新宝島綺譚 小栗虫太郎 見知らぬ知人  一代の分限者、南洋燐礪の社長角田七五郎。その、東京本 邸それは広大なもの。樹木欝蒼として森林のごとく、そのあ いだを縫う渓流はあり、池は奇巌怪石をあしらい、深潭のご とくもの凄い。  その、菱に覆われたまっ蒼た池のほとりに、いま七五郎が うつらうつらと居眠っている。でっぶり肥った赫ら顔のこの 老人を、誰がみようが六十とは思うまい。とそこヘ、苔をふ んで女中の一人が、 「マア、旦那さま、ここにお出でで御座いましたの」 「ああ、美代か」 「さっきから、旦那さまをお探ししておりましたんですよ」 「ホゥ、では、奥さんのお呼びか」 「いいえ」 「お嬢さんかね」 「いいえ、お嬢さまなら、お出かけで御座います。じつは、 あのうお客さまなので……」 「お客ロ」と、ちょっと七五郎は脇に落ちぬ顔で、 「だがお前、きょうは面会日じゃなし、誰もくるわけはない だろう。紹介のないものなら、森が追っ払うだろうし……」 「それが旦那さま、はじめは森さんがお断りしておりました んですが、なんでも以前旦那さまがアンガウル島にお出での ころ、そのお方がお知り合いだったとか申しまして……」 「なに、南洋のアンガゥルでロ」と、七五郎の表情がだんだ んに硬くたってゆく。  アンガウルロ はて、アンガウルで知り合いになったと は、何者だろうか。  俺がアンガウルにいたのは、二十年もまえ。旧独領だった あの島を日本海軍が占拠した、前大戦中の数年間であったが ……。はて、そのアンガゥルでとは何者だろうと……しばし |模索《ムロさく》ってはいたが、見当がつかない。  アンガウル島は、わが南洋諸島中の最西端にある。全島、 燐磯石に覆われた低平な珊瑚礁。そこが、七五郎の富の発足 点であったのだ。けれども、巨富を一代になしたものには往 々に無理がある。きまって、一つや二つは暗い影があるもの だ。  支那、南洋と渡りあるいた彼には……思えば、それ相応の ドギついた過去もあり、時にはギクッとなるような想い出も 少たくない。 「たしかに、お前、アンガウルと云ったね」と駄目を押すよ うに、じっと美代をみると、 「ハア」 「日本人かね」 「いいえ」 「じゃ、土人P……でもたいと云うと、支那人か」 「ええ、どうも|支那《あちら》の方らしゅう御座います。ちょっと、凄 味のある四十恰好の男で……」 「ふうむ、支那人」と、七五郎は岬くように、咳いた。怪支 那人llといえば小説めくけれど、事実彼にも何者かわから なかったのである。 (誰だろう以前アンガウルで知りあった、支那人とは?)  と、事細かに考えてみたが、記憶がない。しかし、アンガ ウルと……七五郎は不安そうに眩く。では一体、そのアンガ ゥル島に何事があったのかロ 何か触れられてはならぬもの が、その島にあるのか。秘密、かれの過去によこたわる暗い 秘密の影ロ  いま、傲岸な彼にも似ない慌てかたを見れば、まったく、 そんな臆測までが本当ではないかとさえ、思われてくる。 二 未踏の宝庫 応接間へゆくと、はたして支那人ではあるが、見覚えがな い。 彼は、誰だ、誰だ、と眩きながら程しばらくの間、その男 の顔を模索っていたのであるが……、やがて、そのわずかな 沈黙にも堪えられなくなり、 「はて、君は|誰方《どなた》でしたろう」 「私P 私は唐子明と申しますが」 「聴かんですなア。で、わしとは何処で遇いました? さっ き、あんたはアンガゥルだといわれたね」  しばらく、その男は答えようともしない。しかも、冷笑の ようなものが、スウッと涯ぴあがってくる。 「アンガウルロ では、お言葉どおりアンガウルにして置き ましょう、しかしです。たがいに、どこで逢ったかなどと云 うことは、まったく無駄た話で……」 「   」 「じつは、これまで|貴方《あなた》には、一度もお目に掛ってはおりま せん」  それは、七五郎をてんで呑んで損った、態度だ。