倶利伽羅信号 小栗虫太郎     一、|暹羅姉妹《シヤムきようだい》の|笥《はこ》  まるでヴォードヴィルの背景でも見るような、サーカスの町廻りが昭和通りを練ってゆく。  |金管隊《プラス バンド》の次に、|曲鞠《きよくまり》の道化師、続くいかめしい肋骨服の一隊は、猿をちょこなんと乗せた|外 題旗《げだいぱた》の行進である。|女曲馬師《エクエストリアンヌ》の足が、サッとあがる。象の糞にどよめき笑う群集1。陽と色 が、砂塵に溶け合い閃めき交して、それは流れる虹を見るような壮観であった。  不破のサーカス  。  ハーゲンベックやリングリングほどの広大な規模はないけれども、百輌の専用貨車を持つと云 えば、相当のガーデン・ショウである。      しん        ラ マ       シ、ング几れん  ところが殿がりに、酪馬や縞馬の密林連が姿を現わしたとき  。  どっと歩道から盗れた、人波のあとに、ひとりみすぼらしい|服装《なり》の娘が、しょんぼりと取り残 されていた。  十月も間近だというのに、焼けた麦|桿《わら》帽子をかぶり、よれよれのス力iト、靴の|踵《かかと》も半分ほど 曲っている。 (畜生、野枝のお腹がよけい減っちまうじゃないか。眩しくって、色が眼にしみて、頭がクラク ラっとなる……)  さっきから野枝は、|物瀬《ものう》い、疲れたような様子で人の|往来《ゆきき》を眺めていた。数えれば、ちょうど 一日半、彼女は何も口にしないのであった。しかし、この時世に、十七の娘の腹が|空《からから》々だという ことは、まったくどう考えてもあり得べからざる話である。しかも野枝は人一倍美しく、見た男 の首を、釘付けしてしまうような魅力があった。  小柄で肉付きがよく、いつもときめいているように、ふっくらとした頬。それに、|號珀《こはぐ》色の肌、 少し上向いた鼻は、どう見ても日本的ではない。|異国的《エキゾチツフ》な、硬いながらも頽廃的な感じのする 1野枝はそういう娘なのであった。  さて、ここで作者は、野枝の過去にわだかまる、暗い秘密を語らねばならない。  野枝の母は、神戸の元町裏にいた外人相手の淫売婦、父は、一夜の|寄港《とまり》で去った、サモア土人 の水夫であった。  そうして、サモアの血をうけ、母の紅い|閨《ねや》に育った野枝は、十四で母に別れ、それからは「|小 水兵《プチ マラン》しという酒場で働いていた。  そこでは、デデと呼ばれて、ことにフランス船員仲間の人気者だったのである。ところが、そ うして二年ほど過ぎた十六の夏に、野枝を、悲惨な放浪に突き入れた、怖ろしい出来事が起った。  それは、雨の降る八月の晩のことで、店を閉めた野枝が、足を引き摺り部屋のまえに立ったと きであった。  どうしたことか、扉があいて、外へ灯りが流れ出ている。他の女は、みな船に行っていて、誰 もいる気遣はないーと思うと、野枝は|疎《すく》むような恐怖に駆られてきた。いまも気のせいか、階 段の中途で|畳音《あしおと》のようなものを聴いたのであったが……。 (誰かしら……きっと誰かがいるにちがいないわ。)  小柄な野枝が|鞠《まり》のようにされて、男の膝から膝へと投げ渡されるところは、どこか色気を離れ た|玩具《ジユさジユき》のようであった。けれども、そういう野枝にさえも、幾度かこれまで貞操の危機が訪れ たのである。  野枝は、胸を轟かせて、そっと覗き込んだ。しかし部屋の中には、誰もいなかったのである。  暗い、汚れた下着などが一ぱいに取り散らされていて、いつもしめった|梱《こり》の匂がする女給部屋 に過ぎなかった。  時計が二時を打ち、犬が、街灯の下を駆け抜けて、向うの小路に消えた。そうして心の乱れが、 夜の静けさとともにだんだんに収まっていった。 (でも、よかったわ、あの大坊主でなくって……。「フォン・モルトケ」の|事務長《ハきびコ》のやつ、|淫《いや》ら しいったってなかったんだから……)  ところが、次の瞬間、ふと首筋を撫でる、男の|呼吸《いき》を感じた。ハッと思って、|背後《うしろ》を振り向こ うとしたとき……。野枝は、怖ろしい力に抱きすくめられて、それなり意識を失ってしまった。 そうして、気が付いたのが翌日の午後-ー-しかも日暮に近く、|奇異《ふしぎ》な場所であった。  ちょうど、醒め際の|霜《もや》が薄れてゆくように、はじめ瞳に映ったのは、林のような|橋《ほぱしら》であった。 野枝は、まだまだ自分が夢のなかにいるのかと思ったが、やがてはっきりと、そこが|上屋《うわや》を外れ た岸壁であるのに気が付いた。はや、怖ろしいあの一夜は明け、その日もまさに暮れかかろうと しているのだ。 (|昨夜《ゆうべ》、あれから、どうなったんだろう" きっと何かされて、ここへ運ばれたんだろうけども ……。ああ私、もう娘じゃないんだわ。)  野枝は、自分のどこもかもが、汚らわしいように感じられた。不覚な一夜、とうとう去ってし まった処女  そうして、女になったと知ったときの哀愁に、しぱらくは髪を乱し、眠ったよう に突っ立っていたのである。  けれども、だんだん落ち着いてくると、もしも自分が処女を失ったとすれば、当然覚えねばな らぬ、徴候がないのに気がついた。そして、意外にも、まだ彼女が娘であるのを知ったのである。 (さあ、これでますます、分らなくなってしまったわ。私の|身体《からだ》に、|疵《きず》一つないのだとすると、 |昨夜《ゆろべ》はなぜ、眠らせてまでここへ連れて来たんだろう。)  と、いよいよ|募《つの》る疑惑に思い惑っているうちに、ふと左の手首に、チクリと痛みを感じた。見 ると白い皮膚を這いずる、|蛆矧《みみず》のような血の縞、剥ぎ落すと、下から蒼い異様な|文字《もんじ》が現われた。 野枝はいつの間にか、左の手首にdの|字《デイ》の|刺青《いれずみ》をされていたのである。 (い、刺青をされてしまった……。それも、私の、デデという仇名の、頭文字をとって……。誰 がいったいなんの目的で、私に刺青なんかしたんだろうか。)  d、デデの|頭《テイ》文字をとったd……。それを見詰めているうちに、野枝は悪夢のなかを|彷律《さまよ》うよ うな気がしてきた。 (誰だろう、|悪戯《わるさ》にしちゃ、あんまりあくど過ぎる。自分を魔睡させて、ここへ連れて来たにも かかわらず、どうしたことか、肝腎なものは奪われていない。ただただ手首に、こんな刺青だけ を残して……)  するとそれには、なにか深い深い、秘密があるように思われてきた。しかし、ともかく「|小水 兵《プヰ マラン》」に帰ることにして、|鹸気《しおけ》の濃い、風を浴びながら岸壁を歩きはじめた。と、間もなく一、二 町行くうちに、|昨夜《ゆうべ》自分を中心に何事が起ったか知ることが出来た。  上屋の事務所の窓際に、一人が拡げている、夕刊が眼にとまったのである。それには「ヴァン ダーヴォルト号」の怪事ーという|大標題《おおみだし》で……。  今暁五時出港の、|和蘭《オラノダ》貨物船「ヴァンダーヴォルト号」の船長は、|解績《かいらん》後水上署に向って、次 のように打電して来た。 ー1今暁出港後に、船内を点検したところ、火夫室から左舷の|船首《みよし》際までに、点々と続く血痕 のあるのを発見した。しかし、船員には一人の異状もなく、恐らく停舶中に外部の何者かが殺さ れたのではないかと考えられる。  更に、もう一つ奇怪なことには、昨夜半、水夫の一人が、洗面器で指を拭っている、女の手を 見たと云う。それには、左の手首に、はっきりdの字の|刺青《いれずみ》があり、しかもその女の姿を、再び 見ることは出来なかった。事実、洗面器には、薄く血痕が附着しているのだからその女が加害者 で、兇行後、|屍体《したい》を海に投じ逃れ去ったことは明らかである。