その修業には立木や柱などに、拳固をぶつけて固め上げる。内 地から行った巡査などは、どうかすると琉球人の唐手で肋骨を折られて、一、二時間 も苦しみ抜いて死ぬことなどもあるそうな。彫刻家で馬で有名な池田勇八君が、前年 琉球へ行かれた時に、夜晩く宿へ帰る途中、物蔭から三人の琉球の悪漢《わるもの》が現われて、 唐手で突っ込んで来た、が、アノ大男で柔道=.段という勇八君の勇は、一人一人を拠 げつけて無事であったそうだから唐手はおそらく柔道の敵ではなかろうが、その突撃 力はよほど強いものらしい。  琉球に有名な闘牛がある。しかしこの地の闘牛は西班牙《スペイン》の闘牛とは、全然意味が違 って別物である。西班牙《スべイン》のはむしろ屠牛と称すべきものだが、琉球のは角牛に過ぎな い。村中の牛どもには大関関脇というように、それぞれ格が定《きま》っておる。いよいよ闘 牛の日に闘場へ、東西両方から牛を引き出tて来ると、牛は喜び勇んで、「メェー」 と}声高く哺く、すると対手方の牛も「メェー」と応答する。両側が土堤で窪地にな っている闘場の周囲は、村の人で一ばいである。闘場へ立つと、牛は双方から角をガ チリと合わせる、いわゆる四ツに組んだ体で、双方呼吸をはかって動かぬ具合が、ま ったく相撲同様だ。結局、角で相手を振《ね》じ倒して勝負が定《きま》る。本来耕作の暇な時に、 牛の張り切った元気を発散させるのが目的で、しごく平和的なものである。 「二月、土筆《つくし》萌出、百合の花満開、蠕蝉《こおろぎ》鳴く。四月、蝸鳴《ひぐらし》き芭蕉実を結ぶ」と、そ の歳時記に書いてある琉球は、我が海南の楽土である。ここには潮流や航路の関係か ら早い時代から種々な人が立ち寄ったものと見えて、今日の琉球人の間にはかなり種 種な血が混じっている様である。一八一六年に那覇へ寄港した英船アルセスト号の船 員なども、かなりの間逗留して痛く好印象を収めていることやら、維新前薩摩を攻撃 した英船も、一時那覇へ碇泊していたことなどを想うと、西洋人の血もどうやら混じ っているらしい。それにしても琉球の婦人が、風次第で左征《ひだりえり》にも右征にもする、ア ノ固有の婦人服を着けて、街上を往来している状を見ると、竜宮の昔噺も琉球の王城 ではなかったかと想われ、この「弓張月」の島土がいよいよ懐かしくなる。 蚤と蚊  安政の大地震の時に出来た狂歌に、「地震めが世界の人を蚤《のみ》にして、つぶして見た り火へもくべたり」というのがある。あれほどの大騒ぎに狂歌でもあるまいに古人の 楽天気分はこの辺を買ってやらずばなるまい、、同じ五月蝿《うるさ》いものの中でも、蝿《はえ》は朝起 き党であり、蚤と蚊とは夜《よい》っ張《ぱ》り党であるが,蚊吉に比して蚤助の方が多少とも雅味 がある。「夏の夜は蚤蚊のほかにまた一ッさす月ありて寝られざりけり」寝惚の句で あったか、誰の作であったかちょっと記憶せぬが、こうなると蚊吉や蚤助も、はなは だ風流なものになって男を上げる。  宿六が山の神よりも小柄である時に、通常蚤の夫婦ということを云うが、あれは動 物学的に言っても、正に然りで、『紅毛雑話』中の蚤の記事以前に、『三才図会』あた りの記事から、そう信じられるようになったのであろう。足が六本あって、全体が海 老《えぴ》に似たりとまで書いてある所を見ると、早くからシナには虫眼鏡があったものに相 違ない。よく物の微細をたとえる時に、「蚤の眼《まなこ》に蚊の腱《まつげ》」と云い、物の小量を言い 現す時に、「蚤の小便蚊の涙」ということを言うが、今日の動物学者には、はたして 蚤の尿量を測るほどの、研究が出来ているかどうか。  蚤の兄弟分でありながら、文芸の世界からはなはだ疎外されている一人がある。名 乗るまでもなく嵐《しらみ》である。俗人は観音様と云い、文人は半風子《はんぷうし》と呼ぶ。しかもこれほ どの雅名がありながら、蚤や蚊を材題に取り扱う歌人も俳人も、嵐だけは仲間に入れ てくれぬ。蚤はもちろんのこと、蚊のごときまでが俳句、狂歌、川柳にまで啄まれる 光栄に浴している。「蚊柱に夢のうき橋かかるなり」など其角の句まである。しかし 半風子にもたった一人だけの知己はあった、それは近来めっきり有名になった大愚良 寛である。日向の暖かいところに出ては、良寛師胸や腹のあたりから、幾疋となく嵐 を取り出してはそれを紙の上へ置いて、日向ぽっこもさせ遊ばせもして、さてまた元 のとおりに自分の体へ戻して置いてやる。良寛のごときは、半風子に取ってけだし千 載の一人であろう。イヤまだある、鼠を捻って当世の時務を談じ、ついに三十六歳で 丞相の位までかち得た東晋の王猛のごときは、けだし天下一品であろう。  このごろ日本へ来たある西洋人が、東京を「蚊の都」と云ったそうだが、誠にもっ て世界的汗顔の至りである。黄《イエローヒ》 熱《 パー》を媒介する南米名物の一種の蚊も、今では単にお 医者さんや動物学者の標本として残っているばかりで、亜爾然丁《アルゼンチン》あたりでは十数年も 前に、これが絶滅に成功している。「蚊帳を出てまた障子あり夏の月」などと、蚊帳 を風流なものの一つに算《かぞ》えて喜んでいる中には、世界の何処にも蚊などは居なくなっ て、蚊族《ぷんぞく》唯一の保護国という評判が立って蚊《か》レ等が東京へ押し寄せて来るなどは、文 明国として不名誉千万な話である。蚤も伝染病媒介という上から云えば、蚊と同罪で あろうが、朝脱ぎ棄てた寝間着の縫目などに、頭隠して尻隠さぬ蚤の隠れようを見る と、どうやら利巧だと云われる人間どもの仕業に似寄《によ》った点も見える。けだし蚊は悪 むべきもの、嵐は卑しむべきもの、そして蚤は多少とも可笑味《おかしみ》のある奴である。愚仏 先生の狂詩をもって、とりあえず蚤子を祝福しておこう「蚤也亦蚤也、汝子三千疋、 喜皆非鬼子、似親飛上者」。 鼠に関して、 愚山君よりの来書に「俳人一茶の博愛草木禽獣に及びたるは今更申すに及ばず、嵐の句 にも『やよ鼠|這《は》へ這へ春の但《ゆ》く方へ』外秀逸数句有之候」云々。 鼠骨君よりの来書に「嵐は豊に一茶のみならん芭蕉の奥の細道にも『蚤嵐馬の尿する枕 もと』の句あり其他に短夜の明けゆくを粛にかけて『嵐わたる』としたる句など多し」 云々。 旅人某君よりの来書に、国学者橘曙覧の和歌を紹介すとて、二首の中の一「著るものの 縫目縫目に子をひりて颪の神代始りにけり」 人相  私の書生時代の友達仲間に、酒のセイでか鼻の頭の赤くなって、その先ヘポツポツ と四つ五つの粟粒の出来ていた男があったが、友人中ではその男の事を末摘花《すえつむはな》と紳名 をつけていた。その後になって、越前の方言で、こういう赤鼻のことを、鼻赤賓頭盧 坊《はなあかひんづろまう》というのだと知った。鼻はシナの人相学から言っても中岳といって、額の南岳、臆《あご》 の北岳に比して、中央山系の宗として大事な所である。鼻下長は我国でこそ変な風に 言い伝えられてしまったが、シナでは命長しということにきまっている。漢の武帝が ある時群臣に人相を語られて、鼻の下の長さが一寸あれば寿命が百年だと言われると、 例の譜誰家の東方朔が側から口を出して、彰祖《ほうそ》は八百歳というから鼻下正に八寸、顔 の長さは一丈余もあったろうと言った、武帝大いに笑うとある。  西洋の骨相学《フレノロジー》は、人相学《フイジオグノミき》から漸次発達したものに相違ないが、その人相学では、 牛の鼻に似たような厚い鼻は、性遅鈍とされ、鼻梁の痩せたものは貧困だとされてあ る。和漢洋にかけて定説の一致しているのは、「鼻大なれば勢大なり」と言って、一 難を経る毎に勇気の一倍し来たるほどの、勢力家であるそうナ。鼻の穴の大きいのは、 金遣いが荒いという俗説があるが、多少ともそんな感じがする。「そんな馬鹿げたこ とが出来るものか、出来たら鼻で粥《かゆ》をたいて見せる」という俗諺があるが、鼻で粥を たくは、お膀《へそ》で茶を沸《わか》すの類。  耳朶《みみたぽ》を垂珠《ぴく》というのは、さすがにシナの熟宇とうなずかれるが、人の富貴貧賎は垂 珠の大小厚薄によるというのが、和漢を通じての定説らしい。人相学で中興の師と仰 がれた陳希夷《ちんきい》などは「垂珠朝レロ者主二財寿こと言っている。口の辺りまで耳朶の垂 れているものはないからイイが、財と寿とを併せ得てはあまり申訳がない。天下譲り 渡しの談《はなし》に、耳を洗った許由《きよゆう》という男の耳は、どんな耳であったろうかと想う。  目元口元と言って、美人の資格にも肝腎であり、賢愚の表象にも関係があるが、電 車内で見る日本人には「口あけて五臓の見ゆる蛙かな」さなくば「口あいて人に食わ るる柘榴かな」の手合の、あまりに多いことに恐れ入る。「帝範」には口者関也舌者《くちはかんなりしたは》 |兵也《へいなり》とあるくらいで、この関所だけは、今少しく締りをよくしておいてもらいたい。 仏教系の三十二相説、孔子系の四十九表説によると、竜眉に竜眼があり、虎眉にして 象眼なるものがあり、その他|鳳眼猴眼《ほうがんこうがん》などいうのがある。せっかく鈴を張ったような 眼の持主が、柳眉を逆だてるなどは、大の禁物である。誰やらの狂詩の中に「八字細 眉装象既へ玉顔艶口吐紅椿禁」の句があったが、紅椿を想わしむるほど豊かな唇 は、十分な野趣を含んで、薄ッペラな唇に優ることが万々。  御維新後、ある知名の人の都々逸《どどいつ》に「目で知らせ願《あご》で受けたる昔に代えて、鼻であ しらう今日の仕儀」というのがある。維新後メッキリと人情浮薄になって、目よりも 多く鼻が物を言うようになった趣が、遺憾なく言い現わされている。しかし鼻は鼻祖 というくらいで、人生の祖と云われている。人之胚胎鼻先受《ひとのはいたいはなまずかたちを》レ形《うく》で、まず鼻が出来て 耳目が後で形を成すと云われる。しかり、鼻は権威である、鼻の下|喰殿《くうでん》建立のために、 忘れても他の鼻息を窺うナ。 かわや  暑い時分にむさくろしい話をするようだが、一番|汚微《きたな》いものに、一番雅致のある名 の付いているのは、雪隠《せついん》であろう。W・Cという西《ウオータークロゼツト》洋名は、ちょうど手水場《ちようずぱ》と云う 名位に当って、その名称の上に妙味は少しもない。雪峰《せつぽう》禅師とも云い雪竃《せつとう》禅師とも云 うが、常に厨の掃除を仕事としていたところ、遂に大悟を得た、雪隠という名はそれ から起ったと云うが、いかにも面白い悟道振りである。大阪人が雪隠を「せんち」に 転詑させたのは、悪化のはなはだしきものだ。東京語の「こうか」は、禅家の語であ る後架から来たものであろうが、便所は本来家から離れて設けらるべきものとして、 屋後の架設すなわち後架の称もまた面白い。  武田信玄であったか、同のことを分別所と云って、ここで分別を練ったそうだ。も っとも例の川柳子は「雪隠《せつちん》で出るふんべつは屍の如し」と嘲っているが「難二厨酒間一 燭涙成レ堆」と云われたほどの勉強家も、シナにはあったようであり、我国でも「雪 隠で饅頭」という諺があり、寺の和尚は豆〃、雪隠で喰うことに定っておる以上、雪 隠を分別所とは面白い。俳人許六の長雪隠の解の中にも「詩歌連俳の名句もここより 産み出し、大悟十八度も此室に入って工夫を極めたり」とあって、「何おもう長雪隠 の渋団扇」という句まで添えてある。よほど思案分別ないし創作によき場所と見える。,  阿爾然丁《アルゼンチン》かどこかの大植民地で邦人の厩観念が、日本人移民の累を作《な》した話が面白 い。移民小舎を建てると同時に、日本人はほとんど本能的に、すぐその側に穴を掘っ て同風のものを設ける。数百里にわたって打ち開けておる南米の暖野において、ある 我移民の一団が、型のごとく、厨の穴を掘って、我等の衛生設備ぶりを見よと云わぬ ばかりの顔でいると、近隣の外国移民地から苦情が出た。日本人は無闇に汚物を一定 の場所へ蓄積する癖があって、すこぶる非衛生的で困るという訴えであった。なるほ ど大平原では、垂れながしが最上の衛生方法である、つまり青天井の野糞式に限る。 「大徳の糞ひりおわす枯野かな」という蕪村の名句があるように、大徳ならざる凡人 の移民連も、大平原の植民地では、随時随処に大いに用を便ずるに限る。  南洋を一度歩いて来て、馬来《マレー》種族の水辺の家を目撃して、帰った人の帰朝談には、 厨すなわち河屋、日本人の先祖は南洋からの渡来に相違ないと云うのが、ほとんどお |定《きま》りのようである。が、一方にはまた、主家の側に建ててあるべきもの故に、側家《かわや》で あるとの説があって、南洋帰りの急造人類学者の説を否定するものもある。それにし てもシナの茅厨《マオスイ》または毛房《マオフアン》とは、はたしてどんなものであるか、便所の名があって その実がないのではあるまいか。随時随処式の野糞は、その大陸的気分を称揚するに 足るが、庭上街上へ糞尿放流のシナ式は、恐れ入らざるを得ぬ。我国も三都ぐらいに は早く下水道を造って、汚物の排泄方法を完全にしたいものであるが、一面において は、分別所たる雪隠の特色だけは、イイ具合に発達させたいものである。それにして も西洋式の便所に入りながら、鍵もかけずに「雪隠の錠前は咳払い」という昔の捉を、 型通りに奉行《ほうこう》して済ましている人がいるから驚く。 五色  いわゆる青袷社《プリユー ストーキング》の倫敦《ロンドン》に興ったのが一七五〇年、その後|仏蘭西《フランス》でも独逸《ドイツ》でも真 似をして、今世紀に入って、それが初めて我国に渡ったとすれば、我国女流のハイカ ラ振りも百五、六十年遅れた訳である。もっとも紫式部や赤染衛門《あかぞめえもん》などと云う才媛も、 平安朝の青袷者流《せいとうしやりゆう》であったとすれば、英国の閨秀文学者に先だつこと七百年余であ る。シナでも亦|青衿者流《せいきんしやりゆう》といって、書生が皆衣服の襟を青にしていたことは面白い。 つまり緑色は東西を通じて、若々しい気分を代表するのであろう。 しかし青杉《せいさん》といって、青い儒神《じゆぱん》を着た老は、妙な職掌の宙官《かんがん》であった。  兵子祝《へこいわい》というのは、昔十一月十五日に男女の十三歳になった時に、男の子には赤い 揮をはかせ、女子には赤い湯巻をさせたもので、これが若衆仲間に入った印となるの だ。赤色は慶賀の意と同時に、権威の表象である。シーザーが紅のトガを纏い、清盛 が緋の法衣を着たなぞは、権威を添えんためであろう。我に緋繊《ひおどしよ》の鎧《ろい》があるように、 シナにも紅給甲《こうとうこう》がある。そのほか赤が危険の信号であることは、今日世界的に承認さ れておる。各国の外交文書の綴で、紅はちょっと忘れたが、填国《おうこく》であったか、何にし ても危険外交の信号として、独逸《ドイツ》の白書《ホワイトーブツク》は、当然|紅書《レッドープツク》に取り替えらるべきもの であろう、英の青書《プリユー プツク》、露の燈書《オレンジープック》は可《よ》しとして、日本の色は霞色とも言おうか。  岩谷松平氏の赤色万能観は、必ずしも氏の創意ではあるまい。『百家|碕行伝《きこうでん》』中に 出ている河内屋吉兵衛という者、煙草商人であって、性赤色を好み、着物帯儒神から 手拭に至るまで、一切赤染もの揃いで、赤い火事までが好きで、三、五里の処は覚え ず走り行くとある。文化ごろの男である。赤好きと煙草屋という点までは同じだが、 第七十五号をこのごろ産ませたなどは、大正の赤が文化の赤に優っておる点であろう。  昔は禁色《きんじき》と云うのがあり、聴色《ゆるしいろ》というのがあったが、今は色彩の上には絶対の自 由がある。もっとも和尚さんの袈裟の色には、階級の差別が制定されてあろう。面白 いのは朝鮮の牛である、人間というものは白い衣を着ているものと多年眼に慣れた結 果、黒い服の内地人なぞが、朝鮮の田舎道で牛におっかけられた話は、併合前の朝鮮 では珍らしくはなかった、また一種の禁色とも云えよう。  白と青と、黒と白とが呼声の上で、互いに錯綜《さくネこつ》していることのあるのは、どういう 訳であろうか。黒毛の馬をあお馬といい、白馬節会《しろうまのせちえ》をあおうまのせちえと読むがご とき、歯を染めておった武将に対して、自歯のままの雑兵を、あお歯者と云うがごと きがそれである。そんな詮索よりも、色彩を応用した古人の作句には、巧いものがす こぶる多い。「遺却珊瑚鞭、白馬驕不レ行」「江碧鳥途白、山青花欲レ燃」などはシナ 人の手際だ、アノ人口に膳灸《かいしや》している「沖の暗いのに白帆が見える、あれは紀の国蜜 柑船」黒白黄を巧く利かした具合は、けっして凡手ではない。例によって蜀山人の五 色の詠の中の、青だけを景物に添える「藍瓶《あいがめ》のあいよりいでて紺屋町、やなぎ"つつみ になびく染もの」。 酒  一体酒という字をマで引《さんずい》かずに、酉《とり》で引くというのは、画字引も訳が分らんじゃな いかと云いたくなる。杜康《とこにつ》という酒造りの先祖が、酉の日に死んだというので酒の字 はもちろん、酔うという字も醒《さ》めるという字も、その他いやしくも酒に関係のある字 が、皆酉扁であるのには恐れ入る。シナでは酒を二種に大別して、水酒と気酒とに分 ける。水酒の方はいずれも黄色な酒で、気酒とは焼酒である。儀狭《ぎてき》の造ったのは濁酒 であるから問題外として、杜康の造った酒も、李白の飲んだ酒も、共に水酒であって 気酒ではない。露西亜《ロシア》の「ウォーッヵ」のごときは気酒中の尤《いう》なるものであるが、飲 中八家仙連のような陶然たる酔心地は、気酒たるウォーッカには望めない。  酒の名所と云えば、伊丹、池田灘、漸江《せつこう》の紹興《しようこう》、仏蘭西《フランス》のボルドーと相場が定っ ているが、シナでは酒の本場は陳西《せんせい》から湖南、それから漸江と変遷しておるが灘の生 一本とボルドーの葡萄酒とが、数世紀を通じて、上戸党のパレスチナたることは、な んとなく嬉しい気がする。灘の酒のごときは約六百年の醸造史を伝えておる。幕府時 代には、摂津から船積みで江戸へ入れた酒を「下り酒」と称《とな》えたが、天保ごろにはそ の下り酒が、一年に八、九十万樽に達したという。しかし初めのころは、津の国鴻池 の酒屋勝庵という老が、二斗入り樽二つを一荷として、その上に数足の草履を置き、 それを自分で担いで江戸に下り、大名の家々へ売り歩いたところが、いかにも美酒で あるところから、四斗入りの樽二樽を一駄として、東海道を馬で運ぶこととなり、そ れが数十駄に殖え、とうとう幾十万樽を船で廻すまでの盛況を極めたと云うに至って は、上戸党の勢力も偉大であるが、江戸ッ児を酔わせた贅六《ぜいろく》の力も恐ろしいしだいで ある。  酒を革嚢《かわぶくろ》に盛り、角を盃に充てる風習は、小|亜細亜《アジア》及び中央|亜細亜《アジア》辺からシナヘ かけてで、中亜の一部では今でも現に見られるが、新酒はこれを革嚢に盛り、古酒は これを酒瓶に盛ると云われるくらいで、シナでも古酒を貴ぶことは、けっして西洋の 古葡萄に劣らない。シナで女の児が産れると、特に酒を造って婆《かめ》に蔵《おさ》めておきその児 が成長して嫁入りに行く際に、その酒をもたせてやる、「花雛《かしゆう》」というのがすなわち それだ。これらの風習から見ても、古酒のシナ人間に貴ばれている一般が知れる。杜 牧の「窓外正風雪、擁レ炉開二酒鉦一」の句は、戸外は風雪だと云うので古酒の鉦《かめ》の口 を開けたのであろう。  西洋人が一般に冷酒を用うるに反して、日本でもシナでも燗《かん》をする。紹興《シヤオシン》酒のご ときは微温の燗がよいとしてある。上方には銅器で湯燗専門の「ちろり」があるが、 シナは一般に錫器《しやくき》を用いる。シナでは焼酒は熱燗ときまっているが、露西亜《ロシア》では「ウ ォーッヵ」は、小盃を一口に飲み干すが習いである。禁盃すなわち禁酒という事は、 近世に在っては耶蘇教《やそきよう》の専売のようであるが、豪傑沢山のシナでは、古来あまり唱え られたことはないらしい。コ年又有一年春、百歳会無百歳人、能向二花前一幾回酔、 十千沽レ酒莫レ辞レ貧」などは、禁酒論者の頻卑盛《ひんしゆく》するところであろう。 動物の芸  活動写真全盛の今日、観世物などということは、その名だけでもすでに旧い感じが するが、しかし新しい観世物の工夫が、絶対にないというはずはない。そしてその一 ツは動物の芸当であろうと思う。私は先年|伯林《ベルリン》のある寄席で、脇肋獣《おつとせい》の音楽団を見た ことがあるが、今でもその面白さを記憶しておる。ちょうど有楽座ぐらいの大きさの 寄席であった。幕が開くと舞台に、大木の切株のような高さ二尺ほどの台を、六ッ七 ツ客の方へ開いて半円形に列《なら》べた。一人の男が舞台の隅で劇夙《ラッパ》を吹くと、奥の方から ノコノコと膿胴獣が出て来る、順々にしかもほとんど同じ間隔を取って。断わってお くが、同じ鰭脚類《ゼニベデイア》の海獣中でも、咽皿肋獣だけは、鰭《ひれ》のようなその後肢を扁《ひらた》くさせて、 それを前方に向けて歩行し得るものである。  彼女のアノとぼけた顔と、筒のようなアノ休とを、そのヨチョチとした鰭脚の歩み ぶりで、推し出して来るので、まず観客を笑わせる。そしてめいめいに半円形に陣取 られた切株台の上へ、ピョイと身軽に体を載せる。腹の上部の辺で体を支えて部署へ 着きましたと言わんばかりに、顔と前肢とを前ヘツン出している。すると指揮の男は、 「太夫一同身支度相整いますれば」ともなんとも挨拶なしに、端の者から順々に大|劇 吸《ラツモ》、ヴァイオリン、太鼓、銅羅《どら》、その他二、二種の楽器を、太夫どもに渡す。彼女は 黒ん坊の手のような、その鰭状《しじよう》の前肢で器用に受け取る。号令が一下すると、めいめ い各種の楽器を合奏し始める。ただし劇夙《ラツパ》だげは、じつのところは吹くのではなく、 自動車の劇夙《ラツパ》同様、ゴム玉を握っては鳴らすのである。全体から見て、少しも不自然 な感じがなく、しかも彼女等は得意げに、愉快げに合奏しておる。  動物学者に聞いて見ると、膿胴獣は音楽が好きだそうだ。ツマリ興行師が、彼女の 天性を利用したものであろう。我国に古くからあった観世物で、動物芸としては山雀《やまがら》 であるが、これも山雀の人に馴れやすい性質と、筋斗《もんどり》を打つと云って、飛んでは宙返 りをする天性とを利用したものであろう。また話が前へ戻るが、咽皿胴獣の次が猿の自 転車乗りである。日本流に言えば「猿太夫自転車恋の道中」とでもいう狂言だ。相当 に背景を施した舞台へ、スッカリ紳士風に着こなした、あまり大きくもない一疋の猿 太夫が出て来て、体相応な小さな自転車を、もちろん人も及ばぬ程度に、障害物の間 などを乗廻す。そこへ令嬢風に装うた猿嬢が、また自転車へ乗って出て来る、しかも 右の手ではパラソルをさしておる。この小さな猿面の紳士淑女が、自転車の上での 種々な科《しぐさ》を見せた末、ホテルヘ泊ってベッドヘ入るところまでやる、とても猿とは思 えぬ。  