司馬氏の静養 小栗虫太郎  非常時局の寵児、司馬十平太もようやく疲れてきた。軍事 評論家、西にバィウォーター東に司馬といわれ、ことに大陸 への経編国策には多大の寄与するところのあったかれもやは り生身であった。筆をとれば、すぐに疲れがきて全身が癩い。 心悸冗進はなんのと思うものの嗜眠癖には弱った。 「休んで、一月ばかり温泉へでもいらっしゃい。それ以外、 あなたの療法はありません」  いいながら、主治医は書架に眼をはせている。この二年 間、一月あたり一冊強の著述量。そのほか雑誌へも同量の寄 稿がある。これでは、気魂を火とし鉄の肉体をほこる司馬に も、少し無理というものだ。 「とにかく、観念して暫くお休みになっていただくんです ね。それを、薬をのみのみ仕事とおっしやっては、いまに、 僕の手におえなく焦りますよ」 「では、手におえないとなると、どんなことになりますか ね」  ちょっと、司馬も気になって訊いた。 「つまり、精神科へ入院ということですな。当然、僕のよう な内科医には駄目ですから……」 「じゃ、どうでしょう。いま、お薦めになった静養ですが、 ここで一つ、戦地へでも出かけるというやつは……」 「いけません。刺戟は、食物にかぎらず、あらゆるものを避 けて頂きたいのです」  司馬も、とうとうやって来たなと、観念した。これまでも、 過労神経衰弱となる当然のコースを、じぶんながら、いつ来 るか来るかと案じながら辿っていたのを知っている。  それだけ、司馬はあきらめが早かった。仕事も、未練なし にきっぱりとうち切り、訪客も、原稿に関するものは残らず ことわった。そうして、しずかな、高声のない日が、司馬の 家に一日ずつ重んでいったのである。 「先生が、おっしやった温泉へは、何時いらっしゃいます の」  ときどき、徳子が遠慮がちな眼で、夫へ温泉ゆきを促がす のだった。貧乏講師の時代には内職に追われ、こうしていま、 時流に悼さして流行児となれば、日々の接客に寧日なしの有 様である。十五年l。子供のない、わびしさと夫の無頓 着、括淡と、清貧と書籍の山。いい加減、徳子は婆むさくな っていたが……。  そこへ……この夫へ与えられた休日は同時に自分に与えら れた休日とさえ思っている。  その数日後、徳子は夫とともに山峡の宿にいた。ちいさな 幸福とはいえ、なんという素晴らしさだろう。わすれた処女 時代の夢がよみがえってきたように、彼女は夫との初旅に陶 酔した。 「まったく、今までこうだと、どんなに助かったかしれま七 んわ。みんな、あなたの無精で私が喧われるんですから… …」  妻の膝に、頭をのせて剃匁が軟く顔の上をすべってゆく。 若やいで、いま鞍したての革のように艶々となった妻に、司 馬はこそばゆいばかりだ。こうしてこの旅が、徳子をまる.で 見直してしまったように、司馬も「垢面堂」の爺むささを洗 いおとした。  髭は、月に二回も剃れば上々であったし、客がいても庭先 で垂れる。そういう、号の「垢面堂」そっくりの司馬が、こ こへくるとなんたる変りかたロ 万事が、小ざっぱりと別人 のようになったのである。 「あした、梁山閣から御本がでますわね。だけど、再版をし」 りにくるのに、ここを知ってましょうか」 「知らんだろう。一々教えていちゃ静養にならんからね」  司馬夫妻は、まったく此処のところ消息を絶っている。司 馬は静養を完全なものにしようとしたのだ。するとその夜、 二人が近隣の盆踊りをみている最中、東京の、防空演習第二一 夜のまっ暗ななかで、司馬に関するふしぎな事件がおこった のである。 二  桜田本郷町の交番へ小使風の男が駈けこんできて、 「実に、なんです。今しがた、ここへ照明弾が投下されたで しょう。