月と陽と暗い星 小栗虫太郎 一、 赤染衛門の陽謀  平安の都、右京も西の院となればよほど都びてくる。朱雀 大路の、雑沓をはずれて西へ十町。そこは旧市域にもかかわ らず|葎《むぐら》生いしげった、さびしい屋敷町になっている。その一 劃11水田をめぐらしためずらかな館のまえに、一台の青鯨 毛の車がとまっている。  女客が、いま|匡衡《まさひら》館にある。 「マア、なんて|服装《なり》してんの」  はいってきた、匡衡の妻赤染衛門をみたとき、客の、上東 門院の、女房伊勢大輔は、しのぶの唐衣をすべらせのけぞら んばかりになった。櫨紅葉の、|桂《うちぎ》に|蒲萄《えぴ》染の|汗診《かざみ》。衛門は、 三十路というにおどろいた|童女《わらべ》づくりだ。 「それ、あんたの御主人の趣味?」二度目は、大輔も胸悪さ をおぽえたような声だ。「きっと、匡衡さんに遊ばれない秘 法でしょう」  すると、しばらく衛門は遣り場にこまったような眼をして いたが、 「さう見える……-り品 わりとあんたにも下地があんのね」  と、大輔にくすくすと笑いかえすのである。  てれ臭さも、衛門にはこうした形であらわれる。内気です べてが内攻する伊勢大輔とはちがい、衛門は、豊肥矯慢の押 し出しそっくりに、太っ腹で厭味のない女傑だ。 「そんな眼をして……。あたし、大輔さんて人、てんでちが う人だと思っていたわ。それが、こんな服装をみてすぐ変に とるなんて、あんた下地があるわよ。そうそう、あんたの用 も聴くかわりに、あたしのも聴いて……」  そうして、渡殿をゆく音が消えてしまうと、なぜか大輔は |情《しよ》…ぽりとなってしまった《ん》|。  おなじ、上東門院につかえる女房たちながら、なぜ衛門と あたしとはこう違うのだろうかと考えた。うまれは、伊勢の 祭主であたしのほうがいい。衛門は、兼盛の娘だが母親の再 婚で、その後は検非違使右衛門尉|時用《ときむね》の養女だ。それが…… 愚図の夫をもてばこれかと思うほどに、いまでは隔たりすぎ て妬ましさも感じられない。  大学寮の、西曹頭大江匡衡と……、たまさか、官にありつ いても半年とは続かない、夫の成順とでは格段の差だ。しぜ ん、地位もひらけば|収入《みいり》もちがってくる。そしてじぶんが、 女ひとりの手で世事万端の遣り繰りをするようになってから 何年経ったことだろう。思うまい。が思うまいとしても、し ぜん吐息のでることがある。  それは……、艶冶をきそう後宮にいるだけに、ちかごろ容 色の衰えをしみじみと覚えることが、大輔にはいちばん悲し かったのである。  おなじ美女。紫式部が山吹なら赤染衛門は桜。じぶんは、 若いころは紅梅といわれ、和泉式部は鉄火のかきつばたに|例《ちフフフフ》 えられた。その才女が……いまは才のみのこり、女が衰えて きた。世帯やつれが、眼尻の鐵に小枝をふやしてゆく。これ では、物のあわれは伊勢大輔と、いまに清少納言の毒筆にか かるかもしれない。  けれど、大輔にとれば成順は嫌いではない。父親、六条院 の豪奢をほこる大中臣輔親と、義絶をしてまでも走りこんだ 男のことである。もとより、詩文章句の技にも治国経世の学 にも、そのうえ、医薬彫技にもくわしく、打ちものも拙なく はない。ただ、我儘か辛抱気がないのか、たれとも、官界を およぐに必要な追従の術に、かれの廉恥心が耐えられぬので あるか。いずれにせよ、拗ねたような徒食の日が、かれこれ 五年あまりも続いているのだ。  そんなわけで、つい愚痴もでれば待ち切れぬような気もし、 性なしものと、人の噂をきけば心の鬼と、しりぞけながらも 動かされ勝ちになる。そしてそれにつれ、ますます情緒のな い乾からぴた家庭になってゆく。じっさい、いそがしい世帯 に夫もかまえず、じぶんが、愛撫の細技にまで心使えないこ とが、いま衛門を見るにつけ、かっと焦だたしくなってく る。  あの人の若さ、たしかじぶんよりも二つほど年上のはず だ。それが……艶、しなやかさといい弾性といい、思わず水 水しいふしぎな子供めと、大輔は噛みつきたくなってくるの だ。それに引きかえ……じぶんはザラめいた肌、おなじよう な歌。あのころの青春と熱情をうしなわせてしまった金、 金、ああ金、すべてが金と、大輔は惰沈の底にあったのであ る。まったくきょう九重のいにしえの美少女も、   いにしへは、成らぬと聴きし黄金樹も    けふの日限ににほひぬるかな  と、あさましい夢をひとりぬる夜の、いかに久しい伊勢大 輔であった。その日も、うち橋の摺れちがいにそっと耳打ち をし、衛門にいくばくかを借りることになったのである。  そこへ、衛門がはいってきて、お願いといった。 「それを、大輔さん、もって帰ってくださらない。そして、あ たしがいいと云うまで、蔵っといて頂きたいんだけど……」 「じゃ、なあにこれ?」  わたされたのは、一つかみの書院紙に過ぎなかったが、開 いたとき、大輔はあっといって衛門を見つめはじめた。 「まさか、衛門さん、冗談じゃないでしょうね。これは、入 道殿へした|百済《くだら》根の投げ文じゃないの」  その百済根童字とは、当時洛中に名のたかい快隼のような 賊であった。いや、賊というよりも変革者であり、啓蒙的な、 套移文弱に抗する孤独の突撃隊であった。しかも、機略縦横 片影さえもとらえさせない。いったい、男か女かどの国のも のか、すべてがかれをつつむ露のように荘乎としている。 宇治どのが、寝ているまに片髪をおとされたり、好色の、 和泉式部の牛飼に化けては、一鞭をくれ牛を疾走させたりし た。それが、溜飲をさげる重曹のように、京童にはやんやと むかえられる。かれの、一笑ごとに巷の隅々から、わあっと 快哉の声が湧くのだった。  それには、御改めしかるべきことの箇条書1とある。  その一、  かみに武威なく、群盗洛中を俳掴す。六衛の 武士、検非違使ともに装束の美をきそひ、まさに、行列をう るはしうするの点景に過ぎざるの観あり。いづれの世にも、 的に穴なく馬場は平らに、打ち技の雄叫び聴くことなきはお そろしき極みなり。