我国でも今日でこそあまり見られぬが、猿芝居はかなりに、大人をも小児をも喜ば せたものである。貞享の頃には、湯島に犬猫の諸芸を、観世物にしたと古書にある。 |廻《ま》い鼠のごときも、多少の工夫を加えれば、立派な観世物になろう。伯林《ベルリン》ではたしか、 蚤の相撲《すもう》を顕微鏡で観せる観世物があるとか聞いた。しかしなるべく大きな動物に、 その特性によって巧みに芸を仕込んで、面白い観世物を始めたら、我国でも必ず歓迎 を受けるであろう。電《いなずま》のような鋭く忙しい活動式の観世物よりも生物の上に、ただち に天工人工の妙処を看取する面白味は、また格別であろう。 書と鉄筆  頭山満《とうやまみつる》翁が、テンシュウ先生と名を付け方、福岡県人の書家先生があった。門人 へ書道の指南をするのに、ちょうどバンド・マスターがアノ指揮棒で、調子の緩急高 低を指し示すように、門人が唐紙を展《の》べて筆を執《と》り上げると、先生その紙の頭の方へ 廻って、墓《がま》が平《へい》つくばったような身構えに、両肘を張り、眼を門人の下した筆の先へ と放って、「点、シュウシュウシュウシュウシュゥ、パン!」と筆勢の緩急、捲野《けんじよ》、 躍動、さては運筆上の落、起、走、住、畳、囲、回、蔵の八法の呼吸を、テン、シュ ウシュウ、パンで指南し会得させる。ここにおいてかテン、シュウ先生ありで、寺子 屋時代からの、手を取って教える手習の法を、掛声と語勢とで指南するテンシュウ先 生のごときは、けだし前代未聞であろう。  しかし近ごろの書道の先生には、まだまだ奇抜なのがある。ある字画の曲げ具合を 説明するのに、「工1、そこのところの力ーブは、四十五度の角で」などと、物理学 の教授でもしている気持ちで、側、勒《ろく》、努、擢《やく》、策、掠《りやく》、啄《たく》、礫《たく》の八法を教える始末 だ。頭山翁に言わせたら、力ーブ先生とでも名を付けられよう。梧竹《ごちく》がアノ梧竹一流 の字を書き始めたのは、東京ヘ出て来てからのことで、長崎時代の書風は全然《まるで》違って いた。有名になってから長崎へ帰省した時分に、旧友が梧竹に向って「なんだってア ンナ字を書き始めたんダイ」というと、さすがは梧竹だ、「東京のようなところで、 尋常一様な字を書いていては、何時まで経っても認められる道理はない」と言ったそ うだ。近年流行して、最近いくぶん廃れ気味の、六朝風の書体なども流行の動機はい くぶん梧竹流ではあるまいか。  鉄筆の方でも今日のものは同様な憾《うらみ》がある。『奇勝堂印譜』を遺した細井広沢の刀 法やら、大雅、山陽、海屋あたりの、学者また書家として、道楽的鉄筆の妙味などは、 とうてい現今の鉄筆家には望みがたい。日本に本刷がたった一部だけ帝国図書館にあ る『古今印譜』や、八冊を一|秩《ちつ》にし五秩四十巻の、印譜の王様と云われる『飛鴻堂《ひこうどう》印 譜』などを見ていると、蒙刻《てんこく》の神韻とも言うべきいわゆる「空処可二以立ワ馬、密処 毫不レ容レ身、健処銅摘鉄壁、軟処如レ竜如レ蛇」の妙趣を味わうことが出来る。  江木欣々《えハさきんきん》女史が、どんな刀の使い方をされるか、私はまだ拝見したことはないが、 文学から書画までには手を着ける、わが国の閨秀仲間で、独り欣々女史のみが、鉄筆 を楽しまれるのは大いに喜ばしい。今日専門の象刻家となると、概して学問がなく、 漢文一ツろくに書けぬ先生方が多い間に、独り隠れたる鉄筆家松原存斎のみが、印典 学者としてまた秦漢摸印象の大家として、風格の高く風韻に富んだ蒙刻をやり、斯技《しざ》 の三昧に入っていることは、大正の釈徴華《しやくちようか》または大島|芙蓉《ふよう》ともいえよう。徴華は天 明ごろの浪華の文人で『徴古印要』の著者であり、芙蓉は皆川|棋園《きえん》あたりから、印聖 と呼ばれた人である。  蒙字の運筆を解せざるものに、佳印の出来るはずがなく、刀を使うなお筆を運ぶが ごとくあらねばならぬ。印面へ字配りの線を引き、下字《したじ》を書いておいてそれから刻《ほ》る ようでは、ただ死字を得るのみである。刀を執って印へ向うことなお筆を取って紙へ 臨むがごとくあってこそ、初めて秦漢の古法に適《かな》った意中の書を刻することも出来、 名実ともに鉄筆の称に応《かな》うことも出来よう。 妻妾  新時代の御婦人方の、あるいは忌誰《きい》に触れるかも知れぬが、一日だけ我盤を言わせ ていただきたい。明の華亭朱《かていしゆ》と云う男は、一種の古書狂《ビプリオマニア》で、ことに宋寺の鍍版《ろうはん》とき たら目がなかった。ある時|宋斬《そうせん》木|本《ほん》後漢記に、陸放翁《りくほうおう》、劉須渓《りゆうすけい》、謝畳山《しやじようざん》の三大家の評 の入った稀観書《きこうしよ》の、古錦玉籔《こきんぎよくせん》をもって飾ったものを見て、モウたまらなくなって、 一美碑をもってこれに代えた。ツマリ書《ほんめ》と妾《かけ》とを交換したのだ。その時その妾が、家 を出て行く際に詩を壁に題した。「無レ端割レ愛出二深閨→猶勝前人換レ馬時、他日相逢 莫二凋恨→春風吹尽道傍枝」というのだが、妾と馬とを換えた者から見れば、嬰妾《へいしよう》 を珍書に換えた方は罪が軽い。もっとも筑前の諺に「女房百日、馬二十日」というの があって見れば、妾を馬と取り替えるくらいは、不思議はないかも知れぬ。  行誠上人の歌に「歌をよむ女房などはもたぬもの、亭主を尻に敷島の道」というの がある。伝通院や増上寺の住職から、智恩院の門主にまでなった名僧の婦人観だ、多 少とも真理が含まれておろう。現に西洋人中には「女作者に二ッの罪あり、一は書物 の数を殖やすこと、一は女子の数を減らすこと」などと云っておる者もある。楚の荘 王が北郭先生を聴して、宰相になってくれと頼んだところが、先生は家へ帰って細君 に相談した。すると細君の返事はすこぶる消極的だ。「結レ駆列レ騎、所レ要不レ過レ容レ 膝)食前方丈、所レ甘不レ過二一肉之味Lと、先生ついに辞すとある。普通婦人の考 えは、消極的に陥らぬ時には、虚栄誇大に奔りやすい。  曝大明神《かかあだいみようじん》、嗅天下などいう言葉があるかと思うと、一方には嗅左衛門、山の神、 はなはだしきは、「上州名物きいたらば婿《かかあ》天下に空っ風」などと云う諺まである。も っとも「ちゃん」に対して「おッかあ」あり、「宿六」に対して「山の神」あり、「と ッつあん」に対して「お袋」、「野郎」に対して「あま」ある以上、かならずしも女の 上にのみ軽侮の言葉が存するのではないが、ややもすれば女が畳や馬や茄子と同一視 されることは、少なくとも我国の男が、婦人ないし細君を尊敬しておらぬ証拠であろ う。  鴎外さんは「私《わたくし》」という字を蛇蜴視《だかつし》されて、原稿を書く夢を見られた際でも、「わ たくし」とお書きになるそうであるが、私の考えでは、この御趣旨にならって、我国 の女はまず「妾《しよう》」の字に対して、ストライキを起すことが必要であると思う。それ は「しょう」と読ませる時も、「めかけ」の意味においても、「わらわ」と使う場合に も、すべてを通じての「妾」字に対してである。妾と云う字は立つ女で、主人の側に 侍立して御用命を待つ女の意である。そしてその御用命がなんであろうとも、それは 問うことを容されぬ。かかる種類の女を意味する「妾」字を、女性の第一人称に使う などと云うことが、そもそも我国の女権の久しく屈して伸びざる所以である。シナに は「竈妾《そうしよう》」という熟語がある、訳すれば「お鍋どん」ということになる。妾の字は ちょうどこんなところへ用いるに適する。 「むなぐらの外に女房は手を知らず」とか「女湯で世上の垢をこすり合い」などと、 例の川柳子は婦人または細君を唄っておる。本来皮肉屋の川柳子の婦人観をもって、 ただちに我国古来の、男子の婦人観とすることは出来まいが、胸倉や女湯の噂の傾向 は、今日の新しい連中からも、取り去る訳には行かぬ。「女房だと思うが聾の不覚な り」家付きの女房の我盤ぶりは、今も昔に異ならぬ始末だ。入聾などという馬鹿な制 度が廃らぬうちは、徹底した一夫一婦の思想は起らぬ。 翻訳  近ごろ帝国ホテルでは、日本風に翻訳したメニューを時々出す。それにはアスパラ ガスを「新うど」としてある。中央亭の方では、それがシナ風の翻訳だ。露国式ザク ースカの事を「前菜」、スープが「濃嚢《のうこう》」に「淡嚢《たんこう》」、アイスクリームが「乳酪《にゆうらく》冷菓」 と云ったような塩梅だ。翻訳ということも広い意味で云うと文字の翻訳から、意義の 翻案までを含んでよかろう。例の発明翻案の天才平賀源内が、ある時厚紙を三角の袋 にして、その中へ糊を入れて、一方に小さな穴をあけて、押し出して使う万年糊を想 い着き、それに「オストデール」という名を着けて、売り出させた。阿蘭《オランダ》ものの渡来、 西洋ものの流行り始めたアノころとしては、好個の翻案である。たれが云い出したこ とか、袴のことを「スワルトバートル」などと洒落たのも、この辺からの重訳であろ う。  トルストイの名著『戦争と平和』が、明治十九年という早い時代に、我国で翻訳さ れていることは、むしろ驚異ともいえよう。しかもそれが『泣花怨柳北欧血戦余塵』 という書名で、絵入本であるのだから驚く。岡山県人森体という人の翻訳で、忠愛社 の発行に係る。トゥストイと発音させてあるところから考えると、露文からの翻訳に 相違ない。明治十五、六年のころには、政治小説の英訳流行りて、『花柳春話』と題 して、リットンのものを織田純一郎という人が訳し、ビーコンスフィルドの『コニン グスビー』をも訳している。福沢先生は、その全集の緒言中に、自家の著訳書が、我 国新文明の一部を成したと、自から言われている、真に堂々たる宣言である。講談界 でさえ、モーパッサンから翻案して、「名人長次」を得ている。  語文の翻訳も、意匠のそれも、畢竟《ひつきよう》同一のものであろう。矢立は昔の万年筆だ、 鮨は日本のサンドウィチだ、下駄は希臆《ギリシヤ》以来のサンダーリだ。コスモポリタンなどと 云うから、理解《わか》りが悪いが、天竺浪人またの名風来山人と異名同人である。波斯《ペルシヤ》の名 がハルシャと転託《てんか》して、我国へ入って来たのが享保年間で、それが「唐花のみちのく に散る春砂《ハルシヤ》かな」と、漢字まで当てて俳句になった。  嘉永年間幕府へのある上書中には、世界というべきところに「円球」と書いたもの がある。慶応四年の「中外新聞」に載っている公文中には、アジアを亜西亜《アジア》と書いて ある。把里斯の字では、今日ちょっと合点が行かないが、パリスと言った時分の巴里 の訳字である。ロシアも俄羅斯《オロス》または魯西亜《ロシア》の用字は、むしろ後年で、ごく最初は魯 斉亜《ロシア》であった。英国を暗厄利亜《アンギリア》などは奇抜だ、特に英露に暗と魯との二字を当てたの は、有意か無意か。  乃木将軍はその歌や詩から見ても、よほど文字の素養のあったことが分るが、二○ 三を爾霊山《にれいさん》とした手際などは、けっして凡でない。   阻頭楊柳枝、已被.春風吹→妾心正断腸、君懐何得レ知、 を訳して   ちまたちまたの青柳さえも   あれ春風が吹くわいな、   わたしが心のやるせなさ   思う御方に知らせたや、  また例の「白髪三千丈、縁レ愁似レ箇長、不知明鏡裏、何処得二秋霜こを訳して   わが黒髪もしら糸の   千ひろ千ひろに又千ひろ、   うさやつらさのますかがみ  いずくよりかは置く霜の、 前者は岡多沖、後者は忍海和尚の訳である、 老手驚くのほかはない。 裸  東洋でも西洋でも、一体「はだか」観ほど矛盾しておるものはない。熱帯地方のご とき気候の関係からするものは別として、文明国中で裸体好きの国民は、恐らくシナ であろう。左祖右祖《さたんうたん》という熟語があるように、シナでは素肌を露わすと云うことが、 一種の合図のようになっておる。史記にも周勃という男が、歩きながら軍中に令して、 呂氏のためにする者は右祖せよ、劉氏のためにする者は左祖せよと叫んだら、軍中皆, 左担したとある。この式で行けば、議会でも「本案賛成の諸君は左の肌を脱げ」で事 が済む。西洋婦人の大礼装の、肌ぬぎ腕まくりは、ちょうどシナの「祖楊《たんせき》」という熟 字に相当する。希臆《ギリシヤ》の裸体本位が、文芸復興に大関係をもたらし、それが羅馬《ローマ》へ入り、 それがさらに仏蘭西《フランス》へ伝わり、ようやくにして乳房を美の中心とするようになって、 |仏蘭西《フランス》の宮廷では、肌ぬぎ腕まくりで、胸部を露出して、他にその美を誇るの風を成 した。  西洋人が裸体嫌いだなどと思ったら大きな間違いだ。羅馬《ローマ》人のトガは、我が浴衣よ りもむしろ簡単なものだ。羅馬《ローマ》ではそれでも揮《ふんとし》はしていたが、希臆《ギリシヤ》は揮もしていなか った。今日西洋で、裸体画裸体像の芸術が発達しておるのは、まったくこのおかげで ある。若い女が羅《うすもの》を着て踊るバレーの発達、それをオペラ・グラスで穴のあくほど覗 くイブニングドレスの紳士など、いずれも畢竟|希臆《ギリシヤ》以来伝統の、泰西裸体的観念の賜 である。日本の昔などは風呂へさえ、男までが揮をして入ったものだ。 「夕涼よくぞ男に生れたる」という句があったように記憶する。一体裸体は男の誇り であろうか、女の誇りであろうか。『俳譜|水濫伝《すいこでん》』の中に「君赤裸一|揮《こん》にして涼しと 思い玉わば、妾は二幅の素裾《そくん》を着けて、倶に瓢箪花下に啄吟せん、あにたのしからず や。」とあるを見ると、男女双方の誇りかも知れぬ。昔は裸商売と云えば、角力取り に川越しときまっていたが、今では女の裸商売に、モデル女が殖えた。飽取《あわびと》りが蛋女《あま》 ときまっておるごとく、風呂屋の男も三助ときまっている。このごろは市中で警察官 の裸体取締りが、罰金徴収本位に流れるほど厳重であるそうだが、一方には青山師範 付属小学に、裸体学校という破天荒のものさえある。ただこの裸体学校が、男の小児《こども》 だけに限っているのは、今一ツ徹底せぬ憾《うらみ》がある。五十銭の罰金本位で、裸体取締り を厳重にしておる警視庁が、湯屋の三助を是認しておることも、たしかに矛盾である。  裸は本来|傑《ら》で、衣扁《ころもへん》などは余計だ。「獺揺二白羽扇一保体青林中」といった李白は、 よほどの無精者であったと呆れるが、元来衣服の必要と発達とは、もっばら装飾本位 にある。寒いために着たものでもなく裸体を蔽うために被《き》たものでもない。ブッシュ マンやホッテントットなどの蛮族社会では、赤裸々が原則であるために、もしたまに 何ものかで陰部を隠す者があると、彼等仲間は非常に衝撃《シヨツク》を感ずる。ッマリ被ること 蔽うことが、彼等の社会では風俗壊乱だ。我国で寒い地方、特に北越では、一般に裸 で寝る風習があり、現に今日東京に住っている北越人の間にすら、この郷土風習を楽 しげに守っている人さえある。なにしろ人間は裸が本則であると私は思う。 数 あえて易者の提灯持ちをする訳ではないが、人事関係の数としては三と七と十二と の三数字の上に、どうやら特殊の関係があるように思われる。もし多少ともこれあり とすれば、人間の心理的関係から来たものに相違ない。仏教語として三界、三因三果、 三宝三帰、三個の告勅などいう言葉があると想えば、シナの思想から出たものにも、 三軍、三才、三人行けば我師、三年|不鳴不輩《なかずとばず》、白髪三千丈などがある。我国でも有史 以前の高天原の三神、三種の神器、さらに降っては、御三家御三卿、寛政の三助、維 新の三傑、長州の三尊などがある。西洋でも同様、三国同盟三国協商、さらに湖《さかのぽ》って はモンテスキューの三権分立説、万国信号法中の三旗信号法、最も心理的基礎に立つ ものは、国際法上のスリー・マイルス・セオリー(三海里説)、すなわち干潮の平均線よ り三|浬《マイル》を、浜岸国の領域とする学説である。  七の数に至っては、さらに面白い現象がある。七騎落という能の曲があるかと思え ば、七卿落という維新の史実がある。「奈良ヒ重七堂伽藍八重桜」の奈良の七人寺、 「安芸の宮島廻れば七里、浦は七浦七恵比須」の宮島の七恵比須がある。親驚上人が 撰せられたという七高僧、縁起の好い七福神、越後の七不思議、羅馬《ローマ》の七丘などを算《かぞ》 えねばなるまい。ことに東西一致するのは、竹林の七賢に対して、希臆《ギリシヤ》の七賢、、三百 六十年を一夢の裡《うち》に眠ったという、ジャクドヴォラジーヌ作の七眠者物語に対して、 |梅亭金驚《ばいていきんが》の「七偏人」がある。この辺の事実から見ると、七の数が偶然の使用とも思 えぬ。  私の好きな都々逸《どどいつ》に「風よなぜ吹く吹くなじゃないが、花を三尺よけて吹け」「傘 を買うなら三本買うて御座れ、日傘雨傘忍び傘」というのがある。理窟屋に言わせれ ば、何も三尺と三本に限った訳ではあるまいと言うであろう。京の三十三間堂は、四 十四間堂でも二十二間堂でもイイじゃたいか、三十三箇所の観音などもまた同断だと いうことになる。しかもそこに三の数を持って来たところに、なんらかの心理的交渉 がなければならぬ。その他社会的に用いられる言葉としては三度笠、三升樽、三尺の 振袖、三三九度などがある。七歩の詩にしても、文帝が六歩や八歩で、詩作を命じて もよさそうなものである。細君離別の理由も七去と限る訳もあるまい。しかし諸葛 亮《しよかつりよう》の天威を猛獲《もうかく》に感ぜしめたのは、七|檎《きん》七|縦《しよう》の大度量であろう。  三と七とのほかに十二に関する説明が遺っていたが、シナには陽六陰六の十二律が ある。呉の十二士君は、アーサー王の伝説のいわゆる円卓武士《ラウンド テープル》の、十二武士物語に 対照を取るか、耶蘇《ゃそ》の十二使徒を引き合いに出すがよかろう。我国には十二|単《ひとえ》の女 装から、とかく女に縁のある十二階下まである。十二銅表が羅馬《ローマ》最古の成文法である ことは、言うまでもない。「潮来《いたこ》出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋」。もし人の 悪い理窟屋があって、四天王八笑人、十哲、さては八景などがあるではないかと反問 したならば、物には除外例があるぞと、真面目顔に答えておこう。 髭  宗祇《そうざ》ほど髪を愛した人はなかろう、そしてその髪を愛した理由の一つは、香の薫り がひげにとまりて絶えずということにある。そこで一生剃らずにいた。宗祇諸国物語 という書が遺されているほど、この翁旅から旅へと渡り歩いたが、ある時上総の浜辺 の黄昏時に、抜刀を振りかざした追剥《おいはぎ》に出会った。脅かされるまでもなく、言らがま まに衣服は悉皆《しつかい》剥がされた。さすがの歌人も、揮一《ふんどし》ツの素裸に、美髭を垂れて行き 過ぎようとすると、コラ待てその髪も箒《ほうき》にするによさそうだから、早く抜いて渡せと 追剥が言う。これには宗祇はじめて胸をつぶして、「我が為めに箒《ははき》ばかりはゆるせか し、ちりの浮世を捨ておわるまで」と味《よ》んだ。するとその賊、「うい事申されたりこ の体のやさ法師」と云って衣服も返し、四、五里がほどを先に立って道案内をしたと、 諸国物語にある。歌の徳であって髪の美談である。  二葉亭先生の浮雲の辟《へさ》刀|頭《とう》には、腰弁連の髭の棚おろしがしてある。頬髭、願《あご》の髪、 やけにおこしたナポレオン髭、狩の口めいたビスマーク髭。そのほか倭鶏髭《ちやぽひげ》、酪髭《むじなひげ》、 ありやなしやの幻髭などである。髭は時代時代によってその形に変遷があるように、 髭に対する観念も、また時代によって違っておる。天正のころには「この髭なし」と 嘲られて、即時に刺し違えて果てた岩崎嘉右衛門という男もあり、また三代将軍の榑 相の身で、自ら髭を剃って登城し、それから幕府で一般に髭を剃る風習を始めた、土 井|大炊頭《おおいのかみ》もある。西洋でも蓄髭《ちくぜん》を貴人にのみ許した時代、兵士に髭のかり方を一定さ せた時代などがある。煙草盆に毛抜きを添えて、客間へ出して、お客は待つ隙を髭抜 きに費やした、足利時代の風習なども、かなり奇抜である。  文化十年の五月に、芝の愛宕山上で、長髭会というものが催された。会主はその当 時の河野広中さん格の、大関大中という知名の人であった。さだめしじじむさかろう と云うので、ほとんどたれも来ずに、失敗におわったというのは惜しいことである。 天明ごろに江戸青山にいた髪の亦四郎という老人、ある侍に請わるるままに、一尺二 寸の長い願髪《あごひげ》を、三十両で売ったところが、その侍翁の面を持ち出して、老人の活髪 を、一本一本ぬいては面へ植え、三日かかって植えおわったと、百家埼行伝にある。 「子を生みし人になまずの汁すえて、髭くいそらす今日のよろこび」。たれの歌であ るか、男の得意のさまを啄んだものであろうが、髭と総との間に、連想が働かしてあ る。維新後明治の初年に、髭が官吏社会を代表するようになってから、総は常に官吏 のシンボルで、例の団々珍聞《まるまるちんぶん》から、毎々皮肉な取扱いを受けた。今日では呉服屋の番 頭までが大総、銀行の手代にまで鱈《どじよう》がいるので、髭がまったく平凡化した、ッマリ髭 の民衆化だ。エマーソンは「勇気」と云う論文の中に「眼は容易に威嚇されるもので ある、口髭、頬髭は疾《はや》くに他を征服する」云々と言っておるが、民衆化した髭には、 この威力はなかろう。「前髪で通った関を髭で越し」という古い川柳があるが、今で は前髪時代の半人前の男にも、髭だけはある。 ゆかし味 性行の上にも、事物の上にも、一種のゆかし味が感ぜられるということは、日本人 の国民性に属する美点ではあるまいか。そして近代では、これが徳川幕府滅亡の前後 に、特に多く見出されるように思われる。『宋名臣言行録』に細かに註記を施して、 読書修養に怠りなかったほどの、幕末の外交家川路|聖護《としあき》が、江戸城引渡しの済んだ明 治元年に、七十二歳で搬腹を切ったことは、だれも知っておる所であるが、聖護の絶 筆というものが、幾枚か現に世に伝わっておる、そしてそのいずれもが真の絶筆であ る。これは聖謹が意を決してから切腹のその日まで、毎日手習いのように、同じもの を同じように、一枚ずつ書いたものである。明治の新政後「白髪遺臣|読楚辞《そじをよむ》」と歌っ て、風流韻事に隠れた栗本|鋤雲《じようん》翁も豪《えら》いが、毎日手習いのように絶筆を書いて、花の 三月十五日に切腹した聖護の心境は、いかにもゆかしい。  由良之助で名高い祇園の一力は、本名は万屋である。万の字の書きようが、一力《いちりき》と 読めたところから、とうとう一力の名が、高く広く通るようになった。