【これは未校正データです。】 青空文庫で公開されました。()付きは、別データによる。 岡本綺堂 「こま犬」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43545.html 「水鬼」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43546.html 「停車場の少女」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card45544.html        (http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card2591.html) 「木曽の旅人」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43574.html 「鐘ヶ淵」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43544.html 「指輪一つ」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43547.html 「離魂病」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43548.html 「海亀」http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/card43542.html こま犬 ************************************ 春の雪ふる宵に、わたしが小石川の青蛙堂に誘い出されて、もろもろの怪談を聞かされたことは、さきに発表した「青蛙堂鬼談」にくわしく書いた。しかしその夜の物語はあれだけで尽きているのではない。その席上でわたし旭ひそかに筆記したもの、あるいは記憶にとどめて書いたもの、数うればまだまだたくさんあるので、その拾遣というような意味で更にこの「近代異妖編」を草することにした。そのなかには「鬼談」というところまでは到達しないで、単に「奇談」という程度にとどまっているものもないではないが、その異なるものは努めて採録した。前編の「青蛙堂鬼談」に幾分の興味を持たれた読者が、同様の興味をもってこの続編をも読了してくださらば、筆者のわたしばかりでなく、会主の青蛙堂主人もおそらく満足であろう。 ************************************ これはS君の話である。S君は去年久し振りで郷里へ帰って、半月ほど滞在していたという。 「なにしろ八年ぶりで帰ったのだが、周囲の空気はちっとも変らない。まったく変らを過ぎるくらいに変らない。三里ほどそばまでは汽車も通じているのだが、ほとんどその影響を受けていないらしいのは不思議だよ。それでも見などにいわせると、一年増しに変って行くそうだが、どこがどう変っているのか、僕たちの眼にはさっぱり判らなかった。」 S君の郷里は村といっても、諸国の人のあつまってくる繁華の町につづいていて、表通りはほとんど町のような形をなしている。それにもかかわらず、八年ぶりで帰郷したS君の眼にはなんらの変化を認めなかったというのである。 「そんなわけで別に面白いことも何にもなかった。勿論、おやじの十七回忌の法事に参列するために帰ったので、初めから面白ずくの旅行ではなかったのだが、それにしても面白いことはなかったよ。だが、ただ一つ−−今夜の会合にはふさわしいかと思われるような出来事に遭遇した。それをこれからお話し申そうか。」 こういう前置きをして、S君はしずかに語り出した。 僕が郷里へ帰り着いたのは五月の十九日で、あいにくに毎日小雨がけぶるように降りつづけていた。おやじの法事は二十一日に執行されたが、ここらは万事が旧式によるのだからなかなか面倒だ。ことに僕の家などは土地でも旧家の部であるからいよいよ小うるさい。勿論、僕はなんの手伝いをするわけでもなく、羽織袴でただうろうろしているばかりであったが、それでもいい加減に疲れてしまった。 式がすんで、それから料理が出る。なにしろ四五十人のお客様というのであるから随分忙がしい。おまけに・旨ついう時にうんと飲もうと手ぐすねを引いている連中もあるのだから、いよいよ遣り切れない。それでも後日の悪口の種を播かないように、兄夫婦は前からかなり神経を痛めていろいろの手配をして置いただけに、万事がとどこおりなく進行して、お客様いずれも満足であるらしかった。その席上でこんな話が出た。 「あの小袋ケ岡の一件はほんとうかね。」 この質問を提出したのは町に住んでいる肥料商の山木という五十あまりの老人で、その隣りに坐っている井沢という同年配の老人は首をかしげながら答えた。 「さあ、私もこのあいだからそんな話を聞いているが、ほんとうかしら。」 「ほんとうだそうですよ。」と、またその隣りにいる四十ぐらいの男が言った。「現にその暗声を聞いたという者が幾人もありますからね。」。 「蛙じゃないのかね。」と、山木は言った。「あの辺には大きい蛙がたくさんいるから。」 「いや、その蛙はこの頃ちっとも鳴かなくなったそうですよ。」と、第三の男は説明した。「そうして、妙な暗声がきこえる。新聞にも出ているから嘘じゃないでしょう。」 こんな対話が耳にはいったので、接待に出ている僕も口を出した。 「いや、東京の人に話すと笑われるかも知れない。」と、山木はさかずきをおいて、自分がまず笑い出した。 山木はまだ半信半疑であるらしいが、第三の男僕はもうその人の顔を忘れていたが、あとで聞くと、それは町で糸屋をしている成田という人であったは、大いにそれを信じてい るらしい。彼はいわゆる東京の人に対して、雄弁にそれを説明した。 この村はずれに小袋ケ岡というのがある。僕は故郷の歴史をよく知らないが、かの元亀天正の時代には長曽我部氏がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀吉の四国攻めの当時には、長曽我部の老臣細川源左衛門尉というのが讃岐方面を踏みしたがえて、大いに地斌勢を悩ましたと伝えられている。その源左衛門尉の部下に小袋喜平次秋忠というのがあって、それが僕の村の附近に小さい城をかまえていた。小袋ケ岡という名はそれから来たので、岡とはいっても殆んど平地も同様で、場所によってはかえって平地より窪んでいるくらいだが、ともかくも昔から岡と呼ばれていたらしい。ここへ押寄せて来たのは浮田秀家と小西行長の両軍で、小袋喜平次も必死に防戦したそうだが、何分に虹理熟敵せずというわけで、四、五日の後には落城して、喜平次秋忠は敵に生捕られて殺されたともいい、姿をかえて本国の土佐へ落ちて行ったともいう鉗、いずれにしても、ここらでかなりに激しい戦闘が行なわれたのは事実であると、故老の口碑に残っている。 ところで、その岡の中ほどに小袋明神というのがあった。かの小袋喜平次が自分の城内に祀っていた守護神で、その神体はなんであるか判らない。落城と同時に城は焼かれてしまったが、その社だけは不思議に無事であったので、そのまま保存されてやはり小袋明神として祀られていた。僕の先祖もこの明神に警稀を静懲したということが家の記録に残っているから、江戸時代までも相当に尊崇されていたらしい。それが明治の初年、ここらでは何十年振りとかいう稽水が出たときに、小袋明神もまたこの天災をのがれることは出来ないで、神社も神体もみな何処へか押流されてしまった。時はあたかも徹雌蛾溝の禁じられた時代で、祭神のはっきりしない神社は破却の運命に遭遇していたので、この小袋明神も再建を見ずして終った。その遺跡は明神跡と呼ばれて、小さい社殿の土台石などは昔ながらに残っていたが、さすがに誰も手をつける者もなかった。そこらには栗の犬木が多いので、僕たちも子供のときには落葉を拾いに行ったことを覚えている。 その小袋ケ岡にこのごろ一種の不思議が起ったと、まあこういうのだ。なんでもかの明神跡らしいあたりで不思議な暗声がきこえる。はじめは蛯だろう、臭だろうなどといっていたが、どうもそうではない。土の底から怪しい声が流れてくるらしいというので、物好きの連中がその探索に出かけて行ったが、やはり確かなことは判らない。故老の話によると、昔も時々そんな噂が伝えられて、それは明神の社殿の床下に棲んでいる大蛇の仕業であるなどという説もあった鉢、勿論、それを見定めた者もなかった。それが何十年振りかで今年また繰返される人間に対して別になんの害をなすというのでもないから、どんな暗声を出したからといっても別に問題にするには及ばない。ただ勝手に暗かして置けばいいようなものだが、人間に好奇心というものがある以上、どうもその虫まには捨て置かれないので、村の青年団が三、四人ずつ交代で探険に出かけているが、いまだにその正体を見いだすことが出来ない。その暗声も絶えずきこえるのではない。昼のあいだはもちろん鎮まり返っていて、夜も九時過ぎてからでなければ聞えない。それは明神跡を中心として、西に聞えるかと思うと、また束に聞えることもある回南にあたって聞えるかと思うと、また北にも聞えるというわけで、探険隊もその方角を聞き定めるのに迷ってしまうというのだ。 そこで、その暗声だがー聞いた者の話では、人でなく、鳥でなく、虫でなく、どう㍍鱗ぴ声らしく、その調子は、あまり高くない。なんだか地の底でむせび泣くような悲しい声で、それを聞くと一種棲槍の感をおばえるそうだ。小袋ケ岡の一件というのは大体まずこういうわけで、それがここら一円の問題となっているのだ。 o 「どうです。あなたにも判りませんか。」と、井沢は僕に訊いた。 「わかりませんな。ただ不思議というばかりです。」 僕はこう簡単に答えて逃げてしまった。実際、僕はこういう問題に対して余り興味を持っていないので、それ以上、深く探索したりする気にもなれなかったのだ。 二 あくる日、なにかの話のついでに兄にもその一件を訊いてみると、兄は無頓着らしく笑っていた。 「おれはよく知らないが、何かそんなことをいって騒いでいるようだよ。はじめは蛇か蛙のたぐいだといい、次には泉か何かだろうといい、のちには獣だろうといい、何がなんだか見当は付かないらしい。またこの頃では石鉗暗くのだろうと言い出した者もある。」 「ははあ、弛蹴珊ですね。」 「そうだ、そうだ。」と、兄はまた笑った。「夜暗石伝説とかいうのがあるというじゃないか。 ここらのもそれから考え付いたのだろうよ。」 僕の兄弟だけに、兄もこんな問題には全然無趣味であるらしく、話はそれぎりで消えてしまった。しかしその日は雨もやんで、午頃からは青い空の色がところどころに洩れて来たので、僕は午後からふらりと家を出た。ゆうべはかの法事で、夜のふけるまで働かされたのと、いくら無頓着の僕でも幾分か気疲れがしたのとで、なんだか頭が少し重いように思われたので、なんというあてもなしに雨あがりの路をあるくことになったのだ。僕の郷里は田舎にしては珍らしく路のいいところだ。まあ、その位がせめてもの取得だろう。  すこし月並になるが、子供のときに遊んだことのある森や流れや、そういう昔なじみの風景建て換えられて、よほど立派な建物になっているのも眼についた。町の方へ行こうか、岡の方へ行こうかと、途中で立ちどまって思案しているうちに、ふと思いついたのは、かの小袋ケ岡の一件だ。そこがどんな所であるかは勿論知っているが、近頃そんな問題を引起すについては、土地の様子がどんなに変っているかという事を知りたくもなったので、ついふらふらとその方面へ足を向けることになった。こうなると、僕もやはり一種の好奇心に馳られていることは翻まれないようだ。 うしろの方には小高い岡がいくつも続いているが、問題の小袋ケ岡は前にもいった通りのわけで、ほとんど平地といってもいいくらいだ。栗の林は依然として茂っている。やがて梅雨になれば、その花が一面にこぼれることを想像しながら、やや爪先あがりの細い路をたどって行くと、林のあいだから一人の若い女のすがたが現われた。だんだん近寄ると、相手は僕の顔をみて少し驚いたように挨拶した。 女は町の肥料商ゆうべこの小袋ケ岡の一件を言い出したあの山木という人の娘で、八年前に見た時にはまだ小学校へ通っていたらしかったが、高松あたりの文学校を去年卒業して、ことしはもう二十歳になるとか聞いていた。どちらかといえば大柄の、色の白い、眉の形のいい、別に取立てていうほどの容貌ではないが、こちらでは十人並として立派に通用する女で、名はお辰、当世風にいえば辰子で、本来ならばお互いにもう見忘れている時分だが、彼女にはきのうの朝も会っているので、双方同時に挨拶したわけだ。 「昨晩は父が出まして、いろいろ御馳走にあずかりましたそうで、有難うございました。」と、辰子は丁寧に礼空言った。 「いや、かえって御迷惑でしたろう。どうぞよろしく仰しゃって下さい。」 挨拶はそれぎりで別れてしまった。辰子は村の方へ降りていく。僕はこれから登っていく。 いわば双方すれ違いの挨拶に過雪ないのであったが、別れてから僕はふと考えた。あの辰子という女はなんのためにこんな所へ出て来たのか。たとい昼問にしても、町に住む人間、ことに女などに取っては用αありそうな場所ではない。あるいは世問の評判が高いので、明神跡でも窺いに来たのかとも思われるが、それならば若い女がただひとりで来そうもない。もっともこの頃の女はなかなか大胆になっているから、その暗声でも探険するつもりで、昼のうちにその場所を見定めに来たのかも知れない。そんなことをいろいろに考えながら、さらに林の奥ふかく進んで行くと、明神跡は昔よりもいっそう荒れ果てて、このごろの夏草がかなりに高く乱れているので、僕にはもう確かな見当も付かなくなってしまった。 それでも例の問題が起ってから、わざわざ踏み込んでくる人も多いとみえて、そこにもここ犬にも草の葉が踏みにじられている。その足跡をたよりにしてどうにかこうにか辿り着くと、ようように土台石らしい大きい石を一つ見いだした。そこらはまだほかにも大きい石が転がっている。中には土の中へ沈んだように埋まっているのもある。こんなのが夜暗石の目標になるの あたりは実に荒涼寂箕だ。鳥の声さえも聞えない。こんなところで夜ふけに怪しい暗声を聞かされたら、誰でも余りいい心持はしないかも知れないと、僕はまた思った。その途端にうしろの草叢をがさがさと踏み分けてくる人がある。ふり向いてみると、年のころは二十八九、まだ三十にはなるまいと思われる痩形の男で、縞の洋服を着てステッキを持っていた。お互いは見識らない人ではある越、こういう場所で双方が顔をあわせれば、なんとか言いたくなるのが人情だ。僕の方からまず声をかけた。 「随分ここらは荒れましたな。」 「どうもひどい有様です。おまけに雨あがりですから、この通りです。」と、男は自分のズボンを指さすと、膝から下は水をわたって来たように濡れていた。気が付いて見ると、僕の着物の裾もいつの問にか草の露にひたされていた。 「あなたも御探険ですか」と、僕は訊いた。 「探険というわけでもないのですが・…:。」と、男は微笑した。「あまり評判が大きいので、実地を見に来たのです。」 「なにか御発見がありましたか。」と、僕も笑いながらまた訊いた。 「いや、どうしまして……。まるで見当が付きません。」 「いったい、ほんとうでしょうか。」 「ほんとうかも知れません。」 その声が案外厳格にきこえたので、僕は思わず彼の顔をみつめると、かれは神経質らしい眼を雛めながら言った。 「わたくしも最初は全然問題にしていなかったのですが、ここへ来てみると、なんだかそんな事もありそうに思われて来ました。」 「あなたの御鑑定では、その暗声はなんだろうとお思いですか。」 「それはわかりません。なにしろその声を一度も聞いたことがないのですから。」 「なるほど。」と、僕もうなずいた。「実はわたくしも聞いたことがないのです。」 一そうですか。わたくしも魏から見であるいているのですが・もし果して石藷くとすれば・あの石らしいのです。」 かれはステッキで草むらの一方を指し示した。それは社殿の土台石よりもよ低ど前の方に横たわっている四角形の大きい石で、すこしく傾いたように土に埋められて、青すすきのかげに沈んでいた。 「どうしてそれと御鑑定が付きました。」 僕はうたがうように訊いた。最初はちっとも見当が付かないと言いながら、今になってはあの石らしいという。最初のが謙遜か、今のがでたらめか、僕にはよく判らなかった。 「どうという理屈はありません。」と、彼はまじめに答えた。「ただ、なんとなくそういう気が どうも失礼をし塞した。御免ください。」 かれは会釈して、しずかに岡を降って行った。 三 僕が家へ帰った頃には、空はすっかり青くなって、あかるい夏らしい日のひかりが庭の青葉を輝くばかりに照らしていた。法事がすむまでは毎日降りつづいて、その翌日から晴れるとは随分意地のわるい天気だ。親父の後生が悪いのか、僕たちが悪いのかと、兄もまぶしい空をながめながら笑っていた。それから兄はまたこんなことを言った。 「きょうは天気になったので、村の青年団は大挙して探険に繰出すそうだ。おまえも一緒に出かけちゃあどうだ。」 「いや、もう行って来ましたよ。明神跡もひどく荒れましたね。」 「荒れるはずだよ。ほかに仕様のないところだからね。なにしろ明神跡という名鉗付いているのだから、めったに手を着けるわけにもいかず、まあ当分は藪にして置くよりほかはあるまいよ。」と、兄はあくまでも無頓着であった。 その晩の九時ごろから果して青年団が繰出して行くらしかった。地方によっては養蚕の忙がしい時期だが、僕らの村にはあまり養蚕がはやらないので、にわか天気を幸いに大挙することになったらしい。月はないが、星の明るい夜で、離を縫って大蒙振り照らしてゆく露のひかりが狐火のように乱れて見えた。ゆうべの疲れがあるので、僕の家ではみんな早く寝てしまった。 さて、話はこれからだ。 あくる朝、僕は寝坊をしてふだんでも寝坊だが、この朝は取分けて寝坊をしてしまって、床を離れたのは午前八時過ぎで、裏手の井戸端へ行って顔を洗っていると、兄が裏口の木戸からはいって来た。 「妙な噂を聞いたから、駐在所へ行って聞き合せてみたら、まったく本当だそうだ。」 「妙な噂。…−。なんですか。」と、僕は顔をふきながら訊いた。 「どうも驚いたよ。町の中学のMという教員が小袋ケ岡で死んでいたそうだ。」と、兄もさすがに顔の色を陰らせていた。 「どうして死んだのですか。」 「それが判らない。ゆうべの九時過ぎに、青隼団が小袋ケ岡へ登って行くと、明神跡の石の上に腰をかけている男がある。洋服を着て、ただ黙って綴いているので・だんだん近寄って調べてみると、それはかの中掌教員で、からだはもう冷たくなっている。それから大騒ぎになっていろいろ介抱してみたが、どうしても生き返らないので、もう探険どころじゃあない。その死骸を町へ運ぷやら、医師を呼ぷやら、なかなかの騒ぎであったそうだが、おれの家では前夜の諦篶脳冒竈ポン”ポか弓た洋舳の男憲い出しちその年頃や人相をきいてみると、いよいよ彼によく似ているらしく思われた。 一それで、その教員はとうと嘉んでしまつたのですき。おそらく脳貧血ではな 一蔓旨しても助からなかつたそう袴その死因はよく判らない−それも いかというのだが・どうも確かなことは判らないらしい。なぜ小袋ケ岡へ行ったのカ ξ言とは判宴峯理科の教師だか多分探匿出かけたのだろうということだ。一 一死因はともか乏探険に行ったのは葵でしよえ僕はきのうその人に逢いましξ一 と、僕は言った。 きのう彼に出逢った顛末を残らず報告すると、兄もうなずいた。 一それじゃあ夜になってまた出直して行ったのだろう。ふだんから余り健康体でもなかつたそうだか乏夜露に冷えてどうかしたのかも知れない。なにしろ蓼ら沫ことを騒吋立てるもんだから・とうとうこん筆になってしまったのだ。昔ならば明神の巣りとでも、うのだろう。」、 兄は驚しそうに言った。僕も気の毒に思つた。殊にきのうその場所で出逢つた人だけにその感じがいっそう深かった。 前夜の探険は賛の死体発見騒ぎで中止されてしまつたので、今夜も続行されること塁つた。教員の死因が判明しないために、またいろいろの臆説を伝える者もあって、それがいよいよ探険隊の好奇心を煽ったらしくも見えた。僕の家からはその探険隊に加わって出た者はなかったが、ゆうべの一件が大勢の神経を刺戟して、今夜もまた何か変った出来事がありはしまいかと、年の若い雇人などは夜のふける虫で起きているといっていた。 それらには構わずに、夜の十時ごろ兄夫婦や僕はそろそろ寝支度に取りかかっていると、表は俄かにさわがしくなった。 「おや。」 兄夫婦と僕は眼を見あわせた。こうなると、もう落ち着いてはいられないので、僕が真っ先に飛び出すと、兄もつづいて出て来た。今夜も星の明るい夜で、入口はは大勢の雇人どもが何かがやがや立ち騒いでいた。 「どうした、どうした。」と、兄は声をかけた。 「山木の娘さんが死んでいたそうです。」と、雇人のひとりが答えた。 「辰子さんが死んだ−…。」と、兄もびっくりしたように叫んだ。「ど、どこで死んだのだ。」 「明神跡の石に腰かけて……。」 「むむう。」 兄は溜息をついた。僕も驚かされた。それからだんだん訊いてみると、探険隊は今夜もまた若い女の死体を発見した。女はゆうべの中学教員とおなじ場所で、しかも、同じ石に腰をかけ て烈λていた’そねか」オのむすめの辰子とおガ一一て。その麗きほゆうベレ⊥にメ書く壱一。た− か“ しかし中学教員の場合とは違って、辰子の死因は明瞭で、彼女は劇薬をのんで自殺したということがすぐに判った。 ただ判らないのは、辰子がなぜここへ来て、かの教員と同じ場所で自殺したかということで、それについてまたいろいろの想像説が伝えられた。辰子はかの教員と相思の仲であったところ、その男が突然に死んでしまったので、辰子はひどく悲観して、おなじ運命を選んだのであろうという。それが一番合理的な推測で、現に僕もあの林のなかでまず辰子に蓬い、それからあの教員に出逢ったのから考えても、個中の消息が窺われるように思われる。 しかしまた一方には教員と辰子との関係を全然否認して、いずれも個々別々の原因があるのだと主張している者もある。僕の見なぞもその一人で、僕とてもかのふたりが密会している現状を見届けたというわけではないのだから、彼等のあいだには何の連絡もなく、拾な別々に小袋ケ岡へ踏み込んだものと認められないこともない。そんなら辰子はなぜ死んだかというと、かれは山木のひとり娘で、家には相当の資産もあり、家庭も至極円満で、病気その他の事情がない限りは自殺を図りそうなはずがないというのだ。こうなると、何がなんだか判らなくなる。 さらに一つの問題は、Mという中学教員が腰をかけて死んでいた石と、辰子が腰をかけて死んでいた石とが、あたかも同じ石であったということだ。そのあたりには幾つかの石が転がっているのに、なぜ二人ともに同じ石を選んだかということが疑問の種になった。 誰の考えも同じことで、それが腰をおろすのに最も便利であったから二人ながら無意識にそれを選んだのだろうといってしまえば、別に不思議もないことになるが、どうもそれだけでは気がすまないとみえて、村の人たちは相談して遂にその石を掘り出すことになった。石が暗くという噂もある際であるから、この石を掘り起してみたらば、あるいは何かの秘密を発見するかも知れないというので、かたがたその発掘に着手することに決まったらしい。 当日は朝から曇っていたが、その噂を聞き伝えて町の方からも見物人が続々押出して来た。 村の青年団は総出で、駐在所の巡査も立会うことになった。僕も行ってみようかと思って幟叫まで出ると、あまりに混雑しては種々の妨害になるというので、岡の中途に縄張りをして、弥次馬違は現場へ近寄せないことになったと聞いたので、それでは詰まらないと引っ返した。 いよいよ発掘に取りかかる頃には細かい雨がぱらぱらと降り出して来た。まず周囲仏哉評雑草を刈って置いて、それからあの四角の石を掘り起すと、それは思ったよりも浅かったので比較的容易に土から曳き出されたが、ま沈そのそばにも何か跳の先にあたるものがあるので、更にそこを纐り下げると、小さい石の狛犬があらわれた。それだけならば別に子細もないが、その狛サ川頸の裏わりには長さ一間以上の黒い蛇がまき付いているのを見たときには、大勢も思わずあっと叫んだそうだ。 蛇はわずかに眼を動かしているばかりで、人をみて逃げようともせず、あくまでも狛犬の頸を絞め付けているらしく見えるのを、大勢の鍬やショベルで滅茶滅茶にぶち殺してしまった。 生捕りにすれ。はよガ一一たと麦とてみλを喧言一一ていたカ。その一碧到に帽誘も徳もカ仲丈カ催らしいような怖ろしいような心持になって、半分は夢中で無暗にぶち殺してしまったということだ。 狛犬が四角の台石に乗っていたことは、その大きさを見ても判る。なにかの時に狛犬はころげ落ちて土の底に埋められ、その台石だけが残っていたのであろうが、故老の中にもその狛犬の形をみた者はないというから、遠い昔にその姿を土の底に隠してしまったらしい。蛇はいつの頃から巻き付いていたのかもわからない。中学教員も辰子もこの台石に腰をかけて、狛犬の埋められている土の上を踏みながら死んだのだ。有意か無意か、そこに何かの秘密があるのか、そんなことはやはり判らない。 またその狛犬は小袋明神の社前に据え置かれたものであることはいうまでもない。しからば一匹ではあるまい。どうしても一対であるべきはずだというので、さらに近所を掘り返してみると、ようやくにしてその台石らしい物だけを発見したが、犬の形は遂にあらわれなかった。 この話を聞いて、僕はその翌日、兄と一緒に幕び小袋ケ岡へ登。ってみると、きょうは縄張りが取れているので、大勢の見物人が群集して思い思いの噂をしていた。蛇の死骸はどこへか片付けられてしまったが、かの狛犬とその台石とは掘り返されたままで元のところに横たわっていた。 「むむ、なかなかよく出来ているな。」と、兄は狛犬の精巧に出来ているのをしきりに感心して眺めていた。 それよりも僕の胸を強く打ったのは、かの四角形の台石であった。かのMという中学教員がおそらくその人であったろうと思うステッキで僕に指示して、「もし果して石が暗くとすれば、あの石らしいのです」と教えたのは、確かにかの石であったのだ。Mはそれに腰をかけて死んだ。辰子という女もそれに腰をかけて死んだ。そうして、その石のそばから蛇にまき付かれた石の狛犬があらわれた。