人魚謎 お岩殺し 小栗虫太郎 序 消え失せた人魚  今こそ、二三流の劇場を歩いているとはいえ、その昔、|浅尾里虹《あさおりこう》の一座には、やはり小屋掛け の野天芝居時代があった。  それでこそ、その名は私たちの耳に、なかなか親しみ深くでもあり、よしんばあの惨劇が起ら なかったにしろ、どうしてどうして忘れ去れるものではなかった。  と云うのは、その一座には、日本で一ケ所と云ってもよい特殊な上演種目があった。それがほ かならぬ、|流血演劇《ころしもの》だったのである。  そこで、一つ二つ例をあげて云うと、「|東山桜荘子《さくらモうごろう》Lの中プ、は、非人の槍で脇腹を貫く仕掛な どを見せ、夏祭の泥試合、伊勢音頭油屋の十人斬などはともかくとして、天下茶屋の|元右衛門《もとえもん》に は、原本どおり肝を引き抜かせまでするのであるから、耳を覆い眼を塞がねばならぬような|所作《しぐさ》 が公然と行われ、卑狼怪奇残忍を極めた場面が、それからそれへと、ひっきりなしに続いてゆく のだった。  さらにそれ以外にも、今どきとうてい見ることのできない、ケレンものなども上演されて、 「小町桜」や「|天竺徳兵衛韓噺《てんじくとくべえいこくぱなし》」では、|座頭《ざがしら》の里虹が、目まぐるしい吹き換えを行い、はては、 腹話術なども用いたというほどであるから、自然と観客は、血みどろの幻影にうかされてしまっ て、いつとなく、魔夢のような渇仰をこの一座に抱くようになった。  しかし、ここで|奇異《ふしぎ》は、南北の四谷怪談であるが、それだけは、かつてこの一座の舞台に上っ たためしがなかったのである。 事実作者も、幼少のころおい、この一座の絵看板には数回となく接していて、|累《かさね》や|崇禅寺《そうぜハじ》馬場 の大石殺し、または、大蛇の|毒気《どくけ》でつるつるになった|文次郎《ぶんじろう》の顔などが、当時の悪夢さながらに 止められているのである。それゆえ、もしその当時に、お岩や|伊右衛門《いえもん》はまだしものこと、せめ て|宅悦《たくえつ》の顔にでも接していたならば、作者が童心にうけた傷は、さらにより以LL深かったろうと 思われる。  ところがついにそれは、小芝届にありきたりの、|因果噺《いんがばなし》ではなかったのである。 |寄席《よせ》の|高座《こうざ》で、がんどうの明りに、えごうく浮き出てくる妖怪の顔や、角帯をキュッとしごい て、赤児の泣き声を聴かせるといった|躰《てい》の-ー1そうしたユーモラスな怖ろしさではなかった。そ れとは、真実似てもつかぬ、血と人体形成の悲劇だったのである。  狂乱した肉慾が、神の定めも人の捉もあっけなく踏み越えて、ただひたすらに作り上げた傑作 がこれであり、里虹一座の人たちは、まったく油地獄のそれのように、うちまく油流れる血、踏 みのめらかし踏みすべらかして、とめどない足のぬめりに、底知れず堕ち込んで行くのだった。  そこで作者は、あの|隠密《おんみつ》の手のことを語りたいのである、  それには、宿命の糸を丹念にほぐし手繰り寄せて、終回の悲劇までを余さず記してゆかねばな らぬのであるが、まず何より、順序として里虹の前身に触れ、あの驚くべき伝奇的な|絡《つな》がりを明 らかにしておきたいと思う。  今世紀のはじめ、ケルレル博士の発議によって、丁抹領リベー島に、犯罪者植民が行われた。 またさらに、それから一、二世紀遡って、フリlドリッヒ・ウイルヘルム一世の頃には、帝の異 常な趣味から巨人の男女を婚せしめ、いわゆるポツダムの巨兵を作ろうとした。ところが、日本 においても天明のころ、その二つを合したような、事蹟が残されているのだ。  それが紀州公|姉川探鯨《あねがわたんげい》だったのである。  正史においてすら、|灰《ほの》かではあるけれど、|西班牙《スヘイン》との密貿易の嫌疑が記されているように、雄 志禁じ難い|不轟奔放《ふきほんぽう》の性格は、琉球列島の南|毛多加良島《けたからとう》の南々東に、ささやかな一珊瑚礁を発見 した。そこに、かたわら体躯の優れた犯人男女を送って、いずれは近侍に適わしい、巨人育成法 が試みられたのであった。  その島は|夷岐戸島《いきどじま》と名づけられて、嵐のあと、空気の冷たく身に|堪《こた》えるころには、落日の縞を 浴びて、毛多加良島からも遠望された。そのなかで、絶えず囚人たちは、|慌《あわただ》しい気圧の変化や、 小さな波を呑み尽してしまうような大波の出現、|雷《いかづち》のような海底地震の轟き  などに気を打 たれていたが、やがて、海の|階調《ハ モニき》のすべてを知り尽してしまうと、静かに赦免の日を待つよう になった  しかしそれは、彼らの次代に巨人を得た際のことである。  ところが、まもなくこの一孤島に、不思議な囚人が訪れることになった。  と云うのは探鯨の雅号が、|無束《つかもねえ》というのでも分るように、彼にはまた、通人的な半面があっ て、ことに俳優を愛したのであった。けれども、結局にはそれが禍いとなって、あろうことか正 室|薄雪《うすゆき》の|方《かた》が、|上方《かみがた》役者里虹と道ならぬ|棲《つま》を重ねたのである。薄雪の方は、|嵯峨《さが》二位卿の息女で あり、一方は門閥もなく、七両の下廻りから叩き上げた千両役者なのであるが、ついにその二人 は、島の外にある小島に隔てられて、|凋《しぎ》んだ花の香りを、絶海の孤島から|偲《しの》ぶ身になったのであ る。  しかし、この孤島の所在は、探鯨の死と同時に国替えなどもあって、ついに姉川家の記録から、 消え失せてしまったのであった。  ところが、それから何十年経った後のことだったろうか、はからずも|流島《るとう》のさい実家に送った 文書が嵯峨家から発見されて、ようやく惨鼻を極めた流島史が陽の目を見ることになった、  と云うのが、明治廿一年三月のこと-ー1嵯峨家の当主は、そのおり|快走艇《ヨツト》に乗じて日本に廻航 した、著名な生理学者ベルナルド・デ・クイロス教授に打ち明けて、帰途その孤島に、⊥Vち寄ら れんことを懇願したのであったが、どうしたことか、その後ハノーヴァーに移った教授からは、 なんの音沙汰もなく、そうして人移り星変るうちに、いつとはなく忘れ去られてしまったのであ った。  ところが、今年になって、はしなくもその孤島にまつわる、秘密が曝露されたと云うのは、教 授の|遺品《かたみ》として、一通の文書と油絵とが送られて来たからだった。  作者は、次行にその全文を掲げて、この事件の発端を終りたいと思う。 ーー一ハ八七年四月十七日日没|間近《まぢか》の頃、余は嵯峨家の依頼によって、北緯二十七度六分東経 百三十度五分の海上を彷裡した。  しかして、夷岐戸島の姿を遠望するに及んで、余はまったく度胆を抜かれた。珊瑚礁の奇観も、 ここに至っては、海に根を張って空に開いた、大花弁というほかにないであろう。その赤紫色の 塊団は、さながら|和蘭《オ ア ア》風の|刈雛《かりまがき》を想像させた。島影は、落日のため硫黄色に焼け|欄《ただ》れて、真直 な一条の光線が、中央にある小丘の上に突き刺っていた。  微風は、椰子花の匂いを混ぜた海の香りを、余に向ってまともに吹きつけた。  しかし、そうしているうちに、ふと余の瞳に映じたものがあって、その衝動の苛烈さには、思 わず双眼鏡を取り落したほどだった。  それから余は、狂わんばかりに夢中になり、その双眼鏡を、かわるがわる船員に貸し与えたの であったが、いずれも血の気を失った。  余は幼少のころ、霧深い大気の中で、樹木を妖怪と信じたこともあったが、この場合は断じて そうではない。しだいに余の魂は、現実に戻るのを嫌うようになった。そして、ある詩の一句を |口桶《くちずさ》みながら、ひたすら幻想の悦楽に浸っていたのである--ーそれは、眼前の渚に遊ぶ一個の人 魚を見たからであった。  L半身は、それは美しい女体であるけれど・も、腰から下は暗い|群青《ぐんじよう》色に照り輝いて、細っそ りと|纏《まとま》った足首の先には、やはり伝説どおりの|尾鰭《おひれ》があった。  彼女は、猫のような|優《しな》やかさで動いてゆき、身を差し伸べるときには藻草のような髪が垂れ、 それが岩礁の中で、果物の中の葉のように|蒼《あおあお》々と見えた。  そこで余は、さっそく島に向ったが、暗礁多く、上陸したのは翌朝だった。  ところが、意外のことに、人魚は一夜のうちに|何処《いずこ》かへ消え失せ、余は二人の日本青年と、こ れも|嬰児《えいじ》を二人拾い上げたにすぎなかった。  そこで、島を離れ、ミンダナオ島に向うことになったが、その夕べ、悪夢は再び|続《めぐ》り来った。 今度は、|生《なまなま》々しい現実の恐怖を味わねばならなかったのである。  それは、翌夕日没直後のことで、なにか|罐鼓《かんこ》のようなもので、舷側を叩く音がしたので、余は 暗闇の海中に|絞盤《ろくろ》を下ろさしめた。  すると、その巨大な網は、金色の滴を跳ね飛ばしながら、徐々と闇の深みから現われてきた。 しかしその瞬間、余は巨大な力に、ギュッと心臓を掴まれたような気がした。  それは、板戸のような|械《いかだ》であったが、表面には、まだ呼吸のある、二人の嬰児が結わい付けら れてあった。ところが、裏面を返してみると、そこにあったのは、首も手足もない、年若い女の 胴体だったのである。  余は、その際の光景を、未だに想起することができる。  月のない海には、赤い光がどんよりと映り、女の屍体からは、液体の宝玉がしずくのように滴 り落ちている。  それは、女の乳房を、豪奢な王冠に変えたかのようで、中央の乳首には、夜光虫が巨大な|金剛《アイヤモ》 芯となって輝き、ぐるりの妊娠粒には、いちいち光→包蔵が星をふり瀞いているのだ。そうして、 この陰惨な場面が、どれほど華やかなものにされていたことだったろうか。  しかし、余らはまもなく意識を取り戻し、女体を水葬した後に、出帆したが、わけても困らさ れたのは、二人の日本青年に言語が通じないということだった。  しかし、そのうち一人が、アサオリコウという言葉を、しきりに口していたのを記憶している が、何より四人の子が、二人のいずれに属するものか不明だった。その後余は、ルスン島の土人 港バグアイにおいて、以上の六人itすなわち青年二人男児三人女児一人を、本国に送還したの であったが、その間目撃した異常な秘密については、今でさえも狂わんばかりに夢中である。  それがあるいは、超自然的な要素であるか、それとも夢と本質を同じうしているのか、あるい は単に、余ら乗組員の全部が、神経の病的な|冗奮《こうふん》に陥っていたのであろうか。  しかし、その驚くべき神秘については、余に語るべき舌はない。  別送の一幅に含ませて、その謎を嵯峨家に奉呈するものである。     一、樋兵働へどうせ終いは身を裂かれ  以上のとおり読み終ると、|法水麟太郎《のりみずりんたろう》は眼前の里虹を見た。彼は今日、めずらしく渋い|服装《なり》を している。  七つ糸の|唐桟《とうざん》の|対《つい》に、|献上博多《けんじようはかた》の帯をしめた彼を見ては、黒死館における面影など、|何処《いずく》に も見出されないのである。