これ、御改めしかるべきの一。  その二、  選叙考課の公平は、念仏のごとく空なり。官 につきたくも、それぞれの道に世官世職あり。たとへば。和 気、丹波の典薬、菅原、大江の大学のごとく、人材野にあっ ても登用の道なし。すなはち、譜代の選、門地の貴賎によっ て選任を次第するには、国をあやまり民をして希望をうしな はしめるの因。これ、御改めしかるべきの二なり。  その三、  瞬官冗任、令制いたづらに多きはなんぞロ しかして、大学寮を出でざるものには出世の道なく、学閥、 庶政一新をさまたげ令制の蔭にかくれ、排他の面をかむり、 清廉吏道をさけぶ。これ、笑止なり、改むべきの三。 「どう、火のようでしょう」  と、衛門がぱちぱちと瞬いていった。 「文章もいい、筆跡もたしか。それに、墨色には藤代のにおい があるわ。それで、殿上のだれかという鑑定がついたとかい って、父が心あたりを|夫《うち》へたずねてきたんです。つまり、こ の筆跡に記憶がないかと、教え子のなかをさがそうという量 見よ。だけど、うらぶれたり不平のあるものが、勘学院や大 学出にいるもんですか」  しかしその間、大輔は別のことを考えていた。それは、よ く藤代の墨がお下げわたしになり、じぶんも、宅へもち帰っ たことがある。してみると、もしやしたら成順がと思うと、 不安やなによりも異様な情熱に、瞬間ながらはっとときめく のであった。しかし、無為、労をいとうあの成順であればと、 間もなくかの女から消え去ったのも無理ではない。  まったく、大輔には衛門がわからなくなった。きびしい、 追捕をうけている犯罪者の証拠を、持ちかえれとは奇怪以外 のものではないからだ。 「すると、これは|検非違使《けびいし》の大切なものなんでしょう。それ が、あんたの手にあるのも不思議なこったし、なおさら、あ たしにもって帰れとなると、分らなくなってくるわ」 「じゃ、大輔さんはこれが恐いのね」 「いいえ、でも、どうして私がそうしなければならないの。 また、あんたの自由にどうしてこれがなったの?」 「盗んだ! |夫《うち》の、手文庫からかんたんに盗んでやったわ」  そういったのに、衛門は平然とわらっている。それが、大 輔をますます不安にさせ、おそろしいようにそっと畳のうえ に置いた。そこへ、衛門が腰をあげかけて、 「まあ、理由はいまゆっくり話すとするわ。とにかく、あん たにお金を渡しときましょう」  大柄な、たっぷり肉のついた赤染衛門がいなくなると、釣 殿のなかが、きゅうに広くなったような気がした。泉水で、 ぽちゃっと魚が跳ねたり、なんの音もない。ああと、大輔に は一時に疲れがでてきた。  衛門には、もう大分借りがたまっている。派手気で、大ま かなあの人だといっても、今度はなんといおうかと思うと火 がでるようだったが、やはり恥を掻かすようなあの人ではな かった。-苦労した。ずいぶん1苦労させられる成順だ と、大輔はじっと指をみた。細くとがって、一本の草にもと り槌るような弱々しさ、また、透きとおってゆく太陰の精の、 うつくしい微妙な蒼白さがある。  そういうとき、人の心は澄み、覚の境地がひらける。しず かで、声もないようでいてふしぎな叩ル文を聴く、大輔はまっ たく夢心地だった。成順にかけるじぶんの愛情が、なぜ見な いときはこうも燃え、側では、ながい目でと思ってもしぜん といがみかかる、辛抱気のないじぶんが端たなくおもわれ た。それは……一筋道の遠いさきのほうに、かの女を待つ幸 福があるような気持だった。  するとそのとき、気がつくと池の菱を投げたように、部屋 のなかがぽうっと蒼く染まっている。几帳がいつのまにか垂 れ、したの長押に、ひとりの乙女が背を向けたまま、微笑ん でいる。十七の、希望と夢にくりくりっと肥った、衛門の胤 ちがいの妹、飛鳥の侍従である。 「西日が、さしますので几帳をおろしました。叔母さまが、 そうしていらっしゃるとこ、月光菩薩のようですわ」 「マア、欽子さんたら、お上手なこと」  大輔は、われにもなくぽうっと頗を染めた。そこへ、けば けばしい|褻衣《ふだんぎ》に着かえて、衛門が渡殿をあるいてくる。のりもと 「あら、欽子さんたら、こんなところにいたの。お琴の、教基 先生がお待ちですわよ」  と、妹を追って沙金をわたすと、いよいよ衛門が目的のも のを話しはじめる。 「そりゃ、あたしだって|百済根《くだらね》が贔眞よ。といって、これが あの人の死命を制するものとは思われない。つまり、目的と いうのが、ほかにあるんです。どう大輔さんはお金が欲しく ない口」 「お金ロ あたしにそんなことを云うと、皮肉にとりますわ よ」 「ああそう、迂っかりしてたわ。だけど、どうしてお|局《つぼね》たち は終りがよくないでしょう。落ちぶれて、縁故を頼るような ことはしたくはなし、といって、夫が出世して大学頭になっ たとこで、五位の下が関の山じゃない。そこで、いまのうち に固めたいと思っているところへ、折も折、聴き込みがあっ たの」  と、衛門の艶のいい顔が燃えるように輝やいてくる。 「それは、あんたは知らないでしょうけども、うちが、法成 寺どのから小耳に挾んできたことがあるの。今度また、五条 坂のほうに御堂が建つんですって」 「じゃ、また洛外ね」  聞くと、大輔も怪詩そうに小首をかしげる。  この数代繁華の中心が東へとうつってゆく。ために、右京 はさびれ左京が賑い、入道が、法成寺を白河の野に建ててよ り、ぐんぐん加茂川を越え東へとひろがるのだった。それも、 北寄りの白河だけではなく、事実そうだとすれば南寄りも栄 える。すると、より以上さびれるのは、この西の院のあたり だ。 「だから、いまに右京は野ッ原になるでしょう。しかし此処 はさびれてもあたしは儲かるわ。ねえ。三文の徳という早耳 をして……、それを、役徳にしないなんて勿体ないじゃな いロ」 「それもねえ」  大輔はちょっと淋しそうな顔をした。役附きには、きまっ た以外にこんな余禄もあるのだ。 「それで、あたしの思惑はその辺の土地を買い占める。