三月変 ー頽《くず》れゆく家ー 岡田三郎  一生のうちにたった一遍、三吉は雨の降る往来を母 をおぶって歩いた経験のあるのを、その母の死後、時 時思いだしては、まざまざと生ける母の姿を、まのあ たりに見る思いすることがあった。  母、三吉、四郎、五作、それに先年死んだ長兄の遺 子《いし》で、来年あたり中学へはいろうという年頃の宏と、 この五人が、小樽で死んだ三吉達の父の葬式を済まし 初七日《しよなぬか》もおわったところで、遺骨を携《たずさ》え帰京したので あった。  上野へ着けば、どしゃぶりの雨だった。十二月の上 旬、日の暮も早く、雨脚《あまあし》が広場のぬかるみに光って、 一層寒い思いがした。  母は一昼夜半の長旅に、すっかり疲れきっていた。 そうでなくてさえ、つれあいの死によって、ひどく落 胆し、あとの始末なんか、みんな人手に委《まか》せきりで、 自分では何一つ出来ないような状態のところへ、汽車 でも汽船でも、すべて乗物には弱い人で、寝台車に寝 ていてさえ、僅《わず》かばかり食べたものをもどすという按 配《あんばい》。ほとんど絶食にひとしい有様で、上野の駅に降り た時には、よろよろして、出迎の者に手をひかれ、よ うよう、駅の表口まで出たくらいであった。  出迎には、母の弟、つまり三吉達には叔父にあたる 入と、三吉の家内の文子と、ほかに、雑司《ぞうし》ケ谷《や》の家に 親しく出入りしている大橋さんという女の人と、それ だけ来ていてくれた。  母が、血の気のない、むくんだような青い顔をし て、そのうえ、急に霞でもかかったようなぼんやりし た眼をうろうろさせながら、足元も危なげに汽車から 降りるのを見ては、迎えの人もさすがに、くやみの言 葉、励ましの言葉、-…何一つ口には出せないで、た だ頭をさげ挨拶するだけであった。 「栄子はどうしたろう?」  荷物の揃《そろ》うのを待ったり、タキシーの準備に気を配 つたりしている三吉に、母が不意に問いかけるのであ った。トランクに腰をかけさせておいたのに、母は立 ちあがって、どうして栄子が迎えに来ていないのか と、あたりをうろうろ眺めまわすようにした。  栄子というのは、三吉兄弟の一番上の姉のことだっ た。母とは十五か十六しか年の違わないまるで姉妹の ようなもので、普段何かといえば意見が衝突したり、 一つ家にいてもあまり互にたよりあうようなことのな い間柄であった。それだのに、父が死んでしまった 今、もう四十六にもなるその未婚の娘の、母にとって 実感的に如何《いか》に懐しまれ親まるべき存在となっている か、三吉に竜殫解されて、こうまで竜弱々しい心にな った母を悲しくさえ思った。 「姉はどうしています?」  四郎に手伝って荷物の世話を焼いている大橋さん に、三吉は近よりながら問いかけた。 「風をひいて昨日《きのう》まで寝てらしったわ。でも熱はそう ないんですって。」  そのとおり母に報告すると、いくらか気が晴れたら しく、またトランクに腰をおろして、寒いのであろ う、道行の袖を前にきっちり合せて眼をつぶった。  目白の四ツ家町《やまち》にタキシーを乗りつけた頃は、雨も 小降になっていたが、その表通《右もてどおり》から小路《こうじ》に折れて雑司 ケ谷の家へ行くまで、小半町はあった、偲のためにと 足駄と傘をとりに誰かが行こうとするのを、三吉はい いからと、外套《がいとう》に着ぶくれた背を自動車の降口にむけ て、丹に、おぶさるようにと促《うな》がした。  四郎は小樽からずっと、父の遺骨を持つ役目をあて がわれていた、その四郎がバスケットを持って大股に とっと行くあとから、三吉は案外母の重いのに感傷的 な心強さを感じながら、遅れがちについて行った。 「三吉、大丈夫かえ?」  まさか母もこの子におぶさるような機会があろう とは、思いもしなかったのであろう、気遣うように言 うその声にも、どこか嬉しそうな張《はり》の籠っているのが 三吉に竜解った。 「大丈夫とも。だが、割に重いんだね。」 「そうかねえ。もう骨と皮ばかりだが。」 「これからせいぜい、肉をつけるようにするんだな。」 「これからかえ?」  そう言った母の声音《こわね》は、何かしら絶望的な感じが裏 づけられているように三吉に思われた。そのまま母は 息を深くひくと、あとはじっと黙して、ぐったり三吉 の肩に全身の重みをゆだねるようにした。うしろへま わした三吉の腕は、だんだんだるくなって、門の前の 有段を二段あがる時には、足も重く、うっかりする と、母をおぶったまま、あおのけに倒れそうな気がし た。  やっと式台に母をおろして、そこへ出迎《でむかえ》に出た姉の 栄子と顔を見あわせると、三吉は額の汗を手の甲で拭《ぬぐ》 って、ほっとした。  母は座數ゐ瀬戸火鉢のそばへ坐ったきり、他の人達 が床の間に遺骨をかざり、灯明《とうみよう》をあげ焼香をしたりす るのを、うつろな眼でじっと見ているきりであった。 「お母さんもお焼香なさい。」 栄子が立って来て言うと、母は、今まで夢でも見て いた人のように、急にびっくりして娘の顔を見あげ た。 「何え?」  そう言って、左の方の耳を相手にぐっとさしのべ た。 「耳がとても遠くなったんだよ」と、四郎は姉に説明 しながら寄って来た。 「お母さん、お焼香するんだとさ。」  栄子の倍ほどの声で四郎が母の耳元で言った。 「お焼香かえ。お焼香なら、もう沢山だよ。何十遍と なくして来たんだから、あとはお前達でしな。」  何をするのも物憂いというように、母は青い顔を不 快そうにしかめながら、火鉢の縁《へり》に伏《ふ》さってしまっ た。  その頃三吉は横浜の弘明寺《ぐみようじ》に文子と二人、わざと匿 にかくれるような生活を営んでいた。  父が病気で寝ていることを小樽の方から知らせてよ こしたのは、十月の半頃であった。父の兄、つまり三 吉には伯父にあたる人は小樽のかなりな大地主であっ たが、その死後、当主である養嗣子《ようしし》が、世界大戦中船 に手をだし、結局三四十万の損失を招いたのであっ た。その負債の整理をするために、親戚が集って合資 会社を組織し、三吉の父は労務出資者として、同家の 債務整理の衝《しよう》にあたるため、六七年前妻子を東京にの こし、単身小樽に赴《おもむ》いたのであった。その後、死亡当 時に至るまで、推されてその会社の代表社員となり、 亡兄の遺産整理と同時に利殖の法を、ほとんど寝食を 忘れて講じたのであった。  三吉達にして見れば、父のやっている仕事なんか、 馬鹿々々しい竜のに思われて仕方がなかった。他人の 家の財産整理に寝食を忘れたり、手当といえばいくら でもなし、その上いつも憎まれ役にまわって、陰では |糞爺《くそじじい》とか何とか悪口をいわれたんでけ、たまるもので はなかった。ただ父の意を幌麼するなび、父にとって は兄の家である。その兄の家を傾けたくない一念から ああして憎まれたり悪口言われたりしながら、それに 頓着なく、ひたむきに務めている心を思えば、無下《むげ》に 馬鹿々々しい仕事をやっているともいえないのであっ た。  それに、父からの月々の仕送で、母と五作と宏と、 この三人は雑司ケ谷の家で生計をたて、五作は明治学 院に、宏は近くの小学校に通っているのであった。