翼ある運河 小栗虫太郎 日本の拳固 「わたくしが、いつも印度洋をとおる度に情けなく思われま することは、あの広大なる海洋がイギリスの内海であり、世 界第三といわれるあの広い水域をとりかこみ、英領植民地が 防塞のごとくにたち並んでおる。すたわちそれは、アデン、 シンガポIルをもって東西の関門とし……濠洲、南阿をもっ て赤道以南の要所を占め……さらに、北にはインド、西には ケニヤ。東はかれの友邦なる蘭領印度を|培《かき》となし、宛然こ れ、英領の海の観。すなわちドイッ流に申せば、|陸中《ボ ゼソ ヂ》の|海《 》の 観あるのであります。  しかし私は、いつかあの烈日下に燃える濃藍の海へでなけ ればならん、まずそこを制するには拠点となる出口を、あの 沿岸の|何処《いずこ》かに占めねばならんと考えたのであります。すな わちわれわれは、シンガポ1ルをもって鎖している主管水域 の垣をぶち破り、この、日本の拳固をぬっと突きださねばな らんのである」  といって、日比谷公会堂の大海洋主義講演会の壇上で、か れ|生方《うぶかた》がふり廻した椰子実ほどもある拳固のすがたを、しば らく私は忘れることができなかったのである。この生方日出 吉はとつじょ現われて、舌に筆に大海洋主義を強調し、その 達眼とおそろしい情熱で、さながらバイロンのごとく一夜に 名をなした。まず、近来にない大怪物といってよい。では彼 はーこうして一夜茸のごとく現われた超大的茸なる彼は、 はたして事実無名の新人だったのだろうか。私はかれの知人 の一人をさいわい知っていたがため、この生方がどういう人 物か知ることができたのだ。  かれは、世界を股にかけること、およそ三十年。本居をバ リーにかまえ表向きは画商だが、一皮剥けば、風雲裡に出没 し、隔し隔される国際謀略のその闇に、時には、大公使以上の 役目をし、機略縦横、雷電を駆使するという……けだし祖国 のため、枢軸国のため、これまで死生を賭して闘ってきた男 だ。してみると、かれが日本最初の|国際冒険家《アドベヱンチユアラ 》ではないのだ ろうか。かの愛国熱血児であったアルセーヌ・ルパンから、 その泥棒たることと些かの私欲をのぞいた残りが、マアこの 生方という人間であると思えば間違いはない。  なるほど、知人に紹介されてはじめて会ってみると、どこ か眼付といい常人とちがうところがある。親しみのある柔和 な眼光が、時には燗々と変じ、野豹のごときを思わせる。し かも、短魎ながらも|巌《いなほ》のごとく厳丈で、|齢《とし》も五十にちかいと 云うがやっと四十一くらい。もってその、絶倫さを知るべき である。  すると彼は、私と対談中快調の舌にのり出して、くるっと 腕まくりをしたかと思うとザボンほどもあるような、例の拳 固をぬうっと突きだしていうのである。 「これですよ。いまや半腐りになっている老殻のある一個所 をめがけ、この拳固をバリパリッと突っ込むんです。えっ、 そこがシンガポlルだってη いやいや、どうも小粟さんに も似合わぬ認識のない言ですね」 「といいますと」 「クラですよ」  と、かれはただ一語、ぶっ切るように云うのである。クラ 地峡1これはなにも作者が賛言を弄せずとも、多分皆さん のほうが余計御承知であろうと思われる。あたかも象の鼻の ごとくに垂れているマレイ半島の中央に、最狭部が約十八キ ロという、クラ地峡なるものが泰領のなかにある。そこは虎 豹俳個するうっそうたるジャングルで、ほぼ百尺ばかりの小 丘が無数散在するそのなかに、、|勺夢呂目《パクシヤン》..・、.0げ|口日客躍《 チユムポソ》..な る二小河がながれている。つまり、これまで度々あった運河 計画というのは、この二小河をつなげる五十二キロの線であ る。 「そこで」  と、生方はさらに言葉を継ぎ、 「これまで、クラの運河計画は度々あったんですが、いずれ も計画だけで沙汰止みになっている。それはね、政治上の理 由もいろいろとありました。しかし思うに、ここに運河を掘 る資格のある国は、たった二つしかない。一つはわが日本、 もう一つはイギリスです。しかしイギリスは、もし運河がで きればシンガポ1ルが無価値になる。つまり印度、支那間に おいて六百|浬《カイェリ》ほど、ピルマ、泰国において千三百浬の節約に なる。だから英は、シンガポlル重点主義である以上、絶対 にやるわけはない。  それにです、さらにこの運河には技術上の難点がある。と いうのはあすこは地形上パナマのようなですた、君大な経費 を要する|間門《ロツク》式でなけりゃならん。これが困る。どうも、算 盤上引き合わんというわけになったのです。では、然らばわ が日本はと云うことになりますね。しかしこれは、これまで イギリスに相当遠慮をして艶った。第一、わが日本には閲門 式運河の技術がない。1というんで、とうとうクラの運河 計画も陽の目をみずにしまったが」と云いかけたのを、私が 遮って、 「そうなるとですね。せっかく日本の拳固を突っ込もうに も、運河ができないと……」 「いや、立派にできます」  と、生方がきっばりといい切った。豹変ぶりもこう鮮かに やられると、かえって|此方《こつち》のほうがグゥの音もでたくなる。 いま、われには出来ぬといって悲観材料を並べておき、その 数秒後に|蜻蛉《とんぽ》がえりをうつ生方は……P しかも、いよいよ 出ていよいよ奇抜になってくる。 