至急、投錨地附近の海底を捜査さ れたし。 野枝は、読み終ると慌てて顔を引いたが、 まさに彼女の人生は、これで終ったのだと思った。 足もとの土が、パックと割れて、自分は涯しない地底に|堕《お》ちこんでゆくのか--:。 (dの字の刺青……。それが、私でなくて誰だろうか。夢中の犯罪……。夢幻のうちに、白分を 護ろうとして、きっと誰かを殺したにちがいない。)  すると、野枝の頭のなかを、小説や話で聴いた夢中遊行や、すぐに記憶を失うという怖ろしい 衝撃のことが|泥《うか》んできた。しかし、それなり野枝の姿は、神戸の街から、かき消えたように見え なくなってしまった。  dの刺青を、腕時計で隠して、その一年後に、野枝は東京に現われた。しかし、湯に入るとき も、野枝はその時計をとることは出来なかった。  そんなわけで、怪しまれては|逐《お》われ、逐われているうちに、野枝はとうとう青空を屋根とする ようになった。  天涯孤独の、放浪児野枝-ー1目由な、束縛のない、もしも飢えがなく、刺青が消えてしまえば、 これこそ人の世の渡り鳥の楽園である。  その夜野枝は、空の胃袋を抱えて、出雲町裏に現われた。あるゆるものが、意地悪い形となっ て、野枝の食慾を刺戟する。肥った紳士は|腸詰《ソさえて  もン》に、いまも、それとそっくりな男が、飾窓の向 うで|冷肉汁《ウイオン》を|畷《すす》っている。|生唾《なまつばき》にも、もう味とするものがなくなってしまった。ただ、上にの っている頭だけが重く、振ると、がらんとした空虚を、全身に感ずるのだった。 (そう、いつか読んだ、フランシス・カルコの小説に、ちょうどそっくりな個所があったわ。故 |郷《に》を飛び出した、あたしみたいな|小娘《ねんね》が、|自働食堂《しストラン オきトマチツァ》で、|他人《ひと》の皿ばかり見詰めている。そこ へ、|女街《ぜげん》に見込まれて、お定まりの|倫落《りんらく》検束、そうした末が、公娼の鑑札なの。私だって、いま にそうならないとも限らないわ。)  すると、幼いころに見た、母の生活が憶い出されてくる。夜ごとにちがう男、母の矯声、なか には、眼を醒ます野枝に、醜怪な興味をもって通う男がいた。  が、それを、飢えを前にして、責むべきであろうか。と、ようやく母の道が、いまは一つの、 活路となっているのに気が付いた。 (袖を引く……。でも、なんでも|自由《リヘルテ》だけはあるものねえ。いったい、なんて云うんだろう。い いえ、きっと男の方で、なんとか云いだすかも知れないわ。『少し、散歩しませんか』Iiらて、 そうしたら、なんて云ったらいいんだろう。『ええ、およろしかったら』  じゃいけないのか しら。)  ついに野枝は、輝く燈火、溢れてくる飢えの力に抵抗が出来なくなってしまった。|瀬惰《らんだ》なサモ ア、野枝の身内を流れるサモア土人の血に、むしろ火を慕う蛾のような|冗奮《こうふん》を覚えてきた。する と、いきなり前にたちはだかった、巨きな二つの影法師があった。 「オヤ娘さん、あなた、一人ぼっちで、退屈ではありませんか。わたくしたち二人は、女の方に、 大変悦ばれますです。日本の娘さんたち、たいていは、笑って悦んでお|交際《つきあい》してくれます。金、 金を、出すもよろしいよ」  |真紅《まつか》な、|房玉《クンポン》のついた、小粋なフランス水兵1-それも、|枯韮《かれにら》の体臭を持つと云われる、アル ジェリアの徴募兵である。 「ええ、でも……でも……ええ、いいわ」  野枝は|榎《か》れたような声でーi|咽喉《のど》がかわき、心臓が締めつけられるような感じだった。すると、 連れの酔いしれた一人が、泳ぐように、野枝の腕をグイと握った。 「どれ、娘さん、時計を見せてくんなよ。どうも、よく分らねえんで。十時十分なんだか、二時 十分なんだか、ホオレ、引っこめるこたあねえよ」  と、引きよせた|機《はず》みに、野枝の腕時計が二、三|分《ぶ》ほど滑った。 「アッ」  声は小さかったが、野枝は|渾身《こんしん》の力で振りもぎった。そして飢えを忘れて、暗い裏通りを足早 やに駈け抜けてしまったのである。  しかし、胸を撫でおろすと、総身を揉みほごすような、疲れが襲いかかってきた。もう一歩も 動けず、明るい通りを前に、ぐったりと立ち|疎《すく》んでしまった。  すると、背後から、低い、地でないような、男の声がかかった……。 「お嬢さんあなたを|縦《つ》けるのに、だいぶ骨を折りましたよ。ちょこちょこ、足が大変お早いです ね」  野枝は息をのんで、突如現われた男を、まじまじと観察しはじめた。どうやら、いま|曝《ヘフら》け出さ れようとした、秘密を追うものでもないらしい。  少なくとも、この男は警察関係ではない  そう思うと、一度は逸しまた現われた機会を、今 度こそは取り逃してはならぬと考えた。  飢えに追われて、小ちゃなこの|街《ストリコト》の|天使《 エンジエル》は、だんだん|源氏名《ノム ド フエット》でも欲しげな度胸になってゆ く。 「でも、私、小さいんですもの。ですから、遅く歩いていても、|他人《ひと》さまには、そう見えるのか も知れませんわ」  それは、考えてあらかじめ用意しておいた、野枝にとれば、取っておきの|矯語《ことぱ》であった。それ から二人は、睦まじげに肩を並べて、|空《す》いている「モナミ」の|扉《トァ》を押した。しかしそこで、野枝 は相手の男を、しげしげと見ることが出来たのである。  四十に近く、甲羅のような顎を持っていて、肩や腰は隆々たる肉塊だった。ただ、細い眼が陰 険そうに光るのだけが、野枝に暗い感じを与えたのである。ところが二人の前に、鶏の冷肉が運 ばれると、男の|笑《えみ》がスウッと消えて云いだした。 「お嬢さん、|貴女《あなた》に折り入ってお願いがあるのです。どうでしょうか。僕に、あなたのその時計 を、売ってはいただけんでしょうか」 「マア、この時計を……」  ほとんど、本能的に、野枝は、フォークを持った手を、ハッと引き込めた。そして、相手の心 を推し測るように、肉と顔を等分に見比べはじめた。 「そりゃ、売ってもいいんだけど……。だけど、そんなことは、後でも宜しいんじゃありません ?ー品L 「いや、いまここで、頂戴したいんです。その代り、と云っては失礼ですが、貴女の今後をお引 き受けしてもかまいません」  身柄を引きうける。その意味は  と、野枝の眼が、はげしく瞬かれだした。  顔をうっすらと覆う、好色の影。が、野枝は、もしやして、その仮面が取り外された際のこと も、考えねばならなかった。やはりこの男は、「ヴァンダーヴォルト」号の女Idの|刺青《デイいれずみ》のある、 自分をたずねているのではないか。  そうすれば、間もなく男の手が、自分の肩にかかるだろう。女囚、栃木刑務所  と、頭が数 雑多な、忌わしい考えで充されてゆく。  しかし、眼の前にある冷肉の香りは、そうした怖れもなにも、忘れさせてしまう力があった。 ままよ、どうにでもなれ1運命を」瞬の間に賭けて、野枝はきっと相手を見上げた。 「では、お譲りすることにしますわ。だけど、それでいったい、いかほど頂けるんでしょうか」  男は、ちらっと冷笑のようなものを浮べたが、黙って、札入れから四、五枚の端を覗かせた。 あああれだけが、クロームのこんな安時計に  と思うと、男の目的がようやく分ったような気 がした。野枝の額からは、じくりと滲みでる、冷たい汗が滴り落ちた。 「有難う。いや、僕が外します。お手数はかけませんよ」  男の|掌《て》が、野枝の手首にかかって、ぐいと引きよせられた。が、野枝にはもう、不安も恐怖も なかった。