岳太郎出陣 小栗虫太郎 業輪四年  寛政三年八月一日、川開きの夜1。  江戸はその一夜に、伝法と欝憤の、ありたけを空にぶち撒 けようという……。  寅の刻から打ち上げをはじめ、暫しがほど|黄昏《たそがれ》と艶を競っ ているうちに、浅黄、紅、紫金と色を移して、やがて暮れ切 る空は、一面の藍微塵。そこへ、花と砕ける、彩火の楼閣、 硝焔の車輪。しだれ柳に変化星。昇る銀竜散り松葉。川が舟 か、舟が川かという雑沓のあいだを縫って、写し絵や声色舟 の櫓の音がしようと云うー。  彩花武総をまたぐ川開きが、この一篇の開幕となってい る。  ところが、中流に潭んだ大屋形に、'つだけ灯しの消えて いるのがある。そこで船頭はとみれば、頬かむりのしたにも それと分るお船手方。南町奉行稲生|下野守《しもつけのかみ》が、今宵役目をは なれての微行とみえた。  なにしろ徳川御時世も、寛政の頃には欄熟の極み。通人ど もも、することなすこと何もなくなってしまい、しまいには、 猫の産婆、獲の舌代りまで勤めたと云う……。で野州公も、 権勢はあり、金はあり、男前はよしと云うので、いつかこう した御多分に洩れなくなってしまった。  その夜も、心憎くや灯しを消したなかで、仲町名代の|刺青《ほりもの》 芸者仇吉に双肌を脱がしている。背中一面が、姐さん自慢の 相馬の古御所1そのうえに、蟷油を引いて鏡のようにした のだから、|彩火《いろぴ》が、滑っこい肌のうえで踊ろうという:・…。 「これよ仇吉」 「何ざますの」 「考えて見ぬでも、少々これは、|灰汁《あく》が|強《き》つ過ぎるのう。岳 太郎なら、花火は黄昏にかぎると云うであろう。彼奴の|偉《すぐ》れ たところは、どうしてどうして捕物だけではない。まい年、 お舟蔵の辺から西にみて、花火を、蒔絵の重箱に映すのじ ゃ。心憎いのう。わしは、とんと恥じとうなったよ……」 「でも、今夜は……。いつもなら、宵の口でお戻りになるあ の方が……」 「何としたな?」 「アィ、いまも橋杭の辺でお見かけ申しましたけど……」 「ふむ」  野州公は、唇を噛み思案気な体である。が、心秘かに、彼 奴いよいよ腰を上げたなとも思ったらしい。玉屋岳太郎ll。 ついぞ先だっても、奉行自身の懇請を|情《すげ》なくふり切った、あ の強情者も耐え切れなくなったのであろう。 と云うのは、ここ三年間続いての川開きの夜。しかも、最 後の仕掛のまえに打ち上げる大玉もの。その作り主が、きま って、その夜のうちに非業な変死を遂げてしまうのだった。 してみると、あるいは今夜もと思う下野守には、時おり陶酔 を絶つ、焦だたしさが込みあげてくる。  が、その頃、紅葉川の河岸から人波のなかを、キョロキ. ロ見廻しながらチョコチョコ走りーやがて、酒井公の塀際 にさしかかった一人の小僧があった。年の頃は、十か十一。 大柄な、有松絞の浴衣に赤い|揮《まわし》の垂れを、ちょんびり覗かせ ている仁輪加風体である。が、その眼付きは、鋭いにもなん にも、小倉の色紙でも捜していそう……。云うことも、大人 並だという大変な代物である。やがてその小僧は、ところて んを畷り込んでいる若者を見付け、その背中をポンとどやし つけたものだ。 「これで、拙者もやっと安堵しやした。これさ、宝珠屋の、 本次うし。多分今夜は、おまはんの番かと思うと余人ではな し、わちきも、知り合ったが災難で、そわそわしていやした よ。だがこうやって、打ち上げ舟に、いさえしなげりゃ、掠 われる心配はなし……と。とかく、拙者のように防犯を受け 持っていやすと、今夜のような場合なにかと人民が気になり やす」 「なんだ、誰かとおもや、豆左衛門か」  と、呆れかえったように振りむいた若者。それが、今夜の 呼物三尺二寸玉を打ちあげる、花火師の宝珠屋本次だったの である。色こそ抜けるほどに白いが鼻筋のとおった、どこか に、武家なまりがあると云うーそれには訳がある。 「これさ、豆左衛門といわずに、留という本名を呼びたま え。ところで、安心は安心としても、既往はさに非ずだ。例 のおまはん方一門の、花火師往生の一件だがね。あれを、わ っしの親分はこんな風に考えているよ」 「ヘエ、親分ってロ じゃ、お前、岳太郎さんのところへ.- …」  本次が、ところてんの丼を、慌てて置いたのも無理ではな い。さては、豆左衛門の留に、永年の願望が叶ったらしい。 それは、当今の言葉でいえば探偵志願-岳太郎の家に、イ ソ的を極め込むのを強談のようにして、間がな隙がな、通っ ていたのを宝珠屋本次は知っていた。 「ところで、おまはんも斯うしていると油断大敵だから、一 ばん気附け薬にチクチクとやってやろう。マア、聴かそう し」  と、どこで覚えたか酒落た楊子使い、留は、せっせと味噌 っ歯のあいだから白玉の津をほじり出していたが、 「それが、偉いもんさね。いまじゃ、鍵屋十七門の外様格に なっているが、もともとお前さん方はなんとか云ったな…: そうそう公儀頬附安盛流か、たしかそんな名前の、火術方だ ったそうだね、1そこまで、うちの親分は調べ上げてるん だ」 「当り前だ、そんなことなら、聴くまでもねえ」 「……とかなんとか云うが、聴き眼は胡麻化せないよ。で、 いまから五年ほど前のことだが、上様御不例のおり四尼池流 の墓目矢と、お前さんがたの兄筒とが祈薦技をすることにな った。