潜航艇「鷹の城」 小栗虫太郎 第一編 海底の惨劇       一、海i武人の墓  それは、|夜暁《よあけ》までに幾ばくもない頃であった。  すでに雨は止み、波頭も低まって、その轟きがいくぷん|衰《おとろ》えたように思われたが、闇はその頃 になるどひとしおの濃さを加えた。  その深さは、ものの|形体運動《かたちうごき》のいっさいを|呑《の》み尽してしまって、その頃には、海から押し上が ってくる、平原のような霧があるのだけれど、その流れにも、さだかな色とてなく、なにものを も映そうとはしない。  ただ、その中をかい間ぐって、ときおり妙に|冷《ひい》やりとした  まるで|咽喉《のど》でも痛めそうな、苦 ほろい|鹸気《しおけ》が飛んでくるので、その方向から前方を海と感ずるのみであった。  しかし、足もとの草原は、闇の中でほう|荘《ぼう》と押し拡がっていて、やがては灰色をした砂丘とな り、またその砂丘が、岩草の|蔓《はびこ》っているあたりから険しく海に切り折れていて、その岩の壁は、 烈しく照りつけられるせいか褐色に|錆《キフ》びついているのだ。  しかし、そういった細景が、肉の眼にてんで映ろう道理はないのであるが、またそうかといっ て闇を見つめていても、妙に夜という|漆闇《しつあん》の感じがないのである。というのは、そのおり天頂を 振りあおぐと、色も形もない、透きとおった|片雲《ひらぐも》のようなものが見出されるであろう。  その光りは、夢の世界に濠っているそれに似て、色の槻せた、なんともいえぬ不思議な色合い であるが、はじめは天頂に落ちて、星を二つ三つ消したかと思うと、その|輪形《わがた》は、いつか澄んだ |碧《あお》みを加えて、やがては黄道を覆い、極から極に、天球を|涯《はて》しなく拡がってゆくのだ。  いまや、岬の一角ははっきりと闇から引き裂かれ、光りが徐4に変りつつあった。  それまでは、重力のみをしんしんと感じ、境界も水平線もなかったこの世界にも、ようやく停 滞が破られて、あの蒼白い薄明が、霧の流れを異様に息づかせはじめた。すると、|黎明《れいめい》はその頃 から脈づきはじめて、地景の上を、もやもやした微風がゆるぎだすと、窪地の霧は高くkり、《のぽ》|さ まざまな形に棚引きはじめるのだ。そして、その揺動の間に、チラホラ見え隠れして、底深い、 淵のような|鋤《くろ》ずみが現われ出るのである。  その、巨大な竜骨のような影が、豆州の南端ー|印南岬《いなみさき》なのであった。  ところがそのおり、岬のはずれ-II砂丘がまさに尽きなんとしているあたりで、ほの暗い影絵 のようなものが|轟《うごめ》いていた。  それは、明けきらない薄明のなかで、妖《あや》しい夢幻のように見えた。ときとして、幾筋かの霧に 隔てられると、その塊がこまごま切りさかれて、その片々が、またいちいち妖怪めいた|異形《いぎよう》なも のに見えたりして、まこと、幻のなかの幻とでもいいたげな奇怪さであった。  けれども、その不思議な|単色画《モノクロ ム》は疑いもない人影であって、数えたところ十人余りの一団だっ た。  そして、いまや潜航艇「|鷹《ハレフヒノ》の|城《フルフ》」の艇畢ーi故テオバルト・フォン・エッセン男の追憶が、 その犬人ウルリーケの口から述べられようとしている。  しかし、与、の情景からは、なんともいえぬ悲哀な感銘が眼を打ってくるのだった。海も丘も、 極北の夏の夜を思わせるような、どんよりした蒼鉛一味に染め出されていて、その一団のみが黒 くくっきりと浮び上がり、いずれも引き緊った、悲痛な顔をして押し黙っていた。  そのおり、海は湧き立ち泡立って、その人たちにあらんかぎりの|威嚇《いかく》を|浴《あび》せた。|荒《し》けあとの高 い|蟻《うね》りが、岬の鼻に|打衝《ぶつ》かると、そこの稜角で真っ二つに|戴《た》ち切られ、ヒュッと喚声をあげる。 そして、高い潮煙が障壁から躍り上がって、人も巌も、その真白な|飛沫《しぶキフ》をかぶるのだった。  風も六月の末とはいえ、払暁の湿った冷たさは、実際の寒気よりも烈しく身を刺した。しかも、 岬の鼻に来てはすでに微風ではなノ\髪も|着衣《きもの》も、なにか陸地の方に引く力でもあるかのよう、 バ々バタ帆のようにたなびいているのだ。  人たちは、いずれも両脚を張ってはいるが、ともすると泡立つ海、波濤の轟き、風の|城声《かんせい》に|気 怯《きお》じがしてきて、いつかはこの蒼暗たる海景画が、生気を|畷《すす》りとってしまうのではないかと思わ れた。  しかし、その一団は、はっきりと二つの異様な色彩によって区分されていた。  と云うのは、まことに|物奇《むのめずら》しい対象であるが、夫人と娘の朝枝以外,の者は、七人の|襖太利人《オユス も リヤじん》 と四人の盲人だったからである。  そのうち七人の墺太利人は、いずれも四十を越えた人たちばかりで、なかには、指先の美しい音 楽家らしいのもいた。また、|髭《ひげ》の雄大な退職官吏風の者もいて、|顧額《こめかみ》のあたりに、白い房を残し た老人が二つ折れになっているかと思えば、また、|浬《たくま》しい骨格を張った傷病兵らしいのが、全身 を曲った片肢で支えているのもあって、服装の点も区々まちまちであった。  しかし、誰しもの額や|顯額《こめかみ》には、痛ましい樵倖の跡が|粘着《ねぽ》りついていて、着衣にも労苦の|搬《しわ》が たたまれ、風がその一団を吹き過ぎると、唇に|追放者《エこクし》らしい悲痛なはためきが残るのだった。  また、盲人の一群は、七人の向う側に立ち並んでいて、そのぎこちない身体つきは、神秘と荒 廃の群像のように見えた。  もはや眼以外の部分も、生理的に光をうけつけなくなったものか、弱った|盲目蛸《めくらうじ》のように肩と 肩を|擦《す》り合わせ、|艶《つや》の|裾《あ》せた白い手を互いに重ねて、絶えず力のない咳をしつづけで、いた、、  しかし、この|奇異《ふしぎ》な一団を見れば、誰しも、一場の陰惨な|劇《トラァ》を、頭の中でまとめあげるのであ ろう。  あの黒眼鏡を一つ一つに外していったなら、あるいはその中には、天地間の孤独をあきらめき った、白い凝乳のような眼があるかもしれないが、おそらくは、眼底が|窺《うかが》えるほどに|膿潰《のうかい》し去っ たものか、もしくは|蝦墓《ひきがえる》のような、底に一片の執念を潜めたものもあるのではないかと思われ た。  が、いずれにもせよ、盲人の一団からは、|故《ゆえ》しらぬ好奇心が|唆《そそ》られてくる。そしていまにも、 その悲愁な謎を解くものが訪れるのではないかと考えられた。  その四人は朝枝を加えて、やや|金字塔《ビラミツド》に近い形を作っていた。  と云うのは、中央にいる|諾威《ノルウエモ》人の前砲手、ヨハン・アルムフェルト・ヴィデだけがずば抜け て山高く、それから左右に、以前は一等運転士だった|石割苗太郎《いしわりなえたろう》と朝枝、そして両端が、現在はウ ルリーケの夫  さきには|室《むろと》P|丸《まる》の船長だった|八住衡吉《やずみこうきち》に、以前は事務長の|犬射復六《いぬいまたろく》となってい るからだった。  そのヴィデは、はや四十を越えた男であるが、丈は六尺余りもあって、がっしりとした骨格を 張り、顔も秀でた眼鼻立ちをしていた。亜麻色の髪は柔らかに渦巻いて、鼻は鷹の|噛《くちばし》のように 美しいが、絶えず顔を伏目に横へ捻じ向けていた。その沈欝な態度は、盲人としての理性という よりも、むしろ底知れない、こころもち暗さをおびた品位であろう。  ところが、ヴィデの|頸《くび》から上には、生理的に消しがたい醜さが|活《うか》んでいた。頬には、刀傷や、 異様な赤い筋などで、搬が無数にたたまれているばかりでなく、|兎唇《みつくち》、|療耀《るいれき》、その他いろいろ下 等な|潰瘍《かいよう》の跡が、|頸《くび》から上をめまぐるしく埋めているのだった。  それらは、|疾病《しつぺい》放縦などの覆い尽せない痕跡なのであろうが、一方彼が常に、砲手として船に 乗るまでは数学者だったーなどというところをみると、そのかずかずの醜さは、とうてい彼の 品位が受け入れるものとは思われなかった。  むしろ、その|奇異《ふしぎ》な対象から判断して、事実はその下に、美しい人知れない|創《きず》があって、それ を覆うている|瘤《こぶ》というのが、あの忌わしい痕のように考えられもするので、もしそうだとすると、 ヴィデには二つの影があらねばならなくなるのだった。  それから、犬射復六は小肥りに肥った小男で、年配はほぼヴィデと同じくらいであるが、一方 彼は詩才に長け、広く海洋の詩人として知られている。  柔和な|双顎《ふたあご》の上は、何から何まで円みをおびていて、皮膚はテカテカ蝋色に|光沢《つや》ばんでいる。 また唇にはいつも微かな笑いが湛えられていて、全身になんともいえぬ高雅な感情が燃えている のだった。  それに反して石割苗太郎は、神経的な、まるで狐みたいな顔を持っていた。  彼は即座に感情を|露《あら》わして、その皮膚の下に、筋肉の反応がありありと見えるくらいであるが、 その様子はむしろ狂的で悲劇的で、絶えず彼は、自分の頓死を気づかっているのではないかと思 われた。  しかし、最後の八住衡吉となると、誰しもこれが、ウルリーケの夫であるかと疑うに相違ない。  それは、世にも痛ましく、浅ましいかぎりであったからだ。衡吉ははや六十を越えて、その小 さな身体と大きな耳、まるい鼻には、どこか脱俗的なところもあり、だいたいが人の良い堂守と 思えば間違いはない。  ところが、その髪を仔細に見ると、それも髭も玉轟色に透いて見えて、どうやら染められてい るのに気がつくだろう。そうして、愚かしくも年を隠そうとしていることは、一方に二十いくつ か違う、妻のウルリーケを見れば|頷《うなず》かれるが、事実にも衡吉は、不覚なことに老いを忘れ、あの 厭わしい情念の|囚虜《とりこ》となっているのだった。  その深い雛、槌せた|歯齪《はぐき》を見ると、それに命を取る病気の兆候を見出したような気がして、年 老いて情慾の衰えないことが、いかに醜悪なものであるかーi如実に示されていた。  そのせいか、大きな花環を抱いているそのすがたにも、どこか一風変った、感激とでも云いた いものがあって、おそらく思慮や才智も、充分具えているに違いないが、同時にまた、痴呆めい た狂的なものも|閃《ひらめ》いているのだった。  そうして、以前はその四人が、同じ室戸丸の高級船員だったことが明らかになれば、ぜひにも 読者諸君は、それと失明との関係に、大きな鎖の輪を一つ結びつけてしまうに相違ない。  そのおりウルリーケは、静かに列の間を、岬の鼻に向って歩んでいった。  ウルリーケが立ち止まって、波頭の彼方を見やったとき、その顔には、影のような微笑が横切 った、それはごく薄い、やっと見えるか見えないぐらいの、|薄衣《ウエコハ》のようなものだったが、しばし 悲しい|烙《やき》印の跡を、覆うているかのように見えた。  ウルリーケは、見たところ三十がらみであるが、実際は四十に近かった。  のみならず、その典型的な|北欧《スカノテイナヴイアン》 |型《 クイプ》といい、どうみても彼女は、氷の稜片で作り上げら れたような女だった。生え際が抜け上がって眉弓が高く、その下の落ちくぼんだ底には、|蒼《あお》い澄 んだ泉のような瞳があった。  両端が鋭く切れすぎた唇は、隙間なくきりりと締っていて、やや顎骨が尖っているところとい い、全体としては、なにかしら冷たい-…-それが|酷《むご》いほどの理性であるような印象をうけるけれ ども、また一面には、氷河のような清例な美しさもあって、なにか心の中に、人知れぬ|熾烈《しれつ》な、 狂的な情熱でも秘めているような気もして、おりよくその願望が発現するときには、たちまちそ の氷の肉体からは、五彩の|陽炎《かげろう》が放たれ、その刹那、清高な詩の雰囲気がふりまかれそうな観も 否めないのだった。  しかし、ウルリーケのすらっとした喪服姿が、おりからの潮風に煽られて、髪も裾も、たてが みのように|靡《なび》いているところは、どうして、|戦女《ワんキユ し》とでも云いたげな|雄《ゆゆ》々しさであった。  空は水平線の上に、幾筋かの|土堤《どて》のような雲を並べ、そのあたりに、色が戯れるかのごとく変 化していった。彼女はしばらく黙薦を|凝《トフ》らしていたが、やがて、波間に沈んだ声を投げた、  その言葉はかずかずの謎を包んで神秘の影を投げ、しばらくはこの岬が、白い大きな妖しげな 眼の凝視の下にあるかのようであった。 「いつかの日、私はテオバルト・フォン・エッセンという一人の男を知っておりました。その男 は、|埋太利《オミストリヤ》海軍の守護神、マリア・テレジヤ騎十団の精華と|調《うた》われたのですが、また海そのもの でもあったの・ですわ。  ああ貴方! あの日に、貴方という竪琴の|絃《いと》が切れてからというものは……それからというも の……私は破壊され荒され尽して、'.にだ|残津《かす》と涙ばっかりになった|空虚《うつろ》な身体を、いま何処で過 ごしているとお思いになりまして。  私は、貴方との永くもなかった生活を、この上もない|栄意《はえ》禁口と信じておりますの。だ3-、貴方は、 怖れを知らぬ武人ーーその方にこよなく愛されて、それに貴方は、填太利全国民の偶像だったの ですものね。  ところが、あの日になって、貴方は急に海から招かれてしまったのです。  というのも、貴方が絶えずお|概《なげ》きになっていたように、なるほど軍司令部の消極政策も、おそ らく原因の一つだったにはちがいないでしょうが、もともといえば、貴方お一人のため-ーその 一人の潜航艇戦術が|伊太利《イアリご》海軍に手も足も出させなかったからです。  ねえ、そうでございましたでしょう。あれまでは、トリエステの湾はおろか、アドリヤチック の海の何処にだっても、|砲弾《たま》の殻一っ落ちなかったのではございませんか。ソての安逸がーーいい え|蟄居《ちつきよ》とでも申しましょうか。それが、貴方に海の爆れを駆り立て、|硝姻《しようえん》の誘いに耐えきれな くさせて、秘かにUR;4|号《ウき エル》の改装を始めたのでしたわね」  一九一五年五月、参戦と同時に、伊太利は海上封鎖を宣言した。  もともと、両者の海軍力は、戦艦九対十四、装甲巡洋艦九対二の比率で、伊太利側が一倍半の 優勢を持していたのである。そこへ、英仏地中海艦隊の援助によって、|填太利《オこストリヤ》沿岸封鎖が行われ たのである。  ポーラ鎮守府をはじめに、トリエスト、セベニコ、カッタロ、テオド、ザラ等の各軍港が、ほ とんど抵抗もうけず、完全に封鎖されてしまった。そうして、海上貿易の遮断をうけるとともに、 墺太利は、各艦隊の連絡策戦が不可能になってしまったのである。  当時、伊太利側の策戦としては、まず、トリエスト、フユーメのような無防禦港を破壊する。 そうして精神的打撃を与えしかるのちに、海軍要塞を占拠して陸兵を上陸せしめようとしたので あった。それがために、敵艦隊の集中するカッタロ湾に主力を向け、まさにアルバニアのヴァロ ナを出港せんばかりの気配にあった。  しかし、|墺太利《オ ストリヤ》側としてもなんとかして、ヴェネチア、ラヴェンナ、アンコナ、タラント等に、 勢力を置いている敵の封鎖を打ち破らねばならなかった。そうして、もし巧みに封鎖を脱するこ とができれば、ヴェネチア、アンコナの両港を襲撃できるばかりではなく、ブリンデッシ、バリ ーなど無防禦港も、砲火の危険に|曝《さら》されねばならない。さらに、もう一段|進捗《しんちよく》して、オトラン ト海峡の封鎖をみれば、もはや|伊太利《イ ノリ  》艦隊は完全な苦戦である。  この二つの策戦は、当時万目の見るところだったのである。そうしていつかは、アドリアチッ ク海の奥に、砲声を聴くであろう。トリエスト、ヴェネチアを結ぶ線上に砲火が散り、そこが両 軍の死線となるであろうρと、戦機のせまる異常な圧迫感が、日々に刻々とたかまっていったの である。  しかし、襖海軍は依然として、|退嬰《たいえい》そのもののごとく自港の奥に潜んでいた。三隻単位を捨て て、五隻単位主義を採択したほどの墺海軍が、また何故に、損害の軽微な潜航艇戦にも出なかっ たのであろうか。それには、陸上トレンチノ線の、快勝が原因だったのである。  伊太利陸軍は、参戦以来、主力をイゾンゾに注いで、大規模な攻撃を開始した。しかし、費や した肉弾と、砲弾の量にもかかわらず、わずかイゾンゾ河の下流で国境を越えたにすぎなかった。 そこへ、対セルビアの戦闘が終結したのである。  埋軍は、俄然そこで攻勢に転じた。まず、イゾンゾ方面に、兵力集結の偽装をおこない、そう して、伊軍の注意を、その方面に|牽《ひ》きつけておいて、その|間《かん》に、こっそり攻勢の準備を整えてい た。  露墺戦線よりの三個師団、イゾンゾ方面より四個師団、バルカン方面より三個師団、さらに、 国内で編成した混成三個旅団を、それまでのケーブエス、ダンクル軍に合わせたのである。そし て、オイゲン大公指揮の下に、伊軍陣地を突破して、ヴェネチア平原に進入しようと企てたので あった。  四月二日払暁、ロヴェレット南方より、スガナ|渓谷《けいこく》にいたる、トレンチノ全線の砲兵が、約二 千門といわれる砲列の火蓋を切った……。それが伊埋戦線最大の|殺敷《さつりく》なのであった。モリ南方高 地からかけて、"スグナ・トルタ山、マッギオ山、力ムポ山、アルメンテラ山を経て、コロi山に わたる伊軍第一陣地は、夕刻までに大半破壊されてしまった。  その頃には、南方チロール地区隊、ギヴディカリ!部隊を先頭に、歩兵が行動を開始した。ケ ーブエス軍は、一部をアディジェ河谷に、主力をアスチコ河谷に向けて、アルシェロ市を目標と した。また、ダンクル軍は、一部をスガナ河谷に、主力をチエッテ・コムニ高原に向け、これは アジアゴ市を目標とした。  そして、猛烈な火砲戦に、算を乱し、潰走する伊軍を追うて、まもなく、その両市を占領する ことができた。  が、|墺太利《オきストリヤ》海軍にとると、この大勝禍いなるかなであった。おそらく、両国の勝敗が、陸戦で 決せられるものと見込んだのであろう、いつのまにやら、燃えていた必戦の意気が消えてしまっ た。しかしその後は、戦線にも格別の変化がなく、ただ伊軍は、じりじりと墺軍を押し戻してい った。  それが、決戦派の首領、男爵フォン・エッセンには|耐《たま》らなかったのである。彼は、機さえあれ ば怒号して、軍主脳部に潜航艇戦をせまったのであった。    わが国は、かつて統一戦争の当時、|伊太利《イタリ 》軍を破ったことがあった。その後も、一八六六 年にはクリストッツァの戦いで勝ち、海軍もまた、リッサ島の海戦と伊太利艦隊を破った! し かも、今次の大戦においても、どうであろうか。じつに、わが国は伊太利軍には一度も敗れたこ とはないのである。その歴史的信念を忘れ、決戦に|怯気《おじけ》だった、軍主脳部こそは千|叱《だ》の|鞭《むち》をうけ ねばならぬ。  この、マリア・テレジヤ騎士団の集会でおこなった演説を最後に、フォン・エッセンは二度と 怒号しようとはしなかった。そして、秘かに、UR14|号《ウえ エル》の改装をはじめたのである。  こうした|経緯《いきさつ》が、言葉を待つまでもなく、七人の|復辞《ふくへき》派には次々と|潭《うか》んでいった。まるで、ウ ルリーケの一言が|礫《つぶて》のように、追憶の、巻き拡がる波紋のようなものがあったのである。 「そうして、UR-4|号《ウき エル》の改装が終りますと、次に私を待っていたのが、悲しい船出てござい ました。私はあの前夜に|慌《あわただ》しい別れを聴かせられたとき、その時は別離の悲しみよりか、かえ って、あの美しい幻に魅せられてしまいましたわ。  あの蒼い広々とした自由の海、その上で結ぶ武人の|浪漫主義《ロマンチシズム》の夢  。まあ貴方は、|艇《ふね》を三 |橋《しよう》の|快走艇《ヨツト》にお仕立てになって……、しかもそれには、『|鷹《ハヒヒツ》の|城《つルフ》』という古風な名前をおつけに なったではございませんか。  ああそれは、|王立《ロイヤル》カリンティアン|快走艇倶楽部《ヨツトくらぶ》員としての、面目だったのでしょうか。いいえ いいえ、私はけっしてそうとは信じません。  きっと貴方は、最後の悲劇を詩の光輪で飾りたかったに違いありませんわ。そして、しめやか な通夜を|他目《よそめ》に見て  俺は、生活と夢を一致させるために死んだのだ  とおっしゃりたかっ たに相違ありませんわ。  そうして、その翌朝一九一六年四月十一日に、その日新しく生れ変った潜航艇『|鷹《ハヒヒッ》の|城《フんフ》』は、 朝まだきの闇を潜り、トリエステをとうとう脱け出してしまったのでした。あの時すぐに始まっ た朝やけが、ちょうどこのようでございましたわねえ」  その時、水平線がみるみる|脹《ふく》れ上がって、|美《うるわ》しい|暁《あけぼの》の息吹が始まった。波は|金色《こんじき》のうねりを 立てて散光を彼女の顔に反射した。  ウルリーケは爽やかな大気を大きく吸い込んだが、おそらく彼女の眼には、その|燦《きらびや》かな光が 錫色をした墓のように映じたことであろう。 「ところが、そのとき積み込んだ四つの魚雷からは、どうしたことか、|功績《いさおあ》の|証《かし》が消え去ってし まったのです。  その月の十九日タラント軍港を襲撃しての、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』号の撃沈も、年を 越えた五月二十六日コマンドルスキイ沖の合衆国巡洋艦『|提督《アト ユフル》デイウェイ』との戦闘も、この とおり艇内日誌にはちゃんと記されておりますが、その公表には、どうしたことか時日も違い、 各自自爆のように記されてあるのです。  