「太平洋漏水孔」漂流記 小栗虫太郎 竜宮から来た孤児  前作「天母峯」で活躍した折竹孫七の名を、読者諸君は お忘れではないと思う。  アメリカ自然科学博物館の名鳥獣|採集者《コレクタ 》として、|非番《オフ》で も週金五百ドルはもらう至宝的存在だ。その彼が、稀獣|倭 麟《オカビ》を追い、|厨牛《マズク オクビン》をたずね、昼たおくらき大密林の|海綿 性湿土《スポンジ ソイル》をふみ、あるいは酷寒水銀をくさらす極氷の高原を ゆくうちに、知らず知らず踏破した秘境魔境のかずかず。 その、わが折竹の大奇談の秘庫へ、いよいよこれから分け 入ってゆくことになるのだ。 「おい、海を話せよ、君も、|藻海《サルガツソウ シ 》ぐらいは往ったこ とがあるだろう」  とまず私は困らせてやれとばかりに、折竹にこう訊いた のである。  というのは、海に魔境ありということは未だに聴いてな いからだ。絶海の孤島、といえばやはり土が要る。たいて いは、大陸の中央か大峻険の奥。密林、氷河、|毒癌気《マイアズマ》の漂 う魔の沼沢とーすべてが地上にあって海洋中にはない。 ただ、あるといえば藻海くらいだろうが、それも過去にお ける魔境に過ぎず……いまはその怪|馬尾藻《ほんだわら》も汽船の|推進器《スクリユウ》 が切ってしまう。  大西洋を、メキシコ湾流がめぐるちょうどまっ唯中、北 緯二十度から三十度辺にかけておそろしい藻の海がある。  これは、紀元前カルタゴの航海者ハノンが発見したのが 始め。帆船のころは、無風と環流のためそこを出られなく なり、舵器には|馬尾藻《ほんたわら》がぬるぬると絡みついてしまう。そ ういう、なん世紀前かしれぬボロボロの船、帆柱にもたれ る白骨の水夫、それを、死ぬまで見なければならぬ新遭難 船の人たち。絶望、発狂、餓死、忍びよる壊血病。むくん だ腐屍の眼球をつつく、海鳥の叫声。じつに、凄惨といお うか生地獄といおうか、聴くだに傑っとするような死の海 の光景も、いまは|藻海《サルガツソウ シヨ》のとおい過去のことになって いる。  では、海に魔境は絶対ないと云えるのかP そういうと、 折竹は呆れたような顔をして、 「オイオイ、俺だからいいようなもんの、他人には云うな よ。今どき、|藻海《サルガツソウ シご》なんて古物をもち出すと、君の、 魔境小説作家たる資格を疑うものがでてくるからね。だが、 じっさい海には魔境といえるものが、少ない。彼処に一つ、 此処に一つと……マアそれでも、三つくらいあるだろう」  全然ないと思われた海洋中の魔境が、折竹の話によれば 三つほどあるという。ゆけぬ魔海1それはいったい何処 のことだろう。また、陸の未踏地のごとく全然人をうけつ けぬ、その海の魔境たる理由? しかも、それがわが大領 海「太平洋」中にあるという、折竹の言葉には一驚を喫し ないわけには往かない。 「それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東 端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島から は、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋 諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラ ネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだと いう、海の絶対不侵域がある」 「ほう、まだ|未踏《マ レ インコ》の|海《グニタ》なんてこの世にあるのかね。で、 名は?」 「それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、 いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使 う。U|呂鼻百《ダプックウ》1。つまり『海の水の漏れる穴』という 意味だ」  土人の言葉には、ひじょうに幼稚な表現だが奇想天外な ものがある。この、、U|巴《ダブツ》U|鼻《ク》〆|口《ウ》.、などもその一つ。直経百海 里にもわたるこの大渦流水域を称して、 「海の水の漏れる 穴」とはよくぞ呼んだりだ。  そこは、赤道無風帯のなかでいちばん湿熱がひどいとい う、いわゆる「|熱霧《レジョン オプ クラウ》の|環《ド リング》」のなかにある。そして その渦は、外辺は緩く、中心にゆくほど早く、規模でも、 「メールストレームの渦」の百倍くらいはあろう。まして これは、鳴門やメールストレームのような小渦の集団では なく、激荘数百海里の円をえがく、たった一つの渦。  周縁は、海水が土堤のように盛りあがっている。ことに、 地球自転の速力のはげしい赤道に面した側は、まさに海面 をぬくこと数メートルの高さ。さたがら、大|環礁《アト ル》の横たわ る心地すーとは、はじめて、、O|巴《ダブツ》≡Nκ|口《クフ》.、をみた∪oρ|三《テ クイ》- 8ωの|言《ロス》葉だ。  この、オウストラリア大陸を発見し損なったそそっかし いスペイン人が、.、∪|巴《ダブ》u|鼻片口《ツクウ》..を最初みたのが十七世紀の はじめ。しかし彼は、この化物のように盛りあがった水の 土堤に、舵をかえして蒼憧と逃げ出した。そしてそこを、 雲霧たちこめるおそろしい湿熱の様から、。、■oω【|巴器号《ロス イスラス デ 》 →oヨ|宕《》ξ|轟《テンペラツス》ω.、と名づけた。すなわち、 「鵬風の発生域の 島々」という意味。 「たるほど」  と、もう私は一、二尺のりだすような冗奮。しかし、い まの説明のなかに判じられないようなものがある。 「その、島々というのはどういう意味だね。.。U|呂鼻《ナタブツク》κ|口《ウ》、、 のなかには、島があるのか?」 「そうだ、大小合して七、八つはあるらしい。その何百、 何十万年かはしらぬが隔絶した島のなかを、君は一番覗き こみたいとは思わないかね」  と、なにやら灰めかし気にニッと笑った折竹の眼は、た しかに私を驚死せしめる態の大奇談の前触。そしてまず、 、、∪|巴《》∪|鼻《ダブックウ》ξ.、の島々について語りはじめた。 「ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と 見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに 低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のよう に考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、 こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が 、.∪⑳|栞《》9κ|汀口《タブツクウ》、、の語原だよ」 「ふうむ、太平洋漏水孔か……」 「そうだ、案外渦の成因はそんなところかもしらんよ。と ころで、なぜ『|太平洋漏水孔《ダブツクウ》』のたかへ踏み入ることがで きないか。  一九一二年に、当時の独逸ニューギニア会社の探険隊が、 『|太平洋漏水孔《ダブックウ》』へ入ろうとした。そのとき、はじめて魔 海のおそろしさがハッキリと分ったのだ。それは、『太平 洋漏水孔』の海面下が一面の暗礁で、小汽艇のようなもの でも忽ち覆えってしまう。つまり、縦に突っきろうにも渦 流にまかせようにも、重さと抵抗をもつ汽艇のようなもの は駄目なんだ。ただ、どうかと思われるのが|桁付《アウトリガ 》き|独木舟《ト カヌ 》 だ。  こいつは、目方も軽いし抵抗も少ない。ふわふわ渦にの ってゆくうちに、どれかの島へゆけるだろう。と、マアそ の考えもそこまでは良いんだがね。考えると、それでは行 きっきりになってしまう。渦が逆流でもしないかぎり…: 永遠の竜宮ゆきだよ」 「………」  私は、さっきから折竹が頻繁につかう、竜宮という言葉 が気になって堪らたい。こいつ、何かどえらいものをきっ と隠しているなと、問おうとしたのを折竹が遮って、 「それから、もう一つ『|太平洋漏水孔《タブツクウ》』探険の大障害とい うのが、さっきも云ったひじょうな高湿度だ。なにしろ 『太平洋漏水孔』の形がちょうど漏斗だからね。海面の蒸 発に琢留がおこる。その探険隊が、 『|海《メ レヌ》の|潮吹《 ブラ ゼロ》き|穴《ホ》』とそ こを名づけたように、濠気赤道太陽をさえぎる大湿熱海だ。  ところで、そのニテーギニア会杜の探険のとき、実験が おこなわれた。それは、|大蜻虫《コツクロ チ》をいれた箱を『太平洋漏水 孔』へ流したのだが、その、空気温度が約摂氏四十五度。 ところが、それから」i分ばかり経って引きよせてみると、 その大蛸虫の体温が空気温度とおなじだ。君、人間が四十 五度の体温にどれくらい堪えられるだろうか」 「想像もつかんよ、地球の熱極というのがあれば、 『太平 洋漏水孔』のことだろう」 「ふむ、ところでだ。ここに、|独木舟《ガヌ 》に乗って入りこんだ、 人間がいると仮定しよう。渦は、毎時周縁のあたりが三十 カイリの速さ。そして、ぐるぐる巡りながら最初の島まで ゆくのに、どう見積っても半日は費る。するとそれまでに、 その人間の命が保つかどうかということが、まず第一の問 題になってくる。僕は、医者じゃないが、受け合い兼ねま すといいたいね」 「分ったよ」  私はメモを置いて、落胆したように彼をみた。 「なるほど、人間の生理状態が一変しないかぎり、 『太平 洋漏水孔』へはゆけないと云うことが、分った。だが、そ んな工合で人間がゆけなくてだね、そこに奇談もなにもな いものは、聴いても仕様がないよ」  すると、折竹がいきなり童顔をひき締めて、オイと、一 喝するように畷鳴った。 「おいおい、話というものはしまいまで聴くもんだ。僕が、 何百、何十万年秘められていたかもしれぬ『太平洋漏水 孔』の大驚異1--それを話そうと思う矢先、早まりやがっ ゲし::: 一 「そ、そうか」 「それみろ。とにかく『|太平洋《ダブツ》漏|水孔《クウ》』のなかに何かしら あるらしいことは、君に作家的神経がありゃ、感付かにゃ ならんところだ。といって、僕が往ったわけじゃない。じ つは、ひとりそこへ入り込んで奇蹟的に生還したものがい る。そしてその人物と、僕のあいだには奇縁的な関係があ る」 「なんと云うんだ! そして、どこの国のものだ」 「日本人だ。しかも、頑是ない五歳ばかりの男の子だ」  私は、ちょっと、暫くのあいだ物もいえなかった。読者 諸君も、その五歳という文字を誤植ではないかと疑うだろ う。しかし、五歳はあくまでも五歳。そこに、この「|太平 洋《ダブツ》漏|水孔《クウ》」漂流記のもっとも奇異な点があるのだ。では、 しばらく私は忠実な筆記老として、折竹の話を皆さんに伝 えよう。 「|黒人諸島《メラネシア》」浦島  それが、第一次大戦勃発直後の大正三年の秋1。日本 海軍が赤道以北の独領諸島を掃蕩しつくしたけれど、まだ ドイッ東洋艦隊が南太平洋にいるという頃。はやくも、新 占領区域を中心に商戦の火蓋をきった、向うみずな一商会 があった。それが、折竹の義兄が経営する海南社。のちの 恒信社、南洋貿易などの先駆となったものだ。  独艦が出没する南太平洋を縫い、ともかく小帆船ながら 新領諸島と、濠洲間の聯絡を絶やさなかったのは偉い。そ の、水凪丸の二回目の航海、ブリック型、補助機関附きの 五百噸ばかりの帆船。それが、雑貨燐鉱などをはち切れば かりに積んで、いま北東貿易風にのり赤道を越えようとし ている。  若人のあこがれ、海のロマンチシズムは帆船生活にある。 順風に、十度ほど傾いではしる総帆の疾走。波音と、ブロ ックの軋めきのほかは何もない南海の夜。仰げば、右に左 に弧をえがく|上摘帆《トゲルンセル》のあいだに、うつくしい南の眼、|赤十 字星《サザン クロス》のまたたき。折竹も"珊瑚礁生物の採集というよりも、 むしろこうした雰囲気に魅せられて乗っていたのだ。やが て、北東貿易風がいつとはなしに絶え、船は、聴くだに厭 な|赤道無風帯《ドルドラムス》に入っていった。 「驚いたですよ、船長」  と折竹もさすがに音をあげた。 「この、補助機関の震動がするあいだは地獄というわけで すね。まったく、この蒸し暑さときたら死んじまいたいく らいだ。眼がぽっと霞んで来るし、なにも考えられなくな る。