それは、彼自身にも俳優の経験があるばかりでなく、特殊演劇保存と いう見地からして、この一座とは何かと親しかった。  そこは、武州草加の芝居小屋、年も押し迫った暮の廿八日のこと  。  はや春興行に、乗り込みまでも済ました一座のものは、薄汚い仕度部屋のなかで、車座になっ ていた。  ぐるりには大入袋や安っぽい石版摺りの似顔絵などが、一面に張られていて、壁地の花模様な どは、何が何やら判らないほどに、色|槌《ざ》めていた。  すべてが、腐った沼水にうつる水際のように、なんともいえぬ陰気な|代物《しろもの》ばかりだったのであ る。 「どうだね|真鳥屋《まどりや》、これには覚えがあるだろうが」  法水にそう云われて、里虹は|愚勲《いんぎん》に頷いた。彼は、懐古とも怖れともつかぬ異様な表情をして、 |凝《じ》っと伏目になっていた。  年のころは、六十を幾つか越えていて、牡牛のような、がっしりと肥えた多血質の身体をして いた。おまけに、|台詞《せりふ》以外には|吃《ども》る癖もあり、かつは永らくの阿片吸飲者でもあって、皮膚には どこか薄気味悪い  まるで象皮腫のそれのような|浮腫《むくみ》が一面に拡がっているのだった。              しかし、彼が孤島から救われた一人であることは、ここで賛言を費 やすまでもないことだろう。  やがて法水は、|側《かたわら》の壁に視線を転じ、そこに立て掛けてある絵を 見入りはじめた。  それは、百号ほどのもので、数世紀も遡行したと思われるような、 暗い色調で描かれていた。事実クイロス教授が持ち出した謎は、この 画中において、さらに混沌たるものになってしまったのである。  しかし、特徴と云えば二つほどであって、一人が蒼ざめ、打ち伏し て苦悶していると、もう一人は、これは右胸を押え同じような表情をしている。  また、もう一つは、二人とも指の節が太く、髪の毛が薄く、頭が水頭のように膨れあがってい ることだった。  しかし、以上のほかに、もう一つ際立って不思議なものがあったのである。と云うのは、二人 とも、双方の足首に上図のような紋様が描かれ、それはiIあるいは捺されたと云ったほうが、 適切であるかもしれない。 「どうも僕には、クイロス教授の意志というのが、判らんのだがね。しかし、こう離れて見てい ると、なんだか怖ろしいような気がしてくるじゃないか。どうやら、ボルルワスキーかニコラ ス・フェリー臭いのだが  」  あるいは、朱と暗緑の対比から、発しているのかもしれないが、事実その絵からは、|煉《すく》ませる ような鬼気が迫って来るのだ。  法水は、なにやら云いたげな顔をしたが、その時隅から中山|小六《ころく》が乗り出して来た。  この老人は、耳の辺まで垂れた|白毛《しらが》を残して、てかてかに禿げ上っているが、身体は十一、二 の子供くらい  どこからどこまでが、典型的な|株儒《しゆじゆ》だったのである。しかも、どことなく弱々 しく、腰も曲りかけている。  小六は半畳ほどずり出して、|狡《ずる》そうな笑を|活《うか》べ、 「すると、なんですかな先生。いまおっしやった異人の名というのが、なにかこの図紋とでも関 係がござんすので……」  と云うと、相手の深々とした雛を、法水は、痛ましげに見やっていたが、 「いやいや、なんでもないのだよ。じつは、ちょっと他のものに、|附会《こじつ》けていたんだがね」  と何げなく云ったけれども、その眼はただならぬ暗色を湛え、ギロリと六人の車座を見まわし た。  明敏な読者諸君は、すでに気付かれたことと思うが、小六はさておき、里虹を交えた他の四人 というのが、その年配といい、なにかしら夷岐戸島の四人の|嬰児《あかご》を想い起させるてはないか。  しかし、その暗合の魔力は、ついにその場限りではなかった。その時法水は、ただそれらしい 符合に打たれただけで、やがて心火にめぐりはじめる、片輪車のことなどは毛ほども知らなかっ たのである。  法水が帰ってからも、一座はそのままの沈黙を続けていた。  霜刻に近い夜ふけの楽屋の中は、いたって火の気も乏しく、外の凍りが室内にも及んで、|幟《のぼり》の はためきに、歯の音も合わぬほどの寒さだった。  そのうち山村儀右衛門が、例の神経的な、蒼白いしゃくれ顔を突き出して、      とつ                                        しキ.たり 「ところで爺つあん、春にはなんとかして当てようと思うんだがね。いっそ、慣例を打ち破って、 四谷をやってみたら、どんなものだろう。伊右衛門はわっし、お岩は|逢痴《おうち》と、配役はざっとこん なもんでさあ」  と云って、彼はかたわらの逢痴と顔を見合せるのだった。  逢痴は、一座中の若|女形《おやま》だった。寒さにもめげず、|衣紋《えもん》を抜き出して、縞麗な襟足を隠そうと もしない。  この逢痴には、はじめ二つの世界があった。  一つは、楽屋における男性であり、一つは、舞台における女性であったが、やがて自働的な聯 想を起したのであろうか、今ではもう、感情挙動言葉服装とも、女性のそれと異ならないものに なってしまった。  まったく着物のままざんぷりと水に漬けて、どこからどこまで透き徹してしまっても、たぶん 彼には、女性以外の特徴が見出されないに相違ない。そうして、古風な芝居言葉だが、お|内儀《ないぎ》様 と云われるのを喜んだり、箸の持ち運び、食事の仕様までもそのままなのを見ると、それが山下 |久米八《くめはち》と、いかに際立った対照をなしているか判ることと思う。  久米八は、他の三人と同じ、四十を越えた老女優だが、肉のかたく引き緊った、どこかに厭味 のある顔立だった。  彼女は、すべてが男性化していて、その汚なげによごれた爪にも、|身嗜《みだフしな》みのないことを証拠立 てている。  そして、その三人に挾まって、なんら特徴のないのが村次郎だった。  |寡黙《かもく》な、芸の引き立たないこの男は、容貌にも特徴がなく、いつも髪の毛に埃っぽい匂いがす るーーとまあそういったような、何から何まで役者らしくない男だった。  しかし、里虹はそう云われると、半白眼をぴたりと、儀右衛門に据えて、 「四谷……。へん、めっそうもねえ」  と吐き出すように云い放って、 「のう|友田屋《ともだや》、おぬしは法水先生のお気に入りで、えらあく学問にも身を入れたものだが、新劇 とやらはいざ知らず、この一座には四谷は北向きなのさ」  と壁に貼り付けてある写楽の絵で、岩井喜代太郎が扮している、「|関本《せきもと》おてる」の色刷を見て、 「だいぶ安手な写楽のようだが、聴くところだと、喜代太郎はそれほどの|背高《のつぽ》じゃねえというそ うだぜ。ただ写楽が、|煙管《きせる》を長く描いたもんだから、|後《あとあと》々のうるさがりやが、高い背丈と釣合い の煙管なんて、そんなことを吐ざいたそうなんだよ。喜代太郎が、どうして高えもんかな」  と、話を外らすような、しかも、異様な言葉を口にしたのだった。  しかし、そう云いながら、里虹はぜいぜいと息を切らし、|顯額《こめかみ》の脈管が、蛇のように膨れ上っ ているのが見えた。  彼はしばらく|硝子《カうス》戸越しに、外ではためいている|幟《のぼり》を見詰めていたが、やがて返した眼が配役 の一部に触れると、 「いいから、窓でも締めねえってことさ。こうして、車座になっていると、うっかり|丁半《ちよちつはん》とで も間違われるわな。おう、だいぶ風が出たのう。だが、吹いてるからいいようなものの、これが 取まりゃ、そりゃ事だぜ」  と、異様な言を吐き|嘲《せせ》ら笑いながら、彼はつと立ち上ってしまったのである。  その夜儀右衛門は、いつまでも寝つくことができなかった。|閉《し》め忘れた裏木戸が、風のために バタンバタンと鳴りつづけ、大道を吹き|荒《すさ》ぶ風は、松飾りに浪のような音を立てさせている。ふ と、その響きに、 彼は夷岐戸島の海鳴りを聯想したのである。  ーーはじめ想い|活《うか》べたのは、数字の符合だった。それは、夷岐戸島における四人が、現在自分 をはじめの四人ではなかったかということだが、クイロス教授の文書を見ても、それには三男一 女という符合があり、もはや疑うべくもないのだった。  さらに、もう一つの証拠というのは、四人がいずれも、実の父母を知らないということで、戸 籍面を見ても、一家を創立した戸主になっているのだ。  そして、いまはっきりと知ったのは、四人のいずれか二人が里虹を父にしているということ ー-それが島中の二人が、島に流された二人であるか。また里虹の子以外の二人は、いったい誰 を父にしているのであろうか。  その疑惑の深さには、現実も幻も差別がなく、揉み込めば揉み込むほど、頭の中に触れる突起 がなくなってしまって、やがて彼は悦惚となってしまうのだった。  しかし、そうしているうちに、ふと松飾りのざわめきに触れると、彼の神経はふたたび鋭くな ってきた。  そうして、今度は夷岐戸島に行き、不思議な人魚の|行衛《ゆくえ》は、女の惨屍体は ーと|続《めぐ》らせている うちに、いつとなく島内における、祖父母たちの生活を想い起すのだった。 ーーあの島における祖先の次の時代に、もし男の子と女の子とが、生れたとしよう。するとそ こには、道徳も思想も、言語も抑制もあり得ないはずである。  ソドムの崩壊の日、生き残った一人の父と二人の娘は、いったいなにを行なったか。それは抱 擁であり、肉慾であり、大いなる沈黙の儀式である  種族保存のためには、あの刑罰の神、エ ホバですらもそれを許したではないか。  しかし、|近親相姦《イニセスト》は…・  儀右衛門はそこでハッとなり、鋭い苦痛を思って、|傑《ふるお》え|戦《のの》いた。彼は夜具に触れる|衣擦《きぬず》れにも、 |獣《けだもの》めいた熱っぽさを覚えるのだった。  と云うのは、二人とも二十まえのことであったが、ふとした魔の|戯《たわむ》れから、一夜山下久米八を 犯してしまったのであるから。しかし当時の記憶といっても、声も立てない、まるで|年増《としま》のよう な子供だったということや、その時逃げ出した足の下で、石ころが気味悪くごろごろしていたと いうことなどで、それすらも、今では懲罰の意味を持つようになってしまった。  もしやして、二人が|兄妹《あにいも つンび》だったら-ーーと。  いきなり血のさわぎを覚えて、儀右衛門は|吾《われ》となく、胸をかきむしった。氷のような悪感が脊 髄を貫き走った。  彼は自分の血管の中に、木を噛む虫のような音を聴いたのである。その途端、儀右衛門は強烈 な衝動に駆られて、一目散に楽屋のなかへ、飛び込んで行ったのであった。  そして、永いこと薄闇のなかに立ちつくして、彼は油絵具の、どんよりとした反映を見詰めて いた。  が、心の中は、里虹に対する憤りで一杯だった。  あの男が、自分の父親であるかないかはしばらくさておき、もしそうでないとして、戸籍面を あのようにしたとすれば、とりもなおさず、自分が経験した|近親相姦《インセスト》の悩みを、他の子供たちに もなめさせようとしたのではないか。  