パンテレリア島覆没陰謀 小栗虫太郎 めぐり会い 「……シチリア島は快晴。ただ今は|西北風《ミストラレ》もございません。 視界四十キロ、気温七十五度。楓は、秒時五メIトルの快よ い献酊風でございます。では・復濯蜘前夜のティルレノ海の 空の旅に、皆さま御快適のようお祈り申し上げます」  こういう、さも気を唆るような天候のアナウンスを聴いて から、客はぞろぞろ|空港《エアポ ト》の本館を出て、滑走路のほうへある いてゆく。|復活祭《イ スタ 》ごろとはいえほかつく南海の陽が、いま、 新機「サヴォイア・マルケティSI八三」のうえにさんさん と降り注いでいる。  イタリアのサヴォイア●マルケティ会社の社長アレッサン ドロ・マルケティ氏の|磨下《スタツフ》は、多年氏が手塩にかけた大型機 づくりの|練達家《エキスパ ト》で網羅されている。それが精魂をつくした、 このSI八三。乗員七名。乗客六十名。そのうえ、四千ポン ドの積荷をして南米のアルゼンチンは、ブェノス・アイレス まで飛ぷという巨人的|水陸両用機《アムフビアン》。その、新就航披露の招待 飛行が、きょう、サン・レモのこの浜で行われる。  すなわち、主催は重爆製作で名高い「サヴォイア・マルケ ティ」会社。まず、この機はシチリア島のパレルモヘ飛び、 それから、仏領アルジェリアのアルジェール港へ。そうして 次は、自領サルジニア島のカグリアリヘ戻ったうえ、旧のサ ン・レモヘ帰るという宣伝飛行である。  で、サン・レモといえば御承知の方も多いであろう。カン ヌ、ニイス、モンテ・カルロが|南仏奢修極道海岸《フレンチ リヴイエラ》の粋なら ば、このサン・レモは|伊太利《イタのアソ》リヴィエラの代表地。避暑避寒 を兼ねた|健康地《ヘルス リゾ ト》でもあり、またほとんど四季の別なく世界 の遊子を集めるという、このリヴィニラ一帯はヨーロツバ一 の歓楽地。  でいまlIというのが一九三九年の四月のことであるが Lその頃、このリヴィエラに遊んでいる諸名士の名をあ げてみると、まず、ウィンザ1公夫妻を筆頭とするイギリス 貴族の一群に、仏は、ロベール・ド・ロチルド男爵をはじめ ユダヤ系ロチルド一門の銀行家。さらに、アメリカの映画女 優もあれば、アルゼンチンのポロ|競技者《プレイヤ 》あり、また十五発の 礼砲下に堂々と乗りこんでくる印度カプルタラの|藩主《マハヲジヤ 》もあ り、パランプIルの|大守《ナボプ》もあり……  そうしてここが、衣裳と宝石の競演場となるばかりではな く、時には|醜《スキヤンダ》 |聞《ル》の種となるような秘密政談も行われ、また |賭博場《キヤジノ》の|金掻《ラツト》き|棒《ウ》にさらわれて呆然たる若手外交官の手に、 しこたま|賭《ジユト》け|牌《ン》をにぎらせて臓くインチキ|伯爵夫人《コンテス》あり…… すたわち、花のリヴィエラの夜は国際スパイの大舞台。  しかし、これも伊太利リヴィエラになると、そう甚だしく はない。サン・レモは……リグリア海の海風に、降りそそぐ 南の陽。薔薇色の絶顧をつらねる「|臨海《マリプえム》アルプ」を遠景に… ・-、|撤檀《オリ プ》や|檸檬《シトロン》の茂みにつつまれた、|鐘堂《カムパニ レ》や|別荘《ヴイヲ》。そうし て……海に大気に充つる、|鉱物的《メタリック》な青の濃さ。|人魚《シレ ヌ》の歌声を のせて岩礁にはみあがり、錯銀の飛沫をちらす大海のいのち の譜。  この、南国の歓びと自然の生気にめぐまれてここへくる療 養者に闘病の活力が燃えあがるーサン・レモとは、こうい ったような土地である。  だから今、附き添いに手をとられた蒼白い顔の娘たちが、 群集のなかに鮎々とみえている。そこへ|船室《ケピン》にのり込んでゆ く招待客三十名。  それには上述の大立物のほか名家の第二世、画家あり、音 楽家あり、ベスト・セーラーの名作家ありーと、いずれも 各界一流の顔をずらっとならべた壮観は、いかに「サヴォイ ア.マルケティ」の力とはいえ、えらいものと云わなければ ならない。で、その乗り込みの有様を、放送から聴くと、 「ただ今は、石油王ロックフェラーの御子息でございます。 このウィンスロープさまは御自身の快走船『アルパ号』でお 着きになりました。アルパは、合衆国における四大快走船の 一っでございます。|重油機関《デイゼル エンジン》を二基そなえまして、全長二六 四|眼《フ ト》、乗員四十名。ただ今、、、|言巴《マドン》98|牙《ナ デルヲ》ξO8|三《 ガルデイア》ず、.の |碇泊地《クエイ》に投錨中でございます。次は・…-」  こんな具合で、来るやつ来るやつが賛沢な連中ばかり、た いていは、じぶんの快走船か自家用の飛行機で来たという ……いかに歓楽地とはいえ、弗臭は愉快ではない。とそこ へ、瓢然とあらわれた最後の一人。みれば、|体腿《なり》こそ白人に 劣らぬが、あまり綺麗ではないーという、その縞麗でない というのは服装のことであり、むしろそれは簡素というべき だ。ちょっと、すっ頓狂といったような細い眉が釣りあが り、どこか、暢々としためずらしい顔立ちが……この日本娘 の風間紀伊子だったのである。  紀伊子は、まだ|祖父《じい》も|祖母《ばあ》も紀州の古座にいて、同地きっ ての大網持ちであり、母は、明治時代の有名な麗人で、いま は後家の身で花木流舞踊の家元だ。そういう母の血をピアノ にうけ継いだ紀伊子は、はやくも七歳のとき天才少女として 新聞に登場し女学校を終えると同時に母とともに渡欧した。 それからは、プルッセルの|高等音楽学校《コソセルヴアトア ル》。二十歳に、ロンド ンのカヴェント・ガlデンに招かれて……ブラlムスの「司 伴楽ロ短調」と、デュビシーの小品「|水《ウインデ》の|精《イン》」を弾いたの が、そもそも世界人としての脚光を浴びるはじまりであっ た。 「あの子はまだ、ほんの子供なんでございますよ。|齢《とし》やな《フフ》|り からお考えになることは、たいへんな間違いでございます よ」  と、よくわが娘についてこんな事を、紀伊子の母がいう。 「皆さんは、じつに気さくで厭味がなくてとおっしゃいます けども、ああ、なんでも明けっ放しなのも、奇抜過ぎるかと 思います。でも、いずれは恋愛するなり結婚するなりいたし ましょうが、そうでもしたらちっとは落着くかとも存じまし て……」  紀伊子とは、こんなような娘である。万事がざっくばらん で、愉快な空想家、度胸もよければ純情家でもあり……感情 もこまやかなら、頭のほうも悪くない。じつに空ゆく風のご とくサラサラっと爽かで、その無頓着なところ、取り済まさ ぬところ……清潔な感じはまさに無類である。  それが、妙な手縫いの服を着たすがたで、船室にとび込む と、 「さて、最後は風間紀伊子嬢でございます。嬢は、わざわざ 鉄道の並等でおいでになりました。隣に坐ったガスコーニュ の漁村のおカミさんと、|大海老《ラングスタ》の漁について、さんざんお話 しになったそうで御座います」  どっと、場内におこる、万雷のような拍手。どんな有名人 でもじぷんに向けられてくる、拍手の量を気にするようなイ ヤなやつ揃いのなかで、じつに無技巧にも無技巧、超然大姉 の紀伊子が、この場の人気を一手にさらってしまったのも意 外であった。映画「椿姫」の大女優イヴォンヌ・プランタン などに、わざわざかの女の席をじぶんの隣にとって、 「してやられましたわね」  と、例の千両の眼で、やさしい睨みをくれる。 「奢ってくださるでしょう。今夜のホテルは『|地中海《メデイテラネさ》』だそ うですわ」  しかし紀伊子は、こういうような社交的空気を好まない。 持ってうまれたおでん屋的性格は、なにより取り済ますこと が、いちばんの苦手。こりゃ、堪らたい。二時間もこの大年 増にねばられたら、たいへんた事になっちまう。と、思って いる最中に、艇長が挨拶にきた。それが、よくパリーの日本 人クラブヘ柔術をやりにくる、マンツィニという顔見知りの 男だ。  かの女は、マンツィニのあとについて、操縦室ヘはいって ゆき、 「助けて頂戴よ。