つまりお浜御殿で、妙な念仏文句を唱えながら何とか 退散と、ヒューヒュードカンが争いをやったところが……ね え、こうだ。おまはん方のほうは、火は打ち火、火縄は不動 の縛の縄iなんて、摩利支天の梵字を置き鹿島大明神、倶 利迦羅不動、大海八竜神、愛染明王。すると相手は、白真弓 神の矢前に懸るのみ諸身の怨鬼影もとどめずーで、桃の弓 八つ目|鏑矢《かぷらや》をヒュッヒュッと鳴らす」 「よく、知ってやがる」 「コレ、おれと思わず親分と思いねえ。ところが、どう考え ても効目のあろう道理はねえーそれが、どうした機みかお 前さん方が勝ってしまった。そこで、四尼池清五郎は腹を切 り、また、可哀そうに娘のおくわさんは、技を磨くとかいっ て行方を晦ましちまったそうじゃねえか」 「フム、四尼池の娘くわか"品今じゃ、いい中年増だろう な」 「つまり、そこを親分は不審がってるんだ。二十に足らな い、女の身空で技を磨くと云ったところで、あの流儀の強弓 をどう扱うかって……P だが、そりゃまあ、それとしてだ ね。次の幕は……今度はお前さん方の人情話になる。と云う のは、翌年になると、震雷流朱十組の頭領大津賀八郎が乗り だして来た。それがどうだい、とかく学問の違いというのは 怖ろしいもんで、お前さん方のように、気長な火縄なんざあ 使っちゃいねえ。摘しゃく爺が、オットセィを喰ったみたい で、パチリドカンの早雷薬だ。そこで、お前さんがた、安盛 の四人はサラリとお払い箱。ところが、ゲソで、品物が悪い ときた。そうそう火術方の落人なんて、拾い手がある訳のも んじゃねえ。とうとう落ちゆく先が鍵屋速門。そこで、今ま でにない大玉を作ることになった……」 「チェッ、手前の身の上話を、|他人《ひと》から聴かせられてりゃ世 話はねえや」  本次は忌々しそうな唾を、ペッと地上に吐いた。ところが 豆左衛門の毒舌、以っていよいよ鋭鋒鋭しとなった。 「だからあにい、おまはんは、年も若いし男振りもいいしす るものだから、今年も、|衆道《しゆど》い目に合わせちゃ溜らねえとで も思ったんだろう。こうやって打ち上げ舟にも乗らず陸にい るところを見ると、まんざら、素の馬鹿でも萄窮でもねえよ うだ。ところが、馬鹿は……」 「そりゃ、誰のこった……」 「云わずと知れた、おまはん方の殺された仲間よ。味津木屋 右門太、林屋藤吉、独鈷屋平次と、例の殺された三人のこと よ」  と、豆左衛門の、こまちゃくれた舌頭に載ったのが、三年 このかた、下手人の知れない花火師殺しであった。  さいしょの年は、味津木屋右門太の、円正二町、方外、大 打上げの尺五寸玉i。九十六間、両国橋の中心にぐるりと 文廻しを廻すと、東は本所尾上町、西は河向うの米沢町にか けて、緑青色のしだれ柳が、パッと一ぱいに拡がったもの だ。ところが朝になると、百本杭の腐れ杭に引っ揖った、味 津木右門太の屍体が発見されたのである。  それから……次の年は林屋藤吉で、それが一廻り大きな尺 七寸玉のところが、翌朝、今度は両国橋から五町ばかりの下 ー1竪川口の元町の石垣に、藤吉の屍体が櫓刺しとなってい たのである。  で……三番目が去年1。安盛流四人のなかでも最年長 者、腕でも随一といわれる|独鈷屋《どつこや》平次1。それが、よもや 出来まいと思われた二尺玉を打ち上げたはいいが、やはり翌 朝、今度は橋から上の代地河岸の外れ、ざんぶざんぶと洗う 舟着き場の杭に、船轟がたかった屍体が結び付けられてあっ た。  ところが、地を潜るのか、天を駈けるのか、肝心要めな、 下手人がいまだもって捕縛されていない。いまも、こうして 喋りながらも、豆左衛門の胸中なかなか穏かではないのであ る。頻々と、耳に入ってくるのが何あろうかーそれは、当 の本次が眼の前にいるのも知らず、今年は本次の番か、まだ 聴けば若いそうだが可哀そうにーなどと、世間では、ハッ キリ本次が例年のとおり、今夜殺されるものに極めてしまっ たらしいのだ。 「だが本次うし、肝心な、花火の作り主が|陸《おか》へ逃げちまった とすると、今夜、おまはんの三尺玉を、打ち上げるのは誰だ ね」  豆左衛門も、ここではじめてシン、・・リとなった。 「そいつが、お長さんだ。果報にもなんにも、あの娘が、今 夜の打上げ役を買ってくれたんだよ」  平次の忘れ形見、二代目独鈷屋お長-|相生《あいおい》小町とうたわ れて名うての繧緻よし。しかしそう聴くと、豆左衛門の胸が ドドドドッと波打ってき、なにやら、予感めいたものに溜ら なくなってきた。  が、その刹那1。  爆音を聴く余裕もなく、眼から脳天にかけて眩みしびれた かと思われたのは、本次永年の苦心にかかわる八町ひろがり 大桜の三尺玉。伊達と、競いの両国名物、紅と緑の二連弾 1いまや傘とかかって橋一帯を覆うてしまったのだった。 と、それが消えるや否やポウツポウツと、橋の上手からのぽ る二つ三つの流星。その一つが、色とりどりにはためきなが らお舟蔵の真上にかかったとき、裏手の空地に、それは異様 な傑っとするようなものを照しだした. 屍体外周のしたにあり  すると、竪川の入口辺りにもやっていた家根舟のざわめ き。やがて、その騒ぎが、こちら岸へも波動のように伝わっ てくる。 