これらは単に 面白い話というに過ぎまいが、蜀山人がある時書いた蜀の字が、少々乱筆であったた め、側にいた者が四方山人と読んだのを、それは面白いと云って、その後これを別号 とした蜀山の逸話は、いかにも文人の雅懐を偲《しの》ばせる。  太閤秀吉の祐筆が、ある時物を書く最中、ふと醍醐《だいご》という字を忘れたので、どんな 字であったかと躊躇《ちゆうちよ》しておると、秀吉は「大ご」と書いておけと云われた。これと 同様な筆法で、秀吉の書いたものには、奥州を「大しゆ」と書き放したものもある。 蕪村が自筆の新花摘の中には、近江の字が「大身」ではないかと疑われる箇処のある ことを、子規先生が言われておる。蕪村は言うに及ばず、秀吉もその肉筆を見ると、 いかにも見事な筆蹟である以上、相当な学問はあったであろうが、アノ潤達な、物事 に無頓着なところに、なんとなくゆかしさが感ぜられる。  瓜中《うりなか》万二という名は、いかにも瓢《ひよう》げた名前であるが、それはアノ吉田松陰が、一生 の心血を濃《そそ》いだ下田港外の米艦投乗の際に、用いたところの彼の隠れ名である。文字 の素養の深い松陰としては、どんな美名も容易に案出されべきであるのに、こんなひ ようきんな名を事もなげに付けて、与甲比丹書《かぴたんにあたうるしよ》一篇を懐ろにして、回天の一挙をあ えてせんとした、そこにかえって言うべからざるゆかしさが感ぜられるではないか。  木下川の薬師の境内に、枝の長く長く伸びた古松と、西郷南洲留魂碑とがあったが、 荒川堤改修のために、碑は先年他へ遷されたそ、うである。維新前南洲が大島|流講《りゆつたく》中 の詩を、南洲自身があの達筆で書いたもので、これを後年勝海舟翁が、当年の友情を 偲ぶために大きな自然石に彫刻させて、薬師寺の境内へ建てたものである。詩の意味 にも、書の風格にも、また建碑の由来にも、皆一種のゆかし味が籠っていて、近代の ものの様には考えられぬ。単に文墨の徒をよろこばす尋常の古碑とは、まったく撰を 異にしておる。 近時の文人中で、この種の情懐のゆたかであった人は、子規先生であろうと思う。 裏枕  煎餅蒲団《せんべいぶとん》などと云う、さもしい言葉をたれが言い出したものであろうか。一日二十 四時間中の、三分の一内外を托すべき安楽境を開拓するのに、煎餅蒲団に箱枕とは、 肉体と精神の虐待もまたはなはだしいではないか。司馬温公の円枕、曹操の警枕など は、いわゆる唐人の寝言に過ぎぬ。丹田という謄の下に、精神が宿を取っていた時分 は格別、脳髄の健全を必要とする今日では、頭の休息所たる枕には、至大の工夫を払 わねばなるまい。シナ風にならった木枕、石枕、籐で編んだ籐枕などから、ようやく 今日の括り枕までに発達したのであるが、我国婦人の大多数は、今もなお昔ながらの 箱枕であろう。そのくせシナでは「服…薬百裏→不レ如二宵低枕一」といって低い枕 を昔から奨励しておる。  外山正一博士は、在世中理髪に金をかけたことで有名な人だ。ッマリ頭が大事、し たがって理髪の方法が大事、そこで東京で第一流の理髪師の許ヘ、頭を持ち込むとい う順序であった。そのくらいにしたにもかかわらず、中耳炎で脳を冒されて死なれた が、理髪をおろそかにしないことは、思想を使う者に取っては肝要な工夫である。枕 裏《ちんきん》に金をかけ、工夫を凝らすことも、同じ理由の下に必要だ。仏蘭西《フランス》の名優サラ・ベ ルナールの寝台は、長さ十一|呪《フイート》に幅八呪の朱檀の寝台で、琉珀《こはく》の敷蒲団の柔らかな厚 さぶりは、この主人《ヒロイン》の体を、コッポリと埋めつくすほどだと云われる。体のためにも 頭のためにも、夜の安息所は、その人相応にかようにありたいものである。  先年東京のある祭礼の、街の行燈に書いてあった地口に「蒲団と投げて夜着やサ」 と云うのがあったことを、今でも面白く記憶する。ところで日本人の寝具観は、ちょ うどこの地口に等しいほどの軽い考えで、ナーニ寝てしまえば分からぬくらいの調子 だ。イヤ、それどころではない、シナ伝来の言葉には、「裳を厭《け》って起っ」などと云 って、志士たるものはウカゥカ安眠も出来ない始末だ。蒲団と枕を文芸の産物にして、 盛名を博したのは、紅葉山人の『伽羅枕』と、花袋君の『蒲団』とであろう。一は華 奢《かしや》と侠気とを性情の全部とした遊女を描き、他は性欲生活を大胆に描写したものであ るが、文芸からまったく立ち離れて、単に邦人の寝具観からすると、夜具を立派にす ると云うことは、遊女風情の装飾だぐらいにしか、考えておらぬようにも見える。  かく云うと、爾《なんじ》は持合せの肱を曲げて、手枕に仮寝の夢の楽しみを解《げ》せぬ無風流漢 であると、非難されるかも知れぬ。私としてもアノ呂桐賓《りよどうひん》という仙人から、萌藍《ふくべ》形の 枕を借りて、一場の仮睡に、出でては大将軍、入りては大宰相、鼎を列《つら》ねて食い、声 を選んで聴いたほどの大栄華に遭うた、盧生の郎郵《かんたん》夢の枕を羨まぬはずはない。黄帝 が華骨《かしよ》の国の遊びも、同じく午睡の賜ではあるが、ただしかし熟睡を得佳夢を求めん がためには、寛泰|燕和《えんわ》な気分の裡に、眠りに落ちる工夫が肝要である。自然主義者が 巫山の夢を貧るには、煎餅蒲団に木枕で沢山であろうが、睡眠をもっていやしくも安 体息神の法とせん者には、A衣枕尊重論を叫ぶ必要がある。「高レ枕而臥、国必無レ憂」 とは、例の弁舌家の張儀が、魏王に説いたところであるが、枕を安うすることは、人 をも国をも憂いなからしむるゆえんである。柔軟な赤児の頭を、小豆枕で攻めたり、 頭寒足熱一天張りで、茶津《ちやかす》の枕に頭を冷やして得意がるがごときは、そもそも時代遅 れのはなはだしきものである。 雅号  雅号には多くその人の趣味嗜好が現れる。文字の巧みを弄したものもあるが、自然 に親しんだ名の方がよくその人の性癖を窺い得る。中にも植物に因んだものが、最も よくその人を印象させるように思われる。陶淵明は家の辺《ほと》りに五株の柳を栽《う》えて、自 ら五柳先生と称した。菊も愛したのであろうが、五株の柳もその好みであったに相違 ない。徂徠《そらい》も「我門の五本柳《いつもとやなぎ》」云々の和歌を詠んでいるとおり、その門辺に五柳を 植えたが、おそらくは陶淵明に学んだものであろう。柳亭種彦は川柳を好んだために、 川柳の判者としては木卯《もくぽう》という号を用いた、木卯は言うまでもなく柳字である。現今 川柳の大家で、「川柳江戸砂子」の名著がある今井卯木君の号もまた面白い。  樗《ちよ》の字で有名なものは、俳人|樗良《ちよら》と、近時では高山樗牛君とであろう。樗良は志州 鳥羽の出で、藩侯の家老までした人であるが、風韻に富んでいたために、ついに俳人 として傑出した。無為庵という別号があることから見ても、大木にして無用の材とい われる樗の字を、愛しそうな気分がうかがえる。樗牛は「其大倣レ牛、不材之木也」 から来たものであろうが、いささか繁雑のきらいがある。『近世逸人画史』その他の 著書のある、江戸の書林の主人に岡田樗軒と云うのがある。桂に至ってははなはだ少 ないが、香川景樹翁の桂園の号は、「桂園一枝」によって有名である。しかも広瀬旭 荘の九桂草堂などは、きわめて面白い。旭荘の浪華の寓居は伏見町であったが、その 家の庭に桂の樹が九本あった。『九桂草堂随筆』は旭荘がこの家で書いたものであろ う。明治に降っては、大町桂月君という順序であろう。  我国で将軍の事を大樹と称し、関白家を椀堂《かいどう》、その家記を塊記と云ったのは、いず れもシナの故事に基づいたものであるが、森槐南《もりかいなん》の号は、伊藤公の南隣に住んでいた という洒落でもあるまい。十八公または五大夫の名を有する松に至ってはシナに七松 居士および二松道人がある。宰相や県丞等の地位を辞して、松樹の間に悠々|吟峨《ざんが》した 人々である。李白も杜甫も、ともかくも木に縁があることが嬉しい。梨はきわめて稀 で、故三条公の梨堂を見るのみである。なんとか云う俗学者もあるようであるが、言 うに足らぬ。  桃青の芭蕉も面白いが、大阪天王寺村の産れで、俺は天王寺|蕪《かぷ》だと云わんばかりに、 無雑作に付けた蕪村の名は、一層面白い。竹では田能村竹田が一番有名だ。これも蕪 村同様、豊後の竹田藩の名をそのまま付けたものであろうが、しかし竹田荘主人とも 云い、花竹老人とも別号したほどであるから、竹林ぐらいは家居の辺りにあったので あろう。梅があれほどの風韻に富んでいながら、雅号として知名の文人に代表者を有 して居らぬことは、いささか物足らぬ観がある。ただ豊後の三浦梅園が、達識な儒者 であった以外、桜井梅室は、ともかくも第一流の俳人と称するに足りよう。故人とし ては学者に栗山があり、今人としては俳人に碧梧桐《へきごどう》、画人に柏亭《はくてい》がある。字の珍らし い点から云うと、竹田の書道の師であった淵野|樫園《せいえん》、同じく漢学の師村瀬|拷亭《こうてい》などが ある。拷は山樗であり、樫は「かわやなぎ」、シナでは三春柳とも云い、雨が降る前 には、まず気を起してこれに応ずると云われ⊂、雨師といふ別名さえある木である。 三時代 芝の青松寺の寺内に、槍持勘助の墓かある、倉持陸助  鎌子夫人の情死事件でや かましいーの墓と間違えてはいけない。前者は主家へ忠義のためと云うので、切腹 して果て、後者は主家へ不義の名を獲つつ、喉を突いて死んだ。槍持勘助の事は事実 とも伝説とも二様に伝えらるるが、そのいずれにしても旧江戸の時代精神を表わした もので、同じく芝ではあるが魚藍寺内の墓の主(陸助)の上には、あるいは大正の時 代精神の影が、宿っておるのではあるまいか。璽都と云う事実は、江戸と東京との間 に、歴然と一劃線を描いたが、もし今後五十年にして、今日を振り返って見たならば、 あるいは明治と大正との間にも、時代の劃線が必要と見られることがあるかも知れぬ。 江戸時代の奇行家の代表者は、大久保彦左衛門と相場が定っておるが、もしその匹《ひつ》を 明治に求めたならば、あるいは鳥尾得庵あたりを推さずばなるまい。大正の彦左衛門 気取りは、言うまでもなく三浦観樹将軍であるが、観樹老には少なからず厭味がある。 もちろん彦左衛門の奇行が、かなり上手に講釈師の張り扇から叩き出されたように、 観樹老の奇言奇行も、新聞記者の筆の先きから出たものが少なくはあるまい。それに しても彦左衛門には、調刺と誠意とが相半ばし、得庵居士には、皮肉と禅味とが五分 五分であり、観樹老には厭味七分の悪洒落三分と云うところが見える。これをもって 直ちに江戸と明治と大正との、時代の対照と云うことは出来ぬが、少なくともこれら の三時代に関して何者をか吾人に語っておる。  東京に年が年中線香の絶えぬ墓が五ツ六ツあるが、その内これを時代分けに観察す ると、泉岳寺の義士の墓が江戸を代表し、谷中の西野文太郎の墓が明治の中ごろを、 そして乃木将軍の墓が明治の末期を代表しておる。もっとも墓に線香の絶えぬと云う ことは、必ずしも古人の風を慕い、その義に共鳴するものとも見られぬ。鼠小僧の墓 も八百屋お七の墓も、現に今日まで香煙の絶えぬと同時に、墓石が欠き取られる。こ れらの事実は江戸時代と明治とを通じて、ある点の共通とある種の相違とを、双つな がら証拠立てるものである。すなわち江戸のためには寺門《てらかど》静軒の江戸繁昌記があり、 東京のためには服部誠一の東京繁昌記があって、しかして両時代を写実したこの二書 の中に、類似と相違とがこもごも見出さるるのと同じ訳である。  日本橋の欄干の擬宝珠《ぎぽし》は縦《よ》し麟麟《きりん》に代ったにしても、江戸ッ児の代表的擬人弥次郎 兵衛のいわゆるお江戸日本橋は「天下の真中」という観念は、明治大正を通じての東 京人の心裡《しんり》にも、依然存しておる。弥次郎斤衛のこの日本橋観は、やがて英国人が |緑威《グリニツチ》を経度の起点とする、大英主義の発露と同様である。双六の振り出しは江戸時 代も今日も、共に日本橋の真中からでなければならぬ。お札博士の行脚さえ、この自 然の約束に従っておるではないか。  市街の外観も市民の風俗も、江戸と東京を通ずる三百年間に、少なからぬ変化を呈 しては居るが、両国の煙火《はなぴ》は依然として玉屋鍵屋を呼ばしめ、町内の銭湯は依然とし て朝湯に義太夫を捻らしめ、女湯に依然として揮一つの三助を践雇《ぱつこ》せしめておる。自 動車の疾走するかたわらには、肥桶車《こえたごぐるま》が列を成して徐行しておる。精養軒で露西亜《ロシア》 風のザクースカが、時に高襟者流《ハイカラしやりゆう》に賞味されるが、しかもこはだの鮨は依然として |寄兄《あにい》連のどんぶりをからにさせる。そこに三《ちフフち》百年間の変遷もあるが、また三百年来の 旧套もあり、さらに新旧時代の矛盾もある。奥田市長は、江戸の名奉行大岡越前守と までは行くまいが、少なくとも遠山左衛門尉くらいには当たろう。江戸を東京に比し て、社会も人智もまったく一大変化を呈したと観察する者があるならば、そはあまり に新事物に眩惑された諺《そしり》を免れぬ。お芝居の幕間に、チュインガムを噛んでいる半玉 どもが、家で三味線のお稽古の隙に、蜜豆を平らげる今日の東京は、すべての点にお いて新旧過渡の時代であらねばならぬ。私の『奥都《てんと》五十年』は、この変遷、旧套、矛 盾、過渡のさまざまに関する一家言である。 交通機関  日本橋の西河岸に「迷い子の碑」と云うものが建っていた。これは死んだ迷児の石 碑ではなくて、鉦《かね》や太鼓でたずね捜したあげく、その子供の容子を書いて、人通りの 多い江戸の真中に告知した、いわば今日の掲ホ板である。交通機関もなく、新聞紙も なく、警察の保護制度も不完全であった江戸時代に、いったん迷い子となったが最後、 親子相会することは容易な次第ではなかった。したがって屋敷者の子供衆は、お屋敷 の内かまたは一、二丁以内の町内で遊んだもので、迷い子はほとんど町家の子に限っ たものである。俳人嵐雪が「四十にて四谷を見たり江戸の春」と詠んだのは、この間 の消息を漏らしたものであり、またいかに江戸の交通機関が、不便であったかを想像 するに足る。「前雁高鳴後雁低、高低相喚度十堤一ただ尻の動くを見て脚の動くを見 ず」と、寺門静軒は江戸の矯夫《かごかき》を写実しておるが、この尻とこの脚とは、明治時代に 入ってただちにこれを人力車夫に伝えた。日本へ初めて来た西洋人は、我車夫の疾走 力の耐久的であって、その歩調の機械的であるのに驚かぬ者は少ない。  駕籠をもって自動車に比すれば、いわゆる隔世の感を禁じ得ぬ次第ではあるが、た だ自動車をひとえに賛沢とし、駕籠を粗末なものと速断することは出来ぬ。徳川時代 の女の乗物である長棒駕籠が、金鋲《きんぴよう》を打ち蒔絵を装い、内部に土佐絵を画いたもの などは、その物自身ただちに高価な美術品であって、賛沢なる乗物として、とうてい 今日の自動車の比ではない。要するにお駕籠、お抱え車、自動車は、その昔月卿雲客 の牛車の、時代の変遷に伴って発達したもので、本来貴族的の性質を免れぬ。現に今 日の華族社会では、車夫や運転手を「御家来様」と呼び倣《な》しているではないか。二十 世紀の帝都に文明の交通機関を応用しながら「御家来様」の旧思想に、人権を没却す る今の華族どもは、明らかに旧時代の遺物に相違ない。  近来はメッキリ郊外から、通う勤め人が殖えた。江戸時代には大森辺への遊山は、 今日の近県旅行ぐらいに相当したもので、その戻りには大森の特産であった麦藁《むぎわら》細工 を、土産に持って帰ったものだそうな。今日大森住まいの夫人連は、主人の帰宅前に 三越への買物を楽々と済ませて、しごく便利な世の中と喜んでござるであろうが、交 通機関のかかる発達は、識らぬ間に人々の脚力を減退せしめてゆく、ひとり夫人連と 云わず、一商家の丁稚小僧に至るまで、この文明の病弊は免るることは出来ぬ。現に 幾万輌の自転車は、今やまったく東京商家の小僧どもの脚を奪ってしまったではない か。都人士の田舎漢に、脚力体力で敗を取るのは、まったくこれがためである。せめ ては学校通いの学生どもは、時間の許す限り親譲りの膝栗毛《ひざくりげ》に鞭うって、この文明の 病弊を排せねばならぬ。  西洋で鉄道の高架線を「市民の傘」と呼ぶのは、その下に雨宿りが出来ることの謂 いであるが、江戸人の夢想だもしなかった、雲梯《うんてい》にも等しいこの傘は、今や東京人の 上に少しばかり差しかけられた。高架鉄道は出来たとして、物好きな東京人の内から、 今後幾年して、地下鉄道に最初の情死者を出すに至るであろうか。私はいたずらに文 明を呪うものではない。ただ文明の市民があってこそ、そこに文明の交通機関が存す べきである。市民の頭が依然旧時代のものであって、交通機関のみ進歩した場合には、 あらゆる禍いはそこから起る。人物鑑定眼のあった内藤安房守は、九段坂の上で駕籠 |さまよ《はなわほきいち》 の内から、彷裡える盲目の孤児を見付けて、家へ連れ帰って後に盲大儒塙保己一を 獲たではないか。これに反して文明の自動車が、大正の昨今はたして何物をもたらし たかを想い見よ。単に運転手の罪ではない、非文明な低級な徒輩が文明の利器を濫用 する時、禍厄は何時もそこから起る。 路傍樹  濠端の糸柳も青い芽を吹き出して来た、路傍樹の東京を語るに好適の季節である。 もし整頓した道路を美麗な衣服にたとえるならば、路傍樹は裾模様であり、また袖口 のレースとも云えよう。ウンテル・デン・リンデンの名は、いかに伯林《ベルリン》の市街を、未 だ見ぬ人にまで美化して想像せしめるであろうか。しかしながら実際の眺めから云っ て菩提樹《ぽだいじゆ》は路傍樹として好適のものではない。我国の古い時代には、街道筋の並木に |楢《なら》、櫟《くぬぎ》を植えたものであるが、菩提樹はややこれと同様の外観がある。樹種に富む我 国では、ウンテル・デン・リンデン街は東京だけには永久にごめんをこうむる。日比 谷図書館に通う書生どもにも、もしくは没風流な代議士連にも、内幸町の街上に見事 な数株の大柳のあることは、眼に着くであろう。あれは江戸時代の先覚が、吾人に遺 してくれた貴き賜である。神田の柳原は名のごとく柳の土堤で、いわゆる「楊柳堤辺 楊柳春、千枝交レ影払二紅塵一」。もし路傍樹を欧人の独創かのように考えて居る者が あるならば、そは我が先祖を辱《はずかし》むるのはなはだしきものである。かえって堤上に連ら なる楊柳を戴《き》り払って、殺風景な赤煉瓦の長屋を建て列べたものこそ、明治の市民で ある。  今もし来遊の西洋人を電車に伴って、弥生の東京を誇らんとするならば、赤坂見附 から三宅坂の花の燧道《トンネル》を通り抜けて、柳桜をこき交ぜた迂曲した土堤に沿うて、桜田 門を望みながら聖代の春色を仰ぐに如《し》くはなかろう。近来路傍樹として、洋樹を排し て好んで和樹を栽《う》えんとする傾向の、ようやくさかんならんとするは珍とすべきであ る。往年研究に研究を重ねた揚句、しきりに亜米利加《アメリカ》のプラタナス(篠掛樹《すずかけじゆ》)を路傍 樹として栽えた東京市の当局者が、大正六年度の予定植樹として、一千本余の楓《かえで》と二 十本の公孫樹《いちよう》とを植え付けつつあるは、よろしばしい事実である。桜よし柳よし、楓 よし梧桐よし、公孫樹もよかろう、柊《とねりこ》もよかろう。西洋の都市研究が吾人に訓うる路 傍樹の資格は、生長の早きこと、樹質の強き'」と、ひろく枝を張らぬこと、多量の肥 料を要せぬことなど、種々の条件があるが、八百八町ならぬ一千五百街の東京は、な るべく諸種の並木をもって飾りたいものである。東京駅前の大通りのごときには、き わめて風変りに藤を並べ植えて、狭く長く打ち続いた藤棚に白紫の花を垂れさせるも、 また帝都の関門たるこの街上の一美観であろう。独逸《ドイツ》のある街には果樹を路傍に栽え ているところもあると聞くが、これらも場所によってはしごく妙である。果樹は罪悪 を誘う恐れがあるなどと、栽えぬ先から心配する必要はない。  私は花の季節になると、何時も江戸川端のアノ見事な桜が、花は付きながら葉が 年々害虫のために蚕食されて、中にはほとんど丸坊主になりかけておる痛ましい姿を 見て、市民のかくまでに愛樹心に乏しいことを痛嘆する者である。江戸時代の祖先が、 苦心して植え付けてくれたこの水畔《すいはん》の桜並木を、明治大正の教育ある市民が、なんら 痛心の状もなく害虫の蚕食に任せて、枝葉の枯れ行く姿を打ち眺めているのは、文明 国の市民として恥ずかしき限りである。路傍樹のごときは、市庁や区吏の指図を待つ までもなく、おのおのの町々は競うてその町内の路樹に美観を添うべく、おのおのの 家々はその家の前なる路樹の発育に心を用うるだけの、愛市心愛町心愛樹心が欲しい ものである。ちょっとしたことではあるが、銀座通りのある部分では、路樹の根元へ、 紅紫を取り混ぜた草花を栽えて、樹根を飾っておるのは、樹木のためにはあるいはわ ずかな地面からの滋養分を、草花に奪われる恐れがあるかも知れぬが、ときどき店先 から出て来て、これに水をやっている小僧や主人の姿を見るとまことに嬉しい感じが する。なお東京の路傍樹について語る時、お濠の土堤の見事な松の並木に、古人の用 意と雅懐とを忘れてはならぬ。 対贅六  明治初年東京への奥都は、ある意味において江戸ッ児対|贅六《ぜいろく》の勝敗である。その昔 滋賀の都と云い、奈良の都と云い、さらに平安朝の末に至るまで、帝都は何時も贅六 どもの祖先の郷土にあった。しかるに江戸ッ児はその堀起《くつき》後、二百五十年にして桓武 天皇以来の帝都を、賛六人種の手から奪った次第である。これを具体的に云うと、つ ッかけ草履に弥蔵《やぞう》をきめ込んで、いわゆる「鎌倉を活きて出でけん初鰹」を食った江 戸ッ児が、お粥腹の賛六に打ち勝った次第である。変遷と云えば大変遷、推移と云え ば大推移である。しかるにその後の五十年間において、早くも江戸ッ児の意気は錯沈 して、弥蔵を止めて手袋をはめ始めたと同時に、経済上社会上に着々として、賛六の ために感化され同化されつつあるのは、ちょうど羅馬《ローマ》を征服したゴート人が、かえっ て羅馬《ローマ》の文明に同化されたのと同型である。例の十返舎一九が「借金を質においても 初鰹、求めて喰わん利もくわば喰え」などと云っている間に、何時しか東京の経済力 は、賛六の手に支配されつつあるのではあるまいか。  江戸における山王祭は京都の祇園会と比すべきであろう。神田祭も盛んではあった が、山王のお祭は昔は天下祭ととなえたほどで、京都人のご自慢な剣鉾《けんほこ》の祇園会と、 優に対抗することが出来る。吉原と島原とは、その歴史において、その格式において、 対立すべきものであろうが、京の島原が今日依然として、昔時の風格を何一つ崩さず 維持されつつあるに反して、いわゆる「頭に瑞瑠《たいまい》の櫛管《くしかんざし》を飾り、身に錦繍の禰福《うちかけ》を 纏う」た花魁《おいらん》の道中はよし廃れたにしても、酒場《パー》式のエプロン姿に強制された吉原は、 警視庁のために死刑の宣告を受けたものである。