また、事実自分の子であったとしても、そういった悪魔的な性格は、あの男に必ずやあるに相 違ない。  わけても、苫悩が酷烈なそれだけに、その心理はあながち奇蹟とは云われないはずである。そ れにしても、この四人ははたして誰の子なのであろう。一人、二人、三人、四人  そのうち二 人が、たしか里虹の子にはちがいないのであるが……  と、1、2、3、4  と数字の幻像が目まぐるしく駈け廻っているうちに、いかなる心理的 な結合であろうか、いきなり6と9の上に、強いスポットのような光が落ちた。そして、その瞬 間、儀右衛門は髪の毛が動いたかと思った。  何故なら、6と9と組み合わせた形は、胎内における双胎児のそれではないか。まったく、身 も世もないあの烈しい|相剋《ひしめき》のなかで、静かに|天鷲絨《ヒロ ト》のうえを滑ってゆく思考の車があったのだ   それに今まで彼は気づかなかったまでのことである。  すると、五感が異常にするどくなって、まもなく儀右衛門は、画中から驚くべき特徴をつかみ 出した。  それは、双生児にはつきものの|鏡像《こラ  イメきジ》なのであった。  |鏡《ミラモ イ》 |像《メ シ》と云えば、おおかた読者は承知のことであろうが、左と右、右と左といった具合に、 双生児の各半面が相手の反対側に酷似することである。  画中では、それが頭の渦にも、|利手《ききて》にも顔の歪みにもあったので、はっきりと儀右衛門は、最 終の解答を掴んだように感じた。  四人のうちの二人は、たしかに双生児でなければならない  しかし、それを自分の身に及ぼ してみると、いまや儀右衛門は、世界中の|嘲《あざけ》りを一身にうけているような気がした。しかしそれ には、氷でも踏んでいるような、轡然とした|危催《あぶな》さがまたあって、まだ何かありはしないか、あ りはしないかと、全身の毛が一本一本逆立ってゆくような焦だたしさを覚えてくると、はしなく 眼に止まったのは、畳の上に置かれ放しになっている、配役|書《がき》だったのである。  で、窓を開けると、乳色の|清《すがすが》々しい月の光が差し込んできて、その刹那、彼の眼をハッシと射                               ! 返したものがあった。  直助権兵衛  その名を儀右衛門は、なぜか妙にひしむような、闇の香りのなかで味いはじめ た。  それは、はじめ儀右衛門が、配役書きを置いたとき表に出た部分であって、里虹は|一瞥《いちべっ》をくれ たのみ取り上げようともしなかったのであるが、しかしそれには、はっきりと彼の嘲りが|活《うか》び出 ていた。  直助、権兵衛と  そう二つの名が重なり合っていることは、おそらく里虹のみが知る双生児  と、ホ几                                      ね汎ご          インセスト の表象であろうし、さらに、実の妹とも知らずお袖と懇ろにした、骨肉相姦の意味も必ずやある に相違ない。そうして、刻々と血が失われてゆくような真蒼な顔をしながら儀右衛門はじっと闇 の中に立ちつくしていた。が、そうしているうちに、ふと彼の心を訪れてきた灰白い光があった。 と云うのは、直助権兵衛と書かれたその下には、その役の|嵐村次郎《あらしむらじろう》の名が|認《したた》められてあったか らだ。  村次郎、村次郎が直助権兵衛では、お袖は-ーと、やにわに彼はその全文を拡げてしまった。 そして今や、動かぬ証拠を、掴み上げてしまったのである。 お直 助権 兵衛 岩妹 お 袖 嵐   村次 山 下 久 米 ノ\郎              キ牙な                         けだゐ  それは、綾にからまっている絆を、ようやく解きほどいたという感じだった。倦怠いような、 |鎗沈《ナうン》いような、頭の血がすうっと下ったという感じで、まるで夢見るような気持で、彼は手に持 った二つの名を、ぼんやりと見詰めているのだ。  あの時里虹が、村次郎の名を見ただけで、キッパリと云い切った  というのも、また彼が、 問わず語らずに暗示した不倫な関係も、ことごとく、二つの名のうちに秘められているのではな いか。  村次郎と久米八は、明白に双生児であり、二人はそうとは知らず、直助とお袖が堕ち込んだ、 鬼畜の道を辿りつつあるのだ。そう判ると、かすかな嫉妬を覚えたけれども、これまでの惨苫も |襖悩《おうのう》も一時に消え失せて、残った白紙の|眩《まば》ゆさには、何もかも忘れ果ててしまうのだった。  そうして、再び床に入ったけれども、裏木戸の音は依然として止まず、その問を逢って、雨の 滴が思い出したように落ちてくるのだ。  それには心動のような律動があって、四人の胸近くにいる思いがした。  誰しも今夜は、見知らぬ父母に|憧《あこが》れて、母の乳首の|勃《たか》まり、厚い脂肪の底から伝わる、軟らか な脈打ちの音に、眠らぬ一夜を過すにちがいないと思った。しかし、それには轡然としたものが 感ぜられて、なんとなくモヤモヤとした、いつかは犯罪とでもなりそうな、やがては夷岐戸島の 秘密を中心にこの一座に起るであろう、自壊作用の兆ででもあるかに考えられるのだった。  ところが、どうしたことか、その夜のうちに予感が適中してしまった。  翌暁風がおさまると同時に、それなり望虹の姿が、掻き消えてしまったのであるから--:。 「まあ聴きねえ。|座頭《おやじ》がわっしのことを、新劇崩れと云うだろうが、一時この座を離れて、妙な |銭《ぜに》にもならねえ、真似をやっていたことがある」  里虹の行衛が知れなくなって何月目か後のこと、警察でも尋ねあぐんで、結局不入りのための 失踪ということでケリをつけたのだが、その日、先夜の四人を前に儀右衛門が切り出した。 「ところが、そのうち一番うけたのが、例の『椿姫』ってやつさ。いいから、わっしに|喋《しヤベ》らせね えってことよ。そこで、なかの濡れ場にだが、こういう|台詞《せりふ》があるのだ。椿姫が、色男のアルマ ンの胸に椿の花を挿して、『今度はいつ逢いましょう』と云われると、『この花の|凋《しぽ》むときに」と 答えるんだが、わっしのやった芝届では、すぐ花を凋ませて、アルマンがやって来るのさ」  と、なにやら険しい気組で、儀右衛門はギロリと一座を見廻すのだったが、その|比楡《たとえ》にびたり とくるのが、いつぞやの夜、里虹が口にした  風が収まりゃことだぜ  と云った言葉だった。  それが、この事件にとると、秘密の中の秘密といったようで、妙に青黒い、底知れぬ池を覗き 込むような気がするのだった。  けれども、一座の者はいっこうにさりげなく、この鋭い比喩に動じたような者もないのだった。  しかし、儀右衛門の心の中は、嵐村次郎に対する疑惑で一杯だった。ああも、ギスリと里虹に 刺されたのであるし、よしんば彼が父であるにしろないにしろ、そうと知られた上は、口を覆う よりも針を立てよ  ではないか。  しかし村次郎は、相も変らず黙々としているので、その物静けさには一種不気味な気持に駆ら れる場合さえあった。  もしあの夜、楽屋に入った儀右衛門を、村次郎が知っていたとすれば、思うに自分は燃えさか る熱蝋を胸に突きつけられて掴もうにも由なく、足を引きながらたあいなく後ずさりして、一滴 一滴と、手から腕にまた胸に、憐れな蝋涙をうけていかなければならぬのではないか。  そうして、|朧気《おぼろげ》に迫ってくる恐怖に、ひしと悶えて日を送るうちに、いよいよ法水の肝入りで、 一座の東都初登場となった。  その乗り込みの前夜、はからずも事件の神秘を、一つ解くことができた  それは、風が収ま ればと云った、里虹の謎なのであった。  そこは、上州藤岡の劇場で、乗り込みを両三日中に控え、ちょうど|千秋《らく》楽の日であったが、儀 右衛門はひさかたぶりに、法水の来訪をうけた。  舞台裏には、唐人殺しに使う、|提琴《たてごと》や矢筒などが、ところ狭く散らばっていて、開場前の劇場 は、空間がなんとなく物佗びしげであった。  ところが、しばらく見ぬ間に、儀右衛門は見る影もなくやつれ果て、青々とした剃り跡が、ひ ときわ目立っていた。法水の眼には、それが|雲母《きらら》を地にした写楽の大首か、それとも、何かの|死 絵《しにえ》のように見えた。  彼は、儀右衛門の頭が上らぬ間に、早々切り出した。 「手紙はたびたび貰っているが、君はあまり考え過ぎると思うね。だいたい自問自答というやつ は、自分で自分の心を解釈するんだから、いつも標準が狂いがちなものなんだよ。だから、対象 となる自分の心の状態が、どうも誇張されやすいのだ。ところで、しばらく来ない間に、だいぶ 顔触れが変ったようだが……」 「ええ、最近に|仮髪《かつら》師を一人拾いましてな。ちょっとした端役もやりますんで、それに、浅尾為 十郎という、ど|偉《えれ》え名をくっつけましたんですが……」  と儀右衛門に云われて、思い出したのであるが、楽屋口に入ろうとしたとき、一人の痔せた老 人を見たのを思い出した。その老人は、異様に搬が深く、ことに青磁色をした、珍しい皮膚の色 が印象的だった。  儀右衛門は膝を組み直して、 「ところで、たびたび申し上げました、村次郎のことでござんすが、|座頭《おやじ》の|行衛《ゆくえ》について、一度 ぜひお耳に入れたいことがございますので」  と云いかけたのを、慌てて遮って、 「君は、あまりに考え過ぎるんだよ。無暗に解剖をしたがるんだ。正直に云うと、里虹の事件よ りも、自分の解剖の方が、面白いんじゃないかね」  と|微笑《ほほえ》んだ法水の眼には、儀右衛門の意外な変り方が映った。それは、懸命に唇を噛んで、な にかの激奮を|耐《こら》えているかに見えた。 「その村次郎のこってすが、わっしゃほんとうに、済まねえことをしてしまったんで。かねて先 生から、役の性根や心理の解釈に、いろいろと教えていただきましたが、それが今度という今度 は、わっしにゃ恨めしいんで……。じつは久米八の|兄妹《キロびつだフい》は村次郎ではなく、やはり、このわっ しだったのです」  と彼は、思いもつかぬもの静かな態度で語りはじめた。 「ねえ先生、聴いておくんなさい。いつだったか知らねえが、人間っていうやつは、自分の心の 動きをなにかの図や、線や角などで表わしたがるという話を伺いましたが、それが、あの晩の里 虹に現われたのです。  あの時窓の外を見て、風にはためいている|幟《のぼり》をしばらく眼に止めていましたが、その後で、吹 いているからいいようなものの、風が収まりゃ事だぜーi-と云ったものです。  ところが、あの翌朝、風が収まると姿が見えなくなったのですから、どうもその暗合にわっし たちは不思議な魔力があるのではないかと、考えるようになりました。そして、磁石にでも引か れるように、その人間放れのした|壷惑《ちから》に、ぐいぐいと引かれていったのです。  ところが、どうだったでしょう。ふとした事から、その時の黙劇じみた秘密を知ることができ たのです。 