こうなると、さすがの僕もなんだか変な心持にもなって来た。 僕はその後十日ほども滞在していた逃、かの狛犬が掘り出されてから、小袋ケ岡に怪しい暗声はきこえなくなったそうだ。 ************************************ 水鬼 A君見たところはもう四十近い紳士であるが、ひどく元気のいい学生肌の人物で、一敷 〃、礼にならわず。はなはだ失礼ではありますが……。」と、いうような前置きをした上で、すこぶる軽快な弁舌で次の、ことき怪談を説きはじめた。 僕の郷里は九州で、かの不知火の名所に近いところだ。僕の生れた町には川らしい川もないが、町から一里ほど離れた在に入ると、その村はずれには尾花川というのがある。ほんとうの名を蹄パ川というのだそうだが、土地の者はみな尾花川と呼んでいる。なぜ唐人川というのか、僕もよく知らなかったが、昔は川の堤に芒が一面に生い茂っていたというから、尾花川の名はおそらくそれから出たのだろうと思われる。もちろん大抵の田舎の川はそうだろうが、その川の堤にも昔の名残りをとどめて、今でも芒が相当に茂っているのを、僕も子供のときから知っていた。 吋ん 長い川だが、川幅は約二十間で、まず隅田川の四分の一ぐらいだろう。むかしから堤が低くい地面と水との距離がいたって近いので、ややもすると堤を越えて出水する。僕の子供のときには四年もつづいて出水したことがあった。いや、これから話そうとするのは、そんな遠い昔のことじゃあない。といって、きのう今日の出来事ではない、僕の学生時代、今から十五六年前のことだと思いたまえ。 そのころ僕は東京に出ていたのだが、その年にかぎって学校の夏休みを過ぎてもやはり郷里に残っていた。そのわけはだんだんに話すが、まず僕が夏休みで帰郷したのは忘れもしない七月の十二日で、僕の生れた町は停車場から三里余りも離れている。この頃は乗合自動車が通うようになったが、その時代にはがたくりの乗合馬車があるばかりだ。人力車もあるが、僕はさしたる荷物があるわけではなし、第一に値段がよほど違うので、停車場に降りるとすぐに乗合馬章に乗込んだ。 汽車の時間の都合がわるいので、汽車を降りたのは午後一時、ちょうど日ざかりで遣りきれないと思ったが、日の暮れるまでこんな所にぽんやりしている訳にもいかないので、汗をふき鬼な述ら乗合馬車に乗込むと、定員八人という車台のなかに僕をあわせて來客はわずかに三人、 水ふだんから乗り降りの少ないさびしい駅である上に、土地の人は人力車にも馬車にも乗らない 、、、、 ηで、みんな重い荷物を引っかついですたすた歩いて行くというふうだから、大抵の場合には馬 ヰ涌貞とレ■つこと¢右レσ。に債もカ求て寿矢してレ六カキ才κして毛一一一ノkま、昌r一k一毛迦 ぎる。しかしまあ少ない方に間違っているのは結構、殊に暑いときには至極結構だと思って、僕は楽々と一方の腰掛けを占領していると、向う側に腰をおろしているのは、僕とおなじ年頃かと思われる二十四五の男と、十九か二十歳ぐらいの若い女で、その顔付きから察するに彼等はたしかに兄妹らしく見られた。 ここで僕の注意をひいたのは、この兄妹の風俗の全然相違していることで、兄は一見して質朴な農家の青年であることを認められるにもかかわらず、妹は娼かしい派手づくりで、僕等の町でみる酌婦などよりは遥かに高等、おそらく何処かの芸妓であろうと想像されることであった。兄も妹もだまっていた。兄はときどきに振り向いて車の外をながめたりしていたが、妹は顔の色の蒼ざめた、元気のないようなふうで、始終うつむいて自分の膝の上に眼をおとしていた。僕は汽章のなかで買った大阪の新聞や地方新聞などを読んでいるうちに、馬車は停車場から町のまん中をつきぬけて、やがて村へはいって行った。前にもいう通り、僕の町へ行き着くにはこの田舎路を三里あまりもがたくって行かなければならないのだから、暑い時にはまったく難儀だ。 、、 それでも長い汽車旅行と暑さとに疲れているので、僕はそのがた馬車にゆられて新聞をよみながらいつとはなしにうとうとと眠ってしまったと思うと、不意にぐらりと激しく揺すぶられたので、はっと驚いて眼をあくと、僕のからだは腰掛けから半分ほど転げかかっている。向う側の女もあやうく転げそうになったのを、となりにいる兄貴に抱きとめられてまず無事という始末。一体どうしたのかと見まわすと、われわれの乗っている馬車馬が突然に倒れたのだ。つまり動物虐待の結果だね。稼々に物も食わせないで、この炎天に駅者の鞭で残酷に引っぱたかれるのだから助からない。馬は途中で倒れてしまったというわけだ。 駅者も困って駆者台から飛び降りた。われわれもひとまず車から出る。駅者はもちろん、かの青年も僕も手伝って、近所の農家の井戸から冷たい水を汲んで来て、馬に飲ませる、馬のからだにぶっかける。駅者は心得ているので、どこからか荒むしろのようなものを貰って来て、馬の背中に着せてやる。そんなことをして騒いでいるうちに、馬はどうにかこうにか再び起き上がったので、涼しい木のかげへ引き込んでしばらく休ませてやる。われわれも汗をふいてまずひと息つくという段になると、かの青年は俄かにあっと叫んだ。 「畜生。また逃げたか。」 誰が逃げたのかと思って見かえると、かの芸妓らしい女がいつの問にか姿をかくしたのだ。 われわれが馬の介抱に気をとられて、夢中になって騒いでいるうちに、彼女は何処へか消え失せてしまったらしい。なぜ逃げたのか、なぜ隠れたのか、僕には勿論わからなかったが、青年は一種悲痛のような顔色をみせて舌打ちした。そうして、これからどうしょうかと思案しているらしかったが、やがて駅者にむかってきいた。 「どうだね。この馬はあるけるかね。」 「すこし休ませたら大丈夫だろうと思うが…、」と、融老は考えをから…三一た、一たカこレ つもこのごろは馬鹿に足が弱くなったからね。」 再び乗り出して、また途中で倒れられては困ると僕は思った。青年もやはりその不安を感じたらしく、自分はいっそこれから歩くと言い出した。そうして、駅者と談判の結果、馬車賃の半額を取戻すことになった。まだ一里ほども来ないのに、半額では少し割が悪いと思ったが、これは災難で両損とあきらめるよりほかはない。僕も半額を受取って、カバンひとつを引っさげて歩き出すと、青年も一緒に列んで歩いて来た。こうなると僕も彼と道連れにならないわけには行かない。僕は歩きながら訊いた。 「あなたは何処までおいでです。」 「KBの村までまいります。」と、かれは丁寧に、しかもはっきりと答えた。 「じゃあ、おなじ道ですね。僕はMKの町まで帰るのです。」 こんなことからだんだんに話し合って、僕がMKの町の秋坂のせがれであるということが判ると、青年は更にその態度をあらためて、いよいよその挨拶が丁寧になった。僕の家は別に大劾というのではないが、なにしろ土地では屈指の旧家になっているので、かれも秋坂の名を知っていて、そのせがれの僕に対して相当の敬意を表することになったらしい。彼は小さい風呂敷包み一つを持っているだけで、ほとんど手ぶら同様だ。僕もカバンひとつだが、そのなかには着物が雪っしりと詰め込んであるので見るから重そうだ。かれは僕がしきりに辞退するにも かかわらず、とうとう僕のカバンをさげて行ってくれることになった。 青年はもちろん健脚らしく、僕も足の弱い方ではないが、なにしろ七月の日盛りに土の焼けた、草いきれのする田舎道をてくるのだからたまらない。ふたりは時々に木の下に休んだりして、午後五時に近い頃にようやく僕の町の姿を見ることになった。 二 東京の人たちは地方の事情をよく御存知あるまいが、僕たちの学生時代に最もうるさく感じたのは、毎年の夏休みに帰省することだ。帰省を嫌うわけではないが、帰省すると親類や知人のところへぜひ一度は顔出しをしなければならない。それも一度ですむのはまだいいが、相手によって。は二度三度、あるいは泊まって来なければならないというようなところもある。それも町のうちだけではない。隣り村へ行く、またその隣り村へ行く。甚だしいのになると、山越しをして六里も七里も行くというのだから、全くやりきれない。この時にも勿論それを繰返さなければならなかったので、七月いっぱいはほとんど忙がしく暮らしてしまった。 八月になって、まずその役目もひと通りすませて、はじめて自分のからだになったような気がしたが、毎日ただ寝ころんでいても面白くない。帰省中に勉強するつもりで、いろいろの書物をさげて来たのだが、いざとなるとやはりいつもの怠け癖が出る。といって、なにぶんにも狭い町だから遊びに行くような場所もない。いっそ釣りにでも行ってみようかと思い立って八月なかばの涼しい日に、家の釣道具を持出してかの尾花川へ魚釣りに出かけた。もちろん、日中に釣れそうもないのは判っているので、僕は昼寝から起きて顔を洗って、午後四時ごろから出かけたのだ。町から一里ほど歩いても、このごろの日はまだ暮れそうにも見えない。子供の時からたびたび来ているので、僕もこの川筋の釣り場所は大抵心得ているから、堤の芒をかきわけて適当なところに陣取って、向う岸の雌の並木が夕日にいろどられているのを眺めながら、悠々と糸を垂れはじめた。 前置きが少し長くなったが、話の本文はいよいよこれからだと思いたまえ。 子どもの時からあまり上手でもなかったが、年を取ってからいよいよ下手になったとみえて、小一時間も糸をおろしていたが一向に釣れない。すこし飽きて来て、もう浮木の方へは眼もくれず、足もとに乱れて咲いている草の花などをながめているうちに、ふと或る小さい花が水の上に漂っているのを見つけた。僕の土地ではそれを幽霊藻とか幽霊草とかいうのだ。普通の幽霊草というのは戴粥洪靭のことで、墓場などの暗い跳っぽいところに多く咲いているので、幽霊草とか幽霊花とかいう名を付けられたのだが、ここらでいう幽霊藻はまったくそれとは別種のもので、水のまにまに漂っている一種の藻のような浮き草だ。なんでも夏の初めから秋の中ごろへかけて、水の上にこの花の姿をみることが多いようだ。雪のふるをかでも咲いているというが、それはどうも嘘らしい。 なぜそれに幽霊という名を識らせたかというと、耽識はその花と葉との形から来たらしい。 花は薄白と薄むらさきの二種あって、どれもなんだか曇ったような色をしている。ことにその葉の形がよくない。細い青白い長い葉で、なんだか水のなかから手をあげて招いているようにも見える。そういうわけで、花といい、葉といい、どうも感じのよくない植物であるから、いつの代からか幽霊藻とか幽霊草とかいう忌な名を付けられたのだろうと想像されるが、それについては又こういう伝説がある。 昔、平家の美しい官女が壇ノ浦から落ちのびて、この村まで遠く迷ってくると、ひどく疲れて喉が渇いたので、堤から這い降りて川の水をすくって飲もうとする時、あやまって足をすべらせて、そのま虫水の底に吸い込まれてしまった。どうしてそれが平家の官女だということが判ったか知らないが、ともかくそういうことになっている。そうして、それから後にこの川へ浮き出したのがあの幽霊藻で、薄白い花はかの女の小袖の色、うす紫はかの女の袴の色だというのだ。官女の袴ならば緋でありそうなものだが、これは薄紫であったということだ。哀れな女のたましいを草花に宿らせたような伝説は諸国にたくさんある。これもその一例であるらしい。 卿謙就熟の柵鵜郭とは違って、この幽霊藻は毒草ではないということだ。しかしそれが毒草以上に恐れられているのは、その花が若い女の肌に触れると、その女はきっと崇られるという伝説があるからだ。したがって、男にとってはなんの関係もない、単に一種の水單に過ぎないのだが、それでも幽霊などという名が付いている以上、やはりいい心持はしないとみえて、僕たちがこの川で泳いだり釣ったりしている時に、この草の漂っているのを見つけると、それ幽霊が出たなぞと言って、人を嚇かしたり、自分が逃げたり、いろいろに騒ぎまわったものだ。 今の僕は勿論そんな子供らしい料簡にもなれなかったが、それでも幽霊藻久しぶりで見た幽霊藻それが暮れかかる水の上にぽんやりと浮かんでいるのを見つけた時に、それからそれへと少年当時の追憶が呼び起されて、僕はしばらく夢のようにその花をながめていると、耳のそばで不意にがさがさいう音がきこえたので、僕も気がついて見かえると、僕のしゃがんでいる所から三間とは離れない芒叢をかきわけて、一人の若い男が顔を出した。彼は白地の 縦部仏戦え稲を着て、麦わら帽子をかぶっていた。■ かれも僕も顔を見合せると、同時に挨拶した。 「やあ。」 若い男は僕の町の薬屋のせがれで、福岡か熊本あたりで薬剤師の免状を取って来て、自分の店で調剤もしている。その名は市野弥吉といって、やはり僕と同年のはずだ。両親もまだ達者で、小僧をひとり使って、店は相当に繁昌しているらしい。僕の小学校友達で、子どもの時には一緒にこの川へ泳ぎに来たこともたびたびある。それでもお互いに年鉗長けて、たまたまこうして顔をあわせると、両方の挨拶も自然に行儀正しくなるものだ回ことに市野は客商売であるだけに如才がない。かれは丁寧に声をかけた。 「釣りですか。」 「はあ。しかしどうも釣れませんよ。」と、僕は笑いながら答えた。 「そうでしょう、」と、彼も笑った。「近年はだんだんに釣れなくなりましたよ。しかし夜釣りをやったら、鰻が釣れましょう。どうかすると、非常に大きい鯨が引っかかることもあるんですが……」 「すずきが相変らず釣れますか。退屈しのぎに来たのだからどうでもいいようなものの、やっぱり釣れないと面白くありませんね。」 「そりゃそうですとも……。」 「あなたも釣りですか。」と、僕は訊いた。 「いいえ。」と、言ったばかりで、彼はすこしく返事に困っているらしかったが、やがてまた笑いながら言った。「虫を摘りに来たんですよ。」 「虫を−…。」 「近所の子供にもやり、自分の家にも飼おうと思って、きりぎりすを捕りに来たんです、まあ、半分は涼みがてらに……。あなたの釣りと同じことですよ。」 きりぎりすを捕るだけの目的ならば、わざわざここまで来ないでも、もっと近いところにいくらでも草原はあるはずだと僕は思った。勿論、涼みがてらというならば格別であるが、それにしても彼は虫を捕るべき何の器械をも持っていない。網も袋も籠も用意していないらしい。 すこし変だと思ったが、僕にとってはそれが大した問題でもないから、深くは気にも留めないでいると、市野は芒をかきわけて僕のそばへ近寄って来た。 「そこに浮いているのは幽霊藻じゃありませんか。」 「幽霊藻ですよ。」と、僕は水のうえを指さした。「今じゃあ怖がる者もないでしょうね。」 「ええ、われわれの子どもの時と違って、この頃じゃあ幽霊藻を怖がる者もだんだんに少なくなったようですよ。しかしほかの土地にはめったにない植物だとかいって、去年も九州大学の人たちが来てわざわざ採集して行ったようですが、それからどうしましたか。」 「これが貴重な薬草だということが発見されるといいんですがね。」と、僕は笑った。 「そうなるとしめたものですが……。」と、彼も笑った。 それからふた言…冒話しているうちに、彼はにわかに気がついたようにうしろを見かえった。 「いや、どうもお妨げをしました。まあ、たくさんお釣りなさい。」 市野は低い堤をあがって行った。水の上はまだ明るい担、芭の多い堤の上はもう薄暗く暮れかかっている。僕は何心なく見かえると、その芒の葉述くれに二つの白い影がみえた。ひとつは市野に相違なかったが、もう一つの白い影は誰だか判らない。しかしそれ鉢女であることは、うしろ姿でもたしかに判った。 虫を捕りに来たなどというのは嘘の皮で、市野はここで女を待合せていたのかと、僕はひとりでほほえんだ。それと同時に、このあいだ乗合馬車から姿をかくしたあの芸妓のことがふと僕のあたまに浮かんだ。夕方のうす暗いときに、ただそのうしろ姿を遠目に見ただけで、市罫の相手がどんな女であるか、もちろん判ろうはずはないのだが、不思議にその女があの芸妓らしく思われてならなかった。なぜそう思われたのか、それは僕自身にも判らない。 市野は別に親友というのでもないから、彼がどんな女にどんな関係があろうとも、僕にとっては何でもないことであるが、相手の女が果してあの芸妓であるとすると、僕はすこし考えなければならなかった。。 三 このあいだ僕が道連れになった青年は、この川沿いのKB村の勝田良次という男で、本来は農家であるが、店では少しばかりの荒物を売り、その傍らには店のさきに二脚低どの床几をならべて、駄菓子や果物やパンなどを食わせる休み茶屋のようなこともしているのだ。 「いっそ農一方でやっていく方がいいのです卸、祖父の代から荒物屋だの休み茶屋だの、いろいろの片商売をはじめたので、今さら止めるわけにも行かず、却ってうるさくて困ります。それがために妹までが録でもない者になってしまいました。」と、かれは僕のカバンをさげて歩きながら話した。 店でいろいろの商売をしているので、妹のおむつは小学校に通っている頃から、店の手伝いをして荒物を売ったり、客に茶を出したりしているうちに、誰かにそそのかされたとみえて、十四の秋になって何処へか奉公に出たいと言い出した。勝田の家は母のお種と総領の良次、妹のおむつと弟の達三の四人ぐらしで、良次と達三は田や畑の方を働き、店の方はお種とおむつが受持っているのであるから、ひとりでも人が欠けては手不足を感じるので、母も兄弟もおむつを外へ出すことを好まなかった。家じゅうが総反対で、とても自分の目的は達せられないと見て、おむつは無断で姿をかくした。 「そのときは心配しましたよ。」と、良次は今更のように嘆息した。「それから手分けをして、妹の行くえを探しましたが、なかなか知れません。とうとう警察の手をかりて、その翌年の三月になって、初めて妹の居どころが判ったのですが・・…・。妹は熊本に近いある町の料理屋へ酌婦に住み込んでいたのです。わたくしはすぐに駈けつけて、その前借金を償って、一旦実家へ連れて帰ったのですが、ふた月三月はおとなしくしているかと思うとまた飛び出す。その都度に探して歩く。連れて帰る。そんなことがたびたび重なるので、母もわたくしももう諦めてしまって、どうとも勝手にしろと打っちやって置くと、五年あまりも音信不通で、どこにどうしているかよく判りませんでした。 それが今年の六月の末になって、突然に手紙をよこしまして、自分は門司に芸妓をしているが、この頃はからだが悪くて困るから、しばらく実家へ帰って養生をしたいと思う。ついては兄さんかおっ母さんが出て来て、抱え主にそのわけを話してもらいたいというのです。からだが悪いと聞いてはそのままにもしておかれないので、母とも相談の上で、今度はわたくしが門 司まで出かけて行きまして、抱え主にもいろいろ交渉して、ともかくもひとまず妹を連れてくることにして、きょうこの停車場へ着いて、あなたと同じ馬車で帰る途中、御承知の通りの始末で、どこへか消えてしまったのです。実に仕様のない奴で、親泣かせ、兄弟泣かせ、なんともお話になりません。家にいたときは三味線の持ちようも知らない奴でしたが、方々を流れあるいているうちに、どこでどう習ったのか、今では曲りなりにも芸妓をして、昔とはまるで変った人間になっているのです。」 それにしても、ここまで自分と一緒に帰って来て、なぜ再び姿を隠したのか、その理屈がわからないと良次は言った。僕にもちょっと想像が付かなかった。そのうちに僕の町へ行き着いたので、僕はカバンを持ってくれた礼をいって、気の毒な兄と別れた。 その後、その妹はどうしたか、僕も深く詮議するほどの興味を持たなかったので、ついそのまま過ぎていたのだが、いま偶然にその人らしい姿を見つけて、しかもそれが市野と連れ立って行くのをみたので、僕もすこし考えさせられた。 しかし、わざわざ彼等のあとを尾けて行って、それを確かめる程の好奇心も湧き出さなかったので、僕は再び水の方に向き直って自分の鉤りに取りかかったが、市罫の言ったような大きいすずきは勿論のこと、小ざかな一匹もかからないので、僕ももう忍耐力をうしなった。 「帰ろう、帰ろう。つまらない。」 ひとりごとを言いながら釣道具をしまった。宵闇の長い堤をぶらぶら戻ってくると、僕をじらすように大きい魚の跳ねあがる音が暗い水の上で幾たびかきこえた。そこらの草のなかには虫の声が一面にきこえる。東京はまだ土用が明けたばかりであろうが、ここらは南の国といってもやはり秋が早く来ると思いながら、からっぽうの魚龍をさげて帰った。いや、帰ったといっても、ようよう半道ばかりで、その辺から川筋はよほど曲っていくので、僕は堤の芒にわかれを告げて、堤下の路を真っ直ぐにあるき出すと、暗いなかから幽霊のようにふらふらと現われたものがある。思わず立ちどまって窺ってみると、この暗やみでどうして判ったのか知らないが、その人は低い声で言った。 「秋坂さんじゃございませんか。」 それは若い女の声であった。 尾花川の堤にはときどきに狐が出るなどというが、まさかそうでもあるまいと鋲象をくくって、僕は大胆に答えた。 「そうです。僕は秋坂です。」 幽霊か狐のような女は、僕のそばへ近寄って来た。 「先日はどうも失礼をいたしました。」 暗いなかで顔かたちはわからないが、僕ももう大抵の鑑定は付いた。 「あなたは勝田の妹さんですか。」 「そうでございます。」 果して彼女は勝田良次の妹の芸妓であった。と思う間もなく、女はまた言った。 「あなたはこれから町の方へお帰りでございますか。」 「はあ。これから家へ帰ります。」 「では、御一緒にお供させていただけますまいか。わたくしも町の方まで参りたいのですが。」 と、女は僕の方へいよいよ摺り寄って来た。 いやだともいえないのと、この女から何かの秘密を聞き出してやりたいというようを興味もまじって、僕は彼女と列んで歩き出した。 「あなたは前から市野さんを御存じですか。」と、女は訊いた。 市罫と一緒にあるいていたのは、この女であったことがいよいよ確かめられた。それからだんだん話してみると、この女も芒のかげに忍んでいて、市野と僕との会話をぬすみ聞いていたらしかった。そうして、僕が秋坂という人間であることを市野の口から教えられたらしかった。 さもなければ、彼女が僕の名を知っているはずがない。いずれにしても、僕は子どもの時から市野を知っていると正直に答えた。しかし自分は近年東京に出ていて、彼と一年に一度会うぐらいのことであるから、その近状についてはなんにも知らないと、あらかじめ一種の予防線を張っておいた。 「今夜もこれから市野君のところへ行くんですか。」と、僕は空とばけて訊いた。 「実はもう少し前まで一緒にいたんですが……。もう今頃は死んでしまったでしょう。」 僕もおどろいた。なにぶんにも暗いので、彼女がどんな顔をしているか、どんな姿をしているか、もちろん判断は付かないのであるが、平気でそんなことを言っているのを見ると、おそ らく発狂でもしているのではないかと疑っていると、相手はまた冷やかに言った。 「わたくしはこれから警察へ行くんですよ。」 「なにしに行くんです。」 「だって、あなた。人間ひとりを殺して平気でもいられますまい。」 相手もおちついているだけに、僕はだんだんに薄気味わるくなって来た。どうしてもこの女は気違いらしい。不意に白い歯をむき出して僕に飛びかかってくるようなことがないとも限らないと思ったが、今さら逃げ出すことも出来ないので、僕はよほど警戒しながら一緒にあるいた。こう言ったら、臆病とか弱虫だと笑うかも知れないが、人通りの絶えた田舎路をこんな女 と道連れになって行くのは決して愉快なものではない。せめて月明かりでもあるといいのだが、あいにくに今夜は闇だ。 「じゃあ、あなたはほんとうに市野君を殺したんですか。」と、僕は念を押して訊いてみた。 血みそo 「剃刀で喉を突いて、川のなかへ突き落したんですから、たしかに死んでいると思います。わたくしはこれから警察へ自首しに行くんです。」 「冗談でしょう。」と、僕は大いに勇気を出したつもりで、わざとらしく笑った。 「知らないかたは冗談だと仰しゃるかも知れませんけれど、それが冗談かほんとうか、あしたになれば判ります。わたくしは市野という男を殺すために、今度故郷へ帰ってくるようになったのかも知れません。」 僕は又ぎょっとした。 「あなたはなんにも御存じないでしょうから、だしぬけにこんなことを言うと、定めて冗談か、それとも気でも違っているかとお思いなさるでしょうが…・:。」と、相手はこっちの肚のなかを見透したようにまた言った。「けれども、それはほんとうのことなんです。このあいだ、兄と一緒にお帰りになったそうですが、そのときに兄がわたくしのことについて、なにかお話をしましたか。」 「はあ、少しばかり聞きました。あなたは門司の方に行っていたそうで−−。」と、僕も正直に答えた。 女はすこし考えているらしかったが、やがてまたしずかに話し出した。 「あの市野という男は、わたくしに取っては一生のかたきなんです。殺すのも無理はないでしよう。」 僕はだまって聞いていた。 路ばたの草むらから蛍が一匹とび出して、どこへか消えるように流れて行った。ここらの蛍は大きい。それでも秋の影のうすく痩せているのが寂しくみえるので、僕もなんだか薄暗いような心持で見送っていると、女もその蛍のゆくえをじっと眺めているらしかった。 「なんだか人魂のようですね。」と、女は言った。そうして、また歩きながら話しつづけた。 「兄からお聞きになっているなら、大抵のことはもう御承知でしょうが、わたくしは今年二十歳ですから、あしかけ七年前、わたくしが十四の歳でした。市野さんはこの川へたびたび釣りに来て、その途中わたくしの店へ寄って煙草やマッチなんぞを買って行くことがありました。 時々には床几に休んで、梨や典熱卿なんぞを食べて行くこともありました。そのころ市野さんは十九でしたが、わたくしは十四の小娘でまだ色気も何もありゃあしません。唯たびたび逢っているので、自然おた鉗いが懇意になっていたというだけのことでしたが、ある日のこと、やっぱり今時分でした。市野さんが釣りの帰りにいつもの通りわたくしの店へ寄って、お茶を飲んだり塩煎餅をたべたりした時に、わたくしが何ごころなく傍へ行って、きょうはたくさん釣れましたかと聞くと、市野さんは笑いながら、いや今日は不思議になんにも釣れなかった。この通り鮮瀞は饗だが、しかしこんなものを取って来たといって、魚籠のなかから何か草のようなものを掴み出してみせたので、わたくしもうっかり覗いてみますと、それは川に浮いている幽霊藻なんです。あなたも御存知でしょう、幽霊藻を……。」 「幽霊藻…:。知っています。」