それがドナウ聯邦派の利用するところとなって、ハプスブルグ家の|光栄《はえ》を、貴方一人の影で覆 い、卑怯者、逃亡者、反逆者と、ありとあらゆる汚名を着せられて、今度は共和国を守る、心に もない楯に変えられてしまったのです。  それにつれて、同じ運命が私にも巡ってまいりました。  わけても、貴方の生存説が、どこからともなく伝わってまいりましたおりのこととて、私たち の家には毎夜のように石が投げられ、むろん貴方のお墓などは、夢にも及ばなくなったのです。  ところへ、貴方が|阜捕《だほ》された『室戸丸』の船長からi-それが現在私の夫ではございますが、 貴方の|遺品《かたみ》を贈るという旨を申しでてまいりました。それがそもそも、いまの生活に入る原因と なったのでしたけど、私の悲運は、いまなお十七年後の今日になっても尽きようとはいたしませ ん。  せっかく貴方の墓と思い、引き揚げた『|鷹《ハヒヒッ》の|城《フんフ》』も、ついには私たちの生計の|糧《かて》として用い ねばならなくなりました。  私たちはこの上、安逸な生活を続けることが不可能になったのでございます。それで八住は、 船底を改装して|硝子《カラス》張にしたのを、いよいよ海底の遊覧船に仕立てることにいたしました。  そうして再び、貴方のお船『|鷹《ハヒヒッフ》の|城《んク》』は動くことになりましたけど、私にとれば、貴方のお 墓を作る機会が、これで永遠に失われてしまったことになります。  ですけど、貴方の幻だけはかたく胸に抱きしめて  あの気高くも|運命《さだめ》はかなき|海賊《コルサきん》、いい え、男爵海軍少佐テオバルト・フォン・エッセンは、死にさえも打ち|捷《か》って、このような熱い接 吻で私の唇を燃やすではございませんか。  貴方、そんな|頸《うなじ》の上などは|櫟《くすぐ》っとうございますわ。ねえ、耳|朶《たぶ》へ……貴方…-L  フォン・エッセン艇長とウルリーケとを結びつけた、かくもかたい愛着の絆を前にしては、現 在の夫、八住衡吉などは、むろん影すらもないのだった。  ウルリーケはこもごも湧き起る回想のために、しばらくむせび泣きしていたが、やがて歩を返 し、つづいて艇長の最期を語るために、詩人の犬射復六が朝枝に連れ出された。  ところが、この前事務長の口からして、艇長の最期にまつわる驚くべき事実が吐かれたのであ った。       ニ、「|鷹《ハビヒッブ》の|城《ルク》」の怪奇 「私はこの際、フォン・エッセン艇長の最期を明らかにして、坊間流布されておりますところの、 謬説を打破したいと考えます。  私ども四人が当時乗り込んでおりました貨物船室戸丸は、そのおり|露西亜《ロシア》政府の傭船となって おりましたので、『|鷹《ハヒヒッ》の|城《フルク》』の襲撃をこうむることは、むしろ当然の仕儀であると云い得ましょ う。.九一七年三月三十日、室戸丸は『鷹の城』のために、|晩香波《ハンク バさ》島を去る七〇|浬《カイリ》の海上で|合《だ》手|捕《ほ》 されました」  こうして、犬射が語りだす遭難の情景を、作者は、便宜上船内日誌を借りることにする。  本船は横浜|解績《かいらん》の際、以前捕鯨船の砲手であったヴィデを招き、同時に|四吋《インヰ》の砲を二門積み込 んだのであった。それは、左右両舷に据えられた。しかも数箱の砲弾が甲板に積み上げられたの である。だが、どうしてだろう? 北太平洋には、いま氷山のほか何ものも|怖《おそ》れるものはないで はないか。  じつに本船は、フォークランド沖の海戦で、撃ち洩らされた独艇を怖れたからである。独逸ス ペイン艦隊ぐ供艦シャルンホルスト号には、二隻の艦載潜航艇があったのであるが、そのうち一 つは傷つき、他の一隻は|行衛《ゆくえ》知れずになってしまった。  それ以来、|濃霧《カス》のような海魔のようなものが、北太平洋の北圏航路を覆い包んでしまったので ある。  ある船は、海面に|潜望鏡《ペリスココプ》を見たといい、また、覗いてすぐに姿を消したという船もあった。し かし本船は、この一夜で航程を終ろうとしていた。それが、西経一三三度二分、北緯五十二度六 分、|女王《クイ ン》シャーロット|島《ランド》を遠望する海上であった。  日が暮れると、同時に重い防水布を張り、電球は取り除かれて、通風口は|内部《なか》から厚い紙で蓋 をしてしまった。操舵室も海図室も同じように暗く、内部も|外部《そと》も、闇夜のような船であった。 「ですが、奴らは、なかなかうまくやりますからね」  六回も、独艇の追跡をうけたという手練のヴィデは、碧い眼をパチパチと|瞬《またた》いていった。 「僕は、本船のまえは|仏蘭西《フランス》船にいたんですが、あれに、こういう|大砲《やつ》の一、二門もあったらな ア。なにしろね、船に魚雷を喰わせやがって、悠々と現われてくるんです。おまけに、奴ら、桟 敷にいるような気持で、見物しているじゃありませんか。  ところが船は、右舷をしたに急速に傾斜してゆく。それから、全員が去っても、まだ私たちは 船橋に|止《とど》まっておりました。すると、そこへ近づいてきて、立ち去らなきゃ、殺すぞと|嚇《おど》かすん です。いや間もなく、私だけは漁船に救けられましたがねL  それからヴィデは、通風筒の蔭で|萸《たばこ》に火を|点《つ》けたが、なんと思ったか、遭難事の注意をこまご ま聴かせはじめたのである。 「ところで、いざという時には、|電光形《ジグザク》の進路をとるんです。絶えず|羅針盤《カムパス》で、四十五度の旋回 をやる。そうすると、よしんば潜航艇が船影を認めたにしろ、魚雷を発射することが、非常に困 難になってくるんです。  ねえ、そうでしょう。最初目的の船の、進路と速度を正確に計算しなけりゃならぬ。それから、 いよいよ発射する位置にむかって、潜行をはじめるのです。  ところがねえ、さてという土壇場になってまた|潜望鏡《ペリスコ プ》をだすと、なにしろ、船のほうは|電光形《ジクザク》 の進路をとっている。そこで、計算をはじめから、やり直さなけりゃならなくなるんです。  それから|端艇《ボきト》は、上甲板の|手縁《レ ル》とおなじ線におろしておいてください。いや、すぐ降ろせるよ うに。それから、水樽とビスケットを……」 「だが、本船の危検は、もう去ったも同じじゃないか」  八住船長は、ヴィデが警戒をはじめたのを、不審に思ったらしい。 「とにかく、夜明けまでには、|晩香波《ハンク ハさ》へ着く。それに、本船には大砲があるのだ。ヴィデ君、君 も、砲術にかけては、|撰《よ》り抜きの名手じゃないか。ハハハハ、出たらグワンと一つ、御見舞申し てもらいたいもんだな。なアに、君の腕なら、潜航艇も|抹香鯨《スパ ム ホエニん》も同じことさね」 「いやかえって、明日入港というような晩が危険なんです。船長、甲板で葉巻は止めていただき ましょうし  と、|衡《くわ》えていた葉巻を、グイと引き抜いたとき、かたわらにいた、無電技師がアッと叫び声を 立てた。 「おいヴィデ君、ありゃなんだ?」  そうして一同は、高鳴る胸を押えて、凝視することしばしであった。  |飛沫《しぶき》のなかを、消えあるいは点いて……闇の海上をゆく|微荘《びぼう》たる光があった。その頃は、小雨 が太まってき|長濤《うねり》がたかく、|舳《へさき》は水に没して、両舷をしぶきが洗ってゆく。そうして、ヴィデは 部署につき、無電技師は、|電鍵《キイ》をけたたましく打ちはじめたのである。 「危険に瀕す。現在め位置において、救助を求む」  その返電に、|晩香波《ハンワ ハき》碇泊艦隊から、急派の旨を答えてきたが、しかし、時はすでに遅かった。  ヴィデも、|長濤《うねり》に阻まれて、照尺を決めることが出来ない。なにしろ、相手は一点の灯、こち らは、闇にうっすらと浮く巨館のような船体である。それが、悔んでも及ばぬところの室戸丸の 不幸であった。  煙筒は、真黒な|煤煙《ばいえん》に混じえて、火焔を吐き出しはじめた。船体が、ビリビリ震動しイー、、闇に 迫る怪艇の眼から|遁《のが》れようとした。  高速力で、旋廻を試みながら、絶えず、花火のような|火箭《ロケツト》を打ち上げていた。しかし、波間の 灯は、室戸丸から執拗に離れなかったのである。やがて、警砲が放たれ、右舷に近く水煉があが った、 「だめです、船長。なまじ|腕《あが》いたら、僕らは復讐されますぜ。発砲はやめます。敵艇の砲手の腕 前は、驚くべきものですよ。断じて、|盲目弾《めくらだま》ではない。最初の警砲は、本船の右舷近くに落ちた でしょう。それから、旋廻したにもかかわらず、二の弾は、船首の|突梁《とつりよう》に命中したのです。船 長、本船は翻弄されているんです」  そう云って、ヴィデの蒼白な顔が、|砲栓《ほうせん》から離れようとしたとき、三の弾が、今度は船尾旗桿 に|器然《ごうぜん》と命中した。 「よろしい、抵抗を中止して、君の意見に従おう」  と同時に、|機関《エンいンにノ》の音がやみ、石割一等運転手が舵機室から出てきた。彼はそれまで、あわよく ば衝角を狙おうと、操舵していたのであったが、船長の決意は、全員の安危に白旗の信号を送っ たのであった。  ところが、その瞬間、四の弾が舷側を貫いて、機関室に命中した。そうして、進行を停止した 船に、艇から、次の信号が送られたのであった。 「幹部船員四名、書類を持って艇に来たれ」  かくて、八住船長以下、犬射事務長、ヴィデ砲手、石割一等運転手の四人が、全員に別れを告 げ、船を離れ去ることになったのである。  その直後に、全員が|短艇《ボ ト》で、四散するさまも、また哀れであった。が、まもなく、室戸丸に最 後の瞬間が訪れた……                                       由くす  燃料や食料を、積み得るだけ艇に移したうえ、室戸丸は、五発の砲弾を喰いそのまま藻屑と消 えてしまったのである。  室戸丸は、みるみる悲惨な傾斜をなしてゆき、半ば以上も海面に|緑色《りよくしよく》の船腹が現われてきた。 やがで、、鈍い、遠雷のような響きがしたかと思うと、いきなり船首から真っ縦に水に突き刺った。 そして、たかい、|長濤《うねり》のような波紋が、艇をおどろしく|揺《ゆす》りはじめたのである。  しかし、艇内に収容されて、最初の|駁《おどろ》きというのは、この船が独艇ではなく、|襖太利《オコヌゼリヤ》の潜航艇 だということであった。 「驚いた。だが光栄至極にも、われわれはフォン・エッセンの指揮下にある、潜航艇に乗り込ん でしまった。あの人は、|墺太利《オミストリヤ》の、いや|欧羅巴《ヨ ロツパ》きっての名将なんだ。鬼神、海神といわれるー- いつかウインに、|記念像《テンクマん》を持つのは、この人以外にはないというからねし  ヴィデがすぐ、こんなことを、一同の耳に|曝《ささや》きはじめた。乗組員は二十名、|艇《ふね》は、一九〇六年 の刻印どおり旧型の沿岸艇だ。  巡航潜水艇ではない。それにもかかわらず、七つの海を荒れまわる胆力には驚嘆のほかないの である。  しかも、艇内の四人は、厚遇の限りを尽されていた。どこでも、自由に散歩ができるし、おり には、艦長とも|戯《ざ》れ口を投げ合う。  そして艇は、|女王《フイコン》シャーロット|島《ラント》を後に、北航をはじめたのであったが、まもなく艇首をカム チャツ力に向けた。  その間も、十三節か十四節で、たいてい海面を進んで行った。事実水中に潜ったことは、数え るほどしかなかった。一度はかれこれ、五十|尋《ひろ》近くも下ったことがあったが、その時は、駆逐艦 に援護された、日本の商船隊を認めたときであった。 「艇長、貴方は、あの駆逐艦が怖いのですか」  事勝長の犬射は、ときおり独詩を書いて示すので、艇長とは打ち解け合った仲であった。 「いや、怖くもないがね。君も知ってのとおり、本艇には、あますところ魚雷が一本だけだ。で、 なるべくは大物というわけでね」  そう云って艇長は、蓄音器の|把手《ハントん》をまわし、「|碧《あお》きドナウ」をかけた。|三鞭酒《ノヤムパン》を抜く、機関室 からは、兵員の合唱が洩れてくる。  が、こうして語るその情景を、眼に、思い|淀《うか》べてもらいたい。霧立ち|軍《こ》めた夜、波たかく騒ぐ 海、駆逐艦からは爆雷が投ぜられて、艇中の|鋲《びよう》がふるえる。  しかも、そのまっ暗な、水面下三|百呪《フイきト》のしたでは、シュトラウスのワルツが響き、|三鞭酒《シヤムパン》の 栓がふっ飛んでいるのである。四人は、|噛《か》みかけた|維納腸詰《ウイン ソコセコジ》を|嚥《の》み下すこともできず、しばら くは、|奇異《ふしぎ》な、|浪漫的《ロマンチツク》な、悪夢のなかを|彷裡《さまよ》っていた。  以上の経過を、犬射は言葉すくなに語りおえたのであるが、すると、見えぬ眼を海上にぴたり と据え、そこを墓とする、武人の|悌《おもかげ》を|偲《しの》んでいるようであった。  が、やがてその口は、、怪奇に絶する、「|鷹《ハヒヒノ》の|城《フルワ》」の遭難にふれていた。 「そんなわけで、われわれが過した艇内の生活は、意外にも好運だったと云い得ましょう、そし てその翌日、合衆国巡洋艦『|提督《アトミラル》デイウェイ』とコマンドルスキイ沖で遭遇するまでは、航路、 まったくの無風帯でした。ところがその時、生れてはじめて海戦というものを目撃したー,,-その われわれに、誰が、一週後になって非運が訪れようと信じられたでしょうか。  それは、忘れもしない六月二日の朝、|濃霧《ガス》の|審《は》れ間に、日本国駆逐艦の艦影を累見したので、 ともかく、衝角だけは免れようと、急速な潜水をはじめたのです。  ところが、そうして|潜《もぐ》って二、三|十米《ズ トル》のあたりに、どうしたことか、ふいに艇体に激烈な|衝 撃《ノヨツワ》をうけました。それなり艇体を、四十五度も傾けたまま動けなくなってしまったのです品その はずみに、機関室からは有毒のクローリン|瓦斯《カス》が発生して、艇長を除く以外の乗組員は、ことご とくその場で|整《たお》れてしまいました。  そうして五人の生存者には、その時から悲惨な海底牢獄の生活が始まって、刻々と、死に向い 暗黒にむかって歩みはじめたのです。  しかし、万が一の希望を繋いでいたとはいえ、あの夢魔のように襲いかかってくる自殺したい 衝動と、どんなに……闘うのが困難だったことか。ところが、その日の夜半、突然艇長の急死が |吾《われわれ》々を驚かしたのです。  艇長は士官室の寝台の上で、左手をダラリと垂れたまま、脈も失せ氷のように冷たくなって横 たわっておりました。それは、明白な自然の死でした。誓ってそうであったことだけは、かたく 断言いたします。  なぜでしょうか……それにはまず、吾々は艇長に対し|寸毫《すんごう》の敵意さえもなかったことが云われ ます。それに吾々は、万が一の幸運の際のことも考えねばなりません。そうなった時、なんで艇 長の指図なくして吾々の手が、迷路のような装置を操り脱出できましょうや。  ところが、続いて驚くべきことが起ったのです。それはその後、四時間ほど経つか経たぬかの 間にあろうことか、艇長の死体が姻のように消え失せてしまったのです。  もちろん蘇生して閉鎖扉を開けて機関室に入ったとすれば、吾々もともどもクローリン|瓦斯《ガス》で |廃《たお》れねばなりませんし……たとえ発射管から脱出するにしても、肝心の圧搾空気で操作するもの が吾々無能の、四人をさておいて外に誰がありましょう。  また、夜中の脱出は凍死の危険があり、すこぶる無謀であるのは自明の理であるし、現にその 救命具も引揚げ後調べると、数が員数どおり揃っていたのです。  ですから私たちは、ただただ怖ろしい現実に唖然となって、ことにああしたおりでも何かしら、 悪夢のような不思議な力に握り|疎《すく》められている気がいたしてなりませんでした。  ああ艇長の死体を艇から引き出したのは、かねて伝説に聴く|海魔《ボレアス》の|仕業《しわざ》でしょうか、それとも また、文字どおりの奇蹟だったのでしょうか。  いずれにしても、艇長の死と死体の消失が厳然たる事実であることは、その後に艇を引き揚げ た、日本海軍の記録的に明記するところなのですL  風はなぎ、暁は去って、朝|霜《もや》も切れはじめた。犬射は、感慨ぶかげな口調を、明けきった海に 投げつづける。 「艇内は、その前後に蓄電の量が尽きてしまい、吾々が何より心理的に|濯《おそ》れていた、あの|怖《おそ》ろし い暗黒が始まったのです。すると、それから二時間ばかりたつとがたりと艇体が揺れ、それなり 何処へやら、動いて行くような気配が感ぜられました。  そうしてわれわれは奇蹟的にも救われたのですが……もともと沈没の原因は、艇の舳を蟹網に 突き入れたからで、もちろん引揚げと同時に、水面へ浮び出たことは云うまでもないのでありま す。  ところが、その暗黒のさなかに、四人がとんでもない過失をおかしてしまったのです。  と云うのは、寒さに耐えられず|嚥《の》んだ|酒精《アルコ ル》というのが|木精《メチ ル》まじりだったのですから、せっか く引き揚げられたにもかかわらずあの暗黒を最後に、吾々は光の恵みから永遠に遠ざけられてし まったのでした。  あの燃え上がるような歓喜は、|鎗蓋《ハツチ》が開かれると同時に、跡方もなく砕け散ってしまいました。 もともと自分から招いた過失であるとはいえ、私たちは第二の人生を、光の槌せた|晦冥《わだつみ》の中から 踏み出さねばならなくなったのです。  こうして『|鷹《ハビヒッフ》の|城《ルフ》』は|涯《うか》び、同時に、吾々に関する部分だけは終りを告げるのですが、一方 『鷹の城』自身は、それからもなおも数奇を極めた変転を繰り返してゆきました。と云うのは、 引揚げ後内火艇に繋がれて航行の途中、今度は宗谷海峡で、引網の切断が|因《もと》から沈没してしまっ たのです。  そして、|三度《みたび》水面に浮んだのは御承知のとおり、夫人の懇請で試みた、船長八住の引揚げ作業 でした。  しかし、上述した二回の椿事によって『鷹の城』の悪運が、すでに尽きたことは疑うべくもあ りません。  ただ願わくば、過ぎし悪夢の回想が、のちの怖れを拭い、船長の新しい事業に幸あらんことを。 そうして、故フォン・エッセン男爵の霊の上に、安らかな眠りあらんことを……」       三、濃緑の海底へ  艇長フォン・エッセン男の死体が消失した、しかも|蒼海《あおうみ》の底で、密閉した装甲の中でー1-この 千古の疑惑は、再び新しい魅力を具えて一同のうえにひろがった。  朝風の和やかな気動が、復六の|縮毛《ちぢれげ》をなぶるように揺すっていたが、彼は思案げに手を|揉《も》み合 せるのみで、再びあの微笑が頬に|泥《うか》んではこなかった。  そうして、犬射復六が座に戻ると、今度は一人の老人が、|道者杖《しるべづえ》をついて向うの列から抜け出 てきた。  その老人は、もちろん追放された|復辞《ふくへき》派の一人で、長い立派な髭に、黄色い大きな禿頭をした 男だったが、その口からは、艇長死体の消失をさらに紛糾させ、百花千|辮《べん》の謎と化してしまうよ うな事実が吐かれていった。 「|儂《わし》は、|王立《ロイヤル》カリンティアン|快走艇倶楽部《ヨツトくらぶ》員の一人として、かつてフォン・エッセン男爵に面接 の栄を得たものでありますが、儂ですらも、これまではさまざまな浮説に惑わされ、艇長の死を 容易に信ずることができなかったのでした。  それが、今や雲散霧消したことは、なにより|墺太利《オさストリヤ》海軍建設以来最初の英雄であるところの、 フォン・エッセン閣下のため祝福さるべきであろうと信じます。  けれども、『|鷹《ハヒヒッ》の|城《フルク》』そのものは、きわめて初期の沿岸艇でありまして、おそらく艇長のよう な、鬼神に等しい魔力を具えた人物でない限りは、それによって、大洋を横行するなどは絶対不 可能に違いないのです。だが儂は、あのおり『鷹の城』の脱出を耳にしたとき、ふと暗い迷信的 な考えに圧せられました。  と云うのは、元来あの艇は、ゲルマニア型として填太利帝国最初の潜航艇だったのですが、そ の中膨れのした船体を御覧になって、これはキムブルガーの唇(一"加帝㎜舷鰍)じゃ- と|陛下《へいか》が |愛《め》でられたほどに由緒あるものーーそれが沿岸警備にもつかず、塗料の剥げた船体を軍港の片隅 に|曝《キフ》らしていたのは何が故でしょうか。  それは、シュテッヘ大尉の消失Iiそのトリエステ軍港の神秘が、そもそもの原因だったので す。  一九一四年開戦瞬前に起って、さしも|剛毅《ごうき》な海兵どもを|傑《ふる》え上がらせたというその不思議な出 来事は、いま耳にした艇長屍体の消失と、生死こそ異なれ、まったく軌道を」つにしているでは ありませんか。  夫人は御承知でしょうが、シュテッヘ大尉は、フォン・エッセン閣下の|莫逆《ばくぎやく》の友でありまし て、同じ|快走艇《ヨツト》倶楽部でも、シーワナカの支部に属しておりました。  ところが、決闘の結果同僚の一人を傷つけて、査問されようとするところを、艇長がUR-4 号の奥深くに|匿《かく》したのです。  ところが、ヴェネチア湾を潜航中不思議な事に、シュテッヘ大尉は忽然と消え失せてしまいま した。  その際は、傷ついた足首を一面に繍帯して、|破《びつこ》を引いていたそうですが、それもやはり、士官 室の寝台から不意に姿が消えてしまったのです。それ以後UR-4号には、妙に妄想じみた空気 が濃くなってきて、まさに不祥事続出という惨状だったのでした。  そうすると、やれシュテッヘ大尉の姿を、目撃した  などという者も出てくる始末。しまい には全員が、転乗願いに連署するという事態にまでなったのですから、もはや当局としても捨て てはおけず、ついにUR-4号を艦籍から除いてしまったのでした。  