「うわい、とうとう四幕目が、はじまりやがったぞ。今夜 は、お目当ての本次じゃねえ、首無し女だ」 「なに、首無し女だ。年増か、新造か、なるほど、お舟蔵裏 の空地に、ふむ、椎の木がある。それへ礫刑になって……あ あどうにも、こりゃ見ざあなるめえ」  と芝居掛りで、それ行けとばかり。ところがその一瞬後に 人波がパタリと動かなくなってしまった。見ると、最後に一 つスウッとのぽった流れ星、その光が、中流に涯んだ、一艘 の屋形舟を照し出したのである。すると、両岸からドッとあ がる|鯨波《とき》の声。なにを見付けたか、大向うがいきなり沸き立 った。 「いよう。岳太郎」 「頼むぞ、玉屋」 「浜村屋や、大和屋や、成田屋やア」  なかには岳太郎、悠然と扇子を使っている。|透綾《すきや》の裾に、 白い芸者らしい顔が透いて見え、その場景が絵なら、たしか に岳太郎自身も画中の一人物である。元来が、吉原の大まが き玉屋の息子だが、水際立った男振りに、やいのやいのと押 しかけてくる女を避けるため、入谷の寮に籠ったのが、今日 をなす因であったと云えよう。武芸も、月山流含み針をはじ め相当いけるし、わけても、天下一品と云うのがいわゆる頭 脳探偵!日本に於ける、私立探偵の元祖がこの人だったと 云うが、当にはならない。 「こりゃ、いけねえ、とうとう見付かったらしいな」  そんな風に、岳太郎、苦が笑いをしている。が、どうにも これでは大衆の手前、腰を上げねばならなくなった。ところ が検屍の結果、その首無し女がお長と云うことになり、俄然 四度目の殺人がパッと色付いたのであるが、本次は、帰宅を 待ってその夜のうちに挙げられてしまった。  その翌日-此処は、奉行稲生下野守の下邸。書院の軒 に、合斎風の風鈴が可愛い音を立てている。が、主人下野守 と向きあい、褥を滑って対座している男-それは、市中で 鬼と呼ばれ匂ぐや鼻と異名をとった、|神子《みこ》柴団平次というお 先手同心。色が浅黒くて、見上げるばかりの大兵、しかも削 ぎ鼻に傷のある四十男である。こうして、身分を間わず… 材を民間に求めるところを見ると、公は、当今はやりの独善 主義者ではないらしい。 「ふむ、首がのうても、着衣その他の点から見て、あれが、 独鈷屋お長に相違ないと云うのであるな。ではでは、そちが 本次の無罪を主張する理由を聴こう」 「殿、本次とお長の二人が恋仲とだけで、しかもその、二人 が仲違いしたとだけでーそれのみでは、それがし、いかに も論拠薄弱かと心得まするが。ところで殿、御門前の落首を 御承知でいらせまするか」  と、団平次の懐中から、取り出されたのが短冊形をした生 紙、それが、べっとりと汗ばみ、プウンと腋臭の匂いがす る。その臭気を、野州公は払い払い、要越しに見入ってい る。 主従に、二度に切られて、 今日こそは 首と胴との 別れなりけり 「ホホウ、これは、義士討入を読んだ名うての狂歌。上なる 紋所は、たしか、三つ地紙だと思うが……」  と野州公、しばらく腕をこまねき黙然の体であったが、そ れを、舌砥めずりせんばかりの、得意げな眼差しで見あげ、 「そこで、私め、とくと勘考いたしましたるところ、これは、 下手人を知る者の|密告《みそかさし》かと心得まするが。なぜなら、下の狂 歌は、本所松坂町を指し、上なる紋所こそ、その町内に住 む、下手人かと……」 「ふむ、串せ」 「それが、四尼池一手神頂射芸の流祖、四尼池清五郎の家紋 で御座りまする。清五郎は、すでにこの世にはなく、また、 娘のくわは行方知れず、その家敷跡もただ荘々と荒れ煤け、 もっぱら、狐狸墓などの棲家になっているとやら……」  下手人は、四尼池の娘くわ1祈薦技に敗れ、家名を失っ た遺恨が因とすれば1見んごと、団平次は金的を射抜いた ことになる。が、その時、合いの襖が開いて、ぬうと入って 来た人物があった。それを見ると、団平次の顔色がサッと変 ったのも道理。のらり酒落りとしているとは云え岳太郎は、 苦手も苦手、いつも数段もちがう役者振りを見せられている のだから……。 「これは神子柴さん、いや、お館へまず久澗の御挨拶。とこ ろで、昨夜は大番狂わせ、|纏頭《はな》は飛ばないが、手前が見付け られました。しかし、今日伺いましたるは左様なことではな く、てまい|楼《とこ》の、逢州妓より|強《た》ってとの儀で……」 「いや、よい」  野州公は、テレてすっかり困ってしまい、落ち着かない眼 を、やりどころに困ったかまた落首のうえに落した。 「さて、逢州の言伝を言上いたしましょう。廓中第一梅、今 宵君のため開かんと欲す。願わくは、月を蹟んで三更に来た れーと申しておりました」 「うん、分った」 「久しく、心ばかりを通わせて置いて蝿の抜け殻と、太夫、 怨ずるがごとくに串しております」 「いや、もうよい」  と岳太郎を制した眼が、なに事かを悟ったらしい。役附き の、団平次をさて置いて此処で岳太郎が、昨夜の事件を差し 手がましく云々出来ぬ訳だ。これは、どうあっても、儂が引 き出さねばならぬ。と、野州公が落首の紙を突き出したので ある。 「これを見てくれ。どう、岳太郎はこれを判ずるかな」 「ホウ、落首で御座いますな、さすがは江戸……」  しばらく、岳太郎はじっとその紙を見つめていた。