だが、あれη、アッ、ありゃ何だ」  |下桁《ブきム》のしたの|天幕《テント》のかげから、折竹が弾かれたように立 ちあがった。そとは、文字どおりの熱霧の海だ。波もうね りもなく濃藍の色も槌せ、ただ天地一塊となって押しつぶ すような閃めき。と彼に、左舷四、五十|鍵《ケ フル》の辺に異様な ものが見えるのだ。|環礁《アト ル》のようだが色もちがい、広荘水平 線をふさぐに拘わらず、一本の椰子もない。 「あれかね、あれは有名な『|太平洋漏《ダブツク》水|孔《ウ》』の渦だよ。|環《アト》 礁のように見えるのは、盛りあがった縁だ。とにかく、は いったら最後二度と出られないという、赤道太平洋のおそ ろしい魔所なんだ」  その時、船首の辺でけたたましい叫びが起った。一人の 水夫が、|橋梯《リギン》の中途でわれ鐘のような声で敏鳴っている。 「おうい、変なものが見えるぞう。右舷八点だ……鳥が、 籠みてえなものを引いてゆくが……見えたかよう」  まもなく、その二羽の鰹鳥が射止められた。引きあげら れたのは葡萄蔓の籠で、たかを覗いた男がアッといって飛 び退いた。裸体の、愛らしい五つばかりの男の子が、|呼吸《いぎ》 もかすかに昏々とねむっている。なんだ、夢ではないのか。 この、ちかくに島とてない赤道下の海を、鳥に引かれなが ら漂う頑是ない男の子。  と、しばらく全員は酔ったような眼で、暑さも忘れ、じ っとその子をたがめている。と間もなく、その子の背に手 紙が結いつけられてあるのが、見つかった。船長が手にと ったが、すぐ折竹にわたし、 「君、ドイツ語のようだね」 「そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父 となって暮すこと一月。いま『|太平洋漏水孔《ダプツクウ》』中にある独 逸人キューネよりーとあります」  |太平洋漏水孔《ダブックウ》1たった一字だががんと殴られた感じだ。 しかも、みればこの子は日本人のようだし、どうして、あ の魔海に入りどうして抜けでたのか。しばらく全員は阿呆 のように、じりじりと照る烈日のしたで動かない。  やがて、その子は手当をされ船室で寝かされた。折竹は、 いつまでも醒めない悪夢のあとのような気持、フラフラわ れともなく|摘舷《リギン》へのぽって、 いま左舷に過ぎようとする 「|太平洋漏水孔《ダブツクウ》」をながめていた。  斜めの海、海の傾斜。とうてい、夢にも思えなかったも のが、現実として、眼のまえにある。そこには、幾重にも 海水が盛りあがり、まっ蒼に筋だっている。その大漏斗を まく渦紋のあいだには、暗礁がたてるまっ白な飛沫。しか し、それはただ眼先だけのことで、はや四、五|鎚先《ケ ブル》はぽ うっと曇っている。そして、煙霧のかなたからごうごうと 轟いてくるのが、 「|太平洋漏水孔《ダプツクウ》」の渦芯の障りか……。  折竹は、それをキューネの絶叫のように聞きながら、魔 海からの通信を読みはじめたのである。 *  手紙の主フリードリッヒ・キューネは、|独逸《ドイッチエ》ニューギ《 ノイ ギネア 》|ニ ァ|拓殖会社《ゲセルシヤフト》の年若い幹部であった。以前はお酒落で名高い 竜騎兵中尉。それが先年、ベルリン人類学協会のニューギ ニア探険に加わって、以来南海趣味にすっかり溺れこみ、 退役してニューギニア会杜へきたのだ。スポーツマン、均 斉のとれた玲羊のような肢体。これで、|一眼鏡《モノクル》をしコルセ ットをつければ、どうみても典型的|貴族出士官《ユノケル》だ。  そのキューネが、この五月に破天荒な旅を思いたち、独 領ニューギニアのフインシャハから四千キロもはなれた、 かの「宝島」の著老スチーヴンスンの終焉地、く|巴《ヴアイ》ー|冒《リマ》⑳島 まで|独木舟《カヌ 》旅行を企てたのである。両舷に、長桁のついた、 ..|勺《プラウ 》8口.。にのって……かれは絶海をゆく扁舟の旅にでた。 そして、海洋冒険の醍醐味をさんざん味わったのち、つい に九月二日の夜フインシャハに戻ってきた。l話はそこ で始まるのである。  土人の..ξ|貧巴《マライボ》9..という水上家屋のあいだを抜け、|紅 樹林《マングロ ブ》の泥浜にぐいと紡を突っこむIiこれが、往復八千キ ロの旅路のおわりであった。ところが、海岸にある衛兵所 までぐると、まったく、なんとも思いがけない大変化に気 がついたのだ。そこには、ドイッ兵士は一人もいず、てん で見たこともない土民兵が睡っている。ちょっと、ポリネ シア諸島の|馴化土人兵《フイ タ フイさタ》のような|服装《なり》だ。 「なんだろう。国の兵隊がいず、変なやつがいるが……」  と、見るともなくふと壁へ眼をやると、そこに、土民へ の布告が張ってある。かれは、みるみる間にまっ蒼になっ た。留守中、大戦が勃発しこの独領ニューギニアは、いま 濠洲艦隊司令官の支配下にあるのが、わかった。ことに、 その布告の終りの数行をみたとき、彼はわれを忘れてかっ と逆上したのである。  1濠洲軍は、なんじ等に善政を約束する。思えば、 永年苛酷なるドイッ植民政策に虐げられた汝らは、ド イッ軍守備隊長フオン・エッセンに対しても、われ等 と協力し復讐をわすれなかった。彼らが、家族、敗兵 らとともに密林中に逃げこんだとき、汝らはわが言に したがい問諜をだし、たくみに彼らを導いて臓滅させ たではないか。  但し、隊長夫妻ならびにその一子、以下白人戦死体 の首の拾得は禁ずる。     フインシャハ守備陸戦隊長ベレスフォード  キューネは、眼がくらくらして倒れそうになった。こと に、彼と仲よしだった隊長の、子ウイリーの死を思うとか っと燃えあがる憤怒。鬼畜、頑是ない五歳の子まで殺さん でもいいだろう。おそらくそれは、平素恨みを抱く土人の 仕業だろうが、なにより咳かけたのはベレスフォードでは ないか。  と、わずか四月の間にかわった世の中となり、いまは身 を寄せるところもたい今浦島とたったキューネは……それ から先々もかんがえず怖ろしさも感ぜずに、ただフラフラ と放心したように歩みはじめた。 (殺すぞ。鬼のようなベレスフォードのやつ、からならず |殺《や》ってしまうぞ)  いま、キューネの胸のなかには、それだけの事しかない。 