むろ ん、建つとわかりゃ土地の値はあがるでしょう。そのまえに 買えるだけ買って邸をうつしといて、じつは引っ越しました ところで偶然でと云や、痛いところも突かれないで済むわ。 どう、商売菩薩が慧りうつったようでしょう」 「じや・睡歓ざんも御承知なのね」 「ところが、うちったら馬鹿堅いことをいって、そんなこと、 滅相もない吏道精神に反するって。そこで、あたしは白済根 を持ちだしてやった。吏道吏道って、世官学閥がなんだいと 云ってやったら、それから、おこって口も利きゃあしないわ」  聞いているうちに、大輔は衛門の|精力的《エネルギツシユ》なものに圧倒され てくる。女が、利慾にもえるときの執念のようなものが、ま ったく、型がちがうだけふしぎなものに大輔にはみられた。 しかし、つづいて大輔の疑念が氷のように解けてゆく。 「だから、どうしても越させるには、嚇かすよりほかにない でしょう。じっさいは、童子にでも押し込んでもらいたかっ たんだけど、なにしろ、どこにいるのか掴みようがないでし ょう。それで、眼をつけたのが、あの投げ文よ。あれがなく なれば、なにしろじぶんの証拠なのですぐ童子に眼がゆく。 あれで夫は、度胸がないのだから、きっと淋しがりだすでし ょうよ」  ながい夢を、夫への片意地半分に、衛門はひさしく見つづ けている。しかし、そのわずか小半時間後に、酉の、初刻か ら四半刻と過ぎぬまに、衛門には思いがけぬ幾会がくること になった。それは、大学寮の博士夫匡衡が、勤めおわって帰 邸したことであった。 「これは、大輔どのお久しいのに、わしをみたとてお帰りに なる手はない。もし夜分になれば、下者をつけますほどに… …」 「なぜで御座いますの。じき、わずか五、六町のとこですの に」 「それは、えろう京が物騒になったからです。じつは、とこ ろもあろうに朱雀門まえの広場に、百済根童子めが、高札を 貼りだしよったのです」 「えっ、|百済根《くだらね》がですの」ひさしく、口もきかず|外《そむ》けつづけ ていた眼を、衛門も、百済根童子とあれば向けざるを得なく なった。しかし、匡衡もぐいと意地をはって、大輔をみたま ま振りむこうともしない。 「それが、不敵にもなんにも呆れ果てたやつです。近日、上 洛される性空上人を、みごと掠うぞと前触をしておる。それ も、日限、刻限までも予告してのことです」 「マア、本気でしょうか。物ならとにかく、人間ひとりを… …」  大輔は、衛門と顔を見合せ、しばらくは声もない。警護は あろう、それも、だしぬけならともかく予告したとすれぱ、 十重二十重人の培となろう。といって、これまで童子の予告 は一度もたがわれたことはない。また、京童はこの大見物に 堪能する。  それも……当代切っての人気坊主性上空人を、十月十七日、   ね一 夜の子の初刻から二の刻までのあいだに、ひっ掠うとはなん という派手者だろう。そのうえ、今度は日限にくわえて刻限 という、おどろくべき約束さえある。  衛門は、荷の、担きを捨てて、水干の袖をまくりあげ、高 札のまえでがやつく群集をみるような気がした。 「やるでしょう、あの人」  当て付けに、おなじ官禄をはむ夫へ向けて、衛門が吐きだ すようにいった。 「だいたい、こうなるまでの罪はどっちにあるのでしょう。 検非違使が、だらしがないのか、あの人が偉いのか…:・」 「これ」匡衡はにがり切って妻をみた。 「百済根に、どれほど人気があろうと、それは下民間のこと じゃ。上東門院の女房赤染衛門ともあるものが、賊に、敬称 を呈するとはなにごとである」 「あの人……、あたしがそういったのがお気に障りましたか。 でも、いつも逃げられて挨りを浴びてばかりいて、それで、 検非違使のほうを褒められましょうか」 「いかん、そういう崇めたような、英雄視がいかんのだ。鴨 呼、婦女の愚昧、これ禍門なり占芒  「愚ッ……、云ったわね」 「いったとも。そちが馬鹿ものなることは、とっくから承え ておる」  「羊!」  「なにをいう」  もう、大輔の存在などは、ふたりの眼にはない。衛門が、 あつい唇を二度三度合わせたかと思うと、 「紙を、禄に代えて食む、狸なりや」  「うう」たまり兼ねて、|匡衡《まさひら》が衛門の手をぴしゃりと打つと、 間髪をいれず、男の|透額冠《マきびたえ》がパッとけし飛んだ。|指貫袴《さしぬき》をや ぶり、沓を路んづける早業のうちに、いきなり、裳を蹴って 節会のように、衛門がぐいと、威儀をただしたのである」                な少じのじよう 「お退りなさい。あたしは、五位の侍尉赤染衛門、あなた は、六位の文章馬鹿博士です。その差一位は、あたしが几帳 のうちにいれば、簑子に降りるのが捷。さがれ、六位、強逼 でありましょうぞ」  そうして、廊下、|階《きざはし》、池の端へ追いつめられ、ゆき場が なくなった匡衡の顔を池の雄鷺が、ケーとかなしそうに鳴い てながめていた。間もなく、大輔はここを辞し去ったのであ る。いまのことは、かの女の家庭では想像もされぬことだっ た。  道々、轍と、牛の鳴きごえを簾のあいだから聴き、のぞく と、野の夕露がやさしく眼を撫でる。なにか、好みのものを 成順に進ぜよう。下者にも、あたらしい水干をあたえよう。 牛にも、今夜は、|和蘭《クロ 》げんげを|食《プア》ましましょうぞ。  大輔は、ちいさく貧しいながらも、その幸福を、のがすま いとじっと胸に抱いていた。 二、清女対性空  それから数日後1。ちょうど、京へ性空上人が着くとい う、前日のことだった。御所裏の下の森に羅市がさかってい る。たまには、市女笠の女もとまるが、荒くれた、気勢に怯 じてひとりものぞくものはない。無帽の、はなち讐といふ下 衆の面々が、肌をぬぎさかんに怒鳴っている。 「サア、いくらア、これ、|侍烏帽子《よこさぴえぼし》のとんがりだア。乾元ロ けえっ|吐《こ》きあがれ」 「二枚」 「阿呆、沙金でほれ、五匁だアぞい。ハハハハ、さあ二枚の 人、持ってってくれ」  そこへ、北嶺の学徒らしい京馴れぬ僧たちが、羅とは知ら ずに、売り値を聴いては喧われる。