ただ、からだ一つを張る大賭博の快感に……、出る|般子《さい》の目の緊張に酔わされてしま うのだった。  やがて、帯革がとられ、|硝子《ガラス》蓋が、軽い響きを立てて卓上に落ちた。が、その瞬間、一時に男 の顔が白ちゃけたように見えた。 「フム、そうだったか、やはり……」  実に、その時計の下には、当然あるべきはずの刺青がなかったのである。と、男は、余憤を投 げつけるように通りすがった給士を呼び止めた。 「き、君、これを下げてくれたまえ」  そうして野枝は、またも肌寒い、鋪道を|彷裡《さまよ》い歩くことになった。冷肉の残像をしっくと抱き しめて……われとわが心の、臆病さを罵りながら……。 (野枝の意気地なし、|怯《びくびく》々して、塗り隠してなんかいるものだから、今も思いきって、ぶつから ずに済んでしまったじゃないの。人間の一寸先なんて、まったく闇だもの。あれで、危難を免れ たかも知れないけれど、ことによったら、思いもよらぬ幸運を掴み損ったのかも知れないわ。い まの男に、もう一度会ってみたい。だって、どう考えても得体が分らないんだもん。私をヴァン ダーヴォルト号の女と知って、あの刺青を証拠にしたいのか。それとも、他に……。またもし、 刺青ではなく、時計が目当てだとしたら……)  いまの男の|解《げ》し難い行動に、はじめて野枝は時計に気がついた。それは、エルジンの一八六、 〇二一号で、ただ|龍頭《りゆうず》の|印度人頭《インデずアン》形だけがちがっていた。が、野枝は、いつまでも注意を、時計 にばかり傾むけてはいられなかった。  いつか知らぬ間に、|采女《うねめ》橋を渡っていて、初日を明日に控えた「築地|大円戯場《ヒツポさロきム》」のまえに出た からである。不破のサーカスは、まえの空地に|小屋掛《サイ  ンヨウ》けをもち出して、明日からはじまる、|奇夢《ナイト 》 |一千一夜《グラン キャラ》を煽り立てていた。  金で縁取りをして、大きく紅く「|珍物《キユ りてシテイ》」とある台のうえに、一寸法師や|髭女《ビア ト しアイ》や、カウ・ ボーイ姿の|大男《コライアス》が並んでいて、道化は、風船や|指操人形《ギニョ ル》でドッと|観衆《きやく》を湧かせている。  おまけに、大円戯場のなかでは、その夜、最後の|総稽古《リハきハル》が行われていた。・馬蹄の響、|鰍髄《トフビニス》の 捻り、女|自転車乗《サイクリスト》りの危なげな影。これなるは、|縞馬馴《ゼフラ トレ 》らし、ビアンカ|嬢《ナミマトモアゼル ビアンカ》と隙間洩れる|演芸司 会《リンフ マヌウさ 》の声も、その夜は素晴らしい前景気であった。ところがふと、野枝の眼を釘付けにした、大ポ スターがあった。   消える暹羅姉妹《シヤムさようだい》 世界的大畸形見なる大曾根姉妹が、一瞬の間に消え失せる幻妙の長持。 その仕掛を説き明した方には、金壷百圓也を贈呈す。  いわゆる双体畸形-上王れながらに、|磐《しり》と殿円が結合している大曽根|姉妹《きようだい》は、このサ!カスの     ノヤム                                        あば 人気者、暹羅姉妹なのであった。その二人をかき消してしまう長持の秘密を、曝き出した者は、 百円の賞金を獲るのである。 「これで、やっと助かった。ほんとうに、空の胃袋も今夜かぎりだわ。たとえ、どんな仕掛だろ うが、|直接《じか》にその長持を調べたら、きっと分ると思うわ。ようし今夜|大円戯場《ヒツポらロ ム》に忍び込んで ....」  やがて夜|更《ふ》けになって、|大円戯場《ヒツポトロニム》の|光量《かさ》が一つ一つに消えゆく頃……野枝は締りのない楽屋口 から、そっと忍び込んだのである。  がらんとした楽屋や、ひっそりとした廊下にはなんの気配もなかった。野枝は、この静けさに 落ち着いて、ゆっくり|呼吸《いき》をしながら、道具置場を探していった。と、前方に、薄暗い光がサッ と流れたかと思うと、|灰《ほん》のり影だけの男女が、スウッと出ては消えてしまった。そこが、野枝の 目指す道具置場らしいのである。  果してなかには、大きな|西洋長持《キヤビネツト》が綱束の間に置かれてあった。しかし、その深さは一人だけ のもので、とうてい|暹羅《シヤム》姉妹という、二人を入れるものではなかった。  が、ともかく、野枝は開けてみることにした。  ところが、蓋に手をかけ、そうっと|擾《もた》げたとき、野枝はなにか巨きな手に、ぎゅっと掴まれた ような気がした。 「あっ、|屍体《したい》だ! 殺された……娘の屍体」  |機《はず》みに、氷のような頬に触れ、ハッと手を離すと、右手の|燐寸《マツヰ》が、血溜りに落ちてジュウと消 えた。と、闇に|活《うか》ぶ、怖ろしげな顔、臨終の苦しみ……怨み深げに|陣《みは》った、その娘の眼に、野枝 は、このサーカスの秘密に触れたような気がした。  しかし彼女は、ぞくぞくと身にしむ恐怖に|居耐《いたたま》らなくなって、扉を蹴立て、闇のなかを夢中に 走りはじめたのであった。  すると、やがて|戸外《そと》であろうか、ひやりと頬に触れる風があったかと思うと、いきなり柵のよ うなものに|蹟《つまず》いて、身体が宙に流れた。  し、しまった、|河岸《かし》の柵だ。  しかし、野枝の指が、石崖の端に触れて、からくも彼女は墜落を免れたのである。  下は、満潮の水か、それとも、背も立たぬ|河底《かてい》の泥か  。しかし、指の力はしだいに失せて ゆき、野枝は自分の穴を眺めている、屠獣のような気がした。 「助けてえ……」 「ええ、やかましい!」  突然うえの方で、ギスギスした老婆らしい声がした。 「図太てえ|女《あま》だ。助けてえもねえもんだ。なんと思って、ここへ入って来やがったんだ。殊勝ら しく、掴まってなんかいやがって。ええ、離さねえか、この手を離さねえかったら……」  と、やにわに、野枝の指を、踵で|踊《にじ》りはじめた。  一本一本、失せてゆく力に、喘ぎを感じたけれど叫び声も出ない。私が悪かった、見てはなら ぬものを見たからだー。  そうしてー。  やがて野枝は、もう一瞬の間も支えることが出来なくなってしまった。指が離れて…:・ヒイッ と尾を引いて……暗い河底でドブンと水音がした。     二、|児雷也《じらいや》三人兄弟  水面で、自分の身体が飛沫をあげたとき、野枝は我武者羅にもがきはじめた。 「助けてえ、助けてえ」 「ええ、強情な|女《あま》だ。まだ、怒鳴ってやがるな。オイ立たねえかよ、助けるもなにもねえ、立っ て見るんだよ」  と云われた瞬間、野枝の足が固い底に触れ、ハッと思ったとき身体が胸際まで水を抜いて立つ ことが出来た。  なんという不思議か……、水は泥水ではない。  泉のように冷たく、清々しい香りがする。 「ざまア、見やがれ、慌てて感ちがいなんぞしやがって、|本水《ほんみず》に、助けてえもねえもんだ。これ はね、今度の|大切《おおぎり》に|演《や》る『|水《ワツサさ》の|音楽《 ムシイァ》』さ。|円戯場《エリ ナ》に水を入れて、そのなかで動物を踊らせるん だ。その稽古を勘違いしやがって。サア上がれったら……」  老婆は腕を伸ばし、野枝をぐいと引き上げたが、ふと|掌甲《こう》にある|擦《かす》り傷が眼にとまったらしい。 「ええお前さん、抜け駈けをしようとしたんだね。百円欲しくて、長持を探って、あの|弾条《ぱね》で挾 まれたんだね」  野枝は、ホッと一息ついた。この老婆は、彼女が屍体を見たことを、いっこうに知らぬらしい のであった。  と、その時背後から拍車の響が近づいてきた。 「オイ婆さん、どうしたってんだい。ホウ、君はさっきの:-:」  その声にぎょっと振り向くと、そこには、さっき別れたばかりの、あの男が突っ立っていた。  