そ れをいい事にして、三吉は心では父のやっている仕事 を馬鹿々々しいと思いながら、自分の損にはならない ので、敢て帰京を促すようなこともなく、のんべんだ らりと過して来たのであった。  一|朝父《ちよう》が死んだとなれば、覿面《てきめん》に一家の負担は、こ とごとく三吉の肩におしかぶさって来るより外はなか った。  四郎は不運な子であった。ちょうど上の学校へでも 行こうという年頃に、一家は没落したのであった。母 方の叔父が深川で、当時かなり盛大に釘工場をやって いるところへ、職工見習にはいったのも、そういう事 情からであった。  一番の姉は二十歳の頃、当時創設されて鴨もない女 子最高学府に学ぶことは出来たし、三吉は中学卒業 後、東京で独力洋画の修業をしようとして失敗し、小 樽に戻って仕方なし税務吏になったり、それから兵隊 に行ったり、普通よりは五年&、遅れたとはいえ、姉の おかげや、また少しばかり苦学めいた事をして、とに かく早稲田の文科を卒業することが出来た。三吉のす ぐ弟の四郎を飛び越して、その次の弟の五作はといえ、 ぼ、これも幼年時代一家没落の悲運に会し、母と二 人、樺太《からふと》の海馬島《かいばとう》まで、昔召使だったものが漁場をや っている、そこへ落人《おちうど》のようにして頼って行ったこと もあったが、どうやら父の方も芽をふきだし、おかげ で明治学院の普通部を終え今では、高等部へ通ってい るのであった。  それにひきかえ、小学校きりで終ったのは四郎だけ である。碌々たる職工で、弟にさえ馬鹿にされ、日給 といえば二円五十銭か七十銭、震災後大島町で昔の盛 な俤《あ馬かげ》もなく、貧乏くさくやっと機械を五六台動かすに 過ぎない叔父の釘工場に勤めながらボすまいは蒲田の 裏長屋で、女房と女の子二人、ほそぼそ暮しているの であった。  小樽の東端、築港付近にある崖地を宅地にして増収 をはかろうと、三吉の父は夏頃からその埋立工事に、 遠いところを毎日現場監督にかよったのであるが、秋 になって或る雨の降る日、若い時から烈《はげ》しい負けず嫌 いの気性で、寒さにもめげず、日暮れてまでも働いて いるうち、ふと風をひいたのがもとで寝ついたのであ った。父病気の報をうけ、三吉はとりあえず四郎を連 れて小樽へ行って見ると、父は思ったよりも元気で、 奥の一問に、厚い夜具に顎《あご》をうずめ、汗をとって吟 た。 「なあに、汗さえ出してしまえば、けろりと癒《なお》るんで すよ」  父はむしろ怒っているように、他人行儀な言葉つき で言った。そこの家の者は、父に無断で東京へ病気の ことを知らせたのであった。その朝、三吉と四郎が顔 を見せるまで、父は予期もしていなかったので、誰が 東京へ知らせうと言った、馬鹿野郎! と、頭ごなし に叱られはしないかと、家のものはおどおどしていた が、さすがに、何年となく会わなかった二人の息子の 顔を見ることが出来て嬉しいらしく、いつもの短気に 似ず、機嫌悪くぷりぷりするようなことはなかった。  医師の診断によれば、カタル性肺炎ということで、 三吉は新年号の仕事もあり、万一のために四郎を残し て、一先ず小樽をひきあげることにした。  が、三吉が横浜に帰って間もなく、小樽病院に入院 するという電報に接したのであった・旅嫌いの母も、鄒 小樽行を決心しなければならなかった。たった一人の 男孫の宏を連れ、五作に付添われて旅に立ったのは、 干一月の初旬のことであった。  そうすると、雑司ケ谷の家に残るのは、炊事も何も 出来ない、病身がちな、その上毎日母校に勤めに出な ければならない栄子ひとりである。同居をいやがる四 郎り女房をようよう納得させて、蒲田の家をひきはら わせ、雑司ケ谷の家へ来て炊事その他万事をしきらせ るように三吉が取計《とりはから》ったのも、そのためであった。  父の病気は、雑司ケ谷の家、蒲田の家、横浜弘明寺 の家、それぞれに、小さな革命をもたらすことになっ たのだ。四郎が釘工場を一時ひいて小樽に行っている 問、残る女房子供の生計費は三吉の方で負担し、四郎 にはまた小遣《こづかい》を支給しなければならなかった。父の死 後は猶更《なおさら》のことである。葬儀を終って一同は帰京した 竜のの、今までは、とにかく遠く離れていたとはいえ 一家の支柱たる父が存命していれば、そこに薄弱なが らも伝統的統一があったのに、一朝にして各人各個に 生活の中心がばらばらとなり、そうして物質の負担は ひとり三吉の上に背負わされることになってしまっ た。  五作はどういう事情によるか、父の存命中から、雑 司ケ谷の家を出て、大崎の方に友人数名と合宿のよう なことをやって暮していた。大方学校が遠いので、父 や母とも相談しての事であろうと、当時三吉として は、別段五作に学資を給与しているわけでもなし、ま た監督権もなし、深くその理由をただす必要も感じな いのであった。  一旦職を失った四郎は、ますます深刻になる不景気 のため、容易に就職口をみつけることも出来なかっ た。  三吉が時々雑司ケ谷の家へ行って見ると、母はいつ もぽつねんと、瀬戸火鉢に手をかざしていた。  眼が霞んで、黒眼と白眼の境界がうす濁りにほやけ ているのも、ひとしおの老衰を思わせる。 「小樽から何とも言って来ないかね?」  三吉の顔を見ると、そう訊ねるのが母の口癖になっ ていた。  父の慰労金のことであった。いずれ春にでもなった らと、先方から言いだしたことで、母はそれのみを心 待にしているのであった。七年間も献身的に働いて、 |然《しか》も代表社員の地位にあって死んだことでもあるし、 一年を百円に見積っても七百円、まあ千円ぐらいはよ こしてもいいという此方《こちらゴ》の腹であった。  が、三吉は全然そのことに望を絶っていた。先方で は、葬儀の費用を出しただけでも、つりが来ると思っ ているに違いないのであった。 「まだ何とも言って来ないが、まあ、あまり当にしな いんだなあ。あんな金持の解らずやに、千円やそこら の金で恩に着せられるような思いをしない方が、よっ ぽど気がきいている。」  三吉がそう言うと、母は憤慨するのであった。 「何も恩に着るのなんのと、そんなことないんだよ。 あたりまえの事さ。よこさないったって、取るだけの 権利がこっちにあるんだもの.じ 「えらい事になったなあ。」三吉は笑いにまぎらした。 「一体お前たち、あんまり欲がなさすぎるよ。去年だ ってそうさ。何もかも置いて来るなんてそんな馬鹿げ たことが、:::」  物欲のことになると、この老衰の母にもめざましく 活気が溜れ・言葉の軆までが鋭く荒くなるのであっ た。  去年というのは、文子との恋愛事件で三吉が長崎町 の家を棄てた当時のことをいうのであった。家財|什器《じゆうき》 一切、外に僅かばかりではあるが貯金まで、残らず先 妻の美代の方へ引渡したのであった。母喉何努や詫いえ ば、その事で不平を洩らすのであった。巴里土産に、 母へ黒天鵞絨《くろびろうど》の上等を三吉は持って帰ったのを、襟巻 だのその他何かに仕立ててやるつもりで預っておいた まま、それなりになってしまったのが、母にとって、 かなりの心残であった。 「毎月仕送をするとかって、本当かえ?」  