しかし、前日あたりから 僧体のものが、京には眼だって殖えてきた。性空上人に、危 難を予告した百済根童子のため、1万一それも検非違使が 心許ないとすれば、われわれで、上人をまもり高徳をはずか しめまいと、南都北嶺の面々が目白押しにのぽってくるのだ。  それでは、性空上人とはそれほどの|聖《ひじり》であるか。いや、台 密の高識よりも世間学の達人。一にも宣伝、二にも宣伝での しあがってきた人物だ。たとえば、遊女宮木から歌をおくら れればそれを弘め、和泉式部には、おのれの恋歌めいたもの で返歌するというように、衆愚の骨頂にぴんと合わサる気合 は、まさに稀代の|政治屋《デマゴ ゲ》である。  さいしょは、延暦の傑僧良源の弟子、それが、|日向《ひゆうが》の霧島 山から背振山をめぐり、紙の衣に、莚の帷幕をつけた瀬降り の小屋をこしらえ……、利根上智は、この苦行にしてはじめ て成るとばかり……聖はこちら、元祖の聖はこちらと、書写 の広目屋がはじまったのである。そのうえ、胸から上体にか けては阿弥陀仏の群ら彫り、倶利迦羅紋々を、看板にしての 大宣伝であった。  しかし、その性空にもたった一つの功というのは、巫薬一 致ともいう祈薦の新道である。深山をあるいているうちに、 薬草の智識を得、それを利用する。効験のほどはとうてい陰 陽の及ぶところではない。今度も、性空対安部晴明の対立が 京童のさがない口に麗かれている。  が、いま、性空はようやく難波の駅を過ぎた。浄財と、念 仏の雨のなかを悦々と京にのぽりつつある。 「どうでしょう。あの、立札一つでどえらいこっちゃ」 「起りますぞ。わしは、童子は供僧のなかにいると睨んでお る。図星でしょうが。かならず、あたまを剃って僧体となり、 あの時刻にはかならずやりますぞ」 「すると、あん次のも怪しいことになりますな」 「そうじゃ、気をお附けなさらんと捲き添えになる。僧体 は、此処しばらくは禁物のこっちゃ」  しかし、僧たちにたいする警戒は民衆だけではない。屈強 の、修法苦行できたえた頑強な肉体が、数千と、京師にいり 込んだことは衛戊的にも問題だ。ひょろひょろの、衛府や検 非違使の青侍どもが、ただ政治的にと妥協を急くけれど、そ のうち、|朝《あした》に殖え夕に増し、いまは、目にあまる荒法師の数 となってしまった。 「うむ、これであったか」  そうなって、童子の目的が奈辺にあるか知ったのが、衛門 の養父、検非違使右衛門尉|時用《ときむね》であった。白髪に、緒顔とい う典型的な追捕吏。しかも酷烈無比の名だたる利け者であ る。 「やつめ、法師どもをいれて治安をみだし、なにか政治的に 要求するものとみえる。とにかく、出様を待つにしても、な に者であろうかロ」  そうして問題は、ただひとりの百済根童子では済まなくな った。意外な波紋をえがいて、都の治安に、さらに、栄華の 老樹の幹がゆらごうとするのだ。 「ほうら、それ、鼻っ欠けの天人だ」  羅はなおもさかんに続けられている。その天人は、掌にの りそうな愛らしい木彫で、おそらく延喜朝あたりのものだろ う。 「錦衣宝帯もありや、雲にのっている。えならぬかおりは伽 羅慶香にまさり……どうだ、|乾元《けんげん》三枚」  すると、気のなさそうな声で、三枚と十文。  と、五枚の隅のほうからするどく叫ぶ声がした。乾元銀五 枚、ちょっと値ではないので、きゅうにざわめいてきた。な んの、法外な、きっとそいつは、冷かしだけで逃げだしてし まうのだろうと思われた。 「五枚、五枚だ、声はないか」  と繰りかえす、羅り手の声もうわずってくる。すると、今 度は群集のうしろのほうで、 「六枚」と幅のあるがんとくるような声がする。僧だ。諦経 できたえたものであることは、云わずとわかる。 「七枚、それに鉛銭半貫」 「八枚」 「九枚」と、その声にはたっぷりと誇示がある。どうだ、こ れ以上の高値はとうてい附けられまいーとぴいんとくる底 太そうな声だ。森のなかはしいんと静まりかえり、この意外 な景物をあきれたように見まもっている。  と、人波をかきわけ、法師頭巾がうごいてくる。横川の学 生、神輿を片手でぐいと差しあげそうな、たくましい見あげ るような大男だ」 「そこな方に申す」 「なに、あたくしですか」  ふりむいた、相手の顔をみるとみやびた白面だ。しかし、 それはきょう日いうヘルクレス型というのだろう、ひき締っ て、賛肉のない均斉のとれた、顔も正しいながら野性をうし なっていない。大輔の夫成順である。 「聡明の竜女、円珠を奉するの像は愚僧におゆずりくださ い。思修、草庵を房とする沙弥境にこそふさわしいです。お 願いします。おん身の三災も、霜のように消えるでしょう」 「おなじです」  成順は即座にやりかえした。 「要は、道心にあり僧俗の別にはありません。仏子は、僧を 菩薩とし、俗を君子とします」  割れた、僧は、敵意のこもった眼でじっと成順をみるが、 沙門の乏しさではどうすることもできぬらしい。すると成順 が、像を受けとったときポタリと落ちたものがある。比てれは、 錘しになっている銅銭を貼りあわせたもの。が、それにはよ くみると、惹きつけるようなものがあるのだ。  というのは、それが一枚の完全なものではなく、数種の、 破銭をつぎ合わせたものだったからだ。それも、銅のみなら ず開基の金、天喜の銀なども合わせて一つのものとなり、こ すると、地図のような継ぎ目があらわれる。そうして、次の ような銭文がつくられているのだった。 万寿観乾亀  やがて、そそるような奥底のものを慮やいて、成順の懐中 におさまった。しかし、帰距かれは追跡するものを感じた。 成順は、隣邸に入って、うまくまいてしまった《フフち》|。  塀を越えて、屋舎のほうから泉殿にはいると、壁代に、妻 が文反古のようなものを拡げている影がうつっている。 「おい、なにを見ている」  長押に、片足をかけて声高にどなると、奥の母屋のなかで ざわざわっと音がする。うろたえて、絵箱に蓋をしようとす るが、なかなかに出来ない。 