颱風 小栗虫太郎 出航旗  1  内港は、めずらしくいちめんの|沙霧《へ ズ》だった。ところどこ ろ、紅い星のような摘頭燈が、またたくだけで海面はみえな い。ただ鹸気がき、岸壁をうつ波の、その方向から前方が海 とわかる。  御用船「那覇丸」の一等運転士|三枝《さえぐさ》甲次が、石畳をふみふ み岸燈のしたまできた。かれは、ロに手ラッパをして叫ぽう としたのを止め、もった角燈で信号をおくりはじめる。 「|轡《はしけ》たのむ」 「諾」 「帰船者、これにてなきや」 「まだ、船長、司厨夫の林あり」  南の、本土のはずれに近いこの港では、どこか、風にも|蒲 桃《ふともも》のかおりがする。那覇丸は、ある軍用貨物をつみ鱈腹の船 腹で、四時間後には中支某地へ発つ。  するとそのとき、霧をみだして暗いむこうから、一つの影 がばたばたと飛びついてきた。 「甲次、遇いたかった」  一瞬、三枝のからだはふり向いたなり、動かなかった。邊 しい、鹸風に焼けた四十男の眼も、あきれて1膵らいたま まである。 「あたし、今しがたやっと着いたの。発て、しまやしないか と思うから、懸命に駈けて……」  女は、匂いのいい呼吸で、ハッハッと喘いでいる。二十 四、五の、どこかくずれはあるが|感《フフフ》情の生々とした、さわれ ば焼けるような感じがする。 「ふうむ、だが千代、なにしに来た」 「遇いにきたの。ただ、遇いたくって、気が変になりそうで ・…。ねえ、この三月ばかりお出でがないでしょう」  三枝はだまって石畳を蹴っている。この志村千代は|青島《チンクオ》の ホールで病気していたのを、三枝が連れかえった女だ。長崎 でうまれ東京で堕ち、それから、新京、|青島《チンクォ》と流浪してはい るが、わりと千代には純情さがうしなわれていない。千代は、 仕送りよりも巌のような、三枝全部に惚れぬいている女だ。 「あたし、お手紙に出航の日が書いてあったでしょう。だか ら、福岡まで飛行機できて……」  しまった、と三枝は口のなかで眩いた。うっかり、出航時 を書いたのもこっちの手落ちなら、空路ということも全然考 えてはいなかった。嫌いではない。ただ三枝の気性として執 着が淡い。それに千代という、九州女の粘っこさには辞易す ることがある。 「此処まで、飛んでくるなんて、呆れたもんだぜ」 「なぜよ」 「ちょっと顔をみただけで別れにゃならん。その、わずか数 分をだな。飛行機でやってきて、五、六十円もつかう……」  しかし、時に男の叱責は切っかけにもなる。それを情痴の 海にひたっていただけに、千代はのがそうとはしなかったの である。 「ねえ、まだ三時間ばかり余裕があるんだから、話もあるし、 あたしの宿へこない」 「駄目だ。出船まえにもいろいろ用事がある。それを怠った となると、|誠《くび》の問題だぜ。|執拗《しつ》っこい、おい、はなさない か、此処にいる、酔いどれが眼をあいたらどうする気だ」  そこの、錆びた|汽罐《ボイヲ 》のかげに正体もない、一人の水夫体の 男が横たわっている。千代は、ちらっと|流晒《ながしめ》をくれたが、薦 ぎもしない。 「アア、久し振りなのに、なんて情がないんでしょう。たと え、この人が目を覚ましたって、何でもないわよ。宜敷くおや りって、手をこんな風に振って、きっと祝福してくれるわよ」 「莫迦。もしこれが、本船の水夫だったらそりゃ|五月蝿《うるさ》いこ とになるぞ」 「だけど、ただのこって、来たんじゃないもん」 「なんだ」 「あたし、赤ちゃんが出来たらしいのよ」  そういって千代は、額を男の胸にじっと押し当て、出来る なら、この瞬間が永遠にと祈るようであった。  が三枝は、とたんにぐっときた衝動のようなものを感じた らしい。不審だ。撃が、済めば入讐するしかねがね、子 供が欲しいとは口癖のような言葉だ。それが、瞬間にかわる 暗い影には、千代はうつむいていて気がつかなかった。  けれどまた、これが千代の偽りのようにも考えられる。じ ぶんに、時間をさかせようとする作りごとか。そう思うと、 緊ったあとの弛みのようなものに、まえの賦ぎがなくなって くる。 「有難う。|海員《マドロス》に、子供なんかは一生出来んと思っていたが .