URー-4号の|悪霊《へさゼルガイスト》-ーそのように、おぞましい迷信的な力はとうてい考えられないにして も、その二つの事件は、偶然にはけっして符合するものでないと考えております。  |儂《わし》はそれを、いかにも明白な、絶対的な事実として感じているのです。  そして、もしやしたら、シュテッヘ大尉が、そのときもまだ不思議な生存を続けていて、友に 最後の友情をはなむけたのではないか。つまり、艇長の遺骸を、海の武人らしく、母なる海底に |送《フフ》ったのではないか  というような、|妄《フ フフフフフ》想めいた観念がおりふし|活《うか》び上がってきて、儂を夢の 間にも揺すり苦しめるのでしたL  老人はそこで言葉をきり、吐息を悩ましげに洩らした。しかし、そのシュテッヘ大尉事件の怖 ろしさは、艇長消失の可能性をも裏づけて、妙に血が凍り肉の硬ばるような空気をつくってしま った。  続いて老人は、現在|維納《ウイン》において艇長生存説を猛烈に煽り立てているところの、不可思議な囚 人のことを口にした。 「しかし、一方共和国は、ハプスブルグ家の英雄を巧みに利用して、今や復辟運動は、それがた めにまったく望みないものと化してしまったのです。  と云うのは、かつて国民讃仰の的だったフォン・エッセン男を、忌むべき逃亡者としたはかり ではなく、かたわら一つの人形を作って、それとなく艇長の生存説を流布しはじめたのでした。  それが今日、|維納《ウイン》の噂に高い鉄仮面で、フォールスタッフの道化面を冠った一人の男が、郊外, ヘルマンスコーゲル丘のハプスブルグ望楼に幽閉されていると云うのです。  そうなって、重大な国家的犯罪者らしいものと云えば、まず艇長をさておき外にはないのです から、その随策がまんまと図星を射抜きました。そして、情けないことに|填太利《オ ストリヤ》国民は、付和雷 同の心理をうかうかと掴み上げられてしまったのです。  で、聴くところによると、その男の幽閉は一九一八年から始まっていて、最初はグラーツの市 街を、身体中に薔薇と|蔦《つた》とを|纏《まと》い、まるで痴呆か乞食としか思われぬ、異様な風体で|俳個《はいかい》してい たというそうなのです。  しかし、すでに海底深く埋もれているはずの艇長が、どうして、故国に姿を現わし得ましょう や。  まさに左様、艇長フォン・エッセン男爵の墓は、東経一六〇度二分北緯五十二度六分ーiそこ に、いまも眠りつづけているのです。  そうして、ハプスブルグ家の王系は、彼の死とともに絶えたのですが、それを再び、栄光のう ちに|蘇《よみがえ》らせようとしても何事もなし得ず、今や戦史と系譜の覇者は、二つながらに埋もれゆこ うとしているのですし  老人の悲痛な言葉が最後で追憶が終り、夫人は海に花環を投げた。  そして、一同は打ち連れ立って、岬を陸の方に歩みはじめたのであるが、艇長フォン・エッセ ンの死に対する疑惑は、いまやまったく錯綜たるものに化してしまった。  一同は、奇怪な恐怖に駆られて、夢の中をさ迷い歩くような惑乱を感じていたのである。わけ ても、その得体の知れない|轟動《しゆんどう》のようなものは、四人の盲人に、はっきりと認められた。  その四人は、一人として口を開くものがなく、互いに取り合った手が微かに|額《ふる》え、なにか感動 の極限に達しているのではないかと思われた。彼らは明らかに、これから乗り込もうとする 「|鷹《ハビヒッブ》の|城《ルク》」に恐怖を感じているのだ。  ところが、当の「鷹の城」は、その時岩壁を縫い、岬の尻の入江の中で、静かに揺れていた。  それは水上|噸《トン》数約四百噸ばかりの沿岸艇で、|橿色《ォレンシ》に染め変えられた美しい船体は、なにか彩 色でもした|烏賊《いか》の甲のように見えたが、潜望鏡と司令塔以外.のものはいっさい取り払われて、船 首に近い|三吋《インチ》大仰角速射砲の跡には、小さな|鎗蓋《ハツヰ》が一つ作られていた。  しかし、そこは断崖の下で、そこへ行くには、岩を切り割った、二つの路を迂廻して行かねば ならないのだが、朝枝と外人たちはそこで別れて、いよいよウルリーケと四人の盲人が「鷹の 城」に乗り込むことになった。  海底遊覧船「|鷹《ハビヒッフ》の|城《ルワ》」  。しかも、前途にあたって隠密の手があるのも知らず、ふたたび 彼らは、回想を新たにしようと濃緑の海底深くに沈んで行くのだった。  司令塔の|鎗蓋《ハツチ》から鉄梯子を下りると、そこには、クルップ式の潜望鏡と潜水操舵器があって、 右手が機関室、左手は二つの区画に分れていて、手前のは、以前士官室だった底を|硝子《カラス》張りにし た観覧室、またその奥は|前《さき》の発射管室で、そこに艇長の遺品が並べられてあった。  しかし前方の観覧室には、とうていこの世ならぬ異様な光が|濠《みなぎ》っていた。  それは、蒼味を帯びた透明な深さであるが、水面に|挺《うね》りが立つと、たぶんさまざまな屈折が影 響するのであろうか、その光明には|奇異《ふしぎ》な変化が起ってゆくのだった。  一度は|金色《こんじき》の|飛沫《しぶき》が、|室《へや》いっぱいに飛び散ったかと思うと、次の瞬間、それが濃緑の深みに落 ち、その中に|蝿《うね》りの影が|陽炎《かげろう》のようにのたくって、その|燦《きら》びやかさ美しさといったら、まず何に たとえようもないのである。  けれども、その  |三稜鏡《プリズム》の|函《はこ》に入ったような光明の乱舞が、四人の盲人には、いっこう感知 できないのも道理であるが、いつかの日艇長と死生を共にしたこの|室《へや》の想い出は、塗料の匂いそ の他になにかと繰り出されて、それにシュテッヘ大尉の事件を耳にした今となっては、あの不思 議な力の|轟動《しゆんどう》がしみじみと感ぜられ、はては襲いかかってくる恐怖を、どう制しようもなかっ たのであった。  そして、それがつのりきった結果であろうか、四人の集めた額が離れると、八住は手さぐりに 入口の壁際に行って、そこにある食器棚から、一つの鍵を取り出してきた。  まもなく、その鍵は二つの|扉《ドア》に当てがわれたが、すむと再び|旧《もと》の場所に戻して、八住は発艇の 合図をした。  艇がしばらく進むうちに、潜航の電鈴が鳴り、検圧計に赤い|電灯《あかり》が点いた。そして機械全体が 坤吟したような|捻《うな》りを立てると、同時に、足もとの水槽に入り込む水の音が、ガバガバと響いた。  水深|五米《メさトル》、|十米《メ トル》   一瞬間泡がおさまると、そこはまさに月夜の美しさだった。  キラキラ光る無数の水泡が、音符のように立ち上っていって、濃碧のどこかに動いている紅い 映えが、しだいに薄れ|瓢《くろ》ずんでゆく。  すると、間遠い魚の影が、ひらりと尾|鰭《ひれひ》を|翻《るがえ》して、|滑《す》べらかな鏡の上には、泡一筋だけが残 り、それが花辮のような|優《 しと》やかさで崩れゆくのだった。  水中にも、地上と同じような匂いが、限りなく漂っていて、こんもりと茂った|真昆布《まこんぶ》の葉は、 すべて|宝石《たま》のような|輪轟《りんちゆう》の滴を垂らし、|吾《われわれ》々はその森の姿を、いちいち数え上げることができ るのだ。  そしてその中を、銀色に光るかますの群が、軍兵のような行列を作ったり、鯖が玉轟色に輝い たりなどして、それが前方に薄れ消えるときに彼らは星を降り|撒《ま》き、あるいは|甘鯛《あまだい》が、えごの《フフフフ》|り の捲毛に戯れたりして、ときおり海草の葉がゆらめく|陰影《かげり》の下には、大|蝦《えぴ》のみごとな装甲などが 見られるのであるが、その夢の|壷惑《こわく》は、しだいに水深が重なるとともに薄らいでいった。  もはや三十米近くになると、軟体動物の滑らかな皮膚が、何かの膀胱のように見えたり、海 草は紫ばんだ脱腸を垂らし、緑の水苔で美しく装われている暗礁も、まるで、象皮腫か、搬ばん だ|療握《るいれき》のように思われるのであるが、そうして色がしだいに淡く、視野がようやく闇に|鎖《とざ》されよ うとしたとき、ふと異様な物音を、ウルリーケは隣室に聴いたのである。  と、すぐさま、合いの|扉《トア》を叩く犬射の声がした。  が、|生憎《あいにく》とそれは、機関の響きで妨げられたけれど、絶えずその物音は狂喚と入れ交じって、 隣室からひっきりなしに響いてくるのだ。  やがて、|鎖《とざ》された扉が開かれると、その隙間から、|硝子《カラス》の上に横たわっている真黒な人影が見 えた。  が、次の瞬間、ウルリーケはハッと立ち|疎《すく》んでしまったのである。  そこには、彼女の夫ハ住衡吉が三人の盲人の間に打ち倒れていて、ほとばしり出る真紅の流れ の糸を、縞鯛がもの|奇《めず》らしげに追うているではないか。 第二編 三重の|密室《みつしつ》       一、アマリリスの奇蹟 「|助《たす》からんね|支倉《はぜくら》君、たぶん|海精《ンレエヌ》の魅惑かも知らんが、こりゃまったく|耐《たま》らない事件だぜ。だっ て、考えて見給え。.海、装甲、|扉《トア》  と、こりゃ三重の密室だ」  |法水麟太郎《のりみずりんたろう》と支倉検事が「|鷹《ハヒヒッブ》の|城《ルク》」を訪れたのは、かれこれ|午《ひる》を廻って二時に近かったが、 陽盛りのその頃は、漁具の|鹸気《しおけ》がぷんぷん匂ってきて、|巌《いわ》は錆色に照りつけられていた。  ウルリーケとともに|鎗蓋《ハツチ》を下りるまでにはだいたいの聴取は終っていたが、何より海底という、 あり得べくもない自然の舞台と謎の味が、彼をまったく困惑させてしまった。  のみならず、それはかつていかなる事件においても現われたことのない、驚くべき特質を具え ていたのである。  と云うのは、|現場《げんじよう》が|扉《ドア》と鍵で|閉《とざ》されていたにもかかわらず、艇内をくまなく探しても、八住 を刺した凶器が発見されなかったのである。しかも周囲は厚い装甲で包まれ、その外側が海底で あるとすれば、とりもなおさず、現場は三重の密室ではないか。  ウルリーケはこまごま当時の情況を述べたが、それはすこぶる|機宜《きぎ》を得た処置だった。  彼女は、犬射復六の手で|扉《トア》が開かれると、すぐ前方の扉がまだ開かれていないのを確かめた。 そうしてから、機関部員の手で、自分をはじめ三人の盲人にも身体検査を行い、なおかつ、その 時刻が、五時三分であった事までも述べたが、ウルリーケはそれに言葉を添えて、 「それに、まだ|誘《いぶか》しく思われる事がございまして。と申しますのは、まだ|扉《トァ》が開かれない、つちで したけど、たしかにヴィデさんの声で、どうしてうろうろしているんだ。君たちは何を隠りてうと しているのか と妙に落着いたような、冷たい|明瞭《はつき》りした声で云うのが、聴えたのでございま す。  ですから、あの室に入って夫の屍体を|一瞥《いちべつ》すると同時に、私の眼は、まるで約束されたものの ようにヴィデさんに向けられました。  すると、あの方だけは、椅子の上で落着きすましていて、まるでその態度は、当然起るべきも のが起ったとでも云いたいようで、とにかくヴィデさんだけには、夫の変死がなんの感動も与え なかったらしいのです。  まったくあの方には、底知れない不思議なものがあるのですわ」  とはいえウルリーケとて同じことで、夫の死に|働突《どうこく》するようなそぶりは、|微塵《みじん》も見られなかっ たのであるが、まもなく法水は、その理由を知ることができた。  現場の|扉《ドア》は、鉄板のみで作られた頑丈な二重|扉《ドア》で、その外.側には|鍵孔《かぎあな》がなかった。というのは、 万が一クローリン|瓦斯《ガス》が発生した際を|慮《おもんぱか》ったからで、むろん開閉は内側からされるようになっ ていた。  そして、扉が開かれると、そこに|濠《みなぎ》っている五彩の|陽炎《かげろう》からは|眩《くら》まんばかりの感覚をうけ、す でに彼には現場などという意識がなかった。  そのせいか、眼前に横たわっているハ住の死体を見ても、色電燈で照し出された|惨虐人形芝居《グびフンギニヨえル》 の舞台としか思われず、わけてもその染められた髪には、老|女形《おやま》の口紅とでも云いたい感じがし て、この多彩な場面をいっそうドギついたものに見せていた。  ところがその時、死体とは反対の側に、一人の盲人が|什《たたず》んでいるのに気がついた。  それは、詩人の犬射復六だったが、そのおり屍体に何を認めたのか、法水は振り向きざま犬射 に訊ねた。  と云うのは、なんともいえぬ薄気味悪い事だが、すでに死後十時間近く経過していて、傷口は 厚い血栓で覆われているにもかかわらず、現在そこからは、ドス黒く死んだ血が|浪《こんこん》々と流れ出て いるのである。  その瞬間、この室の空気は、寒々としたものになってしまった。  犬射は美しい髪を揺すり上げて、割合平然と答えた。 「なに、私なら、今しがたここへ来たばかりなんですよ。艇員の方に手を引かれて  さあ五分 も経ちましたかな。  それに、用というのが、実は向うの室にありまして、御承知のとおり、乗り込むとすぐこの騒 ぎだったものですから、てんで艇長の|遺品《かたみ》には、手を触れる暇さえなかったのです。  なに、私が死体を動かしたのではないかって。ああほんとうに、位置が変っているのですか …:ほんとうに死体が……L  と犬射の顔色はみるみる蒼白に変っていって、なにか心中の幻が、具象化されたのではないか と思われた。  その流血は、ほんの一、二分前から始まったらしく、|硝子《ガラス》の上を斜めの糸がすういと引いてい るにすぎなかった。けれども、死体の位置が|異《ちが》ったという事は、以前の流血の跡に対照すると、 そこに判然たるものが印されているのだった。  最初仰向けだったものを|術向《うつむ》けたために、出血が着衣の裾を伝わって、身体なりに流れたから である。しかも傷口には、厚い血栓がこびりついていて、とうてい屍体の向きを変えたくらいで、 破壊されるものではなかったし、また、気動一つ看過さないという盲人の感覚をくぐって、知ら れず、この室に侵入するという事も不可能に違いないのだった。  してみると、死体を動かしたのは当の犬射復六か、それともーーとなると、再びそこに「|鷹《ハヒヒ》 の|城《ツフルク》」遭難の夜が想起されてくるのだ。 「|傑《ぞ》っとするね。十時間もたった屍体から、血が流れるなんて……。だが法水君、結局犯人の意 志が、あれに示されているのではないだろうかね」  そう云って、検事が指差したところを見ると、その前後二様の流血で|作《な》された形が、なんとな く|卍《まんじ》に似ていて、そこに真紅の表章が表われているように思われたからである。  この暗い神秘的な事件の蔭には、その潤色から云っても、迷信深い犯人の見栄を欠いてはなら ないのではないか。  しかし、法水は無言のまま死体に眼を落した。  八住衡吉は、肩章のついたダブダブの制服を着、暑さに|釦《ボダン》を外していたが、顔にはほとんど表 情がなかった。  強直はすでに全身に発していて、右手を胸のあたりで|酷《むご》たらしげに握りしめ、右膝を立てたと ころは術伏しているせいか、延ばした左足が太い尾のように見えて、それには、|巨《おお》きな爬轟の姿 が連想されてくる。  |創《きず》は心臓のいくぶん上方で、おそらく上行大動脈を切断しているものと思われたが、円形の何 か金属らしい、径一|糎《センチ》ほどの刺傷だった。  そして、その一帯には、砕けた検圧計の水銀が一面に飛散っていて、それを見ると、最初一撃 を喰らうと同時に、検圧計を掴んだのが、ほとんど反射的だったらしい。そして、握ったままく るりと一廻転して、引きちぎった検圧計もろとも、背後に倒れたのではないかと推断された。  そうすると、案外刺傷の位置がものをいって、心臓を突かなかったのも、事によったら突き損 ねたのであって、あるいは三人の盲人のうちでかー1とも考えられるが、一方には、兇器がこの 室になく、というよりも不可解至極な消失を演じ去ったのであるから、その点にゆき当たると、 依然盲人は、この血の絵に凄気を添えている、三つの点景にすぎないとしか思われないのであっ た。  その時、片隅にいる一団に遠慮したような声で、法水は検事に|囁《ささや》いた。 「見給え支倉君、これも、今までの|定跡《じようせき》集にはなかったことだよ」  と検事に、|赤鱒《あかえい》のような形をしたドス黒いものを示した。  それは、|創口《きずぐち》を塞いでいる凝血の塊だったが、底を返して見て、検事は|真蒼《まつさお》になってしまった。 「どうだ! 細い直線の溝があるじゃないか。たしか針金か何かで、皮膚と平行に突っ込んだに ちがいないよ」 「たぶんそうだろうと思うがね。そうすると、これほど手数のかかる|微細画《こちニアモユア》をだ。しかも、犬射 復六を前に、堂々と描き去った者がなけりゃならんわけだろうP  ところが、この奥の室には、|先刻《さつき》から朝枝という娘がいるそうだけど、こんな静かな中で、盲 人の聴覚が|把手《ノッフ》の|捻《ひね》り一つ聴きのがすものじゃない。それにあの娘は、今朝この『|鷹《ハヒヒッフ》の|城《ルフ》』に は、乗り込んでいなかったのだ。  そこで支倉君、この結論を云えばだーi絶対に盲人のなし得るところではないということ。そ れから、一人の妖精じみた存在が、どうやら|明瞭《はつきり》しかけてきたという事なんだ」  それから法水は、ウルリーケを手招いて、当時四人が占めていた位置を訊した。  すると、一々椅子を据えてウルリーケは右端から指摘していった。 「ここが、石割さんでございました。それからヴィデさん、次が主人、そして最後が、犬射とい うのが順序なのです。  ところが、先ほども申しましたように、犬射さんは立ち上がってうろうろしていたのです、だ が、ヴィデさんだけは泰然と構えておりました。  また石割さんときたら、それは滑稽にもまた|惨《みじ》めな形で、肩をぴくんと張った|厳《いか》つさに似合わ ず、両膝を床について、ぶるぶる|額《ふる》えていたのでしたわL  ウルリーケが再び片隅に去ると、法水はしばらく額の搬を狭めて考えていたが、やがて、検事 をニコリともせず見て、別の事を云いだした。 「ねえ支倉君、できることなら、見当ちがいの努力をせんように、おたがいが注意しようじゃな いか。  何より怖ろしいのは、僕らの方で|心気症的《ヒポコンデリノフ》な壁……それを心理的に築き上げてしまうことなん だよ、現にこの|卍《まんじ》の形がそうなんだが、いつぞやの黒死館で、クリヴォフの死体の上に何があっ たと思うね。  あの時、それが手の形をして、壇上の右手を指差していた。なるほど、それには犯人の|伸子《のぶこ》が いたにはちがいないが、しかし理論的に、なんといって証明するものではない。  こんなつまらん小細工に引っかかって、心の法則というやつを作られては|堪《たま》らんからねし  けれども、その卍の形は、絶えず|嘲《あざけ》るかのごとくびくびく|轟《うごめ》いていて、舷側で波が砕け散ると きには薄紅く透いて見え、また、その泡が消え去るまでの間は、四つの手が、薄気味悪く|蠕動《ぜんどう》し ていて、それには|海盤車《ひとで》の|化物《ばけもの》とでも思われるような生気があった。  しかし、法水は振り向きもせず、奥の室の|扉《トア》を開けた。  その室には、前部の発射装置がそっくりそのままになっていて、その複雑な機械の影は、市街 の夜景ででもあるように錯覚を起してくる。  その前で、朝枝は|花《ぼ》んやりと、一つの鉢を|蹟《みつ》めていた。  その鉢は一本の紅いアマリリスだったが、そうしている朝枝を|一瞥《いちぺつ》したとき、なにかしら透き 通ったような人問ばなれのしたものを法水は感じた。  朝枝は水っぽい花模様の|単衣《ひとえ》を着、|薄赤《とき》色の|兵児《へこ》帯を垂らしているが、細面の頸の長い十六の 娘で、その|四肢《てあし》は、|拘慢《せむし》のそれのように萎え細っていた。  全体が腺病的で神経的で、なにかの童話にある王女のように、花の雨でも降れば消え失せるの ではないかと危ぶまれる  それほどに、朝枝は痛々しく蝋のような皮膚色をしていたが、一方 にはまた、烈しい精神的な不気味なものがあって、すべてが混血児という、人種の|疾病《しつぺい》がもたら せたのではないかとも思われるのだった。  ところが、入ってくるウルリーケを見ると、長い|腱毛《まつげ》の下がキラリと光った。  彼女は母に、とげとげしい言葉を吐いたのである。 「お母さん、|貴女《あなた》はこのアマリリスを、どうしてここへ持っていらっしやったのです。ああ|判《わか》っ た。貴女は私を殺そうとお考えになっているのでしょう。  だってこの花のことは、ようく御存知のはずなんですもの……私をまた床に 就かせようとしたって……ああ、きっと、そうにちがいありませんわL  朝枝のヒステリックな態度には、何かひたむきな神々しいような怖ろしさが あって、それには何より、法水が面喰らってしまった。  すると、瞬間ウルリーケの顔には|狼狽《ろうばい》したようなものが現われたが、彼女は 動ぜず、静かに云い返した。 「まあ朝枝さん、私が持って来たのですって、……いったい貴女は、何を云うのです? お母さ んは、貴女を|癒《なお》してくれたこの花に、感謝こそすれ、なんで粗略に扱うものですか。  サア家へ帰って、すぐ床にお入りなさい……貴女はまだ、本当ではないのですよ」  その思いもよらぬ|奇異《ふしぎ》な場面にぶつかって、しばらく法水は、花と朝枝の顔を等分に見比べて いたが、 「なんだか知りませんが、僕にこの花のことを聴かせていただけませんか」 「それは叔父さま、こうなのですわ」  と朝枝は、法水の顔にちらついている、妙に急迫した表情も感ぜず語りはじめた。 