誰にきいたものか、母はそんなことまで言いなじつ た。 「することにはなってるんだけれど、お父さんが死ん だりなんかで、そんな余裕なんかありゃしない。」 「余裕があったって、やることはないよ。・…一体い くらよこせと言うの?」 「月々七十円。」 「ほ、七十円あったら、五作と宏を学校へやって、楽 に暮せるよ。 -・-いつまでと言うの?《ぺ》|] 「雑誌記者とか、なんとか、まあ、そいった職業婦人 にでもなって、自活出来るまでと言うんだが、そんな 事言ってもきりがないから、十一月から、 …・去年の ね、…-向う一年間、月々七十円ずつ仕送して欲しい と言うんだよ。」 「お前、出来ればやるつもりかえ?」 「ここに千円も遊んでいる金があったら、 一度期にや ってしまいたいくらいなんだが、 --実はね、問にた ってくれる人が色々心配してくれて、今度三百円だけ |一纏《ひとまと》めにやって、それも雑誌社から借金してのり詰なん だが、それでさっぱりと打切ることにしたんだ。」 コニ百円でね?」  母はまじまじと三吉の顔を眺め、まだ何か意にみた ななさそうであったQ 轟,自分で稼いでとった金を、自分が好き勝手に使った っていいじゃないですか。そのために、お母さんや子 供達に不自由をさせるというわけじゃなし、 -」  つい三吉も声を尖《とが》らして、つっかかると、母はじき おどおどと、額を伏せるのであった。 「お前が好きで、美代に金をやるというのを、誰も珂 とも言うわけではないよ。それで奇麗に手を切るとい うなら、 …」  母はしょげきフて、眼をしばだたいた。 「ただね、五作だって学校がまだあと二年もあるんだ し、宏は、はいれる、はいれないは別としても、今年 は中学へいれなければならないし、それもこれも、み んなお前一人の肩にかかるんだからね、 ・-それだか ら、今三百円のなんのと、そんな金、なんだか泥溝《どぶ》に で竜棄てるようで、勿体《もつたい》ない気がしたんだよ。」 「千円が三百円になったら、やすいもんさ。」三吉は、 わざとその場の空気を軽くするように、冗談めいた口 のききかたをして笑った。 「だが、よくまあ図々しく、縁の切れた人問に、一年 も仕送してくれなんて言えたものだね。わしらの国で は、出来ない神云だよ。」  母は三吉の冗談笑いに勢を得て、またにくていな口 をきいた。 「美代は一体に口数がおおすぎて、……ああいうおし やべりの女、嫌いだよ。緻緤だって少しもよくはない し、 -…今度の方が、なんぽいいか解らない。第二、 口が少いし……」 「第二に緻縹…はよしか」  母のお世辞を茶化すように、三吉はわざと言って笑 いだした、 「本当だよ。緻縹よしだと・も。」  母は大真面目であった。が、文子に対する母の批評 が当っている当っていないは別として、今では三吉夫 婦しかたよりになる人間のいない事を、母が自覚して いることは、そういう言葉のはしにも読めるのであっ た。  春になって暖くなったら、横浜へ行くよと、母はこ れも口癖のようにいうのであった。 「桜の咲く頃までは、弘明寺にいるつもりだから、… …」と、三吉も、是非一度横浜へ母の来ることをすす めた。  弘明寺の三吉の家は、秋には芭《すすき 》が繁ったり、野生の コスモスが咲いたりする原っぱに面していた。その原 っぱを越して、まん前に、大岡川の堤につらなる桜並 木が見えるのであった。花時になれば、縁側にいなが ら桜を眺められることを思い、四刀までは、とにもか くにも、弘明寺からは動くまいときめていた。 「早く暖くなるといいわ。雑司ケ谷のお母さんに来て いただくんだから。」  文子も四月になるのを心待にしていた、  それだのに三吉は、今まで消極的に、強いて自分か ら逼塞《ひつそく》するようにしていた気持が、にわかに欝勃《うつぼつ》とし て来るのを感じた。父の死後、文子と二人きりのひそ やかな独善的生活に閉じ籠っていられなくなったの も、彼の欝勃たる意気をあおる一つの因をなした。そ れに、近く或る新聞に連載小説を書くことになったの で、それを機会に、静ではあるが、便利のよくない横 浜をひきあげ、東京に居を移すことにした。  これを一転機として、もっと積極的に仕事もし、世 の中へも顔をさらけ出そうと、そういうような気持か ら、東京もわざと郊外を避け、都塵にうずまるつもり で牛込の矢来に家を捜し、平生はどこか姑息因循《こそくいんじゆん》であ りながら・いざとなれぼ極端なほど一気に物事を決行 する三吉の癖で、二月にはもう矢来の住人になってい た。 「折角横浜の桜を見に行こうと、楽みにしていたんだ よって、お母さん言ってらしったわ、」  或時、文子が雑司ケ谷へ行って来ての話であった。 「でも、牛込だと近いし、そのうち四郎さんに連れて 来て貰うんですって。乗物はいやだから歩いてですっ てよ。杖をついて。」  その、杖という言葉が、強く三吉の頭に来た。そと へなんか出ることもなく、一生うちでばかり過して来 たような母であった。その母が杖をついて、足元も危 っかしく歩く姿を、三吉は嘗《かつ》て想像したこともなかっ た。小づくりな人で、腰も少しくの字に曲り、なおの こと背は低く顔も小さく、眼は、三吉兄弟もみんなそ れをうけついでいるのだが、人一倍大きく、幾らか 険はあっても、今では霞んで生気のないものであっ た。遺伝的なリューマチで、指々の節が多少まがり 加減になっている、その手に竹の杖でもしっかり握っ て、目白の通を、年中脚気の気味で躓《つまず》きがちな足を古 風な内輪にそろそろ運んで来る格好《かつこう》が、眼をつぶると 三吉にありありと見えるような気がして、はかない感 じを抱きながらも、然し心待にその日を待つのであっ た。  夜、電灯を消し、真暗な部屋に三吉は寝て、そうし た母の、杖をついて、とぼとぼとやって来る姿を、闇 の中に何度も描いて見た。その母は眼を瞠《みは》ったまま、 執拗に三吉の方をいつまでもいつまでも、じっと見つ めているのであった。母の眼は、何事かを三吉に語ろ う、訴えようとしているようであった。  それは勿論、日頃から三吉が母の心を推量している 事柄に関連して、三吉自身描きだすところの幻影にす ぎなかった。その幻影に描きだされた母の、何事かを 訴え語ろうとしながら、じっと三吉を見つめている眼 の意味は、五作に繋《つなが》るものであった。  五作は末っ子で、然も海馬島まで落ちて行って、母 と艱難《かんなん》を共にした、いとし児であった。母は老後を五 作によって養われようと、それのみを思っていたの だ。五作もまた、中学の課程を終えたら、すぐに月給 取にでもなって、母を扶養しようと、明治学院の普通 部を卒業する間際まで考えていたのだが、やはり知識 欲に負け、高等部へ、それでも将来を慮《おもんぱか》って商科には いったのであった。  どうぞ無事に、五作が学校卒業出来るようにしてや ってくれと、沈黙の間にも三吉に向って呼びかけてい る母を、彼は思うのであった。それと、もう一つは、 五作と互に許しあっている或る若い娘のことである。 一度母は、三吉にその娘のことを告げて、将来二人を 一緒にさせてやってくれるよう頼んだのであった。  