風のな い、群葉を洩れる光の班点が、苔を燃やしているが、それも 動かない。木蔭は、蒼く洞窟のように暗く、油蝿が暑気をジ ジジジジっと掻き立てている。やがて岳太郎は、汗をぬぐい 微笑をふくんで顔をあげた。 「分りました。これは殿、折句で御座いましょう」 「なに折句だと」 「左様、例えばかような句があるとします。   春くれと 霞かねたる 高根には    こそのみ雪の また残りけり  ところが、その全体を五つに分けて、頭の仮名をとってみ る。と、いかが、それがハカタゴマとなりましょう」 「なるほど」  野州公は、思わず褥から滑り出てしまった。 「ううむ、出来る出来る。その筆法でゆくと、この句の読み 込みは、シニイケクワだ。ふふむ、四尼池くわ……」  さすが殿様だけに、玩具を当てがわれた子供のように他愛 ない。しかし、そのとき岳太郎は団平次にむかい、昨夜から の進展をこと細かに聴き取っていた。 「つまり、玉屋、此処が難点なんだ。お長が、あの屍体であ るのは、着衣その他で分る。ところが、とうに死んだ筈のお 長を、打ち上げ舟で見たものがあるのだ。しかし、打ち上げ 舟には灯りがない。火縄の火一つで|薬筒《はりこ》に寄ってゆき、点火 するのだから、確実とは云えん。そんな訳で、しかと見定め るだけの明るみはないのだ。それに、絶えず打ち上げるので、 口を利く暇がない。お長は、来て、喋ったとも喋らんともい うし、帰りも、挨拶したと云うものもあれば、しないと云う ものもある。とにかく、そうなると二人お長が出来た訳だ が、しかし、双方女だとすりゃ、問題ではないだろう」 「としますと、舟に乗り込んだほうが四尼池の娘。お長は、 それ以前に殺されていたというお見込みで?」 「そうなる。それから、お長の家の近所を調べた。ところ が、みな花火を見るので燈台元暗しでな。誰も、お長を見か けたというものがないのだ。つまり、お舟蔵の椎の木にあれ ほどの事をやれたのも、|畢寛《ひつきよう》、周囲の事情がそれだから出来 たのだと思う」 「では、本次を挙げたのは、旦那じゃないことになります ね」 「そうだ、本次は打ち上げ舟にいちゃ、危険だと思ったのだ そうだ。しかし、お長といい仲で最近不仲になっても、それ だけで、本次を挙げるのは、ちとどうかと思うな。お長は、 父親の業を継ぐので打ち上げを買って出たそうだが、それも、 本次が強ってと云った訳ではない。とにかく、本次は賢明に も打ち上げ舟を逃げだし、お長は、それに乗り込んで前例ど おり殺された訳だ。これまでは、まい年花火をつくって打ち 上げをしたのが、殺された。ところが、今度は作り主ではな く、打ち上げをした、娘が犠牲になってしまったのだ。して みると、花火を作ったのではなく、打ち上げをしたものと云 うことになるが、これだけは、玉屋、わしでさえも分らん よ。とにかく、下手人は四尼池くわだ」 「そうしますと、この落首が全然無駄になりますね」  と、岳太郎が皮肉そうに微笑んだ。 「仰言るように、下手人が四尼池くわとすれば、自分で自分 の名を、読み込む痴けがこの世にあるでしょうか。僕が下手 人なら、そんなことは大嫌いだ。断然嫌ですよ。あなただっ て、これは決してお好きじゃないでしょう」 「サァ」  と、神子柴団平次、ぐいと詰ってしまった。じりじり、顛 えるような切迫したものが、競い合う二人の面上を包みはじ める。 「で、これは、少し奇抜な想像かも知れませんが、あたし は、殺されたのが四尼池くわ、下手人が、当の殺された筈の 独鈷屋お長iと思っています。だいたい、首が見付かりゃ 一も二もないんですがね」 「なに、お長が生きて、くわが死んだー?こ  それは、側の二人を、跳びあがらせるに充分な言葉だっ た。意外というより、団平次は愚弄されたように考えたらし い。 「これ、戯むれるにも程があるぞ。いいか岳太郎、おぬしは、 去年殺されたのを誰かと思うロ お長にとって、天地に換け がえのない、実父の平次ではないか。血迷うな。あれほど、 四年越しに曝い続けられていても、その顔が、そちには何に とも見えんのか。この江戸の、どこかに細根までもと、安盛 の統を絶やそうとする悪鬼がいるのだ。誰があるロ あの四 尼池くわのほかに誰がある……」  それは咽喉をかぎり、声をかぎりの絶叫であった。が、い よいよ出て、岳太郎はのらり酒落りと落ち着き払っている。 「弱りました。せっかく昼寝を止めて、出てくりゃ神子柴さ んに怒られるし……。だが、僕には、僕らしい考えがありま してね。聴いて下さい。実は去年までの、三つの事件にはち ょっと|奇異《ふしぎ》な特徴があった……」 「ふむ、特徴とは……」  それには野州公も、思わず引き入れられ、坐り直したが自 分には分らない。 「むろん、偶然だと云ってしまえば、それまででしょう。です が毎年、殺される花火師がつくる、尺玉の寸が延びてゆく。 また、それにつれて、空にひろがる|直径《さしわたし》も自然大きくなる勘 定です。と、どうでしょうか、殺される場所が……最初は百 本杭、次は竪川口の元町河岸、三番目は、代地河岸と拡がる ばかりじゃない、それが一々、火笠の外輪の真っ下に当る。 つまり、毎年寸が延びてゆく円周のしたで、その作り主が殺 されるということになるのです」  そのとたん、この座敷にはなんの音もなくなった。