どうも、話し相手になるやつが、一匹もお らんので困るわ。だいたい、あの縮緬鐵があたしの隣にくる なんて法はたいわ」 「こりやいい」  と、話を聴いた艇長がぶっと吹きだして、 「あんたにも、そんなハニカミ屋みたいな、半面があるんで すかね。ジヤングルへでもゆきそうな女タ1ザンの裳紀伊さ んが、あの縮緬マダムの一声に逃げだすなんて、こりゃいい ですな。じゃ、狭くてよければ、どうぞ御自由に.…・.」  そうして、狭い|操縦室《コントロ ル ケビソ》に坐りこむようになったこと が、じつに運命の導きともなるものであった。やがて、そう こうする間に発航の時がきた。  まず、機の電池を節約するため機外から供給していた、 |蓄電自動車《パツテリ  カ ト》が機体をはなれてゆく。五基のグノーム・ローン の|発動機《エソジン》がなめらかに動きはじめると、やがてしずかに機は 滑走路をはしりはじめる。群集の歓呼。この世界屈指の巨人 機はふんわりと宙にうかんだ。 「車輸、引き込み」  と艇長の命令に前方の席の操縦士が、それを復諦してさっ そく操作をする。 「引き込み、終り」  それから、区分タンクのスイッチが切り換えられ高オクタ ン価の油から、低位の巡航用のものに移される。これで、た だあとは前方に進むだけ……したは、白や暗赤の|単橘船《タルカアヌ》の帆 をばらまいた、夕陽の海が澄の肌のように美しい。  紀伊子は、別に喋っても邪魔になるまいと思い、 「ねえ、マンツィニさん」  と艇長に声をかけた。 「あたくし、もっとこの操縦室というとこ、騒々しいところ かと思っていましたわ。それだのに、なんという……」 「ハハハハハ、静か過ぎるというのですか。これはね、|音響 減殺装置《サウンドフイルタ 》を換気孔にとり付けてあるからです。なお、カーチ ス|兀鷹《コンドル》のような、|吸《アプソ べ》 |収管《ソト テユ プ》も使ってありますよ」 「じゃいまに、どんな神経屋の将棋差しでも、ここで指せる ようになりますわね」  と云っているとき扉があかって、平服の見あげるような大 男がはいってきた。これは、どう見ても明らかに軍人であ る。肩付きの這しさは、閂のよう、十分弾力を秘めたらしい ひき締った手脚、身長、肉附き、均斉といい理想的ヘルメス 型の、この男には男惚れさえしよう。 「風間嬢ですな」  と、かれは紀伊子にかるく目礼をし、それから、おい貴様 おれを紹介しろというように、艇長の方へひょいと願をしゃ くる。 「オレステ・ヴィザリ君です」  と艇長が紀伊子にひき合わせ、しかも彼は、くすくすっと 笑いながら、 「平服ではいますが、|空軍中佐《テネンテ コロネルロ》。また.`≧g=|拝《アラ リツトリ》2|冨《ア》."、 ^^毛ン欝臥ポズ邸旧躰田=両航空会杜の技術顧問。さらに、貧乏 子爵でありこの機の設計者であり、しかも、偉大なるムッ《イル ド 》|ソ リー|二《チエ》の協力者。しかしその、偉大なるというのはムッソリ ー二のことであり……この男に就いてではありませんから、 どうかそのお積りで」  といわれると、紀伊子はかの女の柄にぴたりと嵌ったよう た、あど気ない眼に憧がれの色をふくませて、 「じゃ、この方は芸術家でいらっしゃるのね」  といった。 「あたくし、飛行機の|設計《デザイン》は芸術家でないとできないと思い ます。独創と、|新《ノヴよル》 |奇《テイ》と、|崇《グランデ》 |高《ユア》がなければ……そして、天 才である人の感覚の産物だと思います」  こうして、同国人ばかりと友邦の女性という、この操縦室 のたかは|嚢《あいあい》々たるものだった。と、ふと声を落したヴィザリ が、紀伊子のそばへ身をよせて、 「いつぞやは、ゲオルギスの件でたいへん御面倒だったそう で……僕は、やつの友人の一人としてお詑びしたいと思うの です」 「マア、驚いた。どうして、あのゲオルギスとお知り合いな んですの」 「学校がおなじです」 「というと、アメリヵのですか?」 「ええ、やつは機関と燃料のほうを専門に……僕は、機体の 製作というように、別々になりましたがね。しかし、僕はイ タリアの留学生、やっこさんはブルガリア人と……おなじ地 中海に住むせいかはなはだ仲が良かったのです。あいつは、 もし頭をやられなければ、世界的な天才になったでしょう」  そのゲォルギス事件とは、当時枢軸国を騒がした思想撹 乱事件の一部である。で、そのなかのイタリアに関する部 扮無い力参冷右ル洞掴の女共産党員でいま米国に亡命中ビの㌃ 店σQ屯ぢ、如、一印一右口竹ハが書いたものらしく、これには、目口亭 o其∪o巾09」W巴9たど「ファッシスタ」草創時代よりの 幹部と、さもムッソリー二閣下とのあいだに|軋礫《あつれネ》があったか のごとく……根も葉もないことが巧妙な筆で|捏《でつ》ちあげられて いる。もちろんこれは、イギリスあたりからの思想攻勢であ るが、そのうち、ドイツに関する部分をゲオルギスが書いた といわれている。  これは、前大戦中、東部戦線において……現ナチス某幹部 と(これも現存の人である)現ドイッ国軍中の長老的将軍と のあいだに、じつに不愉快きわまる一葛藤があったという ……もちろんこれは誹諺に過ぎぬことである。しかし、その いかにも現実を装う筆致の生々しさにいたっては、この一連 の怪文書中出色のものといわれている。  で、これは、万更の空想でもないことが、のちに暴露し た。というのは、なにもその高官に関することが事実だとい うのではなく、じつはそれが、その怪文書をつくった匿名筆 者自身の経験であったのだーこれが、ドイツ大戦資料掛り の手ではしなくも分ったのである。  ゲオルギスーそこに、本篇の副主人公である病的天才 の、ぺータル・ゲオルギスの怪貌がうかびあがってくる。か れは、父はドイッ人、母はブルガリア人。以前は、父姓を名 乗りゾンライタ1といっていたが、戦後アメリカへゆくと同 時に母姓のゲオルギスとなり、いまはドイッ人ではなくブル ガリア人になっている。  ではこれから、ゲオルギスが書いたなかの一節だけを抜き だしてみるが……むろんこれは、彼ゲオルギスの経歴の一部 であり、生涯逆境にさいなまれる運命児の砲噂と、この万能 鬼才の片鱗を文中に味わっていただきたい。 ゲオルギスの顔 (以下のおれという|第《フフ》一人称は、 すなわちナチス党某幹部の 名をかり、また隊長というのは国軍の長老である、某老将軍 の名を使っている。もちろん、それが詐称であることはいう までもない)  おれは当時、|底装甲機《カツパキポトム》といわれた低速偵察機にのって、毎 日のそのそと前線のうえを飛んでいた。  しかしそのころから、重砲の通過がようやく繁くなってき た。スコダの、四ニサンチや三○サンチ半の臼砲や、クルッ プの、一二サンチ榴弾砲などが夜闇を利してはこばれてい る。  おれは、それを見て、総攻撃だなと思った。あの攻城砲で プルッエミスル要塞を粉々にしようというのだろうーその 予感は、五月一日の払暁になって的中した。明けきったと き、西ガリチェンの野は焼けただれ、一点の緑もなくなって いた。ただ砲声と城声と、鉄火の雲霧だ。すると、突破孔が 岬のようにひらかれて、敵の歩兵が消えたかと思うと、味方 の砲兵が到着する。フォン・マッケンゼン……神速風のごと しというが、まったく一瞬の間であった。  ところが、敵軍に増援隊がきた九日のことだった。  その日は、蒸し暑く陰気な雨がふり、フルツィスタークの 全線は、じめついていて暗かった。すると夕方ちかく、偵察 から帰還中のおれが、機上からみると、頑強な、敵第二陣地 を味方が占領しているのを発見した。おれは報告した。する と、おれに向ってなんと隊長が云う。そりゃゾンライタi少 尉、君ばかりじゃないぞーというのだ。 「儂だって、誰だってもう、へとへとになっておる。だいた いが、重砲に日程三十キロの進出は無理じゃよ。射つ、そう しては進むが、道は凸凹じゃ、揺られて、くたくたになると 仏心が出てくる。なあ副官、あれは、いつだったか、三日目 だったかなあ」  といって隊長は、食いこぼしをつけてさかんに頬張りなが ら、上機嫌で独り決めのようなことを云っている。 