…:」 「そうお。可愛らしい子を、生みたいもんだと思うわ。あた し、女の子だったら、名まえが用意してあるわ。どう、クラ ラは。あたしが、まえに知っていた人だけど……」 「ふふ、愛称かね」 「その人、|聖女《サアント》って、|仇名《あだな》があったんだけど……」 「じゃ毛唐じゃないか。だが、|聖女《サアント》なんて、|紳名《あだな》は商売人に はいかん。だいいち、そんな名を聴いたら、里心つくぜ」  こんな、他愛のないことを云い交しているうちに、いつも なら、しだいに泡をたてて沸騰してくるものがあるはずだ。 二人は、|汽罐《ポイラ 》のかげに寄り添ってもたれた。 「その人、あたしが働いていたときの朋輩だったの。信心深 い、慾なしのほんとうにいい人だったわ。おまけにその人、 客と別れ際に|急《つつが》なきようにーなんて本心からお祈りするん だもの」  しかし千代の妊娠ということが、かれの胸のなかを|満干《みちひ》の ようにさしては消える。とおく、港の花街らしい太鼓の音 が、千代の腹でする動悸のように聴えてくる。やがて、三枝 は耐えきれなくなって、いった。 「おい、いまの妊娠というのは、ほんとうの事か?」 「ほんとうって口」  ちょっと、疑われたようなかなしそうな眼をして、千代 は、まえへ廻って|三枝《さえぐさ》を見つめはじめた。着物がばたばた帆 のように瞬くが、それも、まえとはちがい倒れそうにか弱く みえる。 「誰が、こんなことに作りごとを、いうもんですか。でも、 あんたが知りたいのは、どんなことなの。あたしの、あんた がいない間の品行……。それとも、嬉しくって、訊かずには いられなかったの」 「そうさ。そりゃ、子が出来りゃおれだって嬉しいよ」  しかしその声は、なにか抑えているように、苦渋に充ちて いた。千代は、それを聴くと、やさしい睨みをくれて、 「それ見なさい。じゃ、宿へきて、相談してくれたっていい でしょう」 「いかんよ、それは」まるで女から飛びすさるような顔で、 三枝はきつく頭をふった。 「さっきも、云ったとおりだが、絶対にいかんのだ」 「そうお」千代は、唇をとがらせて、ふと|外方《そつぽ》へ向いてしま った。 「あんたは、どんなに私が愛しているか、ちっとも知らな い。坊やが、出来たって、あんな風だもの」 「・::::」 「お金は、くるたぴ毎に、そりゃ貰うけど……。あたし、あ んたとの間、お妾さんの気でいるんじゃないわ」 「そうだ。おれだって、そうだよ」 「嘘、仰言い」向けたうつくしい眼には、涙の膜がこぽれそ うに揺れている。 「あんたの顔は、|陸《おか》へあがったときの、ほんの間みるばか り、あたし、そんなことじゃ、とうてい我慢ができなくなっ たの」 「それで、来たのか」 「そうよ、困ったでしょう。ちやアんと、お荷物って顔があ たしには読めるわ」  それで来たのかー。よしんば、妊娠したとて手紙で事足 りる。よもやと思っていたものの聴いて唖然とした。  別に、厭でもなし、可愛いい女だが…:,三枝には、ただ深 入りの出来ぬ、括淡さが邪魔している。それに情深いにも煮 こご               …、・ 凍ったような濃さが、時には、油をかけたあつものというよ うな感じもさせる。 (それで、来たのか)  なんど云っても、それは云い切れぬような驚きだった。  するとそのとき、千代の眼がなにものかに止り、|汽罐《みイヲ 》の、 横手にねている酔いどれ水夫のうえにしばらく漂っていたが ……。やがて、 「あっ」といきなり三枝に抱きついた。 「どうしたんだ」 「この人、此処に寝ている人、死んでるわよ」 「そうか、酔いが醒めりゃ、生きっかえる死人だろう」  三枝は、こんな矯態はこまるというように、肩へ手をあて て、ぐいと押しはなした。しかし、額は粟粒のような汗だ。 「なんでもないよ。犬でも、こんな港街のはふり向きもしな いよ」 「でも、あれ、血じゃなくって」  とたんに、溜めたような吐息を、ふうっと三枝が洩らし た。やはりその男は眠っているのではなかった。  五十くらいの、狡猜そうな狐面の男だが……、頭蓋が割 れ、白い骨のあいだから膜のようなものが覗いている。