「それもです、 |海面式《シイ レベル タイプ》でも間門式でもない、あらゆる運 河というものの概往の概念を超絶した……しかもそれ自体間 違いのない運河だというものがある。それによると、まずパ ナマの総工費八億円から考えるとして……、クラに間門運河 をつくるとすれば七、八年の日子は要る。また、工費の点は 十二、三億くらい費るでしょう。そいつがだ、わずか二億ほ どの金と三年くらいで済んじまう。印度、シンガポールにと れば天王山的なクラ地峡に、ベンガル、シャムの両湾の水が 通じ、ぬうっと|拳固《こいつ》が出るです液」  出るのはいい。だが、間門式でもなし海面式でもない運河 とはロ 絶対「その二種以外にはない」以外の、新型式運河 とはロ 何であろうというよりも、あり得たいというほうが 当っている。してみると、この壮士芝居的な山師的な放言を する、生方という男は軽蔑されてもいい筈だ。と、思った彼 のつぎの瞬間は……。とつじょ、正気昂まるはげしい情熱が うってくる。 「とにかくだ。信ずる信じないは別問題としてですね。クラ の運河を出口としての印度洋への進出とこれまで誰一人いわ なかったインドヘの接近が、思わぬ近道を発見したため迂廻 的わが南進に、一路最短線をゆかせる指針を与えるというこ とになる。敵は本能寺にあり、|最終点《ゴ ル》はインドにある。古来 前面の海を制せられた国は、かならず窒死する。いま、瀕死 の大英帝国に豊饒な血液をおくっているインドは、いやその 血をもって生きているあの島帝国は……わが印度洋進出をも って、窒死の運命にある。ークラ、ただそれにはあの地峡 あるのみだ。われわれは、海を越え、クラを越え…-そして 海に死ぬ島人の運命を、その先の海に持とうとする」  ふと見ると、いつか知らぬまに生方の眼が濡れている。大 きな大きな国への熱情とともに、まだもう一っ潜んでいるも のがあったのだ。 「ではね、さっき約束したわが輩の冒険を話すがね」  と、声を柔らげてうち解けた生方は、別になにを話そうか と模索する様子もない。とうにこれは、決まっていたらしい のだ。かれが、クラ地峡を中心に印度洋を股にかけ、ある国 際機密のため生死を賭した海上大奇談。それを語りだすまえ に、また真顔になり、 「一つ、まず先に断って置くがね。それは、わが輩の活躍を 煽情的に書くよりも、むしろこれからでる|健気《けなげ》な一女性のこ とを、とくに特筆大書、麗筆をふるって欲しいのだ。で、こ ういうと悪口のようだがね。いまは、青年子女の志操も大分 高まった。地味な健実な青年はいくらもいる。しかしだよ、 天下のことをもって我が事と憂うるような、そういう青年は まずないと云ってよい。明治中期以後は絶無かもしれたいん だ。すると、ここに計らずも神のごとき女性があらわれた。 それが、これから話そうという大津時江さんだがね。一つ、 あんたにも熱筆をお願いして、かの女のため、わっと感動が 湧くように頼むよ」 密林中の雛雪洞  そう、去年の一月末のことだった。ちょっと、報告のため 東京へきたがね。約一月ばかりいてまた船にのり、パリーの 家へ逆帰朝をするという……どうもアチヲ住いというやつ は、すべてにややこしい。するとだよ、香港で乗ったやつに マクプライドという、顔見知りのロイテルの記者がいた。そ いつが、いまレノックス卿が馬来で虎狩りをやってるが、ど うです、あんたも行きませんかという。  ほう、レノックスがねーと、おれも少々苦笑を洩らした というわけは、そもそも一卿たるや、情報省のえら物だ。たが いに、暗黙裡のしのぎを削ったことがある。しかしだ。割合 われわれ謀略者というものは騎士道精神を心得とるもんで、 一幕済んでしまやあ、ケロリとしたもんだ。加手前の腕前に は感服仕ったくらいのことは、それとなしに腕曲にほのめか す。平素はけっして曝きだてをせずーもっとも、ふだん曝 かれるようなやつは、とうにこの世にいないがね。そして互 いに、相手が愛国者であることくらいは、尊敬し合う襟度が ある。  だから、よしんばいま吾輩がレノックス卿の虎狩りにいっ たにしろ、それにはまずなんの危険もないと見て差支えな い。だいたい、休暇に馬来の虎狩りにくるほどの卿くらいに なると、闇の一つ弾というような、そんなケチな手はせん。 まずわが輩も安心してゆけるというもんだ。で、われわれ二 人はシンガポ1ルで船を下り馬来連邦鉄道でケランタン州ヘ 向ったのだ。つまり、そのなかにある.`ぎ|魯《セジリ》一..という川の |沿《へり》に、.、ω|三《スロ》〇|畠《ン》..という小さな部落があって、そこがアング ロ加藤清正のキャムプ地になっている。  汽車は、ジョホー|鉄橋《コ ズウエイ》をわたって本土に入る。縞麗な ねふ                        ゴム 合歓並木のある自動車路に沿いながら、護譲樹、また護誤樹 という大富源のなかをゆくうちに、いつか空港のあるアロー ア・スターへ着いてしまったのだ。おやッ、アローア.スタ ーじゃ大変ゆき過ぎたーと、地図を見てびっくりして訊い たのだ。すると、マクブライドのやつ、ケロッとしたもん で、 「えっ、あんたに云いませんでしたかね」  といいやがる。 「じつは、いま卿はクラ地峡へいってるんですよ。