「とにかく、食わされん、眠らされんで、続いた三日目の夜 じゃった。本隊が、オルシニーの低地を進撃中わしが乗って いた、先導|牽引車《トラクタ 》の底でいやアな柔わ耐えがする。はて、璽 壕の跡かーそう思ってみたところが、××の山のうえじ ゃ。めりめりっと、なにか潰れてぶうんと匂うと、肩章や、 剥けた頭蓋の皮が無限軌道に貼りついてくる、  わしは遣ったなと思った途端、ずうんと厭た気がした。こ んなもんじゃ、日頃ふだんならばなんの事はない。半死を潰 して……舌が無限軌道にひらひらしてお母アっといったとこ ろで、とんと念仏もいえん柄じゃないか。それがへとへと揚 句で気力の底のせいか、脊筋が傑っとなるような気がした。 それからは、まるで生きた幽霊か、脱け殻のようじゃった よ。ところが、間もなくじゃ。まんざら、生きた幽霊が儂だ けでないのが分った。  ふと気がつくと、とぽとぼ隊列のあいだをゆく、三人の徒 歩兵がある。みると、それが露兵なんじゃ。といって、ぼん やり儂らをみるが驚くでもなし、別に抵抗もせんし、哀願の 眼も向けて来ん。こっちもただ、ハハアとは見るが、何をす る気もないのじゃ。で、そんな体験があるもんじゃで、儂に はよう分る。とにかく……君の今夜の誤測は、聴かんことに して置こう」  おれは驚いた。誤測と、気色ばんでみたが、どうにもなら ない。というのは、まえに地上部隊からの報告があったの だ。フルツィスタークの敵第二陣地頑強に抵抗す、砲兵の協 力をもとむーとあったので、せっかくのおれの報告も一笑 に附されてしまった。  戦線は、静かだった。おれは、宿舎のアンペヲをかかげた が、振りむいて空をながめた。蒸気の濃い星一つないまっ暗 なむこうに、一つ二つ、閃光が掃いて地鳴りのような轟きが する。あの辺だ。九キロ六〇、無観測でもいいーそういう 曝きが、まっ黒な砲架を見つめている隊長の口から洩れる。 どうにでもなれ、おれはもう堪らず酒瓶を口にあてた。咽喉 が、焼けつくように感じたとき、砲列が火を吐いた。  おれは、震動のなかでこれまでと観念したが、いまに火箭 でもあがれば、気球隊がみるだろう。それに、弾着観測に飛 びだせと、伝令がやってくるかもしれん。さ、そうなれば、 また機会もあるがと思うた。  翌朝、おれは夜明けを待てず前線のうえに飛びだして行っ た。空は夜中の、雷雨のあとで澄みきっていたが、暁は、ま だ浅く地上に訪れてこたい。砲声もない1戦場は、霜のよ うな白霧と沈黙のしたにあった。そしてただ一機、狂わしげ なL・V・Gが夜明けまえの空を舞っていたのだ。  旋回を続けた。羅針盤で、見当をつけたあたりに円周を描 きながら、絶えず、機銃の音を聴かせたり、標識燈で合図を した。しかし、地上からはなんの答えもない。やがて、霧が 色づいて裂けはじめてきたころ、とつぜん、機首を下向けに して地上の霧のたかに突入した。そして接地の、あわやと思 われたときぐいと上げ舵を引いた。機体は水平になってすれ すれに飛びはじめた。しかし、その瞬間|眩畳《ぐら》つく翁れの眼 に、どんなものが映ったろうか。  それは、墓地だった。銃剣が、土から生えたように、慎ま しげに交叉している。そして夜明けまえの、露にかざられ蒼 白く光りながら、端れまで、手首のついた十字架が焼土のう えに連なっていた。  生き埋めだ。弾幕の挟み打ちで、埋められてしまったん だ。  おれは、たにか痛ましさというよりも、劇的た感にうたれ た。|歯獲《ろかく》した仏製サン・シヤモンの二十六サンチを鼻歌まじ りで射ちこんだーそれがかえって、退路を絶つ皮肉な|阻塞 弾幕《バラ ジユ》となった。おれは泣いた。後流で、薄雲のような霧が機 胴をまいては流れる。それが、もつれあっては、花環のよう に降りてゆくんだ。  おれは、抗議して、まったく堪らんことだといった。愚痴 じゃないが、地上観測所の報告よりおれを信じろと云ってや った。  加れの報告に、連隊本部はぎょっとして声を呑んだ。しか し眼が、あるいは訴えるように圧するように、おれをとり巻 いて、何事かを強いるのだった。そしてとうとう、前夜の観 測に口をふさぐことになった。母隊の名誉のため、おれが一 片の功労を郷ってしまうのは容易いが、しかし査問の結果は 意外にも誼責をうけることになった。その理由は、地上偵察 の不確実、弾着観測の怠慢-犠牲、甘んじてうけるには、 あまりにも大きな犠牲である。  この戦場の描写は、じつに鬼気身にせまるものがある。そ れをみても、このぺータル・ゲオルギスなるうす気味悪い男 には、かなり買われてもいい文才があることが分るだろう。 他に、かれは作曲もする。またちょっと、彫刀もいじれば |将棋《チエス》も達人で、|長剣術《フヱンシング》においても鐸々たるものであり、しか も世界の|航空《ギヤ》燃|料《ス》の研究者として一、二を争う化学者だ。  いわば、ロスタンの戯曲「シラノ・ド・ベルジュラック」 において、最後にシラノが吐く断末魔のせりふのように1 哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、また天界の 旅行者たりーという、その天界の旅行者たる航空内燃機関 の大家であり、また芸術科学の綜合的天才として、レオナル ド・ダ・ヴィンチの再来というようた男。  -それがいまマダムQなるスパイ団に利用されている。 「考えれば、あいつも可哀想なやつなんですよ」  とヴィザリー子爵が暗然といいだした。 「あいつは、以前僕にこんなことを云ったことがあるんで す。ねえ君、どうも僕には宿命みたいなものがあるらしいん だよ。それはね、なにか良いことがあるらしいと思うと、と たんに墜っこちる。どんなに功をたてても、それが罰にな る。おれは生涯影身に添うている宿命みたいなものを持って いる男だ。と、やつがしみじみ云うのですよ。  だいたい、ゲオルギスが頭をやられた時だって、やつが航 空燃料の大飛躍ともいう、一五〇オクタン価の油をつくり出 した時なんですから……  で、その時やつは僕に手紙を寄越しましてね。おいヴィザ リi、よろこんでくれ。記れはとうとう永年飛行機の癌であ った『ノッキング現象』を打破したよ。今度のノlベル賞 は、おれのもんだと悦んでいたんです。ところが、かれの公 式を実験にうつしている最中に、猛毒四エチール鉛が蒸発し 昏倒してしまったのです。それなりでした。いのちは助かっ たが、頭がいかん。そのため、 一五〇オクタン価油の公式 も、闇のなかへ消えてしまったのです。思えば、やつも可哀 想なもんですよ」  まだ現代の飛行機は、発動機と燃料において開拓の余地が 多い。というよりも、いわゆる「ノッキング現象」なる癌の ようなものがある。  それは、発動機の圧縮比が限度以上に高まると、妙な、 |金鎚《ハンマ 》で叩きまわるような無気味な音響が、機関の内部から、 するどく聴えてくる。やがて、その音響がしだいに強くな る。と、機体がはげしい震動をはじめて、プロペラーの廻転 が眼にみえて落ちてくる。と発動機がパッと火を吐きだして ーというのが「ノッキング現象」である。そして、その原 因が燃料のなかにあるのだった。  したがって、発動機が発達して圧縮比の|桿《バア》がたかまるにつ れ、ぜひ油のほうもそれに伴ってゆかなければならぬ。そこ ヘ|四《テトラ》エチル|鉛液《 エチル り ド》の発見があった。これは、猛毒ではあるが早 天下の慈雨であり、ややそれによってオクタン価がたかまっ た。しかしそれでも、やっと|反《アンチ》ノッキング|価十《ヴアリユ 》五の上昇で オクタン価八十七に過ぎぬ。一方発動機のほうは刻々と進ん でゆく。  しかしこれは、アメリカ製油業者の共同研究により、一九 三八年には九十二に高まった。そして現在は、ロールス●ロ イスの発動機は百オクタン価の設計だといわれるし、また、 百=十オクタン価油が出現したという噂もある。そこへ、ゲ オルギスが百五十オクタン価油をかんがえた。