否、ただに官権の力とばかりは言え ぬ、粋を生命とした江戸芸者も、大正に入っては足袋の上にカバァーをはく芸者さえ あるに至った、これを江戸趣味の全滅と云わずして何と云おうか。私はあいにく金春《こんぱる》 の夜やら、柳橋の方角を不心得な者であるが、その社会に立ち入って精細な観察をし たならば、まだまだ江戸趣味の破壊の迩《あと》ははなはだしい事であろう。  河岸ッ児はいまなお昔のように、日本橋の誇りを成しているであろうか。神田の |可可兄《あにい》は依然健在であるか。江戸ッ児の特色語である「ゴウセイ(豪勢?)なもんだ」 「イナセの姿」「飛んだこっテ」「中腹《ちゆうつぱら》だ」など云う言葉の意義は、今の東京の民衆、 切言すれば職人社会もしくは労働者社会に、いかように理解されておるか。高襟者 流《ハイカラしやりゆう》に言わすれば、あるいは「ベランメー」をもって文明の意義と背反すると云うかも しれぬが、任と云い義と云い侠と云う事は、ベランメーに儒服を着せたものに過ぎぬ。 私は江戸趣味の破壊には中腹《ちゆうつぱら》である。  妙なことを云うようであるが、江戸と上方を物象の上に現わすならば、江戸は四角 であり、上方は円である。東京の妻楊子は四角でなければならず、上方ものは総て円 削りである。正月の餅も東京人は、江戸以来四角な璽斗《のし》餅を四角に切るのであるが、 お公卿さんの京都も、長老揃いの大阪も、皆円餅である。あるいは京大阪の茶屋街が 角い行燈を出し、東京の芸妓屋が円い提灯を掲げるではないかと、反駁する物好きが あるかも知れぬが、感じの上からはどうも江戸趣味が四角で、上方気分が円であるよ うに思われる。いわゆる方円殊レ合、鉤縄異レ態で、江戸ッ児と賛六とは、趣味にお いても嗜好においてもとうてい一致すべきむのではない。いずれか勝ち、いずれか同 化されずば已まぬものである。江戸ッ児なるものすべからく向う鉢巻に、「ベランメ ー」と鼻をこきあげずばなるまい。 カフェー  かりに奥都を江戸と東京の、もしくは新旧時代の境界とするならば、カフェーはど うやら境界以後の産物らしい。もっとも慶長時代から、そろそろ始まっていわゆる浮 世風呂なるものは、欧州流のカフェーの幼稚にして、かつ卑低なものと見てもさしつ かえなかろう。はたしてさしつかえないとすれば、私は大正の式亭三馬として、慶長 の浮世風呂に「権現様のカフェー」もしくは「カフェー権現」と云う詮号《しごう》を奉ろうと 思う。ところで東京のカフェーの発達ぶりは、欧州流でなしにむしろ米国式に似寄り を保っておる。言い換えれば、ビールや瑚排《コーヒー》の一杯で、華やかな一種の空気に蕩《とろ》けん とする大陸風のカフェーでなく、主として料理屋式に傾いておる米国式 もしくは |紐育《ニユーヨーク》式カフェーの例を追うて行くように思われる。  元来都会ほど遊蕩気分の発達したところはない。江戸時代の旗本にしても、または 町奴にしても、畢竟《ひつきよう》都会に成育した不良青年で、坊主頭を法衣の袖で隠して、湯島 の陰間《かげまう》に現《つつ》を抜かした、上野三十六坊の院主達は、江戸の不良老年に相違ない。今日 の東京に多少の不良少年が居たからとて、別段驚くには及ばぬ。もっともいかに料理 本位の東京のカフェーにしたところで、中学生が制服制帽ではいり込んでいるなどは、 西洋人から見ると多少驚くべきであろうが、これも我が国カフェーの一特風と見れば さしつかえない。  神谷バーなどは、米国式のサルーンに似て非ならざるもので、畢竟は居酒屋の矢大 臣の発達し欧化したものである。鼎軒先生の日本開化小史(?)に、職人の法被《はつぴ》は洋 服に類し、居酒屋の矢大臣は西洋風の食卓に等しいと云うような、観察が書いてあっ たかに記憶するが、旧時代を去ること五十年ならずして、居酒屋がバーに発達してこ の観察に裏書を為しつつあるのは、さすがに鼎軒翁の社会観とうなずかれる。  カフェー・プランタンを、たれやらが「貨幣|不足不足《たらんたらん》」と云ったのは面白いcこの 筆法から云うと、カフェー・パゥリスタは「貨幣放り出した」とでも言えよう。これ は単に語呂《ごろ》合せとして一時の與を語るのではない、およそ現代の東京人中のカフェー 党は、多くは貨幣|不足《たらん》党か、しからざれば沢山もありもせぬ墓口の底を引っばたいて、 銀貨銅銭を放り出す連中である。この気分から言うと新時代の産物たるカフェーは、 江戸時代のどじょう汁屋や、新旧両時代を通じてのおでん燗酒の洋化したものにほか ならぬ。江戸時代に|どじょう汁屋《フフフフフフ》として盛名を馳せたものは、駒形のそれと薬研堀《やげんぽり》の それと、他一、二に過ぎぬ。蜀山人が「君は今駒形あたりどじょう汁」と例の江戸式 駄洒落をやったのはここである。彼もまた恐らくは当年の貨幣不足党の一人であった であろう。おでん燗酒に至っては、最も安全に江戸気分を発揮した江戸ッ児のカフェ ーである。茶飯のほかに時に酢章魚《すだこ》や、はしらの三杯酢までを備えて、一皿三、四銭 より七、八銭に及ぶ東京のおでん屋なるものは、なんたる平民的カフェーであろうか。 もし近来の産物たる馬肉なべに至っては、江戸ッ児の祖先を侮辱するのはなはだしき ものである。弥蔵をきめ込んだ昔の可可兄《あにい》連に言わせたら「泡を喰うナイ」とでも一喝 することであろう。  それにしても大正のカフェーに江戸時代の人物を仮想的に配すると、かなりに興味 のある想像が描かれる。梁川星巌《やながわせいがん》が玉池吟社の一両人と同道して、メーゾン・鴻の巣 へ出かけて来たと想像したまえ、そこへ山東京伝が、名代の大きな鼻をうごめかして 隣のテーブルを占めている。星巌を今の青崖翁とするならば、京伝はさしずめ有美先 生と云うところである。俳譜は下手じゃ下手じゃの其角が来る、どうやら鳴雪翁の臭 いがする。荻生徂徠が茅場町の停留場から電車でやって来て、和田垣先生と東夷論や らコスモポリタン説を闘わせる。もし歳月を超越して古人を今に見る由もあるならば、 メーゾン・鴻の巣はおそらくこの手合の好気焔場であろう。 桜  桜は東西両京の内、主としていずれに属するであろうか。上方者の頭には、大宮人 と桜と云う対照がすぐに浮かぶ、いわゆる「百敷《ももしき》の大宮人は暇あれや桜かざして今日 も謡いつ」で、あくまでも桜を貴族的に奉ってしまわんとする。江戸ッ児は初めから これをきわめて平民的に取り扱って、「花に風軽く来て吹け酒の泡」などと、お花見 気分を発揮しておる。一方はあくまでも慢幕を打って金屏風を引き廻すの趣があり、 他方はどこまでも姉《あね》さん冠《かぶ》りで鬼ごっこの態である。相違は独りそれのみではない、 もし上方が吉野の一目千本を誇りとするならば、江戸ッ児はむしろ唯一本の、しかも 詩趣あり風情|饒《おお》き秋色桜を代表的とするであろう。もっとも桜の種類から言うと、東 京の花の名所はけっして京都のそれに劣らぬ。四月中旬以後を満開《さかり》とする御室の桜に 対して、荒川堤の八重桜のごときは、同じく四月の中頃を盛りとする。純なる山桜に しても、けっして吉野と嵐山をのみ京都人の誇りに独占させることを容《ゆる》さぬ。すなわ ち江戸時代の賜として最も珍種に富む小金井の山桜がある。文政ごろの出版にかかる 嘉陵紀行の中にも「何歳山桜來水栽、早桜已謝晩桜開、和風日暮微々至、忽見岸頭雪 所堆」と小金井の桜を謳うておる。その移植の時代についても、三代将軍の時から始 まって八代将軍の時に栽えおわったと云うに至っては、奥都に先だつ二百年、吉野の 山桜は早くも江戸人の郷土へ移植されたものである。  一高のデカンショ節の一として「どうせ死ぬなら桜の下よ、死ねば屍《かぱね》に花が散る」 と謡《うた》うのは、西行法師が明治になって向《むこう》が陵《おか》の荒法師どもに乗り移った趣があるが、 花に屍はあくまでも江戸ッ児の理想であらねばならぬ。東京市の内外には現在七万二 千四百二十五本の桜樹があるとかぞえられるが、これでは三万三千三百三十三体ござ るーその実一千一体の京の三十三間堂の仏の数よりも著しく優っておる。数におい ても種においても吉野の一目千本何かあらん、いわんや家代々の蒔絵の重箱はよけれ ど、中は高野豆腐に湯婆《ゆぱ》の色どりなる上方者の花見をやだ。しかも江戸ッ児は本来上 方の桜をどこまでも江戸趣味に同化して「花に鐘そこのきたまえ喧嘩買」と其角は云 い、明治に入りても「交番やここにも一人花の酔」(子規)、「花に高尾八文字ふむ伽 羅の下駄」(虚子)と、あるいは現代を写実し、あるいは江戸時代を追懐しておる。鳴 雪翁の「大盃落花も共に呑み干ぬ」はいかにしても江戸ッ児の血を伝うる東京人の花 宴でなくては見受けられぬ図である。もしそれ川柳子の「仲の丁植る栄華の夢見草」、 桜痴居士の「春夢正濃満街桜雲」に至っては、警視庁殿あり救世軍連あり、御両所の 承諾を得て後に再説するであろう。  藤田東湖の花欄漫と咲きにけりで有名な御殿山の桜も、実は文久ごろからだんだん と戴られて、とうとうそこに建てられた英国公使館さえ焼打になった。今日英国大使 館前の広場の桜は、御殿山以来の宿縁とも見られよう。荒川堤の桜はその廃堤と共に、 両三年来問題とたり来ったが、幸いにも保存植替と云うことで命乞いが叶った。百二 十弁ある「奥山」とか、奈良朝時代から伝わった「九重|檸《たすさ》」など云う珍種は、世界 植物界への東京郊外の誇りである。このごろはまた東京老桜保存会とか云う風の会が、 名ある東京の老翁達によって組織されたとやら、花のためにも都のためにも、喜ばし き限りである。  江戸人は由来桜に対しては、かなりに大なる貢献をいたしておる。江戸なる染井の 一種樹家が『花壇地錦抄』に桜の珍種四十六品を説いたのは、元禄八年である。 降って文政十年には青山辺の種樹家によって「さくら」の番付さえ作られておる。山 東京伝の『桜姫全伝曙草紙』は、桜を花神とし、これを詩化し得たものであろう。昨 今は花見自動車とて、八人乗りの車内へ酒肴の備え付けさえ出来ておる軽便な機関が あるそうであるが、とかくに東京の花見る人は三百年間にわたる江戸の祖先が、桜に 対するその愛着と苦心とをわすれてはならぬ。 神信心  十数年前目白に阿一肱婆羅婆《あうんぱつらば》がいた、今は穏田《おんでん》に穏田行者がおる。阿肱婆羅婆をガポ ンとするならば、穏田行者は正しくラスプチンと云う格である。江戸ッ児は元来信心 深き民であって、しかもまた少なからぬ迷信を伴うておる。「月の八日は茅場町、大 師詣りや不動さま」と江戸の僅曲にあるからには、昔も今もお詣り好きの民衆である に相違ない。それにしても大宰相からが、和製ラスプチンの信者とあるからには、さ すがの長州人も江戸気質に同化されて、迷信のお仲間入りとは恐れ入る。 「田町にござんす法印さん」と云って、浅草田町の占い上手の法印が名高かったよう に、今では赤法師とやらが溜池に(?)繁昌しておる。不動にしても有名なものが府 下に五ツある、目白、目黒、目赤及び目青、目黄の不動がそれである。目赤不動まで は大概の人は知っておろうが、目青目黄に至っては昔の所在地を知るものは少なかろ う。 「伊勢屋稲荷に犬ンの糞」と云うからには、お稲荷さんもまた伊勢人種や上方人種と ともに、西方から東漸し移植されたものに相違ない。下谷南稲荷町の下谷稲荷のごと きは、天平二年に京都の藤森稲荷を勧請したものである。文化あたりの川柳子が吉原 を描きたるものの内に「化かせ化かせと九郎助の御神託」「傾城《けいせい》はほこらに余る願を かけ」などは、有名なる九郎助稲荷を詠んだものである。今は染井あたりに移された れど、お岩稲荷は、いかに当年の四谷の繁華を助けたりしぞ。下根岸の石稲荷のごと きは抱一上《ほういつ》人をして自筆の幟をさえ書かしめておるではないか。性欲的職業と云えば 語弊があるが、美的職業の者どもが稲荷の信心者たるは、昔も今も相違は無い、、化け る商売化かす商売とでも云う縁であろうか。豊川さまや穴守さまの今日の御繁昌が、 いかに電車の収入を殖やしつつあるかを思わば、赤い鳥居も馬鹿にはならぬ。  最も珍なるは酉の市なり。枕山《ちんさん》翁は「祈福鷲祠都客繁、芋魁孟大圧茅軒、此間雛僻 副春事、一種嘉名花又邨」と吟じ、江戸名所図会には「近郷の農民家鶏を献ず、祭終 るの後悉く浅草観音堂の前に放つを旧例とす」と云い、観音に納めし牝鶏は牡に変ず とさえ俗説さる。市《まち》に売る熊手は掻き込む意なるべく、お多福、当り矢、七福神、近 ごろは金鶏《きんし》勲章さえ添えたるものありとは、驚くばかりの欲の皮である。このほか年 年歳歳繁昌をきわむるものに、蛎殻《かきがら》町の水天宮がある。もと赤羽根の有馬家の屋敷内 にあったものを、明治五年に蛎殻町に遷したものであるが、維新草々の際、早くもか く帝都の中央ヘ推し出した。都市の発達に応ずる遠謀と民衆心理に投じた眼識には敬 服せざるを得ぬ。この前の戌年戌月戌の日に当った明治四十三年の水天宮には、大混 雑の果てが、死者二、三人を出したと云うに至っては東京人の神信心もまた旺んなり というべしだ。  その水天宮の付近には、ツイ近ごろまで私娼窟が巣をくっていた。娼と云い妓と云 う連中が、妙に社祠の近辺に巣くうのは何たる理由であろうか。いわゆる辰巳芸者は 富岡八幡に拠り、烏森や神明芸老は芝の神明を守護神とし、赤坂の豊川稲荷を負い、 神楽坂の毘沙門を我物顔とし、湯島の天神境内に巣くうなど、あたかも申し合せたよ うに神社の加護に椅らんとしておる。神様たるものはたして御迷惑であろうか、ある いはなかろうか、神意|漂激《ひようびよう》測り知るべからざるものがあろう。白鉢巻に白足袋の寒 詣に至っては、まったく江戸の産物らしい。強いて類を上方に求めるならば空也念仏 であろうが、これは出家の修行で彼は民衆の信心である「寒垢離《かんごり》や不動の火焔氷る夜 に」子規居士の句である。 三越と白木  私は今日の文人中で唯一人の崇拝者を持っておる、ほかでもない内田魯庵先生であ る。その魯庵先生の縁があるばかりに、丸善が好きである。丸善に魯庵先生のおられ ることは、私の江戸対東京観から見ても意義がある。日本橋通り油町にあって、寛政 時代に売出しの大|書肆《しよし》、蔦屋耕書堂と云うのには、馬琴も客分となっておった。式亭 三馬も仮寓していた、蜀山人も歌麿も、皆蔦屋には世話になっておる。当時|萄蕩本《こんにやくぽん》 の禁を犯して罪を得たにかかわらず、屈せずしてなお出版を続けたなどは、利益のた めでもあろうが勇気ある書律である。  市俄高《シカゴ》なるマーシャル・フィルドのデパートメント・ストアに比ぶれば、その規模 もとより小であるが、今日の東京のすべての程度から考えて見れば、三越は商店とし て他に優越したものである。これと対立しては白木は建物の上においてこそ優劣があ るが、江戸より東京までの時代誌の上では、少なくとも両者を同格に取り扱わねばな らぬ。白木屋の名と主人大村彦太郎の名は、寛文の昔にすでに立派な名を江戸に成し ておる。特に三輪執斎と大村彦太郎との日本橋の上での出会いの話などは、なんたる 立志伝中の佳話であろうか。三越もまたその越後屋の歴史においては、古きこと白木 と伯仲の間にある。「越後屋に衣さく音や更衣《かえころも》」と其角が詠んだ元禄ごろからこの方、 呉服屋として東都に覇を唱え来った次第である。今日三越や白木の食堂で、お弁当を 喰べると、混雑の内にもさほどに気忙しい感じのしないのは、昔何十両かの買物をし たお客は、座敷へ通して昼飯を饗《あ》げ、お客もまたようやく千鳥足になって、店先きか ら帰って行くと云った風の、悠気《のんき》な遺風がまだ抜けぬせいででもあろうか。  近ごろ商家の標語として薄利多売主義と云う言葉がチョイチョイ見受けられる。い かに文字に縁遠い商人衆としても、薄利多売主義とは何たる貧弱な文字の遣い方であ ろうか。それにしても白木屋本店使用のいわゆる白木墨の表に「商ないは高利をとら ず正直によき物売れば末は繁昌」と彫ってあるのは、いわゆる薄利多売主義の元祖と も称すべきである。今では外務省の高襟《ハイカラ》をさえ番頭さんにした白木であるが、昔は番 頭から小僧にまで飛白《かすり》の着物だけは被《き》せなかったものである。商売上「カスリーを取 ると云うことを戒めたもので、また商業道徳の一端を訓えたものであろう。  三越や白木へ入って見ると、あまりに買物の盛んな容子に、何時も旧幕時代のいわ ゆる享保の倹約令を想い起さぬことはないが、八代将軍の時代でさえ、そのいわゆる 倹約令は「天下の法度三日の法度」と京童に潮けられたのを見ても、今日の時代に三 越や白木のお客の、賛沢な買物に奢修《しやし》呼ばわりをするのは、時代の趨向《すうこう》に逆らうケチ な考えではなかろうか。もっともこのごろのように呉服屋が繁昌しては「京の着倒れ 大阪の喰倒れ」と云う古い格言も、東京人が一堂け継いだらしい。旧幕時代でさえ江戸 は大なる消費の中心であって、繁華な下町が自然に出来たのも、その結果である以上、 今日の三越と白木は、むしろ我国趣味の育成所であり、流行の泉源であることが願わ しい。画会もよかろうし、意匠図案の展覧会もよい。茶会も盆栽会も、時にまた鶯の 楴き合せ会なども趣味がある。それには一つの注文として、私はこの両店が名ある芸 術家の誰彼れを、お客分として招聴されたいと思う。東京が二百余年来の二大老舗を、 その繁華の中心地区に、しかも昔ながらのその場所に保っておることは、我が帝都の 至大なる誇りである。 公園私園  西洋人の諺に「神は田舎を造り人は都会を作る」と云うことがあるが、近世の発達 した都市の理想から云うと、都会も成るべくは、田舎に宿された神意を充たすべく造 り上げたいと云うことになった。都市の植樹、公園の設備乃至は田園都市の流行のご ときは、いずれも都人士が神に倣って、その市府を造らんとする美しい努力である。 |独逸《ドイツ》かぶれのお医者さんの中には、天下の何事をさし置いても、チーヤ・ガルテンを |伯林《ベルリン》の最大なる誇りとして、あれは伯林《ベルリン》の肺臓だなどと、医者らしいことを云うもの が少なくない。もちろん公園の噴水やら芝生やらもしくは広道《プールパアール》やらから見れば、東 京の公園は欧米諸大都のそれに及ばざること遠しであるが、その樹木と建物と云う点 に至っては、東京の公園は彼等に比して多く遜色を見るものではあるまい。上野公園 にしても、芝公園にしても、その数百年来の老樹の梢と、二百年来の建物の蔓《いらか》のあた りに、いわゆる「花の雲鐘は上野か浅草か」の鐘の音を漂わせておる風情は、とうて い西洋の公園で味わうことの出来ぬ大なる趣,昧を東京市民に感ぜしめておる。  恩賜公園なる井の頭公園が最近竣工して、この月二十日前後に開園の予定であるの は喜ばしい。特に昔の武蔵野の悌《おもかげ》をなるべく園内に保存せん企てと、追っては小金井 の桜の堤をも、公園の域内へ編入せん予定とは、東京市民の上に壮大でしかも詩情あ る武蔵野気分を養わんとするものであろう。井の頭と小金井とは北多摩の歴史的二勝 地である。小金井は春の公園として花によく,井の頭は夏の公園として蛍によい。  市内にも予定されただけで、まだ出来上らぬ公園が少なくない。氷川公園三七〇 〇坪)四谷公園(一〇〇〇坪)市ケ谷公園(二六(ー6坪)白山公園(二五○○坪)等の半成 のままなる、神田お玉ケ池公園(一七〇〇坪〕木挽町島原公園(二五○○坪)下谷公園 (一六四〇〇坪)緑町公園(七九〇〇坪)浅草橋公園(八三三坪)江戸川公園(=六九坪) |麹町《こうじ》の土堤公園(一三五〇〇坪)等の未着手のままなる、どうにかして早く完成させ たいものである。なかんずくお濠の土堤を利用する土堤公園のごときは、他にあまり 類のない特色ある長堤遊園を造り上ることが出来よう。市民の娯楽、衛生の点から見 て、市内諸公園の速成は望ましい事である。これに明治神宮の境内を将来の公園とみ なして計算しても、東京市の公園は八十万坪内外に過ぎまい。公園を語るついでに言 及したいのは、品川のお台場利用策である。東京市では以前からこれを水上公園にし たい希望を持っていたそうであるが、この希望も水泡に帰したとやら。今かりに海面 に浮き出た五個の点連した水上公園を、浮巣公園とでも名づけて、綺麗なフェリー・ ボートでも通わすならば、夏の公園としてこれも世界に無類の遊園であろうに。第一 号お台場だけでも一万七百十五坪あると云う、一個人の別荘地などに払い下げるなど は、公物を私する嫌いがある。特に江戸時代におけるお台場の意義を、永久に東京市 民に記念させる上から云っても、水上公園の開設が最も適当であろう。  江戸時代における公園は唯一浅草の観音があったばかりである。浅草の観音は昔も 今も平民的公園である。江戸時代には公園はなかった代りに、私園すなわち屋敷内の 庭園の見事なものは、なかなかに多くかつ発達していた。橋場の酔擁《すいよう》美人楼の眺め、 向柳原の蓬莱園(松浦伯邸)、本所の浩養園、小石川の後楽園、今は築地海軍大学なる 楽翁公の浴恩園いずれも泉石亭樹の幽趣を凝らしたものである。今の閑院宮邸のお庭 が、松平|不昧公《ふまいこう》の親しき趣向に成った庭園であることを知ると、松の梢に懸かる遠き 富士の眺めも、さすがはとうなずかれる。去る八日の日曜には澁澤《しぶさわ》さんは、王子自邸 内の庭園を七千の労働者のために開放され、大倉さんは向島の別荘に例年の感涙会を 開かれた。彼も是もともに聖代の春興ではあるが、公園のほかに貴人富豪の私園も、 時に市民のために開かれたいものである。 芝と麻布  芝は江戸のためにも東京のためにも、文明の入口である。同じ大木戸にしても四谷 の大木戸は、青梅路や甲州街道に向っての関門に過ぎぬが、今の札の辻辺りにあった 昔の芝の大木戸は、上方の百事物を輸入した文化の入口である。そして東京のために は、上野の戦争の兵火|剣戟《けんげき》閃々のその日に、西洋からの着荷を解いて、ウエーランド の経済論を開講した慶応義塾の所在地ではないか。その他江川太郎左衛門の調練場も、 海軍の基礎をなした攻玉社もともに芝を舞台としておる。つまり東京は、その旧文明 をも新文明をも、芝から受け入れたといってよかろう。しかるにお隣の麻布は、その 気の知れぬこと昔も今も同様である。  大正の今日、猿助塚とか猿祭とか云って、町内の小児衆《こどもしゆう》一千人を繰り出したなどは、 気の知れぬにもほどがある。一体麻布ほど獣物臭いところはない、蝦墓《がま》が池には、渡 辺国武子とやら云う野狐禅《やこぜん》がいる。内田山には三猿伯とやら云う主が棲んでおられた。 伯よりは侯と云う字が、猴《さる》に似ているからと云うのでもあるまいが、後に侯となられ た。