しかし、眼は、野枝の手首にじっと据えられている。時計は摺れ、水で剥げて、今こそdの|刺 青《マイいれずみ》がくっきりと涯び上っているのだ。  野枝は、唇を噛んでじっと観念したが、さっきの屍体といい、この刺青といい、なにかサーカ スの灯の蔭に、異常な秘密があるのではないかと考えられた。 「ねえ、今夜はこのまま寝かせて下さいな。もう帰る元気が、私にはありませんもの」 「そうだ、どうせ帰れやしないよ。お前には、どうしたって帰れねえ|理由《わけ》があるんだ。サアこっ ちへ来るがいい」  それから、真紅㎜纐っ概を踏んで町戯堺を出、三人は奥まった一室に入っていった。そこで、 はじめて変った|服装《なり》の、その男を眺めることが出来た。 纏蛙燕尾服・手に鞭を持ち・長靴をつけてi-その男は慰諦ぎったのである。しかし 野枝は、鍵の音とともに、また怖ろしさが蘇ってきた。 「お前さん私を、|拐《かどわ》かす気かい。私、だって、何もしやしないんだよ、帰しておくれってば、ね え帰しておくれ」 「へん」  老婆は、黄色い力サカサの皮膚を、引っつらせて|嘘《わら》った。 「冗談じゃないよ。サーカスといえば、|拐《かどわ》かしとばかり思ってやがる。ですが旦那、こいつは例 の一件なんでしょう」 「そうだ。それでお嬢さん、一つお前さんに裸になってもらいたいんだ」 「エッ、裸に……じゃ、なに旧品品ここはお女郎屋なの」  と野枝の声がいきなり高まると、男は、眼に手にサッと鞭を走らせた。野枝はそれを見て、思 わず凍りついたように硬くなってしまった。 (この男は、私の過去も、いまあの屍体を見たこともきっと知っているにちがいないわ。もう、 逆らえない。だけど、着物を脱がして、いったい何をする気だろう。)  そこへ、ボリボリ膝をかきながら、老婆が|萸《たばこ》臭い|呼吸《いき》を寄せた。 「ねえ娘さん。お前さんの|服装《なり》を見たって、誰がズブの堅気と思うもんかね。どうだい、一番度 胸を据えてしゃんとなりゃ、旦那だって何もなさりゃあしないからね」  野枝は顎を埋めて、ただ|点頭《うなず》いてばかりいた。水にペタリとついて、裸像を型取る線も、彼女 は|解《ほぐ》そうともしない。男の顔にサッと血の気がさし、野枝は眼を伏せ、ふるえる手で背のホック を探しはじめた。  両腕を曲げ、|咽喉《のど》の廻りで組みズルリと上衣をとると、その手は、間もなくスカートの紐を解 いて、両脚のあいだに落した。すると、われにもなく野枝は、前方の鏡に獣のような|呼吸《いき》を吐き はじめた。肌着に透く腿の円味、足をすぼめて、前屈みになっても、濡れた形を隠し覆う術もな かった。そうして彼女は、男のまえで      である。  その間も絶えず男が、乾いた|咽喉《のど》をうるおす、生唾の音を聴いていた。そして眼が、生毛の深 い牝鹿のような腿に、またくびれた、悩ましい隆起に注がれているのを見ると、もう不安も危険 も忘れて、ただただ火遊びの香気に止めどなく酔いしれてゆくのだった。が、そうしているうち に、野枝はハソと、息詰まるようなものを感じた。背筋から腰にかけて、      異様な感 覚をおぽえたのである。  ペタリと|轡《しり》に、肌のようなものが触れたかと思うと、その豊かな肉団は、みるみる四つの小丘 となって|擦《こす》り合った。 「アッ」  野枝は、思わぬ|差《はじら》いに飛び退こうとしたが、途端に腰は、一筋の冷えを覚えて、そのまま動け なくなってしまった。錠の音が聴え、|鉄簸《てったが》の冷えが、背筋を這って脳天にまで滲みとおってゆく。 「ハハハハ、どうだ動いてみろ、動けるか、歩けるか」  悪魔の|洞《ほら》を開け放したような、男のさんざ|嘘《わら》いが聴えた。しかし、歩きだそうとして、身体を 前に運ぶと、奇怪なことに、背後にはまた|斜《はす》にゆく力があって、野枝は重心を失い|槍眼《よろめ》きはじめ たのであった。誰か一人、背と背を貼りつけられて、背後にいる者がある。  それも、磐と殿円、腰にはしっかと鉄の|簸《たが》が食い入っていて|腕《もが》けば足のもつれに槍腺くばかりで あった。  |卓子《テコフル》、マッチ、羽目の|浸染《しみ》iと、部屋が二人のぐるりを、駆けめぐりながら、|喧《わら》い過ぎてゆ く。 「ああ|暹羅姉妹《シヤムきようだい》だ。しかも、その悲しい模造なんだ」  野枝はやっと、この光景が何事であるか、覚ることができた。斜めになると、鏡に背後の横顔 が、ちらっと見えるけれども、すぐに角度が迫って消えてしまうのであった。それに男は、手を 叩いて、面白そうに笑いはじめた。 「ソレ、くるくる、|寄量《 フズル ダ》♂9|号《ズル》。気は早えや、二人とも練習かね。魔法の長持へ入る、|廻転木《 フスル ダズ》 馬をやる。最初はマア、それだけのもんだが」  やがて、疲れて、二人は床のうえにぐたりと|蹄《しやが》み込んでしまった。明日からは、この模造の崎 形を、|円戯場《エリき ナ》の中央で曝さねばならぬ。  畸形中の畸形、暹羅姉妹となって、恥ずべき肉体の異変を観衆のまえで曝露するのだ。と、一 つの夢からまた新しい夢へ移ったように野枝は運命の不思議な手に唖然としてしまった。 「どうだね二人、これであらましは、察しがついたろう。実は|昨夜《ゆうベ》、|暹羅公《シヤムこう》の大曽根姉妹が死ん じまったんだ。それを、俺とこの婆さんのほかは、誰も知らねえってわけだが、そうなるとこっ そり暹羅の後釜を|持《こしら》えておかなきゃあならねえ。だって、そうじゃねえか。あの二人がいなかっ た日にゃ、ヴァリエテの常プロだけじゃ、とうてい人気は呼べねえ。そこで、お|前《めえ》たち二人に、 暹羅の贋物になって、もれえてえというわけだ。なアに、雑作はねえ、つるんでりゃ、それです む暹羅だ。それに、なんぞといや、メソつきやがって、オイ怨めしいのか。怨むなら、俺でなし に、|面《つら》を怨めし  似たが因果  とそう云われて、気がついたように壁の上方へ眼をやると、そこには、ミリー とクリスチナのキャロライナ|姉妹《ンスタ 》や、シャン・エンの暹羅兄弟など先輩諸氏のあいだに、大曽根 操・滝子姉妹の宣伝写真が掲っている。  な中には、         いかがわしい、それなともあったが、 (マア、なんてよく、似ているんだろうね。妹の滝子は、私とそっくりなんだし.-:・。してみり ゃ、いま背後にいるこの女の顔は、姉の操に、生き写しなのかしら……)  と野枝は、悲しいのも忘れて、ただただ不思議な相似を唖然と見つくしていた。 「ハハハハ、だいぶ落着いたようだな。これからは、みっしり姉妹代りに働いてもらわなきゃな らねえ。なアにものは考えようさ。因果ものでも、|大夫《たゆう》となりゃ、|収入《みいり》だって満更でもねえから ね」  |演芸司会《リンア マスアき》の男は、なおもズケズケと、冷たい口調を続ける。 「それから、一つ断わっておきてえんだが、実は俺に弟が二人いるんだ。ところが、因果なこと に、あの姉妹とは満更でもなかったんで、上の祥次郎の奴は妹の滝子と、下の|山《さん》三郎は姉の操に という、マアそういった逆つるみなんだ。だからよ、お前たち二人に、惚れた|腫《は》れたのほうの、 引き継ぎもしてもらわなきゃあならない。いいか、奴等はいい加減にあしらっておくんだぞ、む ろんそりゃ如才もあるめえけれど、聴かれたら、|咽喉《のど》でも|嗅《か》れたとか云って、大曽根姉妹になり すましていてもれえてえんだ」  が、そのしたから、男の口が|淫《いや》らしさに濡れてきて、 「ところで、こっちの、なんと云ったな、野枝か。いずれお前だけは、俺が厭だなんて、云わせ ねえようにしてしまうからな。