夢殿殺人事件 小栗虫太郎 1 密室の|孔雀明王《くじやくみようおう》 -(前文略)違法とは存じましたけれとも、あなたさまがお越しになるまで、所轄署 への報告を差し控えることにいたしました。と申しますのは、まことにそれが、現世では 見ようにも見られない|陀羅尼《だらに》の奇跡だからでございます。 ある|金剛菩薩《こん ごうぼさつ》のれっきとした|法身《ほつしん》の|痕跡《こんせき》を残して、高名な修法僧は無残にも裂き殺され、 その傍らに尼僧の一人が、これもまた不思議な方法で|総《くび》り殺されているのでございます。 そればかりではなく、現場にはこの世にない香気が漂い、|梵天《ぽんてん》の|伎楽《ぎがく》が聞こえ、黄金の散 華が一面に散り敷かれているのです。ああ|法水《のりみず》さま、申すまでもなく終局には、この真理 中の真理が|大焔《だいえん》光明と化して、十方世界に無遍の震動を起こすに相違ございませんけれど も……まずそれに先だって、あなたさまの卓越した推理法により、奇跡を否定しようとす るあらゆる妄説を排除していただきたく、お願いする次第でこさいます。 おそらく読者諸くんは、|盤得娑婆《ぱんとくしやば》のこの一書を指して、いかにも狂信者らしい、|荒唐無 稽《こうとうむけい》を極めた妄覚と|喧《わら》うに相違ない。が、事実それには、|微塵《みじん》の虚飾もなかったのだ。その 三十分後には、法水|麟太郎《りんたろう》と|支倉《はせくら》検事の二人が、|北多摩軍配河原《きたたまぐんばいがわらじ》の|寂光庵《やくこうあん》に到着していて、 まさにそこで、疑う方なく菩薩の犯跡を|留《とど》めている二つの死体に直面したのだった。それ がちょうと、炉中さながらにうだり切った八月士二日午後三時の|陽盛《ひざか》りI事件発見から 数えて、その二時間に当たっていた。 さてここで、寂光庵につき|掻《か》い|摘《つま》んだ説明をしておこうと思う。この尼僧寺は婦人の身 で文学博士の肩書きを持ち、みずから盤得娑婆と号ヶる|工藤《くどう》みな|子《こ》の建設に係わるもので あって、あまねく高識な尼僧のみを集め、|愉伽大日教《ゆがだいにちきよう》秘密一乗の|法廓《ほうかく》として、広く他宗に 教論談義を挑みかけていた。ところが最近になって、この異様な神秘教団に不可解な人物 が現れた。というのは、|推摩居士《すいまこじ》と称する奇跡行者の出現だった。それが奇怪至極にも、 尼寺の鉄則を公然と踏みにじっているばかりではなく、推摩居士は|龍樹《りゆうじゆ》の再身と称して、 諸菩薩の口寄せや不可思議な法術をも行い、しだいに奇跡行者の名を高めるに至った。し かも、それらいっさいの行を|御簾《みす》一重の奥で行って、決して本体を見せなかったのであっ たが、それがかえって神秘感を深める効果ともなって、渇仰の信徒が日に増し|殖《ふ》えていっ た。その矢先、折も折から、とうていこの世にあろうとは思われぬ不可思議な殺人事件が 寺内の夢殿に起こった。そして、はしなくもそれが起因となって、推摩居士の本体が暴露 されるに至ったのである。 寂光庵は|新薬師寺《しんやくしじ》を|髪髭《ほうふつ》とする|天平《てんぴよう》建築だった、、その物寂びた音のない境域には、一面 に|菱《ひし》が浮かんでいる真っ青な池の|畔《ほとり》を過ぎて|橘子《れんじ》の桟が明らかになってくると、軒端の線 が大海を思わせるような大きなうねりを作って押し|被《かぷ》さってくるのだ。その金堂が五峰八 柱、|櫓《やぐら》のように重なり合った七堂|伽藍《がらん》の中央になっていて、方丈の玄関には神獣鏡の形を した|大銅鐸《おおどら》が|吊《つ》るされていた。そして、その|音《ね》が開幕の合図となって、いよいよ法水は真 夏の白昼、|鬼頭化影《きすけえい》の手で織りなされた異様な|血曼陀羅《ちまんだら》を繰り広げていくことになった。 法水は庵主盤得尼の切髪を見て、この教団が有髪の尼僧団なのを知った。盤得尼は五十 を越えていても脂ぎって|艶《つや》つやしく、すべてが圧力的だった。見詰めていると、顔全体が 異様に|昂《たかぷ》ってくる感じがするけれども、そこにまた冷酷な性格を充分満たせないような、 なんとなく秘密っぽい画策的な、まるで魔女のような暗い影が揺らめいているようにも思 われるのだった。間もなく法水は案内されて、本堂の横手口にある部屋に入った。そこは 左右に廊下を置いていて、書院一つ隔てた外縁の橘子窓からは、幽暗な薄明かりが漂って くる。入ると、盤得尼は正面の扉を指差して、 「ここでございます」 と、男のような声で言った。 「夢殿と申しまして、以前は|寺院楽《じいんがく》と|黙行《もくこう》の修行所に当てておりましたのですが、最近で はここで、推摩居士が|祈薦《きとう》と|霊通《れいづう》をいたすようになりまして……」 そこには黒漆塗りの六枚|厨子戸《ずしど》があって、青銅で|双獅子《ならびじし》を刻んだ|閂《かんぬき》の上には、大きな錠 前がぶら下がっていた。盤得尼が錠前を外し扉を開くと、正面には半開きになっている太 格子の網戸があって、その黒い桟の内側には、西の内を張った橘子障子が格子の間に|嵌《は》め られてあった。しかし、その重い網戸がけたたましい車金具の音とともに開かれ、|鉄《かな》けが 鼻頭から遠ざかると同時に、密閉された熱気でむっと|喧《む》せ返るような臭気を問近に感じた。 前方は二十畳敷ほどの空室で、階下の板敷と二階の床に当たる天井の中央には、関東風土 蔵造り特有ともいう細かい格子の嵌戸が切ってあった。そして、双方の格子戸から入って くるどこかの陽の余映を周囲の壁が鈍い銅色で重々しく照り返していて、またその弱々し い光線が正面の壁に打ち当たると、そこ一面にはだかっている十一面|千手観音《せんじゆかんのん》の画像に異 様な生動が|湧《わ》き起こされてくるのだった。ところが、その画像を見詰めながら法水がひと 足敷居を|跨《また》いだとき、右手にある階段の上がり口に、それは異様なものが突っ立っている のに気がついた。その薄らぼんやりとした暗がりの中には、地図のような|血痕《けつこん》のついた |行衣《ぎようい》を着て一人の僧形をした男が直立している。そして、その男は両手をきちんと腰につ けたまま|膝《ひざ》をついていて、正面に|畑《けいけい》々たる眼光を放っているのだ。しかし目が暗さに慣れ るにつれて、さらに驚くべきものを見た。というのは、その男の両足は|膝蓋骨《しつがいこつ》から三寸ほ ど下の所で切断されていて、その木脚のような二本の|揺粉木《すりこぎ》が壁に背を|兜《もた》せ全身を支えて 突っ立っているのだった。 「これが推摩居士なのでございます」 と、この|凄惨《せいさん》なシーンにふさわしからぬようなうっとりした声で、盤得尼が言った。あ あ、なんと皮肉なことであろうか、殺された当の人物というのが奇跡行者だったのだ。 「ところが、|正午《ひる》ごろ夢殿に入られてから発見される一時十五分までの間というものは、 いっこうに何の物音もなく、それに|嗅《しやが》れ声一つ聞こえませんのでしたが……」 推摩居士の年齢はほぼ盤得尼と|頃合《ころあい》だけれども、その|相貌《そうぽう》から受ける印象と言えば、ま ずことごとくが打算と利欲の中で呼吸している常人以外のものではなかった。鋭く|稜形《りようけい》に 切り|削《そ》がれた|顧骨《かんこつ》、|鼠色《ねずみいろ》の|顎髪《あ さびひげ》1と数えてみても、一つは性格の|圭角《けいかく》そのもののようで もあり、またもう一つからは浅薄な異教みや喝するような|威《たけ》だけしさを感ずるに過ぎなか った。総体として|俺《おん》の聖音に陶酔し、方円半月の|火食供養三昧《かじきくようざんまい》に|耽《ふけ》る神秘行者らしい|悌《おもかげ》は、 そのどこにも見いだされないのであった。ところがその相貌とは反対に、推摩居士の表情 姿体を観察していくと、それには恐|怖驚愕《きようがく》などというような殺人被害者固有の表出をまっ たく欠いていた。そればかりか、なんとなく非現世的な夢幻的なものに包まれていて、そ の|清例《せいれつ》な陶酔に|耀《かがや》いている両眼、唇の緩やかな|歪《ゆが》みなどを見ると、そこから|濠《みなぎ》り|溢《あふ》れてく る異様なムードはこの|血膣《ちなまぐさ》い情景を瞬間忘却させてしまい、それはてっきり歓喜とか|憧慢《しようけい》 とか言ったら似つかわしいのであろうか、まったく|敬度《けいけん》な|原始的《プリミテイブ》な子供っぽい宗教的情緒 にほかならぬのであった。おそらく、とうていこの世にあり得ようとも思われぬ、ある異 常な情景が推摩居士の眼前に現れ出たのであろう。そして、かれの視覚世界が最終の断末 魔に至るまで、その何ものかの上に執着していたのを物語るのではないだろうか。しかし、 |肱《ひじ》だけの行衣に|平紡《ひらぐけ》の帯を締めた血みどろの|身体《からだ》はこちこちに硬直していて、体温はすで に去っていた。法水は死体の|大腿部《だいたいぷ》を見詰めていた目を返して、血に染んだ|右掌《てのひら》を|拭《ふ》き、 そこに何やら探している様子だったが、やがて行衣に現れている四つの大血痕の下を調べ はじめた。するとそこから、心臓をぎゅつと|掴《つか》まれたような驚きとともに、犯人の異形な |呪文《じゆもん》が現れ出たのだった。 