このファイルは未校正データです。 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」 序篇 降矢木一族釈義  聖(セント)アレキセイ寺院の殺人事件に法水(のりみず)が解決を 公表しなかったので、そろそろ迷宮入りの噂が 立ち始めた十日目のこと、その日から捜査関係 の主脳部は、ラザレフ殺害者の追求を放棄しな ければならなくなった。と云うのは、四百年の 昔から纏綿(てんめん)としていて、臼杵耶蘇会神学林(うすきジエスイツトセミナリオ)以来 の神聖家族と云われる降矢木(ふりやぎ)の館に、突如真黒 い風みたいな毒殺者の彷裡(ほうこう)が始まったからで あった。その、通称黒死館と呼ばれる降矢木の館 には、何時か必ずこういう不思議な恐怖が起ら ずにはいまいと噂されていた。勿諭そういう臆 測を生むに就いては、ボスフォラス以東に唯一 つしかないと云われる降矢木家の建物が、明ら かに重大な理由の一つとなっているのだった。 その豪壮を極めたケルト・ルネサンス式の城館(シヤトウ ) を見慣れた今日でさえも、,尖塔(せんとう)や櫓楼(ろろう)の稜線(りようせん)か ら来る奇異(ふしぎ)な感覚-まるでマッケイの古めか しい地理本の挿画でも見るような感じは、何日(いつ) になっても変らないのである。けれども、明治十 八年建設当初に、河鍋暁斎(かわなべぎようさい)や落合芳幾(おちあいよしいく)をしてこ の館の点晴(てんせい)に竜宮の乙姫を描かせた程の縞(きら)びや かな眩惑は、その後星の移ると共に薄らいでし まった。今日では、建物も人も、そういう幼稚 な空想の断片ではなくなっているのだ。恰度天 然の変色が、荒れ寂びれた斑(まだら)を作りながら石面 を蝕(むしば)んで行くように、何時とはなく、この館を 包み始めた狭霧(さぎり)のようなものがあった。そうし て、やがては館全体を騰気な秘密の塊りとしか 見せなくなったのであるが、その妖気のような ものと云うのは、実を云うと、館の内部に積り 重なって行った謎の数々にあったので、勿論あ のブロヴァンヌ城壁を模したと云われる、周囲 の壁廓ではなかったのだ。事実、建設以来三 度に渉(わた)って、怪奇な死の連鎖を思わせる動機不 明の変死事件があり、それに加えて、当主旗太 郎(はたたろり)以外の家( )族の中に、門外不出の絃楽四重奏団(ストリング カルテツト) を形成している四人の異国人がいて、その人達 が、揺藍の頃から四十年もの永い間、館から外 へは一歩も出ずにいると云ったら……、そうい う伝え聞きの尾に鰭が附いて、それが黒死館の 本体の前で、鉛色をした蒸気の壁のように立ち はだかってしまうのだった。全く、人も建物も 腐朽し切っていて、それが大きな癌のような形 で覗かれたのかも知れない。それであるからし て、そういった史学上珍重すべき家系を、遺伝 学の見地から見たとすれば、或は奇妙な形をし た輩(きのこ)のように見えもするだろうし、また、故人 降矢木算哲(さんてつ)博士の神秘的な性格から推(そ)して、現 在の異様な家族関係を考えると、今度は不気味 な廃寺のようにも思われて来るのだった。勿論 それ等のどの一つも、臆測が生んだ幻視に過ぎ ないのであろうが、その中に唯一つだけ、今に も秘密の調和を破るものがありそうな、妙に不 安定な空気のある事だけは確かだった。その悪 疫のような空気は、明治三十五年に第二の変死 事件が起った折から萌(きざ)し始めたもので、それが、 十月(とつき)程前に算哲博士が奇怪な自殺を遂げてから と云うものは1後継者旗太郎が十七の年少な のと、また一つには支柱を失ったと云う観念も 手伝ったのであろう1一層大きな亀裂になっ たかのように思われて来た"そして、もし人 間の心の中に悪魔が住んで.いるものだとした ら、その亀裂の中から、残った人達を犯罪の底 に引き摺り込んででも行きそうな1思いもつ かぬ自壊作用が起りそうな怖を、世の人達は次 第に濃く感じ始めて来た。けれども、予期に反 して、降矢木一族の表面には沼気程の泡一つ立 たなかったのだが、恐らくそれと云うのも、そ の療気(しようき)のような空気が、未だ飽和点に達しな かったからであろうか。否、その時既に水底で は、静穏な水面とは反対に、暗黒の地下流に注 ぐ大きな漫布が始まっていたのだ。そして、そ の間に欝積して行ったものが、突如凄じく吹き しく嵐と化して、聖家族の一人一人に血行を停 めて行こうとした。しかも、その事件には驚く べき深さと神秘とがあって、法水麟太郎(のりみずりんたろう)はそれ がために、狡智極まる犯人以外にも、既に生存 の世界から去っている人々とも闘わねばならな かったのである。所で、事件の開幕に当って、 筆者は法水の手許に集められている、黒死館に 就いての驚くべき調査資料の事を記さねばなら ない。それは、中世楽器や福音書写本、それに 古代時計に関する彼の偏奇な趣味が端緒となっ たものであるが、その1恐らく外部からは手 を尽し得る限りと思われる集成には、検事が思 わず嘆声を発し、唖然となったのも無理ではな かった。しかも、その痩身的な努力を見ても、 既に法水自身が、,水底の轟に耳を傾けていた一 人だった事は、明らかであると思う。  その日Il一月二十八日の朝。生来余り健康 でない法水は、あの霊(みぞれ)の払暁に起った事件の疲 労から、全然恢復するまでになっていなかっ た。それなので、訪れた支倉(もはぜくら)検事から殺人と云 う話を聴くと、ああまたかllと云う風な厭な 顔をしたが、 「所が法水君、それが降矢木家なんだよ。しか も、第一提琴奏者(ヴァイオリン)のグレーテ・ダンネベルグ夫 人が毒殺されたのだ」と云った後の、検事の 瞳に映った法水の顔には、俄かに満更(まんざら)でもな さそうな輝きが現われていた。然し、法水はそ う聴くと不意に立って書斎に入ったが、間もな く一抱えの書物を運んで来て、どかっと尻を据 えた。 「悠(ゆつ)くりしようよ、支倉君、あの、日本で一番 不思議な一族に殺人事件が起ったのだとした ら、どうせ一二時間は、予備知識に費(かか)るものと 思わなけりゃならんよ。大体、いつぞやのケソ ネル殺人事件iあれでは、支那古代陶器が単 一なる装飾物に過ぎなかった。所が今度は、算哲 博士が死蔵している、カロリング朝以来の工芸 品だ。その中に、或はボルジアの壼がないとは 云われまい、然し、福音書の写本などは一見し て判るものじゃないから……」と云って、「一 四一四年聖(サン)ガル寺発掘記」の他二冊を脇に取り 除け、編子(りんず)と尚武革(しようぷがわ)を斜めに貼り混ぜた美々し い装禎の一冊を突き出すと、 「紋章学η」と検事は呆れたように叫んだ。 「ウン、寺門義道(てらかどよしみち)の『紋章学秘録』さ。そう稀 観本(きこうぼん)になっているんだがね。所で君は、こういう 奇妙な紋章を今まで見たことがあるだろうか」 と法水が指先で突いたのは、DFCOの四字を 二十八葉撒櫨冠で包んである不思議な図案だっ た。 「これが、天正遣欧使の一人-千(ちち)々石清左衛 門直員(わせいざえもんなおかず)から始まっている、降矢木家の紋章なん だよ。何故、豊後(ぷんご)王普蘭師可沽(フランシノコ)・休庵(シワン)(大友宗 麟)の花押を中にして、それを、フィレンツェ 大公国の市表章旗の一部が包んでいるのだろ う。とにかく下の註釈を読んで見給え」   ー-「クラウジオ・アクワビバ(耶蘇会(ジエスイツト)会  長)回想録」中の、ドン・、・・カエル(千々石  の事ソよりジェソナロ・コルバルタ(ヴェニ  スの破璃(ガラス)工)に送れる文。(前略)その日バ  タリァ僧院の神父ヴェレリオは余を聖餐式(エウスカリヤ)に  招きたれど、姿を現わさざれば不審に思いい  たる折柄、扉を排して丈高き騎士現われた  り、見るに、バロッサ寺領騎士の印章を侃(つ)  け、雷の如き眼を騨(は)りて云う。フランチェス  コ大公妃力ペルロ・ビアソカ殿は、ピサ・メ  ディチ家に於て貴下の胤を秘かに生めり。そ  の女児に黒奴(ム ル)の乳母をつけ、刈込垣の外に待  たせ置きたれば受け取られよーと。余は、骸  けるも心中覚えある事なれば、その旨を承じ  て騎士を去らしむ。それより悔改(コンチリサン )をなし、  購罪符をうけて僧院を去れるも、帰途船中黒(ム )  奴(メ)はゴアにて死し、嬰児はすぐせと名(ヘヘヘ)付けて  降矢木の家を創(おこ)しぬ。されど帰国後吾が心に  は妄想散乱し、天主(デウス)、吾れを責むる誘惑(テンタサン)の障擬  を滅し給えりとも覚えず。(以下略) 「つまり、降矢木の血系が、カテリナ・ディ・ メディチの隠し子と云われるカペルロ・ビアソ カから始まっていると云う事なんだが、その母 子が揃って、怖ろしい惨虐性犯罪者と来てい る。カテリナは有名な近親殺害者で、おまけに 聖(しようげセント)バーセル、・・ユウ斎日の虐殺を指導した発頭人 なんだし、また娘の方は、毒のルクレチア・ボ ルジアから百年後に出現し、これは長剣の暗殺 者と謳われたものだ。所が、その十三世目にな ると、算哲という異様な人物が現われたのだ よ」と法水は、更にその本の末尾に挾んであ る、一葉の写真と外紙の切抜を取り出したが、 検事は何度も時計を出し入れしながら、 「お蔭で、天正遣欧使の事は大分明るくなった がね。然し、四百年後に起った殺人事件と祖先 の血との間に、一体どういう関係があるのだ ね。成程不道徳という点では、史学も、法医学 と遺伝学と共通してはいるが…-」 「成程、とかく法律家は、詩に箇条を附けたが るからね」と法水は検事の皮肉に苦笑したが、 「だが、例証がない事もないさ。シャルコーの 随想の中には、ケルソで、兄が弟に租先は悪竜 を退治した聖(サン)ゲオルグだと戯談(じようだん)を云ったばかり に、尼僧の蔭口をきいた下女をその弟が殺して しまったーと云う記録が載っているづまた、. フィリップ三世が巴里(パリ )中の癩患者を焚殺(ふんさつ)したと いう事蹟を聞いて、六代後の落擁したベルトラ ンが、今度は花柳病者に同じ事をやろうとした そうだ。それを、血系意識から起る帝王性妄想 と、シャルコーが定義を附けているんだよ」と 云って、眼で眼前のものを見よとばかりに、検 事を促した。  写真は、自殺記事に挿入されたものらしい算 哲博士で、胸衣(チヨツキ)の一番下の釦を隠す程に長い白 髭を垂れ、魂の苫患(くげん)が心の底で燃え煙(くすぷ)っている かのような、憂欝そうな顔付の老人であるが、 検事の視線は、最初から一枚の外紙の方に奪わ れていた。それは、一八五二年六月西日発行の 「マソチェスター郵報(ク リア)」紙で、日本医学生聖(セント) り二iク療養所より追放さるーーという標題の 下に、ヨーク駐在員発の小記事に過ぎなかっ た。が、内容には、思わず眼を瞠らしむるもの があった。   ーブラウソシュワイク普通学校より受託  の日本医学生降矢木鯉吉(算哲の前名)は、  予(かね)てよりリチャード・バートソ輩と交りて注  目を惹ける折柄、エクスター教区監督を誹誇  し、目下狂否の諭争中なる、法術士ロナルド  ・クインシイと懇ろにせしため、本日原籍校  に差し戻されたり。然るに、クイソシイは不  審にも巨額の金貨を所持し、それを追及され  たる結果、彼の秘蔵に係わる、ブーレ手写の  ウイチグス呪法典、バルデマ「ル一世触療呪     ヘ プ ライ       ユダヤ カ   ラ    ゲ マ一ト  文集、希伯来語手写本猶太秘釈義法(神秘数  理術(リヤ)としてノタリク、テムッの諸法を含む)、             ニユーマトΨラフイー  ヘソリー・クラムメルの神霊手書法、編者不  明の拉典(ラテン)語手写本加勒底亜(カルっアア)五芒星招妖術、並  びに栄光(ハンド オヴ グロ)の手( リ )(絞首人の掌を酢漬けにし  て乾燥したもの)を、降矢木に譲渡したる旨  を告白せり。  読み終った検事に、法水は興奮した口調を投 げた。 「すると、僕だけという事になるね。これを手 に入れたばかりに、算哲博士と古代呪法との因 縁を知っているのは。いや、真実怖ろしい事な んだよ。もし、ウイチグス呪法典が黒死館の何 処かに残されているとしたら、犯人の外に、も う一人僕等の敵が殖えてしまうのだからね」 「そりゃま九何故だい、魔法本と降矢木に一体 何が?」 「ウイチグス呪法典は所謂技巧呪術(ア ト マジツク)で、今日の 正確科学を、呪咀と邪悪の衣で包んだものと云 われているからだよ。元来ウイチグスという人 は、亜刺(アラ)比亜(プ)・希臓(ヘレニツク)の科学を呼称したシルヴェ スター二世十三使徒の一人なんだ。所が、無 謀にもその一派は羅馬(ロ マ)教会に大啓蒙運動を起 した。で、結局十二人は異端焚殺(ふんさつ)に逢ってし まったのだが、ウイチグスのみは秘かに遁れ、 この大技巧呪術書を完成したと伝えられてい る。それが後年になって、ボッカネグロの築城 術やヴォーバソの攻城法、また、デイやクロウ サアの魔鏡術やカリオストロの錬金術、それ に、ボッチゲルの磁器製造法からホーヘンハイ ムやグラハムの治療医学にまで素因をなしてい ると云われているのだから、驚くべきじゃない か。また、猶太秘釈義(ユダヤカパラ)法からは、四百二十の暗 号がつくれると云うけれども、それ以外のもの は所謂純正呪術であって、荒唐無稽も極まった 代物ばかりなんだ。だから支倉君、僕等が真実 怖れていいのは、ウイチグス呪法典の一つのみ と云っていいのさ」  果して、この予測は後段に事実となって現わ れたけれども、その時はまだ、検事の神経に深. く触れたものはなく、法水が着換えに隣室へ立 つあいだ次の一冊を取り上げ、折った個所のあ る頁(べ ジ)を開いた。それは、明治十九年二月九日発 行の東京新誌第四一三昌、で、「当世零保久礼(ちよぼくれ)博 士」と題した田島象二(辮瀞埴肚一四糀翻)の戯文 だった。   1掬も此度転浦逆手行(かんぽのかえり)、聞いてもくんね  え(と定句(きゆホりく)十数列の後に、次の漢文が挿入され  ている)近来大山街道に見物客糸を引くは、  神奈川県高座郡葭苅の在に、竜宮の如き西洋                  だいぷ吠ん  城廓出現せるがためなり。そは長崎の大分限 降矢木鯉吉の建造に係るものにして、いざそ  の由来を説かん。先に鯉吉は、小島郷療養所  に於いて和蘭(オランダ)軍医メールデルフォルトの指(さ)導  をうけ、明治三年一家東京に移るや、渡独し  て、まずブラウソシュワイク普通医学校に学 ベり。その後伯林(ベルリン)大学に転じて、研鐙八ヵ年  の後二つの学位をうけ、本年初頭帰朝の予定 となりしも、それに先き立ち、二年前英人技 師クロード・ディグスビイを派遣して、既記 の地に本邦未曾有とも云う大西洋建築を起工 せり。と云うは一つに、彼地にて嬰(めと)りし仏蘭 西(フランス)ブザソソンの人、テレーズ・シニョレに饒(はたむ) ける引手箱なりと云う。即ち、地域はサヴル ーズ谷を模し、本館はテレーズの生家トレ ヴィーユ荘の城館を写し、以て懐郷の念を絶 たんがためなりとぞ。さるにしても、此程帰 国の船中蘭貢(ラング ン)に於いて、テレーズが再帰熱に て死去したるは哀れと云うべく、また、皮肉家 大鳥文学博士がこの館を指し、中世塗楼の屋 根までも剥いで黒死病(ペスト)死者を詰め込みしと伝 えらるる、プロヴィンシア続壁模倣を種に、 黒死館と嘲りしこそ可笑しと云うべしー。 検事が読み終った時、法水は外出着に着換え て再び現われた。が、またも椅子深く腰を埋め て、折から執拗に鳴り続ける、電話の鈴(ベル)に眉を 彊めた。 「あれは多分熊城(くましろ)の督促だろうがね。.死体は逃 げっこないのだから、まず悠くりするとして だ。そこで、その後に起った三つの変死事件 と、未だに解し難い謎とされている算哲博士の 行状を、君に話すとしよう。帰国後の算哲博士 は、日本の大学からも神経病学と薬理学とで二 つの学位をうけたのだが、教授生活には入ら ず、黙々として隠遁的な独身生活を始めたもの だ。此処で、僕等が何より注目しなければなら ないのは、博士(ヘヘヘ)が唯(ヘヘ)の一日(ヘヘヘ)も黒死館(ヘヘヘヘ)に住(ヘヘ)ま(ヘ)な かったと云(へももヘヘヘ)うばかりか、明治二十三年(ヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ)には、僅(ヘヘ) か五年(  ヘヘ)しか経(ヘヘヘ)たない館( ヘヘ )の内部(へちヘ)に大改修(ヘヘヘヘ)を施(ヘヘ)し(ヘ)た と云(ヘヘヘ)う事(ヘヘ)で、つまり、ディグスビイの設計(ヘヘヘちヘヘヘヘヘヘヘヘヘヘ)を根 本(ヘヘヘ)から修正(ヘヘヘヘ)してしまったのだ。そうして、自(ヘヘヘもヘヘヘ)分 は寛永寺裏に邸宅を構.えて、黒死館には弟の伝 次郎夫妻を住わせたのだが、その後の博士は、 自殺するまでの四十余年を殆ど無風のうちに過 したと云ってよかった。著述ですらが、『テユ ードル家徽毒並びに犯罪に関する考察』一篇の みで、学界に於ける存在と云ったら、まずその 全部が、あの有名な八木沢医学博士との諭争に 尽きると云っても過言ではないだろう。それは こうなのだ。明治二十一年に頭蓋鱗様部(ずがいりんようぷ)及顧額 窩(せつじゆか)崎形者の犯罪素質遺伝説を八木沢博士が唱え ると、それに算哲博士が駁説を挙げて、その後一, 年に渉る大論争を惹き起したのだが、結局人間 を栽培する実験遺伝学と云う極端な結諭に行き 着いてしまって、その成行に片唾を嚥ませた矢 先だった。不思議な事には、二人の間にまるで 黙契でも成り立ったかのように、その対立が突 如不自然極まる消失を遂げてしまったのだよ。 所が、この論争とは聯関のない事だが、算哲博 士のいない黒死館には、相次いで奇怪な変死事 件が起ったのだ。最初は明治二十九年の事で、正 妻の入院中愛妾の神鳥みさほを引き入れた最初 の夜に、伝次郎はみさほのために紙切刀で頸動 脈を切断され、みさほもその現場で自殺を遂げ てしまったのだ。それから、次は六年後の明泊 三十五年で、未亡人になった、博士とは従妹に 当る筆子夫人が寵愛の嵐鯛十郎という上方役者 のためにやはり絞殺されて、鯛十郎もその場去 らずに総死を遂げてしまった。そして、この二 つの他殺事件には一向に動機と目されるものが なく、いや却って反対の見解のみが集まるとい う始末なので、止むなく、衝動性の犯罪として 有耶無耶のうちに葬られてしまったのだよ。所 で、主人を失った黒死館では、一時算哲とは異 母姪に当る津多子(つたニ)ー君も知っての通り、現在 では東京神恵病院長押鐘(おしがね)博士の夫( )人になっては いるが、曾ては大正末期の新劇大女優さllー当 時三歳に過ぎなかったその人を主としているう ちに、大正四年になると、思いがけなかった男の  "               みご 子が、算哲の愛妾岩間富枝に胎もったのだ。そ れが即ち、現在の当主旗太郎なんだよ。そうし て、無風のうちに三十何年か過ぎた去年の三月 に、三度動機不明の変死事件が起った。今度は 算哲博士が自殺を遂げてしまったのだLと云っ て、側の書類綴(フアイルぐブツク)りを手操り寄せ、著名な事件に 当局から送って来る、検屍調書類の中から、博 士の自殺に関する記録を探し出した。 「いいかねー」   ー創(きす)は左第五第六肋骨間を貫き左心室に  突入せる、正規の創形を有する短剣刺傷にし  て、算哲は室の中央にてその束(つか)を固く握り締  め、扉を足に頭を奥の帷幕(たれまく)に向けて、仰臥の  姿勢にて横われり。相貌には、納・ゝ悲痛味を  帯ぶと思われる痴呆状の弛緩を呈し、現場は  鎧扉を閉ざせる薄明の室にして、家人は物音  を聴かずと云い、事物にも取り乱されたる形  跡なし、尚、上述のもの以外には外傷はなく、  しかも、.同人が西洋婦人人形を抱きてその室  に入りてより、僅々十分足らずのうちに起れ  る事実なりと云う。その人形と云うは、路易(ルイ)  朝末期の格橋襲服をつけたる等身人形にし  て、帷幕の蔭にある寝台上にあり、用いたる  自殺用短剣は、その護符刀ならんと推定さ  る。のみならず、算哲の身辺事情中には、全  然動機の所在不明にして、天寿の終りに近き  篤学者が、如何にしてかかる愚挙を演じたる  ものや、その点頗る判断に苦しむ所と云うべ  し11。 「どうだね支倉君、第二回の変死事件から三十 余年を隔てていても、死因の推定が明瞭であっ ても動因がないーという点は、明白に共通し ているのだ。だから、そこに潜んでいる眼に見 えないものが、今度ダソネベルグ夫人に現われ たとは思えないかね」 「それは、ちと空論だろう」と検事はやり込め るような語気で、「二回目の事件で、前後の聯 関が完全に中断されている。何とかいう上方役 者は、降矢木以外の人聞じゃないか」 「そうなるかね。何処まで君には手数が掛るん だろう」と法水は眼で大袈裟な表情をしたが、 「所で支倉君、最近現われた探偵小説家に、小 城魚太郎という変り種がいるんだが、その人の 近著に「近世迷宮事件考案」と云うのがあっ て、その中で有名なキューダビイ壊崩録を論じ ている。ヴィクトリア朝末期に栄えたキュー ダビイの家も、恰度降矢木の三事件と同じ形で 絶滅されてしまったのだ。その最初のものは、 宮廷詩文正朗読師の主キューダビイが、出仕 しようとした朝だった。当時不貞の噂が高かっ た妻のアンが、送り出しの接吻をしようとして 腕を相手の肩に続(めぐ)らすと、矢庭に主は短剣を引 き抜いて、背後の帷幕に突き立てたのだ。所 が、紅に染んで繁れたのは、長子のウォールタ ーだったので、驚骸した主は、返す一撃で自分 の心臓を貫いてしまった。次はそれから七年後 で、次男ケントの自殺だった。友人から右頬に 盃(グラス)を投げられて決闘を挑まれたにも拘らず、 不関気(しらぬげ)な顔をしたと云うので、それが嘲笑の的 となり、世評を恥じた結果だと云われている。 然し、同じ運命はその二年後にも、一人取り残 された娘のジョージアにも廻って来た。許婚者 との初夜にどうした事か、相手を罵ったので、 逆上されて新床の上で絞殺されてしまったの だ。それが、キューダビイの最期だったのだ よ。所が小城魚太郎は、到底運命説しか通用さ れまいと思われるその三事件に、科学的な系統 を発見した。そして、こういう断定を下してい る。結論は、閃光的に顔面右半側に起る、グブ ラー麻痺の遺伝に過ぎないという。即ち主の長 子刺殺は、妻の手が右頬に触れても感覚がない ので、その手が背後の帷幕の蔭にいる密夫に伸 べられたのではないかと誤信した結果であっ て、そうなると、次男の自殺は論ずる迄もな く、娘もやはりグブラー麻痺のために、愛撫の 不満を訴えたためではないかと推断しているの だ。勿論探偵作家に有り勝ちな、得手勝手極ま る空想には違いない。けれども降矢木の三事件 には、少くとも聯鎖を暗示している。それに、 小さな窓を切り拓いてくれたことだけは確かな んだよ。然し遺伝学というのみの狭い領域だけ じゃない。あの碑碕(まうはく)としたものの中には、必ず 想像も附かぬ怖ろしいものがあるに違いないの だ」 「フム、相続者が殺されたというのなら、話に なるがね。然し、ダソネベルグじゃ……」と一 旦検事は小首を傾げたけれども、「所で、今の 調書にある人形と云うのは」と問い返した。 「それが、テレーズ夫人の記憶像(メモリキ)さ。博士がコ ペッキイ一家(ボヘ.ミアの名操人形(マリオネツト)工)に作ら せたとかいう等身の自動人形だそうだ。然し、 何より不可解なのは、四重奏団(カルテツト)の四人なんだ よ。算哲博士が乳呑児のうちに海外から連れて 来て、四十余年の聞館から外の空気を、一度も 吸わせた事がないと云うのだからねL 「ウン、少数の批評家だけが、年一回の演奏会 で顔を見ると云うじゃないか」 「そうなんだ。屹度薄気味悪い蟻色の皮膚をし ているだろう」と法水も眼を据えて、「然し、 何故に博士が、あの四人に奇怪な生活を送らせ たのだろうか、また、四人がどうしてそれに黙 従していたのだろう。所がね、日本の内地では 唯それを不思議がるのみの事で、一向突込んだ 調査をした者がなかったのだが、偶然四人の出 生地から身分まで調べ上げた好事家を、僕は合 衆国で発見したのだ。恐らくこれが、あの四人 に関する唯一の資料と云ってもいいだろうと思 うよ」そして取り上げたのは、一九〇一年二月 号の「ハートフォード福音伝導者(エヴアンジエリスト)」誌で、それ が卓上に残った最後だった。「読んでみよう。 著者はファロウという人で「教会音楽の部にあ る記述なんだが」 i所もあろうに日本に於いて、純中世風 の神秘楽人が現存しつつあると云う事は、恐 らく稀中の奇とも云うべきであろう。音楽史 を辿ってさえも、その昔シュツウツインゲン の城苑に於いて、マンハイム選挙侯カアル・テ オドルが、仮面をつけた六人の楽師を養成し たと云う一事に尽きている。此処に於いて予 は、その興味ある風説に心惹かれ、種々策を 廻らして調査を試みた結果、漸く四人の身分 のみを知る事が出来た。即ち、第一提琴奏者の グレーテ・ダンネベルグは、填太利チロル県 マリエンベルグ村狩猟区監長ウルリッヒの三 女。第二提琴奏者ガリバルダ・セレナは伊太 利ブリンデッシ市鋳金家ガリカリニの六女。 ヴィオラ奏者オリガ・クリヴォフは露西亜コ ーカサス州タガンツシースク村地主ムルゴジ の四女。チェロ奏者オット力ール・レヴェズ は洪牙利コンタルッア町医師ハドナックの二 男。何れも各地名門の出である。然し、その 楽団の所有者降矢木算哲博士が、果してカア ル・テオドルの、豪奢なロココ趣味を学んだ ものであるかどうか、その点は全然不明であ ると云わねばならない。  法水の降矢木家に関する資料は、これで尽き ているのだが、その複雑極まる内容は、却って 検事の頭脳を混乱せしむるのみの事であった。 然し、彼が恐怖の色を活べ口諦んだところの、 ウイチグス呪法典という一語のみは、さながら 夢の中で見る白い花のように、何時までもジイ ソと網膜の上にとどまっていた。また一方法水 にも、彼の行手に当って、殺人史上空前ともい う異様な死体が横わっていようとは、その時ど うして予知する事が出来たであろうか。 第一篇 死体と二つの扉を擁って 1 栄光の奇蹟  私鉄丁線も終点になると、其処はもう神奈川 県になっている。そして、黒死館を展望する丘 陵までの間は、樫の防風林や竹林が続いていて、 とにかく其処までは、他奇のない北相模の風物 であるけれども、一旦丘の上に来てしまうと、術 廠した風景が全然風趣を異にしてしまうのだ。 恰度それは、マクベスの所領クオーダーのあっ た-北部蘇古蘭(スコツトランド)そっくりだと云えよう。そこ には木も草もなく、そこまで来るうちには、海 の潮風にも水分が尽きてしまって、湿り気のな い土の表面が灰色に風化していて、それが岩塩 のように見え、凸凹した緩斜の底に真黒な湖水(みずうみ) があろうと云うーそれにさも似た荒涼たる風 物が、摺鉢の底にある培壁(しようへき)まで続いている。そ の賭土褐砂の因をなしたと云うのは、建設当時 移植したと云われる高緯度の植物が、瞬く間に 死滅してしまったからであった。けれども、正 門までは手入れの行届いた自動車路が作られて いて、破培挺崩しと云われる切り取り壁が出張 った主楼の下には、葡(あざみ)と葡萄の葉文が鉄扉を作 っていた。その日は前夜の凍雨の後をうけて、 厚い層をなした雲が低く垂れ下り、ーそれに、気 圧の変調からでもあろうか、妙に人肌めいた生 暖かさで、時折微かに電光(いなずま)が瞬き、口小言のよ うな雷鳴が鈍く癩気(だるげ)に轟いて来る。そういう暗 僻たる空模様の中で、黒死館の巨大な二層楼は ーわけても中央にある礼拝堂の尖塔や左右の 塔櫓が、一刷毛刷いた薄墨色の中に塗抹されて いて、全体が樹脂っぽい単色画(モノクロ ム)を作っていた。  法水は正門際で車を停めて、そこから前庭の 中を歩き始めた。壁廓の背後には、薔薇を絡ま せた低い赤格子の塀があって、その後が幾何学 的な構図で配置された、ル・ノートル式の花苑 になっていた。花苑の縦横に貫いている散歩路 の所々には、列柱式の小亭や水神やサイキ或は 滑稽な動物の像が置かれてあって、赤煉瓦を斜(はす) かいに並べた中央の大路を、碧色の紬瓦(くすりがわら)で縁 取りしている所は、所謂矢筈敷(ヘリング ポ ン)と云うのであ ろう。そして、本館は水松(いちい)の刈込垣で続らさ れ、壁廓の四周には、様々の動物の形や頭文字 を簾状(まがきがた)に刈り込んだ、栂(つが)や糸杉の象徴樹(トピァリ )が並ん でいた。尚、刈込垣の前方には、パルナス群像 の噴泉があって、法水が近附くと、突如奇妙な 音響を発して水煙を上げ始めた。         ウ芋ターサーブライ丸 「支倉君、これが驚駁噴泉と云うのだよ。 あの音も、また弾丸のように水を浴びせるの も、みんな水圧を利用しているのだ」と法水は 飛沫(しぷき)を避けながら、何気なしに云ったけれども、 検事はこのバロック風の弄技物から、何となく 薄気味悪い予感を覚えずにいられなかった。  それから法水は、刈込垣の前に立って本館を 眺め始めた。長い矩形に作られている本館の中 央は、半円形に突出していて、左右に二条の張 出間(アプス)があり、その部分の外壁だけは、薔薇色の 小さな切石を泥膠(モルタル)で固め、九世紀風の粗朴な前 羅馬様式(プレ ロマネスク スタイル)をなしていた。勿論その部分は礼揮 堂に違いなかった。けれども、張出間(アプス)の窓に は、薔薇形窓がアーチ形の格子の中に嵌ってい るのだし、中央の壁面にも、十二宮を描いた彩 色硝子(ステインド グラス)の円華窓のある所を見ると、これ等様式 の矛盾が、恐らく法水の興味を惹いた事と思わ れた。然し、それ以外の部分は、玄武岩の切石 積で、窓は高さ十尺もあろうという二段鎧扉に なっていた。玄関は礼拝堂の左手にあって、も しその打戸環のついた大扉の際に私服さえ見な かったならば、恐らく法水の夢のような考証癖 は、何時までも醒めなかったに違いない。けれ ども、その間でも、検事が絶えず法水の神経を ピリピリ感じていたと云うのは、鐘楼らしい中 央の高塔から始めて、奇妙な形の屋窓や煙突が 林立している辺りから、左右の塔櫓にかけて、 急峻な屋根を一渉り観察した後に、その視線を 下げて、今度は壁面に向けた顔を何度となく顎 を上下させ、そういう態度を数回に渉って繰り 返したからであって、その様子が何となく、算 数的に比較検討しているもののように思われた からだった。果せる哉、この予測は的中した。 最初から死体を見ぬにも拘らず、はや法水は、 この館の雰囲気を摸索(まさぐ)って、その中から結晶の ようなものを摘出して行ったのであった。  玄関の突当りが広間になっていて、其処に控 えていた老人の召使(パトラ )が先に立ち、右手の大階段 室に導いた。そこの床には、リラと暗紅色の七宝 模様が切嵌(モザイク)を作っていて、それと、天井に近い円 廊を廻っている壁画との対照が、中間に無装飾 の壁があるだけ一層引き立って、まさに形容を 絶した色彩を作っていた。馬蹄形に両肢を張っ た階段を上り切ると、そこは所謂階段廊になっ ていて、そこから今来た上空に、もう一つ短い階 段が伸び、階上に達している。階段廊の三方の 壁には、壁面の遙か上方に、中央のカブリエル ・マックス作「腕分図」を挾んで、左手の壁に ジェラール・ダビッドの「シサムネス皮剥死刑 の図」、右手の壁面には、ド・トリーの「一七ニ ○年マルセーユの黒死病(ペスト)」が、掲げられてあっ た。何れも、縦七尺幅十尺以上に拡大摸写した 複製画であって、何故斯かる陰惨なもののみを 選んだのか、その意図が頗る疑間に思われるの だった。然し、そこで法水の眼が素早く飛びつ いたと云うのは「脇分図」の前方に正面を張って 並んでいる、二基の中世甲冑武者だった。何れ も手に雄旗(せいき)の旛棒(けたぼう)を握っていて、尖頭から垂れ ている二様の綴織(ツバネ )が、画面の上方で密着してい た。その右手のものは、クエーカー宗徒の服装 をした英蘭土(イングニノンド)地主が所領地図を拡げ、手に図面 用の英町尺(エ ヵ ざし)を持っている構図であって、左手の ものには、羅馬(ロ マ)教会の弥撒(ミサ)が描かれてあった。 その二つとも、上流家庭にはありきたりな、富貴 と信仰の表徴(シンボル)に過ぎないのであるから、恐らく 法水は看過すると思いの外、却って召使(パトラ )を招き 寄せて訊ねた。 「この甲冑武者は、いつも此処にあるのかね」 「どう致しまして、咋夜からでございます。七時 前には階段の両裾に置いてありましたものが、 八時過ぎには此処まで飛び上って居りました。 一体、誰が致しましたものか?」 「そうだろう。モソテパン侯爵夫人のクラーニ イ荘を見れば判る。階段の両裾に置くのが定法 だからね」と法水はアッサリ頷いて、それから 検事に、「支倉君、試しに持ち上げて見給え。 どうだね、割合軽いだろうρ勿論実用になるも のじゃないさ。甲冑も、十六世紀以来のものは 全然装飾物なんだよ、それも、路易(ルイ)朝に入ると 肉彫の技巧が繊細になって、厚みが要求され、 終いには、着ては歩けない程の重さになってし まったものだ。だから、重量から考えると、無 論ドナテルロ以前、さあ、マッサグリアかサン ソヴィノ辺りの作品かな」 「オヤオヤ、君は何時ファイロ・ブソスになっ たのだね。一口で云えるだろう-抱えて上れ ぬ程の重量ではないって」と検事は痛烈な皮肉 を浴せてから、「然し、この甲冑武者が、階下 にあってはならなかったのか。それとも、階上 に必要だったのだろうか?」 「無論、此処に必要だったのさ。とにかく、三 つの画を見給え。疫病・刑罰・解剖だろう。そ れに、犯人がもう一つ加えたものがあるーそ れが、殺人ぼんだよ」 「冗談じゃない」検事が思わず眼を瞠ると、法 水もやや興奮を交えた声で云った。 「取りも直さず、これが今度の降矢木事件の象 徴(シ ノボル)という訳さ。犯人はこの大旅(たいはい)を掲げて、陰微 のうちに殺戴を宣言している。或は、僕等に対 する、挑戦の意志かも知れないよ。大体支倉 君、,二つの甲冑武者が、右のは右手に、左のは 左手に雄旗の柄を握っているだろう。然し、階 段の裾にある時を考えると、右の方は左手に、 左の方は右手に持って、構図から均斉を失わな いのが定法じゃないか。そうすると、現在の形 は、左右を入れ違えて置いたことになるだろ う。つまり、左の方から云って、富貴の英町(エ カ )旗 ーi信仰の弥撒(ミサ)旗となっ'ていたのが、逆になっ たのだから……そこに怖ろしい犯人の意志が現 われて来るんだ」 「何が?」 「言窃∞(弥撒(ミサ))と98(英町(エ ヵ ))だよ。続けて 読んで見給え。信仰と富貴が、=霧(マツサ)8∩8i(カ )ー 虐殺に化けてしまうぜ」と法水は検事が唖然と したのを見て、「だが、恐らくそれだけの意味 じゃあるまい。いずれこの甲冑武者の位置か ら、僕はもっと形に現われたものを発見(みつ)け出す 積りだよ」と云ってから、今度は召使(バトラ )に、「所 で、昨夜七時から八時までの間に、この甲冑武 者に就いて目撃したものはなかったかね」 「ございません。生憎とその一時間が、私共の 食事に当って居りますので」  それから法水は、甲冑武者を一基一基解体し て、その周囲は、画図と画図との間にある寵形 の壁灯から、控旗の蔭になっている、「脇分図」 の上方までも調べたけれど、一向に得る所はな かった。画面のその部分も背景の外れ近くで、 様々な色の縞が雑然と配列しているに過ぎな かった。それから、階段廊を離れて"上層の階 段を上って行ったが、その時何を思いついたの・ か、法水は突然奇異(ふしぎ)な動作を始めた。彼は中途 まで来たのを再び引き返して、もと来た大階段 の頂辺に立った。そして、衣嚢(かくし)から格子紙(セクシヨン)の手帳 を取り出して、階段の階数をかぞえ、それに何 やら電光形(ジグザグ)めいた線を書き入れたらしい。流石 これには、検事も引き返さずにはいられなかっ た。 「なあに、一寸した心理考察をやったまでの話 さ」と階上の召使(パトラ )を揮りながら、法水は小声で 検事の問いに答えた。「いずれ、僕に確信がつ いたら話す事にするが、とにかく現在(いま)の所で は、それで解釈する材料が何一つないのだから ね。単にこれだけの事しか云えないと思うよ。 先刻階段を上って来る時に、盤、昌察自動車らしい エンジンの爆音が玄関の方でしたじゃないか。 するとその時、あの召使(パトラヨ)は、そのけたたましい 音響に当然消されねばならない、或る微かな音 を聴く事が出来たのだ。いいかね、支倉君、普通 の状態では到底聴くことの出来ない音をだよ」  そういう甚しく矛盾した現象を、法水は如何 にして知る事が出来たのだろうか?然し、彼 はそれに附け加えて、そうは云うものの、あの 召使(バトラ )には毫末の嫌疑もない-1といって、その 姓各さえも聞こうとはしないのだから、当然結 論の見当が荘漠となってしまって、この一事 は、彼が提出した謎となって残されてしまっ た。  階段を上り切った正面には、廊下を置いて、 巌畳な防塞を施した一つの室があった。鉄柵扉 の後方に数層の石段があって、その奥には、金 庫扉らしい黒漆がキラキラ光っている。然し、 その室が古代時計室だという事を知ると、収蔵 品の驚くべき価値を知る法水には、一見莫迦気 て見える蒐集家の神経を頷く事が出来た。廊下 はそこを基点に左右へ伸びていた。一劃毎に扉 が附いているので、その間に燧道(トンネル)のような暗さ で、昼間でも寵の電燈が点っている。左右の壁 面には、泥焼(テラルコツタ)の朱線が彩っているのみで、そ れが唯一の装飾だった。やがて、右手にとった 突当りを左折し、それから、今来た廊下の向う 側に出ると、法水の横手には短い撲廊(そでろうか)が現わ れ、その列柱の蔭に並んでいるのが、和式の具 足類だった。撲廊の入口は、大階段室の円天井 の下にある円廊に開かれていて、その突き当り には、新しい廊下が見えた。入口の左右にある 六弁形の壁燈を見やりながら、法水が撲廊の中 に入ろうとした時、何を見たのか樗然(ぎよつ)としたよ うに立ち止った。 「此処にもある」と云って、左側の据具足(鎧 櫃の上に据えたもの)の一列のうちで、一番手 前にあるのを指差した。その黒毛三枚鹿角立の 兜を頂いた緋絨綴(ひおどししころ)の鎧に、何の奇異があるので あろうか。検事は半ば呆れ顔に反問した。 「兜が取り換えられているんだ」と法水は事務 的な口調で、「向う側にあるのは全部吊具足(宙 吊りにしたもの)だが、二番目の滑革胴の安鎧 に載っているのは、鍛(しころ)を見れば判るだろう。あ れは、位置の高い若武者が冠る獅子噛台星前立 脇細鍬という兜なんだ。また、此方の方は、黒 毛の鹿角立と云う猛悪なものが、優雅な緋絨の 上に載っている。ねえ支倉君、すべて不調和な ものには、邪(よこし)まな意志が潜んでいるとか云う ぜ」と云ってから召使(ぐトラ )にこの事を確かめると、 流石に驚嘆の色を潭べて、 「ハイ、左様でございます。咋夕までは仰言っ た通りでございましたが」と鷹路せずに答えた。  それから、左右に幾つとなく並んでいる具足 の間を通り抜けて、向うの廊下に出ると、、そこ は袋廊下の行き詰りになっていて、左は、本館 の横手にある旋廻階段のテラスに出る扉。右へ 数えて五つ目が現場の室だった.分厚な扉の両 面には、古拙な野生的な構図で、耶蘇(イエス)が幅懐(せむし)を 癒やしている聖画が浮彫になっていた。その一 重の奥に、グレーテ・ダソネベルグが死体と なって横わっているのだった。  扉が開くと、後向きになった二十三四がらみ の婦人を前に、捜査局長の熊城が苦り切って鉛 筆の護護(ゴム)を噛んでいた。二人の顔を見ると、遅 着を智めるように、眺(めじり)を尖らせたが、「法水君、 仏様ならあの帷幕(とぱり)の蔭だよ」と如何にも無愛想 に云い放って、その婦人に対する訊周も止めて しまった。然し、法水の到着と同時に、早くも 熊城が、自分の仕事を放棄してしまったのと云 い、時折彼の表情の中に往来する、放心とでも 云うような鈍い弛緩の影があるのを見ても、帷 幕の蔭にある死体が、彼にどれ程の衝撃を与え たものかーさして想像に困難ではなかったの である。  法水は、まず其処にいる婦人に注目を向け た。愛くるしい二重顎のついた丸顔で、大して 美人と云う程ではないが、円(つぷ)らな瞳と青磁に透 いて見える眼隈と、それから張ち切れそうな小 麦色の地肌とが、素晴らしく魅力的だった。葡 萄色のアフタヌーソを着て、自分の方から故算 哲博士の秘書紙谷伸子(かみやのぷこ)と名乗って挨拶したが、 その美しい声音に引きかえ、顔は恐怖に充ち土 器色に変っていた。彼女が出て行ってしまう と、法水は黙々と室内を歩き始めた。その室は 広々とした割合に薄暗く、おまけに調度が少い ので、ガランとして淋しかった。床の中央に は、大魚の腹中にある約皐(ヨナ)を図案化したコブト 織の敷物が敷かれ、その部分の床は、色大理石  はぜ                   モザィψ と櫨の木片を交互に組んだ車輪模様の切嵌。其 処を挾んで、両辺の床から壁にかけ胡桃(くるみ)と楓(かしわ)の 切組みになっていて、その所々に象眼を鍍(ちりぱ)めら れ、渋い中世風の色沢が放たれていた。そし て、高い天井からは、木質も判らぬ程に時代の 汚斑(しみ)が黒く滲み出ていて、その辺から鬼気とで も云いたい陰惨な空気が、静かに澱み下って来 るのだった。扉ロは今入ったのが一つしかなく、 左手には、横庭に開いた二段鎧窓が二つ、右手 の壁には、降矢木家の紋章を中央に刻み込んで ある大きな壁炉が、数十個の石材で畳み上げら れてあった。正面には、黒い天鷲絨(ビロ ド)の帷幕が鉛 のように重く垂れ、なお扉から援炉に寄った方 の壁側には、三尺程の台上に、裸体の幅懐と有 名な立法者(スクライブ)(埃及(エジプト)彫像)の脚像とが背中合わせ をしていて、窓際寄りの一劃は高い衝立で仕切 られ、その内側に、長椅子と二三脚の椅子卓子(テ ブル)が 置かれてあった。隅の方へ行って人群から遠ざ かると、古くさい徽の匂がプーソと鼻孔を衝い て来る。媛炉棚(マントル ピ ス)の上には埃が五分ほども積っ ていて、帷幕に触れると、咽っぽい微粉が天鷲 絨の織り目から飛び出して来て、それが銀色に 輝き、飛沫のように降り下って来るのだった。 一見して、この室が永年の間使われていない事 が判った。やがて、法水は帷幕を掻分けて内部 を覗き込んだが、その瞬間凡ゆる表情が静止し てしまって、これも背後から、反射的に彼の肩 を掴んだ検事の手があったのも知らず、またそ れから波打つような顛動が伝わってくるのも感 ぜずに、ひたすら耳が鳴り顔が火の様に熾(ほて)って、 彼の眼前にある驚くべきもの以外の世界が、す うっと何処かへ飛び去って行くかのように思わ れた。  見よ! そこに横わっているダンネベルグ 夫人の死体からは、聖らかな栄光が燦然と放た れているのだ。恰度光の霧に包まれたように、 表面から一寸ばかりの空間に、澄んだ青白い光 が流れ、それが全身をしっくりと包んで、陰闘 の中から朦瀧と浮き出させている。その光に は、冷たい清洌な敬虐な気品があって、また、 それに量(ぼつ)とした乳白(ミルク)色の濁りがある所は、奥底 知れない神性の啓示でもあろうか。醜い死面 の陰影は、それがために端正な相に軟げられ、 実に何とも云えない静穏なムードが、全身を覆 うているのだ。その夢幻的な、荘厳なものの中 からは、天使の吹く噺夙(らつぱ)の音が聴えて来るかも 知れない。今にも、聖鐘の股々たる響が轟き始 め、その神々しい光が、今度は金線と化して放 射されるのではないかと思われて来ると、1 ああ、ダソネベルグ夫人はその童貞を讃えられ、 最後の胱惚境に於いて、聖女として迎えられた のであろうかーと、知らず知らず洩れ出て来 る嘆声を、果てはどうする事も出来なくなって しまうのだった。然し、同時にその光は、其処に 立ち列んでいる、阿呆のような三つの顔も照ら していた。法水も漸く吾にかえって調査を始め たが、鎧窓を開くと、その光は薄らいで殆ど見 えなかった。死体の全身はコチコチに硬直して いて、既に死後十時間は十分経過しているもの と思われたが、流石法水は動ぜずに、飽く迄科 学的批判を忘れなかった。彼は口腔内にも光が・ あるのを確かめてから、死体を傭向けて、背に 現われている鮮紅色の屍斑を目がけ、グサリと 小刀(ナイフ)の刃を入れた。