「隠すなよ。ほう……、誰が書いたものだ?」 「欽子さんです。でも、人さまが書いたものを、御覧になり たがるなんて……」  それは、懐紙に書いたながし書きのようなもので、なにか 包んであったらしく、鐵苦茶になっている。成順は、丹念に 掌でこき、やっと揃えた。 「そうか、飛鳥の侍従か。あの娘を、あまり感心もせぬ上東 門院につかえさせたくないな。すると、これはそちが拾うて まいったのか」 「いいえ、いつぞや衛門さんにお借りした沙金がつつんであ ったのです。どうせ、文反古だからと仰言って、お読みにな りたいのでしょう」  成順は、しばらく繰りながら黙読していたが、やがて、夜 の冷えを媛めるようなものを見いだしてにこっと妻に微笑ん だ。  かつぎが、白い肌にゆれ、反射にかがやきます。鏡を、い つも見るごとに見惚れるほど、ああ美しいなとあたくしは思 います。あたくしは、南都の御堂をまわるごとに有頂天にな ります。阿修羅王の若々しさ、不空羅索さまの厳。そういう 方が、一度はめぐり合わねばならぬあの方であって欲しいの です。どんな方かそれはまだ、あたくしにはわかりません。 また、あたくしは詮索しようとも思いません。ただ、そのめ ぐり合いに、あたくし一生の運がかっていることだけは分り ます。 「お怜刑ですわ。きょう日の娘さんはてんでちがいますわ」 大輔は、なにかに揺られているような気持だった。涙がで て、わすれた夢が蘇ったように、かの女はきゅうに切なくな ってきた。 「こんな発明なところは、あたくしにはありませんでした」 「で、損をしたというのだね」妻を、成順は悪戯っぽい眼で みて、 「おまえにも、分相応の夢はあったろう。それが、おれがあ の方になったんで、滅茶くちゃになったというのだろう。ど うも、ひんねり、ひんねりと愚痴をこぽすやつだ」 「愚痴じゃありませんわ」 「いや、そういう顔を愚痴というんだ」  ともすると、云いたくなるものが、大輔にはある。が、そ れ以上悪化しなかったというのは、意外なものを成順が見つ けたからだ。 「おい、みろ。あの娘、たいへんなやつだぞ」  検非違使右衛門尉の、父の娘では出世はのぞまれませぬ。 |階《きざはし》を、一歩一歩のぽったところでなにがありましょう。そ れよりも、洛中にぱっと名がたつような、なにか突飛な機会 が考えられるのです。あたくしが、もし百済根童子にでも拐 かされたとしたら……。そういう機会が、もしつくれるもの なら、よろこんで参りますわ。  百済根さまは、きっと美しい若やいだ方で……。ああ、そ のめぐり合いにあたくしの運があるでしょう。 「マア、なんて心得ちがいな。あたしに、きょう日の娘さん の気持は、てんで分りません」 「ちがったな」成順はくすんと笑った。 「だが、侍従のかんがえにも一理はある。世は文弱にながれ liこれは、毎度おれのいう言葉だが、すべて、慣れのうら には飽きがあるものだ。ちがったものーなにかはっきりと はせぬが、それを望む心はある。なア、侍従は世も男どもも 飽々としてるんだ。変るだろう、国を堅うするには武、みち びくには文だ」 「しかし、それと百済根童子とはちがうと思いますわ」 「あれは、陰陽でいうところの、兆しの星のようなものだ。 童子の、今度の目的が奈辺にあると思う。性空か……、いや あの|売僧《まいす》ではない。南都、北嶺の衆を利用していかに尚武の 急を、法成寺どのに警告するにあると思う。いいか、侍従が 賊に惚れるというのを、まともに解してはならん。あれは、 現下の青年の夢だ。一種の、英雄待望の声だ」 「それ、毎度うかがいますわ。しかし、童子にも敬服する点 はあります。それは、おそろしい実行力のことです。口念仏 で、空論をわめくことは誰にでも出来ましょう。ところが、 童子は二言もいわずやって退けます。まったく、その点にな ら、あたしだって惚れますわ」 「皮肉かね」  しかし、おこりもせず成順は立ちあがった。そのとき、大 輔の顔に荒らいだ若やぎが、いつもの、白い夜のような和ら ぎを圧して、かがやくのを成順はみた。  その翌日、空前の賑やかさで性空上人の行列が、京の西郊 から繰りこんできた。  陽気で、派手好きな上人はバンドをつくり、法螺貝に、ピ ストンをつけたホルン様のものや、大型の、バス・テユーバ 型、トロムボーン型、|横笛《フリユ ト》に、|箪《しようし》 |簗《ちウき》の木管に銅羅に鼓をく わえ、輿をまもらせ堂々と乗りこんできた。香煙、銭雨、念 仏のなかで、侍僧どもが合唱をする。 仏は無差別祈薦のほかに 尊卑あまねくめぐむは薬。 大黄、キニーネ、|苦味丁幾《くみチンキ》。 これは快楽無退薬、噛めば宝の響きあり。  ちんまりと輿には、九十六歳の性空がすわってる。愛矯が 身上のこの上人は、痩せて木の根のような乾からびたからだ をうごかして、一々両側の群集に会釈する。そしてときどき、 左右の侍僧が衣を押しはだけては、有難い阿弥陀像の|文身《いれずみ》を おがませる。  すると、天地にとどろく涙声の和讃、投銭、テープの雨が 降りしきるなかで、性空は満悦そうに瞑目する。  ところが、上人をむかえての急がしい日をおわって、大輔 と衛門がおなじ車にゆられてゆく。 「じつはね、ゆうべあたしん所へ、みんな集ったのよ。議題 は、いかに童子をとらえ、時局を収拾するかということだっ た……」  赤染衛門は、父検非違使右衛門尉も夫文章博士もみな新官 僚といわれるあの一派にいるだけに、ときどき館が集会につ かわれる。 「まず、いままでの見込みをいってみると……、なにしろ、 狙うのが性空さんだというんでしょう。すると、仲のわるい 安倍|陰陽《おんよう》の一派が、どうしてもさいしょに睨まれるわけ。と ころが、晴明さんはたいへんな憤慨をして、こんなことなら、 一時京を立ち退くことにする。そうすれば、だれが百済根童 子かしぜん分るだろうといって、きのう難波へ発っていった の。だから、晴明だけは御破算にしていいと思うわ」 「じゃ、だれか他にいて」 「それを、大輔さんはだれだと思う」  いきなり、赤染衛門がくりくりっと眼をむいて、いった。 