そこで四つの創形を言うと、そのうちの二つは左|右上脾部《じようはくぷ》の外側、すなわち肩口から二 寸ほど下方にあって、残り二つは左右腰骨の突起部、すなわち|大腎筋《だいでんきん》の三角部だった。い ずれも人体横側の最高凸出部であり、その位置も左右ともに等しく、なおその上下の一対 が垂直線の両端に位しているのが注目されるが、何よりの驚きというのは、|明瞭《めいりよう》な字紋様 の創形と、それにとうてい人間業とは思われないーiちょうど精巧な|鞭櫨《ろくろ》で|剖《えぐ》り上げたよ うな一致が現れていることであって、またその二つが左右とも微細な点に至るまで符合し ているのだった。それをなお詳細に言うと、上騰部のものは最初上向きになった鋭い|鉤様《かぎよう》 のものを打ち込んだらしく、創底が三センチほどの深さになっていて、それを上方に向け て到りながらしだいに浅くなっていき、全体が六センチほどの長さでηの形になって終わ っている。次に腰辺のものは乞の形をなしていて、全長は前者よりもやや長く、深さはほ ぼ等しいと言って差し支えなかったが、疑問はそれのみには|止《とど》まらなかったのである。い ずれも、傷の末端がV字型をせずに不規則な|星稜形《せいりようけい》をなしていて、何か棒状のもので掻き 上げたような跡を|留《とど》めているのだった。すなわち、以上四つの創傷についてその生因を|瞼 の裏に並べてみると、てっきり首尾を異にしているとしか思われぬようなーまるで猫の 爪《まぶたつめ》みたいに、自由自在な隠現をするかのような凶器を想像するよりほかにないのだった。 法水は盤得尼を振り向いて、かれには珍しいくらい神経的な|訊《き》き方をした。 「なんとなくぼくには、これが|梵字《ぽんじ》のように思われてならないのですが」 「明らかにそうでございます。これは、η(|詞《か》)」(|曝《ら》)の二つでございまして、双方と もに|神通諌毅《じんつうちゆうりく》という意味が含まれております」 と、盤得尼は妙に皮肉ともとれる微笑を|湛《たた》えて言い返した。 「なるほど」 法水はいくぶん|青裾《あおざ》めた顔をして|頷《うなず》いたが、ふたたび死体に視線を向けはじめた。死体 の周囲には、四カ所の傷口から滴り落ちたわずかなものだけがところどころ点滴を作って いるだけであって、全身には大出血特有の不気味な|巌痩《るいそう》が現れ、|弛《ゆる》んだ皮膚は波打って、 それが薄気味悪く|燐光色《りんこうしよく》に透き通って見えるのだった。左は中指、右は無名指が第二関節 からない両手の甲は骨の間がすっかり陥没していて、指頭が細く|尖《とが》って異様に光っている ばかりではなく、膝蓋骨から下の播粉木はほとんど|円錐状《えんすいじよう》をなすまでに|萎《な》え細っていた。 それから推して考えてみるに、夢殿のどこかにはおそらく大量の血液が残っていて、推摩 居士はそこから運ばれたに違いなかった。けれども一方、四つの創傷がそれぞれに大血管 や内臓を避けているのを考えると、血友病がとうていあろう道理のない身体に、どうして かかる大出血が起こされたものかーその点がすこぶる疑問に思われるのだった。といっ て、その四つ以外には針先ほどの傷もなくて、法水は簡単に全身を調べ終わってしまった。 それを見て、盤得尼が言った。 「これですっかりお分かりになりましたでしょう。尼寺の鉄則をなにゆえ推摩居士だけに 許していたか。……ご覧のとおりこの方は男でもなければ女でもございません。つまり、 そうなりましたというのは、日独戦争の折、|炸裂弾《さくれつだん》を受けて両足とある器官を失ってしま ったからなのでございます。しかし不思議なことには、それ以後この方に龍樹菩薩の化影 が現れるようになりました」 「それは庵主、この|太腿《ふともも》で一|目瞭然《りようぜん》たるものなんですよ」 法水が白じらしげに言い返した。 「内側へ|振《ね》じれているでしょう。これで下肢が完全ですと、ちょうど馬の足のような形が 見られるのです。それを|内翻馬足《ないほんばそく》とか言いましてね、たしか外傷性のヒステリーにはいち ばん多く見る現象なんですよ。そうすると、変則な硬直をしている点に、だいいち説明が つきますし、なにより犯人がその無意識状態を利用したばかりか、日ごろ不思議な法術の 種になっている|悪魔《デビルス ク》の|爪《ロウ》(中世紀のいわゆる魔女に現れた宗教性ヒステリー現象)をかえ って逆用したことがお分かりになりましょう。しかしこの梵字の傷跡だけは、人間の手で はとうてい不可能な芸でしょうな」 「悪魔の爪η品そうなりますかね」 盤得尼は怒りに|頸《ふる》えながらも、|嘲弄《ちようろう》の響きを込めて、 「そうすると、あれはいったいどうなるのでしょうか、お気づきになりませんか?階段 のてっぺんからここまでの間に血の滴り一つないのですよ。ねえ法水さん、血みどろの推 摩居士はだいたい、どういう方法によってここまで運ばれてきたのでしょうね?それに どう考えたって、自分の着衣に血を移すような愚かな自殺的行為を、だいいち犯人のする 気遣いがないではございませんか」 事実、盤得尼の言うとおりだった。それまで二人ともそれに気づかなかったのは、光線 の加減で五、六段から上が|血溜《ちだ》まりのように見えたからだった。それから法水は階下の調 査を始めたけれども、床の嵌戸についている|錆《さび》ついた錠前を壊して床下から数片の金泥を 拾い上げたのみのことだった。そうして調査は、|赫岩《しやがん》ばかりでできた海底のように|灰暗《ほのぐら》い 階下から離れて、階段の上に移された。 しかし、階段の途中まで来ると、さしものかれも思わず棒立ちになってしまった。ぱっ と目を打ってきた金色の|陽炎《かげろう》に|眩《くら》まされて、殺人現場という意識がふっ飛んでしまったば かりでなく、先刻盤得尼の手紙を読んで妄覚と笑ったものが、いまやかれの眼前で寒天の ように凝り固まっていこうとしている。そこに横たわっている尼僧の死体も|玉幡《ぎよくばん》も経机も、 すべて金泥の花弁に埋もれていて、散り敷いた数百の小片からは|紫磨七宝《しましつぽう》の光明が放たれ ているのだ。ああ、まさにこれこそ、観無量寿経や|宝積経《ほうじやくきよう》に|謳《うた》われている|阿弥陀仏《あみだぷつ》の極楽 世界なのであろうかー7品 階上は階下と同様無装飾の部屋だった。階段を上り切った右手の壁には鉄格子を嵌めた 小窓が一つあって、残り三方は|得斎塗《とくさいぬり》の黒壁で囲まれていた。また、降り口の突き当たり にはもう一つ階段が作られているのだが、それは屋根裏の三階に続いているものであって、 その部分だけが切り込まれ、右側には壁に沿った突出し床ができている。というのは、三 階の床がいわゆる|神馬厩《しんめうまや》造りだからである。従って、そこの床寄り約四分の一ばかりの問 が長方形に切り取られているので、振り仰ぐと上層の暗がりの中に、巨大な龍体のような |梁《はり》がおぼろげに光って見えるのだった。さて法水は、散り敷かれている金泥の小片をいち いち手に取って調べたけれども、表面に血痕が付着しているのも、またしていないのもあ って、その二様のものが雑然と入り乱れている始末なので、もはや血痕の原型を回復する ことは不可能に違いないのだった。けれども、打ち倒れている四流の玉幡を見ると、それ がところどころわずかばかり金泥の|斑点《はんてん》を残しているままで、ほとんど赤裸にひん|剥《む》かれ 曼陀羅の|干茎《かんけい》が剥き出しになっている。それからだけでも、この無数の片々が以前玉幡の 衣だったことは明らかであるけれども、一方、金泥の上には踏んだ跡がなく、曼陀羅の肌 にも掻き傷一つないという始末だった。いったい金泥はいかなる方法によって剥ぎ取られ、 そして散華が起こされたのだろうか! 法水は、金泥を一カ所に掻き集めて調査を始めた。床には血の点々がわずかに残ってい るだけであったが、ここで階上の室内における配置を言うと……中央には階下から眺めた とおりに格子形の嵌戸が切ってあって、その後方には、膝蓋骨の下部にぴったりつくよう に作られてある推摩居士の義足が二本並んでいた。前方には、|竹秩形《ちくちつがた》に編んだ|礼盤《らいはん》が二座、 その左端に|火焔太鼓《かえんだいこ》が一基、その根もとに|笙《しょう》が一つ転がっている。二つの礼盤の中央には |五鈷鈴《フもフこれい》や経文を載せた経机が据えられ、右の座の端には、古渡りらしい油時計が置かれて あった。それは目盛りのついた円鐘形のガラス筒の中に油を|充《み》たして、中の油が長柄の端 にある|口芯《くちしん》まで流れていき、その点火に伴う油の減量によって時を知る仕掛けなのである。 が、その時はすでに灯は消え、不思議なことに目盛りは二時を指していた。そして、礼盤 の突き当たりに掲げてある"五秘密曼陀羅〃の一幅を記せば、配置の説明の全部が終わる のである。 尼|僧浄善《じようぜん》の死体は両眼を見開き、階段のほうを頭に足首を礼盤の上に載せて、四肢をや やはだけ気味に伸ばしたまま|仰向《あおむ》けに横たわっていた。三十|恰好《かつこう》で大して美しくはないけ れども、その平和な死顔には静思とでも言いたい厳かなものが漂っているように思われた。 それにいまだ硬直がなく、体温も|微《かす》かに残っていたけれども、なにより二つの驚くべき跡 が|印《しる》されてあったのだ。