そして、死体をやや斜にす ると、ドロリと重たげに流れ出した血液で、忽 ち屍光に量と赤らんだ壁が作られ、それがまる で、割れた霧のように二つに隔てられて行き、 その隙間に、ノタリノタリと血が腕(のた)くって行く 影が印されて行った。検事も熊城も、.到底この 凄惨な光景を直視する事は出来なかった。. 「血液には光はない」と法水は死体から手を離 すと、撫然として咳いた。「今の所では、何と 云っても奇蹟と云うより外にないだろうね。外 部から放たれているものでない事は、とうに明 らかなんだし、燐の臭気はないし、ラジウム化 合物なら皮膚に壊疽(えそ)が出来るし、着衣にもそん な跡はない。正しく皮膚から放たれているん だ。そして、この光には熱も匂もない。所謂冷 光なんだよ」 「すると、これでも毒殺と云えるのか?」と検 事が法水に云うのを、熊城が受けて、 「ウソ、血の色や屍斑を見れば判るぜ。明白な 青酸中毒なんだ。だが法水君、この奇妙な文身(いれずみ) の様な創紋はどうして作られたのだろうか? これこそ、奇を嗜み変異に耽溺する、君の領域 じゃないか」と剛復な彼に似げない自嘲めいた 笑を洩らすのだった。  実に、怪奇な栄光に続いて、法水を瞠目せし めた死体現象がもう一つあったのだ。ダンネベ ルグ夫人が横わっている寝台は、帷幕のすぐ内 側にあって、それは、松毬(まつかさ)形の頂(たて)花を頭飾に し、その柱の上に、レースの天蓋をつけた路易(ルイ) 朝風の桃花木(マホガニ )作りだった。死体は、その殆ど右 外れに傭臥の姿勢で横わり、右手は、背の方へ 捻じ曲げたように甲を磐のうえに置き、左手は 寝台から垂れ下っていた。銀色の髪毛を無造作 に束ねて、黒い綾織の一重服を纏い、鼻先が上 唇まで垂れ下って猶太(ユダヤ)式の人相をしているこの 婦人は、顔をSの字なりに引ん歪め、実に滑稽 な顔をして死んでいた。然し不思議と云うの は、両側の顧額(こめかみ)に現われている、紋様状の切り 創だった。それが、恰度文身の型取りみたいに、 細い尖鋭な針先でスウッと引いたような11表 皮だけを巧妙にそいだ擦切創とでも云う浅い傷 であって、両側ともほぼ直径一寸程の円形を 作っていて、その円の周囲には、短い線条が百 足(むかで)の足のような形で群生している。創口には、 黄ばんだ血清が滲み出ているのみであるが、そ ういう更年期婦人の荒れ果てた皮膚に這いずっ ているものは、凄美などと云う感じよりかも、 寧ろ、乾燥(ひから)びた蠕虫の死体のようでもあり、ま た、不気味な鞭毛虫が排泄する、長い糞便のよ うにも思われるのだった。そして、その生因 が、果して内部にあるのか外部にあるのかー その推定すら困難な程に、難解を極めたもの だった。然し、その凄惨な顕微鏡(ミクロ)模様から離れ            た法水の眼は、期せず            して検事の視線と合し / 是(ミ) 巧 4、  \ 円 た。そして、暗黙のう ちに、或る標然とした ものを語り合わねばな らなかった。何となれ ば、その創の形が、ま さしく降矢木家の紋章 の一部をつくっている、フィレソツェ市章の二 十八葉轍橿冠に外ならないからであった。 2テレーズ吾を殺せり 「どう見ても、僕にはそうとしか思えない」と 検事は何度も吃りながら、熊城に降矢木家の紋 章を説明した後で、「何故犯人は、息の根を止 めただけでは足らなかったのだろうね。どうし てこんな、得体の判らぬ所作(しぐさ)までもしなければ ならなかったのだろう?」 「所がねえ支倉君」と法水は始めて莫(たばこ)を口に街 えた。「それよりも僕は、いま自分の発見に惜 然(がくつ)としてしまった所さ。この死体は、彫り上げ た数秒後に絶命しているのだよ。つまり、死後 でもなく、また、服毒以前でもないのだがね」 「冗談じゃないぜ」と熊城は思わず呆れ顔に なって、これが即死でないのなら、一つ君の説 明を承ろうじゃないかL  といきり立つのを、法水は駄々児を諭すよう な調子で、 「ウン、この事件の犯人たるや、如何にも神速 陰険で、兇悪極りない。然し、僕の云う理由は 頗る簡単なんだ。大体君が、強度の青酸(シヤン)中毒と 云うものを余り誇張して考えているからだよ。 呼吸筋は恐らく瞬間に麻痺してしまうだろう が、心臓が全く停止してしまう迄には、少くと も、それから二分足らずの時間はあると見て差 支えない。所が、皮膚の表面に現われる死体現 象と云うのは、心臓の機能が衰えると同時に現 われるものなんだがねLそこで一寸言葉を切っ て、まじまじと相手を瞬めていたが、「それが 判れば、僕の説に恐らく異議はないと思うね。■ 所で、この創は巧妙に表皮のみを切り割ってい る。それは、血清だけが滲み出ているのを見て も、明白な事実なんだが、通例生体にされた場 合だと、皮下に溢血が起って創の両側が腫起し て来なければならない1如何にも、この創口 にはその歴然としたものがあるのだ。所が、剥 がれた割れ口を見ると、それに痂皮(かさかわ)が出来てい ない。まるで透明な雁皮としか思われないだろ う。が、この方は明らかな死体現象なんだよ。 然しそうなると、その二つの現象が大変な矛盾 を惹き起してしまって、創がつけられた時の生 理状態に、てんで説明がつかなくなってしまう だろう。だから、その結論の持って行き場は、 爪や表皮がどういう時期に死んでしまうもの か、考えればいい訳じゃないか」  法水の精密な観察が、却って創紋の謎を深め た感があったので、その新しい戦傑のために、 検事の声は全く均衡を失っていた。 「万事剖見を待つとしてだ。それにしても、屍 光のような超自然現象を起しただけで飽き足ら ずに、その上降矢木の烙印(やきいん)を押すなんて……。 僕には、この清浄な光がひどく淫(サデ).虐的(イステイツク)に思え て来たよ」 「いや、犯人は決して、見物人を欲しがっちゃ いないさ。君がいま感じたような、心理的な障 害を要求しているんだ。どうして彼奴が、そん な病理的な個性なもんか。それに、全く以て創 造的だよ。だがそれをハイルブロンネルに云わ せると、一番淫虐的(サデイステイツク)で独創的なものを、小児 だと云うがね」と法水は暗く微笑んだが、「所 で熊城君、死体の発光は何時(いつ)頃からだね」と事 務的な質問を発した。 「最初は、卓子灯(スタンド)が点いていたので判らなく なったのだ。所が、十時頃だったが、一通り死 体の検案からこの一劃の調査が終っだので、鎧 扉を閉じて卓子灯(スタンド)を消すと…-」と熊城はグ ビッと唾を嚥み込んで、「だから、家人は勿論 の事だが、係官の中にも知らないものがあると 云う始末だよ。所で、今まで聴取して置いた事 実を、君の耳に入れて置こう」と概略の顛末を 語り始めた。 「昨夜家内中である集会を催して、その席上で ダンネベルグ夫人が卒倒したーそれが恰度九 時だったのだ。それからこの室で介抱する事に なって、回書掛りの久我鎮子(くがしずこ)と給仕長の川那部 易介(かわたべやすすげ)が徹宵附添っていたのだが、十二時頃被害 者が食べた洋橿(オレンジ)の中に、青酸加里が仕込まれて あったのだよ。現に、口腔(くち)の中に残っている果 肉の噛津(かみかす)からも、多量の物が発見されている し、何より不思議な事には、それが、最初口に入 れた一房にあったのだ、だから、犯人は偶然最初 の一発で、的の黒星を射当てたと見るより外に なかろうと思うね。他の果房(ふさ)はこの通り残って いても、それには、薬物の痕跡がないのだよ」 「そうか、洋橿(オレンジ)に"」と法水は、天蓋の柱を微 かに揺ぶって咳いた。「そうすると、もう一つ 謎が殖えた訳だよ。犯人には、毒物の知識が皆 無だと云う事になるぜ」 「所が、使用人のうちには、これと云う不審な 者はいない。久我鎮子も易介も、ダンネベルグ 夫人が自分の果物皿の中から選んだと云ってい る。それに、この室は十一時半頃に鍵を下して しまったのだし、硝子窓も鎧扉も菌(きのニ)のように錆 がこびり付いていて、外部から侵入し形跡は勿 論ないのだよ。然し妙な事には、同じ皿の上に あった梨の方が、夫人にとると、遙かより以上 の嗜好物だそうなんだ」 「なに、鍵が?」と検事は、それと創紋との間 に起った矛盾に、愕然とした様子だったけれど も、法水は依然熊城から眼を離さず、突樫負(つつけんどん)に 云い放った。 「僕は決して、そんな意味で云っていやしな い。青酸に洋橿(オレンジ)という痴面(どうけめん)を被せているだけ に、それだけ、犯人の素晴らしい素質が怖ろし くなって来るのだ。考えても見給え。あれ程際 立った異臭や特異な苦味のある毒物を、驚く じやかいか、致死量の十何倍も用いている。し かも、その仮装迷彩(カムフラ ジユ)に使っているのが、そうい う性能の極めて乏しい洋橋(オしンジ)と来ているんだ。ね え熊城君、それ程稚拙も甚しい手段が、どうして こんな魔法のような効果を収めたのだろうか。 何故ダンネベルグ夫人は、その洋橿(オレンジ)のみに手を 伸ばしたのだろうか。つまり、その驚くべき撞 着たるやが、毒殺者の誇りなんだ。まさに彼 等にとれば、ロムバルジア巫女(ストリゲス)の出現以来、永 生不滅の崇拝物(ト テム)なんだよL  熊城は呆気にとられたが、法水は思い返した ように訊ねた。 「それから、絶命時刻は?」 「今朝八時の検屍で死後八時間と云うのだか ら、絶命時刻も、洋燈(オレンジ)を食べた時刻とピッタリ 符合している。発見は暁方の五時半で、それま で附添は二人共に、変事を知らなかったのだ し、また、十一時以後は誰もこの室に入った者 がなかったと云うのだし、家族の動静も一切不 明だ。で、その洋榿(オレンジ)が載っていた、果物皿と云 うのがこれなんだがね」  そう云って熊城は、寝台の下から銀製の大皿 を取り出した。直径が二尺に近い蓋形(さかずき)をした もので、外側には露西亜(ルツソ)ビザンチン特有の生硬 な線で、アイプソウフスキーの旬奴(フン)族馴鹿(トナカイ)狩の 浮彫が施されていた。皿の底には、空想化され た一匹の爬虫類が逆立していて、頭部と前肢が上 台になり、刺の生えた胴体がくの字なりに轡曲 して、後肢と尾とで皿を支えている。そして、 そのくの字の反対側には、半円形の把手(にぎり)が附い ていた。その上にある梨と洋橿(オレンジ)は全部二.つに戴 ち割られていて、鑑識検査の跡が残されている が、無論毒物は、それ等の中にはなかったもの らしい。然し、ダソネベルグ夫人を驚した一つ には、際立った特徴が現われていた。それが、 他にある洋橿(オレンジ)とは異り、所謂櫨色(だいだいいろ)ではなくて、 寧ろ熔岩(ラヴア)色とでもいいたい程に赤味の強い、大 粒のブラット種だった。しかも、その諸黒く熟 れ過ぎているところを見ると、まるでそれが、 凝固しかかった血糊のように薄気味悪く思われ るのであるが、その色は妙に神経を唆るのみの 事で、勿論推定の端緒を引き出すものではな かった。そして、箒(へた)のない所から推して、そこ から泥状の青酸加里が注入されたものと推断さ れた。  法水は果物皿から眼を離して、室内を歩き始 めた。帷幕で区劃(くぎ)られているその一劃は、前方 の室と著しく趣を異にしていて、壁は一体に灰   モルタル 色の泥膠で塗られ、床には同じ色で、無地の絨 毯が敷かれてあって、窓は前室のよりもやや小 さく、幾分上方に切られてあるので、内部は遙 かに薄暗かった。灰色の壁と床、それに黒い帷 幕1-と云えば、その昔ゴーズン・クレイグ時代 の舞台装置を想い出すけれども、そういう外見 生動に乏しい基調色が、尚一層この室を沈欝な ものにしていた。此処もやはり、前室と同様荒 れるに任せていたらしく、歩くにつれて、壁の 上方から層をなした埃が摺り落ちて来る。室内 の調度は、寝台の側に大酒露形の立卓笥(キヤビネット)があ るのみで、その上には、芯の折れた鉛筆をつけた メモと、被害者が臥る時に取り外したらしい近 視二十四度の騎甲眼鏡、それに、描き絵の絹覆(シエ ド) をつけた卓子灯(スタンド)とが載っていた。近視鏡もその 程度では、ただ輪郭が量(ぼつ)とするのみのことで、 事物の識別は殆ど明瞭に附く筈であるから、そ れには一顧する価値もなかった。法水は、画廊 の両壁を観賞して行くような足取りで、悠(ゆつた)り歩 を運んでいたが、その背後から検事が声をかけ た。 「やはり法水君、奇蹟は自然の凡ゆる理法の彼 方にありーかね」 「ウソ、判ったのはこれだけだよ」と法水は味 のない声を出した。「まるで犯人はテルみたい に、たった一矢で、露(む)き出しよりも酢い青酸 を、相手の腹の中へ打ち込んでいるのだろう。 つまり、その最終の結諭に達するまでに、光と 創紋を現わすものが必要だったと云う事だ。云 わばあの二つと云うのは、犯行を完成させるた めの補強作用であって、その道程に欠いてはな らぬ、深遠な学理だと見て差支えない」 「冗談じゃない。余り空論も度が過ぎるぜ」と 熊城は呆れ返って横槍を入れたが、法水は平然 と奇説を続けた。 「だって、鍵を下した室内に侵入して来て、一 二分のうちに彫らねばならない。そうなると、 クライルじゃないがね。無理でも不思議な生理 を目指すより仕方があるまい。それに、疑問は まだ、後へ捻れたような右手の形にも、それか ら、右肩にある小さな鉤裂きにもあるのだ」 「いや、そんなことはどうでもいいんだ」熊城 は吐きだすように、「腹ん這いで洋樗(オレンジ)を嚥み込 んで、瞬間無抵抗になるーたった、それだけ の話なんだよ」 「ところがねえ熊城君、アドルフーヘンケの古 い法医学書を見ると、一人の淫売婦が、腕を身 体の下にかって横向きになった姿勢のままで毒 を仰いだのだが、瞬間の衝撃(シヨツク)を喰うと、却って 痺れた方の腕が動いて、瓶を窓から河の中へ 投げ捨てたと云う面白い例が載っているぜ。だ から一応は、最初の姿体を再現してみる必要が あると思うね。それから死体の光は、アヴリノ の『聖僧奇蹟集』などに……L 「成程、坊主なら、人殺しに関係あるだろう」 と熊城は露骨に無関心を装ったが、急に紳経的 な手附になって、衣嚢(かくし)から何やら取り出そうと した。法水は振り向きもせず、背後に声を投げ て、 「ところで熊城君、指紋は?」 「説明のつくものなら無数にある。それに、咋 夜この空室に被害者を入れた時だが、その時寝 台の掃除と、床だけに真空掃除器を使ったとい うからね。生憎足跡といっては何もない始末 だ」 「フム、そうか」そういって法水が立ち止った のは、突当りの壁前だった。そこには、さしず め常人ならば、顔あたりに相当する高さで、最 近何か、額様のものを取り外したらしい跡が 残ってい、それが極めて生々しく印されてあっ た。ところが、そこから折り返して旧(もと)の位置に 戻ると、法水は卓子灯(スタンド)の中に何を認めたもの か、不意(いきなり)検事を振向いて、 「支倉君、窓を閉めてくれ給え」と云った。  検事はキョトンとしたが、それでも、彼のい う通りにすると、法水は再び死体の妖光を浴び ながら、卓子灯(スタンド)に点火した。そうなって始めて 検事に判ったのは、その電球が、昨今は殆ど見 られない炭素(カ ボン)球だと云う事で、恐らく、急場に 間に合わせた調度類が、永らく蔵われていたも のであろうと想像された。法水の眼はその賭(あか)っ 茶けた光の中で、覆(シエ ド)の描く半円を暫く追うてい たが、いま額の跡を見付けたばかりの壁から一 尺程前の床に、何やら印をつけると、室は再び 旧に戻って、窓から乳色の外光が入って来た。 検事は窓の方へ溜めていた息をフウッと吐き出 して、 「一体、何を思い付いたんだ?」 「なにね、僕の説だってその実グラグラなんだ から、試しに、眼で見えなかった人間を作り上 げようとしたところさ」と法水は気紛れめいた 調子で云ったが、その語尾を掬い上げるような 語気と共に、熊城は一枚の紙片を突き出した。 「これで、君の謬説(びゆうせつ)が粉砕されてしまうんだ。 何も苦しんでまで、そんな架空なものを作り上 げる必要はないさ。見給え。昨夜この室には、 事実想像もつかない人物が忍んでいたのだ。そ れを洋橿(オレンジ)を口に含んだ瞬間に知って、ダソネベ ルグ夫人が僕等に報らせようとしたのだよ」  その紙片の上に書かれてある文字を見て、法 水はギュッと心臓を掴まれたような気がした。 検事は、寧ろ呆れたように叫んだ。 「テレーズ! これは自動人形じゃないか」 「そうなんだよ。これにあの創紋を結びつけた なら、よもや幻覚とは云われんだろうLと熊城 も低く声を標わせた。「実は、寝台の下に落ち ていたんだが、それをこのメモと引合わせてみ て、僕は全身が懐(おぞげ)毛立った気がした。犯人は正 しく人形を使ったに違いないのだ」  法水は相変らず衝動的な冷笑主義(シニシズム)を発揮し て、 「成程、土偶(でく)人形に悪魔学(デモノロジイ)か1犯人は、人類 の潜在批判を狙っているんだ。だが、珍しく古 風な書体だな。まるで、半大字形(アイリツシユ)か波斯文(ネスキ )字み たいだ。でも君は、これが被害者の自署だとい う証明を得ているのかい?」 「無論だとも」熊城は肩を揺って、「実は、君 達が来た時にいたあの紙谷伸子という婦人が、 僕にとると最後の鑑定者だったのだ。で、ダン ネベルグ夫人の癖と云うのはこうなんだ。鉛筆 の中程を、小指と薬指との間に挾んで、それを 斜にしたのを、栂指と人差指とで摘んで書くそ うだがね。そう云った訳で、夫人の筆蹟は一寸 真似られんそうだよ。それに、この擦れ具合が、 鉛筆の折れた尖(レごとさ)とピッタリ符合している」  検事はブルッと胴標いして、 「怖ろしい死者の暴露じゃないか。それでも法 水君、君は?」 「ウム、どうしても人形と創紋を不可分に考え なけりゃならんのかな」と法水も浮かぬ顔で咳 いた。「この室がどうやら密室臭いので、出来 る事なら幻覚と云いたいところさ。けれども、 現実の前には、段々とその方へ引かれて行って しまうよ。いや却って人形を調べてみたら、創 紋の謎を解くものが、その機械装置からでも掴 めるかも知れない。何にしても、こう立て続け に、真暗な中で異妖な鬼火ばかり見せられてい るのだからね。光なら、どんな微かなものでも 欲しい矢先じゃないか。とにかく、家族の訊問 は後にして、取り敢えず人形を調べる事にしよ うL  それから人形のある室へ行く事になって、私 服に鍵を取りにやると、間もなくその刑事は興 奮して戻って来た。 「鍵が紛失しているそうです、それに薬物室の も」 「止むを得なけりゃ叩き破るまでの事だ」と法 水は決心の色を浸べて、「だが、そうなると、 調べる室が二つ出来てしまった事になる」 「薬物室もか」今度は検事が驚いたように云っ た。「大体青酸加里なんて、小学生の昆虫採集 箱の中にもあるものだぜ」  法水は関(かま)わず立ち上って扉の方へ歩みなが ら、 「それがね、犯人の智能検査なんだよ。つま り、その計画の深さを計るものが、鍵の紛失し た薬物室に残されているように思われるんだ」  テレーズ人形のある室は、大階段の後方に当 る位置で、間に廊下を一つ置き、恰度「肺分 図」の真後にあたる、袋廊下の突き当りだっ た。扉(ドア)の前に来ると、法水は不審な顔をして、 眼前の浮彫を瞬(みつ)め出した。 「この扉(ドア)のは、ヘロデ王ベテレヘム嬰児虐殺之 図と云うのだがね。これと、死体のある室の、 せむし                           ふく 幅棲治療之図の二枚は、有名なオットー三世福 音書(いれしニ)の中にある挿画なんだよ。そうなると、そ こに何か脈絡でもあるのかな」と小首を傾げな がら、試みに扉(ドア)を押したが、それは微動さえも しなかった。 「尻込みする事はない。こうなれば、叩き破る 迄の事さ」熊城が野生的な声を出すと、法水は 急に遮り止めて、 「浮彫を見たので、急に勿体なくなったよ。そ れに、響(ひびき)で跡を消すといかんから、下の方の板 をそっと切り破ろうじゃないか」  やがて、扉の下方に空けられた四角の穴から 潜り込むと、法水は懐中電燈を点じた。円い光 に映るものは壁面と床だけで、何一つ家具らし いものさえ、なかなかに現われ出ては来ない。 が、そのうち右辺からかけて室を一周し終ろう とする際に、思いがけなくも、法水のすぐ横手 -扉から右寄りの壁に闇が破れた。そして、 そこからフウッと吹き出した鬼気と共に、テレ ーズ・シニョレの横顔が現われたのであった。 面の恐怖と云えば誰しも経験する事だが、たと えば、白昼でも古い社(やしろ)の額堂を訪れて、破風(はふ)の 格子扉に掲げている能面を眺めていると、まる で、全身を逆さに撫で上げられるような不気味 な感覚に襲われるものだ。まして、この事件に 妖異な雰囲気を醸し出した当のテレーズが、荒 れ煤けた室の暗闇の中から、量(ぼつ)と浮き出たの であるから、その瞬間、三人がハッとして息を 窒(つ)めたのも無理ではなかった。窓に微かな閃光 が燦めいて、鎧扉の輪郭が明瞭に浮び上ると、 遠く地動のような雷鳴が、おどろと這い寄って 来る。そうした凄槍な空気の中で、法水は凝然 と眼を見据え、眼前の妖しい人型を瞬め始めた ーああ、この死物の人形が森閑とした夜半の 廊下を。  開閉器(スイツチ)の所在が判って、室内が明るくなっ た。テレーズの人形は身長五尺五六寸ばかりの 蝋着せ人形で、格橋(トレリス)型の層襲を附けた青藍色の スカートに、これも同じ色の上衣(フロツク)を附けてい た。像面からうける感じは、愛くるしいと云う よりも、寧ろ異端的な美しさだった。半月形を したルーベソス眉や、唇の両端が釣り上った所 謂覆舟口などと云うのは、元来淫(みだら)な形とされて いる。けれども、妙にこの像面では鼻の円みと 、調和していて、それが、蕩け去るような処女の 憧保を現わしていた。そして、精緻な輪郭に包 まれ、捲毛の金髪を垂れているのが、トレヴィ ーユ荘の佳人テレーズ・シニョレの精確な複製 だったのである。光をうけた方の面は、今にも 血管が透き通ってでも見えそうな、如何にも生 生しい輝きであったが、巨人のような体躯との 不調和はどうであろうか。安定を保つために、 肩から下が恐ろしく大きく作られていて、足蹄(あしうら)  の如きは、普通人の約三倍もあろうかと思われ る広さだった。法水は考証気味な視線を休めず  に、 「まるで騎士埴輪(ゴ レム)か鉄(くろがね)の処女としか思われん ね、これがコペッキーの作品だと云うそうだ が、さあプラーグと云うよりも、体躯の線は、 バーデンバーデソのハソス・ヴルスト(融牌吻)に 近いね。この簡素な線には、他の人形には求 められない無量の神秘がある。算哲博士が本格 的な人形師に頼まないで、これを大きな操人形(マリオネツト) に作ったのは、如何にもあの人らしい趣味だと 思うよ」 「人形の観賞は、何れ悠くりやって貰う事にし てだ」と熊城は苦々し気に顔を餐めたが、「そ れより法水君、鍵が内側から掛っているんだ ぜ」 「ウソ驚くべきじゃないか。然し、真逆に犯人 の意志で、この人形が遠感的(テレパシツク)に動いたと云う訳 じゃあるまい」  鍵穴に突込まれている飾付の鍵を見て、検事 は傑然としたらしかったが、足許から始めて、 床の足型を追い始めた。跡方もなく入り乱れて いる、扉口から正面の窓際にかけての床には、 大きな扁平な足型で、二回往復した四条(すじ)の跡が 印されていて、それ以外には、扉口から現在人 形のいる場所に続いている一条のみだった。然 し、何より驚かされたのは、肝腎の人間のも のがないと云うことだった。検事が頓狂な声を 揚げると、それを、法水は皮肉に嘘い返して、 「どうも頼りないね。最初犯人が人形の歩幅通 りに歩いて、その上を後で人形に踏ませる。そ うしたら、自分の足跡を消してしまう事が出来 るじゃないか。そして、それから以後の出入は、 その足型の上を踏んで歩くのだ。然し、昨夜こ の人形のいた最初の位置が、もし扉口でなかっ 、たとしたら、昨夜はこの室から、一歩も外へ出 なかったと云う事が出来るのだよ」  「そんな莫迦気た証跡が」熊城は摘癩を抑える ような声を出して、「一体何処で足跡の前後が 証明されるね?」  「それが、洪積期の減算(びきざん)なんだよ」と法水もや り返して、「と云うのは、最初の位置が扉口で ないとすると、四条の足跡に、一貫した説明が 附かなくなってしまうからだ。つまり、扉口か ら窓際に向っている二条のうちの一つが、一番 最後に剰ってしまうのだよ。で仮りに、最初、 人形が窓際にあったとして、まず犯人の足跡を 踏みながら室を出て行き、そして再び、旧の位 置まで戻ったと仮定しよう。そうすると、続い てもう一度、今度は扉に、鍵を下すために歩か なければならない。ところが見た通り、それが 扉の前で、現在ある位置の方へ曲っているのだ から、残った一条が全然余計なものになってし まう。,だから、往復の一回を、犯人の足跡を消 すためだとすると、其処からどうして、窓の方  へもう一度戻さなければならなかったのだろう 、か。窓際に置かなければ、何故人形に鍵を下さ せる事が出来なかったのだろう」  「人形が鍵をかけるー?こ検事は呆れて叫んだ。  「それ以外に誰がするもんか」と知らぬ聞に、 法水は熱を帯びた口調になっていて、「然し、 その方法となると、相変らず新しい趣向(アイデァ)ではな い。十年一日の如くに、犯人は糸を使っている んだよ。ところで、僕の考えている事を実験し て見るかなL  そして、鍵がまず扉の内側に突っ込まれた。 けれども、彼が一旬日程以前、聖(セント)アレキセイ寺 院のジナイーダの室に於いて臓(か)ち得た之ころの 成功が、果して今回も、繰り返されるであろう かどうかー-それが頗る危ぶまれた。と云うの は、その古風な柄の長い鍵は、把手(ノツプ)から遙かに 突出していて、前回の技巧を再現する事が殆ど 望まれないからであった。二人が見戊(まも)っている うちに、法水は長い糸を用意させて、それを外 側から鍵孔を潜らせ、最初鍵の輪形の左側を巻 いてから、続いて下から掬って右側を絡め、今 度は上の方から輪形の左の根元に引っ掛けて、 余りを検事の胴に続(めぐ)らし、その先を再び鍵穴を 通して廊下側に垂らした。そうしてから、 「まず支倉君を人形に仮定して、それが窓際か ら歩いて来たものとしよう。然し、それ以前に 犯人は、最初人形を置く位置に就いて、正確な 測定を遂げねばならなかった。何にしても、扉 の閾(しきい)の際で、左足が停まるように定める必要が あったのだ。何故なら、左足がその位置で停ま ると、続いて右足が動き出しても、それが中途 で閾(しきい)に逼(つか)えてしまうだろう。だから、後半分の 余力が、その足を軸に廻転を起して、人形の左 足が次第に後退りして行く。そして、完全に横 向きになると、今度は扉と平行に進んで行くか らだよ」 「それから、熊城には扉の外で二本の糸を引か せ、検事を壁の人形に向けて歩かせた。そうし ているうちに、扉の前を過ぎて鍵が後方になる と、法水はその方の糸をグイと熊城に引かせ た。すると、検事の身体が張り切った糸を押し て行くので、輪形の右側が引かれて、見る見る 鍵が廻転して行く。そして、掛金が下りてし まうと同時に、糸は鍵の側でブツリと切れて しまったのだ。やがて、熊城は二本の糸を手に して現われたが、彼は切なそうな溜息を吐い て、 「法水君、君は何と云う不思議な男だろう」 「けれども、果して人形がこの室から出たかど うか、それを明白に証明するものはない。あの 一回余計の足跡だっても、まだまだ僕の考察だ けでは足りないと思うよ」と法水は、最後の駄 目を押して、それから、衣裳の背後にあるホッ クを外して観音開きを開き、体内の機械装置を 覗き込んだ。それは、数十個の時計を集めた 程に精巧を極めたものだった。幾つとなく大小 様々た歯車が並び重なっている間に、数段にも 自動的に作用する複雑な方舵機があり、色々な 関節を動かす細い真鎗棒が後光のような放射線 を作っていて、その間に、螺旋を巻く突起と制 動機とが見えた。続いて熊城は、人形の全身を 嗅ぎ廻ったり、拡大鏡で指紋や指型を探し始め たが、何一つ彼の神経に触れたものはなかった らしい。法水はそれが済むのを待って、 「とにかく、人形の性能は多寡の知れたものだ よ。.歩き、停り、手を振り、物を握って離す -ーそれだけの事だ。仮令(たとえ)この室から出たにし ても、あの創紋を彫るなどとは飛んでもない妄 想さ。そろそろダンネベルグ夫人の筆跡も幻覚 に近くなったかな」と思う壼らしい結論を云っ たけれども、然し彼の心中には、薄れ行った人 形の影に代って、到底拭い去る事の出来ない疑 問が残されてしまった。法水は続いて、 「だが熊城君、犯人は何故、人形が鍵を下した ように見せなければならなかったのだろうね。 尤も、事件にグイグイ神秘を重ねて行こうとし たのか、それとも、自分の優越を誇りたいため でもあったかも知れない。然し、人形の神秘を 強調するのだとしたら、却ってそんな小細工を やるよりも、いっそ扉を開け放しにして、人形 の指に洋橋(オレンジ)の汁でも附けて置いた方が効果的 じゃないか。ああ、犯人はどうして僕に、糸(ヘヘ)と 人形(ヘヘヘ)の技巧(トリツクヘ)を土産(ヘヘヘ)に置(ヘヘ)いて行(ヘヘ )ったのだろう?(ヘヘヘヘヘ)」 と斬く懐疑に悶えるような表情をしていたが、 「とにかく、人形を動かして見る事にしよう」 と云って眼の光を消した。  やがて、人形は非常に緩慢な速度で、特有な 機械的な無器用な恰好で歩き出した。ところ が、そのコトリと踏む一歩毎に、リリリーン、リ リリーンと、囁くような美しい顧音が響いて来 たのである。それは正しく金属線の震動音で、 人形の何処かにそう云う装置があって、それが 体腔の空洞で共鳴されたものに違いなかった。 こうして、法水の推理に依って、人形を裁断する 機微が紙一枚の際(きわ)どさに残されたけれども、今 聴いた音響こそは、正しくそれを左右する鍵の ように思われた。この重大な発見を最後に、三 人は人形の室を出て行ったのであった。  最初は、続いて階下の薬物室を調べるような 法水の口吻だったが、彼は俄かに予定を変、一ん て、古式具足の列んでいる供廊(そでろうか)の中に入って 行った。そして、円廊に開かれている扉際に立 ち、じっと前方に瞳を凝らし始めた、円廊の対 岸には、二つの驚くほど漬神(とくしん)的な石灰画(っノレスコ)が壁面 を占めていた。右側のは処女受胎の図で、如何 にも貧血的な相をした聖母(マリヤ)が左端に立ち、右方 には旧約聖書の聖人達が集っていて、それがみ な掌で両眼を覆い、その聞に立ったエホバが一 性慾的な眼でじいっと聖母(マリヤ)を膿めている。左側 の「カルバリ山の翌朝」とでも云いたい画因の ものには、右端に死後強直を克明な線で現わし た十字架の耶蘇があり、それに向って、怯儒(きようだ)な 卑屈な恰好をした使徒達が、怖る怖る近寄って 行く光景が描かれていた。法水は取り出した莫(たばこ) を、思い直したように函(ケ ス)の中に戻して、途方も ない質問を発した。 「支倉君、君はボードの法則を知っているかい 1海王星以外の惑星の距離を、簡単な倍数公 式で現わして行くのを。もし知っているのな ら、それを、この供廊でどう云う具合に使う ね」 「ボードの法則η」検事は奇問に驚いて問い返 したが、重なる法水の不可解な言動に、熊城と 苦々しい視線を合わせて、「それでは、あの二 つの画に君の空論を批判して貰うんだね。どう だい、あの辛辣な聖書観はc多分、あんな絵が 好きらしいフォイエルバッハという男は、君み たいな飾弁家じゃなかろうと旧心うんだ」  然し、法水は却って検事の言に微笑を洩らし て、それから排廊を出て死体のある室に戻る と、そこには驚くべき報告が待ち構えていた。 給仕長川那部易介が何時の間にか姿を消してい ると云う事だった。昨夜図書掛りの久我鎮子と 共にダソネベルグ夫人に附添っていて、熊城の 疑惑が一番深かったのであるが、それだけに、 易介の失殊を知ると、彼はさも満足気に両手を 操みながら、 「すると、十時半に僕の訊問が終ったのだか ら、それから鑑識課員が掌紋を採りに行ったと 云う1現在一時までの間だな、そうそう法水 君、これが易介を模本(モデル)にしたと云うそうだが」 と、扉の脇にある二人像を指差して、「この事 ・は、僕には既(とう)から判っていたのだよ。あの株儒(こびと) の幅棲(せむし)が、この事件でどう云う役を勤めていた かーだ。だが、なんという莫迦(ぱか)な奴だろう。 彼奴は、自分の見世物的な特徴に気が附かない のだ」  法水はその間、軽蔑したように相手を見てい たが、  「そうなるかねえ」と一言反対の見解を灰めか しただけで、像の方に歩いて行った。そして、 立役者(スクライプ)の脚像と背中を合わせている幅棲の前に 玄つと、 「オヤオヤ、この幅棲(せむし)は癒っているんだぜ。不 思議な暗合じゃないか。扉の浮彫では耶蘇に治 療をうけているのが、内部に入ると、すっかり 全快している。そしてあの男は、もう多分唖に ちがいないのだ」と最後の一言を極めて強い語 気で云ったが、俄かに悪寒(おかん)を覚えたような顔付 になって、物腰に神経的なものが現われて来 た。  然し、その像には依然として変りはなく、扁 平な大きな頭を持った幅優が、細く下った眼尻 に狡そうな笑を湛えているに過ぎなかった。そ の間、何やら認(したた)めていた検事は、法水を指招(さしまね)い て、卓上の紙片を示した。それには次のような 箇条書で、検事の質問が記されてあった。  一、法水は大階段の上で、常態では到底聞え  ぬ音響を召使が聴いたのを知ったと云うー  その結論は?  二、法水は撲廊で何を見たのであるか?  三、法水が卓子灯(スクンド)を点けて、床を計ったの  は?  四、法水はテレーズ人形の室の鍵に、何故逆  説的な解釈をしようと、苦しんでいるのであ  るか?  五、法水は何故に家族の訊問を急がないの  か?  読み終ると、法水は莞爾として、一・二・五 の下にーを引(ダツシユ)いて解答と書き、もし万(ヘヘヘヘ)に一(ヘヘ)つ の幸(ヘヘヘ)い吾(ヘヘ)にあらば、犯人(ヘヘヘヘヘヘ)を指摘(ヘヘヘ)する人物(ヘヘヘヘ)を発見(ヘヘ) するやも知(ヘヘヘヘヘヘ)れず(第(ヘ)二或は第三の事件)1と 続いて認めた。検事が吃驚して顔を上げると、 法水は更に第六の質問と標題を打って、次の一 行を書き加えた。1甲冑武者は如何なる目的 の下に、階段の裾を離れねばならなかったのだ ろう? 「それは、君がもう」と検事は眼を瞠って反問 したが、その時扉が静かに開いて、最初呼ばれ た図書掛りの久我鎮子が入って来た。     3 屍光故なくして(へ)は  久我鎮子の年齢は、五十を過ぎて二つ三つと 思われたが、嘗つて見た事のない典雅な風貌を 具えた婦人だった。まるで繋(のみ)ででも仕上げたよ うに、繊細を極めた顔面の諸線は、容易に求め られない儀容と云うの外はなかった。それが時 折引き締ると、そこから、この老婦人の、動じ ない鉄のような意志が現われて、隠遁的な静か な影の中から、焔のようなものがメラメラと立 ち上るような思いがするのだった。法水が何よ り先に、この婦人の精神的な深さと、総身から 滲み出てくる、物々しいまでの圧力に打たれざ るを得なかった。 「貴方は、この室にどうして調度が少いのか、 お訊きになりたいのでしょう」鎮子が最初発し た言葉が、こうであった。 「今まで、空室だったのでは」と検事が口を挾 むと、 「そう申すよりも、明けずの間と呼びました方 が」と鎮子は無遠慮な訂正をして、帯の間から 取り出した細巻に火を点じた。「実は、お聴き 及びでも御座いましょうが、あの変死事件1 それが三度とも続けてこの室に起ったからでご ざいます。ですから、算哲様の自殺を最後とし て、この室を永久に閉じてしまう事になりまし た。この彫像と寝台だけは、それ以前からある 調度だと申されて居りますが」 「明けずの間に」法水は複雑な表情を並べて、 「その明けずの間が、昨夜は、どうして開かれ たのです?」 「ダンネベルグ夫人のお命令(いいつけ)でした。あの方の 怯え切ったお心は、昨夜最後の避難所を此処へ 求めずにはいられなかったのです」と凄気の軍(こ) もった言葉を冒頭にして、鎮子はまず、館の中 へ碑碑と滋って来た異様な雰囲気を語り始め た。 「算哲様がお残くなりになってから、御家族の 誰もかもが、落着を失って参りました。それま では口争い一つした事のない四人の外人の方 も、次第に言葉数が少くなって、お互いに警戒 するような素振りが日増しに募って行きまし た。そして、今月に入ると、誰方(どなた)も滅多にお室 から出ないようになり、殊にダンネベルグ様の 御様子は、殆ど狂的としか思われません。御信 頼なさっている私か易介の外には、誰にも食事 さえ運ばせなくなりました」 「その恐怖の原因に、貴女は何か解釈がお附き 逗留でしたけれども、昨日は早朝お帰りになり ですかな。個人的な暗闘ならば兎も角、あの四 ましたので」 人の方々には・遺産と云う問題はない筈ですL  「そして、その光は誰を射抜きましたか」 「原因は判らなくても、あの方々が、御自身の  「それが、当の御自身ダンネベルグ様でござい 生命に危険を感じておられた事だけは確かで御 ました」と鎮子は、低く声を落して傑わせた。 座いましょう」       「あのまたとない光は、昼の光でも誇悟夜 「その空気が、今月に入って酷くなったと云う の光でも御座いません。ジイジイっと喘鳴のよ のは」         うなかすれた音を立てて、燃え始めると、拡 「マア・私がスウェーデソボルクかジョソ・ がって行く焔の中密か薄気味悪い蒼鉛色をした ウェスレイ(針α鮒血都教)でもあるのでしたら」 ものがメラメラと轟き始めるのです。それが、 と鎮子は皮肉に云って、「ダソネベルグ様は、  一つ二つと点されて行くうちに、私達は全く周 そう云う悪気のようなものから、何とかして遁 囲の識別を失ってしまい、スウッと宙へ浮き れたいと・どれほど心をお砕きになったか判り 上って行くような気持になりました。ところ ません・そして、その結果があの方の御指導 が、全部を点し終った時にーあの窒息せんば で・昨夜の神意審問の会となって現われたので かりの息苦しい瞬間でした。その時ダソネベル 御座います」               グ様は物凄い形相で前方を睨んで、何と云う怖  「神意審問とは?」検事には鎮子の黒ずくめの ろしい言葉を叫んだ事でしょう。あの方の眼に 和装が、ぐいと迫ったように感ぜられた。   疑いもなく映ったものが御座いましたL  「算哲様は、異様なものを残して置きました。  「何がです?」 マックレンブルグ魔法の一つとかで、鮫価淋勿  「ああ算折丁と叫んだのです。と思うと、バ 手首を酢漬けにしたものを乾燥したiー栄光の タリとその場へ」 嘉α」本一本の指の上に、これも絞死罪人の脂 「なに、算哲ですってη」と法水無いレ一度は蒼 肪から作った、死体驚を立てるのです。そし議零けれども、「だが、その調刺は余りに て・それに火を点じますと、邪心のある者は身 劇的ですね。他の六人の中から邪悪の存在を 体羨んで心気を失ってしまうとか申すそうで発見しようとし∴ン禦活唐身が倒される 御座います。で、その会が始まったのは、昨夜 なんて。とにかく栄光の手を、私の手でも  の正九時、列席者は当主旗太郎様の外に四人の う一度点してみましよう。そうしたら、何が算 方々と、それに、私と紙谷伸子さんとで御座い 哲博士を・…..」と彼の本領に返って冷たく云い  ました。尤も、押鐘の奥様(津多子)が暫く御 放った。 「そうすれば、その六人の者が、犬の如く己れ の吐きたるものに帰り来るーとでもお考えな のですか」と鎮子はペテロの言を籍りて、痛烈 に酬い返した。そして、 「でも、私が徒らな神霊陶酔者でないと云う事 は、今に段々とお判りになりましょう。ところ で、あの方は程なく意識を回復なさい.ましたけ れども、血の気の失せた顔に滝のような汗を流 してーとうとうやって来た。ああ、今夜こそ はーと絶望的に身悶えしながら、声を傑わせ て申されるのです。そして、私と易介を附添い にしてこの室に運んでくれと仰言いました。誰 ・も勝手を知らない室でなければtと云う、目 前に迫った怖ろしいものを何とかして避けたい、 御心持が、私にはようく読み取る事が出来たの です。それが、繊縣十時近くでしたろうが、果 してその夜のうちに、あの方の恐怖が実現され たのでございます」 「然し、何が算哲之叫ばせたものでしょうな」 と法水は再ぴ疑念を繰り返してから、「実は、 夫人が断末魔にテレーズと書いたメモが、寝台 の下に落ちていたのですよ。ですから、幻覚を 起すような生理か、何か精神に異常らしい所で も……。時に、貴女はヴルフェソをお読みに なった事がありますか」  その時、鎮子の眼に不思議な輝きが現われ て、  「左様、五十歳変質説もこの際確かに一説で しょう。それに、外見では判らない痴摘発作が ありますからね。けれども、あの時は冴え切っ た程に正確でございましたLとキッパリ云い 切ってから、「それから、あの方は十一時頃ま でお寝みになりましたが、お目醒めになると咽 喉が乾くと仰言ったので、そのときあの果物皿 を、易介が広聞(サロン)から持って参ったのです」と 云って熊城の眼が急性(いそがわ)しく動いたのを悟ると、 「ああ、貴方は相変らずの煩項(スコゴフ)派なんですわ ね。その時あの洋樗(オレンジ)があったかどうか、お訊ね になりたいのでしょう。けれども、人間の記憶 なんて、そうそう貴方がたに便利なものではご ざいませんわ。第一、昨夜は眠らなかったとは 思っていますけれども、その側から、仮睡(うたたね)位は したぞと囁いているものがあるのです」 「成程、これも同じ事ですよ。館中の人達が揃 いも揃って、昨夜は珍しく熟睡したと云ってい るそうですからね」と流石に法水も苦笑して、 「ところで十一時というと、その時誰か来たそ うですが」 「ハァ、旗太郎様と伸子さんとが、・御様子を見 にお出でになりました。ところが、ダンネベル グ様は、果物は後にして何か飲物が欲しいと仰 言るので、易介がレモナーデを持って参りまし た。すると、あの力は御要心深くも、それに毒 味をお命じになったのです」 「ハハア、恐ろしい神経ですね。では、誰 が?」 「伸子さんでした。ダソネベルグ様もそれを見 て御安心になったらしく、三度も盃(グラス)をお換えに なった程で御座います。それから、御寝になっ たらしいので、旗太郎様が寝台の壁,にあるテレ ーズの額を外して、伸子さんと二人でお持ち帰 りになりました。いいえ、テレーズはこの館で は不吉な悪霊のように思われていて、殊にダー ソネベルグ様が大のお嫌いなので御座います から、旗太郎様がそれに気付かれたと云うの は、非常に賢い思い遣りと申して宜しいので すL 「だが、寝室には何処ぞと云って隠れ場所はな いのですから、その額に人形との関係はないで しょう」と検事が横合から口を挾んで「それよ りも、その飲み残りは?」 「既に洗ってしまったでしょう。ですが、そ つ恥り御質問をなさると、ヘルマン(針舳靴翻の) が哩いますわ」鎮子は露骨に嘲弄の色を浸べ た。 「もし、それでいけなければ、青酸を零(ゼロ)にして しまう中和剤の名を伺いましょうか。砂糖や漆     タンニゾ         アルカロイド 喰では、単寧で沈降する塩基物を、土茶と一緒に 飲むような訳には参りませんわ。それから十二 時になると、ダソネベルグ様は、扉に鍵をかけ させて、その鍵を枕の下に入れてから、果物を お命じになり、あの洋掩(オレンジ)をお取りになりまし た。洋橿(オレンジ)を取る時も何とも仰言いませず、その 後は音も聞えず御熟睡のようなので、私達は衝 立の蔭に長椅子を置いて、その上で横になって 居りました」 「では、その前後に微かな鈴のような音が」と 訊ねて、鎮子の否定に遇うと、検事は莫(たぱこ)を掘り 出して眩いた。 「すると、額はないのだし、やはり夫人はテレ ーズの幻覚を見たのかな。そうして完全な密室 になってし玄うと、創紋との間に大変な矛盾が 起ってしまうぜ」 「そうだ、支倉君」と法水は静かに云った。 「僕はより以上微妙な矛盾を発見しているよ。 先刻人形の室で組み立てたものが、こ一の室に 戻って来ると、突然(いきなり)逆転してしまったのだ、こ の室は明けずの間だったと云づけれども、その 実、永い間絶えず出入りしていたものがあった のだよ。