それ に角燈をむけるとぞろぞろっと船轟がにげる。 「ふうむ、雑られたか……」  なにか、前後に欲しいような意味を、三枝がいったとき岸 壁をあがる音がした。 「おい。ちょっときて、これを見ろ」  |短艇《カツク 》を、はこんできた水夫が顔を見い見い、差されたほう にちょっと眼をやると、 「こりゃ、|一等《チ 》さん、|司《フ》厨の林です」  それなり、声が杜絶え、屈みこんだままでいる。点鐘や、 排水の音が向うの世界のように、していてもすこしも耳へは 入らない。やがて水夫は頸筋をたたきながら、 「あっしもね、いつかこの野郎は殺られると思ってました よ。こんな、|吝《しわ》い奴ったら、二人とねえんだから……、ねえ、 |一等《チ 》さんは|御《フ》存知ですかね」 「知ってるとも、こいつは、|水夫長《ボ スン》の金主元だろうが」 「そうなんです。うちの|水夫長《ボ スン》ときたら|道楽《しごと》が荒いでしょ う。貸すなんて……じぶんのほうが借りてえくれえだから、 しぜん金主元はこの野郎がなりまさア、ところが、此奴とき たらどえれえもんで、女も、買わなきゃア酒ものまねえ。溜 めて、永生をして、また溜めるって……」いいかけて、水夫 はそばにいる千代に気が付き、にっと、意味ありげに笑っ て、ぴょこんとお辞儀をした。 「それに、因業のなんのってこんな野郎が、船乗りかと思う とげえっとなりまさア。利息は、水夫長と二人分でしょう。 それに、どんな……世帯もちの事情にだって、首をふるじや ねえ。あっしゃ、誰が殺ったかしらねえが、礼をいいたいで すよ」 「じゃ、嬉しいか」 「|一等《チ 》さん、お|神酒《フみき》があがります。どんなに、こいつのお陀 仏で助かるかもしれねえ。まったく、あっしばかりじゃな い、全船がそうですよ」  してみると、もしこの殺人が公けにされた場合、まず貸借 のことから那覇丸に眼がくる。そうなれば、当然公務中にも 拘らず出航がおくれる。いっそ、この屍体はしらぬことにし てと、三枝はそう決めたのであった。かれは、陶酔のうせた まっ蒼な千代をみて、 「じゃ、帰って、からだに気を付けてくれ」  といって、持ち金をそっくり握らせ、はじめて千代の体温 を近づけた。別れの、情のこもったこうした瞬間はまったく 海人三枝にはめずらしいことだった。  空がしらみ、|摘《マスト》の|出航旗《プル もピ ク 》が夜明けの風にふるえている。 そうして那覇丸は、林の屍体には素知らぬ顔で西へと船跡を ひきはじめたのである。 二 朝 焼 け  その数日後、船は旧黄河口の東二十カィリほどの海上を、 海岸線に沿い南へとはしっていた。ここは、わが海軍の封鎖 線内であるが、時として、武装ジャンクなどの出没をみるこ とがある。しかし那覇丸は、青島寄港のあとでこの最短線を、 予定もありゆかねばならなかったのである。  陸は、海州南にかけ敗残兵の巣で、空襲こそ、ないとはい え夜中襲撃の危険がある。  日が暮れると、窓には防水布がはられ減灯をし、|通風筒《ヴエンチレおク 》、 厨房の煙突なども蓋をされてしまう。|汽鍵《かま》は、良質の石炭を たき|船橋甲板《プのツジ デツキ》も、ただ操縦しうるだけの灯りしかのこされて いない。すなわち、巨船とはいえぬ五千噸のこの船も、闇へ 溶けこまなくてはならないのだ。 「くるかね」 「縁起でもない。本船ね、輸送船ですよ、船長」  三枝が、ジャイロ羅釧墜に見入りながらしきりと船長と話 している。船長の伊庭は、でっぷりとした身体に胡麻塩の顎 髭、いわゆる老|船長《スキツパ 》、頑固ものの一人だ。  かれは、剛毅沈着さがじぶんに譲らぬ三枝を、蘇仇とない 身内のように愛していた。判断のよい、すこしの街気もない ー、こうした際も、腕が鳴るなどという附け元気をいわな い、三枝には片腕以上の価値がある。 「逃げます。ジャンクの船脚ならば、確実に勝ちです。しか し、装備の|最大《フ ル》はどの程度のものでしょうか」 「知らんな。見聞はいっさいにない。むしろ、君の仮定をわ しが訊きたいくらいだよ」 「そうですね。魚雷は、多分簡易な|露出発射管架《キヤ エ ジ》がつくれる でしょう。