オッカルトなんか怖かなくない話 小栗虫太郎 『婦人公論』三月号に心霊召捕りの短文を書いて、小生冷や汗をかいたものである。モー ゼス、ホームなどの男性大霊媒の存在がまさに歴史的なものにかかわらず、婦人に限ると はよくぞぬかしたりと、われながら感服する次第、べつに女の雑誌と見くびったわけでも ないが、探偵小説の材料を出すのは惜しいし、さりとてほかに書くものはないし、とつお いつの窮余の一策、あまり褒められぬことながら、今度も厚い面の皮を一枚はぐって、そ の続編ということで|堀場《ほりば》老人に退散していただくことにする。 ところで、前回での霊媒の複子宮の一つの中で捕らえた心霊を望遠鏡の中に移し、それ を恒星の|遡齢《それい》光線で復活せしめる、といったところは、ちょうどフラマリオンの仮想怪人 類リウメンの逆を行った趣向で、主役をたしかべートーヴェンにしたと思ったが、この二 幕目も舞台はやはりローエル天文台。"|落人《おちうど》"の地にしめやかな虫の音をあしらって。幕が 上がる。 人物。ファイロ・ヴァンスー株の暴落で無報酬的探偵もやっておられず、ウァンタ イン氏の給料も払いかねる始末なので、現在では|果敢《はか》ない科学案内人。マージェリー・ド ランドン夫人ーシカコの外科医夫人、音に聞こえた世界的大霊媒である。オルタエとい う|宿霊《エントロ ル》を通じて、ロッジ|卿《きよう》をはじめ生霊死霊|諸《もろもろ》々の幽霊指紋を集めたという、まさにキ リスト復活以後の最大奇跡を演じたほかに、この人ほど|守《エクト》ε=|易《プラスム》ヨ(心霊波)の諸現象が 鮮烈なものはないという。しかし、傍ら作曲もやるが、このほうは大したものではないら しい。 マージェリi(望遠鏡の|接眼筒《アイピコス》にしがみついて)「おおルドヴィッヒi、同じヴァン公で も、ヴァン・ダインの|奴《やつ》とはなんという隔たり。ああ創造主よ!」 (ちなみに、べートーヴェンは一三三〇q<嘗零Φ9・く8なり) ヴァンス(相変わらず芝居げたっぷりな身振りよろしくで)「これさ、そう興奮してはな りませんぞ。なにしろ子宮の片方がないのですから、転ばないよう重心に気をつけてくだ さい。しかし、これはほんの前芸で、さあこれからが、ピタゴラス座独特の異形転身の離 れ技!」 (と、望遠鏡を操作して方向を変えたのちに、ふたたびマージェリーに|覗《のぞ》かせるとたんに マージェリー|尻餅《しりもち》をつく) マージェリー「そそそ、空豆。ヴァンスさん、あなたはどこへ、ルドヴィッヒを」 ヴァンス(厳かに言う)「これもまた、遡齢光線の神秘ですよ。今度の星は六六ペガスス です。つまり、百五十七光年を隔てた天馬座第六十六番目の星なんです。それが年を繰っ てみると、ちょうどべートーヴェンの誕生前九カ月のところに当たります。ああ奥さん。 まことに|無躾《ぷしつけ》ですが、受胎後四週間目辺りは胎児の形がちょうど空豆そっくりではござい ませんか」 (|唖然《あぜん》となったマージェリーを|尻目《しりめ》にかけ、ヴァンスは次の操作に移る。と、ふたたび望 遠鏡を覗き込んだマージェリーには、ほとんど失神せんばかりの|驚愕《きようがく》が起こった。見よ! レンズ一重が顕界と幽界を|繋《つな》ぐ仕掛け眼鏡でもあるかのように、胎児べートーヴェンの全 身に異様な変化が起こった。最初凸起部からどろどろ溶け去るごとくに崩れはじめたかと 思うと、一端はぜんぜん形状を失った太い線条の|蠕動《ぜんどう》と化してしまう。それがやがて、先 のほうからしだいに卵形に固まりかけ、ついに大きなお|玉杓子《たまじやくし》がレンズの中央に至って|図 体《ずうたい》をさらけ出した) ヴァンス(|宛然《えんぜん》デルフィの託宣者のごとく、はたまたパーラヌの説明者のごとくに、神 厳なる宣告を下す)「今度の星は、9ケフェウスという、ケフェウス|星《プシイ》座五等星の一つです。 距離が一五七・一光年ですから、べートーヴェンが誕生十ヵ月前、すなわち一七七五年中 の、ある月の光に当たるのです。と言えばお分かりでしょうが、かれがまさに子宮内生活 を始めんとした、すなわち一個の|澱《びようびよ》々たる|精《う》虫だったときの姿なんですよ」 マージェリー(突然険悪な相を示し、ヴァンスに|胞《ほ》えかかる)「|止《や》めてください。