すると、月のない夜がもっけの倖いとたり、ふらふら|彷僅《さまよ》 ううちに隊長官舎のそばへ出た。巨きな、腕ほどもある胡 瓜の蔭に、ちらっと灯がみえる。窓はあけ放され、部屋の なかが見える。壁には、子供がかぶるピエロの帽子。卓に は、オモチャの|劇夙《ラツパ》や模型の|海賊船《ヴアイキング シンプ》。 (ようし)彼はぐびっと唾をのんだ。  眼には眼、歯には歯だ。ベレスフォードに、男の子がい るとは……天運とはこのこと。と、ただ復讐一図に後先も かんがえず、やがて、ちいさな寝台から抱えあげたその子 を、毛布にくるんでそっと持ちだしたのである。まもなく、 夜風をはらんだ|独木舟《プラウ 》の三角帆が深夜のフインシャハを放 れ矢のようにすべり出た。 逃亡者了  しかし、キューネは、くらい海上にでるとさすがにκ奮 も醒めた。いま、父母の懐ろから拉しこられたにも拘わら ず、ベレスフォードの子はかるい寝息をたてている。この、 無心神のような子になんの罪があるP いかに、復讐とは いえどうして殺せようと、一度理性がもどれば飛んだこと をしたと急にキューネはその子が不欄になってきた。  どれどれ、すぐ坊やのお家に帰してやるよーと、もと もとキューネは子供好きだけに、毛布をあげてそっと顔を 見ようとした。  夜が明けかかり、星影がしだいに消えてゆく。当て途な く流れてゆくこの|独木舟《ブラウき》のうえにも、ほの白い曙のひかり が漂ってきた。すると、いきなりキューネがハッと身を退 くようた表情になり、 「ちがう、こりゃ、ベレスフォードの子じゃない」  とさけんだ。  白人ではない。五歳ばかりの、黒い髪に號珀色の肌。く りくり肥った愛らしい二重順。この、意外な東洋人の子に おどろいたキューネは、がたがた|独木舟《プラウ 》をゆすってその子 を起してしまった。 「オヤッ」  というようなまん丸い眼をして、しばらくちがった周囲 に呆気にとられていたその子は、やがて、しくっしくっと 泣きじゃくりを始め、 「オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないん だね」 「そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、 坊やはどこの子だね」 「お父らやんは、日本人でジョリジョリ屋だい」 「ジョリジョリP ああ|理髪屋《とこや》さんだね。で、坊やはどこ で生れたんだ」 「シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまった んだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋 になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それ も、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇 佐美ハチロウっていうんだよ」  五歳て、この蛮地へきて孤独の身となるだけに、なかな か、ませてもいるし利発でもある。それから聴くと、父の 死後はベレスフォードの家へきて、そこの、ジャッキーち ゃんの遊び相手になっているというのだ。してみると、ゆ うベジャッキーが壁際に寝ていたのを、キューネが見損な ったわけなのである。しかし、ともかくこの子は帰さなけ ればならない。 「オジチャン、オチッコが出たいよ」  きゅうに、ハチロウが尻をもじもじしはじめた。 「だけど、ジャッキーちゃんは海ヘオシッコすると、オチ ンチンを撞木鮫にとられるというよ」  と、その時どうしたことか、ハチロウの腰をおさえてオ シッコをさせている、キューネの手がいきなり震えはじめ てきた。遠空に、色付きはじめた中央山脈を縫いながら、 するするのぽってゆく|英国旗《ユニォン ジャツク》。しまった、もうこの子を 帰そうにも帰せなくなったと1起床ラッバの音を夢のよ うに聴きながら、かれはまったく途方に暮れてしまったの である。  天地間、いま一人のこの身の置きどころもなくなった彼 は、ハチロウの処置という重荷が加わったのだ。多分、明 ければハチロウの失踪に気がつくだろう。そして、この島 の内外がきびしく調べられるだろう。所詮自分は、ハチロ ウを帰そうとしてこの辺に迂路ついてはいられない。では、 これからどこへ行こうか。  周囲はことごとく英仏領諸島。蘭領も米領も、所詮ドイ ツ人にとっては安全の地ではない。いまこの地上に一寸の 土地もなくなった。キューネはただ悶えるのみであった。 そこへ、突然ハチロウがこんなことを云いだしたのだ。 「オジチャンの、このお舟はどこヘゆくんだね。坊やのお 国の、日本へゆくの?」 「行ってもいいよ」  と、彼は眼先がきゅうに開けたような気がし、 「だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃな いのかね」 「うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るん だもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッ キーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたい のお国の日本なら虐められないだろうね」  こんな、頑是ない子が郷愁をおぽえる哀れさ。それは、 やはりキューネも同じことである。オジチャンも、どれほ どドイッヘ帰りたいか知れないよと、口には云わないがい きなりハチロウを抱きしめ頬ずりをしながら湧佗と涙をな がした。 「ゆこう坊や。坊やのお国の日本へゆこうよ」  そうして二人は、安住の地へと漂泊をはじめたのであっ たが-・・-それには、まず行きようもないと云う秘境が必要 だ。ところが、独領ニューギニアの最北端に、..Zo|巳《ノルド》-ζ《 マ》|㌣ 一〇|百《レクラ》ご..という、荒れさびた岬がある。そこには、岩礁乱 立で近附く舟もなく、陸からの道には.、|三巴《ニニンゴオ》おo..