あながちそれは・伽倹萄但なんていう、難しい言葉で云い表わさなくても、わっしたちの やくざ世界にだって、面白い逸話があるのですよ。  それは、いかさま|札《ふだ》の名人と云われた|並木可次郎《なみきかじろう》なんですけれど、なんでも勝負の終り頃にな って、坊主の二十で勝負が決まるような局面になったのですが、もちろん可次郎にはその札はな いので、むしろ|自暴《めけ》気味だったのでしょう。しかし、彼は|凝《じ》っと考えて、」人に、いま何時だと 訊ねました。すると、その一人がふと二つある時計のうち、円い方に眼をやったのを見ると、そ こで可次郎は、ポンと札を卓上に投げ捨て、君が勝ったと、その一人を指摘したという話があり ます。なぜなら、手近の角形のものを見ないで、わざわざ遠い丸形のを見たとすれば、それは坊 主の二十を持っている証拠としきゃ思われないじゃありませんか。  そこで先生、あの時里虹の前には、四谷の配役の中で、直助権兵衛(娘舳)とあるところが、開 かれてあったのですが、その前にたしか村次郎の幟を見たのでしょう。  だいたい幟というやつは、風に吹かれると、よくどこかに大きな雛ができて、文宇の|扁《へん》がなく なったり、はなはだしい時には、一字丸ごと埋まってしまうような場合もあるのですが、一つ試 しに、嵐村次郎とある上半分から、風という字を|除《と》って御覧なさいまし。  それが山村となるではございませんか。  ねえ先生、やはりあの|鬼畜《ひとでなし》は、わっしだったのですよ。そして、|座頭《おやじ》が云った風|云《うんぬん》々という 言葉は、暗に私たちの関係を|嘲《せせ》ら笑ったものなんですL 「なるほど、フロイドの全集の中には、家(=貰∞)というところを、心中考えていたことを|露《む》 き出して、腰巻(=o∞の)と発音したり、また、死(→8)と心の中に思っていた言葉が、逸話 (》屋巳o芭を》目R8のと書き誤らせた記述があるからね。しかし、君の分析は素晴らしいと 思うよ」  と法水は、別にこれという感情を表わさなかった。  しかし、山村儀右衛門の解釈は、いまや驚くべき悲劇的な光景となって、彼の前に現われた   あの嫌厭すべき近親相姦者は、ついに彼だったのである。  儀右衛門は、ぶるぶる総身を|標《ふる》わせて、自分の両手を厭わしげに見やっていたが、やがて言葉 を次いだ。 「それから先生、またあの時里虹は、写楽の『関本おてる』を見て、事実喜代太郎はさほど背の 高い俳優ではなかったのだが、誤って写楽が、|煙管《きせる》を長く描いたので、その釣合から、後世の鑑 賞家が背の高い俳優と信じてしまった  と云ったのです。  しかし、これは、いわゆる|比例《プロホ ション》の問題ではないでしょうか。  それに、|賛言《くだごと》は要りますまいが、偶然わっしはその真相を知ったばかりに、夷岐戸島の秘密の 一部を窺うことができたのです。  と云うのは、外界に対照するものがなければ、汽車でも汽船でも速度が判らないように、里虹 はあの島で、もう一人の男ばかりを見ていたために、自分を巨人と信じてしまったのでした。そ うなると、相手の一人が、恐ろしく背の低い男にならねばなりませんが、私は、いまだに身柄の 不明な、中村小六がそうではないかと思うのです。あの|株儒《こびと》だけが、自分以外唯一の大人だった ので、里虹は自分を素晴らしい巨人と信じ、船影を望むに及んf、、自分の妻と二人の双生子を葬 ろうとしたのです。  と云うのは、私たちが、いわゆる男と女の畜生児だったからです。  しかし、その双生子はさておいて、どうして自分の妻を殺さねばならなかったのでしょうか。  いいえ、ここまで云えば、私と久米八とが双生子の兄妹だったということも、また|往時《むかし》の|慣習《しきたり》 からして、双生児の畜生児は殺さねばならなかったということも、さらに里虹が両親からの云い 伝えで、クイロスの船を赦免船と信じてしまったことも……。つまり、わっしたちに関すること だけは、けっして独断でもなく、またわっしの詮索が、度過ぎたのでもないことはお分りでござ いましょう。  けれども、問題なのは、里虹の妻が、そもそも誰であるかということです。そこで、一つクイ ロスの文書を、最初から想い|活《うか》べていただきたいですがね」  法水は、この時、眼前の儀右衛門が、精神の昂揚状態に入っているのではないかと疑った。  いろいろな影像が入れ代り立ち代り、驚くべきほどの早さで、ー相手の表情の中を、かすめ行く のを見た。  儀右衛門は、なにかしら怖ろしい力に、捉えられたかのように息をせき|喘《あえ》いで、 「ねえ先生、たしかクイロスの文書の中には、あの不思議な神秘的な生物ー1人魚のことが記さ れてありましたっけね。ところが、上陸するとその姿は見えす、その夜上った|械《いかだ》の裏側には、胴 体だけの女の屍体がくくりつけてあったというじゃありませんか。里虹は、赦免の条件をあまり 周到に考え過ぎた結果、この世にないもの、厭わしい一切のものを、自分の身近から葬り去ろう としたのです」 「なるほど明察だ。とんとあの械の趣向は、戸板がえしそっくりだからね。これで、里虹が『四 谷怪談』を、本気で|禁《や》めていたという理由が分ったよ」  と云った法水の声も、耳に入らないかのよう、儀右衛門は気味悪げな、薄笑いを浮べて云った。 「さすが、先生だけにお察しは早えが、なによりわっしが知りてえのは、お|母《ふく》ろのことなんです よ。  人魚の首と、腰からしたをぶった切ってしまえば、それはただの首無し女にすぎねえじゃあり ませんか。  わっしは、上陸したクイロスはじめの人たちを見f、、さぞ里虹が|魂消《たまげ》ただろうとーー実際首丈 ほどもねえ大男なんて、この世の何処にあろうもんかな。  それから先生、近頃じゃわっしも、|臥床《ねどこ》に入ると、爪先から脈の音が聴えるようになりました が、そうするとお母ろが、|毛孔《けあな》から海の匂いを吹き入れてくれて、すっかり雲のように、わっし を包んでくれるんですよ」 二、 裏向きお岩  それは狂気の合間合間に現われる、|綺《きら》びやかな|夢幻《オミロラ》のようなものだった。  いわば、それまで厭わしさに充ちていた現実の一部が、ここではっきりと、魅力あるお|伽噺《とぎはなし》 に変えられた。儀右衛門は、そうと知って以来母なる人魚に、それはわななくような、|憧《あこが》れを抱 きはじめたのである。  おりおり母は、軟体動物が潜り込んでいる、割目を覗き込んで、無残にも軟らかな|肢《あし》を引きち ぎったり、あるいは苔の上を、滑べるようにして岩礁を乗り越え、噴き水を避ける時には、たぶ. ん銀の|臆《あぎと》や、貝殻のような耳が、チカチカと鈴のように鳴ったことであろう。  こうして、はしなくも儀右衛門が、幻影の世界に浸りはじめると、彼は別人のような気がして、 一段と高い生活に上ったように考えられた。  まったく、その夢の最高頂においては、あの厭わしい現実の苦悶と拮抗できるのであった。し かし、一方において彼は、その人魚の形が、両肢の癒合した|一本肢《ノレニフオルノ》という、一種の碕形である ことも熟知しているのだけれど、それとて、彼の夢を妨げる何ものでもなかったのである。  おそらく、そうでもしなければ、彼の心は均衡を失って、たちまち狂いの、どん底に叩き込ま れたであろうが、そうして一方では、身も世もあらぬ悩みに悶え、また片方では、朦腱とした夢 を楽しんで、からくも彼は、狂気の瀬戸際で踏み止まることができたのであった。  すると、儀右衛門に不思議な心理が起りはじめた。  と云うのは、考えても考えきれぬような、異様な|撞着《どうちやく》ではあるけれども、そうして、人魚に 伝説の衣を着せ、美しい霧一重に隔てて眺めはじめてからというものは、どうしたことかそれま で軽い愛着を覚えていた、久米ハに対する情が消え失せて、さらにしぶとい、燃えさかるような それを、今度は逢痴に求めるようになってしまった。  それが、自然の本性に反した、不倫な慾求であることは云うまでもない。さらにまた、一種の 心理的畸形とでも云えるだろうが、しかし、畸形はけっして奇蹟ではないのである。  いつとなく、儀右衛門の心を、あの聴くだに厭わしい、骨肉愛の悩みが|蝕《むしぱ》んでしまったからだ。 それが、クラフト・工ーヴィング教授の云うように、美しい母を持った者は、美しい女性に対し て、驚くべきほどプラトニックであるとすれば、とりろなおさず儀右衛門のそれは、一種の女性 恐怖にほかならないであろう。  彼は、そうした悪夢の中を漂い、人間に与えられた地獄味の中で、わけても、味のもっとも|熾 烈《しれつ》な、一つを味いつづけていたのである。  やがて、永い沈黙の後に、法水が口を開いた。 「しかし友田屋、これは、少し無理かもしれないがね。人魚も骨肉相姦も、当分のうちは、神話 の中に|収《しま》っておいたら、どんなものだろう」  と云って、儀右衛門がもじもじしているうちに、何を思いついたか、法水の表情が、いきなり 硬くなった。 「ところで、もう一つ訊きたいのは、いまの君の考えだが、それを最近思いついたのならいいが ね。もしあの晩だとすると、君が里虹を殺したといっても、けっして心理的に不自然ではないの だ」 「それは、同時に久米八もでしょう」  と透き通ったような蒼白い顔を、ビ夕リと据えて、 「わっしは、ただこれきりしきゃ知らねえのですよ。あの晩、風が止んだのが|暁方《あけがた》の三時で、姿 が見えないと騒ぎだしたのは、たしか六時十五分前頃だったでしょう。ですが先生、わっしには なんとなく里虹が、この劇場にまだ、いるんじゃねえかという気がしてならねえのですがね」  そうして、なぜ  と反問したげな法水の顔を見るでもなく、儀右衛門は懐中から、一枚の紙 片を取り出した。  それには、思わずも釘付けするような力があったと云うのは、いつぞやクイロスの画中、双生 児の足首に捺されてあった異様な図紋の下に、次の文章が記されてあったからだ。  儀右衛門は役どころではなし、里虹を尋ねて、伊右衛門を演ぜしめよ。 「ところが先生、こいつがどう見えても、里虹の筆蹟に違えねえのですがね。それに、いま始め て判りましたが、どう考えたって、この図紋の形は、六本|趾《あし》を二つ合わせたようで、夷岐戸島に いた、人魚の尾鰭のようじゃありませんか。とにかくこの分らなづくめの謎は、小六爺さんの口 一つにかかっているんですが、ひょっとして、一座が割れるようなことでも起りゃしないかと思 うと、うっかり口には出せず、まるで身体中の毛が、一本一本逆立つような思いをしながら、今 にどこからか里虹が飛び出して来て、わっしと久米八との関係を、|喚《わめ》き立てるんじゃないかと思 うと、もう届ても立ってもいられず、そうなると、爪の先から血の音が聴えてきたり、手足が冷 たいくせに、たぎったような血が脳天に上って行くのが判るんですよL  その時儀右衛門が苦しくなって中止したように、それはなんとも云えぬ、不気味な|表象《ノ ボル》だった。  夷岐戸島の秘密、クイロスの絵画、里虹の生死1!