蝉の声、 遠くでする定斎屋の環の音、真夏の、気獺い陽盛りにも拘ら ず、此処には微塵の惰気もないのだ。 (まい年、寸をひろげる大尺玉の、火笠の外周のしたで、そ の作り主が殺される)  とすると、疑惑は四尼池の娘に、否が応でも濃くなってゆ く。くわは、旧恨に燃える羅刹のような女、ひとり残らず、 安盛流火術師を駿滅しつくそうとする恐ろしい企らみ。  そこへ、灰吹きの音がして、岳太郎が続ける。 「ところが、それが昨夜はどうでしょうロ 三尺玉という、 どえらいものを|裡《で》っちあげたにも拘らず、殺されたのが、当 の本次ではなく別の女だ。それも、竪川の入口お舟蔵の空地 だから、当然これまで通りとすりゃ、ずうっと遠くでなけり ゃならない。ねえ、お舟蔵と云や鼻先じゃありませんか。そ れから見ると、どうも手口がちがうように思われる。あのま っ黒法師の、まじないには|当《フフフフ》らねえような気がするんです よ。だから、あっしゃ斯う思いますね。今までの三つは、四 尼池の娘が相違なく手を下したもの、それから昨夜のは、父 の殺されたお長の仇討1と。しかし四尼池の娘が、これま での下手人だという確証はない。そこでお長は、首を落して 自分の着物を着せ、それなり、姿を晦ましちまったんだー と。どうですい、一番神子柴さんのお褒めに預かりましょう かい」  と、そこで、重苦しい対立がはじまった。片やくわ説に、 片やお長説1そうなると、問答は絶対に無用だ。団平次は 智を決し、形相すさまじく立ちあがった。 「ううむ岳太郎、本所松坂町の四尼池屋敷跡をその方疎かに して、恥を掻きとうないか。明日になれば、くわの身体を引 っ括ってみせてやる。その時、泣いても吠えても遅いぞよ、 これ」 豆左衛門還湯へ行く  やがて、その夜の子の刻近く……。  本所松坂町、此処は本多家のほか、小屋敷に寺一つ。その、 浄広寺という浄土寺の裏が、乱塔場で建仁寺垣がある。それ が、音もなく崩れるほどに朽ち切ってい、ザクリと腕が入っ たとき、団平次もさすが気味よくはなかった。入ると、邸内 は丈なす雑草の海が。やがて、月が落ちて無風の闇のなかへ、 柳も|卒塔婆《そとば》も白張りも包まれてしまう。と、団平次、頃合い を見計らい雨戸に手をかける。  寵燈を点すと、墓が灯りのしたで、またかと云うように見 あげる。ついぞ先だっても、此処に片手片眼の浪人がいたけ れど、また来るようでは、よくよく江戸中が空屋払底らしい と考えている。  しかし轟の音、|蠕蜂《こおろぎ》が飛びかよい|蜻楡《なめくじ》の跡が続いている。 彼は、雨戸をあけたときプウンとくる、湿気と徽の匂いに無 住を思うのだった。が、それも、実際のところはほんの一時 であった。間もなく、縁伝いにゆくと足跡があり、それが、 陰陽の竜がからみ合っている、欄間したの襖に続いている。 (ふむ、誰かいる。いつの足跡か知らんが、決して無住では ない。くそっ、眼を剥くな、岳)  と臣図星にほくそ笑む団平次が、襖に、手をかけるとサア ッと挨りが落ちてくる。しかし、なかの部屋は微塵の埃りも ないのだ。床には、走人害殺之法の人紙がかかり、そのまえ に、狩又、小笠懸などの|墓目矢《ひきめや》が置いてある。これだーと、 団平次の唇が自然に綻んでくる。図星を、一度で射抜いた得 意の笑いと、やがて餌物を、掌中にできる猟人の冗奮とが、 この邊ましい男の全身を包んでしまったのだ。しかし……危 機はその瞬後にあった。  その部屋から、隣りにゆこうと合いの襖をあけ、寵燈を、 右手の壁にサッと向けたとき、左手の、縁の障子に腺騰と浮 き出たものがあった。女の影1おそらく、障子に密着して いて余映に浮き出たのであろう。  団平次は、それを見ると永年の修練か、焦らだたしさが収 まり、水のように静かになった。形を変えず、気動を送るま いとして凝視すること暫し。汗も、蒸し暑さも蚊も忘れてし まい、彼はただ巨像のように突っ立っていた。が、やがて、 二人が無言のうちに、気合を送り合っているのが、分った。 |怯《ひる》むまいとし、怯ませようとする、陰に交いあう裂吊の気勢 が、おそろしい接近の間をつないでいる。そのうち、団平次 の流汗がはげしくなってきた。呼吸は急き、ともすれば、相 手の微動もせぬものに圧されてくる。 「出ろ」  やがて、団平次が堪らなくなって叫んだ。しかし、その影 はみじろとも|動《ちフフ》かぬ。彼は、喘いだ。声を、出したほうが敗 けと分っているのに……続いて二度三度、出ろ、出てこいと 叫び立てるあいだにも、答えはなく、ただ返ってくるのは漠 然とした恐怖だけだった。  飛び道具、それを持つものの自若さは分る。といって、退 かれぬとすれば、猪突の一路だ。そこで清廉一図1すこし 焼きは甘いが典型的頑吏の、団平次がとつじょの飛躍を試み たのである。鞘ばしる光とともに十手を捨て、飛びあがる、 からだを障子めがけてザクリと切り込んだ。と、|筋斗《もんどり》うっ て、障子ごと倒れる。不覚と、直感したがなに事もない。無 性に、蚊を切りまくり地轟を驚かせ、朽ちた、縁板をどうど うと蹟み鳴らす間に、どうやら、彼ひとりだけがタテ師のよ うに踊っているのに気が付いた。 (逸した。