の大湿地 があり、じつに山中に棲む|綾小黒人種《ネグリト 》さえ行ったことがな いと云う。かれは、まず|皇后《カイビリン》オウガスタ川を遡っていった。  両側は、いわゆる|多雨《レイン フオ》の|森《レスト》、パプアの大湿林。まい日七、 八回の騒雨があり、ごうごうと雷が鳴る。その雨に、たち まちジャングルが濁海と化しI|独木舟《プラウ 》が、大|羊歯《しだ》のなか を進んでゆくようになる。わけても、この|皇后《カイゼリン》オウガスタ 川はおそろしい川で、鰐や、泥にもぐっている.."|轟《ラ 》げ..と いう小鱗がいる。  ほとんど哺乳類のいないこのニューギニアは、ただ毒虫 と爬虫だけの世界だ。やがて、|独木舟《プラウ 》を芋蔓でつないで、 いよいよハチロウを負い、、≡|巳轟《ニニンゴオ》o..の湿地へとむかった。  そのあいだの密林行。繁茂に覆われた陽の目をみない土 は、ずぶずぶと沢地のようにもぐる。羊歯は樹木となり巨 蘭は棘をだし、蔦や、毒々しい肥葉や小蛇ほどの巻髪が、 からみ合い密生を作っているのだ。その間に、人の頭ほど もある大昼顔が咲き鶴鵡や、|巨人《モルフオ》の蝶の目ざめるような鮮 色。そしてどこかに、極楽鳥のほのぽのとした声がする。 やがて、|百足《むかで》を追い毒蛇を避けながら、.、≡|邑黄《ニニンゴオ》o..の大湿 地へ出たのだった。  そこは、幅約半マイルほどの、おそろしい死の沼だ。水 面は、みるも厭らしいくらい黄色をした、鉱物質の|津《おり》が瘡 蓋のように覆い、じつは睡蓮はおろか一草だにもなく、お そらくこの泥では|擢《オ ル》も利くまいと思われる。そしてここが、 奥。ハプアの最終点になっているのだ。 「坊やは、ウンチがでないかね」 「また、オジチャン、|泥亀《すつぼん》をとるんだろう。だけど、坊や だってそうは出ないよ」  人糞を、このんで食う|泥亀《テラピン》をとっては、この数日問二人 は腹をみたしていた。しかし彼には、この沼をわたる方法 がない。こんなことたら、むしろ中央山脈中に、原始的な 生活をしている、|綾小黒人《ピグミ 》種の.、|三彗旨碧讐《マタナヴアツト》..の部落へゆ けばよかった。と、此処へきてはや一時間とならぬのに、 キューネの面は絶望に覆われてしまった。  すると、時々とおい対岸で、パタリパタリと音がする。 その、なんだか聴きようによっては人間の舌打ちのように 聴える音が、万物死に絶えた沼面をわたってくるのだ。と 同時にそれに交って、小鳥のさけぶキーッという声がする。 やがて、キューネがポンと手をうって、 「分った。ニューギニアの奥地には食肉植物の、 『うつぽ かずら』のひじょうに巨きなものがあるという話だったが ……。そうだ、一番それを使って、この沼をわたってやろ う」  やがて、ほそい藤蔓のさきに小鳥をつけて飛ばしている うちに、キーッという叫び声とともに、ぐっと手応えがし た。たしかに、 「うつぼかずら」の大瓶花が小鳥をくわえ えたにちがいない。とそれをキューネが力まかせに引くと、 一茎の撃縁一アール(百平方米)にもおよぶと云う、 「|大《ネベ》 うつぼかずら」がズルズルと|引《ンテス ギガス》きだされてくる。まもなく、 そうして出来た自然草の橋のうえを、二人が危なげに渡っ ていたのである。いよいよ、目指す、.、Zo|三《ノルド》-|目巴畏三《 マレクラ》口.、 「坊や、ここが当分、私たちのお宿になるんだよ」 「日本かね、オジチャン」 「いや、日本へゆく道になるのさ。坊やが、ここで幾つも 幾つもおネンネしていると、そのうちにお迎いの船がくる よ」  そして、キューネの気もハチロウの気も落着いた。みれ ば、果物も豊富、魚介も充分。ここから、時機がくるまで 伸々と過せると、キューネもほっとしたのであった。  しかし、そうして何事もなかったのもたった一日だけ… …。翌朝、果実を見つけに茂みのなかへ入ってゆくと、ふ いに、眼のまえに薄赤いものが現われた。 「あっ、何だ。サァ、坊や、はやくオンブしな」  前方でも、ザクザクと草を踏む音がする。やがて、ベゴ ニアの藪のなかへ鱒んだその生物を、キューネがぐいと引 きだしたのである。とたんに、彼はアッと叫び、思わず離 すまいと双手に力をこめた。それが、人間も人間、うら若 い娘だった。 「|勺口《パパ》で|巴《ラン》⑳口σq|一《ギ》、ああ、|勺《パパ》⑳b|巴口口《ランギ》oqご  とその娘が絶え入るような喘ぎをする。  |勺巷巴旨《パバランギ》oq一とは、サモア語の白人という意味。みれは、 熟れかかった桃のような肌の紅味、五体はタヒチ島土人と きそう彫刻的な均斉。思わず、キューネがほうっと捻った ように、まさに地上の肉珊瑚、サモア島の|少女《トウボ》だ。 「君、そう怯えなくたって、何もしやしないよ。だが、ど うして君一人がγこの|目巴夢巳《マレクラ》餌にいるんだね。サモアだ ろうP サモアの娘がどうして此処にいるの」  娘が、キューネに安心するまでには長時間かかった。も し愛らしいハチロウがこの白人のそばにいなければ、おそ らくこの娘は必死に逃走をはかったろう。間もなく、かの 女が此処へくるについてのかなしい物語をしはじめた。娘 は、名を"、Z|器山《ナエ ア》..という。 「私は、ながらくサモアの国王をやっている.。→|餌日器《タマセ》o.. の孫です。ところが、どういう訳でしょうか、ドイッ領事 が、タマセの王系を絶やそうとするのです。祖父のタマセ は、今から三十年ほどまえ伯林へ送られました。また、そ れから転々として亜弗利加ギニアの、おそろしい土地にも 送られたことがあります。  ですけど、どうしてタマセの王系がそんなに邪魔なんで しょう。父はいま、サモア|酒《カヴア》の中毒で廃人も同様。兄も、 父に見ならって盛んにサモア|酒《カヴア》をのんでいます。それも、 みんなドイッ領事の薦めることなんですわ。私も、幼な心 に見過せなくなりました。まだ去年といえば十一でしたけ ど、父と兄を諌めたことがあります。するとそれが、なに かドイッ領事に危険なものに見えたのでしょうか。私を、 こっそり捕まえて貿易船に拠りこみ、ここの岩礁のうえで、 ポンと放したのです」  この、天人ともに許さぬ白人の暴戻は、キューネをさえ 責めるように衝いてくる。