その歴然とした形跡が残っているの だ」 「冗談じゃない」熊城は吃驚(びつくり)して叫んだ。「鍵 穴には永年の錆がこびり付いていて、最初開く 時に、鍵の孔が刺さらなかったとか云・つぜ。そ れに、人形の室と違って、巌畳な螺旋で作用す る落し金なんだから、どう考えても、糸で操れ そうもないし、無論床口にも壁にも陰扉のない と云う事は、既に反響測定器で確かめていんる だ」 「それだから君は、僕が先刻幅懐(せか し)が癒っている と云ったら、喧(わら)ったのだよ。自然がどうして、 人問の限に止まる所になんぞ、跡を残して置く もんか」と一同を像の前に連れて行き、「大体 幼年期からの幅棲には、上部の肋骨が凸凹に なっていて数珠玉の形をしているものだが、そ れがこの像の何処に見られるだろう。だが、試 しに、この厚い埃を払って見給丸L  そして、埃の層が雪崩(ただれ)のように摺り落ちた時 だった。喧(む)っとなって鼻口を覆いながらも瞠(みひら)い た一同の眼が、明らかにそれを、像の第一肋骨 の上で認めたのであった。 「そうすると数珠玉の上の出張った埃を、平に 均(から)したものがなければならない。けれども、ど んなに精巧な器械を使った所で、人間の手では どうして出来るものじゃない。自然の細刻だ よ。風や水が何万年か経って岩石に巨人像を刻 み込むように、この像にも鎖されていた三年の うちに、偏棲を癒してしまったものがあったの だ。この室に絶えず忍び入っていた人物は、何 時もこの前の台の上に手燭を置いていたのだ よ。然し、その跡なんぞは、どうにか誤魔かし てしまうにしても、その時から、一つの物云(テルテ ル )う 象徴(シンボハ)が作られて行った。焔の揺ぎから起る微妙 な気動が、一番不安定な位置にある数珠玉の埃 を、ほんの微かずつ落して行ったのだよ。ねえ 支倉君、じいっと耳を澄ましていると、何だか 茶立虫のような、美しい整(たがね)の音が聞えて来るよ うじゃないか。ときに、こういうヴェルレーヌ の詩が……」 「成程」と検事は慌てて遮.って、「けれども、 その二年の歳月が、昨夜一夜を証明するものと は云われまい」  と早速に法水は、熊城を振り向いて、「多分 君は、コプト織の下を調べなかったろう」 「大体、何がそんな下に?」熊代は眼を円くし て叫んだ。 「ところが、死点(デリドボイント)と云えるものは、決して網 膜の上や、音響学ばかけにじゃないからね。フ リーマンは織目の隙から、特殊な貝殻粉を潜り 込ましている」と法水が静かに敷物を巻いて行 くと、そこの床には垂直からは見えないけれど も、切嵌(モザイク)の車輪模様の数が殖えるにつれて、 微かに異様な跡が現われて来た心その色大理石 と櫨木(ぱぜのき)の縞目の上に残されているものは、正 しく水で印した跡だった。全体が長さ二尺ばか りの小判形で、量(ほつ)とした塊状であるが、仔細に 見ると、周囲は無数の点で囲まれていて、そ の中に、様々な形をした線や点が群集してい た。そして、それが、足跡のような形で、交互 に帷幕の方へ向い、先になるに従い薄らいで行 く。 「どうも原型を回復する事は困難らしいね。テ レーズの足だってこんなに大きなものじゃな い」と熊代はすっかり眩惑されてしまったが、 「要するに、陰画を見ればいいのさ」と法水は アッサリ云い切った。「コプト織は床に密着し ているものではないし、それに櫨木(はゼのき)には、パル チミン酸を多量に含んでいるので、弾水性があ るからだよ。表面から裏側に滲み込んだ水が、 繊毛から滴り落ちて、その下が櫨木だと、水が 水滴になって跳ね飛んでしまう。そして、その 反動で、繊毛が順次に位置を変えて行くのだか ら、何度か滴り落ちるうちには、終いに櫨木か ら大理石の方へ移ってしまうだろう。だから、 大理石の上にある中心から一番遠い線を、逆に 辿づて行って、それが櫨木にかかった点を連ね たものが、略(ほぼ)ζ原型の線に等しいと云う訳さ。 つまり、水滴を洋琴(ピアノ)の鍵(キイ)に七て、毛が輪旋曲(ロンド)を 踊ったのだよ」 「成程」と検事は頷いたが、「だが、この水は 一体何だろうか?」 「それが、昨夜は一滴も」と鎮子が云うと、そ れを、法水は面白そうに笑って、 「いや、それが紀長谷雄(きのはせお)卿の故事なのさ。鬼の 娘が水になって消えてしまったって」  ところが、法水の譜誰は、決してその場限り の戯言ではなかった。そうして作られた原型 を、熊代がテレーズ人形の足型と、歩幅とに対 照してみると、そこに驚くべき一致が現われて いたのである。幾度か推定の中で、奇体な明滅 を繰り返しながらも、得態の知れない水を踏ん で現われた人形の存在は、斯うなると厳然たる 事実と云うの外にない。そして、鉄壁のような 扉とあの美しい額動音との間に、より大きな矛 盾が横えられてしまったのであった。こうして、 濠々たる莫(たぱこ)の煙と謎の続出とで、それでなくて も、この緊迫し切った空気に検事は宜い加減上 気してしまったらしく、窓を明け放って戻って 来ると、法水は流れ出る白い煙を眺めながら、               っ 再び座に付いた。 「ところで久我さん、過去の三事件にはこの際 論及しないにしてもです。一体どうしてこの室 が、かような寓意的なもので充ちているので しょう。あの立法者(スクライプ)の像なども、明白に迷宮の 暗示ではありませんか。あれは、たし.かマリ エットが鰐(クロコデイ) 府(ロポリス)にある迷宮(ラピリンス)の入口で発見した のですからねL 「その迷宮は、多分これから起る事件の暗示で すわ」と鎮子は静かに云った。「恐(ヘヘ)らく最後(ヘヘヘヘ)の 一人(ヘヘヘ)までも殺(ヘヘヘヘ)されてしまうでしょう(ヘヘヘヘヘヘヘヘヘ)」  法水は驚いて、暫く相手の顔を瞬(みつ)めていたが、 「いや、少(ヘヘ)くとも三(ヘヘヘヘ)つの事件(ヘヘヘヘ)までは……」と鎮(ヘヘ) 子の言(ことぱ)を譜妄(うわごと)のような調子で云い直してから、 「そうすると久我さん、貴女はまだ、昨夜の神 意審問の記憶に酔っているのですね」 「あれは一つの証詞(あかし)に過ぎません。私には既(とう )か ら、この事件の起る事が予知されていたので す。云い当ててみましょうか。死体は多分浄ら かな栄光に包まれている筈ですわ」  二人の奇問奇答に荘然としていた矢先だった ので、検事と熊代にとると、それが正に青天の 露震だった。誰一人知る筈のないあの奇蹟を、 この老婦人のみはどうして知っているのであろ う。鎮子は続いて云った。が、それは、法水に 対する剣のような試問だった。 「ところで、死体から栄光を放った例を御存じ でしょうか」 「僧正ウォーターとアレツオ、弁証派(アポロジスト)のマキシ ムス、アラゴニアの聖(ルムント)ラケル……もう四人程 あったと思います。然し、それ等は要するに、 奇蹟売買人の悪業に過ぎない事でしょう」と法 水も冷たく云い返した。 「それでは、閲明(せんめい)になさる程の御解釈はないの ですね。それから、一八七二年十二月蘇古蘭(ヌコツトランド)イン ヴァネスの牧師屍光事件は?」 (註)(西区アシリアム医事新誌)。ウォルカッ   ト牧師は妻アビゲイルと友人スティヴンを   伴い、スティヴン所有煉瓦工場の附近なる   氷蝕湖カトリンに遊ぷ。然るに、スティヴン   はその三日目に姿を消し、翌年一月十一日   夜月明に乗じて湖上に赴きし牧師夫妻は、   遂にその夜は帰らず、夜半四五名の村民が、   雨中月没後の湖上遙か栄光に輝ける牧師の   死体を発見せるも、畏怖して薄明を待てり。   牧師は他殺にて、致命傷は左側より頭蓋腔   死体は氷面の中に入れる銃創なるも、銃器   は発見されず、窪みの中にありて、その後   は栄光の事なかりしも、妻はその夜限り失   稼して、遂にスティヴンと共に蹉跡を失い   たり。  法水は鎮子の嘲侮に、稽ζ語気を荒らげて答 えた。 「あれは斯う解釈して居ります1牧師は自殺 で他の二人は牧師に殺されたのだと。で、それ を順序通り述べますと、最初牧師はスティヴソ を殺して、その屍骸を温度の高い休業中の煉瓦 炉の中に入れて腐敗を促進させたのです。そし て、その間に細孔を無数に穿った軽量の船形棺 を作って、その中に十分腐敗を見定めてから死 体を収め、それに長い紐で錘(おもり)を附けて湖底に沈 めました。無論数日ならずして腹中に腐敗瓦斯(ガス) が膨満すると共に、その船形棺は浮き上るもの と見なければなりません。そこで牧師は、あの 夜、錘の位置から場所を計って氷を砕き、水面 に浮んでいる棺の細孔から死体の腹部を刺して 瓦斯を発散させ、それに火を点じました。御承 知の通り、腐敗瓦斯には沼(メタン)気のような熱の稀薄 な可燃性のものが多量にあるのですから、その 燐光が、月光で穴の縁に作られている陰影を消 し、滑走中の妻を墜とし込んだのです。恐らく 水中では、頭上の船形棺をとり退けようと腕き 苦しんだでしょうが、遂に力尽きて妻は湖底深 く沈んで行きました。そうして牧師は、自分の 踊額を射った拳銃を棺の上に落して、その上に 自分も倒れたのですから、その燐光に包まれた 死体を、村民達が栄光と誤信したのも無理では ありません。そのうち、瓦斯の減量につれて浮 揚性を失った船形棺は、拳銃を載せたまま湖底 に横わっている妻アピゲイルの死休の上に沈ん で行ったのですが、一方牧師の身休は、四肢が 氷壁に支えられてその儘氷上に残ってしまい、 やがて雨中の水面には氷が張り詰められて行き ました。恐らく動機は妻とスティヴンとの密通 でしょうが、愛人の死体で穴に蓋をしてしまう なんて、何と云う悪魔的な復讐でしょう。然し ダソネベルグ夫人のは、そう云った蕪雑な目撃 現象ではありませんL  聴き終ると、鎮子は微かな驚異の色を淀べた が、別に顔色も変えず、懐中から二枚に折った 巻紙形の上質紙を取り出した。 「御覧下さいまし。算哲博士のお描きになった これが、黒死館の邪霊なので御座います。栄光 は故なくして放たれたのではございません」  それには、折った右側の方に、一艘の埃及(エジプト)船 が描かれ、左側には、六つの劃(しきり)のどのなかにも、 四角の光背をつけた博士自身が立っていて、側 にある異様な死体を眺めている。そして、その 下にグレーテ・ダソネベルグ夫人から易介まで の六人の名が記されていて、裏面には、怖ろし い殺人方法を予言した次の章句が書かれてあっ\ た。(図表参照)  グレーテは栄光に輝きて殺さるべし。  オットカールは吊されて殺さるべし。・  ガリバルダは逆さになりて殺さるべし。  オリガは眼を覆われて殺さるべし。  旗太郎は宙に浮びて殺さるべし。  易介は挾まれて殺さるべし。 「全く怖ろしい黙示です」と流石の法水も声を 傑わせて、「四角の光背は、確か生存者の象徴(シンポル) でしたね。そして、その船形のものは、古代埃(エジ) 及(プト)人が死後生活の中で夢想している、不思議な 死者の船だと思いますが」と云うと、鎮子は沈 痛な顔をして頷いた。 「左様で御座います。一人の水夫(かニ)もなく蓮湖の 中に浮んでいて、死者がそれに乗ると、その命 ずる意志のままに、種々な舟の機具が独りでに 動いて行くと云うのです。そうして、四角の光 背と目前の死者との関係を、どう云う意味でお 考えになりますか? つまりへ博士は永遠にこ の館の中で生きているのです。そして、その意 志に依って独りでに動いて行く死者の船と云 うのが、あのテレーズの人形なのでございま す」 第二篇 ファウストの呪文     ー  ごβ鼻(ウンデイヌス)≡』∞ω一(ジツヒ)〇=≦ぎqの(ヴインデン)β      (水精(ウンデイヌス)よ腕(うね)くれ)  久我鎮子が提示した六酌(げろ)の黙示図は、凄惨冷 酷な内容を蔵しながらも、外観は極めて古拙な 線で、至極楓逸(ユ モラス)な形に描かれていた。が、確か にこの事件に於いて、それが凡ゆる要素の根底 をなすものに相違なかった。おそらくこの時機 に捌挟(てつけつ)を誤ったなら、この厚い壁は、数千度の 訊問検討の後にも現われるであろう。そして、 その場で進行を阻んでしまうことは明らかだっ た。それなので、鎮子が驚くべき解釈をくわえ ているうちにも、法水は顎を胸につけ、眠った ような形で黙考を凝らしていたが、おそらく内 心の苦吟は、彼の経験を超絶したものだったろ うとおもわれた。事実全く犯人(ヘヘヘ)のいない殺人 事件(ヘヘヘヘヘヘヤ)Il埃及(エジプト)艀と屍様図を相関させたところの 図読法は、到底否定し得べくもなかったのであ る。ところが、意外なことに、やがて正視に復 した彼の顔には、見る見る生気が濃り行き酷烈 な表情が活び上った。 「判りましたが……然し久我さん、この図の原 理には、決してそんなスウェーデソボルグ神学 (鷹一壌碑継》齪蹴匁是ヨ一勲斎町籔講撰釦 欝絵雅駐欝雛雛裂裂望編讃躰機)は ないのですよ。狂ったような処が、寧ろ整然た る論理形式なんです。また、凡ゆる現象に通ず ると云う空間構造の幾何学理論が、やはりこの 中でも、絶対不変の単位となっているのです。 ですから、この図を宇宙自然界の法則と対称す る事が出来るとすれば、当然そこに抽象される ものがなけりゃならん訳でしょう」と法水が、 突如前人未踏とでも云いたいところの、超経験 的な推理領域に踏み込んでしまったのには、流 石の検事も唖然となってしまった。数学的諭理 は凡ゆる法則の指導原理であると云うけれど も、かの「僧正殺人事件(ビショツプ マ ダ ケ ス)」に於いてさえ、リー マソ・クリストフェルのテソソルは、単なる犯 罪概念を表わすものに過ぎなかったのではない か。それだのに法水は、それを犯罪分析の実際 に応用して、空漠たる思惟抽象の世界に踏み 入って行こうとする……。 「ああ私は……」と鎮子は露き出して嘲った。 「それで、ロレソツ収縮の講義を聴いて直線を 歪めて書いたと云う、莫迦な理学生の話を憶い 出しましたわ。それでは、ミソコフスキーの四次 元世界に窮、町イ叡…衝(触躰纐齢岬叡ポ鷹頬ゆ獅櫛惨透) を加えたものを、一つ解析的に表わして頂きま しょうか」  その嘘いを法水は砒(めじり)で弾(はじ)き、まず鎮子を嗜め てから、「ところで、宇宙構造推論史の中で一番 華やかな頁(ぺ ジ)と云えば、さしずめあの仮説決闘(セオリ  デユエル) -空間曲率に関して、アイソシュタイソとブ ソ・ジッターとの間に交された論争でしょうか な。その時ジッターは、空間固有の幾何学的性 質に依ると主張したのでしたが、同時に、アイ ンシュタイソの反太陽説も反駁しているので す。ところが久我さん、その二つを対比して みると、そこへ、黙示図の本流が現われて来る のですよ」と宛(さな)がら狂ったのではないかと思わ れるような言葉を吐きながら、次図を描いて説 明を始めた。 「では、最初反太陽説の方から云うと、アイソ シュタイソは、太陽から出た光線が球形宇宙の 縁を廻って、再び旧の点に帰って来ると云うの です。そして、そのために、最初宇宙の極限に 達した時、そこで第一の像を作り、それから、 数百万年の旅を続けて球の外圏を廻ってから、 今度は背後に当る対向点まで来ると、そこで第 二の像を作ると云うのです。然しその時には、 既に太陽は死滅していて一個の暗黒星に過ぎな いでしょう。つまり、その映像と対称する笑体 が、天体としての生存の世界にはないのです。 どうでしょう久我さん、実体(ヘヘヘ)は死滅(ヘヘヘ)している(ヘヘヘヘ)に も拘(ヘヘヘ)らず過去(ヘヘヘヘ)の映像(ヘヘヘ)が現(ヘし)われるーその因(ヘヘ)果関 係が、恰度この場合算哲博士と六人の死者との 関係に相似してやしませんか。成程、一方は  。A(炉(エングストレ ム)茄ののイ)であり、片方は一億兆(トリオン)哩で しょうが、然しその対照も、世界空間に於いて は、たかが一微小線分の門題に過ぎないので す。それからジッターは、その説をこう訂正し ているのですよ。遠くなるほど、螺旋状星雲の スペクトル線が赤の方へ移動して行くので、そ れにつれて、光線の振動周期が遅くなると推断 しています。それがために、宇宙の極限の達す る頃には光速が零となり、そこで進行がピタリ と止まってしまうというのですよ。ですから、 宇宙の縁に映る像は唯一つで、恐らく実体とは 異らない筈です。そこで僕等は、その二つの理 論の中から、黙示図の原理を択ばなければなら なくなりました」 「ああ、まるで狂人になるような話じゃない か」熊城はボリボリふけを落しながら眩いた。 「サア、そろそろ、天国の蓮台から降りて貰お うか」  法水は熊城の好誰に堪らなく苦笑したが、続 いて結論を云った。 「勿諭太陽の心霊学から離れて、ジッターの説 を人体生理の上に移してみるのです。すると、 宇宙の半径を横切って長年月を経過していて も、実体と映像が異らないーその理法が、人 聞生理のうちで何事を意味しているでしょう か。例えば、ここに病理的な潜在物があって、 それが、発生から生命の終焉に至るまで、生育 もしなければ減衰もせず、常に不変な形を保っ ているものといえば……」  「と云うと」 「それが特異体質なんです」と法水は昂然と云 い放った。「恐らくその中には、心筋質肥大の ようなものや、或は、硬脳膜矢状縫合癒合がな いとも限りません。けれども、それが対称的に 抽象出来るというのは、つまり人体生理の中に も、自然界の法則が循環しているからなんで す。現に体質液(ハ ネマン)学派は、生理現象を熱力学の範 囲に導入しようとしています。ですから、無機 物に過ぎない算哲博士に不思議な力を与えた り、人形に遠感的(テレパシツク)な性能を想像させるようなも のは、つまるところ、犯人の狡猜な擾乱策に過 ぎんのですよ。多分この図の死者の船などに も、時間の進行と云う以外の意味はないでしょ うL  特異体質1。論争の縞(きら)びやかな火華にばか り魅せられていて、その蔭に、こうした陰惨な 色の燧石(ひうちいし)があろうなどとは、事実夢にも思い及 ばぬ事だった。熊城は神経的に掌の汗を拭きな がら、 「成程、それなればこそだー。家族以外にも 易介を加えているのは」 「そうなんだ熊城君」と法水は満足気に頷い て、「だから、謎は図形の本質には方くて、寧 ろ、作画者の意志の方にある。然し、ギう見て もこの医学の幻想(フアンタジイ)は、片々たる良心的な警告 文じゃあるまい」 「だが、頗る楓逸(ユ モラス)な形じゃないか」と検事は異 議を唱えて、「それで露骨な暗示もすっかりお どけてじまってるぜ。犯罪を醸成するような空 気は、微塵もないと思うよ」と抗弁したが、法 水は几帳面に自分の説を述べた。 「成程、瓢逸(ユ モア)や戯喩(ジョ ク)は、一種の生理的洗澁には 違いないがねっ然し、感情の捌け口のない人間 にとると、それが又とない危険なものになって しまうんだ。大体、一つの世界一つの観念ー しかない人間と云うものは、興味を与えられる と、それに向って偏執的に傾倒してしまって、 ひたすら逆の形で感応を求めようとする。その 倒錯心理にだがーそれにもしこの図の本質が 映ったとしたら、一それが最後となって、観察は 立ち所に捻れてしまう。そして、様式から個人 の経験の方に移ってしまうんだ。りまり、喜劇 から悲劇へなんだよ。で、それからは、気違い みたいに自然淘汰の跡を追い始めて、冷血的な 怖ろしい狩猟の心理しかなくなってしまうの だ。だから支倉君、僕はソーソダイクじゃない がね、マラリヤや黄熱病よりも、雷鳴や闇夜の 方が怖ろしいと思うよ」 「マア、犯罪徴侯学……」鎮子は相変らずの 冷笑主義(シニシズム)を発揮して、 「大休そんなものは、ただ瞬間の直感にだけ必 要なものとばかり思っていましたわ。所で易介 と云う話ですが、あれは殆ど家族の一員に等し いのですよ。まだ七年にしかならない私などと は違って、傭人とは云い条、幼い頃から四十四 の今日まで、ずうっと算哲様の手許で育てられ て参ったのですから。それに、この図は勿論索 引には載って居りませず、絶対に人目に触れな かった事は断言致します。算哲様の残後誰一人 触れた事のない、埃だらけな未整理図書の底に 埋もれていて、この私でさえも、昨年の暮まで は一向に知らなかった程で御座いますものね。 そうして、貴方の御説通りに、犯人の計画がこ の黙示図から出発しているものとしましたな ら、犯人の算出はーいいえこの減算(ひきざん)は、大変 簡単では御座いませんことL  この不思議な老婦人は、突然解し難い露出的 熊度に出た。法水も一寸面喰ったらしかった が、すぐに酒脱な調子に戻って、 「すると、その計算には、幾つ無限記号を附け たらよいのでしょうかな」と云った後で、驚く べき言葉を吐いた。「然し、恐らく犯人でさえ、 この図のみを必要とはしなかったろうと思うの です。貴女は、もう半分の方は御存じないので すか」 「もう半分とは・…-誰がそんな妄想を信ずるも んですか"」と鎮子が思わずヒステリックな声 で叫ぶと、始めて法水は彼の過敏な神経を明ら かにした。法水の直観的な思惟の雛から放出さ れて行くものは、黙示図の図読といいこれとい い、既に人間の感覚的限界を越えていた。 「では、御存じなければ申し上げましょう。多 分、奇抜な想像としかお考えにならないでしょ うが、実はこの図と云うのが、二つに割った半 葉に過ぎないんですよ。六つの図形の表現を超 絶したところに、それは深遠な内意があるので す」  熊城は驚いてしまって、種々の図の四縁を折 り曲げて合わせていたが、「法水君、酒落は止 しにし給え。幅広い刃形はしているが、非常に 正確な線だよ。一体何処に、後から戴(き)った跡が あるのだ?」 「いや、そんなものはないさ」法水は無造作に 云い放って、全体がDロの形をしている黙示図 を指し示した。「この形が、一種の記号諮(パジグニえフイ)なん だよ。元来死者の秘顕なんて陰険極まるものな んだから、方法までも実に捻れ切っている。 で、この図も見た通りだが、全体が刀子(妬曙瀞 類)の刃形みたいな形をしているだろう。とこ ろが、その右肩を斜に戴った所が、実に深遠な 意味を含んでいるんだよ。無論算哲博士に、考 古学の造詣がなけりゃ問題にはしないけれど も、この形と符合するものが、ナルマー.メネ ス王朝辺りの金字塔(ピラミツド)前象形文字の中にある。第 一、こんな窮屈な不自然極まる形の中に、博士 が何故描かねばならなかったものか、考えてみ 給え」  そうして、黙示図の余白に、鉛筆でh"の形 を書いてから、 「熊城君、これが%を表わす上古埃及(コブチツク)の分数数 字だとしたら、僕の想像も満更妄覚ばかりじゃ あるまいね」と簡勤に結んで、それから鎮子に 云った。「勿論、死語に現われた寓意的な形な どと云うものは、何日(つ)か訂正される機会がない とも限りません。けれども、ともかくそれ迄 は、この図から犯人を算出する事だけは、避け たいと思うのです」  その間、鎮子は獺気(ものうげ)に宙を瞭めていたが、彼 女の眼には、真理を追求しようとする激しい熱 情が燃えさかっていた。そして、法水の澄み 切った美しい思惟の世界とは異って、物々しい 陰影に富んだ質量的なものをぐいぐい積み重ね て行き、実証的に深奥のものを閲明しようとし た。 「成程独創は平凡じゃございませんわね」と独 言のように咳いてから、再び旧通り冷酷な表情 に返って、法水を見た。 「ですから、実体が仮象よりも華やかでないの は道理ですわ。然し、そんなハム族の葬儀用記 念物よりかも、もしその四角の光背と死者の船 を、事実目撃した者があったとしたらどうなさ います」 「それが貴女なら、僕は支倉に云って、起訴さ せましょう」と法水は動じなかった。 「いいえ、易介なんです」鎮子は静かに云い返 した。「ダンネベルグ様が洋橿を召上る十五分 程前でしたが、易介はその前後に十分許り室を 空けました。それが、後で訊くとこうなので す。恰度神意審問の会が始まっている最中(さなか)だっ たそうですが、その時易介が裏玄関の石畳の上 に立っていると、不図二階の中央で彼の眼に 映ったものがありました。それが、会が行われ ている室の右隣りの張出窓で、そこに誰やら居 るらしい様子で、真黒な人彫が薄気味悪く動い ていたと云うのです。そして、その時地上に何 やら落したらしい微かな音がしたそうですが、 それが気になって堪らず、どうしても見に行か ずにはいられなかったと申すのでした。ところ が、易介が発見したものは、辺り一面に散在し ている硝子(ガラス)の破片に過ぎなかったのです」 「では、易介がその場所へ達する迄の経路をお 訊きでしたか」 「いいえ」と鎮子は頸を振って、「それに伸子 さんは、ダソネベルグ様が卒倒なさるとすぐ、 隣室から水を持って参ったと云う程ですし、ほ かにも誰一人として、座を動いた方はございま せんでした。これだけ申せば、私がこの黙示図 に莫迦(ヨエ )らしい執着を持っている理由がお判りで ございましょう。勿論その人影と云うのは、吾 吾六人のうちにはないのです。と云って、傭人 は犯人の圏内にはございません。ですから、こ の事件に何一つ残されていないと云うのも、至 極道理なんでございますわ」  鎮子の陳述は再び凄風を招き寄せた。法水は 暫く莫の赤い尖端を膿めていたが、やがて意地 悪気な微笑を活べて、 「成程、然し、ニコル教授のような問違いだら けな先生でも、これだけは巧いことを云いまし たな。結核患者の血液の中には、脳に譜妄(せんもう)を起 すものを含めりーって」  「ああ、何時までも貴方は……」と一旦鎮子は 呆れて叫んだが、すぐに毅然となって、「それで は、これを……。この紙片が硝子の上に落ちて いたとしましたら、易介の言には形が御座いま しょう」と云って、懐中から取り出したものが あった。それは、雨水と泥で汚れた用筆の切端 だったが、それには、黒インクで、次のような 独逸文が認められてあった。      ウンデイヌス   ジツヒ  ヴインデン      ⊂β臼β¢ωω一∩す乏一ロ昌の二  「これじゃ到底筆蹟を窺えようもない。まるで 蟹みたいなゴソニック女字だ」と一旦法水は失 望したように咳いたが、その口の下から、両眼 を輝かせて、「オヤ妙な転換があるぞρ元来こ の一句は、水精( ンデイネ)よ蜆(うり)くれーなんですが、これ には、女性の⊂己(ウンデイネ)ぎΦに窃をつけて、男性 に変えてあるのです。然し、`これが何から引い たものであるか、御存じですか。それから、こ の館の蔵書の中に、グリムの『古代独逸(ドイツ)詩歌傑 作に就いて』かファイストの『独逸語史料集』 でも」  , 「遺憾ながら、それは存℃ません。言語学の方 は、後程お報らせする事に致します」と鎮子は 案外率直に答えて、その章句の解釈が法水の口 から出るのを待った、然し、彼は紙片に眼を伏 せたままで、容易に口を開こうとはしなかっ た。その沈黙の間を狙って熊城が云った。 「とにかく、易介がその場所へ行ったに就いて は、もっと重大な意味がありますよ。サア何も かも包まずに話して下さい。あの男は既に馬脚 を露わしているんですから」 「サア、それ以外の事実と云えば、多分これだ けでしょう」と鎮子は相変らず皮肉な調子で、  「その間私が、この室に一人ぼっちだったとい うだけの事ですわ。然し、どうせ疑われるのな ら、最初にされた方が……いいえ、大抵の場合 が、後で何でもない事になりますからね。それ に、伸子さんとダソネベルグ様が、神意審問会 の始まる二時間程前に争論をなさいましたけれ ども、それやこれやの事柄は、事件の本質とは 何の関係もないのです。第一、易介が姿を消し た事だって、先刻のロレソツ収縮の話と同じ事 ですわ。その理学生に似た倒錯心理を、貴方の 伺喝訊問が作り出したのですL 「そうなりますかね」と纐気に眩いて、法水は 顔を上げたが、何処か、ある出来事の可能性を 暗受しているような、陰欝な影を漂わせてい た。が、鎮子には、慰勲な口調で云った。 「とにかく、種々と材料を揃えて頂いた事は感 謝しますが、然し結諭となると、甚だ遺憾千万 です。貴女の見事な類推論法でも、結局私に は、所謂、如(ヘヘ)き観(ヘヘ)を呈(ヘヘ)するものとしか見(ヘヘヘ)られん のですからね。ですから、仮(たとえ)令ば人形が眼前へ 現われて来たにしたところで、私は、それを幻覚 としか見ないでしょう。第一そう云う、非生物 学的な、力の所在と云うのが判らないのです」 「それは段々とお判りになりますわ」と鎮子は 最後の駄目を押すような謡気で云った。「実は、 算哲様の日課書の中にーそれが自殺なされた 前月、咋年の三月十日の欄でしたがーそこに 斯う云う記述があるのです。吾、隠されねばな らぬ隠密の力を求めてそれを得たれば、この日 魔法書を焚けりーと。と申して、既に無機物 と化したあの方の遺骸には、一顧の価値(あたい)もござ いませんけれど、何となく私には、無機物を有 機的に動かす、不思議な生体組織とでも云える ものが、この建物の中に隠されているような気 がしてならないのです」  「それが、魔法書を焚いた理由ですよ」と法水 は何事かを灰めかしたが、「然し、失われたも のは再現するのみの事です。そうしてから改め て、貴女の数理哲学を伺う事にしましょう。そ れから、現在の財産関係と算哲博士が自殺した 当時の状況ですが」と漸く黙示図の問題から離 れて、次の質問に移ったが、その時鎮子は、法 水を瞬(みつ)めたまま、'腰を上げた。 「いいえ、それは執事の田郷さんの方が適任で 御座いましょう。あの方はその際の発見者です し、何より、この館ではリシュリュー(卿出轍旺 輔概)と申して宜しいのですから」そち、て、扉 の方へ二三歩歩んだ所で立ち止り、屹然と法水 を振り向いて云った。 「法水さん、与えられたものをとる事にも、高 尚な精神が必要ですわ。ですから、それを忘れ た者には、後日必ず悔ゆる時機が参りましょ う」  鎮子の姿が扉の向うに消えてしまうと、論争 一過後の室は、恰度放電後の、真空と云った空 虚な感じで、再び徽臭い沈黙が漂い始め、樹林 で帰く鴉の声( )や、氷柱(つらら)が落ちる微かな音まで も、聴き取れるほどの静けさだった。やがて、 検事は頸の根を叩きながら、 「久我鎮子は実象のみを追い、君は抽象の世界 に溺れている。だが然しだ。前者は自然の理法 を否定せんとしハ後者はそれを法則的に、経験 科学の範騰(カテゴリ )で律しようとしているー。法水 君、この結論には、一休どういう論法が必要な んだね。僕は鬼神学( アモノロジ )だろうと思うんだが……」 「所が支倉君、それが僕の夢想の華さーあの 黙示図に続いていて、未だ誰一人として見た事 のない半葉があるーそれなんだよ」と夢見る ような言葉を、法水は殆ど無感動のうちに云っ た。「その内容が恐らく算哲の焚書(ふんしよ)を始めとし て、この事件の凡ゆる疑問に通じているだろう と思うのだ」 「なに、易介が見たと云う人影にもか」検事は 驚いて叫んだ。  と熊城も真剣に頷いて、「ウン、あの女は決 して、嘘は吐かんよ。但し問題は、その真相を どの程度の真実で、易介が伝えたかにあるん だ。だが、何と云う不思議な女だろう」と露わ に驚嘆の色を浸べて、「自分から好んで犯人の 領域に近附きたがっているんだ」 「いや被作虐者(マゾヒフトも)かも知れんよ」と法水は半身に なって、暢気そうに廻転椅子をギシギシ鳴らせ ていたが、「大体、苛責と云うものには、得も 云われぬ魅力があるそうじゃないか。その証拠 にはセヴィゴラのナッケと云う尼僧だが、その 女は宗教裁判の苛酷な審問の後で、転宗より も、還俗を望んだと云うのだからね」と云って クルリと向きを変え、再び正視の姿勢に戻って 云った。 「勿論久我鎮子は博識無比さ。然し、あれは 索引(インデツクス)みたいな女なんだ。記憶の凝りが将棋盤 の格みたいに、正確な配列をしているに過ぎな い。そうだ、まさに正確無類だよ。だから、独 創も発展性も糞もない。第一、ああ云う支学に 感覚を持てない女に、どうして、非凡な犯罪を 計画するような空想力が生れよう」 「一体、交学がこの殺人事件とどんな関係があ るかね?」と検察俗塒堵塔勘公ヂ 「それが、あの水精よ蜘くれーさ」と法 水は、始めて門題の一句を閲明する態度に出 た。「あ∵め㌧句は、ゲーテの『ファウスト』の 中で、危犬に化けたメフィストの魔力を破ろう と、あの全能博士が唱える呪文の中にある、勿 諭その時代を風摩した伽勒底亜(カルデァ)五芒星術の一文 で、火(サラマン) 精(ダ )・水(ウンデイネ) 精・風精(ごんフエ)・坤精(コボルト)の四妖に畔.び 掛けているんだ。ところで、それを鎮子が分ら ないのを不審に思わないかい。大体こう云った 古風な家で、書架に必ず姿を現わすものと云.え ば、まず思弁学でヴォルテール、文学ではゲー テだ。ところが、そう云った古典女学が、あの 女には些細な感興も起させないんだ。それから もう一つ、あの一句には薄気味悪い意思表示が 含まれているのだよ」 「それは…:」 「第一に、連続殺人の暗示なんだ。犯人は、既 に甲冑武者の位置を変えて、それで殺人を宣言 しているが、この方はもっと具体的だ。殺され る人間の数とその方法とが明らかに語られてい る。ところで、ファウストの呪文に現われる妖 精の数が判ると、それがグイと胸を衝き上げて くるだろう。何故なら、旗太郎を始め四人の外 人の中で、その一人が犯人だとしたら、殺す数 の最大限は、当然四人でなければなるまい。そ れから、これが殺人方法と関聯していると云う のは、最初に水精(ウンデイネ)を提示しているからだよ。 よもや君は、人形の足型を作って敷物の下から 現われた、あの異様な水の跡を忘れやしまい ねL 「だが、犯人が独逸(ドイツ)語を知っている圏内にある めは、確かだろう。それにこの一句は大して 文献学的(フイロロジツク)なものじゃない」と検事が云うのを、 「冗談じゃない。音楽は独逸(ドイツ)の美術なりーと 云うぜ、この館では、あの伸子と云う女さえ、 竪琴(ハ プ)を弾くそうなんだ」と法水は、さも驚いた ような表情をして、「それに、不可解極まる性 別の転換もあるのだから、結局言語学の蔵書以 外には、あの呪交を裁断するものはないと思う のだよ」  熊城は組んだ腕をダラリと解いて、彼に似げ ない嘆声を発した。 「ああ何から何まで嘲笑的じゃないか」 「そうだ。如何にも犯人は僕等の想像を超絶し ている。正にツアラツストラ的な超人なんだ。 この不思議な事件を、従来(これまで)のようなヒルベルト 以前の論理学で説けるものじゃない。その一例 があの水の跡なんだが、それを陳腐な残余法で 解釈すると、水が人形の体内にある発音装置を 無効にしたーと云う結論になる。けれども、 事実は決してそうじゃないんだ。まして、全体 が頗る多元的に構成されているー-。何も手掛 りはない、曖昧腺鵬とした中に薄気味悪い謎が ウジャウジャと充満している。それに、死人が 埋もれている地底の世界からも、絶えず紙礫(かみつぶて)の ようなものが、ヒューヒューと打(ぶつカ)衝って来るん だ。然し、その中に、四つの要素が含まれてい る事だけは判るんだ。一つは、黙示図に現われ ている自然界の薄気味悪い姿で、その次は、未 だに知られていない半葉を中心とする、死者の 世界なんだ。それから三つ目が、既往の三度に 渉る変死事件。そして最後が、ファウストの呪 交を軸に発展しようとする、犯人の現実行動な んだよLと、そこで暫く言(ことぱ)を切っていたが、や がて法水の暗い調子に明るい色が差して、 「そうだ支倉君、君にこの事件の覚書を作って 貰いたいのだが。大体グリーソ殺人事件がそう じゃないか。終り頃になってヴァンスが覚書を 作ると、さしもの難事件が、それと同時に奇蹟 的な解決を遂げてしまっている。然し、あれは 決して、作者の窮策じゃない。ヴァンダイソ は、如何に因数(ファクタヨ)を決定する事が一切実な問題で あるかを教えているんだ。だからさ。何より差 し当っての急務と云うのが、それだ。因数(フアクタ )だ ーさしずめその幾つかを、このモヤモヤした 疑問の中から摘出するにあるんだよ」  それから検事が覚書を作っている間に、法水 は十五分ばかり室を出ていたが、間もなく、一 人の私服と前後して戻って来た。その刑事は、 館内の隅々までも捜索したに拘らず、易介の発 見が遂に徒労に帰したと云う旨を報告した。法 水は眉の辺りをビリビリ動かしながら、 「では、古代時計室と撲廊(そでろうカ)を調べたかね」 「ところが彼処(あモこ)は」と私服は頸を振って、「昨 夜の八時に、執事が鍵を下した儘なんですか ら。然し、その鍵は紛失して居りません。それ から撲廊では、円廊の方の扉が、左側一枚開い ているだけの事でした」 「フムそうか」と一旦法水は頷いたが、「では 打ち切って貰おう。決してこの建物から外へは 出てやしないのだから」と異様に矛盾した、二 様の観察をしているかのような、口吻を洩らす と、熊城は驚いて、 「冗談じゃない。君はこの事件にけばけばしい 装禎をしたいんだろうが、何といっても、易介 の口以外に解答があるもんか」と今にも館外か ら齎せられるらしい、株儒(こびと)の偏優(せむし)の発見を期待 するのだった。こうして、遂に易介の失踪は、 熊城の思う壷通りに確定されてしまったが、続 いて法水は、問題の硝子(ガラス)の破片があると云う附 近の調査と、更に次の喚問者として、執事の田郷 真斎(たごうしんさい)を呼ぶように命じた。 「法水君、君はまた撲廊へ行ったのかね」私服 が去ると、熊城は半ば椰楡気味に訊ねた。 「いや、この事件の幾何学量を確かめたんだ よ。算哲博士が黙示図を描いたり、その知られ てない半葉を暗示したに就いては、そこに何 か、方向がなけりゃならん訳だろう」と法水は ムスッとして答えたが、続いて驚くべき事実が 彼の口を突いて出た。「それで、ダンネベルグ夫 入を狂人みたいにさせた、怖ろしい暗流が判っ たのだ。実は、電話でこの村の役場を調べたん だが、驚くじゃないか.あの四人の外人は去年 σ三月四日に帰化していて、降矢木の籍に、算 哲の養子養女となって入籍しているんだ。それ にまだ遺産相続の手続がされていない。つま り、この館は未だ以って、正統の継承者旗太郎 の手中には落ちていないのだよ」 「こりゃ驚いた」検事はペンを勉り出して唖然 となってしまったが、すぐに指を繰ってみて、 「多分手続が遅れているのは、算哲の遺言書で もあるからだろうが、剰すところもう、法定期 限は二ヵ月しかない。それが切れると、遺産は 国庫の中に落ちてしまうんだ」 「そうなんだ。だから、そこにもし殺人動機が あるのだとすれば、ファウスト博士の隠れ蓑 ーあの五芒星(ベンタグラムマ)の円が判るよ。然し、どのみち 一つの角度(アングル)には相違ないけれども、何しろ四人 の帰化入籍と云うような、思いもつかぬものが ある程だからね。その深さは並大抵のものじゃ あるまい。いや、却って僕は、それを迂澗に首 肯してはならぼいものを握っているんだ」 「一体何を?」 「先刻君が質問した中の(一)・(二)・(五)の箇 条なんだよ。甲冑武者が階段廊の上に飛び上っ ていて、1召使(パトラ )は聞えない音を聴いている し、1それから撲廊では、ボードの法則が相 変らず、海王星のみを証明出来ないのだがね」  そう云う驚くべき独断(ドグマ)を吐き捨てて、法水は 検事が書き終った覚書を取り上げた。それに は、私見を交えない事象の配列のみが、正確に 記述されてあった。 一、死体現象に関する疑問(略) 二、テレーズ人形が現場に残せる証跡に就い  て(略) 三、当日事件発生前の動静  一、早朝押鐘津多子の離館。  二、午後七時より八時ー。甲冑武者の位    置が階段廊上に変り、和式具足の二つ    の兜が取り換えられている。  三、午後七時頃、故算哲の秘書紙谷伸子が、    ダンネベルグ夫人と争論せしと云う。  四、午後九時1。神意審問会中にダンネ    ベルグは卒倒し、その時刻と符合せし    頃、易介はその隣室の張出縁に異様な    人影を目撃せりと云う。  五、午後十一時1。伸子と旗太郎がダン    ネベルグを見舞う。その折、旗太郎は    壁のテレーズの額を取り去り、伸子は    レモナーデを毒味せり。尚、青酸を注    入せる洋橿を載せたものと推察さるる    果物皿を、易介が持参せるはその時な    れども、肝腎の洋橿に就いては、遂に    証明されるものなし。  六、午後十一時四十五分頃。易介は最前の    人影が落せしものを見て、裏庭の窓際    に行き、硝子の破片並びにファウスト    中の一章を記せる紙片を拾う。その間    室内には被害者と鎮子のみなり。 七、 同零時頃。被害者洋樟を喰す。 尚、鎮子、易介、伸子以外の四人の家族に は、記述すべき動静なし。  四、黒死館既往変死事件に就いて(略)  五、既往一年以来の動向 一、昨年三月四日 一、同 十日  一、同 四月二十六日  以来館内の家族は不安に怯え、  は神意審問法に依り 究めんとす。 六、黙示図の考察(略) 七、動機の所在(略) 四人の異国人の帰化入 籍。 算哲は日課書に不可解 なる記述を残し、その 日魔法書を焚くと云う。   算哲の自殺。      遂に被害者 、その根元を為す者を  読み終ると法水は云った。 「この箇条書のうちで、第一の死体現象に関す る疑問は、第三条の中に尽されていると思う。 外見は、一向何でもなさそうな時刻の羅列に過 ぎないよ。然し、洋橿(オレンジ)が被害者の口の中に飛び 込んだ径路だけにでも、屹度フィソスレル幾何 の公式程のものが、ギュウギュウと詰っている に違いないんだ。それから算哲の自殺が、四人 の帰化入国と焚書の直後に起っているのにも、 注目する価値があると思う」 「いや、君の深奥な解析などはどうでもいいん だ」と熊城は吐き出すような語気で、「そんな 事より、動機と人物の行動との間に、大変な矛 盾があるぜ。伸子はダソネベルグ夫人と争論を しているし、易介は知っての通りだ。それにま た鎮子だっても、易介が室を出ていた間に、何 をしたか判ったものじゃない。ところが、君の 云うファウスト博士の円は、まさに残った四人 を指摘しているんだ」 「すると、儂(わし)だけは安全圏内ですかな」  その時背後で、異様な嘆れ声が起つた。三人 が吃驚(ぴつくり)して後を振り向くと、そこには、執事の 田郷真斎が何時の間にか入り込んでいて、大風(おおふう) な微笑を湛えて見下している。然し、真斎が宛 も風の如くに、音もなく三人の背後に現われ得 たのも、道理であろう。下半身不随のこの老史 学者は、恰度傷病兵でも使うような、護護輪(ゴムわ)で 滑かに走る手動皿輪車の上に載っているから だった。真斎は相当著名な中世史家で、この館の 執事を勤める傍(かたわら)に、数種の著述を発表してい るので知られているが、最早七十に垂(なんな)んとする 老人だった。無髭で諸丹色をした顔には、顧骨 突起と下顎骨が異常に発達している代りに、鼻 翼の周囲が陥ち窪み、その相は如何にも醜怪で ーと云うよりも寧ろ脱俗的な、所謂胡面梵相 とでも云いたい、まるで道釈画か十二神将の中 にでもあるような、実に異風な顔貌だった。そ して、頭に印度帽(テユルパン)を載せた所と云いーその凡 てが、一語で魁異(グロテスケリ)と云えよう。然し、何処か 妥協を許さない頑迷固随(ころう)と云った感じで、全体 の印象からは、甲羅のような外観がするけれど も、そこには、鎮子のような深い思索や、複雑 な性格の匂いは見出されなかった。尚、その手 動四輪車は、前部の車輪は小さく、後部のもの は自転車の原始時代に見るような素晴らしく大 きなもので、それを、起動機と制動機とで操作 するようになっていた。 「ところで、遺産の配分ですが」と熊城が、真 斎の挨拶にも会釈を返さず、性急に口切り出す と、真斎は不遜な態度で囎(うそぷ)いた。 「ホゥ、四人の入籍を御存じですかな。如何に も事実じゃが、それは個人個人にお訊ねした方 が宜しかろう。儂には、とんとそう云う点は ……」 「然し、既(とつ)くに開封されているじゃありません か。遺言書の内容だけは、話してしまった方が いいでしょう」熊城は流石に老練な口穿(かま)を掛け たけれども、真斎は一向に動ずる気色もなく、 「なに、遺言状……ホホウ、これは初耳じゃ」 と軽く受け流して、早くも冒頭から、熊城との 間に殺気立った黙闘が開始された。法水は最初 真斎を一瞥すると同時に、何やら黙想に耽るか の様子だったが、やがて収敏味の勝った瞳を投 げて、 「ハハア、貴方は下半身不随(パラプレシア)ですね。成程、黒 死館の凡てが内科的じゃない。