と次々に轡積していったものが、いつとな く十台の底深くを、じりじりと蝕んでいて、やがては思いもつかぬ、自壊作用となって現われる のではないだろうか。  それでなくてさえ、大地が暗く、夢中をさ迷い歩くような感じがして、暗中に差し招く、隠密 の手をはっきりと意識しているばかりではなく、こうも|眩《まぱゆ》い白昼においてさえ、彼を襲う、奇怪 な恐怖を制し得なかったのである。  法水は、しばらく相手の顔を凝っと眺めていたが、こうして白昼夢を追い、狂いの道程を辿り つつある儀右衛門を見ると、もはや放ってはおけなくなってしまったようであった。 「ところで、友田屋、これだけは、どうあっても口にしまいと、決心していたんだがね、実を云 うと、君と久米八は、実の兄妹ではないのだよ。僕は君の身体から、あの怖ろしい爪を引き剥し てやろう」  と瞬間|眩量《めま》いをしたような儀右衛門を、にこりと見て、 「君は、夷岐戸島の秘密を、それからそれへと|曝《あば》いていったね。しかし、まだ一つだけ、君の眼 に止まらなかった井戸があるのだよ。では、その蓋をあけて、君が発見した、双生児の特徴に加 えるものを、覗かせてあげよう。  君は、クイロスの画の中て、たった一ケ所だけ見逃した部分がある」  なに、クイロスの画にー1というような儀右衛門の眼に、法水は再び微笑った。 「と云うのは、一方が苦しんでいると、片方の子が、それと同じような表情をして、右胸を押え ているということだ。実を云うと、それが何あろう、|双体碕形《アハえハ マ フサき》の特徴なんだよ。  十九世紀の末頃だが、有名なシャン・エンの暹羅兄弟iーそれが、一八七二年に死んだときの ことだった。その時、パウル・ガリンスキーという人が、解剖の結果を発表して、その中に内臓 転錯症のことが記されてあるのだ。つまり胸の剣状突起のところで|癒着《くつつ》いている、右側の一人に は、心臓は右に、その他ありとあらゆる臓器が、左側のと反対の位置にあるというのだ。そして、 その現象は、シュワルベ、サンチレール、フェルスター、レーシェルなどの、有名な畸形学者が いっせいに容認するところとなって、双体碕形の右側に位するものは、一様に心臓が、右にある ということが判ったのだ。  ねえ友田屋、君は双体畸形が、健康も感覚も情緒も、共通なのを知っているかね。そして、一 方が軽い病気をしてさえも、片方が不快な感覚を起すということも-ー-。つまり、あの絵の中で、 表情が同一なことと、片方の|小児《こども》が右胸を押えているということが、クイロス教授の|物云《アベテミん 》う|表象《ノニオん》 だったのだよ。しかも、二卵性の男女双子に、|暹羅《ノヤム》兄弟が全然ありえないということを知ったら、 はっきりと君は、悪夢から醒めるだろうね。  つまり君はローザとジョトゼ姉妹のように、クイロス教授の手術で分離したのだよ。ハハハハ そんなに方々見廻したって、どこに|嬰児《あかご》の時の傷が残っているもんか」  |暹羅《シヤム》兄弟iーそれが片輪と名つけられる中て、もっとも地獄的な一つだとすれは、当然里虹は、 母の人魚とともに、この世から葬らねばならなかったであろう。  儀右衛門は、その意外な名を聴くと、さらに新しい、一つの魔夢の中に入ったような気がした。 けれども、そうして現実の恐怖から、はっきり戴ち切られてしまうと、それまで覚えもしなかっ た、一つの疑惑が頭をもたげてきた。  と云うのは、法水の推断によって、久米八が兄妹でないということになると、当然双体畸形の 相手を、村次郎か逢痴かのいずれかに求めねばならず、はては、二人のいずれがそうであるか、 またその結合のし方も、胸かそれとも、背史口せの|薦骨《せんこつ》のあたりではないかiーとまで考えるよ うになってしまった。  まったく、その二つのものは、果しなく絡み合って、結局は見透しのつかない、雲層の中に埋 れてしまうのであるが、またそうなって、双体畸形の片方が、もし逢痴である場合を考えると、 彼の恋情にも、なんとなく怖れが出てくるのだった。  と云うのは、いかにプラトニックであるとはいえ、それは精神的|近親相姦《イ セスト》にほかならないから だ。  しかし、いずれ彼の疑惑のすべては、小六の口によって解決されるであろう ーあの夷岐戸島 ただ一人の生残者は、今に何もかも話してくれるにちがいない。まだまだ、儀右衛門の心の中で は、双体畸形のことはもちろん半信半疑であり、わけても、逢痴に対する愛着が、そうでなかれ かしと秘かに祈るのであった。  ところが、その日のうちに、片身の本体が明らかにされたと云うのは、そうして対座中、どう したことか、法水が聴耳を立てはじめたからである。  それはどこかから、チャリンチャリンと|楽破璃《ワうスハミモエカ》のように、一定の|節奏《リスム》をもって、快い|破璃《キヤマノ》の 音が響いてくるのであった。 「ねえ友田屋、どうやらこれから、小道具部屋に行かなけりゃならんよ。たしか|彼処《あすこ》には、『唐 人殺し』に使う、|破璃房《キヤマこぶさ》の燈籠が下がっていたっけね。彼処で誰か、首を|総《くく》っているんだよ。ほ ら見給え。少し休んで、またやりはじめるだろう。また少し休んで……」  儀右衛門は、それを聴いてハッと顔色を変えたけれども、法水の透視的神経は、黒死館殺人事 件一つでさえも、優に十五を数えるてはないか。  やがて、横合の廊下まで来ると、そこで儀右衛門は、釘付けされたように立ちどまってしまっ た。  なぜなら、廊下に向けて開かれてある、硝子戸越しに、ダラリと下った、小六の両手が見えた からである。  そして、口は|嚥《の》み込む、何ものかをもの欲しげに、ゲッとばかり開かれているのだII小六は、 左右に|破璃燈籠《キヤマンどうろう》を吊した、紐に縄をかけて、無残な|総死《いし》を遂げているのであった。 「ねえ先生、いったい全体、小六は自分から死のうとしたのでしょうか、それとも、誰かに吊さ れたのでしょうか」 儀右衛門は、この老|株儒《しゆじゆ》の身体を抱き下しながら、われともなくそう云った。  しかしそれは、まばらな歯並が覗いている、紫色の唇ではなかった。まったく、彼の思考を読 み取ることができる、不思議な力でもないのなら、こうも符合したように、小六の死が速急に現 われる道理がないのである-1-ただ一人、それも、あの怖ろしい秘密を解くことができる、ただ 一人の男が死んでしまった……。  そうして、彼には、この無残劇の深さがとうてい測りえなかったのであるが、そのうち、思い がけない喜びが訪れてきた。  と云うのは、小六にまだ、体温が残っているのを発見したことで、それから総掛りの人工呼吸 の結果、この老株儒はようやく蘇生することができた。  すると、なんとしたことかむっくと立ち上って、胸から出る息が、苦しげに響いた。 「ふ、|双生児《ふたご》め。あれ、|彼処《あすこ》を通る、あいつがそうなんだ。胸と胸を、くっつき合わせやがっ て」  と汚ならしい、|獣物《けだもの》に触れるような血相で、|額《ふる》えつつ前方を指差すのであったが、そうしてか ら法水の腕に|任《もた》几れて、今度も異様な言葉を眩くのだった。 「ねえお前さん、皆んなが寄ってたかって、わっしのことを小さいと云うがね。しかし、真実小 さく見えるなあ、わっしじゃねえ、彼処にいる為十郎なんだよ。ええ、|株儒奴《こびとめ》が……」  そのとたん一同の視線が、おりから湯上りの為十郎に注がれたが、その老人は、軽く|嘲《せせ》ら笑っ たのみで、深い搬をひょうきんな手つきで引っ張り上げた。       こぴ忙 「わっしが、株儒だって、冗談じゃねえ。小六さんは、まだ正気に帰らねえんですよ。それより か、|豊竹《とよたけ》屋さん(礎輔)が|双生児《ふたご》とは、そりゃまた、どうしたってことなんです」 「なあ、私が双生児なんですって。でももっとも、いま小六さんの前を通ったのは、私だけなん ですけど……」  と逢痴は、こころもち臆したようであったが、それは何もかも、女になりきった、恥らいのよ うにも見えた。  彼は法水に気づいて、静かに会釈したが、 「ですけど先生、いったい小六さんは、自分から首を総ったのでしょうか、それとも、誰かほか 7フ 上Y..:,.」  と逢痴が、ズバリと云いきったのは、この場合けっして不自然な質問ではなかった。  と云うのは、小六の襟首に、一つ|胡桃《くるみ》大の|結節《むすびめ》の痕が現われていて、どうやらそれが、他殺を 匂わせるのだった。  しかし、一方小六を、どんなにか|嫌《ながフ》めすかしても、彼は|額《おのの》くのみで、二言も口にはしないので ある。  法水も、困りきったような顔をして、 「なるほど、豊竹屋の云うとおりなんだよ。現に、ステイフェンの『|証拠蒐集綱 領《セ クィさンエス   すヴご ワロごちキル エウィモニス》』を見ても、たいていの場合|頸筋《くびすじ》の結節は、紐が長くて、総死者が廻転した場合に起るものな んだ、けれども、稀に犯人の自白などで、例外な場合が起ることはあるがね」  と小六が、昏々と眠りはじめたのを見ると、彼は儀右衛門の耳に口を寄せた。 「自分が、首を総らねばならぬ原因も云われないし、また、加害者の名も口に出せないとしたら、 この一座の|暗闘状態《ステコト オヴ ウオア》は、案外深刻なのかもしれんよ。きっと、僕らには思いもつかないような、 底のまた底があるにちがいないんだ。  ところで、参考のために、僕がどうして、この老人の総首を発見したか、説明しておこう。  これは、簡単な波動の原理なんだが、例えば、池に二つ石を投げ込むと、同じように波紋を起 すだろう。ところが、その中間に、より大きな石を投げ入れると、もしその波紋の方向が、同じ な場合には、前の二つが消えてしまうんだよ。つまり、この二つの|破璃《キヤマニ》房は、最初老人の首が掛 ったときには振動するが、それから|撚目《よりめ》が、行き詰りまでゆく間には、しだいに衰えて、極限に 達すると静止するのだ。また、次に解けていって、最初の状態に戻ると、再び力が加わって振動 を始めるのだ。その|節奏《リアム》から、僕は異常な啓示をうけたのだったよ」  事実、一座には、刻々と高まってゆくような、妙に不安定な空気があった。それを、法水は灰 かに感じただけで、その日は、ほどなく戻ってしまった。  けれども、この日の出来事は、儀右衛門にとると、彼が築き上げた、あらゆる仮説の顛覆を意 味するのである。  もし、小六の云うのが真実だったとして、夷岐戸島の|株儒《こびと》が為十郎だとすれば、この一座を里 虹とともに築き上げた彼は、はたして何者なのであろうか。また、風のように現われた為十郎が、 真実その株儒だということになると、その間の消息を、小六は|何故《なにゆえ》に知り尽しているのであろう か。  しかし、何より儀右衛門を、絶望の淵深くに叩き込んだのは、いよいよ小六によって、逢痴が 双体畸形の片割れだというばかりでなく、胸と胸とが癒着している、いわゆる|剣状突起癒合《ジフオフグス》であ ることが、判明したからである。  そうなると、逢痴に対する愛着が、まったく厭わしいものになってしまって、再び彼は、昏迷 の泥沼へ深く沈みゆくのであった。  