まったく、ナエーアが暖り泣き ながらいうように、サモアヘ帰れば殺されるだろうし、と いって、此処に一生いるくらいなら死んだほうが増しだと いう。まして、この.、Zo|己《ノルド》-|竃巴《 マレ》①ぎ|言《クラ》..は、けっして安全 な地ではないのだ。 「私、まだここには一年しかいませんけど、時々、おそろ しい高潮が襲ってくるのです。その時は、木へのぽって、 ぶるぶる顧えていなければなりません。そしてその潮は、 ここの|果実《このみ》という|果実《このみ》をすっかり持っていってしまうので す。ねえ坊や、これから坊やとオジチャンとオネエチャン と三人で、どこか安楽な島へでもゆこうじゃないの」  そうして間もなく、この.。Z◎a-=|巴集《ノルド マレク》ロ|冨《ラ》..を三人が出 ていった。果実や|泥亀《スツポン》の乾肉をしこたまこしらえて、また、 |独木舟《プラウえ》にのり大洋中にでたのだ。しかし、今度は目的地も ない。ただ、絶海をめぐって、孤島をたずねよう。そして そこが食物の費富な|常春島《エリシウム》であれば…-も |太平洋漏水孔《ダブツクウ》の招き 「オジチャン、これで坊やたちは、日本ヘいくんだね」  ハチロウは、外洋へでると大悦びだったが、そんなこと を聴くと、キューネは鼻の奥がじいんと鰺みるような思い、 自分はドイツ、ナエーアはサモアヘ……。いずれも帰心矢 のごとしと云いながら、帰れない身だ。よくよく、おなじ 運命のものがめぐり合わせたもんだと、ますますこんなこ とから結ばれてゆく三人。  |独木舟《プラウ 》、いま南東貿易風圏内にある。この|雨桁附《アウト リツガ 》き|独木 舟《ド カヌヨ》にはひじょうた耐波性があって、むかしは、ハワイ、タ ヒチ島間六千キロを、定時にこの扁舟が突破していたとい われる。 「なんだか、|赤道《ピコ オウ ワケヤ》に近いようですわね」  とビスマルク諸島の北端を出てから三日目の午、ナエー アが、しばらく手をかざしながら水平線を見ていたが、そ ういった。 「どうして、分るね」 「ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪が ちかい証拠だというんです。じきに、|北《ホコ パ》の|星《ア》が見えるかも しれませんわ」             カンバぴ  それまでキューネは、ただ羅釧盤だけでこの舟を進めて いた。いま針路は真東にゆき、エリス諸島辺へむかってい る。それだのに、赤道ちかいとは何事であろう。事によっ たら、|皇后《カイぜリン》アフガスタ川の叢林中につないで置いたあいだ、    カン.バス なにか羅針盤が狂うような原因があったのではないか。そ こで、念のため|軽便天測具《カラバツシユ》を持ちだして、その夜、星を測 ってみたのだ。なるほど、セントウルスの二つの輝星の位 置がちがう。  かれは、軽便天測具を置くとナエー7の手をにぎった。 はじめて土人娘のカンの正しさを知ったのだ。 「私たちが、もしこの舟のうえに一生いるようになったら .:・」  ナニーアがある夜キューネにこんなことを云いだした。 星影をちりばめたまっ暗な水、頭上の|三角帆《ラテイしン モイル》は、はち切 れんばかりに風をはらんでいる。 「そうだねえ。僕らは、こんなようじゃ当分海上にいるだ ろうからね」  事実この三人は、見る島、ゆく島の人たちによって残酷 に追われていた。キューネのだれにも分るドイッ託りと、 戦争が終ったか終ったかと聴くような怪しい男には、どの 鳥民も|胡乱《うろん》の眼をむけずにはいない。銃を擬せられて、逃 げだすときの情なさ。まったく、この三人はかなしい漂泊 を続けていたのだ。  しかし、この扁舟のなかの二人の男女には、たがいに木 石でない以上、何事かなければならない。ナニーアは、十 二とはいえ早熟な南国ではもう大人であり結婚期である。 二人はだんだん、自然の慾求に打ち克てなくたってきたの である。 「私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。 あなたの、ズボンも|椋《ラヴア ラヴア》椙毛でつくれますわ。それに、珊瑚 礁の烏賊刺しは、サモア女の自慢ですもの」 「僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね」  キューネは、ふかく海気を吸ってナエーアを見まいとす る。しかしその眼は、もう間もなくくるだろう、甘酔に血 ばしっている。そこへ、かるい欠伸をして、ハチロウが眼 をさました。 「オジチャン、もう日本ヘ来たのかい」 「まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね」 「じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ち ゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね」  そんなことが、ますます二人を近附けてゆくのだ。する と翌朝、サゴ椰子がこんもりと茂った島に着いた。そこは、 誰もいない無人島であるが、植物は、野生のヴァラをはじ めすこぶる豊富だ。三人は、ホッと重荷を下したような気 になった。 「マア、なんて、いいところだろう」  ナエーアが、踊るような足取りで、水際を飛んであるい ている。珊瑚虫が、紺碧の海水のなかで百花の触手をひら いている。そのあいだを、三尺もあるようなナマコがのた くり、|半月魚《ハ フ ム ン》という、ながい鎌鰭のあるうつくしい魚がひ らひらと……。そして、森はまた花の撲廊をつらねている。 「僕はこの島を、|新日本島《ノイ ヤバン》ということにした。ハチロウの ために、そう呼んでやろうよ」  それから二人は、なかにハチロウを挾んで森のなかへ入 っていった。すると、野生のヴァニラの茂みのなかに埋も れて、いまはボロボロになっている十字架が一つある。あ あ、白人の墓だーと、キューネは、びっくりして駈けよ った。風雨にさらされてまっ黒になったその十字架には、 からくも次のような墓碑銘が読めるのだ。  lR・Kという女。