ですが、圧搾空気の補給やかんじんの魚雷を、手 に入れることはまあ出来ますまい。さいしょから、海州当時 からの手持ちのものがあればとにかく……、あっても、かれ らの操作ならぴくつくのも無駄だ」 「砲は、四、五|吋《インチ》のものが充分載るだろうが」 「限度でしょう。射っても、附近には高速の艦艇がいますか らね。船足を、考えて遁げおわせられる範囲のものを、彼ら とて取り入れるにちがいありません。つまり闇黒を利用する 奇襲戦法、われわれ|非武装《シヴイル》の船を、漂いながら待つでしょ う」 「衝角かね、すると」 「ぐわんと|打衝《うちつ》けてやりますよ。十や、十|五鍵《ヶ プル》ならうまあく 船をまわして、まっ向からメリメリっとやってくれる」 「信頼する。しかし、マア願うることはないな㌧ヤi↓  船長は、その間ちょっと不安になってきた。魚雷発射架が、 そう簡易な装置で組み立てられることは、いまのいままで夢 想もされなかっただけ……ことに積荷は満腹の軍糧である。  辮けちかい。海は水煙にけむり、ときどき、鼠のような波 頭が舷側をのぞいては消える。ジャンクは高浪のとき、一種 類のない音響を発するものだが、それも、デリックの軋りの 泡だつ波音に、遮ぎられて近寄っても聴えぬだろう。  そのとき、舵輪にむかって黙々としていた舵手が、右舷の 闇のかなたをじっと見つめはじめたのである。 「あっ、ありゃ、なんでしょう」  みると、飛沫のなかを消えあるいは点いて、闇の海上を行 く微荘たる光があった。 「どこだ、君」  とおく、瞬いているのは雲間の星だろうか、しばらく、船 長も三枝も残像でなにもみえない。 「どこだ」 「ホラ、あすこの、見えるじゃありませんか」 「ふむ、本船と平行にやってくる」 「だが、本船の所在が判明するとは思われませんが。しばら く様子をみて、それからでも……」  船長の、顔がしだいに引き緊ってきた。ゆらゆら、|羅針盤 のうえの灯りが揺れているが、顔は、筋一つうごかない像の ようだ。               サイド9弓 「いや、いかん。こんなところで側 幻をともすようなら、 普通《カムパスなみ》の船じゃないぞ。とにかく、急場の措置をあやまらんよ うにせんと」  こうした場合、積荷の保全のためには、あらゆるものが賭 される。そのために訓練はあるがやはり乗員は人でありさい しょの経験のことだ。そこに、一抹の危うさがひそんでい る。けれど糞度胸ととっさの切れ味では、船長、三枝ともに 打って付けてのものがあるのだ。  やがて、ふたりの手で応急の策がとられようとする。それ も、三枝にとれば、さいしょの経験であるのが:…。 (やれるかな? 死ぬのはなんでもないが、積荷には責任が ある。どうすれば、いい……。どうせ、一発喰えば混乱だろ う……)  三枝には、いまにも自分の命がなくなるかもしれぬと云う ことよりも、一発向うで、やってくれぬ以上どうすればいい のか、とっさには目算がつかなかった。 (爆音……、問題はそれからなんだが……)  と、ざわざわ身うちが落ち着かず浮いているような気がし て、さて、あの灯りはとみるが依然としてはなれない。 (そうだ、きっと今までも、闇から闇へ去った、魚雷ぐらい はあったかも知れない)  しかし、三枝は、悠然と|革帯《ペルト》をゆすりあげ、この室を出よ うとした。と、そのとき、船長がかるい叫び声をたてた。 「君、なんだか灯りを振っているようだぜ」  気がつくと、モールスの手燈信号らしい。 「ああW……」  と、順繰りに明滅をひろってゆくと、それが、貴船の幸あ る航海をいのるーと読まれる。そして終りに、浜風、矢風 級の一つである駆逐艦の名があらわれた。 (ああよかった、日本駆逐艦だったか……)  と、双方のロから、ホッとしたような呼吸が洩れた。  三枝は、信号燈を取りだして半身をのり出し、右舷の海上 を目がけ、受諾、感謝1と振りはじめた。しかしその信号 は、続いて、反復、応答をもとむーとあらわれてくる。 「なんだ。本船に何事をいってくるんだ?」  間もなく、船長も三枝も気まずそうな表情で、顔を見あい 一言もない。