と僕は暗いなかでうなずいた。 「あらいやだと思って、わたくしは思わず身をひこうとすると、市罫さんは冗談半分でしょう、 そら幽霊が取り付くぞと言って、その草をわたくしの胸へ押し込んだのです。暑い時分で、単鵡の胸をはだけていたので、ぬれている藻がふところに滑り込んで・乳のあたりにぬらりとねばり付くと、わたくしは冷たいのと気味が悪いのとでぞっとしました。市野さんは面白そうに笑っていましたが、悪いたずらにも程があると思って、わたくしは腹が立ってなりませんでした。市野さんが帰ったあとで、わたくしは腹の立つのを通り越して、急に悲しくなって来て、床几に腰をかけたまま涙ぐんでいると、外から帰って来た母が見つけて、どうして泣いている、誰かと喧嘩をしたのかとしきりに訊きましたけれども、わたくしはなんにも言いませんでした。 それはまあそれですんでしまったんですが、わたくしはどうも気になってなりません。幽霊藻が女の肌に触れると、きつとその女に崇るということを考えると、おそろしいような悲しいような−…。いっそ早くそれを母や兄にでも打明けてしまった方がよかったんでしょうが、それを言うのさえ何だか怖いような気がしたもんですから、誰にも言わないでひとりで考えているだけでした。 あとでそれを市野さんに話しますと、それはお前の神経のせいだと笑っていましたげれど、その晩わたくしは怖い夢をみたんです。わたくしの寝ている枕もとへ、白い着物をきて紫の袴をはいた美しい官女が坐って、わたくしの寝顔をじっと覗いているので、わたくしは声も出せ鬼ないほどに怖くなって、一生懸命に蒲団にしがみ付いているかと思うと眼がさめて、頸のまわ水りから身体じゅうが汗びっしょりになっていました。あくる朝はなんだか頭が重くって、から蝸だが辮るようで、なんとも言えないような融な気持でしたが、別に寝るほどのことでもないので、やっぱり我慢して店に出てい浅した。さあ、それからがお話なんです。よく聞いてください。」 わかい女が幽霊藻の伝説に囚われて、そんな夢に襲われたというのは、不思議のようで不思議でない。むしろ当り前の事かも知れないと、僕は思った。しかしそれからこの事件がどう発展するかということに興味をひかれて、僕も熱心に耳をかたむけていると、女はひと息ついてまた語り出した。 「ところが、どういうわけか知りませんが、きょうに限って市野さんの来るのが待たれるような気がしてならないんです。逢ってきのうの恨みを言おうというわけでもなく、ただ何となしに市野さんが待たれるようを気がする。それがなぜだか自分にもよく判らないんですが、なにしろ市野さんが早く来ればいいと思っていると、その日はとうとう見えませんでした。わたくしはなんだか焦らされているような気がして、妙にいらいらして、その晩はおちおち寝付かれなかったもんですから、そのあしたになると、頭がなおさら重いような、そのくせにやっぱりいらいらして、きょうも市野さんの来るのを待っていたんです。すると、その日も市野さんは来てくれないので、わたくしはいよいよ焦れったくなって、いても立ってもいられないような心持になってしまいました。 今考えると、まったく夢のようです。日が暮れて行水を使って、夕御飯をたべてしまって、店の先にばんやり突っ立っているうちに、ふと胸に浮かんだのは、もしや市野さんが夜釣りに来ていやあしないかということで、おととい来たときにどうも近頃は暑いから当分は夜釣りにしようかと言っていたから、もしや今頃出かけて来ているかも知れない。そう思うと糸に引かれたように、わたくしは急にふらふらと歩き出して、川の堤の上まで行ってみると、その晩も今夜のように真っ暗で、たった一人、芭のをかに小さい提灯をつけている夜釣りの人がみえたので、そっと抜足をして近寄ってみると、それはまるで人ちがいのお爺さんなので、わたくしは無暗に腹が立って、いっそ石でもほうり込んで驚かしてやろうかとも思ったくらいでした。 仕方がないから、またばんやりと引っ返してくると、堤のなかほどでまたひとつの火がみえました。今度のは巡査が持っているような角燈で、だんだんに両方が近寄ると、片手にその火を持って、片手は長い釣竿を持っているのは……。たしかに市野さんだと判ったときに、わたくしは夢中で駈けて行って、だしぬけに市野さんに抱きついて、その胸のあたりに顔を押し付けて、子供のようにしくしく泣き出しました。なぜ泣いたのか、それは自分にも判りません。 唯なんだか悲しいような気持になったんです。」 「その晩おそくなって、わたくしは家へ帰りました。」と、女は言った。「今頃までどこを遊びあるいていたと、母や兄から叱られましたが、わたくしはなんにも言いませんでした。とても鬼正直に言えることじゃあないからです。それから一日置き、二日おきぐらいに、日が暮れてか水ら川端へ忍んで行きますと、いつでも約束通りに市野さんが来ていました。こうして、たびた仰び逢っているうちに、母や兄がわたくしの夜遊びをやかましく言い出して、一体どこへ出かけて行くのだと詮議するので、しょせん自分の家にいては思うように逢うことが出来ないから、いっそ何処へか奉公に出ようと思ったんですが、それも母や兄が承知してくれないので、市野さんと相談の上でわたくしはとうとう無断で家を飛び出してしまいました。 といって、市野さんもまだ親がかりの身の上で、わたくしを引取ってくれるというわけにもいかないのは判り切っていますから、そのときに三十円ばかりのお金を受取ったんですが、世話をしてくれた人の礼金に十円ほど取られて、残りの二十円を市野さんとわたくしとで二つ分けにしました。初めの約束では少なくも月に五、六度ぐらいは逢いに来てくれるはずでしたが、市野さんは大嘘つきで、その後ただの一度も顔をみせないという始末。おまけにその茶屋というのが料理は付けたりで、まるで淫売宿みたいな家ですから、その辛いことお話になりません。 ひと思いに死んでしまおうと思ったこともありましたが、やっぱり市野さんに未練があるので、そのうちには来てくれるかと、頼みにもならないことを頼みにして、ともかくもあくる年の三月ごろまで辛抱していると、家の方からは警察へ捜索願いを出したもん。ですから、とうとうわたくしの居どころが知れてしまって、兄がすぐに奉公先へたずねて来て、わたくしを連れて帰ってくれました。 それでわたくしも辛い奉公が助かり、恋しい市野さんの家のそばへ帰ることも出来ると思って、一旦はよろこんでいたんですが、帰ってみるとどうでしょう。わたくしのい一ないあいだに市野さんは自分の家を出て、福岡とかの薬学校へはいってしまったということで、わたくしも実にがっかりし蒙した。そんならせめて郵便の一本もよこして、こうこういうわけで遠方へ行くぐらいのことは知らしてくれてもいいじゃありませんか。ずいぶん薄情な人もあるものだと、わたくしも呆れてしまう程に腹が立ちました。なんばこっちが小娘だからといって、あんまり人を馬鹿にしていると、ほんとうにくやしくってなりませんでした、ねえ、あなた、無理もないでしよう。」 少女をもてあそんで、さらにそれをあいまい茶屋へ売り飛ばして、素知らぬ顔で遠いところへ立去ってしまうなどは、まったく怪しからぬことに相違ない。市野にそんな古漉のあることを僕は今までちっとも知らなかったが、彼の所業に対してこの女が憤慨するのは無理もないと思った。 「市野はそんなことをやったんですか、おどろきましたね。まったく不都合です。」と、僕も同感するように言った。 「わたくしもその時には実にくやしかったんです。けれども、家へ帰って十日半月と落ち着いているうちにわたくしの気もだんだんに落ち着いて来て、あんな男にだまされたのは自分の浅慮から起ったことで、今更なんと思っても仕様がない。あんな男のことは思い切って、これか鬼ら自分の家でおとなしく働きましょうと、すっかり料簡を入れかえて、以前の通りに店の手伝水いをしていると、ある晩のことです。わたくしはまた怖い夢をみたんです。 ωちょうど去年の夢と同じように、白い着物をきて紫の袴をはいた官女がわたくしの枕もとへ来て、寝顔をじっとのぞいている。その夢がさめると汗びっしょりになっている。そのあしたは頭が重い。すべて前の時とおなじことで、自分でも不思議なくらいに市野さんが恋しくなりました。一旦思い切った人がどうしてまたそんなに恋しくをったのか、自分にもその理屈は判らないんですが、ただむやみに恋しくなって、もう矢も楯もたまらなくなってとうとう福岡まで市野さんをたずねて行く気になったんです。飛んだ朝顔ですね。そこで、あと先の分別もなしに町の停車場まで駈けつけましたが、さて気がついてみると汽車賃が凄い。今さら途方にくれてうろうろしていると、そこに居あわせた商人風の男がわたくしに馴れなれしく声をかけて、いろいろのことを親切そうに訊きますので、苦労はしてもまだ十五のわたくしですから、うっかり相手に釣り込家れて、これから福岡まで行きたいのだが汽車賃をわすれて来たという話を すると、その男はひどく気の毒そうな顔をして、それは定めてお困りだろう。実はわたしも福岡まで行くのだから、一緒に切符を買ってあげようといって、わたくしを汽車に乗せてくれました。 わたくしは馬鹿ですからいい気になって連れられて行くと、汽車がある停車場に停まって、その男がここで降りるのだという。福岡にしては何だか近過ぎるようだと思いながら、そのまま一緒に汽車を出ると、男は人力車を呼んで来て、わたくしを町はずれの薄暗い料理屋へ連れ込みました。 去年の覚えがあるので、あっと思いましたがもう仕方がありません。福岡というのは嘘で、福岡まではまだ半分も行かない途中の小さい町で、ここも案の通りのあいまい茶屋でした。おどろいて逃げ出そうとすると、そんなら汽車賃と車代を返して行けという。どうにもこうにも仕様がないので、とうとうまたここで辛い奉公をすることになってしまいました。それでもあんまり辛いので、三月ほど経ってから兄のところへ知らせてやると、兄がまたすぐに迎いに来てくれました。」 女の話はなかなか長いが、おなじようなことを幾度も繰返すのもうるさいから、かいつまんでその筋道を紹介すると、女は再び故郷の村へ帰って、今度こそは辛抱する気で落ちついていると、また例の官女が枕もとへ出てくる。そうすると無暗に市野鉗恋しくなる。我慢が仕切れなくなってまた飛び出すと、途中でまた悪い奴に出逢って、暗い魔窟へ投げ込まれる。そういうことがたび重なって、しまいには兄の方でも尋ねて来ない。こっちからも便りをしない。音僑不通で幾年を送るあいだに、女は流れ流れて門司の芸妓になった。 あいまい茶屋の女が、ともかくも芸妓になったのだから、彼女としては幾らか浮かび上がったわけだが、そのうちに彼女は悪い病いにかかった。一種の軽い花柳病だと思っているうちに、だんだんにそれが重ってくるらしいので、抱え主もかれに勧め、彼女自身もそう思って、久しぶりで兄のところへ便りをすると、兄の良次はまた迎いに来てくれた。そうして抱え主も承知の上で、ひとまず実家へ帰って養生することになって、七月の十二日に六年ぶりで故郷に近い停車場に着いた。 52 ************************************ 僕とおなじ馬車に乗込んだのはその時のことで、それは前にも言った通りだ。 五 その後のことについて、おむつという女はこう説明レた。 「御存じの通り、途中で馬車の馬が倒れて、あなた方がその介抱をしているうちに、わたくしはどこへか姿を隠してしまいましたが、あれは初めから螢んだことでも何でもないので、わたくしは勿論、兄と一緒に帰るつもりだったんです。ところ述、途中まで来ると、路ばたの百娃家に腰をかけて何か話している人がある。それが確かに市野さんに相違ないんです。十四のときに別れたぎリですけれど、わたくしの方じゃあ決して忘れやあしません。罵車の窓からそれを見て、わたくしがぬひと思う途端に、まあ不恩議ですね、馬車の馬が急に膝を折って倒れてしまいました。 それからみんなが騒いでいるうちに、わたくしはそっと抜けて行って、だしぬけに市野さんの前に顔を出すと、こっちの姿がまるで変っているので、男の方じゃあすぐには判らなかったらしいんですが、それでもようように気がついて、これは久し振りだということになりました。 けれども、こんなところを兄に見付けられてはいけないというので、市罫さんはわたくしを引っ張って、その家の裏手の方へまわると、そこには唐もろこしの畑があるので、その唐もろこしの蔭にかくれてしばらく立ち話をしているうちに、馬の方の型が付いて、あなたと兄は歩き出したので、それをやり過ごして、わたくし共はあとからゆっくり帰って来たんです。 その途中で、市野さんといろいろ話し合いましたが、あの人はその後に薬学校を卒業して、薬剤師の免状を取って、自分の家へ帰って立派に商売をしているそうで、昔の事をひどく後悔していると言って、しきりに言い訳をしたり、あやまったりするので、過ぎ去ったことを今さら執念ぶかく言っても仕方がないと思って、わたくしももう堰忍してやることにしました。市野さんはわたくしの病気を気の毒がって、それも昔にさかのばれぱやっぱり自分から起ったことだと言って、わたくしが家へ帰っているあいだは幾らかの小遣いを送ってくれるように言っていました。 それでその時は無事に別れて、わたくしは見よりもひと足おくれて家へ帰りましたが、わたくしの病気は重いといっても、ずっと寝ているようなわけでもないので、あくる朝、久し振りに川の堤へあがって、芒のなかをぶらぶら歩いていると、足もとに近い水の上に薄白と薄むらさきの小さい花がほんやりと浮いて流れているのが眼につきました。幽霊藻が相変らず咲いていると思うと、不思議にそれが懐かしいような気になって、そこらに落ちている木の枝を拾って、その藻をすくいあげて、まあどういう料簡でしょう、その濡れた草を自分のふところへ押し込んだのです。ちょうど七年前に、市野さんがわたくしの懐ろへ押し込んだように…・:。その濡れて冷たいのが、きょうは肌にひやりとして、ひどくいい心持なので、わたくしは着物の上から暫くしっかりと抱きしめているうちに、また急に市野さんが恋しくなって来ました。 前にも申す通り、わたくしは所々方々を流れ渡っている間、一度も市野さんに蓬ったこともなく、今度帰って来たからといって、再び撚りを戻そうなぞという料簡はなかったんですが、この幽霊藻を抱いているうちに、又むらむらと気旭変って、すぐに町まで行きました。そうして、市野さんを表へ呼び出すと、市野さんは迷惑そうな顔をして出て来まして、お前のような女がたずねて来ては、両親の手前、近所の手前、わたしが甚だ困るから、用があるなら私の方から出かけて行くと言うんです。では、今夜の七時ごろまでに尾花川の堤まで来てくれと約束して別れて、その時刻に行ってみますと、約束通りに市野さんは来ていました。向うではわたくしがお金の催促にでも行ったと思ったらしく、当座のお小遣いにしろといって十五円くれましたので、わたくしはそれを押し戻して、お金なんぞは一文もいらないから、どうぞ元々通りになってくれと言いますと、市野さんはいよいよ迷惑そうな顔をして、なんともはっきりした返事をして聞かせないんです。 それでその晩はうやむやに別れてしまったんですが、わたくしの方ではどうしても諦められないので、一日置きに町の病院まで通って行くのを幸いに、その都度きっと市野さんの店へたずねて行って、男を表へよび出して、どうしても元々通りになってくれとうるさく責めるので、市野さんもよくよく持て余したとみえて、今夜も尾花川の堤へ来て、いよいよ何とか相談をきめるということになりました。 日の暮れるのを待ちかねて、わたくしは堤の芒をかきわけて行くと、あなたが先に来て釣りをしておいでなさる。そこがいつも市野さんと逢う場所なので、よんどころなく芭のかげにかくれて、市野さんの来る岩待つていると、やがてやって来て、しばらくあなたと話しているので、わたくしも焦れつたくなつて募かげから顔を出すと、市野さんも気がついて・いい加減にあなたに挨拶して別れて、わたくしと一緒に川下の方へ行くことにな呈しち喝さんはお前がそれほどに言うならば、元・通是なってもいい。いっそ両親にわけを話して表向きに結婚してもいい。しかし今のように病院通いの身の上では困る。事その悪い病気を癒してしまつた上でなければ、どうにもならない。ついては、おまえの病毒は普通の注射ぐらいでは癒らない。わたしが多年研究している秘密の薬剤があって・それを飲めばきっと癒るから、ふた月ほども続けて飲んでくれないかと言うんです。 わたくしはす篶ほ知して、ええ、そん塞があるならば飲みましょうと一一一うと・市野さんは挟から小さい粉薬の雲出して、これは秘密の薬だから決して人に見せてはいけない・飲んでしまつたら空雲川のなかへほうり込んでしまえといえその様子萎んだか怪しいので・吋たくしは片手で男の袖をしつかり掴んで、あなた、ほんとうにこの薬を飲んでもいいんですカ巻を押すと、市野さんはすこしふるえ声になって、なぜそんなことを訊くのだと言います 鬼から、わたくしは掘唯いる男の袖を強く引っ張って、あミこれは毒薬でしょうと言つと・水市野さんはいよいよ懐え出して、もうなんにも口が利けないんです。 55今夜こそは最後の談判で、相手の返事次第でこっちにも覚悟があると、わたくしは家を出るときから帯のあいだに剃刀を忍ばせていましたので、畜生とただひとこと言ったばかりで、いきなりにその剃刀で男の頸筋から喉へかけて力まかせに斬り付けると、相手はなんにも言わずに、ぐったりと倒れてレまいました目それでもまだ不安心ですから、そのからだを押し転がして、川のなかへ突き落して置いて、自分もあとから続いて飛び込もうと思いましたが、また急に考え直して、町の警察へ自首するつもりで暗い路をひとりで行く途中、ちょうどあなたにお目にかかったんです。飛んだ道連れになって、さだめし御迷惑でございましょうが、実は警察がどの辺にあるか存じませんので、あなたに御案内を願いたいのでございます。」 女の話はまずこれで終った。 実際、僕も迷惑を感じないでもなかったが、さりとて冷やかに拒絶するにも忍びないような気がしたので、素直に承知して警察まで一緒に行くことになった。その途中で女は又こんなことを言った。 「ゆうべも、いつもの官女が枕もとへ来ました。」 、、 水中の幽鬼の影が女のうしろに付き纏っているようにも思われて、気の弱い僕はまたぞっとした。 尾花川堤の人殺しは、狭い町の大評判にをった。殊にその加書者述芸妓というのだから、その噂はいよいよ高くなった。その当夜、現場で被害者に出逢ったのは僕ひとりで、また一方には加害者を警察まで送って来た関係もあるので、僕は唯一の参考人として警察へも幾たびか呼び出された。予審判事の取調べも受けた。そんなわけで、九月の学期が始まる頃になっても、僕は上京を延引しなければならないことになった。 十月になって、僕はいよいよ上京したが、彼女の裁判はまだ決定しなかった。あとで聞くと、あくる年の四月になって、刑の執行猶予を申渡されて、無事に出獄したそうだ。裁判所の方でもいろいろの情状を酌量されたらしい。 しかし彼女は無事ではなかった。家へ帰るころには例の病いがだんだん重くなって、それからふた月ほどもどっと床に着いていたが、六月末の雨のふる晩に寝床を這い出して、尾花川の堤から身を投げてしまった。人殺しの罪を償うためか、それとも病苦に堪えないためか、それらを説明するような書置なども残してなかった。 あくる日、その死体は川しもで発見されたが、ここに伝説信仰者のたましいをおびやかしたことがある。その死体にはかの幽霊藻が一面にからみ付いて、さながら網にかかった魚のように見えたということだ。 ************************************ 57水鬼 肥 ************************************ ていし中ばしようuよ 停車場の少女 ************************************ 畠ぼしo 「こんなことを申しますと、なんだか脇らしいように恩召すかも知れませんが、これはほんと うの事で、わたくしが現在出会ったのでございますから、どうかその思召しでお聞きくださ い。」 Mの奥さんはこういう前置きをして、次の話をはじめた。奥さんはもう三人の子持ちで、そ の話は奥さんがまだ文学校時代の若い頃の出来事だそうである。 ************************************ まったくあの頃はまだ若うございました。今考えますと、よくあんなお轍数が出来たものだ と、自分ながら果れ返るくらいでございます。しかしまた考えて見ますと、今ではこんなお転 婆も出来ず、またそんな元気もないのが、なんだか寂しいようにも思われます。そのお転婆の 若い盛りに、あとにも先にもたった一度、わたくしは不思議なことに出逢いました。そればか どo りは今でも判りません。勿論、わたくし共のような頭の古いものには不思議のように思われま しても、今の若い方たちには立派に解釈がついていらっしゃるかも知れません。したがって ************************************ 59停車場の少女 ************************************ 「あり紳べからざる事」などという不思議な出来事ではないかも知れませんが、前にも申上げ ました通り、わたくし自身が現在立会ったのでございますから、嘘や作り話でないことだけは、 確かにお受け合い申します。 日露戦争が済んでから間もない頃でございました。水沢さんの継子さんが、金曜日の晩にわ たくしの宅へおいでになりまして、あさっての日曜日に湯河原へ行かないかと誘って下すった のでございます。継子さんのお兄さんは陸軍中尉で、奉天の戦いで負傷して、しばらく野戦病 院にはいっていたのですが、それから内地へ後送されて、やはりしばらく入院していましたが、 それでも負傷はすっかり癒って二月のはじめ頃から湯河原へ転地しているので、学校の試験休 みのあいだに一度お見舞に行きたいと、継子さんはかねがね言っていたのですが、いよいよあ さっての日曜日に、それを実行することになって、ふだんから仲のいいわたくしを誘って下す ったというわけでございます。とても日帰りというわけにはいきませんので、先方に二晩泊ま って、火曜日の朝帰って来るということでしたが、修学旅行以外にはめったに外泊したことの ないわたくしですから、ともかくも両親に相談した上で御返事をすることにして、その日は継 子さんと別れました。 それから両親に相談いたしますと、おまえが行きたければ行ってもいいと、親たちもこころよく承知してくれました。わたくしは例のお転婆でございますから、大よろこびで直ぐに行くことにきめまして、継子さんとも改めて打合せた上で、日曜日の午前の汽車で新橋を発ちました。御承知の通りその頃はまだ東京駅はございませんでした。継子さんは熱海へも湯河原へも旅行した経験があるので、わたくしは唯おとなしくお供をして行けばいいのでした。 お供といって、別に謙遜の意味でも何でもございません。まったく文字通りのお供に相違ないのでございます。というのは、水沢継子さんのお兄さん継子さんもそう言っていますし、わたくし共もやはりそう言っていましたけれど、実はほんとうの兄さんではない、継子さんとは従兄妹(いと,」)同士で、ゆくゆくは結婚なさるという事をわたくしもかねて知っていたのでございます。そのお兄さんのところへ尋ねて行く継子さんはどんなに楽しいことでしょう。それに付いて行くわたくしは、どうしてもお供という形でございます。いえ、別に燃熾を焼くわけではございませんが、正直のところ、まあそんな感じがないでもありません。けれども、また一方にはふだんから仲のいい継子さんと一緒に、たとい一日でも二日でも春の温泉場へ遊びに行くという事がわたくしを楽しませたに相違ありません。 ことにその日は二月下旬の長閑(のど小)な日で、新橋を出ると、もうすぐに汽車の窓から春の海が広々とながめられます。わたくし共の若い心はなんとなく浮き立って来ました。国府津(こうづ)へ着くまでのあいだも、途中の山や川の景色がどんなに私どもの眼や心を楽しませたか知れません。 国府津から小田原、小田原から湯河原、そのあいだも二人は絶えず海や山に眼を奪われていました。宿屋の男に案内されて、ふたりが馬車に乗って宿に行き着きましたのは、もう午後四時に近いころでした。 「やあ、来ましたね。」 継子さんの兄さんは嬉しそうにわたくし共を迎えてくれました。お兄さんは不二雄さんと仰しゃるのでございます。不二雄さんはもうすっかり癒ったと言って、元気も大層よろしいようで、来月中旬には帰京するということでした。 「どうです。わたしの帰るまで逗留して、一緒に東京へ帰りませんか。」などと、不二雄さんは笑って言いました。 その晩は泊まりまして、あくる日は不二雄さんの案内で近所を見物してあるきました。春の温泉場その、のびやかな気分を今更くわしく申上げませんでも、どなたもよく御存じでございましょう。わたくし共はその一日を愉快に暮らしまして、あくる火曜日の朝、いよいよここを発つことになりました。その間にもいろいろのお話がございますが、余り長くなりますか ら申上げません。そこで今朝はいよいよ発つということになりまして、継子さんとわたくしとは早く起きて風呂場へはいりますと、なんだか空が曇っているようで、廊下の硝子窓から外を覗いてみますと、霧のような小雨が降っているらしいのでございます。雨か露か確かにはわかりませんが、中庭の大きい椿も桜も一面の薄い紗に包まれているようにも見えました。 「雨でしょうか。」 二人は顔を見合せました。いくら汽車の旅にしても、雨は嬉しくありません。風呂にはいってから継子さんは考えていました。 「ねえ、あなた。ほんとうに降って来ると困りますね。あなたどうしても今日お帰りにならなければいけないんでしょう。」 「ええ。火曜日には帰るといって来たんですから。」と、わたくしは言いました。 「そうでしょうね。」と、継子さんはやはり考えていました。「けれども、降られるとまったく困りますわねえ。」 継子さんはしきりに雨を苦にしているらしいのです。そうして、もし雨だったらばもう一日逗留して行きたいようなことを言い出しました。わたくしの邪推かも知れません担、継子さんは雨を恐れるというよりも、ほかに子細があるらしいのでございます。久し振りで不二雄さんのそばへ来て、たった一日で帰るのはどうも名残り惜しいような、物足らないような心持が、おそらく継子さんの胸の奥に忍んでいるのであろうと察せられます。