一八八二年にこの島にて死す。夫 に死なれ生計の道も尽き、土人の妻となりしがため、名を 記さず。  墓碑には、簡単にそうあったのだ。しかし、みるみるキ ューネの面が暗くなってゆく。白人の女が暮しようもなく なって土人の妻となった……それを恥じて、死後も名を記 さない。それだのに、いま俺とナエーアはどうなってゆこ うとしているP  と急に、嫌悪の情がむらむらっと起ってきた。キューネ にも、やはりどこかにある白人の優越感が:…このたった 一度でナエーアの顔を、見るも厭なようになってしまった のだ。彼は、幾度も詰まりながら、ナエーアに嘘をついた。 「ナエーア、やはりここも不可ない島なんだ。疫病がある。 それで、ここの島には誰も住むものがないと云うんだ」 「あアあアせっかく見付けたのに、不可ないんでしょう か」  ナニーアはキューネの気持を知らず、がっかりして云っ た。そしてまた、独木舟の漂流がはじまったのだ。  キューネはそれ以来、見ちがえるような人間になった。 ハチロウには、以前とかわらぬ親しさを見せるが、ナエー アにはほとんど物をいわない。そして、水また水の絶海の 旅が続いた。  朝は、うすら青くすがすがしい海水が、昼には、ニスを 流したような毒々しい藍色になる。そして夕には、水平線 を焼く火焔の大噴射。そういう、まい日まい日繰りかえさ れる同じような風物に、だんだんキューネに募ってくるの はおそろしい虚無。すると、ちょうどその夜あたりから、 それまで吹いていた南東貿易風が弱まってきた。 「どうしたんですの。この頃は星も見ないんですね」  とハラハラしたようた声でナエーアがいう。 「見ても、見なくても同じことだからね。どうせ、どこへ 流れつこうが、末は分っているよ」  それから、数日間はくもって、暗黒の夜が続いた。風は 絶え、|三角帆《ラテイ ン セイル》もだらりと垂れている。海も空気もネット リとなって、湯気のようなガス、ねむったような挺り。キ ューネは、もうどうなろうが儘とばかりに、この四、五日 は方角もみない。  とある夜、風もないのに急に波だってきた。 「どうしたんでし太う。風もないのに、こんなに荒れてき ましたわ」  ナエーアは、帆を下してハチロウの上にかけた。  波は、低く窪みひろがり泡だって、押しよせてくる。し かし、空には突風もない。ただ水面には触れずとおく上空 をゆくのか、ごうっという腿風のような音がする。ところ が、空が白々となってきた暁がた近いころに、キューネが けたたましい叫び声をあげた。 「ああ、なんというところへ来たんだ。ナエ!ア、こりゃ 大変な渦だよ。ああ、|太平洋漏水孔《ダブツクウ》!」 「だから、だから、云わないこっちゃないんですわ」  ナエーアはただハチロウを抱きながら、オロオロ声でい うだけであったo  こうして三人は、ついに「太平洋漏水孔」ヘ引きこまれ た。海が雛だっておそろしい旋回をしながら、ぐるぐるな がい螺旋をえがいたのち、大漏斗の底へ落ちこむ。水は、 紫檀を溶かしたような色で二十度ほど傾むき、いま水平線 はとおく頭上にかかっている。その、はじめてみた濃藍の 水壁は、ごうごうと捻る渦心の障りよりも怖ろしい。  もうこれまでと、キューネはじっと観念した。いま、朝 焼けをうけ血紅のように染まっているこの魔海の光景は、 ただ熱気を思ってさえ焔の海のようだ。頭は荘っとなり動 悸ははやく、おそらくこの舟が渦心に落ちこむまでに、三 人は熱気のため死んでしまうだろう。しかしキューネは、 疾い呼吸を感じながらも、じっと渦をにらんでいる。  人間には、どうなっても最後まで生きようという意識が ある。それがこの時に、キューネを刺戟してきたのだ。 「どうだろう、この海はこんなことではたいのか。それは、 渦はもとより求心性のものだがー…きっとそれにつれ、う えの空気のうごきは遠心性を帯びるだろう。つまり、くる くる中心に巻きこむ渦の方向とは反対に、うえの湿熱空気 は外側へと巻いてゆく。だから、多分この湿熱帯は輪のよ うな形でぐるりに近いところだけを巻いているのではない か。きっと、そこを突きぬけて中心に近づけば、案外この 船は緩和圏へ出るのではないか。そうだ、この『太平洋漏 水孔《クウ》』には島があるということだが……」  |独木舟《プラウ 》は、その間しだいに速力を早めてゆく。傾き、飛 沫をあび、速さも約五十カイリくらいと思われる。  と、ここでキューネが狂ったのではなかろうか。いきな り帆綱をもってナエーアに躍りかかった。そして、ナエー アとハチロウを胴の間に縛りつけると、二人の鼻ヘ粉末の ようなものを詰めてゆく。それから、自分を今度は帆柱に 縛りつけ、やはりさっきの粉を鼻へ詰めこむのである。や がて、死の瀬を流れてゆく渦中の|独木舟《プラウ 》のなかで、三人は |微動《はしろ》ぎもしたくなった。 水面下の島  それでは、キューネは熱気のため気狂いになったのかP 早くも、湿熱環の禍いが頭へきたのかっ-・いや、それは一 人キューネだけではない。ナエーアも、ハチロウも異様な ことを喚きだしたのだ。 「渦が、逆廻りし出しましたわ。ああ、私たちはここを出 られるんですのね」  とナエーアの声にハチロウが続き、 「オジチャン、涼しくなってきたよ。もう、じきに日本へ いけるね」  しかし、渦は依然としておなじ方向へ巻いている。空気 は、湿潤高熱、湯気のようである。けれど二人は、この熱 気のために気が|可怪《おか》しくなったのではないのだ。  キューネが、この湿熱環に堪えるため、窮通の策をほど こした。それが、もしも成功すれば起死回生を得る。 「うまく往ってくれ。ただハチロウのため、俺はそう祈 る」  キューネが、しだいに朦瀧となる頭のなかで叫んでいた。 「おれは、この湿熱環をいかに凌ぐか、考えたのだ。しか しそれには、毒をもって毒を制すよりほかにない。この摂 氏四十五度もある大高温のなかにいれば、まずなにより先 に気が可怪しくなってくる。  しかしその前に、こっちから進んで人工の狂気をつくっ たら、どうだ。一時、この高温を感じないように気を可怪 しくさせ……そのまま湿熱環を過ぎて緩和圏に出たとき… :ハッと眼醒めるようにしたら……」  それが、いま三人が嗅いでいる.