それは、往々に壮年者が見る、忌わしい艶夢のようなものであった。と云うのは、近頃ことに 親しい久米八と逢痴の間を考えると、時として彼の眼前に、異様な白昼夢が出現するのだった。  一人の女と一人の|女形《おやま》、その美しい|円味《まるみ》、匂いこぽれるような|媚《なま》めかしさ、悩ましさはともか くとして、おりふし「青楼十二時」でもひもどいて、|辰《たつ》の|刻《こく》の画面に|打衝《ぶつ》かると、ハタと彼は、 その|折帖《おりちよう》を伏せてしまうのだった。もし、三人の夢が、.幻像を画いて通い合うとすれば、自分 が帰った後の蒲団には、舞台姿の逢痴が横になっていて、その側から|掻巻《かいまき》をかかげ、入り込もう としている久米八は、さぞ自分が残した、|温《ぽの》かみに眉を|餐《ひそ》めることであろう。  そうでなくてさえ儀右衛門は、そうと知ってからというもの、双体畸形特有の、|奇異《ふしぎ》な心理に 翻弄されはじめた。  それは、永劫に解けぬ循環論であった。  双体畸形の二人は、一人でもなく二人でもなく、生命は二つのようでもあるが必ずしもそうで はない。  そうなると、時計の振幅がだんだんに狭められてゆくように、逢痴に対する愛着も、つまると ころは、自分自身を恋するように思われてきた。そして、はては四次元が三次元に、また二次元 にと、ついには外界のすべてが、自分自身の中へ沈潜してゆくのではないかと、|額《おのの》かれたのであ る。  しかし、それは明らかに、狂気の前兆である。 儀右衛門は、その危険な囁きから遁れようとして、最初の夜のことを想い出した。そして、何 より一応は、現場の瀬踏みをしなくてはならぬと考えた。  と云うのは、あの時小六と逢痴との間は、|破璃《キヤマニ》の房に隔てられていて、たしかに小六は、その |三稜鏡《プリズム》のため、二重に見たのではないかIと考えられたからだ。  しかし、今度は案に相違して、その破璃房は、二重屈折の三稜鏡だった。  したがって逢痴の姿が、二重に映ろう道理とてはないのである。  こうして、否定と肯定とが背史口せして、紛乱の渦が、いよいよ波紋を拡げているうちに、い よいよこの一座は、「四谷怪談」をひっさげ東都初登場となった。そして、河原崎座の初日に当 って、まったく無残絵か因果絵でなくては見ることのできない、血みどろの悲劇が捲き起された のであった。  大南北の「東海道四谷怪談」を、原本どおり演出するというので、たださえ狭苦しい場末の河 原崎座は、割れんばかりの大入だった。  狂言|数《かず》も進んで、いよいよ二番目の「四谷怪談」に入った。  その二幕目伊右衛門の浪宅、いわゆる髪|硫《す》きの場である。  お岩は逢痴、宅悦は小六。舞台は、|上手《かみて》障子内に|蚊帳《かや》を吊り、 が浪人|住居《ずまい》の体。演技はすでに幕切れに近かった。  お岩 ヤヤ着物の色合、つむりの様子。こりゃ、 顔に。なんで、まあ、こりゃ、妾かいの妾かいの。 六枚屏風を立てて、 これ、ほんまに|妾《わたしお》が|面《もて》か、 妾がほんまに顔かいのう。 一体の作り このような悪女の  と髪は解け、垢じみた肌嬬神に包まれて、全身から放っていそうな、異様な臭いを振り|撒《ま》きな がら、産後のお岩は、鏡を手に持ち、見るも無残な変貌を、物怖ろしげに見入るのであった、  それは、おどろ|怖《おぞ》ましい色であり、|霜《もや》であって、その物凄まじいおののきには、自分の心臓す らも、観客は見出せないほどであった。  そして、宅悦との応答があって、髪硫き道具が持ち出されると、お岩は櫛を手に取り、思い入 れよろしくの後に、  お岩 母の|遺品《かたみ》のこの櫛も、|妾《わたし》が死んだら、どうぞ妹へ。アア、さはさりながらお遺品の、せ めて櫛の歯を通し、もつれし髪を。オオ、そうじゃ、  そうして、櫛で|硫《す》くと、はじめは少し、二度目は一つかみほどの、もつれ毛がからみ落ちて、 そうした跡は、光りもせぬ不気味な白地。  そこからはまるで、絹ででも|濾《こ》したかのよう、粟粒ほどの血の滲み。                             ψつくり  やがては、水に拡がる油のよう、一筋二筋と糸を引きはじめ、吃驚したお岩が櫛を捨て、右手 に髪をひん掴むと、それは内臓の分泌を、|津《かす》までも絞り抜くかと思われるような怖ろしさだった。  ばらりと抜けた一つかみの毛を、両手に握りしめて、恨めしげにキュッと|捻《ねじ》って、すううと糸 を引いた一筋の紅は、色でもなく血でもなく、それは暗い|煙《けぶ》りのように見えた。  お岩 今をも知れぬこの岩が、死なばまさしく、その娘。祝言さするは、これ|眼前《まのあたり》。ただ、 恨めしきは伊右衛門殿。喜兵衛一家の者ども、ナニ、|安穏《あんのん》に置くべきや。思えば思、えば、エェ恨 めしい。  と、月と|葭《よし》を描いた|衝立《ついたて》の蔭から、よろよろと|槍銀《よろめ》き上り、止めようとする宅悦の|襟首《えりがみ》をひっ 掴んで、|逆体《さかてい》に引き据え、上になったお岩の|生際《はえぎわ》から一溜の|生血《なまち》、どろどろと宅悦の顔にかかる のが、幕切の|見得《みえ》。  ところが、そうした陰惨な色どりが、未だに消えぬ観客の耳に、つんざくような叫喚が、幕の 背後から聴えてきた。  それは、衝立の蔭で、夷岐戸島唯一の生残者と目され、先には不可解な総死を見せた宅悦の小 六が、今度こそは、白眼を剥き出し手足を縮めて、それはあえなくも息が絶えていたからであっ た。  この意外な突発事件は、その日の興行を、髪硫き場だけで中止させてしまった。  そして、観衆が立ち去った後は、広い空間を、佗びしげな空気が揺れていてその中に、.一、三 蟻のように|姦《うごめ》いて見えるものがあった。  それが、法水のほか、四、五人の検屍官一行だったのf、ある。  ところが、不審なことには、屍体にはどこぞといい、他殺の痕跡がないのだった。中毒と覚し い痕もなければ、搬の深みに隠れている、針先ほどの傷もなく、両眼も|瞬《みひら》いてはいるが、活気な く|物瀬《ものう》そうに濁っている。  そこで検屍官は、小六の屍体に自然死を推定した。 「ところで法水さん、聴けばこの一座では、『四谷怪談』がかつて一度も、上演されたことがな いと云うじゃありませんか。そこに、この老人の|衝撃《シヨツフ》死の原因があったのですよ。御覧のとおり、 胸腺淋巴体質というやつは、衝撃には恐ろしく、鋭敏ですからな。もっとも、衝立の蔭で、観客 に見えない場所で死んだのですから、疑惑と云えば、その点が多少どうかとも思われますがね」  法水は、検屍官の言を聴くともなく、傍らにあった、お岩の半面|仮髪《かつら》を|弄《いじ》っていた。  それは、右眼の下のところまで被さるもので、|影也《かもじ》を解いて一本ずつ針に通し、それを|羽二重《はぶたえ》に 植え付けたものである。  つまり、そこに髪杭きの、技巧があるというわけだが…その時は|仮髪師《かつらし》為十郎の趣向からして、 幕切の見得の際には照明を暗くさせ、眼だけを白く抜いて、真赤に滲み出る毒血の凄みを、|内部《なか》 に塗った、燐で浮き出させる仕掛けにしたのである。そしてまた、これは後日のことであったが、 そうして宅悦の顔に滴り落ちた血糊の紅には、何一つ検出されたものはなかったのであった。  法水は、その|仮髪《かつら》を置くと、はじめて思い出したように検屍官を見て、 「なるほど、衝撃死ですか。しかし、衝撃と云っても、貴方はその対照が、何ものであるか、御 存知ないのでし.よう。ハハハハ、衝撃をうけて風のようにこの世を去ったーーただそれだけでは、 少しf、も、秘密の感受性に強いと、その人間に、貴方は|催《わら》われますぜ。たぶん貴方は、幕切の際 に、照明を暗くしたことは御存知でしょうが、その時、この老人の心動を止めたものがあったの てすよ」  と、かたわらの床から、取り上げたものを見て、一同は少なからず驚かされた。  それは、お岩の変貌を写す鏡で、今どきとうてい見ることのできない、古風な長柄の鉄鏡だっ た。}てして、裏面には、|六《む》つ|手葡《であざみ》の模様が、透し彫りになっているのだ。  ところが、法水に表を返されて、一同はあっと叫んだ。  と云うのは、その鏡面に、薄く滲み出たかのごとく、紅f、、五本の指痕が印されてあったから であるc 「ところで、こういう昔の鉄鏡に、一種不思議な現象があるのを、御存知でしょうか。それは、 表面何事もない鏡でも、一度光を当てると、なんともいえない不思議な模様が、前方に映ること です。しかし、その正体というのは、鏡の裏面にある浮彫りなんですよ。それは、最初鏡を磨く 際に、模様のある低い部分が、一端は|凹《へこ》むの4、すけど、やがて日を経るにつれ盛り上ってきて、 結局、不思議な|像《かた》を反射するようになるのf、す。むろんこの鏡も、六つ手葡をそのまま反射する のですが、ここに問題なのは、表面に着いている五本の指痕なんです。偶然かは知りませんが、 それが六つある、|刺葉《とげば》の合間合問に符合しているのです。ですから、けっこう暗くなると、お岩 の左頬に何ものか、映らなくてはなりますまい。尖った、十一本の刺を持った、|手掌《てのひら》形をしたも のと云えば、それはいったい何でしょうかな」  そう云って、いちいち法水は、座員の顔を見渡していたが、誰もかも、凍り付いたように血の 気を失っていた。  と云うのは、もはや賛言を費やすまでもなく、それは、はっきりとあの魔の衣裳…ーいつぞや 儀右衛門に示されたところの、人魚の|尾鰭《ひれ》形をした、図紋だったのである。  その意外な出現が、小六に衝撃を与え、彼の心動を止めたに相違ないのであるが、そうなると、 その指痕の主は何者であるか、疑問はそこに残されてしまった。しかも、それには.つの特徴が あって、右手であるばかりか、食指と無名指とがほとんど同じ高さf、あり、|栂指《おやゆび》はやや横向いて いて、それと、小指との識別は不可能なのであった。  しかし、それから座員を去らしめて綿密な調査を行なったのたが、ついにそれが逢痴に決定さ れてしまった。 「ところで友田屋」  法水は帰りがけに、儀右衛門を訪ねて、 「むろん、僕の推断を刑法的に見たら、おそらく、なんの価値もあるまいがね。しかし、あなが ち夢想でもないのだよ。と云うのは、小道具掛りの中に、たしか今里銀五郎とかいった、|恰腹《かつぷく》の いい、顔中切り傷だらけの男がいたっけね。その男をはじめ、その時、奈落の切り穴の下にいた 連中が、全部口を揃えて、幕切の際小六が、「ウーム、逢痴め、逢痴め、」と叫んだ声を、耳にし たと云うのだよ。けれども僕には、そんな暗合の魅力に陶酔していると、今にとんだことになる ぞ;ーというような予感もあるのだがね」  その夜、儀右衛門には怖ろしい夜が訪れた。  と云うのは、この事件を機会にして、再び、彼を悩ましつづける、神経の|姦動《しゆんどう》が起りはじめ たからだ。  