きっとこれに は、なにか第二の「四エチル鉛」ともいう極秘裡のものがあ るらしいが、惜しいかな、これはかれの.奇禍によって永遠に わからぬものになったのである。  それ以来、かれは文字どおりの狂気の天才である。憂欝と 激情と、放浪の生活が、たださえ妙な男をいっそう変にして …:またちか頃は、イギリス情報省がイタリアをおびやかし ている、マダムQを首領とするスパイ団に加わっている。い や彼は、利用されているらしいのだ。 軍港パンテレリア島 「ところで記嬢さん」  と、ヴィザリi子爵がのぞき込むような眼をして、 「ゲオルギスが、あなたに作曲をおくりましたね。そのた め、あなたが迷惑なさったことは申訳ないことですが、どう です。その譜というのは相当なもんですか」 「ええ、いいもんですわ。ちょっと、ショパン以来にはない ような、|打情的《リリツク》なもんですの。ですからあの方があんな事に さえならなければ、ずうっと、あたくしも、お|交際《つきあい》していた と思います。でも、今度はひどい目に逢いましたわ。お前の 友達だろうって、大使館へ呼ばれたりなんかして……」 「じゃ、その後ずうっと御交際は?」 「しませんとも」  と、紀伊子はきっばりといい切った。しかし、かの女はな んだかその後で憂欝な顔になり、じっと眼下の夕焼けの海を ながめている。この一刻、真紅の|縮緬《クレ プ》のようなうつくしい鐵 をきざんでいる、しずかた睡ろうとするような海を……。  そばでは、|副操縦士《コ パイロツト》が天気図にマークをつけている。シチ リア島一帯ははげしい雨である。南の、アフリカ沿岸は不連 続線の雷が荒れ、いま無電手がサルジニア島のカグリアリを 呼んでいる。 「サヴォイア・マルケティ。Sl八三。い"国目。現在の位 置の判定は、ウスチカ島の南西八十五マイル。えっ、聴えな い、アレッサンドロだロ 馬鹿、アレッサンドロというのは うちの社長だい」  思えば、バレルモ空港を中心とするシチリア方面の雨も、 雷雨性らしく空中電気が強裂だ。カグリアリ局のが、やっと 聴えてくる。 「密雲、雲底はほぼ二百五十メートル。視界一マイル半、気 温四十二度。露点三十七、降雨中」  そうなると機は、いま一路パンテレリア島に向うほかはな い。そこは、アフリカ沿岸の仏領チュニスと、シチリア島の あいだにある小っぽけな火山島だが、最近そこは大軍港にな っている。つまり、ムッソリー|二《イル ド チエ》閣下の明敏な観察は、絶え ず一二〇マイルをへだてた英領マルタ島を睨め、ここと、 ..=9|呂《リノサ》".、、、ξヨbo2|旨《ヲムペツサ》..の二島を利用して、英の地中海勢 力をまっ二つに割ってしまったのだ。そうして今、いかなる 者も知ることのできない秘密防備のある、パンテレリァ島 へ、この機が向おうとする。が、軍港当局がそれを許可する かロ 「最近、マダムQを中心とする一味の活躍は、じつに辛辣、 悪性を極めている」  と、ヴィザリー子爵は紀伊子にいうともなく、なにか気遣 わしげな暗い色をただよわし、 「まったく、変幻出没自在とはあいつ等をいうのです。破壊 をやる、撹乱をやる。そのうえ、背後のイギリスの敵性を露 骨にみせ、公然、いつどこをやっ付けると予告をしたりす る。きっと、あの一味にはおそろしい頭脳がかくれている。 僕は、それをゲオルギスと信じたくはない」 「私も」  と、紀伊子は口まで出かかった。 「ねえお嬢さん、あいつの精神状態は正常のものではないの ですーなにからなにまで、メチャクチャに壊われている。 分別もない……現実の世界もない、ただ純粋の思考の仮象の 中だけに生きている、そういう男を、もしも利用ができたと したら、それは恐ろしいことですよ。また現在、それが事実 らしいのです」  ヴィザリー子爵の眼には、旧友を思う切々たる情が宿って いる。いま、ゲオルギスがあの一味にいることは分るが:… それも、かれの、悲しい変質的なものがさせていることだ。 出来るたら、この際ゲオルギスを救いたい。そして、しずか に療養を続けたら、恢復できるのではないか。いや、これは 私情の問題ではなく、いまイタリアがもとめている燃料学者 の一人として……ぜひとも彼を奪還しなければならぬと考え ていた。  一方紀伊子にも茄なじような思いがある。  さいしょは、ゲオルギスをみて妙な男だと考えた。陰気に なったかと思うと急に|燥《はしや》ぎだしたりする……マア云わば|風見《かざみ》 鶏みたいな男だと思っていた。しかし、彼があの怪文書の不 名誉なる筆者とわかった以後は、断然交わりを絶ち、向うか らも来たかった。すると、その後しばらく経つと、手紙がや ってきた。それに、はじめてゲオルギスが熱い胸中のものを 吐いている。  llかの、うるわしき心の恋をして臨終の最後の刻にいた るまで、ついにその胸のなかを吐かなかった、シラノの意 気。また、エロイズとアペラールの霊性の恋を、私はかんが える。いま、あなたを見ないということは、なんという楽し さだろう。あなたに逢わないことは、私の恋が続くというこ とだ。  それまでに、紀伊子は派手な位置にいるだけ、度々求愛さ れた経験がある。しかし、変った男からこんな変った恋をさ れたということは、けだし空前であり、絶後であろうことも 確かである。そうして、なによりゲオルギスにある純情的な ものが胸をうってくる。  あの、背のひくい頭のおおきな、どこもかしこも釣り合い のない醜い男が……なにか余人にはないような、純粋のもの を持っているように思われた。また、かの女はいじらしいと も考えた。そんなわけで、もしマダムQ一団のことを除ける としたならば、むしろゲオルギスには好意をもっているとい えるのだ。それに、きのうサン・レモへ発つとき、また一通 がきた。それには、いまシチリア島のパレルモにいる。しか も宿は、今夜この一行がゆくはずの、ホテル「|地中海《メデイテラネ 》」l と書いてあった。  もちろん、そこへは偽名で泊っているのだろう。しかし、 かれのような頭の変な男でもなければ、いま眼を皿のように しているイタリァ領へ乗りこんで、のうのう一流ホテルに泊 っていられるものではない。また、マダムQの一味も一緒で はないのか。そうしてみると、これが彼をヴィザリーに逢わ す絶好の機。かてて加えて、かれを奪還したあとの憎むべき スパイどもを、一網打尽にする願ってもたい好機であるー と思うと、紀伊子はわれ知らず|逆上《のぽ》せたようになってしまう のだ。で一応は、 「いっそ、この事をヴィザリーにいおうか」  と考えた。  しかしこれは、かえって向うに着いたとき自然にしたほう がいいだろう。そのほうが、むしろ二人の友情を解け合わす 点で、効果的ではないのかーとかの女は聰しい考えをし、 今宵のホテル「地中海」のいろいろた情景を想像した。 (偏崎な天才。分別や徳性の一部をうしなった、可哀そうな ゲオルギス。いまは、一個の人間の存在ではなく……ただ考 えさせられてそれを利用されている、はかない思考機械のゲ オルギス) (かれとヴィザリーが会う劇的シーン) (その後じぶんは、あるいは廊下をぬけ、植込みのなかを潜 りたがら、マダムQ一味の逮捕のため、大活躍をするだろ う) (そうして私は、最後にゲオルギスと別れるときはロクサア ヌ姫のようにしてーあの木の葉の色は、ヴェネチア風のブ ロンドでございますね。御覧遊ばせ、もう散りますわIく らいは云ってやる)  もともと少々どころか大分|浪漫的《ロマンチツク》なこの娘は、あるいは狂 気し、あるいは戦傑し……さたがらじぶんが役者になったか のように、ホテル「地中海」の今宵をあたまに描いていた。 客室では、お客たちが踊りをしているらしく、発動機のうな りの間にレコードの音が聴えてくる。しかし、まだパンテレ リア島からはなんの回答もない。  そのころ、機は雲中飛行になっていた。昼なら、白壁のよ うな重畳たる雲をぐるりにして、ただ計器のみをたよる盲目 飛行となるのだが、あいにく闇のこの海上では雲裂さえもみ ることができない。