南海の鯱 小栗虫太郎 密貿易者|蒙飽《モンパク》 阿片戦争ほどイギリスという国が恥さらしをしたことはな い。  阿片といえば、読者諸君もしる大魔薬である。喫えば、焼 惚としてこの世の苦をわすれるが、やがてはヨィヨイとなり 廃人となって死ぬ。すなわち、|姻魔《エンイン》という名の阿片中毒者に なる。  ところが当時、支那ではこの姻癬がひじょうな数になって 唖く。このままでは、拠って置けば国が滅びるだろう。とい うので、イギリス商人が持ちこんでくるインド産の阿片に、 清政府が禁輸令をだしたのである。  しかし、これは、実際上にはなんの効.果もなかったのだ。 というのは、沿岸官吏をさかんに買収したイギリスが、大規 模な密貿易をはじめたからだ。相変らず、阿片がはいってき て人民を|害《そこ》ねる。そこで溜りかねた湖広総督の、林則徐が非 常手段をとることになった。  道光十八年、わが年号でいえば天保八年に、広東碇泊二十 二隻の英船に命じ、阿片の積荷をださせこれを|沙面《シヤメン》で焼き捨 てた。これが、阿片戦争の口火になるのだが……これほど、 条理のたたない|没義道《もぎどう》な戦争が、曽つて、いや将来にも一つ としてあったろうか。  我益のためには人道も無視し、一国の人民を毒殺せんがた めに、兵を進めて南京にせまる。じつに、暴戻非道極まれり というのが、阿片戦争におけるイギリスなのである。  ところで、この林則徐の大英断であるが……これには、じ つに一人の黒幕があるのだ。日本人万木七九郎IIこれが、 関天塔のひきいる水軍の顧問となり、じつに英船鷹懲の最初 の矢をはなったのである。  では、この万木七九郎とはいかなるものかというに、その 点が遺憾ながらわからない。漂流民か密貿易者か17 それと も、清へ貢ぎをする琉球船の、いわゆる進貢船を監督する薩 州藩のものかP とにかく、|姻鷹《エンイン》巷に満つる清国の惨状と、 それに我利の爪をとぐイギリスの暴戻に、憤然とたった仁侠 児と思えばいい。そうして彼が、巨鯨英国をねらう南海の饒 だったのだ。          スシ  九竜半島の西端、峻湾の夜。海はくらい空をうつして波頭 だけがひかっている。すると、浜辺の砂礫をじゃりじゃりと 鳴らせ、一艘の|艘板《サンバン》がついた。しかし、|船夫《かこ》は一人をおろす と漕ぎ去ってしまい、あとは、沖でさわぐ三角波の、南支那 海の軒声がきこえるだけだ。  とやがて、別に浜づたいにきた一人の男が、なにやら沖を 気遣うように足をとめると、途端に、 「おい」と岩蔭から声がした。  しかしその男は、別に驚くでもなく予期したように、声の かたへじっと顔をむける。とそこへ、背のたかい男の姿があ らわれた。 「鍵は」 「|猛神王《マンシヘムおう》」 「貴様は」 「蛾山|生泡子《サンボ ツ》隊」 「そうか、マア、ずっとこっちへ来い」  と、岩蔭の男にいわれぐるりを見廻した。その男はスウッ と身を寄せてくる。鹸気と、垢のまじったむっとなる臭気。 多分、このあたりの海賊の一人だろう。 「ときに、|紆巾飯店《ウオクンハンテン》の景気はどうじゃ」 「へい、上士口でさ」  以上が、合言葉である。  そして、背のたかい影、肩のあたりがサッと動いたと思う と、なにやら海賊体の男のまえヘガチャリと落ちたものがあ る。金だ。それを、拾おうとするとするどく訊かれた。 「|真《まこと》かな。今夜|蒙飽《モンバク》めがここへ来おったというが……」 「わしが……わしが、なんで嘘をいうだ。今夜、蒙飽爺はこ こにいるに違えねえだ。洋人四、五人と一緒に屯長の家にい るだ」 「そうか。では、案内をたのむ」  まもなく、岩礁の洞をくぐって二人の影は消えた。  ここで、蒙飽とはいかなるものか説明しておこう。とおく、 |興化《ヒンワ》、福州から広東在へかけての、阿片密輸団の大頭目であ 褐プ|齢《よわ》…すでに|七《い》十にあまり、ながい白髭をたれ老難な|柑《すがた》の、 葉蒙飽は阿片吸飲者の神。  