雨をかこつけに、もう一日か二日も逗留していたいという継子さんの心持は、わたくしにも大抵想像されないことはありません。邪推でなく、まったくそれも無理のないこととわたくしも思いやりました。けれども、わたくしはどうしても帰らなければなり虫せん、雨が降っても帰らなければなりません。 で、そのわけを言いますと、継予さん・はまだ考えていました。 「電報をかけてもいけませんか。」 「ですけれども、二日の約束で出てまいりましたのですから。」と、わたくしはあくまでも帰ると言いました。そうして、もしあなたがお残りになるならば、自分ひとりで帰ってもいいと言いました。 「そりゃいけませんわ。あなたがどうしてもお帰りになるならば、わたくしも、むろん御一緒に帰りますわ。」 そんなことで二人は座敷へ帰りましたが、あさの御飯をたべているうちに、とうと、つ本降りになってしまいました。 「もう一日遊んで行ったらいいでしょう。」と、不二雄さんもしきりに勧めました。 そうなると、継子さんはいよいよ帰りたくないような風に見えます。それを察していながら、意地悪く帰るというのは余りにも心なしのようでしたけれど、その時のわたくしはどうしても約束の期限通りに帰らなければ、両親に対して済まないように思いましたので、雨のある中をいよいよ帰ることにしました。継子さんも一緒に帰るというのを、わたくしは無理にことわって、自分だけが宿を出ました。 「でも、あなたを一人で帰しては済みませんわ。」と、継子さんはよほど思案しているようでしたが、結局わたくしの言う通りにすることになって、ひどく気の毒そうな顔をしながら、幾たびかわたくしに言いわけをしていました。 不二雄さんも、継子さんも、わたくしと同じ馬車に乗って停車場まで送って来てくれました。 「では、御免ください。」 「御機嫌よろしゅう。わたくしも天気になり次第に掃ります。」と、継子さんはなんだか謝ま るような口ぶりで、わたくしの顔色をうかがいながら丁寧に挨拶していました。 わたくしは〃斡鉄道に乗って小田原へ着きましたのは、午前十一時ごろでしたろう。いいあ んばいに途中から雲切れがして来蒙して、細かい雨の降っている空のうえから薄い日のひかりが時々に洩れて来ました。陽気も急にあたたかくなりました。小田原から電章で国府津に着きまして、そこの茶店で小田原土産の梅干を買いました。それは母から頼まれていたのでございました。 十二時何分かの東京行列車を待合せるために、わたくしは狭い二等待合室にはいって、テーブルの上に置いてある地方新聞の綴込みなどを見ているうちに、空はいよいよ明るくなりまして、春の日が一面にさし込んで来ました。日曜でも祭日でもないのに、きょうは発車を待合せている人が大勢ありまして、狭い待合室はいっぱいになってしまいました。わたくしはなんだか蒸し暖(あつた)かいような、頭がすこし重いような心持になりましたので、雨の晴れたのを幸いに構外のあき地に出て、だんだんに青い姿をあらわして行く箱根の山々を眺めていました。 そのうちに、もう改札口があいたとみえまして、二等三等の人たちがどやどやと押合って出て行くようですから、わたくしも引っ返して改札口の方へ行きますと、大勢の人たちが繋がって押出されて行きます。わたくしもその人たちの中にまじって改札ロヘ近づいた時でございます。どこからともなしにこんな戸がきこえました。 「継子さんは死にまレた。」 ************************************ 65停車場の少女 ************************************ 、、、 わたくしはぎょっとして振り返りましたが、そこらに見識ったような顔は見いだされませんでした。なにかの聞き違いかと思っていますと、もう一度おなじような声がきこえました。しかもわたくしの耳のそばで曝くようにきこえました。 「継子さんは死にましたよ。」 、、、 わたくしはまたぎょっとして振り返ると、わたくしの左の方に列んでいる十五六の娘その顔だちは今でもよく覚えています。色の白い、細おもての、左の眼に白い曇りのあるような、しかし大体に眼鼻立ちの整った、どちらかといえば美しい方の容貌(昌りよう)の持主で、紡績飛白(がすり)のような綿入れを着て紅いメレンスの帯を締めていました。それが何だかわたくしの顔をじっと見ているらしいのです。その娘がわたくしに声をかけたらしくも思われるのです。 「継子さんが亡くなったのですか。」 ほとんど無意識に、わたくしはその娘に訊きかえしますと、娘は黙ってうなずいたように見えました。そのうちにあとからくる人に押されて、わたくしは改札口を通り抜けてしまいましたが、あまり不思議なので、もう一度その娘に訊き返そうと思って見返りましたが、どこへ行ったかその姿述見えません。わたくしと列んでいたのですから、相前後して改札口を出たはずですが、そこらにその姿が見えないのでございます。引っ返して構内を覗きましたが、やはりそれらしい人は見付からないのでわたくしは夢のような心持鉗して、しきりにそこらを見廻しました逃、あとにも先にもその娘は見えませんでした。どうしたのでしょう、どこへ消えてしまったのでしょう。わたくしは立停まってばんやりと考えてい虫した。 第一に気にかかるのは継子さんのことです。今別れて来たばかりの継子さんが死ぬなどというはずがありません目けれども、わたくしの耳には一度ならず、二度までも確かにそう聞えたのです。怪しい娘がわたくしに教えてくれたように思われるのです。気の迷いかも知れないと打消しながらもわたくしは妙にそれが気にかかってならないので、いつまでも夢のような心持でそこに突っ立っていました。これから湯河原へ引っ返して見ようかとも思いました。それもなんだか馬鹿らしいように思いました。このま蒙真っすぐに塁原へ帰ろうか、それとも湯河原へ引っ返そうかと、わたくしはいろいろに考えていましたが、どう考えてもそんなことの有りようはないように思われました。お天気のいい真っ昼間、しかも停章場の混雑のなかで、怪しい娘が継子さんの死を知らせてくれるそんな事のあるべきはずがないと思われましたので、わたくしは思い切って來京へ帰ることに決めました。 そのうちに東京行きの列車が着きましたので、ほかの人たちはみんな乗込みました。わたくしも乗ろうとして又にわかに腹曙しました。まっすぐに東京へ帰ると決心していながら、いざ乗込むという場合になると、不思議に継子さんのことがひどく不安になって来ましたので、乗ろうか來るまいかと考えているうちに、汽車はわたくしを置去りにして出て行ってしまいました。 もうこうなると次の列章を待ってはいられません。わたくしは湯河原へ引っ返すことにして、ふたたび小田原行きの電章に乗りました。 ************************************ ここまで話して来て、Mの奥さんはひと息ついた。 「まあ、驚くじゃございませんか。それから湯河原へ引っ返しますと、継子さんはほんとうに死んでいるのです。」 「死んでいましたか。」と、聞く人々も眼をみはった。 「わたくしが発った時分にはもちろん何事もなかったのです。それからも別に変った様子もなくって、宿の女中にたのんで、雨のためにもう一日逗留するという電報を東京の家へ送ったそ ち申‘坦い うです。そうして、食卓にむかって手紙をかき始めたそうです。その手紙はわたくしにあてたもので、自分だけが後に残ってわたくし一人を先へ帰した言いわけが長々と書いてありました。それを書いているあいだに、不二雄さんはタオルを持って一人で風呂場へ出て行って、やがて帰って来てみると、継子さんは食卓の上に偲伏(うつ’)しているので、初めはなにか考えているの かと思ったのですが、どうも様子がおかしいので、声をかけても返事がない。揺すってみても正体がないので、それから大騒ぎになったのですが、継子さんはもうそれ茎り蘇生らないのです。お医者の診断によると、心臓麻淳だそうで:…・。もっとも継子さんは前の年にも脚気になった事がありますから、やはりそれが原因になったのかも知れません。なにしろ、わたくしも ○つ吋 呆気に取られてしまいました。いえ、それよりもわたくしをおどろかしたのは、国府津の停車場で出逢った娘のことで、あれは一体何者でしょう。不二雄さんは不意の出来事に顛倒してしまって、なかなかわたくしのあとを追いかける余裕はなかったのです。宿からも使いなどを出したことはないと言います。してみると、その娘の正体が判りません。どうしてわたくしに声をかけたのでしょう。娘が教えてくれなかったら、わたくしはなんにも知らずに東京へ帰ってしまったでしょう。ねえ、そうでしょう。」 「そうです、そうです。」と、人々はうなずいた。 「それがどうも判りません。不二雄さんも不思議そうに首をかしげていました。わたくしにあてた継子さんの手紙は、もうすっかり書いてしまって、状袋に入れたままで食卓の上に置いてありました。」 木曽の旅人 丁君は語る。 そのころの軽井沢は寂れ切っていましたよ。それは明治二十四年の秋で、あの辺も衰微の絶頂であったらしい。なにしろ昔の申仙道の宿場がすっかり寂れてしまって、土地にはなんにも産物はないし、ほとんどもう立ち行かないことになって、ほかの土地へ立退く者もある。わたしも親父と一緒に横川で汽章を下りて、碓氷峠の旧道をがた馬車にゆられながら登って下りて、荒涼たる軽井沢の宿に着いたときには、実に心細いくらい寂しかったものです。それが今日ではどうでしょう。まるで世界が変ったように開けてしまいました。その当時わたし達が泊まった宿屋はなにしろ一泊二十五銭というのだから、大抵想像が付きましょう。その宿屋も今では何とかホテルという素晴らしい大建物になっています。一体そんなところへ何しに行ったのか 「帽子もその麦藁で…−。」 「そうです。」と、彼は又うなずいた。 いつちようら 麦わら帽に白の夏服、それが横田君の一帳羅であるかも知れない。したがって、横田君と いえばその麦わら帽と白い服を連想するのかも知れない。さきの夜、倉沢が一種の幻覚のよう に横田君のすがたを認めた時に、麦わら帽と白い服を見たのは当然であるかも知れない。しか もその幻覚にあらわれた横田君と一緒に西瓜を食って、彼の若い命を縮めてしまったのは、単 なる偶然とばかりは言い得ないような気もするのである。 かれが東京で西瓜をしばしば食ったことは、わたしも知っている。しかも静岡ではなるべく 遠慮していると言ったにも拘らず、彼は横田君と一緒に西瓜を食ったのである。群衆妄覚をふ とo−」 りまわして、稲城家の怪事を頭から蹴散らしてしまった彼自身が、まさかに迷信の虜となって、 西瓜に崇られたとも思われない。これもまた単なる偶然であろうか。 ひ呂自え 彼はわたしに向って、八月廿九日の午前には必ず帰ってくれといった。その廿九日の午前に 帰って来て、あたかもその葬式の問に合ったのである。わたしは約束を守ってこの日に帰って 来たのを、せめてもの幸いであるとも思った。 そんなことをいろいろ考えながら、わたしは横田君らと共に、休憩所の前から自動車に乗込 むと、天候はいよいよ不穏になって、どうでも一度は暴れそうな空の色が、わたしの暗い心を おびやかした。 おしどりか蝋み 鴛喬鏡 Y君は語る。 これは明治の末年、わたしが東北のある小さい町の警察署に勤めていた時の出来事と御承知ください。一体それは探偵談というべきものか、怪談というべきものか、自分にもよく判らない。こんにちの流行詞でいえば、あるいは怪奇探偵談とでもいうべき部類のものであるかも知れない。 地方には今も往々見ることであるが、ここらも暦が新旧ともに行なわれていて、盆や正月の場合にも町方では新暦による、在方では旧暦によるという風習になっているので、今この事件の起った正月の下旬も、在方では旧正月を眼の前に控えている忙がしい時であった。例年に比べると雪の少ない年ではあったが、それでも地面が白く凍っていることは言うまでもない。 夜の十一時頃に、わたし達は町と村との境にある弁天の祠のそばを通った。当夜の非番で、村の或る家の俳句会に出席した帰り路である。連れの人々には途中で別れてしまって、町の方角へむかって帰って来るのは、町の呉服屋の息子で俳号を野童という青年と私との二人ぎりであった。月はないが星の明るい夜で、土地に馴れている私たちにも、夜ふけの寒い空気はかなりに鋭く感じられた。今夜の撰句の噂なども仕尽くして、ふたりは黙って僻向いて歩いていると、野童は突然にわたしの外套の袖をひいた。 「矢田さん。」 「え。」 「あすこに何かいるようですね。」 わたしは教えられた方角を透かして視ると、そこには小さい弁天の祠が暗いなかに立っていた。むかしは祠のほとりに湖水のような大きい池があったと言い伝えられていたが、その池もいつの代にかだんだんに埋められて、今は二三百坪になってしまったが、それでも相当に深いという噂であった。狭い境内には杉や椿の古木もあるが、そのなかで最も眼に立つのは池の岸に垂れている二本の柳の大樹で、この柳の青い蔭があるために、春から秋にかけては弁天の祠のありかが遼方から明らかに望み見られた。その柳も今は痩せている。その下に何物かがひそんでいるらしいのである。 「乞食かな。」と、わたしは言った。 「焚火をして火事でも出されると困りますね。」と、野童は言った。 去年の冬も乞食の焚火のために、村の山王の祠を焼かれたことがあるので、私は一応見とどける必要があると思って、野童と一緒に小さい石橋をわたって境内へ進み入ると、ここには堂守などの住む家もなく、唯わずかに社前の常夜燈の光りひとつが頼りであるが、その灯も今夜は消えているので、私たちは暗い木立ちのあいだを探るようにして辿って行くほかはなかった。 足音を忍ばせてだんだんに近寄ると、池の岸にひとつの黒い影の動いているのが、水明かりと雪明かりと星明かりとでおぽろげに窺われた。その影はうずくまるように備向いて、凍った雪を掻いているらしい。獣ではない、確かに人である。私服を着ているが、わたしも警察官であるから、進み寄って声をかけた。 「おい。そこで何をしているのだ。」 相手はなんの返事もなしに、摺りぬけて立去ろうとするらしいので、わたしは追いかけて、その行く手に立ちふさがった。野童も外套の袖をはねのけて、すわといえば私の加勢をするべく身構えしていると、相手はむやみに逃げるのも不利益だと覚ったらしく、無言でそこに立ちどまった。 一おい、黙っていては判らない。君は土地の者かね。一 「はい。」 「ここで何をしていたのだ。」 「はい。」 その声と様子とで、野童は早くも気がついたらしい。ひとあし摺り寄って呼びかけた。 「君は・・…・。冬妓君じゃないか。」 そう言われて、わたしも気がついた。彼は町の煙草屋の息子で、雅号を冬妓という青年であるらしかった。冬披もわれわれの俳句仲問であるが、今夜の句会には欠席してこんなところに来ていたのである。そう判ると、わたし達もいささか拍子抜けの気味であった。 「うむ。冬披君か。」と、わたしも言った。「今頃こんなところへ何しに来ていたのだ。夜詣りでもあるまい。」 「いや、夜詣りかも知れませんよ。」と、野童は笑った。「冬披君は弁天さまへ夜詣りをするような訳があるんですから。」 なんにしてもその正体が冬妓と判った以上、私もむずかしい詮議も出来なくなったので、三人が後や先になって境内をあるき出した。野童は今夜の会の話などをして聞かせたが、冬妓はことば寡なに挨拶するばかりで、身にしみて聞いていないらしかった。わたしの家は町はずれで、他のふたりは町のまん中に住んでいるので、わたしが一番さきに彼らと別れを告げなければならなかった。 二人に挨拶して自分の家へ帰ったが、冬妓の今夜の挙動がどうも私の胴に落ちなかった。野童は何もかも呑み込んでいるようなことを言っていたが、なんの子細があって彼はこの寒い夜ふけに弁天の祠へ行って、池のほとりにさまよっていたのであろう。しかし冬妓がこの頃ここらにも流行する不良青年の徒でないことは、わたしも平生からよく知っているので、彼がなんらかの犯罪事件に関係があろうとも思われない。したがって、わたしも深く注意することなしに眠ってしまった。 そのあくる日は朝から出勤していたので、わたしは野童にも冬披にも逢う機会がなかった。 すると、次の日の午前九時ごろになって、一つの事件がかの弁天池の低とりに起った。町の清月亭という料理屋の娘の死体が池のなかから発見されたのである。 娘はお照といって、年は十九、色も白く、髪も黒く、容貌も悪くないのであるが、惜しいことには生れながらに左の足がすこし短いので、いわゆる肢足という程でもないが、歩く格好はどうもよろしくない。殊にそういう商売屋の娘であるから、当人も平生からひどくそれを苦にしていたらしい。だんだん年頃になるに連れて、その苦がいよいよ重って来たらしく、この足が満足になるならば私は十年ぐらいの寿命を縮めてもいいなどと、さきごろ或る人に語ったという噂もある。それらの願掛けのためか、あるいは他に子細があるのか知らないが、お照は正月の七草ごろから弁天さまへ日参をはじめた。それも昼なかは人の眼に立つのを厭って、日の暮れるのを待って参詣するのを例としていた。料理屋商売としては、これから忙がしくなろうという灯ともしごろに出てゆくのは、少しく不似合いのようではあるが、彼女はひとり娘である上に、現在は女親ばかりで随分あまやかして育てているのと、もともと狭い土地であるから、弁天の祠まで往復十町あまりに過ぎないので、さのみの時間をも要しないがために、母も別にかれこれも言わなかったらしい。お照は昨夜も参詣に出て行って、こうした最期を遂げたのである。 清月亭は宵から三組ほどの客が落ち合っていたので、それにまぎれて初めのうちは気も付かなかったが、八時ごろになっても娘が帰って来ないので、母もすこしく不安を感じ出して、念のために雇人を見せにやると、弁天社内にお照のすがたは見えないと言って、一旦はむなしく帰って来た。いよいよ不安になって、心あたりを二、三軒聞きあわせた後に、今度は母が雇人を連れて再び弁天の祠へ探しに行ったが、娘の影はやはり見あたらなかった。彼女の死体はあくる朝になって初めて発見されたのであった。 その訴えに接して、わたしは一人の巡査とともに現場へ出張して、型のごとくにその死体を検視することになった。池は南にむかって日あたりのいいところにあるが、それでもここらのことであるから、岸のあたりはかなりに厚く凍っている。お照の死体は池のまん中に浮かんでいたというのであるが、私たちの出張したときには、もう岸の上に引揚げられて、しょせん無駄とは知りながら藁火などで温められていた。 この場合、他殺か自殺かを決するのが第一の問題であることは言うまでもない。医師もあとから駈けつけて来たが、誰の目にもすぐに疑われるのは、お照の額のやや左に寄ったところに、生々しい打ち疵の痕の残っていることである。しかもそれをもって一途に他殺の証拠と認め難いのは、ここらの池や川は氷が厚いので、それが自然に裂けて剣のように尖っている所もある。 あるいは自然に凸起して岩のように突き出ている所もある。それがために自殺を目的の投身者も往々その氷に触れて顔や手足を傷つけている場合があるので、お照の死体もその額の疵だけで他殺と速断するのは危険であることを私たちも考えなければならなかった。殊に医師の検案によると、死体は相当に水を飲んでいるというのであるから、他殺の死体を水中に投げ込んだという疑いはいよいよ薄くなるわけである。 もしお照が自殺であるとすれば、彼女は投身の目的で岸から飛び込んだが、氷が厚いので目的を達しがたく、単に額を傷つけたにとどまったので、さらに這い起きて真ん中まで進んで行って、氷の薄いところを選んで再び投身したものと察せられる。しかし困ったことには、私たちの出張するのを待たずして、早く死体を引揚げてしまったために、氷の上は大勢に踏み荒らされて、泥草轄などの跡が乱れているので、その当時の状況を判断するについて、はなはだしい不便を与えるのであった。 この時、わたしの注意をひいたのは、岸に垂れている二本の枯柳の大樹の根もとが、二つながら掘り返されていることである。さらに検めると、一本の根もとの土は乾いている。他の一本の根もとの土はまだ乾かないで、新しく掘り返されたように見える。わたしはそこらに集まっている土地の者に訊いた。 「この柳の下はどうしてこんなに掘ってあるのかね。」 いずれも顔を見合せているばかりで、進んで返事をする者はなかった。誰も今まで気がつかなかったというのである。わたしは岸に近い氷の上に降りて立って、再びそこらを見まわすと、凍り着いているまばらな枯芦のあいだに、園芸用かとも思われるような小さいスコープを発見した。スコープには泥や雪が凍っていた。 何者かがこのスコープを用いて、柳の下を掘ったのであろう。そう思った一刹那、かの冬披のすがたが私の目先にひらめいた。彼はおとといの晩、この柳の下にうずくまって、凍った雪を掻いていたのである。 二 お照の死体は清月亭の親許へ引渡された。 種々の状況を綜合して考えると、大体において自殺説が有力であった。彼女は自分が破足に近いのを近ごろ著るしく悲観していたという事実がある以上、若い女の思いつめて、遂に自殺を企てたものと認めるのが正当であるらしかった。もう一つ、清月亭の女中たちの申立てによると、その相手は誰であるか判らないが、お照は近来なにかの恋愛関係を生じて、それがために人知れず煩悶していたらしいというのである。そうなると、自殺の疑いがいよいよ濃厚になって来て、不具者の恋、それが彼女を死の手へ引渡したものと認められて、警察側でも深く踏み込んで詮議するのを見合せるようになった。冬妓は何のために柳の下を掘っていたのか。又それがお照の死と何かの関係述あるのかないのか。それらのことは容易に判断が付かなかったが、わたしは警部という職務のおもて、一応は冬披を取調べるのが当然であると考えていると、あたかもその日の夕方に、町の裏通りで冬妓に出逢った。 そこは東源寺という寺の横手で、玉椿の生垣のなかには雪に埋もれた墓場が白く見えて、ところどころに大きい杉が立っていた。ゆうぐれの寒い風はその梢をざわざわと揺すって、どこかで鴉の暗く声もきこえた。冬妓はわたしの来るのを知っているのか、知らないのか、術向きがちに摺れちがって行き過ぎようとするのを、わたしは小声で呼びかえした。 「冬妓君。どこへ行くのだ。」 彼はおびえたように立停まって、無言でわたしに挨拶した。冬披は平生から温良の青年である。殊にわたしの俳句友達である。彼に対して職権を示そうなどとは勿論かんがえていないので、わたしは個人的に打解けて訊いた。 「君はおとといの晩、あの弁天池のところで何をしていたのかね。」 彼はだまっていた。 「君はスコープで何か掘っていたのじゃないかな。」と、わたしは畳みかけて訊いた。 「いいえ。」 「では、夜ふけにあすこへ行って、何をしていたのかな。」 彼はまた黙ってしまった。 「君はゆうべもあの池へ行ったかね。」 「いいえ。」 「なんでも正直に言ってくれないと困る。さもないと、わたしは職務上、着を引致しなければならないことになる。それは私も好まないことであるから、正直に話してくれ給え。ゆうべはともあれ、おとといの晩は何をしに行ったのだね。」 冬妓はやはり黙っているのである。こうなると、私も少しく語気を改めなければならなくなった。 「君はふだんに似合わず、ひどく強情だな。隠していると、君のためにならないぜ。実は警察の方では、清月亭のむすめは他殺と認めて、君にも疑いをかけているのだ。」と、わたしは嚇すように言った。 「そうかも知れません。」と、彼は低い声で独り言のようにいった。 「それじゃあ君は何か疑われるような覚えがあるのかな。」 言いかけて私はふと見かえると、折れ曲った生垣の角から一人の女の顔がみえた。女は顔だけをあらわして、こちらを窺っているらしかった。もう暮れかかっているので、その人相はよく判らないが、ゆう闇のなかにも薄白く浮かんでいる彼女の顔が、どうも堅気の女ではないら しい。わたしはそう直覚しながら、さらによく見定めようとする時、不意にわっという声がきこえた。何者かがうしろから彼女を嚇したのである。つづいて若い男の笑い声がきこえて、角から現われ出たのは野童であった。 彼らとわたし達との距離は四、五間に過ぎないのであるから、このいたずら騒ぎのために、今まで隠されていた女の姿も自然にわたしの目先へ押出された。女はコートを着て、襟巻に顔の半分を深く埋めていたが、それが町の芸者であるらしいことは大抵察せられた。野童の家はこの町でも大きい店で、彼も相当に道楽をするらしいから、かねてこの芸者を識っているので あろう。そう思っているうちに、野童の方でもわたし達の姿を見つけて、足早に進み寄って来た。 「今晩は=・…。やあ、冬妓君もいたのか。」 そうは言ったものの、彼は俄かに口をつぐんで、わたし達の顔をじっと眺めていた。普通の立ち話以外に何かの子細があるらしいことを、彼もすぐに覚ったらしい。飛んだ邪魔者が来たとは思ったが、わたしも笑いながら挨拶した。 「君と今ふざけていたのは誰だね。」 「え。あれは……。」と、野童は冬妓の顔をみながら再び口をつぐんだ。 「ああ、それじゃあ冬妓君のおなじみかね。」 わたしは再び見かえると、女の姿はいつの間にか消えてしまって、あたりを包む夕闇の色はいよいよ深く迫って来た。 野童はおとといの晩わたしに向って、冬妓君は弁天さまへ夜詣りをする訳があると言った。 してみると、彼は冬披について何かの秘密を知っているらしい。その秘密はかの芸者に関係することではあるまいか。しかしそれだけのことならば、いかに内気の青年であるといっても、冬披が堅く秘密を守るほどの事もある蒙い。いずれにしても、野童と冬妓とは別々に取調べる必要がある。ふたりが鼻を突き合せていては、その取調べに不便があると思ったので、わたしはここで、ひとまず冬披を手放すことにした。 二つ三つ冗談を言って、わたしはそのまま行きかけると、野童は曲り角まで追って来て、そっと訊いた。 「あなたは今、冬妓君を何か調べておいでになったのですか。」 「うむ、少し訊きたいことがあって……。君にも訊きたいことがあるのだが、今夜わたしの家へ来てくれないか。」 「まいります。」 わたしは家へ帰って風呂にはいって、ゆう飯を食ってしまったが、野童はまだ来なかった。 そのうちに細かい雪が降り出して来たと、家内の者が言った。