動かない 仮面のようなその男の顔は、うす気味悪いほどまったくの無 表情である。  争っても、無駄。勝ちは最後には、俺にあるーという威 喝。じつに満々たる、ふしぎな自信が濃っている。 (くそっ、儂ほどの人間が、どうしたと云うことだ。)  と、われと吾身を叱り、吃っとなろうとしても、七五郎に はどうにもたらないのだった。この白面、のっぺらとした、 異様な気味わるさ。 (怪支那人P)  彼には、煽情小説のようなそんな言葉しか、活びもせず、 考えられもしなかった。しかし、そうしている間の窒るよう な息苦しさ。かれは堪えられず、ポンと葉巻を捨て、 「サア、用があるなら、サッサといい給え。金が欲しいと か、して欲しいことがあるとか……。わしも、事情によって は、うんと云おうが…・:」  その語気の強さは、怒憤とおなじもの。 「いいか。サッサと云い、サッサと片附ける。良いは、良い ・…・・悪いは、悪い。諾は、諾。否は、否と……」 「ちょっと」と、その支那人が白々とわらい、 「あなたは、私にいま幾ら欲しいと仰言った。だが、角田さ ん、あなたと云う方がですよ。たとえば飢謹や洪水が中国に あっても、金をお出しになる方か?」 「   」 「ありますか。あなたにそう云うような、殊勝なお心掛けが :::」  まさに、主客顛倒というかたちだった。だしぬけに、やっ て来て冷笑を浴せかける。おまけに、どうやら金が欲しいの でもないらしい。と思うと、いよいよこの男が底知れなくな り、七五郎も焦りはじめて来たのである。 「とにかく、用があるなら、サッサといい給え。たがいに、 腹をさぐるようた真似は、止めようじゃないか」 「捜ると申しますと」  男は、焦すような素振りで、なかなか用件を切りださぬ。 「なんだか、私とあなたが敵意を持ち合っているような…・ どうもそんなようにしか思われませんな。が、とにかく、吾 吾はけっして、敵ではないのです。あなたが利すれば、私も 利する。私が損すればあなたも損をする。と云うわけを、ど れ……」  と、男の態度が俄然改まったのである。 「角田さん、あなたはアンガウルにいる、野村老人を御存知 でしょう」 「野村P」  ちょっと、七五郎の咽喉が窒ったような声。しかし、その 動揺も一瞬の間に加さまって、 「あれは、知っとるどころではない、わしの旧友だ。たがい に、アンガゥル当時は、助け合ったものじゃった。ところ が、あの男には妙な夢がある。コルブの、燐礪|礁群《リ フ》をぜひ手 に入れたいという……あの男にはどえらい望みがあったの だ。そんなもんで、永年のあいだ、あの島におる。二十何年 間もはかない望みを抱きながら、あの島におるとは、えらい 執念じゃ」  その、コルブの燐磧礁群とは……。  まず、その価値がいかに莫大なものかと云うことを、世界 一の燐艦島、ナゥル島と比較してみよう。南太平洋、わずか 赤道から一度くらい入ったところに、いまは英領になってい る、この島がある。じつに此処は、世界の燐肥料を二百年間 供給できるという、まったく、文字どおりの宝島であるが ……、それとて、コルブの礁群に比べれば、物の数ではな い。  ナゥル島は、じつにわが日本にとれば千載の恨事であっ た。前大戦のとき、日英の守備区域を赤道をもって限界と し、ために、あったらの宝庫を英にうばわれた。まりたく、 経済眼からみれば数百の島屑よりも、この孤島一つのほう が、はるかた利益、まさに、世界無比の宝島、南洋のダイヤ である。  それを、狡智極まりなき英に乗ぜられ、止むなく瞑らねば たらたかった二十年まえの眼を、いまや国民こぞって叫ぷ南 進の声とともに、ふたたびこの無比の宝島ナゥルに注がれね ばならない。というナゥル島でさえも物の数ではないとい う、コルブの礁群はそれは素晴らしいものである。  全礁群をうずめる、おびただしい海鳥。|信天翁《あほうどり》、|海鴎《かもめ》、|海 燕《つぱめ》などの数百万羽の糞が、珊瑚礁と化合して、燐硬石灰にな る。