そして、まい年旧四月十五日の薬王廟の祭りに、阿片の大 取引をやる。しかしこの、薬王廟というのはたいていの町に あり、今度、どこで行うかを葉蒙飽がきめる。すなわち、前 年取引をやった薬王廟の所在地で、針を水にうかべ停まった 方向で、次回の取引地を決するのだ。  しかし、それが極秘裡中におこなわれる。英船の船長以下 四、五人の幹部以外のものは、この弄針儀の席上に列するを ゆるされない。またこれを、官辺の密偵が頻々とうかがう が、すべてこれまでは失敗に終っていた。捕えられ、額に十 字の|文身《いれずみ》をされて、ポンと釈放されるのだ。  してみると、いま|舳板《サンバン》から降りたのも密偵の一人だろう。 やがて、葉蒙飽が方見の針をいじる、屯長の塀外にあらわれ たのだ。 二 汚辱の烙印  やがて、ピシリピシリと枝の折れる音、そうして暫くぐん ぐん反動をつけ振子のように揺れていたが……サッと、素早 く手摺をつかんだ。  それから、しばらくカサコソとからだを動かせていたかと 思うと、スウッと風穴みたいに口をあけた孔から、しのび込 むと、パッタリとあとがしまった。瓦碕の床、姻煤でくすぶ ってはいるが立派な部屋だ。  やがて、その部屋をぬけて廊下へでる。そのうち黒壁をめ ぐらした一劃にでると、ふと|橿《かまち》にある、薬王の像が眼にとま った。 (なんだろう)  しかし、扉を押すとすうっと開かれた。闇の向うから、か すかな徽の匂いがぷうんと鼻をうってくる。ここだけが、冷 冷とした石積の室だったのである。まもなく、なにやらほく そ笑みながらここを出た。その男はまた廊下をあゆんでゆ く。  と、寄りかかった一つの扉、それが向うからいきなり開か れたのである。その男は、不意をつかれタタラを踏んで思わ ず部屋のなかへよろよろと娘蹟きこんだ。 「ああ、これはよくお出でなすった。じつは、|大人《たいじん》のお出で を、千秋の思いで待っていましたよ」  |蒙飽《モンパク》。それに……ブラックウォール|帆船《フリゲ ト》を駆る東インド会 社の船長五人。 「お紹介せする。今夜は、とんだ大物がお出でなすったもん だ。これは、広東水軍中にその人ありとしられた、倭国人万 木七九郎どのだ」 とたんに、辮髪がひきむしられ大たぶさが現われた。精 桿、海風をきる七九郎の壮年美、しかも、この危機に動じた ような様子もない。が一瞬、裏切られたと焼けるような思い が、七九郎の胸へぐいと込みあげてきた。 (迂潤だった。うっかり、信じていたが、やはり支那人だ) 「さア、ずうっとお入り」  |蒙飽《モンパク》は、|故意《わざ》とぎごちない、お辞儀をしていった。万木 は、まんまと張られた|陥穽《おとしあな》に落ち込んだのである。 「のう大人、これが大人にはお気に召さんのだな。この、天 の美禄のどこが気にいらんのかロ どうじゃ、一服喫うてみ ては」  この六人は、阿片吸飲具の|姻鎗《エンチヤン》、姻盒をまえに、ゆるやか に、曲録にかけている。また|周囲《ぐるり》には、パドナやベナレスの 阿片の木箱が積まれ、つよい麻痒臭が漂っている。しかし、 七九郎は敢然といった。 「吸煙、すなわち滅国である道理を、|蒙飽《モンバク》ほどのものが知ら ぬことはあるまい。我利、国を害うは天理にもとる。詠する も、なんの悔なし」 「おう、怖や、怖や」と、|蒙飽《モンパク》は大袈裟な表情のまま、一人 の英人の船長のほうをふり向いた。 「この男は、わし等を|大刀《だんぴら》で殺そうというのです。どうか、 さような物がないように身体を探っていただきたい」  そうして、身体検査がおわるとまた向き直って、 「大人は、どうも倭人らしい律儀を申されるが、しかし、ど うやらここは国が違うようじゃ。それに、郷に入ればなんと やら云う。