この春はここらに珍らしいほど降らなかったのであるから、もう降り出す頃であろうと思いながら、薄暗い電燈の下で炬燵にはいっていると、外の雪は音もなしに降りつづけているらしかった。 九時過ぎになって、野童が来た。いつもは遠慮なしに炬燵にはいって差向いになるのであるが、今夜はなんだか固くなって、平生よりも行儀よく坐っていた。炬燵にはいれと勧めても、彼は蹟曙しているらしいので、わたしは妻に言いつけて、彼に手あぶりの火鉢をあたえさせた。 「とうとう降り出したようだな。」と、わたしは言った。 「降って来ました。今度はちっと積もるでしょう。」 「さっきの芸妓はなんという女だね。」 野童は暗い顔をいよいよ暗くして答えた。 「染吉です。」 「ああ、染古か。」と、わたしは二十三四の、色の白い、眉の力んだ、右の眼尻に大きい黒子のある女の顔をあたまに描いた。 「それについて、今夜出ましたのですが…・:。」と、野童は左右へ気配りするように声をひそめて言い出した。「あなたはなんで冬妓君をお調べになったのでしょうか。」 わたしはすぐには答えないで、相手の顔を睨むように見つめていると、彼は恐れるように少しためらっていたが、やがて小声でまた言いつづけた。 「さっき寺の横手で、あなたにお目にかかった時に、どうもなんだかおかしいと思いまして、あれから冬披を或る所へ連れて行って、いろいろに詮議をしますと、最初は黙っていて、なかなか口をあかなかったのですが、わたくしがだんだん説得しましたので、とうとう何もかも白状しました。」 「白状……。なにを白状したのかね。あの男がやっぱり清月亭のむすめを殺したのか。」と、 わたしはもう大抵のことを心得ているような顔をして、探りを入れた。 「まあ、お聴きください。御承知の通り、冬妓はおふくろと弟と三人暮らしで、大して都合がいいというわけでもなく、殊におとなしい性質の男ですから、自分から進んで花柳界へ踏み込むようなことはなかったのですが、商売が煙草屋で、花柳界に近いところにあるので、芸妓や料理屋の女中たちはみんな冬妓の店へ煙草を貿いに行きます。冬妓はおとなしい上に男振りもいいので、浮気っぽい花柳界にはなかなか人気があって、ちっとぐらい遠いところにいる者でも、わざわざ廻り路をして冬披の店へ買いに来るようなわけでしたが、そのなかでもあの染吉が大熱心で、どういうふうに誘いかけたのか知りませんが、去年の秋祭りの頃から冬妓と関係をつけてしまったのだそうです。染吉もなかなか利口な女ですし、冬妓はおとをしい男なので、二人の秘密はよほど厳重に守られて、今まで誰にも覚られなかったのです。わたくしもちっとも知りませんでした。いや、まったく知らなかったのです。」 あるいは薄うす知っていたかも知れないが、この場合、彼としてはまずこう言うのほかはあるまいと思いながら、わたしは黙ってきいていた。 三 外の雪には風がまじって来たらしく、窓の戸を時どきに揺する音がきこえた。 雪や風には馴れているはずの野童が、今夜はなんだかそれを気にするように、幾たびか見返りながらまた語りつづけた。 「そのうちに、またひとりの競争者があらわれてきました。と申したら、大抵御推量もつきましょうが、それはかの清月亭のお照で、もちろん染吉との関係を知らないで、だんだんに冬披の方へ接近してきて、これも去年の冬頃から関係が出来てしまったのです。こう言うと、冬披ははなはだふしだらのようにも聞えますが、何分にもああいう気の弱い男ですから、女の方から眼の色を変えて強く迫って来られると、それを払いのけるだけの勇気がないので、どっちにも義理が悪いと思いながら、両方の女にひきずられて、まあずるずるにその日その日を送っていたという訳です。 しかし、それがいつまでも無事にすむはずがありません。去年の暮に、冬妓のおふくろが風邪をひいて、冬至の日から廿六日頃まで一週間ほど寝込んだことがあります。そのときに染吉とお照とが見舞に来て……。どちらも菓子折かなにかを持ってきて、しかも同時に落合ったものですから、はなはだ工合の悪いことになってしまいました。どうもひと通りの見舞ではないらしいと染吉も睨む、お照も睨む。双方睨みあいで、そのときは何事もなく別れたのですが、二人の女の胸のなかに青い火や紅い火が一度に燃えあがったのは判り切ったことです。 そこで、人間はまあ五分五分としても、お照の方が年も若いし、おまけに相当の料理屋の娘というのですから、この方に強味があるわけですが、困ったことには片足が短い、まあこういう場合にはそれが非常な弱味になります。また、染吉は冬妓よりも二つ年上であるというのが第一の弱味である上に、競争の相手が自分の出先の清月亭の娘というのですから、商売上の弱昧もあります。そんなわけで、どちらにもいろいろと弱味があるだけに、余計に修羅を燃やすようにもなって、その競争が激烈というか、深刻というか、他人には想像の出来ないように物凄いものになって来たらしいのです。 しかし、なにぶんにも暮から正月にかけては、料理屋も芸妓も商売の忙がしいのに追われて、男の問題にばかり係りあってもいられなかったのですが、正月も、もうなかば過ぎになって、お正月気分もだんだんに薄れてくると、この問題の火の手がまたさかんになりました。染吉もお照も暇さえあれば冬妓を呼び出して、恨みを言ったり、愚痴を言ったりして、めちゃめちゃ に男を小突きまわしていたらしいのです。この春κなってから、冬妓がとかくに句会を怠けがちであったのも、そんな椚着のためであったということが今わかりました。」 「しかし君はおとといの晩、冬披君は夜詣りをするわけがあると言ったね。」と、わたしはやや皮肉らしく微笑した。 野童はすこし慌てたように詞。をとぎらせた。なんといっても、彼はすでに冬披の秘密を知っていたに相違ないのである。しかしここで詰まらない揚げ足をとっていて、肝腎の本題が横道へそれてはならないと思ったので、わたしは笑いながらまた言った。 「そこで、結局どういうことになったのだね。」 「染吉とお照は一方に冬披をいじめながら、一方には神信心をはじめました。殊にああいう社会の女たちですから、毎晩かの弁天さまへ夜詣りをして、恋の勝利を祈っていたのです。そのうちに誰が教えたか知りませんが、弁天さまは嫉妬深いから、そんな願掛けはきいてくれないばかりか、かえって崇りがあると言ったので、染吉はこの廿日ごろから夜詣りをやめました。 お照も廿三四日頃からやはり参詣を見合せたそうです。すると、この廿五日の巳の日の晩に、二人がおなじ夢を見たのです。」 「夢をみた…:。」 「それが実に不思議だと冬妓も言っていました。」と、野童自身も不思議そうに言った。「それが二人ながらちっとも違わないのです。弁天さまが染吉とお照の枕元へあらわれて、境内の柳の下を掘ってみろ。そこには古い鏡が埋まっている。それを掘出したものは自分の願が叶うのだというお告げがあったそうです。そこで、あくる晩、染吉はお座敷の帰りに冬妓をよび出して、これから一緒に弁天さまへ行ってくれと無理に境内へ連れ込んで、一本の柳の下を掘っているところへ、あなたとわたくしが来かかったので、染吉はあわてて祠のうしろへ隠れてしまって、冬妓だけがわれわれに見付けられたのです。常夜燈を消して置いたのも染吉の仕業で、何分あたりが暗いので、そこらに染吉の隠れていることは一向気が付きませんでした。われわれが立去ったあとで、染吉が再び掘ろうとしたのですが、冬妓がスコープを持って行ってしまったので、仕方がなしに帰って来たそうです。」 「お照は掘りに来なかったのだね。」 「お照がなぜすぐに来なかったのか、その子細はわかりません。商売が商売ですから、その晩はどうしても出られなかったのかも知れません。それでも次の日、すなわち昨日の夕方に冬妓を呼び出して、やはり一緒に行ってくれ圭冒ったそうですが、冬妓はゆうべに懲りているので、夢なんぞはあてになるものではないからやめた方がいい圭冒って、とうとう断ってしまいました。それでもお照は思い切れないで、自分ひとりで弁天の祠へ行って、二本目の柳の下から鏡を掘出したのです。」 「鏡…−。ほんとうに鏡が埋められていたのか。」と、わたしは炬燵の上からからだを乗出して訊いた。 「まったく古い鏡が出たのだから不思議です。」と、彼は小声に力をこめて言った。「お照がそれを掘出したところへ、染吉があとから来ました。染吉もまだ思い切れないので、今夜は日の暮れるのを待ちかねて、二本目の柳の下を掘りに来ると、お照がもう先廻りをしているので驚きました。どちらもあからさまに口へ出して言えることではありませんから、お互いにまあい い加減な挨拶などをしているうちに、お照がなにか鏡のようなものを袖の下にかくしているのを、常夜燈のひかりで染吉が見付けたのです。お照も早く常夜燈を消しておけばよかったのでしょうが、年が若いだけにそれ程の注意が行き届かなかったので、たちまち相手に見付けられてしまったのです。一方のお照が死んでいるので、詳しいことはわかりませんが、染吉はそれを見せろと言い、お照は見せないと言う。日は暮れている、あたりに人はなし、もうこうなれば仇同士の喧嘩になるよりほかはありません。なんといっても、染吉の方が隼上ですし、お照は足が不自由という弱味もあるので、その鏡をとうとう染吉に奪い取られました。それを取返そうとしがみつくと、染吉ももうのばせているので、持っている鏡で相手の額を力まかせに殴りつけた上に、池のなかへ突き落して逃げました。」 お照の額の混は氷のためではなかった。たとい氷でないとしても、それが鏡のたぐいであろうとは、わたしも少しく意外であった。 「ただ突き落して逃げたのだね。」と、わたしは念を押した。 「染吉はそう言っているそうです。御承知の通り、岸の氷は厚いのですから、ただ突き落しただけでは溺死する筈はありません。まんなか辺まで引摺って行って突き落すか。それとも染吉が立去ったあとで、お照は水でも飲むつもりで真ん中まで這い出して行って、氷が薄いために思わず滑り込んだのか。あるいは大切な鏡を奪い取られたために、一途に悲観して自殺する気になったのか。それらの事情はよく判らないのですが、いずれにしても自分がお照を殺したも同然だといって、染吉は覚悟しているそうです。」 「覚悟している…:。それでは自首するつもりかね。」 「それが困るのです。」と、野童は顔をしかめた。「自分でもそう覚悟をしていながら、やはり女の未練で、きょうも冬披を寺の墓地へよび出して、これから一緒に北海道へ逃げてくれと頻りに口説いているのです。」 「冬妓はどこにいるね。」− 「今はわたくしの家の奥座敷に置いてあるのです。うっかりした所にいると、染吉が付きまとって来て何をするか判りませんから。」 「よろしい。それではすぐに女を引挙げることにしよう。君の留守に、冬妓が又ぬけ出しでもすると困るから、早く帰って保護していてくれ給え。」 野童をさきに帰して、わたしはすぐに官服に着かえて出ると、表はもう眼もあけられないような吹雪になっていた。署へ行って染吉を引致の手続きをすると、彼女は午後から一度も抱え主の家へ帰らないというのであった。停車場へ聞き合せにやったが、彼女が汽車に乗込んだような形跡はなかった。 もしやと思って、弁天社内を調べさせると、あたかもお照とおなじように、その死体は池の中から発見された。雪と水とに濡れている染吉のふところには、古い鏡を大事そうに抱いていた。冬妓を連れて逃げる望みもないとあきらめて、彼女はここを死に場所に選んだのであろう。 お照がみずから滑り込んだのであれば勿論、たとい染吉が引摺り込んだとしても、事情が事情であるから死刑にはなるまい。しかも彼女は思い切って恋のかたきの跡を追ったのである。 鏡は青銅でつくられて、その裏には一双の徹識が彫ってあった。鑑定家の説によると、これは支那から渡来したもので、おそらく漢の時代の製作であろうということであった。漢といえば殆んど二千年の昔である。そんな古い物がいつの代に渡って来て、こんなところにどうして埋められていたのか、勿論わからない。さらに不思議なのは、染吉もお照もおなじ夢を見せられて、その鏡のために同じ終りを遂げたことである。弁天さまに対して恋の願掛けなどをしたために、そんな崇りを蒙ったのであろうと、花柳界の者は怖ろしそうに語り伝えていた。実際わたし達にもその理屈が判らないのであるから、迷信ぶかい花柳界の人々がそんなことを言いふらすのも無理はなかった。殊にその鏡の裏に鴛鳶が彫ってあったということも、この場合には何かの意味ありげにも思われた。 冬妓は一応の取調べを受けただけで済んだが、土地に居にくくなったとみえて、五里ほど離れている隣りの町へ引っ越してしまったが、その後別に変ったこともないように聞いている。 かねふち 鐘ケ淵 1君は語る。 僕の友人に大原というのがいる。現今は北海道の方へ行って、さかんに曜詰事業をやっているが、お父さんの代までは、旧幕臣で、当主の名は右之助ということになっていた。遠いむかしは右馬之助といったのだそうであるが、何かの事情で馬の字を省いて、単に右之助ということになって、代々の当主は右之助と呼ばれていた。ところで、今から六代前の大原右之助という人は徳川八代将軍吉宗に仕えていたが、その時にこういう一つの出来事があったといって、家の記録に書き残されている。由来、諸家の系図とか記録とか伝説とかいうものは、かなり疑わしいものが多いから、これも確かにほんとうかどうかは受け合われないが、ともかくも大原の家では真実の記録として子女孫々に伝えている。それを当代の大原君がかつて話してくれたので、僕は今その受け売りをするわけであるから、多少の聞き問違いがあるかも知れない。 その話は大体こうである。 享保十一年に八代将軍吉宗は小金ケ原で狩をしている。やはりその年のことであるというが、将軍の隅田川御成があった。僕も遠い昔のことはよく知らないが、二代将軍の頃には隅田川の堤を鷹狩の場所と定められて、そこには将軍の休息所として隅田川御殿というものが作られていたそうである。それが五代将軍綱吉の殺生禁断の時代に嚇踏されて、その後は榊散都または弘福寺を将軍の休息所にあてていたということであるが、大原家の記録によると、木母寺を弘福寺に換えられたのは寛保二年のことであるというから、この話の享保時代にはまだ木母寺が将軍の休息所になっていたものと思われる。 こんな考証は僕の畑にないことであるから、まずいい加減にしておいて、手っ取り早く本文にとりかかると、このときの御成は四月の末というのであるから鷹狩ではない。木母寺のすこし先に御前畑というもの拭あって、そこに将軍家の台所用の野菜や西瓜、真桑瓜のたぐいを作っている。またその附近に広い芝生があって、桜、桃、赤松、柳、あやめ、つつじ、さくら草のたぐいをたくさんに植えさせて、将軍がときどき遊覧に来ることになっている。このときの御成も単に遊覧のためで、隅田のながれを前にして、晩春初夏の風景を賞でるだけのことであったらしい。 旧暦の四月末といえば、晩春より初夏に近い。きょうは朝からうららかに晴れ渡って、川上の筑波もあざやかに見える。芝生の植え込みの問にも御茶屋というものが出来ているが、それは大きい建物ではないので、そこに休息しているのは将軍と少数の近習だけで、ほかのお供の者はみな木母寺の方に控えている。大原右之助は二十二歳で静微b組の一人としてきょうのお供に加わって来ていた。かれは午飯の弁当を食ってしまって、二、三人の同輩と梅若塚のあたりを散歩していると、逓獣磁が山下三右衛門が組頭同道で彼をさがしに来た。 「大原、御用だ。すぐに支度をしてくれ。」と、組頭は言った。 「は。」と、大原は形をあらためて答えた。「なんの御用でござります。」 「貴公。棚織は達者かな。」と、山下は念を押すように諏いた。 「いささか心得がござります。」 口ではいささかと言っているが、水練にかけては大原右之助、実は大いなる自信があった。 大原にかぎらず、この時代の御徒土の者はみな水練に達していたということである。それは将軍吉宗が職をついで問もなく、隅田川のほとりへ狩に出た時、将軍の手から放した鷹が一羽の鴨をつかんだが、その鴨があまりに大きかったために、鷹は掴んだままで水のなかに落ちてしまった。虹供の者もあれあれと立ち騒いだが、この大川へ飛び込んでその鷹を救いあげようとする者がない。一同いたずらに手に汗を握っているうちに、御徒士の一人坂入半七というのが野懸けの装束のままで飛び込んで、やがてその鷹と鴨とを餓にして泳雪戻って来たので、将軍はことのほかに賞美された。その帰り路に、とある民家の前にたくさんの米俵が積んであるのを将軍がみて、あの米はなんの為にするのであるか。わが家の食米にするのか、他へ納めるのかと訊いたので、おそばの者がその民家に聞きただして、これは自家の食米ではない、代官伊奈半左衛門に上納するものであると答えると、しからばそれをかの鷹を齢え上げたる者に取らせろと将軍は言った。その米は四百俵あったという。こうして、坂入半七は意外の面目をほどこした上に、意外の恩賞にあずかったので、その以来、御徒士組の者は競って水練をはげむようになった。 あらためて言うまでもなく、八代将軍吉宗は紀州から入って将軍職を継いだ人で、本国の紀州にあって、若いときから常に海上を泳いでいたので、すこぶる水練に達している。江戸へ出て来てから自分に盾従する御徒士の侍どもを見るに、どうもあまり水練の心得はないらしい。 水練は武術の一科目ともいうべきものであるのに、その練習を怠るのをよろしくないと思っていたので、この機会において吉宗はかの坂入半七を特に激賞し、あわせて他を激励したのであると伝えられている。いずれにしても、それが動機とをって、御徒士の面々はみな油断なく水練の研究をすることとなったのみならず、吉宗はさらにそれを奨励するために、毎年六月、浅草駒形堂附近の隅田川において御徒士組の水練を行なわせることとした。 夏季の水練は幕府の年中行事であるが、元禄以後ほとんど中絶のすがたとなっていたのを、吉宗はそれを再興して、年衣かならず励行することに定めたので、いやしくも水練の心得がなければ御徒士の役は勤められないことにもなった。したがってその道にかけては皆相当のおばえがある中でも、大原右之助は指折りの一人であった。 大原と肩をならべる水練の達者は、三上治太郎、福井文吾の二人で、去年の夏の水練御上覧の節には、大原は隅田川のまん中で立ち泳ぎをしながら短冊に歌をかいた。三上はおなじく立ち泳ぎをしながら西瓜と真桑瓜の皮をむいた。福井は家重代の大鎧をきて、兜をかぶって太刀を例いて泳いだ。それ程の者であるから、近習頭の山下もかれが水練の腕前を知らないわけではなかったが、役目の表として、一応は念を押したのである。それに対して、大原もいささか心得がござると答えたのである。大原ばかりでなく、三上も福井も呼び集められて、かれらも一応は水練の有無を問いただされた。 さてその上で、山下はこう言い聞かせた。 「いずれ改めて御上意のあることとは存ずるが、手前よりも内々に申し含めて置く。こんにちの御用は鐘ケ淵の鐘を探れとあるのだ。」 「はあ。」と、三人は顔を見あわせた。 沈鐙伝説などということを、ここでは説かないことにしなければならない。口碑によれば、むかし豊島郡石浜にあった普門院という寺が亀戸村に換地をたまわって移転する時、寺の什物いっさいを船にのせて運ぶ途中、あやまって半鐘を淵の底に沈めたので、そのところを鐘ケ淵と呼ぶというのである。「江戸砂子」には橋場の無源寺の鐘楼がくずれ落ちて、その釣鐘が淵に沈んだのであるともいっている。半鐘か釣鐘か、いずれにしても或る時代に或る寺の鐘がここに沈んで、淵の名をなしたということになっている。将軍吉宗はきょう初めてその伝説を聞いたのか、あるいはかねて聞いていたので、きょうはその探険を実行しようと思い立ったのか。幸いに今日は空も晴れている、そよとの風もない。まことに穏かな日和であるから、水練の者を淵の底にくぐらせて、果して世にいうが、ことく鐙が沈んでいるかどうかを詮議させろという命令を下したのであった。 大勢のなかから選み出されたのは三人の名誉であるといってよい。しかし普通の水練とは違って、この命令には三人もすこしく曝曙した。かの鐙はむかしから引揚げを企てた者もあったが、それがいつも成功しないのは水神が惜しませたまう故であると伝えられている。また、その鐙の下には淵の主が棲んでいるとも伝えられている。支那の越王潭には膏い牛が棲み、亀山の淵には青い猿が沈んでいるという、そうした奇怪な伝説も思いあわされて、三人もなんだか気味悪く感じたが、将軍家の上意とあれば、辞退すべきようはない。火の中でも水の底でも猶予なく飛び込まなければならない。こう覚悟すると、かれらもさすがに武士である。それにはまた一種の冒険的興味も加わって、三人はまず山下にむかってお請けの旨を答えた。 組頭もそばから注意した。 「大事の御用だ。一生懸命に仕つれ。」 「かしこまりました。」 三人は勇ましく答えた。山下のあとに付いて行くと、将軍も野懸け装束で、芝生のなかの茶屋に腰をかけていた。あたりには、今を盛りのつつじの花が真っ紅に咲きみだれていた。将軍の口からも山下が今いったのと同じ意味の命令が直きじきに伝えられた。 ここで正式にお請けの口上をのべて、三人は再び木母寺へ引っ返して来た。それぞれに身支度をするためである。なにしろ珍らしい御用であるので、組頭も心配していろいろの世話をやいた。朋輩たちも寄りあつまって手伝った。そこで問題になったのは、三人が同時に火をくぐるか、それとも一人ずつ順々にはいるかということであった。 二 誰がまず第一に鐘ケ淵の秘密を探るかということが面倒な問題である。三人が同時にくぐるのは拙い。どうしても順々に潜り入るのでなければいけないと決まったのであるが、その順番をきめるのがすこぶるむずかしくなった。第一番に飛び込むものは戦場の先陣とおなじことで、危険が伴う代りに功名にもなる。したがって、この場合にも一種の先陣争いが起って来た。 かみ 組頭もこの処分には困ったが、そんな争いに時刻を移しては上の御機嫌もいかがというので、結局めいめいの年の順で先後をきめることにして、三上治太郎は二十五歳であるから第一番、その次は二十二歳の大原右之助で、二十歳の福井文吾が最後に廻された。年の順とあれば議論の仕様もないので三人もおとなしく承知した。 いよいよ準備が出来たので、将軍吉宗は堤の上に床几を据えさせて見物する。お供の面々も固唾をのんで水の上を睨んでいる。今と違ってその頃の堤は低く、川上遠く落ちてくる隅田川の流れはここに深い淵をなして、淀んだ水は青黒い渦をまいている。むかしから種々の伝説が伴っているだけに、なにさまこの深い淵の底には何かの秘密が潜んでいるらしく思われて、言い知れない婁槍の気が諸人の胸に冷たく沁み渡った。 きょうは…鰍嚇であるから、どういうことで水にはいる場合がないとも限らないので、御徒士の者はみなそれだけの用意をしていた。択み出された三人は稽古着のような筒袖の肌着一枚になって、刀を背負って、額には白布の鉢巻をして、草の青い堤下に小膝をついて控えていると、近習頭の三右衛門が扇をあげる。それを合図に、第一番の三上治太郎は鮎を狙う鵜のようにさっと水に飛び込むと、淀んだ水はさらに大きい渦をまいて、吸い込むように彼を引入れてしまった。 人々は息をころして見つめていると、しばらくして三上は浮きあがって来た。かれは濡れた顔を拭きもしないで報告した。 「淵の底には何物も見あたりませぬ。」 「なにも無いか。」と、近習頭は念を押した、 「はあ。」 なにも無いとあっては、つづいて飛び込むのは無用のようでもあったが、すでに択まれている以上は、かの二人もその役目を果さなければならないので、第二番の大原が入れ代って水をくぐることになったo 晴れた日には堤の上から淵の底までも透いて見えると一言い伝えられているが、きょうは一天ぬぐうが、ことくに晴れわたって、初夏の真昼の日光がまばゆいばかりにきらきらと水を射ているにもかかわらず、少しく水をくぐって行くと、あたりは思いのほかに暗く濁っていたが、水練に十分の自信のある大原は血気の勇も伴って、志度の浦の海女のように恐れげもなく沈んで行った。沈むにつれて周囲はますます暗くなる。一種の藻のような水草が手足にからむように思われるのを掻きのけながら、深く深くくだって行くと、暗い藻のなかに何か光るものが見えた。 身ど それが何者かの眼であることを悟ったときに、大原の胸は跳った。かれは念のために背なかの刀を一度探ってみて、さらにその光る物のそばへ潜りよると、それは大きい魚の眼であった。 なおその正体を見届けようとして近づくと、魚はたちまちに牡丹のような紅い大きい口をあいて正面から大原にむかって来た。それは淵の主ともいうべき鯉か触のたぐいであろうと思ったので、かれは一刀に刺し殺そうとしたが、また考えた。その正体はなんであろうとも、しょせんは一尾の魚である。手にあまって刺し殺したとあっては、きょうの手柄にならない。かの金 時が鯉を抱いたように生捕りにして上覧に入れようと、かれは水中に身をかわして、かの魚を 横抱きにかかると、敵も身を斜めにして跳ねのけた。その途端に、鰭で撲たれたのか、尾で殴られたのか、大原は脾腹を強く打たれて、ほとんど気が遠くなるかと思う問に、魚は素早く水をくぐって藻の深いなかへ姿を隠してしまった。気がついて追おうとすると、そこらの水草は、いよいよ深くなって、名も知れない長い藻は無数の水蛇か蛸のように彼の手足にからみ付いて くるので、大原もほとほと持て余した。 彼はよんどころなしに背なかの刀をぬいて、手あたり次第に切り払った述、果てしもなく流れつき絡み付く藻のたぐいを彼はどうすることも出来なかった。大原は蜘蛛の巣にかかった蝶のようにいたずらにもがき廻っているうちに、暗い底には大きい波が湧きあがって、無数の藻のたぐいはあたかも生きている物のように一度にそよいで動き出した。そのありさまをみて、 大原はおそろしくなった。彼はもうなんの考えもなしに早々に泳いで浮きあ訓った。 大原は堤へ帰って自分の見たままを正直に申立てた。しかし唯おそろしくなって逃げ帰ったとは言われないので、かれは大きい魚と闘いながら、淵の底をくまなく見廻ったが、なにぶんにも鐘らしいものは見当らなかったと報告した。三上も大原も目的の鐘を発見しなかったは同様であるが、大原の方にはいろいろの冒険談があっただけに諸人の興味をひいた。かれの報告のいつわりでないのは、その左の脾腹に大きい紫の癒を残しているのを見ても知られた。 つづいて第三番の福井文吾が水をくぐった。彼はやがて浮きあがって来て、こういう報告をした。 「淵の底には鐘が沈んでおります。