いくら なんでも、そんなにまで|玩具《おもちや》にしないだって」 ヴァンス(頭を|掻《か》いて恐縮す)「こりゃどうも、あまり弾みに乗り過ぎましたかな。では さっそくに、冷酷な科学の世界から解放することにしましょう」 (とヴァンスの手によって、望遠鏡の仰角が変わろうとしたときだった。|怪訴《けげん》なことには、 |咬《か》みつかんばかりの険相なマージェリーの顔が、にわかに面のような無表情になってしま った。それは突然、予期しなかったある重大な観念が|脳裡《のうりひ》に|閃《らめ》いて、それを|遣《や》ろうか遣る まいかと|咄嵯《とっさ》の決意に悩んでいるもののようだった、しかしその瞬後には、かの女の|眉宇《びう》 間にめらめらと|焔《ほのお》のようなものが現れ、右手に素早く小型のスパナが吸い込まれた) ヴァンス(事務的に言う)「奥さん、あと二十秒後にはこの上を月が通過することになっ ています。さあ、最後に決別をしてください」 (そして秒を数えているうちに、マージェリーは対眼鏡に凍りついている。と、果たせる かなそこにヴァンスの言うがごとく消失の現象が起こった。|射《さ》し込んできた焼刃のような 輝きの中で、お玉杓子がそろそろ|尻尾《しつぽ》のほうから溶けはじめていく。しかしその|刹那《せつな》、か の女の決意が形となって現れたのであった。対眼鏡をめがけて突如スパナが振り下ろされ た。チャリンと清澄な破壊音を立てて、|破璃《はり》の破片が|飛沫《ひまつ》のように床上に飛び散った) ヴァンス「あっ、何をする」 (驚いて駆け寄ろうとしたが、途中で立ち止まってしまう。というのは、より以上不可解 な動作がマージェリーによって演ぜられたからだった。かの女は大口を開いて、レンズが 破壊されたアイピーースの先端にがぶりと咬みついた。そして何物かを|嚥《の》み下そうとするご とく、ぐびぐび|咽喉《のど》を鳴らして、全身が尺取り虫のように伸縮を続けるのである。この悪 魔的な道化は……) マージェリー(やがて望遠鏡から離れると、希望に輝いて双眼をヴァンスに向ける)「ヴ ァンスさん、ありがとうございます。これでようやく本望を達することができましたわ。 もう|三月《みつき》も|経《た》てば、きっと世界を|震骸《しんがい》させるような大作曲を完成してご覧に入れます。な まじべートーヴェンの心霊を天国に返してしまうより、行くべきところへ行かして、現代 の大天才の|力杖《ちからづえ》にさせたほうが……もう、ちゃんとこのとおり、腹の中に収まっているの ですからね」 (こうして、女性特有の病的な名利心と|豹《ひよう》のような|狡知《こうち》は、はしなくもべートーヴェンの 心霊を略奪してしまったのである。もう、用はない。|荘然《ぼうぜん》としたヴァンスに会釈して、マ ージェリーは天文台を去る。あとに残されたヴァンスは、さすが昔鳴らしたヴェテランだ った。かれの驚くべき洞察力がまだ脳裡のどこかに残っていたとみえて、ふと思い浮かん だものがあったのだ。ーマージェリーがべートーウェンの心霊を|晦《の》み下したのは、いま だ完全に消失し切らないうちなのである。すなわち、精虫のままを|嚥下《えんげ》したことが、かれ の精密な計算によって明らかにされた。やがて、ヴァンスは思い入れよろしくあって) ヴァンス(かれは最近|下賎《げせん》な者どもと交わるので、著しく語晶が低下している)「やあ、 いけねえ。おれは大変なことをしてしまったぞ。さっきマージェリーの双子宮の片っ方を 取ったときに、もう一つとの間の破れ目に|絆創膏《ばんそうこう》を貼っておくのを忘れたぞ。ことによる と、虫になったべートーヴェンがそこから潜り込むかもしれん。ああ、大変なことになっ たもんだ」 しかし、かれがその時にっと|狡《ずる》そうな笑みを|洩《も》らしたというのは、心霊受胎を|侯《ま》って、 かの女の亭主ドランドン医師との間に当然起こるべきであろうところの、紛争だった。も しかしたら……その結果一服盛られて。というので、いまだにヴァンスは復活の機を|狙《ねら》っ てマージエリi・ドランドンの惨死をいまかいまかと待ち構えているそうである。それか あらぬか、ヴァン・ダイン第九作の予告に|曰《いわ》く。 一一ω8ヨΦ三口三臼99..(降霊会殺人事件)