その一つは、四肢の妙な部分に索痕があるということで、それぞ れ上謄部の中央と膝蓋骨から二寸ばかり上の大腿部に残されていた。それから次は、さら に異様なものであって、|咽喉《のど》から両耳の下にかけて、そこを|掘《やく》したように見える四本の|華 著《きやしや》な|指股《ゆびまた》様の跡が深く食い入っていて、それがふた筋ずつ並んで印されてあった。しかも、 その四つが同時に行われたということは、一つの血痕の上におのおのの端が載っていて、 そこが少しも乱れていないのでも分かるのだった。また、それ以外には|擦《かす》り傷一つなかっ たのである。 「こりゃ|酷《ひど》い!」 法水がやっと出たような声で、、 「軟骨が|滅茶滅茶《めちやめちや》になっているばかりじゃない、|頸椎骨《けいついこつだ》に|脱臼《つきゆう》まで起こっているぜ。どう して、われわれには想像もつかぬような恐ろしい力じゃないか。だが、決してこれは固い 重量のある物体を載せた跡じゃない。紛れもない人間の指をかけた跡なんだよ」 と言ってから検事を振り向いて、 「ところで支倉くん、この死体の死因にはとうてい正確な定義はつけられんと思うね。な るほど、皮下出血や|腫脹《しゆちよう》があって、掘殺の形跡は歴然たるものなんだ。ところが一方、不 思議なことには、窒息死に必ずなくてはならぬ|痙璽《けいれん》の跡がない。そして抵抗した形跡もな く、このとおり平和な顔をして死んでいるんだ。おまけに推摩居士の行衣にある|瓢箪形《ひようたんがた》の ------------------------- 孔雀明王画幅 火焔太鼓 五秘密曼陀羅 ■油時計口一曽 小窓 フ≡由グ 1 1調…1 夙Od菰 1笙玉格子嵌戸浄幡善 の十死千一体之手面画観像音 _推摩一居一士一の死一体 一一住一_ 格子嵌戸 ------------------------- 血痕と、浄善の襟に散っている二つを比較してみると、片方は|血漿《けつしよう》が黄色く|滲《にじ》み出ていて あの形を作っている。ところが、この死体になるとそれがまったく見られないのだ。つま りその一事から推しても、推摩居士から浄善に及ぶまでの間というのが、決して直後とは 言われない時間だったことが証明されるだろう。しかしそうなると、そこに当然新しい疑 題が起こってきて、いったいその間浄善は何をしていたということになってしまうぜ」 「では、毒物が……」 検事が自説を述べようとす るのを、法水は抑えて、 「ところが支倉くん、ここに 途方もない逆説があるのだよ。 というのは、まったくあり得 ないようなことだけれども、 この女にはたしか絶命するま で意識があったに違いないの だ。だから、もし解剖して|腺《せん》 に急激な収縮を起こすような 毒物が証明されない日には、 おそらく浄善はその間、人間最大の恐怖を味わっていたことになるだろうね。ねえ、薄気 味悪い話じゃないか。|麻痺《まひ》した身体で目だけを|瞠《みは》って、その目で自分の首に手がかかるま での|惨《む ヰハ》たらしい光景をじっと眺めていたんだからね」 と、さらに死体の眼球を|擦《こす》ってみて結論を述べた。 「見たまえ、水分がすこしもない。そして、ちょうど木を|擦《さす》っているようじゃないか。だ いたい死体の粘膜といえば、死後に乾燥するのが通例だろう。だが二時間やそこいらでこ んなに酷いのは、おそらく異例に属することだぜ。それに、眼球の上に落ちた血滴が少し も散開していない。そうすると、涙腺が極度に収縮しているのが分かるだろう。つまりそ のすべてが、異常な恐怖心理の産物であって、血管や腺の末管が急激に緊縮してしまうか らなんだ。しかし、またそうかといって、その間浄善が失神していたのでないということ は、痙撃の跡がないーという一事だけでも、瞭然たるものなんだよ」 しかし、立ち上がると法水はぶるウと胴震いして、明らかにその顔色には容易ならぬ例 題に直面しているのを語るものがあった。 「だが支倉くん、そんなことよりも、あれだけの血がいったいどこへ行ってしまったのだ ろう?」 「うん、確かに体外血量の測定をする必要はあると思うね。吸うのもいいだろうが、吸血 鬼でも人間じゃ、立ちどころに恐ろしい生理が起こってしまうぜ」 と検事がもっともらしく|眩《つぶや》くのを、法水は|嘲《あざけ》り返すように見て、 「ところが、この事件にはポルナで働いたチームケ教授は要らないのだよ。ここに散らば っている金泥全部を集めたところで、おそらく二百グラムとはあるまいからね」 としばらく|煙草《たばこ》を口から放したまま考えていたが、やがて法水は玉幡の一つを取り上げ た。玉幡は四本とも同型のもので、幅二尺高さ七尺ばかり、上から三分の一までの部分は ビルマ風の如意輪観音が|半脚《はんか》を組んでいる|繍仏《しゆうぷっ》になっていて、顔を指している右手の人差 指だけが突出し、それには折れないように薄い銅板を菱形にして巻いてあった。そしてそ の下に、中央には日の丸形の|円孔《まるあな》が空いている。細かい|網代織《あじろおり》の|方幡《ほうぱん》が五つ連なっていた。 重量は非常に軽く一本が六、七百匁程度で、それが普通の曼陀羅よりよほど太いところを 見ると、確かに|蓮《はす》の繊維ではなく、何か他の植物の干茎らしいと思われた。なお盤得尼の 言うところによると、初めから終わりまで結び目なしの継ぎ合わせた一本ものだというこ とだったのである。しかし、試みにその一つを三階の突出し床から礼盤の前方にかけて張 ってある|紐《ひも》に結びつけてみても、床から五寸余りも透いてしまう。さらに法水は、玉幡の |裾《すそ》の太い|襲《ひだ》の部分を取り上げて、それを浄善の拒痕にあてがってみたが、形状が非常に酷 似しているにもかかわらず太さも全長もとうてい比較にならぬほど小さいのだった。法水 はほかからもそれと分かる失望の色を浮かべて、それからゆったりと室内を歩きはじめた が、やがて火焔太鼓の背後の壁に一つの孔を見つけて盤得尼に問うた。 「伝声管でございます。礼盤の右手には浄善、左手の火焔太鼓に寄ったほうが推摩居士の 座になっておりまして、つまり、推摩居士に現れる龍樹のみ言葉を書院の中にある管の端 から聞くのでございます。|今日《こんにち》はそれが|普光尼《ふこうに》の番でございました」 とそれに次いで、盤得尼は左のとおり事件発生当時の情況を語りはじめた。 1推摩居士に兆候が現れたので、盤得尼と浄善が夢殿の中へ連れ込み、盤得尼は油時 計に零時の目盛りまで油を充して点火し、夢殿を出たのが零時五分。そうすると、扉を出 ると同時に笙が鳴りはじめたけれども火焔太鼓の音は聞こえず、その笙も二、三分鳴りつ づけたのみで、その後は一時十五分に|智凡尼《ちぼんに》が変事を発見するまで、物音一つしなかった というのである。なお尼僧たちの動静について言えば、盤得尼が自室に、普光は書院に、 |寂蓮《じやくれん》ははるか離れた経蔵に、智凡は本堂の飾り替えをしていたというのみのことであって …:さらに、事件を境にして夢殿内に起こっていた変化といえば、小窓が開かれていたこ とと油時計が一時三十分を指して消えているーという二つに過きないのだった。 以上の聴取を終わると、法水はふたたび動きはじめた。 「それでは支倉くん、床についている推摩居士の皮膚の跡を探すとするかな」 ところがその捜査は|空《むな》しく終わってしまい、真夏の汗ばむ陽盛りに、鏡板の上について いなければならぬはずの何物をも発見されなかったが、最後に至って検事の目が床の一点 に凍りついてしまった。かれが無言のまま指差した個所を横合いから透かして見たとき、 法水は自分の心動を聞いたような心持ちがした。左手の推摩居士が|坐《すわ》っていた礼盤から始 まって、三階へ行く階段の方角へ点々と連なっているのが、中央の塊状を中心に前方に三 つ後方に一つ、それぞれに|鎌形《やじりがた》をした四星形の微かな皮紋であって、その形は疑うべくも ない巨鳥の足跡だった。しかも前方から歩んできて、礼盤の縁で止まっている。それを逆 に|辿《たど》っていくと、ついに三階の階段を上がり切ってしまって、突出し床から壁に沿って敷 かれてある|竹管《たけす》の前で止まっていた。検事は前方の壁面を見上げて思わず声を詰めた。そ れまでばらばらに分離していた多くの|謎《なぞ》が、そこで|津然《こんぜん》と一つの形に|纏《まと》まり上がっている。 梵字形の創傷も、流血の消失も、浄善の咽喉に印された不可解な|掘痕《やくこん》も……それらすべて 一切合財のものが、|孔雀《くじやく》に|駕《が》し、四本の手を備えた"孔雀明王"の幽暗な大画幅の中に語 られているのではないか。高さ四尺幅三尺ほどの大幅の中には、画面一杯に羽を広げたイ ンド孔雀に駕し、左右四つの手にそれぞれ宝珠を|捧《ざさ》げ説法の印を結んだ異形の女身仏が、 背上の|蓮台《れんだい》の上に|鉄座《ふざ》しているのだ。それはいかにも密教臭い、病理的なヒステリカルな 暗い美しさだった。しかも|輪羽《わぱね》の中心を、密陀僧の朱が|核《たね》のような形で彩っていて、その |楕円形《だえんけい》をした鮮やかな点列だけが暗い血を薄めたような|闇《やみ》の中から浮かび上がっていた。 しかし、そういった秘密仏教特有の喝するような鬼気というのが、この場合、単なる雰囲 気にのみ止まってはいなかったのである。その中には、犯行に止められているさまざま異 様な特徴がいちいち符合し、具体化されていて、それが幾つとなく数え上げられていくの だった。 