それが、綜合面積ナゥル島の数倍の、この礁群をいちめ んに覆うているのだが、惜しいかた、そこへは行かれない。 全礁.群をとりまくおぴただしい暗礁のため、そこだけ、濃藍 の海が緑色に泡だっている。  |帆走《カイ》独|木《プ》舟も駄目、むろん汽艇は駄目。それを、なんとか 帆走独木舟を改造して水路をさぐろうと、じつに二十年間虎 視たんたんと野村老人がここを狙っていたのである。しか し、遂に……と云うのは、何事があったのかP とうとう、 野村老人が宿望を遂げ、|一昨年《おととし》のこと、 コルブに入りこん だ。 その、三 帰路の時の災禍さえなければ: 老人の秘密水路図 :● 「その、せっかくの帰り路にですが、老人がえらい|負傷《けが》をし た。それは、旧友だけにあなたも御存知でしょう」  と、いいながら白々とみる。唐の眼には七五郎も不快にな り、 「だいたい、君という男が何者かということを聴いて……、 話はそれからにしようじゃないか」 「ハハハハハ、私はアンガウル島の一洗濯屋に過ぎません。 しかし角田さん、いまあの老人がどうなっているか……貴方 はさぞや御存知でしょう」 「知らん。あの男とは、暫く音信がない」 「云いましたね」と、唐がぐいと睨めつけた。 「あの老人の現状を、あなたが知らないとは、云わせない。 誰よりも一番よく……。また、現にいまあなたの手先が、あ の老人の家へ入りこんで、秘密水路図をさぐっている」 「えっ、なんじゃ。儂が他人の家に、人を忍びこませる……ロ」  陽が窮って、木立の多い邸内が、|黄昏《たそ》がれたように暗くな った。それは主客の眼光をいっそう鋭くさせ、対立の無気味 さをくっきりと泥びあがらせる。唐は、まるで畳みこむよう に、いい続ける。 「ねえ、あの老人はたいへんな負傷をした。水路をさぐって コルプヘ入りこんだが、その帰り途に暗礁にぶつかった。し かし、助かったが、えらい|不具者《かたわ》だ。なんでも、脊髄のどこ かをガンとやったそうだ……。助けられた時はロが利けず: …、だんだん萎えてゆくように、全身が利かなくなってゆく。 しかし、まだ手なんかが利くうちにですよ。どうも、老人が 水路図を作ったらしい。あの、宝島へ入りこめる唯一の水路 を、そっと老人が描き置いたらしいと云うのです」 「ホゥ、初耳だよ」 「するとです。近ごろ、老人の家にひそかに忍びこむ者が、 あらわれた。その水路図さえ手に入れば、巨億の富。どこ に、それが隠されてあるか、家中をさぐらせるーマァ、そ んな事をさせるのはあなた以外にないでしょう」 「では、儂が糸をひいてロ」 「そうです。私は、その|曲者《くせもの》を操っているのが、あなただと 思う。冷酷、強欲の見本みたいな貴方なら、たとえ旧友だろ うが、平気でやるだろう」 「ふむ」と、しばらく七五郎は、じっと相手を見ていたが、 「では、それを君は、売りにきたのだね。根も葉もないこと だ、|強《ゆす》請りにきたのだな」 「マア、云わば、そんなところでしょう」と、唐は平然とい うo 「私が、要求するわずかな金が惜しいか。それとも、アンガ ウルはおろかこの内地へまで、パッと立つような噂が恐い か。ここが、思案のしどころと云う……ねえ」  しかし七五郎は、なんと云われても一文の金もやらず、唐 を追い帰してしまったのである。で、唐が帰るとすぐ待って いたように、久世という秘密探偵を呼びだした。  久世次郎1これは、齢はわかいが、ひじょうな敏腕家。 不義不正には依頼者さえ遣っ付けるという….-あまりこんな 商売にはないような、気骨さえもある。 「そんな訳で、根も葉もない噂を云い触らされては、困る。 で、一番あんたがあの島へ行ってだな。その野村の家へくる と云う、怪しいやつを突き止めてもらいたい」  というのが、七五郎の頼み。久世は、すぐ承知したが、次 のように訊ねた。 「参りましょう。しかし、伺いたいのは、コルブ島の価値で す」 「コルブはな。