ところで、貴方が 算哲博士の死を発見されたそうですが、多分そ の下手人が、誰であるかも御存じの筈ですがね」  これには、真斎のみならず、検事も熊城も一 斉に唖然となってしまった。真斎は墓みたいに 両肱を立てて半身を乗り出し、嘩(た)けるような声 を出した。 「莫迦な、自殺と決定されたものを…-・。貴方 は検屍調書を御覧になられたかな」 「だからこそです」と法水は追求した。「貴方 は、その殺害方法までも多分御承知の筈だ。大 体、太陽系の内惑星軌道半径が、どうしてあの 老医学者を殺したのでしょう?」 2 鐘鳴器(カリルロン)の讃詠歌(アンセム)で- 「内惑星軌道半径η」この余りに突飛な一言に 眩惑されて、真斎は咄嵯に答える術(すべ)を失ってし まった。法水は厳粛な調子で続けた。 「そうです。無諭史家である貴方は、中世ウェ ールスを風擁したバルダス信経を御存じでしょ う。あのドルイデ(川州呪僚"脚灘鰍)の流れを汲ん だ、呪法経典の信条は何でしたろうか(畔循躰齢灘 騨端製餐辮瑠離鍵鰯鶴罐)」 「然し、それが」 「つまり、その分析綜合の理を云うのです。私 はある憎むべき人物が、博士を殺した微妙な方 法を知ると同時に、初めて、占星術(アヌトロジイア)や錬金術(ルケミイ)の 妙味を知る事が出来ました。確か博士は、室の中 央で足を扉の方に向け、心臓に突き立てた短剣 の束(つか)を固ぐ握り締めて倒れていたのでしたね。 然し、入口の扉を中心にして、水星と金星の軌 道半径を描くと、その中では、他殺の凡ゆる証 ---------------------[End of Page 31]--------------------- 跡が消えてしまうの ですLと法水は室の 見取図に、別図のよ うな二重の半円を描 いてから、 「ところで、その前 に是非知って置かね ばならないのは、惑 星の記号が或る化学 記号に相当すると 云う事なんです。 く9易(ヴイナス)が金星であ る事は御承知でしょ うが、その傍ら銅を 表わしています。ま た、】≦Φ旨(マ キユリ)¢昌( )は、水 星であると同時に、水銀の名にもなっているの です。然し、古代の鏡は、青銅(ヴイナス)の薄膜の裏に 水銀(マ キユリ )を塗って作られていたのですよ。そうす ると、その鏡面にーつまり、この図では金星 の後方に当るのですが、それには当然、帷幕(たれまく)の 後方から進んで来る犯人の顔が映る事になりま しょう。何故なら、金星の半径を水星の位置に まで縮めると云う事は、素晴らしい殺人技巧で あったと同時に、犯行が行われて行く方向も、 また博士と犯人の動きさえも同時に表わしてい るからなんです。そして、、次第に犯人は、それ を中央の太陽の位置にまで縮めて行きました。 太陽は、当時算哲博士が終焉を遂げた位置だっ たのです。然し、背面の水銀(マ キユリ )が太陽と交った 際に一体何が起ったと思いますか?L  ああ、内惑星軌道半径縮小を比輪して、法水 は何を語ろうとするのであろうか。検事も熊城 も、近代科学の精を尽した法水の推理の中へ、 まさかに錬金道士の蒼暗たる世界が、前期化学(スパルジリ ) 特有の類似律の原理と共に、現われ出ようとは 思わなかった。 「ところで田郷さん、S一字でどう云うものが 表わされているでしょうか」と法水は、調子を 弛めずに続けた。「第一に太陽、それから硫黄 ですよ。ところが、水銀と硫黄との化合物は、 朱ではありませんか。朱は太陽であり、また血 の色です。つまり、扉の際(きわ)で算哲の心臓が綻(ほころ)び たのです」 「なに、扉の際で……。これは滑稽な放言じゃ」 と真斎は狂ったように、肱掛を叩き立てて、 「貴方は夢を見て居る。正に実状を顛倒した話 じゃ。あの時血は、博士が倒れている周囲にし か流れて居らなかったのです」 「それは、一旦縮めた半径を、犯人がすぐ旧(もと)通 りの位置に戻したからですよ。それから、もう 一度Sの字を見るのです。まだあるでしょう。 悪魔会議日(サパスデ )、立法者(スクライブ)……。そうです、まさしく 立法者なんです。犯人はあの像のように……」 と法水は、そこで一旦唇を閉じ、じいっと真斎 を噴めながら、次に吐く言葉との間の時間を、 胸の中で秘かに計測しているかの様子だった。 ところが、突然(いきなり)頃合を計って、「あのように、 立って歩く事の出来ない人問1それが犯人な んです」と鋭い声で云うと、不思議な事には、 それと共に1解し難い異状が、真斎に起っ た。  それが、・始め上体に衝動が起ったと見る間 に、両眼を暉(みひら)き口を劇帆形に開いて、恰度ムツ クの老婆に見るような無残な形となった。そし て、絶えず唾を嚥み下そうとするもののような 苦悶の状を続けていたが、そのうち漸く、 「おお、儂(わし)の身体を見るがいい。こんな不具者 がどうして……」と辛くも嗅れ声を絞り出し た。が、真斎には確か咽喉部に何か異常が起っ たと見えて、その後も引き続き呼吸の困難に悩 み、異様な吃音と共に激しい苦悶が現われるの だった。その有様を、法水は異常な冷やかさで 見やりながら云い続けたが、その態度には、相 変らず計測的なものが現われていて、彼は自分 の言葉の速度(ニンポ)に、周到な注意を払っているらし い。 「いや、その不具な部分を倹ってこそ、殺人を 犯す事が出来たのですよ。僕は貴方の肉体でな く、その手動四輪車と敷物(カ ペツト)だけを見ているので す。多分ヴェンヴェヌート・チェリニ(赦鑑腹唄鯛⑫ M都殺)が、カルドナッオ家㍗八ルミエリ(加"W 鰐)を讐たと云う轟を御鱈でξ が、腕で劣ったチェリニは、最初敷物を弛ませ て置いて、中途でそれをピイソと張らせ、パル ミエリが足許を奪われて路(よろめ)践く所を刺殺したの でした。然し、算哲を驚すためには、その敷物 を応用した文芸復興期(ルネサンス)の剣技が、決して一場の 伝奇(ロマゴン)ではなかったのです。つまり、内惑星軌道 半径の縮伸と云うのは、要するに貴方が行っ た、敷物(カ ベツト)のそれに過ぎなかったのですよ。籾、 犯行の実際を説明しますかな」と云ってから、 法水は検事と熊城に詰責気味な視線を向けた。 「大体何故扉の浮彫を見ても、君達はい幅棲(せむし)の 眼が窪んでいるのに気が附かなかったのだね」 「成程、楕円形に凹んでいる」熊城はすぐ立っ て行って扉を調べたが、果して法水の云う通り だった。法水はそれを聴くと、会心の笑を真斎 に向けて、 「ねえ田郷さん、その窪んでいる位置が、恰度 博士の心臓の辺に当りはしませんか。それが、 楕円形をしているのですから、護符刀の束頭(つかがしら)で ある事は一目瞭然たるものです。そうなると、 当然天寿を楽しむより外に自殺の動機など何一 つなく、おまけにその日は、愛入の人形を抱い て若かった日の憶い出に耽ろうとした程の博士 が、何故扉際に押し付けられて、心臓を貫いて いたのでしょう」  真斎は声を発する事は愚か、依然たる症状を 続けて、気力が正に尽きなんとしていた。蝋白 色に変った顔面からは膏(あぷら)のような汗が滴り落 ち、到底正視に耐えぬ惨めさだった。ところ が、それにも拘らず法水は、この残忍な追求を いっかな止めようとはしなかった。 「ところで、此処に奇妙な逆説(パラドツクス)があるので す。その殺人が、却って五体の完全な人間には 不可能なんですよ。何故なら、殆ど音の立たな い、手動四輪車の機械力が必要だったからで、 それがまず、敷物(カ ペツト)に波を作って縮め重ねて行 き、終いには、博士を扉に激突させたからでし た。何分にも、当時室は闇に近い薄明りで、右 側の帷幕の蔭に貴方が隠れていたのも知らず に、博士は帷幕の左側を排して、召使が運び入 れて置いた人形を寝台の上で見、それから、鍵 を下しに扉の方へ向ったのでしょう。ところ が、それを追うて、貴方の犯行が始まったので したね。まずそれ以前に、敷物の向う端を鋲で 止め、人形の着衣から護符(タリズマン)刀を抜いて置くー そして愈ζ博士が背後を見せると、敷物(カ ぺリト)の端を もたげて、縦にした部分を足台で押して速力を 加えたので、敷物(カ ベツト)には搬が作られ、勿論その波 は次第に高さを加えたのです。そして、背後か, ら足台を、博士の膝腫窩(ひかがみ)に衝突させる。と、波 が横からつぶされて、殆ど腋下に及ぶ程の高さ になってしまう。と同時に、所謂イエンドラ シック反射が起って、その部分に加えられた衝 撃が、上鱒筋(じようはくきん)に伝導して、反射運動を起すので すから、当然博士は、無意識裡に両腕を水平に上 げる。その両脇から博士を後様(うしろざま)に抱えて、右手 に持った護符刀(タリズマン)を心臓の上に軽く突き立て、す ぐにその手を離してしまう。と、博士は思わず反 射的に短剣を握ろうとするので、間髪の間に二 つの手が入れ代って、今度は博士が束(つか)を握って しまう。そして、その瞬後扉に衝突して、自分 が束を握った刃が心臓を貫く。つまり、高齢で 歩行の遅(のろ)い博士に、敷物(ヵ ベツト)に波を作りながら音響 を立てずして追い付ける速力と"その機械的な 圧進力1。それから、束を握らせるために、 両腕を自由にして置かねばならないので、何よ りまず膝腫窩(ひかがみ)を刺戟して、イエシドラシック反 射を起さねばならないー。そう云う凡ての要 素を具備しているのが、この手動四輪車でし て、その犯行は寸秒の間に、声を立てる間がな かったほど恐ろしい速度で行われたのでした。 ですから貴方の不具な部分を以ってせずには、 誰一人博士に、自殺の証跡を残して、息の根を 止める事は不可能だったのですよ」. 「すると、敷物(カ ペット)の波は何のためだい」熊城が横 合から訊ねた。 「それが、内惑星軌道半径の縮伸じゃないか。 一旦点(ピリオド)にまで縮んだものを、今度は波の頂点 に博士の頸を合わせて、敷物(カ ベツト)を旧通りに伸ばし て行ったのだ。だから、束を握り締めたまま で、博士の死体は室の中央に来てしまったのだ よ。勿諭、空室でも、鎖されていたのではない から、殆ど跡は残らぬし、死後は決して固く握 れるものじゃない。けれども、大体検屍官なん てものが、秘密の不思議な魅力に、感受性を欠 いているからなんだよ」  その時、この殺気に充ちた陰気な室の空気を 揺ぶって、古風な経文歌(モテツト)を奏でる、佗しい鐘鳴 器(カリルロン)の音が響いて来た。法水は先刻尖塔の中に …雛吾鐙(纏婦吻働)は見たけれども・鐙嬬器(罐曜笹 塘翻働曝楡脇礎施御糖以)の所在には気が附かなかっ た。然し、その異様な対照に気を奪われている 矢先だった。それまで肱掛に傭伏していた真斎 が必死の努力で、殆んど杜絶(とぎ )れ勝ちながらも、 微かな声を絞り出した。 「嘘だ……算哲様はやはり室の中央で死んでい たのだ……。然し、この光栄ある一族のために …-儂(わし)は世間の耳目を怖れて、その現場から取 り除いたものがあった……」 「何をです?」 「それが黒死館の悪霊、テレーズの人形でした …-背後から負さったような形で死体の下にな り、短剣を握った算哲様の右手の上に両掌を重 ねていたので……それで、衣服を通した出血が 少かった事から……儂(わし)は易介に命じて」  検事も熊城も、もう疎み上るような驚修の色 は現わさなかったけれども、既に生存の世界に はない筈の不思議な力の所在が、一事象毎に濃 くなって行くのを覚えた。然し、法水は冷然と 云い放った。 「これ以上は止むを得ません。僕もこの上進む 事は不可能なんですから。博士の死体は既に泥 のような無機物です七、もう起訴を決定する理 由と云えば、貴方の自白以外にないのですから ね」  そう法水が云い終った時だった。その時経文(モテツ) 歌の音が止んだかと思うと、突然思いも依らぬ 美しい絃の音が耳膜を揺り始めた。遠く幾つか の壁を隔てた彼方で、四つの絃楽器は、或は荘 厳な全絃(コ )合奏(ダ)となり、時としては瞬く小川のよ うに、第一提琴(フアスト ヴアイオリン)がサマリアの平和を唱って行 くのだった。それを聴ぐと、熊城は腹立たしそ うに云い放った。 「何だあれは、家族の一人が殺されたと云うの に」 「今日は、この館の設計者クロード・ディグス ビイの忌斎日でして……」と真斎は苦し気な呼 吸の下に答えた。「館の暦表の中に、帰国の船 中羅貢( フ ング モン)で身を投げた、ディグスビイの追憶が含 まれているのです」 「成程、声のない鎮魂楽(レキエム)ですね」と法水は悦惚 となって云った。「何だか、ジョソ・ステーナー の作風に似ているような気がする。支倉君、僕 はこの事件であの四重奏団(カルテツト)の演奏が聴けようと は思わなかったよ。サア、礼拝堂へ行ってみよ う」  そうして、私服に真斎の手当を命じて、この 室を去らしめると、 「君は何故、最後の一歩と云うところで追求を 弛めたのだ?」と熊城は早速に詰(たじ)り掛ったが、 意外にも、法水は爆笑を上げて、 「すると、あれを本気にしているのかい」  検事も熊城も、途端に嘲弄された事は覚った けれども、あれ程整然たる条理に、到底その儘 を信ずる事は出来なかった。法水は可笑しさを 耐えるような顔で、続いて云った。 「実を云うと、あれは僕の一番厭な洞喝訊問な んだよ。真斎を見た瞬間に直感したものがあっ たので、応急に組み上げたのだったけれど、真実 の目的と云えば、実は外にあったのだ。ただ真 斎よりも、精神的に優越な地位を占めたいー と云うそれだけの事なんだよ。之の事件を解決 するためには、まずあの頑迷な甲羅を砕く必要 があるのだ」 「すると、扉の窪みは」 コ一二が五さ。あれは、この扉の陰険な性質を 捌挟している。また、それと同時に水の跡も証 明しているんだよ」正しく仰天に価いする逆転 だった。グワソと脳天をドヤされたかのように 荘然となった二人に、法水は早速説明を始め た。 「水で扉を開く。つまり、この扉を鍵なくして 開くためには、水が欠くべからざるものだった のだ。所で、最初それと類推させたものを話 す事にしよう。マームズベリi卿が著わした 『ジョン・デイ博士鬼説』と云う古書がある。 それには、あの魔法博士デイの奇法の数々が記 されているのだが、その中で、マームズベリー 卿を驚嘆させた隠顕扉の記録が載っていて、そ れが僕に、水で扉を開けーと教えて呉れたの だ。勿諭一種の信仰療法(クリヌチヤンサイエンス)なんだが、まずデ イは、瘡患(おこり)者を附添いと一緒に一室へ入れ、鍵 を附添いに与えて扉を鎖さしめる。そして、約 一時間後に扉を開くと、鍵が下りているにも拘 らず、扉は化性(ぽしよう)のものでもあるかのように、ス ウッと開かれてしまう。そこでデイは結論する ー懸神の半羊人(テイフオン)は遁れたりーと。所が、正 しく扉の附近には羊の臭気がするので、それで 患者は精神的に治癒されてしまうのだ。ねえ熊 城君、その羊の臭気と云うものの中に、デイの詐 術が含まれているのだよ。所で、君は多分、ラ ンプレヒト湿度計(ハイグロメ タ )にもある通りで、毛髪が湿 度に依って伸縮するばかりでなく、その度が長 さに比例する事実も知っているだろう。そこ で、試みに、その伸縮の理諭を、落し金の微妙 な動きに応用して見給え。知っての通勺い獺旋 で使用する落し金と云うのは、元来、打附木材 磁暫(臓獺彊㈱吐旅簸剛納舳麻欄励鎌峨酬鋤働琳材)特有の ものと云われているのだが、大体が平たい真鎗 桿の端に遊離しているもので、その桿の上下に 依って、支点に近い角体の二辺に沿い起倒する 仕掛になっている。そして、支点に近附くほど 起倒の内角が小さくなると云う事は、多分簡単 な理法だから判っているだろう。そこで、落し 金の支点に近い一点を結んで、その紐を、倒れ た場合水平となるように張って置き、その線の 中心とすれすれに、頭髪の束で結んだ重錘(おもり)を置 いたと仮定しよう。そして、鍵穴から湯を注ぎ 込む。すると、当然湿度が高くなるから、毛髪 が伸長して、重錘が紐の上に加わって行き、勿 論紐が弓状になってしまう。従って、その力が 落し金の最小内角に作用して、倒れたものが起 きてしまうのだ。だから、デイの場合は、それ       いぱり が羊の尿だったろうと思うのだがね。またこの 扉では、幅棲の眼の裏面が、多分その装置に必 要な劃穴(くりあな)だったので、その薄い部分が、頻繁に 繰り返される乾湿のために、凹陥を起したに違 いないのだよ。つまり、その仕掛を作ったのが 算哲で、それを利用して永い間出入りしていた 人物と云うのが、犯人に想像されるんだ。どう だね支倉君、これが先刻(さつき)人形の室で、犯人が何 故糸と人形の技巧(トリツク)を遺して置いたのか判るだろ う。外側からの技巧(トリツク)ばかりを詮索していた日に は、この事件は永遠に、扉一つが鎖してしまう のだ。それに、そろそろこの辺から、ウイチグ ス呪法の雰囲気が濃くなって行くような気がす るじゃないか」 「すると、人形はその時の溢れた水を踏んだと 云うことになるね」と検事は引つれたような声 を出した。「もう後は、あの鈴のような音だけ なんだ。これで犯人(ヘヘヘ)を伴(ヘヘ)った人形( ヘヘヘ)の存在(ヘヘヘ)は、 愈ζ確定されたと見て差支ない。然し、君の神 経が閃めく度毎に、その結果が、君の意向とは 反対の形で現われてしまう。それは、一体どう したって事なんだい」 「ウム、僕にもどうも解せないんだ。まるで、 穽(おとしあな)の中を歩いているような気がするよ」と法 水にも錯乱した様子が見えると、 「僕は、その点が両方に通じてやしないかと思 うよ。いまの真斎の混乱はどうだ。あれは決し て看過しちゃならん」とこれぞとばかりに、熊 城が云った。 「ところがねえ」と法水は苦笑して、「実は、 僕の伺喝訊問には、妙な言だが、一種の生理拷 問とでも云うものが伴なっている。それがあっ たので、初めてあんな素晴らしい効果が生れた のだよ。ところで、二世紀アリウス神学派の豪僧 フィリレイウスは、斯う云う談法論を述べてい る。霊気(ニユ マ)(鑑)は呼気と共に体外に脱出するも のなれば、その空虚を打て1乏。また、比喩 には隔絶したるものを択べーと。正に至言だ よ。だから、僕が内惑星軌道半径をミリミクロ ソ的な殺人事件に結び対㍑、と云うのも、究極 のところは、共通した因数を容易に気附かれた くないからなんだ。そうじゃないか、エディソ トソの『空間(スペ ス タ)・時(イム エ)・及(ンド グレ)び引力(ヴイテシヨン)』でも読んだ日 には、その中の数字に、てんで対称的な観念が なくなってしまう。それから、ビネーのような 中期の生理的心理学者でさえも、肺臓が満ちた 際の精神の均衡と、その質量的な豊かさを述べ ている。無論あの場合僕は、まさに吸気を引こ うとする際にのみ、激情的な言葉を符合させて 行ったのだが、またそれと同時に、もしやと 思った生理的な衝撃(シヨツク)も狙っていたのだ。そ( ヤ)れ は、喉頭後筋掻搦(ミユ ルマンちくでき)と云う持続的な呼吸障害なん だよ。、・・ユールマソはそれを『老年の原因』の 中で、筋質骨化に伴う衝動心理現象と説いてい る。勿論間歌性のものには違いないけれども、 老齢者が息を吸い込む中途で調節を失うと、現 に真斎で見る通りの、無残な症状を発する場合 があるのだ。だから、心理的にも器質的にも、 僕は滅多に当らない、その二つの目を振り出し たと云う訳なんだよ。とにかく、あんな間違い だらけの説なので、一切相手の思考を妨害しよ うとしたのと、もう一つは去勢術なんだ。あの 蠣(かき)の殻を開いて、僕は是非にも聴かねばならな いものがあるからだよ。つまり、僕の権謀術策 たるや、或る一つの行為の前提に過ぎないのだ がねL 「驚いたマキァベリーだ。然し、そう云うの は?」と検事が勢込んで訊ねると、法水は微か に笑った。「冗談じゃないよ、君の方でした癖に。 先刻僕に訊ねた(一)・(二)・(五)の質問を忘れ たのかい。それに、あのリシュリューみたいな 実権者は、不浄役人共に黒死館の心臓を窺わせ. まいとしている。だからさ、あの男が鎮静注射 から醒めた時が、事に依るとこの事件の解決か も知れないのだよ」  法水は相変らず荘漠たるものを灰かしただけ で、それから鍵孔に湯を注ぎ込み、実験の準備 をしてから、演奏台のある階下の礼拝堂に赴い た。広間(サロン)を横切ると、楽の音は十字架と楯形の 浮彫の附いた大扉の彼方に迫っていた。扉の前 には一人の召使(バトラ )が立っていて、法水がその扉を 細目に開くと、冷やりとした、だが広い空間を佗 し気に揺れている、寛潤な空気に触れた。それ は、重量的な荘厳なもののみが持つ、不思議な 魅力だった。礼拝堂の中には、褐(あか)い蒸気の微粒 が一杯に立ち軍めていて、その霧のような暗さ の中で、弱い平穏な光線が、何処か鈍い夢のよ うな形で漂うている。その光は聖壇の蟻燭から 来ているのであって、三稜形をした大燭台の前 には乳香が煙(た)かれ、その姻と光とは、火箭のよう に、林立している小円柱を沿上(へのぽ)って行って、頭 上遙か扇形に集束されている尋簸麟,の辺にまで 達していた。楽の音は柱から柱へと反射して 行って、異様な和声を湧き起し、今にも、列撲(アルカ ド)か ら金色燦然たる聖服をつけた、司教助祭の一群 が現われ出るような気がするのであった。が、 法水にとってはこの空気が、問罪的な不気味な ものとしか考えられなかった。  聖壇の前には半円形の演奏台が設(しつら)えてあっ て、そこに、ドミニク僧団の黒と白の服装をし た、四人の楽人が無我悦惚の境に入っていた。 右端の、不細工な巨石としか見えないチェリス ト、オットカール・レヴェズは、そこに半月形 の髭でも欲しそうなフックラ膨んだ頬をしてい て、体魑の割合には、小さな瓢箪形の頭が載っ ていた。彼は如何にも楽天家らしく、おまけ に、チェロがギター程にしか見えない。その次 席が、ヴィオラ奏者のオリガ・クロヴォフ夫人 であって、眉弓(まゆみ)が高く附(まなじ)…が鋭(り)く切れ、細い鉤 形の鼻をしている所は、如何にも峻厳な相貌で あった。聞くところに依れば、彼女の技量はか の大独奏者、クルチスをも凌駕すると云われて いるが、それもあろうか演奏中の態度にも、傲 岸な気魂と妙に気障な、誇張した所が窺われた。 ところが、次のガルバルダ・セレナ夫人は、凡 てが前者と対礁的な観をなしていた。皮膚が蝋 色に透き通って見えて、それでなくても、顔の 輪郭が小さく、柔和な緩い円ばかりで、小ぢん まりと作られている。そして、黒味勝ちのパ.ッ チリした眼にも、擬視するような鋭さがない。 総じてこの婦人には、憂響な何処かに、謙譲な 性格が隠されているように思われた。以上の三 人は、年齢四十四五と推察された。そして、最 後に第一提琴を弾いているのが、やっと十七に なったばかりの降矢木旗太郎だった。法水は、 日本中で一番美しい青年を見たような気がし た。が、その美しさも所謂俳優的な、遊惰な媚 色であって、どの線どの陰影の中にも、思索的 な深みや数学的な正確なものが現われ出ていな い。と云うのも、そう云った叡智の表徴をなす ものが欠けているからであって、博士の写真に 於いて見る通りの、あの端正な額の威厳がない からであった。  法水は到底聴く事は出来ぬと思われた、この, 神秘楽団の演奏に接する事は出来たけれども、 彼は徒らに陶酔のみはしていなかった。と云う のは、楽曲の最後の部分になると、二つの提琴 が弱音器を附けたのに気が付いた事であって、 それがために、低音の絃のみが高く圧したよう に響き、その感じが、天国の栄光に終る荘厳な 終曲(フイナレ)と云うよりも、寧ろ地獄から響いて来る、 恐怖と嘆きの岬きとでも云いたいような、実に 異様な感を与えた事である。終止符に達する前 に、法水は扉を閉じて側の召使(バトラ )に訊ねた。 「君は、何時も斯うして立番しているのかね」 「いいえ、今日が始めてで御座います」,と召使(パトラ ) 自身も解せぬらしい面持だったが、その原因は 何となく判ったような気がした。それから、三 人が悠たりと歩んで行くうち、法水が口を切っ て、 「まさにあの扉が、地獄の門なんだよ」と咳い た。 「すると、その地獄は、扉の内か外かね」と検 事が問い返すと、彼は大きく呼吸をしてから、 頗る芝居がかった身振で云った。 「それが外なのさ。あの四人は、・確かに怯え 切っているんだ。もしあれが芝居でさえなけれ ば、僕の想像と符合する所がある」  鎮魂楽(レキエム)の演奏は、階段を上り切った時に終っ た。そして、暫くの間は何も聞えなかったけれ ども、それから三人が区劃扉を開いて、現場の 室の前を通る、廊下の中に出た時だった.再び 鐘鳴器(カリルロン)が鳴り始めて、今度はラッサスの讃詠(ァンセム)を 奏で始めたのであった(ダビデの詩篇第九十一 篇) 夜はおどろくべきことあり 昼はとびきたる矢あり 幽暗(くらき)にはあゆむ疫癌(えやみ)あり 日午(ひる)にはそこなう激しき疾(やまい)あり されどなんじ畏ることあらじ  法水はそれを小声で口諦(くちずさ)みながら、讃詠(アンセム)と同 じ葬列のような速度で歩んでいたが、然し、そ の音色は繰り返す一節毎に衰えて行き、それと 共に、法水の顔にも憂色が加わって行った。そ して、三回目の繰り返しの時、幽暗(くらきヤ)にはーの 一飾は殆んど聞えなかったが、次の、日午(ひる)には 1の一節に来ると、不思議な事には、同じ音 色ながらも倍音が発せられた。そうして、最後 の節は遂に聴かれなかったのでもあった。 「成程、君の実験は成功したぜ」と検事は眼を 円くしながら、鍵の下りた扉を開いたが、法水 のみは正面の壁に背を兜せたままで、暗然と宙 を膿めている。が、やがて眩くような微かな声 で云った。「支倉君、撲廊(そでろうか)へ行かなけりゃなら んよ。彼処の吊具足の中で、たしか易介が殺さ れているんだ」  二人は、.それを聴いて思わず飛び上ってし まった。ああ、法水は如何にして、鐘鳴器(カリルロン)の音 から死体の所在を知ったのであろうか? 3 易介は挾まれて殺さるべし  所が、法水はすぐ鼻先の撲廊へは行かずに、 円廊を迂廻して、礼拝堂の円蓋に接している鐘 楼階段の下に立った。そして、課員全部をその 場所に召集して、まずそこを始めに、屋上から 壁廓上の塗楼にまで見張りを立て、尖塔下の鐘 楼を注視させた。斯うして恰度二時三十分、鐘 鳴器(カリルロン)が鳴り終ってから僅かに五分の後には、蟻 も洩らさぬ緊密な包囲形が作られたのであっ た。その凡てが神速で集中的であり、もう事件 がこれで終りを告げるのではないかと思われた 程に、結論めいた緊張の下に運ばれて行ったの であった。けれども、勿論法水の脳髄を、裁ち 割って見ないまでは、果して彼が何事を企図し ているのか1予測を許さぬ事は舌う迄もない のである。  ところで読者諸君は、法水の言動が意表を超 絶している点に気附かれたであろう。それが果 して的中しているや否やは別としても、正に人 間の限界を越さんばかりの飛躍だった。鐘鳴器(カリルロン) の音を聴いて、易介の死体を撲廊の中に想像し たかと思うと、続いて行動に現われたものは、 鐘楼を目している。然し、その晦冥錯綜とした ものを、過去の言動に照し合わせてみると、そ こに一纏脈絡するものが発見されるのである。 と云うのは、最初検事の箇条質問書に答えた内 容であって、その後執事の田郷真斎に残酷な生 理拷問を課してまでも、尚且後刻に至って彼の ロから吐かしめんとした、あの大きな逆説(パラドツクス)の 事であった。勿諭その共変法じみた因果関係 は、他の二人にも即座に響いていた。そして、 その驚くべき内容が、多分真斎の陳述を侯たず とも、この機会に閲明されるのではないかと思 われるのだった。が、指令を終った後の法水の 態度は、また意外だった。再び旧の暗い顔色に 帰って、懐疑的な錯乱したような影が往来を始 めた。それから撲廊の方へ歩んで行くうちに、 思い掛けない彼の嘆声が、二人を驚かせてし まった。 「ああ、すっかり判らなくなってしまったよ。 易介が殺されて犯人が鐘楼にいるのだとする と、あれ程的確な証明が全然意味をなさなくな る。実を云うと、僕は現在判っている人物以外 一人を想像していたんだが、それが飛んだ場 所へ出現してしまった。真逆に別個の殺人では ないだろうがねL 「それじゃ、何のために僕等は引っ張り廻され たんだ?」検事は憤激の色を作して叫んだ。 「大体最初に君は、易介が撲廊の中で殺されて いると云った。ところが、それにも拘らず、そ 口の下で見当違いの鐘楼を見張らせる。軌道 ない。全然無意味な転換じゃないか」 「さして、驚くには当らないさ」と法水は歪ん だ笑を作って云い返した。「それと云うのが、 鐘鳴器(カリルロン)の讃詠(アンセム)なんだよ。演奏者は誰だか知らな いが、次第に音が衰えて来て、最終の一節は遂 演奏されなかったのだ。それに最後に聞え た、日午(ひる)はーのところが、不思議にも倍音 ,(部にレb、あグ外撮拠抄畔畿縫)を発している。ねえ 支倉君、これは、蓋し一般的な法則じゃあるま いと思うよ」 「では、取り敢えず君の評価を承わろうかね」 と熊城が割って入ると"法水の眼に異常な光輝 現われた。 「それが、まさに悪夢なんだ。怖ろしい神秘 じゃないか。どうして、散女的に解る問題なも、 んか」と一旦は狂熱的な口調だったのが、次第 落着いて来て、「所で、最初易介が、既にこ 世の人でないとしてだ1勿論何秒か後に その厳然たる事実が判るだろうと思うが、 扱そうなると、家族全部の数に一つの負数が 剰(あま)ってしまうρだ。で、最初は四人の家族だ が、演奏を終ってすぐ礼拝堂を出たにしても、 それから鐘楼へ来るまでの時間に余裕がない。 また、真斎は凡ゆる点で除外されていい。する と、残ったのは伸子と久我鎮子になるけれど も、一方、鐘鳴器(カリルロン)の音がパタリと止んだのでは なく、次第に弱くなって行った点を考えると、 あの二人が共に鐘楼にいたと云う想像は、全然 当らないと思う町勿論その演奏者に、何か異常 な出来事が起ったには違いないけれども、その 矢先、讃詠(アンセム)の最後に聞えた一節が、微かながら 倍音を発したのだ。云うまでもなく、鐘鳴器(カリルロン)の 理論上倍音は絶対に不可能なんだよ。すると熊 城君、この場合鐘楼には、一人の人聞の演奏者 以外に、もう一人、奇蹟的な演奏を行える化性 のものがいなければならない。ああ、あいつ(ヘヘヘ)は どうして鐘楼へ現われたのだろうか?」 「それなら、何故先に鐘楼を調べないのだ ね?」と熊城が詰り掛ると、法水は、幽(かすか)に声を傑 わせて、「実は、あの倍音に陥穽があるような 気がしたからなんだ。何だか微妙な自己暴露の ような気がしたので、あれを僕の神経だけに伝 えたのにも、何となく好計(たくらみ)がありそうに思われ たからなんだよ。第一犯人が、それほど、犯行 を急がねばならぬ理由が判らんじゃないか。そ れに熊城君、僕等が鐘楼でまごまごしている 間、階下の四人は殆ど無防禦なんだぜ。大体こ んなダダっ広い邸の中なんてものは、何処も彼 処も隙だらけなんだ。どうにも防ぎようがな い。だから、既往のものは致し方ないにして も、新しい犠牲者だけは何とかして防ぎ止めた いと思ったからなんだ。つまり、僕を苦しめて いる二つの観念に、各ζ対策を講じて置いたと 云う訳さ」 「フム、またお化か」と検事は下唇を噛み締め て眩いた。「凡てが度外れて気違い染みている。 まるで犯人は風みたいに、僕等の前を通り過ぎ ては鼻を明かしているんだ。ねえ法水君、この 超自然は一体どうなるんだい。ああ徐(だんだん)々に、鎮 子の説の方へ纏(まとま)って行くようじゃないか」  未だ現実に接しないにも拘らず、凡ての事態 明白に集束 して行く方向を 指し示してい る。やがて、開 け放たれた撲廊 入口が眼前に 現われたが、突 き当りの円廊に 開いている片方 扉が、何時の 間にか鎖じられ たと見えて、内 部は暗黒に近 かった。その冷 やりと触れて来 る空気の中で、 微かに血の臭気 匂って来た。 それが、捜査開始後、未だ四時間に過ぎないの である。それにも拘らず、法水等が暗中摸索を 続けているうちに、その間犯人は隠密な跳梁を 行い、既に第二の事件を敢行しているのだ。  法水は、すぐ円廊の扉を開いて光線を入れて から、左側に立ち並んでいる吊具足の列を見渡 し始めた。が、すぐに「これだ」と云って、中 央の一つを指差した。その一つは、雨黄匂(もさえぎにムおい)の鎧 で、それに鍬形(くわがた)五枚立の兜を載せた外、毘沙門 篠の両腎軍(りようこて)、小袴、脛当、鞠沓(まりぐつ)までもつけた本. 格の武者装束。面部から咽喉にかけての所は、 咽輪と黒漆の猛悪な相をした面当で隠されて あった。そして、背には、軍配日月の中央に南 無日輪摩利支天と認めた母衣(ほろ)を負い、その脇に 竜虎の旗差物が挾んであった。然し、その一 列のうちに注目すべき現象が現われていたと云 うのは、その繭黄匂を中心にして→左右の全部 が等しく斜めに向いているばかりでなく、その 横向きになった方向が、交互一(かわるがわる)つ置きに一致 していて、つまり、右、左、右と云う風に、異 様な符合が現われている事だった。法水がその 面当を外すと、そこに易介の凄惨な死相が現わ れた。果せる哉、法水の非凡な透視は適中して いたのだ。のみならず、ダンネベルグ夫人の屍 光と代り合って、この株儒(こぴと)の幅懐(せむし)は奇怪千万に も、甲冑を着し宙吊りになって殺されている。 ああ、此処にもまた、犯人の絢欄たる装飾癖が 現われているのだった。  最初眼に附いたのは、咽喉につけられている 二条の切創だった。それを詳しく云うと、合わ せた形が恰度二の字形をしていて、その位置 は、甲状軟骨から胸骨にかけての、所謂前頸部 であったが、創形が模形をしているので、鎧通 し様のものと推断された。また、深さを連らね た形状が、 U形をしているのも奇様である。 上のものは、最初気管の左を、六糎程(センチ)の深さに 刺してから刀を浮かし、今度は横に浅い切創を 入れて迂廻して行き、右側に来ると、再びそこ ヘグイと刺し込んで刀を引き抜いている。下の 一つも大体同じ形だが、その方向だけは斜下に なっていて、創底は胸腔内に入っていた。然 し、何れも大血管や臓器には触れていず、しか も、巧みに気道を避けているので、勿論即死を 起す程度のものではない事は明らかだった。  それから、天井と鎧の綿貫とを結んでいる二 条の麻紐を切り、死体を鎧から取り外しに掛か ると、続いて異様なものが現われた。それまで は、不自然な部分が咽輪の垂れで隠されていた ので判らなかったのだが。不思議な事に、易介 は鎧を横に着ているのだった。即ち、身体を入 れる左脇の引合口の方を背後にして、そこから はみ出した背中の瘤起を、幌骨の劃形(くりがた)の中に入 れている。そして、傷ロから流れ出たドス黒い 血は、小袴から鞠沓(まりぐつ)の中にまで滴り落ちてい て、既に体温は去り、硬直は下顎骨に始まって いて、優に死後二時間は経過しているものと思 われた。が、死体を引き出してみると、樗然と させたものがあった。と云うのは、全身に渉り 著明な窒息徴候が現われている事で、無残な痙 準の跡が到る処に行き渉っているばかりでな く、両眼にも、排泄物にも、流血の色にも、ま ざまざと一目で頷けるものが残されていた。の みならず、その相貌は実に無残を極め、死闘時 の激しい苦痛と襖悩とが窺われるのだった。が 然し、気管中にも栓塞(せんそく)したらしい物質は発見さ れず、ロ腔を閉息した形跡もないばかりか、索 痕や拓殺した痕跡は勿論見出されなかった。 「正にラザレフ(鯉随伽殊浄イ)の再現じゃない か」と、法水は坤くような声を出した。「この傷 は死後に付けられているんだよ。それが、刀を 引き抜いた断面を見ても判るんだ。通例では、 刺し込んだ途端に引き抜くと、血管の断面が収 縮してしまうもんだが、これはダラリと苔開(しカい)し ている。それに、これ程顕著な特徴を持った、窒 息死体を見たことはないよ。残忍冷酷も極まっ ている。ー恐らく、想像を絶した怖ろしい方 法に違いない。そして、窒息の原因をなしたも のが、易介には徐々と迫って行ったのだ」 「それが、どうして判るんだ?」と熊城が不審 な顔をすると、法水はその陰惨極まる内容を明 らかにした。 「つまり、死闘の時間が徴候の度に比例するか らなんだが、まさにこの死体は、法医学に新し い例題を作ると思うね。だって、その点を考え たらどうしたって、易介が次第に息苦しくなっ て行ったと想像するより外にないじゃないか。 多分、その間易介は凄惨な努力をして、何とか して死の鎖を断とうとしたに違い底いのだ。然 し、身体は鎧の重(て)量のために活力を失ってい る。最早どうする事も出来ない。そうして、空 しく最後の瞬間が来るのを待つうちに、多分幼 少期から現在までの記憶が、電光のように閃め いて、それが、次から次へと移り変って行った .に違いないのだよ。ねえ熊城君、人生のうちで これ程悲惨な時間があるだろうか。また、これ ほど深刻な苦痛を含んだ、残忍な殺人方法がま たと他にあるだろうかL  流石の熊城も、その思わず眼を覆いたいよう な光景を想起して、ブルッと身傑いしたが、 「然し、易介は自分からこの中に入ったのだろ うか。それとも犯人が……」 「いや、それが判れば殺害方法の解決も附く よ。第一、悲鳴を揚げなかったことが疑問じゃ ないか」と法水はアッサリ云い退けると、検事 は、兜の重量でペシャソコになっている死体の 頭顧(あたま)を指差して、彼の説を持ち出した。 「僕は何だか、兜の重量に何か関係があるよう な気がするんだ。無論、創と窒息の順序が顧倒 してりゃ、問題はないがね……」 「そうなんだ」と法水は相手の説に頷いたが、 「一説には、頭蓋のサントリニ静脈は、外力を うけてから暫く後に、血管が破裂すると云うか らね。その時は、脳質が圧迫されるので、窒息 に類した徴候が表われるそうだよ。然し、これ 程顕著なものじゃない。大体この死体のは、そ ういった頓死的なものではないのだよ。じわじ わと迫って行ったのだ。だから、寧ろ直接死因 には、咽輪の方に意味がありそうじゃないか。 無論気管を潰すと云う程じゃないが、相当頸部 の大血管は圧迫されている。すると、易介が何 故悲鳴を上げなかったか1判るような気がす るじゃないか」 「フム、と云うと」 「いや、結果は充血でなくて、反対に脳貧血を 起すのだよ。おまけに、グリージソゲルと云う 人は、それに癩痛様の痙攣を伴うとも云ってい るんだ」と法水は何気なさそうに答えたけれど も、何やら逆説(パラドツクス)に悩んでいるらしく、苦渋な 暗い影が現われていた。熊城は結論を云った。 「とにかく、切創が死因に関係ないとすると、 この犯行は、恐らく異常心理の産物だろう」 「いやどうして」と法水は強く頸を振って、 「この事件の犯人ほど冷血な人間が、どうして 打算以外に、自分の興味だけで動くもんか」  それから、指紋や血滴の調査を始めたが、そ れには、一向収穫はなかった。わけても甲冑の 内部以外には、一滴のものすら発見されなかっ たのである。調査が終ると、検事は、法水が透 視的な想像をした理由を訊ねた。 「君はどうして、易介が此処で殺されているの が判ったのだね」 「無論鐘鳴器(カリルロン)の音でだよ」と法水は無造作に答 えた。「つまり、ミルの云う剰余推理さ。アダ ムスが海王星を発見したと云うのも、残余の現 象は或る未知物の前件であるーと云う、この 原理以外にはない事なんだ、だって、易介みた いな化物が姿を消しても、発見されない。そこ ヘ持って来て、倍音以外にもう一つ、鐘鳴器(カリルロン)の 音に異常なものがあったからだよ。扉で遮断さ れた現場の室とは異って、廊下では、空間が建 物の中に通じているのだからねL 「と云うのは……」 「その時残響が少なかったからだよ。大体鐘に は、洋琴(ピアノ)みたいに振動を止める装置がないの で、これ程残響の著るしいものはない。それ に、鐘鳴器(カリルロン)は一つ一つに音色も音階も違うのだ から、距離の近い点や同じ建物の中で聴いてい ると、後から後から引き続いて起る音に干渉し 合って、終いには、不愉快な喋音としか感ぜら れなくなってしまうのだ。それを、シャール シュタイソは色彩円の廻転に喩えて、始め赤と 緑を同時にうけて、その中央に黄を感じたよう な感覚が起るが、終いには、一面に灰色のもの しか見えなくなってしまうーと。正に至言な んだよ。まして、この館には、所々円天井や曲 面の壁や、また気柱を作っているような部分も あるので、僕は混沌としたものを想像してい た。所が、先刻はあんな澄んだ音が聞えたの だ。外気の中へ散開すれば、当然残響が稀薄に なるのだから、その音は明らかに、テラセと続 いている仏蘭西窓から入って来る。それを知っ て、僕は思わず惜然としたのだ。では何故かと 云うと、何処かに、建物の中から拡がって来る、 燥音を遮断したものがなけりゃならない。区劃 扉は前後とも閉じられているのだから、残って いるのは、撲廊の円廊側に開いている扉一つ じゃないか。然し、先刻二度目に行った時は、 確か左手の吊具足側の一枚を、僕は開け放しに して置いたような記憶がする。それに、彼処は 他の意味で僕の心臓に等しいのだから、絶対に 手を附けぬように云い附けてあるんだ。無論そ れが閉じられてしまえば、この一劃には、吸音 装置が完成して、まず残響に対しては無響室(デツド ル ム)に 近くなってしまうのだ。だから、僕等に聞えて 来るのは、テラセから入る、強い一つの基音よ り外になくなってしまうのだよL 「すると、その扉は何が閉じたのだ?」 「易介の死体さ。生から死へ移って行く凄惨な 時聞のうちに、易介自身ではどうにもならない、 この重い鎧を動かしたものがあったのだ。見る 通りに、左右が全部斜めになっていて、その向 きが、一つ置きに左、右、左となっているだろう。 つまり、中央の萌黄匂が廻転したので、その肩 軍板(そでいた)が隣りの肩軍(そで)を横から押して、その具足も 廻転させ、順次にその波動が最終のものにまで 伝わって行ったのだ。そして、最終の肩軍(そで)板が 把手(ノツブ)を叩いて、扉を閉めてしまったのだよ」 「すると、この鎧を廻転させたものは?」 「それが、兜と幌骨なんだ」と云って、法水は 母衣を取り除け、太い鯨筋で作った幌骨を指し 示した。「だって、易介がこれを通常の形に着 ようとしたら、第一、背中の瘤起が支(つか)えてしま うぜ。だから、最初に僕は、易介が具足の中 で、自分の背の瘤起をどう処置するか考えて見 た。すると思い当ったのは、鎧の横にある引合 口を背にして、幌骨の中へ背瘤を入れさえすれ ば、1と云う事だったのだ。つまり、この形 を思い浮べたと云う訳だが、然し、病弱非力の 易介には、到底これだけの重量を動かす力はな いのだL 「幌骨と兜?」と熊城は怪誘(いぷかし)そうに何度となく 繰り返すのだったが、法水は無造作に結論を 云った。「ところで、僕が兜と幌骨と云った理 由を云おう。つまり、易介の体が宙に浮ぶと、 具足全体の重心が、その上方へ移ってしまう。 のみならず、それが一方に偏在してしまうの だ。大体、静止している物体が自動的に運動を 起す場合と云うのは、質量の変化か、重点の移 動以外にはない。ところが、その原因と云うの が、事実兜と幌骨にあったのだよ。それを詳し く云うと、易介の姿勢はこうなるだろう。脳天 には兜の重圧が加わっていて、背の瘤起は、幌 骨の半円の中にスッポリと嵌り込み、足は宙に 浮いている、云うまでもなく、これは非常に苦 痛な姿勢に違いないのだ。だから、意識のある うちは、当然手足を何処かで支えて凌(しの)いでいた ろうから、その間は重心が下腹部辺りにあると 見て差支えない。ところが、意識を喪失してし まうと、,支える力がなくなるので、手足が宙に 浮いてしまい、今度は重点が幌骨の部分に移っ てしまうのだ。つまり、易介自身の力ではなく て、個有の重量と官然の法則が決定した簡題な んだよ」.  法水の超人的な解析力は、今に始まった事で はないけれども、瞬間それだけのものを組み上 げたかと思うと、馴れ切った検事や熊城でさえ も、脳天がジイソと麻痺(しび)れ行くような感じがす るのだった。法水は続いて云った。 「ところで、絶命時刻の前後に、誰が何処で何 をしていたか判ればいいのだがね。然し、これ は鐘楼の調査を終ってからでもいいが……、取 敢えず熊城君、傭人の中で、最後に易介を見た 者を捜して貰いたいのだ」  熊城は間もなく、易介と同年輩ぐらいの召使(てトラ ) を伴って戻って来た。その男の名は、古賀庄十 郎(こがしようろう)と云うのだった。 