一面の水草が取付いてそよいでおりますは確かに判りませぬが、鐘は横さまに倒れているらしく、薄暗いなかに龍頭が光っておりました。」 かれは第一の殊勲者で、沈める鐘を明らかに見とどけたのである。将軍からも特別に賞美のことばを下された。 「文吾、大儀であった。その鐘を水の底に埋めておくのは無益じゃ。いずれ改めて引揚げさするであろう。」 鐘を引揚げるには相当の準備がいる。とても今すぐという訳にいかないことは誰も知っているので、いずれ改めてという沙汰だけで、将軍はもとの芝生の茶屋へ戻った。御徒士の者共も木母寺の休息所へ引っ返して、かの三人は組頭からも今日の骨折りを褒められたが、そのなかでも福井が最も面目をほどこした。公方家から特別に御賞美のおことばを下されたのは徒士組の名菅であると、組頭も喜んだ。他の者共も羨んだ。 喜ぶとか羨むとかいうほかに、それが大勢の好奇心をそそったので、福井のまわりを幾重にも取りまいて、みな口々に種々の質間を浴びせかけた。鐘の沈んでいた位置、鐘の形、その周囲の状況などを、いずれもくわしく聞こうとした。福井がこうして持離されるにつけて、ここに手持無沙汰の人間がふたり出来た。それは三上治太郎と大原右之助でなければならない。この二人は鐘を認めないと報告したのに、最後に行って、しかも最も年のわかい福井文吾がそれを見いだしたというのであるから、かれらはどうしても器量を下げたことになる。ことに一番の年上でもあり、家柄も上であるところの三上は、若輩の福井に対してまことに面目ない男になったのである。 三上は大原を葉桜の木かげへ招いで、小声で言い出した。 「福井はほんとうに鐘を見付けたのだろうか。」 「さあ。」と、大原も首をひねった。かれも実は半信半疑であった。しかし自分は大きい魚に襲われ、さらにおそろしい藻におびやかされて、淵の底の隅々までも残らず見届けて来なかったのであるから、もしも一段の舅気を振るって、底の底まで根よく猟り尽くしたらば、あるいは福井と同じようにその鐘の本体を見付けることが出来たのかも知れない。それを思うと、かれは一途に福井をうたがうわけには行かなかったが、実際その鐘がどこかに横たわっていたならば、自分の眼にもはいりそうなものであったという気もするので、今や三上の聞いに対して、かれは右とも左とも確かな返事をあたえることが出来なかった。 「どうもおかしいではないか。貴公にも見えない、おれにも見えないという鐘が、どうして福井の眼にだけ見えたのだろう。」と、三上は又ささやいた。「あいつ年が若いので、うろたえて何かを見違えたのではあるまいか。藻のなかに龍頭が光っていたなどというが、あいつも貴公とおなじように魚の眼の光るのでも見たのではないかな。」 そういえばそう疑われないこともない。大原はうなずいたままでまた考えていると、三上はつづけて言った。 「さもなければ、大書い亀でも這っていたのではないか。亀も年経る奴になると、甲に一面の苔や藻が付いている。うす暗いなかで、その頭を龍頭と見ちがえるのはありそうなことだぞ。」 まったくありそうなことだと大原も思った。彼はにわかに溜息をついた。 「もしそうだと大変だな。」 「大変だよ。」と、三上も顔をしかめた。 ありもしない鐘をあると申立てて、いざ引揚げという時にそのいつわりが発覚したら、福井の身の上はどうなるか。将軍家から特別の御賞美をたまわっているだけに、かれの責任はいよいよ重いことになって、軽くても蟄居閉門、あるいは切腹−将軍家からはさすがに切腹しろとは申渡すまいが、当人自身が申訳の切腹という羽目にならないとも限らない。当人は身のあやまりで是非ないとしても、それから惹いて組頭の難儀、組じゅうの不面目、世間の物笑い、これは実に大変であると大原は再び溜息をついた。 三 三上のいう通り、もしも福井文吾が軽率の報告をしたのであるとすれば、本人の落度ばかりでなく、ひいては組じゅうの面目にもかかわることになる。しかし自分たちの口から迂潤にそれを言い出すと、なんだか福井の手柄をそねむように思われるのも残念であると、大原は考えた。かれは当座の思案に迷って、しばらく薦曙していると、三上は催促するようにまた言った。 「どう考えても、このままに打っちゃっては置かれまい。これから二人で組頭のところへ行って話そうではないか。」 「むむ。」と、大原はまだ生返事をしていた。 沈んでいる鐘を福井が確かに見届けたと将軍の前で一且申立ててしまった以上、今となってはもう取返しの付かないことで、実をいえば五十歩百歩である。いよいよその鐘を引揚げにとりかかってから、かれの報告のいつわりであったことが発覚するよりも、今のうちに早くそれを取消した方が幾分か罪は軽いようにも思われるが、それでかれの失策がいっさい帳消しになるという訳には行かない。どの道、かれはその罪をひき受けて相当の制裁をうけなければならない。まかり問違えば、やはり腹切り仕事である。こう煎じつめてくると、福井の制裁と組じゅうの不面目とはしょせん逃がれ難い羽目に陥っているので、今さら騒ぎ立てたところでどうにもならないようにも思われた。 , 大原はその意見を述べて、三上の再考を求めたが、彼はどうしても肯かなかった。 「たとい五十歩百歩でも、それを知りつつ黙っているのはいよいよ上をあざむくことになる。貴公が不同意というならば、拙者ひとりで申立てる。」 そう言われると、大原ももう蹟曙してはいられなくなった。結局ふたりは組頭を小蔭に呼んで、三上の口からそれを言い出すと、組頭の顔色はにわかに曇った。勿論、かれも早速にその真偽を判断することは出来なかったが、万一それが福井の失策であった場合にはどうするかという心配が、かれの胸を重くおしつけたのである。 「では、福井を呼んでよく詮議してみよう。」 彼としては差しあたりそのほかに方法もないので、すぐに福井をそこへ呼び付けて、貴公は確かにその鐘というのを見届けたのかと重ねて詮議することになった。福井はたしかに見届けましたと答えた。 「万一の見損じがあると、貴公ばかりでなく、組じゅう一統の難儀にもなる。貴公たしかに相違ないな。」と、組頭は繰返して念を押した。 「相違ござりませぬ。」 「深い淵の底にはいろいろのものが棲んでいる。よもや大きい魚や亀などを見あやまったのではあるまいな。」 「いえ、相違ござりませぬ。」 いくたび念を押しても、福井の返答は変らなかった。彼はあくまでも相違ござらぬを押し通しているのである。こうなると、組頭もその上には何とも詮議の仕様もないので、少しくあとの方に珊戯っている三上と大原とを呼び近づけた。 「福井はどうしても見届けたというのだ、貴公等はたしかに見なかったのだな。」 「なんにも見ません。」と、三上ははっきりと答えた。 「わたくしは大きい魚に出逢いました。大きい藻にからまれました。しかし鐘らしいものは眼に入りませんでした。」と、大原も正直に答えた。 それはかれらが将軍の前で申立てたと同じことであった。三人が三人、最初の申口をちっとも変えようとはしない。又それを変えないのが当然でもあるので、組頭はいよいよその判断に迷った。ただ幾分の疑念は、年上の三上と大原とが揃いも揃って見なかったというものを、最も年のわかい福井ひとりが見届けたと主張することであるが、唯それだけのことで福井の申立てを一ち赦に否認するわけには行かないので、この上は自然の成行きに任せるよりほかはないと組頭も決心したらしく、詮議は結局うやむやに終った。 組頭が立去ったあとで、三上は福井に一言った。 「組頭の前でそんなに強情を張って、貴公たしかに見たのか。」 く喧う吋へんかい、 「公方家の前で一旦見たと申立てたものを、誰の前でも変改が出来るものか。」と福井は言った。 「一旦はそう申立てても、あとで何かの疑いが起ったようならば、今のうちに正直に言い直した方がいい。なまじいに強情を張り通すと、かえって貴公のためになるまいぞ。」と、三上は注意するように言った。 それが年長者の親切であるのか、あるいは福井に対する一種のそねみから出ているのか、それは大原にもよく判らなかったが、相手の福井はそれを後者と認めたらしく、やや尖ったような声で答えた。 「いや、見たものは見たというよりほかはない。」 「そうか。」と、三上は考えていた。 そんなことに時を移しているうちに、浅草寺のゆう七つの鐘が水にひびいて、将軍お立ちの時刻となったので、近習頭から供揃えを触れ出された。三上も大原も福井も、他の人々と一緒にお供をして帰った。 きょうの役目をすませて、大原が刊浄餌懲賦の組屋敷へ帰った時には、このごろの長い日ももう暮れ切っていた。風呂へはいって汗をながして、まずひと息つくと、左の脾腹から胸へかけて俄かに強く痛み出した。鯉か触か知れない魚に撲たれた痕が先刻からときどきに痛むのを、お供先では我慢していたのであるが、家へ帰って気がゆるんだせいか、この時いっそう強く痛んで来て、熱もすこし出たらしいので、かれは夕飯も食わずに寝床に転げ込んでしまった。家内のものは心配して医者を呼ぽうかと言ったが、あしたになれば癒るであろうとそのままにして寝ていると、その枕もとへ三上治太郎がたずねて来た。 「福井の奴が鐘を見たというのがどうも脆に落ちない。これから出直して行って、もう一度探ってみようと思うが、どうだ。」 彼はこれから鐙ケ淵へ引っ返して行って、その実否をたしかめるために、ふたたび淵の底にくぐり入ろうというのであった。大原はそんなことをするには及ばないといって再三止めた。 またどうしてもそれを実行するとしても、をにも今夜にかぎったことではない。昼でさえも薄暗い淵の底に夜中くぐり入るのは、不便でもあり、危険でもある。天気のいい日を見定めて、白昼のことにしたらよかろうと注意したが、三上はそれが気になってならないから、どうしても今夜を過されないと言い張った。 「おれの・見損じか、福井の見あやまりか。あるものか、ないものか。もう一度確かめて来なけ れば、どうしても気が済まない。貴公、この体では一緒に出られないか。」 「からだは痛む、熱は出る。しょせん今夜は一緒に行かれない。」と、大原は断った。 「では、おれひとりで行って来る。」 「どうしても今夜行くのか。」 「むむ、どうしても行く。」 三上は強情に出て行った。 その夜半から大原の熱がいよいよ高くなって、ときどきに講言をいうようにもなったので、家内の者も捨て置かれないので医者を呼んで来た。病人は熱の高いばかりでなく、紅とむらさきとの腫れあがった胸と脾腹が火傷をしたように痛んで苦しんだ。それから三日ほどを夢うつつに暮らしているうちに、幸いにも熱もだんだんに下がって来て、からだの痛みも少し薄らいだ。五、六日の後にはようやく正気にかえって、寝床の上で粥ぐらいをすすれるようになった。 家内のものは病人に秘していたが、大原はおいおい快方にむかうにつれて、かの鐘ケ淵の水中に意外の椿事が出来していたことを洩れ聞いた。三上はその夜帰って来ないので、家内の者も案じていると、あくる朝になってその饒磁が鐘ケ淵に発見された。彼はきのうと同じように半裸体のすがたで刀を背負って、ひとりの若い男と引っ組んで浮かんだままでいた。組み合っている男は福井文吾で、これも同じこしらえで刀を背負っていた。福井も無論死んでいた。 福井の家の者の話によると、彼はお供をすませて一旦わが家へ帰って来たが、夕飯を食ってしまうとまたふらりと何処へか出て行った。近所の友達のところへでも遊びに行ったのかと思っていると、これもそのまま帰らないで、冷たい饒鶴を鐘ケ淵に浮かべていたのであった。 三上が鐘ケ淵へ行った子細は、大原ひとりが知っているだけで、余人には判らなかった。福井がどうして行ったのかは、大原にも判らなかった。他にもその子細を知っている者はないらしかった。しかし三上と福井の身ごしらえから推量すると、かれらは昼間の探険を再びするつもりで水底にくぐり入ったものらしく思われた。三上は自分の眼に見えなかった鐙の有無をたしかめるために再び夜を冒してそこへ忍んで行ったのであるが、福井はなんの目的で出直して行ったのか、その子細は誰にも容易に想像が付かなかった。あるいは一旦確かに見届けたと申立てながらも、あとで考えると何だか不安になって来たので、もう一度それを確かめるために、彼も夜中ひそかに出直して行ったのではあるまいかというのである。 もし果してそうであるとすると、三上と福井とがあたかもそこで落合ったことになる。ふたりが期せずして落合って、それからどうしたのか。昼間の行きがかりから考えると、かれらはおそらく鐘の有無について言い争ったであろう。そうして論より証拠ということになって、二人が同時に淵の底へ沈んだのかも知れないと、ここまでの筋道は象ずどうにかたどって行 かれるのであるが、それから先の判断がすこぶるむずかしい。その解釈は二様にわかれて、ある者は果して鐘があったためだといい、ある者は鐘がなかったためだというので、バ冒らにも相当の理屈がある。 前者は、果して鐘のあることが判ったために、三上は福井の手柄を妬んで、かれを水中で殺そうと企てたのであろうという。後者は、鐘のないことがいよいよ確かめられたために、福井は面目をうしなった。自分は粗忽の申訳に切腹しなければならない。しょせん死ぬならば、口論の相手の三上を殺して死のうと計ったのであろうという。ふたりの死因は大方そこらであるらしく、水練に達している彼らが互いに押し沈めようとして水中に闘い疲れ、ついに組み合ったままで息が絶えたものらしい。しかも肝腎の問題は未解決で、鐘があったために二人が死んだのか、鐘がなかったために二人が死んだのか、その疑問は依然として取残されていた。 大原はひと月ばかりの後に、ようやく元のからだになると、同役の或る者は彼にささやいた。 「それでも貴公は運がよかったのだ。三上と福井が死んだのは水神の崇りに相違ない。それが上のお耳にも聞えたので、鐘の引揚げはお沙汰止みになったそうだ。」 英遭のきこえある八代将軍吉宗が果して水神の崇りを恐れたかどうかは知らないが、鐘ケ淵の引揚げがその後沙汰やみになったのは事実であった。大原家の記録には、「上にも深き思召のおわしまし候儀にや」云々と書いてある。 指輪一つ ■一 「あのときは実に驚きました。もちろん、僕ばかりではない、誰だって驚いたに相違ありませ んけれど、僕などはその中でもいっそう強いシヨックを受けた一人で、一時はまったく船かと してしまい哨糺たに中㌧、K君は一一。目った。座中では最も年の若い私立大学生で、大正十二年の震災当時は飛騨の高山にいたというのである。 あの年の夏は友人と三人づれで京都へ遊びに行って、それから大津のあたりにぶらぶらしていて、八月のこ苗警に東京へ帰ることになったのです〜れから真っ直ぐに帰ってくればよかったのですが、僕は大津にいるあいだに飛騨へ行った人の話を聞かされて一なんだか一種の仙境のような飛騨というところへ一度は踏み込んでみたいような気になって、帰りの途中でそのことを一一旨い出したのですが、ふたりの友人は同意しない。自分ひとりで出かけて行くのも何だか寂しいようにも思われたので、僕も一旦は蹟踏したのですが、やっぱり行ってみたいという料簡が勝を占めたので、とうとう岐阜で道連れに別れて、一騎駈けて飛騨の高山まで踏み込みました。その道中にも多少のお話がありますが、そんなことを言っていると長くなりますから、途中の話はいっさい抜きにして、手っ取り早く本題に入ることにしましょう。 僕が震災の報知を初めて聞いたのは、高山に着いてからちょうど一週間目だとおぼえています。僕の宿屋に泊まっていた客は、ほかに四組ありまして、どれも関東方面の人ではないのですが、それでも東京の大震災だというと、みな顔の色を変えておどろきました。町じゅうも引っくり返るような騒ぎです。飛騨の高山ここらは東京とそれほど密接の関係もなさそうに思っていましたが、実地を踏んでみるとなかなかそうでない。ここらからも関東方面に出ている人がたくさんあるそうで、甲の家からは息子が出ている、乙の家からは娘が嫁に行っている。 やれ、叔父がいる、叔母がいる、兄弟がいるというようなわけで、役場へ聞き合せに行く。警察へ駈け付ける。新聞社の前にあつまる。その周章と混乱はまったく予想以上でした。おそらく何処の土地でもそうであったでしょう。 なにぶんにも交通不便の土地ですから、詳細のことが早く判らないので、町の青年団は岐阜まで出張して、刻々に新しい報告をもたらしてくる。こうして五、六日を過ぎるうちにまず大体の事情も判りました。それを待ちかねて町から続々上京する者がある。僕もどうしようかと考えたのですが、御承知の通り僕の郷里は中国で今度の震災にはほとんど無関係です。東京に親戚が二軒ありますが、いずれも山の手の郊外に住んでいるので、さしたる被害もないようです。してみると、何もそう急くにも及ばない。その上に自分はひどく疲労している。なにしろ震災の報知をきいて以来六日ばかりのあいだはほとんど一睡もしない、食い物も旨くない。束京の大部分逃一朝にして灰儘に帰したかと思うと、ただむやみに神経が興奮して、まったく居ても立ってもいられないので、町の人たちと一緒になって毎日そこらを駈け廻っていた。その疲労が一度に打って出たとみえて、急にがっかりしてし蒙ったのです。大体の模様もわかって、まず少しはおちついた訳ですけれども、夜はやっぱり眠られない。食慾も進まない。要するに一種の神経衰弱にかかったらしいのです。ついては、この矢さきに早々帰京して、震災直後の惨状を目撃するのは、いよいよ神経を傷つけるおそれがあるので、もう少しここに踏みとどまって、世問もやや静まり、自分の気も静まった頃に帰京する方が無事であろうと思ったので、無理におちついて九月のなかば頃まで飛騨の秋風に吹かれていたのでした。 しかしどうも本当に落ち着いてはいられない。震災の実情がだんだんに詳しく判れば判るほど、神経が苛立ってくる。もう我慢が出来なくなったので、とうとう思い切って九月の十七日にここを発つことにしました。飛騨から東京へのばるには、北陸線か、東海道線か、・二つにひとつです。僕は束海道線を取ることにして、元来た道を引っ返して岐阜へ出ました。そうして、とも。かくも汽車に乗ったのですが、なにしろ関西方面から満員の客を乗せてくるのですから、その混雑は大変、とてもお話にもならない始末で、筥山から北陸線を取らなかったことを今更悔んで追っ付かない。別に荷物らしい物も持っていなかったのですが、からだ一つの置きどころにも困って、今にも圧し潰されるかと思うような苦しみを忍びながら、どうやら名古屋まで運ばれて来ましたが、神奈川県にはまだ徒歩連絡のところがあるとかいうことを聞いたので、さらに方角をかえて、名古屋から中央線に來ることにしました。さて、これからがお話です。 「ひどい混雑ですな。からだが煎餅のように潰されてしまいます。」 僕のとなりに立っている男が話しかけたのです。この人も名古屋から一緒に乗換えて来たらしい。煎餅のように潰されるとは本当のことで、僕もさっきからそう思っていたところでした。 どうにかこうにか車内にはもぐり込んだものの、ぎっしりと押し詰められたままで突っ立っているのです。おまけに残暑が強いので、汗の匂いやら人いきれやらで眼が眩みそうになってくる。僕は少し気が遠くなったような形で、周囲の人たちが何かがやがやしゃべっているのも、半分は夢のように聞いていたのですが、この人の声だけははっきりと耳にひびいて、僕もすぐに答えました。 「まったく大変です。実にやり切れません。」 「あなたは震災後、はじめてお乗りに校ったんですか。」 「そうです。」 「それでも上りはまだ楽です。」と、その男は言いました。「このあいだの下りの時は実に怖ろしいくらいでした。」 その男は戦劫〜を腰にまき付けて、ちぢみの半シャツ一枚になって一足にはゲートルを巻いて足袋はだしになっている。その身ごしらえといい、その口ぶりによって察しると、震災後に東京からどこへか一旦立退いて、ふたたび引っ返して来たらしいのです。僕はすぐに訊きました。 「あなたは東京ですか。」 「本所です。」 「ああ。」と、僕は思わず叫びました。東京のうちでも本所の被害が最もはなはだしく、被服廠跡だけでも何万人も焼死したというのを知っていたので、本所と聞いただけでもぞっとしたのです。 「じゃあ、お焼けになったのですね。」と、僕はかさねて訊きました。 「焼けたにもなんにも型なしです目店や商品なんぞはどうでもいい。この場合、そんなことをぐずぐず言っちゃあいられませんけれど、職人が四人と女房と娘ふたり、女中がひとり、あわせて八人が型なしになってしまったんで、どうも驚いているんですよ。」 僕ばかりでなく、周囲の人たちも一度にその男の顔を見ました。車内に押合っている乗客はみな直接間接に今度の震災に関係のある人たちばかりですから、本所と聞き、さらにその男の話をきいて、かれに注意と同情の眼をあつめたのも無理はありません。そのうちの一人手拭地の浴衣の筒袖をきている男が、横合いからその男に話しかけました。 ちり 「あなたは本所ですか。わたしは深川です。家財はもちろん型なしで、塵一っ葉残りませんけれど、それでも家の者五人は命からがら逃げまわって、まあみんな無事でした。あなたのところでは八人、それがみんな行くえ不明なんですか。」 「そうですよ。」と、本所の男はうなずいた。「なにしろその当時、わたしは伊香保へ行っていましてね。ちょうど朔日の朝に向うを発って来ると、途中であのぐらぐらに出っ食わしたとい う一件で。仕方がなしに赤羽から歩いて帰ると、あの通りの始末で何がどうなったのかちっとも判りません。牛込の方に親類があるので、多分そこだろうと思って行ってみると、誰も来ていない。それから方々を駈け廻って心あたりを探しあるいたんですが、どこにも一人も来ていない。その後二日たち、三日たっても、どこからも一人も出て来ない。大津に親類があるので、もしやそこへ行っているのではないかと思って、八日の朝東京を発って、苦しい目をして大津へ行ってみると、ここにも誰もいない。では、大阪へ行ったかとまた追っかけて行くと、ここにも来ていない。仕方がないので、また引っ返して東京へ帰るんですが、今まで何処へも沙汰のないのをみると、もう諦めものかも知れませんよ。」 大勢の手前もあるせいか、それとも本当にあきらめているのか、男は案外にさっぱりした顔をしていましたが、僕は実にたまらなくなりました。殊にこの、ころは著るしく感傷的の気持になっているので、椙手が平気でいればいるほど、僕の方がかえって一層悲しくなりました。 二 今までは単に本所舅といつていましたが、それからだんだんに話し合ってみると・そ舅 舳算篶μ㍊ま㌶μ誠鴻浮芦むけ 焼けて真つ黒でし奈、からだの大きい、元気のいい、見るから丈書つな男で・骨太の腕に は金側の腕時計などを嵌めていました。細君は四士で、総領のむすめは十九で・次のむすめ は十六だということでした。 一こ“も運で吐方があ呈せんよ。璃の者ばかりが死んだわけじゃ雲い・茎原じゅうで何万 人とレう人間が一度に死んだんですから、世間一統のことで愚痴も言えませんよ。一 人の手前ばかりでなく、西田という人はまったく諦めているようで充勿論・ほんとう震 つたとけ諦めたとかいうのではない。絶望から生み出されたよんどころない諦めには相違ない のですかなにしろ愚痴ひと2冒わないで、ひどく思い切りのいいような様子で・元気よくい リいろ川こ㌧を話していました。ことに僕にむかつて余計に話しかけるので亥隣りに立って レるせレかそれとも何となく気に入つたのか、前からの馴染みであるように打解けて話すの でけ。僕もこの不幸な人の話し相手になつて、幾分でもかれを慰めてやるのが当然の義務であ るカのようにも思われたので、無星がらも努めてその相手になっていたのでしちそのうち に西田さんは僕の顔をのぞいて言いました。 「あなた、どうかしやしませんか。なんだか顔の色がだんだんに悪くなるようだが……。」 実際、僕は気分がよくなかったのです。高山以来、毎晩磁々に安眠しない上に、列車のなか に立往生をしたままで、すし詰めになって揺すられて来る。暑さは暑し、人いきれはする。ま 喧,吋 ったく地獄の苦しみを続けて来たのですから、軽い脳貧血をおこしたらしく、頭が痛む、嘔気 を催してくる。この際どうすることも出来ないので、さっきから我慢をしていたのですが、そ れがだんだんに激しくなって来て、蒼ざめた顔の色が西田さんの眼にも付いたのでしょう。僕 も正直にその話をすると、西田さんもひどく心配してくれて、途中の駅々に土地の青年団など が出張していると、それから薬をもらって僕に飲ませてくれたりしました。 そのころの汽車の時間は不定でしたし、乗客も無我夢中で運ばれて行くのでしたが、午後に名古屋を出た列車が木曽路へ入る頃にはもう暮れかかっていました。僕はまたまた苦しくなって、頭ががんがん痛んで来ます。これで押して行ったらば、途中でぷっ働れるかも知れない。 それも短い時間ならば格別ですが、これから東京まではどうしても十時間ぐらいはかかると思うと、僕にはもう我慢が出来なくなったのです。そこで、思い切って途中の駅で下車しようと言い出すと、西田さんはいよいよ心配そうにいいました。 「それは困りましたね。汽車のなかでぶっ倒れでもしては大変だから、いっそ降りた方がいいでしょう。わたしも御一緒に降りましょう。」 「いえ、決してそれには−…。」 僕は堅くことわりました。なんの関係もない僕の病気のために、西田という人の帰京をおくらせては、この場合、まったく済まないことだと思いましたから、僕は幾度もことわって出ようとすると、脳貧血はますます強くなって来たとみえて、足もとがふらふらするのです。 「それ、ご覧なさい。あなた一人じゃあとてもむずかしい。」 西田さんは、僕を介抱して、ぎっしりに押詰まっている乗客をかき分けて、どうやらこうやら車外へ連れ出してくれました。気の毒だとは思いながら、僕はもう口を利く元気もなくなって、相手のする虫まに任せておくよりほかはなかったのです。そのときは夢中でした逃、それが奈良井の駅であるということを後に知りました。ここらで降りる人はほとんどなかったようでしたが、それでも青年団が出ていて、いろいろの世話をやいていました。 僕はただぼんやりしていましたから、西田さんがどういう交渉をしたのか知りませんが、やがて土地の人に案内されて、町なかの古い大きい宿屋のような家へ送り込まれました。汗だらけの洋服をぬいで浴衣に着かえさせられて、奥の方の座敷に寝かされて、僕は何かの薬をのまされて、しばらくはうとうとと眠ってしまいました。 眼がさめると、もうすっかりと夜になっていました。