信号には舷窓に、一個所灯洩れあり、よろしく 注意1とあったのだ。 「どこだ、誰の責任かしらんが、不届ききわまる」  今夜は、完全な管制下にーという誇りを、踏みにじられ た三枝はそうとう語気が荒かった。が、どうしたことか、船 長の顔を困惑の色が覆うてゆく。 「行って……。とにかくこれは糺明の必要があります」 「待ちたまえ」  なぜか、船長にはためらうような色がある。が、その気配 を感知できぬほど、三枝は憤激に燃えていた。 (たった一つの灯だ。しかし、その微光がもたらすかもしれ ぬ結果は……)  ー機関の破裂。|支水隔壁《バルクヘツト》に、身を投げかけての必死の浸 水防止。それも、貨物とともに浮きあがってくるだろう。が、 より以上、客船の場合はこの世の地獄である。  1四層の甲板は、ただひしめく真黒な線だ。顔、顔、赤 児を差しあげる女、船員の怒号。やがて|救命艇《ポ ト》は、|起重機《クレ ン》の 拍手で人間をばら撒くだろう。  1それから、船首をさきに、真縦に突き刺る。  その後は、コルクをぶち撒いたような、屍体と船具の破片 だ。 (なんて、やつだ)  三枝の胸は、そういう幻とともに、さかんに怒鳴ってい た。本船が、なん分で沈むかというそんな場合を、考えさせ られただけでもむうっと胸がつかえる。それが、最悪の場合 にたとえ到らぬにせよ、明らかにこれは日本海員の汚辱だ。 同時に、一綜みだれぬという鉄の統率にも、無惨な朱点が入 れられたわけだ。  そこへ、船長が一、二歩あるきながら、三枝になだめるよ 一りな士円'でいった。 「とにかく、わしが行ってみる。許せんことだから、厳重に 糺明してやる」  が問もなく、船長は|船橋《プリツジ》にもどってきた。 「錨鎖庫の、うえで喫っていた萸の火なんだ、よく、訓戒し たから、名は訊かんでやってくれ」  それには、半面にある温顔をみたような気もしたけれど、 一歩誤れば藻屑となるかもしれぬこうした場合の、措置とし てほひじょうに手緩く思われた。するとそれから一時間ばか り経った後にまた灯りがあらわれた。 「やってますぜ、船長」 「ふうむ、また振ってるな。なんだ、左舷八点に針路を変ぜ よーか」  こりゃ、附近になに事かある。直感と、ざわざわとなる予 感の入りまじるなかで、船長は|伝声管《ヴォイス チユ プ》を口にあてた。 「バルブ全開!」  しかし、そうしている間に異様なことがおこったのであ る。舵輪を、にぎりしめて転舵をあせる舵手と、三枝とが声 高にいい争いはじめた。 「なぜだ、三枝君はなんで止めるのだ」  船長は、狂ったような三枝を榴然とながめながら、やっと これだけを云った。 「危険です。わしは、左舷八点への転舵は、危険だから止め る。本船は、ただまっしぐらにあの灯りに向えばいい」 「なにをいうんだ、君」  舵手は、これまでなん年かのあいだこれほど驚いた、船長 を一度もみたことはなかった。 「あれは、艦名こそわからないが、風クラスの駆逐艦だ。い わば、本船にたいする至妙の|水先案内《パイロツト》だ」 「だが、今度はちがうと思うんです」  三枝は、そういっている間ももどかしそうに、眼は焦燥に 血ばしっている。一刻を争う、そのおそろしい気魂が飛びか かってくる声となった● 「信頼してください。永年、船長と一体だったわしですが」  とたんに、船長も舵手も口を抑えられたように、三枝から ほとばしる異常な力に圧せられてしまった。奇矯に過ぎる。 またもしやの場合は、衝突を覚悟しなければならぬ。と思っ ても、船長にはとめる力がない。  問もなく、船体の震動がはげしくなってきた。那覇丸は全 殻のリベットをふり飛ばすような勢いで、波は|船首楼甲《フオツクスル》板を 越え|短艇甲板《ボ ト  イアツキ》に飛沫をあげる。目標は日本駆逐艦である一点 の燈火。三枝は……祖国の艦艇に衝角を試みようとするのだ ろうか。  とやがて、甲板でも狂喚がはじまった。当番部は、意外な 転舵と前方の灯にがやがやさけびながら不安そうに船橋をみ ている。 「あぶない。船長、もう四、五|鍵《ケ プル》ですぞ」  すると灯が消えた。闇は、災禍への瞬前をつなぐ息ぐるし さ。