「うちかしら」 「馬鹿ねえ、もし成順さんが百済根童子なら、あんたの独り 占にはさせないわよ。あたし、仲良しのよしみで譲っていた だくわ。それで、つぎの候補者がだれだと思う? あんた、 |諾子《なぎこ》よ、それ」 「えっ、諾子」  大輔は、あっと空いた口がふさがらなかった。諾子とは、 当代の博学清少納言のことだから……。寵を、彰子の上東門 院にうばわれ欝死した定子が、ただひとりの誇りうる宮娯で ある。したがって、そういう関係からしりぞいている清女を、 検非違使はぬめぬめと睨めていたのであった。 「それから、諾子さんの家をずうっと狙ってるそうよ。一度 は、庭へはいって覗いたそうですけれど、そのとき、眼尻を ひいた眼でぐいと尻目にみられ、おまけに、酒をかけられて 這々と逃げだしたそう……。あの人、このほうが大分いける んだから……」  といって、衛門は左の手で、ぐいと飲む真似をした。  清女が、百済根童子とはてんで信ぜられぬことだが、あの 才気にあふれた縦横の活躍をおもい、また清女の、このまし い活淡さをかんがえると、もしやと、思うともう否定出来な くなってくる。しかし大輔はわらいながら打ち消してしまっ た。馬鹿らしい、性空を清女がねらうなんて、夢にもないこ とだ。 「それから、まだもっと素晴らしいニュース。それは、童子 が検非違使庁に手紙をほうり込んだことー、洛中荒法師に みち、さぞお恐いでしょう。これで卿等に、疎武の夢が醒め なければまったくの阿呆であるーという」 「痛快じゃないの」 「ええ、やりおるじゃない。ところが童子はわたしに一任せ よという。もし、約束をまもり武徳館をもうけ、治国経世の 明経学を復興するならば、独手、もって法師どもを逐わん。 なお、その旨承服ならば羅城門の楼に、日月旗を南面してか かげよーというの」 「それで」と、掌にときならぬ汗を感じ、大輔はまったく夢 中になってしまった。冗奮と安堵……、それは成順がうまれ 代えられぬ以上、そんな仕事は夢にもおもえぬからだ。 「とにかく、恐いは恐いが体面はあるし、なかなか、まとま らなかったけど結局仕方がない。とうとう、けさから日月旗 が出ているの。そうすると、童子の仕事がもう一つ殖えたわ けじゃない1っ品上人というのは、民衆への約束でしょう。官 辺へは、なんとか法師どもを怒らさずやんわりとやって、西 の海ではない洛外へ追っぱらってしまう……」 「だけど、それは両立しないことよ。上人をやれば、しぜん 法師は荒れるでしょう。それに、検非違使への憤慈がつのる でしょうし……」 「そこ」  赤染衛門もまっ赤に頗を火照らしている。 「そこが、童子の超凡たるとこよ。とにかく、|明後日《あさつて》十七日 の夜、子の初刻……」  その刻限、いかなる隠者病人といえどその時刻には、呼吸 をつめ、報せに胸をおどらせるだろう。洛の内外、数百万の 眼を一点にあつめるだけでも、百済根童子はかならず約を果 さねばならない。そこへ、大輔がのぞき込むような眼をして いった。 「時に、あのほう、どうなった? ほら、五条坂へ引っ越さ せる計略は?」 「あれは、目下円滑に進行中よ」  衛門はやや得意げな声でいった。 「今度こそ、人頼みが駄目だってことが、つくづく分った わ。なアんだ、考えりゃ訳なしのこった。あたしは、いま流 言をつかっているの」 「じゃ、いい触らしたのね」 「そう。つまり、どこに性空さんが泊るか秘密にされてるで しょう。おそらく、関係者以外には分らないと思うわ。それ で、目下上人は赤染衛門邸に滞在中と、下者にふくめて、いい 触れさしたの。そうすりゃ、百済根童子が当然やってくる。 亭主は、謄をつぶしてこんな物騒なところはと、あたしにき っと頭をさげると思うわ。マア、どうなるか仕上げを見てら っしゃいよ」  やがて、衛門とわかれて館の門をくぐると、なかが、大変 なざわめきかたである。上人が、成順を供仏儀にまねいたの だという。これは、すぐれた仏像を蒐集したいことから、か ねがね、調査させておき、奉献を強いているのである。それ には、身相神通の儀といい至極勝手な、しかも有難や連には このうえもない、法儀を代償としてあたえるのだった。 「おい、とうとう、弥勒菩薩を召しあげられることになった ぞ。天平の、乾漆仏でじつに惜しいんだが……」 「そうお。うまく、この機会にとり入れば仕官もで曳、フるでし ょうに……。でも、あんたにはそんなこと駄目ね」  大輔は、諦めているのか別にいわなかった。  中納言顕芳の西四条の別邸。長短の、繁のまばゆい母屋の なかで、成順ははじめて上人に近づいた。  性空は、妙にひなこびて五尺あるかなしだが、巫神の、妖 気が全身にみなぎり、それだけでさえ、唯ならぬ気味わるさ である。声は、ギスついた金属的な音、からだ中くねくねと 軟骨のようにうごく。 三、四個所の火影 「ああこれは殊勝、さすが、大輔どののお連れ合いだけはあ る。この儀は、身相神通有髪得仏というて、来世は、髪をお ろさずとも如来、菩薩になれる。かたく、いまからわしが請 け合うておく」 「だが、来世よりも現世で御座いましょう」 「そうじゃ。生憎あすこへは往復の切符がないでな」ちょっ と、上人の眉が不快そうにくもったが、 「ではなにか、法儀がお好みでないとすると、ほかに…・:」 「じつは、わたくし奴には、のぞみが御座いまして。これま で、仕官もせずに過しおりましたるわけは、医術に執心を絶 てませぬためで……」 「うむ、陰陽天文の痴徒洛中にはびこる折柄、医薬の術にと は、お見あげ申したぞ。愚僧、なんなりとお力になろう」  そこへ、ひとりの侍僧が分厚な帳面をもちだして、横川の 学生救済会のために御喜捨を、とあたまを下げる。すでに、 沙金十匁とあり署名のみをまつ、万事こうした|仕掛《からくり》になって いる。 「わたくし奴、じつは、万毒掃除膏なるものを調製いたしま した。