「なるほど、素晴らしい犯人の制作です。これでは画中から孔雀が|脱《ぬ》け出して階段を下り、 そうして鋭い爪で推摩居士を掻き|雀《むし》ったばかりではなく、さらに四本の手を伸ばした背上 の菩薩が浄善の首を絞めたlIと言うよりほかにないでしょう」 いったん法水は、夢見るような調子で眩いたけれども、それからすぐ冷然と盤得尼に|微 笑《ほほもえ》みかけた。 「ところが庵主、この|童話劇《メルヘン シヤウスピ ル》の結論は結局、菩薩の殺人という仮定に行き着いてし まうでしょう。しかし、考えれば考えるほど、かえってぼくはその逆説的な解釈のほうに |惹《ひ》かれていってならないのですよ」 「承りましょ・?1いったい何をおっしゃりたいのです」 盤得尼は|屹然《きつぜん》と額を上げた。 「要するに|接神妄想《シユルテイ》なんですよ。これはボーマンの『宗教犯罪の心的伝染』という著述の 中にある事実ですが、十六世紀の初めチュlリッヒのロiマン・カトリック教会に、いわ ゆる奇跡が現れたのです。ある八月の夕方、会堂の聖像が|忽然《こつゼん》と消え|失《う》せてしまって、そ の代わり創痕から何まで聖像と寸分も異ならない肉身の|耶蘇《やそ》が十字架の下に神々しい死体 を横たえているのです。しかもその創痕というのが、皮膚の外部から作った傷ではなくて、 斑紋様に内部から浮き上がっているものなのです。したがって当然町じゅうは大変な騒ぎ となりましたが、さらに不思議なことには、翌朝になるとその耶蘇の死体がいつの間にか 消え失せてしまっていて、元どおり木製の耶蘇が十字架にかかっているのでした。ところ が、その後三世紀も奇跡として続いてきたこの謎を、十九世紀の末になってついにジャス トローが解いたのです。たぶん聖痕という心理学用語をご存じでしょうが、あのフラン ス・カレッジの先生は一人の田舎娘を見いだして、それから聖像凝視が|因《もと》で起こる一種の 変態心理現象を発見したからなんですよ。で、そ・つなって……」 と言いかけた法水の顔には、殺気とでも言いたいものがめらめらと盛り上がってきた。 「そうなって、当時のスイスを考えると、新教アナバプチスト派の侵入を受けていてカト リックの|牙城《がじよう》が|危殆《きたい》に|瀕《ひん》していたのですからね。ですから、なんとはなしにその奇跡とい うのが司教の|好策《かんさく》ではないかと思われてくるのですよ。そうしてこの事件にも、わたしは 好悪な接神妄想を想像しているのです」 その間、盤得尼はただ|呆《あき》れたようになって相手の顔を見詰めていたが、きゅっと皮肉な 微笑を浮かべて言い放った。 「そうしますと法水さん、その司教と置き換えられたわたしは、いったいどこから入って どこから出たことになるのでしょうか。実を申しまづと、いまも入,口の網戸をわたしはわ ざと半開きにしておいたのですよ。あの網戸の音は河原までも響きますし、厨子戸には当 時もやはり錠前が下りていたのです。それに、智凡尼が入ったときには二階で笙を吹いて いる者がありました。ねえ法水さん、この夢殿は密室だったのですよ。密閉された部屋の 中で、いったい孔雀明王と|供奉鳥《ぐぷちよう》以外にだれがいたことになりましょうかね」 密室、しかもその中で大量の血が消え失せてしまっているー。さすがの法水もはたと 行き詰まって、まざまざとその顔には|差恥《しゆうち》と動揺の色が現れた。 2|火焔太鼓《かえんだいこ》の秘密 盤得尼が去ってからなおも三階の一画を調べたけれども、そこにはなにひとつ発見され なかった。そしてふたたび二階に下りると、法水は油時計を指差して言った。 「分かったのは、たったこれだけさ。一時十五分に発見したとき消えていたという油時計 が、なぜ二時を指しているかIなんだ。その気違い染みた進み方からして、犯人が小窓 を開いた時刻が分かるのだがね」 「そうすると、たぶん消えたのは金泥が散ったときじゃないだろうか」 「うん、まずそうだろうと思うが……」 と法水は気のない|頷《うなず》き方をして、 「ところで、問題はこの油容器の内側にあるんだが……現にいまも見るとおり、取れやす い足長蚊の|肢《あし》が一本、油の表面から五分ばかり上の所に引っ掛かっているだろう。|肢鉤《あしかぎ》の ほうが上になっていて、右のほうへ斜めに横倒しになっている。ところが、胴はその方向 にはなくてかえって反対側に1肢から一寸ばかわ離れた左のほうで、これは油の表面に 浮かんでいるんだ。それから考えると、容器のぐるりを胴体がいく巡りかしたことが分か るじゃないか。つまり、還流が起こった証拠なんだよ。だいたい油時計そのものがすこぶ る温度に敏感であって、夜中灯火兼用以外には使えない代物なんだ。だから、当然それに |陽《ひ》が当たった場合を想像しなくてはならんと思うね。つまりそれをひと口に言うと、油の 減量につれて蚊の死体が肢鉤のある点まで下がってきたときーその時犯人は小窓を開い たのだ。そうすると|陽射《ひざ》しが容器の下方に落ちて、熱した油が上層に向かうことになるか ら、当然表面の|縁《へり》に還流が起こらねばならないだろ・り。おまけに、油の流出がしだいに激 しくなっていくので、時刻がとんでもない進み方をしてしまったのだ。だから支倉くん、 犯人が小窓を開いたのは十二時四十分前後だと言えるんだよ」 「なるほど。しかし犯人が窓を開いた意志というのは、おそらくそれだけじゃないと思う ね。あるいは凶器を捨てるためにか……」 それを、法水は力のない笑い声を立てて遮った。 「では、捜してみたまえ決してありっこないからね。|梵字《ぽんじ》の形が左右符合しているの を見ただけでも、とうにぼくは人間の手で使うものでないーという定義を、この事件の 凶器に下しているんだ。それよりも支倉くん、|孔雀《くじやく》の足跡がいったいどうしてつけられた かーじゃないか。たとえば推摩居士を歩かせたにしたところで、たかが|膝蓋骨《しつがいこつ》の三角形 ぐらい|印《しる》されるだけだからね」 「すると、何かきみは?」 「うん、これは非常に奇抜な想像なんだが、さしずめぼくは推摩居士に逆立ちをさせたい んだよ。それも|掌《てのひら》を全部下ろさずに、指の根もとで全身を支えるんだ」 「冗談じゃない」 検事は|呆《あき》れたような顔になって叫んだ。 「ところが支倉くん」 と法水は真剣に顔を引き締め、一歩一歩階段を下りながら言いはじめた。 「だいたいそこ以外には、どこぞといって推摩居士の肉体に理論上ああいう作用を現す部 分がないのだからね。というのは、第二関節以下しかない推摩居士の左の中指と右の無名 指に、いわゆる|光指《グランツフインガ 》が現れているからなんだ。その根もとに弾片を受けて神経幹が 傷ついているので、きみもさっき見たとおりに指先が細く|尖《とが》って青白く光っているんだ。 しかし、戦地病院などでは大神経幹と違い、決して|包鞘《ほうしよう》手術などをやる気遣いはないのだ けれども、傷口さえ治れば日常の動作には事欠かないようになってしまうのだ。つまり、 そこにレチェバンが神経代償機能と名づけた現象が起こるからなんだよ。繊維だけが|微《かす》か に触れ合っている周囲の神経が栄養や振動を伝えてくれて、その|瀕死《ひんし》の神経の代償をして くれるからなんだ。ところが、これは外傷性ヒステリー患者の実験報告にも現れているこ とだけれど……周囲の神経が|麻痺《まひ》してしまうと、ときたまその遮断されている神経のみが 他の筋肉からの振動を受け、実に不思議千万な動作を演ずることがある。それなんだよ支 倉くん、そこに奇想天外な趣向を盛ることができれば、あるいは推摩居士がいきなり逆立 ちして、あの孔雀の足跡を残しながら歩きだしはすまいかと思われるんだ」 それから夢殿を出ると、その足で普光尼の部屋へ赴いた。普光尼はとうに意識を取り戻 していたが、激しい疲労のために起き上がることはできなかった。四十に近い思索と理知 に及んだ顔立ちで、|顎《あご》を|蒲団《ふとん》の襟に|埋《うず》めながらも、正確な調子で答えていった。 「|諒毅《ちゆうりく》などという恐ろしい世界が、み仏の|掌《たなフハびころ》の中にあろうとは思われませんでした。わ たしは推摩居士が悲しげに叫ぶ声を聞いたのです」 「なに、声をお聞きでしたか?」 「そうです。夢殿から庵主が出る網戸の音が聞こえて、それから間もなくのことでした。 |笙《しよう》が鳴りだすと、それにつれてドオ!と板の間を踏むような音が聞こえました。そして、 その二度目が聞こえると同時に、ブlンという得体の分からない響きがして、それなり笙 も|止《や》んでしまったのです。それから二十分ほどのちになってから、推摩居士が四本の手、 と叫ぶのを聞きましたが、二階のはそれだけで、今度は階下の伝声管から響いてまいりま した」 「すると、伝声管は二本あるのですね」 「ええ、階下のほうはちょうど階段の中途で横板と壁との間にありまして、それはちょっ と分からない場所なのでございます。それで推摩居士が、今度は低い声で言うのでした」 普光尼は微かに声を|標《ふる》わせ、異様な光を|瞳《ひとみ》の中に漂わせた。 「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいるーとこうおっしゃるのでしたが、それから間も なく二階で軽いものが飛び散るような音が始まりましたが、それが止みますと今度はまた 笙が鳴りだしていいえ、むろんそれには息を入れるいわゆる間がこさいましたのです わ。