それは、また例の|鏡像《ちこラコ イメヨジ》で、はからずもその特徴を、自分の左手に発見したのであった。彼 の左手は、逢痴の右手と同じに、やはり二つの指の高さが同じなので、もし|栂《おや》指と小指の判別が、 |真実《まこと》つかない場合には、決して決して、犯人が逢痴であるとは云えなくなるのだ。  それでなくてさえも、近頃は頻々と白昼夢を経験したり、時折はまた、|荘《ぼう》っと意識から遠ざか るような場合もあるので、臆せまいと思い|凝《じ》っと瞼を閉じていても、あの怖ろしさだけは、とう てい拭い去ることができないのであった、しかし一方にはまた、里虹の生死のことが考えられて きて、何かこの一座の中に、偉大なもの、怖ろしいもの、超自然的なものがあるのではないか。 また、それが、妙に自分とばかり通い合う、|奇異《ふしぎ》な存在ではないかとも考えられてきた。  ところが、その翌日、前夜のうち逢痴に対する令状が発行されたとみえ、|閉場《はね》を待つ私服の群 が、観衆の中で鋭い眼を光らせていた。  いまや舞台は、三幕目砂村|隠亡《おんぽう》堀の場。 |背後《うしろ》は高足の土手、上手に土橋、その横には水門、土手の下は腐った|枯藍《かれあし》、|干潟《ひがた》の体である。干 潟の前方は、一面の本水で、それが|花道《はなみち》の切幕際にまで続き、すべてが、先代右団次そっくりの 演出であった。 245  人魚謎お岩殺し  伊右衛門 よしなき秋山うせたばっかり、口ふさぎに大事の墨附、あいつに渡してこの身の旧 悪。ハテ要らざるところへうせずとよいに。南無三暮れたな。どりゃ、竿を上げようか。  しかし、伊右衛門は、まだ未練げに、|凝《じ》っと浮きを見詰めていると、やがて|髪毛《かみのけ》がかかり、次 に引き上げた櫛の歯から、一筋二筋と、もつれ毛を取り去る、指のしなだれ、その蒼白さ。  時刻も|黄昏《たそがれ》、所は十万坪隠亡堀、すべてが陰の極みである。  すると、おどろ|怖《おぞ》ましい薄ドロにつれて、下手から、|菰《こも》をかぶった一枚の杉戸が流れ寄る。  端には|一塊《ひとかたまり》の腐れ縄、そこに、蛙がひょんと跳んで、|凝《じ》っと動かないのだ。  伊右衛門思わず仰天して、 やや、覚えの杉戸は。  と、戸板にかかった針先をとろうとし、つるりと滑った途端に、|菰《こも》が|摺《ず》り落ちて、皮も|萎《な》え血 もしこり、肉脱した岩の死骸が、ぬるっとばかりに現われた。  しかしその時、観客の|骸《おどろ》きはともかくとして、伊右衛門に扮した、山村儀右衛門が、どうした ことか、どかっと尻もちを突いた。  と云うのは、なんとそのお岩が後向きであって、ただ守り袋をさしつける人形の作り手のみが、 ひょいと不器用な、動きかたをしたにすぎなかった。  伊右衛門 まだ浮ばぬな。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。このまま川へ突出したら、|鳶《とぴ》か鴉の。 |業《ごう》が尽きたら、仏になれ。  と、戸板を蹴ると、今度は裏に返り、藻をばらりと被った|小仏小平《こぼとけこへい》が、「お|主《しゅっ》の難病、薬下さ れ」と、片手を差し出すかと思いのほか、それも|背後《うしろ》を向いているのだった。  りての瞬間儀右衛門は、全身の血が、まるで逆流せんばかりの思い、いまや一身に、世界中の嘲 りをうけているような気がした。        せかい                            つ㍑  と云うのは、舞台こそ異なれお岩と小平の向キ、合せは、かつて胸を癒着ていた、彼ら双体畸形 のそれではないか。  しかし、儀右衛門は気力を振い起して、 伊右衛門 またも死霊の。  と、抜打ちに死骸に切りつけると、大ドロあって、|浪幕《なみまく》の間より、代りの戸板が差し出されて、 骸骨を載せたまま、|本水《ほんみず》の中を花道指して流れ行くのであった。  けれども、その時儀右衛門は、塑像のように動かなくなり、釣竿を腕に支えたまま|凝《じ》っと戸板 の上を見詰めていた。  もはや彼は、奔馬のような脈を感じ、錯覚さえも生じて、藍も土橋も水も何もかも、キラキラ    加げろう                                                   しわ一、 した、陽炎の中に消え去る思いがした。と云うのは、いかなる魔の所業であろうか、戸板の上の 骸骨には、|肢《あし》首が|括《くく》り合わされていて、それが人魚を|象《かた》どる、あの図紋のように感じられたから である。  しかし、そのうち水門が開かれて、滝流しの|浴衣《ゆかた》を着た|与茂七《よもしち》が現われると、舞台は陰惨の極 から、華麗の|頂辺《てつぺん》に飛び上り、まさに南北特有の|生世話《きせわ》だんまり、あのおどろおどろしい声や、 蒼白い顔や、引き包まんぱかりの物影などは、とうに昔の夢と化して、どこかへ飛び去"てしま うのだった。  ところが、そのだんまりの真最中、板戸が進み行くにつれて、なにか金色に輝いた脂肪のよう なものが、水面をじわりじわりと拡がって行くのだった。そうして花道を行く間に、だんだんと 右に傾いて行き、ようやく切幕の下に達したとき周囲の観客はつんざくような叫び声を上げた。  見ると、戸板がくるりと返って、そこには、お岩の衣裳を着、|咽喉《のど》に無残な孔を開いた花桐逢 痴が、ぬうと、藻の中から顔を突き出しているのだった。  こうして、観衆の真唯中で、小六殺しの推定犯人逢痴は、 無残な死体を|曝《さら》したのである。     三、首が飛んでも動いて見せるわ  死体には一面に太い|襲《ひだ》が盛り上っていて、肋骨が浮き上り、傷は左横から、|刃《やいば》様のもので頸動 脈が貫かれていた。  しかし、こうして死に、硬くなって、永久動くことのない身体のいろいろな部分が、法水の眼 には、異常な意味を持ってきた。彼は何度となく水中を透し見たり、浮んでいる作り藻を絞った りしていたが、そうして滴り落ちる蒼黒い水に、明らかな失望の色を|活《うか》べるのだった。 彼は、傍らの儀右衛門を振り向いて、 「どうだね友田屋、君は気がつかんかね。こりゃ、とてもひどい出血なんだぜ。ところが、浮い ているのは、血漿や脂肪だけで、肝|腎要《かなめ》の血が、この水の中にどうしても見出せないのだ。屍体 には、これほど明らかな|巌痩《るいそう》が現われていて、そのくせ、血がいったいどこへ行ってしまったの だろうか。藍で染めた水の中に、赤いものがあれば|鋤《くろ》ずんで見えるのだから、何より色を見れば、 一目瞭然じゃないか。すると友田屋、これで逢痴の死が、戸板の中で行われたのでないという事 が分るだろうね」  りてうして、|執念《しぶと》く作り藻を取り上げては、キュッと|捻《ひね》り、したたる水の色を、貧るように眺め ているその光景には、また髪硫きの場が聯想されてきて、それは「瑠璃の光り」という、|下座《げざ》の 独吟でも欲しいほどの物凄さだった。  しかし、水中に出血がないという事は、」方において、殺人現場を舞台以外に局限してしまっ た。そうなると、当然裏向きお岩の疑問が起ってきて、幸いだんまりの場面の暗さを機に、あれ が誰かの一人三役ではないかとの疑いも起ってくるのだった。  しかし、そうしているうちに、舞台裏の調査が終って、実に驚くべき、報告がもたらされてき た。  と云うのは、座内を隅々まで探したのだったが、一滴の血さえ発見されないばかりでなく、誰 しもが、格闘の物音も聴かずと云い、ただ逢痴の部屋から平素使う|沃度《コミいト》の注射器を、拾い上げて 来たのみであった。  そうなってみると、出血の失跣は、実に驚嘆すべき奇跡となり、早くも法水の顔には、ただな らぬ困惑の色が現われた。  したがって奈落の調査が、|慌《あわただ》しく行われることになったのである。  この座の奈落には、小芝届特有の色が現われていて、天井の低い、すべてが、だんだんと朽ち て行く、骨のように|罰《くろ》ずんでいた。  そして、白っちゃけた壁や、中央にある|輔櫨《ろくろ》には「四谷怪談」に使う|漏斗《じようご》の幽霊衣や、仏壇返 しや、提灯の仕掛などが立て掛けてあって、何もかも、陰惨な沼水そのもののような|代物《しろもの》ばかり だった。  しかし、法水は、そこにいる村次郎の口から、戸板返しの技巧を聴くことがてきた。 「つまりなんでさあ、本水口に使うのと、お岩を入れるのと、杉戸が二枚いるんですよ。そして、 最初は下手の方から、菰を被せたのを流して来るんですが、さて伊右衛門の前に来ると、それを 浪幕の陰から、手際よく引っ張り込むんです。そして今度は、役者の入っている方を、みんなで かつぎ上げて、きっかけと同時に、ぬうと突き出すという寸法なんてすよ。ところが御覧のとお り、浪幕があるものですから、奈落はせいぜい二燭の電球ぐらいで、人の顔なんぞ、てんで見分 けがつくもんですか。つまり、そんな具合で、間の悪い時だと、杉戸の|所在《ありか》が分らなくなるもの ですから、こうして同じ孔をあけたやつを二つ作っておくのです。ところで、この杉戸ですが、 御覧のとおり、少し幅広に作られてあるでしょう。そしf、、間に役者が入って孔から顔だけを、 突き出すんですよ。なあに他愛のねえもんで、外側は括り付けの衣裳なんでさあ。ですが、今日 はなんとも不思議なことで、誰か取り違えて押し込んだのかも知れませんが、豊竹屋が後向きに 入ってしまったんです。なんですって、それが豊竹屋じゃねえってー-とうに殺されていたって おっしゃるんですか。じょ、冗談じゃねえ、わっしらはちゃんと、|台詞《ゼりふ》までも、聴いているんで すからね」 「なに、逢痴の台詞を聴いたって-i一  法水は、そρ一度ですっかり顔色を失ってしまった。 「そうですとも、聴いたのはわっしばかりじゃねえ、みんながそうでさあ。なあ、銀五郎ー」  と傍らにいる、顔中傷だらけの小道具方を見て、村次郎は同意を求めるように云った。 「なにしろ、最初本づりのきっかけで、入って来たのも、豊竹屋なんですよ。それからわっしら が「総掛りで|浪衣《なみぎれ》を着て、杉戸を差し上げているうちに、何を見たのか為十郎が、アッ久米八さ んがーーと叫んだものです。ですからわっしは聴えてはならぬと、為十郎の口を塞ぎましたが、 それからすぐとお岩の台詞になり、|小仏小平《こぼとけこへい》がすんf、、ようやく杉戸を下しましたが、それから が、息を次ぐ暇もないほどの早業なんです。前に引き入れておいた、もう一つの杉戸に、骸骨を 引っ掛けて、それを本水の中に、押し出したのですよ。ええ、見ましたとも。むろんその前に、 滝流しの浴衣に引き抜いて、飛び出した豊竹屋を見ましたとも。ですから、わっしには、どうし て豊竹屋がー1ねえ先生、現在眼の前に、自分の死骸を眺めながらだんまりを演るなんブ、-ー」  村次郎は、咽喉をゴクゴク鳴らせて、息を出すのも、苦しげになってきた。  しかし、そうしてこの事件は、紛糾混乱の絶頂にせり上ってしまったのである。  