どれ? こう|緊《しま》ってちゃ、叩きア……火も出るぜ」  と    這いずるような男の指を、野枝は、なにか病菌のついたもので撫で廻されるような 気がした。  しかし男は、最後に、釘を刺すような語気で、 「ではいいか、忘れね工ようにな、それに、ここは|娑婆《しやば》じゃねえんだから、|乙《おつ》な量見をちょっと でも出してみなよ。それこそ、悔むも追っつくもねえ、どえれえことになるぜ。くれぐれも云っ とくが、せっかくの身体だ、粗末に扱うんじゃねえよ」  野枝はそれを聴くと、眼先が急に暗くなったような気がした。  なぜなら、さっき見た娘の屍体は明白に一人で、それが暹羅姉妹という二人ではなかったから である。 (ことによったら、真の大曽根姉妹はとうの昔に死んでいるのじゃないかしら。そして、今まで も何人|偽《にせ》暹羅姉妹が作られていたのかも知れないわ。でも、その人たちは、いったいどうなって しまったのだろう。)  と、考えるにつれて暗い想像が、さっき見た娘の屍体のうえに、落ちてゆくのだった。  あの娘も、やはりそうではないか。この境遇にいたたまらず、逃げ出そうとして、いま云われ たように、口を鎖じられてしまったのであろう。  駄目だ。  脱走などはとうてい思いもよらぬ。  それにこの男は、自分の過去を、必ず知っているにちがいないのだ。  と、やがて野枝の顔に、泣きひっ|痙《つ》れてゆく、|断念《あきらめ》の色が|泣《うか》び出てきた。  そうして、はじめの一夜が過ぎ、いよいよ、模造|暹羅姉妹《シヤムきようだい》の生活を、初日とともに踏み出す ことになった。しかし、朝になると気も落着いてきて、野枝はいろいろなことを知ることが出来 た。  最初大曽根姉妹が、姉の操の|面庁《めんちよう》で、入院していたということである。  それで、手術の|痕《あと》を作ったりして暁方までかかったが、それから、姉妹の特徴を教えられた。 尿道が二つ、腸は二つあるが、一本の肛門に終っている。そんなわけで、尿意以外の自然の欲求 は、みな同時に感ぜられねばならなかった。  しかし、何より困ったのは、歩行であった。  蟹式の横歩きも、二人の意志が合わなければ運動を起せないので、その調節がなかなか困難だ った。  けれども、そうして|槍眼《よろめ》くたびに、|背後《うしろ》の横顔だけが、ちらりと見えるのである。終いには、 互いに話しあって、二人とも、相手の顔を見たいと鏡などを並ベ合った。しかし、背中合せの不 自由さは、もう少しという手前で|頸《くぴ》の廻転が極限にまで詰ってしまう。  で、結局野枝は、背後の娘の横顔しか、覗けないのであった。  その娘は、辰代と云って、のっぺらとした、|艶《つや》のない女である。清水港で、|半玉《はんぎよく》をしたと云 っているが、浮世の荒波に、早くから揉み抜かれたこの娘は、どこにも青春という感じがなかっ た。|年齢《とし》の割りには、恐ろしく老成しているといった、それでいて、|狡《ずる》さが微塵もない。考える と、苦労話の感傷だけに、生きているような娘だった。  それから、|昨夜《ゆうベ》の|演芸司会《リング マスク 》が、このサーカスの持主、|不破伴太郎《ふわぱんたろう》であるのを知った。しかも彼 には、|円戯場《エリ ナ》を離れた、空中の生活もあったのである。  それが、このサーカスの華、|児雷也《じらいや》三人兄弟ー  背には、朱と|紺青《こんじよう》の波打つ児雷也の|文身《いれずみ》があって、妙高|山葛《かつら》の吊橋、三すくみの挑み合い。 つまり、兄の伴太郎には|大蛇丸《おろちまる》、なかの祥次郎は|墓《がま》の児雷也、それに、弟の|山《さん》三郎は|蜻蛾《なめくじ》の|綱手《つなで》 と闇の吊橋で挑み合う三人立てが、それぞれ三人の背に、一つ一つ彫り分けられてあった。  |空《フライ》を|飛《ンブ ウ》ぶ|錦絵《キヨエ》  |栄之《えいし》の紺、豊国の朱泥が、|鰍懐《ブランコ》に、綱渡りに、ことに驚くべきは、鉄輪を使って針金のうえで 演ずる、三人の、続き絵見立てであった。  しかし野枝は、仮りにもいまは、大曽根滝子である。すると自分が、行末祥次郎といかなる関 係に落ちるかi⊥考えると、|脊《せき》髄の辺が、ぞっと|疹《うず》きだすのだった。  それも、鉄の|簸《たが》を用いていた最初のうちならば、結婚すなわち模造の曝露となるが、いまは|石 膏《ギプス》の整形で、それと分らぬよう、巧妙に接合されているのだ。  ああ、二身一体の暹羅姉妹の結婚1ーそれは思うだに醜怪の極みではないか。 「辰代、あたし考えると泣けてくるんだよ。一生涯、あいつの犬で終ってしまうかと思うとね」  夏の別れの小雨の日に、野枝は、因果ものの仮面に狂わしくなってきた。               あきら功 「マア、野枝らしくもない、まだ断念がつかないの。そりゃあんたが、自分ひとりだけだと思う からよ。あれ、どうなの、|重錘揚《ちからもた》げの怪雲さん……。あの人、|外観《みかけ》はあんなに強そうでも、心臓 肥大とかで楽屋の|態《ざま》はそりゃ惨めなのよ。世の中って、みんなそうしたものよ。第一、人間のく せに、|倖《しあわ》せなんて考えるのが、いちばんいけないと思うわ」  黄っぽく|浮腫《むく》んだ|女曲馬師《エクエストリアンヌ》の顔が部屋を覗いてスウッと消えた。  曲奏のテユーバの、間抜けたような音、雨滴れの聯弾  。  そう云えば、誰一人、サーカスで満足な健康のものはいなかった。  辰代は、滅入ってゆく、野枝の気持を引き立てるように、 「それに野枝ちゃん、|貴女《あなた》にあの|演芸司会《リンブ マスタミ》、満更でもないと思うわ。なんでも、前にも滝子を、 祥次郎と二人で張り合ったとかいうからね、羨ましいよ。私の山三郎の、ぶっきら棒ったら、な いんだからね。そこへゆくと、あんたの祥次郎は、すっきりしているし、山三郎とちがって、妙 な|疑《うたぐ》りの眼で見やしないだろう。ねえ、山三郎はこう云うんだよ。病院から帰ると、まるで違っ ちまったって、声は|嗅《か》れたし、前とはちがって、|下素《げす》下素してるって、だから、私、どきんとし たんだけど、お|生憎《あいにく》さま、なにしろ|咽喉《のどわ》を|煩《ずら》ったんでございますからね。その|所為《せい》でしょう、と 軽く突っぱねってやったのさ」 「だけど、いずれ私たちは、あの二人と一緒にならなきゃ、ならないんだわ。ねえ辰代、あんた、 影に恋されているのが溜らないとは思わない。あの人も山三郎も、私やあんたにではなく、二人 を大曽根姉妹と、思い込んでいるからなんだわ」 「じや」  と辰代は、クスリと笑って、 「そんなら、あんたも祥次郎には、満更でもないわけねえ。それだのに、何を云いたいのさ」 「いいえね、それは、いつかも云われた結婚なの。そうなったら、私たち身も世もないじゃない の。ねえ、ほかの事じゃない、|暹羅姉妹《シヤムきようだい》の結婚よ。|貴女《あんた》、それをどう思ってんの?」 「そう、仕方がないとは思うけど……でも|艶事《いろごと》には、そうまで堅気じゃいけないと思うわ。|貴女《あんた》 は、そんなことだけがあんまり潔癖で、まるで子供が、どうしたら生れるか、知らないもんのよ うじゃないの。私なんぞは九つから、もう何も教わらなかったのよ」  辰代の過去が、こうした会話のうちにも透いて見えるのだった。ところが野枝は、なんと思っ たか、それなり黙り込んでしまった。  その|静寂《しじま》に、隣室から|雨沫《しぷき》のような音が聴える。 「あれ、知ってる野枝、ルシアニーさんよ、近頃|自暴《やけ》になって、あのひと、|骨牌《カ ト》の占いばかりや っているの。