くそっ、くわの奴、逃げおったか)  彼は、長恨の月が縞目なりに差し込む、光のなかでぽんや りと眩いていた。が、それで、くわの存在が見込みどおり、 確実になった。団平次は、墓目矢などの押収品を引っかつ ぎ、これを、岳に見せんずと鼻高々引きあげてゆく。そして、 ……翌日本次は解き放しとなった。これで、残るはくわの捕 縛のみであるから、いよいよ岳太郎の牙城危うしと云わなけ ればならない。 「いや、不覚ではない」  下野守、団平次の復命を聴くと、微笑を含んでいった。 「そちの太刀先を、外したところをみると、なかなかの手利 きとみえるな。いや、上役人に私怨ある訳ではなし、そちに 関わず、逃げ去ったのであろう」 「それに就いて、手前私見を申し述べまするが、時に、岳太 郎奴はいかがいたして居りまするな」 「構うな。あれはあれで、考えがあってやっているのであろ う。が、団平次、たまには勝てよ」 「ハッ、浅才、お上を汚すこと、此処両三度」  と、団平次の額に、粟粒のような汗がうかぶ。 「したが、今度こそはとの、確信が御座りまする。で、私見 と申しまするのは、本次を囮りに、あの女郎めを誘き出しま すること。なにせい、本次が最後で安盛流は絶えまする。そ こで、愚考と申しまするのは、本次に、鍵屋一門から退かせ 花火作りをやめさせ、さすれば女郎奴、すでに明夏という機 会がなくなりますことなれば、さっそくにも飛び掛るかと存 じまするが」 「ふむ、それはよい。昨夜で、公儀のお眼が満更でないのが 分ったであろうから、あるいは功に急ぎ、そうせぬでもない な」 「ハッ、簸難退きがたくして戦いを挑む、これ、挑打と申し まする。また、戦況固着の際『五段瀬越』といい、針手を左 右、右を綾、左を千鳥といい、綾が打ち、誘いに敵陣傾ぐと ころを千鳥打ち。すなわち本回も、綾は本次、千鳥は手前と いうことになり、これで、発機節を得ば女郎奴もなかろうか と存じまする」  団平次の武骨、用兵を講じて、軒昂たるものがある。  ところがその頃、岳太郎は西両国にいた。ドン、ヵチリ、 チリンの、楊弓店の中二階で西日にうだっていたが、そこへ、 「只今!」  と、声がしたのが豆左衛門らしい。 「驚きやしたよ。橋を渡って、川向うの本所までお湯へゆけ なんて、いかに、主命もだし難しとは云え、さすが驚きやし た。お蔭で、洗った汗の五倍ほども掻いて、姉ちゃん、大む くれの体です」 「ハハハハハハ粋興で、気の毒だった。なアに、留公なんぞ はどうでもいいんだが、お徳さんに気の毒だったよ。時に、 上ってこないが、どうしてるね」 「直してますよ……顔をね。せっかく、塗りこくったのが、 ドロドロの汗です。時に、大将、みんな見てましたぜ。いく ら、陽さがりとはいえ両国橋を、渡って湯へ入りにゆく、粋 興ものはねえからねえ。姉ちゃんが、刷毛盟に糠袋で橋掛り なんて、どんな|仁輪加《にわか》にだってそんなものはねえ」 「怒るなよ留」  岳太郎も、豆左衛門の毒舌をあしらい兼ねているところ へ、 「ただ今、長湯で相済みません」  と、留の姉のお徳があがってきた。  ちょっと、顔立ちは淋しいが、町家娘の、筋と品のいいと ころがある。この娘と留は、自火を出したがため父親は自害 し、お徳は、近隣への償いに北廓へ身を沈め、留はただひと り町内預けになった。ところが、運よくそこが玉屋だったの で、事情を聴いた岳太郎は証文を引き、お徳を突き出すまえ に救ったのであった。もちろん、この店は岳太郎が出させ、 姉弟二人の世過しをさせていたのである。  岳太郎は、娼家の伜ながら気骨はあり、ことに、武家権力 を圧する反抗を快としていた。したがって、公儀に助力する 得意の探偵も、もともと云えば、鼻を明かすという反骨にあ ることで、もちろん、慰勲の蔭には冷笑があり、それでもっ て、溜飲をさげるという代表的江戸っ児だった。しかし今、 なぜお徳と留を遠湯にやったのであろうか。 「ああ、御苦労さま。時に、お湯は……? そう、相生町の 揚羽湯へ行ってくれた……。そりゃ、済まない」 「でも旦那、もといた隣り町内でしたから、馴染顔も相当御 座んしたよ、それに、首尾のほうは上々でしたの」  お徳は、二の腕の白さを見せ、毛筋をつかっている。近頃 は、もとの野暮ったさがよほど抜けてきたようだ。そこへ、 豆左衛門がわうっと顔を突きだして、 「それがね、おいらの馴染のほうが、ズウッと多かった。蟷 燭屋のおつねちゃんが、紺屋のお冬坊の|言伝《ことずて》をしてくれて ね。留さん、思わせてばかりいて、気の毒じゃないかえ。此 処へ、来たからには、顔だけでも出しておやりよ。おまはん を、見たからにはお連れ申しせんと、わちきが花魁へ立ちん せん。情を、おこわしなんすと、つめりいすよーと、い《フフフ》|わ れたが出役中だ。あっしは、これさマア此処を離してくんね え。どんな、義理の悪いことでもしたかと、外聞が悪いわな  …」 「マア、お止しったらね、なんて厭な子だろう」 「なんでえ、姉ちゃんだって、なんでえ。ちか頃、この辺じ やね。お徳さんは、緋鹿子に紫の腹合せなんぞを締めて|邪気《あどけ》 ないけれど、あれでなかなか、いざとなると年増だlIって 云ってるぜ」 )金太郎の、腹掛けをしめて青楼を談ずる、豆左衛門と、お 徳の争いのなかへ、 「ときに豆州、用向きのほうは、一体どうなったね」 「うまく行きやした。