、Oo9ε.、の|粉《コホ》だ。これ は元来ハイチ島の禁制物、 .、|三耳包《ビプタデニ》8|冨《ア》b|臼轟《くレグリ》ユ|轟《ナ》..とい う合歓科の樹の種だ。土人は、そのくだいた粉を鼻孔に詰 めて吸う。すると、忽ちどろどろに酔いしれて、乱舞、狂 態百出のさまとなるのだ。いま、その、609|言《コホバ》..の妖しい 夢のなかで、|独木舟《プラウ 》は成否を賭け飛沫をあびながら走って いる。  それから、渦中をゆくことなん時間後のことだろう。ふ と、外界が朦瀧と見えてきたと思うと、頬にあたる熱気の 感じがちがう。オヤッ、と、キューネがふと横をむくと、 舟は、大岩礁に桁先をはさんで停っている。  島だーと彼は歓喜の声をあげた。|独木舟《プラウ 》はついに湿熱 環を突破し、緩和圏中の一島についたのである。 *  折竹は、そこまで話してふと口を休めた。そして、隣室 から手紙のようなものを持ってきて、 「これからは、キューネの手紙を見たほうがいいだろう。 簡単だが、僕の話よりも切々と胸をうつよ」  という。 * その島は、周囲八マイルもあるだろうか。ながらく外海 と絶縁していたため、ひじょうに珍らしい生物がいる。そ の一つが、 ..ω|嘗母《スフアルギス》σqω、.だ。鳴く亀である。亀が声を発す るとは伝説だけであろうがいま、 「|太平洋漏水孔《ダブツクウ》」のこの 島のなかには歴然とそれがいるのだ。そいつは、ガラバゴ ス島の大亀ほどの巨きさで、四、五百ポンドの巨体をゆす りながら愛らしい声で鳴く。私は、肉も食ったが、ひじょ うな美味だ。  ほかには|紅編幅《レづウルス ボレアリス》のひじょうに巨きなのがいるだけで、 生物は、ただその編幅と亀だけに過ぎない。そして、島の 中央は礁湖になっている。  だが|礁湖《ラグ ン》には、普通外海との聯絡孔が水面下にあるのが 通例だが、ここでは、それが最近塞がってしまったらしい。 そのため、澱んだ水が高温のため腐り、どろどろの海草や 腔腸動物の屍体が、なんとも云えぬ色で一面に覆うている のだ。  まさに、これこそ死の海の景である。そこへ、赤子の手 のような前世界の羊歯や、まるでサボテンみたいに見える 蘇鉄の類が群生し、そのあいだを、血のような蠣輻が飛び、 鳴き亀が這うといったら、まず地球前史の風物というより も化物の世界だろう。  こうして、地上に数百万年もとり残された島のなかへ、 私たちはポツリと置かれたのだ。今では、ここを出たいと か人里が恋しいとか、そんな事はなにも思わなくなってい るo  温度は、ここでもやはり高い。外辺のいわゆる湿熱環ほ どではないが、多分摂氏四十度ぐらいはあろう。そのため、 私たちはだんだん|痴愚《ばか》になってゆくようだ。  実際、今のところは死なないと云うだけだ。脳力、が暑 さのため減退してゆくと云うことは、なにより、お利口さ んのハチロウをみれば分る。今では、日本のことも何もい わなくなったし、第一、こう云っている私がそうではない か◎あれほど、自己批判の眼をむけて触れようともしなか ったナエーアと、いまは動物の雌雄のようになっている。  一切が、もう忘却の彼方にあるのだ。  ところで、此処へ来て私は不思議な人間になった。おそ らく私は、この地上における新生物かもしれない。という のは、いつも身体を倒して斜めに歩いているからだ。ちょ うど、水平とは四十五度の角度で、私は斜めにかたむきな がら歩いている。またそれが、この「太平洋漏水孔」の島 での普通の歩きかたなのだ。では、一体なぜだろうか。  それは、この「太平洋漏水孔」では水平というものが、 大漏斗の斜面しかないからだ。それに、いつもおなじ方向 からひじょうな強風が吹いている。そのため、全島の樹木 がなかば傾いて……その薙がれた角度が大漏斗の斜面と、 ちょうど直角をなしているのだ。だから、そのあいだへ直 立している私は、てっきり、なかば傾きながら歩いている としか思えない。まったく、錯覚とはいえ自然天地の法則 が、ここではものの見事に覆えされている。  これも、私がまったく|痴愚《ばか》になったためか、いや、決し てそうではないだろう。  海面は、黒くたかく頭上にそびえ、風と飛沫と鷺音で一 分の休息もない。そのなかで、私たちはだんだんに退化し て、いまに鳴き亀とおなじようになるだろう。  ところが、きょう夜にかけて大麗風がやってきた。その あと、朦気が吹き払われ清涼の気をおぽえると、今まで忘 れていたこと、感じなかったこと、また、私が是非しなけ ればならぬことが、まるで堰切った激流のように送しって くる。私は寸時でも、脳力を恢復したことを悦ばねばなら ない。  それは、私が|痴愚《ばか》になったという第一の証拠だが、ハチ ロウのことをすっかり忘れていたのだ。私とナニーアが、 この水面下の島で朽ちはててしまうのはよし。しかし、ハ チロウをここで鳴き亀同様の存在にするということは、ま ったく何としても忍びないことなのだ。  私は、今夜ハチロウを外海へ出そうというのだ。それに は、渡り鳥である鰹鳥を利用する。さらに`.99|冨《コホバ》..をハ チロウにもちいて泥々に酔わせて置く。そして、そのハチ ロウを入れた籠を鰹鳥にひかせる。おそらく、五羽の鰹鳥 はその籠をひいて、底をかすかに水面に触れながら、まっ しぐらに突っ切るだろうQ  愛は、ハチロウをきっと守るにちがいない。そして神も、 私の天使ハチロウに倖いするだろう。                水面下の島にて                      キューネ *  私は、読みおわってからも元奮がさめず、なんだか此処 も、斜めに倒れたがら歩いている感じがするという、 「|太 平洋漏水孔《タブツクウ》」のその島のような気がした。折竹は、にたに た笑いながら私のからだを支え、 「オイ、しっかりしろ」  と怒鳴った。私は、頭の霜がようやく霧れたように、 「そのハチロウという子は助かったわけだね。で、今は?」 「あいつかね。あいつは、時々いま重慶へ飛んでゆくよ。 そして、爆薬のはいったおそろしいウンコを置いてゆく。 まったく、ニューギニアといい『|太平洋漏水孔《ダブツクウ》』といい、 よく方々ヘウンコを置いてゆく奴さ」