母がしきりに三吉の家へ来たがっているのも、あら ためて懇々と、五作のことに就いて話しておきたいか らであろうとは、かねてから彼の想像するところであ った。  それだのに、母が矢来の家を訪れる日の来る前に、 あの共《 》産党事件が勃発したのだ。  三月七日、つづいて三月十五日、次々に殆《ほと》んど全日 本を襲った共産党検挙の津波は、五作をも浚《さら》って行っ てしまつた。 「五作の奴、すっかり赤くなっちまやがったよ。まる で余市林檎《よいちりんご》かトマトーさ。」  無学の四郎が、自分ではよっぽどうまい警句を止い たつもりで、あはあは上機嫌に笑っての話であった。 三吉がまだ弘明寺にいる頃であった。四郎は職のない ままに、時々は大崎の合宿へ遊びに行くらしく、その ついでには横浜の兄の方へまわって、晩に一杯御馳走 になり、好き勝手な話をするのであった。  父の病気で、最初三吉と一緒に小樽へ行くことになー った時、四郎は満足な旅装もなく、三吉が巴里で作っ た、とてもハイカラな、胴のつまった洋服を借りて行, くことにした。その洋服は、あまりしゃれ過ぎ、気恥 ずかしくて、日本に帰ってからの三吉は一度も着たこ とはないのであった。それを四郎は、得々として、こ れ見よがしに、外出毎に着て出る格好は、職工のくせ に紳士ぶる、つまり孔雀《くじやく》の尾をつけた鴉《からづ》といった感じ で、滑稽《こっけい》でもあり、また彼の心理を考えれば不閥《ふびん》で屯 あった。  津軽海峡をわたる連絡船では、一人々々船客の姓名 職業等を書いて出すことになっているのだが、小樽か らの帰り・その船上で皆の分を五作がひきうけて書い 珊 て行くうち、四郎の職業のところでちょっと鉛筆をな めて思案しながら、 「職工か。」  そう独語《ぴとりごと》して書こうとすると、あわてて横台から四 郎が口を尖らして言ったものである。 「会社員だよ。職工だなんて、やめてくれ。」 「だって、職工に違いないんだもの.、」  五作がどこまでも追究するのを、はねかえすように 四郎は反身《そのみ》になり、例の、からだにひっちりと食いこ む程のしゃれた上着の胸前を両手につかんで、くっと 引きさげて威張って見せた。 「なんでえ! 職工々々って言うねえ。人聞が悪い や。」  すると五作は、憐むともつかず、皮肉ともつかない 竺へいを遅u。へたQ 「馬鹿だなあ。今に、会社員なんかより、職工の方が うんとえらくなる時代が来るのを知らないんだから.。」 「そら、またはじまった。」  それなり、四郎はわざととりあわないように、船室 から甲板の方へ出て行った。  四郎には全くプロレタリア意識なんかないのであっ た、 「おかしなもんだ。俺なんか一時も早く脱いでしまい たいと思っているのに五作の奴、菜っぱ服を着…たいっ てんだから。」  或夜《あるよ》弘明寺く、来ての話であった。 「研究のためとかいうんだから、それもいいのか知れ ないが、とにかく物好きなもんだ。学生なんて暇があ って、贅沢《ぜいたく》だよ。金は親や兄弟から貰えるんで、のん き至極《しごく》なものさ。」 「五作が工場生活でもするというのか?」 「そういうわけでもないんだろうが。……今日合宿へ 行ったら、連中がそんな話をするもんで、そんなら、 五作に、俺とかわろうかって言ってやったよ。お前は 俺の工場へ勤める。俺はそのかわりに、何か勉強させ てもらおうって.ご 「工場生活をすると言っても、そいつは労働をするの が主じゃないんだろうよ。……」  工揚労働者のなかへはいって行って、たとえば四郎 のように、まだ眼覚めようともしない職工を教化し、階 級闘争に奮起させるのが彼等の目的であ.ろうと、三吉 は想像しながら、それを口に出しては語らなかった。  五作が同志数人と大崎に家を一軒借りて、そこでど ういう事をしているのか、おおよそ三吉にも解って来 た。五作はもと、明治学院普通部時代には、文芸部に 属し、雑誌に詩や小説を発表したり、ハモニカのバン ドを組織したりして、芸術的方面に才能を発揮するこ とを努めていたのであるが、いつかしら、当代青年の 一様にひしめき走るめざましい思想の流に合流してい たのである。普通部を終ったら、実社会に出てサラリ i・マンになり、母を扶養しようなどという殊勝な心 根の消滅したのも、恐らく彼の思想転換に原因すると 吉っていいであろう。そうして、高等部にすすんでか らは、当《ロ》時文壇でも最左翼と目されていた「文芸戦 線」にすら飽き足らずして、「文化批判」という雑誌 を起したくらいであった。  文学芸術というものから、五作の心はまったく離れ そむいていた。早晩××運動に赴《おもむ》かずにはいられない であろうとは、三吉の予想していたところであった。  ロシア革・命十周年祭には検束されるかも知れないと か、大崎の住所は絶対秘密にしておいて下さいとか、 ×××の覚歌の草案をつくっていますとか、そういう 手紙がよく三吉のところへ来た。父が死んでから、月 に一度は金をもらいに横浜へ来るのだが、本所公会堂 で建国会撲滅演説会を開いた時、散会後街上にデモ《 》|ン ストレーションをやって××と格闘したとか、そんな 話を、熱のある口調で、眼を輝かし、三吉に語りきか すのであった。  二十年前のことである。三吉は中学五年の暑甲休暇 に、小樽から福山へ帰省したのだが、汽車で函館ま 燐、、それから汽船で海上六時間福山港へ着くのを、生 憎その日は船が出ないと聞き、彼は一日待つのをもど かしく思い、下駄ばきのまま二日がかりで、陸上二十 五里の道を歩いたのであった。夕方疲れきった足をひ |え《なごり》 きずって、松前藩時代の唯一の名残である三重の城近 い松城町の、二抱《ふたかかえ》もある桜を前庭に持つ家に辿《たど》りつい て見ると、空にはびこる桜の陰で一層|黄昏《たそがれ》の色を濃く ただよわしている門口に、母が赤児を背負って、ちょ うど張板をとりこむところであった。  いつ帰ると4-前触のない三吉の姿をすかし眺めて、 鉤 母は一旦とりあげた張板を下におき、口をほっかり・と 開けたままであった。 「歩いて来たよ、船が出ないんで。」 「下駄がけで、……まあ!」  母はあきれ、且《かつ》よろこんで、いそいそと内へはいっ て行ったが、その時背に眠っている髪の毛のうすい赤 児の頭が、うしろざまにがっくりと反りかえった。そ の赤児こそ三吉がはじめて見る弟の五作であった。  流行なのか、カラをつけない襟の低い学校の制服 に、太い首筋を見せ、顔も大柄でいかつく、髪をなが く波うたせ、三吉をも凌《しの》ぐくらいの背丈にのびた現在 の五作をしみじみと眺めながら、三吉は二十年前故郷 に帰省した日の葉桜陰の夕暮を思いだすのであった。 「福山の墓へ骨を納めに、今年は行くつもりだが、お 前亀-行くか?」 「別に行きたくもないけれど、……」  気の乗らない返辞であった。 「お前の・生れた家なんか、覚えはないだろう。今ある かなあ。もうないかも知れない。あの桜の樹だけはあ ると思うが。…-どうだろう、お母さんは行けるかし ら?し 「行く気があったら、行けないことはないでしょう。」 「今度雑司ケ谷へ行ったら、お前からも言って見な。 …-時々は雑司ケ谷へ行くんだろう?」 「行ってます。」 「お母さんは、五作のおまんまを食べないうちは、ど んな事があっても死なないって言ってるそうだ。本当 か?」 「ふん、 …:いつの事だか。」  五作は苦笑して眼をそらすのであった。 「何をやるのもいいが、学校へ行っている以上は、満 疋にちゃんと卒業だけはするようにするんだな。し 「ええ。」  煮えきらない返辞だと思っていると、或日学院から 葉書が来た。四月から十二月までの授業時間数六百二 十九時間、そのうち欠席が二百七時間、こう欠席勝で は修学上はなはだ遺憾であるという注意であった。  学校のことに就いて、よく五作の意見を質《ただ》そうと思 いながら、三吉も仕事がせわしく、そこへ東京転任の ことがあったりして、ゆっくり会う機会を持たないで いるうち、折柄《おりから》の総選挙に彼もまた×x党のために運 動をしているようであった。  越えて三月、あの事変であった。  或日のこと、水島ちゑ子という娘が矢来の家へ、五 作さんのことで伺いましたと言って来た。  日あたりのいい二階の書斎に、火鉢をさしはさんで 主客は相対したが、あかるい陽差の照り映えで、その 娘の丸顔は一層健康そうな色つやに見えた。剃刀《かみそり》をあ てたこともないらしく、西洋の女のように生毛《うぶげ》がめだ って、それが野生的な好感を与えると同時に、くるっ とした眼にも、愛くるしさがあった。 「五作さんが二十日にあげられたってことを、昨日き いたもんですから、・--」  やや早言葉で、ちゑ子は前後の事情を物語るのであ った。母が言ったのは、この娘のことであった、彼女 は、今、自分の愛人が警察にあげられているのに少し もしょげる風はなく、女性の若々しいしなやかさの中 にも、敢然とした強い意志をほの見せ、清爽《せいそう》の感じで あった。  日本橋の或る株屋の小僧さんが、何かのことで、五 作のあげられていると同じ警察へ拘留されたのが、二 十六日目の日に出ることになって、その時五作から、 そっと、これこれの水島ちゑ子という人のところへ、 ここに検束されていることを知らせてくれと頼まれた のであった。その小僧さんの手紙を見て、ちゑ子は昨 日(二十七日)日本橋のその株屋へ、ともかく行って 見ると、主人は親切な人で、一緒に、大崎の五作達の 合宿へまで行ってくれたということである。  その合宿の家はしまっていた。前の植木屋できく と、いつの間にか一人いなくなり、二人いなくなりし たというのであった。 「大崎の署から日本橋の方へまわされたらしいんです のよ。四人ですって。」 「何か差入《さしいれ》の必要があるかしら?」 「紙が欲しいような話ですけれど、……でも、うっか り行けませんわ。偽名しているものか、どうか、それ も解りませんし」 「君なんか行っちゃ駄目だよ。 …・大崎の家には、女 の人もいた筈だが、どうしたろう?」 「芳子さんやっぱりあげられたらしいんです。拷問《くうもん》で もされたら、どんなことになるだろうかと、思っても ぞっとしますわ。」  さすがにちゑ子は肩をつぼめ、顔をしかめた。 「五作達もやられるんだろうねえ。」 「で竜仕方がないと思いますわ。四人別々の部屋にい るんで穿って。その小僧さんに聞をましたの。英語で もって、大声だして話しあっていますって。何だか、 絶食しているらしいと亀、言ってキしたわ。」  黙って成行を見るより外に方法はないと三吉は思っ た。 「雑司・γ谷のお璋さんには、勿論《もちろん》知らせないでしょう ね?」  ちゑ子はいそがしく顔を横に振った。 「わたし、雑司ケ谷のお宅へは、わさと行かないこと にしていますの。」 「大橋さんにも黙っておきなさい。」 「ええ。t  肉.橋さ、んというのは、三吉の姉の栄子と同じ学校出 で、やけりその母校く、勤めている独身の女性であっ た。住居は雑司ケ谷の篆に近く、五作がそこへ遊びに 行っている問に、ち、'ゑ子と知合になったのである。そ れだから、五作とちゑ子との事に就いては、大橋さん にも多少の責任があるのであった。  何はともあれ、五作検挙のことを、母には絶対に知 らせないようにと、三吉は皆にいましめておいた。  殊に弟の四郎は、口軽屋なので、厳重に注意してお く必要があった。 「五作が此頃ちラ・、」も顔を見せないとか、・…-そんな ことをお母さんガ言いでもしたら、いい加減にあしら っておくんだぞ。学校の方がせわしいんだろうとか、 なん4、も友遠と旅行に行っているような話だとか、う まくその場をごまかしておけ。警察へあけ・られている なんて、冗談に.払∴醤っちゃいかんL 「大丈夫ですよ.、言いやしないから」  四郎は冂ではそう誘っても、にやにや笑いをしてい るところを琺る寿、こいつ、何かほのめかすような事 を言っては、お母さんをからかってるんじゃないか と、不安に思わ耗た。  丹と四郎とは、あまり好い仲ではないのであった。  四郎のところにも女の子二人あるのに、その方の孫に は少し竜眼をかけないで、ただ五作と宏とだけを可愛 がっている母は、自然と四郎の反感を買うのも道理で あった。  四月になって或日の早朝、大橋さんが駆けこむよう にしてやって来た。茶の間で三吉が新聞を読んでいる ところへ、彼女はぴったり坐って挨拶もそこそこに、 「三吉さん、あんまりよ。どうしてす.ぐに知らして下 さらなかったの?」  笠にかかるようにい汐、」なり言われて、三吉も面食《めんくら》っ た。 「何のことです?」 「五作さんのことよ。」 「あッ! あいつまた、おしゃべりしやがったな、… …四郎の奴!」三吉は強く舌打した。 「おしゃべりじゃないわよ。知らしてくれるのが当然 ですわ。し 「あなたの方では、当然と思うかも知れないが、……  あなたばかりじゃないよ、--.・母にしろ姉にしろ、あ とで知ったら、なぜその時知らせてくれなかったか と、不平を言うかも知れない。けれども、こんな事 は、知ったって知らないたって、なるようにしかなら ないんだし、なまじっか母なんかに知らせるより、仮 に五作なら五作が、殺されるなりどうされるなりして から、言ったって、・…-その方がつまり、余計な苦労 を母にさせないで済むから、今度は僕は、知らしむべ からず主義をとったわけなんです。」 「違ってよ、違ってよ。お母さんやお姉さんは別よ。 わたしにだけは、どうしたって知らせてくれなけれ ば。……じゃ、三吉さん、あんたは、わたしがお母さ んやお姉さんに、おしゃべりすると思ったの? …… わたしなんぼ馬鹿だって、そんな女じゃないわよ。」  よほど口惜しいと見え、涙ぐんでいた。ちゑ子と五 作とのことに責任があるので、それで大橋さんはこう まで躍起《やつき》になるのであった。  差入も何もしないで、ほっておいて下さいと三吉が 言っても、大橋さんはいっかなきく事ではなかった。 「いいのよ。わたしは、わたしの気の済むようにする だけなんですから・智ないうちは舟も豫知った以獅 上は黙っていられないわ。」  中《なか》一|口《じつ》おいて、大橋さんは四郎と二人で又矢来にや って来た。シャツ、猿股《さるまた》、紙、歯磨、そんなものを差 入して来たというのである。