虎も近ご ろは|海峡植民《マレ  ステ ト》地にはたんといませんで、やはり、かますの|乾 魚《ヤちフひもの》は|鎌倉《ちフ》のほうが|美味《うま》いようなもんですよ」  てなことを云って平気な顔でいるんだが、こんなすっ頓狂 野郎の薄っぺらた腹芸なんかは、この眼からみればレントゲ ンのごとくに透きとおる。で、すぐにわが輩はハハンと気 がついた。さては此奴レノックス卿に頼まれたなーと、わ が輩は咄嵯に考えた。というには、次のようなわけがあるん だよ。  じつはその頃、クラの地峡に秘密運河が掘られている。泰 が、イギリスの圧迫で余儀なく承知してわが犬東亜共栄圏に は満腔の賛意を表しながらも、ついに地理的不利から泣き寝 入りをした。いま、秘密運河をイギリスが掘っている。と、 こんな噂が専らだったのだ。しかし、これは、どうもすぺて に於いて脇に落ちぬ点が多い。第一、その目的が軍事用にあ るという。  してみると、小艦艇のみを通す、簡略なもの。その、かく れた運河を利用して、奇襲戦法にでるーというようなこと は誰しも考える。兜町雀なんかも、そう聴りおったらしいの だ。しかしだよ、思えばそれは、素人考えの浅間しさ、天下 の綜合工学なる間門式運河なるものに、簡略、間に合わせと はなんたる言である。どいつも、運河というものを|溝《どぶ》の広い くらいにしか、心得ておらん。  で、そ氷にはまず山を爆破する。地をうがって、土砂を排 除する。また、その土砂の処置がすこぶる付きの難物である。 そうして、ジャングルを切りはらい鷹毒と死闘をし、|堰堤《ダム》、 貯水池、|制水口《スピルウユ 》、間門を建造し……はじめて出来あがる。1 その道程には、一分の省略もならんのだ。するとだよ。  そりゃ、最初のうちは奇襲の効もあるだろうが……、さて 見付かってしまうと占領されたときに、今度はその運河を敵 に利用される儂れがある。莫大た費用をかけて逆用される催 れがあるなんてことを、なんで算盤だかい英さんがやるこっ てはない。そんなもんで、わしは運河問題を浮説に過ぎんと 考えとったのだ。  すると、マクブライドのやつに妙な水を向けられた。いか にも、クラヘクラヘと誘うでもなしの風情である。さては、 野郎め、レノックス卿に頼まれたな。おれを、クラヘ連れてゆ こうというには、どんた魂胆があるP クラに、工事などの ない実情をおれに見せるつもりだろうか。大体おれみたいな 非公式過ぎるような奴ならば、よしんば見せたところで|面子《メソツ》 に関しない。というんで、誘うのならばよし……が、事実工 事があればそれこそ百年目。  永年、おれをふん縛ろうとレノックス卿が睨めていた、あ のうどんげの花咲くとやらの千載の好機がくる。どうする かロ ゆくかゆかぬかとハムレットのごとく、はたまた時計 の振子のごとくに考えた。  しかしだぞ、わしはつねに熱血をもって本分とする。かれ に、ヴォーバン、シャルンホルストの|戦術《タクチツクス》があれば……こ っちには、甲越二流、北条流の軍学がある。それよ、それ、 鳥雲陣は六麓に出ず。鳥の聚散、雲の変化するごときを云 い、山中の陣なり。陣形定まりなく数また定まりなし。出没 変幻分合自在なるを云う。1これがわが輩のモットーとす るところ。いかなる危機にのぞんでも心気擾躍せず、一閃の 鋒矢たちまち、敵陣を横撃するという……じつに重宝なこと この上なしの男なんだ。で、すぐわが輩は腹をきめたのだ。 審は投げられ、ルピコンを渡る……。  それから十七時間の馬来縦貫鉄道の旅ののち、わが輩等二 人はクラの駅に着いたのだ。暁だ。立ちこめた霧をと加して |兀鷹《はげたか》が舞っている。ちかくのジャングルからくる脂肉の熱帯 植物の、むせ返るような香りが日の出とともに高くなる。し かし、この附近にはなんの変りもない。土工もいなければ材 料倉庫もなく、運河には附きものの|梯状式俊漢船《ラダ ド レツジヤ 》も、|蒸気《スチ ム》シ ヤペルも|自動《ホィ》捲|揚機《スト》もない。ただ、チェムポンの川が奔瑞を ながしているだけである。  日が高くなるとともに、炎熱が加わってくる。やがて、烈 日にはじける茨地の茎の音がするのみ、熱地の昼の静寂のな かへ落ちてゆく。しかし、全部を見ぬことには分らんわけで あるが、これで大体見透しがついたと云うものだ。まった く、運河とは人騒がせな奴がいたもんだ。おかげで、この熱 いなかでフウフゥ云わねばならんのだから、その腹癒だけに も虎を虐めにゃならぬ。と、窒ったような気持がだんだんに 薄らぐと、心は、藤羅纏絡する大ジャングルのなかヘ飛んで ゆく。馬来の虎狩りは亜弗利加ナショナル・・ハーク.アルバ ートの野獣狩りとともに、じつに世界第一級のスポーッだ。  レノックス卿のキャムプは、そこから五キロほど奥地に泌 る、.、→8|橿《トレン 》めb|昌《ガヌ》..という|小部落《カムポン》にあったのだ。艶れは、|竹 囲《えンドク》いをめぐらしたサカイ土人の酋長の家のなかで、親友、か つ動敵なるレノックス卿に会ったのだ。かれは、わが輩の到 来にぴっくり仰天し、さては御身、|連発銃《ウインチユスタ 》の腕くらべにお 出かたーなんどと、わが輩の肩をだいて歓待いたらざるな しだったのだ。しかしこれは、狐と狸の化かし合いのような もの。ここに、運河など掘られてないことをこのわが輩に見 て貰うということが、かれの本心であることは云わずして明 らかである。  とその夜、|酋長《ペンフル》のサムットに宝物を見せてもらったのだ。 |背丈《せい》が、わずか四尺、四五寸ほどの奥マレイ|嬢人種《ピグミさ》である、こ のサカイ族の魯長の持ちものとすれば、およそ知れたもの。 古銃あり、|錦蛇《ピトン》の全皮と交換したという日本製の手鏡あり… …という態のかずかずの雑物のそのなかに、思わずわが輩が オヤッと声をあげるようなものがあったのだ。日本の、雛節 句につかう愛らしい|小雪洞《こぽんぽり》が一つ。 「これは」  と、手にとったが遠い故国のもの。万感|交《こもごも》々いたると云う か、なんといおうか、わしは鼻の奥がずんと浸み入るような 気で、しばらくは荘んやりとなっていた。  この情感は、儂やあんたくらいの齢ごろでないと分らな い。ねえ、宵節句におきまりの、雪催いとくる。そこへ、結 綿や唐人髭などの娘たちが集って、まっ赤な桜炭のうえへし なった手をかざし合いちゃらちゃらと鳴る玉かんざしや箱《ち》|せ この|垂《フ》れがきらめいて……。というところへこの小雪洞の灯 が、紅白に染めわけたおぼろな光りをながしてくる。そうい う、桃の節句の情緒をこの異郷へきて、しかもこの奥マレー に於いて、味わうとは意外なことだった。儂は、一体これは どこから手にいれたかと訊いたのだ。すると、酋長のやつ、 怪訪な顔をして、 「いア、何処からってもう、大分古いことでがす。スマトラ の、。穴R冒〇三..族の行商人がここへも来るでがすが、それ が、いつぞや布切れをちっとべえ買いましたときに、これは |高価《たか》いもんだが景物にやるちゅうて、わしに呉れましたもん でがす。たんせい、縞麗たもんだで、蔵って置いたでがす よ」  ただ、それのみの事だった。この、搦々たる余韻をもつ桃 の節句の小道具の、主はついに分らずに終ったのである。す ると、それから虎狩りの呪いがはじまった。パチパチはぜる 茨を焚きながら、野菜や米や生の羊の肉を|供物《くもつ》にL、それ に、犀角の一片や硫黄や塩老香にして、よく害をなす虎の、 、、|鼠臼《デイ》、.をなだめるため、魔|法《ワ》医|者《ン》独特の異様た祈蒔をはじ めるのだ。で、この、.】W民一、、というのは、魂の半分という意 味である。この虎の、魂の半分さまを呪って置かないと、死 後に、人のからだに入って|狂奔《アモ》殺|籔症《ツク》をおこす。ために、虎 狩りまえには、かならず|呪《まじ》なうそうなのだ。 「おう、アラーの神よ、|黒夜叉《クリシユナ》の神よ、ソロモン|大工《チビ スヲマン》よ」  と、あらゆる異教の神を総動員したそのうえに……つい三 日ほどまえ虎に殺された血だらけな子供の衣服をふりかざ し、小羊の血を香火にそそぎながら、祈るのだ。わしも、魔 法医者になるのも楽じゃないと思ったほど、それがじつに大 熱演だったんだ。すると、梢高くにまであがっている祈りの 火の向うに、ぼうっと闇に滲んでいる、まっ白た着物姿がみ える。オヤッ、ありゃ|浴衣《ゆかた》じゃないかーと、思わずわしは ハッと息を窒めたのだ。恰好が、どうもみると女ものの浴衣 である。とすると、もしやしたらさっきの小雪洞の:::。と 思うとわしも堪らなくなってきて、ゆらゆら部落のほうへう ごいてゆくその人間のあとを追いはじめた。  おおきな、螢がとび、墓が鳴いている。熱地の夜の冷気が しだいに濃くなってゆくなかで、はっきり、日本の浴衣を着 た女であるのを突きとめた。ふうむ、まだいるなーと思う と、ムカムカっとなってくる。とうに、この種類の国辱的女 が跡を絶ったと思っていたのに、まだこんな奥地には残って いるのがあるらしい。きっと、同勢百人のこの一行にくっつ いて、馬来植民地からやって来たものにちがいない。  こいつ、一応懲らしめてから、助けにゃならんとばかり、 追いついた途端ぐいと引き倒すとともに半向きになった顔を ガンと殴ったのだ。 「アッ、なにすんの」  と、地べたへのめりながらその女は叫んだが、倒れながら もわしの|脛《すね》を蹴あげたほど、そいつは標桿なやつだった。 「おい、困っているなら、たんとかしてやるぞ。国へ帰れぬ ようなら、話をつけてやる。ただ、こんな真似をして国威を 損なうことだけは、もう今日かぎり止めなきゃアならん」  と日本語で云ったが、女には通じない。そのギラつく眼 は、鱒まった牝豹のよう。とそこへ、緑の火の帯のように、 螢の群がたがれてくる。その時だ、わしは、こりゃ不可んと 思うたよ。飛んだことをした。浴衣こそ着ているが、日本の 女ではない。亜刺比亜女。|乾酪《チ ズ》に韮をまぜたような、体臭が 鼻を衝いてくる。わしは、そんなもんで平謝まりに謝まっ た。  女は、やはり亜刺比亜女で名をナズリという。ちょっと、 伝法な顔だちで、うつくしい険がある。兄貴が、紅海に名だ かい椋欄帆船の|船長《ナクしタ》とか……。むしろ快走船よりも椋欄帆船 好きのレノックス卿が、そんなわけで連れてきたのだろう と、思われる。  で訊くと、その浴衣をマラッカで買ったという。アラビア とはちがい湿気が強いので、こんなものでもなけりゃ凌げま せんと云うのだが、それがため、わしが軽率にも殴っちまっ たというわけなんだ。しかしわしとナズリはすぐに仲直りを した。あくる日、|陥穽《わな》を仕掛けるので全員が留守になると、 ナズリが儂のところへ来て瑚排をいれながら、 「このね、すぐ側にもの凄いところがあるんですよ。なんで も、み載蝋げ.臥一串,.とかいうおそろしい藪地だそうで。