ただ|操縦士《ノィロツト》はせわしげに顔を動かして、 まるで星空のような|計器盤《パネル ボ ト》の上に眼を馳せている……揺れ てきた。窓をつたわって、雨のような滴くが垂れている。紀 伊子は艇長に、 「降ってきたんですの」  と訊いた。 「ええ、それに翼の氷結が解けるんです」  艇長に、もうまえのような愛想はない。ときどき、計器盤 のなかの|回転式水平計《ジヤイロスコ ピツク ホライズン》をみ、返した目がヴィザリーに ぶつかると、その二人がかわす表情のなかになにかしら険悪 なものが分るのだ。それが、紀伊子にもだんだんに読めてき た。回転式水平計の|水《バ》平|桿《ア》がすうっと上ってゆく。それは、 機の下降を意味すること。そのときの厭アな気持といったら アプルツッイ」以下軽巡の六隻。なお、「カルヴィ」 以下の航洋潜水艦十隻。そして諸君は、おそらく「ダルト」 「サン・マルティノ」以下の駆逐艦も見るであろう。  いまに、この機が海上に不時着するのではないか。皆さ ま、|救命具《ライフ ベルト》とさけぶ|女世話掛《スチユウォ ドネス》りの狂喚と、強雨下に荒れる地 中海の波浪が、いまや落ちてくる機に伸びあがるように叢を あげ……と、うかぶのはみな不吉な幻ばかり。  そこへ無電手が非常な興奮をあらわしながら、いま来たら しい着信をもってきた。それには・…  1御難航を案じ、無事。ハンテレリア島に着くを祈る。  えっ、誰だと、発信者の名をみたとき、アッと一同が声を のんだのである。マダムQl目下のイタリァにとってもっ とも不吉なる人の名が……  1今夜同港には、新戦艦「リットリオ」ならぴに「ヴィ ットリォ・ヴェネト」碇泊中。さらに、中型戦艦の二方五千 |噸《トン》級では「アンドリア・ドリア」ならびに「ジュリオ・チェ ザーレ」さらに「ポーラ」「ボルツァーノ」「トレント」「ッ ァラ」の一万噸級巡洋艦四隻。さらに、「ドウカ・デグリ・  そこのところで、一先ず一同は、中間の呼吸を吐きだした。 なんという怖ろしい一団であろう。なん人といえど、窺い知 ることのできないパンテレリア軍港のなかを、どうして彼ら は手にとるがごとく知っているのだろう。英鬼1と、嘲弄 される憤りに眼を燃やし、半ばはもう、夢心地でさきを績け る。  一万噸級巡洋艦の「フユーメ」において、最近|飛行機放出 機《ボァッキ カタパルト》が改修されたるがごとし。それまで、百二十|呪《フさト》なりしもの が百呪に縮められ、なお同艦の中型砲は七十五度の仰角をと り、全部高角砲の性能をもつごとく改装されたるようなり、 これは、いずれなにかの際に御実見を願いたきものである。  以上のことは、貴下等イタリア国民にたいする警告の意味 をふくみ、到底貴下等がわれ等にたいする敵にあらざること を、この際悟るをもって賢明とする旨を、勧告す。  そして最後に、あの不吉な署名、マダムQ。 かくてパンテレリア島は海底に没すρ 興奮と、憤激と、 畏怖と、切歯と- :数雑多な感情の渦の なか。紀伊子は、こんなようでは今宵が案ぜられてくる。ホ テル「地中海」にどんなことが起るかもしれないと、さっき のお芝居のような楽しい幻像は消えうせて、いまは現実の恐 怖の心許なさに怯えるばかり……そこへ、パンテレリア軍港 からやっと回答がきた。  1讐ゾ刈ブ川樽峨の飛行場に着陸を許可す。ただし、船 窓は全部|暗覆《ブラインド》をおろし、当局の許可あるまで、機外にでるを 禁じられたし。  これで、今宵逢うべかりしゲオルギスとヴィザリー、ま た、彼女とゲオルギスとのあいだに行き違ったような運命が きた。ではその三人のまた逢う日は……ロ おそらく断崖上 の格闘のようなときではないのか。  やがて、艇長は客室にでて、いった。 「……そんな訳でありまして。目下、パンテレリア島は小雨 が降っております。しかし、軍港飛行場のこととて、|渡《ギヤング ウ》り|廊《ユ 》 下はだしません。不行届きの点は幾重にもお詑びを申しあげ ます」  やがて、スパディルロ岬の燈台の灯がみえてくる。すると 左方の、まるで鋼鉄板のようたまっ暗な闇のなかに、しだい に調節されてはっきりとした円になってゆく、飛行場の|霧 ローム           ジグザグ     エクイジグナル. 光塔の灯があらわれる。機は、雷光形に飛びながら誘導電波 帯《ニレクトゾ ン》のなかはへいってゆく。  しかしここで、作者は場面をパレルモに移すことにする。 それは雨があがった翌朝のことであり、場所は、ホテル「地 中海」 の見晴らしのいい、 一室と思えばよい。 「ドラーガさん」  といって、ゲオルギスが寝椅子の上から女に呼ぴかけた。 そばには肥り|肉《じし》の腰の線のうつくしい、ひとりの中年婦人が 立っている。南欧的な、というよりもバルカン的な:.…どこ か人種が混りきって特徴をうしなったような……しかもどっ しりと重く、押しせまるように豊麗だ。おそらくこれがマダ ムQではたいのか。 「あんたが、僕を養うようになってから、大分になるがね。 しかし僕は、あんたが一体どういう人かということを知らな い。茶人かね。それとも、|高価《たか》い犬でも持った気で、僕をつ れているのかね」 「また、そんな皮肉」  と、そのドラーガという婦人がやさしい睨みをくれ、 「私は、あなたのお|身体《からだ》を治したいと思うの。あなたのよう な偉い方の活動が休止してしまうなんておそらくこれは全人 類の不幸だと思いますわ。まったく、バレンシュタインに十 頁も要るような方」 「ハハハハハ、|大化学百科全書《バイルシユタイン》だろう」  そういって、ゲオルギスはまた寝椅子のうえに寝ころん だ。かれは、憂欝そうな眼で水平線上の水をみる。しずかな 波、やっと感じるくらいな静かな風。赤い帆に、龍舌蘭の植 込み、|撒擁《オリさプ》の叢葉。とおく、ながい瘤のように突きでている 岬のはしは、そこだけ|仮漆《ユス》をながしたような水がまっ白に泡 だっている。いま彼は、薔薇と|洋燈《オレンジ》のかおりをさんさんたる 陽とともに浴ぴている。 「紀伊子」  とゲオルギスはそっと呼んで、眼をとじた。それが、悲風 惨雨のかれの生涯にきたはじめての光。またそうしている時 が、頭痛と脊髄痛の絶えざる悩みのなかの、安らかな憩いの 一刻である。  と、それがドラーガの声でやぶられて、 「いつか伺った航空燃料の話を、また今日もしてくださいま せんこと」 「おやおや、婦人の癖になぜそんな話がいいんだろう。じゃ、 するがね。かりに此処に、一〇〇オクタン価の燃料があると する。しかしそれに、もしも微量の硫黄でも投げこんだとす ると、たちまちそれが六十オクタン価くらいに下がってしま うのだ。今日の発動機では、ただ墜落の一途あるのみだ」  ドラーガの呼吸が、だんだんに静かになってゆく。|露《むき》だし た腕をやんわりと擦りながら、なかば眼をとじ、睡ったよう な顔で聴いている。こういうときが、この女の、いちばん危 険なときなのである1沈黙がきた。ゲオルギスはまた紀伊 子に呼びかけている。 「ねえ紀伊子、一度はきて、ホテル『地中海』の露台にたっ て御覧。船着きは、入江になって豆のような蒸汽がうかんで いるよ。そこへまっ白な船腹をうつして、周遊船がはいって くる。町も、うつくしく積木のようだし、空気は、紫外線が 豊富で、ぎらつくような晃耀だ。そうして薔薇、いたるとこ ろ薔薇と撤檀だ。  それに、分るかい、エトナの方へゆく海岸鉄道のオモチャ のような列車……まるでそうだ、まるで木炭をまじえたアル コ!ルで走っているようだ。だが紀伊子、すべてシチリア島 とはこうした場所なんだ。|玩具《おもちや》の国、そして静物だ」  幻影と抽象のなかで味うプラトニックなよろこびに、彼は たかいたかい夢のなかに入ったような気になる。こういう時 が、この半狂人ゲオルギスの頭脳が人間以上になるときだ。 それを、たくみにドラーガが|手繰《たぐ》りだすように、ひき出して ゆく。  ゲオルギスは、ふと思いだしたように、 「そうそう、いつぞやの僕の自寂伝はいつ出るんですね。