「君が最後に易介を見たのは、何時頃だった ね」と早速に法水が切り出すと、 「それどころか、私は、易介さんがこの具足の, 中にいたのも存じて居りますので。それから、 死んでいると云う事も-・…」と気味悪そうに死 体から顔を外(そむ)けながらも、庄十郎は意外な言を 吐いた。  検事と熊城は衝動的に眼を騨ったが、法水は 和やかな声で、 「では、最初からの事を云い給え」 「始めは、確か十一時半頃だったろうと思いま すが」と庄十郎は、割合悪怯れのしない態度で 答弁を始めた。「礼拝堂と換衣室との間の廊下 で、死人色をしたあの男に出会いました。その 時易介さんは、飛んだ悪運に魅入られて真先に 嫌疑者にされてしまウたーーと、爪の色までも 変ってしまったような声で、愚痴たらたらに並 べ始めましたが、私は、ひょいと見ると余り充血 している眼をして居りますので、熱があるのか と訊ねましたら、熱だって出ずにはいないだろ うと云って、私の手を持って自分の額に当がう のです。まず八度位はあったろうと思われまし た。それから、とぽとぼ広間(サロン)の方へ歩いて行っ たのを覚えて居ります。とにかく、あの男の顔 を見たのは、それが最後でございました」 「すると、それから君は、易介が具足の中に入 るのを見たのかね」 「いいえ、此処にある全部の吊具足が、グラグ ラ動いて居りましたので……多分それが、一時 を少し廻った頃だと思いますが、御覧の通り円 廊の方の扉が閉っていて、内部は真暗でござい ました。ところが金具の動く微かな光が、眼に 入りましたのです。それで、一つ一つ具一促毛胴 べて居りますうちに、偶然この繭黄匂の射籠軍 の蔭で、あの男の掌を掴ん・でしまったのです。 咄嵯に私は、ハハアこれは易介だなと悟りまし た。大体あんな小男でなければ、誰が具足の中 へ身体を隠せるものですか。ですからその時、 オイ易介さんと声を掛けましたが一返事も致し ま仕んでした。然し、その手は非常に熱ばんで 居りまして、四十度は確かにあったろうと思わ れました」 「ああ、一時過ぎても未だ生きていたのだろう か」と検事が思わず嘆声を揚げると、  、左様でございます。ところが、また妙なんで ございます」と庄十郎は何事かを灰めかしつつ 続けた。「その次は恰度二時の事で、最初の鐘 鳴器(カリルロン)が鳴っていた時でございましたが、田郷さ んを寝台に臥かしてから、医者に電話を掛けに 行く途中でございました。もう一度この具足の 側に来てみますと、その時(ヘヘヘヤ)は易介(ヘヘヘ)さんの妙(ヘヘヘヘ)な呼 吸使(ヘヘヘヘ)いが聞(ヘヘヘ)えたのです。私(ヘヘヘヘ)は何だか薄気味悪く なって来たので,すぐ撲廊を出て、刑事さんに 電話の返事を伝えてから、戻りがけにまた、今 度は思い切って掌に触れてみました。すると、 僅か十分ほどの間に何とした事でしょう。その 手はまるで氷のようになっていて、呼吸もすっ かり絶えて居りました。私は仰天して逃げ出し たので御座います」  検事も熊城も、最早言葉を発する気力は失せ たらしい。斯うして庄十郎の陳述に依って、さ しも法医学の高塔が、無残な崩壊を演じてし まったばかりでない。円廊に開いている扉の閉 鎖が、一時少し過ぎだとすると、法水の緩窒息 説も根抵から覆えされねばならなかった。易介 の高熱を知った時刻一つでさえ、推定時間に疑 惑を生むにも拘らず、一時間という開きは到底 致命的だった。のみならず、庄十郎の挙げた実 証に依って解釈すると、易介は僅か十分ばかり ーの間に、或る不可解な方法に依って窒息され、 尚その後に咽喉を切られたと見なければならな い。その名状し難い混乱の中で、法水のみは鉄 のような落着きを見せていた。 「二時と云えば、その時鐘鳴器(カリルロン)で経交歌(モテツト)が奏で られていた……。すると、それから讃詠(アンセム)が鳴る までに三十分ばかりの間があるのだから、前後 の聯関には配列的に隙がない。事に依ると鐘楼 へ行ったら、多分易介の死因に就いて、何か 判って来るかも知れないよ」と独白染みた調子 で咳いてから、「ところで、易介には甲冑の知 識があるだろうか」 「ハイ、手入れは全部この男がやって居りまし て、時折具足の知識を自慢気に振り廻す事が御 座いますので」  庄十郎を去らせると、検事はそれを待ってい たように云った。 「ちと奇抜な想像かも知れないがね。易介は自 殺で、この創は犯人が後で附けたのではないだ ろうか」 「そうなるかねえ」と法水は呆れ顔で、「する と、事に依ったら吊具足は、一人で着られるか も知れないが、大体兜の忍緒(しのぴお)を締めたのは誰だ ね。その証拠には、他のものと比較して見給 え。全部正式な結法(ゆいほう)で、三乳(みつぢ)から五乳(いつぢ)まで0表 裏二様1つまり六通りの古式に依っている。 ところが、この鍬形五枚立の兜のみは、甲冑に 通暁している易介とは思われぬほど作法外れな んだ。僕がいま、この事を庄十郎に訊ねたと云 うのも、理由はやはり君と同じところにあった のだよ」 「だが男結びじゃないか」と熊城が気負った声 を出すと、 「何だ、セキストソ・ブレークみたいな事を云 うじゃないか」と法水は軽蔑的な視線を向け て、「たとえ男結びだろうと、男が履いた女の 靴跡があろうとどうだろうと……、そんなもの が、この底知れない事件で何の役に立つもん か。これはみな、犯人の道程標に過ぎないんだ よ」と云ってから獺気(ものうげ)な声で、 「易介は挾まれて殺さるべしl」と眩いた。  黙示図に於いて、易介の屍様を予言してい.看 その一句は、誰の脳裡にもある事だったけれど も、妙に口にするのを阻むような力を持ってい た。続いて、引き摺られたように検事も復諦し たのだったが、その声がまた、この沼水のよう な空気を、いやが上にも陰気なものにしてし まった。 「ああ、そうなんだ支倉君、それが兜と幌骨 1なんだよ」と法水は冷静そのもののよう に、「だから、一見した所では、法医学の化物 みたいでも、この死体に焦点が二つあろうとは 思われんじゃないか。寧ろ、本質的な謎と云う のは、易介がこの中へ、自分の意志で入ったも のかどうかと云う事と、どうして甲冑を着たか ……つまり、この具足の中に入る前後の事情 と、それから、犯人が殺害を必要としたところ の動機なんだ。無論僕等に対する挑戦の意味も あるだろうが」 「莫迦(ぱか)な」熊城は憤癒の気を軍めて叫んだ。 「口を塞ぐよりも針を立てよーじゃないか。 見え透いた犯人の自衛策なんだ。易介が共犯者 であると云う事は、もう既に、決定的だよ。こ れがダンネベルグ事件の結論なんだ」 「どうして、ハプスブルグ家の宮廷陰謀じゃあ るまいし」と法水は再び、直観的な捜査局長 を嘲った。「共犯者(ヘヘヘヘ)を使(ヘヘ)って毒殺(ヘヘヘヘ)を企(ヘヘ)てるよ(ヘヘヘ)う な犯人(ヘヘヘヘ)なら、既(ヘと)うに今頃、君は調書の口述をし ていられるぜ」  それから廊下の方へ歩み出しながら、 「扱(さて)、これから鐘楼で、僕の紛当(まくれあた)りを見る事に しよう」  そこ'へ、硝子の破片がある附近の調査を終っ て、私服の一人が見取図を持って来たが、法水 は、その図で何やら包んであるらしい硬い手触 りに触れたのみで、すぐ衣嚢(ポケツト)に収めて鐘楼に赴 いた。二段に屈折した階段を上り切ると、そこ は略(ほぼ)ζ半円になった鍵形の廊下になっていて、 中央と左右に三つの扉があった。熊城も検事も 悲壮に緊張していて、罠の奥にうずくまってい るかもしれない。異形な超人の姿を想像しては 息を窒(り)めた。ところが、やがて右端の扉が開か れると、熊城は何を見たのか、ドドドッと右手 に走り寄った。壁際にある鐘鳴器(カリルロン)の鍵盤の前で は、果せるかな紙谷伸子が倒れていたのだ。そ れが、演奏椅子に腰から下だけを残して、その 儘の姿で仰向けとなり、右手にしっかと鎧通し を握っているのだった。 「ああ、此奴が」と熊城は何もかも夢中になっ て、伸子の肩口を踏み躍(にじ)ったが、その時法水が 中央の扉を、殆んど放心の態で眺めているのに 気が附いた。卵色の塗料の中から、ポヅカリ四 角な白いものが浮き出ていた。近寄ってみる と、検事も熊城も思わず身体が辣んでしまっ た。その紙片には…  ω旨嘗葛(ジルフスフエ)+ ×の公(くぴメドくやメ)式に 変ってしまうのだ」と法水は、この妖術めいた 符合の解釈を、是非なく事件の解決後に移した けれども、続いて凄気を讐眼に浸べて、黒死館 の悪魔を指摘した。 「所で、そのブラー工が、オッチリー工からの 刺者である事が判ると、そこで、彼の本体を閲 明する必要があると思う。それが、二重(ダプル ダプル)の裏切(クロツス) なんだ。旧教徒(カトリツク)と対抗して比較的猶太人(ジユウ)に穏か だったグスタフス王を暗殺したのは、新教徒(プロテスタニト)か ら受けた恩恵と、彼の種族に対するとの両様の 意味で、二重(ダブル ダブ)の裏切(ルクロツス)じゃないか。つまり、ハー トの史本にはないけれども、プロシア王フレデ リックニ世の伝記者ダヴァは、軽騎兵ブラーエ を、プロック生れの波蘭猶太人(ポリツソ ジユウ)だと曝いてい る。そして、その本名が、ルリエ・クロフマク ・クリヴォフなんだ!(ヘヘヘヘヘ)L  その瞬間、凡ゆるものが静止したように思わ れた。遂に、仮面が剥がれて、この狂気芝居は 終ったのだ。常に審美性を忘れない法水の捜査 法が、ここにもまた、火術初期の宗教戦争で飾 り立てた、華麗極まりない終(キヤタスト) 局(ロフ)を作り上げた のだった、然し、検事は未だに半信半疑の面持 で、莫(たぱこ)を口から放したまま荘然と法水の顔を瞳 めていふ。それに法水は、皮肉に微笑みながら も、ハートの史本を繰りその頁(ぺ ジ)を検事に突き付 けた。 (グスタフス王の残後、ワイマール侯ウィルヘ ルムの先鋒鋭兵(フロント マスケチ ア)ホイエルスヴェルダに現わ れるに及び、初めて彼が、シレジアに野心ある 事明かとなれり) 「ねえ支倉君、ワイマール侯ウィルヘルムは、 その実皮肉な嘲笑的な怪物だったのだよ。然 し、さしもクリヴォフが築き上げた培壁すら も、僕の破城槌(バツテリングうム)にとれば、決して難攻不落の ものではないのだLと背後にある大火図の黒煙 を、赫っと焔のように染めている、陽の反映を 頭上に浴びながら、法水は犯人クリヴォフを狙 上に上せて、寸断的な解析を試みた。 「最初に僕は、クリヴォフを土俗人種学的に観 察して見たのだ。勿論イスラエル・コーヘンや チェムバレンの著述を持ち出さなくても、あの 赤毛や雀斑(そぱかす)、それに鼻梁の形状などが、各ζア モレアン轡ポパ(撮糧鰍蠣肥鰍歓近)の特徴を明白に 指摘しているものだと云える。然しそれを、よ り以上確実にしているのが、猶太人(ジユウ)特有とも云 う猶太王国恢復(ツイォニツク ソニ)の信条(ボリズム)なんだ。猶太人(ジユウ)がよく、 その形をカフス釦(ポタン)や襟布止(ネわタイ ピン)めに用いていろけれ ども、そのダビデの楯(費)の六穫(ドし)形が、ク リヴォフの胸飾では、テユードル薔薇に六弁の 形となって現われているのだ」 「だが、君の論旨は頗る曖昧だな」と検事は不 承気な顔で異議を唱えた。「成程、珍らしい昆 虫の標本を見ているような気はするが、然し、 クリヴォフ個人の実体的要素には少しも触れて いない。僕は君の口から、あの女の心動を聴き 呼吸の香りを嗅ぎたいのだよ」 「それが、樺(ダス ビルケ) の 森(ンヴエルドヘン)(〃㎜"伽詩フ)さ」と 法水は無造作に云い放って、いつか三人の異国 人の前で吐いた奇言を、此処でもまた軽業的(アクロパテツク)に 弄ぼうとする。「所で、最初にあの黙示図を憶い 出して貰いたいのだ。知っての通りクリヴォフ 夫人は、布片で両眼を覆われている。そこで、 あの図を僕の主張通りに、特異体質の図解だと 解釈すれば、結局あれに構かれている屍様が、 クリヴォフ夫人の最も陥り易いものであるに相 違ないのだ。所が支倉君、眼を覆われて肇され るーそれが脊髄樗なんだよ。しかも、第一期 の比較的目立たない徴候が、十数年に渉って継 続する場合がある。けれども、そう云う中で も、一番顕著なものと云うのは、外でもないロ ムベルグ徴候じゃないか。両眼を覆われるか、 不意に四辺が闇になるかすると、全身に重点が 失われて、蹟娘とよろめくのだ。それがあの 夜、夜半の廊下に起ったのだよ。つまりクリ ヴォフ夫人は、ダソネベルグ夫人がいる室へ赴 くために、区劃扉(くぎりドア)を開いて、あの前の廊下の中 に入ったのだ。知っての通り両側の壁には、長 方形をした寵形に創り込まれた壁灯が点されて いる。そこで、自分の姿を認められないため に、まず区劃扉(くぎリドア)の側にある開閉器(スイツチ)を捻ねる。勿 論、その闇になった瞬間に、それまで不慮にも 注意を欠いていた、ロムベルグ徴候が起る事は 云う迄もない。所が、そうして何度か路めくに つれて、長方形をした壁灯の残像が幾つとなく 網膜の上に重なって行くのだ。ねえ支倉君、此 処まで云えば、これ以上を重ねる必要はあるま い。クリヴォフ夫人が漸く身体の位置を立て直 したときに、彼女の眼前一帯に拡がっている聞 の中で、何が見えたのだろうか。その無数に林 立している壁灯の残像と云うのが、外でもな い、ファルケの歌ったあの薄気味悪い樺の森な んだよ。しかも、クリヴォフ夫人は、それを自 ら告白しているのだ」 一 「冗談じゃない。あの女の腹話術を、君が観破 したとは思わなかったよ」と熊城は力なく黄(たぱこ)を 捨てて、心中の幻滅を露わに見せた。それに、 法水は静かに微笑んで云った。 「所が熊城君、或はあの時、僕には何も聴えな かったかも知れない。ただ一心に、クリヴォフ 夫人の両手を瞳めていただけだったからね」 「なに、あの女の手を」今度は検事が驚いてし まった。「だが、仏像に関する三十二相や密教 の儀軌に就いての話なら、何日か寂光庵(離儲切 {騨搬椴)で聴かせられたと思ったがね」 「いや、同じ彫刻の手でも、僕はロダンの『寺 院(カテドラル)』の事を云っているのだよ」と相変らず法水 は、さも芝居気たっぷりな態度で、奇矯に絶し た言を曲毬のように勉り上げる。「あの時、僕 が樺の森を云い出すと、クリヴォフ夫人は、両 手を柔(やん)わり合掌したように合せて、それを卓上 に置いたのだ。勿論密教で云う印呪の浄三葉印 程でなくとも、少なくもロダソの寺院(カテドラル)には近い のだ。殊に、右掌の無名指を折り曲げていた、 非常に不安定な形だったので、絶えずクリヴォ フ夫人の心理から何等かの表出を見出そうとし ていた僕は、それを見て思わず凱歌を挙げたも のだ。何故なら、セレナ夫人が『樺の森』と 云っても微動さえしなかったその手が、続いて 僕がその次句で、されど彼夢みぬーと云っ て、その男(ヘヘ )と云う意味を洩らすと、不思議な事 には、その不安定な無名指に異様な額動が起っ て、クリヴォフ夫人は俄然喚(ぱしや)ぎ出したような態 度に変ったからだ。恐らく、そこに現われてい る幾らかの矛盾撞着は、到底法則では律する事 の出来ぬほど、転倒したものだったに相違な い。大体、緊張から解放された後でなくては、 どうして、当時の昂奮が心の外へ現われなかっ たのだろうか」とそこで一寸言葉を切って窓の 掛金を外し、一杯に軍(ニも)った畑が、揺ぎ流れ出て 行くと後を続けた。「所が、常人と異常神経の 所有者とでは、末梢神経に現われる心理表出 が、全然転倒している場合がある。例えば、ヒ ステリーの発作中その儘放任して置く場合に は、患者の手足は、勝手気儘な方向に動いてい るけれども、一旦その何処かに注意を向けさせ ると、その部分の運動がピッタリと停止してし まうのだ。つまり、クリヴォフ夫人に現われた ものは、その反対の場合であって、多分あの女 は、心の戦きを挙動に現わすまいと努めていた 事だろう。所が、僕が彼夢(ヘヘヘ)みぬーと云(ヘ)った一 言から、偶然その緊張が解けたので、そこで抑 圧されていたものが一時に放出され、注意を自 分の掌に向けるだけの余裕が出来たのだ。そう なって始めて、右掌の無名指が不安定を訴え出 した事は云う迄もない。そうして、あの解し切 れない顧動が起されたと云う訳なんだよ。ねえ 支倉君、開でなくては見えぬ樺の森を、あの女 は自分の指一本で、問わず語らずのうちに告白 してしまったのだ。その、(樺の森-彼夢み ぬ)とかけて下降して行く曲線の中に、なんと 遺憾なく、クリヴォフ夫人の心像が描き尽され ている事だろう。支倉君、いつぞや君は、詩文 の問答をツルバール趣味の唱合戦と云った事が あったっけね。所が、どうしてそれどころか、 あれは心理学者、・・ユソスターベルヒに、いやハ ーバードの実験心理学教室に対する駁論なんだ よ。.ああ云う大袈裟な電気計器や記録計などを 持ち出した所で、恐らく冷血性の犯罪者には、 些細な効果もあるまい。まして、生理学者ウエ パーのように自企的に心動を止め、フォンタナ のように虹彩を自由自在に収縮できるような人 物に打衝(ぷつか)った日には、あの器械的心理試験が、 一体どうなってしまうんだろう。然し僕は、指 一本動かせただけで、また詩文の字句一つで発 掘を行い、それから、詩句で虚妄(うそ)を作らせまで して、犯人の心像を曝き出したのだL 「なに、詩文で虚妄(うそ)をロ」と熊城がグイと唾を 嚥んで聴き答めると、法水は微(わず)かに肩を聾やか せて、莫(たぱこ)の灰を落した。彼の閲明は、もうこの 惨劇が終ったのではないかと思われた程に、十 分なものだった。法水はまずその前提として、猶 太人(ジユウ)特有のものにハ白己防衛的な虚言癖のある のを指摘した。最初に、、・・ッシネー・トラー経典 (桐糾勘蜷靭賄)中にある、イスラエル王サウルの 娘、、、カル(柱)の故事1から始めて、次第に       ゲ ッ ト             カガール 現代に下り、猶太人街内に組織されている長老 組織(欄羅雛難鑑茜事籔雛)にまで及 んだ。そして、終りに法水は、それを民族的性 癖であると断定したのであった。所が、続いて その虚言癖に、風精(ジルフス)との密接な交渉が暴露され たのである。  (註)イスラエル王サウルの娘ミカルは、父が   夫ダビデを殺そうとしているのを知り、計   を用いて遁れせしめ、その事露顕するや、   、、、カルは偽り答えて云う。「ダビデが、も   し吾を遁さざれば汝を殺さんと云いしに   依って、吾、恐れて彼を遁したるなり」l   Iと。サウル娘の罪を許せり。 「そう云う訳で、猶太人(ジユウ)は、それに一種宗教的 な許容を認めている。つまり、自己を防衛する に必要な虚言だけは、許されねばならないー とね。然し、無論僕は、それだけでクリヴォフを 律しようとするのじゃない。僕は飽くまで、統 計上の数字と云うものを軽蔑する。だが然し だ。あの女は、一場の架空談を造り上げて、実 際見もしなかった人物が、寝室に侵入したと 云った。如何にも、それだけは事実なんだよ」 「ああ、あれが虚妄(うそ)だとは」検事は眉を跳ね上 げて叫んだ。 「すると君は、その事を何処の宗教会議で知っ たのだね」 「どうして、そんな散女的なもんか」と法水は 力を軍(ニ)めて云い返した。「所で、法心理学者の        プシコロギイ`デル・ア」-スザー穴 シュテルソに、『供述の心理学』と云う著述 がある。所が、その中であのブレスラウ大学の 先生が、予審判事に斯う云う警語を発してゐる のだ。!訊問中の用語に注意せよ。何故な ら寸優秀な漕能的犯罪者と云える程の者は、即 座に相手が述べる言葉のうちの、個々の単語を 綜合して、一場の虚妄談を作り上げる術に巧み なればなりーと。だから、あの時僕は、その 分子的な聯想と結合力とを、反対に利用しよう としたのだよ。そして、試みにレヴェズに向っ て、風精(ジルフス)に関する問を発したのだ。では何故か と云うに、僕がそれ以前に図書室を調査した時、 ポープ、ファルケ、レナウなどの詩集が、最近 に繕(ひもと)かれていたのを知ったからだよ。つまり、 ポープの『髪(レ プ ) 盗(オヴぐゼ) み』の中( ロツク)には、風精(ジルフス)に就い て、如何にも虚妄を構成するに適(ふさ)わしい記述が あるからなんだ。勿論、僕が求めているのは、 犯人の天(べ ガプ) 稟(ングスレ) 学( レ)だったのさ。あの中にある風 精(ジんマス)の印象を一つに集めて、それに観照の姿を浮 ばしめるーその狂言の世界だ。決して、あの・ 狂詩人が、単に一個の想い出の画を描くだけ で、満足するものではないと思ったからだ。そ こで、僕は片唾(かたず)を嚥んだ。そして、あの陰険酢 烈を極めたクリヴォフの陳述の中から、遂(とつとう)々犯 人の姿を掴まえることが出来たのだよ」と法水 の顔には、さも当時の昂奮を回恕するような疲 労の色が浮んだ。けれども、彼は言を継いで、 愈ζクリヴォフ夫人を犯人に指摘しようとす る、「髪(レ プ オ) 盗(ヴ っニ) み」の一(ロツク)文に解析の刀(メス)を下した。 「所が、その解答は頗る簡単なんだよ。『髪 盗(レ プ ヰ ぺ ノ ) み』の第( ロツク)二節には、風精(リルマ も)の部下である四人 の小妖精(フエハドロ )が現われる。その第一がρ二涜(トりヌピツサ)8 で、髪を櫛(ヤリ)けずる妖(スプス)精だ。それが、クリヴォフ 夫人の洗髪を怪しい男が縛り付げたーと云 う個所に当る。その次はN8σ、8一(ゼフイレツタ)冨、即ちそ(もへ)よ 吹(ヘヘ)く風(ヘヘ)でパ其男が扉(ドア)の方へ遠ざかって行くー ところの記述の中に出て来る。それから三番目 は、三〇ヨ9三(モメンテイラ)『即ち刻(ヘヘ)々に動(ヘヘヘ)くもので、眼(ヘヘヘ)を 覚まして夫人が見ようとしたと云う枕元の時計 に相当するのだ。そして、最後が卑崖弩(プリりアンテ)$即 ち輝(ヘヘ)くものだが、それをクリヴォフ夫(ヘヘ)人は、怪 しい男の形容に用いて、眼が真珠のように輝い ていたーと云っている。けれども、それには もう一側面の見方もあって、その真珠と云う言 葉が、古語で白内障(そこひ)を表わしている事が判る と、右眼の白内障(そこひ)が因で舞台を退いた押鐘津多 子夫人が、それに髪髭となって来るのだ、然 し、敦(いず)れにしても、そう云うクリヴォフ夫人の 心像を、更に結論として確実にするものがあっ た。つまり、或る一点に向って、以上四つの既 知数が綜合されて行ったのだが……それは、外 でもない夫人固有の病理現蒙-即ち脊髄擁な んだよ。あの時クリヴォフ夫人は、眼を醒まし た時に、胸の辺りで寝衣の両端が止められてい たように感じたーと云った。けれども、あの 病特有の輸状感覚(翻櫛旅鵬聯加恥ゆ却磯。承卿)を考 えると、そう云う装飾めいた陳述をした原因 が、或は、日常経験している感覚から発してい るのではないかと疑われて来るだろう。それを 僕は、あの虚言を築き上げた根本の恒(コンスタ) 数(ント)だと 信じているのだL  熊城は凝然(じいつ )と考えに沈みながら暫く萸(りまこ)を喫か していたが、やがて法水に向けた眼には、濃い非難の色が    白線は楽破璃用の欠隙    黒線は筆者が加筆した星形 浮んでいた。然し、彼は稀ら しく静かに云った。 「成程、君の云う理論はよく 判った。けれども、何より僕 等が欲しいのは、唯った一つ でも、完全な刑法的意義なん だよ。つまり、天狼星(シリウス)の最 大視差(マキシマム パララツクス)よりも、それを構成 している物質の内容なんだ。 云い換えれば、各ζの犯罪現 象に、君の閲明を要求したい のだよ」 「それでは」法水は満足そう に頷いて、事務机の抽斗から=某の写真を取り 出した。「愈ζ最後の切札を出す事にするかな。 所でこの写真は、鐘鳴器(カリルロン)室の頭上に開いている 十二宮の円華窓なんだが、僕は一瞥すると同時 に、気が付いた。これもまた、棺(カタフマ) 寵(ルコ)十宇架と 同様、設計者クロード・ディグスビイが残した 秘密記法(クリプトグラフイ )だーと。何故なら、通例では、春分 点のある白羊官(アリ ス)が円の中心になっているのだけ れども、これには磨謁宮(ナ ゴフりコルヌス)が代っている。また、 縦横に馳せ違っているジグザグの空隙(げさ)にも、鐘 鳴器(ヵリルロン)の残響を緩和すると云う性能以外に、何等 かの意味がなくてはならぬと考えたからだ。所 が熊城君、元来十二宮(ゾ デイアツク)なんてものは、古来か ら有り触れている迷信上の産物に過ぎない。第 一、文字暗号ではないのだから、肝腎の秘密(キイ ウ)A BCを発(ア ド)見するに必要な資料が、これにはてん で与えられていないのだ。然し、僕はラソジイ (和ノ吟「併弓げ"一㍗"欝叶艶労蜥髄劾#)じゃないが ね。仮定すーと云う慣用語は、正に解読家に とって金科玉条に等しいと思うのだよ。何故な ら吸(処女宮(ヴイルゴ))とかΩ(獅(レ)子宮(ォ))とか云うように、 十二宮(ゾ デイアツク)固有の符号はあるけれども、僕は猶太 釈義法(カバリズム)をそれに当てて見たのだ。つまり、一八 八一年の猶太(ポグ)人虐殺(ロム)の際に、波蘭(ポ ランド)グロジック町 の猶太人(ジユウ)が十二宮(ゾ デイアツク)に光を当てて、隣村に危急 をしらせたと云う史実があるほどだし……、そ れに、ブクストルフ(→"祁叫、葡配一ハじ玖←旺㎞仇引 ψ双丑供靴猷)の『希ア僻ヴ来…誕晦ノ簾】を見ると、 それには、》子冨(アトパシユ)号法・≧9三(ァルパム)法・≧9喜(アトパク)法、 ら二番目のシンを当て、以下それに準ずる記法。≧}、=ヨ法ー ヘブライABeを二つに区分し、アレフの代りに後半の第一字 脅"雛麗罐㌍き、翼灘引鍛字)を始め、天文 算数に関する数理(カパ)義法(ラ)が記されている。そし て、古代希伯来(ヘプライ)の天文家が、獅(レ)子宮(オ)の大鎌形と か処女宮(ヴイルゴ)のY字形などに、希伯来(ヘブライ)文字の或るも のを当てていたと云う記録が残っているから だ。もちろんその中には、現在のABCに語(アルフアベツト)源 をなすものがある。けれども、十二宮(ゾ デイアツク)全部と なると、そう云う形体的な符号の記されてない ものが四つあって、そこで僕は、思い掛けない    ぷつか                       ユダヤ 障壁に打衝ってしまったのだよ。しかし、猶太 式秘密記法を歴史的にたどって行くと、十六世 紀になって、猶太(ユダヤ)労働組合とフリーメーソソ結 社(伽刺伽脚柳剛知灘附洲引一撫脚伽酩師㎞帥π鎌ガ蛎臨鰍 である事は、メーソン教会の床に「ダピデの楯」の図を塗り潰 したものを描き、また、それが定規とコンパスのメーソン記象 拠錨鯛耕肚融孔馴硬聯ド幌虻拡唯欄唖郷邸ロ纏嚇砂ガ囎吠)暗 号法の中に、その欠げた部分を補うものが発見 されたのだ。ねえ熊城君、驚くべき事には、こ の十二宮(ゾ デイアツク)の中に、猶太(ユダヤ)秘密記法史の全部が叩 き込まれている。そうなると、あの不可解な人 物クロード・ディグスビイをウエールス生れの 猶太人(ジユウ)だとするに異議はあるまい。言葉を換え て云うと、この事件には隠顕両様の世界に渉 り、二人の猶太人(ジユウ)が現われている事になるのだ よLとそれから法水は、一々星座の形に希伯来(ヘブライ) 文字を当てながら、十二宮(ゾヨデイァツク)の解読を始めた。  即ち、人馬宮(サギタリユウス)の弓には宙(シン)、天蜴宮(スコルピオス)にはL(ラメド)、 処女宮(ヴイルゴ)のY字形にはソ、獅(ァスレ)子宮(オ)の大鎌形には う、双子宮(ヨツドゲミニ)の双児の肩組みにはπ、勿(ヘ)論金 牛宮(カウルス)は、主星アルデバラソvの希伯来(ヘブライ)称「神(ァレ)の眼(フ)」 通りに、第一位のSとなる。それから双魚宮(アレフピスヤス) は、カルデア象形文字に魚形の語源があって ラ、そして、最(ヌン)後の宝瓶宮(ァクアリウス)の水瓶形が2(タウ)と たって、それで、形体的解読の全部が終るので ある。籾そうしてから、その八つの希伯来(ヘブライ)文字 を、各ζに語源をなしている現在のABCに変(エ ビ シ ) えて行くと(騨礪の)、結局珍ケ箏5か Z.→.)となるけれども、まだ十二宮には、磨掲 ルヌス リブ.ラ   カン 一.ル  ア リ ース 宮・天秤宮・巨蟹宮・白羊宮と、以上の四座が 残されている。それに法水は、下図通りのフリ ーメーソソABCを当(エ ド   ソ )てたのだ。  それに依ると、磨掲宮(ナ プリコルスス)のL形(エル)がB、天秤宮(ピ リプラ)の ロ形がD、巨蟹宮(デ カンヒル)の□形がR、そして、白羊宮(マ ルァリス) のn形がEとなる。それを、更(イ )に法水は、フリ ーメーソソ暗号のもう一つの法である交錯線(ジグザグ)式 (㌻影嚢㍗^引霧擁筆》翼轍警癒菱7 坊服灘㌦駕露轟捌几寅鍵饒舞艀罪)を 用いて、磨翔宮(ナ プリコバヌス)のBから始まっている線状の空 隙(く ハきげき)を辿って行った。そうして、遂に混乱を整理 して、秘密ABCの排(アルフアベツト)列を整える事が出来た。 そこに、検事と熊城は、不意に迷路の彼方で闇 黒界の中に差し込んで来た一条の光明を認めた のであった。その神々しい光は、この事件に犯 罪現実として現われた、十指に余る非合理性 を、必ずや転覆するものに相違ないのである。 法水の驚嘆すべき解析に依って、黒死館殺人事 件は、遂に絶望視されていた終幕に入ったので はあるまいか、何故なら、そ の解答が一Wの三巳(ピハインド ステ)∞冨冨(イヤス)即ち 大階段(ヘヘヘヘ)の裏(ヘ)だったからだ。解 読を終ると、法水は静かに 云った。 「そこで、大階段の裏1と 云う意味を詮索してみたが、 それには、殆ど疑惑を差し挾 む余地はない。彼処には、テ レーズ人形を入れてある室 と、それに隣り合っている小 部屋しかないからだ。それ に、恐らくその解答も、大時 代な秘密築城(ポ デルヴイツツ)風景に過ぎまい と思うねー-隠扉、坑道。ハ ハハハハ、大体どう云う意志 で、ディグスビイが十二宮(ゾヨデイアツク)に 秘密記法を残したろうと、そ んな事は此の際問題ではな い。サア、早速これから黒死 館に行って、クリヴォフの肉 附(モデリング)けをやろうじゃないか」と 法水が喫いさしを灰皿の中で 揉み潰すと、検事は少女(おとめ)のよ うに顔を紅くして、法水に 云った。 「ああ、今日の君はロバチェ フスキイ(繊呼刎餓㈲都ド)だよ。 如何にも、天狼星(シリゥスマ)の最大視(キシマム パララ) 即ち目峯のヨ器oロ と書くには 差(ツクス)が計算されたのだから!L 「いや、その功労なら、シユニッツラーに帰し て貰おう」法水は頗る芝居がかった身振をし て、「不在証明(アリパイ)、採証、検出ーもうそんなも のは、維納(ウインナ)第四学派以後の捜査法では意味はな い。心理分析(プシヒヨァナリ ゼ)だ。犯人の神経病的天性を探る事 と、その狂言の世界を一つの心像鏡として観察 するーその二点に尽きる。ねえ支倉君、心像(ゼ レ) は広い一つの国じゃないか。それは混(ダス ヒヤ)  沌(オ ス)で もあり、またほんの作(ヌ ル キユンストリツ)りものでもあるのだ」(ヘエス)と シユニッツラーを即興的に焼直したのを口吟 んでから、彼は一つ大きな伸びをして立ち上っ た。 「サア熊城君、終幕の縦帳(カヨテン)を上げて呉れ給え、 恐らく今度の幕が、僕の戴冠式になるだろうか らね」  所がその時、喝采が意外な場所から起った。 突然電話の鈴(ペル)が鳴って、その一瞬を境に、事態 が急転してしまった。クリヴォフ夫人に帰納さ れて行った法水の超人的な解析も、この底知れ ない恐怖悲劇にとっては、たかが一場の間(ツウイツシ) 狂(エン)  言(シユピ ル)に過ぎなかったのである。法水は、静かに 受話冊〃.置いた。そして血の気の失せ切った顔 を二人に向けて、何とも云えぬ悲痛な語気を吐 いた。 「ああ、僕はシユライマッヘルじゃないがね。 熱を傾けて苦を求めたよ、また、血みどろの身 振り狂言なんだ。それも、人もあろうに、ク(ヘヘ)リ ヴォフが狙撃(ヘヘヘヘヘヘヘ)されたんだよ」と陽(ヘヘヘ へ)差が騎(かげ)って薄 暗くなった大火図の上に、法水は何時までも空 洞(うつろ)な視線を注いでいた。宛かもその様子は、彼 が築き上げた壮大な知識の塔が、脆くも崩壊し つつある惨状を眺めているかのようであった。 法水の歴史的退軍1これこそ、捜査史上空前 とも云う大壮観(スペクタクル)ではないか。 2 宙に浮んで・ :殺さるべし  法水がクリヴォフ夫人に猶太(ボグ)人虐殺(ロム)を試み て、頻りに十二宮秘(ゾ デイアツク)密記法の解読をしている頃 だった。一方私服の楯で囲まれている黒死館で は、その隙をどう潜ったものか、世にも又とな い幻術的な惨劇が起ったのである。それが二時 四十分の出来事で、当の被害者クリヴォフ夫 人は、恰度前庭に面した本館の中央-即ち尖 塔の真直下の二階の武具室の中で、折からの午 後の陽差を満身に浴びながら、窓際の石卓に椅 り読書していた。すると、突然背後から何者か の手で、装飾品の一つであったフィソランダー 式火術弩(ど)が発射されたのだが、運良くその箭(や) は、彼女の頭部を僅かに掠めて毛髪を縫った。 そして、その強猛な直進力は、瞬間彼女を宙に 吊り、その儘直前の鎧扉に命中したので、その 機みを喰って、クリヴォフ夫人は鞠のように窓 外に投げ出されたのだった。然し、その刺叉形 をした鬼鍍(や)が、確かと桟の間に喰い入っていた ので、また後尾の矢筈に絡み付いている彼女の 頭髪も、これまた執拗に離れなかったので、夫 人の身体はその一本の矢に釣られて宙吊りとな り、しかも、虚空の中でキリキリ独楽のように 廻転を始めたのであった。正に、ダソネベルグ 夫人ー易介と続いた、血みどろの童話風景で .ある。あの底知れぬ妖術のような魔力を駆使し て、犯人は此の日にもまた、クリヴォフ夫人を 操人形(マリオネツト)のように弄んだ。そして、相変らず五彩 絢燗とした、超理法超官能の神枯劇を打ったの であった。恐らくその光景は、クリヴォフ夫人 の赤毛が陽に煽(もお)られて、それがクルクル廻転す る所は、宛(さた)がら焔の独楽のように思えたであろ うし、また、怒ったゴルゴ(傷浄)の殖髪勇 髭とさせる程に、凄惨酷烈を極めたものに違い なかった。そして、その時クリヴォフ夫人が、 もし無我夢中の裡に窓権に片手を掛けなかった ら、或は、そのうちに矢筈が萎び鐵(むじり)が抜けるか して、結局直下三丈の地上で粉砕されたかも知 れなかったのである。然し、悲鳴を聴き付けら れて、クリヴオフ夫人は直ちに引き上げられた けれども、頭髪は殆ど無残にも引き抜かれてい て、おまけに毛根からの出血で、昏倒している 彼女の顔は、一面に緒丹(しゃたん)を流したよう、素地(すじ)を 見る事が出来なかったそうであった。  その惨事が発生してから、僅か三十五分の 後に、法水一行は黒死館に到着していた。館に 入ると、彼はすぐにクリヴオフ夫人の病床を 見舞った。すると、折良く医師の手で意識が恢 復されていて、上述の事情を、杜絶れながら も聴く事が出来た。然し、それ以上の真相は、 混沌の彼方で犯人が握っていた。その当時彼女 は、窓を正面に椅子の背を扉(ドア)の方へ向けていた ので、自然背後にいた人物の姿は見る事が出来 なかったと云う始末だし、また、その室に入る 左右の廊下には、各ζに一人宛の私服が曲角の 所で頑張っていたのだったけれども、誰しも其 処を出入した人物はなかったと云うのだった。 言葉を換えて云うと、その室は殆ど密閉された 函室に等しく、従って、私服の眼から外れて、 筍くも形体を具えた生物なら、出入は絶対不可 能であるに相違なかったのである。法水は聴取 を終ると、クリヴオフ夫人の病室を出て、早速 問題の武器室を点検した。  その室は前面から見ると、正確に本館の真中 央(まんまメヒか)に当り、二条の張出間(アプス)に挾まれていて、二つ ある硝子(ガラス)窓はそれだけが他とは異り、十八世紀 末期の二段上下式になっている。また、室内も 北方ゴート風の玄武岩で畳み上げた積石造で、 周囲は一抱えもある角石で築き上げられ、それ が、暗く粗暴な蒙味な、如何にも重々し気なテ オドリック朝辺りを髪髭とさせるものであっ た。そして、室内には、陳列品の外に、巨大な 石卓と、天蓋のない背長椅子(パルダシン)が一つあるのみに 過ぎなかった。しかも、その暗潅とした雰囲気 を、更に一段物々しくしているのが、周囲の壁 面を飾っている各時代の古代武具だったのであ る。それには、さして上古のものはなかったけ れども、小型のモルガルテソ戦争当時の放射式(カタプルト) パザスタ    ヘールパン 投石機、屯田兵常備の乗入梯子、支那元代投火 機のようなやや形の大きい戦機に類するものか ら、手法用鞍形楯(ハヴイルゼ)外十二三の楯類、テオドシウ ス鉄鞭、アラゴソ時代の戦槌(かけや)、ゲルマン連柳、 ノルマン形大身鎗から十六世(アガサ)紀鎗(イ)に至る、十数 種の長短直叉を混じた鎗戟類。また、歩兵用戦 斧(せんふ)を始めに、洋剣(サ ペル)の類も各年代に亙っていて、 殊に、ブルガンディ鎌刀やザバーゲン剣が珍奇 なものだった。そして、その所々に、ヌーフ シャテル甲冑やマキシミリアソ型、それにファ ルネスやバイヤール型などの中世甲冑が陳列さ れていて、銃器と云えば、僅かに初期の手(ハンドキヤ) 砲(ノン) を二つ三つ見るに過ぎなかった。然し、それ等 陳列品を巡視しているうちに、恐らく法水は、 彼が珍蔵しているグロースの「古代軍器書」 を、此の際持参しなかった事が悔まれたに違い ない。何故なら、彼は時折嘆息し、或は細めた 眼を、細刻や紋章に近附けたりなどして、たし かにこの戦具変遷の魅力は、彼の職務を忘れさ せた程に、胱惚とさせたに相違なかったのであ る。               然し、室内を               一巡して、漸く                   あざらし 0 水牛の角と海豹     ヴア仁キン の附いた北方海 賊(グ)風の兜の前ま で来ると、彼は 側の壁面にあ る、不釣合な空 間に注いだ眼を 返して、すぐその前の床から、一張の火術弩(ど)を 拾い上げた。それは、全長三尺もあるフィソラ ンダー式(璽)のもので、火薬を絡めた轟を 発射して、敵塞に射込み、殺傷焼壊を兼ねると 云う酷烈な武器だった。所で、その構造を概述 すると、弓形に附けられた撚紐(ひねり)の弦を中央の把 手(ハンドル)まで引き、発射する時は、その把手(ハンドル)を横倒し にすると云う装置で、火砲初期頃の巻上式に比 べると、極めて幼稚な十三世紀辺りのものに相 違なかった。即ち、この一つの火術弩から発射 された鬼箭が、クリヴオフ夫人に生死の大曲芸(サ カス) を演ぜしめたのであった。が、それに掲げられ ていた壁面の位置は、恰度法水の乳下辺に当っ ていた。またそれと同時に、熊城が石卓の上に あった鬼箭を持って来たけれども、その矢柄は 二糎(センチ)に余り、鐵(やじり)は青銅製の四叉になっていて、 鴻(こうのとり)の羽毛(うもう)で作った矢筈と云い、見るからに強 靱兇暴を極め、クリヴオフ夫人を懸垂しながら 突進するだけの強力は、それに十分窺われるの だった。のみならず、弩にも箭にも、指紋は愚 か指頭を触れた形跡さえなかったのであるが、 その上、疑問はまず熊城の口から発せられて、 自然発射説は最初から片影もなかったのであ る。何故なら、事件発生の直前には、その火術 弩は箭を番えたまま、窓の方へ嫉を向けて掲っ ていたのだし、その操作は、女性でも強(あちが)ち出来 得ない事もないからであった。熊城はまず、当 時半ば開いていた右側の鎧扉から、その壁面に かけて指で直線を引いた。 「法水君、高さは恰度頃合だがね。然し、鎧扉 までの角度が、てんで二十五度以上も喰い違っ ている。もし、何かの原因で自然発射がされた とすれば、壁面と平行に、隅の騎馬装甲へ打衝 らなきゃならんよ。屹度犯人は、据んでこの弩 を引いたに違いないんだ」 「だが、犯人は標的を射損じたのだ。それが僕 には、何より不思議に思われるんだがね」と、 爪を噛みながら法水は浮かぬ顔で眩いた。「第 一、距離が近い。それに、この弩には標尺があ る。その時クリヴォフは、背後を向けて椅子か ら首だけ出していたのだ。その後頭部を狙うの は、恐らくテルが、虫針で林檎を刺すよりも容 易(やさしい)だろうと思うが」 「では法水君、君は一体何を考えているんだ ね」とそれまで何ものか期待していた検事は、周 囲の積石を調べ歩いて、漆喰にそれらしい破れ 目でも見出そうと↓ていた。が、空しく戻って 来ると、法水に鋭く訊ねた。すると、法水は突 然(いきなり)窓際へ歩み寄って行き、其処から窓越しに、 前方の噴泉を指差して云った。 「所で、問題と云うのが、あの驚骸噴泉(ウオ タ  サ プライズ)な んだよ。あれは、バロック時代に盛(さか)った悪趣味 の産物なんだが、あれには水圧が利用されてい て、誰か一定の距離に近付く者があると、その 側に当る群像から、不意に水煙が上がると云う 装置になっているのだ。所が、この窓硝子(ガラス)を見 ると、まだ生々しげな飛沫の跡が残されてい る。してみると、極めて近い時間のうちに、あ の噴泉に近付いて"水煙を上げさせたものがな けりゃならない。勿論それだけなら、さして怪 しむべき事でもないだろう。所が、今日は微風 もないのだ。そうなると、飛沫が此処まで何故 に来たかーと云う疑問が起って来る。支倉 君、それが、また実に面白い例題なんだよ」と, 続いて云い掛けた法水の顔に、見る見る暗影が 差して行き、彼は過敏そうに眼を光らせた。 「とにかく、ライプチッヒ派に云わせたら、今 ロの犯(クリニ ナル) 罪( シチ) 状(ユアチヨ) 況(ン)は極(ゼ )めて単純(ル シユリヒ)なりーと云(ト) う所だろう。何者かが妖怪的な潜入をして、あ の赤毛の猶太(ユダヤ)婆の後頭部を狙った。そして、射 損ずると同時に、その姿が掻き消えてしまった ーと。勿諭、その不可解極まる侵入には、あ の罫嚢事ω(購段)の一語が、一脈の希望 を持たせるだろう。けれども、僕の予感が狂わ ない限りは、仮令(たとえ)現象的に解決してもだよ。今 日の出来事を機縁として、この事件の目隠しが 実に厚くなるだろうと思われるのだ。あの水煙 1それを神秘的に云えば、水精(ウンギイネ)が火(サラマソさ) 精(ダ )に代 り、しかも射損じたのだーと」 「また、妖精山(ヘルツ)風景かい。だが一体、そんな事 を本気で云うのかね」検事は莫(たばこ)の端をグイと噛 んで、非難の矢を放った。法水は指先を神経的 に動かして、窓権を叩きながら、 「そうだとも、あの愛すべき天邪鬼(あまのじやく)には、次第 に黙示図の啓示を無視して行く傾向がある。つ まり、黒死館殺人事件根元の教本(テキスト)さえ、玩弄し てるんだぜ。ガリバルダは逆さになって殺さ るべしーそれは伸子の失神姿体に現われてい る。それから、眼を覆われて殺さるべき筈の クリヴォフが、危く宙(ヘヘ)に浮(ヘヘ)んで殺(ヘ)される所だっ たのだ。その時、宙高くに上った驚駁噴泉(ウオ タモ サ プライズ) の水煙が、眼に見えない手で導かれたのだよ。 そして、此の室の窓に、おどろと漂い寄って来 たものがあったのだ。いいかね支倉君、それが 此の事件の悪魔学(デモノロジイ)なんだぜ。病的な、しかも此 れほど公式的な符号が、事実偶然に揃うものだ ろうかL  その一事は、曾て検事が、疑問一覧表の中に 加えた程で、碑構と本体を隔てている捕捉し難 い霧のようなものだった。然し、斯う法水から 明らさまに指摘されてしまうと、此の事件の犯 罪現象よりも、その中に陰々とした姿で浮動し ている療気のようなものの方に、より以上傑然( ぞつ) と来るものを覚えるのだった。が、その時扉が 開いて、私服に護衛されたセレナ夫人とレヴェ ズ氏が入って来た。所が、入りしなに三人の沈 欝な様子を一瞥したとみえて、あの見たところ 温和そうなセレナ夫人が、禄々に挨拶も返さ ず、石卓の上に荒々しい片手突きをして云っ た。 「ああ、相も変らず高雅な団簗でございますこ とね。法水さん、貴方はあの兇悪な人形使いを 1津多子さんをお調べなりまして」 「なに、押鐘津多子を17」それには、法水も流 石(さすが)に驚かされたらしかった。「すると、貴方が たを殺すとでも云いましたかな。いや、事実あ の方には、到底打ち壊すことの出来ない障壁が あるのですL  それに、レヴェズ氏が割って入った。そし て、相変らず揉み手をしながら、阿(おもね)るような鈍 い柔か味のある調子で云った。 