土 人も、|鬼霊《ハンツヨ》のいる|茨地《グヲガヨ》というので、誰も近寄らないそうです の」  といわれて、儂も心を唆られた。どうせ暇なんだし、行っ てみるかというので、午後、その|鬼霊《グヲィバ  ハ》の|藪《ソツ 》という茨地へ出か けて行ったのだ。わしも、あとで思えばお人良したもんだっ た。わずかな事にも復簾心を忘れずに、された事には千倍に しても返すという、亜刺比亜女特有の執念をわすれていた。 わしは、ナズリを殴ったことなどは、とうに念頭になかった のだ。 似非巡礼  なるほど、そこは|大荊棘地《だいけいきよくち》の名にそむかない。茎と茎とが からみ合う巨草の密生は、その窪地一帯を砦のように覆うて いる。わしは、よほど暫くの間これはこれはとうち見やって いたが、ふと、その密生の隙に思わぬものを発見した。  |軋条《レ ル》、防腐剤を塗ったおびただしい数のレールの山、それ が、この|大荊棘地《グラツガヨ》の巨草のしたに隠されていたのだ。いや、 おそらくこれは、一度刈った巨草がふたたび旧へ戻ったので あろうが……、マアそんなことは、詮議立てせんでもよいこ とだ。しかも、そのレールをよくよく見ると……、普通、広 軌鉄道に使うものの、倍くらいはたしかにある。この「鬼霊 の藪」は、巨大レールの倉なんだ。  すると、この巨きなレールを使って、なにを作るのかとな るとーさあ、儂にもてんで見当がつかない。もちろん、レ !ルが大なれば車輪も大、すべてがそれに準じて巨きくなる のは、必定だ。よしんば、運河のかわりに鉄道を敷くにし ろ、こんな化物のような大レールは要らんだろう。まった く、ゆうべの小雪洞といいこの大レールといい、運河が消え たかわりに謎が登場し、なんだか思わぬ方向へ展開しそうな 形勢になってきた。いや、それがすぐに来たのだ。帰路に、 レノックス卿とばたりと遇ったバツ悪さ。 「おや、生方さん」  と、口では軽くいうがピタリとすわった眼。長い脚をキリ ンのように突っ張って、この今孔明がじっとこちらを眺めて いる。顔も姿も年恰好まで前英外相の、イーデンそっくりと いうのだからたしかに|伊達《だて》である。しかも、|輸臓《ゆえい》いまだに決 せぬ、たがいの好敵手。  しかし、目下のわしは素っとぽけるより外にない。 「鬼霊の藪へいったんですよ。ナズリのやつがぜひ行きなさ いと云うもんでね、一体土人さえ行かぬ場所とはどんたと ころであるかロ いささか好奇心を燃やしたところが、|落胆《がつかり》 しましたよ」 「そうでしょう。ナズリのやっ、嘘を云ったんですからね。 あすこは、獣の種類がないために吾々には用なしですが、土 人どもは|四六時《しよつちゆう》中行ってるんですよ。そりゃ、期待していっ たら、落胆するでしょう」  と、たがいに椀然と笑みかわす。しかしその間、内心にお いては鋸々の響きを発しつっ、わが輩、レノックス間におい ては白刃がまじえられている。折から、日没前の静けさがひ っそりとあたりを包んでいた。その黄昏時の一瞬にこの両名 優の腹芸が、かの大レールの謎をめぐり、やがて風雲を呼ぽ うとする。しかし、その後はなんの事もなかったよ。  わしは、卿の快走船の「ヘルミオーネ」号にのり、それか ら印度洋を横切りヨーロッパヘ向ったのだ。アデンを過ぎ、 いよいよ「|涙《マブ ニル 》の|門《マソテプ》」の瀬戸を過ぎると灼熱の紅海だ。そ の、アラビヤ沿岸のメッカヘの巡礼港ージッダでついに静 寂がやぶれる。  ここは、聖地メッカヘ行く全世界の回教徒が、かならず、 一生に一度は踏まねばならぬ土地になっている。アデンで汽 船を捨てた教十万の人たちが、そこから|椋《ダ》欄帆|船《ウ》に乗ってこ のジッダヘやってくる。|洒落《しや》れた三角帆の椋欄帆船の船隊 が、じつに数百と群をなし赤い船跡をひきながら、メッカヘ 四十マイルのこの港へ集ってくる。わしは、かねて聴くジッ ダの賑いを見んものと、ナズリと二人で見物に|上陸《あが》ってみた ーそれがそもそもの悪運のはじまりだ。  粗末の掘立小屋のような、埠場がある。町には、世界各国 から繰りこむ巡礼が群をなし、日に数十回となく|隊商《キヤラパン》が出発 する。その街頭で、小さな茶碗にもられたまっ黒な瑚排をの み、ジャファの|洋橿《オレンジ》をくい水煙草をのめば、もう一人前の巡 礼さまである。わしも、臨時に巡礼さまになっていた。と儂 が、すごい|頭巾《ケフイエ》を頂いた貴人の輿に見惚れているうちに、ふ と気がつくとナズリの姿がたい。それでたくても、薯を洗う ような混雑だ。 「|紛《はぐ》れたな」  と、最初はわが輩も多寡を括っていた。聴けば、もしも卿 の一行がいまここへ上陸するならば、じつに二十年ぶりの白 人ということになるそうで……、思えばいま、回教徒中の唯 一人の異教徒なる、わが輩の位置や、はなはだ心細いと云わ ざるをえぬ。ところが、どうだ、埠頭に出てみると、船がな い、水天髪髭裡にかすかに帆影をみせ、レディ・ヘルミオー ネ号は出帆してしまったのである。  汽車は出てゆく、煙りは残るというが……あいにく、あの 快走船は煙のでぬ|重油機関《デイゼル》だ。かくて、ひとり吾輩がこのジ ッダに残された。  弱った、事実これほど弱ったことはない。日暮れて道遠し という言葉はあるにはあるけれど、いま太陽は天頂に大地は 灼熱し、数万のフラッド・ライトをそなえた錯鉱炉のたかの ようなこの街頭に、ひとりわが輩のみ、荘然と立ちすくんで いる。