も う大分になる。あんたに渡してから半年にもなるがね」 「あれ、すっかり忘れてた」  とドラーガが空々しいとぼけ方をする。それが、例の怪文 書の原文なのであって、今ああしたものになっていることは 少しもゲオルギスは知らぬ。また彼は、ドイツの大戦記録掛 りの調査によってそれが彼であるのを知られたということ も、また今、彼がイタリァ領などにいられた身ではないとい う事も……一切彼はすべてを知らないのである。ただドラー ガ・クシュコ夫人なるマダムQに操られ、彼は暖衣飽食裡の 俘虜生活をしているのだった。 「あっ、そうだ。ドラーガさん、金をだしてもらいたいが」  と突然、なにを考えたのか、むっくとゲオルギスが立ちあ がる。 「なにに、・なさるんですの」 「二ースヘゆく。そしておれは|賭博場《キヤジノ》で博変をやる。新二硫 化炭素爆発物のようなもの凄い勢いで、おれが賭博場全部を 吹っとばしてくれるんだ」 「あっ、ちょっと」  とドラーガがちかっと眼をひからせた。 「その、二硫化炭素なんかと云うのは、どんなものなんです の。ちょっと、お話しあそばして」 「おやおや、どうして化学なんてものにそんな興味をもつん ですね。僕はあんたを、男のためだけに完全な女1とのみ 思っていた。あんたの、その両手はからみ付くためだけにあ る。その黒檀色の黒眸も、丈にあまる黒髪も……」 「おからかいも、いい加減にあそばして」 「いや、僕はそれだからこそ、驚くんだ。まったく、あんた は絵姿のような美人だよ。えっ、どこ、スペインかロ 幾分 あんたにはムール人の血がまじっているだろう。果せるか な、ドラーガ・クシュコ夫人には空想家肌が多分にある。ま た、大胆な、向うみずな気質もまじっている。しかし、科学 に向う心はああいう人種にはない」 「もう、いい加減になさいましよ」 「では、話しましょう。その二硫化炭索というのは、人絹工 場で溶剤につかう液体だ。それに、おなじ人絹の溶剤のアセ トンを混ぜる。それが、摂氏六十度で自然発火をする。密閉 したものに入れれば、爆発をおこす。が、それはまだまだチ ャチ・なものなんだ」 「といいますと」 「つまり、アセトンのかわりに塩化硫黄をまぜたとする。こ れは、ゴムの|加硫剤《パルカナイザ 》だがね。そうすると今度は摂氏三十度で 自然爆発をする。摂氏三十度は真夏の気温じゃないか。とこ ろでおれは、その自然爆発液をもっともっと強力にすること を考えた。それは、×××××x×を入れることなんだ」  ドラーガは、瞬きもしなくなっている。香りのいい|莫煙《けむ》を はきながら、像のようにうごかない。 「その強力さは、わずか半オンスほどで小屋くらいは吹っと ぶからね。だから例えば、その爆発液をパンテレリア島あた りに仕掛けたとする。あすこは地下が溶岩孔のため軽石みた いになっている。その、水面下になっている島脚の一部に仕 掛けたとしたら、まず、四分の一噸もあれば、あの島が飛ん でしまう。一瞬に、パンテレリア島が海底に覆没するように なる。ハハハハハ、ここに昔、パンテレリア島ありきI さ」  ドラーガのからだが、かすかに顧えている。いや、マダム Qは冗奮の絶頂にある。この半狂人の奇怪な頭脳を綾にし て、かの女、マダムQはいまおそろしい計画をたてたのだ。  東は、|多島《ユ ゲ》海をとおってダーダネルス海峡へ、西は、ジブ ラルタルまでもとどく覆没時の大渦。激動、みるみる高まる 海水に没してゆく、ムッソリー二の野望。さながら、大古あ りしとかいうアトランチス大陸の陥没のように、ここに旧ロ ーマ帝国再建の夢も一瞬の間にはかなくなる。  東西地中海の要衝にたつ、この忌わしい島がなくなれば.: …ここの全海面を制圧するユニオン・ジャックの旗風に、も う|地中海《マ ル メデイテラネオ 》とイタリア語では呼ばせぬようになる。すな わち、そうしてはじめてこの地中の海が、わが|主管下《シイ オプ マイ カマン》の|海《ズ》と たる。 「ここに、昔、バンテレリア島ありき」  ドラーガが、やっと出たような、声でつぶやいた。 全能の魔女  眼がさめると、紀伊子は兵営のベッドにいた。そうだっ た、ゆうべは小雨の闇のなかを、ここへ連れてこられたの だ。そうして、この兵営の一部以外は、散歩も禁じられて いる。しかし、|雨霧《あめあが》りの朝の澄みわたった大気のなかに、 クッデイァ・ヅィ.ミダ    モンタナ.グヲンデ 、"O巳臼口岳=一轟".や、 、.言9880β巳o..などの、死火 山の頂きがもの凄い爪のようにみえている1地上にも、わ ずかた椰子と|無花果《フイコ》がみえるだけ。  粧りを済ましてヴィザリーの部屋へゆくと、かれは、手馴 れた手付きでスイスイと針を抜きながら上着の背の鉤裂きを つくろっている。 「どうです。世帯持ちのいい、女房を持ちゃこんなものです よ。これからは、あんたのものも僕が繕ってやる」 「|上手《うま》いもんですわね」 ・「そうですとも、お針だってお料理だって、出来ないものは ないんだから。ムッソリー二閣下の弟子は、世帯持ちがいい ですよ」  そんなことが始まりで、だんだんこの二人が離れられない ものになってゆく。やがて紀伊子は、いま監督がてらこのカ プリ島にきている、かの女の母にすっかりこの事をうち明け たのである。ナポリの湾外にある、この|海《シレ》の|妖精《 ヌ》の島。その 南岸のラ・チェルトサにある「ジェルマニァ」という鄙びた |旅宿《パンシヨン》に……  自然垣を越えてみえるモンテ・ソラノの中腹に、崎嘔たる 石壁道が|古城《カスチリォヨネ》へのびている。その、|石灰岩《ライム スト ン》の断崖下に曼 珠沙華とくだけ散る、|海《サンタ 》の|御守護《マリア デルラ 》の|母《マ ル》の|緑玉泡《エメラルド》。あくまで伊 太利調を飽喫するカプリ島へきたころは、今日は、と思いな がらも、逡巡していた紀伊子である。しかしその夜は、とう とう決心をして、母親の部屋へいったのである。 「ああ、なあにお紀伊ちゃん」  と紀伊子の母は寝間着のままふり向いた。紀伊子は、日頃 のかの女に似ず怯ついて口ごもり、あのうと云ったなり、ま っ蒼にたらてしまった。 「睡れないの」 「ええ」 「じゃ、|強葡萄酒《フアソルノ》をうすめたのを、すこし飲るといいです よ。えっ、なに睡れないんじゃないんですってロ」 「あのう、じつはお母さま」 「なんですか、聴きましょうよ」 「あのう、お母さまに云いにくいことなんですけど、じつ は、あたくし結婚したいと思う人ができましたの」  しかし、紀伊子の母には驚く色がない。だいたい、そんな 気振りはさとっていたことである。近ごろは、落着いてもき たし、女らしさも出来てきた。それに、触らば崩れん|搦脆《フラジ ル》な 感じが、この我むしゃら娘がマアと思うほどに匂ってくる。 変ったな、と紀伊子の母はとうに気がついていた。しかしこ の|悟淡《てんたん》たる娘がと思えば根強いものとも思えぬし、またわが 子の理性に信頼のあつい母親は、別に訊しもせずじっと様子 を見ていたのである。 「いいでしょうよ、もうあなたも、年頃ですからね。しか し、それは先様にもよりますよ。音楽関係の方?」 「いいえ、イタリアの軍人で飛行機にのる……乗るというよ りも、|設計者《デザイナ 》のほうですわ」 「そう、設計者ね」  と、紀伊子の母はなん度も頷いたが、黙った。  糠雨がふる、むし暑い夜だった。しずかな|雨滴《あまだれ》の音や|風 笛《バツグパイプ》の音とともに、百合や|香燈《アランチオ》のきつい花の香が漂ってくる。 「お舞さま」  と紀伊子はかるく母に呼びかけた。母が黙っているのが、 ひどく紀伊子を不安にした。 「その方の名は、ヴィザリーっていうんですの。お家は…・ 貧乏華族ですが、非常な天才です。それにあの方は生え抜き のファッシスタなんですの。ムッソリー二閣下の|羅馬《ロ イ》進撃に もお伴をしたそうですし、|目葺《マッテオッ》80まという、|悪《テイ》い社会党の 代議士をやっ付けたときも先鋒だったといいますわ。