でも馬を|罷《や》めなきア、決して|癒《なお》りっこないんだって。サーカスの女王が、洗涙の御 厄介じゃ、おしまいだわね」  |小糠雨《こぬかあめ》の運ぶ、|徽《かび》のような匂い、|舞台《リンブ》の蔭の、裏ぶれゆく人生  。しかし、野枝は、そうし た感傷さえ感じないように黙っていた。|顎《あご》に甲をかって、じっと動かないその姿は、なにか心に |閃《ひらめ》いたものがあるらしい。(アッ、これじゃないかしら。やっと、手首に|刺青《いれずみ》をされた、理由が 分ったらしいわ。あの|d《デイ》の刺青は、この女がという  つまり、大曽根姉妹に生き写しという、 |烙印《しるし》ではないかしら……)  そうでなければ、あのとき伴太郎が顔を見ただけですぐ手首を探りたがったのも、妙である。 分った、あの刺青はたしか自分だけではないはずだ。辰代にもある、きっとある。あれが、大曽 根姉妹に似ているという烙印なら辰代の手首にも、きっと同じものがあるだろう。そして、もし そうであれば、|弛《ゆる》めずあの夜のことを追及しなければならぬ。  dの刺青……|暹羅姉妹《シヤムきようだい》……ヴァンダーヴォルト号の殺人者、もしやしたら、それが辰代では   と、野枝の顔が子供のように火照りはじめてきた。 (調べてみよう。ことによったら、これであの悪夢が、消えてしまうかも知れないわ。自分がヴ アンダーヴォルト号で人を殺したのでないと分ったら、なんの伴太郎の|嚇《おど》しなど、怖ろしいもん か。大手を振って、|偽《にせ》暹羅姉妹におさらばをしてやるわ。)  そうして野枝は、出を待つ廊下で、それを調べることになった。 「ねえ、辰代、ちょっと櫛を貸して」  するとうしろざまに辰代の手首が見え、野枝の|動悸《どうき》がド下ドドっと走りはじめた。  運命の明暗が、この一瞬に決せられる。あの魔夢から|遁《のが》れ、|暹羅姉妹《シヤムきようだい》の鎖をふり|解《ほど》くときが   0  しかし野枝が見たのは、いたましい失望であった。あいにくとその部分は|擬《まが》いの|腕環《ブしスレソト》に、覆 われていて見えなかった。 (駄目か。ではいつか、腕飾りを外したおりを狙ってやろう。)  と、野枝はじりじりしながら、大きく揺れる、|天驚絨《びろうど》の揚幕の前に立っていた。腕に絵葉書を 抱えて、|贋《つく》られた畸形姿を客席に売るーそうした生活も、もうあと何日だろう。 「さて、紳士及び淑女諸君、ここに控えさせましたるは、造化の驚異、大曽根暹羅姉妹」     三、ぶらんこ|落《おと》し  やがて、東京の興行を終えた一行は、横浜の国技場に移っていった。  が野枝は、その間もすかさず、機会を狙っていた。気どられずに、手首を覗こうとすればする ほど、今は|一重《ひとえ》の警戒を間に置くようになり、日にまし、辰代に対する親愛の情が失せてゆくの だった。  それに近頃では、伴太郎が|頻《ひんびん》々と云い寄るようになった。すると心は、なおまし祥次郎に、傾 いてゆくのであるが、といって結婚は、野枝の潔癖が許さないのである。  ところが、初日から数えて三日目の朝だった。稽古が行われている|円戯場《エリ ナ》から、なにか常にな い歓声が上がるのが聴えた。行って見ると、ひとりの外人ブランコ|乗《トラピ ザき》りが、空を|稜《おさ》のように跳び 交している。 「あれ、誰ですの、|演芸司会《リング マスタ 》……」 「あれかね、ありゃ、ショコラという|洪牙利《ハンガリコ》人なんだ。オイ、|手前《てめえ》は、もう少し|踊《かが》んでいろ」  と荒々しく、辰代を前蹴みにさせて、伴太郎は揚幕の蔭でぐいと野枝の頸を抱え込んだ。 「お、お前は、ほんとうか。祥次郎が結婚したいって云ってるそうだが」 「ええ」  野枝は、|莫《たぱこ》臭い|呼吸《いき》に、息苦しくなってきた。 「そうか、罰当り|奴《め》、たぶん俺も、そんなことだろうと思ってたよ。それで、祥の代りを見つけ たってわけだが」 「なに、代りをですって。すると、祥さんは……」  野枝の胸に、ドドっと予感のようなものが騒ぎはじめたが、そのとき、伴太郎の調子が、急に 冷たくなって、 「いや、何もかも、明日になりゃ分るさ。実は、祥のやつ、あの新参を見て、よしそれなら、こ っちも負けずに『ブランコ|落《ブロ アン トラピきス》し』をやると云うんだ。ねえ、『|鰍纏《ブランコ》落し』だ。知ってるか。祥の 乗っている|鰍擁《ブランコ》の右綱が切れるんだ。そして、落ちながら|一筋斗《ひともんどり》打って、俺に跳びつくというや つだ」  野枝は、ハッと息を|窒《つ》めた。  気のせいか、伴太郎の顔には殺気のようなものが流れ、見ていると、寒々となってくる。明日 は、「ブランコ|落《フロミクン トラピ ズ》し」の初演に、何事か起るのではないか  その夜は不安に転々として、野枝 はやっと暁方に眠ることが出来た。  そうして、いよいよ「|鰍橿《プランコ》落し」の行われる、その日の朝になった。  きょうの初演に、伴太郎は、何事か企てている。しかしそれを未然に防ごうにも、野枝はいま |暹羅姉妹《シヤムきようだい》ではないか。二人の意志が合わなければ、動くも歩くも出来ない、暹羅姉妹である。 (どうしても、今夜は、辰代の力を借りなければ……いっそ、これこれと、打ち明けてしまおう かしら。でも、なんとなく不安だわ。打ち明けてしまって、ああ困ったというようなことになり アしないかしら。駄目、何をするにも、辰代の本体がはっきりしてからでないと……。)  身体を揺ぶると、|磐肉《にく》と轡肉に|石膏《ギブス》の整形が喰い込んでくる。その、重い甲羅を背にした暹羅 姉妹の弱点が、危機を前に、とんだ障|碍《がい》となってしまったのである。  そうなると野枝は、ますます祥次郎の身が気遣われてきた。暹羅姉妹の結婚という、潔癖一つ で、それさえなければ、一目散に、腕のなかへ飛び込んでゆくであろうーその祥次郎に、鋭い 伴太郎の爪が、グサリと突き刺さろうとするのだ。 「|鰍髄《ブフンコ》だ。きっと、|鰍橿《ブ フンコ》に、なにか、仕掛けがあるにちがいない」 「なに、|鰍纏《プランコ》だって……」  いつの間に入って来たのか、冷やかな笑を|涯《うか》べて伴太郎が突っ立っている。 「おめえ、だいぶ顔色が悪いようだが、俺アそんなこたア知らねえよ。祥次郎は、やめろと云っ ても、聴かねえんだしな。いや、腕はあるさ。ただ心配なのは、|鰍機《ブランコ》の左右をつけ違えやしねえ かということだ」 「|鰍彊《フランコ》の左右って、それにはどんな意味があるんですの」 「つまり、右の方が切れるからなんだ。だから、左を|利《きき》足にして落ちながら|筋斗《もんどり》を切る。それを 俺の|鰍彊《づランコ》が合わして、空中で跳びつかせる。分ったろうな、もし、間違って左が切れた日にゃ ..:..」  やがて、伴太郎の姿が消えてしまうと、野枝は不安にたまらなく|悶《もだ》えはじめた。  それとは云わぬけれども、伴太郎の悪謀には疑う余地もない。眼を|瞑《つむ》っても、祥次郎の血みど ろな姿が泥んでくる。何とかして助けねば……それにしても、背後の辰代を引き摺ってゆくだけ の力はない。  すると、そのとき辰代が、なにかガチャリと鏡台のうえに置く物音がした。アッ、腕飾りー 途端に野枝の胸が、太鼓のように打ちはじめた。いよいよ、機会が来た。  しかし、悲しいことに今日の野枝は、辰代がヴァンダーヴォルト号の女でないのを祈るのだっ た。  やはり、人の好い、あの辰代であってくれ。そうしたら、隠さずになにもかも、打ち明けてし まおう。そして、今夜は、いっさいの行動を、自分に任せてもらおう。 