「私は一月ほど前から、得体の知れない病いに|罹《かか》りました。熱もなくただ痔せ衰えてゆきまして、 絶えずうつらうつらとしているのです。  あとで聴きますと、医者は|憂欝病《メランコリア》の初期だとか何かの腺病だとか云ったそうですが、どんなに 浴びるほど薬を|嚥《の》んでも、私の身体からは日増しに力が失せてゆくのでした。そうして、だんだ んと指の間が離れてゆくのが、朝夕目立ってゆくうちに、このアマリリスの|蕾《つぽみ》が、ふっくらと |膨《ふぐら》んでまいりました。  私はそれを見て、|果敢《はか》ない望みをこの花にかけてみたのです。もし私が癒るようなら、|蕾《つぼみ》をそ れまで鎖ざしておいて下さいまし-ーーと。  ほんとうを云えば、力を出そうとして、血の気が上ったようなこの花の|生《いきいき》々しさに、私、|妬《ねた》み を感じたのでしたわ、ところが叔父さま、まあ不思議な事には、今にも開きそうなこの蕾が、五 日たっても十日たっても、|何日《いつ》になっても開こうとはしないのです。  そうして、私の病いも、それと同時に薄皮を剥がすように癒ってゆきました。  ところが、はじめて床を出た今朝、ふと気がついてみますと、この花が私の枕辺から消えてい るのです。それが叔父さま、いつのまにか『|鷹《ハヒヒッ》の|城《フルク》』に来ていて、このとおりパッと開いてい るのではございませんか」  その不思議なアマリリスが、赤い舌のような花辮をダラリと垂らしているところは、何かもの 云いたげであった。  そして、そのいいしれぬ神秘と詩味は、蒼味の強い童話本の|挿画《さしえ》のようであったが、今朝の惨 劇に時を同じくして起ったこの奇蹟には、なにか類似というよりも、底ひそかに通っている整数 があるのではないかと思われた。  法水は、次々と現われてくる謎に混乱してしまったが、まもなく一同を去らしめて、この室の 調査を開始した。  そして、最初にまず、艇長の|遺品《かたみ》二点を取り上げた。       二、ニiベルンゲン諏詩  作者はここで、艇内にあらわれた「二iベルンゲン諏詩」について語らねばならない。  といって、この|独逸《ゲルマン》大古典のことを考証的に云々するのではない。 「ヒルデブランドの歌」につづいて、「|英雄之書《ヘルデン フッフ》」、「グドルン詩篇」などとともに、じつに民族 の滅びざるかぎり、不朽の古典なのであるから……。  この物語が、おそらく十二世紀末に編まれたであろうということは、篇中に天主教の|弥撒《みさ》など があり、それが一貫して、北方異教精神と不思議な結婚をしているのでも分る。もともと素材は スカンディナヴィア神話にあって、ヴィベルンゲンの|伝説《ザガ》、二iベルンゲン|伝説《ザガ》などと、いくつ かの抜葦集成にほかならない。  ところが、ワグナーに編まれて老大な楽劇になると、はじめて新たな、生々とした息吹が吹き こまれてきた。  それは、三部楽劇として作った、「|二《デァ リ》ーベルンゲンの|指環《ンク テス ニミヘルンゲン》」のなかで、ワグナーが、この古話 の構想を寓話的に解釈せよと、叫んだからだ。すなわち、倫理観を述べ、人生観をあらわし、社 会組織を批判して、おのれの理想をこの大曲中に示したのであるから……。  まさに作者も、ワグナーに、模倣追随をあえてしてまで、この一篇を編みあげようとするのだ。  しかし、これには、権力を代表する指環もなければ、法と虚喝の|大神《ヴオミタン》も、愛のジーグフリー ドも、また、英雄の霊を戦場からはこぶ|戦女《ワルキユコレ》もいない。事実この物語には、われわれの知らぬ、 世界に活躍するものは一つとしてないのである。  けれども、篇中のどこかには、奇怪な|矯人《わいじん》があらわれる、鳥がいる。|鍛冶《かじ》の音楽、呪い、運命、 憎悪、魔法の|兜《かぶと》がある。時とすると、|森《ワルト 》の|囁《ワきヘン》きが奏でられ、また、「怖れを知らぬジーグフリー ド」の|導調《ライトモチフ》につれて、うつくしい勇士の面影が、緑の野におどる陽のようにあらわされる。  しかしそれは、篇中に微妙な影を投げ、いとも不思議な変容となって描かれているのだ。手操 りあう運命の糸  それは、いつの世にも同じきものである。ときに応じ、情勢につれて、自由 に変形され展開されるとはいえ、絶えず、底をゆく無音の旋律はおなじである。  読者諸君も、つぎの概説中にある黒字の個所に御留意くだされば、けっして、古典の香気に酔 いしれてしまうことはないであろう。かえって、物語を綴り縫う謎の一つ一つに、一脈の冷視を そそぐことができると信ずるのである。  ラインの河畔ウオルムスの城に、クリームヒルトという、容色絶美の姫君が住んでいた。ブ ルガンディーの王、グンテルの妹である。また、その下流低地にも、一つの城があって、そこ には、ジーグフリードと呼ぶ抜群の勇士がいたのである。  ジーグフリードは、二iベルンゲン族と闘って巨宝を獲たのであるが、それ以前、一匹の巨 竜を殺したため、|殺竜騎士《トラコンスし ヤ 》の|緯名《あだな》があった。  しかし彼は、そのとき泉にしたたる巨竜の血に浴したので、|菩提樹《リンヲン》の葉が落ちた肩一ケ所の ほかは、全身剣をはねかえす|鋼鉄《はがね》のような硬さになってしまったのである。  ところが、旅人の口の端を伝わり伝わりして、クリ1ムヒルトの噂が、ジlグフリ!ドの耳 に達した。そこでジーグフリードは、ひそかに見ぬ恋に憧れる身となり、はるばるウオルムス の城に赴いたのである。しかし、その門出に、悪しき予占ありといって止められたのであった が、思えばそれは、やがて起る悲劇の兆しだったのであろう。  さてジーグフリードは、ウオルムスの城内においていたく歓迎され、ことに武芸を闘わして、 クリームヒルトの嘆賞するところとなった。しかし姫は、それから一年もジーグフリードとは 遇わず、ただ居室の高窓から微笑を送るのみであった。  と、そのうち、姫とジーグフリードを結びつける機会がきた。それはグンテル王が、ひそか に想いを焦がすブルンヒルデ女王であって、ブルンヒルデは、アイゼンシュタイン河を隔てた 洋上に|砦《とりで》をきずき、われに勝る勇士あれば、|嫁《かし》づかんと宣言していたのである。  すなわち、ブルンヒルデ女王こそは、北方精神の権化ともいう、鬼神的女王なのであった。  だからこそ、グンテル王は自分の力量を知って、それまで女王に近づこうとはしなかったの である。しかし、いまは吾れにジーグフリードあり。王は奇策を胸に秘めて、アイゼンシュタ インの城へ赴いた。  そこで、ジーグフリードは、かねて二ーベルンゲン族から奪ったところの|隠《タルンカ》れ|衣《ツペ》を用い、王 に化けて、女王の驕慢を打ち破ったのであった。そして、王は女王と、ジーグフリードはクリ ームヒルトと結婚することができた。  しかしブルンヒルデは、うち負かされたグンテルに、愛を感じなかったのみならず、ジーグ フリードを慕い、やがてその身代りなのを知ると同時に、変じて憎悪となった。また一方、ジ ーグフリードの名声を妬むものに、ハーゲンがあって、その二人は、いつか知らず知らぬ間の うち接近してしまった。ある日、二人の睦まじさに耐えかねた女王が、こっそりと、ハーゲン の耳におそろしい偽りを囁いた。 「ハーゲンよ、かつて|妾《わらわ》は、ジーグフリードのために、いうべからざる汚辱をこうむりました。 王は、それを秘し隠してはいますが、そなたは、|妾《わらわ》にうち明けてくれましょうな。アイゼンシ ュタインの城内で、妾をうち負かしたグンテルが、何者であったか。また、その後も王に仮身 して、しばしば妾の寝所を訪れたのは、誰か。ほほほほハーゲン、そちは、顔色を変えてなん としやる。そうであろう。ジーグフリード……。妾は、とうからそれを知っておりましたぞ」  ハーゲンは、それを聴いて、ますます|殺害《せつがい》の意志を固くした。また、女王とクリームヒルト の仲も、不仲というより、むしろ公然と反目し合うようになった。そうして、やがてハーゲン は、一つの好策を編み出したのである。  それは、剣もこぼれるというジーグフリードの|身体《からだ》に、どこか」個所、|生身《なまみ》と異ならぬ弱点 があるからだ。それを知ろうと、ハーゲンはクリームヒルトをたぶらかし、聴きだすことがで きた。すなわち、隣国との戦雲に言よせられて、公主の心は、怪しくも乱されてしまったので ある。 「それでは、私、目印をつけておきますわ。、綺麗な絹糸で、十字をそのうえに縫いつけておき ましょうPですから、もしものとき乱陣のなかでも、それを目印に夫を護ってくださいまし ね」  そうして、殺害のモティフが物凄く轟きはじめたころ、勇士の運命を決する、|猪《しし》狩がはじま った。  しかしクリームヒルトは、その朝、前夜の夢を夫に物語ったのであった。 「わたくし|昨夜《ゆうべ》は、恐ろしい夢を二つほど見ましたの。まだ、こんなに、破れるような|動悸《どうき》が して:::。わたくし貴方を、狩猟にやるのが|心許《こころもと》なくなってきましたわL  と、夫にとり縄って、|諌《いさ》めたが聴かれなかった。そこで、いよいよ心許なく、クリームヒル トは|喘《あえ》ぎ喘ぎ云うのであった。 .では、お聴かせいたしますけど……。はじめのは、あなたが二匹の猪にさいなまれていて、 みるみる、野の草のうえに血が滴ってゆくのでした」 iそんなこと、なんでもないじゃないか。いいから、次のをお話し……」 「その次は、暁まえの醒め際に見たのですけど、  あなたが、谷間をお歩きになっていらっしゃると、突然二つの山が、あなたのお|頭《つむり》のうえに 落ちてくるのです。  あなた、それでも、これが悪夢ではないとおっしゃるの。これでも、きょうの|狩倉《かりくら》へいらっ しゃいますの」  しかし、妻の手を振り払って、ジーグフリードは|猪狩《ししがり》に赴いたのである。  その森には、清らかな泉があって、疲れたジーグフリードが咽喉をしめそうとしたとき、突 如背後から、きらめく長槍が突きだされた。そうして、肩にのこる致命の一ヶ所を貫かれて、 ジーグフリードは、あえなくハーゲンの手にこの世を去ったのであった。  やがて、その屍体は、獲物とともにクリームヒルトのもとに届けられた。しかし彼女は、悲 哀のうちにも|砒《まなじり》きびしく、棺車の審判をもとめたのである。  それは、加害者|惨屍《むくろ》のかたわらに来るときは、傷破れて、血を流すという……。  はたしてそれが、ハーゲン・トロンエであった。クリームヒルトは、それをみて心に|頷《うなす》くと ころあり、ひそかに復讐の機を待って、十三年の歳月を過した。ウオルムスの城内に、轡々と 籠居して、爪をとぎ、復讐の機を狙うクリームヒルト……。  そうして、「二ーベルンゲン諏詩しは下巻へと移るのである。  しかし、悲壮残忍をきわめたこの大史詩の大団円を、映画に楽劇に、知られる読者諸君もけっ して少なくはないであろう。  十三年間、一刻も変らずに、ジーグフリードにむけ、ひたむきに注がれるクリームヒルトの愛 は、いかに人倫にそむき、兄弟を|繊滅《せんめつ》し尽すとはいえ、その不滅の愛  ただ復讐一途に生きる、 残忍な皇后とばかりはいえないのである。  その故人を慕って、いまなお尽きぬ苦恋の炎が、この一篇を流れつらぬく大伝奇の琴線なので ある。  十八年の昔、トリエステにおこった出来事と、ジーグフリードの死……。また、ジーグ7リー ドの致命個所とは……さらに、それをハーゲンに告げた、衣のうえの十字形とは……。そうして また、二人の女性のいずれが、ウルリーケにあたるか。すなわち、故人を慕っていまなお止まぬ クリームヒルトか、それとも、|隠《タルンカ》れ|衣《ツペ》に欺かれたブルンヒルデが、それか……。  作者は、かく時代をへだてた二つの物語をつらね、その寓喩と変転の線上で、海底の惨劇を終 局まで綴りつづけていきたいのである。 「ホホウ、『二ーベルンゲン|諏詩《リヨド》』、  |世界古典叢書《ワさルズ フエマズ クラシツクス》だな。これはラスベルグ|稿本《マニユスクリプト》の逐字 訳で、英訳の中では一番価値の高いものなんだが」.  と、ずしりと腕に|耐《こた》える部厚なものを繰ってゆくうちに、ふと四、五頁、貼りついている部分 があるのにぶつかった。  それには、頁の中央から糸目にかけ、薄い水のような液体の流れた跡が示されている。  法水《のりみず》はしばらくそれを嗅いでいたが、やがて彼の眼に、桃《う》っとりと魅せられたような色が活《うか》び 上がってきた。 「ねえ|支倉《はぜくら》君、僕がもし、ボードレールほどに、|交感《コレスポンタンズ》の神秘境に達しているのだったら、こ の涙の匂いで、ウルリーケをいったいなんと唱うだろうね。これからは、牧場のごとく緑なる  …|嬰児《あかご》の肉のごとくすずしく……また荘重な、深い魂の|坤《うめ》きを聴くことができるのだよ」  その涙の跡は、片時もウルリーケの心の底を離れやらぬ幻  故フォン・エッセン男を慕って 火よりも強く、|浪《こんこん》々と尽きるを知らぬ熱情の泉だった。  ところが、まもなくそういった感傷も、好色的な薄笑いも彼の顔から消え失せてしまって、眼 が、まるで|貧《むさ》ぼるかのごとく、一枚の上に釘づけされてしまった。  それは、英雄ジーグフリードの妻クリームヒルトが、夫を害しようとするハーゲンに|臓《たぶ》らかさ れて、|刃《やいば》も通らぬ夫の身体の中に、一個所だけ弱点があるのを打ち明けてしまう|章句《ところ》だった。 〔悪竜の命を絶ちし傷より、深紅の血潮ほとばしり出でたれば、かの勇十その煙霧のごとき流れ に身をひたす。その時、菩提樹の枝より一枚の葉舞い落ちて、彼の肩を離れず、その|個所《ところ》のみ彼 を傷つけるを得ん。されば、われその手を|催《おそ》るるなり〕  それから、三句ばかりの後にも、次の一つがあった。                ひ冴  うるわ 〔クリームヒルトは云う  。われ秘かに美しき絹糸もて、衣の上に十字を縫いおかん〕      わか                                                 アンタ⊥フィ' 「いつかは判ることだろうが、この数章の中に、二個所だけ、紫鉛筆で傍線が引いてある |冒《りきフ》⑳一(葉)とρ○|邑《ヶロスレツト》ゑ(十字形)の下にだ。だが、けっしてこれは今日このごろ記されたもので はない。とにかく支倉君、この艇内日誌を調べてみることにしよう。そうしたら、あるいはこの |傍《アンタコラ》 |線《イン》の意味が、判ってくるかもしれないからね」  と飽くことを知らない彼の探求心はい普通ならば誰しも鷺麟すかと思われるような、籏、ーフ繍 の上に神経をとどめた。  そして、白いズック表紙の艇内日誌を開いたが、その時二人の眼にサッと|一駁《おどろ》きの色がかすめた。  というのは、最初の一頁と、中ごろにある|伊太利《イタリき》戦闘艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の雷撃 を記した、一枚以外の部分は、ことごとく切り取られているからだった。  ところが、それを初めから読み下していくうちに、最初の日の記述の中から、次の一章を拾い 上げることができた。 ーーウルリーケが|首途《かどで》の贈り物に、「二ーベルンゲン|諏詩《リ ト》」をもってした真意は、判然としな いが、彼女はそのうちの一節に紫鉛筆で印しをつけ、かたわらの艇員の眼を怖れるようにして|余《よ》 に示した。  余はただちにその意味を覚ったので、くれぐれも注意する旨を述べ、彼女に感謝した。しかし、 それがために心は暗く、彼女の思慮はかえって前途に暗影を投げた。       三、深夜防堤の|彷裡《ほうこう》者 「|法水《のりみず》君、分った、やっと分ったよ。|傍線《アンダきラノ ン》をつけたのは、やはりウルリーケだったのだ」  検事が勢い込むのを、法水は不審げに眺めていたが、 「分ったって…-、いったい何が分ったのだ?」 「つまり、|葉《いきワ》と|十字形《クロスレツト》さ。いわばこいつは、ジーグフリードの致命点だったからね。それに、傍 線を引いて、フォン・エッセンに示したところをみると、何かそこになくてはならぬわけだろ う」 「なるほど、|辻棲《つじつま》は合うがね。だが僕は、君の云うような、安手な満足はせんよ。大いに出来ん。 とにかく、もっと先を読んでみよう」  と、彼は頁を繰り、タラント軍港における、巨艦雷撃の個所を読みはじめた。   ⊥日の仕事が終って、きょうも日が暮れようとする。 余はわが艇を、アドリアチックの海底に沈め休息をとることになった。艇自身は、まるで寝床 にいるような、柔らかな砂上に横臥している。天候は、穏やかである。砂上にある艇も、ユラユ ラ動揺することもない。  ところが、ふと、聴音器に|推進機《スクリユき》の響きが聴えてきた。  そこで、ふたたび浮揚し|潜望鏡《ペリスコ プ》を出してみると、残陽を浴び、帆を燃え立たせた漁船の群が、 一隻の汽船を中心に、網を入れつつある。  |好餌《こうじ》  余の胸に、餓えた狼が羊を見るような、衝動がこみあがってきた。|盲弾《 めくらだま》を放ったに しろ、たしか十隻はうち沈めることができる。ちょうど、射撃演習そっくりにあの汽船を撃沈す れば、燃料や食料品はしこたま手に入るだろう。  が反面には、潜航艇出没の警報が、風のように流布される|櫻《おそ》れがある。|明暁《あす》の決行ー1ーそれま では何事も差し控えねばならぬ。  と、余は胸をさすりさすり水深を測ったのち、艇をふたたび沈下せしめた。  深度器を見ながら、機関部に、いま海底に着くぞという声が、唇を離れようとしたとき、艇体 に微震を感じた。これで、艇体がまったく着底したわけである。  余は、.|底荷水槽《バラストクンク》に水を入れ、動揺を防いだのち、艇首から艇尾まで充分に点検させた。それが 終り、 「すべて固く密閉、故障なし」の報告があって、余は総員に、部署を離れ充分に休養する ようーーー命じた。  ここは、風波の憂いもなく、敵襲の怖れもなく、世界中で最も安全な地点である。しかも、激 務を終ったのちの、休養の愉快さは、他に比すべきものもないであろう。各自の部署を離れて、 兵員室に行く部下の顔は明日の決行を思い、誇りと喜悦の色に輝いている。  それから、昏々と眠りつつあったとき、大声で、艇長、三時三十分ですー1と呼び|醒《オフま》されたの であった。聴けば、二時頃から|横揺《ロ リンア》れをはじめ、天候が変って、海上は、風波強いらしく思われ た。  そこで、早目の朝食後、余は総員に訓示をあたえた。 .諸君よ、今暁吾々が行う潜行は、祖国を頽廃から救う、偉大なる隠れんぼうである。しかし、 怖れることはない。|普魯西《プロシャ》には、われわれ以前に、|赫《かくかく》々たる功勲にかがやく、戦友が多々いるの である。|今暁《こんぎよう》われわれは、彼ら以上の大成功を期待している。諸君よ、怖れず|今暁《けさ》も子供のよ うに隠れようではないか。余は各自が、充分その任務を尽さんことを望む。諸君、サア、浮揚の 部署につこう」  それから、艇を水面下|十米《メ トロ》の位置に置き、静かに|潜望鏡《ペリスココプ》を出して、四囲の形勢をうかがった。 しかし、海上は波高く、展望はきかなかった。  が、右舷のはるかに、黒々と防波堤が見え、星のように|燦《きら》めくタラント軍港の燈火  いまや、 戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は|目腱《もくしよう》の|間《かん》に迫ったのである。  水上に出ると、頬に、払暁の空気が刺すように感じた。本艇は、このとき通風筒をひらき新鮮 な空気を送ったのち、やおら行動を開始したのであった。  朝霧のために、防波堤の形は少しも見えないのであるが、その足元で、砕ける波頭だけは、|量《ぼ》 っと暗がりのなかに見えた。艇を進め、入江に入り込んだとき、霧はますます|酷《ひど》くなってきた。 「止むを得ん。こりゃ、亀の子潜行だ」  それは、|潜望鏡《ペリスコしフ》の視野が拡大された今日では、すでに旧式戦術である。敵艦に近づき、突如水 面に躍り出で、そうしてから、また|潜《もぐ》って、魚雷発射の機会を狙うのである。  と、ルーレットの目に、身を賭けたわれわれは、ここに、予想もされなかったところの、強行 襲撃にでた。  展望塔は活気ついてきた。神経が極度に緊張して、もう伊太利の領海だぞ  という意識がわ れわれを励ましてくれた。  その時、漠々たる闇の彼方に、」つの手提げ灯が現われたのである。そして、大きな声で、 「オーイ、レオナルド・ダ・ヴィンチ……」  と呼ぶ声が聴えた。  僚艦の一つらしく、続いて現われた灯に、本艇は、戦艦レオナルド・ダ・ヴィンチの所在を知 ったのであった。が、そのとき、何ものか艇首に触れたと見えて、ズシンと|額《ふる》えるような衝撃が 伝わリたのである。 「捕獲網か……」  瞬間、眼先きが、クラクラと暗くなったが、艇は何事もなく進んでいく。しかし、本艇は、陸 上の警報器に続いている、浮標に触れたのであった。やがて、砂丘の向うが、|赫《か》っと明るくなっ たと思うと、天に|沖《ちゆう》した、光の帯が倒れるように落ちかかってきた。 「いかん。早く、それ、魚雷網が下りぬうちに、発射するんだ!」  みるみる、陸から砲火が激しくなって、入江の中はたぎり返るようになってしまった。水に激 する小波姻にも、ハッと胸を躍らすのであったが、まもなく闇の彼方に、鈍い、引き|摺《ず》るような 音響がおこった。  艇が、グラグラと揺れ、|潜望鏡《ペリスコきプ》には、海面から渦巻きあがる火竜のような火柱が映った。