それ に、例の車輪を落してしまう決死爆撃行の、.、》|三三《アルデイチ》..に志願 をしたさいしょの方ですの。あたくし、そういう働く方は大 好きですわ」 「だけど、だれでも働いているじゃありませんか」  すべてが、一時代まえの母親にはピンと来ぬことばかりで あった。 「でも、あの方は評判になっているほどですわ。真面目で ・…あの方がおっしゃるようにほんとうに愛しているのだっ たら、お母さま」 「じゃ、きょうあなたと歩いていたのは、その方ですね」  と紀伊子の母がやっと気付いていった。 「あんな霧雨のなかを、ぐしょ濡れになるまで……」  紀伊子は、眼でうなずいて甘えるように顔をふせた。そし てまんざら母にも反対の気配のないのを知り、かの女はやっ と安心したのである。  部屋へかえると、窓に椋欄の影がさしていた。水平線上の 縞目のような雲の切れ間から、ほそい銀の鎌のようた二日く らいの月がのぞいている。かの女は、花蔦をからめた|涼廊《ロツジア》に でた。空は、雲のながれにつれて星数を増し、たかい岬の円 錐のうえで石松が揺れている。雨後の海のさわやかな夜気、 はるか潮鳴りのむこうにはヴェスヴィオの火。 「ヴィザリー」  と紀伊子は蒼黒いうす闇のなかに吐息をした。昼なら、ま ろやかな胸を大空へもちあげているような……いまヴィザリ ーがいる|聖《サンタ》アンジェロがみえるだろうが。  ところが一方、マダムQの暗躍がますます辛煉になってき た。かの女がたくらむパンテレリア島覆没計画の序曲とし て、じつに酸鼻をきわめた事件がオルベテルロの飛行場にお こった。  この要港オルベテルロは、じつにイタリア空軍にとり、 「サヴォイア・マルケティ」会杜にとり、由緒ぶかく記憶せ ねばたらぬ土地である。というのは、かのイタリア空軍を世 界的に誇示したバルボの大編隊、「サヴォイア・マルケティ s-五五X」の|二重機胴機《テソダム プレ ン》二十四機の大編隊が、ここを起点 として六千百マイルを飛び、無事一九三三年の七月シカゴに 到着した。  という、由緒ある飛行場でヴィザリーの設計になる「サヴ ォイア・マルケティSl八三」を重爆に改装したものが、い よいよ|聖体節《コルブス クリステイ》の日の五月二十九日、晴れの制式機採用の |試験《テスト》をされることになったのだ。  よく晴れた日で、透明な空の光りが、さんさんと降りおり ている。|撤檀《すリ ブ》の灰緑色の丘のむこうには、波うつ麦の海。|金 雀枝《えにしだ》の縁をつけた|嬰粟《けし》畑のうえに重なって、王冠に白十字の 楯のエリトレア総督旗。斜めに赤い二つの星の |中将《テネシテ ジエネラ レ》 の 旗が、そよ吹く五月の微風にへんぽんと醗えり、さながら真 紅の嬰粟の焔に煽られているかに、みえている。     レジア・工ーロナウテイカ                 ギ ド .一 !  場内は、航空省の鐸々たる連中や、〇三9品日口の国立 航空研究所のプロフェッサー連で充ちている。そして機は、 いま一かけの金屑さえも見逃がすまいとする|真空掃除器《ヴアキユヨム クリ ナ 》が 掛けおわったらしい。「|決死爆撃行進曲《ラ マルチアニアイ アルデイチ》」のりゅうりょうた る軍楽の音。  とその時、社長のアレッサンドロ・マルケティ氏がヴィザ リーのそばへ寄ってきて、 「君、この試験飛行も気を付けにゃたらんぞ。きょう、マダ ムQのやつが大変なことを云ってきたそうなんだ」 「へえ、あの怪物がどんなことをですね」 「それが、じつに何ともえらい事を云ってきたものなんだ。 近々中に、パンテレリア島の全破壊を行うと云う.…・.根こそ ぎあの島をぶっ壊してしまラと云うのだよ」 「ほう」 「それもだ、六月十四日から十六日までの三日間ーと、や つは日限りさえも添えておる」 「ハハハハハ、そりゃ杜長、こけ嚇しでしょうぜ。爆弾の五 千噸も投下すれば滅っ茶くちゃになるでしょうが、いまは、 まだ緊迫時とはいえ、戦時じゃありません。いったい、どん な方法であの島をやると云うんです?」 「    」 「第一、可能な方法が一つも見当らんじゃありませんか。ハ ハハハハ、あなたほどの方が嚇しに|怯《ぴく》つくたんて……」 「いや儂は、この試験飛行も気を付けにゃならんと思うか ら、いう。むろん、軍部のほうでも万全を期しとるだろう が」 「御懸念なく」  とヴィザリーはきっばりといい切った。 「きょう、外力による不祥時がほんの些細な事でも起るよう でしたら、われわれはこのイタリアの治安について根本の不 安をいだかねばなりません。大丈夫-社長もお齢のせい か、大分|毫《ぽ》けられたようですぞ」  空からではなく地下の海底からと云うことを、神ならぬヴ ィザリーは知らない。いや、いかなる智者といえど、知るも のはないであろう。やがて、|全装備《アル ロヨド》のこの「サヴォイア・マ ルケティSl八三」の大重爆が五基の|発動《ユソジソ》機の快音をひびか せ、滑走路をはしりはじめた。 「全装備の離陸時間は」  と航空省の首脳部のひとりが訊く。 「ハッ、陸上において二十秒。水上において三十秒でありま すが」  とその大尉がストップ・ウォッチをのぞき込み、 「しかし唯今は、十八秒で済んでおります」  すると機が、巡航姿勢をとった瞬間である。突如、機体に 震動がおこった。それは、地上からもはっきりと見てとれる ほど、烈しいものだった。と思う間に、五基の発動機がめら めらっと火をふいてそれなり機首を逆さまに地上に墜落した のである。  とたんに、ヴィザリーは荘っと突っ立ったままになったの だ。焼けゆく機に眼をやる考えも|裕《ゆと》りもさらになくただ異様 な発火をした大空の一個所にのこっている機のかなしい残像 を見つめながら…・・ 白いあけぼの  その、オルペテルロの惨事があった十日ばかり後に、紀伊 子は失意の底のヴィザリーをなぐさめようと、ソーレントへ 遊びにいった「わが|太陽《オ  ソレ ミオ》よ」、「サンタ・ルチア」、「さらば《アデイオ ア 》|よ ナポリ」など……イタリアの|名《ナポリ》歌謡中の大半を網羅するこの ナポリ湾の、ソーレントもまた一つの唄をもっている。  シャルバンチェの名曲「イタリアの印象」中にある、騒馬 の鈴の音はじつに愛らしいものである。いま二人の騒馬もお なじ音をたてながら、マッサの岬へゆく、ラ・コンカの岩径 をとおってゆく。そこは、頂きから底までまっ二つにひき裂 けたようた険しさ。まっ赤な|花嵩岩《みかげいし》や黄色い|凝灰岩《テユファ》の岩壁が あるいは坊主のような怪鳥のような姿で押しせまっている。 「|焼肉《アロスト》がありますわ」 と、鞍に結いつけてある|食物籠《  エリ ナ》を叩きながら、うしろの騒 馬のヴィザリーにいったのだ。しかし、ただ彼は力のない笑 みをかえすだけ「|決死爆撃行《アルデイテイ》」第一番の志願者なるファッシ スタ中のファッシスタも、じぶんの設計機が不慮の災禍に逢 ったあれ以来、というものは、頬もこけ、別人のような|樵檸《やつ》 れかたである。  紀伊子はその気を引きたてようと、いろいろに心を砕いて いた。  |奥《シニロ》さまと、|馬士《ラさびザら》にいわれた時などは免れかかるような眼で かれを見るが……それもただ、お義理に笑みかえされるだ け。ヴィザリーは絶えず|眩量《めまい》がするような眼で、からくも鞍 のうえに乗っている。  いくつも|洞窟《グロツト》をくぐり、|八十八折《つづらおり》の道をのぼり切る。ばっ と、初夏の陽を浴びたときは、眩むようた思いだった。しか し、この眺望にこそソーレントの真美がある。真下にみえる 綴ぎはぎの布地のような、|檸檬《リモ ネ》や|香澄《アランチオ》の果樹園のあいだに青 い陶瓦の家。  鉛青の沖からかけての一面の波頭をきる……|単橿船《ポラツカ》の帆、 |外輪車《サイド ホイヨル》の周遊船。  薔薇色にたちのぼるヴェスヴィオの煙りの右横に、騒雨の あとらしい小指のような、虹一つ。 「マア、綺麗」  と、紀伊子は小手をかざしながら、胸いっばいに海気を吸 いこんだ。