「辰代、手を廻して櫛を貸してくんない」  野枝は手が|額《ふる》えて、櫛を|掴《つか》むことが出来なかった。ああ今日は、鮮かにも、刺青が覗かれる。  しかもdではなくPが、蒼々と水を逸すように見えるのだった。 (アッdではなかった、P……)  と、思いもよらぬ刺青文字の出現に、しばらくは夢に夢みるような心地だった。しかし、だん だんに落着いてくると、それも遂に謎ではなくなってしまった。 (ああ、やはり、辰代だったのだ。ヴァンダーヴォルト号で何者かを殺し、私に、あの悪夢を作 って、放浪させたのはこの女だ。いいえ、別人なもんか。刺青はPでも、もしそれを、逆さに見 たとしたらどうなるだろう。dではないか。ああ、やっと|素性《すじよう》が明らかになった。辰代、ヴァン ダーヴォルト号の人殺しは、辰代だ!)  これがもし祥次郎の危機を目前にしていないのだったら、おそらく野枝は、躍り上がったであ ろう。しかし辰代の素性がはっきり分ったいま、野枝は万策尽きたのである。  もうこのうえは、|円戯場《エけさナ》の中央で、大見得を切るよりほかにない。わっと喚いて、|殿《し》円|部《り》の接合 を見せてやろう。皆様、この|暹羅姉妹《シヤムきようだい》は、本物ではございませんよ  って。  しかし、それさえ、野枝の出番は「ブランコ|落《プロ アン トラピさズ》し」の後である。  そうして、手段は尽き、時刻が刻々に迫っていった。  Pの刺青をしたヴァンダーヴォルト号の女が、いま自分の背中にいる。それが分っても、伴太 郎の悪謀が、はっきりとなっても、すべては、円戯場に血を見た後のことである。  なんとかして、祥次郎を、不慮の死から救わなければ……しかしその言葉は、野枝の口の中で、 いたずらに消えてしまうのだった。  やがて夜になると、不破サーカスの灯が、海港の空を流れはじめた。 「名射|手大象《マストトン》ジュムボー、|標的《まと》は、|彼方《あちら》なる八尺の小的。そもそも、このジュムボーと申しま するは、|的《ブルス》の|黒星《 アン》と……」 「いやお客さま、これなるは|牝的《カウス 》の|黒星《アイ》……」  と、道化の|洒落《しやれ》に、一等の外人席だけがドッと湧く。象のジュムボーは、やがて引金に|括《くく》りつ けた、留木を鼻で引く。  |鴛然《ごうぜん》と一発中央の小星がビリッと裂けて、蔭から、胴長の作り馬に乗った、道化が躍り出てく る。|輪路《けンア》を駈けめぐる、|曲馬《きよくぱ》馬にまじって、酔っ払ったように、左右を踏みちがえて爆笑を捲き 起すのだった。  と、ちょうどその頃、野枝の部屋に、例の婆さんがぬうっと|面《つら》を突き出した。 「,お前さんがた二人に、親方が御用とおっしゃるよ」 「用って、何です?」 「マア、いいから、黙って来るさ」  番組はあと二つ、|短剣使《ナイフ ジヤブリンァ》いと|寄薩克《コさツク》の馬術、そして、そのあとに「ブランコ|落《フロ アン トラピ ス》し」が来る。  野枝は、そこで絶望を感じた。  そして、どこか置場のなかにでも監禁されるのかと思っていたが、意外にも、四階のうえにあ る、ポスター|廻廊《ア ケ ト》に引かれていった。  そこは、天井に近く、浮彫りのヴィナスやキューピツドが、|天翔《あまか》けるように見える。四層の|桟 敷《ロ ジユ》は、ぎっしりと詰まって、ただ頭だけの真黒な帯である。  すると、四隅の照明燈がパッと|点《とも》って、拍手の雨が|円戯場《エリきナ》へと注がれた。  見よ、.宙にくっきりと描かれた、四筋の白線、二つの腕櫨ー。  「野枝、祥次郎が出たわよ。親方も……」  罵、込たる歓呼のなかに・空む飛ボ児電価丁1という、英語のアナウンスが聴える。と、二人の うえにスポットが落ちて、|円戯場《エリ ナ》の中央へ進んでゆく、刺青が照し出された。 「いいかい、親方のお情けだよ。きょうの『鰍彊落し』は、一生見ようたって、ただの一度のも のなんだそうだからね」  拷問だ  野枝は、あらん限りの憎しみを、伴太郎に浴びせかけた。冷血残忍なこと、人間離 れのした彼は、祥次郎の血を野枝の目前で流させようとするのだ。  やがて伴太郎は、スポットを、滝のように浴びて、鰍懐綱をのぼっていった。|大蛇丸《おろちまる》の刺青が 物々しそうに輝いて、着くと、下の祥次郎に、片手で合図をする。  鰍纏が揺れはじめた。  ひろがる振幅  手離しで、「|碧《あお》きドナウ」に乗った伴太郎が弧線を描きはじめると、祥次郎 の身体もひらりと宙に|活《うか》んだ。  綱を引きしめつつ、のぼるそのさまは、一歩一歩近づく死の|階《きざはし》であった。その危険を、彼に 何とかして、伝えようと|腕《あが》いていても、もはや神でないかぎりは、いやあっても、祥次郎を死の 淵から救いあげることは出来ない。  野枝は、わななく胸に、耐え切れなくなってきて、 「ねえ辰代、お願いだから、私を、後向きにしてくれない」  そうして、背後を向いた野枝の前には、児雷也三人兄弟の大ポスターがあった。  三枚続きで、等身大のそれは、吊橋の三すくみを針金渡りに描いたものである。右から数えて 大蛇丸、|墓《がま》の|児雷也《じらいや》、|蜻蠕《なめくじ》の綱手となって、その|後方《うしろ》は|硝子《ガラス》一重の|戸外《そと》で大|弧光《アきク》燈があった。  その光りには、競いや勇みの懐古的な夢が消えて、眼隈の紅も、鎖|帷子《かたぴら》も、ただ|雲母《 きらら》のような 異類な輝きに覆われている。 「辰代、話して。いまどんなところ……」  観衆の喧騒がぴたりとやんで、ただ二台の|鰍橿《りにフンコ》だけが、薄気味悪く|捻《さつな》っている。その静けさに 今かとときめく野枝は、たまらなくなってきた。 「親方は手離しで、まだ両方とも、揺れているだけなの。祥さんが、いまこっちを向いて、にこ っと笑ったわ」  その言葉も、野枝には嘲りのようにしか、聴えなかった。と、いよいよ下の吹奏席から、ル グランの「|鰍纏落《ブロヨクン トラピきス》し」が湧きあがってきた。  この曲を奏されるものは、コドナ兄弟|以来《このかた》、|空中軽業師《エァ アクロハット》の覇者である。  が、負けじ魂に、怖れを知らぬ祥次郎は、やがて、いや数秒後に、それが|葬送曲《マんノィ フすしび つル》の、悲し い調べに変ろうとは知らぬのである。  野枝の頭のなかで、鐘のようなものが鳴りはじめた。|呼吸《いき》がはずんで、額は、はぜた粟粒のよ うな汗である。  曲も、あときっかけまでは、何秒もない。すべてがまさに、終ろうとしているのだーiやがて 地上に、一団の|血餅《けつべい》となって、のたうち廻るであろう祥次郎。  と、数秒後に、果して、館が揺がんばかりの、大叫喚が起った。 「アッ、落ちた!」 「ええっ、落ちた……"」                         . 「落ちたの……大変だわよ……親方が」                  .  伴太郎が落ちたーーそれを聴くと同時に、野枝の|身体《からだ》がぐっと前のめりになり、辰代が耐えて 足を踏んばっても、しまいには引き摺られて、背亀のような恰好になった。  が、やがて、唇を撫でる冷たい風にわれに返ると、いつの間にかポスターの一枚、綱手が丸ご と剥がれているのに気がついた。祥次郎が助かって、伴太郎が落ちたー-この奇蹟のような、逆 転の秘密を物語るものは、ただ神だけであろうか。  そうして明けた、和やかな|繧瀞《ひようびよう》とした朝。前夜の嵐で、二年来の悪血をどっと洗い流してし まった野枝は、なにかにつけて唄いたく踊りたくてたまらなかった。  思い出すかえステラさん。 |子《ご》を下りる。 お前、 曲馬の綱渡り。 