と、|横梁《ピ ム》をへし折るようなすさまじい衝撃が、ちょうど 右舷の炭庫のあたりでおこった。そしてそれは、二、三度ゴ ツゴツとはげしく衝きながら、消えたあとはばら撒いたよう な破片だ。  接触だ。動揺というよりも拠りだされんばかりの、傾斜 と、激突する船具の音。船は、その方向を追うて、旋回をは じめた。すると、ぽつぽつ舷側からあがる声がおなじことを 伝えてくる。 「ジャンクだ。ジ十ンクが滅茶滅茶になっているぞ」  してみると、あの|灯火《あかり》は風クラスの駆逐艦ではなく、やは り支那の武装ジャンクだったのである。もし、あのとき、左 舷八点への転舵が実現したとしたら、もう一隻の、あるいは 魚雷をもち機砲をそなえたジャンクが、闇のなかで接近を待 ちかまえていたかもしれない。そして危うい、この一線を三 枝が救ったのである。 「どうして、わかったロ どうして、これが分ったか、奇蹟 のような気がする」  船長は、うるんだ眼でじっと三枝をみながら、手にとびつ くようにして握りしめた。  船は、まだ旋回をつづけている。鵬風にちかい高浪のなか で、ときどき、|舷《ふなべり》をたたいてそっと消える手首がある。そ して、屍体も、この浪では収容することができない。 「カンです。別に、お褒めをいただくような、そんなものじ ゃありません。ただわしは、浅智慧というものがどんなに怖 ろしいか、かれ等に報せてやろうと思ったのです」  三枝は、気のせいかどんよりとした顔だ。それも、敵なが らじぶんが衝殺した屍体をみての感傷ではないらしい。口を ---------------------[End of Page 47]--------------------- 喋んで、いまかれが紛らわせてしまったところの、なぜ予知 ができたかというそれも問われたときに、かれを覆う暗影が はじまったのである。  そのときボーイが、一通の受信紙を手に|船《プリ》橋|甲板《ツジ》へあがっ てきた。 「ホウ、鵬風の駄々っ子め、進路をかえたな」  読むと、船長は三枝にわたしたが、鵬風が、進路をかえ上 海方面をおそうという、那覇からの警報だったのである。こ れまでは、那覇丸がゆく後方を過ぎるはずだったが、間もな く、上海ちかい海上で出逢うことになる。 「五月蝿いことになった。狼が、消えりゃ虎がでるか……」 「じゃ、一時連雲港に避難しましょう。本船が、もうすこし 若けりゃ、自信もでますがね」  老齢の、那覇丸に当然の措置をいっても、船長は不承気に 黙している。このまま進めば、前途にあるのは大難航であ る。それにも拘らず、船長には決しきれぬ色があるのだ。  朝焼けが、水平線を焦がして噴射のようにはじまった。そ のまえに、気味わるい静寂をたたえたような、一筋の暗碧の 帯がある。すべてが、くずれようとする徴侯の威嚇が、天地 をおそろしく覆うてきた。 三 神 の 手 それから三時間後、空には紅味に染んだ、 鳥のような雲が 飛んでいる。風は南東々の熱湿風となり、ひゅうと、声をあ げては砂塵のような、飛沫を甲板にたたき付けてくる。 「船長、K・Y・Kの松山丸がありますぜ。本船みたいな、 老船には自然分解の危険があります。かえしましょう。一時 本船は、連雲港に避難すべきです」 「理想は、そうだ」  ちょっと、船長が意味ありげな云いかたをした。食堂では、 食事もできぬような動揺のなかで、三枝がまっ赤になって力 んでいる。 「なるほど、本船の積荷には、前線の将士たちが待っていま す。だが、もしもの場合があれば、ことごとく失うでしょ う」 「そりゃ、分る」  船長は、しずかに反駁した。 「だが、この麗風はそう大したものじゃない。君は、積荷の 性質をかんがえて大事をとるが、こんな、七百三、四十くら いのもので自然分解をするなら、とうに、本船は魚柵になっ ておるよ。わしは飽くまで、乗っ切れると思うが……」 「自重しましょう」  三枝が、いった声は突風で聴えなかった、からだが凧のよ うにふわりと持ちあがったかと思うと、瞬後にはまっ蒼な波 浪の底へ落ちこんでゆく。しかし、三枝はしだいに激してき た。 「だが船長、陸にも、河童の世界にも摂理がありますぜ。