その老侯の老猴が、主人の気性をソックリ学んで、白い歯をむき出して麻布中を 飛び廻り荒れ廻った。韓非子には「置二猿於押中一則與レ豚同」とあるが、猿を市中に 放てばすなわち狂犬以上で、物騒なことこの上もない。大正名物猿助塚の縁起は、ザ ットかくのごとくである。  狸穴とか我善坊とか云う名は、八犬伝にも見えている所から推すと、かなり旧い地 名に相違ない。寛永のころにはアノ辺は薬種畠で、そこここにむじなの穴が多かった そうである。魔魅穴《まみあな》から猪穴《まみあな》となって、今の狸穴《まみあな》となったものらしい。その近処に名 主の市兵衛町があるなどは、藤八拳のような区である。その区から五大臣とか六大臣 とかを出したとやらで、おでん燗酒の園遊会さえ催されたこともあったが、その中に は毛皮の外套に包《くる》まった絡《むじな》のような顔の大臣もあった。しかしこう云ったからとて麻 布区民はけっして怒ってはいけない。否、それどころではない一ツ諸君に警告したい ことがある、ほかでもない麻布はじつに江戸で最古の地名の一であることだ、諸君す べからく自重すべきである。  芝に関して面白い話がある。芝の切通しに古くから柳屋と云う金物屋があった。あ る時通りがかりの一人の禅僧が、毛抜きを買わんと立ち寄り、手に取り上げて見て、 この毛抜きは能く喰うかと尋ねた。スルと柳屋の亭主元来禅学好きの男であったので、 「本来空」と答えた。禅僧は笑いながら即座に「空ならば只くれないの花毛抜き、見 取りにしよう柳屋の見世」と狂歌一首を詠んで、サッサと一本持って行ってしまった。 この話はたしか『耳袋』に出ていたかのように記憶するが、いかにも古人の情趣と、 余裕ある市中の有様がうかがわれる。柳屋の後は今ありや無しや、詮索するほどの事 でもないが、こんな風の気分は、帝都の市民には持たせておきたいものである。  芝の特色は海が見えることであった。梅翁の発句に「芝という者の候夏座敷」と云 うのがそれである。しかるに四十年来芝の浦辺を呼物にして、繁昌していた竹芝館も 先月の末に廃業した。これは一旅館の廃業ではなく、竹芝という歴史的古名の、芝浜 の実とともに廃れた所以である。これに関連して心配になるのは、東京の特産物海苔 の将来である。昔浅草辺までが入江であった時代に、浅草海苔として生い立って来た ものが、だんだん品川辺まで押し出されたのに、竹芝も芝浦も埋め立てられた今日、 海苔に言わせたら「おいらのお倉に火が着きそうだ」とでも言うであろう。 鳥影樹陰  物徂徠は歌もなかなか上手だった「わが門の五もと柳枝たれて長き日あかぬ鶯のな く」、妙豆《いりまめ》を薔《かじ》って古今の英雄儒家を罵倒したこの先生に、こんな風雅な気分があっ たと思うと、そのゆかしさが偲ばれる。彼必ずしも淵明に学んで、五柳先生を気取っ た次第でもなかろうが。実《げ》に鳥声を愛し樹陰を澤《よろこ》ぶ者でなくては、仁愛の真情を解す ることは出来ぬ。維新の際薩藩の小松帯刀が、しばしば吉原に遊んで、仁義礼智信の 自作の都々逸《どどいつ》をさかんに芸者どもに謡わせたものの中に、仁と云う題で「手摺に任几れ て化粧の水をどこに捨《すて》うか虫の声」と云うのがある。アノ薩南の豪傑にこんな情緒が 見られるのは、なんたる優しいことであろうか。  しかるに亭々たり欝々たる大木老樹の、東京市中に稀になり行くに連れて、小禽の |噌々《かいかい》も、草虫の卿々《しよくしよく》も、年一年と声を潜めて来た。はなはだしきは郊外の地へは、 人家また人家と建て詰められて、蛙声の閣々《かくかく》を聴くこともだんだんと容易でなくなっ て来た。特に春から夏へかけて往時の東京を想い出させるのは、鶯と杜鵡《ほととぎす》と燕とで ある。なかにも燕が初夏の気分を漂わすに十分であったことは、二、三十年以前の東 京を知ったものの、忘れ難い記憶である。燕というこの愛らしい渡り鳥は、今年一度 巣をくえば翌年も復《また》忘れずに来る。町内で一、二とかぞえられる老舗では、火防の鳥 と云うので、この燕のために年々あらかじめ巣をこしらえてやる。すると燕の方でも その巣の中で子を産んで、帰る時分には育て-仁げてしまう。そこで春雨に育てられた 青柳が、初夏に入ってそぽふる雨にいよいよ長く、雨を喜び柳に戯むるる燕が、都の 街を斜《はす》に飛ぶと云う画趣は、ついに広重一流の筆に待たずばなるまい。  明治五年に熊本から初めて東京へ出て来られた矢島|揖子《かじこ》さんが、このごろ五十年前 の東京を偲《しの》ぶお話の中に、桜が散り卯の花が咲き初めたころには、駿河台辺で、鶯と 杜鵬が、一処に暗いていたと云う趣味ある実話があった。イヤ、今日の東京で、鶯や 杜鵠を聴こうと云うことは実際無理としても、初夏の燕ばかりではなく、夏の夕の納 涼の友なる蠕幅《こうもり》さえも、近年は我等の前に顔を見せなくなった。否、蠕幅どころでは ない、雀さえ否、烏さえ近年は著しく少なくなったではないか。明治初年の絵には、 電信線に燕のとまった処が往々《よく》画いてあったものだが、今はただッバメ歯磨の広告の 絵に残っておるくらいのものである。文明の東京は、どうやら可愛らしい小禽《ことり》どもか ら、ストライキを喰ったらしい。  禽《とり》のためにも樹のためにも、共通の敵は煤煙であろう。煤煙を文明の影とするなら ば、都市の樹が枯れ、都市から禽の逐われるのに不思議はない。がしかし禽声樹陰が、 繁忙な都人士に浄念と休息とを与うるものであることを知ったならば、市民の多けれ ば多きほど、都市の大なれば大なるだけ、大樹と小禽の保存は、市のために必要なる 事業の一つである。特に数百年来の老樹に乏しからざる東京としては、祖先に対して もまた子孫のためにも、ムザムザ老樹名木を枯らしてはならぬ。  樹種についても種々あるが、私はことのほか江戸伝来の処々の大|銀杏《いちよう》に、少なから ぬ愛着を持っておるものである。其角が「虫くわぬ銀杏によらん郭公《ほととぎす》」と詠める大 銀杏は、今なお現に浅草公園の五重の塔の傍《かたわら》に在る。麻布山元町善福寺内の大|公孫樹《いちよう》 は、俗に親驚聖人の杖であρたと伝えられておる。芝田村町のお化銀杏、芝離宮構内 の大銀杏などは、いずれも東京樹誌の番付けに、当然幕の内に入るべき老大樹である。 エマ!ソンは「千の森林の出現も唯だ一つの橡実《どんぐり》より出ず」と云っておるが、たった 一ツの銀杏《ぎんなん》の実も二百万の市民の上に、無限の意義のあることを忘れてはならぬ。 ポンチ  ポンチを新時代の産物とのみ思うて、江戸時代の人々が、この気分を理解しなかっ たかに速断するものがあるならば、そは大なる誤謬である。もっとも鳥羽絵はその名 のごとく、鳥羽僧正の創始で、上方の系統に属して江戸系の産物ではない。過日も新 漫画雑誌「トバェ」の関係者の直話に、東京の人にはトバエと云う題名の分からぬ人 が多しと見え、諸方にてだんだん質問を受くと云われたが、こはまたあまりにはなは だしい無智である。絵の起りこそ上方であるが、鳥羽絵と云う名はむしろ徳川時代の 画家が、やたらに戯画を画いて、これに鳥羽絵の名称を付したものから起ったらしい。 文政ごろに江戸で初めて演ぜられた鼠落しを什組んだ滑稽な踊で、「鳥羽絵」と云う 清元の語り物があるのを見ても、鳥羽僧正以後の鳥羽絵の精神は、瓢逸《ひよういつ》な江戸人に よって受け継がれたことが分かる。  西洋のカリカチュア乃至ポンチに相当する、我が鳥羽絵、戯画、滑稽画または漫画 は、本来きわめて社会的でまた平民的なものである。好んで都会生活を写実したる吃《ども》 の又兵衛の浮世絵なども、やがては漫画の本流であり、あわせてその社会的でまた平 民的である点からして、狩野や土佐の貴族的なるに対抗したものである。絵画と文字 との差こそあるが、一体に滑稽趣味は江戸時代においてかなり発達し、鳩渓の放屍論 やら、一九の膝栗毛やら、蜀山人の狂歌たど、皆今日の漫画気分を漂わせたものであ る。一九のごときは悟淡《てんたん》の風骨、天地と同化するていの滑稽趣味があり、蜀山人のご ときは、放浪|自恣《じし》の言を以て、一世を嘲弄した調刺を蔵しておる。現代の漫画家など が、もし筆の先やら文の末で、滑稽を弄し調刺を試みんとするならば、それこそ江戸 時代の先覚に笑われよう。漫画家其人に一九の悟淡、蜀山人の放浪気分がなくては、 その絵は活躍せぬ。  神田維子町に団々珍聞《まるまるちんぷん》のあったことを、私は夢のように記憶しておる。明治初年の 政府は、圧制だの糸瓜《へちま》だのと云われたが、団々珍聞が存続していたことを思うと、当 時の役人の中にも多少は物の分かる手合がいたと見える。もっとも調刺は圧制の産物 、で、旧幕時代に落首や狂歌が、流行し発達したのは、一に幕府の圧制政治の賜である。 団々珍聞が比較的明治の初年に興り、議会の出来た後に廃刊したのも、一つはこの辺 の理由によるかも知れぬ。寛永ごろの落首に、毎日お触《ふれ》お触と布達ばかり幕府から濫 発するのを嘲って「町人を犬のようにか思召し何もくれずにおおふれおおふれ」と平 民の声を放っておる。これがポンチの精神、漫画の神髄でなくしてなんであろうぞ。 革命のことを言い出すと、何時の時代にも役人がビクビクするが、三代将軍の時代に さえ、こんな怖ろしい革命の卵子《たまご》が、平民の口から吐き出されていたのだ。桜痴居士 の『幕府衰亡論』は事理史実双つながら備わ{ノた史論ではあるが、幕府の倒れたのは |空洞《がらんどう》になった大樹が倒れたまでで、別段不思議はない。その大樹の根本やら幹やら を、チクチク喰っていたのが落首子《らくしゆし》、狂歌子乃至は川柳子である、すなわちこれを画 にしたものがポンチで、ポンチの尊い処はここにある。  一平さんは社内の同僚であるから、しばらく賛辞は遠慮するが、その喧嘩気分はや がて不屈な気性を表現するもので、漫画家として適切な資格である。絵の上手下手は 知らぬが、政治漫画としては楽天先生の作は、優に群を抜いておる。新しい処では近 藤浩君、肖像において凹天君に推服する。しかし誰彼のケチな差別観は、漫画の性質 上これを排して、なんでも瓢逸調刺罵倒滑稽の気分を、江戸時代に劣けずに発揮した いものである。終りに私は上品なかつ内容ある新漫画の開拓について、最近の石井柏 亭先生の努力に、深厚なる敬意を表する者である。 日比谷大神宮  神代人種のモデルにでもなりそうな千家尊福と云う人が、政治と借金とにマゴマゴ していた間に、出雲の神さまは、尊福先生と絶縁して、どうやら日比谷の大神宮へ鞍 替えをされたらしい。大神宮の御前で、新夫婦がお盃をして、芽出度し芽出度しで大 松閣へ引き揚げて来るなどは、いくら古誌を調べて見ても、江戸時代には無かった図 案らしい。本来|万《よろず》の穣《けがれ》を払い、国の鎮めを護らせたもう御本業の傍《かたわら》に、葬式屋や婚 礼屋の御開店は、何事も二十世紀の副業本位と云う次第であろう。さても日比谷大神 宮が、結ぶの神の出店仕事を扱われるに至った事の次第は、当今無帽主義のプロパガ ンダに浮身をやつされる、高木兼寛男(爵)の創意に負う所が少なくない。明治三十 年七月に、高木男が媒酌人となって、保科某の結婚式を、日比谷大神宮の拝殿で挙げ られたのが、ここでの神前結婚の始めらしい。爾来商売大繁昌、料理屋から写真師ま でに、連絡到らざるなき有様である。 「神の合せ給えるものは人之を離すべからず」とは、基督《キリスト》教の婚礼式に、牧師先生が 真面目顔に宣言するお定文句《きまりもんく》であるが、日柄の佳い日に五組も六組も、先さまお代 り式に挙行される。並等二、三十円、音楽入り四、五十円以上の、日比谷大神宮の結 婚式も、基督《キリスト》教のそれに劣らぬ珍物である。全体我国には小笠原流の嫁迎えの式と云 うのが古くからある。藤原、鎌倉時代から徳川,時代に及んで、多少の変遷はあるが、 方式はかなりに厳粛なものである、ただ神前に、八を挙げたからとて厳粛な訳でもなく、 神さまの合されたものも人が往々に切り離す。いわゆる合せもの離れもので、他人ど ころではない、自分等から好んで離れる手合もすくなくない。私はこの辺の事に関し て、晶子さんあたりにその理想の婚礼式の、どんなものであるかをうかがいたいと思 う。  太刀、馬、小袖などの男への結納が、カフス釧《げたん》などに代わった今日、江戸時代の婚 礼を考えて、大正のそれを律せんとするは、時代思潮の推移をわきまえざる野暮の骨 頂である。四谷辺には高砂舎とか云う結ぶの神かあって、新夫新婦候補者の紹介を商 売にし、売家貸家の案内同様に、一枚の履歴書と一枚の写真とで、一見好き嫌い選取《よりどり》 と云う便利な仕掛けに出来ておるそうだ。西洋の文明はイエスとノーを手っ取り速く 表明することだとか聞くが、人生の大事を玄関先きで、一覧の下にイエスかノーに分 けしめる四谷の結ぶの神は、大正の特産物として古人に誇ることが出来よう。旧時代 の諺には「媒《なかだち》は草鮭《わらじ》千足」とさえ云って、その奔走の尋常一様でないことを語って おるが、四谷の月下老は坐《い》ながらにして、赤縄子《えにし》をもって強いて新夫婦の足を繋がん とする。こんな縄で縛られては、まったくもってお溜《たま》りこぶしはない。  一方には共同生活だなどと、変妙な男女の結合方法が表現され、他方には出雲の神 さまが、大小の支店を日比谷や四谷に開店された。前者は結婚上の無神論者排神論者 で、後者は有神論者である。しかもこの相反する二つのものは、いずれも日を逐うて 繁昌し、増加して行く。思うにこればかりは江戸時代の吾等の祖先が、経験せなかっ た処であって、たしかに明治の後半と大正時代の特産物ということが出来よう。それ にしても江戸時代に無関係な新時代の特産物が、この珍妙な二種に過ぎぬとは、少々 心細い次第である。 道路 「嘘よりは八町多い江戸の街」 と昔は言った、今はなかなかそんなことではなく、嘘 が殖えただけそれだけ、街の数も殖えておる。その東京の街の道路は、洋行帰りの半 可通に言わせると、彼れ顔を餐《しか》めて「是れ道路に非ずして泥津なり」と言う。ところ が旧幕の儒官古賀|伺庵《どうあん》のごときは、その当時の丸の内辺の道路を形容して「大道坦適 如髪直、寸人豆馬画中春」などと、春の登城の模様を謡っておる。今日の丸の内なら ば、かろうじて大道|坦蓮《たんし》ぐらいに形容することも出来ようが、江戸時代のいわゆる大 名小路の道に、これほどの修辞は驚かざるを得ぬ。しかし弥次喜多《やじきた》両人の膝栗毛も、 大道髪のごとしから書き出してあるところを見ると、その当時の江戸の民衆は、雨に は沼沢のような、風には沙漠のような江戸の道路をも、相当な路と思って、満足して いたものらしい。 「お江戸見たけりゃ今見ておきゃれ、今にお江戸が原となる」これは幕末の頃に流行 した俗歌であるが、随分見当を間違えたものである。こんな見当違いから維新前後に、 市内の地面を棄売りにした者やら、あるいはタダのような値で買い取った僥倖者《しあわせもの》やら が出来た。維新前後どころではない、明治八年に小伝馬町の牢屋を取り殿《こぼ》った時に、 そこが久しく草原になっていたが、これが不浄地だと云うので、たれ一人買い手もな かった。終に明治十五年に回向のために、この場所へ仏堂を建てることになって、初 めて旧態を一掃することを得たと云われる。今日小伝馬町辺の地価がどのくらいであ るかを想像したならば、まことに隔世の感があるではないか。  京都や大阪の市街は、近代の都市計画の見地から見ると、いわゆる碁盤格子型であ るが、宮城を中心として円を描いた東京は、円圏式《ゾーンシステム》系統に属しておる。外濠の電車 線などから考えると、アノ填《おう》国首都の旧城砦を取り殿って、一大環状の大街を造り上 げた、維也納《ウインナーリ》の輪街《ンクシトラツセ》のような感じがする。要するに東京の市街は、紐育《ニユーヨーク》や市俄高《シカゴ》 のような碁盤式でなくて、この点において独逸《ドイツ》の諸都市に似寄りを持っておる。欧米 丸呑の市区改正論者などは、東京市が江戸時代からの乱雑な市区を受け継ぐに当って、 商業区と工業区と住宅区とを、分けなかったことを非難するが、これは自然にそんな 区分と傾向が出来上って来る。現に本所深川方面が工業区として、下町が商業区とし て、山の手もしくは郊外が住宅地として、自から画定しつつあるではないか。これら はすでに江戸時代から、山の手と云い下町と云って、二大区別が出来ていた次第であ る。  もちろん今日の東京市は、市区や道路の点において、過渡の時代には相違ないが、 一から十まで欧米の大都に頭の上がらぬ次第ではない。日比谷から神田橋までの大通 りのごときは、幅員百二十|呪《フイート》で、伯林《ペルリン》のフリIドリッヒ・ウィルヘルム街の百|十呪《フイート》、 |巴里《てリー》のオペラ広道の九十八|呪《フイート》、倫敦《ロンドン》のピカデリー街の七十五|呪《フイート》よりも、立ち優って おる。ここで今一ッ江戸人のために気焔を揚げたいのは、トラファルガー.スクエア ーなどと云うと豪《えら》く聞こえるが、我が江戸の祖先はその早き時代に、すでに両国広小 路、上野広小路という、両個の広場《スクエアー》を開いておる。元来は火除けのための空地が、 主眼であったであろうが、両国広小路のごときは、繁華好きの江戸ッ児によって、た ちまちにして一大見世物場所とされてしまった。ネルソンの銅像こそないが、江戸の 繁華の一中心を成したことにおいて、チャーリング・クロスに匹敵する。今の須田町 を美観的に取り拡げて、ここに新式の一大|広場《スクエアー》を建設する方案が、さきに「中央美 術」の同人によって、提唱されたかのように記憶するが、これは至極同感である。要 するに市区や道路の改良考案には、都市学者や建築家の間に、美術家を加えることが 絶対に必要である。まして一国首都の美観のためには、美術家の頭が一層大事である。 聖堂と大学  先日は伊能忠敬先生の百年祭に、大分帝大のお歴々が打ち揃って出席された。いく ら帝大出身を学者の絶対条件のように考えておる学閥連でも、昔の学者だけには、除 外例を設けておると見える。しかしながら学閥と云うことは、学府に伴う自然の約束 と見えて、旧幕時代の聖堂すなわち昌平書《しようへいこう》でも、どうやら学閥が築き上げられてあ ったらしい。いわゆる寛政の三助なる栗山、精里、二洲諸先生が、それぞれ立派な侯 家の儒者であるのに、いずれもわざわざ江戸に上って、昌平畏の儒官となった。佐藤 一斎のごときは、七十一歳の時に昌平喪の儒官となられた。これらは種々の事情もあ ろうが、要するに今日の学者が、たとえ一度でも帝大教授にならぬと幅が利かぬよう に、昌平蟹儒官でないと、天下に学者面が出来なかったのではあるまいか。  それにしても昌平書の儒官中には、立派な人が少なくなかった。もちろん各時代を 通じての多数の儒官中には、大学頭《だいがくのかみ》なる林家の奴隷に等しい犬儒も少なくなかった ろうが、さすがに知名の先生達は、人格が高かったようである。私は今の帝大では理 科の諸先生が、ことのほか好きである。今度いよいよ辞職された田中館先生はもちろ ん、神保博士や田丸博士は、その純学者気分がいかにも敬服である。尾藤二洲は悟淡 簡易をもって、昌平書に鳴った人であるが、今の神保博士のような人ではなかったか と想う。古賀精里は、晩年|歯徳《しとく》共に高く、長魑豊偉の人で、海内仰いで泰斗と為すと5 称せられたほどであるから、ちょうど我が「館さん」のような人格が窺われる。杏《きよフつ》 へい                       ぱんこく                  ゝ 坪の詩によると、当時の詩人どもは精里翁を口するに、万斜牛をもってしたとある力 ら、その容貌の雄偉も想像される。  古賀|伺奄《どうあん》はその著述|浩潮《こうかん》、優に一身有半に及ぶと称せられたものである。聖堂には 関係がないが、広瀬旭荘は自ら、本朝の白香山と称し、また詩国の万里長城だと自賛 した人であるが、伺奄はその詩集だけでも旭荘に越えておった。今の帝大教授で、た れが等身の著書を有しておるか。著書の有無または多少をもって、必ずしも学者の真 価を秤量する訳には行かぬが、それにしても等身の著書のある帝大教授が一人や二人 はあってもさしつかえなかろう。聖堂と云う範鷹から出て言うと、全江戸時代を通じ て、その旧き時代にありては荻生祖棟、その新しき時代にあっては亀田鵬斎などが、 いかにも意気旺盛の学者であった。前者はすなわち卓螢不轟《たくらくふき》、後者はすなわち豪適放 逸。今から十数年前にはいわゆる七博士なるものがあって、ともかくも一代の人心を 從耳動せしめた。しかるに今は軍隊内に射的の稽古か、しからざれば雑誌寄稿の濫作に 没頭しておる。  ところで近来大分帝大老教授連排斥の声が、諸方に聞こえるようであるが、これに は私は絶対に反対である。老教授は一国の国宝である。優待礼遇こそすべけれ、排斥 などとはもってのほかな事である。幕府時代には室鳩巣《むろきゆうそう》や柴野栗山、その他第一流 の儒者を、厄介者でも棄てるように、豊島ケ岡の荒草裡に遺棄して、里俗儒者捨場と さえ唱えしめた。一国の智嚢《ちのう》たり国民の先覚たる学者を、用事が済んだからとて無用 視し、遺忘するのは容すべからざる大罪である。今日帝大の老教授が、過去の二十年 三十年において、国家の文運に貢献したことは、とうてい寛政の三助などの比ではな い。そして老教授今日の研究が、新進の学界から後れていると云うことで、学界の豊 島ケ岡へ遺棄し去らんとするのは、真に言語道断である。大正二年には先儒の墓田保 存のために、畏《かしこ》き辺りから御下付金の恩賜があったが、これと同一の意義において、 国家は当然老教授の優待方法を講ずべきである。 見える山々  大都会から山々が見えることは日本の都会の特長の一であろう。西洋でもゼネヴァ 辺りは、アルプスの山々が手に取れるように雲際に從耳えて見えるが、大体において欧 州の都会には、市中から遠山の眺望を誇り得るものが少ない。東京は特に北、西およ び西南の三方いずれも山を望むによく、この点において我が帝都は、望岳都とでも名 づけ得られるであろう。そしてこの都会からの遠山の眺望について、江戸人がその早 き頃からこれに気付き、これを研究して誇り顔であったことは、まことに興味あるこ とである。  羅馬《ローマ》の七丘《セプン ヒルス》などは歴史的に見れば著名であるが、地理的に云えばホンの築山に過 ぎぬ。あれくらいのものは東京市中でもすぐかぞえることが出来る。待乳山、上野台、 愛宕山、御殿山、それに駿河台、本郷台、小石川台を加えれば、立派な東京の |七丘《セプン ヒルス》である。とくにこの内の数者が、江戸時代においてことに著名であり、詩趣 にも富み史実にも関係多き点において、羅馬《ローマ》の七丘《セプン ヒルス》ぐらいには優に値すると思われ る。