綱を渡るが高くて見えず。 それから向うの|梯《はし》 「じゃ野枝、あんたどうしても、ここを出るって云うの」 辰代の声に鼻歌をやめたが、野枝の態度は非常によそよそしかった。 「出ないでさ。誰が遠慮なんかして、たまるもんか。あいつが、|鰍髄《フ フンコ》から落っこちて、死んじま ったのに、そんなことを云うなんて、あんたよっぽどどうかしてるわよ。それに私はね、ずいぶ んと永いあいだ虐め抜かれたんだからね。何でも洗いざらい、ぶちまけて出て行ってやるの」 「だけど……」  辰代は、ちょっと云い淀んだが、 「もう少し、あんた、落ち着いて考えたらと思うわ。そりゃあね。片輪にお別れするのは、願っ てもないことさ。自由って、まったくいいもんだよ。だけど、お金の方も、好きにならなきゃい けないと思うわ。考えて御覧、どこの世界に、こんな|収入《みいり》の多い、仕事ってあるもんじゃないよ。 それともまた、もとの宿なしに帰る気かね」  すると野枝は、鏡のなかの辰代を、とげとげしく見て、 「有難う。お礼だけは云うわ。だけど、あんたとは違って、昼日中も歩けないような、後めたい ことはないんだものねえ。憶い出してよ。二年まえ、神戸の|埠頭《はとば》を何をしたか。『ヴァンダーヴ ォルト』号で、あの晩、だ、誰を殺したのさ」 「エッ、私が……」 「そうよ、白ばっくれても駄目。その、Pの|刺青《いれずみ》が、口を利くんだからね。図々しいったら……。 私を、二年ものあいだ、こんなに苦しめてさ」 「マア野枝、あんた、何を云うの」  辰代の声がいきなり高まって、激し合った二人は、背中をもじらせ滑稽な形でいがみ合ってい た。そこへ|扉《トア》が開いて、祥次郎が|昨夜《ゆうべ》の|服装《なり》のまま入って来た。しかし、眼と眼が通い合ったと きに、きょうは、言葉も態度もちがっているのに野枝は気がついた。 「有難う。僕は君に、なんと感謝していいか分らないんだよ。君が、綱手のポスターを剥がして、 僕に危険を報せてくれなかったら……。そうだった。僕は|鰍槌《フランコ》のうえで、一時は君の行動が分ら ず、思い惑っていたのだよ。何のために、綱手の一枚だけを、君が剥がしたのか  と。|虫拳《むしけん》だ ったね。残った二枚、僕の|児雷也《じらいや》と|兄可《あにき》可の|大蛇丸《おろちまる》で、こりゃ伴太郎|奴《め》、なにか企んでいるなと、 気がついたのだ。そこで僕は、振綱からけっして手を離さなかった。ところが|兄哥《あにき》は剥がれた綱 手の蔭からパッと射った|弧光《ア ア》に眼をやられて、|亜鈴《アしイ》のうえに落ちてしまった。有難う、ほんとう にお礼を云うよ。僕は、君に助けられたんだL  |文身《いれずみ》の児雷也と大蛇丸とで、虫拳の、蛇と蛙を思わせたところがー1野枝の窮余の一策、|健気《けなげ》 な|倶利伽羅《くりから》信号であった。  「それから、|末期《まつご》に|兄哥《あにき》が打け明けたことなんだが。君は……」  「そうですの、この二人は、作られた大曾根姉妹だったのです。貴方は私を、ただただ滝子と ばかり、思い込んでいたのでしょう。でも、私の前に、何人、こうした憂目を見た、娘があった かも知れませんわ」 「いや君は、長持の屍体を見たからなんだよ。あれは実を云うと、大曾根姉妹のうち、姉の操だ ったのだ。兄哥は前から、僕と滝子を張り合っていたんだが、そのうち、姉の操に|面庁《めんちよう》が出来 てしまいには敗血症の危険が濃くなってきた。すると、滝子の方が身も世もなく、悶えはじめた というそうなんだ」  と、祥次郎の顔に、スウッと暗い影が差した。 「だって、それが|暹羅《シヤム》姉妹の宿命なんだからね。一方が死ねば、片方も必ず死ななきアならない。 で、兄哥がその嘆きを見て、いかにも兄哥らしい一策をめぐらしたのだ。それが成功すれば、滝 子を救えることはむろん、泡よくば恩に着せて|靡《なび》かせてやろうとL 「マア、それで……」 「素人手術だ。マア、兄哥でなけりゃ、やれんことだろうがね。二人を、こっそりと、病院から 連れ戻して讐部の切断手術を行なったのだ。しかし、結果は云わずと、明らかだったよ。ひどい 出血で、ともどもに|整《たお》れてしまった。だが野枝さん、もう一つ、僕が不破の一人として、君に詫 びなきゃアならんことがあるよ」 「詫びるって、何のことですの」 「それも、僕には初耳で、|兄哥《あにき》の口から出たことなんだが、実は、死んだ親爺がした、その|刺 青《いれずみ》」 「マア、これが……」 「そうだ。なにしろ|暹羅姉妹《ノヤムきようだい》と云や、たいてい短命だからね。そこへ持ってきて、大曾根姉妹 では大当てしたもんだから、|親爺《おやじ》の奴、もしも死んだときの、|贋物《にせもの》まで考えるようになった。そ れで、巡業の路々、似た娘を探し出しては、手首に、刺青をしておいたのだ。操に似たのはp、 滝子に似た娘にはdを彫って  つまり、二つを組み合わせて形が、|双生児《ふたご》だと云うんでね。親 爺、御自慢の、|酒落《しやれ》だったそうだよ。ところが、神戸で船に引き摺り込んだ、女のために……」 「アッ、ちょっと待って」  野枝の|呼吸《いき》がいきなり荒くなってきた。 「私、その女のこと一番よく知ってますわ。つまり、船に引き摺り込んで、入墨の最中に、その ひとの魔酔が醒めたんでしょう。それで、グサッと|殺《や》られて……」 「ああ、よく君が」  祥次郎も思わず眼を|騨《みは》って、 「では|訊《き》くが、その|刺青《いれずみ》はいったいどっちだったね。Pか、dか……」 「pですとも。でも、私だとおっしゃるの。いくらなんでも、私が貴方のお父さんを殺ってしま うなんて。では、いまここで、その女の名を云ってみましょうか」 「小坂部福子だろう。親爺は腹をやられてやっと戻って来たんだが、さすがに因果をさとって、 事件を内済にして死んでいった。君が、福子という娘を知っているとは意外.だったよ」 (ああ、小坂部、福子。)  払っても盗れる涙に、|樒《マスト》の旗が、|歪《いび》つになって倒れてゆく。  野枝は、ひれ伏して詫びたいような気持で、うしろ探りに辰代の手を握りしめた。  すると、血の温みが、スウッと伝わってきて、 (ああ、いいともさ野枝、私はなんと云われても決して怒りゃしないよ。それよか、あんな元気 だったくせに、泣いてなんかいてさ。)  |橋群《しようぐん》の問に、小さく切れた、旗のような海が覗いている。下は|気球揚《ハハさン アセンハノヨン》げで、|千秋《らく》楽にも似 げない観衆のひしめきである。  祥次郎は、野枝の耳にそっと口を寄せて、 「ねえ野枝、君はもう、このサーカスにはいないつもりだろうね」 「ええ暹羅姉妹とは、これでお別れしたいの。だけど……」 と口ごもった野枝を、辰代が|背後《うしろ》から、|焦《じ》れったそうに揺ぶった。 「いいから、お抱きつきよ。たんと、腰の|簸《たが》を外さない間に、抱いてもらっとくといいよ一一  二、倶利伽羅号(昭和十一年十一月及び十二月号「モダン日本」)  これは、いわゆるスリラーである。したがって、煽情をもっぱらにしハラつかせれば、能事終 れりであるかもしれない。しかし私には、これを書くについて野心が」つあったのである。  それは、日本にないような大サi力スだ。招魂祭で、ヂンタを鳴らすような安っぽいのではな く、バーナムや、ハーゲンベックのような本格的なものを、書きたいというのがかねがねからの 望みであった。それゆえ、大サーカスの雰囲気は相当に出ていることと思う。  それと、児雷也の|文身《いれずみ》という懐古趣味の交錯が、この一篇の狙いどころといえるのである。な により、読者諸君には色を見ていただきたい。