いや、まさに危険ちかしと云わねばたらんのだ。  ここへは、世界有色人種がほとんど集るが、なかでもアフ リカ北辺にすむムール人などは、じつにアラーの神に対し狂 的な信仰をもっている。彼らは、その熱情が|熾烈《しれつ》であるあま り、異教徒を殺すをもって使命のように心得て……往々巡礼 中にも砂漠を血塗るそうである。またここで、|総督《カイマカム》に保護を 訴えたところで、おそらくこれまでの例をみれば同じ結果に なるのではないのか。ただ砂漣を血塗るか、塀際で死ぬかの 相違。と、もう儂は、望みなしと考えた。  そうなると、ナズリを殴ったあの一拳が悔いられる。あれ のため、彼女はわしに復離をせんとして「鬼霊の藪」のあの大 レールを見さしたのだ。それと悟ったレノックスは、もう容 赦せぬ。もっとも後味のいい、合法的な|私刑《リンチ》として、わしを このジッダの回教徒のなかへ捨ててった。  くそっ、わしはレノックスを見損なったわい。やれ、仁義を 知るとか、フェア・プレー・マンとか思っていたが、やはり 一皮剥けば陰険な性が出る。うぬがもし、武士道を知るなら ば酪駝の糞まみれになるような、こんな惨めな死を儂にはさ せぬであろうが……。と、いくら喚いても、もう後の祭り。 すべてを儂は、さっばりと断らめた。  その夜まで、いい塩梅にわが輩は見付からんかった。巡礼 の出入門であるメッカ|門《ゲ ト》のほうを避け、マホメットの母の墓 のある廟の外壁に寄りかかり、いまや心気澄み、気も晴々と して、月の出汐の沙漠の大観をながめていた。とおく、波浪 のように連らなっている砂丘のあちこちから、|巡礼隊《キヤラバン》の鈴の 音が聴えてくる。その、月をながした沙漠の蒼白さ。壮士た るもの吟ぜざるをえん情景である。  1突如、雲やぶれ月影ながし。無辺大漠、放歌しつつ行 く。  わしは、家郷にいたるただ一夢もなかった男だが、さすが この時だけはボロボロ涙が落ちてくる。そして、吟声いよい よ高く、胸せまるとき、ふいに、わが輩の肩にそっと手を置 いたものがある。儂ははっとして、巡警かと思ったとき、 「お止めなさい」  と、聴えたのが意外にも日本語の、それも若々しい女性の 声ではないか。わしは、最初は幻ではないかと思うたが、す ぐにその女の影がすうっと前へ廻ってきて、 「危険です。こんなところで、そんな歌をうたうなんて。ま さか貴方は死にたいのじゃないでしょうね」 「じゃ、あたたは日本の婦人ですか」 「ええ、あなたも日本の男のかたね」  じつに簡単無味ながら、こんな言葉しか出なかったのだ。 これこそ、たがいの胸の情感をいい尽し、あとは暫くのあい だ一語もでなかった。結局わしは、この娘に助けられること になったのだ。むろんここへ来るとすれば、回教徒であろう が、しかし、どの地の日本移民にもほとんど回教はない。ま して、このメッカヘさして巡礼にくるほどの日本女性は一人 もいないだろうにも拘らず……。  では、この娘はどこにいるロ また、そこでどんな境遇に いるロ それを、まずわしは話さねばならんと思うのだ。  やがて、その娘に連れられて所属の巡礼団へいってみる と、それが英領アンダマン諸島の住民だ。このアンダマン諸 島とは、ビルマの|蘭貢《ラング ン》から南西へ二百マイル、マレi半島か ら西へ三百マイルほどの、ベンガル湾まっ唯中にある。そこ の土民で、短身族である.、目一鼻εけ..の巡礼だ。しかし娘 のは、これもおなじミンコッピl族ではあるが、このほうは、 クラ地峡の西に散らばるメルギ諸島の一つである、.、→ε..《テプ》|と いう小島の一団である。  これは、いわゆる運河予定線の西端にちかい島なのだ。し てみると、この娘はクラの近くにいる。ほとんど、日本人な どいないこのテプの小島において、一体、この娘はどんな暮 しをしているのだろう。 運河に、翼落ちて  あくる朝、わしはその娘をしみじみとみた。なんの粧いも ないが、じつに清潔た感じ。|齢《とし》は二十四、五にはなろうが、 艶々とした|童女《わらめ》の肌。一見、青春の健康さが思われる。そう して大津時江というのが名だ。  で儂は、こうなるまでの一部始終を話したよ。すると、驚 いたことはクラの酋長の家にあった、雛雪洞がかの女のもの だという。つまり、コリンチの行商人が盗んでいったもの だ。 「生方さん、以前大津吾石という漢学者がいたのを御存知で いらっしゃいますロ ずうっと前、マニラの麻で日章旗をつ なげとか、わが国防の第一線はクラ地峡にありーなどと申 しまして、時代が時代なもんで、|狂人《きちがい》扱いにされましたが :…・」  と、時江が身の上を語ってゆく。 「ああ、あの振西塾のですね」 「ええ、あなたのような方なら御存知でしょうが……、あの 時分、クラに運河を掘れなどと云ったところで、誰が聴くで しょう。けれども、お|祖父《じい》さまにはかたい信念がありまし て、いまにこの地峡に日本の危機がくる、全東亜の海権はこ こに運河を掘ったものが握るだろう、なんてマア予言者みた いなことを云いまして、結局、いても立っても居られぬ気持 からこのテプヘ参りました。、お祖父さまは、どこかで運河を こっそり掘りはしないかと、一生この島にいて見張りをする 気持だったのです。