しかも東京の誇りはこれら市中の小丘ではなくして、遠く帝都の三方を囲む連山 の眺望でなければならぬ。  宮城なる蓮池門内の三層閣は、富士見の御矢倉と云って、旧建築の一に属する。太 田道潅の静勝軒はすなわちここであるとの説もある。江亭記にいわゆる「当其西管、 而有富士峰之雪、天削芙蓉、以玉立三万余丈、其窓日含雪也」がそれで、彼が含雪窓 から西方に大岳を眺めて、豪気を遣っておった容子が想像される。しかもただ独り富 士ばかりを語っておったものではない、有名な嘉陵紀行には、江戸から見える山々の 見取図が挿入してある。あるいは玉川屏風|山晶《いわ》前西北秩父八王子諸山の図とか、あるい は染屋原西南望諸山の図とか云うのがある。なんたる古人の用意の周到なることであ ろうか。一今人がもし東京を語って、この遠山の眺望に想い及ばなかったならば、そは 詩想において、美感において古人に劣ることのはなはだしきものである。  試みに凌雲閣に上って、十倍の望遠鏡で、東京の四辺を展望して見たまえ。南を除 くほかは、脈々たる連山があるいは雪を戴いて白く、あるいは霞に包まれて薄黒く、 |堤披《ていは》のごとく雲帯のごとく、都の三方を囲んでおるではないか。まず西北方には昨年 の夏悲惨な記憶を吾人に遺した甲武信岳が、連山の中央に見える。奥十丈岳やら雲取 山やら木賊山など云う、いずれも二千|米突《メートル》以上の高岳が、波涛のように連なって見え る。眼を西方に転ずると、もちろん富士が群を抜いておるが、この方面の山々は平均 して高山である。あまり遠過ぎてその雪冠のみが、東京から見える聖岳やら、または 悪沢岳などは共に三千|米突《メートル》以上で、この方面での第二の高山である。埼玉上州方面の 山々が、北々東方に連走しているうちで、なんと云っても浅間山が一番奇抜である。 いわゆる「信濃なる浅間のたけにたつ煙、おちこち人の見やはとがめぬ」で、江戸時 代の古書には、江戸の人達がその煙を遠望して、幾度か噴火を予知した事などが散見 される。  京都のように寝たる姿の東山を、寝たままで見るなども洒落ているが、春霞蒼空の 際に、四囲の遠山を眺望するなどは、東京人の独檀《どくせん》する天与の贅沢ではなかろうか。 もちろんその眺望は鮮明なるもよく、模糊たるもよしで、これは季節と天気の具合に よる。十二月ごろから三月ごろまでは、いわゆる遠山の雪で、連山の姿が鮮明に見え る時季である。四、五月の春霞の候には、とかくに風が強く煙塵のために、薄墨のご とくまた白雲のごとく、空際一抹し去った趣がある。 電車哲学  電車の内は都会の縮図だ。時代の眼をもって見ると、大正風俗の間に元禄の模様が ちら付き、社会眼を光らせると、殿様から日傭人足まで一列である。いわゆる「百万 石の加賀様も担漢《ぽてふり》の行商も、五分と五分とで歩けるが江戸の花」と江戸ッ児の誇った 理想を、吾等は今東京市の電車内に、実現しておる次第である。水道橋を出て春日町 へ向う際に、電車の車掌は壱岐坂《いきざか》の名を無心に呼んでおるが、ツイ十数年前までは、 通称壱岐殿坂と呼んだものである。壱岐守様のお邸、壱岐殿の坂と云うことであった。 しかるに平民的の電車は、何時の間にやら殿と云う敬称を取り除けてしまった。しか も五郎兵衛町の停留場は、五郎町とも略せられずに、江戸の一平民の名をそのままに 呼んでおる。  また東京の電車の乗客となって、電車の内と外とに眼を配ると、さながら時代展覧 会を見ておるような感がある。風俗衣裳の点に全く智識を欠いておる私は、残念なが ら衣裳やら髪容ちの点において、今昔一体の実を指摘することは出来ないが、電車の 窓からの触目に関しては、宛然時代の走馬灯のような実景に対して、種々な感想が湧 く。およそ麹町の通りほど、電車が開通したために、その繁栄に打撃を受けたところ はなかろう。そこには昔ながらの上品な気分が、軒を列べた商家の上に漂っておるだ けに、新しい気分と活気が、少しも宿っておらぬ。これは縮地主義の電車が、麹町を 山の手と下町の、間の宿としてしまった所為《せい》であろう、それにしても麹町の通りで貴 いものは、磯部屋書店と油屋の角石と鰻屋の丹波屋とで、三軒とも江戸時代からの老 舗である。私は電車で磯部屋の前を通る度毎に、この旧書林が依然として和漢書|一天 張《いつてんばり》であることに、かえって床し味を覚えるものである。  九段下から曲って、中坂近所へ来た時には、電車のお客どもは、この辺に馬琴の家 があって、八犬伝も弓張月も、皆ここから産まれたものであることを想い出してよか ろう。ストラッフォード・オン・エボンの沙翁の生家を、英人が保存し記念するよう に、東京人に勧説することは無理としても、ともかくも偉大なこの文豪を、追懐する ぐらいは当然であろう。愛宕山の東で京橋伝馬町の住人だと云うので、自から山東京 伝と名を付けた、馬琴の先輩に対してもまた同様である。茅場町の停留場で急いで降 りる時に、株の事ばかり考えていてはいけない。坂本公園に護園《けんえん》と云う雅名でも付け て、徂徠や其角を記念したらよかろう。乃木大将は早稲田方面を通られる際には、何 時も山鹿素行先生を懐い出されたと云うが、電車のお客も細字の洋書を読むことばか りに外見《みえ》を張らずに、時にはこの種の追懐から、種々の哲学を案出したらば、面白い ことも発見されよう。私は稀に電車で本所へ行くことがあると、その辺から乗り込ん だ大工の親方風の男を見ると、今もし烏亭焉馬《からすていえんぱ》が居れば、この辺で彼を電車内でチ ョイチョイ見受けることであろうなどと、愚にも付かぬ想像をする。言うまでもなく 文化ごろの軟文学者として、下町派のために気焔を吐いた焉馬は、本所竪川の大工の 棟梁であった。  近く明治維新ごろの記録を見ても、上野広小路の左り側には松源、蓬來屋、河内屋、 無極庵、清凌亭など云う酒律肉舗《しゆしにくほ》が列なり、右の山下には雁鍋、岡村などありと書い てあるが、今その興廃はどうであるか。区々たる料理屋の変りだと云えばそれまでで あるが、これがやがて社会事相の総ての変遷を語る所以である。時代展覧会であり、 社会走馬灯である東京の電車は、哲学者と史学者と社会学者のために、この上もなき よき書斎であろう。 火事  火事は建築の母だ。こんな手製の原則が謬《あやま》りなしとすれば、江戸の花は建築工学と 云う実を結んだ訳になる。これは江戸ばかりではない、世界の建築史観から云っても その昔ほとんど木造ばかりであった倫敦《ロンドン》の建物が、石造煉瓦造になったのは、たしか に一六六六年の、有名な倫敦《ロンドン》の大火が促した、建築上の革命である。その以後一八七 一年の市俄高《シカゴ》の大火は、鉄骨家屋と云う、怖ろしい骨組の丈夫な子供を産み出した。 |茅葺《かやぶき》から板葺、板葺から瓦家根とまで、江戸市中の建築が進歩したのも、一に明暦以 後の度々の大火が促した賜である。それのみではない、土蔵造りの発達も、穴倉の設 備も、皆千軒万戸を一舐《ひとな》めにする、アノ火焔の紅舌を恐れた末の新考案である。増上 寺境内の台徳院廟を銅葺《あかがねぶき》にしたのも、江戸人が火事に対して、不燃質物を利用した 次第である。 「出初式江戸は男の花の春」と云う消防の出初めは、何時ごろからの行事であろうか コ本遠見」「谷覗き」「饒鉾立《しやちほこだ》ち」「背亀」などと、梯子の頂上で向う鉢巻の離れ業 は、江戸ッ児と云う親爺と、江戸の花と云う家母《おふくろ》の産んだ産物に相違ない。通常江戸 の町消防《まちぴけし》は、いろは四十八組と云うが、「ヘ」組と云うのは無かった。「寄兄《あにき》何組デ イ」と聞かれた時分に「己《おら》、ヘ組だ」じゃ、何分聞えが悪いと云うところから来たも のであろう、稚気愛すべきである。  寛永年間に江戸で有名であった歌人に、海野遊翁と云う人がある。その人の歌に 「鐘の音木の音遠くきこゆなり、いずれの里か火を出しけん」というのがある。いか に歌人でも、これはまたあまりにのんきだ。こんな人ばかりいたら火災保険は成立っ て行かぬ、それとも火災保険さえ付けておけば、人皆遊翁気分でおられるとも云えよ うか。武江年表などを見ると、ほとんど一枚毎に一、二件の火事の記録がある、した がって消防は江戸で発達し、今日の東京消防も、旧幕以来三百年の経験で、他に比し て熟達しておるに相違ない。もっとも大阪の御堂付近の火事にお有難や連が申し合せ たように、団扇を持ち出して来て、一心に念力で煽ぎ遣ったことがあるそうだが、こ れでは火消しでなくてフ火逐いだ。団扇の風下こそイイ災難である。それにしても今 日慣用しておる纏《まとい》は、これまた江戸の産物ではあるまいか。今こそ纏はアンナ白っぽ いものであるが、昔は金銀の箔を置いたものであった。学者の考証によると、纏は武 家の馬幟《ちつまじるし》の発達したものだと云うが、いかにもと肯かれる。  私は冒頭に、火事は建築の母だなどと、手製の定義を掲げたが、実を云えば火事は、 風の神を父親とし、貧乏神を母親とした、始末におえぬ不良青年である。江戸の大火 がほとんどすべて、北から南へ焼けておるのを見ても、火事が風の神の子であること が分かる。またいわゆる恒産も恒心もない貧党連に、家などの心配があろうか。私等 は一生自分の家と云うものは持てぬと断念《あきら》めたところから世界を家としてなどと大き く出たが、友人には自然貧党が多い。今年の元日か二日の朝、芝の白金に火事があっ た。そこには三人の友人が住んでいるので、私は早速「白金も黄金も持たぬ連中は、 江戸の花じゃと近火新年」と葉書に同文狂歌を書いてやった。この恒産無しと云う貧 党の精神が、火事にどのくらい威勢を付けたか分からない。東京ももはや文明的帝都 として、完成を期せずばならぬ時であるから、旧時代の産物である火事は、旧思想の 親爺と共に、絶滅を期せずばなるまい。 郊外  江戸時代に近郊と云えば、ただちに散策遊山を意味したもので、今日郊外の問題と 云えば、多くは住宅問題乃至は田園都市などを意味する。これはおそらく西洋も同様 で、ハワードの著『明日の田園都市』が出るまでは、さほどに郊外生活、田園都市な ど云う声は高くなかったものらしい。ところが前世紀末に初めて唱え出された田園都 市の理想は、遠くの昔から江戸人の頭には描かれてあった。画仙にして俳人たる抱一 は、呉竹の根岸の里を「山茶花やねぎしはおなじ簾《かき》続き」と詠んでいるではないか。 これはハワードやゼンネットの本来の理想である、天然美を主とした郊外村荘花園農 村を、江戸の昔に現実したものである。それのみではない、根岸は鶯の里として著名 なものであるが、あれは元禄のころに京都から良き鶯をえらんで、多く根岸に放った ためである。「舌かろし京鶯の御所言葉」と云う古句が、それを証しておる。  都市の膨脹と云うことから、近来は田園都市が欧米では流行ものとなって来た。米 国南ダコタ大学では、田園社会学と云う講座さえあって、その教授たるジョン・ジレ ット君は、一両年前すでに『田園社会学』と云う綜合的研究の著述を公にしておる。 ところがこの種の研究があまりに学理的に走nて、秩序整然と云うことになると、野 趣も山気も自滅して、田園本来の特色が失われはしまいか。大久保は郷燭《つつじ》に生命があ り、道潅山は虫の音に値打があったものであるが、今日は二つながら平凡な郊外とな ってしまった。堀切の花|菖蒲《しようぶ》は、江戸以来の東京の誇りである。燕子花《かきつぱた》や、あやめ はむしろ上方趣味であるに反して、花菖蒲はあくまで江戸前である。こんな点から云 っても、堀切の菖蒲とか萩寺の萩とか云う、近郊の特産特色は、能うだけこれを保護 利用して、天然の美観の裡に、郊外の市区を拡げる工夫が肝腎である。今日の千駄ケ 谷、柏木、大久保辺の実状は、田園趣味を全然没却した、個々別々の乱雑居住で、衛 生からも便利からもまた趣味からも、ともに失敗した郊外生活である。なお場所によ ると、飲料水のきわめて悪いところが少なくない。江戸住いは鮒のように、泥水を呑 まされるから厭だと罵った細川三斎に云わせたら、今日の郊外にも、鮒の程度が少な くあるまい。  しかし郊外住居は自然の趨勢である。東京は下町の中心地区でも、今日は未だ一坪 千円ぐらいが、最高価であろうが、紐育《ニユーヨーク》のブロード街などには、一坪の地価数万円 に当る角屋敷がある。かかる地価の騰貴が、郊外生活や田園都市の実現を急がせる以 上、東京市の周囲にも、もはや理想の郊外を画定して置くことが必要である。それに は私に一案がある、すなわち東南は中川を限り西北は玉川を限る広大な地域に、いわ ゆる東京の郊外地区を新設するのである。一体東京の憾《 つしり》みは、隅田川が市の中央を貫 流しておらぬことで、この点において倫敦《ロンドン》や巴里《パリー》は羨ましい次第である。それ故この 欠点を補うためには、郊外地区の設定に、出来るだけ河流を利用するがよかろう。近 時東京の有志家の間に、玉川の水辺に、田園都市を興す計画があるそうであるが、そ の場所の選定がいかにも理想的で、結構なことである。これと同じく一方は荒川の東 へも、同様な新計画が実現されて、我が帝都を立派な、しかも自然な郊外地区で取り 囲むように、造り上げたいものである。そしてその設計には江戸の祖先の遺しておい た、花卉名園遺跡などを、出来るだけ保護し、利用するに努めたいものである。 警視庁 裸体画を頭痛に病んで、美術家の反抗に会うものは警視庁である。吉原を写真式酒 場式に改めて、江戸研究家の呪誼の的となったものは、警視庁である。後者の問題に ついては、私は何分川柳子のいわゆる浅黄裏で、斯道に関して是非する資格はない。 裸体画に関する美術家対警視庁の問題は、ちょうど江戸時代の「為永物」が、ある種 の人からは人生必読の書として、珍重がられたに反し、他方では亡国の文字として蛇 |蜴視《かつし》されたのと同様で、警視庁はすなわち職掌上、蛇蜴視党たるに過ぎぬ。元来市中 取締りの役人などと云うものは、頭が少しも発達せぬものである。有名な天保度の改 革では、水野越前守は、女髪結の営業までも厳禁して、それで社会風紀の矯正が根本 的に出来ると思っていた。はなはだしきは俳優の住居区域さえ画定され現に御維新ま では、江戸の芝居は猿若町へ封じ込められていた。しかも幕末の風紀の廃頽は、今少 しく根本的なところに存していたらしい。  花見の取締りにしても、去年は下谷署長が粋を利かして、花時の上野にはかなりの 乱痴気騒ぎが見られた。今年はいわゆるお花見取締りが、市内を厳格にして郊外を寛 大にする方針とかで、薬罐頭《やかんあたま》に紙髪《かつら》の連中やら、赤裡に揃いの手拭連は、多く飛鳥山 へと散った。年々歳々花相同、歳々年々取締不同で、花神のために笑われなければ幸 いだ。要するに今の警視庁の風紀観は、江戸の政治史に一時代を画した享保時代の精 神で、美術家連やら批評家の私どもは、むしろ田沼時代の自由主義を欲する次第であ る。法制が完備して何事も四角四面なのを、紀綱の振粛と思い、学問は治国平天下に 限ると固くなったのが、享保時代の弊だ。一方田沼の政治にはむろん百弊がある、田 沼の泥水などと京童に謡われたが、その一面には平民気分を少なからず養成しておる。  今日の成金はちょうど田沼時代に、武家に対して金権を一手に占めた、例の浅草蔵 前の札差に似ておる。しかし時代が違うから『春雨傘』で有名な十八大通のような、 時代の産物は決して出て来る気遣いはない。しかるに今の警視庁の心配は、田螺《たにし》金魚 あたりが『傾城買虎の巻』とか『十八大通百年枕』など云う戯作を出したのを見て、 ただちに天下の遊蕩気分を煽動するものと、取越苦労をするのと同様である。よしま た十八大通ぐらいの遊蕩児が、二百万民の都会に出来たからとて、それは聖代の余沢 だ。現に十八大通中の一人村田屋帆船のごときは、後には村田春海と云う、名ある和 学者になったではないか、天下の事はそう法令紀律一天張りに行くものではない。趣 味の養成と云うことも考えて貰わなければならぬ。いわゆる田沼の悪政を改善すべく、 白河楽翁が種々改革をやられたが、その際江戸で評判になった落首には「白河の清き 流れに住み兼ねて、元の濁りの田沼恋しき」と云うのがある。江戸時代も今も人情に 変りはない。  されど警視庁の私猫狩は、ともかくも近来の成功である。風来山人六々部集の『お 千代の伝』などを見ると、江戸の暗娼も、橋の挟や材木小舎の蔭から、いわゆるお千 代舟にまで及んでいたもので、こんな深酷な歴史を持っている東京の暗娼を、たとえ 形式だけにでも逐い払ったのは、成功であろう。終りに私は今日東京の巡査諸君の徳 を頒すべく、慶応元年四月幕府が、江戸市中に巡濯を置いた当時の替え歌を掲げて、 その優劣の同日の談でないことを反証したいと思う。「我役とおもえば凄き笠と蓑、 組の印を腰につけ、屯所行けば夏の夜も、明がた寒く烏鳴く、まつ身はつらき代り合 い、実《ほん》に遅いじゃないかいな」。 食通  商店で発行する切手制度は、近年始まったもののようにちょっと考えらるるが、江 戸時代には料理屋までが、料理切手を出したものもあった。栗本鋤雲翁の飽庵《ほうあん》遺稿中 に、五月雨草紙と云うのがあるが、その中に八百善の料理切手の事が書いてある。切 手の表面に金額は記さなかったものと見えて、二人の男が一枚の切手で、佳肴珍味を 飽食した上に、御膳籠一荷に、お土産ものを持ち越され、なお金子十五両を添えて戻 ったとあるから、数十両の料理切手であったろうと云う記事である。文政の末ごろの 事とあるが、なんにしても古人の鷹揚な風が偲ばれる。そうかと思うと一方にはきわ めて平民的に、「百膳」と称えて、銭百文で一と通りの食事が出来るようなものもあ った。回向院前の淡雪豆腐、浅草並木の杵屋田楽などはこの類であった。  江戸人の代表的食物は初鰹と蒲焼とではあるまいか。一は気で喰い他は味で喰う。 いわゆる江戸前の大蒲焼は、霊岸島の大黒屋、島原の竹葉、鰻丼の元祖である葺屋町 の大野屋などを宗とする。江戸ッ児が大蒲焼は大黒屋の亭主の火に限ると云うのは、 ちょうど倫敦《ロンドン》児がビステキはビリター・スクエアーのグリルの主人の火に限ると云う のと同様である。初鰹に至っては、江戸ッ児の気分を丸出しにしたもので、アノ田舎 漢風の露西亜《ロシア》人でさえ、アストラハンで漁れる鱒《ちようざめ》のはらら仔《ご》を塩で洗って、檬酸《レモンず》で 喰うのを粋として誇るのを見れば、江戸ッ児に初鰹は当然であろう。一両で二俵の米 が買えた天明ごろに、一尾の初鰹が二両三分したと云う記事さえあるが、文化ごろに はもはや初鰹を争う風も止んで、昔の豪挙を嘲るようになった。  江戸時代から発達して、今日に及んでおる平民的食い物としては、天ぶらと蕎麦と 焼芋であろう。『江戸名物狂詩選』に深川の金麩羅を詠じたものに「金麩羅名響海辺、 会席料理品最鮮、揚出或五藻屑巻、初知意気在深川」の一句が見える、かなりに古い ものであろう。同書にまた深川の翁蕎麦についても「白髪素線其号翁、下戸上戸得意 同、従教世間蕎麦衆、一椀喰得急為レ通」と云う一句がある。特に蕎麦を籠《ざる》に盛るこ とは、江戸で発達した風習のようである。焼芋に至っては目黒に甘藷先生青木昆陽の 墓がある間、江戸人に特権がある。独逸《ドイツ》の戦争|麺麹《パン》に、馬鈴薯の混じっていることを 想うと、昆陽先生の卓見はいまさらながら推服に堪えぬ。サンドウィチに似ておる鮮《すし》 も、江戸でかなりの発達はしているが、元来は上方ものである。古い草紙類には両国 の広小路に、鮮売が鮮箱を重ねて、大行灯が置いてある絵が見えるが、いかにも広小 路あたりで発達して、ついに今日の屋台|鮨《ずし》とまで変遷したものであろう。其角の句に 「明石より雷晴れて鮨の蓋」と云うのがあるが、旧いころには明石傘の紙を鮨の蓋に 用いたものだそうだ。江戸式の握り鮨は、文政の初めごろから現れたもので、今の与 兵衛鮨の先祖が売り出したものである。握り鮨の特長は、客の顔を見て直ぐ出すと云 うのにあって、これが江戸ッ児の気前に投じたらしい。元は三日三晩も酢に漬けて置 いた鮮が、一夜鮮とまで発達し、さらに客の顔を見て直ぐに出来ると云う握り鮮にま で進化したことは、時代人心の変化に伴うた食味の進化とでも云おうか。与兵衛鮨を 詠んだ狂歌には「鯛比良目いつも風味は与兵衛ずし、買手は見世にまって折詰」「こ みあいて待ちくたびれる与兵衛ずし、客も諸とも手を握りけり」その繁昌の様がうか がわれる。 臭い都  各国民にはいずれも国民|臭《しゅう》と云うものがある。露西亜《ロシア》人の獣臭、シナ人の董菜《くんさい》臭 すなわち大蒜《にんにく》の臭《にお》い、西洋人一般の狐臭《わきが》などがそれである。そして西洋人に言わせる と、日本人は魚肉食族だから生|臭《くさ》いと云う。すなわちシナ流に云うと魚腫《ぎよせい》とか鮭臭《せいしゆう》 とか云うのであろう。ところで自分の臭気は一向自分に感ぜぬもので、魚河岸の側で も通る時のほかは、お互いに生臭い奴だなどと感じたことはない。ちょうどこれと同 じ道理で、東京市民は東京市が「臭い都」であることを、自覚せぬのではあるまいか。 まだ新橋駅が元の汐留にあった時分に、初めて東京ヘ来た西洋人が、新橋駅を出ると、 先ずプーンと臭う一種の悪臭に、臭い都だなと云う最初の観念を持ってしまうと云う 話を聴いたことがある。  江戸時代から今日までの久しい間に東京市内の事に関して、ほとんどなんらの進歩 を見ないものの一としては、下水の排除方法であろう。元来日本人の鼻は、田畑への 肥料の関係からして、糞臭には痴覚鈍感になっているのではあるまいか。由来潔癖の 邦人、その中でも潔癖性の江戸ッ児が、糞小便の適当な始末を三百年間も打棄ておい たことは不思議である。そして「見附から馬糞のつづく四谷かな」などと云って澄ま し込んでいたことは、たしかに糞臭に鈍感になっておるに相違ない。私はあるカフェ 1の二階で、音楽を聴きながら伯拉西爾《プラジル》の瑚排《コーヒー》を畷っている時分、時々向側の某倶楽 部の横丁から、汚穣屋《おわいや》が肥桶を肩にし長い肥|柄杓《ぴしやく》を杖代りにして無心で出て来る様を 見ることがあるが、その度毎に「時代の矛盾」を痛切に感ずるものである。あるいは 蛮カラ先生はこう云うかも知れない、倫敦《ロンドン》だって初めは汚物をテームスヘ放流したも のだ、現に今日でも沈澱方式によっているじぞないかと。もちろん伯林《ペルリン》が市外の大田 畑へ灌漉しており、巴里が大口径の下水道を設けて、斯道の専門家を驚かしておるな どは、貧乏の東京では急に企て及ばないかも知れぬが、一方に自動車が走っておる街 を、肥柄杓を杖にした汚稼屋が通っていては、矛盾もまたあまりにひどいではないか。  衛生思想も未だ未だ低劣だ。