だいたい、東経二一一八度、北緯三度半あたり にある。つまり、わがアンガウル島をふくむパラゥ諸島と、 ニューギニアのちょうど中間あたりになる。で、そこへは、 今も云った通り絶対にゆけん。ぐるりが、万狼牙をむくと云 ったような、もの凄い暗礁群。そこへ、もしも水路を見付か ったら、そりゃ大したもんじゃと云うことが、永いあいだの 覗いになっとった」 「それを、野村老人が見付けたわけですね」 「マア、あの|支那人《ちやんころ》がそう云いおるのだろ。で、そのコルプ の燐礪だがね」と、さすが七五郎でさえも上気したようにな って、 「さいしょは、コルブの近海で、海鳥を射たものがある。 と、その爪についている燐礪が、えらい良質のもんだ。こり ゃ、素晴らしいと云うので飛行機をやってみたが、あいにく コルプには着陸場がない。といって、海からゆくには命がけ と云うんで、永いあいだ拠っとかれたもんじゃった。  で、コルブの燐磧はナウル島以上。マア、あんな良質のも のは、他にはないじゃろう。面積も、ナゥル島の、四、五倍 はあるし……、|噸《トン》あたりの乾燥費は五、六円にみても、年に 千万くらいの利益は受け合いというところだ」 「では、コルブは宝島じゃないですか」 「そうだとも……。野村がアンガゥルを去らずに、ねらい続 けたのも無理はない。もし成功すれば、巨億の富が手にはい る。あの、コルプの暗礁群とのもの凄い闘いが、かれこれ野 村には二十年間も続いていた。そして、とうとう成功して水 路を見付けたが、惜しいかな、帰路に負傷をした。思えば、 野村も可哀想な男だて」  新宝島1と、久世は夢みるようた中で、咳いた。そし て、それを狙い狙い一生の運を賭け、やっと成功したかと思 えば再起不能の身になった、野村には同情せずにはいられな い。しかし、その野村が描いたとかいう貴重な水路を、手に 入れようとするのは、何者であろう。  と思うと、まずかれの頭へ涯びあがってくるのが、いま目 のまえにいる、依頼者の七五郎。  此奴ではないか。旧友の血の結晶を濡れ手でつかもうと云 う……まずこの男ならやり兼ねないであろう。しかも、それ が唐によって観破されそうになったため、わざわざ自分をや って噂を消そうというのではないか。  してみると、それは自分などには到底見破れないほどの、 巧みな仕組であるにちがいない。そうだ、七五郎には充分な 自信がある。それで、自分を送ったとなれば噂は消えるだろ うし……、と、まず久世はそんなように考えた。しかし、考 えればまた、唐も怪しい。とにかく、アンガゥルヘ行ってみ ないことには……。  その数日後、久世は洋上の人となっていた。  母島のあたりから、海水の色が青紫色に澄んでゆく。サイ パン、トラック、ヤップ、パラオ、やがて久世はアンガゥル の土を踏んだのだ。ところが、そこにかれの待っていたのは 予期以上も以上……おそらく、どんな探偵小説にも決してあ るまいと云うほどの奇々怪々たる事件だったのだ。 四 風のような侵入者  埠頭には野村老人の姪のマヤが待っていた。彼が、アンガ ウルゆきの意味を|予《あらかじ》め通じて置いたので、この清楚な娘が 桟橋のうえに立っていたのだ。  アンガゥルは、島のぐるりを断崖がめぐっている。南海ら しい椰子樹はその糎にあるだけで、島の内部は欝蒼たる密林 だ。|朱檀《アラス》、|鉄木《ドルト》、|黒柿《ノツトリ ル》などの大樹が枝をさしかわし、巨き な、風蘭の花の鮮紅の点綴。マンゴ1|洋燈《コロボ 》はみのり、風は涼 しく、まったく久世が悦とりとなるような島である。  しかし、それにもまして、美しいのはマヤ。若い身空をこ の孤島へきて、伯父の看護に一身を捧げている。その、心の ようにひじょうに浄らかな……まず、一点の汚れもない、清 潔さが眼をうってくる。  かの女は、|南洋蜜柑《コロゴル》のみのる並木の蔭をゆきながら、久世 に一伍始終を語ってゆく。 