ところが、その|音《ね》は網戸が開くと同時にぱたりと止んでしまったのです。もうこれ以 上お耳に入れることはございませんが」 「ありがとう。ところで、推摩居士の死体をご覧になりましたか?」 と、法水は突然異様な質問を発した。 「はあ、さっき寂蓮さんと一緒に……。それですっかり疲れてしまいましたのですが」 「するとあなたは、推摩居士の|行衣《ぎようい》の|袖《そで》に何をご覧になりましたね」 「さあいっこうに。……わたし、そんなことはてんで存じません」 と普光尼はいきなり|突樫貧《つつけんどん》に言い放って、ふと首を向け変え夜具の襟に埋めてしまった。 「二本の伝声管か……」 廊下に出ると、法水は意味ありげな|口吻《こうふん》を|洩《も》らしたが、傍らの部屋が目に入ると検事に 向かって、 「どうだね支倉くん、ここにある|天平椅子《てんぴよういす》にかけて、残りの|訊問《じんもん》をすることにしようじや ないか」 最初に呼んだ寂蓮尼は、まさにゴッツォリの女だった。まだ二十六、七だろうけれども、 見ていると透き通ってでもいきそうな、なんとなく人間的でない崇高な非現世的なものが 包んでいるように思われた。ところが、図書係りを勤めているこの天使のような女は、事 件当時経蔵にいた旨を述べ終わると、推摩居士の死囚について驚くべき説を言いだしたの である。 「推摩居士はご自分で美しい奇体な墓場をお作りになって、その中で仮死の状態に入られ たのではないかと思いますわ。やがてきっと、あの方は|蘇《よみがえ》るに違いございません。それか ら浄善さんの死町については、智凡さんがしっかりした説を持っていらっしゃいますが」 「なに仮死ですって。たしかあなたはいま仮死と言われましたね」 検事は目を丸くして聞き|答《とが》めた。 「さようでございます。現実その証拠には内臓が損なわれておりませんし、また事実さほ どの出血がなかったにもかかわらず、てっきり大出血を思わせるような虚脱状態が現れて おります」 と寂蓮尼はきっぱりと言い切ってから、 「そうしますとあなたは、ハニッシュの天啓録をお読みにはならなかったのですね。|癒珈《ゆが》 |式《しき》呼吸法は?べーゼルブブの|呪術《じゆじゆつ》は?ダルヴィラやタイラーの著述はいかがでござい ますか」 「遺憾ながら、いずれもまだ読んではおりません」 と法水はあっさりぶっきらぼうな調子で答えたけれども、続いてがぜん挑むような態度 に変わって、 「ところが寂蓮さん、もうあと六時間と|経《た》たぬ間に、推摩居士の内臓は寸断されなければ ならないのですよ」 「えっ、解剖を!」 寂蓮尼はのけ反らんばかりに驚いたらしく、かの女の全身にまるで|眩量《めまい》を感じたときの それのような動揺が起こっていった。 「なぜ生体に刀を入れる必要があるのです。庵主が|大吉義神呪経《だいきつぎじんじゆきよう》の吸血伝説を信じている ように、あなた方も大変な過ちを犯そうとしております。それこそ適法の殺人者ですわ」 「それが証拠の虚実を決定するものだとすれば……いっこう構わんではありませんか」 法水は冷然と言い放った。 「たしかヴォルテールでしたね。ストリキニーネさえ混ぜれば、呪文でも人間を殺せる と言ったのは」 寂蓮尼は顔一杯に|棲愴《せいそう》な|隈《くま》を作って、憎にくしげに法水を見詰めていたが、やがて|襖《ふすま》を 荒々しく|閉《た》て切って部屋を出てしまった。 「ねえ支倉くん、たしかあの女は推摩居士の|巫術《ふじゆつ》のほうに興味を持っているんだよ。どう やら、この寺が二派に分かれているとは思わんかね。そこに動機がある……」 法水がそう言ったとき、智凡尼が入ってきた。その|薄髭《うすひげ》が生えて男のような骨格をした 女は座に着くと、|煙軍《たゴこ》を要求してすぱすぱやりながら、 「|馬鹿《まか》らしいとはお思いになりませんか。推摩居士が真|実龍樹《りゆうじゆ》の化身ですのなら、なぜ南 天の鉄塔を破ったときのように、七粒の|芥子《けし》を投げて密室を破らなかったのでしょう」 「なるほど、それは面白い説ですね。ところであなたは、浄善の死因について何かご存じ なようですが」 「実はだれにも言いませんでしたが、わたし犯人の姿を見たのですわ」 「なんですってη」 検事は思わず煙草を取り落としたが、智凡尼は静かに語りはじめた。 「済んだ合図の笙が鳴ったので、|鍵箱《かぎばこ》から|厨子戸《ずしど》の鍵を出して網戸を開けますと、天井の 格子に何か急いで複雑な動作をしているような影が映りました。そして、鳴っていた笙が ぴたりと止んでしまったのです。しかしその時は、|側《ぞぱ》の推摩居士に気がついたので、わた しはしばらくその場に立ち|疎《すく》んでおりました。けれども、間もなく気を取り直して階段の 上まで上がってみますと、浄善さんはあられもない姿で両袖で顔を覆って|仰向《あおむ》けになって おりました。ああそうそう、その時階下にはだれもおりませんでしたが……」 「そうしてみると、現在の浄善とは死体の状態が違うことになる」 と言って検事が法水を見ると、法水も|怖《おぞ》け立った顔になっていた。 「浄善がその時まだ生きていたか、それとも死体が動いたかーだよ。けれとも、硬直が 来ない前は微動するわけもないはずだぜ」 「そうです。生きていた浄善は、その後に殺されたのですわ」 智凡尼はぐいと|到《えぐ》るような語気で言った。 「だって、推摩居士が魔法のような殺され方をしているのを目前に見ながら、その側でじ つとしているというわけはないでしょう。それに、わたしがそれからすぐ飛び出して、そ の旨を庵主に告げると、庵主は夢殿に入ったきりでしばらく出てこなかったのですからね。 わたしと寂蓮さんはその後に見に行ったのですが、その時は浄善さんの姿勢が変わったと いうだけのことで、ほかにこれぞという異状もございませんでした。つまり、浄善さんが 推摩居士を殺して、その浄善を庵主が殺したのですわ。この論理には、ともかく中断がご ざいませんわね。たぶんそれで、庵主はいちばんいい夢を見る|阿片《あへん》を作るつもりだったの でしょう」 そして、智凡尼はげらげら笑いながら出ていってしまった。法水も同時に立ち上がった。 「ぼくはちょっと経蔵を見てくるからね。きみは盤得尼から、浄善の死体について詳細な 要点を聴取しといてくれたまえ」 それから一時間ほど経って、二度目の網戸の音がしたかと思うと、ふたたび法水が現れ た。そして、検事と獣のような顔で|睨《にら》み合っている老尼に|愚勲《いんぎん》な口調で言った。 「ご安心ください。智凡尼の偏見が、これですっかり解けましたよ。支倉くん、やはり浄 善は発見された際には死んでいたのだ」 と一冊の書物をテーブルの上に置いて、 「あなたが集められた書籍の中に、たいへん参考になるものがありましたよ。これは、ロ ップス・セントジョンの『ウエビ地方の野猟』なんです」 「それで、何か?」 「その中にこういう記述があるのです。予の湖畔における狩猟中に、朝食のため土人 の一人が未明|玲羊《かもしか》猟をせり。しかるに、クラーレ毒矢にて射倒したる一匹を捕獲したるハ イエナの|濫《おり》際へおけるに、全身動かず死したりと思いし玲羊の目が|瞳孔《どうこう》を動かし恐怖の色 を現したりと。ねえ支倉くん、浄善は最初に微量のクラーリンを塗った矢針で|艶《たお》され たんだよ。つまり玲羊と同じに、運動神経が麻痺して動けなくなったまでのことで、その 目はじっと恐ろしい殺人模様を眺めていたんだ」 「冗談じゃない」 検事はここぞと一矢報いた。 「いったい、どこに外傷があるんだ」 「それが、襟足にある短い髪の毛の中なんだよ」 と法水が掌を開くと、その中から四寸ほどの頭髪の先を巧妙な針に作ったものが現れた。 「ところでぼくがどうしたかというに、普光が笙の鳴っている間に聞いたという妙な音響 からなんだ。板の間を踏むようなドオ!という音が二度ばかりして、その二度目の直後 にブーンと|捻《うな》るような音が聞こえたと言ったね。かりにそれを、太鼓の両側の皮を内側か ら強く引き締めておいて、ぜんぜん振動を起こさせないようにしたのを打ったとしよう。 そして二度目にその緊縛が解けたとしたら、|凹《へこ》みの戻った振動でもってちょうどそういう ような捻りが起こりはしないだろうかね。案の定、その思いつきからして|火焔太鼓《かえんだいこ》を調べ てみると、はたしてそこに三つ|針孔《はりあな》ほどの孔が空いていた。つまり、そのうちの二つは皮 の両側を引き締めた糸の|痕《あと》であって、またもう一つには、二度目の|擾《ばち》で糸が切れ、両側と も元の状態に戻ったときにその反動を利用する、簡単な針金製の|弩機《どき》が差し込まれてあっ たのだよ」 そうして、浄善の死因に関する時間的な矛盾が一掃されてしまうと、法水はふたたび盤 得尼に言った。 「とにかくその発見からだけでも、あなたに対する疑惑は希薄になります。つまり、智凡 が見たというのは、笙を吹いていた犯人の影ということになりますが、さてそうなると、 浄善の死体を動かした犯人が、その場は三階へ隠れたにしてもです、いったいどうして、 それからあの場所を脱出したものか問題はふたたび密室で行き詰まってしまうのです よ」 「それがとりもなおさず、孔雀明王の秘跡ではございませんか?」 