あらゆる腫物、金創切り傷などは、たった一夜で治癒 つかまつります」 「ほう」 「が、いかにせん、曽つてまだ臨床の経験がなく、また、医 家気質、患者気質と、その辺のところも心得ませねば……」 「ふむ、賢い。医家の心掛けを聴かせて進ぜよう」  と、成順を身近にさし招いて、 「よいか。まず、病いはとくる。病いを治すは仏にして、薬価 をうけとるは医師なりーじゃ。よいな。それも、患者の心 がけ良ければじゃが、左様なものはまずない。たとえば…・ ここに一人がわしに治療を乞うたとする。そのときは、わし に対するのが、天人でも見るようじゃ。むろん治せば如来の ように拝まれる。ところがじゃ、さて済んでお代はとなる と、どうじゃ。わしの顔を羅刹のごとくに見よる」 「なるほど、商売とは難かしいもので御座います。ときに、 御調製の快楽無退丸で御座いますが、まこと、あれは不老の 秘薬で……」 「ふむ」 「では、あらためてお願いが御座います。手前調製の、万毒 掃除膏もなかなかに出来たもので、おそらく、処方の交換を ねがっても御損だとは思われませんが」  すると、性空が渋ったそうに笑って、 「あれはな、うち明けるが看板じゃよ。快楽無退ならわしさ え欲しいと思う。ときに、貴公に聴きたいことがある。それ は、貴公の右隣りの家じゃが……」 「では、播磨守清範でございましょう」 「そうだ。だが、あの主人よほどの頑くなとみえるな。じつ は、童女の木彫を所望させたのだが、飽くまで、さようなも のは宅にないといい張る」  してみると、それが羅市の天人らしいのだ。あのとき、隣 家へはいって尾行者をまいたので、かれを清範と誤るのも自 然であるといわねばならない。さらに、かれを呼んだのも仏 像ではなく、理由がその辺にあるらしく思われた。 (性空め、像よりも継ぎ銭が欲しいのであろう。銭文はおそ らくあの僧奴、横目でみて取ったろうが、あの三字、万寿は 不老を意味する。乾は、方位の乾であろうし、亀とは、おそ らく鉄亀の像の意味だろう。すると、どこかの御堂にある朕 亀の像、それに、不老薬が絡がりでももつか!りh)  結局、羅市の意地は気まぐれに過ぎなかった。かれは、今 夜のうちに清範から貰いうけると請け合い、さてあらためて 性空にいった。 「よろしい、だが、仕事となれば、骨折りは頂きます」 「いいがね、あまり法外な値をいわれても困るが」 「いや、お上人の御出費には及びません。ただ、寄附や、弥 勒仏をお忘れねがえれば宜しい」 「なに、忘れろー?こ  性空は、咽喉につかえるような顔で眼を白黒させ、 「お前さん、あれを全部忘れてくれっと云うのかね。みんな 忘れろたア、ちと因業じゃないか。どうだ、人柄もあろうし 一つぐらいは……」 「いや、全部忘れて頂きましょう。でないと……」 「やらんと云うか……」  性空は切端つまって、まっ赤にりきみだした。取りあげ た、鰹の片身に先輩家主長兵衛が、いまは惜別の情とたたか っている。 「ようし、|醜態《ざま》はないが、スッポリ断念めよう。洗いざらい で、あれだけはぜひとも頼みたい」  はたして、銭はその夜のうちにとどけられた。そして翌朝、 洛内洛外がまるで垣禍のようになった。百済根童子の、不敵 きわまる約束が果されねばならぬ日。検非違使の捕吏、延暦 興福と僧徒どもが馳せまわるうちに、夜となり刻々とあの刻 にちがづいてゆく。がここに、百済根童子がひじょうに困る ことができてしまった。  それは、上人の宿舎と称するのが四ケ所あり、いずれも、 厳重にかためられて|庭瞭《かがり》の火影が、夜空へ筒を立てたように 立ちのぽっている。  それには……、顕芳中納言邸が一つ、他は、|壬生《みぷ》に、土御 門に、東近衛の空を焦がし、いずれが上人の宿舎であるか誰 一人わからない。童子は、この一つだけでも蹉跣の運にある といえる。 「審でも振るか。そして、童子め、行きあたりパッタリやる ことだろう。見ろ、今夜は吠え面をかかしてやる」  黒漆、大太刀に悠々反りをうたせ、時用の、今宵は久かた ぶりに御機嫌の夜であった。ながいこと、後足の砂を浴びる ばかりで影さえも踏めなかった……、よし、捕えられぬにせ よ、見かえすことだけはできる。時用は満悦のかぎりであっ た。  と、ちょうどその頃のこと、僧徒、捕吏の警戒きびしい奥 殿で、上人は褥のなかでうなっていた。かれは、壬生の大路 にちかい中宮権大夫の、能信館の寝殿ふかくにいたのであ る。 六過ぎたかな。どうも、量がわからぬのでそれが不安だった が……。あの銭の、孔を御所とみて継ぎ目を道とし、やがて、 所在もわかり取りだしたけれど、あの粉末にはぷうんと異臭 がある。蛇をひいたよう、でもあるがそれとも違うし、蛭の 味もあれではあるまい。とにかく、不老どころか送られてし まうぞ)  と、不安になり枕辺のものに、はやく医者を呼べといっ た。それには、丹波友頼しかない。やがて、医博士のすがた が簾のむこうにあらわれた。 コ尋熱です。上人」 「ほう、聴かん病名だが……」 「それは、魚鳥などの腐敗したもので、おこる。お附き、御 上人には俗習がありますか」 「滅相もない。穀類以外のものは一切お採にならぬ|聖《ひじり》です」  怪しからんとばかりに、ぷうっと頬をふくらますのを、上 人はあわてて制した。 「よいよい、とにかく治してもらうことが第一じゃ。他言 は、友頼どのかたく御無用にねがいたい。すべてが、お身ま かせじゃ、たのむ」  友頼は、薬をもり熱をとるために、上人を四、五枚の裏で 覆うた。間もなく、次にあらわれ、下痢がひどいから、かい 布をたくさん頼むといった。そして、繁の灯もあわく寝間が 更けてゆくうちに、問題の、子の初刻には一刻とない、亥の 刻もだんだんに詰まってゆく。館は、捕吏、僧徒の大衆でた まらない人いきれだ。  そのころ、門前で一事件がおこったのである。それは、わ いわい集ってくる群集のなかから、ひとりの、紅い|被衣《かつぎ》をし た女があらわれると、その色に牛車の牛が狂奔をはじめ、門 を突きやぶり、ようやく鎮められたのである。しかし、門内 はひっそり閑としている。さすが、時用の采配下だけあって、 警護の態勢はすこしも乱されなかったのである。 