面会は出来なかったが、 主任の人の話では、元気でいるとの争であった。 「起訴されるようなこと、なさそうですわ。学生は、 そんなに重く見ていないようよ。」 「起訴されるなら、されたで、、いいじゃないですか。」  三吉はやや反抗的な気持になっていた。それには、 文子の弟・のこと屯あるのであった。鵠沼《♂σぬま》に住んでいる 文子の兄から、葉書で、常雄も三月十五日の嵐に巻き こまれたと知らせて来ていた。.神戸の親戚の店に働い ていたのを、とびだして、去年から尼ケ崎の××党支 部に書記を勤めていたのであった。 「これの弟も、神戸の方であげられているんですよ。」  一二吉は、長火鉢の向側に、いつもどおり無口なまま おし黙っている文子を、顎《あご》でさし示した。 「これはもう、起訴にきまってるんだ。」 「まあ、そうでしたの。御心配ですわねえ。でも、あ ながち起訴とは限らないんじゃないの。」 「それは解りませんけれど、どうなっても、仕方がな いと思っているより外はないんですもの。」  文子は寂しく微笑するのであった。  四月十日にようよう×××事件も解禁されて、各新 聞は殆ど全紙面をあげてその報道につとめた。  その翌日、二十九日間の拘留を終って五作は十八日 朝九時前に釈放されるという報告を、四郎は矢来の兄 のところへ持って来た。 「大橋さんと僕と、二人で、十八日の朝警察へ行くこ とにします。」四郎が言うのであった。 「大橋さんには気の毒だが、じゃ、そうしてもらおう。 一先ずここへ連れて来るんだぞ。雑司ケ谷へすぐ行っ ちゃいかん。」 「そうしよって、大橋さんも言っていた。」 「お母さんには、言いやしないだろうな?」  三吉は四郎の顔色を探るように、鋭い眼でじっと見、 つめた。 「言うもんですか。」 「言わなければいい。……だが、お母さん何も訊きや しないか、ー1-五作はどうしたろうとか、なんとか。」 「ちっとも此頃来ないね、とか、時々独語みたいに言 ってるけれど、とりあわないようにしているんです。 ・…-ああ、そうそう、」と、四郎はすぐ陽気になる持 前で、手をたたきそうにしながら、肩をゆすって笑う のであった。  父がもと使っていた眼鏡《めがれ》を鼻の先へかけて、昨夜母 は一所懸命新聞を読んでいたというのである。  五作がまだ雑司ケ谷の家にいた頃、寄り集る同志等 の会話を、母は、完全に理解する事は出来ないまでも、 そのなかから何かしら小耳にはさんでいることがある 筈であった。それだから、母が、×××事件の新聞記 事を読んで、それと、一ヵ月も顔を見せない五作とを 結びつけて、忌わしい想像にかられないとは、言えな いのであった。 「いくらかお母さんも、感づいてるんじゃないかと思 うなあ。ゆうべの、あの、新聞に噛りついてる熱心な 格好から見れば。・…-とてもそりゃ、眼を皿のように して。」  事あれかしに、面白がって言う四郎を、三吉は睨む ようにした。 「お前がまた、何かほのめかすような事を言ったんだ ろう。」 「嘘ですよ。」  三吉は四郎を信用することは出来なかった。が、十 八日には警察から出ることにもなったし、どうせ遅か れ早かれ母の耳にもはいるのだから、もうやかましく 言う必要もないと思った。  琶《ちまた》の騒音もあまり響いては来ない、閑静な矢来の街 に、家々の塀囲《へいかこい》からのりだしている桜が輝く春の陽差 のなかに散って行った。  弘明寺の桜も散ったであろうし、そう思えば、穏が 横浜行を楽みにしているうち、三吉の方で東京へ移り すむようになり、それなら春になり次第矢来へ行こう と、そういう約束のところ五作の事件で、もう花時も 過ぎるのに、そのままになっていることなどが、自然 三吉の思案にのぼって来るのであった。  今度のことがあって、猶更母は五作の将来を案じ、 それに就いては、五作に対する三吉の意中も知りた く、矢来の家へ来たがっている模様であったが、風邪 の加減で思うにまかせないようであった。はっきりと 覦 は口にしないが、時々四郎が来て、五作は学院の方は どうなるのだろうとか、ああやってふらぶらしていた んでは、お母さん竜心配だろうとか、暗《あん》に言うのも、 すべて母の指図で三吉の意のあるところを、それとは なし探るつ竜りに相違ないことは、 二吉にもよく解る のであった。 「××の××××は大丈夫だ。××x×××。」  警察を出た日、大橋さんと四郎とに迎えられて、五 作は、やはり学生の同志と二人、矢来の家に来ると、 玄関にあがるや否や、だしぬけにひどく興奮した風に 言うのであった。  縁側に近い日向に三吉はいて、それを聞くと苦虫を 噛みつぶしたような、…嫌《いや》な顔をした。x×の××x× だなんて、歯の浮く感じで、とても我慢がならないの であった。が、三十日間も閉じ籠められて、自由勝手 な言葉を使うことの出来なかった彼等二人は、検挙当 時のことや拘留中のことを、のべつ幕なしにしゃべり たてるのであった。.続けさまにバットを吸いつける、 その指先は、癲癇《てんかん》やみのようにぶるぶる震えていた。  興奮している時に何か言っても、却《かえつ》て反抗心を募《つの》ら すばかりだから、今日は黙っていようと、三吉は、わ ざと無関心を装うて、相手にもならなかった。  彼等は今夜からでもまたすぐ運動に着手することが 出来るものと、楽観視していたのであった。それが、 一日二日日を経て見ると、もう手も足も出ないまで に、彼等の運動が完全に阻止されてしまったことが解 ったのであった。  数日過ぎて五作がやって来た。 「俺は××なんてえもの、大嫌いだよ。」  のっけから三吉は、反動的にきりだした。そう言わ れると、ちょっと五作は兄の、顔を、額越しに見るよう にしたが、学校の服で、それまできちんと膝を折って いたのを、あぐらになって、バットを強いて深く吸い こむと、横の方へぷうと勢こめて吐きだした。兄に言 われた冒頭の一句で、彼は反抗の態度をとったのであ った。 「とにかく俺は、俺の生活を脅かすようなものは、御 免蒙りたいんだ。x×が起ったら、俺は俺の生活を護 るためには、断じて××軍に楯をつくつもりだ。言っ ておくが、俺の生活というのは、俺一人の生活じゃな いんだ。俺には、扶養しなければならない人問が、幾 人かある。俺の生活には、それらの人達の生活がみん な含められているんだ。そういう人達の生活を誰かが 保障してくれて、俺は俺一人で自由勝手な行動をとれ るのだったら、そりゃ、どんなアクションに出るか解 らないさ。だが、俺は何も、俺の家族の生活を誰かに 保障なんかして貰おうとは思やしない。俺はどこまで も、家族を扶養するよ。ただ、俺の家族を扶養し得る 状態に、俺はおいて貰いたいんだ。お前は、家族制度 は既に崩壊したなんてえことを言ってるが、冗談じゃ ない、崩壊なんか、ちっともしやしないよ。現に、家 族制度は既に崩壊したなんてことを言っているお前自 身、家族の一員になって、俺の扶養をうけているんじ ゃないか。お前が、俺の思想に反抗するならするで、 それは、自由だ。そのかわり、物質的に、俺の世話に ならないようにしてくれ。家族制度が破壊したって、 そいつは構やしない。家族がめいめい独立の生計さえ たててくれれば、家長なんてものは、いやでも存在し なくなるさ。