で、その頃父母をうしなった孤児のわた くしも、お祖父さまに連れられてテプヘゆきました」 「他にはP 移住したのはその二人だけですか」 「ええ、六十いくつの老書生と、九つの娘です。それが、岩 礁蛸山の孤島でくらしていたのです。お祖父さまは、絶えず クラヘ行ったりして様子をさぐりまして、いつかイギリスの 測量隊がきたときなどの、心配ったらありませんでした。ま た、その傍ら私を教育して、時江や、おれが死んだら茄前が やるんだぞ、おれは狂人扱いにされ、馬鹿呼ばわりをされた けど、いま南進の意志をうしなったら日本の生命がなくなる と云うことを、いずれそのうち国民が気付くだろう。そのと き、おれとお前の犠牲がかたらず無駄ではないのだから、飽 きず、疑わず己れを空しゅうしてと……、女の私がそういう 教育をうけました。で、お祖父さまは五年ほどまえに死に、 私は、お祖父さまが手なずけた土人に護られて、いつまでも あの地峡を見まもっているのです」  わしは、聴いたとき涙がながれてきた。それを、女性とし ての残酷なる運命というたかれ。先駆者の気概に男女の差別 はない。まだ、日本に南進のなの字もなかったころ、厳格な 祖父から滅私の精神を植えつけられ、他日わが民族を導く南 への星となる。1その尊さに、わしは泣けてきたのだ。や がて訊くと、最近クラにちかい海岸の絶壁のかげに、なんだ か船の外殻を二つに割ったような、巨きな鉄製のものがある という。とたんに、儂はハッとなって気がついた。 「それがね、時江さん、|船渠鉄道《シツプ レ ルウヱ 》というやつたんだ。なん で、あの巨きなレールを見たとき、気が付かたかったろうロ いま、クラにはイギリスの手で、運河の代用なるものが作ら れようとする……」  船渠鉄道とは、その考案がパナマ運河当時にあったのだ。 その頃、パナマとともに択ばれていた運河路線の一つであ る、メキシコのテワンテペク線にこれを敷こうとした・:…そ れが、セント・ルイス市のミシシッピ1河橋をつくった、 |冒日《ジエ ムス》$,|望牙《 ビ  イ ズ》という大技師の発案だ。 つまり、入港した 船を|乾船渠《ドライドツク》様の|架台《クレドモル》に入れ、それを、強力な機関車が牽き大 レールのうえを走るのである。その、架台への固定作業はわ ずかに半時間、それも一万四、五千トンまでの船が入れられ る。しかしこれは、当時ボーリガード将軍などが熱心に支持 したが、ついにイlズ技師の死と共に沙汰止みになったの だ。パナマの全工費四億ドルに対し、これなら僅々八千万ド ルで出来たのである。  という、船渠鉄道がイギリスの手で、いまクラの地峡に建 設せんとしつつあるのは、明かだ。これならば、占領の危険 あるときは引き揚げも出来、また、あの大レールは普通の鉄 道に使えない。さすが、イギリスだけあって、うまい事を考 えた。ようし、ではこれからクラヘ逆戻り。いかなる危険を 冒そうと、その真相を曝露せにゃならぬと、いまや時江の耐 苦が結実のとき、さぞかし地下の呉石先生も本懐であろうと 思われた。ところが、ここにひじょうに困ったことができた のだ。  というのは、この巡礼街道は盗賊の巣であった。上は強盗 より下は摘りにいたるまで、巡礼を|睨《ね》めながら熊鷹のような 眼をひからせている。時江も、ついにその厄に逢ったのだ。 そのため、いまアデンから汽船で帰るとなると、少々どころ か大分不足する勘定になる。また、わしにも一文もない始末 で、止むなくコロムボゆきの椋欄帆船にのる。これなら、汽 船運賃の三分の一ほどで済むわけだ。それで、時江が埠頭に でて、|船扱《セレンジ》いにかけ合った。すると、船扱いの爺が新造中の 一つをみせながら、 「これなら、ええだろう。白人の船客積で十噸というとこ ろ。わし等には、アラーの神の恵みが絶えずあるだでな、こ れならコロムボまで安心してゆけるというもんだ」  そこには、炎天下に船大工が働いている。わしは、それを 見てびっくりした。いっさい、|助材《リプ》にも|横梁《ピきム》にも鉄釘を使わ ない。|胎内縦材《ストリジヤ 》をつけるにも全部木釘である。これで、大洋 を乗っ切れるんかいなと思うが、どうして、この椋欄帆船に はなかなかの耐波性がある。吃水はかなり潜るが、麗風も突        久イーブ.キール っきるし……、船底竜骨がいいので底を珊瑚礁に触れながら も、この椋欄帆船は平然とゆくことができるのだ。しかし、 この浜はなんという臭さだろう。船の塗料にする|海豚《イルカ》油のに おいや、くさった真珠貝や鱒の臭気ときたら、まず文明人に は一刻もいられんところだよ。  だがその頃は、わしも、いっばしの巡礼になっていた。 すべてを、持って生れた押しの一手でやってるが、ただ一つ だけ、お祈りがうまくない。これには、時江さんに|八釜《やかま》しく いわれたもんじゃった。 「困ったわね、オジさん。なん度云ってもこれが憶えられな いんでしょうか。いいこと。私がやりますから、よく見てて 下さいよ」  ところで、回教のお祈りはこんな風にやる。まず、両掌を ひろげ仰向けて耳下につけ、天を仰ぎながら直立しつつ口諦 む。それで、|祈薦《ハヤ 》すべき|時《アサヲ》は来れりーという|最《 ト》物切向邪禰 わる。と次に立ったまま腹のうえに手をかさね、祈薦するた め、|吾等《ルフア》は|起《ラ 》てりーをやり、続いて、膝に両手をついて賜 みながら拝し、すぐ地面へぴたりとすわって、|畏《かしこ》まる。