どうじゃ、ここで万木どのも宗旨を変えられては」 「ほう、では何をせいという?」 「味方をする、わし等の一味になる。1わし等は、極楽を ふり撒く、殊勝者ぞろい。のう、頑固もほどにするもんじ や。聖天の|快楽《けらく》、多聞天の富。蓬莱の仙女界もわし等には意 のままじゃ」  といってから、ひそかに船長の一人に英語でささやく。 「この者を、味方にすれば干金の重みです。しかし、敵とな れぱ、虎狼の精よりも手強い」  すると、その言葉が終るか終らぬかのうちに、七九郎の大 声がたった一言、 「断わる」ときっぱりといった。 「|蒙飽《モンバク》、主には理解のできぬ、国柄のわしじゃ。良民に、悪 習を強い我利をむさぽり、国の土台を、蝕ばもうとするおん 身等をみて、このわしの血の湧きたたぬわけはない。しか し、今夜はいかにも負けた。さあ、射つなりと自由にするが いい」 「ふむ」と憎悪の色をいっぱいに涯べ、蒙飽は二度と笑わな くなった。 「よろしい、相手が主だけに二度とはいわぬ。また御身を殺 しもせぬ。いずれは、世にいれられず儂の懐にくる、烙印を 額に押して進ぜよう。だが、そうした汚辱に日本武士は堪え ぬと聴く。どうじゃ、舌を噛むか、恥をうけるか」 「いや、節を屈するよりも一時の恥だ。わしは、|烙印《らくいん》を甘ん じてうける」と七九郎がじつに意外なことをいった。 「だが、いずれ近日中お目にかかると思うが……そのときは、 この烙印が誉れの印しとなろう」 「な、なんという……」 「いやいずれ、貴殿らの臨終を見届けたいと思うのだ。その 節、蒙飽どのにも赤髭どのにも-…ゆるりと、この御厚意に お礼を申しあげたい」  それを七九郎が、声音もかわらず噛み切るようにいうので ある。その、一本調子の底しれぬような凄み。蒙飽も、船長 たちも喧おうとはするが、なんだか相手の胆力に圧せられた ようになってしまう。  しかし、それが一場の放言にとどまるか……P ともかく 七九郎は烙印をうけねばならない。隣室でためしに獣皮へお すジュウッという臭いに、さすがの彼も苦痛の色をうかぺ た。 三 じゃじゃ馬  ちょうど、全支に薬王廟の祭りがはじまる、四月十五日の 前夜、九竜を出はずれた鉄門諸島のあいだを、一隻の、灯火 を消した帆船がすべってゆく。それが、最近広東水軍に編入 された「|航浪《ミユンヲン》」号であった。  この船は、もとオランダ東インド会社に属したレムプラン ド号であったが、海口附近で坐洲したのを水軍が買い、はじ めて支那海軍にあらわれた洋式艦である。そしてこれには、 司令兼臨時艦長の関天塔副長として、あの蒙飽事件失敗後左 遷された、万木七九郎が乗りこんでいた。  蒙飽が、いずれ世にいれられずおれの懐にくるといったよ うに……無残な、十字の汚辱のしるしには、七九郎も昔日の 人気はなかった。ほとんど一つの残骸のように、一艦の副長 に左遷されたのである。  その夜は、蝋座の尾がちらりと見えただけ、その断雲のし たがやがて塞がってしまうと、空も海も黒々とした闇になっ た。そのなかを、一点の灯も洩らさじと「|蛎浪《ミユンヲン》」号が、しず かに艇りをきっている。  バイァス湾の入口にある沙門島に、薬王祭の前夜阿片の揚 荷があるという、聴きこみから出動したのであるが….:。 しかし、いま船体を英船にみられては、せっかくの事が瓦餅 に帰するかもしれぬ。  それは第一、乗組員の腕前がちがうことだ。操帆も、充分 でない広東水軍と、仏艦と、太刀打ちをしても退けをとらぬ という……むろん、東インド会社海員とでは桁がちがうの だ。もしも、見つけられたら先んじられ、急報されるくらい が関の山なのである。  それでいま、「航浪」号には一点の灯火もなく、ただ羅針 盤を読む七九郎によって、しずかに闇黒の海を進んでいる。 「総督も、ぐずぐずして決心をきめぬ。やるなら、ここで潔 よく英船に挑む。