俺は二十の時、親父に反抗したよ。親父 に反抗すると同時に、俺は出奔《しゆつほん》して、それ以来、親父 の世話になんかなりゃしないんだ。親子の問だって、 兄弟の問だって、金銭をおいて何の情愛そやだ。その 点、俺は物質主義者だ。くどいようだか、もう一度言 っておく。俺の思想に文旬があるなら、今後俺から鐚《びた》 一文貰わないようにして、その上で立派に文句を言っ てくれ。」  五作は横を向いたまま、持前の口を尖らしながら、 黙ってバットばかりふかしていた。  いつもどおり月の末に、三吉が金を持って雑司ケ谷 へ行くと、玄関次の薄暗い一二畳に、母は気むずかしそ うな青い顔で寝ていた。風だというのであった。 「ものは食べられるの?」  座敷の方から三吉が声をかけると、母は聞きとれな いことを言いながら、横になっていたのを起きなお り、床の上に坐るようにして、額を枕にわしあてた。 そんなふうに動作が出来るくらいなら、たいして悪い のでもあるまいと、あまり三吉は気づかい蕉しないの であった・それに・病気には極めて神経質喬の…李踟 もいることだし、粗漏《そろう》なことのありそうにも.思われな かった。  五作は二階にいるというので、三吉はあがって行っ て小遣を渡した。 「学悶を勉強するために、学校へ行きたいというんな ら、いくらでも俺はやってやるよ。明治学院がいやな ら、早稲田でも何処《どこ》でもいい。よく考えておけ。し 「考えておきます。」  それだけの応対で、あとは、これもいつもどおり、 あまり母とも言葉をかわさずに、三吉はすうと帰るの であった。  十日とたたないうちであった。四郎が、母の容態思 わしくないことを告げて来た。 「医者は流感だと言ってるんだが、……」  四郎の言いたいのは、然し母の容態よりも外のこと であった。三吉が五作に対してひどく頑固な態度をと うていると、母は考えて、三吉をおこらしては、まだ 一人前になっていない五作の行末が案ぜられる、それ だから、五作に、矢来へ行って手をついて謝って来い と、こう言ったというのである。 「俺は頑固だとは思わないよ。」  母の心事には同情しながら、三吉は自説を翻《ひるがえ》そうと はしなかった。 「学校へ行って学問を勉強したいというなら、大学だ って何だって、卒業するまでは面倒見ると、俺は言っ てるんだ。そうでなくって、ソヴィエットロシアがど うしたとか、××主義がどうしたとか、x×だとか何 とか、そんなことをするなら、俺の世話になんかなっ てやるんじゃ、やり栄《ば》えがしないだろう、それだから、 自立でやったがよかろうと、こう言うんだよ、俺は。 …・-これほど物解りのいい兄貴はないと思うがね。」 「お母さんは、その××主義とか何とか、そういう怖 しいものから五作が手を切るように、兄さんの力でし てやってくれと、こういう腹だと思うんです。」 「怖しいものだかどうだか、それは俺には判断がつか んね、 -…だけど、俺の力で、五作の思想をどうしよ うの斯《こ》うしようのと、それは出来んぜ。俺はただ、五 作に金をやるかやらないか、その二つの能力があるだ けさ。」  が、三吉はそんな事を言いながら、心では、昔父の 無理解に反抗して立った時代のことを思い起してい た.彼は歳四十に近くはあっても、まだ想念の硬化に は達しないで、かなり現代に対する敏感性を持ってい るだけ、口では意地強く反動的な言辞をはいても、そ れが彼の全部とはいえないのであった。五作は弟では あるが、いわば三吉五作の問題は「父と子」の問題で あった。それに当面して、彼は昔父に反抗したことを 思い、それと今と照しあわせて多少の矛盾煩悶を感ぜ ずにはいられなかった。  五月の細雨は、毎日のように欝陶《うつとニノ》しく降りつづいて いた。明日の日曜は、鎌倉のY先生を久振《ひさしぶり》に訪問しよ うと思っていたのに四郎の報告で母の容態も気づかわ しく、頭をおしつけられるような空の重さを感じなが ら、三吉は雑司ケ谷へ行って見た。  四郎と五作は下の座敷で、面白半分に、何かの空鑵《あきか人》 を利用して、母のためにアイスクリームを作っている 最中であった。  病床は二階に移されていた。天井から釣った氷嚢《ひようのう》を 額にあて、じっと仰向《あおむ》いている母の顔は、しなびて、 土気色に見えた。 「医者はね、流感だと言うんだよ。もう、熱も出ない し、あと、一週間も寝ていれば、よくなるって。」  母は痰のからまる榎《か》れ声できれぎれに言うのであっ た。 「それならもう安心だ。安静にさえしていれば。」  そう言って三吉が枕許に坐るのを、母はつぶらな眼 で、絶えず見まもっていた。 「まだまだ、死ねないよ。もう五年は、どんな事があ ったって、死ぬもんか。」  氷嚢がのっているために顔は動かせないので、眼の 球だけが横の方へぎうりとまわって、三吉に注がれる のであった。三吉はぞっとした。執念の眼を見る思い がした。小学生時代、解剖の実験に、三吉は猫の首に 細引を結いつけ、締める役目をひきうけたことがあっ た。その時、息が絶え絶えになりながら、三吉の顔を 恨めしそうにじっと睨みすえた猫の眼が、今の母の眼 とそっくりの気がした。 「何も、死ぬの生きるのと、そんなむずかしい病気じ ゃないんだから、大丈夫だよ。」  ちょうどそこへ、アイスクリームを持って四郎と五 硼 作があがって来た。いいしおにして三吉は枕許をはな れた。  たった一匙《ひとさじ》たべたきりであった。 「五作、お前、それ、三吉によくお願いしな。:::三 吉、頼むからね。」  母はアイスクリームどころではないのであった。 「五作の事なら、もうよく解ってるんですよ、お母さ ん。ちゃんと話はついてるんです。心配はいりませ ん。」  しめきった部屋の蒸し蒸しさに、三吉は腰障子の端 を少しあけて見た。…黝《くろす》んだ瓦屋根の不規律な並びの問 に、雑木《そつもく》の群を抜いて大公孫樹《おおいちよう》が、梢を少し南方に傾 け、曇空を圧して若葉に繁りたっていた。  冬になると、黄葉《きいば》はすっかりふるい落し、枝々がみ んな南へ南へと弓のようにしなっている素裸の姿を見 せるのであった。真夏には、青葉の火焔を天に向って 吹くがように、壮烈な偉観を示すのであった。早稲田 の大学に学んでいる時代から、三吉の見馴れた公孫樹 であった。  姉は赤十字で大手術を二度竜うけ、病気手当の要領 をよく会得《えとく》しているので、特等看護婦。四郎は小樽病 院で一ヵ月も病父に付添った経験があるので、 一等看 護卒。五作は二等看護卒、四郎の女の子二人、これは 見習石護婦。 :・そんな呉合になっているのだと、四 郎五作が、愉快そうに三吉に報告したのも、その日で あった。 「病人一入に、看護婦ばかり何人もいて、……」  母もうって変って、晴れ晴れした顔で笑うのであっ た。二週間たらずで、この母に永別しようとは、誰が 予想したであろう。  安心して三吉は雑司ケ谷の家を出たのであるが、そ の家に於《おい》て生ける母を見たのは、それが最後であっ た。  季節々々のその公孫樹の姿を33王見する毎に、三吉は 在りしその日の病床の母を追想し、とりかえしのつか ない不覚の思いに、悔恨の念にかられるのであった。  