その明りで、一時にパアッとなった時ですが。した の、貸ビルの床にこんな工合で……人間が……」 「床に倒れているなら、酔っぱらいだろう」 「いいえ、ところがそのビルが空室なんですよ。ずいぶん、 ながいあいだ裁判中とかで、やっと二、三日まえ囲いがとれ たんです」 「そうか。じゃ、いってみるかね」  やがて、二人は裏口から、まっ暗な貸ビルのなかへ入って 行った。 「君、動いちゃいかん。そこに、なんだか転がってるらし い」  と、さぐり当てたスイッチを捻って明るい電灯のひかり が、部屋いっぱいにさっと拡がったとき……。 「誰もいない」  と眩いた巡査とはちがう方向をみた、小使体の男がわっと 叫んだ。 「私が、蹉いたのがこれでしたよ。仏様だ。ナムアミダブ、 ナムア、・、ダブ」  キチンと片附けられている部屋のまん中に、上着を着な い、四十がらみの男がまっ蒼な顔で倒れている。呼吸もなく、 脈も完全に絶えている。 「脈はむい、だが、まだ大分温かいがね」と云いながらどう したことか、巡査がしきりと首をひねっている。やがて、 「時に、君、妙なことを訊くがね。君は、いま|流行《はやり》の『南進 論』を読んだかね」 「読みました。例の、司馬十平太のでしょう。となると、・ …どうもこりゃ司馬に?」  まもなく、その本の写真とひき比べられた。また、西銀座 にある梁山閣のオヤジがよばれ……いよいよこの屍体が司馬 十平太ということになった。してみると、これが司馬とすれ ば山峡の宿にいま夫人といるのは何者だろうかロ  すると、隣室をしらべてからまた旧へもどると、巡査がわ っと声をあげた。 「アッ、屍体、屍体がむい……。こりゃ、どうしたというこ とだ。ああ、屍体が消えてしまった」  カタリとも物音がなく、しかもそのあいだに、屍体が消え 失せている。ここで、司馬十平太の死が他殺ということにな ったのである。たしかに、かれの屍体を運び去ったものがあ る。           × 「旦那、あっしゃあ瞳孔を調べられるかと思ってびくびくし ましたよ。その思いだけでもこれじゃ安いや。ねえ、旦那の 儲けは十万桁は下らんでしょう。突如、不慮の死をとげられ し司馬先生の絶筆、ああ防共筆陣の先駆、スパイの手に舞る ーなんて、今朝の広告でやらかしてるじゃありませんか。 もう、ちょっとんところ弾んでおくんなさいよ」  その翌夜、梁山閣のなかー。一人の、司馬そっくりの男 がさかんに駄々をこねている。  この男は、以前ヴァラエティにでていた、心動どめの達人 である。日本の某氏、また以前パリーのルナ・パークにいた ルドヴィックという芸人、いずれも、心動を四十五秒をとめ ていられる、一種の化物である。  それを種に、初版十万即日売切れを梁山閣が狙ったのだが :::o  その計画は見事図に当ったらしい。           ×  何んにも知らぬ司馬十平太が永い間の静養から帰って来る と、彼が思いがけなく生きていた事が分って、ワッとばかり に又一大センセーシ、ンがまき起された。梁山閣では彼の本 を何度再版してもすぐ売切れ、司馬十平太の懐へも思わぬ金 が転げ込んで来た。 「あなた。あんまりあくせくなさらないで、時々静養なすっ た方がお金が入りますわね。もう一生何もお書きにならなく ても暮せる程お金が入りましたから、今度はもっとのんびり と、どっか遠くへ出かけましょうよ」  と、徳子夫人はしみじみ嬉しそうに夫に眩いた。 「そうだね、それもいいが、ひとつ田舎へ別荘でも建てるか ね」 彼は新聞を読みながらやさしく妻に答えた。  その新聞には、例の屍体紛失の不思議な他殺事件がいよい よ迷宮に入った事が報ぜられていた。