と盤得尼はすかさず|眉《まゆ》を張って、なおも|執拗《しつよう》に奇跡の存在を主張するのだった。それを、 法水は冷笑で報い返した。 「しかし、この点だけは誤解なさらないでいただきたいのです。あなたにしても、ただ智 凡尼の推測から解放されたというだけで、つまり、|謬説《びゆうせつ》から逃れたということは正しい推 定から影を消したということにはなりませんからね。だいたい他の三人にしたところが、 当時の動静を的確に証明するものがない始末ですから。いずれぼくが密室を切開した際に、 あらためて四人の顔を|膿《うみ》の上へ映してみることにしましょう」 盤得尼が出ていってしまうと、法水はポケットから一枚の紙片を取り出した。それには、 次のような文字が|認《したた》められてあった。 黄色い|斑占《はんてん》の中に赤里い|蠕蟷《こうもり》ー盤得尼 全部暗褐色の|瓢箪《ひようたん》寂蓮尼 真っ里な英仏海峡付近の地図i智凡尼 普光尼は答えず。 「なるほど、心理試験か……」 検事が|訊《たず》ねるともなしに|眩《つぷや》くと、この一葉の上に法水が狂的な|愚着《ひようちやく》をかけているのが分 かった。 「うん、推摩居士の行衣の右袖に瓢箪形の|血痕《けつこん》があったっけね。その印象を、ぼくは求め たのだよ。で、これを見ると、各自がいちばん印象を受けたときの位置と、おおよその時 刻が分かるんだ。盤得尼のは階段を下りながら、正面に光線を受けたとき眺めたものなん だ。寂蓮と智凡は横手からだが、陽射しの位置によって目に映った色彩が異なっている。 さて、これからどういう結論が生まれるか、いまはまだ皆目見当がつかないのだがね。し かしこれだけ集めるのに、ぼくは大変な犠牲を払ってしまったよ。寂蓮尼に、推摩居士の 死体を解剖しないと約束してしまったのだ」 3吸血|菩薩《ぽさつ》の本体 それから三日後、法水と検事はふたたび寂光庵に赴いた。が、それまでにかれが得た情 報と言えば、穴蔵に横たえた推摩居士の死体に、|愉伽《ゆが》式仮死を信じている寂蓮尼が|凄惨《せいさん》な 凝視を始めたということのみだった。その食事も|摂《と》らず一睡もしない光景からは、聞 くだけでもぞっとするような鬼気を覚えるであろう。二人が寂光庵に着いたころは、ちょ うど雷雨の前提をなす粘るような無風帯の世界であった。が、入るとすぐに普光尼を呼ん だ。しかし、法水だけは案内の尼僧が去ると同時に部屋から出て、普光尼が来てからだい ぶ|経《た》って戻ってきた。 「ぼくはあなただけに聞いていただいて、当時あなたが伝声管から聞き|洩《も》らした音を思い 出していただきたいのです。ところでその前に、犯人がいったいどういう方法で密室から 脱出したものかーそれをまずお話しすることにしましょう」 ああ、法水はいつの間にか密室の|謎《なぞ》を解いていたのだ。かれが語りはじめた犯人の魔術 とは、いったいなんであったろうか? 「ぼくがこの説を組み立てることができたのは、多数の手や首を持っているいわゆる|多面 多腎仏《ためんたひぷっ》の感覚からなのです。ところで、ご承知のとおり夢殿には階下の正面に、ほとんど 等身大と思われる十一面|千手観音《せんじゆかんのん》の画像がかかっています。そしてぼくがその感覚に気づ いたというのは、ちょうど事件当日四時半ごろのことなのでした。その時表面の|厨子《ずし》戸に は、横手の|橘子窓《れんじまど》が黒漆の上に映っておりました。ところが、それから網戸を開くと、正 面の千手観音に不思議な運動が起こるのを見たのです。というのは、最初厨子戸に映った 橘子を見詰めて、それから網戸に|嵌《は》まっている縦桟の格障子を見たからなんです。つまり 嬬子窓の残像が縦桟の間に挟まってーそうしたときに網戸を開いたのですから、当然一 つの実像と一つの残像とが交錯して、そこにいわゆる驚盤現像(縦穴の並んでいる円筒を 回転させると、内部の物体が動くように見える活動写真的現像)が起こらねばなりません。 しかしその現象は、網戸が眼前から去ると同時に当然|止《や》むだろうと思うでしょうが、事実 はその後もしばらく続いておりました。たぶん、視軸に影響して回転が続くので、それに つれてやはり以前どおりに動いたのでしょう。すると、眼前の十一面千手観音にどういう 現象が起こったと思いますねρ|肱《ひじ》を上方に立てている肩口の七本と、下に向けている腰辺 の四本が……おのおのが一本の手になってしまって、その手を左右に振っているかのよう な錯視が現れたのです。つまり、残像の列と符合している縦の線が、目撃者に動いたよう に見えたからなんですが、同時にそれにつれて、全身の線や|襲《ひだ》が不気味な躍動を始めてき ました。ですからぼくがそれと気がついたとき、これが密室を開く|鍵《かぎ》ではないかと思った のですよ。けれども、発見当時の刻限はちょうど反対でして、あいにく橘子窓から|陽射《ひざ》し が遠ざかっていたのです。ですから、あらためてそこに新しいフィルターを探さねばなら なくなりました。ところが画像に運動感を与え、一人の白衣を|被《かぷ》った人物をその|眩影《げんえい》の中 に隠してしまうーという不可思議な作用が、階上にある浄善の死体の中にあったのです よ」 「きみは何を言うんだ?」 検事は思わず度を失って叫んだ。 「そうなんだ支倉くん。あの死体いや動けない生体が自転したからなんだよ。たしか きみは、四肢の妙な部分に|索痕《さくこん》が残っていたのを|憶《おぽ》えているだろうね。あんな所をなぜ犯 人が縛ったかといえば、精神の激動中に四肢の一部を固く縛って血行を妨げると、その部 分に著しい硬直が起こるからなんだ。それと同じような例が、刑務所医の報告にもあるこ とで、死刑執行前にほとんど知覚を失っている囚入の手首を縛ると、全部の指が突っ張っ てぴーんと硬直してしまうそうだがね。この事件でも、犯人は奇怪な圧殺をする前に、浄 善の手足に|紐《ひも》を結びつけておいたのだよ。それは詳しく言うと、まず両|膝《ひざ》と両肱を立てて、 腕は|上騰部《じようはくぷ》の下方、|肢《あし》は|大腿部《だいたいぷ》の|膝蓋骨《ひつがいこつ》から少し上の所を、ぞくにいうお化け結びで緊縛 しておいたのだ。それから、その緊縛を右膝と左腕、右腕は左膝と結びつけて、その二本 の紐を中央で絡めてぐいと引き締めたので、浄善はすこぶる回転に便宜な、まるで括り猿 みたいな|恰好《かつこう》になってしまった。そうしておくと、やがて硬直が始まるにつれて、当然関 節の伸びる方向が違うからね。二本の紐が反対の方向に|振《ね》じれていって、浄善の|身体《からだ》が回 転を始めたのだ。そして、硬直が極度になってぴーんと突っ張ってしまうころには、それ に加速度も加わって、まるで|独楽《こま》のような旋回になってしまったのだよ。そう分かると、 格子戸から落ちてくる唯一の光線の中で、さながら映写機のフィルターのように旋回して いたものがあったーそれがとりもなおさず浄善だったということが分かるだろう。もち ろんそれが、千手観音に運動錯覚を起こさせて、目撃者に細かい識別を失わせてしまった のだ。事実、犯人はしごく簡単な|扮装《ふんそう》で画像の前に、像の衣の線と符合するように立って いたのだったよ。そしてそれ以前に、まず死体を回転させて、それが頂点に達したとき紐 を解いたのだーむろん加速度で、しばらくは回転が止まなかったと思われなければなら ないだろう。それから犯人は、笙の鳴り出す時刻に近づいたので、|頃《ころ》やよしと階下に下り ていった。ところが智凡尼は入るとすぐ、千手観音画像が不気味な躍動をしているのを発 見したのだったけれども、これはしばしば出会うことでとうに|脳裡《のうり》の盲点になっていたの だから、当然気にしなかったと同時に、その時階下がだれもいない空室だったと誤信して しまった。で、その一瞬後に、階上で動いている影を発見したのだったけれども。嵌め格 子を斜め下から眺めて、そこに影の珍しいものがちらっと映じたのみのことで、それをす ぐに確かめようとはしなかった。というのは、横手にある異形な推摩居士を発見したから なんだよ。それから推して考えると、推摩居士を階段の上り口に下ろしたというのは、そ のほとんど全部の目的が、フィルターの正体を暴露させないためにすぐ目撃者の注意を|惹《ひ》 くためだったに相違ない。こうして、精密な仕掛けを種に錯視を起こさせて、やがて智凡 尼が二階へ上がった|隙《すき》に明け放した網戸から|脱《ぬ》け出したのだが。……さて、残った謎とい うのは、|笙《しよ つ》がとうして鳴らされたかという一事なんだよ。階下に潜んでいる犯人が階 上の笙を吹けるという道理はないし、それとも事実二階に人間がいたとすれば、密室の中 へさらにもう一つの密室が築かれてしまうのだよ」 「うん、浄善の姿勢が変わったということだけは、不自然に作られた硬直が絶命後に緩和 するからね。それはそれで分かるにしても……」 と検事が|相槌《あいづち》を打ったときに、青白い光が焼刃のように|閃《ひらめ》いて雷鳴が始まった。雷の嫌 いな法水はちょっと顔色を変えたが、そのためかいっそう青白くなって|凄《すさ》まじい気力を普 光尼に向けた。 「そこで、わたしは最後の断案を下したいのですか、それを言う前に、先日|秘《ひそ》かに試みた 心理試験の結果をお話しすることにしましょう。というのは、推摩居士の行衣にある|瓢箪 形《ひようたんがた》の|血痕《けつこん》を各人各様に見た印象が|素因《もと》なのです。