やらぬなら、|故郷《くに》へ帰って楽隠居でもする がいい」  舷側に、もたれながら艦長の関に、七九郎が愚痴のように いうのだった。やっと、|島喚《とうしよ》のあいだを抜け次がくるまで、 船は、左舷開の快走をはじめている。 「それはな、武器もちがうし智慧もちがうでな。どうにも、 総督どのも決め兼ねておるらしい。わしの観測では……マア 英船には頗かむりをして、国内のほうを厳しくやるつもりじ ゃろう」  と、いったがビクンと身をおこし、関天塔が舳の水を指し た。  そこで、|水夫《かこ》の一人を呼ぶと、次のようにいうのだった。 「みたか。どこか舳のほうの部屋から、灯が洩れておる」 「ハッ、一つだけは存じております。それは、右舷の士官室 の附近で……」 「なぜ、閉じさせん」 「なんども、御注意申しましたが、お聴き入れないのです。 なにしろ、相手が総督のお嬢さんですから自分なんぞのいう 事は」 「ああ、あのジャジャ馬か」  この船に、母の|郷里《くこ》である福州へゆく、総督林則徐の娘|冬 鹿《トンルン》がのっている。七九郎は、いつも|冬鹿《トンルン》に爺や扱いをされ る、関天塔を|椰楡《からか》うようにみて、 「のう艦長、いかにもあのお転婆なら、やりそうなこっち や」 「ふむ、注意をしよう」  艦長はなんともいえぬ渋いにがい顔をしたが、,それから七 九郎と連れだってその部屋のほうへいった。 「なんだ、|紅苑《ヘンヌン》がいるのにか……」  その部屋へはいると侍女の|紅苑《ヘンヌン》が、まず怯々とした眼で二 人をむかえる。 「いいえ、御注意はいたしましたんですけど、どうも、暑く て暑くてと、かように仰せられまして-……・」  そこへ、となりの浴室で湯音がする。ここは、もと蘭船時 代の船長室で、とくに|冬騰《トンルン》の船室にあてたわけである。やが て、関が浴室の扉をたたき、 「お嬢さま、すぐ窓をお閉め願いたいが……」 「いいえ、閉めません。さっきから、兵のいい条といい、な んという失礼な……」  冬騰はもう充分にこじれていた。まるで、からんだ糸のよ うに、解けなくなってしまっている。利発で、いい娘だがあ まりに|初心《うぷ》過ぎる。これが冬鵬のいちばんの欠点であった。 「分らんかのう、お嬢さま。おらは、お幼さいころから一番 よう知っている人間だ。虫気もない、むずかりもしない。そ れは|従順《ナなお》な、御発明なお子じゃったのに…:.」  「:……・」 「この膝を、おしっこで汚された、わしの事ではねえか。サ ア、昔馴染みの|乳母《ぱあ》やのいうこっちゃ」 「それで、閉めろって、あたくしに云うのでしょう?」 「左様。ここは、一寸先もわからぬ、暗礁の海のようなもん じゃ。どこに、阿片船の見張りがいるか、英船がいるか……」 「そうかしら……。でも、英船がくれば逃げるのでしょう」  関は、七九郎と顔を見あわせ苦笑をかわしながら、それで も年功か苛立ってくるものを、かれはさすが押えつけてい た。  沈黙がきた。|帆桁《ヤ ド》のきしり、波浪の音。が、艦長には冬瀧 がこじれ、いま子供のように|難《むず》がっているのが分るのだ。 「お嬢さん、いま清英間がいかなる状態にありますか、彼ら は、阿片をまもるためには、手段をいといませぬ。もし、こ の窓の灯をねらって発砲されたような場合、もう本艦には抵 抗の余地がないのです。考えてください。たとえ、ほのかな 微光とはいえ、洩れ灯のおそろしさが……」  関は、事態の重大なことと総督の愛嬢、ことに・久鹿の幼時 をしる|愛《いと》しさと板挾みとなって、いまは嘆願のようであっ た。 「お嬢さん、あなたはとくに気慨のある方と思いますが……、 それはいま、ここで忍従なさるのも、同様気高いことじゃ」 「………」 「閉められますかな」 「誰がですの」  やっと、|冬騰《トンルン》の素っ気なさそうな声がした。 「|貴女《あなた》が」 「   」 「もし、御自身お厭ならば、紅苑にさせましょう」 返事はなかった。