なにしろ、玉屋の若大将というからに ゃ、看板がようがす。それが、ふとしたことでお長さんに縁 あり、あす、奉行所で法事をするからって……。とにかく、 それだけじゃ、だれも来ませんがね。引き物が、これこれだ と云ったら、顔色が変りやがった」 「じゃ、くるね」 「来るにもなんにも、明日はあっしが引率してまいります」  これで、豆左衛門とお徳が、遠湯へいった理由がわかっ た。お長が、いた町内の揚羽湯へ行って、あす、法事がある と云って女房連を引き出すーいかにも、それは深策あり気 ではないか。  しかし、岳太郎は二度とそのことには触れなかった。宵ぢ かい、編蟷の飛びかよう物干の縁にかけ、はや秋の気にそん だ西風に頗を冷やしている。 「時に、商売のほうは、ちか頃どうだね」 「ハィ、いまは夜分が大抵ですけど、これから、寒くなるに つけ、いけないと思いますよ。芝居じゃ、顔見世なんぞと紋 看板を飾りますが、この商売や、|廓《なか》なんぞはいけなくなるそ うなんです」 「そうかい、そうなったらまた一思案しよう。じゃ、豆州、 あしたは頼むよ」 翌日、鼻に汗粒をうかべてズラリと並んでいる、女房さん たちの先頭に豆左衛門が立っている。まさに、奉行所として は空前のことだが、こうした奇行が、つねに効を奏する岳太 郎を思うと、野州公も否とはいえなかったのである。 「いいかい。御白洲が済まなけりゃ、入れねえんだから…… オイオイ、押しちゃいけねえよ。特売や見切り場じゃあるめ えし……」  やがて、潜りを一列に入った一隊は、仮牢の、裏にある物 置小屋のまえに立たされた。 「これは、神子柴さま、御出役御苦労さまで……」  岳太郎が、出てきた団平次に慰葱な挨拶をしたが、団平次 これは何だというように、苦り切っている。なお、本次も呼 び出されて、団平次をみると、及び腰で礼を云いはじめた。 しかし、坊主もいず法事のはじまる気配はない。その疑念が、 一同の顔にようやく濃くなってきたとき、岳太郎はやおら始 めたのである。 お長は、何処に 「さて、皆さん、お暑さの折柄、御苦労さまなこって、:…・。 これもよくよく、お長さんを思わなけりゃ、やれたこっちゃ ない。ところで皆さんに、法事をはじめる前に、御覧に入れ たいものがある。いや、見て頂く。サア豆州、代物を云い付 けてくれ」  すると、物置がひらかれ、棺のような細長い木箱が取り出 されてきた。いや、ようなどころかまさしく棺である。とた んに、女房さんどもの顔色が、一斉に変ってしまった。 (棺、棺といえば、お長さんのだろうか?!)  やがて、岳太郎の手が蓋にかかる。とたんに、噴っとくる 云いようのない暑気に、|眩《よろ》めいて、二人ほど倒れてしまっ た。が、それは、まさに首無しお長の棺だった。氷詰め、し かし、臭気は争えず、もうっと蝿がたかってくる。重苦しい 毛穴という毛穴をふさいでしまいそうな匂い、手や腹に徽に 似た斑点が出来ていて、それは擬れもない腐敗の徴候であ る。しかし、岳太郎は平然と蝿を逐いながら、 「これも、ねえ皆さん、仏への供養だ。ふだん、皆さんと仏 とはおなじ風呂仲間、お長さんに、裸でなけりゃ分らない特 徴がありゃしないかと思って……。ねえ、度胸だ。此処でい ちばん、しゃんと見極めてもらやあア、お礼はしますぜ」  してみると、飽くまでお長ではない、岳太郎の見込み。し かし、氷がキラキラと閃めくそのしたの、屍体を見るものは 一人としてなかった。照り付けられて、十いくつかの顔が 墓石のように動かない。阿呆か、白昼の悪夢に眩まされてい るのか、まるで、酔ったような眼をし烈日のしたに並んでい る。 「駄目か」  やがて、岳太郎はフウッと吐息を洩らした。  そこを、団平次がポンと肩を叩く。 「岳、今度こそは|電乱《かくらん》したとみえるな。貴公は、見込みどお り四尼池くわにしたいのであろう。しかし、くわとは先夜、 あの屋敷で逢うたよ。|断念《あきら》めろ。公儀が、こんな粋興を許し ただけでも、止め甲斐があるだろうが」 「よう御座んす、断念めましょう」  岳太郎は、場合にも似ずキッパリといった。 「時に、坊主がまだやって来ないんですがね。ああ、来た来 た」  それは、脂切った五十ばかりの、おそらく世才のほうが卓 抜らしい坊主だった。小腰をかがめ、いとも殊勝らしく振舞 うが、留に、笑ったところを見ると、知り合いらしい。やが て、読経がおわり棺前に近附き、珠数で、そのうえを撫でな がら、厳かに引導をわたす。 「|野径帯霜万草深《やけいしもおぴぱんそうふかし》。|西風払露日沈沈《せいふうっゆはらいにちちんちん》……」 「オイ坊さん」  とつぜん、岳太郎がその声を遮った。面上には、いまの失 敗に焦らだつ、烈しいものが顛えている。 「どうも、聴いてりゃ、ちがうようだね。本物をやってく れ。まだ、九月じゃねえ、八月だよ」 「左様、そういえばどうも、勝手がちがうようでな。よろし い……直しましょう」  と、改むるに憧らないその僧は、括然と顔色も変えない。  ふうけいかしをうごかし   げつめいかがんのとき  ほんらいふ し の こといかにしてしるをう みよ 「風桂動花枝。月明過雁時。本来不死之事如何得知。