ところが、あなただけはそれを知らない ーと答えましたっけね。わたしはあれほど特異な形を知らないという言葉に異様な響き を感じて、さっそくその分析を始めました。そして気がついたのは、わたしとあなたとで は、目的とするものがぜんぜん異なっているということなんです。言葉を変えて言えば、 あなたはわたしの術中にまんまと陥ってしまったのですよ。実を言うと、あの心理試験を 用いた真実の目的というのは、決して瓢箪形の血痕にあるのではなくて、むしろ智凡尼が 英仏海峡付近の地図と言った、下の血痕との間に挟まれている溝にあったのです。あなた が知らないと答えたのは、あのU字形の溝なんで十よ。ねえ普光さん、連想というものは 非常に正確な|精神化学《メンタル ケミストリ 》なんですよ。あの二つの伝声管を|繋《つな》いだとしたら、それがU字 管になるでしょうからね。すると、U字管にはいろいろな現象が想像されますが、さしず め一本の伝声管の端に|鈷《もり》を作ったと仮定しましょう。そしてそれに空気を激突させるよう な仕掛けを|側《そば》に置いたとしたら、そこでは下らない雑音に過ぎないものが、管の気柱を振 動させて二階の|孔《あな》からとういう音響となって飛び出しますかIそのことはとっくにこ承 知のことと思われます。いや、笙の|蚕気楼《しんきろう》を作ったあなたの魔術を、わたしがここでくど くど説明する必要はないのですよ。とうにあなたは、それを問わず語らずのうちに告白し てしまっているのですからね」 法水論理と巧妙なかまに|掛《フフ》かって、普光尼はひと|溜《た》まりもなくその場に崩れ落ちてしま うものと思われた。ところが意外にも、かの女の態度がみるみる硬くなっていって、やが て厳粛な顔をして立ち上がった。 「いいえ、どうあろうといっこうに構いませんわ。たといわたしが犯人にされたところで、 |菩薩《ぼさつ》にあるまじき邪悪の跡に反証を挙げてさえいただければ。……けれども、|孔雀明王《くじやくみようおう》が 残した吸血の犯跡がいぜんとして謎である以上は、あなたの名誉心のために払わされる犠 牲があまりに高価過ぎやしないかと思われるのです。それよりも、寂蓮尼が期待している 推摩居士の復活のほうが、どうやら真実に近づいていきそうですわ。この暑熱のさなかに、 いっこう腐敗の兆しが見えてこないのですから」 こうして、法水の努力もついに徒労に終わって、階下の密室が解けたと思うとその一階 上にさらに新しいものが築かれてしまった。が、法水はいっこうに|頓着《とんちやく》する気色もなく、 その日はほかのだれにも会わず経蔵の再調査だけをして、ごうごうたる大雷雨の中に引き 揚げていった。ところがそれから五日目の夜、突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れ ると、かれは|樵惇《しようすい》し切った|頬《ほお》に会心の笑みを浮かべて言った。 「やはり支倉くん、ぼくは考える機械なんだね。書斎に|籠《こも》ると、妙に力が違ってくるよう に思われるんだ。とうとう孔雀明王の四本の手を|椀《も》いでやったよ。しかしそれは偶然思い ついたのではなくて、例の浄善尼がした不思議な旋回が端緒だったのだ」 それから、法水の説き出していく推理がさしも犯人が築いた|大伽藍《だいがらん》を、みるみる間に崩 していった。そして夢殿殺人事件は、ようやくその|全貌《せんぽう》を白日下に|曝《さら》されるに至った。 「ところで、きみにしろだれにしろ、結局行き詰まってしまうにしてもだ、浄善尼が奇術 的な回転をしたことが分かると、一応は飛散した金泥に遠心力ということを考えるだろう ね。そしてあの四本の|玉幡《ぎよくばん》が気になってくるのだが、あんな軽量なものにはたとえばそれ を回転させたにしても、結局それだけの分離力のないことが明らかなんだからね。あのい ちばん手近な方法を残り惜しげに|諦《あきら》めることになってしまう。けれどもあの玉幡に、重量 と膨張とを与えたとしたらどうなるだろう」 「なに、重量と膨張を!」 検事は|眩惑《げんわく》されたような顔になって叫んだ。. 「うん、そうなんだ支倉くん、結局そういう仮定の中に犯人の恐ろしい脳髄が隠されてい たのだよ。とにかく、順序よく犯行を解剖していくことにしよう。ところで、事件の直前 から犯人が夢殿の中に潜伏していたということは、当時各自の動静に確実な|不在証明《アリバイ》が挙 がらなかったのを見ても明らかだろう。だがかえってそれが、この場合逆説的な論拠にな るとも言えるんだ。そしてどこに隠れていたかということは、あの当時の夢殿が油火一つ の神秘的な世界だったのだから、それはあらためて問うまでもない話だろう。ところで、 浄善の|昏倒《こんとう》と推摩居士の発作が的確なのを確かめると、犯人は四本の玉幡を合わせて|繍仏《しゆうぶつ》 の指に凸起のあるほうを内側にして方形を作り、それを三階の突出し床の下に|吊《つ》るしてお いたのだ。そして、いよいよ画中の孔雀明王を推摩居士の面前に|誘《おび》き寄せたのだが……そ うすると支倉くん、あの神通自在な|供奉鳥《ぐぷちよう》はたちまち階段を下り、夢中の推摩居士に飛び かかったのだよ」 そう言ってから、法水は|唖然《あぜん》とした検事を|尻目《しりめ》にかけて立ち上がり、書棚から一冊の報 告書めいた|綴《つづ》りを抜き出した。そして、それを卓上に置き、続けた。 「もとより画中の孔雀が脱け出すという道理はないけれども、それが孔雀明王の出現と言 えるのにはほかに理由がある。というのは、推摩居士の異様な歩行が始まったからなんだ。 きみはヒステリー|麻樺《まひ》患者の手足に刺激を与えると、さまざま不思議な動作を演ずるとい う事実を知っているだろう?しかしその前に、いわゆる体重負担性断端1それを詳し く言うと、義足を要する肢のどの部分が|足蹄《あしうら》のように体重を負担するか、その点をぜひ知 ってもらいたいのだ。で、推摩居士にはそれがどこにあるかというと、現に義足を見れば 分かるとおりで、|腓骨《ひこつ》の中央で切断されている|播粉木《すりこぎ》の端にはなく、かえって膝蓋骨の下 の腓骨の最上部にある。そしてそれ以下の播粉木は、義足の中でぶらぶら遊んでいるのだ。 つまり、足蹄の作用をするものの所在が非常に重大な点なのであって、むろん犯人はその 部分に刺激を与えたのだったよ。それは言うまでもなく、正気ならば膝蓋骨を下につけて 歩くに違いない。けれども夢中|裡《り》の歩行では、永い間の習慣からして体重をかけていた腓 骨の最上部を床に触れ、それを足蹄の意識にした直立の感覚で歩くのが当然なんだ。おそ らく、さぞや重心を無視した|滑稽《こつけい》な歩き方をしたことだろうがね。しかし義足を外した推 摩居士には、それがいちばん自然な状態なんだよ。そうすると、推摩居士の足は栄養が衰 えていて目立った|巌痩《るいそう》を示しているのだから、当然その部分の|菱形《ひしがた》を中心にして、|三稜形《さんりよ つけい》 をした骨端と膝蓋骨の下端に当たる部分とが合したものーーそれが、てっきり孔雀の足跡 のように見えはしないだろうか。そして|礼盤《らいぱん》から離れていった跡が、ちょうど前方から孔 雀が歩んできた跡に符合したというわけなんだよ」 「ああ」 検事はたまらなく汗を|拭《ふ》いて、 「だが、どうして推摩居士は三階へ上って行ったんだ?」 法水は卓上の一書をぱらぱらとめくって、最後に指で押さえたぺージを検事に突きつけ た。 「支倉くん、きみはヒステリi患者の五官のうちで、何がいちはん最後に残るかーそれ が視覚だということを知っているかね。また、その中では赤色だけは発作中でさえも微弱 に残っているのだ。もちろん、|巫術《ふじゆつ》などでは巧みな|扮飾《ふんしよく》を施して、それを恐ろしい鬼面に でっち上げるのだが、現在ぼくの手にそれを証明する恰好な文献があるのだ。とにかく、 その|件《くだり》を読んでみよう。(一九一六年十月、メッツ予備病院においてジュッセルドル フ|騒騎兵《ひようきへい》連隊付軍医ハンス・シュタムラーの報告)余の実験は、該患者に先登症状になる |震頭《しんせん》を目撃せしに始まる。まず円筒形の色彩板を持ち出して、それを紫より緩く回転を始 めたるに、最終の赤色に至りて同人は突如立ち上がり、その赤色を凝視しつつ色彩板の周 囲を歩みはじめたり。ここにおいて、余は新規の実験を思い出し、同人の面前に赤色の布 を掲げて銃器を両壁に並べし通路の中に導き入れたり。しかるに、その際興味ある現象を 目撃せりというは、余がしばしば赤布を傍らの壁際へ寄せたるに、同人もまたそれに応じ て埋もれんばかりに身体を片寄せるかと思えば、また銃器に触れると同時に身体を離し、 そのまま静止することもありき。その現象は数回にわたり同一の実験を繰り返して、結局 確実なるを確かめたり。すなわち、全身に|斑点《はんてん》状の知覚あるためにして、その部分が銃器 に触れたる際には、|横捻《おうねん》が起こらざりしものと言うべし」 読み終わると法水は|椅子《いす》を前に進め、おもむろに|煙草《たばこ》に火を点じてから言いつづけた。 「ところで支倉くん、そこに推摩居士を導いたものと、もう一つ、傷跡に|梵字《ぽんじ》の形を残し たものがあっだのだ」 「もちろん、犯人が赤色の灯を使って、推摩居士を導いたことは言うまでもないだろう。 