現在眼の前には、二枚の杉戸が立てかけられているのだけれど、それとて一様に、小仏小平の 衣裳がなく、同じよう水に濡れていて、しかもその衣装は、眼前の床に投げ捨てられているでは ないか。すると、もっとも合理的な解釈が、不可能になってしまって、犯人は暗さに乗じ、お 岩・小平・与茂七と、三役早変りを|演《や》ってのけたのがそうであり、逢痴はそれ以前、|幕間《まくあい》にても 殺されていて、屍体を隠した杉戸が、それとも知らず、水中に押し出されたのではないか。  と、そうも思われたけれども、何より|襖《くさび》のように打ち込まれた、逢痴の声と血潮の失踪とが、 それを根底から否定してしまうのだった。  そして、裏向きお岩の謎は、遠く遠く雲層の彼方に没し去ってしまったのである。  ところが、その翌日、法水が河原崎座を訪れた時は、ちょうど四幕目の終り、これから「蛇山 の庵室」に、かかろうとする際のことであった。  儀右衛門は、法水の顔を見ると、|額《おのの》きながらも、待ち兼ねたように切り出した。 「実は先生、ゆうべ一晩で、わっしは十年も、年|老《と》ったような気がしましたよ。と云うのは、村 次郎が云った逢痴の台詞のことですが、そう云えばなんとなく、|嗅《かす》れたような声を、聴いたよう な気もするのです。しかし、問題というのは、その後でして、実は|昨夜《ゆうべ》、わっしが使った刀を抜 いて見たのですが、それには薄っすらと|脂肪《あぶら》が浮き出ているではありませんか。あの時わっしは、 あの向き合わせを見ると、思わずそれに、|暹羅《ノヤム》兄弟が聯想されて、|賭《か》っとなりました。そして、 たぶん切りつける|所作《しぐさ》の拍子に、逢痴の咽喉を刺したのかも知れませんよ。けれどもそうなると、 わっしを踊らせた人形師が、ぜひともここで、一人必要になってくるのです。それは、杉戸入り の際に、逢痴を裏向きに押し込んだ人物で、たしかあの時、奈落にいた六人の一人に違いないの てす。先生、わっしはなんという因果でしょうか、実の弟を殺してしまったのですよ」  法水は、しばらく口を|喋《つぐ》んで、何事も云わなかったが、やがて全身の気力が、眼の中に移った かと思われた。 「だが友田屋、それを僕に云わせると、けっして弟殺しとは云えないのだよ。実は、今朝の解剖 で、僕は動かせぬ確証を掴んできた。逢痴には、|暹羅《ノヤム》兄弟特有の、臓器転錯症がなかったのだよ。 すると、三引く二は一じゃないか。君の片身は、村次郎なんだ。しかも、その二人が、里虹の子 であるという証拠は、あの、人魚の尾鰭を|象《かた》どった図紋なんだよ。実はあれが、|竜鋤《ドラこヘン ノユ》の|形《パ テン》で、 トラケーネン血種という、高貴な馬に捺す烙印だったのだ。つまりクイロス教授は、あの画の中 で、双体畸形こそ、嵯峨家の血系であると暗示したのだ。だが、それはそれとしても、なんだか 僕には、逢痴殺しよりも先に、君の親殺しを、訊ねねばならぬ義務があると思うのだよ。ねえ、 そうだろう、塁虹は君が殺したんだっけね」  その瞬間、儀右衛門は化石したようになって、それは永いこと、姿勢を改めなかったのである。 しかし、法水は静かに言葉を次いだ。 「いつぞや、君に里虹が失踪した時刻を、訊ねたことがあったっけね。すると君は、風が止んだ のが午前三時で、騒ぎ出したのは、たしか六時十五分前頃でしょう--と云った。しかし、後で 調べてみると、風が止んだ時刻は、すでに五時近かった。そこで僕は、その偽りが、何に原因し ているのか考えはじめたのだが、ふと思いついたのは、三時も五時四十五分も、それぞれ時計の 盤面では、直角をなしていてしかもそれが、正午の十二時を軸に廻転しているという事だ。ねえ 友田屋、類似聯想たるや、実に正確な|精神化学《メしプん サナニストリミ》なんだぜ。#、して、正午という一語から、|昇《しよう》 .|表《こ つ》という解答を発見すると、僕はその錠剤の不足を、薬屋の販売台帳から見つけ出したのだ。し かし、それから里虹の屍体を、埋めたか、河に投じたかは問わないにしても、人魚の嘆きを、父 に報いた心理だけには同情できるよ。それを、フロイド|的《ウロイチインえ》に云ったら、いっぶう変った、エディ ポス|複合《コミブしノアス》と云うことができるだろうね」  と、そこで言葉を戴ち切って、法水はやや顔色を和らげた。 「しかし、君にしても、おめおめ僕の手を待つとも思われないし、この事件の落着を見ないて死 ぬのは、いかにも残念にちがいない。だが、それより何より、はじめての『四谷怪談』を、さぞ 君は、終りまで勤めたいだろうね。よろしい。僕は舞台の上で、君に、犯人の声を聴かせてやる ことにしようL  4.うして儀右衛門が、いよいよ最後の一頁を飾る、劇的な演技がはじまった。  眼は血走り、息は|喘《あえ》いで、|台詞《せりふ》の調子はバラバラであるけれども、今か今かと待つ焦らだたし さは、ひとしお|末期《まつご》の伊右衛門に、懐愴な気魂を添えるのだった。  しかし、その頃奈落の中で、法水は、六人を前に何事かを語っていた。 「あるいは君たちの中で、前の座頭の里虹を、知らない者があるかも知れない。けれども、その むかし里虹と小六とが、或る事情か.らルソン島へ行かねばならなかったことがあるのだ。その時、 クイロスという生理学者が、二人の嬰児に、血液循環の実験をしたのだ、それは、片側の静脈を 切って、そこに塩化鉄を置き、反対側の静脈には、フェロシアン・カリウムを注射するのだ。す ると、二十何秒か経って、その血液が一順したとき、塩化鉄が溶けて真青な色に変るのだよ。つ まり、あの時の逢痴が、意識朦腱としていたというのも、結局は常用の沃度と、フェロシアン加 呈を|拘《す》り変えて置いたからで、また出血が、行衛知れずになったというのも、藍で染めた水のた めに也が分らなかったからなのだ。さらに小六も、その青血の衝撃をうけて、逢痴逢痴と叫びな がら、|整《たお》されてしまったのだ。と云うのは、赤い地の中に白い|円《まる》を置いて、背後から照すとする。 それから、しばらく|瞬《みつ》めていると、やがては赤の補色;-青色に変ってしまうからだ。つまり、 逢痴を思わせたその技巧が、お岩の、半面|仮髪《かつら》の中に、秘められてあったのだよ」  すると、}同の視線が、思わず仮髪師の為十郎に注がれたが、法水の言はたちまちに、その臆 測を粉砕してしまった。 「ところが、そうして小六を纐めた人物は、あの時奈落の中で、それは素晴しい離寒を行なった のだ。最初、塩化鉄で練り固めた刃物を使って、頸動脈を刺し|貫《ぬ》き、その上二つの杉戸を取り違 えさせて、逢痴の死体についている方を、本水の中へ押し出してしまった。それから、浴衣に引 き抜いて、与茂七のだんまりを|演《や》ったが、その時闇の中で、それは鮮かに、逢痴の声色を使った のだよ。しかし、それが誰であるかは、ともかくとして、いずれ僕が、君たち六人の中から指摘 して見ることにしよう」  そうして、犯人の所在は局限されたが、ここで再び、形勢は逆転してしまった、村次郎に口を 押さえられた為十郎だけが、」人安全圏内に止まることになった。しかし、そうしているうちに 演技は進んで、す!、」に蛇山の庵室も終りに近く、伊右衛門が父源四郎に勘当をうけるところで、            おやじ、                                  あキ  伊右衛門 昔気質の偏屈親仁。勘当されたも、やっはりこれもお岩の死霊か。イヤ、果れたも のだ。 と思い入れのところに、いきなり下の奈落から、声高に叫んだものがあった。      バかめ 呆れたとは莫迦奴;ー首が飛んイごも、動いてみせるわ。  それは、有名な伊右衛門の|台詞《せりふ》であったが、声音と云い、調子と云い、どこか聴き覚えのある 声であった。  法水は、それを聴くと同時に、」目散に奈落へ駆けつけたが、扉際でチラリと為十郎の姿を見 たかと思うと、|内部《なか》から|捻《うめ》きの声が洩れてきた。  この事件の悪鬼は、死所を奈落に択んで、多量の青酸を|嚥下《えんか》したのだった。  しかし、村次郎はじめ一座の者は、しばらく放心したように立ち|錬《すく》んでいた。なぜなら、これ まで何の因縁もなかった風来者に、どうして犯人としての、動機があるのであろうか。 「僕は、何よりも先に、悪鬼の再生を告げなけりゃならんよ。里虹は、儀右衛門のために、昇乗 で殺されたと見えたが、そのじつ為十郎となって、未だに生きていたのだ。  と云うのは、阿片食も病い|膏盲《こうこう》に入ると、|昇永《しようこう》を混ぜなければ、陶酔ができなくなる。だか ら、そこへ昇禾をどんな多量に用いても、それはいっこう致死量にはならないのだ。そして、過 激な食餌法で脂肪を減らし、過マンガン酸加里の変色法などを用いたので、このとおりの不気味 な色になってしまった。  しかし、その正体は、ついに小六のために、発見されてしまった。  と云うのは、あの男が|怯《おび》えて、総死を計った原因がそれなのだが、あの深々とした搬も、湯か 酒で色づいたとき、薄闇の中で見ると、赤味が|鶏《くろ》ずんで、変貌の特徴が消え失せてしまうからだ。 しかし、一廻り小さく見えるので、あの、|株儒《こびと》云々の言葉が発せられたのだよ。  つまり、例のプルキンエ現象というやつだね。  それから、云いもせぬ逢痴の台詞が、どうして聴えて来たかということは、少しでも早虹を知 る者には、それが得意の、|腹話術《ウエントリロキズム》ではないかと疑われてくる。しかし腹話術には、 |咽喉 変飾《ス  ト モチイフイケえンヨン》、|口蓋消音《パレコト マツフリンク》という二大要素があって、口を押えられた彼に、どうして出来よう道理が ないではないか。ところが、それ以外にも、胃内の空気を利用する生理的腹話術もあって、もち ろん里虹はそれを行なったのだが、なかには、口で|喋《しやべ》りながら腹で|唯《はやし》をしたり、二様の一一言語を、 使い分ける達人などもあるそうなんだ。 -実にこれこそ不在証明中の不在証明といえるじゃな いか」  と、この事件の|警畸《けいき》な内容を、残らず説き終ると同時に、なぜとなく彼は、お岩の半面仮髪に 惹かれるのであった。  そして、それを手に持ったとき、天井の切穴から、一筋の血糊が、すうっと糸を引いて落ちた   ああ儀右衛門もか。  しかし、血を血で打ち返す極悪伊右衛門の再生こそ、真実里虹にほかならないであろう。まこ とに彼は、首は飛んでも、動いて見せたのであるから。 四、|人形謎《にんぎよのなぞ》お|岩殺《いはごろ》し(昭和+年八月昌一「中央公論」)  これでは、杉山平助氏からは奇形児だといわれ、小泉三|申《しん》老が、ついに三度読んだが分らずじ まいになったそうである。また松野氏が、この挿画で渋面をつくったそうだし……「東海道四谷 怪談-と「いろは仮名四谷怪談」とを混同しているといって、未知の人たちから捻ぢ込まれたの もこれだ。  例の、「首が飛んでも……」の有名なせりふは、「いろは仮名」にあって「東海道」にはない。 それを知りつつおこなった悪事を、曝かれたのだから致しかたないわけである。