看、 |看《みよ》、|玉兎沈城西《ぎよくとじようさいにしずみ》。 |西金鳥出海東《にしにきんうかいとうよりいづ》」  そして引導がおわると、あらたまってその坊主が、岳太郎 に訊ねた。 「時に、お寺は何処で御座いましょうか。もし、何のような ら、手前お引き受けいたしますが」  岳太郎は居並ぶ女房さん連に、もしこの坊主のような度胸 があったらと悔まれるのであるが、しかし、寺となると自分 には分らない。さっそく、本次を手招いて云った。 「ねえ、お長さんを埋めるんだが……」 「ヘエ」 「誰も身内がいないんで、埋めどこが分らない。どこだ、ど こへ埋めりゃいい」 「と云うと、それはお寺のこってすね」  と、本次が記憶をさぐっているらしい。 「あれはたしか、笠蔵寺、いや、立蔵寺でしたか。菊川橋を、 渡ったお材木蔵の脇です」  やがて、ポカンとなった女房さん連は引き物を貰って帰っ て往った。いまは、本次も帰り豆左衛門もいず、岳太郎と団 平次が棺側に立っているだけだ。 「岳、貴公は寺へゆくか。散々、いじり抜いた仏だから、罪 滅しに拝め。本次が、いま先で待ってると云うぞ」 「ああ、いま云った立蔵寺で……」 「そうだ」 「ですが神子柴さん、この仏なら行く先はちがいますが… …」  岳太郎は、虚を衝く快よさよりも晴々とした、なにか、終 ったという風に見えた。しかし団平次は相手の顔をこれが正 気かというように見詰める。 「オィ、冗談にも、程があるぞ。無暗に、寺を変えることは、 公儀が許さん」 「しかし、そう云ったところで、無縁ならどうしますね。オ ーイ、回向院だ」  と、団平次には関わず、人足を差し招く。と見る見る、猛 同心の顔が縄のように硬ばってきた。 「ならん、理由を聴かぬうちは、絶対にならん」 「だって、身分の知れない屍体なら、無縁墓地に埋めるでし ょう。これは、くわでもお長でもない、名の知れぬ女なんで すよ。お長は……神子柴さん、お耳を拝借」  その夕、立蔵寺で、宝珠屋本次が捕えられたのであった。 本次は、包み隠さずいっさいを白状したが……団平次の胸は 疑惑にみちて霧れない。翌日、午さがりを入谷の寮にいる、 岳太郎を尋ねいっさいを知ろうとした。  通された部屋は、|憲《のき》にかかった万年草で蒼々とみえる。深 い、緑が水影のようにひらめき、田圃の匂いが入谷を思わせ るのだ。 「おう、|昨夜《ゆんぺ》は失礼した。なにか、云ったかも知れんが、気 にせんで貰いたい。時に岳太郎、どうして貴公は、あれが本 次と気が付いた?」 「それが、お恥しいながら、寺のときでしたね。それまで は、もう絶対に駄目、敗けと覚悟していました。ところで、 本次に寺の名を訊ねましたね。すると|奴《やつこ》さん、さいしょは笠 蔵寺といったのを、云い直した。ねえ、人間の心なんて阿怪 しなもので、絶えず自分には分らなくても、潜んでいるもの がある。善いこと、悪いこと、さまざま心のなかには黒法師 がいる。ところがそ奴が、なにか機会があると表面へ出てく る。微妙な、なんともそれがエテモノなんですが、何でもな い、ものとも乙に結び付きたがるんです。つまり、心の傷っ てやつだ。ところが、本次は笠蔵寺といい、立蔵寺といい直 した。すると、お長を埋めることに……竹か、竹蔵。ねえ、 笠は御覧のとおり、竹に立つでしょう。それで私は、その場 でハハンと思ったのです。お長を埋めるといわれ、そのとき 寺の名に竹が冠さるようじゃ、これは、てっきり御竹蔵にち がいないと……」 「ふむ、よく分りた」  団平次は、居住い正して、頷きながら聴いている。  お長は、あの夜打ちあげを終っての帰り途に殺され、本次 の手でお竹蔵に埋められたのだった。したがって、彩花のし たに現われた首無し女は、お長と体魎の似た別の女なのであ る。もちろん、そうなれば二人お長となり、かてて加えて本 次には不在証明が出来る。これが、安盛流火術をひとり占め にし、泡よくば、鍵屋一門まで掌中にしようとした、本次の 恐るべき計画だったのである。  しかし本次も、お長の殺害だけはさすが忍ぴなかったらし く、あの娘に、父相伝の練汁法さえなければーと、団平次 のまえで暗涙に暮れたとのことだ。 「だが」そこで団平次は、ふたたび問いかけた。 「すると、あの落首はどうなる。本次が、あれを張り付けた ことは口から出たが、それはそれ、四尼池くわにはわしが逢 うている」  とたんに、抑えようとしても拡がってくるものを、岳太郎 は伏眼になって耐えていたが、 「フフフフ、あれには神子柴さん、嵌られましたね。本次 は、落首を張った締め括りをしたんですよ。どうせ一度は、 あなたが、あの屋敷へゆくだろうと思って、壁に鏡を仕掛け たが、それが魔物なんです。御承知のとおり、鏡は磨くもん ですが、裏の、模様の浮き彫りは一端は凹みます。しかし、 やがて日を経るにつれ盛りあがってきて、結局、その模様な りに像を反射することになる。ですからあれは鏡の裏の浮き 彫りの像。神子柴さま、これでなにもかもお分りで御座いま しょうな」  それなり、主客のあいだには、なんの声もなくなった。岳 太郎は、小女にいい|楼《みせ》のほうへ通じさせ、ひとり寮からの客 があると云わせて。  今宵団平次には、仙州か、白玉か。誰袖が敵妓か。