縁側の雨戸は明け放してあって、その縁側に近いところに西田さんはあぐらをかいて、ひとりで巻煙草をすっていました。僕が眼をあいたのを見て、西田さんは戸をかけました。 「どうです。気分はようござんすか。」 「はあ。」 落ち着いてひと寝入りしたせいか、僕の頭はよほど軽くなったようです。起き直ってもう眩量がするようなことはない。枕もとに小さい湯沸しとコップが置いてあるので、その水をついで一杯のむと、木曽の水は冷たい、気分は急にはっきりして来ました。 「どうもいろいろ御迷惑をかけて相済みません。」と、僕はあらためて礼を言いました。 「なに、お互いさまですよ。」 「それでも、あなたはお急きのところを……。」 「こうなったら一日半日を争っても仕様がありませんよ。助かったものならば何処かに助かっている。死んだものならばとうに死んでいる。どっちにしても急くことはありませんよ。」と、西田さんは相変らず落ちついていました。 そうはいっても、自分の留守のあいだに家族も財産もみな消え失せてしまって、何がどうしたのかいっさい判らないという不幸の境涯に沈んでいる人の心持を思いやると、僕の頭はまた重くなって来ました。 「あなた気分がよければ、風呂へはいって来ちゃあどうです。」と、西田さんは言いました。 「汗を流してくると、気分がいよいよはっきりしますぜ。」 「しかしもう遅いでしょう。」 「なに、まだ十時前ですよ。風呂があるかないか、ちょいと行って聞いて来てあげましょう。」 西田さんはすぐに立って表の方へ出て行きました。僕はもう一杯の水をのんで、初めてあたりを見家わすと、ここは奥の下屋敷で十畳の間らしい。庭には小さい流れ鉗引いてあって、水のきわには吉が高く茂っている。なんという鳥か知り虫せんが、どこかで遠く鳴く声が時々に寂しくきこえる。眼の前には高い山の影が真っ黒にそそり立って、澄み切った空には大きい星が銀色にきらめいている。飛騨と木曽と、僕はかさねて山国の秋を見たわけですが、場合が場合だけに、今夜の山の景色の方がなんとなく僕のこころを強くひきしめるように感じられました。 「あしたもまたあの汽車に來るのかな。」 僕はそれを思ってうんざりしていると、そこへ西田さんが足早に帰って来ました。 「風呂はまだあるそうです。早く行っていらっしゃい。」 催促するように追い立てられて、僕もタオルを持って出て、西田さんに教えられた通りに、縁側から廊下づたいに風呂場へ行きました。 三 なんといっても木曽の宿です。殊に中央線の汽車が開通してからは、ここらの宿もさびれたということを聞いていましたが、まったく夜は静かです。ここの家もむかしは大きい宿屋であったらしいのですが、今は養蚕か何かを本業にして、宿屋は片商売という風らしいので、今夜もわたし達のほかには泊まり客もないようでした。店の方では、虫だ起きているのでしょうが、なんの物音もきこえず森閑としていました。 家の構えはなかな大きいので、風呂場はずっと奥の方にあります。長い廊下を渡って行くと、横手の方には夜露のひかる畑がみえて、虫の声述きれぎれに聞える。昼問の汽章の中とは違って、ここらの夜風は綿硝と肌にしみるようです。こういう時に油断すると風邪をひくと思いながら、僕は足を早めて行くと、眼の前に眠ったような灯のひかりが見える。それが風呂場だなと思った時に、ひとりの女が戸をあけてはいって行くのでした。うす暗いところで、そのうしろ姿を見ただけですから、もちろん詳しいことは判りませんが、どうも若い女であるらしいのです。 それを見て僕は立ちどまワました。どうで宿屋の風呂であるから、男湯と女湯の区別があろうはずはない。泊まり客か宿の人か知らないが、いずれにしても婦人ことに若い婦人が夜ふけて入浴しているところへ、僕のような若い男が無遼慮に閲入するのは差控えなければなるまい。こう思って少し考えていると、どこかで人のすすり泣きをするような声がきこえる。水の流れの音かとも思ったのですが、どうもそれが女の声らしく、しかも風呂場の中から洩れてくるらしいので、僕もすこし不安を感じて、そっと抜足をして近寄って、入口の戸の隙きまからうかがうと、内は静まり返っているらしい。たった今、ひとりの女が確かにここへはいったはずなのに、なんの物音もきこえないというのはいよいよおかしいと思って、入口の戸を少し明け、またすこし明けて覗いてみると、薄暗い風呂場のなかには誰もいる様子はないのです。 「はてな。」 思い切って戸をがらりと明けてはいると、なかには誰もいないのです。なんだか薄気味悪くもなったのですが、ここまで来た以上、つまらないことをいって唯このままに引っ返すのは、西田さんの手前、あまり臆病者のようにもみえて極まりが悪い。どうなるものかと度胸を据えて、僕は手早く浴衣をぬいで、勇気を振るって風呂場にはいりましたが、かの女の影も形もみえないのです。 「おれはよほど頭が悪くなったな。」 風呂に心持よく浸りながら僕は自分の頭の悪くなったことを感じたのです。震災以来一どう も頭の調子が狂っている。神経も衰弱している。それがために一種の幻覚を視たのである。そ の幻覚が若い女の形をみせたのは、西田さんの娘ふたりのことが頭に刻まれてあるからである。 姉は十九で、妹は十六であるという。その若いふたりの生死不明ということが自分の神経を強 く刺戟したので、今ここでこんな幻覚を見たに相違ない。すすり泣きのように聞えたのはやは り流れの音であろう。昔から幽霊をみたという伝説も嘘ではない。自分も今ここでいわゆる幽 霊をみせられたのである。こんなことを考えながら、僕はゆっくりと風呂にひたって、き ょう一日の汗とほこりを洗い流して、ひどくさっぱりした気分になって、再び浴衣を着て入口 の戸を内から明けようとすると、足の爪さきに何かさわるものがある。うつむいて透かして見 ると、それは一つの指輪でした。 「誰かが落して行ったのだろう。」 風呂場に指輪を落したとか、置き忘れたとか、そんなことは別に珍らしくもないのですが、ここで僕をちょっと考えさせたのは、さっき僕の眼に映った若い女のことです。もちろん、それは一種の幻覚と信じているのですが、ちょうどその矢さきに若い女の所持晶らしいこの指輪を見いだしたということが、なんだか子細ありげにも思われたのです。ただしそれはこっちの考え方にもよることで、幻覚は幻覚、指輪は指輸と全く別々に引き離してしまえば、なんにも考えることもないわけです。 僕はともかくもその指輪を拾い取って、もとの座敷へ帰ってくると、留守のあいだに二つの寝床を敷かせて、西田さんは床の上に坐っていました。 「やっぱり木曽ですね。九月でもふけると冷えますよ。」 「まったくです。」と、僕も寝床の上に坐りながら話し出しました。「風呂場でこんなものを拾ったのですが……。」 「拾いもの……なんです。お見せなさい。」 西田さんは手をのばして指輪をうけ取って、鶴州の下で打ち返して眺めていましたが、急に顔の色が変りました。 舳「これは風呂場で拾ったんですか。」 「そうです。」 「どうも不思議だ、これはわたしの総領娘の物です。」 僕はびつくり㌧た。それはダイヤ入りの金の指輸で、形はありふれたものですが・奮一み つ一と平仮名で茎く彫つてある。それが確かな証拠だと西田さんは説明しました。 「なにしろ風呂場へ行ってみましょう。」 西田さんは、すぐに起ちました。僕も無論ついて行婁しち風呂場凄誰もいませへそ こらにけ川隠れている様子はありません。竃さんはさらに唐の帳場へ行って・震災以来の 宿哨をレちレち調査すると、前にもいう通3・この宿屋は近来ほとんど片商売のようになっ 篶㍑竈篶㌶㌶㌶ピい篶雛雛触㌔崇窃“ 叶組の宿泊客があつたが、宿帳に記された住所姓名も年齢も西田さんの家族とは全然襲してレるのです。念のために宿の女中たちにも聞きあわせたが、それらしい人相や風俗の女はひとりも泊まらないらしかった。 ただひと揖九月九日の夜に投宿した夫婦連れがある。これは東京から長野の方婁わって来たらし∵男は一一十七八の商人体で、女は三十前後の小粋な風俗であ一たということミ この二人カどうしてここへ降りたかというと、女の方がやはり僕とおなじように汽竃寡で苦しみ出したので、よんどころなく下車してここに一泊して、あくる朝早々に名古屋行きの汽車に乗って行った。女は真っ蒼な顔をしていて、まだほんとうに快くならないらしいのを、男が無理に連れ出して行ったが、その前夜にも何かしきりに言い争っていたらしいというのです。 単にそれだけのことならば別に子細もないのですが、ここに一つの疑問として残されているのは、その男が大きいカパンのなかに宝石や指輪のたぐいをたくさん入れていたということです。当人の話では、自分は下谷辺の宝石商で家財はみんな灰にしたが、わずかにこれだけの品を持出したとか言っていたそうです。したがって、宿の者の鑑定では、その指輸はあの男が落して行ったのではないかというのですが、九月九日から約十日のあいだも他人の眼に触れずにいたというのは不思議です。また、果してその男が持っていたとすれば、どうして手に入れたのでしよう。 「いや、そいつかも知れません。宝石商だなんて嘘だか本当だか判るもんですか。指輪をたくさん持っていたのは、おおかた死人の指を切ったんでしょう。」と、西田さんは言いました。 僕は戦傑しました。なる低ど飛騨にいるときに、震災当時そんな悪者のあったという新聞記事を読んで、よもやと思っていたのですが、西田さんのように解釈すれば、あるいはそうかと思われないこともありません。それはまずそれとして、僕としてさらに戦懐を禁じ得ないのは、その指輪が西田さんの総領娘の物であったということです。こうなると、僕の眼に映った若い女のすがたは単に一種の幻覚とのみ言われないようにも思われます。女の泣き声、女の姿、女の指輸ーそれがみな縁を引いて繋がっているようにも思われてなり家せん。それとも幻覚は幻覚、指輸は指輪、どこまで行っても別物でしょうか。 「なんにしてもいいものが手に入りました。これが娘の形見です。あなたと道連れにならなければ、これを手に入れることは出来なかったでしょう。」 礼をいう西田さんの顔をみながら、僕はまた一種の不思議を感じました。西田さんは僕と懇意になり、またその僕が病気にならなければ、ここに下車してここに泊まるはずはあるまい。 一方の夫婦かれらが西田さんの推量通りであるをらばこれもその女房が病気にならなかったら、おそらくここには泊まらずに行き過ぎてしまったであろう。かれらも偶然にここに泊雲り、われわれも偶然にここに泊まりあわせて、娘の指輪はその父の手に戻ったのである。 勿論それは偶然であろう。偶然といってしまえば、簡単明瞭に解決が付く。しかもそれは余りに平凡な月並式の解釈であって、この事件の背後にはもっと深い怖ろしいカがひそんでいるのではあるまいか。西田さんもこんなことを言いました。 「これはあなたのお蔭、もう一つには娘のたましいが私たちをここへ呼んだのかも知れません。」 「そうかも知れません。」 僕はおごそかに答えました。 われわれは翌日東京に着いて、新宿駅で西田さんに別れました。僕の宿は知らせておいたので・十月の寡ば頃寡って留さんは訪ねて来てくれました。店の職人三人はだんだ㌦に出て来たが・その一人はどうしても判らない。ともかくも元のところにバラツクを建ててこの頃ようやく落ちついたということでした。 「それにしても、女の人たちはどうしました。」と、僕は訊きました。 一わたしの手に戻って来たのは、あなた覧付けていただいた指輪一つだけです。一 僕はまた胸が重くなりました。 よ。L わたしは思わず身を固くした途端に、発車を知らせるベルの音がきこえました。 離魂病 M君は語る。 これは僕の叔父から聴かされた話で、叔父が三十一の時だというから、なんでも嘉永の初年のことらしい。その栗叔父は小石川の津蟻に小さい屋警持っていたが・その隣り轟に西岡鶴乏助という幕臣が住んでいた。ここらは小身の御家人が巣を作っているところで、屋 敷といっても皆小さい。それでも西岡は百八十俵取りで、お福という妹のほか㌦哨敵一人、 下女一人の四人暮らしで、まず不自由なしに身分だけの生活をしていた。西岡は十五の年に父 はたちひとりもの にわかれ、十八の年に母をうしなって、ことし二十歳の独身者である。と、まず彼の戸籍 しらべをして置いて、それから本文に取りかかることにする。 時は六月はじめの夕方である。西岡は凡浄鰍懲醜の親戚をたずねて、その婦り途に何かの買物をするつもりで鰍醐灘を通りかかると、一自分の五、六間さきを歩いている若い娘の姿がふと眼についた。 びん 西岡の妹のお福は今年十六で、痩形の中背の女である。その娘の島田に結っている貿付きから僚元から、醜ルり講細の戦劫罰きている後ろ姿までがかれと寸分も違わないので、西岡はすこし不思議に思った。妹が今頃どうしてここらを歩いているのであろう。なにかの急周でも出来すれば格別、さもなければ自分の留守の問に妹がめったに外出する筈がない。ともかく も呼び留めてみようと思ったが、広い江戸にはおなじ年頃の娘も、同じ風俗の娘もたくさんある。迂潤に声をかけて万一それが人ち述いであった時には極まりが悪いとも考えたので、西岡はあとから足早に追いついて、まずその横顔を覗こうとしたが、夏のゆう日が虫だ明るいので、娘は日傘をかたむけてゆく。それが邪魔になって、彼はその娘の横顔をはっきりと見定めることが出来なかった。さりとて、あまりに近寄って無遠慮に傘のうちを覗くことも悼られるので、西岡は後になり先になって小半町ほども黙って彫いてゆくと、娘は近江屋という闘鰍をかけた刀屋の唐先に足をとめて、内をちょっと覗いているようであったが、又すたすたと歩き出して、 東側の横町へ切れて行った。 「つまらない。もうよそう。」と、西岡は思った。 それがほんとうの妹であるか無いかは、家へ帰ってみれば判ることである。夏の日が長いといっても、もうだんだんに暮れかかって来るのに、いつまで若い女のあとを追ってゆくでもあるまい。物好きにも程があると、自分で自分を笑いながら西岡は爪先の方向をかえた。 江戸川端の屋敷へ帰り着いても、日はまだ暮れ切っκ沁なかった。庭のあき地に植えてある唐もろこしの蓑夕風に青くなびいているのが、杉の謹のあいだか島しそう{浅た。中間の佐助はそこらに水を打っていたが、くぐり戸をはいって来た主人の顔をみて会釈した。 「お帰りなさいまし。」 「お福は内にいるか。」と、西岡はすぐに訊いた。 「はい。」 それではやはり人ちがいであったかと思いをがら、西岡は何げなく内へ通ると、台所で下女の手伝いをしていたらしいお福は、響をはずしながら出て来て挨拶した。毎日見馴れている妹ではあるが、兄は今更のようにその顔や形をじつと眺めると、さ簑順成道で見かけたかの娘と不思議なほどに好く似ていた。や逆て湯が沸いたので、西岡は行水をつかって夕飯を食ったが、そのあいだもかの娘のことが何だか気になるので、下女にもそっと訊いてみたが、その返事はやはり同じことで、お福はどこへも出ないというのであった。 「では、どうしても他人の空似か。」 西岡はもうその以上に詮議しようとはしなかった。その日はそれぎりで済んでしまったが、それから半月ほどの後に、西岡は青山百人町の組屋敷にいる者をたずねて、やはり夕七つ半(午後五時)を過ぎた頃にそこを出た。今と違って、そのころの青山は狐や狸の巣かと思われるような草深いところであったが、そ巷も善光寺門前には町家がある。西岡は今やその町家 つづきの往来へ差しかかると、かれは俄かにぎょっとして立停まっち自分吉も五・六間さきに、妹と同じ娘があるいていたのであった。見れば見るほど、そのうしろ姿はお福とちっとも違わないのである。おなじ不思議をかさねて見せられて、西岡は単に他人の空似とばかりでは済まされなくなった。 彼はどうしてもその正体を見定めなければならないようを気になって、又もや足を早めてそのあとを追って行った。このあいだもきょうも、夕方とはいっても日はまだ明る㌧しかも町家つづきの往来のまん中で、狐や狸が化かすとも思われない。どんな女か、その顔をはっきりと見届けて、それが人違いであることを確かめなければ何分にも気が済まないので・西岡は駈けるよりに急いイゆくとビ娘は簑つも日傘をさしている。それが邪魔になってその横顔を覗くこと竃来な−ので、カれは苛・しながら付けてゆくと、娘はやがて櫓田原につづく広い草順に出たビここは草深い筆にも草深いところで、夏から秋にかけては人も隠れるほどの雑草蕎く告茂っていて、そのあいだに唯ひと筋の細い路が開けているばかりである。娘はその細い路をたどってゆく。西岡もつづいて行った。 「人違いであったらば、あやまるまでのことだ。思い切って呼んでみよう。」 西岡も少しく焦れて来たので、ひとすじ道のうしろから思い切って声をかけた。 「もし、もし。」 娘には聞えないのか、黙って怖向いて足を早めてゆく。それを追いながら西岡は又呼んだ。 「もし、もし。お嬢さん。」 娘はやはり振向きもしなかったが、うしろから追って来る人のあるのを覚ったらしい。俄かに路をかえて草むらの深いなかへ踏み込んでゆくので、西岡はいよいよ不思議に思った。 「もし一もし。熾さん……お嬢さん。」 つづけて呼びながら追ってゆくと、娘のすがたはいつか草むらの奥に隠れてしまった。西岡はおどろいて駈けまわって、そこらの高い草のなかを無暗に掻き分けて探しあるいたが、娘のゆくえはもう判らなかった。西岡はまったく狐にでも化かされたような、ばんやりした心持に なった。そうして、なんだか急に薄気味悪くなって来たので、早々に引っ返して青山の大通りへ出た。 家へ帰って詮議すると、きょうもお福はどこへも出ないというのである。お福には限らず、 そのころの武家の若い娘がむやみに外出する筈もないのであるから、出ないというのが本当でなければならない。そうは思いながらも、このあいだといい、きょうといい、途中で出逢ったかの娘の姿があまりお福によく似ているということが、西岡の胸に一種の暗い影を投げかけた。 その以来、かれは妹に対してひそかに注意のまなこを向けていたが、お福の挙動に別に変ったらしいことも見いだされなかった。 二 西岡は一度ならず二度ならず、三度目の不思議に遭遇した。 それはあくる月の十三日である。きょうは孟蘭盆の入りであるというので、西岡は妹をつれ て小梅の菩提寺へ参詣に行った。残暑の強い折柄であるから、なるべく轍沸のうちに行って来ようというので、ふたりは明け六つ(午前六時)頃から江戸川端の家を出て、型のごとくに墓参をすませて、住職にも逢って挨拶をして、帰り途はあずま橋を渡って浅草の広小路に差しかかると、孟蘭盆であるせいか、そこらはいつもより人通りが多い。その混雑のなかを摺りぬけて行くうちに、西岡は口のうちでかひと叫んだ。妹に生き写しというべき若い娘の姿が、きょうも彼の眼先にあらわれたからである。 西岡はあわ篶自分のうしろを見かえると、お福はたしかに自分のあとから付いて来た。五・六間さきには彼女と寸分違わない娘のうしろ姿がみえる。妹が別条なく自分のあとに付いている以上、所詮かの娘は他人の空似と決めてしまうよりほかはなかったが、いかになんでもそれが余りによく似ているので、西岡の不審はまだ給麗にぬぐい去られなかった。かれは妹をみかえって小声で言った。 「あれ、御覧、あの娘を……。おまえによく似ているじゃあないか。」 扇でさし示す方角に眼をやって、お福も小声で言っ・た。 「自分で自分の姿はわかりませんけれど、あの人はそんなにわたくしに似ているでしょうか。」 「似ているね。まったく好く似ているね。」と、西岡は説明した。「しかもきょうで三度逢うのだ。不思議じゃあないか。」 「まあ。」 とは言ったが、お福のいう通り、自分で自分の姿はわからないのであるから、かの娘がそれほど自分によく似ているかどうかを妹はうた述っているらしく、兄がしきりに不思議がっているほどに、妹はこの問題について余り多くの好奇心を挑発されないらしかった。 「ほんとうによく似ているよ。お前にそっくりだよ。」と、兄はくり返して言った。 「そうですかねえ。」 妹はやはり気乗りのしないような返事をしているので、西岡も張合い抜けがして黙ってしまったが、その眼はいつまでもかの娘のうしろ姿を追っていると、奴うなぎの前あたりで混雑のあいだにその姿を見失なった。きょうは妹を連れているので、西岡はあくまでもそれを追って行こうとはしなかったが、二度も三度も妹に生き写しの娘のすがたを見たということがどうも不思議でならなかった。 その晩である。西岡の屋敷でも迎い火を焚いてしまって、下女のお霜は近所へ買物に出た。 日が暮れても蒸し暑いので、西岡は切子燈寵をかけた縁先に出て、しずかに団扇をつかっていると、やがてお霜が帰って来て、お嬢さんはどこへかお出かけになりましたかと訊いた。いや、奥にいる筈だと答えると、お霜はすこし不思議そうな顔をして言った。 「でも、御門の前をあるいておいでなすったのは、確かにお嬢さんでございましたが……。」 「お前になにか口をきいたか。」 「いいえ。どちらへいらっしゃいますと申しましたら、返事もなさらずに行っておしまいになりました。」 た 西岡はすぐに起って奥をのぞいて見ると、お福はやはりそこにいた。彼女は北向きの肱掛け窓に寄りかかって、うとうとと居眠りでもしているらしかった。西岡はお霜にまた訊いた。 「その娘はどっちの方へ行った。」 「御門の前を右の方へ……。」 それを聞くと、西岡は押取刀で表へ飛び出した。今夜は薄く曇っていたが、低い空には星のひかりがまばらにみえた。門前の右どなりは僕の叔父の屋敷で、叔父は涼みながらに門前にたたずんでいると、西岡は透かし視て声をかけた。 「妹は今ここを通りゃあしなかったかね。」 「挨拶はしなかったが、今ここを通ったのはお福さんらしかったよ。」 「どっちへ行った。」 「あっちへ行ったようだ。」 叔父の指さす方角へ西岡は足早に追って行ったが、やがて又引っ返して来た。 「どうした。お福さんに急用でも出来たのか。」と、叔父は訊いた。 「どうもおかしい。」と、西岡は溜息をついた。「貴公だから話すが、まったく不思議なことがある。貴公はたしかにお福を見たのかね。」 「今も言う通り、別に挨拶をしたわけでもなし、夜のことだからはっきりとは判らをかったがどうもお福さんらしかったよ。」 「むむ。そうだろう。」と、西岡はうなずいた。「貴公ばかりでなく、下女のお霜も見たという のだから……。いや、どうもおかしい。まあ、こういうわけだ。」 妹に生きうつしの娘を三度も見たということを西岡は小声で話した。他人の空似といってし まえばそれ迄のことであ。るが、自分はどうも不思議でならない。殊に今夜もその娘が自分の屋敷の門前を俳個していたというのはいよいよ怪しい。これには何かの因縁がなくてはをらないと思って、今もすぐに追いかけて行ったのであるが、そのゆくえは更に知れない。今夜こそは取っ捉まえて詮議しようと思ったのに又もや取逃がしてしまったかと、かれは残念そうに言った。 「むむう。そんなことがあったのか。」と、叔父もすこしく眉をよせた。「しかしそれはやっぱり他人の空似だろう。二度も三度も貴公がそれに出逢ったというのが少しおかしいようでもあるが、世間は広いようで狭いものだから、おなじ人に幾度もめぐり逢わないとは限るまいじゃないか。」 「それもそうだが。…。。。」と、西岡はやはり考えていた。「わたしにはどうも唯それだけのこととは思われない。」 「まさか離魂病というものであるまい。」と、叔父は笑った。 「離魂病…1。そんなものがある筈がない。それだからどうも判らないのだ。」 「まあ、詰まらないことを気にしない方がいいよ。」 叔父は何がなしに気体めをいっているところへ、西岡の屋敷から中間の佐助があわただしく 駈け出して来た。かれは薄暗いなかに主人の立ちすがたをすかし視て、すぐに近寄って来た。 「旦那さま、大変でございます。お嬢さんが:…・。」 「妹がどうした。」と、西岡もあわただしく訊きかえした。 「いつの間にか冷たくなっておいでのようで……。」 西岡もおどろいたが、叔父も驚いた。ふたりは佐助と一緒に西岡の屋敷の門をくぐると、下 女のお霜も泣き顔をしてうろうろしていた。お福は奥の四畳半の肱かけ窓に俸りかかったまま で、眠り死にとでもいうように死んでいるのであった。勿論、すぐに医者を呼ばせたが、お福 のからだは氷のように冷たくなっていて、蒋び温かい血のかよう人にならなかった。 「あの女はやっぱり魔ものだ。」 西岡は捻るように言った。 たった一人の妹をうしなった西岡の嘆きはひと通りでなかった。しかし今更どうすることも 出来ないので、叔父や近所の者どもが手伝って、型の通りにお福の葬式をすませた。 「畜生。今度見つけ次第、いきなりに叩っ斬ってやる。」 西岡はかたきを探すような心持で、その後は努めて市中を出あるいて、かの怪しい娘に出逢 うことを念じていたが、彼女は再びその姿を見いだすことが出来なかった。 おなじ江戸川端ではあるが・牛込寄りのほうに掛灘欧識という一二百五十石取りの旗本の屋敷 があった。その隠居は漢学者で、西岡や叔父はかれについて漢籍を学び、詩文の添削などをし てもらっていた。隠居は黙郡と号して・そのころ六十以上の老人であ\たが・今度の西岡の妹 の一条についてこんな話をして聞かせた。 「その娘は他人の空似で、妹は急病で頓死、それとこれとは別々でなんにも係合いのないこと かも知れないが、妹の死ぬ朝には浅草でその姿を見せて、その晩にも屋敷の門前にあらわれた ということになると、両方のあいだに何かの綿を引いているようにも思われて、西岡が魔もの だというのも一応の理屈はある。しかし世の中には意外の不思議がないとは限らない。それと じよ’くザ忙坦うしもしばな」 は少し違う話だが、仙台藩の只野あや女、後に真葛尼といった人の著述で奥州咄という随筆 風の物がある。そのなかにこういう話述書いてあったように記憶している。 仙台藩中のなにがしという侍が或る日外出して帰って来ると、自分の部屋の机の前に自分と 同じ人が坐っている。勿論、うしろ姿ではあるが、どうも自分によく似ている。はて、不思議 だと思う問もなく、その姿は煙りのように消えてしまった。あまり不思議でならないので、そ い中 れを母に話して聞かせると、母は忌な顔をして黙っていた。すると、それから三日を過ぎない うちに、その侍は不意に死んでしまった。あとで聞くと、その家は不思議な家筋で、自分で自 分のすがたを見るときは死ぬと言い伝えられている。現になにがしの父という人も、自分のす がたを見てから二、三日の後に死んだそうだと書いてある。 わたしはそれを説んだときに、この世の中にそんなことのあろう道理がない。