ふと関が、七九郎をふり向いたが、そこ に彼はいなかった。  間髪を入れず、閂のような肩口をどしんと扉にぶつけ、ひ らいた、隙間からは濠々と湯気が吹きでてくる。 「あっ、なにすんの?」 四 殴られた冬鷹  アッと驚きの声が……前方からも後方からも一斉にあがっ て、七九郎の、あまりの思い切りにそれなり声もなかった。 「なにするんです? 艦長、あああたくし……」 |上湯《あが》ったとみえ、湯気のかなたに|淡紅《とき》色の寝間着がゆれて いる。 「副長……万木七九郎、あなたはもう、この船には二度とは 乗れませんわよ」 |冬瀧《トンルン》の、顔色はおどろくほど蒼ざめていた。声もふるえ、 しかし態度には、胴むも屈するもない凛烈なものがあらわれ ている。七九郎は、ぐいと肩を落しぬけぬけと、いかにも酒 脱な顔で微笑んでいる。 「艦長、あなたもですわ」  およそ、生れてこのかた物怯じということも、恐いも知ら ない冬朧独特のものが、しだいに息付きはじめ、恢復されて くるのだった。 「驚きましたわ。婦人の浴室に、乱入するなんてどこの国に ありましょう。アア、お父さまのお船ったらなんて方々ばか りだろう。艦長、あなたも罷免ですわよ」 「いいでしょう」  七九郎は、噛むように云ったが、顔はわらっている。 「そのとき、どこかの馬鹿娘にも査問を喰わしましよう。い ずれは、わしともお仲間であろうが」 「マァ、なんということP」  冬騰は、この侮辱に堪えかねたように唇をうごかしたが… …声はでず、ただ戦くばかりであった。  その、量っと曇ったなかで上気してゆく様。神経や、血管 の末梢に充血してゆくのが、七九郎にはよく分った。 (碕麗だなあ)  彼は、ちょっとのあいだ、云う言葉もわすれていた。  清別、繰靱、|光沢《つや》のかぎりは……むっちりと生絹のような 陰影のうつくしさには……動く、生きてると思わぬうちは、 彫像のような気がするのだ。  しかし、冬瀧はますます猛ってくる。 「下船を命じます。副長に……いますぐ、あたくし命じま す」 「こりゃ、こりゃ……、こりゃ、奇抜だ。お嬢さんまだここ は海上ですぞ」 「いいじゃありませんの。ボートには、食料からなにまでち やんとありますもの。わたくしには、あなたに強制する資格 があると思います」  まるで、冗談のような言葉を本気でいう|冬騰《トンルン》。そうなると、 なんだか椰楡いたくなってきて、七九郎はにやりと微笑い、 「ハハア、じゃ、お嬢さんは艦長以上というわけですな。本 艦は、艦長の絶対支配下にありますが、但し、海員を海に追 いこくって鮫の餌食にしようなどとは、どう考えても権限に はないでしょう。もし、理由があるなら、それを伺います か」  冬騰は、はげしい侮辱をうけたように、きゅうに黙ってし まったが、いきなり、 「もう、止めましょう」といった。 「副長、あなたは鏡を御覧になったことはないの。そんな、 汚らわしい烙印を額につけた、卑怯な男とはなにも話したく はありません。あなたは、恥を知ろうとはせず身を全うす。 ああ、なんて卑屈な男……」  額には、蒙飽に負けたときのあの烙印。しかし、なぜか七 九郎は平気でいい続ける。 「わしは、明日にもあなたの憎しみをうけて、この船を去る でしょう。しかしいま……ただ、本艦の状況をお考えくだす って……あの窓をお閉じくださらんかな。その手で……わし の手よりもその手で閉める」  冬鹿は、わずか伏目になって、唇の端をふるわせていた。 しかし、足は地から生えたように、意地強そうにうごかな い。そうして、五秒、十秒。  と、七九郎の拳がいきなり飛んで冬朧は、 えず浴槽のなかに殴り倒された。 五 英奴、 恥をもたらすも はだけるも覆い  この汚辱1。かれは、まざまざと額の傷がみえるような 気がした。あれ以来、蔭ではずいぶん、云われたことだろう。 