東京人は全国の模範市民だなどと気取ってはおるが、 肥桶を洗って黄色く濁った溜り水で洗った菜葉を、なんらの故障も言わずに、近在の 百姓から受け取って、日々の食膳に上せているではないか。さらにひどい矛盾は、い わゆる文明式の建物ほど、最も危険な汚物排除法を取っておることである。帝国ホテ ルも帝国劇場も三越も三菱も、汚物処理については危険千万な方法に甘んじておる。 どんなに嗅覚の悪い人でも、数寄屋橋付近のお濠端を通ると、一種の糞臭を感ぜぬ訳 に行かぬのは、原因がその近所にあるからである。しかしこれらは本来その責任は市 にあるので、市民が下水道に冷淡なためである。己れに出でたる臭は己れに還るとで も云おうか。しかるに臭気は独り糞臭のみではない、春先から夏へかけてのお濠は、 腐った水が一種の悪臭を放つ。折角目にはその美しさを感じたお濠も、鼻に変た臭い を嗅がされては、差引勘定|零《ゼロ》である。お濠論はまた項をあらためて説くが、何分三百 年来のお濠であって見れば、一ツ大|俊深《しゆんせつ》をやってなんとか清水を通わせる工案を立 てたいものである。アノ美しい土堤の下に清い水が流れていて、白い驚鳥でも浮いて おれば、東京のお濠端は自然の公園ではないか。このほかにいわゆる埃《ごみ》ッぽいと云う 沙塵の臭いもある。紅塵は江戸時代からの名物で、梁川星巖なども初めて江戸へ来た 時に、すでに高輪あたりで「風亦多-威力→拠来十丈塵」と云う句を吐いておる。 何分にももろもろの悪臭は、早く我が帝都から退散させたいものである。 売り声  長い町の端から苗売りの声が聞こえる、眼をあげて庭前を見ると、早や樹々の新緑 に初夏の蔭を宿している。「胡瓜《きゆ つり》の苗、糸瓜《へちま》の苗」と声を流して来るのが、悠長と云 うよりはむしろ清鮮な初夏の気分に調和する。ちょうどその時に隣の二階から鼓の音 が聞こえる。新緑、苗売り、鼓の音と云うこ(り三拍子揃った風致はおそらく日本でだ け味わえる情趣であろう。そしてこればかりはおそらく三百年来、変りのない我国特 有のもので、なかんずく物売りの声には、江戸以来の伝統的のものが少なくあるまい。 元来市中を呼び売りの行商は、西洋流の〆切った家屋の櫛比した街では不可能である。 それでも古い時代の倫敦《ロンドン》では、「鰻三ペンス」と市中を呼び売りをしたものだと、何 かの書《ほん》にかいてあったと記憶するが、ともかく都会の街上に物売りの声は、日本やシ ナでの特色であり、これに一種の詩趣の加わったのは、おそらく日本だけであろう。  朝の横丁には納豆売り、芸老街には鬼灯《ほおずき》売りが付きものである。一は都会の貧民を 想像させ、他は遊蕩民族を想い出させる。最も普及的な丹波|酸漿《ほおずさ》から海酸漿に至るま で、いろいろな形にいろいろな名を付けている。薙刀《なぎなた》、達磨、南京《ナンキン》、倒《さかさ》などと、これ らの社会に歓迎されそうな名を付けている。ココ数年前から護謹《ゴム》の酸漿が売り出され ている、これが江戸から東京ヘの、時代の変遷に伴う酸漿の進化とでもいえようか。 小娘から四十女を通じての、酸漿を鳴らすこの一種の唇戯もしくは舌技は、やがてチ ュインガムのごときを噛む、歯戯と変りはしまいかと思われる。シナ人が西瓜の種を 噛み、露西亜《ロシア》人が向日葵《ひまわり》草の実を巧みに噛むような工合に、何かの噛みものと変りは しまいか。私は酸漿を鳴らすのを上品だとは云わぬが、江戸以来の遺物として保存し たいような気がする。  物売りの声で最も詩的であるのは、なんと云っても苗売り、稗蒔《ひえまき》売りであろう。 「苗売りに初音問わばや時鳥」も趣があるが、「世の中をヘちま苗売る男哉」の方に私 は組する。彼等が粋な喉をしぽって、長い町を永く流して売り歩く処に、西洋人の味 わえぬ、もしくは東京以外で味わえぬ詩趣がある。詩よりは竹枝、歌よりはむしろ哩 謡に好適な情景である。  寛政のころには江戸の街の朝を「御花三文ずっ」と云って仏壇ヘ供える花を売りに 来たものだそうだ。今日の「お花イ」はその末喬である。「いわしコイコィ」と急調 で売り歩くのは、「地を走る物とはきけじ鰹売」の呼吸から会得したものであろう。 それにしても「いわしコイ」のコイはなんだ。シナ人の店先ヘ入ると「来了《ライラー》」と挨拶 するが、このコイはすなわちそれで、いわし来美《きたれり》と強めて言うのであろう。  はたしてしからばここにも江戸ッ児の機転が窺われる。その他金魚屋の売り声は午 睡を催すによく、如斎《じよさい》屋の荷の音は午睡を醒ますによい。これに反して近来の売り声 はいずれも皆尖った音。鋭い響きで頭を刺戟するものばかりだ。豆腐屋の鈴もそれで    らう  きせる       ひつきよう              おし ある、羅宇や煙管の笛もそれである。畢竟は人間同士に感応のある天与の音声を吝 んで、汽器に代用させようとするからの間違いである。一時|流行《はや》った「露西亜《ロシア》パン」 の売り方には、かなりに滑稽分子が混じっていたが、このごろの「朝鮮飴屋」は騒々 しいばかりが特色である。また汚穣屋の話を持ち出すのではないが、上方から来たお 愛さんと云うのが、東京もよろしいが、思いも寄らぬ商売の方が、時々戸外を「お愛 お愛」と呼んで歩くから嫌いですと云った実話は、どう考えても東京の恥らしい。 秋気春色 その一  平壌大同江の付近から、一時朝鮮の古瓦が、旺んに発掘された事があった。それが いわゆる楽浪時代の巴瓦で、秦漢の古瓦に酷類した点が見られた。蓋し楽浪郡は漢の 武帝の置いた所で、いわゆる沮西《はいせい》十三鎭の沮水とは、今の大同江の謂《いい》である。従来朝 鮮の古美術としては、高麗焼と古鏡とが頻りに今人の間に珍重されておるが古瓦がさ ほどに愛玩されておらぬことは、遺憾である。百済時代末期の都であった忠清南道の 扶余地方でも、蓮華紋の巴瓦やら「未斯《みし》」の文字のある平瓦などが、ときどき発見さ れる。これらは我国へ瓦博士を送った、千三、四百年前の百済の盛観を実物上から記 念させる好史料ともいえる。  瓦は元「加波良《かわら》」で「迦波羅《かわら》」という梵語から来たものであろう。我国で初め寺院 のみが、瓦で屋根を葺いた事実は、瓦と仏教の関係を語るもので、朝鮮においてもま た、古瓦の芸術味が、その崇仏思想と、正比例を保っておる。私は奉天の北陵に遊ん だ時、悪い事ではあると知りつつ、番の小吏に一、二片の銀貨を与えて、そこの黄瓦 一枚を持ち帰ったことがある。もちろん古瓦ではないが、その粕薬《ゆうやく》の具合になんとも 言えぬ味がある。白瓦、碧瓦、褐瓦、さては瑠璃色、鼠色の瓦など、粕薬の法は、よ ほど古くからシナで発達して、朝鮮や日本へ渡来したものであろう。陸前多賀城の瓦 が五色であったと云われるのは、事実どうであったろうか。鎌倉時代の金塗瓦にあっ ては、むしろ黄金時代の俗臭を感ぜしめるのみである。  窯業から陶業を連想し、東洋の古瓦から、西洋の古陶器に想いを移す時に、私は丁 抹の陶器コーペンハーゲン焼きを想わぬ訳にゆかぬ。コーぺンハーゲンの陶器業は、 古い時代から丁抹《デンマーク》王室の保護によって発達したもので、その粕色の浮き出た色合に、 名状すべからざる清酒な趣がある。もちろんそ.れは芸術の上から言うのではなく、単 に趣味の上から見た話である。純芸術観としての陶器はシナのそれが世界陶器業の大 宗であることは言うまでもない。江西の青磁、白磁、色磁等は、おそらく世界陶器芸 術の母であろう。  新秋の清玩には、古瓦と古陶器が最も適切に感ぜられる。 その二  出でては旅によく、入っては読書によきは、秋である。狂花疎柳の春色よりも江 蓼白頻《こもつりようはくひん》の野路こそ、旅情に適する。シナ人の句に「野瞬天低樹、江清月近人」とい うのがあるが、旅人に取りてはなんらの好情景であろうか。興安嶺下から嫌江《ノンこちつ》へかけ ての、秋の旅には、ままこの情趣に出会える。江水の清濁は多く問うことをもちいぬ。 『鶉衣』には「春は乗りかけの鈴なりて、浴衣染めの花やかなるは、参宮の都道者か、 夏はさみだれて、金谷島田に大名の市をなし、秋は木曾路の木々も紅葉して、猿三声 の涙ひとり行脚の頭陀をうるわし、冬は鈴鹿のふぶきに飛脚の足を定めかねたる。い ずれもとりどりの哀れなるべし」とある。四季それぞれの特色はあろうが、哀楽共に 旅の情趣は、秋において最も深い。カンパニアの野も月なくしては、その情趣が半減 する。希臆《ギリシヤ》耶馬渓の称あるテンピの渓谷も、秋の気に会いてこそ勝地の実を飾り、瑞《ずい》 伊の境上なる風光明媚のコモの湖水も、我が秋に等しい晩夏初秋の風の渉り初めた季 節が、多くの旅客に喜ばれる。いわんやそれが「旅立を人も羨む袷かな」また「秋涼 し雨の過ぎ行く最上川」の風装情趣の我国の秋において、特にしかりである。  芭蕉翁が奥羽への旅立ちは、三月の末であった。すなわち春であって秋ではなかっ た。蕪村にはことに春風馬堤曲がある。旅行と野趣とが、必ず春色に背いて秋色に合 するという訳はないと、あるいは言うかも知れぬ。が、芭蕉の奥地行脚は一には、北 地の寒地を案じたにも因ろうし、一には時日を期せぬ大旅行であったにも因ろう。か かる論法から言えば、天明の大旅行家橘南渓が、敦賀の一夜松原や、西行芭蕉の遊蹟 である色の浜あたりへ旅したのは、或年の秋の頃であり、白山へ登って「加賀富士や 非礼をそめぬ白絶《しろもみじ》」と吟じた天明の旅行家、人淀三千風の北陸の旅も、秋であったと 云えよう。もしそれ春風馬堤曲に至っては、伊勢参宮や四国遍路と同様で、自然や情 景などに用のない、一種の社会行事に過ぎぬ。蕪村はただ毛馬村あたりの、そうした 人事詩に春色を加味したままである。  山陽は耶馬渓に遊んで山、水を得ざれば生動せず、石、樹を得ざれば蒼潤ならずと 言ったが、旅は秋に会いて、更に月を得た時が、情趣の上乗なものであると私は思う。 その三 秋の新涼は、人に食欲を増さしむると同じく、人に読書欲をも起さしむる。シナに は冬夜読書という成語があるが、我国の出版業者は、秋の初めに活躍する習いである。 もっとも読書にもいろいろの種類がある。専門書を読むのも読書であり、聖賢の書を 読むのも読書であろうが、是等はむしろ日常の務めに属すべきもので、愛玩的に恰楽 的《いらくてき》に目耕するいわゆる読書とは、全くその趣を異にしておる。すなわち趣味の書、娯 楽の書を玩読するには、秋が最も心に適すると私は思う。それにしても誰やらが言っ た「花園の中のライブラリー、自分はそれを想像して見ただけでもゾクゾクするほど 嬉しい」などという考えは、呪いたくなる。もちろん娯楽的に趣味の書巻を玩読する にしても、秋の深い閑寂の境地が好ましく、春光のまばゆき艶陽な場所は、読書には 絶対に望ましくない。  書は蔵書を楽しむはよし、その多きを誇るは愚である。オーガスチン・バーレルの 書籍論に拠ると、シェーキスピヤの如きは、総ての蔵書を一ト紮《から》げにしても風呂敷一 杯ありやなしであったと云われる。よく良書を選択して多読した力ーライルも、蔵書 は多くなかったようだ。ただ多読は世の読書子に求めたい。ここに多読というは汎読 の謂である。専門の書にのみ限り、同じ書にのみ雷りついておることは自家を愚にす る所以である。竹葉の蒲焼がいかに美味であるにしても一日三度一週間と続けて食え ば食傷する。たとえいかなる良書でも、没頭的読書は禁物である。まして朱子のいわ ゆる読書三到の訓《おしえ》のごときは愚もまたはなはだしい、それよりもむしろ読書はなはだ 解するを求めぬ五柳先生を学ぶが良かろう。  いかにも小児らしい声で、朗々と音読をしておる、少年読書の声は、春の旦《あした》の聴く ものにしたい。冬夜寒灯下の書見は、苦学子然として、むしろ願わしくない、ただ願 わしきは、閑寂な庭に対して、秋窓下の浄机に、会心の書を玩読したきことである。 幸いに書に倦んだころに、会心の友が門に到ったならば、いわゆる「揮塵但説青山」 の境に入りたい。 その四  春月は恋を語るによく、秋月は想を追うによし。故に家居には多く春月を楽しみ、 旅情は多く秋月に悩まさる。李白の静夜思に「挙頭望山月低頭思故郷」と言ってある のは、少なくとも東洋人通有の感である。月に対する想は、西洋においてどれほどま で養われてあるか、まだ纏まった研究はしたことはないが、西洋の芸術家は太陽を取 り扱うほどに、月光に対してどうも忠実でないらしい。朝な夕なの日光の透徹した光 線を画くに妙を得たコローはあるが、月色や月夜の景を描き得たことにおいて、広重 ほどのものがあろうか。ホイッスラーの「ノクターン」の画面のごときは、西洋では 珍であろうが、我が浮世絵では畢竟《ひつきよう》凡作を出でまい。 「枝豆に下手碁も二十六夜待」(洗耳)「月の雨団子を食うて将棊かな」(子規)、観月の 楽と月前の興とは、我国にあっては貴人より庶民に至るまで、古くからしかも一様に 養われて来た。菅公も太宰府で、去年の今夜を詩作されたほどで、十五夜と十三夜に 月を翫《もてあそ》ぶ習いの、古いことが知れる。栗、枝豆、衣被《きぬかつぎ》とはなんたる野趣と、なんた るお手軽なことであるか。果然例の川柳子は、ここにも奇警な社会観を走らせておる。 「衣被ぎ延喜の御代に食い始め」「十三夜琴は月への馳走なり」。ことに片月見とて、 十五夜に月を観て十三夜に観ぬことを、痛く忌んだ風習のごときは、月を賞すること の上にいよいよ情趣が深い、秋の月を賞翫する心は、我にあってはすでに一種の民族 心理を成しておる。エマーソンはその『自然論』の中に「とくに月を眺めんと望んで 屋外へ出ると、月は単に空光りのする金箔の一片としか見えぬが、旅に出て我が身を 照らす旅の月を、求めずして見た時に感じた喜悦の情は、とうてい得難い」と云って おるが、これは少なくとも日本人には当らない、大和民族の月に対する理解と興趣と は、けっしてそんなものではない。  言うまでもなく観月賞月の習俗は、古くシナから来たものであるが、それが皆日本 化されてあるところが嬉しい。シナに遊んで、試みに小童に仲秋月餅を買いにやって、 どんなお団子が来るかと待っていれば、紅の唐紙に包んだ褐色の打物の菓子で、その 油臭いこと一ト通りではない。薄《すすき》に団子の清酒な風情は、ついに純日本式のお月見で ある。そして今一つ違う点は、観月賞月の宴が、シナ朝鮮においては多く王侯貴人官 人もしくは文人の興楽となっていたに反して、我国では貴賎も都鄙《とひ》も、秋月の清光に 楽しみ浴した。唐書に蘇氏が、月を愛して灯を徹した清興が記してあるが、それも禁 中の宿直に、諸学士が月を翫《もてあそ》び酒を飲んだ時の事である。朝鮮にしても、高麗の王都 開城には、高麗太祖の営んだ宮殿に、満月台というのがある。かく貴族的な観月宴は、 シナや朝鮮にあっては、酒と文と琴とが、主として月前の興を扶けたに過ぎなかった。 独り我国に至っては、はなはだ平民的であって普及的であった。「月へなげ草へなげ たる踊の手」と川柳子が言った盆踊も、月が産ませた平民の子ではないか。「休むう ち太鼓であおぐ盆踊」の盆太鼓の音は、街や村の若者の月を讃美する歌ではないか。 江戸時代の小町踊は、泰平の都の市民が月に興じた一幅の図画である。        その五  クリザンテームは元|希臆《ギリシヤ》語であって見れば、古代の希臆《ギリシヤ》にも菊はあったであろうか。 あったとすれば、これほどの名花が、多少とも西洋人の芸術上に現われそうなもので ある。秋香を独りでほしいままにしておる菊は、我国へはもちろんシナから伝来した もので、女郎花《おみなえし》さえ敗醤《はいしよう》の漢名があるところから見れば、あるいはシナ古渡りの草 花かも知れぬ。近年来菊の培養において、英国がことの外長足の進歩を遂げ、南半球 なるその植民地では、四月に早くも秋が来て、花の直径一、尺にも達せんほどの大輪の 菊を、洋風の花壇に見ることが、珍しからぬまでに発達して来た、そして特に南阿の 英人が、白と黄との大輪を愛する風情は、彼等もどうやら「黄菊白菊その外の名はな くもがな」の趣をさえ解するようである。  柳島の龍眼寺に、萩を植え付けたのは明和三年であって、宮城野の種を移したもの と云われる。下谷龍泉寺町の正燈寺は、昔は紅葉の名所であったが、蜀山人のころに は多く萩を植えた。江戸時代の人が、郊外に市内に、かくも秋の眺めに意を用いたと ころは、その雅懐の床しさが偲ばれる。実を言えば秋の色は培養された菊よりも、自 然に咲き乱れた秋の七草に宿って見える。萩や尾花の露、桔梗の色香、女郎花の優姿 いずれか、秋を語らぬものがあろうぞ。「雑子鳴くや尾花にかかる二日月」野外の秋 の総てを言い尽したかのよう。  鳥が春の旦《あした》を歌う使いであるならば、虫は秋の夕を卿《かこ》つ客であろう。雁を除いたら 秋の神に属する鳥とてはきわめて少ない。雀や椋鳥は季別にすれば当然秋禽であろう が、趣味的に見れば言うに足らぬ。シナには鵠がある、我国には夏来る候鳥で稀であ るが、シナではむしろ秋の景物の一にかぞえられよう。いわゆる「月明星稀《つきあきらかにほしまれに》、烏 鵠南飛《うじやくみなみにとぶ》」の詩趣が見られる。我国では秋の鳥としては、雁を唯一のものとしてよ い。独り虫に至っては、日本はおそらくは世界で独特の地位に立ってはおりはしまい か。虫を聞くと言う趣味は西洋人には果たして理解されるかどうか、武蔵野から秋の 七草と虫の音とを取り去ったら、その詩興は半減するであろう。虫売りという行商が、 江戸時代から引き続いて、武蔵野が建てつぶされた大正の今日、なお町の人やら屋敷 物やらの間に、商売として存続していることは、虫の音に秋を聴く詩興が、我等の間 に民族的に存しておる証拠である。くつわ虫の漢名が脂々児《かつかつじ》または紡績娘であり、鈴 虫が金鐘児、松虫が金琵琶などということを想うと、シナ人もまた虫を聴くには相違 ないが、それはおそらく文人墨客の事で我等のよケに上下貴賎を通じての賞玩ではあ るまい。「西東いずれ嵯峨野の虫合」古人の虫に対する愛着は、虫合せという事にま で進んでおる。京に近い嵯峨野へは、古内《いにしえ》裏へ献上するために、宮中の殿上人など が鈴虫松虫などを取りに行ったもので、すなわち虫撰みというのがそれである。  げに新秋の生命は清涼であり、清澄であり、閑寂である。無心に山の端を出た月が、 有意に窓を窺うころ、十歩の前庭に種々《くさぐさ》の虫の音が断続する。この時にもし会心の書 があり、得意の句が浮かんだならば、秋の興趣は我において十二分である。        その六  朝鮮の春は鶴嗅《かくれい》から来り、満州の春は白楊枝頭に立つ。シナ人のいわゆる端陽の節 に中部満州の女児どもが、械《くぬぎ》の葉に白麺《はくめん》を包んで、それを薄羅餅《はくらへい》と名付けて、家々で これを食って端午を祝する風習は、満州における人事の春を語るものであるが、我が 国の柏餅と妙に似通うておる点が一奇である。  満州の五月に、娘々廟《ニヤンニヤンミヨウ》の祀というのがある。郊辺野外、あるいは丘陵にあるいは |閻外《りよがい》に、はなはだしきは鳳鳳《ほうおう》城外の鳳鳳山頂にさえ、娘々廟《ニヤンニヤンわこヨウ》がある。五月のある祭 日には、遠近の村落から男も女も絡繹《らくえき》として、お詣りをする。そして満州風俗として の日ごろの男禁制の、若い娘どもは、幾十幾百と打ち続き打ち叫《わめ》く村郎壮夫と、後ヘ なり先へなりして、ある者は騨《ら》を駆り、ある者は騒背に筒り、または一家族混載の満 州馬車を進めて行く。その状《さま》はちょうど結氷していた野水が一時に解け、春風が一時 に吹き渡る風情である。その時分は、青嵐とまでは行かずとも、春らしい風が尺余の |高梁《コウリヤン》を吹き、幾寸かの紫雲英《げんげ》さえ、春色を吐くかのようである。その日には娘々 廟《ニヤンニヤンミヨウ》詣りを当て込みの露店が、沢山に路傍に出来て、紅餅|黄樵《こうこう》という奴を売っておる。 古詩に「麦鹿風来餅餌香」などいう句のあるのは、こんな景ででもあるかなどと想う と今日の満州もなお水溜伝《すいこでん》時代のような気がする。  鶴の鳴声を形容して清嗅というが、これは決して文字だけの形容ではなく、実際の 感じである。北韓に春が来て、大陸晴れの蒼空を緩く舞う鶴の数声の清嗅には、疲れ た旅人の脚もために軽くなる。古の高麗《こま》の山河に春風の吹き渡る風情には無心のよう に見える白衣の韓人にも、さすがに春が感ぜられるごとく見える。今一ッ朝鮮で春色 に調和のよいものは、小女の服の色である。私はある年の春の満韓巡遊に、大同江畔 から鴨緑江頭《おうりよくこうとう》まで徒歩の旅行を続けたことがあるが、清川あたりであったか、一清 流に出会って、雪舟の山水にでも見るようなその対岸の巌壁を眺めて暫らく侍立して おると、紅や紺で彩どったシナ風の矯《こし》が対岸からやって来た。やがて橋夫《きようふ》が浅く清い 春の水を渉ると、矯が心もちゆらゆらして水に映ずる具合がなんとも言えぬ。此方《こなた》の 岸へ着くと一ト憩《やす》みするのであろう、矯が停まると中から十四、五歳の朝鮮の小女が 立ち出て、これも輿中の退屈を慰するのであろう、小石の多い汀に立った。小女の紅 衣にして緑裳であるのが、野水の春によい調和を与える。        その七 「楊花古渡最清幽《フフフフフ フ》、特出奇峰枕碧流《フフフフフフフ》」とは、平壌なる楊花《フフ》の渡津《としん》を謡ったもののよう に記憶する。楊花の渡津にしても、漢江なる鷺梁津《ろりようしん》の渡場にしても、朝鮮の春色は 渡船場によい。遠近の山影が濃淡画のようで、そこへ白衣の朝鮮婦人がことに目立つ ほど発達した腰と腎を振りながら、水嚢を頭に載せて、帰るもの行くものがある。す ると一方では河辺の大きな石へ、白いものを打ち付けては濯《あろ》うておる。濯うというよ りは、事実打ち付けるという方が当っている。春水の環流する彼方の岩の角には、鵠 鵠《せきれい》がその尾で春を告げ顔である。  朝鮮には朝鮮の春があり、満州には満州の春がある。満州の大城市いたるところに ある劇嚇《 りま》塔に、苔の花が咲くころは、春色がこの千年の原頭に十二分の節であり、い わゆる柳如糸《りゆうじよ》頻りに飛び、桃杏李花一時に咲き揃う季である。奉天に四基の古塔があ る護国広慈寺の南塔、永光寺の東塔が特によい。東塔の下に立って塔を仰ぐと、これ ほどの珍奇な古建築を能くもかほどに荒廃に委し得たものだと、むしろ不思議な感が する。たれであったかシナを論じたものの中に、シナ人は建てる時には無闇に立派な ものを建てるが、建てた後は知らぬ顔をして、雨師風伯の荒したい放題に委せておく と云うことがあったが、まったくそれに相違ない。  しかしまたその自然の雨打|風敲《ふうこう》に委して、自然の古色を大建築物に帯びさせたとこ ろに、大なる面白味もある。