「ですが法水さん、その障壁と云うのが、儂(わし)共 には心理的に築かれて居りますのでな。お聴き 及びでしょうが、あのかたは、御夫君もあり自 邸もあるに拘らず、約一月程まえから、此の館 に滞在して居るのです。大体理由もないのに、 御自分の住居を離れて、何のために……いや、 全く子供っぽい想像ですが」  それを法水は押冠せるように、「いや、その子 供なんですよ。大体人生の中で、子供ほど作虐 的(サデイステイツク)なものはないでしょうからな」と突き刺すよ うな皮肉をレヴェズ氏に送ってから、 「時にレヴェズさん、何日ぞやi確(ドツ)かそこ(ホ ロ )に あるは薔薇(ゼン ジント ウ)なり、その附近(オパイ ヵイン リ)には鳥( ド メ)の声( ル)は絶( フ)え(レ)て 響(テツ)かずーと、レナウの『秋(トヘルプス) の 心(ト ゲフユ ル)』の事を 訊ねましたっけね。ハハハハハ、御記憶です か。然し、僕は一言注意して置きますが、この 次こそ、貴方が殺される番になりますよ」と何 となく予言めいた、またそこに、法水独特の反 語逆説が潜んでいるようにも思われる、妙に薄 気味悪い言葉を吐いた。すると、その瞬間レ ヴェズ氏に、衝動的な苦悶の色が沃び上った が、ゴクリと唾を嚥み込むと、顔色を旧通りに 恢復して云い返した。 「全く、それと同様なんです。得体の判らない 接近と云うものは、明らさまな脅迫よりも、一 層恐怖的なものですからな、然し、儂(わし)共に寝室 の扉に閂を下ろさせたり、またそれを、要塞の ように固めさせるに至った原因と云うのは、決 して昨今の話ではないのですよ。実は、あの晩 の神意審問会と同様の出来事が、以前にも一度 繰り返された事があったのですLとレヴェズ氏 は顔を引き緊め、つい寸秒前に行われた、法水 との黙劇を忘れたかのように、語り始めたもの であった。 「それは、先生が残(みまか)られてから間もなくの事 で、去年の五月の始めでしたが、その夜は、ハ イドソのト短調四重奏曲(カルテツト)の練習を、礼拝堂でや る事になりました。所が、曲が進行しているう ちに、突然グレーテさんが、何か小声で叫んだ かと思うと、右手の弓(きゆう)が床の上に落ち、左手も 次第にダラリと垂れて行って、開いてある扉(ドア)の 方を凝然と瞳めているのでした。勿論、儂(わし)共三 人は、それを知って演奏を中止致しました。す ると、グレーテさんは、左手に持った提琴(ヴァイオリン)を 逆さに扉(ドア)の方へ突き付けて、津多子さん、其処に いたのは誰です?1と叫んだのです。案の 条扉(ドア)の外からは、津多子さんの姿が現われまし たけれども、あの方は一向解せぬような面持で、 いいえ誰もいないーと云うのでした。所が、 それを聴くと、グレーテさんは何と云った事で しょうか。声を荒らげて、儂(わし)共の血が一時に凍 り付(え)くような言葉を叫ばれたのです。確(ヘヘ)かそ(ヘヘ)こ には算哲様がーと」と云った時に、総身を恐 怖のために疎めて、セレナ夫人はレヴェズの二 の腕をギユッと掴んだ。その肩口を、レヴェズ は労わるように抱きかかえて、宛も秘密の深さ を知らぬ者を潮笑するような眼差を、法水に向 けた。 「勿論儂(わし)は、その疑題(クェマ チオ ネ ア)に対する解答が、神 意審問会のあの出来事となって現われたと信じ て居るのです。いや、元来神霊主義(スピリチユアリズム)には縁遠い 方でしてな。そう云った神秘玄怪な暗合と云う ものにも、必ずや教程公式があるに相違ないI lと。いいですかな法水さん、貴方が探し求め て居られる薔薇(ロしセン カヴ)の騎士(マリエル)は、その二回に渉る不思 議とも、異様に符合しているのですぞ。それは 云う迄もない、津多子さんに外ならんのです」  その間法水は、黙然と床を瞬めていたが、ま るで、或る出来事の可能性を予期してかのよう な、弱々しい嘆息を洩らした。そして、「とに かく、今後貴方の身辺には、特に厳重な護衛を お附けしましょう。それから、また貴方に、 『秋(ヘルプヌト) の 心( ゲフユ ル)』をお訊ねした事を、改めてお詫 びして置きます」と再び、他では到底解し切れ ぬような奇言を吐いてから、彼は問題を事務的 な方面に転じた。 「所で、今日の出来事当時は、何処にお出でに なりましたか」 「ハイ、私旨分の室で、ジォニダ(罫芝 の掃除を致して居りました」とセレナ夫人は躊 まずに答えてから、レヴェズの方を向いて「そ れに、確かオットカールさん(ル卿仔)は、驚骸(ウす  タヨそ) 噴泉(サ プライズ)の側にいらっしゃいましたわねL  その時レヴェズ氏の顔には、唯ならぬ狼狽の 影が差したけれども、「いやガリバルダさん、 鐵と矢筈を反対にしたら、多分、弩の弦が切れ てしまうでしょうからな」と如何にも上ずっ た、不自然な笑声で紛らせてしまったのであ る。そうして二人は、尚も煩々しく、津多子の 行動に就いて苛酷な批判を述べてから、室を出 て行った。二人の姿が扉(ドア)の向うに消えると、そ れと入れ違いに、旗太郎以下四人の不在証明が 私服に依って齎(もたら)された。それに依ると、旗太郎 と久我鎮子は図書室に、既に恢復していた押鐘 津多子は、当時階下の広間(サロン)にいた事が証明され たけれど、不思議た事には、此の時もまた、伸 子の動静だけが不明で、誰一人として、彼女の 姿を目撃した者がないのだった。以上の調査を 私服から聴き終ると、法水はひどく複雑な表情 を活べ、実にこの日三度目の奇説を吐いた。 「ねえ支倉君、僕にはレヴェズの壮烈な姿が、 絶えず執拗(しつ)っこく附き纏っているのだがね。あ の男の心理は、実に錯雑を極めているのだ。或 は誰かを庇おうとしての騎士的精神かも知れな いし、-また、ああ云う深刻な精神葛藤が、既に もう、あの男に狂人の境界を跨せているのかも 判らない。だが、何より濃厚なのは、あの男が 死体運搬車に乗っている姿なんだよ」と何等変 哲もないレヴェズの言動に異様な解釈を述べ、 それから噴泉の群像に眼が行くと、彼は慌てて 出しかけた莫(たぱこ)を引っ込めた。「では、これから 驚骸噴泉(ウォリタ  サ プライズ)を調べる事にしよう。恐らく犯人 であると云う意味でなしに、今日の事件の主役 は、屹度レヴェズに違いないのだL  その驚骸噴泉(ハオ タ  サきプ つイズ)の頂上は、黄銅製のパルナ ス群像になっていて、水盤の四方に踏石があ り、それに足をかけると、像の頭上から各ζの 側に、四条の水が高く放出される仕掛になって いた。そして、その放水が、約十秒程の間継続 する事も判明した。所が、その踏み石の上に は、霜溶けの泥が明瞭な靴跡となって残ってい て、それに依るとレヴェズ氏は、その一つ一つ を複雑な径路で辿って行って、しかも各ζに、 只の一度しか踏んでいない事が明かになった。 即ち、最初は本館の方から歩んで来て、一番正 面の一つを踏み、それから、次にその向う側 を、そして三度目には右側のを、最後には、左 側の一つを踏んで終っている。然し、その複雑 極まる行動の意味が、一体那辺にあるのか、流 石(さすが)に法水でさえ、皆目その時は見当が附かな かった。  それから、本館に戻ると、一咋日訊問室に当 てた例の開けずの間、即ちダンネベルグ夫人の 死体となっていた室で、まず最初の喚問者とし て伸子を喚ぶ事になった。そして、彼女が来る 迄の間に、何処からとなく法水の神経に、後 にはそれと頷かせた、異様な予感が触れて来た と云うのは、数十年以来この室に君臨してい て、幾度か鎖ざされ開かれ、また、何度か流血 の惨事を目撃して来たーあの寝台の方に惹か れて行ったのだった。彼は帷幕(カ テン)の外から顔を差 し入れただけで、思わずハッとして立ち疎んで しまった。前回には些かも覚えなかった所の、 不思議な衝動に襲われたからだ。死体が一つな くなっただけで、帷幕で区切られた一劃には、 異様な生気が発動している。或は、死体がなく なって構図が変ったので、純粋の角と角、線と 線との交錯を眺めるために起った、心理上の影 響であるかも知れない。  けれども、それとは何処か異った感じで、同 じ冷たさにしても、生きた魚の皮膚に触れると 云ったような、何となく此の-一劃の空気から、 微かな働糧…ズふ聴えて来そうであって、まあ云 わば、生体組織を操縦している、不思議な力が あるのを浸(しんしん)々と感ずるのだった。然し、検事と 熊城に入られてしまうと、法水の幻想は跡方も なく飛び散ってしまった。そして、やはり構図 の所以(せい)かなと思うのだった。法水は此の時ほ ど、寝台を仔細に眺めた事はなかった。  天蓋を支えている四本の柱の上には、松毬(まつちし  )形 をした頂花(ね てぱな)が冠彫になっていて、その下から全 部にかけては、物凄い程克明な刀の跡を見せ た、十五世紀ヴェネチアの三十櫓楼船(プセンタヨル)が浮彫に なっていた。そして、その舳の中央には、首の ない「ブラソデソブルグの荒鷲」が、極風に逆 らって翼を拡げているのだった。そう云う、一 見史女模様めいた奇妙な配合(とりあわせ)が、この桃花木(マホガニ )の 寝台を飾ってる構図だったのである。そして、 漸く法水が、その断頸鷲の浮彫から顔を離した 時だった。静かに把手(ノツブ)の廻転する音がして、 ばれた紙谷伸子が入って来た。 第六篇 算哲埋葬の夜 ー あの渡(ワンダ ) り 鳥( フオ ゲル)-   割れた虹 ・二つに 喚  紙谷仲子の登場ーそれが、この事件の超 頂(ウルトラ クラノ)  点(マツクス)だった。と同時に、妖気覆気の世界と 人間の限界とを区切っている、最後の一線でも あったのだ。何故なら事件中の人物は、クリ ヴォフ夫人を最終にして悉く飾い尽されてしま い、遂に伸子だけが、残された一粒の希望に なってしまったからだ。しかも、曾て鐘鳴器(カリルロン)室で 彼女が演じた所のものは、到底曖昧模糊とした 人間の表情ではない。如何なる奇矯変則を以て しても律し得ようのない……換言すれば、殺人 犯人の生具的表現を最も強烈に表象している、 一個の演(マ)劇用(ス)仮面(ク)に相違ないのである。それ 故、此処でもし法水が、伸子の秤量を機会に転 回を計る事が出来なかった暁には、恐らくあの 暗黒凶悪な級帳(カ テン)が、事件の終幕には犯人の手に 依って下されるであろう。否そうなる事は、こ の事件の犯罪現象を一貫している虻(みずち)のような怪 物、1即ち事件の推移経過が明白にそれへ 向って集束されて行こうとしても、法水でさえ              デモーネ×・ガイスト どうにも防ぎようのない、あの大 魔 霊の超 自然力を確認するに外ならないのである。それ 故、伸子の蒼白な顔が扉(ドア)の陰から現われると同 時に、室内の空気が異常に引き緊まって来た。法 水にさえ、抑えようとしても果せない、妙に神 経的な衝動が込み上げて来る。そして、全身を 冷たい爪で、掻き上げられるような焦(いらだた) 慮(しさ)を、 その時はどうする事も出来ないのであった。  伸子は年齢二(としのニろ)十三四であろうけれども、どち らかと云えば弾力的な肥り方で、顔と云い体嘔 の線と云い、その輪郭がフラソドル派の女人を 髪髭とさせる。けれども、その顔は日本人には 稀らしいくらい細刻的な陰影に富んでいて、そ れが如実に彼女の内面的な深さを物語るように 思われた。のみならず、最も印象的なのは、そ のクリクリした葡萄の果みたいな双の瞳であ る。そこからは智的な熱情が、まるで玲羊(かもしか)のよ うな敏しこさで送出(はしりだ)して来るのだけれども、そ れにはまた、彼女の精神世界の中にうずくまっ ているらしい、異様に病的な光りもあった。総 体として彼女には、黒死館人特有の、妙に暗い 粘液質的な所はなかったのである。然し、三日 に渉って絶望と闘い凄惨な苦悩を続けたため か、仲子は見る影もなく憔惇している。既に歩 む気力も尽き果てたように思われ、その喘ぐよ うた激しい呼吸が1鎖骨や咽喉の軟骨が急(せわ)し 気に上下しているのさえ、三人の座所から明瞭 と見える。然し、フラフラ歩んで来て座に着く と、彼女は昂奮を鎮めるかのように両眼を閉じ、 双の腕で胸を固く締め付けていて、暫く凝然(じいつ)と 動かなかった。それに、黒地の対へ大きく浮き 出している茅萱(ちがや)模様の尖が、まるで礫刑槍みた いな形で彼女の頸を取り囲んでいる。それなの で、偶然に作られてしまったその異様な構図か らは、妙に中世めいた門罪的な雰囲気が醸し出 されて来る。そして、楓と角石とで包まれた沈 響な死の室の周囲(へるワ)へ、それが渦のように揺ぎ拡 がって行くのだった。やがて、法水の唇が微か に動きかけて、沈黙を破ろうとしたとき、或は 先手を打とうとしたのだろうか、突如伸子の両 眼がパチリと見開かれた。そして、彼女の口か らいきなり衝いて出たものがあった。 「私、告白致しますわ。如何にも鐘鳴器(もリルコン)室で気 を失いました際には、鎧通しを握って居りまし た。また、易介さんが殺された前後にも、それ から、今日のクリヴォフ様の出来事当時にだっ て、奇妙な事に、私だけには不在証明(アリパイ)と云うも のが恵まれて居りませんでした。いいえ、私は 最初から、此の事件の終点に置かれているんで すわ。ですから、此処で幾ら莫迦(ぱか)問答を続けた 所で、結局この局(シチユエ ) 状(し  ヨン)には批評の余地はござ いませんでしょう」と伸子は何度も逼(つか)えなが ら、大きく呼吸を吸い込んでから、「それに、 私には固有の精神障擬(しようげ)があって、時折ヒステリ ーの発作が起ります。ねえそうでございましょ う。これは久我鎮子さんから伺った事ですけれ ども、犯罪精神病理学者のクラフトエーヴィン グは、ニイチェの言葉を引いて、天才の惇徳(はいとく)掠 奪性を強調して居ります。中世紀全体を通じて 最も高い人間性の特徴と見倣されていたのは、 幻覚を起す1云い換えれば、深い精神的擾乱(じようらん) の能力を持つにありLrですと。ホホホホホ、 これでございますものね。凡てが揃いも揃っ て、それも、明瞭過ぎるくらいに明瞭なんです わ。もう私には、自分が犯人でないと主張する のが厭になりましたL  それは、何処か彼女のものでないような声音 だった。-殆ど自棄的な態度である。然し、 その中には妙に小児っぽい示威があるように思 われて、そこに、絶望から腕(るが)き上ろうとする、 凄惨な努力が、透し見えるのだった。云い終る と、仲子の全身を硬張らせていた靱帯(じんたい)が急に弛 緩したように兜え、その顔にグッタリとした疲 労の色が現われた。そこへ、法水は和(なご)やかな声 で訊ねた。 「いや、そう云う喪服なら、屹度すぐに必要で なくなりますよ。もし貴女が、鐘鳴器(カリルロン)室で見た 人物の名が云えるのでしたら」 「すると、それは……誰の事なんでしょうか」 と伸子は素知らぬ気な顔で、鵬鵡返しに問い返 した。然し、その後の様子は、不蕃(け)怪瓠(げん)Mなぞと 云うよりも、何か潜在している1恐怖めいた 意識に唆られているようだった。けれども、気 早な熊城は優早凝(ヒつ)としていられなくなったと見 えて、さっそく彼女が様朧状態中に認めた、自 署の件(膨"紅祖離蟻肇を持ち出した。そ して、それを手短に語り終えると開き直って、 厳しく伸子の開口を迫るのだった。 「Vいですかな。僕等が訊きたいのは、僅った それだけです。どんなに貴女を、犯人に決定し れば、あの動物共はその方へ顔を向けて、何も たくなくも、つまるところは、結論が逆転しな かも喋って呉れるでしょうからね。それとも、 い限り止むを得ません。つまり、要点はその二 この事件の公式通りに、それが算哲様だったー つだけで、それ以外の多くを訊ねる必要はない ーとでも申し上げましょうかL のです。これこそ、貴女にとれば一生浮沈の瀬  伸子は、毅然(きぜん)たる決意を明かにした。彼女は 戸際でしょう。重大な警告と云う意味を忘れん 自身の運命を犠牲にしてまでも、或る一事に絨(かん) ように……Lと沈痛な顔で、まず熊城が急迫気 黙(もく)を守ろうとするらしい。然し、云い終ると何 味に駄目を押すと、その後を引き取って、検事 故であろうか、まるで恐ろしい言葉でも待ち設 が諭すような声で云った。         けているように、堅くなってしまった。恐ら 「勿諭ああ云う場合には、どんなに先天的な虚 ぐ、彼女自身でさえも、嘲侮の限りを尽してい 妄者(そつき)でも、除外する訳には往きません。それで る自分の言葉には、思わず耳を覆いたいような さえ、精神的には完全な健康になってしまうの 衝動に駆られた事であろう。熊城は唇をグイと が、つまりあの瞬間にあるのですからね。サ 噛み締めて、憎々し気に相手を見掘えていた ア、そのXの実(エツキス)数を云って下さい。降矢木旗 が、その時法水の眼に怪しい光が現われて、腕 太郎……たしかに。いや、一体それは誰の事な を組んだままズシソと卓上に置いた。そして、 んです?」                 如何にも彼らしい奇問を放った。 「降矢木……サア」と幽(ぴすカ)に咳いただけで、伸子  「ああ、算哲……。あの凶兆の鋤ースペード の顔がみるみる蒼白になって行った。それは、魂 の王様(キング)をですか」 の底で相打っているものでもあるかのような、 「いいえ、算哲様なら、ハートの王様(キング)でござい 見るも無残な苦闘だった。然し、五六度生唾を ますわ」と伸子は反射的にそう云った後で、一 嚥み下しているうちに、サッと智的なものが閃 つ大きな溜息をした。 いたかと思うと、伸子は高い顧えを帯びた声で  「成程、ハートなら、愛撫と信頼でしょうが」 云った。「ああ、あの方(ヘヘヘ)に御用がおありなので と瞬間法水の眼が過敏そうに瞬いたが、「所で、 しょうか。それでしたら、鍵盤のある劃り込み その告げ口をすると云う蠕蟷ですが、一体それ の天井には、冬眠している蠣幅がぶら下って居.は、何(ど)っちの端にいたのですか」 りました。また、大きな白い蛾が、まだ一二匹  「それが、鍵盤の中央から見ますと、恰度その 生き残っていたのも知って居りますわ。ですか 真上でございましたわ」と仲子は躊らわずに、 ら、冬眠動物の応光性(トロピズム)さえ御承知でいらっしゃ 自制のある調子で答えた。 いますのなら……。そうして光さえお向けにな  「然し、その側には、好物の蛾がいたのです。 けれどもその蛾が、飽くまで沈黙を守っている 限りは、よもや残忍な蠕蟷だって、むざに傷け ようとは致すまいと思いますわ。所が、その寓 喩(アレゴリヨ)は、実際とは反対なのでございましたL 「いや、そう云う童話めいた夢ならば、改めて 悠くりと見て貰う事にしよう1今度は監房の 中でだ」と熊城が毒々し気に囎(うそぷ)くと、法水はそ れを嗜めるように見てから、伸子に云った。 「お構いなく続けて下さい。元来僕は、シェレ イの細君(御劃「-㍗戸""ノ"「州構以→"伯割の)みた いな作品は大嫌いなのです。ああ云う内臓の分 泌を促すような感覚には、もう飽き飽きしてい るのですからね、所で、その白羽のボアが揺い だのは? それが鐘鳴器(ハリルロン)室のどんな場面で、貴 女に風を送りましたね」 「実際を申しますと、その蛾は遂(とうとう)々、蠕蟷の餌 食になってしまったのでございます。何故な ら、私にあの難行をお命じになったのが、クリ ヴォフ様なんでございますものね。1それ も、独りで三十櫓楼船(ブセンタゥル)を漕げって」と瞬間、冷 たい憤怒が仲子の面を掠めたけれども、それは すぐに、跡方もなく消え失せてしまった。そし て続けた。 「だって、何時もなら、レヴェズ様がお弾きに なるあの重い鐘鳴器(カリルロン)を、女の私に、しかも三回 宛(ずつ)繰り返せよと仰有ったのです。ですから、最 初弾いた経文歌(モテツト)の中頃になると、もう手も足も 萎え切ってしまって、視界が次第に朦腕となっ て参りました。その症状を、久我さんは微弱な 狂妄ーと仰有います。病理的な情熱の破船状 態だと云います、その時は、必ず極端に倫理的 なものが、まるで軍馬のように耳を聾てなが ら、身を起して来るーと申されます。しかも それが、最高浄福の瞬間だそうですけれども、 決して倫理学(エ テイリツシユ)ではある代りに道徳的(モラリツシユ)ではな く、そこにまた、殺人の衝動を否む事は出来ぬ ーとあの方は仰有いました。ああ、これで も、貴方がお考えになるような、詩的な告白な のでございましょうかLと熊城に冷たい蔑視を 送ってから、当時の記憶を引き出した。「で多 分、こう云う現象の一部に当るでしょうか、自 分では何を弾いているのか無我夢中の癖に、寒 風が私の顔を、斑に吹き過ぎて行く事だけは、 妙に明瞭と知る事が出来ましたものね。云わ ば、冷痛とでも云う感覚でしたでしょう。けれ ども、絶えずそれが、明滅を繰り返しては刺激 を休めなかったので、漸く経女歌(モテツト)の三回目を終 える事が出来ました。それから、手を休めてい る間も同じ事でございます。階下の礼拝堂から 湧き起ってくる鎮魂楽(レキエム)の音が、セロ・ヴィオラ と低い絃の方から消え始めて行って、次第に耳 元から遠ざかって行くのでしたが……、かと思 うと、それがまた引き返して来て、今度は室内 一杯に、傍鱒(ほうはち)と押し拡がってしまうのでした。 然し、その律動的(リズミカル)な、まるで正確なメトロノー ムでも聴くような繰り返しが、次第に疲労の苦 痛を薄らげて参りました。そして、非常に緩漫 ではございましたけれども、徐(だんだん)々と私を、快よ い睡気の中へ陥し込んで行ったのです。ですか ら、曲が終って、私の手足が再び動き始めてか らも、私の耳には、鐘(チャペル)の音は聴えず、絶えず あの音を持たない、快よい律動だけが響いて来 るのでした。ところが、その時でございます。 突然私の顔の右側に、打ち衝って来たものがあ りました。すると、その部分に嫉衝(サんしよう)が起って、 かっと燃え上ったように熱っぽく感じました。 けれども、その刹那、身体が右の方へ捻れて 行って、それなり、何もかも判らなくなってし まったのです。その瞬間でございましたわー 私が、創り込みの天井に蛾を見たのは。然し、 今朝がた行って見ますと、その蛾は何時の聞に か見えなくなっていて、恰度その場所には、蠣 蟷が素知らぬ気な顔でぶら下っているだけでし たL  伸子の陳述が終ると同時に、三人の視線が期 せずして、打衝った。しかもそれには、名状の 出来ぬ困惑の色が現われていた。と云うのは、 伸子に発作の原因を作らせたと目される、鐘鳴 器(カリルロン)の演奏を命じた人物と云うのが、誰あろう、 つい先頃皮肉な逆転を演じたところの、クリ ヴォフ夫人だったからだ。のみならず、伸子の 云うが如くに、果して右の方へ倒れたとすれ ば、当然廻転椅子に現われた疑門が、更に深め られるものと云わねばならない。熊城は、狡猜(ずる) そうに眼を細めながら訊ねた。 「そうなって、貴女の右側から襲ったものがあ ると云う事になると、恰度そこには、階段を上っ て突き当りの扉(ドア)がありましたっけね。とにか く、下らん自己犠牲は止めにした方が……L 「いいえ私こそ、そんな危険な遊戯(ゲ ム)に耽る事だ けはお断り致しますわ」と伸子は、飽くまで意 地強い態度で云い切った。「真平ですわーあ んな恐ろしい化竜(ドうゴン)に近付くなんて。だって、お 考え遊ばせな。たとえば私が、その人物の名を 指摘したと致しましょう、けれども、そんな浅 墓な前提だけでもって、どうして、あの神秘的 な力に仮説を組み上げる事がお出来になりまし て。却って私は、鎧通しーと云う重大な要点 に、貴方がたの法律的審問を要求したいので す。いいえ、私自身でさえ、自身が類似的には 犯人だと信じている位ですわ。それに、今日の 事件だってそうですわ。あの赤毛の猿猴(えて)公が射 られた狩猟風景にだっても、私だけには、不在(アリ) 証明と云うものがございませんものね」 「それは、どう云う意味なんです? いま貴女 は、赤毛の猿猴(ニして)公と云われましたね」と検事は 注意深そうな眼をして聴き答めたが、秘かに心 中では、案外この娘は年齢の割合に手強いぞー 1と思った。 「それが、また厳粛な開題なんですわ」仲子は 口辺を歪めて、妙に思わせ振りな身振りをした が、額には膏汗(あぷらあせ)を浮かせていて、そこから、内 心の葛藤が透いて見えるように思われる。如何 に、絶望から切り抜けようと腕いているかr 旺に伸子は、渾身の精力を使い尽していて、そ の疲労の色は、重た気な瞼の動きに窺われるの だった。然し、彼女はズケズケと云い放った。 「大体クリヴォフ様が殺されようたっても、悲 しむような人間は一人もいないでしょうから ね。ほんとうに、生きていられるよりも殺され てくれた方が……。その方がどんなに増しだと 思っている人は、それは沢山あるだろうと思い ますわ」 「では、誰だかその名を云って下さい」熊城は この娘の翻弄するような態度に、充分な警戒を 感じながらも、思わずこの標題には惹き付けら れてしまった。「もし特に、クリヴォフ夫人の 死を希っているような人物があるのなら」 「たとえば私がそうですわ」伸子が臆する色も なく言下に答えた。「何故なら、私が偶然にそ の理由を作ってしまったからでございます。以 前内輪にだけでしたけれども、算哲様の御遺稿 を、秘書である私の手から発表した事がござい ました。所がその中に、ク、・三ルニッキー大迫 害に関する詳細な記録があったのでございま す。それが……」と云いかけたままで、伸子は 不意に衝動を覚えたような表情になり、キッと 口を喋(つぐ)んだ。そしてやや暫く、云うまい云わせ ようとの苦悶と激しく闘っていたらしかった が、やがて、「その内容は、どうあっても私の 口からは申し上げられません。然し、その時か ら、私がどんなに惨めになった事でしょうか。 無論その記録は、その場でクリヴォフ様がお破 り棄てになりましたけど、それ以後の私は、あ の方の自前勝手な敵視をうけるようになったの でございます。今日だってそうですわ。たか が、窓を開けるだけに呼び付けて置いて、あの 位置にするまでに、それは何度上げ下げした事 だったでしょうL  ク、、、エルニッキーの大迫害ー。その内容は 三人の中で、唯一人法水だけが知っていた。即 ち、十七世紀を通じて頻繁に行われたと伝えら れる、コーカサス猶太人(ジユウ)迫害中での最たるもの で、それを機縁に、コザックと猶太人(ジユウ)の間に雑 婚が行われるようになったのである。然し、クリ ヴォフ夫人が猶太(ユダヤ)人である事は、既に彼が観破 した所であるとは云え、その破られた記録の内 容と云うのに、何となく心を惹くものがあった のは当然であろう。その時一人の私服が入って 来て、津多子の夫-押鐘医学博士が、来邸し たと云う旨を告げた。押鐘博士には、予て福岡 に旅行中のところを、遺言書を開封させるた め、唐突な召喚を命じたと云う程だったので、 此処で一先ず、伸子の訊門を中断しなければな らなかった。そこで法水は、まずダンネベルグ 事件を後廻しにして、早速今日の動静に就いて 知ろうとした。 「所で、既往の問題は後程改めて伺うとして :-。今日の出来事当時に、貴女は何故自分の 不在証明(アリバイ)を立てる事が出来なかったのです」 「何故,って、それが二回続きの不運なんです わ」と伸子は一寸愚痴を洩らして、悲しそうに 云った。「だって私は、あの当時樹皮亭(ポルケン ハウス)(躰描 鵬赫以)の中にいたんですもの。彼処は美男葛の 袖垣に囲まれていて何処からも見えは致しませ んわ。それに、クリヴォフ様が吊された武具室 の窓だっても、恰度あの辺だけが、美男葛の擁 に遮られているのです。ですから、ああ云う動 物曲芸のあった事さえ、私はてんで知らなかっ たのですL 「でも、夫人の悲鳴だけは、お聴きになったで しょうな」 「勿論聴きましたとも」それが殆ど反射的だっ たらしく、伸子は言下に答えた。けれどもその 口の下から、異様な混乱が表情の中に現われて 来て、俄然声に傑えを帯びて来た。 「ですけど、どうしても私は、あの樹皮亭(ポルケン ハウス)か ら離れる事が出来なかったのです」 「それは、また何故にです? 大体そう云う事 が、根もない嫌疑を深める事になるんですぞ」 熊城は此処ぞと厳しく突っ込んだが、伸子は唇 を痙璽させ、両手で胸を抱いて辛くも激情を圧 えていた。然し、その口からは、氷のように冷 やかな言葉が吐かれた。 「どうしても、申し上げる事は出来ませんー この事は何度繰り返しても同じですわ。それよ り、恰度クリヴォフ様が、悲鳴をお揚げになる 一瞬程前の事でしたが、私はあの窓の側に、実 は不思議なものがいるのを見たのですわ。それ は、色のない透明(すきとお)ったものが光っているようで いて、その癖どうも形体の明瞭としていない、 まるで気体のようなものでした。所が、その異 様なものは、窓の上方の外気の中から現われて 来て、それがふわふわ浮動しながら、斜にあの 窓の中へ入り込んで行くのでした。その一瞬後 に、クリヴォフ様が裂くような悲鳴をお揚げに なりましたLと伸子は、まざまざ恐( )怖の色を活 べて、法水の顔を窺うように見入るのだった。 「最初私は、レヴェズ様があの際にいらっ しゃったので、或は、驚骸噴泉(ウオ タ  サ プライズ)の飛沫かな とも思いました。でも考えて見ますと、大体微 風さえもないのに、飛沫が流れると云う気遣は ございませんわね」 「ふん、またお化か」と検事は顔を餐めて咳い たが、同時に唇の奥で、それとも伸子の虚言(うそ)か lIと附け加えたのは当然であろう。然し、熊 城は唯ならぬ決意を活べて立ち上った。そし て、厳然と伸子に云い渡したのだった。 「とにかく、この数日間の不眠苦悩はお察しし ますが、然し今夜からは、充分よく眠られるよ うに計らいましょう。大体、これが刑事被告人 の天国なんですよ。捕縄で貴女の手頸を強く緊 めるんです。そうすると、全身に気持のよい貧 血が起って、次第にうとうととなって行くそう ですからな」  その瞬間、仲子の視線がガクソと落ちて、両 手で顔を覆い、卓上に傭伏してしまった。所 が、続いて警察自動車を呼ぼうとし、熊城が受 話器を取り上げた時だった。法水は何と思った か、その紐線(コ ド)に続いている、壁の差込(プラグ)みをボソ と引き抜いて、それを伸子の掌の上に置いた。 そうしてから、唖然となった三人を尻眼にか け、陶然と彼の着想を述べたのである。ああ、 事態は再び逆転してしまったのだった。 「実は、その1貴女にとって不運なお化が、 僕に詩想を作ってくれました。これがもし春な らば、あの辺は花粉と匂いの海でしょう。然し、 裏枯れた真冬でさえも、あの噴泉と樹皮亭(ポルケン ハウス)の 自然舞台1それが僕に貴女の不在証明(ア リパイ)を認め させたのです。貴女もクリヴォフ夫人も、あの 渡(ワンダ ) り 鳥( フオ ゲル)-…虹に依って救われたのですよ」 「ああ、虹とは・-…。賓方は何を仰有るので す」伸子は突然弾ね上げたように身体を起し て、涙で霧(うる)んだ美しい眼を法水に向けた。然 し、一方その虹は、検事と熊城を絶望の淵に叩 き込んでしまった。恐らく二人にとれば、その 刹那が、凡ゆる力の無力を直感した瞬聞であっ たろう。けれども、その法水が持ち出した、華 やかに彩色濃く響の高い絵には、どうしても魅 了せずには置かない不思議な感覚があった。法 水は静かに云った。 「虹……まさにそれは、革鞭のような虹でし た。ですが、犯人を気取ってみたり、久我鎮子 の術学的(ペダンテイツク)な仮面を被けたりしている間は、それ に遮られていて、あの虹を見る事が山来なかっ たのです。僕は心から苦難を極めていた貴女の 立場に御同情しますよ」 「では久我さんの言を借りれば1動機変転(モチフ ワンデル)、 ねえ、そうでございましょう。でも、そんな隈 取りは、もう既に洗い落してしまいましたわ。 偽悪、街(ペダント) 学(リ )……そう云う悪徳は、たしか、私 には重過ぎる衣裳でしたわねLと第一日以来欝 積し切っていたものが、彼女の制御を跳ね越え て一時に放出された。伸子の身体がまるで小鹿 のように弾み出して、両肱を水平に上げ、その 拳を両耳の根につけて、それを左右に揺(ゆす )ぶりな がら、喜悦(よろこぱしさ)に胱惚となった瞳で、彼女は宙に何 と云う文字を書いていた事であろう。意外にも 思いも寄らなかった歓喜の訪れが、伸子を全く 狂気のようにしてしまったのである。 「ああ眩しいこと……。私、この光が、何時 かは必ず来ずにはいないと……それだけは固 く信じてはいましたけれど……でもあの暗さ が」と云いかけて、仲子は見まいとするものの ように眼を瞑(つぷ)り、首を狂暴に振った。「ええ何 でもして御覧に入れますとも。踊ろうと逆立ち しようとー」と立ち上って、波蘭輪舞(マズルカ)のよう な%拍子を踏みながら、クルクル独楽みたいに 旋廻を始めたが、卓子(テ プル)の端にバッタリ両手を突 くと、下った髪毛を蓮葉に後の方へ跳ね上げて 云った。カールニ       5ヶンニヨ  「でも、鐘鳴器室の真相と、樹皮亭から出ら れなかった事だけは、どうかお訊ぎにならない で。だって、この館の壁には、不思議な耳があ るんですもの。それを破った日には、いつまで 貴方の御同情をうけていられるか、怪しくなっ て参りますわ、サア、次の訊門を始めて頂戴」  「いや、もうお引き取りになっても。まだ、ダ ソネベルグ事件に就いて、参考迄にお訊きした い事はあるのですが」と法水はそう云って、何 時までも狂喜の昂奮から、去る事の出来ない伸 子を引き取らせた。長い沈黙と尖?た黒い影ー ー彼女が去った後の室内は、恰度台風一過後の 観であったが、其処には何とも云えぬ悲痛な空 気が涙っていた。何故なら、彼等は伸子の解放 を転機として、最早人間の世界には希望が絶た れてしまったからだ。あの物凄じい黒死館の底 流-些細女犯罪現象の個々一つ一つにさえ、 影を絶たないあの大魔力に、事件の動向は遮二 無二傾注されて行くのではないか。熊城は顔面 を怒張させて、暫くキリキリ歯噛みをしていた が、突然法水が引き抜いた差(プラ)込みを床(グ)に叩き付 けた。そして、立ち上って荒々しく室内を歩き 廻っていたが、それに、法水は平然と声を投げ た。 「ねえ熊城君、これで愈ζ、第二幕が終ったの だよ。もちろん、文字通りの迷宮混乱紛糾さ。 だが然しだ、多分次の幕の冒頭にはレヴェズが 登場して、それから、この事件は、急降的に破(キヤタ)  局(ストロフ)へ急ぐ事だろうよ」 「解決-莫迦(ばか)を云い給え。僕はもう、辞表を 出す気力さえなくなっているんだぜ。多分最初 から、ト書に指定してあるんだろう。第二幕ま では地上の場面で、三幕以後は神笠(しんぜい)降霊の世界 だーとでも」と熊城は錆沈したように眩くの だった。「とにかく、後の仕事は、君が珍蔵す る十六世紀前期本(インキユナプラ)でも漁る事だ。そして、僕等 の墓碑文を作る事なんだよ」  「うん、その十六世紀前期本(インキユナプラ)なんだがねえ。実 は、それに似た空論が一つあるんだよ」と検事 は沈痛な態度を失わず、詰(たじ)るような険しさで法 水を見て、「ねえ法水君、虹の下を枯草を積ん だ馬車が通った。1そして、木靴を履いた娘 が踊ったのだ、1すると、此の事件には一人 の人間もいなくなってしまったのだよ。僕には どうしても、この牧歌的風景の意味が判らない のだ。大体その虹IIと云うのは、一体どう云 う現象の強喩法(カタクレエズ)なんだね」 「冗談じゃない。決してそれは文典でもー1詩 でもない。勿論、類推でも照応でもないのだ よ。実際に真正の虹が、犯人とクリヴォフ夫人 との間に現われたのだからね」と法水が、未だ に夢想の去り切らない、熱っぽい瞳を向けたと き、扉(ドア)が静かに開かれた。そして、突然何の予 告もなしに、久我鎮子の痔せた棘々しい顔が現 われた。その瞬間、グイと息詰るようなものが 迫って来た。恐らくこの学識に富み、中性的な 強烈な佃性を持った神秘論者は、人聞には犯人 を求めようのなくなった異様な事件を、更に一 層暗潅たるものとするに相違ないのである。鎮 子は軽く目礼を済ますと、何時ものように冷淡 な調子で云った。が、その内容は頗る激越なも のだった。 「法水さん、私、真逆とは思いますわ。ですけ ど、貴方はあの渡り鳥の云う事を、無論そのま まお信じになっているのじゃございますまい、 ね」 「渡(ワンダ ) り 鳥( フオヨゲル)"」法水は奇異の眼を騨って、咄 嵯に反問した。つい今し方、自分が虹の表象と して吐いた言葉が、偶然かは知らぬが、鎮子に 依って繰り返されたからである。 「左様、生き残った三人の渡り鳥の事ですわ」 そう吐き捨てるように云って、鎮子は凝然と法 水の顔を正視した。「つまり、ああ云う連中が どう云う防衛的な策動に出ようと、津多子様は 絶対に犯人ではございません「私はそれを飽 くまで主張したいのです。それにあの方は、今 朝がたから起き上ってはいますけれど、未だ訊 問に耐えると去う程には恢復して居られないの です。貴方なら、御存知でいらっしゃいましょ う1抱水クロラールの過量が一体どう云う症 状を起すものか。到底今日一日中では、あの貧 血と視神の疲労から恢復する事は困難なのでご ざいます.いいえ私は、あの方にメアリー.ス チュアート(叶蛮柵磨罫.巧"環講纏齢購 爬切勲コ引叫i)の運命があ帥斗うに思われて… …。つまり、貴方の偏見が危倶まれてならない のですわ」 「メアリi・スチュアートη」法水は突然興味 に唆られたらしく、半身を卓上に乗り出した。 「そうすると、あの善良過ぎる程のお人良しを 云うのですか、それとも、女王(クイン)エリザベスの権 謀好策を……あの三人に」 「それは、両様の意味でです」鎮子は冷然と答 えた。「御承知とは存じますが、津多子様の御 夫君押鐘博士は、御自身経営になる慈善病院の ために、殆ど私財を蕩尽してしまいました。そ れぼので、今後の維持のためには、どうあって もあの隻眼を押してまで、津多子様は再び脚光 を浴びなければならなくなったのです。恐らく あの方のうける喝采が、医薬に希望の持てない 何万と云う人達を需おす事でしょう。全く、人 を見る事柔和なるものは恵まれるでしょうが、 そうかと云って、されど門(ヘヘヘヘヘ)に立(ヘヘ)てる者(ヘヘヘ)は人(ヘヘ)を妨(ヘ) ぐーですわ。法(へ)水さん、貴方はこのソロモソ の意味がお判りになりまして。あの門1つま りこの事件に凄惨な光を注ぎ入れている、あの 鍵孔のある門の事ですわ。其処に、黒死館永生 の秘鏑(ひウく)があるのです」 「それを、もう少し具体的に仰有って頂けませ んか」 「それでは、シユルツ(帥脚細卿伽伽ポ膨脚刻「)の精(プ) 神蔚掛説(蹴のの轍郷訓箪垢納㎎鵬州桝騨縮鵬鮪伽"翻択ガ樽 神は、無意識の状態とな'て永存する。それは非常に低いもの で意識を現わす事は不可能だが、一種の衡動作用を生む力はあ ると云う。そして、生死の境を流転して、時折潜在意識の中に も出現すると称えるけれども、此の種の学説申での最も合理的 魏←、で)を御存知でいらっしゃいましょうか、 私だっても、確実な論拠なしには主張しは致し ません」と果して大風な微笑を浸べて、鎮子は 再び、この事件に凄風を招き寄せた。 「な、なに、精神萌芽説(プシア デ)をη」と法水は、突然 凄じい形相になり、吃りながら叫んだ。「では、 その諭拠は何処にあるのです……。貴女は何 故、この事件に生命不滅論を主張されるのです か。すると、算哲博士が未だに不可解な生存を 続けているとでも。それとも、クロード.ディ グスビイが……」  精神雨芽(プシア デ)-ー-その薄気味悪い一語は、最初鎮 子の口から述べられ、続いて法水に依って、そ れに不死説と云う註釈が与えられた。勿論その 二点を脈関しているものは、この事件の底で、 暗の中に生長しては音もなく拡がって行き、次 第に境界を押し広めて行ったものに相違なかっ た。が、折が折だけに、検事と熊城には、今や その恐怖と空想が眼前に於いて現実化されるよ うな気がして、思わず心臓を掴み上げられたか の感がするのだった。然し、一方の鎮子にも、 法水の口からディグスビイの名が吐かれると、 宛も謎でも投げ付けられたように、懐疑的な表 情が沃んで来て、それが、彼女の心を確かと捉 えてしまったもののように見えた。大体、愚 着性(ひようちユやくせい)の強い人物と云うものは、一つの疑題に捉 えられてしまうと、殆ど無意識に近い放心状態 になって、その間に異様な偶発的動作が現われ るものだ。恰度それに当るものか、鎮子は左の 中指に嵌めた指環を抜き出しては、それをクル クル指の周囲で廻し始め、また、抜いてみたり 嵌めてみたりして、頻りと神経的な動作を繰り 返しているのだった。すると、法水の眼に怪し い光が現われて、その一瞬声の杜絶えた隙に立 ち上った。そして、両手を後に組んだまま、コ ツコツ室内を歩き始めたが、やがて鎮子の背後 に来ると、突然爆笑を上げた。 「ハハハハ、莫迦(ぱか)らしいにも程がある。あのス ペードの王様(キンプ)が、まだ生きているなんて」 「いいえ、算哲様なら、ハートの王様(キンブ)なので御 座います」と鎮子は殆んど反射的に叫んだが、 と同時にまた、ハッとしたらしく恐怖めいた衝 動が現われて、いきなりその指環を、小指に嵌 め込んでしまった。そして、大きく吐息を吐い て云った。「然し、私が精神繭芽(プシア デ)と申しました のは、要するに寓喩(アレゴリ )なので御座います。どう ぞ、これを絵画的(ピトレスク)にはお考え遊ばされないで。 却ってその意味は、エックハルト(卑レデ=京 群歎郷欝芸萄縮鶉灘ぎ)の云うガィ霊ヒカ 性(イト)の方に近いのかも知れませんわ。父から子に ー人間の種子が必ず一度は流転せねばならぬ 生死の境、つまり、暗黒に風雨が吹き荒ぶ、あ の荒野(ヴユステ)の事をですわ。もう少し具体的に申し上 げましょうか。吾等(ヘヘヘ)が悪魔(ヘヘヘ)を見出(ヘヘヘ)し得(ヘヘ)ざるは(ち)(へ)、 その姿(ヘヘヘ)が、全然吾等(ヘヘヘヘヘヘ)が肖像(ヘヘヘ)の中(ヘ )に求(ヘヘ)め得(ヘヘ)ざれ(ヘヘ)ば なりー1と、勿(ヘヘ)諭、この事件最奥の神秘は、そ う云う超本質的(ユ ペルウエイゼントリリえヒ)なー形容にも内容にも言 語を絶している、あの哲学径(フイロゾフエン ウエ ヒ)の中にある のです。法水さん、それは地獄の円柱を震い動 かす程の、酷烈な刑罰なので御座いますわ」 「ようく判りました。何故なら、その哲(フイロゾワ) 学(エン )  径(ウエ ヒ)の突き当りには、既に僕が気附いている、 一つの疑問があるからです」と法水は眉を上げ 昂然と云い返した。「ねえ久我さん、聖(サン)ステ ファノ条約でさえも、猶太(ユダヤ)人の待遇には、その 末節の一部を緩和したに過ぎなかったのです。 それなのに何故(どうして)、迫害の最も甚しいコーカサス で、半村区以上の土地領有が許されていたので しょう。つまり、問題と云うのは、その得体の 知れない負数にあるのですよ。然し、その区地 検事も熊城も、瞬間化石したように硬くなって 主の娘であると云う此の事件の猶太人(ジユウ)は、遂に しまった。それは明かに、心の支柱を根抵から 犯人ではありませんでした」         揺り動かし始めた、恐らく此の事件最大の戦標  その時、鎮子の全身が崩れ始めたように戦き であったろう。然し鎮子は、作り付けたような 出した。そして暫く切れ切れに音高い呼吸を立 嘲りの色を活べて云った。 てていたが、「ああ怖ろしい方……」と辛くも  「そうすると、貴方はあの瑞西(スイス)の牧師と同様 幽(かすか)な叫び声を立てた。が、続いてこの不思議な に、人間と動物の顔を比較しようとなさるので 老婦人は、溜り兼ねたように犯人の範囲を明示 すか」 したのであった。「もう、この事件は終ったも  法水は徐ろに莫(たばこ)に点火してから、彼の微妙な 同様です。つまり、その負数の円の事ですわ。動 神経を明かにした。すると、それまでは百花千 機をしっくりと包んでいるその五芒星円(ペンタグラムマ)には、 弁の形で分散していた不合理の数々が、見る見 如何なメフィストと雛も潜り込む空隙は御座い る間にその一点へ吸い着けられてしまったので ません。ですから、いま申し上げた荒野の意味 ある。 がお判りになれば、これ以上何も申し上げる事  「或はそれが、過敏神経の所産に過ぎないかも はないので御座います」と不意(いきなり)立ち上がろうと しれませんが、然しともあれ貴女は、算哲博士 するのを、法水は慌てて押し止めて、     の事をハートの王様(キング)と云われましたね。