本艇 は、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」号の艦底下を|潜《もぐ》り、まず、第一の魚雷を発射したのであった。 そうして、再び潜行し、今度は入江の鼻  施離約二|千礪《ヤニト》とおぼしいあたりから、とどめの二矢 を火焔めがけて射ち出したのである。  この逆戦法に、敵はまんまと、思う壼に入ってしまった。砲|塁《るい》や他の艦が、それと気づいた頃 にはおそく、本艇は、白みゆく薄闇を|衝《つ》いて、|捻《うな》りながら|鷲進《ぱくしん》していた。  艦側から、海中に飛び込む兵員、しだいに現われゆく赤い船腹、やがて、魚雷網の支柱にまで 火が移って、まったく一団の火焔と化してしまったのである。  かくて、戦艦「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、タラント軍港の水面下に没し去っていったの であった。 「見ておくがいいよ。モナ・リーザ|嬢《フロイライン モナ リコサ》が、いまゲラゲラと|狂《きちが》い笑いをしているんだ。ダ・ヴィン チ先生のせっかくの傑作も、ああもだらしなく、吹き出すようじゃおしまいだね」  余は、安全区域に出ると、さっそく勝報を送ったが、すぐ打ち返してきた返電を見ると、唖然 とした。    貴官は目下、海軍高等審判に附されつつあり。  かくて余は、七つの海を永遠に|彷裡《さまよ》わねばならぬ身になった。 祖国よ! 法規とは何か。区々たる規律が、|戦敗《せんぱい》崩壊後に、なにするものぞ。 読んでゆくうちに、法水の|眼頭《めがしら》が、じっくと|需《うる》んでいった。しばらくは声もなくじっと見つめ ているのを、検事は醒ますように、がんと肩をたたいた。 「どうしたんだい、いやアに感激しているじゃないか。しかし、仏様のことだけは、忘れんよう にしてもらいたいね」 「じゃ、なにか君は分ったというのかね。君は、あの|傍線《アンク ラィン》にとっ愚かれているようだが……」 「僕は、なにか艇長の肉体に、秘密があるんじゃないかと思うんだ。それを妻らしく、ウルリー ケがお気をつけなさい  と注意したのではないかね。いや、なにも決定的なものじゃないさ。 ただ、対象がジーグフリードなんでね。あて推量だけでは、図星がそこへいくというわけになる だろう。とにかく、|菩提樹《リンデン》の葉で出来たというジーグフリードの致命点が、この場合、フォン・ エッセンの何にあたるか  さっぱりぼくには、この取り合せが|呑《の》みこめんのだがね」  と検事は惑乱したように云ったが、さらに「二ーベルンゲン諏詩」を繰ってゆくうち、第二の 発見が生れた。  というのは、ジーグフリードの殺される山狩の日の朝、クリームヒルトが前夜の悪夢を語ると いうところで、  一口∞一三αqζ【号8ヨ戸一名oヨQ口三巴畠け=手一ヨ匹臼一口σqO5手}プ8戸》口q一50ヨ08冨冨=岳$. 〔昨|夜妾《わらわ》は夢みたりき。山二つ響き高鳴りて|汝《なこ》が|頭《うべ》に落ち、もはや汝が姿を見る|能《あた》わざりき〕  とある下の空行に、次の数句の詩が記されてあったのである。  それは、明らかにウルリiヶの筆跡であって、インクの痕もいまだに|生《なまなま》々しかった。彼女は自 分の夢を、この章句の下に書きつけておいたのだ。 ーーわれ、眠りてよりすぐ夢みたり。 そこはいと暑き夏の日暮、夕陽に輝ける園にして、その 光はしだいに薄れ行きたり。  そのうちに、一枚の暫撫聯の葉チューリップの上に落つるを見、更に歩むうち、今度は広々と した池に出会いて、その|畔《まと》りに咲く|撫子《カ ネ ンヨン》を見るに、みな垂れ下がるほど|巨《おお》いなる|辮《はなびら》を持てり。  われ、それを取り去らんとするも数限りなく、やがて悲歎の声を発するのを聴きて、みずから 眼醒む。 「僕はフロイドじゃないがね。これは一種の、 |艶《セキズヨし ト》 |夢《ラウム》じゃないかと思うよ」  と検事は|莫《たぱこ》の煙を|吐《は》いて、いつまでも法水の眼を廟った。 「だって、あの|戦女《ワルキユ レ》みたいな、てんで意志だけしかないような冷たい女にだって、ときおりは |愛使《キユ ピツト》が|扉《ドア》を叩くことがあるだろう。ところが、亭主の八住ときたら、いつも精神的な澄まし汁 みたいなもので、その中には肉片もなければ、団子一つ浮いちゃいないんだ」 「なるほど、そうなるかねえ」  と法水は、検事の好譜謹にたまらなく苦笑したが、めずらしく口を|襟《つぐ》んでいて、彼はいっこう に知見を主張しようとはしなかった。  そして、「二ーベルンゲン|諏詩《り ト》」を片手に下げたまま、|旧《もと》の室にぶらりと戻っていった。が、 はからずもそこで、この事件の|浪漫《ロ マン》的な神秘が、いちだんと濃くされた。  彼はそこにいる三人を前にして、妙に底のあるらしい言葉を口にした。 「僕は、だんだんとこの事件が、いわゆる法則でないと呼ぶものに、一致するような世界である ことが判ってきました。  それは、純然たる空想の産物で、まったくの狂気が勝を制する世界なのです。その中には、神 や精霊が現われてきますが、しかしそれは、その世界でのみあると信じられているもので、少な くとも僕らは、一応それに額縁を|嵌《は》めてみる必要があると思うのです。  ところでこれは、いったい流星の芝居なんでしょうか。それとも、地上の出来事なんでしょう かね」  と本の一個所を開いて、彼は読みはじめたが、その内容は、白い地に置かれた黒そのもののよ うに、対象をくっきりと|潭《うか》び上がらせた。 〔血に汚れし殺人者、|惨屍《むくろ》のかたわらに来たるときは、|創《きず》破れて血を流すと云う〕  殺人者を指摘する屍体の流血ーーそれを法水が読み終ると、一同の眼は期せずして犬射の顔に 注がれた。  なぜなら、八住の死後十時間後に起った流血は、彼が、その傍らに立っているさなかに始まっ たからである。  しかし、犬射の驚きの色はやがて怒りに変って、 「遺憾ですがーー法水さん、それは僕の|酒落《しやれ》じゃありませんよ」  とどこか皮肉な調子ながら、悲しげに云い返ごた。 「いや、それどころじゃない、怖ろしい空想です。そんなことから、この事件はいっそう面倒な ものになりましょう」 「僕は、そうとはけっして思いませんがね」  法水は、力をこめて、相手をさぐるように見た。 「それがこの事件に、ある種の解決をもたらすでしょうし 「驚いた。何のことか、僕にはさっぱり分らん」  犬射は混乱して、あやうく自制を失いかけたが、ただ声を|額《ふる》わせるのみで、かろうじて踏みと どまった。 「あなたは、これが実務だということを忘れていらっしゃる。陰気な、間違えば、ひとを|引摺《ひきず》り 込むような、危険な|遊戯《ケ ム》に|耽《ふけ》っておられる。いったい、なんです。たかが、伝説じゃありません か、それが、この屍体の流血になんの関係がありますη」 「われわれには、そうと信じてよい立派な理由があるのですよ。伝説にも、犬射さん、いろいろ ありますからね」  法水は、冷静そのもののごとく、どうやら、語気にも誘いの気配が見受けられた。 「ハハハハ、『二ーベルンゲン|伝説《ザガ》』の講釈なら、僕からあなたに、お聴かせしてもかまいませ んがね。しかし、一言御注意だけしておきますが、これがもし私でないとしたら-…・。もし、さ っき近よったときの貴方だとしたら、御自分をいったいどうなさいますη ば、|莫迦《ばか》らしい!」 一,そうです、やめましょうL 法水は、|故意《わざ》と、弱々しげな嘆息をして、 「こんなことで、議論をするのは、止めようじゃありませんか。ただ僕は、ジーグフリードが殺 されて……しかも、血栓を破って、屍体から血が吹きでてきた……」  と云いかけたとき思いがけない声が、朝枝から発せられた。それは、彼女の全身に、突然狂気 めいた力が|濠《みなぎ》ったかのように、その蒼ざめた顔が一筋二筋光ってみえた。 「叔父さま、まったく犬射さんのおっしゃるとおりなんですわ。ジーグフリードは、けっして父 さんではございません。これは、、↑メ(㍗ぢ"響繧冒擁碕㍊計計)なんですわ。ジー グフリードを殺そうとして、殺された……」 「ミーメ・::・」  と|口諦《くちずさ》んで、法水はその一場の心理劇を、噛みしめるように玩味していたが、やがて、意味あ りげな言葉を犬射に云った。 「そうです。まさに、あの殺人鬼の|幻想的《フアンクスティッフ》な遊戯なんですよ。しかし、これに|海人藻芥《あまのもくず》(吠鯛 号)という署名はないにしても、いずれは、誰かの雅号となって、現われずにはいますまい」  最後の応酬がちょっと気色ばんで、険悪だっただけで、艇内におけるいっさいが事なく終って しまった。  |鎗蓋《ハッイ》の上には、すでに|黄昏《たそがれ》近い沈んだ光が漂っていて、時刻は五時を過ぎていた。検事は、鉄 梯子を先に上って行く、法水の背後から声をかけた。 「まったく、殉教的な精神でもなけりゃ、こんな事件にはめったに動けんと思うよ。なにしろ、 ほんの|極微《ちつ》ぽけな材料だけで、極大の容積を得ようというんだからね。  第一、犯罪史にかつて類のなかった海底ときて、しかも、現場は三重の密室だ。それに兇器が そこから、風みたいに消え失せているーーいや|扉《トア》の鍵孔にも、外側から覆いがあるんだからね、 風でさえも抜けられんという始末だ。そして、僕らの眼前で、あの殺人鬼は|創《きず》口に孔を明け、ま んまと鼻をあかしているんだ。  だから、だんだんに深入りしていくと、なにか|旧《もと》の夢の中に戻ってゆくような気がするんだ ぜし  法水は、検事の手を取って引き上げてから、海気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして、すこぶ る激越な調子で云った。 「いやこの事件の解決は、つまるところ、一つの|定数《コンスタント》を見出すにあるんだ。  で、その一つというのは、かつて『|鷹《ハビヒッ》の|城《フルク》』の遭難中に、艇長と四人の盲人とをめぐり、い ったい何事が行われたか……ということだ。  艇内日誌を見ても、その部分はことごとく切り取られている。ねえ支倉君、たしかあの中には、 この事件の暗黒を照らしだすような、重要な一、二枚があるにちがいない。それが分らなくて、 金輪際僕らになにが見えてくれるもんか」  と|陸《おか》に跳び上がって、二つある|岩路《いわみち》の左手を択んで、断崖を|蟻《うね》って行った。 「それから支倉君、この事件の女性二人は、それぞれ夫と父の変死に、悲しむ色さえ見せようと はしない。  その|比例《プロポさノヨン》たるや、すでに常態ではないだろう。わけても朝枝だが、あの暁の精みたいな娘の 中には、何でも怖ろしい夢や幻を、そのままの姿で受けつけるような力が張り切っている。  だから、ブレーク、ベックリン、ロセチ、それにドーレの『失楽園』や、キャメロンの『|水 神《アンテイヨノ》』、『二iベルンゲン|諏詩《リ ト》』のデイリッツなどーーああした、すこぶる|幻想的《フアンタスヰツク》な挿画を見ると だね……し  と云いかけたとき、断崖の尽きた岩壁に、日傘が二つ並んでいた。ウルリーケと朝枝が、のぼ ってくる二人を待っていた。  岩壁の窪みには、|董《すみれ》色をした影が拡がっていて、沖からかけての一面の波頭は、夕陽の|箭《や》をう けて黄色い縞をなしていた。  法水は、しばらく雑談している三人から離れて、|傭向《うつむ》きながら歩いていたが、やがて|速歩《はやあし》に追 いつくと、ウルリーケにいった。 「ねえ|夫人《おくさん》、艇内日誌には、わずか一、二枚しか残っていないのですが、貴女は切り取られた内 容を御存知ですかー1そして、誰がいつ切り取ったかも」 「いいえ、どっちも存じませんわ」  ウルリーケは日傘を返して、法水にチラリと|流晒《ながしめ》をくれたが、 「あれが、もし完全でしたら、きっとテオバルトの忠誠が報われたにちがいないと信じておりま すL 「しかし、生還は……夢にも信じてはおいでにならなかったのでしょうね」  と優しげな|声音《こわね》ながらも、法水が畳みかけると、ウルリーケは不意の熱情に駆られて、|微《かす》かに 声を|標《ふる》わせた 「ええどうして、テオバルトの生還が望まれましょうか。ですけど法水さん、私、あの「|鷹《えヒヒノノ》の |城《んク》』だけは、いつかかならず戻って来ると信じておりましたわ。  艇内が海水でいっぱいになって、クローリン|瓦斯《ガス》が|濠《もうもう》々と|充《みちみち》々ていても---1ええ、そうですわ。 あの真黒に汚れた帆が、どうしたって、私には見えずにいないと信じておりましたわ。  ところが『|鷹《ハヒヒツ》の|城《フルプ》』の遭難が、私を永達に引き離してしまいました。孤独-ーiいまの私に、 それ以外の何ものがございましょう」  と、ウルリーケは悲しそうにいったが、法水は、彼女の声が終るとそれなり黙りこんでしまっ た。しかし、頭のなかでは、それまで分離していたいくつかの和声旋律が合して、急に一つの荘 厳な|全音合《コ ク》奏となりとどろいた。  そして、その|夕《ゆうべ》からはじまった急追を手はじめにして、彼の神経は、あの不思議な三角形- 艇長・シュテッヘ大尉・|維納《ウィン》の鉄仮面と、この三つを繋ぐ直線の上ではたらきはじめた。 「|夫人《おくさん》、いつぞや貴女は、|菩提樹《リンデン》の葉と|十字形《フロスしット》とで、いったい何を示そうとなさったのですか。 そして、貴女が最も|催《おそ》れられていたその男が、毎夜、裏庭の防堤にまで、来ていたのは御存知な いのですか」  と八住家の玄関を|跨《また》ぐと、法水は突如ウルリーケを驚かせたが、そう云いながらも彼は、背筋 を氷のような|戦標《せんりつ》が走り過ぎたのを覚えたのであった。 第三編 偶像の|黄昏《たそがれ》       一、|漂浪《さまよ》える「|鷹《ハビヒッ》の|城《つルワ》」  いったんは、ウルリーケも|樗《ぎよ》っとしたように振りむいたが、しばらく日傘をつぼめかけたまま じっと相手の顔をみつめていた。  その顔は、また不思議なほどの無表情で、秘密っぽい、|法水《のりみず》の言葉にも|反響《こだトま》一つ戻っで、はこな いのだ。やがて、自失から醒めたように、正確な調子で問いかえした。 「お言葉の意味が、はっきりとは判りませんけれど、私が怖ろしがっている男というのは、そり ゃいったい誰のことなんですの。夜になると裏の防堤に来る  と、いまたしかにそうおっしゃ いましたわね。では、その名を打ち明けて下さいましなーiああ誰なんでしょうね。またその男 が、|貴方《あなた》は、どこから来るとおっしゃるんですの」 「その名は、まだ不幸にして指摘する時機には達しておりません。しかし、その男の出現には、 れっきとした証拠があがっているのです。|夫人《おくさん》、実は|彼方《あちら》からなんですよ」  と沈痛な眉をあげて、法水は顎を背後にしやくった。 「海からです。その男は、毎夜海から上がって来て、あの防堤のあたりを|彷裡《さまよ》い歩くのです。で すが|夫人《おくさん》、けっして僕は幻影を見ているのじゃありませんよ。それには、|暗喩《メタフオルイ》も|誇張《ペルボこル》もありま せん。修辞はいっさい抜ぎにして、僕はただ厳然たる事実のみを申し上げているのです。たぶん、 明日の夜の|払暁《ひきあけ》には、その姿を、防堤の上で御覧になるでしょう」 「なに、海から:一…毎夜海から上がって、裏の防堤に来る……」と顎骨をガクガク鳴らせながら、 検事は頭の|頂辺《てつぺん》まで痺れゆくのを感じた。  そして、われ知らず防堤の|方《かた》を見やるのであったが、どうしたことか、肝腎のウルリーケには、 なんの変化も現われてはこない。  彼女の胸は、ふんわりと|気息《いき づ》いていて、その深々とした落着きは、波紋をうけつけぬ|隠沼《こもりぬ》のよ うに思えた。しかし、その眼を転じて、法水を見ると、そこにはいつも変らぬ、鉄壁のような信 念が燃えているのであるから、いよいよもって、その心理劇の正体が|朦朧《もうろう》としてしまい、知りつ ?ーーそこを迷路と承知しながらも、検事は足を引き抜くことができなくなってしまうのだった。  やがて、ウルリーケは家の中に去ってしまったが、検事だけはひとり残って、ぼんやりと海景 を眺め暮していた。それは、法水が持ち出した混沌画の魅力に圧せられて、彼は模索の糸を、絶 つことができなかったからである。  iiIああ法水がキッパリと云い切った態度からは、|毫《ごう》もいつものように術策や、誰計らしい匂 いが感ぜられなかった。  のみならず、彼の神経といえば、それこそ|五浬《マイル》先の落ち|擢《かい》さえも|見遁《みのが》さぬという、潜望鏡のそ れよりも鋭敏ではないか。  そうすると、事によったら、彼の眼に映じたものは、生きながら消え失せて、「|鷹《ハヒレしッ》の|城《マルフ》」の悪 霊と呼ばれるシュテッヘ大尉ではなかったか。  それとも、まだ名も姿も知られていない何者かが、しかも|帆桁《ほげた》は朽ち船員は死に絶えても、嵐  なぎ              さすら                                        えい,こう と凪を越え、七つの海を漂浪い行くと云われるのだが、その身は生とも死ともつかず、永劫の呪 縛にくくられている|幽霊船長《フアンアミチツケン》と-ー-きしみ合う二つの車輪、まさに幻想と現実とが、触れ合お うとする空怖ろしさ、またそれを縫ってシュテッヘの幻が、見もせぬに跳び上がり、沈み消えし ては踊り乱れるのだった。  が、そうしてああでもないこうでもないと、もの狂わしい循環論の末には、いつか知性も良識 も、跡方なく飛び散ってしまって、まったく他の眼から見たら、滑稽なほどの子供っぽさ、いた                   ぎようそう          け 声ぴ ずらに神話の中を経めぐったり、あるいは形相凄まじい、迷信の物の怪に怯えたりなどして、 検事はしだいに夢を換え、幻から幻に移り変って行くのだったが、やがて終いには、その深々と した神秘、伝奇めいた香気に酔いしどれてしまって、|譜妄《たわごと》にも、殺人事件の犯人などどうでもよ いと思われたほど、いまや彼の感覚は、まったく根こそぎ奪い尽され去ってしまった。  そのおり、|黄昏《たそがれ》の薄映えは、いぜん波頭を彩っていたけれども、|海霧《ガズ》は暗さを増す|一刻《ひととき》ごとに 濃く、またその揺動が、暗礁を|黒鍵《こくけん》のように|弄《もてあそ》んで、それが薄れ消えるときは、鈍い重たげな 音を感ずるのである。  やがて、|海霧《ガス》の騎行に光が失せて、|大劇帆《テユきハ》のような潮鳴りが、岬の天地を包み去ろうとすると き、そのところどころの裂目を、|鹸辛《しおから》い|疾風《はやて》が吹き過ぎて行くのだが、その風は氷のように冷た く、海霧はまた人肌のように生ぬるかった。  そうして岬の一夜 まこと彼ら二人にとれば、その記憶から一生離れ去ることのないと思わ れるほど、おぞましい、悪夢のような闇が始まったのである。  その  古風な風見が廻っている岬の一つ家には、痩せてひょろ高い浜草が、|漆喰《しつくい》の割目から 生え伸びているほどで、屋根は傾き塗料は剥げ、|雨樋《あまどい》は壊れ落ちて、|蛇腹《じやばら》や破風は、海燕の巣で 一面に覆われていた。  そうした時の破壊力には、えてして歴史的な、動かしがたい思い出などが結びついているもの だが、誰しもその自然の碑文には心を打たれ、また、それらのすべては、|傷《いた》ましい荒廃の感銘に ほかならないのであった。  しかし、外見は海荘風のその家も、|内部《なか》に入ると、いちじるしく趣を異にしてくる。  天井は低く床は石畳で、|扉《トア》のある部分は、壁が|供門《アミチ》形に切り抜かれている。そして、その所々 には、クルージイと呼ばれて魚油を点す|壁灯《かべび》や、長い鎖のついた分銅を垂している、古風な時計 などが掛けられているのだから、もしそこに石炉や自在鉤や|紡車《つむぎぐるま》が置かれてあったり、煤けた 天井に、腹を開いた|燃《くん》製の魚などが吊されているとすれば、誰あろうがこの家を、信心深い北海 の漁家とみるに相違ない。  |扉《トア》を入ると、そこは質素な客問だったが、正面の書架の上には、一枚の油絵が掲げられていて、 それには美しく、威厳のある士官が描かれてあった。  それがウルリーケの夫、テオバルト・フォン・エッセン男爵の画像だったのである。  金髪が柔らかに額を渦巻いて、わけても眼と唇には、憧れを|唆《そそ》り立てる、魔薬のような魅力が あった。  法水はウルリーケの|室《へや》を出ると、その画像をしばらく見詰めていたが、やがて眼を落して、書 架の中から一冊の本を抜き出した。  その書名を肩越しに見て、「|快走艇術《ヨッチンク》」;1と、検事は腹立たし気に|咳《つぶや》いたが、そのまま薄暗 い室内を歩きはじめた。  灯のこないその|室《へや》には、微かな、まるで埃のような|光霜《もや》が漂っていて、木椅子の肌や書名の背 文字が異様に光り、そのうら淋しさのみでも、低い漠然とした恐怖を覚えるのだった。  やがて検事は、寒々とした声で眩きはじめた。 「法水君、君はもっと野蛮で、壮大であって欲しいと思うよ。きまって殺人事件となると、肝腎 の犯人よりも、すぐに空や砂、水の瑠璃色などを気にしたがるのだからね。そこで|断《ことわ》っておくが、 ここには、黒死館風景はないんだぜ。豪華な大画|肪《ほう》や、|縞《きら》びやかな|鯨骨《フアノン》を|張《グ 》った|下袴《スカミト》などが、こ の|荒《あぱ》ら家のどこから現われて来るもんか。