はじめて、いま|冬騰《トンルン》に面とむかっていわれたが、卑怯者、倭 人に似げない恥しらずと、いまもその声が聴えるような気が する。  しかし、表面はそれを感じないかに、かれは懸命に操舵を 指揮していた。船は、冬騰の船室の窓を釘付けにし、まった くいまは一塊の黒さである。まもなく、沙門島の浜らしい舳 板の灯がみえる。一つ、二つI。まったくおびただしい群 船の灯だ。 「案の定」関はむつりと頷いた。  おそらく、阿片を|賄賂《まいない》に英船からもらった、海賊どもの揚 荷であろう。海賊だ。ーなるべく、広東水軍は英船に触れ たくはなかった。 「どうする万木」関が七九郎をふり向いた。 「やるんですなア。わしもじきに、お娘に本艦を追いだされ るだろうし、海賊にも、たまには見せしめが必要でしょう。 しかしいま、お娘をやっつけた処置に、艦長も異存はあるま い」 「ふむ、この際の処置としては止むを得んだろうが……、し かし、万木、ちと非度過ぎたぞ」 |甲板《デツキ》にでると、頗に、|払暁《あけがた》ちかい空気が刺すように感じ る。ただ、舷側にくだける波頭だけが、量っと暗がりのなか にみえた。やがて、霧がはじまりだんだん濃くなってくる。 「こりゃいかん。視野を失わんうちに、やらかすとしよう ぜ」  舷側に、火薬の樽と丸弾をはこび……。半裸体の兵が点火 棒を焼いている。  まもなく、左舷の|火砲《カノン》がいっせいに火蓋をきった。艦が、 とたんにグラグラっと揺れ、眼には、海面から巻きあがる火 竜のような火柱がうつった。七九郎は、砲順を指揮し怒号を つづける。たちまち偏射。かしいで、半舷がサッと水をかぶ る。とたんに、 「あっ、ありゃなんだ」  帆綱に、身を支えていた艦長の関が、とつぜん闇のかなた の大火焔をみてさけんだ。|帆船《フリゲ ト》、火光に映しだされた巨大な 船体は、たしか二隻の英船にちがいない。燃える帆。めらめ ら焔をあげ、引っちぎれては宙を飛んでゆく。  舷側から、海中にとびこむ乗員らしい影。しだいに現われ ゆくまっ赤な船腹。やがて、その二隻はまったくの、一団の 火焔と化してしまったのである。  英船を……じつに、思いがけなくも英船を撃沈した。これ からの、事態がどうなるかと思うと、関は気が遠くなるよう な思いだった。 「どうだ艦長」と七九郎がポンと肩を叩いていった。 「やったろう。明日、察涌の薬王廟で例年の取引がある。あ の英船は、一隻が『|鉄人《アイアンメン》』号、一隻が、『レディ・メルヴ イル』号だ。いずれも|船腹《はら》いっぱいに一、二万箱の阿片をつ んでいる」 「では、お主、ここは察涌か。沙門島ではない、大鵬湾の奥 の:::」 「そうだ、関艦長どのにもうちっとの才能があれば、風速、 展帆状態などでそれが分らねばならん。いかにも、ここへ引 き入れたのは儂にちがいない」 「お、お主」と関ははげしく吃って、 「じゃが、それは大問題になろう。これまで、見ぬふりして 触れずにいた、英船を沈めたとならば、このままでは済ま ん」 「そこだ」と、眼光を燃やし声音をあげました、七九郎がむ んずと関の腕をとらえた。 「のう艦長、恥をかさね、国全うすや……」  すると、しばらく無言でいた関の眼に、きゅうに涙がふく れてきた。感激性の、関はブルプル顧え、まるで七九郎の全 身から発する神国の精髄にふれたように、かれの両手を鷲づ かみにして云った。 「おう、英奴恥をもたらすも、国全うすロ 万木、わ、わし は砕けよう」  がそのとき……七九郎は腰のあたりにぬるっとしたものを 感じた。血だ。と同時に、右肩がはげしく痔く。それまで、 指揮中で気付かなかったのだが、右肩を射たれおびただしい 出血だ。  かれは、眼先のものがきゅうに遠退いた感じに、明けそめ た白光のなかへ倒れた。 六 豹 と 猫 「これが……不思議でならんのは、儂だけではあるまい。ど うして、察涌にあるのを方木が突き止めたか。