無論そ 「所が久我さん、その荒野と云うのは、成程独(テオ) れからは、異様に触れて来る空気を感じたので 逸神学(ロギヤ ゲルマニカ)の光だったでしょう。ですが、その運(フェ )す。何故かと云うと、恰度それと寸分違わぬ言 命論は、嘗てタウラーやズイゾウが陥ち込んだ 葉を、僕は仲子さんの口からも聴いたからでし 偽の光なのです。僕は・貴女が云われた糊祖駒.た。恐らく、その暗合には、此の事件椴後の切 芽(デ)説の中に、一つの驚くべき臨床的な描写があ 札とする価値があるでしょう。これまで僕等が るのを。まるで、聴いてさえ狂い出しそうな、 辿って行った、推理測定の正統を、根低から覆 異様なものを発見したのでした。貴女は何故、 えしてしまう程の怪物かも知れないのですよ。 算哲博士(ヘヘヘヘヘ)の心臓(ヘヘヘ)の事(ヘヘ)を考(ヘヘ)えていられるのです 殊(ヘヘヤヘヘヘヘヘ)に、貴女の場合は、それに黙(パントマ) 劇(イム)染みた心理 か、あの大魔霊(デモ ネン ガイスト)を-…・ハートの王様(キング)とは。ハ 作用が伴ったので、それに力を得て、なお一層 ハハハ久我さん、僕はラファテールじゃありま 深く、貴女の心像を扶り抜く事が出来たのでし せんがね。人間の内観を、外貌に依って知る術 た。所で、維納(ウインナ)新心理派に云わせると、それを を心得ているのですよ」          徴侯発作(ジムプトムハンドルンゲン)と云うのですが、目的のない無意  算哲の心臓-それには、鎮子ばかりでなく 識運動を続けている間は、最も意識下のものが 現われ易い1言を換えて云えば、人に知らせ たくない、自分の心の奥底に蔵って置きたいも のが、何かの形で外面の表出の中に現われる か、それとも、そこに何か暗示的な衝動を与え られると、それに伴った聯想的な反応が、往々 言語の中にも現われる事があると云うのです。 その暗示的衝動と云うのは外でもない、算哲の 事を、僕がスペードの王様(キング)と云った事なんです よ。然し、それ以前に、ディグスビイもーと 云った僕の一言が、端なくディグスピイの本体 を知らない貴女の心を捉えてしまったのです。 そして、無意識の裡に、指環を抜いてみたり嵌 めてみたり、またクルクル廻したりするよう な、徴候発作が貴女に現われて行きました。そ こで僕は、妙に心を唆るような間(パウ   )を置いたので す。その間(パウゼ)ですーそれは唯に演劇ばかりで,な く、殊に訊問に於いて必要なのですよ。ねえ久 我さん、犯人は台本作家ではある代りに、決し て一行のト書だって指定しやしません。その意 味で、捜査官と云うものは、何よりよき演出者 であらねばならないのです。いや、冗談は御勘 弁下さい。何より御詫びして置きたいのは、僕 は貴女の御許しを侯(ま)たずに、心像奥深くを探っ て閥入していったのですから……」 ・其処で、法水は新しい莫(たぱニ)を取り出して、その 誇るべき演出め描写を繰り拡げて行った.、 「然し、その間(っウゼ)は混沌たるものです。けれど も、その中には様々な心理現象が十字に群がっ ていて、まるで入道雲のように、ムクムク意識 面を浮動しているのです。その状態は、そこに 何か衝動さえ与えられれば、恐らく一溜りもな いほど脆弱(もろ)いものだったに違いありません。そ こで僕は、スペードの王様(キング)と云う言を出したの です。何故なら、精神全体を一つの有機体だと すれば、当然そこから、物理的に生起して来る ものがなければならぬからです。その非常に暗 示的な一言に依って、僕は何かしらの反応を期 待しました。すると、果して貴女は、僕の言葉 をハートの王様(キング)と云い直しました。まさにその ハートの王様(キング)です。僕はその時、狂乱に等しい 異常な啓示をうけたのでしたよ。然し、続いて 貴女には、二度目の衝動が現われて、突然度を 失い、思わず指環を小指に嵌め込んでしまった のです。どうして僕が、その時の、恐怖の色を 見遁しましょうかLと鋭く中途で言葉を裁ち切 りながら、法水の顔が傑然たるものに包まれて 行った。 「いや、僕の方こそ、もっともっと重苦しい恐 ,怖を覚えたのですよ。何故なら、骨牌(カルタ)札を見る と、その人物像はどれもこれも、上下の胴体が 左削ぎの斜に合わされていて、各ζに肝腎な心 臓の部分が、相手の美々しい袖無外套(クロ ク)の蔭に隠 れているからです。そして、そのーi画像から 失われた心臓が、右側の上端に、絵印となって 置かれているではありませんか。そうなると、 或は僕の思い過ぎかも知れませんが、その中で 輝いている凄惨な光をどうして看過(みの)がす訳に住 きましょうか、ああ、心臓(ヘヘヘ)は右(ヘヘ)に。ですから、 もし、ハートの王様(キング)と云う一言を、貴女の心像 が語る通りに解釈して、算哲博士を右側に心臓 を持った特異体質者だとすればです、或はそれ が、支離散滅を極めている不合理性の全部を、 この機会に一掃してしまう曙光ともなり得ま しょうL  この驚くべき推定は、嘗ての押鐘津多子を発 掘した事に続いで、実に事件中二回目の大芝居 だった。その超人的論理に魅了されて、検事も 熊城も、痒れたような顔になり、容易に言葉さ え出ないのだった。勿論そこには、一つの懸念 があった。けれども、続いて法水は例証を挙げ て、それに薄気味悪い生気を吹き込むのだっ た。 「所で、それがもし事実だとしたら、僕等は到 底平静ではいられなくなって来るのです。何故 なら、あの当時算哲博士は、左胸の左心室lI それも殆ど端れに当る部分を刺し貫いていたか らですが、余りに自殺の状況が顕著だったため に、その屍体に剖見を要求するまでには至らな かったのでした。そうなると第一の疑問は、左 肺の下葉部を貫いた所で、それが果して、即死 に価するものかどうか!と云う事です。その 証拠には、外科手術の比較的幼稚だった南亜戦 争当時でさえも、後送距離の短い場合は、その 殆ど全部が快癒しているのですからね、、り'、うそ う、その南亜戦争でしたが……」と法水は莫(たぱこ)の 端をグイと噛み締めて、声音を沈め寧ろ怖れに 近い色を淀べた。「所で、メーキンスが編纂し た『南亜戦争軍陣医学集録』と云う報告集があ るのですが、その中に、殆ど算哲の場合を髪髭 とする奇蹟が挙げられているのですよ。それ は、格闘中右胸上部に洋剣(サ ベル)を刺されたままに なっていた竜騎兵伍長が、それから六十時間後 に、棺中で蘇生したと云うのです。然し、編者 である名外科医のメーキソスは、それに次のよ うな見解を与えましたの1死因は、多分上大 静脈を洋剣(サヨベル)の背で圧迫したために、脈管が一時 挾窄されて、それが心臓への注血を激減させた に相違ない。然し、その欝血腫張している脈管 は、屍体の位置が異なったりする度に、胸血 液が流動するので、それがため、一種物理的な 影響をうけたのであろう。つまり、その作用と 云うのは、往々に屍体の心臓を蘇生させる事の ある、或る種の摩擦(カツサ ジ)に類したものだったと思わ れる。何故なら、元来心臓と云うものは理学的 臓器であり、また、ブラウソセガール教授の言 の如く、恐らく絶命している間でも、聴診や触 診では到底聴き取る事の出来ぬ、細微(ハすか)な鼓動が 続いていたピ相違ないのだから(把浬妹蝉敏暇げ瀞 師シオは、人体の心臓を開いてそれが尚鼓動を続けていたとい う数+例を報告している。即ち、心臓が尚充分な力を持ってい る事を証明するのであって、換言すれば、それは心動の完全な 停止を証明しないのである。勿諭その鼓動は、外部では聴えな い。)1とメーキソスはこう云う推断を下して いるのです。そうなると久我さん、僕はこの 疑心暗鬼を、一体どうすればいいのでしょう かL  と法水は、算哲の心臓の位置が異なっている 事から、死者の再生などと云うよりも、もっと もっと科学的諭拠の確かな、一つの懸念を濃厚 にするのだった。が、その時、心中で懐槍な黙 闘を続けていた鎮子に、突如必死の気配が閃め いた。飽くまで真実に対して良心的な彼女は、 恐怖も不安も何もかも押し切ってしまったの だった。 「ああ、何もかも申し上げましょう。如何にも 算哲様は、右に心臓を持った特異体質者で御座 いました。ですけれど、何より私には、算哲様 が自殺なされるのに、左肺を突いたと云う意志 が疑わしく思われるのです。それで、試しに私 は、屍体の皮下にアソモニア注射を致したので 御座いました。所が、それには明瞭りと、生体 特有の赤色が潭んで来るではありませんか。そ れに、何と云う怖ろしい事でしたろう。あの糸 が、埋葬した翌朝には切れていたので御座いま したわ。ですけれど、私には到底、算哲様の墓 砦を訪れる勇気は御座いませんでした」 「その糸と云うのは」検事が鋭く門い返した。 「それは、斯うなので御座います」鎮子は言下 に云い続けた。「実を申しますと、算哲様は非度 く早期の埋葬をお濯れになった方で、此の館の 建設当初にも、大規模の地下(クリプ)墓容(ト)をお作りに なった程で御座います。そして、それには秘か に、コルニツェ・カルニッ†(儒夕欝膨ソ)式 に似た、早期埋葬防止装置を設けて置いたので した。ですから、埋葬式の夜、私はまんじりと もせずに、あの電鈴の鳴るのをひたすら待ち佗 びて居りました。所が、その夜は何事もないの で、翌朝大雨の夜が明けるのを待って、念のた めに、裏庭の墓岩(う)を見に参りました。何故かと 申しますなら、あの周囲(ぐるり)にある七葉(とち)樹の茂みの 中には、電鈴を鳴らす開閉器(スイツチ)が隠されているか らで御座います。するとどうで御座いましたろ う。その開閉器(スイツチ)の間には、山雀(やまがら)の雛が挾まれて いて、把手を引く糸が切れて居りました。あ あ、あの糸はたしか、地下の棺中から引かれた に相違御座いません。それに棺のも、地上の カタ、τコ 棺寵の蓋も、内部から容易に開く事が出来る のですからL 「成程、そうしてみると」と法水は唾を嚥ん で、一寸気色ばんだような訊き方をした。「そ の事実を知っているのは、一体誰と誰ですか。 つまり、算暫の心臓の位置と、その早期埋葬防 止装置の所在を知っているのは?」 「それなら確実に、私と押鐘先生だけだと申し 上げる事が出来ますわ。ですから、伸子さんが 仰有ったーハートの王様(キング)云々の事は、屹度偶 然の暗合に過ぎまいと思われるのです」  そう云い終ると、俄かに鎮子は、まるで算哲 の報復を催れるような恐怖の色を潭べた。そし て、来た時とはまた、打って変った態度で、熊 城に身辺の警護を要求してから、室を出て行っ た。大雨の夜ーそれは、墓砦(ヨこう)から彷僅(さまよ)い出た 凡ゆる痕跡を消してしまうであろう。そして、 もし算哲が生存しているならは、事件を迷隊と させている、不可思議転倒の全部を、そのまま 現実実証の世界に移す事が出来るのだ。熊城は 昂奮したように、粗暴な叫び声を立てた。  「何でも、やれる事は全部やって見るんだ。サ ア法水君、令状があろうとなかろうと、今度は 算哲の墓砦(ぼこう)を発掘するんだ」 「いや、まだまだ、捜査の正統性(オヨソドキシイ)を疑うには、 早いと思うね」と法水はどうしたものか、浮か ぬ顔をして云い淀んだ。「だって、考えて見給 え。いま鎮子は、それを知っているのが、自分 と押鐘博士だけだと云ったっけね。そうする と、知らない筈のレヴェズが、どうして算哲以 外の人物に虹を向けて、しかも、あんな素晴ら しい効果を挙げたのだろう」 「虹η」検事は忌々しそうに咳いた。「ねえ法 水君、算哲の心臓異変を発見した君を、僕はア ダムスともルヴェリエとも思っている位だよ。 ねえ、そうじゃないか。この事件では、算哲が 海王星なんだぜ。第一あの星は、天空に種々不 合理なものを撒き散らして、そうした後に発見 されたのだからね」 「冗談じゃないcどうしてあの虹が、そんな蓋 然性に乏しいものなもんか。偶然か・-…それと も、レヴェズの美わしい夢想(イマ ジエ)だ。言を換えて云 えば、あの男の気高い古典語学精神なんだよ」 と相変らず法水は、奇矯に絶した言葉を弄すろ のだった。「所で支倉君、驚骸噴泉(ウォタ  サ プライ  も)の踏石の 上には、レヴェズの足跡が残っていたっけね。 }てれをまず、韻女として解釈する必要があるの だよ。最初は四つの踏石の中で、本館に沿うた 一つを踏んでいろ。それから、次にその向う側 の一つを、そして、最後が左右となって終って いる。けれども、その循環にある最奥の意義と 云うのは、僕等が看過していた五回目の一踏み にあったのだ。それが、最初踏んだ本館に沿う ている第一の石で、つまりレヴェズは、一巡し てから旧の基点に戻ったので、最初踏んだ石を 二度踏んだ事になるのだよL 「然し、結局それが、どう云う現象を起したの だね?」 「つまり、僕等には伸子の不在証明(アリパイ)を認めさせ た。また、現象的に云うと、それが、上空へ上っ た飛沫に対流を起させたのだよ。何故たら、1か ら4までの順序を考えると、一番最後に上った 飛沫の右側が最も高く、続いてそれ以下の順序 通りに、略(イまわま)ζ疑問符の形をなして低くなって行 くだろう。そこへ、五回目の飛沫が上ったのだ から、その気動に煽られて、それまで落ち樹っ ていた四つの飛沫が、再びその形の儘で上昇し て行くだろう。すると、当然最後の飛沫との間 に対流の関係が起らねばならない。それが、あ の微動もしない空気の中で、五回目の飛沫をふ わふわ動かして行ったのだ。つまり、そのーか ら4までのものと云うのは、最後に上った濠気 を或る一点に送り込む-詳しく云えば、それ に一つの方向を決定するために必要だったのだ よ」 「成程、それが虹を発生させた濠気か」検事は 爪を噛みながら頷いた。「如何にもその一事で、 伸子の不在証明(アリパイ)が裏書されるだろう。あの女 は、異様な気体が窓の中へ入り込んで行くのを 見たーと云ったからねL 「所が支倉君、その場所と云うのは、窓が開い ている部分ではないのだよ。あの当時桟を水平 にした儘で、鎧扉が半開きになっていたのを 知っているだろう。つまり、噴泉の濠気は、そ の桟の隙間から入り込んで行ったのだ」と法水 は几帳面に云い直したが、続いて彼は、その虹 に禍いされた唯一の人物を指摘した。「それで ないと、ああ云う強烈な色彩の虹が、決して現 われっこないのだからね。何故なら、空気中め 濠気を中心に生じたのではなく、桟の上に溜っ た露滴が因で発したからなんだ。つまり、問題 は、七色の背景をなすものにあった訳だが・… 然し、より以上の条伴と云うのが、その虹を見 る角度にあったのだ。言葉を換えて云えば、火 術弩(ど)が落ちていたーつまり、当時犯人がいた 位置の事なんだよ。しかも、あの隻眼の大女優 が……」 「なに、押鐘津多子η」熊城は度を失って叫ん だ。 「うん、虹の両脚の所には、黄金の壷があると 云うがね。恐らく、あの虹だけは捉える事が出 来るだろう。何故なら熊域君、大体虹には、視 半径約四十二度の所で、まず赤色が現われる。 勿論その位置と云うのが、恰度火術弩の落ちて いた場所に相当するのだ。また、その赤色をク リヴォフ夫人の赤毛に対称するとなると、如何 にも標準(ねらし)を狂わせるような、強烈な眩耀(ハレ シヨン)が想 像されて来る。けれども、近距離で見る虹は二 つに割れていて、しかも、その色は白ちゃけて 弱々しいLと法水は一端口を閉じたが、見る見 る得意気な薄笑が潭んで来て云った。「所が熊 城君、押鐘津多子だけには、決してそうではな いのだよ。何故かと云うのに、片眼で見る虹は 一つしかないからだ。それに、明暗の度が強い ために色彩が鮮烈で、側にある同色のものとの 判別が、全然付かなくなってしまうのだよ。あ あ、あの渡(ワンダ  )り鳥(フオ ゲル)-それは、まずレヴェズ の恋女となって、窓から飛び込んで来た。そし て、それが偶然クリヴォフ夫人の赤毛の頸を包 んで、籾それに依って標的を射損ずるような欠 陥のあるものと云えば、津多子を掴置いて、他 にはないのだよ」 「成程。然し、君はいま、虹の事をレヴェズの 恋文と云ったね?」検事が聴き答めて、自分の 耳を疑うような面持で訊ねたが、それに法水は 慨嘆するような態度で、彼特有の心理分析を述 べた。 「ああ支倉君、君はこの事件の暗い一面しか知 らないのだ。何故なら君は、あの赤毛のクリヴ ォフが宙吊りになる直前に、伸子が窓際に現わ れたのを忘れてしまったからだよ。だから、レ ヴェズはそれを見て伸子が武具室にいると思 い、それから噴泉の側で、あの男の理想の薔薇 を詠ったのだよ。所で君は、『ソロモソの雅歌』 の最終の章句を知っているかね。吾が愛するも のよ、請う急ぎ走れ。香ばしき山々の上にかか りて、鹿の如く、小鹿の如くあれーと。あの 神に対する憧憬を切々たる恋情中に含めている ーまさに世界最大の恋愛文章だが、それに は、愛する者の心を、虹になぞらえて詠ってい るのだ。あの七色ー1それはボードレールに依 れば、熱帯的な狂熱的な美しさとなり、またチ ヤイルドが詠うと、それから、旧教主義(カトリシズム)の荘重 な魂の熱望が生れて来るのだ。また、その拠物 線を近世の心理分析学者共は、滑斜櫨(トボガン)で斜面を 一滑走して行く時の心理に擬している、そして、 虹を恋愛心理の表象にしているのだよ。ねえ支 倉君、あの七色は、精妙な色彩画家のパレット じゃないか。また、ピアノの鍵(キイ)の一つ一つにも 相当するのだ。そして虹の拠物線は、その色彩(コロ) 法でもあり、旋律法、対位法であるのだ。何故 なら、動いて行く虹は、視半径二度宛(ずつ)の差で、 その視野に入って来る色を変えて行くからだ よ。つまり、レヴェズは、韻文の恋文を、虹に 擬(なぞら)えて伸子に送ったのだL  それに依ると、最初のうち法水は、レヴェズ が虹を作った事を、他の何者かを庇(かぱ)おうとする 騎士的行為と見倣していたらしかったが、更に 深く刎扶して行って、遂にそれが恋愛心理に帰 納されてしまうと、必然犯人がクリヴォフ夫人 を射損じた事を、偶然の出来事に帰してしまう より他にないのだった。然し、検事と熊城に は、その何れもが実証的なものでないだけに、 半信半疑と云うよりも、何故法水が虹などと云 う夢想的なものにこだわっていて、肝腎の算哲 の墓砦発掘を行わないのだろうーと、それが 何より焦( もどか)しく思われるのだった。殊に、レヴェ ズの恋愛心理が、後段に至って此の事件最後の 悲劇を惹起(じやつき)しようなどとは、てんで思いも及ば なかった事だろうし、また、法水が押鐘津多子 を犯人に擬した事にも、それ以外に或る重大な 暗示的観念が潜んでいようなどとは、勿論気付 く由もなかったのである。斯うして、一旦絶望 視された事件は、短時間の訊問中に再び新な起 伏を繰り返して行ったが、続いて、現象的に希 望の全部が掛けられている、大階段(ビハインド ステ)の裏(イアス)ーーを 調査する事になったーそれが五時三十分。 2 大階段(ビハインド ステ)の裏(イァス)に:  法水が十二宮(ゾ ディァツク)から引き出した解答-大階段(ピハィンド ) ステヘアス の裏には、その場所と符合するものに、二つの 小室があった。一つは、テレーズ人形の置いて ある室で、もう一つは、それに隣り合ってい て、内部は調度一つない空部屋になっていた。 法水はまず後者を択んで把手(ノツプ)に手を掛けたが、 それには鍵も下りていず、スウッと音もなく開 かれた。構造上窓が一つもないので、内部は漆 黒の闇である。そして、煤けた冷やかな空気が 触れて来る。所が、先に立った熊城が、懐中電 燈をかざしながら壁際を歩いているうちに、不 図何を聴いたものか、背後の検事が突然立ち 止った。彼は、何かしら傑然としたように息を 詰め、聴耳を立て始めたのであるが、やがて法 水に、幽な額えを帯びた声で囁いた。 「法水君、君はあれが聴えないかね。隣りの室 から、鈴を振るような音が聴えて来るんだ。凝 然(じしつ)と耳を済ましてい給え。そら、どうだ。ああ たしか、あれはテレーズ人形が歩いているんだ ……」  成程、検事の云う通り、熊城が踏む重い靴音 に交って、リリソリリソと幽(かすか)に顧えるような音 が伝わって来る。無生物である人形の歩みー まさに、魂の底までも凍て付けるような驚愕(おどろき) だった。然し、当然そうなると、人形の側にあ る何者かを想像しなくてはならない。そこで三 人は、嘗て覚えた事のない昂奮の絶頂にせり上 げられてしまった。最早躊曙する時機ではない ー熊城が狂暴な風を起して、把(ノツブ)手を引きちぎ らんばかりに引いた時、その時何と思ってか、 法水が突如けたたましい爆笑を上げた。 「ハハハハ支倉君、実は君の云う海王星が、こ の壁の中にあるのだよ。だって、あの星は最初 から既知数ではなかったのだからね。憶い出し 給え、古代時計室にあった人形時計.の扉(ドア)に、一 体何と云う細刻が記されていたか。四百年の昔 に、千(ちぢ)々石清左衛門(わせいざえもん)がフィリップニ世から拝領 したと云う梯状(クちヴイ チエン) 琴(パロ)は、その後所在を誰一人 知る者がなかったのだよ。多分あの音は、戴(たた)れ た絃が、震動で顧え鳴ったのだろうーー。最初 は、重い人形が隣室の壁際を歩んだ。そしてj 次は今の熊城君だ。つまり、大階段(ヒハインド スニ)の裏(イアス)ーの 解答というのは、この隣室との境にある壁の事 なんだよL  然し、その壁面には何処を探っても、隠し扉 が設けてあるような手掛りはなかった。そこで 止むなく巾その一部を破壊する事になった。熊 城は最初音響を確かめてから、それらしい部分 に手斧を振って、羽目(パネル)に叩き付けると、果して 其処からは、無数の絃が鳴り騒ぐような音が起 った。そして、木片が砕け飛び、その一枚を手 斧と共に引くと、羽目(パネル)の蔭からは冷えびえとし た空気が流れ出て来るー其処は、二つの壁面 に挾まれた空洞だった。その瞬間、悪鬼の秘密な 通路が闇の中から掴み取られそうな気がして、 三人の唾を嚥む音が合したように聴えた。打ち 下す音と共に、梯状琴(クラヴイ チエンパロ)の絃の音が、狂った 鳥のような凄惨な響を交える。それは、周囲の 羽目(パネル)を、熊城が破壊し始めたからだった。とこ ろが、やがてその一劃から挨塗(ほこりまみ)れになって抜け 出して来ると、彼は激しい呼吸の中途で大きな 溜息を吐き、法水に一冊の書物を手渡した。そ して、グッタリとした弱々しい声で云った。 「何もないーー隠し扉(ドア)も秘密階段も揚蓋もない んだ。僅った此の一冊だけが収穫だったのだ よ。ああ、こんなものが、十二宮秘密記法の解 答だなんて」  法水も、この衝撃からすぐに恢復する事は困 難だった。明かにそれは、二重に重錘(おもし)の加わっ た、失望を意味するのだから。では、何故かと 云うに、ディグスビイが設計者だったと云う事 から、殆ど疑う余地のなかった秘密通路の発見 に、まずまんまと失敗してしまったーそれ は、無論云う迄もない事である。けれども、そ れと同時に、事件の当初ダソネベルグ夫人が自 筆で示したところの、人形の犯行と云う仮定 を、僅かそれ一筋で繋ぎ止めていた顧音の所在 が明白になった。それなので、愈ζ明瞭(はつき)りと此 処で、あのプ戸ヴィンシャ人の物々しい鬼影(きえい)を 認めなければならなくなってしまったのだ。然 し、以前の室に戻ってその一冊を開くと、法水 は標然としたように身を辣めた。けれども、そ の眼には、まざまざと驚嘆の色が現われた。 「ああ、驚くべきじゃないか。これは、ホルバ インの『死(ト ニノン)の舞踏( タンツ)』なんだよ。しかも、もう稀 観に等しい一五三八年里昂(リオン)の初版なんだ」  それには、四十年後の今日に至って、黒死館に 起った陰惨な死の舞踊を予告するかのように、 明瞭りと"ティグスビイの最終の意志が示されて いた。その茶の檀皮で装禎された表紙を開くと、 裏側には、ジャソヌ・ド・ツーゼール夫人に捧 げたホルバイソの捧呈文(デジゲキシヨン)が記され、その次葉 に、ホルバイソの下図(デザイン)を木版に移したリユッ ツェンブルガーの、一五三〇年バーゼルに於け る制作を証明する一文が載せられていた。然 し、頁(ぺ ジ)を繰って行って、死神と屍骸で埋められ ている多くの版画を追うているうちに、法水の 眼は、不図或る一点に釘付けにされてしまった。 その左側の頁(ぺ ジ)には、大身槍を振った燭懐人が、 一人の騎士の胴体を芋刺しにしている図が描か れ、また、その右側のは、大勢の骸骨が長管劇(トロン) 夙(パ)や角笛(ホルン)を吹き筒太鼓(ケツトル ドラム)を鳴らしたりして、勝 利の乱舞に酔いしれている光景だった。ところ が、その上欄に、次のような英文が認(したた)められて あった、それはイソキの色の具合と云い、初め て見るディグスビイの自筆に相違なかったので ある。   .、Oεg一(クイ ンロ)〇∩一(ツク){9ぎ一(トインカイ)εぽ∞」の≦岩(ンスリユ ヨ ニ)≦三(ング)bσQ(イン)ヨ   斥β○→.π弓(ノツトネル)一=68㈹oN一甘一三(カラギヨスジヤイニス)ω什(ツ)ωロニ号(アンダ ニイ)=山の   げΦ一(ピロウ)〇ξ一5{の憎(インフエル)ロO.(ノ).  ー(訳文)。尻軽娘はカイソの輩(ともがら)の中に. 鎖じ込められ、猶太人(ジユウ)は難門の中にて嘲笑う。凶 鐘にて人形(伽申齢四撫川刷)を喚び覚ませ、蕪鷺宗 徒共(舳濾の)は地獄の底に横わらん。(剛翫灘ガ洲襯)  そして、次の一交が続いていた。それは文意 と云い、創世記に皮肉嘲説を浴びせているよう なものだった。  ー(訳交)。エホバ神は半陰陽(ふたなり)なりき。 初めに自らいとなみて、讐生児を生み給え り。最初に胎より出でしは、女にしてエヴと 名付け、次なるは男にしてアダムと名付けた り。然るに、アダムは陽に向う時、膀(ほぞ)より上は 陽に従いて背後に影をなせども、瞬より下は 陽に逆いて、前方に形を落せり。神、この不 思議を見ていたく驚き、アダムを畏れて自ら が子となし給いしも、エヴは常の人と異らざ れば碑(しもめ)となし、さてエヴといとなみしに、工 ヴ妊りて女児を生みて死せり、神、その女児 を下界に降して人の母となさしめ給いき。  法水は、それに一寸眼を通しただけだった が、検事と熊城は何時迄も捻(ひね)くっていて、暫く 数分のあいだ瞬めていた。然し、遂に詰らなそ うな手付で卓上に投げ出したけれども、流石支 中に籠っているディグスビイの呪咀の意志に は、碑芒(ほうぽう)と迫って来るものがあったのは事実 だった。  「成程、明白にディグスビイの告白だが、これ ほど怖ろしい毒念があるだろうか」検事は思い なし声を傑わせて、法水を見た。「たしか文中 にある乙女と云うのは、テレーズの事を指して 云うのだろう。すると、テレーズ・算哲・ディ `グスビイーとこの三角恋愛関係の帰結は、当 然、カインの輩(ヘヘヘヘヘヘ)の中(ヘヘ)に鎖(ヘヘ)じ込(ヘヘ)められーの一(ヘヘ)句 で瞭然たるものになってしまう。そして、ディ グスビイはまず、此の館に難問を提出し、そう してから、その錯綜(ジグザグ)の結び目の中で、嘲笑(せせらわら)っ ているのだ」と検事は神経的に指を絡み合わせ て、天井をふり仰いだ。  「ああ、その次は、凶鐘(ヘヘヘ)にて人形(ヘヘヘヘ)を喚(ヘち)び覚(ヘヘ)せ ーじゃないか。ねえ法水君、ディグ.スビイと 云う不可解な男は、此の館の東洋人共が、ゴロ ゴロ地獄の底へ転がり込んで行く光景さえ予知 していたのだよ。つまり、此の事件の生因は、 遠く四十年前にあったのだ。既にあの男は、その 時事件の役割を端役までも定めていたんだぜ」  ディグスビイの意志が怖ろしい呪咀である事 は、彼がそれを記すに、ホルバインの「死(ト テ ノ)の舞 踏( タンツ)」を用いただけでも明かであるが、それにも 況(ま)して怖ろしく思われたのは、彼が執拗に・も、 数段の秘密記法(クリプトメニツエ)を用意している事だった。それ を臆測すれば、恐らく何処かに驚くべき計画が 残されていて、それが醸(かも)し出して来る凶運を、 難解極まる秘密記法(クリプトメニツエ)にて覆い、人々がそれにあ ぐみ悩む有様を、秘かに横手で哩(わら)おうと云う魂 湘らしく思われるのだった。即ち、その秘密記(クリプトメニ) 法の深さは、此の事件の発展に正比例するので はないかi。然し、法水はその文中から、 ディグスビイにもあるまじい、幼稚な文法をさ え無視している点や、また、冠詞のない事も指 摘したのだったが、次の創世記めいた奇文に至 ると、その二つの文章が、聯関している所は勿 諭、凡てが、宛然霧に包まれたような観を呈し ているのだった。それから、押鐘博士に遺言書 の開封を依頼すべく、法水等は階下の広聞(サロン)に赴 いた。  広間(サロン)の中には、押鐘博士と旗太郎とが対坐し ていたが、一行を見ると立ち上って迎えた。医 学博士押鐘童吉は五十代に入った紳士で、薄い 半白の髪を縞麗に硫り、それに調和しているよ うな卵円形の輪郭で、また、顔の諸器官も相応 して、各ζに端正な整いを見せていた。総じ て、人道主義者(ヒュヨマニスト)特有の夢想に乏しい、そして、 豊かな抱擁力を思わせるものがあった。博士 は、法水を見ると慰勲に会釈して、彼の妻を死 の幽鎖から救ってくれた事に、何度も繰り返し て感謝の辞を述べた。然し、一同が座に着く と、まず博士が興なげな調子で切り出した。 「一体どうしたと云うんです、法水さん。いま に誰もかも、元素に還されてしまうのじゃない でしょうか。一体、犯人は誰ですかな。家内 は、その影像(フアントム)を見なかったと云ってますよ」 「左様、全く神秘的な事件です」と法水は伸ば した肢を縮めて、片肱を卓上に置いた。「です から、指紋が取れようが糸が切れていようが、 到底駄目なのです。要するに、あの底深い大観 を閲明(せんめい)せずには、事件の解決が不可能なのです       ヴィジター   ヴイジヨ六リー よ。つまり、臨検家が幻想家となる時機にです な」 「いや、元来儂(わし)は、そう云う哲学問答が不得手 でしてな」と警戒気味に、博士は眼を瞬いて法 水を見た。そして、「然し、貴方はいま、糸と 云われましたね。ハハハハ、それが何か令状と 関係がおありですかな。法水さん、儂(わし)はこの儘 で凝っと、法律の威力を傍観していたいです よ」と早くも遺言状の開封に、不同意らしい意 向を洩らすのだった。 「そりゃ云う迄もありません。家宅捜索令状な どは、何処にも持っちゃいませんよ。だが、一 人の辞職だけで済むものなら、多分僕等は法律 も破り兼ねないでしょう」と熊城は憎々し気に 博士を見据え異常な決意を示した。その俄かに 殺気立った空気の中で、法水は静かに云った。 「左様、正に一本の糸なんです。つまり、その 門題は、算哲博士を埋葬した当夜にあったので すよ。たしか貴方は、あの晩この館へお泊りに なられたでしょう。けれども、その時もしあの 糸が切れなかったらーそうだとすれば、今日 の事件は当然起らなかった筈です。ああ、あの 遺言書が……。そうなれば、算哲一代の精神的 遺物となる事が出来たでしょうに」  押鐘博士の顔が蒼ざめて見る見る白けて行っ たが、糸1の真相を知らない旗太郎は、不自 然な笑を作って、眩くように云った。 「ああ、僕は弩(ど)の弦(いと)の事をお話しかと思いまし たよ」  然し、博士は、法水の顔をまじまじと蹟(みつ)め て、突っかかるように訊ねた。 「どうも、仰有る言葉の意味が判然と嚥み込め ませんが、然し、結局あの遺言書の内容が、何 んだと云われるのです?」 「僕は、現在では白紙だと信じているのです」 と突然眼を険しくして、法水は実に以外な言を 吐いた。 「もう少し詳細に云いますと、その内容が、あ る時期に至って、白紙に変えられたのだー と」 「莫迦(ばか)な、何を云われるのです」と博士の驚惜 の色が、忽ち憎悪に変った。そして、恥もな く、見え透いた術策を弄しているかの相手を、 繁々瞳めていたが、不図心中に何やら閃いたら しく、静かに莫(たばこ)を置いて云った。 「それでは、遺言書を作成した当時の状況をお 聴かせして、貴方から、そう云う妄信を去らせ て貰いましょう。……その日はたしか、昨年の 三月十二日だったと思いますが、突然先主が儂(わし) を呼び付けたので何かと思うと、今日偶然思い 立ったので、此処で遺言書を作成すると申され たのでした。そして、儂(わし)と二人で書斎に入っ て、儂(わし)は隔った椅子の向うから、先主が頻りに 草案を認めているのを眺めて居りました。それ は、オクターヴォ判型の書簡紙に二枚程のもの でしたが、認め終ると、その上に金粉を撒い て、更に廻転封輪(シリンドリカル シ ル)で捺しました。多分貴方 は、あの方が一切を旧制度的(アニシヤンレジイム)に扱うのをーつ まり、その復古趣味を御存知でしょうな。所 で、それが済むと、その二葉を金庫の抽斗(ひきだし)の中 に蔵めて、当夜は室の内外に厳重な張番を立 て、その発表を翌日行う事になりました。所 が、翌朝になると、ズラリと家族を並べた前 で、先主は何と思ったか、いきなりその中の一 葉を破ってしまったのです。そして、そのズタ ズタに寸断したものに更に火をつけて、またそ の灰を粉々にして、それを遂(とニつとう)々、窓から雨の中 に投げ捨ててしまいました。その周到を極め た、如何にも再現されるのを濯れるような行為 を見ても、その内容が疑いもなく、異常に熾烈 な秘密だったに相違ありません。そして、残っ た一葉を厳封して、それを金庫の中に蔵め、死 後一年目に開くよう儂(わし)に申し渡されました。で すから、あの金庫は、未だ開く時機が到来して いないのですよ。法水さん、儂(わし)にはどうして も、故人の意志を欺くことが出来んのです。然 し詰るところ法律と云うものは、痴呆の羽風に 過ぎんのでしょう。どんなに秘密っぽい輪奥の 美があろうとも、あの無作法な風は、決して容 赦せんでしょうからな。よろしい、儂(わし)は貴方が たが為される儘に、何時まででも傍観しとりま しょうLと博士は勝ち誇ったように云い放った が、先刻から絶えず淀んでは消えていた不安の 色が、いきなり顔面一杯に拡がって来て、 「だが、貴方の云われた一言は、聴き捨てにな りませんぞ。いいですかな、作成した当夜は厳 重な監視で護られていたーそして、先主は焼 き捨てた残りの=架を金庫に蔵めたーその文 字合せの符号も鍵も」と云い掛けて、衣袋(ポケツト)から 符帳と鍵を突き出した。そして、それを粗暴な 手附でガチャリと卓上に置いた。「如何です法 水さん、機智(ウイツト)や瓢逸(ユヨモア)では、あの扉(ドア)は開けられん でしょうからな。それとも、熔鉄剤(っアル くツト)でしょう か。いやとにかく、貴方がああ云う奇言をお吐 きになるには、無論相当な論拠がおありの上で しょう」  法水は姻の輪を天井に吐いて、囎(うそぷ)くように 云った。 「いや、実に奇妙な事です。実際今日の僕は、 糸とか線とか云うものに非度(ひど)く運命付けられて いましてな。つまり、あの時もまた切れなかっ たと云う事が、遺言書の内容を失わせた原因だ と信じているのですよ」  法水の意中に潜んでいるものは、漠として判 らなかったけれども、それを聴いた博士は、総 身を感電したように戦かせて、何か或る一事の ため、法水は全く圧倒されてしまったように思 われた。そして、血の気の失せた顔を硬張らせ て、暫く黙念に耽っていたが、やがて立ち上が ると、悲壮な決意を浸べて云った。 「よろしい。貴方の誤信を解くためには止むを 得ん事です。儂(わし)は先主との約束を破って、今日 此処で遺言書を開きましょう」  それから、二人が戻って来る迄の間は、誰一 人声を発する者がなかった。それぞれの頭の中 では、各人各種の思念が渦のように巻き揺いで いた。検事と熊城には、事件の開展が期待さ れ、また、旗太郎はその開封に、何か自分の不 利を一挙に覆えすようなものを、待設けている かの如くであった。聞もなく、二人の姿が再び 現われて、法水の手に一葉の大型封筒が握られ ていた。ところが、環視の中で封を切り、内容 を一瞥すると同時に、法水の顔には痛々しい失 望の色が現われた。ああ、此処にもまた、希望 の一つが麟(か)け落ちてしまったのだった。それに は、一向に他奇もない、次の数項が認められて あるのみだった。   っ  一、遺産は、旗太郎並びにグレーテ・ダンネ ベルグ以下の四人に対し、均等に配分するもの とすc  二、尚、既に当館永守的な戒語であるー館 の地域以外への外出.恋愛・結婚。並びに、こ の一書の内容を口外したるものは、直ちにその 権利を剥奪(はくだつ)さるるものとす。但し、その失いた る部分は、それを按分に分割して、他に均露(きんてん)さ れるものなり。  以上は、口頭にても各ζに伝え置きたり。  旗太郎にも、同様落胆(がつかり)したらしい素振りが現 われたけれども、流石に少年の彼は、すぐに両 手を大きく拡げて喜悦の色を燃やせた。 「これですよ法水さん、辛(や)っとこれで、僕は自 由になる事が出来ました。実を云いますと僕 は、何処かの隅に穴を掘って、その中へ怒鳴ろ うかと思いましたよ。でも、考えてみると、も しそんな事をした日には、あの怖ろしいメフィ ストが、どうして容赦するものですか」  斯うして、遂に法水との賭に、抑鐘博士が 勝った。然し、内容を白紙と主張した法水の真 意は、決してそうではなかったらしい。勿論そ の一言は、博士を抑えた得体の知れない、計謀 には役立ったに相違ないが、恐らく内心では、 黙示図の知れない半葉を喘ぎ求めていたのであ ろう。そして、空しくこの刮目(かつもく)された一幕を、 終らねばならなかったに違いない。ところが、 不思議な事には、勝ち誇った筈の博士からは、 依然神経的なものが去らずに、妙に怯(おどおど)々した不 自然な声で云うのだった。 「これで漸と儂(わし)の責任が終りましたよ。然し、 蓋を明けても明けなくても、結論は既に明白で す。要するに門題は、均分率の増加にあるので すからな」  そこで、法水等は広間(サロン)を去る事にした。彼は 博士に対して、色々迷惑を掛けた事を頻りに詫 びてから室を出たが、それから階上を通りすが りに、何と思ってか、彼一人伸子の室に入って 行った。  伸子の室は、幾分ボソパズール風に偏した趣 味で、桃色(ピンク)の羽目(パネル)を金の葡萄蔦模様で縁取って いて、それは明るい感じのする書斎造だった。 そして、左側が細長く造られた書室に入る通 路、右側の結梗色した帷幕の蔭が、寝室になっ ていた。伸子は法水を見ると、宛(あたか)も予期してい たかのように、落着いて椅子を薦めた。 「もうそろそろ、お出でになる頃合だと思って いましたわ。屹度今度は、ダソネベルグ様の事 をお訊きになりたいのでしょう」 「いや決して、問題と云うのは、あの屍光にも 創紋にもないのですよ。勿論、青酸(シヤン)には適確な 中和剤がないのですから、貴女がダンネベルグ 夫人と同じレモナーデを飲んだにしても、強(あたが)ち それには、例題とする価値はないでしょう」と 法水は、彼女を安堵させるためにまず前提を置 いてから、「ところで、貴女はあの夜、神意審 問会の直前にダンネベルグ夫人と口論なさった そうですが」 「ええ、しましたとも。ですけど、それに就い ての疑念なら、却って私の方にある位ですわ。 私には、あの方が何故お怒りになったのか、て んで見当が附かないんですの。実は、斯うなの で御座いますLと仲子は躊(ため)らわず言下に答え て、一向に相手を窺視(きし)するような態度もなかっ た。「恰度晩食後一時間頃の事で、図書室に戻 さねばならないヵイゼルスベルヒの『聖(セント)ウルス ラ記』を、書棚の中から取り出そうとした際で 御座いました。突然路践(よろ)めいて、持ったその本 を、隅にある乾隆硝子(ガラス)の大花瓶に打ち当てて、 倒してしまったので御座います。所が、それか らが妙なんですわ。そりゃ非度い物音がしま七 たけれども、別にお叱りをうけると云う程の問 題でも御座いません。それなのに、ダソネベル グ様がすぐとお出でになって……で御座います もの。私には未だ以て、凡てが判然と嚥み込め ないような気が致して居ります」 「いや、夫人は多分貴女を叱ったのではないで しょうよ。怒り笑い嘆くーけれども、その対 照が相手の人間ではなく、自分がうけた感覚に 内問している。・そう云うように、意識が異様に 分裂したような状態ーそれは時偶(ときたま)、或る種の 変質者には現われるものですからね」と法水 は、伸子の肯定を期待するように、凝然(じいつ)と彼女 の顔を見守るのだった。 「ところが、事実は決して……」と伸子は真剣 な態度で、キッパリ否定してから、「まるであ の時のダンネベルグ様は、偏見と狂乱の怪物で しか御座いませんでした。それに、あの尼僧の ような性格を持った方が、声を傑わせ身悶えま でして、私の身を残酷にお洗い立てになるので した。馬具屋の娘……賎民(チゴイネル)ですって。それか ら、竜見川学園の保娠……それはまだしもで、  私は寄生木(やどりぎ)とまで罵られたのですわ。いいえ、 私だっても、どんなに心苦しい事か……。たと え算哲様生前の慈悲深い思召しがあったにして も、何時まで御用のない此の館に、御厄介に なって居ります事が、どんなにか……Lと娘ら しい悲哀が憤怒に代って行ったが、漸く涙に濡. れた頬の辺りが落着いて来て、「ですから、私 が未だに解し兼ねていると云う意味が、これ  で、すっかりお判りで御座いましょう。あの方 は私が粗相で立てた物音には、一向に触れよう  とはなさらなかったのですから」  「全く僕も、貴女の立場には同情しているんで す」と法水は慰めるような声で云ったが、心中 彼は何事かを期待しているらしく思われた。  「ところで貴女は、ダンネベルグ夫人がこの扉(ドア) を開いた際を御覧になりましたか。一体その 時へ貴女は何処にいましたね?」  「マア、貴方らしくもない。まるで、心理前派  の旧式探偵みたいですこと」と伸子は、法水の一 質門に魂消(たまげ)たような表情を見せたが、「ところ が、生憎(あいにく)とりてのとき室を空けて居りました。電 鈴(べモル)が壊れていたので、召使(パトラ )の室へ花瓶の後始末 を頼みに行っていたものですから。ところが、 戻って参りますと、ダソネベルグ様が寝室の中  にいらっしゃるでは御座いませんか」  「そうすると、以前から帷幕の蔭にいたのを、 知らなかったのでは」  「いいえ、多分私を探しに、寝室の中へお入り になったのだろうと思いますわ。その証拠に は、あの方の姿が、帷幕の隙間からチラと見え た時には、其処から少し右肩をお出しになって いて、その儘の形で暫く立っていらっしゃった のですから。そのうち側の椅子をお引き寄せに なって、やはりその、二つの帷幕の中間の所へ お掛けになりました。ねえいかが法水さん、私 の陳述の中には、どの一つにだって、算哲様を 始め黒死館の精霊主義(アミニ スム)が現われては居りません でしょうーだって、正直は最上の術策なりと 中しますもの」            ・ 「有難う。もうこれ以上、貴女にお訊ねする事 はありません。然し、一言御注意して置きます が、仮令(たとこ)この事件の動機が、館の遺産にあるに してもですよ、御自分の防衛と云う事には、充 分御注意なさった方がいいと思います。殊に、 家族の人達とは、余り繁々と接近なさらないよ うにー。何れ判るだろうと思いますが、それ が、此の際何よりの良策なんですからね」と意 味あり気な警告を残して、法水は仲子の室を 去った。然し、その出際に、彼は異様に熱の軍 もった眼で、扉(ドア)並びの右手の羽目(パネル)に視線を落し た。そこには、彼が入りしな既に発見した事で あったが、扉(ドア)から三尺程離れている所に、木理(もくめ) の側離片が突き出ていて、それに、鋤ずんだ衣 服の繊維らしいものが引っ掛っていたからだ。 ところで読者諸君は、ダンネベルグの着衣の右 肩に、一個所鉤裂きがあったのを記憶されるで あろうが、それにはまた、容易に解き得ない疑 義が潜んでいるのだった。何故なら、常態の様 様に想像される姿勢で入ったものなら、当然三 尺の距離を横に動いて、その剥離(ささくれ)片に右肩を触 れる道理がないからである。  それから法水は、暗い静かな廊下を一人で歩 いて行った。,その中途で、彼は立ち止って窓を 開け、外気の中へ大きく呼吸を吐いた。それ は、非常に深みのある静観だった。