永光寺の東塔にしてもが、塔の基壇に錆刻《せんこく》してある花紋 などは叢棘《そうきよく》の裡に埋もれ、逆蓮の座を支える獅頭は、空しく丈草に摩せられておる。 壇面に刻した雲珠、塔身に彫った仏体が、鳥糞に汚されてあるは言うまでもない。そ の間に小さいが数の多い可愛らしい苔の花が、天工と人工とを併せ得たように咲いて おるのは、この数百載を経た瓦堆土塊の古体古色に彩られた唯一の新春の装いであろ う。それにしても満州各地の名ある剛嚇塔が、その基壇、塔身、層屋、相輪、いずれ か剥落片壊せぬものはなく、彫刻されてある仏像花紋のいずれも雨糸風片と戦った印 象の歴々たるを見ては、満州朝廷の末路も想い出されるが、ただその古雅古趣は、東 洋建築芸術の粋であろう。  子規先生は日清役に従軍して大連埠頭に上った時に、「大陸の山皆低き霞かな」と 啄まれた。いかにも満州の山は概して低い、低くて滑らかな形が多い、独り鴨緑江北 の鳳鳳山ばかりは犬牙にして剣戟の峻峰である。私が先年幾度かの旅行にこの山麓を 汽車でも通り、徒歩では山下の村をも訪い、山上の廟にまでお詣りをしたが、春光の 満州の野に遍ねきころに、霞の裡にこの剣峰を望む景色と、山下の柳楊村の眠るよう な景色は、いかにしてもシナ特有の文人画幅その櫨である。一陣の春風が李花を散ら すかと見ると、鈍く太い騒馬の噺声《なきごえ》が里門から伝わって来る。  満州の春色は、欧州から通して来た漫遊客の眼に、特に絶大の興趣と印象を感受さ せる。東洋特有の文物、亜細亜《アジア》固有の風物、極東特色の山容水色、皆ここに展開され て、加うるに野に高梁《コウリヤン》の緑色、森に楊柳の翠色、満人の藍衣鮮人の白衣、物々皆新 奇である。南満朝鮮両鉄道の、世界的特色の一として優にかぞえ得られる。 その八  秋と春との特色を、最も多く収め得たものは我国である。仙人の風骨が其の奥に潜 んでおるような秋、美人の矯態が炎陽の裏に浮かんでいるような春は、双つながら人 を魅する。「野外の春色」については私に左の一文がある。    一枕の春夢は千金に値すと云えど、清農に間歩して、林鳥の争鳴を楽むには如   かず。春の曙は何物にも換え難し。桜とても暁桜の鮮なるは、晩桜の艶なるに優   り、鳥とても朝暉の林梢に黄鶴の百舌は、暮霧の遠林に帰鴉の数点に優る。春農   林間の迫遥は、一歩値千金。    菜の花数圃、蝶三四点、春光と野趣との極致。更らに狂花疎柳の、春色を按排   するを妨げず。又更らに東風の天桃紅杏に曝くを妨げず。野外に出でてこそ、天   下の春は我に檀ままなれ。    柳下に舟を蟻するも好く、花間に馬を前むるも佳し。而かも軽歩して長堤に春   を追わんは更らに絶好。若し村花路柳の間に茶亭に憩い得て、一椀の苦茗を呼び   得ば、春日の行楽は則ち足る。  早春も好し、盛春も佳し、暮春更らに佳し。東風の柳眼を開き、黄鳥の桃花を 罵る風情は、早春の神技。疎雲の春月に映ずるは、盛春の佳景。春光酒の如く濃 く、花香人を酔わしむるは、暮春の情趣。遊子は前者を欣び、酒客は後者を楽み 歌人は中者に適す。  二月立春、東風氷を解き、蟄虫初めて動き、魚氷に上る。古暦に所謂獺祭魚の 候。栽圃に鍬を把りて桃李を植替え、前庭に技を凝らして紅梅を接木す。門に出 でて山に対すれば、霞始めて駿く。  三月蟄啓。桃花開き菜虫羽化す、古暦に所謂鷹化為鳩の季なり。玄鳥(燕)初 めて到り、雷初めて鳴る。天地の百物、悉く生面生気を揚げ来る。  四月清明、燕来雁去、桐始めて華咲き、虹初めて見わる。古暦に所謂田鼠化為 |鴛《うずら》の季。春雨到ること屡々にして、百穀生化す。  庭前の枝頭に春の十分なるを知らず、之を野外に尋ねんとして、終日春色裡に 彷伯圧したる者は、恐らくは青帝の寵児。独り花ありと錐も、尚お春の全きを獲た りと云うには未し、東風野水の之に加わるありて初めて春神に会いたりとせん。  秋季の春陽に優れるを説くものは、恐らくは春色を妬むの無情子。一舖の春草 は満庭の落葉に敦れぞ、針に似たるの薫雨は、糸の如き紅雨に敦れぞ。一片の秋 色は淡くして疎、八分の春色は艶にして切。  春に会いて詩腸の動かざるは啓に等し・\花に対して吟詠を遣らざるは唖に似 たり。若し晩春の午下、庭前の老椿、花落つること三四なるに対しては、立どこ ろに数首の歌を得べし。歌は半拙半工なるも可、酒は半醒半酔なるも可、独り春 色は疎淡を佳とし、閲熟を佳とす。  李花の疎雨、楊柳の軽風は春色の動観なり。春月の窓を窺い、鳥影の眼に落つ るは春日の情趣。青山門に在り、白雲戸に当るは春色の静観。静動情趣の三態は 敦れにても可。茶寒め酒冷かにして、賓・+相忘る、興趣の神に入るもの。  願くは花の下には春死なんと言いけんは、興と情とを兼ね得たるもの。春日永 くして書見獺く、哺鳥に促されて遊意動くの時、願くは青帝に陪して、蝶と共に 狂い、禽と倶に謡わん哉。 三都是非 衣装哲学 ○畿内における衣食住の標準は、京の着倒れ、大阪の喰い倒れ、堺の建倒れと古来云 われる。またこれに関する三都の比較は、昔から定評があるが、時代の変遷につれて、 幾分の変化が見出されはしまいか。すなわち従来の定評としては、衣は京を一とし、 二に江戸、三に大阪であったが、今日では大阪、京都、東京の順序ではあるまいか。 食い倒れと称えられた東京も、今日あるいは美食の点において、一欝《いつちゆう》を大阪に輸し はしまいか。 ○大阪から急に東京へ来た時、また東京から稀れに大阪へ行った時に、電車内で第一 に眼に着いて感ぜられる事は、東京の電車のお客が、着物のあまりに粗末なことと、 大阪の電車内の男女の御客が、概して着物の立派な事とである。しかし衣装上の流行 は、時代の変遷上、東京があくまでもその源泉地たらざるを得まい。常に芸術的諸施 設の魁を成し、かつ社交的中心地たる東京は、いかにしても流行の源泉地でなければ ならぬ。 ○なにしろ衣装の勢力は素敵なものである。東京の電車停留所について見ても、それ が肯かれる。三越、白木は申すに及ばず、いとう屋、松屋の前はもちろん、旧家では あろうが市谷のあまさけ屋前の停留所は、先に新見附の口にあったものを、後にわざ わざ、ここまで御座れ、甘酒進上という具合に、あまさけ屋前へ引移したものである。 ○私どもが丸善へ立ち寄る時に、通三丁目の途中で電車を降りねばならぬくらいだの に、銀座ではゑり治前と云って、半襟屋の前で電車が停る。衣装の力は社会的に、書 籍の力に優り、女の装飾力は男の思索力よりも遥かに優っておると見るべきであろう か。 ○それなればこそ帝国外務省の総領事殿も、白木の番頭さんに早変りされる訳である。 我国の奥様連がちょっと出にも、身廻りに百円内外の衣装を着けていることの、国家 の経済力から割り出して、果たしていかがであろうかと、時々新聞雑誌などの上で警 告される何某博士婦人のごときを、たとえ一人でも婦人仲間、特に奥様連の中に見出 すことは、衣装哲学上の奇蹟だ。 ○古い川柳に「尾張町ぶらぶらすると釣込まれ」また「尾張町扱いい魚の釣れる所」 というのがあるが、これは今の銀座の電車交差点の角にあった、恵比寿屋を読んだも のだ。アノ四ッ角には恵比寿屋以外、布袋屋、浜田屋、亀屋という四軒の有名な呉服 屋があったと古書に見える。昔でも呉服屋が、銀座の十字街頭に位置を占めたという ことは、都市研究上の味わうべき現象である。        長短方円 ○同じく鑑鈍蕎麦《うどんそぱ》を一処に商ないながら、京摂にては鑑鈍を主題として「うどん屋」 と云い、東京にては蕎麦を主人公として「そば屋」と云う。伊太利《イタリー》人が好んで鑑鈍を 喰い、露西亜《ロシア》人が丸蕎麦の粥《カーシ》を賞味するに似通っておる。その出前さえ大阪では箱入 にして、幾つかの箱を並列させて持ち運び、東京にては丼のまま、または蒸籠《せいろ》のまま、 上へ上へと高く重ねる。 ○京都でも大阪でも、お茶屋の行灯は方形であるが、東京の芸者屋はいわゆる御神灯 の丸提灯である。いずれにももちろん優劣は無い、上方風の細目の格子には方形の行 灯が調和し、東京の芸者屋街の気分には、御神灯が釣合いがよい。 ○上方のつま楊枝は丸削りであり、東京のは四角に削ってある。いわゆる楊枝の先き ほどの事ではあるが、両地の相違はかえってこんな辺から始まる。楊枝の相違から食 物の味、食物の味から食器什具の嗜好、それからそれへとの相違が見られる。お正月 の餅にさえ、上方の丸餅東京の切餅と、方円の差が見出される。 ○また蕎麦屋へ話が戻るが、東京での「てんふら」「鴨南蛮」に対して、上方には 「ノッペイ」「シッポク」がある。この名だけの上に、すでに上方者と江戸っ児とが現 われておる。大阪人は「てんぽら」と呼ばなければ承知せぬ。 ○東京人が蕎麦を利用することの多きは、江戸時代からの仕来りである。奉公人の親 判をもって来た者にも蕎麦、請判を取りにやっても、先方にて蕎麦を出す。引越しに 蕎麦を配ることは、もちろんその時分からの習慣である。京、大阪でいわゆる「宿換 え」の節に、宿茶と称して近処隣りの人をお茶に呼ぶ旧慣は、今日ではほとんど廃れ たようであるが、付木やマッチの小束小包を、逃げるようにして配って歩くのは、い かにも大阪人の引越しらしい。 中斎先生 ○義侠の風は、三都中で江戸を宗とするかに思われ、はなはだしきは江戸の専売であ るかに普通考えられておるが、大阪は大塩平八郎と云う民衆的大義人を出しておる。 唯一人の平八郎ではあるが、大阪の誇りとして此の上に出るものは無かろう。 ○義士の義の字に拘泥して、東京人はあるいは泉岳寺を担ぎ出すかも知れないが、彼 等が赤穂の人々であるということを別にしても、義士そのものは1精神はもちろん 別としてllあくまでも封建時代の産物であって、現代にはもはや過去の記念に過ぎ ぬ。これに反して大塩中斎先生は、過去においてこそあるいは匪徒に等しく考えられ たかも知れぬが、今日および今後、時代の進むにつれて、民衆的義人として永久に活 くべき人である。 ○しいてもし江戸っ児の面目のために、その匹を求むるならば、出身こそ他の地方で あるが、江戸を舞台としたと云う点で、木内(佐倉)宗五郎を持ち出してもよい。こ れならば大阪の大塩先生同様、民衆的義人として将来に永久の生命がある。ただしか し輪廓の大小については、もとより洗心洞主人と同日の談ではない。いわんや江戸ッ 児が好んで持ち出したがる幡随院《ぱんずいん》長兵衛のごときは、畢竟市《ひつきよう》井の一侠夫に過ぎぬ。 ○大阪が江戸に対しての絶対の誇りは、淀屋辰五郎でもなく、鴻池でもなく、また中 井氏の家塾懐徳堂でもない。純大阪人として、与力の一人として、我国の陽明学者と しての、大塩中斎先生である。いわゆる大塩の乱は天保八年、洋暦一八三七年であっ たとすれば、ケレンスキーやレーニンの民本政治家が、今ごろ飛び出したからと云っ て、一向に新しい訳でもない。 ○とにかく、西における大塩先生と、東における木内宗五郎とは、江戸時代における 民衆的義人の魁である。 官学私学 ○官学なる朱子学が、江戸を代表したものとすれば、私学派に属する陽明学は、上方 の産物ということが出来よう。後者が簡易直戴を主として、はなはだしく禅的趣味を 帯びておる点から見ても、私学派に相違ない。昨年末の教育制度調査会での山川東大 総長の、帝大本位論などを聞くと、幕政と林家の関係などが想い出される。林道春が 家康の顧問であったことは、ちょうど初期の帝大が、明治政府の官吏養成所として、 政治に貢献する所が少なくなかったのと同型であるが、一旦私学の興って諸多の思潮 の、膨群《ほうはい》として到る時になっては、官学は往々にして圧倒される傾きがある。 ○陽明学者で上方に気焔を上げたものは、なんと云っても大塩中斎を推さざるを得ぬ。 このころの世界的人物の中に類を求むるならば、レーニンと云ったところである。レ ーニン政府の戦争打切り、国債棒引き、外国使臣追放などは、立派な知行一致だ。大 阪の与力から我が天保のレーニン先生を産み出したことは、江戸ッ児に対する大阪人 の誇りだ。 ○しかし江戸ッ児もまたこれに対する英雄を有しておる。天下の学者を眼中に置かな かった荻生徂徠がそれだ。千石以上の知行でなければ出仕せぬと言っていた山鹿素行 やら、二百石以上の禄でなければと頑張り通して、終生出仕の機を得なかった太宰春 台などから見ると、祖裸の気宇の洪潤なる、とうてい同日の談ではない。古文辞学派 と云うよりも、むしろ徂徠其人の儒風が、関東を風靡したことは、江戸ッ児の江戸ッ 児らしい誇りである。私は徳川時代における東西の学者中、荻生徂徠が一番好きだ。 ○同じく上方で同じく陽明学者としても、中江藤樹のごときは、とうてい大塩中斎の 比ではなく、畢竟近江聖人に過ぎぬ。最初熱心な朱子学者から、晩年陽明学者へ転籍 したようなものの、ついに一郷の徳育家に過ぎぬ。 ○中斎を「狂儒」と罵った伴信友、洗心洞の学風を「天満風の我儘学問」と嘲った当 時の官学派の根性は、今日の帝大出身者の、官吏と会社員本位なるに似通っておる。 言葉尽し ○江戸ッ児は気が短かく、上方者は気が長いと、古来相場が定っている。がしかし上 方者の中でも、大阪人には事により、時に臨んで気のイライラしたところがある。東 京では鰻を字典そのまま「うなぎ」と云うが、大阪では単に「う」。また泥亀《すつぽん》は江戸 ッ児のアノ喜多八でさえ、しかもその喜多八がヒョンな場合に、泥亀に指を喰い付か れたアノ刹那でさえ、「スッポン」と呼ぶよりほかに、一の略語をさえ持たぬに引き 換えて、大阪人は「丸」とばかり手早く呼び得る。 ○もちろん東京にも面白味のある名称と、口調好く略した名詞とが、決してない訳で はない。上方の中風病みを「よいよい」、履物の直しやを「でいでい」、肥取りを「お あい」というなどは前者で、大阪人のいわゆるがんぎ(川岸)を単に「かし」と云い、 気障りを「きざ」というの類は、後者に属する。 ○ところで面白きは大阪と京都 わずか目と鼻ほどの距離のところで相応に言葉の 相違の存しておることである。試みにその若干の例を挙げる。      大阪          京都    温《ぬく》い 暖い    えらい きつい    大きい でっかい    どえらい 仰山    そうじゃさかい そじゃけんど    こちへ遣《おこ》せ 髪へ来しや    買うてくる 調えて来る    白うり 浅瓜    南京 かぼちゃ    小路《しようじ》 辻子《ずし》    田楽 塩梅よし    十能 燃掻《おさかき》    湯婆《たんぽ》     踏《ふまえ》    ちろり         鞍掛                              (「皇都午睡」に拠る) ○江戸以来の「ベランメイ」は、大阪の「……してケッカレ」に相当するのであろう が、この二ッの言葉ほど東京人と大阪人との品性、否むしろ気風、否むしろ意気込み を、表示し得た言葉は無いと思う。不思議な事には大阪者同士が、東京の電車内で話 をする時には、どうやら大阪弁に多少の気兼する容子が見える。それに反して東京弁 は、大阪の電車内でも、京都の芸妓の前でも、一向に遠慮は入らぬ。 ○この事実は日本人やシナ人が、西洋の客遊中、街上やら車中で、同胞同士でその国 語を話す時に、自然に多少声を低めるのと同様の、心理状態にも因り、また郷土文化 の低劣にも因るであろう。「ケツカレ」語はいかにしても下品で低調である。その昔 衆議院の晴れの舞台で、「オマス」の語尾を大声濫発した粟屋品三と云う男は、頭か ら足の先きまで大阪式の商品である。 風来山人 ○谷本富君は、讃州の学才的人物として、前に平賀源内あり、後に谷本富ありという 意味の事を、時々漏らされるように記憶するが、機知縦横の平賀源内は、純乎たる江 戸式であり、人生万事|算盤《そろぱん》本位の富(トメリと読ます)君は、徹底的大阪式である。 ○平賀源内の機智に関しては、種々雑多の話が伝わっておるが、平日の諸道具に、さ まざまの洋風の名称を付けた二、三の例などは、源内独特の面白味を感じさせる。た しか源内の発明と記憶するが、万年糊と称して、糊を紙で包み、隅の穴から押し出し て使うものに、洋風の名を「オストデール」と付け、くるくる廻して蚊を取る器を、 「マアストカートル」と名付けたり、また泣上戸の事を「エフトホエール」、物覚えの 悪い人を「スポントワIスル」など戯名したところははなはだ面白い。万年糊の考案 は、おそらく西洋渡来の、鉛筒押出し絵具に着想を得たものであろう。 ○もし大正の御代に源内が生存していたと想像して見ると、かなりに趣味の広い働き をやったかも知れぬ。まず世界的植物学者として、紀州の私学者南方君と共に帝大学 者を罵倒し、芝浦の埋立地に平賀式飛行機製作場を建て、珍本珍説研究者として宮武 外骨君と交を結び、別に団々珍聞を復興して、盛んに風来山人一流の譜謹を弄して一 世を調罵し、ある時は帝大心理学会の研究題日となり、晩年|伴狂《ようきよう》より真狂となって、 ついに巣鴨御殿へ収容されて、藍原将軍の隣房に余生を送るなどは、けだし我が放屍 論の作者、源内先生の本意であろう。 ○こんな型の人物は、ちょっと上方にはその比を見出さぬようである。天竺浪人風、 尻喰観音式の瓢逸な気分は、どうしても植民地式で武蔵野気分の、江戸もしくは東京 の空気に適するように思われる。 川魚川船 ○大阪の大川あたりには、屋台船をそのままの料理屋にして、川魚一式を喰わせる家 がある。元来|牡蠣《かき》船は、季節が到来すると牡礪を積んだまま、広島から大阪へ海路上 って来たものであるが、今では牡蠣だけが広島から来て、船は年中川魚専門の料理屋 を勤めている。東京では一時芝浦に、廃船を利用してロセッタの名もそのままなる料 理屋が出来たが、たしか一夏で廃業したように記憶する。 ○とにかく、水上の設備では東京はついに大阪の敵ではないが、ただ川魚を好んで食 う点になると、いずれであろうか。大正五年度に東京市での調査によると、東京人が 一年中に食べる川魚は、約五十万貫でそのうち鰻が二十五万八千貫を占めておる。し たがって鰻が川魚界における東京を代表して、上方の鰻《はも》に匹敵する。 ○江戸ッ児が蒲焼を自慢するに対して、上方者は鰹の骨切りを賞味する。鰹はもちろ ん川魚ではなく、本来熱帯および温帯の海に産し、瀬戸内海および泉淡の海水に多産 する。鰹釣りの法が大阪付近で発達していることは、ちょうど蒲焼が東京独特の秘技 のようなものである。 ○種々の名を冠しておる京阪の川船も、もちろんかなりの発達はしておるが、江戸時 代には川船の利用悪用は、非常な発達をしていた。例の猪牙船《ちよきぷね》のごときは、宝暦の末 には七百余艘もあったと云われる。蜀山人が永久橋辺の阿千代船の狂詩に、永久夜泊 と題したものがある『鼻落声鳴蓬掩レ身、鰻頭下戸抜二銭縛' 味噌田楽寒冷酒、夜半 小船酔二客人一』。 洒落気分 ○松風という菓子は、京都が製造元のように記憶するが、その名の由来もはなはだ京 都式である。この菓子は表に嬰粟《けし》をふり、裏の鍋肌の方に、何の模様もないので、浦 淋しという心から松風と名づけたとある。いかにも京都式の物柔らかい気分が浮いて いる。 ○謎なぞナー二という京都人の古い謎の一ツに、「玉子とかけて何と解く」「御所車と 解く」心は「中にキミが御座る」というのがあるが、君という言葉で京都を連想させ るにも因ろうが、いかにも平安楽土の趣が感ぜられる。 ○これに較べると江戸人の洒落は、いかにも平淡である。九里四里味が良いという焼 芋屋の十三里の看板は一般に知られておるが、焼芋を買いに来たお客が「生焼け十里 じゃネーカネ」と飛び込むと、「五里五里の洒落か」などと、外のお客が相槌を打つ などは江戸ッ児らしい。 ○文治のころ芝高輪に評判の居酒屋で、蜂竜というのがあった。入口の障子に、蜂と 竜の絵が書いてあるのが、看板となっていたそうだ。「させ」(整《さす》)「のむ」(呑)とい う意だそうで、いかにも無邪気な、がしかしどこかに面白味のある粗淡な洒落である。 ○虎屋饅頭に敗けぬ名を一ッ付けてくれと頼んだら、国性爺饅頭がよかろうと言った というが、宝暦ころの江戸の洒落である。大阪では「口合い」といい、口合いから一 転して「軽口」、軽口を所作事にして「俄か」があるが、いずれもあまりに下卑て、 すこぶる低級なものである。東京の茶番狂言は、往々にして贋の宿換えに値するが、 大阪の「俄か」は、往々にして嘔吐を催させる。 ○江戸で狂歌が発達したのも、もとこの洒落気分に基づいておろう。烏丸光広、正親 町公通などいう京都の公卿の手合にも、和歌のかたわら狂歌をやった者もあるが、狂 歌が文芸史上に一派を開いたのは、蜀山人の力で正しく江戸の産物であろう。ある年 大名の月見の宴に侍った蜀山人は、酒宴のようやく閲《たけなわ》なるころから、そこでもここで も酔客どもが嘔吐を催すようになった際一句「面白や月に二ツの異名あり、ゲッと云 うたりガッと云うたり」。ある時殿様から五両の金を頂戴して「殿様が金をくりょう とおっしゃった、誰が指図やら四両足りネイ」。当代諸方の儒学者どもを白眼視して、 狂歌三昧に超脱的人格を発揮し得た寝惚先生は、江戸の特産物に相違ない。 代表趣味 ○いかに交通頻繁の時代になるとも京都と大阪と東京とは、おのおのその特色をます ます発揮して、何時に至るも一致することはあるまい。四条の通りは電車通りとして 見事になったが、京都の特色としては先斗《ぽんと》町i-iまるで路次のようなアノ先斗町を推 さざるを得ぬ。 ○京都人の性分を代表する名物は、あくまでも「八ツ橋」であり、大阪は「粟おこ し」であるとすれば「塩せんべい」は東京の代表的名物であらねばならぬ。何時まで もニチャニチャと歯に付いて、歯切れの悪い八ツ橋は、京都人そのものである。残飯 を利用して一時の食欲に人を隔着せんとするような「おこし」は大阪人の心理を遺憾 なく現しておる。塩せんべいに至っては、味はサクイが腹のタシにはならぬ点が、五 月の鯉の吹流し、口ばかりにて腸《はらわた》はなしの江戸ッ児式である。 ○同じく掻込み主義の信仰でも、東京の酉の市の熊手と大阪の戎《えぴす》さんの小宝とは、趣 が違う。後者のお多やんに米俵は、俗人的風流の裡に成金気分が漂うておるが、熊手 のおかめには、少なからぬ滑稽味が加わっている。 ○島原の古代趣味と祇園の誇りなる一力とは、東京の何ものもとうてい打ち勝てぬ。 俗了した今日の吉原や宿場式の品川などは、矯風会連の叫びを待つまでもなく、廃殿 して惜しくはないが、古太夫さんの島原は、史的京都の一として、あくまでも保存し て置きたい。大阪についてはこの点においてなんの気分も起らぬ。 ○大阪の町家の建物が、屋内の割に間口が狭く、見かけのいかにも貧弱なのは、封建 時代に御上の訣求の眼を避ける方法が、今日に遺伝したのだそうだ。財界のお歴々方 が、近来の脱税振りの鮮やかさと厚顔さ加減を見ると、門口を狭くした浪華の町人ど もの方が、床しくもまた憐れに思われる。