これは何か支 那の離魂病の話でも書き直したものであろうと思っていたが、今度の西岡の一件もややそれに 似かよっている。奥州咄の方では自分で自分のすがたを見たのであるが、今度のは兄が妹の姿 をみたのである。しかも一度ならず二度も三度も見たばかりか、なんの係合いもない奉公人や 隣り屋敷の者までがその姿を見たというのであるから、なおさら不思議な話ではないか。西岡 の家にも何かそんな言い伝えでもあるかな。」 「いや、知りません。誰からもそんな話を聞いたことは、こざいません。」と、西岡は答えた。 なるほど、その奥州咄にあるように、自分が自分のすがたを見るときは死ぬというような不 思議な例があるならば、西岡の場合にもそれが当てはまらないこともない。人間の死ぬ前には、 その魂がぬけ出してさまよい歩くとでもいうのかも知れないと、叔父は思った。そうなれば、 これも一種の離魂病である。西岡の話によると、妹は五月の末頃からとかくに眠り勝ちで、昼 間でも、うとうとと居眠りをしていることがしばしばあったというのである。、 鼻篶誰触嘗ビむい湾㌶杉㍑簑一雛㍊ 後に叔父に話した。 しかし彼は、妹によく似たかの娘に再び出逢わなかった。自分によく似た男にも出逢わなか ったらしい。そうして、明治の後までも無事に生きのびた。 明治二十四年の春には、東京にインブルエンザが非常に流行した。その正月に西岡は叔父のところへ年始に来て、酔鰍から酒になって夜のふけるまで元気よく話して行った。そのときに彼は言った。 一君も知っている通り、妹の一件のときには僕も当分はなんだか忌な心持だったが、今まで無事に生きて来て一子供たちもまず一人前κなり、自分もめでたく還暦の祝いまで済ませたのだから、もういつ死んでも憾みはないよ。ははははは。」 それから半月ほども経つと、西岡の家から突然に彼の死を報じて来た。流行のインフルェンザに罹って五日ばかりの後に死んだというのである。その死ぬ前に自分で自分のすがたを見たかどうだか叔父もまさかにそれを訊くわけにもゆかなかった。遺族からも別にそんな話もなかった。 「かぞえると三十年以上の昔になる。僕がまだ学生服を着て、東京の学校にかよっていた頃だ から、。。それは明治三十何年の八月、君たちがまだ生まれない前のことだ。」 海亀 賢鬚のやや白くなった実業家の浅岡氏は、二、三人の若い会社員を前にして、秋雨のふる宵にこんな話をはじめた。 うち そのころ、僕は妹の美智子と一緒に、本郷の親戚の家に寄留して、僕はMの学校、妹はA女 学校にかよっていた。僕は二十二、妹は十八断って置くが、その時代の若い者は今の人たちよりも、よっぽど優せていたよ。 七月の夏休みになって、妹の美智子は郷里へ帰省する。僕の郷里は山陰道で、日本海に面しているHという小都会だ。僕は毎年おなじ郷里へ帰るのもおもしろくないので、親しい友人と 二人づれで日光の中禅寺湖畔でひと夏を送ることにした。美智子は僕よりもひと足さきに、忘 れもしない七月の十二日に東京を出発したので、僕は新橋駅まで送って行ってやった。 く言いち 一一ヨ冒つ違もミその日驚の士百だから誇の晩だ。銀座通りの西側にも草市の店がな らんでいた。僕は美智子の革包をさげ、妹は小さいバスケットを持って、その草市の混雑のあ いだを抜けて行くと、美智子は僕をみかえって言った。 二、 「ねえ、刷さん。こんな人込みの賑やかな中でも、盆燈寵はなんだか寂しいもんですね。」 「そうだなあ。」と、僕は軽く答えた。 あとになってみると、そんなことでも一種の予覚というような事が考えられる。美智子はや がて盆燈寵を供えられる人になってしまって、彼女と僕とは永久の別れを告げることになった のだ。 妹が出発してから一週間ほどの後に、僕も友人と共に日光の山へ登って最初は涼しいと ころで勉強するなどと大いに意気込んでいたのだが、実際はあまり勉強もしなかった。湖水で 泳いだり、戦場ケ原のあたりまで散歩に行ったりして、。文字通りにぶらぶらしていると、妹が , 帰郷してから一カ月あまりの後、八月十九日の夜に、僕は本郷の親戚から電報を受取った。帰 せい 省ちゅうの美智子が死んだから直ぐに帰れというのだ。僕もおどろいた。 なにしろそのままには捨て置かれないと思ったので、僕は友人を残して翌日の早朝に山をお りた。東京へ帰って聞きただすと、本郷の親戚でも単に死亡の電報を受取っただけで詳しいこ とは判らないが、おそらく急病であろうというのだ。誰でもそう思うのほかはない。残暑の最 中であるから、コレラというほどではなくても、急性の胃腸腋寧僻のような病気に襲われたの でないかという噂もあった。ともかくも僕はすぐに帰郷することにして東京を出発した。ひと 月前に妹を新橋駅に送った兄が、ひと月後にはその死を弔らうべく同じ汽車に來るのだ。草市 のこと、盆燈籠のこと、それらが今さら思い出されて、僕も感傷的の人とならざるを得なかっ た。 帰郷の途中はただ暑かったというだけで、別に話すほどのこともなかったが、その途中で僕 ○占し が考えたのは「清がさぞおどろいて失望しているだろう。」ということだ。僕の実家は海産物 うち の間屋で、まず相当に暮らしている。そのとなりの浜崎という家もやはり同商売で、これもま あ相当に店を張っている。浜崎と僕の家とは親戚関係になっていて、浜崎の息子と僕たちとは いと,』 従弟同士になっているのだ。 浜崎のひとり息子の清というのは大阪の或る学校を卒業して、今は自分の家の商売をしてい る。清と美智子とは従弟同士の諦磁ピいったようなわけで、美智子がAの文学校を卒業する と、浜崎の家へ嫁入りする筈になっているのは、すべての人が承認しているのだ。今度も新橋 でわかれる時に、「清君によろしく。」と言ったら、美智子は少し紅い顔をしていた。美智子は 帰郷して清に逢ったに相違ない。となり同士だからきっと逢っているに決まっている。その美 智子が突然に死んだのだから、清はどんなに驚いているか、どんなに悲しんでいるか、それを 思うと僕の頭はいよいよ暗くなった。 もちろん葬式の問に合わないのは僕も覚悟していたが、殊に暑い時季であったために、葬式 し!い はもうおとといの夕方に執行されたということを、僕は実家の閾をまたぐと直ぐに聞いた。 「じゃあ、早く墓参りに行って来ましょう。」 「ああ、そうしておくれ。美智子も待っているだろう。」と、母は眼をうるませて言った。 旅装のままでといったところで、哉稗印の載え鵡に小倉の袴をはいただけの僕は、麦わ ら帽に夕日をよけながら、蔀織却へいそいで行った。地方のことだから、寺は近い。それでも 町から三町あまりも引っ込んだところで、桐の大木の多い寺だ。寺の門をくぐって、先祖代々 の墓地へゆきかかると、その桐の木にひぐらしがさびしく鳴いていた。 モとば』島喧りL0み 見ると、妹の墓地の前新ばとけをまつる卒塔婆や、白張提灯や、樒や、それらが型のご とくに供えられている前に、ひとりの男がうつむいて鰯んでいた。そのうしろ姿をみて、僕は すぐに覚った。彼はとなりの息子の清に相違ない。顔を合せたらまず何と言ったものか、そん なことを考えながらしずかに歩みよると、彼は人の近寄るのを知らないように暫く合掌してい た。それを妨げるに忍びないので、僕は黙って立っていた。 やがて彼は力なげに立上がって、はじめて僕と顔を見合せると、なんにも言わずに僕の両腕 をつかんだ。そうして、子供のように泣きだした。清は僕よりも年上の二十四だ。大の男がそ の泣き顔は何事だと言いたいところだが、この場合、僕もむや氏に悲しくなって、二人は無言 でしばらく泣いていた。いや、お話にならない始末だ。 それから僕は墓前に参拝して、まだ名残り惜しそうに立っている清をうながすようにして・ 寺を出た。そこで僕は初めて口を開いた。 「どうも突然でおどろいたよ。」 「君もおどろいたろう竈」と、清は俄かに昂奮するように昌冒った。「話を聴いただけでもおどろ くに相違ない。いや、誰だっておどろく−・:。ましてそれを目撃した僕は:…・僕は……。」 「目撃した、、君は妹の臨終に立会ってくれたのかね。」 「君は美智子さんが、どうして死んだのか・…:。それをまだ知らないのか。」 「実はいま着いたばかりで、まだなんにも知らないのだ。」と、僕は言った。「いったい、妹は どうして死んだのだ。」 「君はなんにも知らない、。」と、彼はちょっと不思議そうな顔をしたが、やがて又、投げ 出すように言った。「いや、知らない方がいいかも知れない。」 「じゃあ、美智子は普通の病気じゃあなかったのか。」 「勿論だ。普通の病気なら、僕はどんな方法をめぐらしても、きっと全快させて見せる。君の 家だって出来るかぎりの手段を講じたに相違ない。しかも相手は怪物だ、海の怪物だ。それが 突然に襲って来たのだから、どうにも仕様批ない。」と、彼氏響ゼ握りしめながら罵るように 叫んだ。 「君、まあ落ちついて話してくれたまえ。それじゃあ美智子はなにか変った死に方をして、君 もその場に一緒に居合せたのだね。」 「むむ、一緒にいた。最後まで美智子さんと一緒にいたのだ。いっそ僕も一緒に死にたかった のだが…−。どうして僕だけが生きたのだろう。」と、彼はいよいよ昂奮した。「君はおそらく 迷信家じゃああるまい。僕も迷信は断じて排斥する人間だ。その僕が迷信家に屈伏するように なったのだ。僕は今でも迷信に反対しているのだが、それでも周囲のものどもは、僕が屈伏し たように認めているのだ。」 彼は一体なにを言っているのか、僕には想像が付かなかった。 二 「まあ、聞いてくれたまえ。」と、清はあるきながら話し出した。「君も知っているだろうが、 ここらじゃあ旧暦の謝蔽螢には海へ出ないことになっている。出るとかならず災難に遭うとい うのだ。一体どういうわけで、昔からそんなことを言い伝えているのか知らないが、おそらく 盆中は内にいて、漁などの縄埜うを休めという意味で、誰かがそんなことを言いだしたのだろ う。僕はそう思って、今まで別に気にも留めていなかった。ところで、美智子さんがこの夏こ こへ帰って来てから、夜も昼も一緒に小舟に乗って、二人はたびたび海へ遊びに出ていたのだ。 ねえ、君。別に珍らしいことはないだろう。」 「むむ。」と、僕はうなずいた。夏休みで帰郷した美智子は、さだめて清と舟遊びでもしてい るだろうと、僕はかねて想像していたのであるから、この話を聞いても別に怪しみもしなかっ た。 「そのうちに、今月の十七日が来た。十七日は旧暦の孟蘭盆に当るので、ここらでは商売を休 うち帖中 んでいる家も随分あった。浜では盆踊りも流行っていた。その日は残暑の強い日だったが、日 が暮れてから涼しい風がそよそよ吹いて来た。昼聞から約束してあったので、夕飯をすませて から僕は美智子さんを誘い出して、いつものとおり小舟に乗って海へ出ようとすると、僕のう ちの番頭あの聯あたまの万兵衛が変な顔をして、今夜は鎧の十五日だから海へ出るのはお 止しなさいと言うのだ。 孟蘭盆がなんだ、孟蘭盆の晩でも、大阪商船会社の船は出たり這入ったりしているじゃあな いかと、僕は腹のなかで笑いながら、そしらぬ顔で表へ出ると、万兵衛は強情に追っかけてき て、漁師の舟さえ今夜は休んでいるんだから、遊びの舟をぞはなおさら遼慮しろというのだ。 勿論、僕がそんなことを取合う筈もない。あたまから叱りつけて出ようとすると、美智子さん は女だから、万兵衛にむかって、すぐ帰って来るから安心してくれとなだめるように言い聞か せて、二人はまあ浜辺へ出たのだ。」 ,」う言いながら、清は路ばたに咲いている桔梗のひと枝を切り取った。どこやらでひぐらし の声がまたきこえた。 彼は薄むらさきの花をながめながら又話し出した。 うち 「君も知っている通り、浜辺の砂地には僕の家の小舟が引揚げてある。それをおろして、僕は 美智子さんと一緒に乗込んだ。今に始まったことじゃあないから、そんなことは詳しく説明す ホい るまでもあるまい。僕が橿をとって海へ漕ぎだすと、今夜は空が晴れている。星がでる、月が でる。浪はおだやかで、風は涼しい。これまで美智子さんと幾たびか海へ出たが、こんなにい い晩は一度もなかった。二人は非常に愉快になって、舷燦をたたきながら声をそろえて歌った。 振り返ってみると、浜辺の町の灯は低く沈んで、水にひびく盆踊りの歌ごえも微かになって、 自分たちの舟がもう余程遠く来ているのに気がついたが、それでも僕は頓着なしに漕いで行っ た。子供の時からここに育って、海には馴れているからね。そのうちに美智子さんはこんなこ とを言い出した川 =体、孟蘭盆の晩に舟を出しては悪いなんて、誰が言いはじめたんでしょうねえ。』僕はそ れに答えて、前にいった通り『おそらく孟蘭盆の晩にはみんな内にいて、殺生の漁を休めとい うのでしょう。』と言うと、美智子さんは急に沈んだように溜息をついてHそんなことならよ うござんすけれど、番頭さんの言うとおり今夜海へ出るのは悪いんじゃないでしょうか。伝説 だの、迷信だのといいますけれど、昔から悪いということは多年の経験から出ているんでしょ うから……。』と、こう言うのだ。 ねえ、君。美智子さんは迷信家でもなければ、気の弱い人でもない、ふだんから理智的な、 活激な女性だ。それが禿あたまの番頭の口真似をするように、なんだか変なことを言い出した ので、僕は少し不思議になった。今まで元気よく歌っていた人が急に溜息をついて憂竃になっ て来たのだから、どうもおかしい。」 彼はこう言いかけて、自分も低い溜息をつきながら手に持っている桔梗の花を軽く投げ捨て た。 「それからどうしたね。」と、僕は催促するように訊いた。 「それから=…。。僕はこう言った。『多年の経験というけれども、多年のあいだには孟蘭盆の 晩に海へ出て、一度や二度は偶然に何かの災難に遭った者がなかったとも限らない。その偶然 の出来事を証拠にして、いつでもきっと有るように考えるのは間違いですよ。』けれども、 美智子さんは承知しないで、更にこんなことを言い出したんだ。『たとい偶然にしても・その 偶然の出来事に今夜も出逢わないとは限りますまい。』そういえばそんなものだが、なに しろ美智子さんがこんなことを言い出すのは、ふだんに似合わないことだ。しかし、いつまで 議論をしても保てしがないから、僕はさからわずに舟を戻すことにした。 由」 その時だ。榴を把っている僕の手を美智子さんはしっかり掴んで円あれ、あれ……人魚が 。…=人魚が。』と一言う。なんだろうと思って見かえると、なんにも見えない。月は蛎郁と明る く、海の上は一面に光っている。それでも僕の眼にはなんにも見えないのだ。美智子さんはさ っきから変なことばかり言うから、これも何かの幻覚か錯覚たろうと思って、深くは気にも留 めずにともかくも漕ぎ戻すことにすると、美智子さんはなんだか物にでも想かれたように、発作的に気でも狂ったように、いつまでも僕の手を強く掴んで放さないで『あれ又……。あれ、 人魚が……。』と繰返して言う。なにしろ僕の手を掴んでいられては、橿を漕ぐことができな い。舟は一つところに漂っているばかりだ。さあ、その時……。僕も見た……。僕も見た。」 清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を魎んだように……。僕は 小突かれながらも慌てて訊いた。 「君も見た……。なにを見たのだ。」 「月に光っている海の上に…−。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。 「海の上に……。人の顔…−人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして…・:。」 「たしかに人の顔に見えたのか。」 「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」 「海亀だろう。」と、僕は言った。 海亀いわゆる量、戴嚇には青と赤の二種がある。青い海亀はもっぱら小笠原島附近で捕 獲されるが、日本海方面に棲息するのは赤海亀の種類だ。赤といっても赤褐色だが、時にはず いぶん巨大なのを発見することがある。清の話を聴きながら、僕はすぐに赤海亀を思い出した。 彼も美智子も一種の錯覚か妄覚にかかって、浪のあいだから首を出した大きい海亀を見あやま って、人の顔だとか人魚だとか騒いだのだろうと想像した。果して彼はうなずいた。 「むむ、海亭、。そう気がつくまでは、美智子さんばかりでなく僕も人の顔だと思ったの だ。君だってその場にいたら、きっと人の牽…・・すなわち人象あらわれたと思うに相違ない よ。美智子さんは人魚だ人魚だと言つ。僕も一旦そう信じて、驚異の眼をみはって見つめてい ると、人の顔はやがて浪に沈んだかと思うと、また浮き出した。さあ、大変…・:。僕の驚異は にわかに恐怖に変ったのだ。多年ここらの海に出ているものでも、おそらく僕たちのような怖 一 ろしい目に出逢ったものはあるまい。」 彼は戦懐に堪えないように身をふるわせた。 ************************************ 三 ************************************ 今までは清も僕もしずかにあるきな書話して来たのだが、話がここまで進んで来ると・彼 はもう歩かれなくなったらしい。路ばたに立ちどまって話しつづけた。 廿?う昌 一君は海亀だろうと無雑作にいうが、その海票おそろしい。僕も一時の錯覚から眼が醒めて・ 人魚の正体は海亀であることを発見したが、美智子さんはやはり人魚だというのだ。まあそれ はそれとして、僕に異常の恐怖をあたえたのは、その海亀が浪のあいだから最初は一匹、つづ いて二匹「三匹…。・。五匹。1。。。。。十匹…・:。だんだんに現われて来て、僕たちの舟を取囲んで しまったのだ。海はおだやかで、波はほとんど動かない。そ聰幣轡たる海の上で・美智子さ んと僕のふたりは海亀の群れに包囲されて、どうしていいかわからなくなった。 ************************************ 233海亀 ************************************ 一体かれらは僕たちの舟を囲んでどうするつもりかと見ていると、小さい海亀がまた続々あ らわれて来て、僕たちの舟へ這いあがって来るのだ。平生ならば、小さな海亀などは別に問題 にもならないのだが、美智子さんは無暗に怖がる、僕もなんだか不安に堪えられなくなって、 手あたり次第にその亀を引っ掴んで、海のなかへ投げこんだ。ただ投げ込むばかりでなく、そ れ亭灘どして大きい奴にたたきつけて、一方の血路をひらこうと考えたのだ。それは相当に成 ともみよし 功したらしい鉗、何をいうにも敵は大勢だ。小さい舟の右から左から、腹からも舳からも、大 く昌 小の海亀がぞろぞろ這いこんで来る。かれらは僕たちを喚うつもりだろうか。ここらの海亀は蝦や蟹を喚うが、人間を咬ったという話をきかない。しかしこんなに多数の海亀に襲われると、僕たちも危険を感ぜずにはいられなくなった。僕もしまいには闘い疲れてしまった。美智子さんはもう死んだようになっている。かれらはほとんど無数というほどに増加して、舟の周囲に 一面の甲羅をならべたのが月の光りにかがやいて見える……。君が?」ういう奇異に遭遇したらどうするか。僕は疲労と恐怖で身動きも出来なくなった。」 成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだか体の血が 冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。 「その場合、君にしても橿を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように一言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物…:人焦以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただだ然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに撃じのばって来たのか、僕もよく知らないが、ともかくも続々乗込んで来たのだ。 こうなると、誰にでも考えられることは海亀の童量だ。大きい海亀は何貫目の重量鉢あるか、 君も知っているだろう。それが無数に乗込んで来て、しかも一匹の甲羅の上に他の一匹が來る、 た自 又その上に一匹が來るという始末で、かさなりあって來るのだから堪らない。大石を積んだ小 舟とおなじように、僕たちの舟はだんだんに沈んで行くのほかはない。無益とは知りながら、 僕は血の出るような声を振りしぽって救いを呼びつづけたが、なにぷんにも岸は違い。僕が必 死の叫び声も、いたずらに水にひびいて消えてゆくばかりだ。これが平生の夜ならば、沖に相 当の漁船も出ているのだが、いかんせん今夜は例の迷信で、広い海に一艘の舟も見えない。浜 の者どもは盆踊りで夢中になっているらしい。僕たちが必死に苦しみもがいているのを、黙っ て眺めているのは今夜の月と星ばかりだ。僕たちの無抵抗をあざけるように、敵はいよいよ乗 込んで来る。舟は重くなる。舷⑭から潮水がだんだんに流れ込んで来る。最後の運命はもう判 り切っているので、僕は観念の眼をとじて美智子さんを両手にしっかりと抱いた。子供の時か らこの海岸に育った僕だ。これが僕一個であったらば、たとい岸が遠いにもしろ、この場合、 運命を賭して泳ぐということもあるが、美智子さんを捨ててゆくことはできない。二人が抱き 合ったままで、舟と共に沈もうと決心して…−。これも一種の心中だと思って・…・・。それから さきは夢うつつで……。」 ************************************ 235海亀 ************************************ 「そうすると、結局は舟が沈んで・・−・。君だけが助かって、妹は死んだというわけだね。」 「残念ながら事実はそうだ。」と、清は苦しそうな息をついた。「おそろしい悪夢からさめた時 には、僕たちふたりは浜辺に引揚げられていた。あとで聞くと、僕たちの帰りの遅いのを心配 して、番頭の万兵衛がまず騒ぎだして、捜索の舟を出してくれたので、海のなかに浮きつ沈み つ漂っている僕たちが救われたというわけだ。なんといっても僕は水ごころがあるから、たく さんの水を飲まなかったので容易に倣復したが、美智子さんはだめだった。いろいろ手を尽く したが、どうしても息が出ないのだ。こんなことになるなら、僕もいっそ倣復しない方がまし だったのだ。なまじい助けられたのが残念でならない。僕たちの小舟はあくる朝、遠い沖で発 見されたが、海亀はどうしてしまったか一匹も見えなかったそうだ。」 「死んだものは、まあ仕方がないとして、君のからだはその後どうなのだ。もう出歩いてもい いのか。」と、僕は慰めるように訊いた。 「僕はその翌日寝ただけで、もう心配するようなことはない。美智子さんの葬式にもぜひ参列 よ したいと思ったのだが、みんなに止められて拠んどころなく見合せたので、きょうは思い切っ て墓参りに出て来たのだ。幾度いっても同じことだが、僕は生きたの餅幸か不幸かわからない。 僕は昔からの迷信を裏書きするために、美智子さんを犠牲にしたようなものだ。」 彼の蒼白い煩には涙がながれていた。 「僕も迷信者になりた。くない。それは美智子の言った通り、君たちが不幸にして偶然の出来事に出逢ったのだ。」と、僕はふたたび慰めるように昌冒った。 ************************************ 違靖舞㌶爽雛灯㍑一㌶篶㌶舵鐵舳 雛雛獺㍑㍑躯つむ㍑㌶鶯㌶舞葺嶋 更に㍑がえると、普通の亀ならば格刷海亀露中に這い込んだというのは僕の胴に落ちか ねるカなにぶん現場を目撃したのでないから、ともかくも本人の直話を信用するのほかはなかった。 ************************************ ひ中くもの蛎たり 百物語 ************************************ 今から八十年ほどの昔と言いかけて、0君は自分でも笑い出した。いや、もっと遠い昔 じようしoう になるのかも知れない。なんでも弘化元年とか二年とかの九月、上州の或る大名の城内に起 った出来事である。 ************************************ 237百物語 ************************************ 秋の夜に若侍どもが挺静めをしていた。きのうからの雨のふりやまないで、物すごい夜であった。いつの世もおなじことで、こういう夜には怪談のはじまるのが習いである。そのなかで、 一座の先輩と仰がれている中原武太夫という男望冒い出した。 「むかしから世に化け物があるといい、無いという。その議論まちまちで確かに判らをい。今 夜のような晩は丁度あつらえ向きであるから、これからかの百物語というのを催して、妖怪が 出るか出ないか試してみようではないか。」 「それは面白いことでござる。」 いずれも血気の若侍ばかりであるから、一座の意見すぐに一致して、いよいよ百物語をはじ 「矢上、それ。」 師匠と弟子は走りかかって、左右からかの怪物を取押えると、怪物はのめるようにぐたりと 前に倒れた。倒れると共に、それを埋めている雪の衣は崩れ落ちて、提灯の火の前にその正体 をあらわした。彼は石川房之丞で、見ごとに腹をかき切っていた。ゆうべから何処に忍んでい て、いつこのところへ立戻って来たのか知らないが、彼はあたかもかの妖婆が坐っていたらし い所をえらんで、おなじように坐って、同じように雪に埋められて、真っ白になって死んでい たのであった。 四人は黙って顔をみあわせていた。 この事件あって以来、鬼婆横町の名がさらに世間に広まったが、雪中の妖婆は何の怪物であ るか判らなかった。それが伝説の鬼婆であるとしても、なぜ或る時にかぎってその姿をあらわ したのか、そんな子細はもとより判ろう筈はなかった。かの妖婆をみたという四人の若侍のう ちで、堀口は石川に殺され、石川は自殺した。なんにも係合いなしに通り過ぎた神南は、無事 であった。かれに銭をあたえて通ったという森積は、その翌年の正月に抜擢されて破格の立身 をした。 その後、この横町で、ふたたび鬼婆のすがたを認めたという者はなかった。 ************************************