「さいしょが、先々月の十日の晩のことでした。眠っており ますとオイ起きろと小声に起すものがあります。まっ暗でし た。私が、頗えあがって泥棒かなと思ったときその声の主が なんといったとお思いになりますロ  どこだ、老人が描いた秘密水路図の隠し場所はーって」 「ふむ」 「あたくし、たんの事か一向に分りません。秘密水路図っ て、なんの事です?1と、訊きますと、また恐い声で、白 ばっくれるた、爺さんが描いた地図みたいなものがあるだろ う。それが、どこに隠してあるか、云えと云うのです。だか ら、あたくし、こんたように云ってやりました」 「……」 「まだ、伯父の手足が利くうちならともかく、その後にやっ てきた私に、なにが分りましょう。と、云ってやったら成程 と頷いて、その人間がそれなり帰ってしまいました」 「じゃ、なにかその声に、特徴といったようなものが……」 「それが、御座いませんのです。かすれたような……妙に含 みがあるような……まったく、男か女か、それさえ決められ ません。で私二度目に来たあとで、じっと考えてみました。 扉も……調べましたし窓もみました。でも、どこも鍵がおり ていて、こじ開けたような跡は御座いません。すると、記な じ合鍵をもつ家のなかの者ではーと、自然そうなるじゃ御 座いませんの」 「そうでしょうなア、で、お宅の召使というと……」 「モクモク土人の下男夫婦と、十年ばかりいるカナカ土人の 従僕です。でも、こんなところの土人は、なんでもないと思 います」 「なるほど」 「すると、続いて今度は、|傑《ぞ》っとするようたことが起ったの です。じつは、そのまえに職人を連れてきまして、扉の錠前 装置を新式のものにてししまったのです。ところが、その夜 よもやと思っていたのに……、あれが、またも現われるんで す」 「えっ、本当ですか、それは?」 「嘘を、だれが申しましょうP 密閉した部屋ですわ。今度 こそ、合鍵が役に立たないと安心しておりましたのに・:・ 悪魔か、風か知りませんが、ぬうっと入ってきたのです」 「じゃ、仕掛があるんでしょう。どこかに、こっそり明かる 秘密の通路といったような……」 「それが、御座いませんの。あたくし、部屋中を納得するま で調べました。しかし、壁にも床にもなんの異状も御座いま せん。するとその人間はどこから入ってこられるのでしょ う」  ここで、久世は大変なものに|打衝《ぶつか》ってしまったのである。  密室である。扉には特殊錠が下り、ぐるりは、隙間一つな い箱のような部屋に……人間が、入り込めるかというのは、 いかなる方法によるのだろう。更にその、魔か風のような人 物が何人かとなるとさすがに久世でさえも途方に暮れてしま うのだ。 五 唖少年の奇行  しかし、かれは怯げずに、訊いてゆく。 「ときに、この島の洗濯屋の、唐子明を御存知ですか」 「ええ、あまり良い噂のない男ですわ。なんでも、南京の大 学を中途まで行ったそうですし……、頭はいいらしいのです が、素行がよくはありません。でも、あの男をどうして、御 存知"」  そのとき、野村老人の家のまえにきた。旧ドイッ、アンガ ゥル燐礪会杜の役員住宅だっただけに、間取りもよく、小じ んまりと整頓している。そこで、久世ははしめて、野村老人 をみたのだ。  生ける|屍《しかばね》1というのは、この老人のこと。いまは、手 足もうごかず口も利けず、ただ、見、聴くだけの、屍のよう な存在だ。これが、コルブの暗礁群ともの凄い闘いを、二十 年もし続けた開拓の勇者か。と、いま車椅子のなかにいるこ の老人をみるにつけ、久世の瞼がいつの間にか濡れてくるの だ。  まったく、こんな哀れな老人から秘密水路図を奪おうとい う、闇のその人物はなんというやつだろう。鬼畜といおう か、人非人とい加うか。と、義憤に燃えたつが、さて事件は となると、さすがの久世にも手の附けようもない。  部屋は調べたが、たんの仕掛もなく、どうしてその人物が 風のように潜りこむのか、彼にはいかにしても分らたい。  