まい年、薬王 廟の阿片取引がどこにあるか、どんな上手な密偵でも、窺い よらんのじゃったが……」 「そうです。烙印をうけてオメオメと帰ってこられた、万木 どのかと思うと、神業のような気がします」  一人が、関、一人が掌帆長、いずれもどうして察涌の阿片 取引を万木が知ったか、それを不審がっているのだった。や がて、七九郎が寝ている枕辺によってき.て、関が附き添いに いった。 「お嬢さん、お疲れじゃありませんか」  |冬瀧《トンルン》だ。直情径行、さっぱりした性格。一度誤ちをさとる と少しもこだわらなくなるーかの女はいま七九郎の枕上に いる。 「え、でも」と、冬瀧はいい渋ったように微笑んだ。 「あたくしなど、ただいるだけの事で、なんのお役もしませ んでしたわ。それよりも|紅苑《ヘンヌン》に寝てもらいませんと……」 卑怯者が、一躍して英雄になった日。  いまは、血の気もなく白々とひかる、七九郎の寝顔が神々 しいまでにみえる。|冬騰《トンルン》は、みているうちに|理由《わけ》のわからた い、なんだか甘く櫟られるような涙を感じてきた。  済まなかったと、思うのも詫びたい気持も……、むしろタ、 騰にとれば快感のようなものだった。そこへ、 「いいえ、お嬢さんこそ、お休みになって頂きますわ」  |紅苑《ヘンヌン》が、|冬瀧《トンルン》の言葉を遮るようにして、云う。 「今度の、航海はまったく用無しで御座いましたもの。一晩 や、二晩の徹夜などなんでも御座いませんわ」  しかし冬瀧は、この部屋を出ようとはしなかった。関は、 七九郎の寝顔をじっと覗きこんでいたが、 「まだ、脈も速いし、呼吸も尋常でない。だが、こうなれ ば、もう締めたもんでしょう」  しかしそのとき、眼を瞑りながらも七九郎は、醒めてい た。忍従の日々、蔭のそしりを耐えつづけていたものも、今 日というこの日があるためであった、  あのとき|蒙飽《モンパク》の部屋にひき入れられるまえ、かれは石積の 部屋にはいったのである。そこでその夜、蒙飽がつかう針を みつけた。それにかれは、磁石を触れた。なぜなら、磁石を うけた針は北をむくからで……。当然、|峻湾《スンウン》の真北、察涌に ……次回の取引地が決められねばならぬ。  この日、この日。ただ蒙飽ほか英人どもの、泣き面をみな かっただけが心残りであったが……、それとて、多分英船と ともに爆砕したであろう。と、久方ぶりの快心の微笑が、七 九郎の頬に揺ぎあがってくるのだった。  とそのとき、さっきから|半覚《ヲフク》の間にもほんのりと感じてい た、右掌の|媛《ぬく》もりがきゅうに強くなってきた。ちょっと、細 目をあけてみると、冬瀧がいる。豹が猫にー。しかし、か れはその手を任したまま、うつらうつらと睡りはじめた。  その、十日後。船は総帆を展じ広東へと走っていた。空に は、亜熱帯の春の光がいっぱいに拡がっていて、鴎が、小魚 をあさって群がるうつくしい朝だった。しかし彼は、やがて 迫るだろう戦雲を感じている。 (|故国《くに》の、泰平無事に飽きて大陸へきた、おれだ。そこへ、 戦えそうになったところへ、いかん者がくっついてきた。女 なんて……うるさいばかりで、海人には向かん)  そこへ、人形のような顔の腰元の|紅苑《ヘンヌン》が、もじもじと身を くねらせて来たが、 「あのう、さっき私、お部屋へ参りましたのよ」 「いなかったでしょう。きょうから儂は、ズウッと勤務です からね」 「そのとき、じつは、お机にある花瓶を割ってしまいました の。ただ、二つに|簿《ひぴ》いたのでくっ附けて置きましたけど、あ のなかを……お帰りになりましたら、ちょっと御覧あそばし て……」 「|内部《なか》……ロ じゃ、なにかありますね」 「いいえ、なんでもないんですけど……ちょっと」 |紅苑《ヘンヌン》は、そのまま、バタバタと駈け出していってしまっ た。七九郎の眼には、なまめかしい紅書きの文字がうかんで くる。 「エーイ、また女かロ」