そのとき、いつもヴィザリーに冷かされる下手く そな詩のことを思いだして、 「白は破璃、青は青磁の|粕薬《うわぐすり》。赤は……? ねえ」  とヴィザリーをふり向いたが、気のない返事をかえされ る。そこへ、馬士のひとりが気を利かせたように云うのであ る。 「この右をしばらくお行きになったところに、ええとこがあ りますだ。|恋《フムンク》 の |泉《ナニタモ ル》といいましてな。たいてい、お若い方 方はその加泉さまにあやかりますだよ」 「行ってみないロ」  と紀伊子はかるい毒恥のなかで、思いきって云ってみた。  そこは、|羊歯《しだ》や|月桂樹《ロ レル》などが欝蒼と生いしげり、脂肉の南 国植物の芳香でむせ返らんばかりであった。泉は、乳香の葉 を濡らしながら、樋から滴り落ちている。ヴィザリーがはじ めて云ったのだ。 「済みません。僕もこんな仏頂面をしたくはないのですが ……」 「分っていますわよ。あたくしには、すっかり」 「あんなことで、せっかく僕が設計したあの機が焼けちまっ た。もう一台つくるまでは、正式決定のほうも延期です。僕 にはもう、なんの力もない」  一筋、二筋、陽の矢が落ちてぼうっと土を燃している。女 の、膝にうづめてくしゃくしゃになった髪が、緑にかがやい て咽るような香りだ。 「あの機こそ、わがイタリァの大型機のホープだったのだ。 スベイン戦争のとき、英、伊、独、仏、ソ、の各国が兵器試 験をやったのですが、そのときわがイタリァの兵器の大半は 不評だった。『フィアットC・R四』の、戦闘機もいかん。 半吋のうすい装甲で高速だけが取り柄の、フィアットの|小型 戦車《タソケツト》もむろん駄目。ただ、他を圧したのはあの機の前身の 『サヴォイア・マルケティSI七九』の重爆だけだった。ソ 連の.、0|冨《シヤトウ》8".や.、|目《モス》oω8..やフランスの。、|勺《カポテ》9|臼《ツ》.。五四など を、速力と戦闘性の優秀から、ぽんぽん落したもんだった ーその機の、あの『Sl八三』は延長であり、完成であ り」  紀伊子は、慰めようにもなんの言葉もない。ヴィザリー は、南国人らしい激情で狂ったように髪をかきむしり、 「だがあれは、原因がやっと分ったのです。なに者か、区分 タンクのなかヘ硫黄を入れたんですよ。つまり、離陸のとき は強大な馬力を要しますから、どうしても燃料が九十二オク タン価でなけりゃならん。そいつが、硫黄を入れたため、ず うっと低位なものになった。発動機の圧縮比が高まったとこ ろへ七十オクタン価くらいの油。ノッキング、発動機がパッ と口をひらくのも訳はない」 「マア、なんて怖ろしいこと」  と、紀伊子が云ったことよりもそのときのヴィザリーの眼 のほうが、より激しく怖ろしいものにみえるのである。 「あいつです」  と、ヴィザリーが叫ぶように、いった。 「あんな智恵は、あの一味にゲオルギスがいればこそ。これ を機会に、僕はあいつへの友情をかなぐり捨てることにし た。僕は見つけ次第、その場で殺してやる」 「だけど、ゲオルギスは半狂人ですわよ」 「だからこそ、あんな|響尾《がらがら》蛇は殺してしまわなきアならんの です。あいつが、あんな……兇悪な人間になろうとは夢にも 思わなかった」  ここに於ても、マダムQは全能の魔女だった。それをみる と、パンテレリア島破壊が、まんざらの嚇しでもないよう に、しみじみヴィザリーは怖ろしくたってきた。また、それ を男から聴いた紀伊子の心労も……そうして日は、日一日と 問題の刻に近づいてゆく。  その、十四日のちょうど前夜のことである。マルタ島の、 ヴァレッタ港からはなれたフローリアナという村にある、 |聖《サソタ》マルチノ病院の一室に、ゲオルギスが横たわっている、左 手はなく全身に縄帯され、もう顔には死の影が漂っている。 そとは、|糸杉《サイプレス》の梢がゆれ、ごうごうと海が鳴っている。  とそこへ、扉をひらいて、そっと看護婦を招いたものがあ る。 「どうでしょう、その後変りはないでしょうか」 「ええ、でも、もう静脈に張りがございませんの。一時間く らいのうちには、お変りがあるだろうと思いますわ」  と、その女の影がすうっと廊下へ消えてゆく。そしてま た、この病室にはまっ白な静寂がくる。そのとき、ゲオルギ スがむっくと起きあがったのである。 「き、君、鏡をとってくれ」  それから、彼はながいこと自分の顔を見つめていた。頬は 落ち、眼や|鼻翼《こぱな》には死の影がやどっている。たださえ、崎醜 を帯びたかれの顔がいっそう物凄くなり、いまは執念だけで やっと生きているようであった。とまた、鏡を落して、ぐっ たりとなる。かれは、ぶつぶつ洩れるような声で、|璽言《うわごと》をい いはじめたのである。 「紀伊子、紀伊子がおれにこんな事を云ってきた」 「なんでございますの」  と、着護婦が聴いたが、それは聴えなかったらしい。 「あたくしは、神かけて貴方を愛することを、お誓いいたし ます。生涯、ゲオルギスさん以外には愛情を感じないこと を、お誓いいたします。しかし」  そこで、かれの言葉がぶっ切れたように、聴えなくなった のだ。かるく、看護婦が掌をたたいてやると、また口がひら かれる。 「しかし、霊性の恋を主張するあなたが、ああいう|邪《よこしまや》な|輩《から》 のなかにいて、御自身けがれているものに、なんの資格があ りましょう。あたくしは、すべてを清算して浄らかた身にな ったとき、はじめてあなたのお心をこの胸にうけるつもりで す。。ハンテレリア島破壊計画をいっさい|烏有《うゆう》にして、あのマ ダムQの一味をこの世から葬り去ったとき、はじめてあたく しは愛するということを云うでしょう。それこそ、神かけて 変らない愛を誓いますーと紀伊子がこういう事をいってき た」  それが、紀伊子の最後の努力だったのだ。ヴィザリーの嘆 きをやわらげ、パンテレリア島を救うためには、あの一味の 頭脳であるゲオルギスを動かすよりはほかにない。忍びない ことだが、致しかたないのである。で、ゲオルギスにあてて 手紙をだし、それが彼の熱情を奔騰させたのであった。  かれは、紀伊子の愛をうけるべく、じぶんの身を捨てたの だ。永遠の愛、永遠のじぶんの価値1そのため彼は、身を 滅すことも悔いなかったのである。そうして、新二硫化炭素 爆液をもってあの一味を粉砕し、じぶんは瀕死の重傷を負 い、この病院に連れてこられ、いまこうして死の床に横たわ っている。  もちろん、|梼事《ちんじ》の報とともに紀伊子も駈けつけて、いまフ ローリアナのこの病院にいるのだった。  それから暫く、かれはまっ暗な視野のなかをじっと見詰め ていた。もう、枕辺にきた紀伊子の顔もみえないようであ る。唇がうごく。ふるい立とうとするはげしさに、びりりっ と頗えている。笑った。彼と紀伊子の魂の融合をみたかのよ うに……そして、痙璽がおこり、喘鳴がはじまった。 「ゲオルギスさん」  と、紀伊子はそっと呼んでみたのだ。  あたくしは、いかにも気高いあなたのお心をうけますわ。 たかいアリストクラットとしての、あなたに感謝いたしま す。一生、あなたの愛をこの身から離しませんわーと、い ま離れようとするゲオルギスの霊魂に、紀伊子は涙のうちに 無言の|明証《あかし》を曝いていたのである。と、最後の呼吸とともに ゲオルギスの唇から、 「紀伊子。ああ、|燈花《アランチオ》の婚礼の冠をしてきたな。茄れは、お れは、音楽が欲しい」  そうして、かれはゆるやかた永遠の眠りに落ちてゆく。  少しずつ、唇のうえの微笑が分らなくなり、ついに消え失 せたとき……ゲオルギスは去った。  パンテレリア島は救われた。イタリアのうえには、ふたた び平和がきた。個々なる愛を捨てて生きる、大いなる民族の 愛。  しかし、ゲオルギスとのあの約束をまもるため、紀伊子 は、ヴィザリーを愛したがらも去らなければならなかった。  朝霧が漂いはじめ、曙がちかい。橿群をめぐる鴎の声を聴 きながら、かの女は、この白い、白い曙に泣いていたのであ る。  |さようなら《アデイオ》、いとしいヴィザリーよ。