「|痴《たわ》け。百済根というやつも、見え透いたわざを弄するもん じゃ。手下の女に紅いかつぎをさせ、それで、牛を狂わせ撹 乱しようとしたのじゃ。が、どっこい、その手には乗らん。 ときに、その女郎奴は、すぐさま逃げたであろう次」 「いいえ、まだ門前におりまするようで……」 「ふむ、さてはこっちが気附かぬと思っておるな。ようし」 と、時用が門前にでると、はたして火影に燃えるようなか つぎがみえる。進みよって、二の腕のあたりをむんずと捉え た。 「百済根姫。検非違使右衛門尉じきじきも、おん身こそと思 われい」  そうして、被衣をつかみぐいと、引いたとき、あっと一、二 歩よろけた時用にむかって、したしげな含らみのある声がひ びいた。 「お父さま、百済根姫とは、お戯むれでございますか」 「ううむ、欽子」  ややあって、時用が地鳴りのような声でうめいた。女は、 赤染衛門の義妹、時用の実子、欽子の飛鳥の侍従だったので ある。 「なにしに来た。そんな、紅い被衣などをするから、人騒せ になる」 「あたくし、今夜はあの方にお逢いにまいりました。|百済根《くだらね》 さまが、紅いかつぎを目印しに、お逢いくださるというので す」  よし、百雷が一時に落ちかかろうと、かほどの驚きはある まい。時用は、しばらく喪心のていで物もいえず、また、娘 と百済根との何事かを察したらしく、検非違使の尉のあの生 気がない。 「そち、では百済根に逢ったな。いや、とうから逢いつづけ ていたのであろう」 「いいえ、お逢いしたことは一度もたいのです。ただ、歌を おくってお返しを頂いて……」 「そ、そこじゃ。歌をおくると云うからには、住居を存じて おるであろう。また、百済根そのものを、知らんでは出来ぬ ことじゃ」 「それが」  と欽子は面映ゆげに微笑んだ。 「百済根さまが、御門のまえに高札をたてましたわね。それ に、お慕わしさのあまり、歌を貼りつけたのです」 「なに、お前からか……」  みるみる、顔中があからんで、鞭繍のように筋ばってき た。娘が、人もあろうに賊へとおもうと、恥と憤怒にい溜ま らなくなってくるのだ。 「ところが、二、三日して御返歌をいただいたのです。君とわ れが、野伏しとなるも羽と羽を、かさねんこそは紅き垂れに はじまるー。お父さま、あの方はお愛しくださるのです」 「よい」もう、時用には叱陀する勇気もなかった。ただ、百 済根よりも娘の軽躁に、かれは腹立ってたまらなかったので ある。 「淫らな、そちとは思いもよらなんだ。恋、それも賊への恋 だ。勉学は、そちに、そのためではなかったぞ」 「では、あたくしたちの生活に、なにが御座いましょう。歌 が、できませねば、お友だちもありません。その歌が、恋の ほかになにを唱いましょう」 「そ、それは末世だからだ。徳操が、地を掃いてしずむ、末 世のかたちだ」 「ほほほほ、じゃお父さまの云うのは、百済根さまとおなじ ね。でも、お父さまはさすがだと思いましたわ。ここばかり か、上人さまのお館らしい三ケ所で、みな云いあわしたよう に牛があばれました。けれど、しずかに鎮めたのは、ここだ けで御座います」 「そうか。とにかく、逢いたければ、夜明けまでも立ってお るがいい」  しかし、さすが時用は捕吏長だけに、なんで、欽子を百済 根が利用したか、知ることができた。それは……、上人の真 実の宿舎ならば、警備の態勢をみだすことなど決してあり得 べきではない。計られた、まんまと百済根にしてやられたで はないか。と、かれの怖ろしがしんしんと身にしみ、一方で は、はやく気付いたがため万全の策を採れると、時用はホッ としたのである。  すなわち、宿舎を突きとめて百済根がおそうのは、これか らの子の刻にかけてである。来れ、われは人の培で覆わん。 そして泡よくば、とらえる機会にめぐまれるかも知れぬと、 裏は裏をかき智謀と智謀のたたかいに、時用がさいしょの勝 どきをあげたのである。 「丹波さま、いよいよここが突きとめられ、襲来ときまりま した」 「ハハハハハ 賊の戯言にまどうとは、笑止な御人たちじ ゃ。見られい、御上人はやっと落ち付かれた。だが。痢しも のが大分あるで、やむなく櫃に入れた。あすは、庚申じゃ で、すぐさま捨ててもらいたいが」  部屋は、|下痢物《くだりもの》のにおいで、呼吸付きさえもできない。侍 僧は、その櫃をやっとかつぎだし、わずかに、のこる刻をい そいで洛外へ捨てにいった。 「のう、たしか童子の予告は子の初刻から、二の刻までの四 半刻であったな。みろ、後なんぽで尽く」  漏刻が、ぽたりぽたりと鳴り、息づまるようなうちに、時 は空しく過ぎた。  童子は、ついに戦えずして敗れたのである。するとそのと き、どこからともなく衛士溜りの壁へ、一本の矢がひゅうと ばかりに突っ刺さった。矢文だ。それとみた一人が、いきな り開いてみると、  丹波はくくられ、 櫃中にあり。南都、 偽もの乗り込む。|売僧《まいす》は、糞布に覆われ 北嶺の衆、看板を殺すなかれ。        帰路にある偽丹波より それっと、洛中の僧徒が諸門からあふれだした。そのあと は、好機とばかりに検非違使の捕吏どもが、門扉を閉じ完全 に閉めだしてしまったのである。今度こそは、嘆も讃も|下衆《げす》 のみならず、諸省や、内裏からも噴水のごとくにあがったの である。           × 「どうも、駄目だった。|百済根童子《くだらねどうじ》は、とうとう来ずじまい だったわ。うちの、吏道は助かったでしょうが、あたし、な んだか気抜けがしちまったわ。ああああ、妹には先を越され るし・:…」  大輔の館1。渡殿を、帰りしなに衛門がこぽしながらゆ く。  送りだして、泉殿をみると夫の影がある。百済根を、夫と 気附いたのは、最近のことだった。だれがしたか……、夫が せっせと作っていた合せ銭が、性空の、宿となっていた能信 館の、几帳にぽつりと引っかかっていたのである。  大輔は、こんな幸福な秘密に媛められる胸をいだいて、じ っとその影を見つめていた。