そして三階の階段口にある突出し床から、下に方形の孔を開いている玉幡の中へ落し込ん だのだ。またそれ以前に、犯人は繍仏の指の先に隠現自在な|鉤形《かぎがた》をした凶器を嵌め込んで おいたのだが、その凶器はその場限りで消え|失《ヤつ》せてしまったのだよ。で、最初まず、いか にして梵字形の傷跡ができたかーそれを説明しよう。ひと口に言えば、最初に向き合っ た二つの鉤が推摩居士の腰部に突き刺さり、それが筋肉を|挟《えぐ》り切ってしまうと、続いて二 度目の墜落が始まって、それまで血を|嘗《な》めていなかった残り二つの鉤が今度は両の腕に突 き刺さったのだ。つまり、そこにはとうてい信じられない回転がなければならない。けれ ども、それはもちろん外力を加えたものではなくて、その自転の原因というのは推摩居士 の身体に現れた斑点様の知覚にあることなんだよ。最初腰に刺さった二本がどうなったか というと、体重が加わって筋肉を上方に引き裂いていくうちに、左右のどっちかが知覚の ある斑点の部分に触れたのだ。そうすると、当然その部分に触れるたびごとに、それから 遠ざかろうとして身体を|捻《ひね》るだろうから、偶然そうして描かれていった梵字様の痕跡が左 右寸分の狂いもなく符合してしまったのだよ。つまりひと口に言えば、推摩居士の自転が |鞭櫨《ろくろ》の役を務めたということになるのだけれど、最後に筋肉を|掻《か》き切って支柱が外れた際 その時、捻った余力で直角に回転して墜落したのだった。そして、その肩口をはっし と受け止めたというのが、残り二側の玉幡だったのだよ」 「そうすると、傷の両端が違っているのは?」 「それでは支倉くん、硬度の高いわりあいに血液のような弱性のアルカリにも溶けるもの を、きみは幾つ数えることができるね。たとえば|烏賊《いか》の甲のような有機石灰質を主材に作 ったとしたら、その鉤は血中で消えてしまって、脱け出したときにはそれが繍仏の硬い指 先に化けてしまうだろう。しかしその変化の中に、驚くべき吸血具が隠されていたのだ」 そうして、法水の推理がいよいよ眼目とする点に触れていったが、その真相を聞いた検 事は思わず開いた口が|塞《ふさ》がらなかった。どうしてあの時、|曼陀羅《まんだら》を一本だけでも切ってみ なかったのだろうか。 「つまり、いちばん複雑に思われるものがいちばん簡単なんだよ。あの曼陀羅を作った原 植物というのが、|毬華葛《まりげかずら》の干茎だからさ。シディの|呪術《じゆじゆっ》には、あの茎とてぐす|植《フフフ》物の針金 状の根とが非常に巧みに使われていて、それを|馬鹿《ばか》なマレー人が驚いている始末だがね。 あの茎の内部にある海綿様繊肉質は血であろうとなんであろうと、いやしくも液体ならば すべて容赦しない。つまり、あの曼陀羅というのは数千本の茎を嵌め込みにした結び目な しのものなんだから、その最後の一寸にまでも繍仏の指頭から推摩居士の血液を|畷《すす》り込む ことができたのだよ。もちろんそういう吸血現象があったがために、下方に流れた血が少 なかったのだ。だが支倉くん、当然そうなると、そこに重量と膨張という観念が起こって くるだろう、実は、浄善尼を|拒殺《やくさつ》した四本の手も、同様その中に|姦《ひしめ》いていたのだよ。血を 吸い尽くした曼陀羅の干茎が不気味に膨張するということは、こう分かればあらためて言 うまでもないことだろう。けれども一方、全長においてもおそらく五分の一以上も伸びた に違いないというのは、階段に血痕を残さず推摩居士を上がり口に下ろしたのを見ても分 かることなんだ。つまり浄善尼は、重量の加わった上幡の|裾《すそ》を|咽喉《のど》に当てられ、おまけに 猛烈な回転までもさせられてしまったので、結局それが|頸椎骨《けいついこつだ》の|脱臼《つきゆう》までも惹き起こす原 因になってしまったのだよ。そこで犯人はどうしたかというと、玉幡を吊るした紐の片方 を階段の上層の壁に持っていって、膨らんで推摩居士をしっくりと包んでいる玉幡を動か していった。そして四つの|幡《はた》を合わせた扶り紐を引き抜いて、あらかじめ|両脇《りようわき》に|回《めぐ》らして おいた紐を徐々に下ろしていったのだ。それから、吊り紐を元どおりの位置にしてから、 その裾を二列に合わせて四つの幡の裾を浄善の咽喉に当てたのだがね。しかしそのころか ら、干茎中の血液がしだいに消失していったのだったけれど、それは前もって自分の着衣 に血痕を残さないため、犯人が小窓を開いておいたからなんだ。当然そこからは、|灼熱《しやくねつ》せ んばかりの日光が射し込んでくる。ねえ支倉くん、血液の九〇パーセント以上は水分なん だぜ、それが蒸発したあとはむろん以前と大差ない重量になってしまうのだ。しかしその 減量と収縮とは、ぼくらが到着するまでの二時間余りの時間内に終わってしまったのであ って、発見した際に尼僧たちは玉幡の膨張には気がつかなかったのだ。そうしてから犯人 は、いよいよ最後の幕切れになって、あの金色|燦然《さんぜん》たる大散華を行ったのだよ。というの はむろん浄善の回転にあることだが、その時尼僧の咽喉に食い入っていた玉幡がどういう 状態にあったかというと、急激な膨張と収縮が相次いで起こったために、表面の金泥が浮 き上がって|斜離《まくり》しかかっていたところなので、あの猛烈な遠心力がいっきに振り飛ばして しまったのだ。だが、そうした玉幡の回転は階下にいる推摩居士にも影響して、その|瀕死《ひんし》 の視覚に映じたものがあった。きみは推摩居士が、宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる と言った言葉を憶えているだろう。かなり神秘感を|唆《そそ》る文句だけれども、その正体という のは一種の異常視覚に過ぎないのだ。つまり、格子戸の|桝目《ますめ》に映った|火焔太鼓《かえんだいこ》の|楕円形《だえんけい》が 玉幡の円孔の現滅につれて、あるいは孔雀の輪羽のように見えたり、,また円孔が現れない ときにはその二つ三つだけが残ったりして、結局推摩居士にそういう錯視を起こさせたに 違いないのだよ」 検事は聞くだけでも相当疲労を覚えたらしく、かれは夢の中のような声を出した。 「すると密室は?きみが切り開いた中にもう一つあったのは?」 「それは密室というよりも「笙がどうして自然に鳴ったかなんだよ」 法水は|几帳面《きちようめん》な訂正をして、 「それから犯人は笙に仕掛けを施して、その後に玉幡を切り落としてから階下へ下りたの だがね。ところできみは、アルコール寒暖計を知っているかね1細い管中のアルコール が熱で膨張するというのを。つまり犯人は笙の吹き口にアルコールを詰めて、それを縦に した根もとを日光へ曝したのだ。そうすると、当然膨張したアルコールは中の角室の空気 を圧し出して弁を鵬らせる。ところが、その一部が管中から噴き出てしまうので、それが 竹質に吸収されて膨張はいったん止み、アルコールは下降する。つまりそれが何遍となく 繰り返されるので、吹き手が息を入れるような観が起こる。そして、やがてそのうちにア ルコールは跡形もなく消え失せてしまったのだ。だか支倉くん、こうして犯行の全部が分 かってしまうと、犯人がヒステリー患者の奇怪な生埋を遺憾なく利用したというばかりで なく、たった一つの小窓に千人の神経が込められていたことが分かるだろう」 検事は息を詰めて最後の問いを発した。 「そうすると犯人はいったい犯人はだれなんだ?」 「それが、寂蓮尼なんだよ」 と法水は沈んだ声で答えて、熱した頬を冷やすように窓際へ寄せた。 「たしかあの日に、寂蓮尼が|大吉義神呪経《だいきつぎしんじゆきよう》の中にある孔雀吸血の伝説という言葉を言った っけね。ところが調べてみると、その経文のどこにもそんな章句はない。けれども、ぼく は経蔵の索引力ードの中から異様な暗号を発見したのだ。というのは、いつぞやの『ウエ ビ地方の野猟』と大吉義神呪経の図書番号とが入れ違いになっていることなので、意外に も片方になかった記述がセント・ジョンの著述にある挿話から発見されたのだよ。それは ケラット土人の伝説なんだ。孔雀が年老いてくると、舌に|牙《きま》のような角質が生えるそうだ が、それを他の生物の皮膚に突き刺し血液の中に浸しておくと、その角質がたちまちぽろ りと欠け落ちてしま・?ー1というのだがね。すると支倉くん、推摩居士に加えた殺人方法 がそこから暗示されているとしか思われまい。つまり、寂蓮が示威的な|嘘《きつそ》を作ったものに は、自分だけしか知らない、入れ違っている図書番号の連想が現れたからなんだ。しかし、 動機は三一百にして言い尽くせるよ。奇跡の|翅望《ぎようぎう》なんだ。ユダ(ユダの|叛逆《はんぎやく》は|耶蘇《やそ》に再生の 奇跡を見んがためと言われる)、グセフワ(奇跡を見んがために、ラスプーチンを刺そうと したロシア婦人)、そして寂蓮さ。けれども、あれほど偉い女が、水分を失った死体がミイ ラ化する事実を知らぬはずはないと思うがね。それさえも忘れさせてあの凝視を続けてい るところを見ても、神秘思想というものの恐ろしさが……どんな博学な人間でさえも気違 い染みた|蒼古《そうこ》観念のどん底に突き落としてしまうことが分かるだろう。ねえ支倉くん、も ・?水いことはあるまいから、あの女には○○○σ○待ってやるほうがいいよ。それが、こ の陰惨な事件にあるただ一つの希望なんだからね」