だから、今度という今度、書架の前だけは素通りして くれると思っていたよ。『|鷹《ハビヒッゴ》の|城《んフ》』を|快走艇《ヨノト》に外装したーそれが、古臭いパドミントン叢書に なんの関係があるんだい。そんな暗闇の中で、見えもせぬ本を楯に、君はなにを考えているの だ?」 「そうは云うがねえ支倉君、もしこの銅版画が、僕の幻を実在に移すものだとしたら、どうする ね。見給えー一八四三年八月、|王立《ロイヤル》カリンティアン|倶楽部《ァラフ》賞盃獲得艇『|神秘《ニちフちテリコ》』とある・-:・」  と艇長が属していた倶楽部旗を示したが、やがて法水は、|呆気《あつけ》にとられた検事を前に、長い|間《ま》 を置いてから、 「なるほど、君の云うとおりかもしれんよ。この事件ではっきり区別できる色といえば、まず海 の緑、空の|紺青《こんじよう》、砂の灰;-とこの三つしかない。ところが支倉君、この三色刷を見詰めてい るとだ。どうやら碑銘を読んでくれる、死人の名が判ったような気がしてきたよ」  と云うと、検事はその|頁《リヘきジ》をパタンと閉じて、嘆息した。 「すると、緑、紺青、灰ーー1というと、この点十字の三角旗にある、色合の全部じゃないか。だ が、その倶楽部にいた艇長は、すでに死んでいる……ああやはり、君は自分勝手で小説を作った り、我を忘れて、豊楽な気分に陶酔しているんだ。そんな|石鹸玉《シヤボンだま》みたいなもので、あの海底の密 室が、開かれると云うのならやって見給え。では、兇器をどこから捜し出すね。それに、あの|室《へや》 から姿を消したお化けは、いったい誰なんだ。また、あの時胸を|挟《えぐ》られたにもかかわらず、|八住《やずみ》 は悲鳴をあげなかったーiそれも、すこぶる重大な疑問じゃないかと思うよ。僕は、そうしてい る君を見ると、じつにやりきれない気持になるのだがね。まして君は、夜な夜な海から上がって、 防堤に来る男がある-Ilと云う。もし、それが真実だったら、この朦朧とした|結合《コニヒネ シヨン》には、永 劫解ける望みがない」 「そうなんだ支倉君、まさに|時《テで フリス》は|過《ト イスト》ぎたりーーさ。この|事《 サム エンテ》件の帰するところは、さしづめ、 この一点以外にはないと思うよ」  と薄闇の中から、法水が声を投げると、検事は|慌《あわ》てて両手を握りしめた。そして、 「なに、|時《チィ フリス》は|過《ト イズト》ぎたり11|本《 わム エンギ》気か法水君、君は捜査を中止しろと云うのかし  と叫んだが、その時意外にも、法水はこらえ兼ねたように爆笑を上げた。 「ハハハハハ冗談じゃない。僕は、久し振りで陸へ上がった、ヴァン・シュトラーテンのことを 云っているのだよ。幕が上がって幽霊船長が、七年ぶりでザントヴィーケの港に上陸するとき、 はじめその|中低《ハリト》音が、この歌を唱うんだ。つまり、僕が云うのはワグネルの歌劇さー--『さま《 オィ フリ 》|よ える|和蘭人《ザ ニ  ホレンク 》』のことなんだよ」     (註)。「さまよえる和蘭人」ーー船長ヴァン・シュトラーテンは、嵐の夜冒漬の一一一一口葉を発したために、    永劫罰せられ、海上を漂浪せねばならなくなる。そして、七年目に一度上陸を許されるのだが、ザン    トヴィーケの港で少女ゼンタの愛によって救われ、幽霊船は海底に沈んでしまう。  そうして、手にした埃りっぽい譜本を示したが、その皮肉な|譜護《ユ ニア》に、検事は釘づけられるよう な力を感じた。  なぜなら、幽霊船長ヴァン・シュトラーテンの上陸ilその怪異伝説が、法水の夢想にピタリ と一致したばかりでなく、ーわけても検事には、それによって、一つ名が指摘されたように考えら れたからである。  というのは、|途《みちみち》々ウルリーケが話したとおりに、艇長の生地が|和蘭《ザ ラニマ》のロッタム島だとすれば、 当然その符合が、彼を指差すものでなくて何であろう。  しかし、一方艇長の死は確実であり、またよしんば生存しているにしても、それは、「|維納《ウイン》の 鉄仮面」の名で表わされているのであるから、検事は考えれば考えるほど、疑惑の底深さに怖れ を感ずるのだった。  が、その折、法水は右手の壁に顎をしゃくって、検事に見よとばかりに|促《うなが》した。そこは、ウル リーケの|室《ヘや》に続く合いの|扉《ドア》で、わずかに透いた隙間から、室内の模様が手にとるごとく見えた。 壁には、|脂《やに》っぽい魚油が灯されていて、その光が、|枢《くるる》の上の艇長の写真に届いているのだが、そ の下で、ウルリーケがぼんやりと海を眺めている。  その前方には、防堤が黒いリボンのように見えて、その上に、星が一つまた一つとあらわれて くる。  しかし、検事はその遠景でなしに、なにを認めたのであろうか、思わず眼をみはって吐息を洩 らした。  なぜなら彼は、夫の死にもかかわらず、|華美《はで》な|平服《ふだんぎ》に着換えた、ウルリーケを発見したからで ある。 「こりゃ驚いた  あの女は亭主が殺されるまでは、喪服を着ていて、死んでしまうと、今度は |快走艇着《ヨツモぎ》に着換えてしまった。明らかにウルリーケは、八住を卑下しているんだ。だが、どう考 えても、犯人じゃないと思うね。自分の熱情の前には、何もかも忘れて、ただそれのみを、ひた むきに|露出《むきだ》してしまうのだ。ねえ法水君、そういった種類の女には、きまって犯罪者はいないも のだよ」  と|旧《もと》の|卓子《チ フル》の所まで戻って来ると、彼は小声で法水に囁いた。 「だが一応は、アマリリスを調べてみる必要があると思うね。朝枝の云うのが、もし真実だとす れば、アマリリスをウルリーケが持ち込むと同時に、殺人が起ったと云えるだろう。そして、そ れまで十何日か鎖ざしていた蕾が、その時パッと開いてしまったのだ……」  |海霧《ガズ》が|扉《トア》の隙からもくもく入り込んで来て、二人の|周囲《ぐるりけ》を|姻《むり》のように|靡《なび》きはじめた。が、それ を聴くと、法水は突然坐り直したが、すると頭上の霧が、|漏斗《じようご》のように渦巻いて行くのだ、彼は 手にした「二ーベルンゲン讃詩」を、縦横に弄びながら、 「冗談じゃないね。この事件に、心理分析も検証もくそもあるもんか。あのトリエステに始まっ た、大伝奇の琴線に触れることだよ。で、|先刻《さつき》この本を見たとき、ふと思いあたったことだが、 君はシャバネーが|運命《ベロきル コア 》の|先行者《 オヴ テステイニ 》と云った、|愚着《ひようちやく》心理を知っているかね。かりに、自分の境 遇が、小説か戯曲中の人物に似ているとする場合だ。そのちょっとした発見から、たちまち偏見 が湧き起って、その人間は遮二無二最後の頁を開け、|大団円《キヤダストロフ》を見てしまうんだ。現に、その展 覧狂めいたものが、あの流血には現われているじゃないか。だが支倉君、もし、その心理を前提 とするとだ……」  検事はニコリと微笑んで、法水に全部を云わせなかった。 「なるほど判った。それで君は、クリームヒルトのことを云いたいのだろう。あの|女主人公《ヒロイン》の個 性は、この暗い復讐悲劇の中で、最も強烈を極めている。ハーゲンに殺された夫ジーグフリード の幻を、胸に抱きしめて、クリームヒルトは|勾牙利《ハンガい 》王エッツェルの許に嫁ぐ。そして、十七年後 に復讐を遂げるのだが、それには船長を片時も忘れられず、八住の妻となった、ウルリーケが生 き生きとしているじゃないか。あの気高く、何ものをも覆い尽そうとする愛  その青白さはど うだ。あれはまったく、超自然の色だよ。ウルリーケの血管に、まさか一滴の血もない気遣いは ないが、もし青白い光の前に立たせたとしたら、あの女は無形物のように透きとおってしまうだ ろう。だが、法は法、動機は動機だ……」  と検事は|卓子《テえマル》を叩かんばかりの気配を示したが、その時ふと、|疎《すく》んだような影が差した。  と云うのは、この|静寂《しじま》のなかを左手の|室《へや》ー そこには、|扉《トア》も窓も鎖されていて、なに者もいよ う道理のない部屋の方向からして、妙に佗しく、コトリコトリと寒さげな音がひびいてきたから である。  しかし、智性を鋭くしてみると、そこには心を乱すような、何ものも含まれている気遣いはな いのであるから、瞬間に検事は、|旧《もと》の顔色を復して続けた。 「ねえ法水君、不幸にして、『|鷹《ハヒヒノ》の|城《マルフ》』遭難の真相が明らかではない。もし、あの夜海底で八住 が艇長を殺し、そうした気配が、日誌の中に記されていたとすれば ーだ。なにしろ、八住は|盲 目《めくら》なんだし、またそれと知って、十七年間機会を狙っていたものと云えば、まずウルリーケをさ ておいて、ほかに誰があるだろう。あの日誌を破ったのは、てっきりウルリーケだと思うよ。あ あ、」1七年後:…」  とそこで計らずも検事は、「二iベルンゲン諏詩」とこの事件とをつなぐ、第二の暗合を発見 した  十七年後。  すると、ハッと夢から醒めたようになって、それまで、法水の夢想に追従しきっていた、おの れの愚かさを悟ったのである。  法水も、その刺戟を隠し了せることはできなかったが、彼は、検事の言葉がなかったもののよ うに、そのまま|旧《もと》の語尾を繰り返した。 「ところが、その心理を前提として……、艇長とジーグフリード、ウルリーケとクリームヒルト   という符合に|葱《とつ》つかれることだ。肝腎な二ーベルンゲンの神秘|隠《クルンカ》れ|衣《ツヘ》が、そうした心理的な 壁に、隔てられてしまうのだ。ねえ支倉君、『二iベルンゲン謹詩』のこの事件における意義は、 けっして後半の|旬牙利《ハンガリ 》王宮にはない、むしろ前半の、しかも|氷島《イスラント》の中にあるんだ。つまり、ジ ーグフリードが姿を消すに用いる、魔法の|隠《クルンカ》れ|衣《ツベ》がいつどこで使われたか……。また、その|氷《イフラ》 島というのが、この事件ではどこに当るか  だ。繰り返して云うがね、ウルリーケは絶対にク リームヒルトではなく、|氷島《イス フンさ》の女王ブルンヒルトなんだ。しかも、この事件のブルンヒルトは、 魔女のように|悪狡《わるがし》こノ\邪悪なスペードの女王なんだよ」 「ブルンヒルト……」  と検事はとっさに反問したが、なぜか検事の説を否定するにもかかわらず、法水が、かたわら ウルリーケを|邪《よこし》まな存在に指摘する  その理由がてんで判らなかった。  法水は、|姻《けむり》を吐いて続けた。 「と云うのは、クリームヒルトなら、ただの人間の女にすぎないさ。ところが、ブルンヒルトと なると、その運命がさらに暗く宿命的で、彼女を|続《めぐ》るものは、みな狂気のような超自然の世界ば かりだ。最初焔の砦を消したジーグフリードを見て、その男々しさに秘かに胸をときめかした。 ところが、そのジーグフリードは、|隠《タルンカ》れ|衣《ツベ》で姿を消し、グンテル王の身代りとなった。支倉君、 君はこの比楡の意味が判るかね」 「|隠《タルンカ》れ|衣《ツペ》……」  と、その一つの単語の|鋭犀《ヴイヴイツド》なひびきに、検事は思わずも魅せられて、 「すると、その形容の意味からして、君は、|維納《ウィン》の鉄仮面を云うのか。それとも、また一面には シュテッヘ、艇長、今度の事件  と『|鷹《ハヒヒッ》の|城《マルグ》』の怪奇にも通じていると思うが……ああなる ほど、いかにもブルンヒルトは、グンテル王の身代りに|臓《だま》されたんだ。その|隠《タルンカ》れ|衣《ッペ》たるや、とり もなおさず、あの日誌じゃないかね。八住はその影に隠れて、ウルリーケを招き寄せた。しかも、 重要な部分を破り棄てて、彼女が再起しようとする望みをへし折ってしまった。それが判ったと したら、いかにもブルンヒルトはジーグフリードを殺しかねないだろう」 「ああ君には、どこまで手数が掛るんだろうね」  と芝居がかった嘆息をしたが、ふと瞳を開き切って、彼はきっと聴き耳を立てはじめた。  それは、潮の轟き海鳥の叫び声に入り交って|先刻《さつき》検事が耳にしたと同じく、きれぎれにどこか 隣室の、遠い|端《はず》れから伝わって来るのであるが、時として|楚音《あしおと》のように聴えるとすぐに遠ざかっ て、微かな鋭い、余韻を引くこともあるけれど、それは無理強いに彼らを導くようでもあり、ま た妙に、口にするのを阻むような力を具えていた。  しかし、まもなく法水は、新しい|蓑《たばこ》に火を点じて、口を開いた。 「ところで、末尾にある註を見ると、これにもラハマン教授が不審を述べているのだが、その|隠《ダし》 れ|衣《ンカツペ》は一|度氷島《イスラント》で使われたきり、その後は|杏《よう》として姿を消してしまったのだ。支倉君、|氷島《イォランし》な んだよ  しかもその時は、ブルンヒルトの面前で行われ、また、それが動機となって、女王の 不思議な運命悲劇が始まったのだ。ところが、この今様二ーベルンゲン讃詩になると、その氷島 というのが何処あろうトリエステなんだよ」 「なに、トリエステ……」 「そうなんだよ。そこで支倉君、トリエステで|隠《クんンカ》れ|衣《ツもへ》を冠った、ジーグフリードというと、それ はいったい、誰のことなんだろうね」 「すると君は、シュテッヘ大尉のことを云うのか。あの男は生きながら、『|鷹《ハビヒツ》の|城《フルフ》」の中て消え 失せてしまったのだ……」 「いやいや、その名はまだ、口にする時機じゃないがね。しかし、いま判っているのは、ジーグ フリードがその|隠《タルンカ》れ|衣《ツベ》を、自分で冠ったのではなく、ブルンヒルトに|被《かぷ》せられた ーという一事 なんだ。そして、それ以来地上から姿を消して、とうてい理法では信ぜられぬ生存を続けている のだが、ときおり海上に姿を現わして、いまなお七つの海を|漂浪《さまよ》っているのだ。ねえ支倉君、あ の神秘の扉を開く鍵は、|隠《タルンカ》れ|衣《ツペ》をつけたジーグフリード  この隠語一つの上にかかっているの だがね、いずれは防堤の上で、君にその姿を、御覧に入れる機会があるだろうよ」  検事には、すでに言葉を発する気力がなかった。  ただ彼は、二ーベルンゲン|諏詩《リミト》を|続《めぐ》って、二つの旋律が奏でられているような気がしていた。 自分が|弾《ひ》き出すと、いつも法水は、その上をいって、またその二つが絶えず絡み合うのだが、そ うしていつ尽きるか涯しない迷路の中を、真転びひしめき行くように思われた。  すると法水は、それまでにないひたむきな形相をして、言葉を次いだ。 「というのは、あるいは妄想かも知らんがね、実はある一つの、怖ろしい事実を知ったからなん だ。だから、一人の名を知れば、それでいいのだよ。ねえ支倉君、このモヤモヤした底知れない 神秘-1⊥事実まったく迷濠たる事件じゃないか。二ーベルンゲンーi暗い霧の子、|霧《タルンカ》の|衣《ツペ》、ああ 霧だ霧だよ、霧、霧、霧……」  と法水の手が、|頸《くび》の廻りをかいさぐると、握った指の間から、すうっと這い出るように|海霧《ガス》が 遁れて行くのだが、さてそうして開いた掌には|姻《けむり》の筋一つさえ残らないのである。  その指のしなだれ、燐火のような蒼白さには、ただでさえ、闇中の何物かに|怯《おび》やかされている こととて、検事は耐らず、灯を呼びたげな衝動に駆られてきた。  しかし、それは結論を述べる、法水の意外にも落着いた声で遮られた。 「そこで、僕が云うジーグフリードとは、いったい誰のことか。ジーグフリードのいない二ーベ ルンゲン諏詩i-この事件は、まさにそれなんだ。つまり、事件の解決は、あの大古典の伝奇的 なつながりの中にあるのだ。ああ支倉君、|紙魚《しみ》に蝕ばまれた文字の跡を補って、トリエステで口 火が始まる、大伝奇を完成させようじゃないか」  ジーグフリード……|別名《エコリアス》は?  それは事によると、芝居気たっぷりな法水が、暗にシュテッヘを差しているのかも知れず、も しくはまた、彼の卓越した心理分析によって、なにか会話の端からでも、新しい人名が掴み出さ れたのではないかと思われたが、そうして、検事は悪夢の中を行きつ戻りつしているうちに、い やが上にも謎を錯綜とさせる、法水を恨まずにはいられなかった。  そこへ、書架の横にある|扉《トア》が開いて、朝枝の蝋色をした顔が現われた。  彼女が手にした瀞炉を、軋iの上に置くのにも、その痩せた節高い指が、痛々しく努力するの を見て、法水は憐欄の情で胸が一杯になった。 「気がつきませんで……。またなにかお訊ねになりたいことが、あるかとも思いまして。それよ り私、申し上げたいことがございますの」 「と一ム一つと:::」 「それは、父のことなんですけど、とうに母の口からお聴きかもしれませんが、ここ十四、五日 の間というものは、きまって|暁《あ》け方になると、五時を跨いで戸外に出るのです。御存知のとおり の不自由な身で、それがどうあっても、行かねばならぬものと見えまして、戻って来ると、それ は息をきらして、暑苦しそうに頬を赤くしているのですわ。それでも、私に訊ねられますと、妙 にドギマギして、なあに、入江の曲り角まで行って来たのさー1と答えるのでしたが、また妙に、 その不思議な行動が一日も欠かしませず、実は、今朝がたまで続いていたのです。その入江の角 というのを、御存知でいらっしゃいますか。裏の防堤がずうと伸びて、岬を少し縫ったところで 終っているのですが、その曲ろうとする角が、そうなのでございます。その崖下には、今月の一 日から『|鷹《ヘビヒッ》の|城《フルク》』がつながれているのですわ」 「ふむ、『|鷹《ハヒヒノ》の|城《づルグ》』……」  検事は|蓑《たばこ》の端をグイと噛み切ったほどに、驚かされてしまった。 「すると、その辺のことを、正確に記憶していますか。お父さんが、そういう行動を始めたのは、 |何日《いつ》ごろだったか」 「でも、それ以前はどうであったか存じませんが、とにかく|臥《ふ》せりながら倉刃つきましたのは、さ あ半月ほどまえ、今月の十日からでございます。つまり、『|鷹《ハヒヒノ》の|城《マんゲ》』が来てから十日の後、また 三人の|盲人《めくら》の方は、その二日まえ  五月二十九日にここへ参りましたのです」  と朝枝は云って、なにかときめいたように|躊路《ちゆうちよ》していたが、やがて胸を張って、.口にしたも のがあった。  それから、もう一つ申し上げたいのは、父のそうした|行動《ふるまい》が始まった頃から、奇妙に母の態度 が変って、荒々しくなってきたことです。ですから、一日中母の眼を避けて、父は|紡車《つむぎぐるま》に|獅噛《しが》 みついていたのでしたわ。そのうえ、上の入歯を|紛《な》くしたせいもあったでしょうか、いやに下唇 ばかり突き出てしまって、それを見るとほんとうに、ひとしお|家畜《けものさ》めいて|憐《いじ》らしく思われまし た」  とその声が、ふと|杜絶《とぎ》れたかと思うと、彼女は瞳を片寄せて、耳を|傾《か》しげるような|所作《しぐさ》を始め た。 「ホラ、お聴きでございましょう。向うの|室《へや》から、コトリコトリと聴えてくる|音《ね》が……。あれが いま申し上げた紡車なのです。でもまあ、こんな時、誰が廻しているのでしょうねえ」  朝枝の不審は、それ以上の動作には出なかったけれども、彼女が去った後の室内は、沈黙の中  じつ                                           おぞ で凝と虚空から見つめているものがある気がして、なにか由々しい怖ましげな力が、ぞくぞくと 身の上に襲いかかってくるのを感じた。  それまではいつか笑い声のうちに消え去るかと、|腱《おぽ》ろな望みに耽っていたものliそれがいま や、吹きしく嵐と化したのであったが、二人はそこの|閾《しきい》まで来たとき、ハッと打ち据えられたよ うに顎を|錬《すく》めた。  それは、コトリと一つ、|微《かす》かに響いたかと思われると、その長い余韻の上を重なるようにして、 背後にある|室《へや》から、|盲人《めくら》の話声が聴えるのだったが、もちろん怖れというのはそれではなかった。 その|室《へや》には、前方に色の槌せた窓掛が、ダラリと垂れているだけで、その蔭の窓にも隅の壁炉に も、それぞれ掛金や|畳扉《たたみど》が下りてはいるが、壁炉の前にある紡車を見ると、それには糸の巻き外 れたものが幾筋となくあって、明らかに触れた人手があったのを証拠立てていた。  誰ひとり入ることのできないこの|室《へや》で、紡車が巻かれてあった  まさにその変異は、最初法 水が防堤の上で想像した一人の、眼に触れた最初の断片なのである。  まして、夜な夜な八住が外出していたということは、またその渦を狭めるものであって、|結 局《とどのつまり》、すべてが「|鷹《ハヒヒッ》の|城《フさブ》」に集注されてしまうのだが、そうして、二人はこの短時間のうちに、 全身の|胆汁《たんじゆう》を絞り尽したと思われるほどの、疲労を覚えたのであった。  やがて、|旧《もと》の|室《へや》に戻ると、そこにはウルリーケが、皮肉そうな微笑を湛えて二人を待っていた。 二、鉄仮面の舌  ウルリーケの顔は、血を薄めたような灯影の中で、妙に|猫介《けんかい》そうな、鋭いものに見えた。が、 二人が座に着くと、それを待ち兼ねたように切りだした。 「また、朝枝が何か|喋《しやべ》っていたようでしたわね。私、あの子が|先刻《さつき》のアマリリスといい、なぜ肉 身の母親を、そんなにまで憎しみたいのか理由が判りませんの。ですけど、八住が夜な夜な、き まって暁け方になると、『|鷹《ハししレしリノ》の|城《つハグ》』のある岬の角に、行くことだけは事実でございます。どうし て、不自由な身体を押してまでも、ハ住はそうしなくてはならなかったのでしょうか。