この ときは、ガ…ポぞ斑、ク祇むーというのだ。そうして最後は 両手をついて額を地につけて、アラーのほかに|神《イルハ イルラヲ 》はなしー と唱える。  これを、わしがやると至極拙いので、ずいぶん時江に直さ れたもんだった。しかしだぞ、のちにこのわが輩の下手糞な 祈薦ぶりが、わが身を助けるとんだ儲けものにたろうとは、 神ならぬ身の知る由もなかったのだ。  やがて、わが輩等をのせた|大《サ》形|椋欄《ムプ》帆|船《ク》が、赤い航跡のた つ、紅海の水をわけていったのだ。わし等は、陽除けのした で貨物と同居しで、、|乾魚《ひもの》や瑚俳のたまらぬ匂いのなかで寝そ べっていた。が、なにしろこの海はもの凄い暑さだ。絶え ず、どこかにみえる砂漠には|蹟気楼《イマ ジユ》が漂っている。それが、 陽が傾くにつれだんだんに横倒しになり、ついに血紅のよう な最後の噴射のころは、われ等を嘲けるがごとくいず方へか 消えてしまうのだ。すると、船上における五日目の夜が明け たとき、 「オヤッ」と、わしは半寝呆けの眼で、あたりを見廻した。 ちがうわい、まだわが輩は夢のなかにいるのではたいかロ と思ったのも当然至極なこと、いまわしの身はあの大形椋欄 帆船にはいず、妙に薄暗い小部屋の床に転がっている。すべ てを察するに、貨物船のなからしいのだ。  どうしたこった、まるで神隠しみたいに知らぬ間に来てし まうなんて、では、時江はどうなっているのだろう。と、得 体がしれぬ夢みるような心地の中、そこへ、扉がひらいて、 やって来たやつを見たときに……さすがの儂さえもアッと声 をあげて驚いた。それが、これまで乗っていた大形椋欄帆船 の船長の、アプド・エル・ハイというやつである。|奴《やつこ》は、こ のわが輩をこづき廻すように曝うのだ。 「お眼醒めかね。魔薬の効き目で久方ぶりに寝られたろうこ とを、アラーの神に感謝するがいい。おれは、お前のことを 妹から聴いているし、また、レノックスの旦那からもすっか り教わった。どうだ、それでやっと分ったろうが。おれは、 お前がなぐったナズリの兄貴だ」 「分ったとも。お前さんみたいな、色男を忘れるなんて手は ないからな」  と、わしが土性骨のいいところを見せてやると、やつは、 濃い髭のなかで残忍そうに眼を輝かし、 「ハハハハハ、とにかくここは地獄の五丁目だ。クラの地峡 に船渠鉄道をやるために、第一、労働力であるセネガルの |黒人《ニグロ》。それから、あの|架台《クレ ドル》とやらの一番肝要な部分。また、 あれに使う大機関車六台を、いまこの|貨物船《フレ タ 》のダブリン丸が 積んでいる。なア、それを思やこの爺さん船もだな。クラの 運河にとりゃ宝の入船だ。それにだぞ、いずれはどこかで殺 すお前だがね。マア、当分は釜焚きでもさしてやる。うんと 苦しめてからと云うのが、妹の頼みなんだから。……えっ、 なに、あの大形椋欄帆船の女たちだってロ いや、ここへ担 ぎこんだのはお前だけなんだ」  まあ、時江だけが無事ならと、考えた。しかし、どうにも いまは遁れる|術《すべ》がない。わしは遺憾千万ながら釜焚きをやっ ていたんだ。  で、やがて儂はこう考えた。どうせ死ぬならばこの船もろ ともに、あの架台の一部も大機関車もともどもに、わしの命と ともに海底ふかくへ沈めてやろう。それには、儂に一思案あ         昂キ入プ戸ージヨ・ミクスチユア る。というのが、酸水素爆鳴気1。かりに今、亜鉛片 かアル、・二ーユiムの板を|気罐《ボイラ 》の湯のなかに投じたとする。 と、水素が発生してその上部の空気が、酸素一、水素二の割 合になったとき、大爆発をする。それを儂はやってやろうと 考えて、ついに一枚の亜鉛板を手に入れた。  というのが、かれこれ一月ほども後だった。この船は、紅 海をでるとペルシャ湾に入り、アル・クワイトで石油を積ん だのだ。そうしてから、またもとの印度洋へ戻ったので、ほ ぼ一月ばかり道草をしたわけだ。と、わしが亜鉛片を手に入 れたその日の夕のこと。二十隻ばかりの椋欄帆船の船隊から 水と食料を恵んでくれと合図をされ……船は印度洋のまっ唯 中に停ったのである。それが、ちょうどタベの祈りの時だっ た。  ありとあらゆる絵具をぶち撤けたような印度洋の落日を浴 びながら、大形椋欄帆船の連中はもちろんこっちの船の回教 徒まで、例の長たらしい夕べのお祈りをやる。わしも、いい空 気を吸いたいのでそれに加わっていた。と、ふとみると一隻 の大形椋欄帆船の甲板に、いつも儂がやるとおりの不器っち ょなやつをやっているのでいる。とたんに、儂の胸がはげし く鳴ってきた。 「時江、そうだ、たしかに時江」  いま、わしがやっている不器っちょなやつに|気《フフフ》が付いて、 それなら、じぶんの存在を儂に報せようと云うので、儂がす るとおりの真似をしているに違いない。よおし、いまが決行 の好機! というんで気罐室へ下りていったのだ。  そうして、間もなく、船は大爆音とともに、濠々たる蒸気 に包まれた。         ×  これで、終りさ。ダブリン丸は海底にふかく沈んでゆき、 わしはその前に飛びこんで、時江の舟に救われた。ねえ、ク ラの地峡の「疾駆する運河」というやつが、これで企図、メ チャクチャになったのだ。なに、その後の時江はどうした とP あれはね、今夜は留守だが、儂ん|家《ち》にいるよ。目下わ が輩は、婿探しに狂奔しとる。