それから宿のことを、マヤに話すと、 「それなら、伊丹屋という、埠頭どおりのほうがいいと思い ますわ。正直もので、評判のいい男です」と、大工兼宿屋の その家を教えてくれたのである。  伊丹屋の夫婦は、この島の草分で、評判の律義もの。子供 は、十七、八の伜で、参造という唖ひとり。と、この参造に ついて、ふしぎな事が起ったのである。それは、島へきてか ら五日目あたりの頃。マヤが、久世を訪ねると、参造がい た。|験雨《スコ ル》の飛沫避けをしきりに繕っている。 「可哀想に……」とマヤは参造をしげしげと眺めながら、 「兵隊にもゆかれないし、人に馬鹿にされる。でも、この人 は、相当な腕なんですって……。なにか、お茶菓子でもやっ て、休ませたら、どうですの」 「そう、じゃ休ませて、話してみましょうか」 「話すって、この人、唖なんですわよ」 「いやね、僕は唖手真似ができるんです」と久世がからから と笑うのである。 「商売上、なんでも知ってなきゃア、なりません。あのう、 君」と久世が参造に呼びかけた。そうして暫く、ジャンケン のような事をやっているうちに、 「ねえ」と、マヤを笑いながらふり向いて、 「これから、参造君にこう訊いてみますがね、君は、野村さ んのマヤさんが、好きかどうかーって」 「マア、そんなこと、|不可《いげ》ませんわ」と、真赤になったマヤ が止めるのも聴かず、久世が面白そうにはじめたのである。 すると、参造の様子が変ってきた。  たんだか、元奮したように、ううんと捻りはじめた。久世 は久世で、落着かたくなり、 「こりゃ、変だ。どうも、こっちの云うのが通じないらし い」 「きっと、あなたがお下手なんですわよ」と、マヤの言葉も てんで耳に入らぬかのように、久世もこれには荘んやりとし てしまい、 「こりゃ、どうも自信が持てなくなってきた。こっちが、い ま云ったように訊くと、別な答えをする。1野村さんは、 去年裳父あんと一緒に家ん中を直しにいったーと」  と、その時、参造がまた捻りはじめたのである。今度は、 まえよりも一層もの凄く、なにか、云いたいが云い表わし得 たいような、苦悶と焦だたしさが混りあったような声で。 「どうしたんでしょう。この人、こんなに⊥几奮して」と、マ ヤがいったとき参造は立ちあがり、壁の額の絵を、手荒く打 ちはじめたのである。それも、なかの絵ではなく、額縁を打 っている。やがて、参造が去ってしまうと、緊張した顔にな り、 「いま、僕らに参造がなにお告げようとしたのか、マヤさん はお分りになって」  と、久世がふるえる手でさし示したところのものは.:・:、 額の四隅にある、人面の|彫物《ほりもの》。それが、ああなんと唐子明に そっくりだ。マヤは、思わずアッと息をのんだのである。 六 夢魔の正体  唐子明1  それに、唖の参造はなにか報せようと云うのだろう。この 事件の最初から怪支那人の唐には、久世もそれ相応に考えて いたのであるが……。そこで、彼の眼がきゅうに唐にそそが れた。  唐の身辺を、執勘に見張りはじめたのである。 と、ときどき唐は夜更けて、外へでる。野村家のぐるりを 一、二回廻ると、別にどうするでもなく、スゥッと家へ帰っ てしまう。それは、野村家を騒がす怪人をさぐる意味か、そ れとも、背後にいる久世を意識して、かれを嘲弄する行為で あるか。  とにかく、こんな具合なので少しの進展もなく、久世もよ うやく疲れてきたのだ。 「どう、少しはお分りになった」  と、マヤに云われると、つらい顔をして、 「少々どころか、カラ駄目ですよ。第一、あの密閉した部屋 へ、どうして入れるのか。それさえ、僕には分らないでい る。唐は唐で、尻尾を掴ませないし…-」  騒雨がきた。|孟宗竹《ボソポ 》の林が音たかく鳴っている。いま、卓 上にある南洋の珍菓、|酸桃《アイデル》も、|甘柿《シヤプシヤブ》もレモンも、いずれ《ムクジユ ム》|は 彼に苦い記憶にたるのか。  