そこへ貴 方は、毎夜防堤に来る男がある-ーとおっしゃいます。あああの夢が、だんだんと濃くなるでは ございませんか」 「なるほど  しかし、他人の夢にはおかまいなさらず、御自分の悪夢の方を、おっしやって下 さい。|時偶《ときたま》は、トリエステの血のような夢を御覧になるでしょうな」  と法水は、異様なものを|灰《ほの》めかしたけれど、ウルリーケの顔は|咄嵯《とつさ》に硬くなり、雲のような|量《ぼう》 としたものが舞い下りてきた。 「悪夢……。すると貴方は、シュテッヘのことをおっしゃるんですのね。なるほど、あの方が失 踪したおりには、テオバルトも一応は疑われました。現に|維納《ウイちノ》の人は、そういった迷信的な解釈 をいまだ棄てずにおります。いつまでもテオバルトのことを、『さまよえる|和蘭《オうンア》人」のように考 えていて、シュテッヘという悪魔を冒漬したために、七つの海を|漂浪《キフまよ》わねばならなくなったと信 ---------------------[End of Page 87]--------------------- じているのです。でもまあ、あのまたとない友情の間に、どうしてそんなことが……いいえ判り ましたわ。1十貴方もやはり、シュテッヘの失踪について、テオバルトを疑っていらっしゃるの です。ようございますわ。もし、飽くまでもそういう夢をお捨てにならないのでしたら、一つ防 堤に来る男というのを、シュテッヘに証明していただきましょうか」 「ところが|夫人《おくさん》」  と突然、法水に凄槍な気力が|濠《みなぎ》って、 「ところがその、和蘭人を呪縛にくくりつけた悪魔-1それは、とおの昔に死にました。いや、 率直に云いましょう。『|鷹《ハヒピツ》の|城《フハらフ》』遭難の夜艇内で死んだのは、実を云うと艇長ではなく、その悪 魔だったのです。そして、」方の和蘭人は、とうの昔トリエステで消え失せていて、それからも 『|鷹《ハヒヒツ》の|城《フんア》』を離れず、不思議な生存を続けておりました。どうでしょう|夫人《おくさん》、貴女は、この比喩 の意味がお判りですか」  それは、妖術というようなものが実現されたとき、かくあらんと思われるような瞬間だった。 検事もウルリーケも、同様化石したようになってしまって、よしや彼ら二人に、なお生命があっ たにしろ、眼はもう見えず、耳がはや聴えなくなったことは、確かであろう。  やがて、ウルリーケの唇から、濡れた紙巻がポタリと落ちたが、依然その姿勢は変らなかった。  法水は闇の海上を、怖ろしげに見やりながら、言葉を次いだ。 「つまり、ヴェネチア湾の海底で、生きながら消え失せたのは、シュテッヘではなく、フォン・ エッセンだったのですよ。もっと|明瞭《はつキリ》り云えば、シュテッヘをかくまった、UR-4|号《ゥ  エん》に、乗 り込んだのを最後に、艇長の地上の生活は失われたことになりましょう。なぜなら、そのおりシ ュテッヘのために、艇長は生とも死ともつかぬ不思議な抹殺をされて、シュテッヘはその場から、 フォン・エッセンになりすましました。ですから、その後貴女の|閨《ねや》を訪れた人も、コマンドルス キーの海底でこの世を去った艇長も、同様シュテッヘでありまして、しかもなお|奇異《ふしぎ》な事には、 艇長はそのまま『|鷹《ハビヒッ》の|城《マルブ》』の中で肉眼には見えぬ不可解な生活を続けていたのです。ですから、 僕はいま、その|漂浪《さまよ》える人を、防堤の上で証明しようとしているのですよ-」 「そうしますと法水さん。その一人二役の意味を、童話以上のものに証明お出来になりまして」  とウルリーケは嘲るように云ったが、その声にも、差恥と憎悪の色を包み隠すことはできなか った。 「だいたい他人の姿に変るということは、小説では容易であっても、事実は全然不可能だろうと 思われるのです。それでは、シュテッヘの顔を御存知なのでいらっしゃいますか。実は一枚、あ の方の写真があるのですけど、それはまだ、お眼にかけてはおりません」 「ところが|夫人《おくさん》、だいたいが、トリエステの早代りさえも映ろうという僕の眼に、そんなものは、 てんから不必要なのですよ。たしかシュテッヘは、|黒髪《マルネツゴ》で、細い唇よりの髭と、三角の|顎髭《あごひげ》を つけておりましたね。そして、だいたいの眼鼻立ちや輪廓が、艇長と大差なかったのではありま せんか」 「ああ、どうしてそれが」  と咄嵯に度を失ってしまい、ウルリーケの胸が、弛んだ太鼓のように波打ちはじめた。 「ですけど、あのテオバルトが、どうしてシュテッヘなものですか。貴方は、私を淫らな不義者 にして、いっそこんな恥辱をうけるのなら、私、この場で死んでしまいたい……」 「それでは、なぜ貴女は、艇長の写真を壁の小孔に当てて、掛けて置いたのです、僕はあの孔一 つから、貴女の心の|閨《ねや》を覗き込みましたよ」  と新しい|萸《たぱこ》に火を点じて、法水は冷酷な追及を始めた。 「|先刻《さらつキフ》お部屋を見たときに、あれが|湿《 》板写真ーーつまり日本に例をとれば、明治初年に|流行《ハほや》った 硝子写真であることを知りました。  御承知のとおり、硝子写真というものは、下に黒い地を置けばこそ、陽画に見えますが、もし 日光なり光線なりを背後に置いた場合、今度は陰画に化けてしまうのです。  その陰陽の転変……つまり、フォン・エッセンの金髪は黒髪に、唇の上や顎の尖りは、そのま ま口髭に、あるいは顎髭となって、フォン・エッセンとシュテッヘは、その一瞬の間に移り変っ てしまうのです。  ですから、心が冷たく打ち沈んだときに、裏板を引くと、そこにはシュテッヘの顔が明るく輝 き出すでしょう。  すると、貴女は、悩ましそうに微笑むでしょうが、たちまちその秘密の歓楽にぞくぞくしてき て、恋の初めの微妙な感情を、心ゆくままに想い起すことでしょう。ですから、シュテッヘの写 真を焼き捨てられても、僕の前には、いささかの効果もないのですよ」 「なに、シュテッヘの写真を焼き捨てた……僕は最初から、君の側を離れなかったのだが:-.」  と今度は、検事が不審そうに異議を唱えると、法水は面白そうに笑いながら、 「だって、どう考えたって、|紡車《つむぎぐるま》が独りでに廻るという道理はないだろう。それに、理由は後 で云うが、艇長は或る|奇異《ふしぎ》な迷信から、自分が『|鷹《ハヒヒッ》の|城《マんワ》』を離れる時刻を決めているんだ。あ れには、君も僕も|愕《ぎよ》っとなったが、しかしすぐ後で、僕は自分の愚かしさを|喧《わら》いたくなった。だ いたい壁炉というものは、必要のない期間だけ、下の火炉と煙突との間を、仕切りで塞いでおく のだ、ところが、それを焼き捨てた人物は、煙が家の中に、立ち|軍《こ》めるのを|催《おそ》れたからだろう。 仕切りを開いて、煙突から空中に飛散させたのだ。だから、その後になって、霧が煙突の上を通 るごとに、火炉の温い|洞《ほら》どの間に、当然還流が起らねばならない。そして、疾風のような気流が、 畳扉の隙から、紡車に吹きつけるからだ」  そう云って、法水は隣室におもむいたが、やがて戻って来たとき、手に台紙の燃え屑が握られ ていた。  しかし、彼は鋭鋒を休めず、さらにウルリーケに向って続けた。 「もちろんそれだけでは、シュテッヘと貴女との関係が、完壁に証明されたとは云われません。 しかし、『|鷹《ハヒヒッ》の|城《マんロ》』がトリエステを去った日の朝、貴女が、『二ーベルンゲン|諏詩《リ ト》』に|側《ァンクェラ》 |線《ィニ》を 引いて、|一《りきフ》8{(葉)と98。。す(|十《ァロスしソト》字形)という二つの文字を示されたでしょう。そのとき艇長 は、なぜ暗い気持に襲われたのでしょうか。貴女が、かたわらの眼を怖れて秘かに指摘した、ジ ーグフリードの弱点というのは、そもそもいったい何事だったのでしょうか  下には舌のよう な葉なりの形で、ただ一つの致命点があり、その上の衣の上に、縫った十字形が重なっていると云 えば。ところが|夫人《おくさん》、貴女はそれによって艇長が属していた|快走艇倶楽部《ヨツトくらぶ》  王立カリンティア ン倶楽部の三角旗を指摘したのでしたね。あの葉の形と三角旗、縫った十字形と点のみで出来た 十字ー⊥貴女は、よもやこの一致を偶然の暗合とは云いますまいね。またそうなって、真実その艇 長が、フォン・エッセンだとしたら、自分が自分を指摘されたところで、なにもそう、暗い気分 に打ち沈むことはなかろうと思われます。まさしくそれが、貴女の心の暗い秘密ーL不倫の恋が    作者のお断-   で・従って一字一字の間も、もっと離れ      たものである事を御承知願ひたい。 打ち出した怖るべき犯罪だったの ですL  と、|先刻《さつき》検事が嘲ったバドミン トン叢書の「|操艇術《ヨツチンワ》」を取り出し てきたとき、その驚くべきほど劇 的な一致が、今や動かしがたい事 実となって現われた。  そして、初めて検事に、|隠《ノルノカ》れ|衣《ツヘ》 を被せられたジーグフリートii の意味が明らかになったけれども、 彼は眼前のウルリーケが、一枚ず つ衣を脱がされてゆくように感じ た。  彼女のスカートには、まだ男喰いの獣性が、垢臭く匂っているかに思われたが、それはとうに 外されていて、今ではコルセットも|下衣《したぎ》もなく、こうして彼女は、男の前で真裸にされたのであ る。  続いて法水は、屠殺される、獣のように打ち|挫《ひし》がれているウルリーケを見やりながら、鮮かに、 トリエ.ステと今日の事件との間に、聯字符を引いた。 「ところが、貴女も後になって気つかれたように、まったく死んだと信じられていた艇長が、そ の後も不可解極まる生存を続けていたのです。そして、『|鷹《ハセヒツ》の|城《マんア》』が岬の角に来ると同時に、夜 な夜な上陸しては、防堤のあたりを|彷裡《さまよ》いはじめました。ねえ|夫人《おくさん》、艇長はその土の上に、一夜 に一字ずつ毒殺者の名を記していったのですよ」  とそこで、現実の恐怖が再びしんしんと舞い戻ってくるのだったが、さて彼が取り出したもの を見ると、それには奇様な符号が、並んでいるにすぎなかった。  しかし法水は、それに妖魔のような|気息《いぶき》を吹き込んでいった。 「この一団の符号が、この真裏に当る、防堤の上に記されてあったのですが、一見したところで は、なんのことはない子供の|悪戯《わるさ》としか見えないでしょう。しかし、計らずもこれに、僕の偏狂 な知識が役立ちました。つまり、これを古代火術符号(刈吐珊滑鵬幽恢喋初穐湘伽加撫炉価茄ηいワ"オ… 知も肺げ"押O旧筋吐刑)に当ててゆくのですが、もちろんその知識は、外国の軍事専門家ーーしかも、 極めて少数の人たちに限られていると云えましょう。でまず、最初の一つから、|硝子《フラス ノユク》 |粉《ウフ》、|浸《ィン》  |剤《フユスム》、|硫黄《スルフル》、|単寧《ダンニン》、|水銀《メんアル》、|酷《オキソス》、|溶和剤《レノんフエンチア》、|黄《 イステ》 |斑《イツエテ》 |粉《イン》、|紅《アイセノ》   |殻《メンニニゲ》、|樹脂《レキニナ》i-ーと読んでいって |結局《とどのつまり》その頭文字を連ねるのです。すると、そうしたものが、Ω㌣ヨα|巳臼《ギフト メ  んダ 》(毒殺者)となるでは ありませんか。ああ、毒殺者です。ところが、それ以下の十四字は、遺憾ながら読むことができ ないのですが、なんとなく字数の工合から察して、それには二人の名が、隠されているように思 われるのです。もちろん、そのうちの一つは、すでに遂行されております  いつぞや遭難の夜 に、悪人ながら友シュテッヘを毒殺した八年1とすると、もう一人の方は、|夫人《おくさん》、いったいだ れになるのでしょうか」  と法水が、グイと|扶《えぐ》るような抑揚をつけたけれども、ウルリーケはただ夢見るような瞳を、う つらと|腰《みは》っているにすぎなかった。  しかし検事は、そうして遭難の夜の秘密が曝露されて、その時どこかの隅に、肉の眼には見え ない異様な目撃者があったのを思うと、たまらなく|総身《そうみ》に粟立つのを覚えるのだった。が、次の 瞬間、その恐怖はよりいっそう濃くされて、彼は失神せんばかりの激動に打たれた。 「むろんもう一人の名を、ここで野暮らしく、口にするまでには及びますまい。しかし、それ以 外にまだもう一つの大きな問題があるのです。と云うのは、最後に大きく記されているXから、 屍体の流血で描かれた、|卍《まんじ》が聯想されてくるのでして、また、そこに憶測が加わると云うのは、 毎夜八住が外出するのが、|払暁《あけがた》の五時を跨ぎ、さらに今日の事件が、やはり同じ時刻に行われて いるからです。そうして、Xの」字を、アラビヤ数字の五(V)二つに割ると、あるいは次の惨 劇が起るのが、同じ時刻ではないかという、懸念が濃くなってきます。|夫人《おくさん》僕らは夜を徹して、 貴女を護りましょう。貴女の悪業は、近世の名将と云われた、第一の夫フォン・エッセンを葬っ たばかりでなく、続いて第二の夫、|姦夫《かんぷ》シュテッヘにも非業な最期を遂げさせ、さらに第三の夫、 八住も殺さなければならなくなったのです。そして、やがては、あの英雄フォン.エッセンも、 吾々の手に殺人者として捕縛されることでしょう。しかし、なんとしても僕らは、姦婦である貴 女を、死の手から遮らねばならないのですL  こうして、フォン・エッセンの存在がいよいよ確実にされたのみならず、|払暁《あけがた》の五時には、お そらくその触手が、ウルリーケの上に伸べられるであろう。  再びこの|室《へや》は深々とした沈黙に支配されて、それまでは、耳に入らなかった潮鳴りが耳膜を打 ち、駅馬車の|劇帆《ラツハ》の音が、微かに聴えてきた。  ところが、その一瞬後に、事態が急転してしまったと云うのは、ウルリーケが静かに立って、 書架の中から、二つの品を抜き出して来たからである。  それを見ると、法水はいたたまらなくなったように、|面《おもて》を伏せた。  なぜなら、その一つというのは、かつてシュテッヘの研究講目だった「|古代火術史《こだいかじゆつし》」で、いま だ|頁《ヘコシ》も切られてはいず、また片方の新聞切抜帖には、大戦直前における|快走艇《ヨツト》倶楽部員の移動が 記されていて、艇長とシュテッヘとは、交互に反対の倶楽部へ入会しているのだった。  しかしウルリーケは、法水の謝辞を快く容れて自室へ去ったが、そうして、悪鬼の名が、瞬間 フォン・エッセンからシュテッヘに変ると同時に、次に目されている二人目の犠牲者の名も、い つしか曖昧模糊たるものになってしまった。  いずれにしても、遭難の夜の秘密は底知れないのであるが、もしかして三人の|盲人《めくら》を訊問して みたら、あるいはその真相が判ってくるのではないかと思われた。そうして、防堤の上に記され ているーもう一人を知るために、さっそく三人の盲人が呼ばれることになったが、やがて|不具 者《かたわもの》の悲愁な姿が現われると、この|室《へや》の空気は、いっそう暗港たるものに化してしまった。  最初に詩人の犬射が、例の美しい髪を|揺《ゆす》り上げて質問に答えた。 「私に、あの夜の艇長について語れとおっしゃるが、それは一口に云うと、海そのもののような 沈着だったと云えましょう。  あの方は、絶えず私たちに、最後まで希望を捨てるな  と|訓《なフと》されましたが、四人の眼は、そ こに磁石でもあるかのように、知らず識らず、救命具のある、貯蔵庫の方に引きつけられていっ たのです。  すると艇長は、その気配のただならぬのを悟ったのでしょうか、|莞爾《につこ》と微笑んで、吾々に潜望 鏡を覗かせるのでした。  ところが、水深二○米の水中にもかかわらず、海水が水銀のような白光を放つているのです。 流氷  艇長にそう云われて初めて、温度がいちじるしく低下しているのに気がついたのですが、 それを知ると同時に、たちまち周囲が暗くなつて、大地が割れた間から、|無間《むげん》の地獄が覗いてい るような気がいたしました。なぜならへ流氷は最短二日ぐらいは続くもので、よしんばその中に 浮き揚がったにしても、たちまち四肢が|凍《こご》え、凍死め憂目を見ねばならないからです。  それからしばらく、私たちは数々の悲嘆に襲われて、狂気のように悶え悩んでおりましたが、 そうした死の恐怖は、やがて|悶《もだ》え尽きると、静かな諦観的な気持に変ってゆくのでした。  ところが、そうした墓場のような夜。艇長は士官室の中で|慌《あわただ》しい急死を遂げられました。|寝 台《ベッド》の上から、左手が妙にグッタリとした形で垂れ下がっているので、|触《さわ》ってみると、すでに脈は 尽き、氷のように冷たくなっていたのです。  それから始まった闇黒の中で、吾々は、眼が醒めると絶えず|酒精《アルコさル》を|嚥《の》んで、うつらうつらと 死に向って歩みはじめました。ところで、これは暗合かもしれませんけど、今度の事件が、それ と同じなんですから、妙じゃありませんか。隣りにいる八住が、妙な音で|咽喉《のど》を鳴らしたので、 これはと思って|手頸《てくぴ》を握りました。すると、それもやはり艇長と同じだったので、急いで夫人に 急を告げたというわけなんです」 「いや、大変参考になりました」  法水は犬射に軽く会釈したが、今度はヴィデを呼んで、別の問いを発した。 「ところで、八住が殺された際に、貴方だけは椅子に落着いていて、動かなかったそうでした ね」 「無論そうなりましょうとも」  とヴィデは、黒眼鏡をガクンと揺すって、傷痕だらけの物凄い顔を、法水に向けた。 「僕には|既《とモつ》から、この事件の起るのが予期されていたのです。なぜなら、遭難の夜には、吾々四 人を前に、屍体の消失というありうべからざる現象が起ったではありませんか。そして、今日も また、同じ艇内で同じ四人が集まった-1とすると、そこに何事か起らずにはいないでしょう。 しかしそのうち一人が欠けて、吾々はようやく正常な世界に戻ることができたのです……」  となおもヴィデが、|奇異《ふしぎ》な比楡めいた言葉を云いつづけようとした時、一人の私服が、詳細な 屍体検案書を手に入って来た。  ところが、それによって、この事件の謎がさらに深められるに至った。  と云うのは、上行大動脈に達している|創底《そうてい》を調べると、そこには|毫《ごう》も、兇器の先で印された|創 痕《きずあと》がないばかりでなく、かえってその血管を、押し潰していることが判ったからだ。  すなわち、瞬間に血行を止めた即死の原因は、それで判るにしても、だいたい頭の円い乳棒の ようなもので、皮膚を刺し貫く  というような、|神業《かみわざ》めいた兇器が、はたして現実あり得るも のだろうか。  そうして、しばらく二人は、顔を見合わせて黙っていたが、ヴィデはその後も、不可解な言葉 を吐きつづけた。 「ねえ法水さん、実は艇内に一個所、秘密の出入|扉《トア》があるのですよ。しかも、それはけっして、 肉の眼では見えないのですが、僕は何処にあるか、ようく知っているのです。今日も事件の際に、 そこから伝わってくる、気動があったのを覚えています。なにしろムーンの|訓盲《くんもう》文字に、十七年 間も馴らされているんですからね。とうの昔、失われた眼を、皮膚の上に取り戻していますよ」  と|周囲《ぐるり》を嘲るように云い放ったとき、検事はその言葉の魅力に、思わずも引き入れられてしま った。 「というのは、いったい何処からなんです?」 「それが、|貯蔵《ビム》庫の方角からでした」  としばらく指を左右に動かしていたが、ヴィデはやがてムッツリと答えた。  が、その|貯蔵《ビム》庫というのは、事件のおり夫人がいた発射管室の壁際にあるもので、ヴィデはか くも傲然として、犯人にウルリーケを指摘したのであった。  一座はその瞬間、白けたような沈黙に落ちたが、やがて法水の問いに、石割苗太郎が答えはじ めた。 「艇長の屍体を発見したのが、ちょうど|夜半《よなか》の二時でしたが、それから四人は、|艙蓋《ハツチ》の下で眠る ともなく横になっておりました。すると、そのうちに、士官室から前部発射管室の方へ行く、異 様な|楚音《あしおと》が聴えてきたのです。それは、片手を壁に突きながら、一本の足で歩いているようで  ...」  と云いかけたときに、一同は冷たい鉄に触れたような思いがした。  なぜなら、その楚音は、明白にシュテッヘであって、失踪当時彼は右足を|挫《くじ》いていたからであ る。  石割もそう云いながら、わなわな|頭《ふる》えだして、彼は法水の声する|方《かた》に、両手で|卓子《テ つん》を捜りなが ら、|躄《いざ》り寄って行くのだった。 「それが、今日耳にしたところでは、シュテッヘという、姿の見えない薄気味悪い男だそうで …-。それから、しばらく居眠ったかと思うと、いまその男の行った方角から、今度は普通の足 取りで、コトコト戻って来るのを聴きましたが。……それも|現《うつつ》の|間《ま》で、やがて|扉《ドア》が開いて誰やら 入って来たのも、暗黒の中で、それと見定めることは出来ませんでした。しかしその時、時計が 五時を打って、それだけは、妙に|明瞭《はつきり》と覚えていますが……ああ、どうか今夜だけは、貴方がた といっしょに過させていただけませんか……」  そうして、盲人の訊問は終ったが、岬の夜はだんだんと|更《ふ》けていって、おりおり思い出したよ うに雨の滴が落ちてくる。  が、その時からシュテッヘは、すでに浮説中の人物ではなくなってしまった。あの黒々とした 姿を、「|鷹《ハビヒツ》の|城《フルフ》」の中に現わした以上、彼の生存は、もはや否定し得べくもなかったりであろう。  法水は|莫《たぱこ》を口から離して、静かに噛むような調子で云った。 「事によると、思い過ごしかもしれないがね。