危 険を、乗っきったあとの気持はわかりますが、じぷん一個の、 感情の満足だけには避くべきだと思います」  三枝の、自重説は積荷の性質にあり、これがもし、他の貨 物ならば敢然とすすむだろう。船長は、三枝がいうのに頷き はするが、頸をふらず焦らせるばかりだった● 「船長、あなたはかずかずの危険を海難とまではしなかった II得難い、最上の指揮者だった。それが……いまは、どう したもんです口」  すると、船長はこれまでというような、決意とともにじっ と|三枝《さえぐさ》をみ、 「三枝君、君がなにより上海へゆかにゃならんのだ」 「なに、わしがですかロ」 「そうだ。じつは、君のところへ令状が来ておる。なんのた めか……なにを君がしたか……問うまでもなかろう」 「来ましたか」  三枝は、ぶつりとそう云ったきり、顔色も変えない。なん だか、胸のつかえを吐きだしてしまった後の、あの爽々しさ が漂っている。 「それが、青島をでると間もなく来たのだbわしは無電技手 にかたく口止めして、さて、どうしたらいいかと案じてばか りいたよ。君が、なぜ林を殺したか、察せられんこともない が……」 「………」 「とにかく、まあ、これを見てくれ」  と、上着の内ポケットから取りだしたものを、鐵を伸ばし ながら三枝にわたした。それに、出港地××警察から、|青島《チンクオ》 軍憲にあてた次のようなものだった。  極東汽船会社所属「那覇丸」一等運転士三枝甲次は八月二 十九日の夜、××港岸壁に於いて林専次郎を殺害せり、兇器 は、なにか金属性の鈍器らしく、林の、後頭部を数撃したる 結果、死にいたらしめたるものなり。それには、鵜飼七三郎 という仲仕の目撃者があり、兇器は、附近海底を捜査したれ どもなし。よって、該犯行を三枝がおこないたることは、充 分思惟されるをもって逮捕を依頼するものなり。 「ちがいありません。いかにもわしが殺ったですが」  悪怯れもせず、三枝はきっぱりと認めた。ただ心には、も し千代の妊娠が真だった場合、うまれる子に投ぜられる暗影 を思うとたまらなかった。そこへ、船長のいたわるような声 がした。 「そりゃ、林はああいう男だから、いつか、誰かに殺られる のは極まりきった話だ。だが、それが君になろうとは、わし も夢にも思えなかったよ。とにかく、なにもかもわしが到ら なかったからだ」 「なんでです?」 「例の、林がやる前貸金だがね。ああいう、不正事が慣習と なっている、海運界にあきたらなかったのも事実だ。しかし、 そう思うならなぜ儂が、百尺竿頭をすすめて口火を切らなか ったのだろう。君が、水夫の窮状にこらえ切れず、義憤を、 爆発させるまえに、なぜわしが.:.:」  声が、と切れた。船長は、顔にはださないが、あきらかに 泣いている。 「逡巡だ、正義への、突進力がなかったのだ。それに戦時と いう遠慮もあったのだが、もう、後悔謄をかむも遅しだ。わ しさえ、度胸をきめて革清にのりだしたならなア。まったく、 三枝君、済まんことをした」 「莫迦な、船長はなにをいうのです」 「いや、そうだ。君は社会の嵐を、ひねり潰したに過ぎん。 そしてそのために、本船の下級員がどれほど助かるかわから んのだ。わしは、そう考えると、いた溜らなくなってくる。 ここで、君には酬いねばならんと、考えたのだ」 「   」 「じつはね、あの晩、君とお千代さんが立ち話しているの を、ものの蔭からそっと聴いていたのだ。立ちぎきを、した ことは甚だ済まんと思うが、結局は、したのがたいへん良い ことになった。君、三枝君には子供が出来るそうだね」  とたんに、三枝はサッと不快の色をうかぺた。いま心の霧 りはそれだけなのに、それを、船長に扶りだされることは、 彼としてじつに溜らなかったのである。 「事実か、事実でないか、分るこっちゃありません」 「いや、お千代さんに、わしは聴いたがね」 「なに、千代にですか?」 「そうだ。君の、短艇がとおく見えなくなっても、あの人は 岸壁にいたよ。そのとき、わしは一伽始終を聴いたのだ。す ると、わしにも考えが潭んできた・…:」 「なんです」 「それは、君を捕縛させないということだ。悪くいやア、隠 匿だな」 「しかし」と、三枝は屹っとなって云った。 