久世は、もうまったく元気がない。 「ただ、あなたという方に、知りあっただけが、獲物です。 いずれ近いうちに東京へ帰ります」 「お帰りになったら」  とマヤは悲しそうな色をあらわして、 「あたくしと、伯父はどうなることでしょう。警察なんど は、てんで当にはならないし……、あの恐いやつが、暴れ放 題と思うと」  という、マヤの言葉には、言外の意味がある。わずかた問 ではあるが二人のあいだに、芽ばえはじめたものを、刈って しまいたくはない。  たがいに、打ち明けはしないが、こういう|一刻《ひととき》が、いまは 二人には嬉しいものになっているのだ。  マヤは、騒雨がおわると窓をあけ、涼しい夜気のなかへ、 そっと吐息をした。新月が、いま西の海にかかっている。波 に、キラキラ刻まれるその光りのむこうに、いま恋しい男が 永遠に去ろうとする……。  その数日後、ついに久世は、アンガゥルを去っていった。 じつに彼にとれば、はじめての敗北、南海の夢鬼に、|適《かな》わず して去ったのである。  その夜、野村家の裏手に、ぼうっと黒い影があらわれた。 巨きな腕ほどもある胡瓜のかげから、家の灯をじっと見つめ ている。  そして、かれこれ一時間ばかりの後、その影が裏口に立っ たのである。  間もたく、そこの扉から吸い込まれるように、内部へ消え た。鍵をおろした扉を、魔術師のように、その男は、スイス イと明けてゆく。  やがて、廊下へ出、問題の部屋のまえ6  ところが、ここに不思議なことが起ったのである。  今度は、その怪人物がどう碗こうと、その部屋の扉が微動 もしないのである。  それまで、マヤがどんなに苦心しても、その人物のため、 他愛もなく明けられた扉が……。  焦った。  さすがの怪人にも、焦りがみえたところへ、 「オィ」  と、背後からするどい声。 「ウェッ」  と、のけぞるところへ懐中電燈の灯が、怪人の顔を晃々と 照しだしたのだ。 「伊丹屋、悪いことは出来ないもんだねえ」  その声の主は今朝去ったと思われた、意外や、探偵の久 世、怪人白日下にでれば律義ものの伊丹屋は、意気地なく、 ヘタヘタと坐ってしまったのだ。 「ねえ君、せっかくこんな仕掛を作っても、伜に云われち ゃ、駄目だぜ」  久世が、|嫌《すか》すように云いだした。 「この扉は、上の鴨居ごと明かる仕掛になっている。だか ら、どんなに扉だけを厳重にしても、君なら明かってしま う。ねえ、鍵なんかは問題じゃない」 「申し訳ござんせん」 「それを、いつぞや君の伜が、僕に教えてくれたのだ。壁の 額縁をガンガン叩いて、なかの扉ではなく鴨居が問題だとい う意味を、僕に利けない口で教えてくれたんだ。それに、去 年お父つあんと一緒に、野村さんへ仕事に行ったーとも、 あの正直者が僕に云ってくれたぜ」 「そのとき、じつを云いますと、この仕掛けを作りましたん で」  とペコペコ伊丹屋が、禿げかかった頭をさげる。 「なにしろ、角田の大将に嚇されますんで」 「えっ、角田ロ」  と、久世はハッと息をひく。 「じつは、あの大将には借金がござんして……。それを、ど うしても返すことが出来ず、悪いとは知りながら、云うこと を聴きました。どうか、伜に|愛《め》でて、御勘弁たすって」  角田、やはり角田七五郎だったのか。旧友の血の結晶を、 空手で掴もうという。  貧鬼というか、欲魔といおうか……ときっと久世は憎しみ の眼を馳せたのだ。          ×  翌朝、久世とマヤが感慨ぶかげな顔で、じっと押し黙った まま、濃藍の海をながめている。  珊瑚轟がひらく、水中の大花園。しかし二人の胸を去来す るのはどんな事だろう。  二人のこれからの、楽しい生活。また、秘密水路図の|在所《ありか》 を知るために野村老人を、東京の医者にみせたら、望みがあ るかも知れぬこと。  そうして最後に、角田七五郎に対する天訣的告訴。と、南 海の魔夢が消えた、朝の悦びが……。