どうやら僕には、毒殺者のもう一人が、ヴィデで はないかと思われるのだよ。いまもあの男は、艇内に秘密の|扉《トア》がある  などとほざいたんだが すぐに彼自身で、それを嘘だと告白しているのだ」 「嘘……あの俗物が、どうして冗談じゃないぜ」  と検事は、いっこうに|解《げ》せぬ面持だったが、法水は卓上に三つの記号を書いて相手を見た。 「だが問題というのは、あの男が気動を感じたという、|貯蔵《ヒム》庫にあるのだ。ところで、ヴィデの 大言壮語の中に、ムーンの訓盲字という言葉があったっけね。その、ムーンの文字なんだよ。あ の法式の欠点というのは、左から辿っていって次の行になると、今度は逆に、その下の右端から 始めるにある。つまり、馴れないうちは、一つの字に二つの重複した記号を感ずるからなんだが、 あの時ヴィデの右手には、そっくりその字を読む際と同じ、運動が現われていたのだ。そうする と支倉君、|宙《ビム》ヨ(一旨)の逆を、もしヴィデの真意とすれば、それが|一冨《ラゴ》(「弓)嘘になるじ やないか。つまり、問わず語らずのうちに、ウルリーケを陥れようとした、|邪《よこしル》まな心を曝露して しまったのだ」 「なるほど、ウルリーケはフォン・エッセンの妻だったのだ。しかし、艇長のために|盲目《めくら》とまで なった事を思えば、おそらくあの夜の毒殺だけでは、飽き足らなかったかもしれんよ」  と検事は、ようやく判ったような顔で咳いた。  ヴィデiiその一つの名をようやく捜り当てたいまは、ただ、シュテッヘの上陸を待つのみと なった。  そして、灯を消した闇の中で、二人は|凝《じ》っと神経を磨ぎ澄まし、何か一つでも物音さえあれば と待ち構えていたが、そのうち夜の刻みは尽きて、まさに力の|軍《びフ》もった響が、五つ、時計から発 せられたが、その|刹那《せつな》、潮鳴りも窓硝子のはためきも、地上にありとあらゆるいっさいのものが、 停止したように思われた。  しかし、二人の面前では、その朝何事も起らなかったかのように見えたが、なお念のために、 家族の寝間を覗き歩くうち、ふと朝枝の室の|扉《トア》が、開かれているのに気がついた。  |内部《なか》を覗くと、瞬間二人の心臓が凍りついてしまった。  そこの|寝台《ヘツト》の上には、.蟷色をした朝枝の身体が、呼吸もなく、長々と横たわっていたからであ る。 三、海底の花園  しかし、朝枝はまもなく蘇生したが、それは酷たらしくも、|頸《くび》を絞められて、窒息していたの である。  しかも、なお驚くべき事には、その|扉《トア》は、前夜の就寝の際に法水が鍵を下して、いまもその鍵 は彼の手の中に固く握られているのであるが、それにもかかわらず、あの不思議な風は音もなく 通り過ぎてしまった。  そうして、目されていたヴィデが襲われず、朝枝が犠牲になった事は、法水の観念に一つの転 機をもたらした。  彼はウルリーケを招いて、さっそくに切り出したものがあった。 「またまた、|菩提樹《リンデン》の葉と|十字形《ァロスしツト》なんですが、僕は今になって、ようやく貴女の真意を知ること ができました。そして、今まではシュテッヘという名で怖れられていた悪鬼に、いよいよ改名の 機が迫ったのです。ねえ|夫人《おくさん》、現に、今も朝枝の頸を絞めたものは、シュテッヘではなく、フォ ン・エッセン艇長だったのです」 「何をおっしゃるんです」  とウルリーケは|屹然《きつ》と法水を見据えたが、検事はその一言で、|木偶《でく》のように硬くなってしまっ                                      く募え たーーなぜなら、彼の云うのがもし真実だとすれば、あれほど厳然たる艇長の死が、覆されね ばならないからである。     ためら  法水は、躊わず云いつづけた。 「ところで、いつぞやは、それと|快走艇《ヨツト》旗との符合に、僕らはさんざん悩まされたものです。し かし、それも今となると、偶然にしては、あまりに念入りな悪戯でしたね。貴女がそうして、ジ ーグフリードの弱点を暗示した理由には、ただ単に、そういっただけの意味しかなかったのです。 つまり、艇長には、固有の発作があったので、たしか僕は、それが|間歓破行《かんけつはこう》症だと思うのですが ......」  その刹那、ウルリーケの顔が、ビリリと痙攣して、細巻が、|華奢《きやしや》な指の間から、滑り落ちた。 「で、最初にそれが、艇長の発作を死と誤らせました。なぜなら、元来その病は、|上《て》肢にも|下肢《あし》 にも、どちらにも片側だけに起るもので、体温は死温に等しくなり、また、脈は血管硬化のため に、触れても感じないというほど、微弱になってしまうのです。  艇長が、その発作を利用して、死を装ったことは、あの場合すこぶる賢明な策だったでしょう が、そうして|肢行《ぴつこ》を引きつつ発射管室の方に歩んで行ったのを、僕らは、|肢行者《びつこ》のシュテッヘと 早合点してしまったのです。  またそうなると、あの暗黒世界の中に、しんしんと光が差し込んでくるのです。  ふと僕は、その後の艇長に、世にも|奇異《ふしぎ》な生活を描き出すことができました。まったく結果だ けを見たら、それが、あのまたとない一人三役  ねえ|夫人《おくさん》、貴女はたぶん、それを御存知ない のでしょうね」 「いいえ、その病だけは、いかにも真実でも、……現在のテオバルトは違いますわ。あの|維納《ウイン》の 鉄仮面--ーヘルマンスコーゲルの丘に幽閉されている囚人が、実はそうなのでございます」  とウルリーケは必死に叫んで、内心の秘密を吐き尽してしまったかに思われた。が、法水は優 しげに首を振り、|衣袋《ポヶツト》から封筒のようなものを取り出した。  その刹那、ウルリーケの全身からは、感覚がことごとく失せ切って、ただうっとりと、夢見る ように法水の朗読を聴き入っていた-1その内容というのは、はたして何であったろうか。   ーそうして守衛長が私を案内して、いくつか数限りない望楼の階段を上って行きました。  それも、私が英人医師であるからでしょうが、やがて階段が尽きると、廊下の突き当りには美 しい|室《へや》がありました。  そして、その中には、見るも異風な姿をした人物が、一人ニョッキリと突っ立っているのでし た。その人物は、フォールスタッフの道化面を冠っていて、身長は六|吹以《フイ ト》上、着衣はやはり、 我々と異ならないものを、身につけておりました。  ところが、腰を見ると、そこには頑丈な|鎖輪《ケツテンリンフ》が結びつけられてあるのです。  もちろん会話などは、|片言《かたこと》一つ語るのを許されません。  それから、診察を始めたのでしたが、それには、バスチーユの鉄仮面を見た、マルソラン医師 が憶い出されたように、やはり最初は、面の唇から突き出された舌を見たのでした。  そうして、全身の診察が終ると、再び叔父のフォン・ビューローの許に連れ戻されましたが、 その時不用意にも、私は患者の姓名を訊ねてしまったのです。  すると叔父は、|卓子《テニマル》をガンと叩いて、「お前は、あの|扉《ドア》の合鍵でも欲しいのか」と|噸鳴《どな》りまし たが、まもなく顔色を柔らげて、「ではパット、あの|馬鹿者《イティオツト》については、これだけのことを云っ ておこう。さる|侯爵《マルキス》だllとねLと言葉少なに云うのでした。  しかし、お訊ねにかかわる羅針盤の|文身《いれずみ》は、|隈《くま》なく捜したのでしたが、ついに発見することな く終ってしまいました。  そこで私は、明白な結論を述べることができますー1あの囚人は、たとえいかなる浮説に包ま れていようと、絶対に、友、フォン・エッセン男爵ではないー1と。  その書信は、ウルリーケの知人である、英人医師のバーシー・クライドから送られたものだが、 かえって内容よりも、それがいかなる径路を経て、法水の手に入ったものか、検事は不審を覚え ずにはいられなかった。  法水は、続いてウルリーケに向い、それを掘り出した、不思議な神経を明らかにした。 「、実を云いますと、これを手に入れたのは、夢判断のおかげなのです。いつぞや『二ーベルンゲ ン諏詩』の中に、貴女は御自分の夢をお書きになりました。ところが、その夢の世界には、すで に無意識となった、一つの忌怖感が描かれているのです。  で、夢の象徴化変形化のことは御承知でしょうが、また、一つの言語一つの思想が、まるで|酒 落《しやれ》のような形で現われることもあるのです。 そこで、暫揮轍の葉がチテリップの上に落ちる;ーという荷を、僕は、チューリップすな わち→き=|傷《アウ リツプ》(二つの唇)と解釈しました。つまり、何かの唇の中に、貴女は葉のように薄い ものを差し込んで置いたからでしょう。それから、|撫子《カきネ ノヨン》の垂れ下がるほど|巨《おお》いなる|辮《はなびら》1--と いうところは、第一、|撫子《カきネミノヨン》には|肉《ィンカコネニ》 |化《ノヨン》の意味もあり、また、巨きな辮を取り去ろうとする がなし得ないーというところは、その肉化した辮が、膨れるのを|催《おそ》れていたからなんです。  そこで、唇に何かを挾んで、それが膨れるのに懸念を感じるようなものと云えば、さしあたり 艇長の油絵をさておいて、他に何がありましょうか。  |夫人《おくさん》、貴女は画像の唇を、筋なりに切りさいて、その間にこの手紙を差し込んで置いたのです。 そして、あの美しい唇が膨れて、顔の階調が破壊されるのを、貴女は何よりも、怖れていたので した」  そうして語られる夢の|盤惑《こわく》は、ウルリーケの上で、しだいと強烈なものになっていったが、や がて、その悩ましさに耐えやらず叫んだ。 「貴方は、私が覆うていたものを、残らず剥ぎ取っておしまいになりましたわね。それでは、私 をテオバルトに遇わせて下さいましな。法水さん、それにはいったい、何処へ参ったらよろしい のでしょうか」 「ともかく、この場所においで下さい。いま、すぐに連れてまいりましょう」  と異様な言葉を残して、法水は隣室に去ったが、やがて連れて来たその人を見ると、二人はア ッと叫んで棒立ちになってしまった  それが人もあろうに、ヴィデだったからである。  しかし法水は、力を|軍《こ》めて彼に云った。 「フォン・エッセン男爵、もう|宜《い》い加減に、その黒眼鏡を|除《はず》されたら、いかがですかな。貴方が、 遭難の夜ヴィデを殺したという事も、三人に|木精《メィナ ル》をあてがって|盲目《めくら》にし、それなりヴィデになり 済ましたという事も、また、妻を奪ったハ住を殺したばかりでなく、娘の朝枝までも手にかけよ うとした事も  ハハハハ、あのまんまと仕組んだ屍体消失の|仕掛《からくり》でさえ、僕の眼だけは、あざ むくことができなかったのです。貴方が、髪を洗って、傷や|腫物《はれもの》の跡を埋め、またしばらく、過 マンガン酸加里で洗面さえしなければ、再び|旧《もと》の美しい、アドリアチックの英雄に戻るでしょう からね」 「な、なにを云う……」  とヴィデはドギマギしながらも、嘲るように、 「僕がフォン・エッセンだとは  |莫迦《ぱか》らしい、いったいどこを押せばそんな音が出るのです。 すると貴方は、ハ住を刺した兇器を、僕がどこへ隠したと云われますか」 「なにも、あの流動体には、隠す必要なんてないじゃありませんか。しばらく貴方は、それを傷 口の中に、隠しておいたのでしょう。そして、後になって、朝枝と二人の盲人といっしょに再び 艇内に入ると、そこで眼が見える貴方は、屍体を|術向《うつむ》けにしました。すると、あの流血と同時に、 兇器はしだいに凝血の間を縫って、やがてかなりの後に流れ出ました。ところが、その附近には、 砕けた検圧計の水銀が飛び散っていた……」 「水銀……」  検事が思わず反問すると、法水は、その魔法のような兇器を明らかにした。 「そうなんだ支倉君、まさにその水銀なんだよ。ところで、潜航艇に使う液体空気の中へ、水銀 を漬けておくと、それが飴状になるので、何かの先に丸い槍形を作り付けることができるのだ。 そうして、さらに冷却すると、いわゆる|水銀槌《マコキユリ ス ハムマミ》と呼ばれて、銀色をした|鋼《はがね》のような硬度に 変ってしまう。だから、それが八住の体内で、体温のために軟らかくなるから、当然先端が丸く なって、創道の両端が異なるという、不可解な兇器が聯想されてくるのだ。だが支倉君、君はあ の時八住が、どうして悲鳴を上げなかったか、理由を知っているかね」  と云って、検事が再び混乱するのを見て、法水は事務的に説きだしたが、 「いや、悲鳴を上げなかったというよりも、叫んでも聴えなかったと訂正しておこう。やはり、 フォン・エッセン|別名《エ リアス》ヴィデ氏は、遭難の夜と同じく、間歓破行症を利用したのだ。その時発 作が起ったので、八住と犬射の間に割り込んだから、はしなくその手に触れた、犬射が驚かされ てしまった。そして夫人に急を告げるやらの|騒響《ざわめき》の間に、悠々とハ住を料理してしまったんだ」  と云って、ヴィデに欄れむような眼差を馳せた。 「ああ|偶像《ゲツツエニ チ》の|黄昏《ムメルニア》- 僕は貴方を見て、一つの生きた人間の詩を感じましたよ。生命に対する 執着・流浪愛憎。ですが男爵、ニイチェの中にこんな言葉がありましたね  時の選択を誤れる 死は、|怯惰《きようだ》な死であるーーと」 「よろしい、僕は誇らしげな死につきましょう」  とヴィデは、彼の眼前  闇中にそそり立っている超人の姿が、かくも高いのに嘆息したが、 「あの悪鬼フォン・エッセンを捕えるか、それとも、自分の人生を修正するかです。僕は今夜一 人で、『|鷹《ハヒヒッヅ》の|城《ルグ》』の中に入りますよ」  と云い捨てて、この|室《へや》を出て行ったが、その足取りは、|盲人《めくら》にしてはたしか過ぎると思われる ほどだった。  ところがその翌日、早朝乗組員の一人が、背後から心臓を貫かれて、|紅《あけ》に染まっているヴィデ の屍体を発見した。  法水が赴いた頃には、ヴィデの死体は|陸《おか》に揚げられていた。朝を過ぎた太陽は、屍体の覆いに、 キラキラする|陽炎《かげろう》を立てていたが、屍体は全身に、紅い斑点が浮上がっていて、法水の眼を、責 めるような意味で刺戟してくる。  彼は、眼前の緑の海はつねに呼吸するとも、この怖ろしい事件には、永久結末がこないと思わ れた。  そして、いよいよ決心の|膀《ほぞ》をかためてその一日を、単身「|鷹《ハヒヒツ》の|城《フルア》」のなかで過すことにした。  法水は潜望鏡をながめたり、あるいは、潜水服がいくつとなく吊されている一画を調べたりし た。  |聴蓋《ハッチ》の下の|室《ヘや》から機関室に行き、それから以前八住が殺された客室に入って行ったが、そうし ているのは、ちょうど知られない世界に入ってでもゆくかのようで、妙に気味悪げな不安にから れてくるのだった。ところが、その室を出ようとしたとき、彼はその|把手《ノツワ》を握りしめたまま、唖 然と立ち尽してしまった。  いっこうに|胎蓋《ハツチ》の音を聴かなかったにもかかわらず、いつのまに鍵が下ろされたものか、その |扉《ドア》は、押せども引けども開かないのである。  すると、突然艇全体を|揺《ゆす》り上げるような激動がおこって、みるみる「|鷹《ハヒヒツ》の|城《フルク》」は海底に沈み はじめた。  いったん法水は、自分の神経が病的な昂揚状態に入ったかと疑った。が、それは夢ではなかっ た。彼は、硝子越しに立ちあがる水泡を見ながら、刻々死の底に沈みゆく自分を意識していた。  そして、約二○米を沈下したと思われた頃、艇は横様に揺らいで航行しはじめた。  眼前の海底では、無数の|斧魚《ハチエット フノッノユ》が、暗い池のような水の中で光り、またその燐骨が、櫛 のような形で透いて見えるのだが、こうして艇長フォン・エッセンの、|姻《けむり》のような手に導かれて ゆくうちに、彼はあちこちと自分の死の床を考えるようになった。ところが突然一つの考えが |閃《ひらめ》いて、彼の心は明るく照し出された。  すると、法水は食器棚の中から、取り出した水を鍵孔に注ぎ込み、その中に、氷と食塩で作っ た寒剤を加えたが、そうしてややしばらくするうちに、鍵金の外れる音がして扉が開いた。  それは、あの悪鬼の神謀 --つまり、水が氷に変る際の、容積の膨脹を利用して、鍵金の|尾 錠《びじよう》を下から押し上げたからである。  しかし、|槍蓋《ハッチ》の下に出ると、たちまちその手が潜水操舵器を掴んで、「|鷹《ハヒヒノ》の|城《フルブ》」は、けたたま しく|吟《うな》心りながら迂回を始めたが、やがて防堤下の岩壁が、前方に透かし見えるところまて来ると、 今度は|舵《かじ》を操って、それと並行に走らせた。  すると、不思議な事には、少し行くうちに、艇がみるみる水面に浮び上がってゆくのだったが、 まもなく硝子の壁に、|碧《あお》い|陽炎《かげろう》が揺らぎはじめたーi艇長フォン・エッセンは、なぜ「|鷹《 ヒヒッつ》の|城《ルブ》」 を水面に浮き上がらせたのであろうか。  ところが、艇を出ると、法水は、この事件が終った旨を一同に報せた。 「ところで、あの魔法のような|隠身術《おんしんじゆつ》も、底を割れば、たかがこの白い帯一つにすぎなかった のですよ」  検事とウルリーケを伴って、艇内に入ると、法水は、潜水服が吊されている一画を示した。  いずれも、胴着とズポンの間が、前の方だけ少し離れていて、そこから自い、大帯革の裏が見 えた。 「つまり艇長はいつも、この中に隠れていたのでしたが、その以前にこの帯なりの隠し彫りを、 下腹一面に施したことを忘れてはならないのです。つまり、日頃は見えないのですが、酒を|嚥《の》む とか湯に入るかして、全身が紅ばんでくると、それまで見えなかった白い隠し彫りが現われてく るのです。それに、この薄暗い一画では、皮膚の色がさだかではないのですから、永らく僕らは、 この白い帯裏の符号にあざむかれてきました。そして、あの悪鬼は、人影がなくなるまでここに 隠れていて誰もいなくなると、今度は、潜望鏡を利用して外に脱け出ていたのです。さあ、|夫人《おくさん》、 機関室の|扉《ドア》を開いて……」  と云われて、胸をときめかしたウルリーケが、|扉《トア》を開いたとき、咄嵯の驚樗に彼女はふらふら と|槍《よろめ》いた。  そこには、梁骨に紐を吊して、ふんわりとした振子のようなものが、揺れていた。ああ、なん とこの事件の艇長フォン・エッセンはウルリーケの一人娘朝枝だったのである。  法水は、波打つウルリーケの肩に、やさしげな手を置いて、 「しかし、どうして僕が、朝枝を犯人と知ったでしょうか。それはほかならぬ、アマリリスの鉢 だったのです。  だいたい、健全者の夢は妄想的であり、神経病者の夢は、反対に、健全な内容を持っていると 云われるのですが、もし両者の醒と夢が一致したとすれば、それには、一つの共通した要素があ ると云えましょう。それで、貴女の夢と、神経病者朝枝の偏執とが一致したのですが、あの、 |蕾《つぼみ》が開かずにいてくれたら-11という願望は、つまり云うと、|辮《はなびら》がダラリと垂れる形で、油絵 の中の、唇に催れられていたそれが当るのです。もちろん朝枝も、いつのまにか、例の秘密場所 を嗅ぎつけたのですが、しかしどうしてそれが、かくも怖ろしい惨劇を生んだの「、しょうり  貴女が艇長を思慕する声は、同様に朝枝も|唆《そそ》って、思春期の憧れを、艇長に向けていたのです がいよいよあの手紙を見るに及んで、はしなく心の中に、病的なものが立ち|軍《さフ》めてゆ}、、ました。 と云うのは、母と|競《せ》り合い、陥し入れてまでも、幻の彼を占めようとしたからです。  夢の充実ー-ーそれがハ住を殺し、母である貴女を、拭いのつかない危地に陥し込もうとしたの `● でした。  しかし、あのアマリリスの奇蹟は、父親のひたむきな愛の中から生れ出たのですよ。  八住は毎夜|払暁《あけがた》になると、不自由な身体を推してまでも花市に行って、蕾のアマリリスを買っ ては、取り換えていたのです。そして、前夜のものは、防堤から海の中に投げ入れていたのです が、そのとき心覚えに印したものが、貴女も知る、火術符号めいた形だったのです。ところが、 悲しい事に、盲人が描く直線は、腕の廻転を軸に徐々とまがってゆくのですから、かえってハ住 は、毎日防堤との距離が遠くなるのを考えて、そこがあるいは、岬の角ではないかという、錯誤 を起してしまったのです。  さあ|夫人《おくさん》、『|鷹《ハヒヒッ》の|城《マんワ》』を潜航させて、防堤下の海底に行きましょう。  |先刻《さつき》はそれを見て、朝枝が天上の愛に打たれたのですが、そこにはアマリリスが一面に咲き乱 れていて、あの重たげな花辮が、下波にこう囁いているのですよ  父の愛」  一、潜航艇「鷹の城」(昭和+年四月及び五月号「新青年」)  これは、「鉄仮面の舌」のさいしょの原稿である。百枚二回分載の約束に二百枚を越え、水谷氏 には、若干越えただけだといって切り取りをおこなったもの。で、これには、削除五十枚を添え た前半があらわれる。その、ほとんどが海戦描写で、これは、「新青年」発表の分にはない。し かし後半は雑誌のまま載せることにした。というわけは、艇長夫妻の思想の摩擦面が出るからで ある。  つまり、クラウゼヴィッツ、シャルンホルストなどに|培《つちか》われたゲルマン軍人精神と、人民党の 領袖の娘であるその夫人との、愛しながらの葛藤が挿話となるので、別にいけないというところ は少しもないのだが、もし刺激的文字でもあったらと思い遠慮することにした。  もちろん、それがテーマではないし作者としても、大義の往くところを明確に指示してあるの だが…:∴  で結局、「新青年」発表分百三十枚に、まだ誰の眼にも触れない五十枚が加わったわけだ。