「累を、船長はじめなん|人《ぴと》にも及ぽしたかアありません。む ろん、感謝しますが、止めてもらいたいです」 「遅いよ。いま本船全部が、そのためにも動こうとしてい る。君は、上海へいって潜入をするんだ」 「:…::」 「青島や、連雲港にはそんな余地はない。ところが、上海は 化物のような市だし、わしにも、潜ってはたらいているのに、 知人はあるしな。君は、お千代さんと一緒に、表面からかく れる」 「千代ロ」と、しばらくは杜惑ったようだったが、 「じゃ、千代も上海へいったのですか」 「いや、本船にずうっと乗っているんだ」  それには、さすがの三枝もあっと驚いて、しばらくものも 云えずじっと船長を見つめている。動揺に左右の足を互いち がいに蹟む、かれは機械人形のようだった。 「そうだろう。あの人も、君とおなじ|睨《ね》められてるにちがい ない。とすれば、本船にかくさぬ以上、だれが上海へゆける。 ねえ、ゆうべは洩れ灯があったじゃないか。それが、|船尾楼 甲板《プ プデツト》から水槽へゆくところの、梯子のかげをあの人の居場に したからなんだ。せっかくの好意だ、逆らわんでくれ」  すると、三枝の表情がひじょうに冷たいものになってき た。むしろ、それは憤りのほうに近かった。 「では、船長、こうなるじゃありませんか。わし一人のため に、全員が荒けの海をゆくことになりますね」 「そうだ。誰あって、異存をいうものはないのだよ。君のた めに-…・軍糧を一刻もはやく届けるために……あのとおりの 猛烈な張り切りかただ」  みると、船具を縛っているのもポムプにいるのも、ときど き気遣わしげに|船橋《プすツゥ》のほうをみている、おそらく、此処で拒 んだら全員がきてもと思うと、友情の、男だけにある犠牲の うつくしさに、思わずボロボロっとこぽれてくる。 「みんなの、気持には泣けるんですがねえ、船長」 「じゃ、素直に、いうことを聴いてくれたまえ」 「しかし、わしには潜入を許さん事情があるのです」  三枝は、膝をかため拳をかたくして、いった。 「じつは、この航海がおわれば自首しようと思っていたので す。それは、林を殺したのはああした理由よりも、かれが、 許せぬスパィ行為をはたらいていたからです」 「ふむ」 「このまえの、航海のとき上海でもそうでしたが、陸へいっ た、乗員にする手灯信号のときにですね、どうも、気のせい か|閃光《フヲツシユ》の間が変なのです。むろん、表面の信号にはなに事も ありません。しかし、明滅のなかの滅にですね。早いとき、 瞬間のとき、ひじょうに遅いときー。考えると、もしもそ の間の闇が測れれば、かくれた通信ではないかと思えるでし ょう。  たいへんな奴でした。ようよう、奴がやる手灯信号の滅の ほうを、測ってみたとき|樗《ぎよ》っとしたのでしたよ。それは、閃 光は陸地の乗員へ、闇の長さは、ある国の公館へ向けられて いたのです」 「そうか、そんなことがあったか」きゅうに、船長も慌ては じめたのだった。 「ありましたよ。その後も、数回にわたってありました。つ まり、祖国もなにも金のためには見えなくなってしまう、あ の男の性格でしょうかな。今度も、ゆうべのあの信号ですが。 表面は、なるほど左舷八点へ転舵とありました。ところが、 そのアルハペットの合間合間にですよ。もし、闇をはかれる 眼があれば、こう読まれるはずです。船尾、あるいは機関部 へ雷撃のはず、君は、船首にいて衝撃を避けよーと。奴ら は、まだ本船に林がいると思ったのでしょう」 「うむ、それでか。わしは、まるで奇蹟のように考えていたが」 「ところが」三枝はぐびっと唾をのんで、 「どんなに、林を訴えたいにも証拠がないのです。あいつに、 首をふられれば、それまでの話だ。しかし、人がきめた法の 将以外でも、そこには神の手があります」  声が杜絶えた。しかし、船長はやがて涙の手で、三枝のそ れを双づかみにして云った。 「わかった。君は、連雲港でいっさいを公表してくれ。この 祖国の危機に神をみたと、君をそうさせた力に人はいうだろ う」  間もなく、那覇丸はぐうっと旋回し、北へと針路をかえ、 波浪を載りはじめたのである。