昨夜雑司ケ谷の大学病}院に、病名不詳のまま入院し たと、四郎が知らせに来たのは、その日から僅三日の 後であった。 h五作のおまんまを食べないうちは、死にきれない。」  母の執念は、死ぬまで五作の上にあった。  前年父が小樽で死んだ時、三吉は葬式の朝に行った のであった。着くとすぐ、旅装をといて紋服にあらた め、既に納棺されてあった父に三吉は対面したのであ るが、頭を奇麗に剃り、深い眼を、眠っているように 静かに閉じ、頬は痩せ衰えていても、口許のあたり平 和で、死相というようなものは少しも現れてはいなか った。  「いい仏様になりました。」  三吉は手をあわせ、拝みながら言ったのであった。  最後の日、父は一同を呼んで、今夜かぎり自分の命 は持たないことを告げたということであった。会社の 方の事務も一切引継ぎ、遺言もして、そうしてその夜、 真夜中をすぎて二時、自分で予言した如く永眠したこ とを、人々は三吉に話し、その大往生を称賛するので あった。  それにくらべて、母の死顔には、何という浅ましい |煩悩《ほんのう》の相が、醜く残されていることだろうと、三吉は ・しみじみ考えた。が、浅ましく醜い死相であるだけに、 母が現世に残した妄執の程も察せられ、三吉としても 心残は増すのであった。  急に跳ね起きて、病弱の身のどこにそれほどの力が あるのか、五作と文子と二人がかりで寝かせようとす るのに、母は狂人のように反抗しつづけ、あばれまわ るのだと、文子が夜遅く病院から帰っての話であっ た。それこそ、死力とでもいうのであろうか、あとで 考えれば、その時母は、既に精神に異状を呈しながら、 刻々に襲いせまる死に対して、根かぎりの抵抗を本能 的にこころみたもののようであった。  それから一昼夜あまり母は昏睡状態のまま、入院後 十二日目の深更一時すぎ、最後の痰が咽喉《のど》にごろごろ と鳴って落ちるひまもなく息絶えた。 「今死んでは、死んでも死にきれない。し  いつかこう禄が言った時の、恨をふくむ眼つき、歪《ゆが》 んだ口つき、現世に思いを残す凄い程の醜い相を、そ の蒼ざめた死顔は遺憾なくもとどめていた。  三吉は死顔の白布を、二度ととる気はしなかった。 「うう、……うう、……」  仏前で不意にうめくような声がしたのに、三吉は何 塩・かと振かえって見た。 「ううーひ、 …-ううーひ、……」  叔父がすっかり背をまろくして額《ぬか》ずき、その顔を両 手に蔽《おお》いながら肩をふるわし嗚咽《おえつ》しているのであっ た。  この叔父は、三吉の母の弟で、今は大島町に借金だ らけのぼろ工場を経営しているのだが、震災前には大 井の方に大きな釘工場を持ち、本所の元町に堂々たる 店舗をもって、万の金を動かしていたのであった。  両国橋畔、大山巌書の表忠碑のたつ僅な三角地に、 叔父夫婦に伜と、この三人は避難して、猛火を前に一 夜中生死の境におびえ、辛うじてあの大震災の犠牲を まぬがれたのであった。叔父の頭の毛は、その夜を境 にして、今までの胡麻塩《ごましお》が真白になってしまった。  それ以来めっきり気も弱くなっていた。壮年時代に は上海《シヤンハイ》の方へまでも渡り、雄図に燃えたったこともあ るのに、それもいわば昔の夢で、災後の金融はまった く逼塞《ひつそく》し、剰《あまつさ》え持病の喘息《ぜんそく》には悩まされるのであっ た。そこへ忽然《こつぜん》と、ただ一人の姉の死であった。今更 のように老病苦死の感にとらわれ、死者を悼《いた》み、我身 の悲運を嘆くのも当然の事であった。  半夜の通夜をすまし、叔父は帰宅すると言って、仏 前に焼香をし、そこへじっと額ずくところまで、三吉 は隣室から見ていたのであった。そうして、ちょっと 顔をそらしていると、あの鳴咽であった。  誰も誰も、三吉の母の柩《ひつぎ》に向って、それほど自然な 率直な悲嘆を表自したものはないのであった。それは ちょうど、姉に叱られて、あやまり泣く弟の姿のよう に、単純で、子供らしくそれだけに悲みの実感が三吉 に来た..顔にあてていた手は、いつの間にか白髪頭を しっかりと抱え、経机の下にもぐりこみそうな格好 で、畳.にへたばり咽《むせ》び泣くのであった。  徐々に鳴咽もおさまり、鼻をかんでそこにいなおる と、叔父はうしろへ向いて眼鏡の眼にあたりを探しも とめるのであった。 「五作はいないか! どこへ行った、五作!」 「二階です。」  四郎は腰軽に立って、梯子段《はしごだん》の下から呼びあげた。 「五作。叔父さんが呼んでるよ。」  呼ばれて五作は降りて来たが、怪訝《けげん》そうに敷居際に 中腰できょろきょろするところへ、叔父はいつにない 烈しさで言った。 「お前のお母さんが、どうしてこんなに早く死ぬよう になったか、お前に解っているのか?」  三吉にも意外であった。が、叔父は工場に出入する ものの噂話で、五作達同志の動静を知っていたのであ った。  毎年正月元旦には、未明に起き、家人とは一切言葉 をまじえず、水風呂に沐浴《もくよく》して礼服を着し、先ず二重 橋前に聖寿万歳をことほぎ、次いで愛宕山上《あたごさんじよう》に初日の 出を拝し、それから家に帰って初めて家人と年賀の辞 をかわすという叔父であった。  五作と思想上相容れないのは当然であると同時に、 あまりにも呆気《あつけ》なく、然も無限の執着をこの世に残し て去った姉の死を見て、五作を責めずにいられない心 理も首肯されるのであった。 「お前のお母さんの死を早めたのは、お前のせいだと は思わないのか?」  何と言われても、五作は頑固に口を縅《と》じたままであ・ った。 「ここへ来て、お母さんにあやまるんだ。」  気をいらって叔父はどもりながら言うと、自分はあ とずさって、仏前に席をあけてやった。ゆらぐ蝋燭《ろうそく》の 灯に、叔父の頬に流れる涙の痕《あと》があわく光るのを三吉. は見た。 「この棺の中には」と、叔父は、そこに台をして横た わる柩を指さし、「お前のことばかり心配して、死に きれずに死んで行ったお母さんが……」  あとは言えずに、叔父は片手に顔を蔽うのであっ た。 「栄子、お前もよくない。そばについていて、どうし て五作を放任しておいた!」 「はい。」  栄子は日頃叔父に好感情を持たないのであったが、 さすがに母の弟として、この場合すなおに責をうける のであった。  五作は前に進んで・手をつき・深く頭を垂れさげた・ 鰤 大粒の涙が、ぽたりぽたり落ちるのが光って見えた。  仏前を離れると、五作は眼をしばたたきながら、急 いで二階へあがって行った。  三吉が行って見ると、立ったままで五作は床柱によ りかかり、それに頭をごつんごつんぶっつけ、歯をく いしばり、涙一杯の凄い眼で天井を睨んでは、野獣の 底うなりのような声を間断なく出していた。  母の死を悲《いた》む心と、主義に殉ずる心と、この二つの 心の葛詑鯲を、三吉は見るような気がした。 「いいよ、五作、俺が解っている。」  弟の肩に手をかけて、三吉は、慰めようもないとは 知りつつ、そんなことを言うのであった。                   、へ昭和三年) 5