空の何処か に月があると見えて、薄すらした光が、展望塔 や城壁や、それを繁り覆うているかのように見. える、潤葉樹の樹々に降り注ぎ、まるで眼前一 帯が海の底のように蒼く淀んでいる。また、そ の大観を夜風が掃いて、それを波のように、南 の方へ拡げて行くのだった。そのうち、法水の 脳裡に不図閃いたものがあって、その観念が次 第に大きく成長して行った。そして、彼は依然 その場を離れないで、しかも、触れる吐息さえ 怖れるもののように、じいっと耳を凝らし始め たのだった。すると、それから十数分経って、 何処からかコトリコトリと歩む建音が響いて来 て、それが次第に、耳元から遠ざかって行くよ うに離れて行くと、法水の身体が漸く動き始 め、彼は二度伸子の室に入って行った。そし て、其処に二三分いたかと思うと、再び廊下に 現われて、今度は、その背面に当るレヴェズの 室の前に立った。然し、法水が扉(ドア)の把手(ノツプ)を引い た時に、果して彼の推測が適中していたのを 知った。何故なら、その瞬聞、みの憂欝な厭世 家めいたレヴェズの視線iそれには異様な情 熱が軍(こ)もり、まるで野獣のように、荒々しい吐 息を吐いて迫って来るのに打衝(ぷつか)ったからであ る。 第七篇 1 法水は遂に逸せり口 シャビエル上人の手が:  故意に、法水が音を押えて、扉(ドア)を開いた時 だった。その時レヴェズは、媛炉の袖にある睡 椅子に腰を下ろしていて、顔を両膝の間に落 し、その顧纈を両の拳で轟(ひし)と押えていた。りての グローマン風に分けた長い銀色をした頭髪(かみのけ)の下 には、狂暴な光に燃えて紅い煙(おき)を凝然と瞬(みつ)めて いる二つの眼があった。いつもなら、あの憂轡 な厭世家めいたレヴェズーいまその全身を、 嘗て見るを得なかった激情的なものが覆い包ん でいる。彼は絶えず、小びんの毛を掻き雀って は荒い吐息をつき、また、それにつれて刻み畳 まれた鐵が、ひくひくと顔一面に引っ痙(つ)れく ねって行くのだった。その妖怪めいた醜さー 到底そのような頭蓋骨の下には、平静とか調和 とか云うものが、存し得よう道理はないのであ る。たしか、レヴェズの心中には、何か一つの 狂的な愚(ひようち) 着(やく)があるに相違ない。そして、それ がこの中老紳士を、宛(ニた)がら獣のように喘ぎ狂わ せているらしく思われるのだった。  然し、法水を見ると、その眼から襖悩の影が 消えて、レヴェズは膝騰と山のように立ち上っ た。その変化には、まるで、別個のレヴェズ が現われたのではないかーと思われたほど鮮 かなものがあった。また、態度にも意外とか嫌 悪とか云うものがなくて、相変らず白っぽい霞 のかかったような、それでいて、その顔の見え ない方の側には、悪狡(がしこ)い片眼でも動いていそう な……と云う、何時も見る荘漠とした薄気味悪 さで、またそれには、法水の無作法を責めるよ うな、峻厳な素振りもないのであった。まった く、レヴェズの異風な性格には、女字通りの怪 物と云う以外に評し得ようもないであろう。  その室は、雷文様の浮彫にモスク風を加味し た面(ラスチ) 取(ツク ス) 作(タイル)りで、三つ並びの角張った稜(かど)が、 壁から天井まで並行な襲をなし、その多くの襲 が格子を組んでいる天井の中央からは、十三燭 形の古風な装飾灯(シヤンデリヤ)が下っていた。そして、妙に 妖怪めいた黄色っぽい光が、そこから床の調度 類に降り注がれているのだった。法水は叩(ノツク)しな かった事を鄭重に詫びてから、レヴェズと向き 合せの長椅子に腰を下した。すると、まずレ ヴェズの方で、老檜そうな空咳を一つしてから 切り出した。 「時に、先刻遺言書を開封なさったそうです な。すると、この室にお出でになったのも、儂(わし) にその内容を講釈なさろうと云うお積りで。ハ ハハハ、だが法水さん、たしかあれは莫迦(ぱか)気た 遊戯(ゲ ム)の筈で、いや今ですからお話しますがね。 実を云いますと、開封即ち遺言の実行なので す。つまり、あれには期限の到来を示す意味し かなくて、しかも、その内容は即刻実行されね ばならんのですよ」 「成程……。如何にもあの儘では、偏見は愚 か、錯覚さえも起す余地はありますまい。だ が、然しレヴニズさん、遂々あの遺言書以外 に、僕は動機の深淵を探り当てましたよ」と法 水は、微笑の中に妙に棘々しいものを隠して、 相手に向けた。「所で、それに就いて、是非に も貴方の御助力が必要になりましてな。実を云 うと、その底深い淵の中から、奇異(ふしぎ)な童謡が響 いて来るのを聴いたのでしたよ。ああ、あの童 謡1それは事実僕の幻聴ではなかったので す。勿論、それ自らは頗る非論理的なもので、 決して単独では測定を許されません。然し、そ の射影を追うて観察して行くうちに、偶然その 中から、一つの定数が発昆されたのでした。つ まりレヴェズさん、その値(ヴアリユ )を、貴方に決定し て頂きたいと思うのですが……」 「なに、奇異(ふしぎ)な童謡を17」と一旦は吃驚して、 媛炉の隈(おき)から法水の顔に視線を跳ね上げたが、 「ああ、判りましたとも法水さん、とにかく、 見え透いた芝居だけは、止めにして貰いますか な。なんで、貴方のような兇仔皿無比ーまるで ケックスホルム梛弾兵みたいな方が。唱うに事 欠いて惨めな牧歌(マドリガ レ)とは・…-。ハハハハ、無讐 の人よ!翼(こいねがわ)くは、威風堂(マエステフオルメンテ)々とあれ!」と 相手の策謀を見透かして、レヴェズは痛烈な皮 肉を放った。そして、早くも警戒の培壁を築い てしまったのである。然し、法水は微動もせぬ 白々しさで、愈ζ冷静の度を深めて行った。 「成程、僕の弾き出しが、幾分表情的(エスパショ ネ)に過ぎた かも知れません。然し、斯う云うと、或は僕の 浅学をお喧(わら)いになるでしょうが、事実僕は、未 だ以て『,瓢町卿』(針躰泄柵η揃畔"割}働諭貯り外) さえも読んでいないのですよ、ですから、御覧 の通りの開けっ放しで、勿論陥穽(わな)も計謀(たくらみ)もあ りっこないのです。いや、いっそこの際、事件 の帰趨(きすう)をお話して、御存知のない部分までお耳 に入れましょう。そして、その上で、更に御同 意を得るとしますかな」と肱を膝の上でずら し、相手を見据えたまま法水は上体を傾げた。 「で、それと云うのは、この事件の動機に、三 つの潮流があると云う事なのです」 「何ですと、動機に三つの潮流が・…:。いや、 たしかそれは一つの筈です。法水さん、貴方は 津多子を1遺産の配分に洩れた一人をお忘れ かな」 「いや、それは兎も角として、まずお聴き願い ましょう」と法水は相手を制して、最初ディグ スビイを挙げた。そして十二宮秘密記法の解読 に始めてホルバイソの「死(ト テン)の舞踏( タンツ)」を語り、そ れに記されている叩几咀の意志を述べてから、 「つまり、その門題は四十余年の昔、嘗て算哲 が外遊した当時の秘事だったのです。それに依 ると、算哲・ディグスビイ・テレーズとーこ の三人の聞に、狂わしい三角恋愛関係のあった 事が明かになります。そして、恐らくその結果、 ディグスビィは猶太(ユダヤ)人であるがために敗北した のでしょう。然し、その後になって、ディグス ピイに思いがけない機会が訪れたと云うのは、 つまり黒死館の建設なのですよ。ねえレヴェズ さん、一体ディグスビイは、敗北に酬ゆるに何 を以てした事でしょうか。その毒念一図の、酷 烈を極めた意志が形となったものは……。です から、そうなって、さしずめ想い起されて来る のが、過去三変死事件の内容でしょう。その何 れもに動機の不明だった点が、実に異様な示唆 を起して来るのです。また、建設後五年目に は、算哲が内部を改修しています。恐らくそれ と云うのも、ディグスビイの報復を、倶れた上 での処置ではなかったのでしょうか。然し、何 より骸(おどろ)かされるのは、ディグスビイが四十余年 後の今日を予言していて、あの奇女の中に、人 形の出現が記されている事なのです。ああ、あ のディグスビイの毒念が、未だ黒死館の何処か に残されているような気がしてならないじゃあ りませんかαしかも、確かそれは、人智を超絶 した不思議な化体に相違ないのです。いや、僕 はもっと極言しましょう。蘭貢(ラング ン)で投身したと云 うディグスビイの終焉にも、その真否を吟味せ ねばならぬ必要があるーとL 「ふむ、ディグスビイ……。あの方が事実もし 生きて居られるなら、恰度今年で八十になった 筈です。然し法水さん、貴方が童謡と云われた のは、つまりそれだけの事ですかな」とレヴェ ズは依然嘲侮的な態度を変えないのだった。然 し、法水は関わずに、冷然と次の項目に移っ た。 「云う迄もなく、ディグスビイの無稽な妄想と 僕の杞.憂とが、偶然一致したのかも知れませ ん。然し、次の算哲の件りになると、まず誰し も思い過しとは思わないものが、実に異様な生 気を帯びて来るのですよ。勿論、算哲が遺産の 配分に付いて採った処置は、明白な動機の一つ です。また、それには、旗太郎以下津多子に至 る五人の一族が、各自各様の理由を以て包含さ れているのです。然し、それ以外もう一つの不 審と云うのは、外でもない遺言書にある制裁の 条項でして、それが、実行上殆ど不可能だと思 われるからです。ねえレヴェズさん、仮令ば恋 愛と云うような心的なものは、それをどうして 立証するのでしょうね。ですから、そこに算哲 の不可解な意志が窺えるように思われて、つま り僕にとれば、開封が齎(もたら)した新しい疑惑と云っ ても差支えないのですよ。しかも、それは単独 に切り離されているのではなくて、どうやら一 纏(る)の脈絡が……。別に僕が、内在的動因と呼ん でいるのがあって、その二点の間を通っている ものがあると思われるのです。そこでレヴェズ さん、僕は思い切って露骨(あけすげ)に云いますがね。何 故、貴方がた四人の生地と身分とが、公録のも のと異っているのでしょうか。で、その一例を 挙げればクリヴォフ夫人ですが、表面あの方 は、コーカサス区地主の五女であると云われて いる。然し、その実猶太(ユダヤ)人ではないでしょう かL 「ウーム、一体それを、どうして知られたので す」とレヴェズは、思わず眼を瞭ったが、その 驚きはすぐに回復された。 「いや、それは多分、オリガさんだけの異例で しょうが」 「然し、一旦不幸な暗合が現われたからには、 それを飽く迄追及せねばなりません。のみなら ず、一方その事実と対照するものに、一族の特 異体質を暗示している屍様図があるのです。ま た、それを、四人の方が幼少の折、日本に連れ て来られたと云う事実に関聯させるとなると、 それからは明らさまに、算哲の異常な意図が透 し見えて来るのですよ」と法水は、そこで一寸 言葉を戴ち切ったが、一つ大きな呼吸をすると 云った。「所がレヴェズさん、ここに僕自身で すらが、事に依ったら自分の頭の調子が狂って いるのではないかと、思われるような事実があ るのです。と云うのは、これまで妄覚(もうかく)に過ぎな かった算哲生存説に、略(ユホま)ζ確実な推定が附いた 事なんですよ」 「アッ、何と云われる!」と瞬間レヴェズの全 身から、一斉に感覚が失せてしまった。その衝、 撃の強さは、瞼筋までも強直させた程で、レ ヴェズは、何やら訳の判らぬ事を、唖のように 喚き始めた。そうした後に、彼は何度となく問 い直して、漸く法水の説明で納得が行くと、全 身が熱病患者のように藻え始めた。そして、嘗 て何人にも見られなかった程の、恐怖と苦悩の 色に包まれてしまったのである。そのうちやが て、  「ああ、やはりそうだったのか。動(オグ)き始(ニ モ)め( )れ ば、決(ト アテンデ)して止( アハ ス)めようとはしまい」と低(オ マンチニメント)い捻るよ うな声で眩いたが、不図何に思い当ったもの か、レヴェズの眼が燗々と輝きだして「不思議 だ1何と云う驚いた暗合だろう。ああ算哲の 生存ー。たしか、この事件の初夜には、地下 の墓碧(ぽこう)から立ち上って来たに相違ないー。そ れが法水さん、まだ現われていない地精(コポルト ジ)よ、(ツヒ )い そしめーに、つまり、あの五(ミユ エン)芒星呪交の四番 目に当るのではないでしょうかな。成程、儂(わし)等 の眼には見えなかったでしょう。けれども、あ の札は既に水精以(ウニデイネ)前ーつまり、この恐怖悲劇 では、知らぬ間に序幕へ現われてしまったので すよ」と顔一面に絶望したような、笑いともつ かぬものが転げ廻るのだった。その興味あるレ ヴェズの解釈には、法水も率直に頷いたけれど も、彼は次第に言葉の調子を高めて云った。 「所がレヴェズさん、僕は遺言書と不可分の関 、係にある、もう一つの動機を発見したのでし た。それは、算哲が残した禁制の一つi恋愛 の心理なのです」 「なに、恋愛……」レヴェズは微かに戦いたけ れども、「いや、いつもの貴方なら、それを恋 愛的欲求(フエルリ プストザインヴオえレン)とでも云う所でしょうな」と相 手を憎々し気に見据えて云い返すのだった。}て れに、法水は冷笑を浸べて、 「成程……。でも、貴方のように恋愛的欲(フエルリ プストザインヴ) 求(オ レン)などと云うと、益ζその一語に、刑法的意 義が加わって来る訳ですな。然し、僕はその前 提とし.て、一言、算哲の生存と地精(コポルト)との関係ー ーに触れなければならないのです。如何にも、 その魔法的効果に至っては、絶大なものに違い ありますまい。ですがレヴェズさん、結局、僕 はそれが比例(プロポ シヨン)の問題ではないかと思うのです よ。貴方は、多分その符合を無限記号のように 解釈して、永劫悪霊の棲む涙の谷1と位に、 この事件を信じておられるでしょう。けれど も、僕はそれとは反対に、既に善良な護神(ゲニゥス)ー グレートヘンの手が、ファウスト博士に差し伸 べられているのを知っているのです。では、何 故かと云いますと、大体あの悪鬼の犠牲となら なかった人物が、もうあと何人残っていると思 いますね。ですから、あれ程の知性と洞察力を 具えている犯人なら、当然ここで、犯行の継続 に危険を感じなければならぬ道理でしょう。い や、そればかりではないのですよ。もう犯人に とっては、この上屍体の数を重ねて行かねばな らぬ理由はないのです。つまり、クリヴォフ夫 人の狙撃を最後にして、あの屍体蒐集癖が、縞 麗さっぱか消滅してしまったからなんですよ。 さて、此処でレヴェズさん、僕の採集した心理 標本を、一つお目にかける事にしましょう。つ まり、法心理学者のハソス・リーヒェルなど は、動機の考察は射影的(プコジエクチヴ)にーと云いますけれ ども、然し僕は、動機に就いても飽くまで測定的(メトリカル) です。そして、事件関係者全部の心像を、既に 隈なく探り尽したのでした。で、それ に依る と、犯人の根本とする目的は、ただ一途、ダン ネベルグ夫人にあったと言う事が出来ます。で すから、クリヴォフ夫人や易介の事件は、動機 を見当違いの遺産に向けさせようとしたり、或 はまた、それを作虐的(サデイスチツク)に思わせんがためなので したρ勿論、伸子の如きは、最も陰険兇悪を極 めた、つまり、あの悪鬼特有の擾乱策(じようらんさく)と云うの 外にないのですよ」と法水は始めて莫(たぱこ)を取り出 したが、声音に濃っている悪魔的な響だけは、 どうしても隠す事は出来なかった。続いて、彼 は驚くべき結論を述べた。「ですから、それが、 今日伸子に虹を送った心理であり、またそれ以 前には、貴方とダンネベルグ夫人との秘密な恋 愛関係なのでした」  ああ、レヴェズとダンネベルグとの関係1 それは、よし神なりとも知る由はなかったであ ろう。全くその瞬間、レヴェズは死人のように 蒼ざめてしまった。咽喉が衝動的に痙撃したと 見えて、声も容易に出ぬらしい。そして、頸筋 の靱帯を鞭縄のようにくねらせながら、まるで 彫像のよう、あらぬ方を瞬めているのだった。 それが、実に長い沈黙だった。窓越にハツラツ と噴泉の送(ほとぱし)る音が聞え、その飛沫が、星を跨 いで薄白く光っているのだ。事実、最初は法水 のよくやる手iと思い、十分警戒していたに も拘らず、遂に意表に絶した彼の透視が、その 培を乗り越えてしまった。そうして、勝敗の機 微を、この一挙に決定してしまったのだった。 やがて、レヴェズは力なく顔を上げたが、それ いのですからねLと何とはなしに不気味な口吻(こうふん) には・静かな諦めの色が灘んで劣。  を洩らして、ジリジリ迫って行くと、亘レ 「法水さん、僻は元来非幻想的な動物です。然 ヴェズは、総湯施鎌めて弱々しい嘆息を吐い し、大体貴方と言う方には、どうも遊戯的な衝 た。が、すぐ反瞳的な態度に出た。 動が多い。如何にも、虹を送った事だけは肯定  「ハハハハいし下らぬ放仔一口喰1めにして下さい。 しましょ、然し・僻は絶対に犯人ではない。法水さん、儂ならあの三叉箭が、裏庭の疏菜園 ダソネベルグ夫人との関係などは、実に驚くべ から轍㌦れたのだと云いますがなズ胸故なら、 き誹誇です」               今は蕪青の真盛りですよ。矢筈は蕪青、矢柄は 「いや、御安心下さい。これが二時間前ならば 葭1と云う鄙歌(ひなうた)を、多分貴方は御存知でしょ ともかく、現在では、あの禁制があっても既に うが」 無効です。何人と雛も、貴方の持ち分相続を妨  「左様、この事件でもそうです。蕪(かぷら)青は犯罪現 げる事は不可能なのですから。それより問題と 象、葭は動機なのです。レヴェズさん、その二 云うのは、あの虹と窓にあるのですが……」  つを兼ね具えたものと云えば、まず貴方以外に  するとレヴェズは困慮(こんぱい)の中にも悲愁な表情を はないのですよLと俄に酷烈な調子となって、 見せて云った。              法水の全身が、メラメラと立ち上る焔のような 「如何にも、あの当時伸子が窓際に見えたの ものに包まれてしまった。「勿論ダンネベルグ で、やはり武具室にいると思い、儂(わし)は虹を送り 夫人は他界の人ですし、伸子もそれを口に出す ました。然し、天空の虹は拠物線(パうポリツク)、露滴の水は 道理はありません。然し、事件の最初の夜、伸 ハイパーポリツク       ,           "ムプテイツク 讐曲線です。ですから、虹が楕円形でない限 子が花瓶を壊した際に、たしか貴方はあの室に り、伸子は儂(わし)の懐に飛び込んでは来ないのです お出でになりましたね」 よL                    レヴェズは思わず樗然として、肱掛を握った 「ですが、ここに奇妙な符合がありましてな。 片手が怪しくも藻え出した。 と云うのは、あの鬼箭ですが、それがクリヴォ 「それでは、儂(わし)が伸子に愛を求めたのを発見さ フ夫人を吊し上げて突進し、掬(さて)それから突き刺 れたために、持分を失うまいとして、グレーテ さった場所と云えば、やはり、あの同じ門でし さんを殺したのだーと。莫迦(ばか)な、それは貴方 た。つまり、貴方の虹も其処から入り込んで の自分勝手な好尚(このみ)だ。貴方は、歪んだ空想のた 行った-鎧扉の桟だったのです。ねえレヴェ めに、常軌を逸しとるのです」 ズさん、因果応報の理と言うものは、あなが  「所がレヴェズさん、その解式と云うのは、貴 も、復讐神(ネメシス)が定めた人澗の運命にばかりではな.方が再三打衝(ぷつか)って御存知の筈ですガね。そこ北(ドツホ ) あるは薔薇(ロ ゼン ジンデス)なりその辺( ウオパイ カイ)りに鳥(ン リ ド)の声( メ )は絶(ル フ)えて響(レ テツト)か ずーつまり、レナウの『秋(ヘルプス) の 心(ト ゲフユ ル)』の一節 なんですからLと法水は、静かな洗練された調 子で、彼の実証法を述べるのだった。 「所で、今となれば御気付でしょうが、僕は事 件の関係者を映す心像鏡として、実は詩を用い ました。そして、数多の象徴を打ち撒けて置い たのです。つまり、それに合した符号なり照応 なりを、徴候的に解釈して、それで心の奥底を 知ろうとしました。扱、あのレナウの詩です が、それを用いて、僕が一種の読心術に成功し たのです。と云うのは、心理学上の術語で聯想 分析と云って、それを、ライヘルト等の新派法 心理学者達は、予審判事の訊問中にも用いよー 1と勧告しているのです。何故なら、此処に次 のような、ミユンろターベルヒの心理実験があ るからで……。最初喧騒(タマルト)(→εきδと書いた 紙を被験者に示して、その直後、鉄路(寄一(レりル)一? o包(ロ ド))と耳元で.瞬くと、その紙片の文字の事を、 被験者は燧道(タンネル)と答えたと言うのですよ。つま り、吾々の聯想中に、他から有機的な力が働く と、そこに一種の錯覚が起らねばならないから です。けれども僕は、それに独自の解釈を加え て、その公式ーつまり、→`ヨ三(タマハト)什+"巴(プラスレイル)一3巴(ロ ド) ー12言(イコ ルタンネル)の一を逆に応用して、まずーを相手の心 像とし、その未知数を2と3とで描破(びようは)しようと 企てたのでした。そこでまず、そこにあるは薔薇(ドツハ ロ ゼンこソンテス) なりーと云った後で、貴方の述べる一句一句 を検討してみまし大。すると、賓方は僕の纐禽 窺うような態度になって、で薔薇乳香(ロ ゼン ヴアイヒウホラ) を焚いたのではー1と言われましたね。僕そこで、ズ キソと神経に衝き上げて来るものを感じたので す。何故なら、公教(カトリツク)でも猶太(ユダヤ)教でも、乳香には ボスウェリア種とテユリフェラの二種しかない からで、勿論混種の香料は宗儀上許されていな いからです。つまり、、薔薇乳香(ロ ゼン ヴアイヒうウホ)と言う一言 は、貴方の心中、奥深くに潜んでいるものが あって、その有機的な影響に、違いないと結論 するに至りました。明かにその一語は、何か一 つの真実を物語ろうとしています。然し、それ が何であるかは、つい今しがた伸子の留守中を 狙って、あの室を再び調査する迄は誰も知る術 もありませんでしたLと法水は徐(おもむ)ろに萸(たぱこ)に火を 点け、一息吸うと続けた。 扉 棚 棚 書 置位 の子申イ 書 室 寝 入口 花瓶● 「所でレヴェズさん、あの室の書室の中には、 両側に書棚が並んでいましたね。そして、伸子 が鎗娘(つまず)いて花瓶に打衝けたと云う『聖ウルスラ 記』は、入口の直ぐ脇にある、書棚の上段に あったのです。.然し、その書物は、それがため 重心を失うと云う程の重量ではありません。問 題は却って、それと隣り合っている、ハンス・ シェーソスペルガーの『予言(ヴアイスザゲン)の薫姻(ト ラウホ)』にあっ たのですよ。それを発見して僕は、その偶然の的 中に、思わず薄気味悪さを覚えた程でした。何       必アイスザゲント.ラウホ 故なら、その『予言の薫姻』(,幸Φ一ω8鴨己"㌣ 鋸9)には、恰度、・・ユソスターベルヒの実験 と、同一の解式が含まれているからです。→(タマ)〒 ヨ三什(ルトプラス)+力巴(レィル)一8巴(ロヨドィコ )Uε5ロの一(ルタンネル)の公式が、かっ きり、≦の一(ヴアイス)∞8σqgq"田岱(ザゲントラウホ)9+切(プうスロ ゼ)o∞9""o∞(ンイコ ルロ ゼ)- 9乏(ンヴァイ)Φ一〇ζ碧(ヒラウホ)9に適応されるからです。つま り、予言(ヴアイスザゲン)の薫姻(ト ラウホ)と云って、当時貴方の脳裡に浮 動していた一つの観念が、薔薇(ロ ゼン)に誘導され、そ こで、薔薇乳香(ロ ゼン ヴアイヒラゥホ)と云う一語となって意表面 に現われたのでした。斯うして、僕の聯想分析 は完成され、それと同時に、貴方がその一冊の 名を、絶えず脳裡から離せない理由を知る事が 出来たのです。何故なら、更にあの室の状況を 仔細に観察して行くと、伸子が花瓶を倒すまで の真相が明かになって、そこに、貴方の顔が現 われ出たからですよ」とまず彼が設(しつら)えた、狂言 の世界を語り終ってから、問題を伸子の動作に 移した。そして、法水独特の微妙な生理的解析 を述べるのだった。  「ですから、その『予言(ヴアスザゲン)の薫姻(ト ラウホ)』の存在が明瞭 になると、自然伸子の嘘が成立しなくなるので す。あの女は、蹟銀(つまず)いた拍子に『聖ウルスラ記』 を花瓶に当てて倒したと云いました。然し、そ の花瓶と云うのが入口の向う端にあるのですか ら、当時伸子の体位と花瓶の位置を考えると、 到底その局(シチユエ )  状(シヨン)は成立する道理がないので す。まず伸子が左利でない限りは、『聖ウルス ラ記』を右手から投げて頭上を越え、それを花 瓶に打衝けると云う事は、全然不可能だろうと 思われるのです。そこで僕は、エルブ点反射を 憶一出しました。それは、上縛を高く挙げると、 肩の鎖骨と脊柱との間に一団の筋肉が盛り上っ て来て、その頂点に上膳神経の一点が現われる のです。ですからもし、その一点に強い打撃を 加えると、その側の上騰部以下に激烈な反射運 動が起って、その瞬後には麻痒してしまうので すよ。いや、事実現場にも、エルブ反射を起す 一に恰好な条件が揃っていたのでして、恰度その 二冊のあった場所と云うのが、両手を挙げなけ れば届かぬ程の高さだったからです。所がレ ヴェズさん、そうして伸子の嘘を訂正して行く うちに、不図僕は、当時あの室に起った実相を 描き出す事が出来ました。と云うのは、仲子が  『聖ウルスラ記』を取り出そうとして、右手を 書棚の上段に差し伸べた際でした。その時、前 方の室の何処かで物音がしました。それで、伸 子は本を掴んだまま後方を振り向いて、背後に ある書棚の硝子(ガラス)扉を見たのです。その時彼女の 眼に、寝室から出て来た或る人物の姿が映った のでした。ですから、その吃驚(びつくり)した機みに、隣 り合った『予言(ヴアイスザゲン)の薫姻(ト ラウホ)』を動かしたのですか ら、あの千頁(ぺ ジ)に余る重い木表紙本が、伸子の右 肩に落ちたのです。そして、その咄嵯に・起った 激しい反射運動が因で、右手に持った『聖ウル スラ記』を、頭上越しに左手の花瓶に投げ付け たと云う訳なのですよ。ねえレヴェズさん、そ うなると、その『予言(ヴアイスザゲン)の薫姻(ト ラゥホ)』に依って、一つ の心的検証を行う事が出来るのです。即ち、そ の時寝室に潜んでいた人物に、一つの虚数を付 ける事が出来るのです。虚(イマジネリ )  ・数( ヴアリユ )-然し、 リーマソはそれに依って、空間の特質を、単な る三重(ドフイフアハ)に拡( アウス)がった大(ゲデキンテングソ)きさから救( セン)っているじゃあ りませんか。いや、僕は率直に云いましょう。 その時寝室から出た貴方は、物音を聴いて伸子 ーの側に行き、落ちていた『予言(ヴアイスザゲン)の薫姻(ト ラゥホ)』を旧 の位置に押し込んでやりました。そして、室か ら去って行く所をダンネベルグ夫人に認められ たので、それが、算哲の死後秘密の関係にあっ た夫人を激怒させたのでした。然し、一方持 分相続に関する禁制があるので、流石に夫人 も、それを明らさまには云い得なかったのです よ」  その間レヴェズは、拳を組んだ両手を膝の上 に置いたままで、凝然(ぎようぜん)と聴き入っていた。が、 相手の言葉が終ってからも、その静観的な表情 は変らなかった。彼は冷たく云い放った。 「成程、動機はそれで十分。然し、この際何よ り貴方に必要なのは、僅(た)った一つでも、完全な 刑法的意義です。つまり、今度は犯罪現象に、 貴方の閲明を要求したいのですよ。法水さん、 あの鎖の輪の何処に儂の顔を証明出来ますか な。如何にも儂(わし)には、あの『予言(ヴァイスザゲン)の薫姻(トニフウホ)』が 永世の記憶となるでしょう。また、虹を送って、 儂(わし)の心を伸子に知って貰おうとしました。だ が、到底それ丈けでは、儂(わし)とメフィストとの契 約(パクト)が……。いや、恐らくいまに儂(わし)は、貴方の街(ベダン) 学さに嘔吐を吐きかけるに至るでしょうL 「勿論ですレヴェズさん、然し貴方の詩作が、 混沌の中から僕に光を与えてくれました。実 は、この事件の終局(フイナヨレ)と云うのが、あの虹に現わ れている、ファウスト博士の総繊悔(ゲネラル パイヒテ)にあった のです。いや、率直に云いましょう。勿諭あの 七色は、詩でも観想でもなく、実は、兇悪無残 な焼刃の輝きだったのです。ねえレヴェズさ ん、貴方は、クリヴォフ夫人を、あの虹の濠気 に依って狙撃したのでしたね」と法水は突如凄 じい形相になって、狂ったような言葉を吐い た。その瞬間、レヴェズは化石したように硬く なってしまった。突然頭上に閃き落ちて来たも のは、恐らくレヴェズにとって、それまで想像. もつかぬほど意外なものであったに相違ない。 眩惑、驚樗-勿諭その一刹那に、レヴェズが 知性の凡てを失ってしまった事は云う迄もない のである。所が、そうして相手が自失した有様 に、寧ろ法水は、残忍な反応を感じたらしかっ た。彼は、手中の生餌を弄ぶような態度で、 悠(ゆ)ったりロを開いた。 「事実あの虹は、皮肉な嘲笑的な怪物でした よ。所で貴方は、東(オスツロ)ゴートの王テオドリ.ッヒを …-。あのラヴェンナ城塞の悲劇を御存知で しょうか」 「フム、最初射損じても、テオドリッヒには二 の矢に等しい短剣があったのです。だが然し だ、儂(わし)は、苦行者でも殉教者でもない。寧ろそ            わん う云う浄罪輪廻の思想は、儂にではなくファ ウスト博士に云って貰いたいものだ」とレヴェ ズが声を傑わせ、満面に憎悪の色を濃らした と云うのは、そのラヴェンナ城の悲劇に、クリ ヴォフ事件を髪髭とさせる場(シ ン)面があったから だ。 (註)紀元後四九三年三月、西羅馬の摂政オド   ワカルは、東ゴートの王テオドリッヒとの   戦いに敗れて、ラヴェンナの城に籠城し、   遂に和む乞うた。その和約の席上で、テオ   ドリッヒは家臣に命じ、ハイデクルッグの   弓でオドワカルを狙わせたのであったが、   弦が緩んでいて、目的を果せず、止むなく   剣を以って刺殺したのだった。 「然し、、あの虹の告げ口だけは、どうする事も 出来ません」と法水は更に急追を休めず、凄気 を讐眼に浸(うか)べて云い放った。「然し、貴方がオド ワカル殺しの故智を学ばれたのは、流石だった と思います。御承,知でしょうが、テオドリッヒの 用いた弓の弦と云うのは、棄葵木(ピクスカルパエ)の繊維で編ん だ、ハイデクルッ≦(此鶴イ鷺)からの、虜 獲 品だったですからね。所 そ 藁黄(ピクスカ)木(ルパエ)と云う植物繊維に 温度に依って組織が伸縮すると云 う特性があるのです。従って、寒冷の北独逸(ドイツ)か ら温暖の中部伊太利(イタリ )に来たために、さしも北方 蛮族の殺人具も、忽ちその怖るべき性能を失っ てしまったのでした。ですから、あの火術弩の 弦(つる)を見た時に、僕は、異様な予感に唆られまし た。そして、その牽萸木(ピクスカルパエ)の伸縮を、或は人工的 にも作り得るのではないかと思いました。ねえ レヴェズさん、あの当時、火術弩は壁に掲(かか)って いて、箭(や)を番えたまま、幾分弓形の方が上向き になっていました。そして、その高さも、恰度 僕等の乳辺だったのです。所が、此処で注意を 要するのは、それを支えている釘の位置なので す。それは、平頭のものが三本、そのうちの二  →釘の位置     →   釘の位置    に    分    部釘  い●    黒    の    弦 る塗をル一一フロク水抱 つは弦の撚り目へ、残りの一つは発射把手(ハンドル)の真 下で胴木を支えていたのです。勿論、その位置 で自動発射をさせるためには、約二十度ほど壁 と開きを作らねばなりません。つまり、その陰 険な技巧と云うのは、今も云った角度を作る事 と、それから、人手を籍らずに弓を絞り、更に また、この緊張を緩める事でした。で、それに 必要だったのが、嘗ては津多子を驚した抱水ク ロラールだったのですよLと法水は足を組み換 え、新しい萸(たぱこ)を取り出してから云い続けた。 「所で貴方は、工iテルや抱水クロラール水溶 液に、低温性があるのを1詳しく云うと、そ の触れている面の温度を奪ってしまうのを御存 知でしょうか。つまり此の場合は、弦を撚って ある嚢夷木(ピクスカルパエ)の繊維紐三本のうちで、そのうちの 一本に、抱水クロラールを塗抹して置くので す。ですから、そこへ噴泉から濠気が送られた ので、あの溶解し易い麻酔剤が寒冷な露滴とな り、それが、塗られた一本を次第に収縮させて 行ったのでした。勿論、その力が射手のように なって、弓を絞り始めた事は云うまでもありま せん。すると、それにつれて、他の収縮しない 二本との撚目(よりめ)がほぐれて行くので、それが拡が るだけ、弩の位置が下って行く訳でしょう。で すから、そうして落下して行く毎に、余計反動 の強い上方の撚(よ)り目が釘から外れるでしょうか ら、そこで、弩の上方が開き、またそれにつれ て、胴木の発射把手(ハンドル)の部分も横倒しになるの で、把手(ハンドル)が釘で押され、箭はそのまま開いた通 りの角度で発射されたのでしたよηそ.して、発 射の反動で、弩は床の上に落ちたのですが、収 縮した弦は、蒸発し切ると同時に旧通りになっ た事は云う迄もありますまい。然しレヴェズさ ん、元来その諸計(トリツク)の目的と云うのは、必ずし も、クリヴォフ夫人の生命を奪うのにはなかっ たのです。唯単に、貴方の不在証明(アリパイ)を一層強固 にすればいいのでしたからねL  その間レヴェズは、タラタラと膏汗を流し、 野獣のような血走った眼をして、法水の長広舌 に乗ずる隙もあらばと狙っていたが、遂にその 整然たる理論に圧せられてしまった。然し、そ うした絶望が彼を駆り立てて、レヴェズは立ち 上がると胸を拳で叩き、凄惨な形相をして、嘩(たけ) り始めた。 「法水さん。この事件の悪(べ ゼル)  霊(ガイスト)と云うのは、 取りも直さず貴方の事だ。然し、一言断って置 くが、貴方は舌を動かす前に、まず『マリエン バートの哀歌』でも読まれる事だな。いいか な、ここに、久遠の女性を求めようとする一人 があるとしよう。然し、その精神の諦観的な美 しさには、野心も反抗も憤怒も血気も、一切 が、堰を切ったように押し流されてしまうの だ。所が貴方は、それに漸施と所罰としか描こ うとしない。いや、そればかりではないので す。貴方の率いている狩猟の一隊が、今日いま 此処で、野卑な酷薄な本性を現わしたのだ。然 し射手は確か、獲物は動けず…-」 「成程、狩猟ですか……。だがレヴェズさん、 貴方は斯う云うミニョソを御存知でしょうか。 ーかの山と雲の桟道(かけじ)、螺馬は霧の中に道を求 め、 窟(いわあな)には年経し竜の族棲(たぐい)む---Lと法水が 意地悪るげな片笑を沃べたとき、入口の扉(にア)に、 夜風かとも思われる微かな衣摺れがさざめい た。そして、次第に廊下の彼方へ、薄れ消えて 行く唱声があった。   狩猟の一隊が野営を始めるとき   雲は下り、霧は谷を埋めて   夜と夕闇と一ときに至る  それは、擬う方ないセレナ夫人の声であっ た。然し、耳に入ると、レヴェズは喪心したよ うに、長椅子へ倒れかかったが、彼は辛うじて 踏み止まった。そして、頭をグイと反らして、 激しい呼吸をしながら、 「貴方は、何かの機会(チヤンス)に、一人の犠牲を条件 に、彼女を了解させたのですか。もう儂(わし)には、 この上釈明する気力もないのです。いっそ、護 欄{誌竈呈ドう。携堰(マイ ブラ)ソあ餓砦吃北(ツド ジヤツ) ら、いつか、その舌の根から聴く事があるで しょうから」と異(スピ ク)常な決意を浸べて、あろうこ とか、護衛を断るのだった。そして、一切の武 装を解いた裸身を、ファウスト博士の前に曝さ せる事を要求した。それに、法水はまた皮肉に も、応諾の旨を回答して、室を出た。いつも、 彼等が其処で策を練り、また訊問室に当ててい るダンネベルグの室では、検事と熊城が既に夜 食を終っていた。その卓上には、裏庭の靴跡を 造(つフ)型した二つの石膏型と、一足の套(オ パシユ) 靴(しス)が、置 かれてあった。そして、それがレヴェズの所有 品で、漸く裏階段下の、押入れから発見された 事が述べられた。がその頃には、押鐘博士は帰 邸していて、食事が済むと、今度は代り合っ て、法水が口を開いた。そして、レヴェズとの 対決願末を、赤いバルベラ酒の盃を重ねなが ら、語り終えると、 「成程、然し……」と一旦は頷いたが、熊城は 強い非難の色を潭べて云った。「君の粋物主義(デイレツタンテイズム) にも呆れたものさ。一体レヴェズの処置に躊(ため) らっているのは、どうしたと云う事なんだい。 考えても見給え。従来動機と犯罪現象とが、何 人にも喰い違っていて、その二つを兼ねて証明 された人物と云えば、嘗つて一人もなかったの だ。とにかく、序曲が済んだのなら、早速幕を 上げる事にして貰おう。成程、君が好んで使う 唱合戦も、或る意味では陶酔かも知れないが ね。然し、その前提に結論が必要な事だけは、 忘れないでいてくれ給え」 「冗談じゃない。どうしてレヴェズが犯人なも んか」と法水は道化た身振りをして、爆笑を上 げた。ああ、世紀児法水ー彼はあの告白悲劇 に、滑稽な動機変転を用意していたのであろう か。検事も熊城も、途端に嘲弄された事は覚っ たが、あれほど整然たる条理を思うと、彼の言 をそのまま信ずる事は出来なかった。続いて法 水は、その諸弁主義(マキアヴエリズム)の本性を暴露すると同時 に、今後レヴェズに課した、不思議な役割を明 かにした。 「如何にもレヴェズとダソネベルグ夫人との関 係は、真実に違いないのだ。然し、あの火術弩 の弦が藁葵木(ピクスカルパエ)なら、僕は前史植物学で、今世紀 最大の発見をした事になるのだよ。ねえ熊城 君、一七五三年にべーリソグ島の附近で、海牛 の最後の種類が屠殺されたんだ。だがあの寒帯 植物は、既にそれ以前に死滅しているんだぜ。 やはり、あの弩の弦は、一向変哲もない大麻で 作られたものなんだ。ハハハハ、あの象のよ うな鈍重な柱体(シリンダ )を、僕は錐体(コ ン)にしてやったんだ よ。つまり、レヴェズを新しい座標にして、こ の難事件に最後の展開を試みようとするんだ」 「ああ、気が狂ったのか。君はレヴェズを生餌 にして、ファウスト博士を引き出そうとするの か」とさしも沈着な検事も仰天して、飛び掛ら んばかりの気配を見せると、法水は一寸残忍そ うな微笑をして答えた。 「成程、道徳世界の守護神-支倉君! だが 実を云うと、僕がレヴェズに就いて最も櫻れて いるのは、決してファウスト博士の爪ではない のだ。実は、あの男の自殺の心理なんだよ。レ ヴェズは最後に、斯う云う文句を云ったのだ キ欝穿毒響書誉、W計、ぞ書 σ根が臼騨ぐ騨がみ♂†ザ'引がらーとね。 それが、如何にもレヴェズが演ずる、悲壮な時 代史劇(コスチユ ム プレイ)のようで、またあの性格俳優の見せ場 らしい、大芝居みたいにも思われるだろう。然 し、それは悲愁(トラウリツヒ)であるけれども、決して悲 壮(トラギツシユ)ではないのだcつまりその一句と云うのが、 『ルクレチア盗(レヨプ オヴ ルかリ ス)み』と言う沙(シエ ク) 翁(スピア)の劇詩の中に あって、羅馬(ロ マ)の佳人ルクレチアがタルキニウス のために辱しめをうけ、自殺を決意する場面に 現われているからなんだLと法水は心持臆した ような顔色になったが、その口の下から、眉を 上げ毅然と云い放ったものがあった。 「けれども支倉君、あの対決の中には、犯人に` とって到底避け難い危機が含まれているんだ。 事実僕が引っ組んだのは、レヴェズじゃないの だ。やはりファウスト博士だったのだよ。実を 云うと、僕はまだ事件に現われて来ない、五芒 星呪文の最後の一つ1地精(コポルト)の札の所在を知っ ているのだがね」 「なに、地精(コボルト)の紙片ロ」検事も熊城も、仰天せ んばかりに驚いてしまった。然し、法水の眉宇 間(ぴうかん)には、賭博とするには、余りに断定的なもの が現われていた。彼の棲槍な神経作用(ナ ヴアシズム)が、如何 なる誌計に依って、あの幽鬼の牙城に酷迫した のであろうか。その俄かに緊張した空気の中 で、法水は冷たくなった紅茶を暖り終ると語り 始めたが、それは、驚くべき心理分析だったの だ。 「所で、僕は"コールトンの仮説(セオリ )を剰霧して、そ れでレヴェズの心像を分析して見たのだ。と云 うのは、あの心理学者の名著-『人間能 力(インクワイアリ ゴイントウ ヒユ)の考察( マン フアカルテ)』の中(イ)に現われている事だが、 想像力の優れた人物になると、語や数字に共感 現象が起って、それに関聯した図式を、具体的 な明瞭な形で頭の中へ浸べる場合があるのだ。 例えば数字を云う場合に、時計の盤面が現われ る事など一例だが{-いまレヴェズの談話の中 に、それにもました、強烈な表現が現われたの だ。支倉君、あの男は伸子に愛を求めた結果に 就いて、斯う云う事を悲し気に云ったのだよ。 ー天空の虹は勉物線(パラポリツク)、露滴の虹は讐曲線(ハイパ ポリツ)、然(ク) しそれが楕円形(インプテイツク)でない限り、伸子は自分の懐に 飛び込んでは来ないーと。所が、その間レヴェ ズの眼に、微かな運動が起って、彼が幾何学的 な用語を口にする度毎、何となく宙に図式を描 いているような、動きが認められるのだった。- そこで僕は、その黙劇めいた心理表出に、一つ の息詰まるようた徴候を発見したのだよ。何故 なら拠物線(パラポリツク)》一と讐曲線(ハィパ ポリツク)'《を楕円形(イムプテイツク)《》に続 けると、その合したものが、目Oになるだろう からね。つまり、地精(丙(コポル)09=)の頭(ト)二字- 訳と○となんだよ。だから、僕は透さず、それ に暗示的な衝動を与えようとして、国09=の 丙Oを除いた残りの四字19宣(ポルト)に似た発音を 引き出そうとしたのだ。するとレヴェズは、三 叉箭の事を一(ポ )〇ζと云(ル)った。またそれに続い て、レヴェズが僕を椰楡するのに、あの箭が裏 の競菜園から放たれたのだと云って、その中に 蕪青(ル べ)(≡げΦ)の一語を、頻りと躍動させるの だったよ。そこで支倉君、偶然にも僕は、レ ヴェズの意識面を浮動している、異様な怪物を 発見したのだ。ああ、僕はステーリングじゃな いがね。心臓は一つの群(グル プ)であり、またそれに は自由可動性(フリモピリテイ)ありーと云ったのは至言だと思 うよ。何故なら、そのレヴェズの一語には、あ の男の心深くに秘められていた一つの観念が、 実に鮮かな分裂をして現われたからなんだ。い いかね支倉君、最初宍○と数型式(ナムバア フォムス)を活べて から、レヴェズは三叉箭の事をOoξと云(ポ ル)い、 心中地精(コポルト)を意識しているのを明かにした。ま た、それから蕪青(ル べ)と云う語を使ったのだが、そ れには重大な意義が潜んでいた。と云うのは、 地精(コポルト)に誘導されて、必ず聯想しなければならな い、一つの秘密がレヴェズの脳裡にあったから だ。で、試しに一つ、三叉箭(ボ ル)と蕪青(ル べ)とを合わせ て見給え。すると、格子底机(ボ ルドル べ)1。ああ、僕の 頭は狂っているのだろうか。実は、その机と云 うのが、伸子の室にあるのだがね」  地精(コボルト)の札-今や事件の終局が、その一点に かけられている。もし、法水の推断が真実であ るならば、あの溌刺たる娘は、ファウスト博士 に擬せられなければならない。それから、伸子 の室に行くまでの廊下が、三人にとると、どん なに長い事だったろうか。然し、法水は古代時 計室の前まで来ると、何を思ったか、不意に立 ち止った。そして、伸子の室の調査を私服に任 せて、押鐘津多子を呼ぶように命じた。 「冗談じゃない。津多子を鎖じ込めた女字盤 に、暗号でもあるのなら別だがね。然し、あの 女の訊問なら後でもいいだろう」と熊城は、不 同意らしい辛(いらいら)々した口調で云うのだった。ー 「いや、あの廻転琴(オルゴ ル)時計を見るのさ。実は、妙 な愚(ひようち) 着(やく)が一つあってね。それが、僕を狂気み たいにしているのだよ」とキッパリ云い切っ て、他の二人を面喰わせてしまった。法水の電 波楽器(マルテイノ)のような微妙な神経は、触れるものさえ あれば、立ち所に、類推の華弁となって開いて しまうのだ。それ故、一見無軌道のように見え ても、さて蓋が明けられると、それが有力な連 字符ともなり、或は、事件の前途に、全然未知 の輝かしい光が投射される場合が多いめであっ た。  そこへ、壁に手を支えながら、津多子夫人が 現われた。彼女は大正の中期-殊にメーテル リソクの象徴悲劇などで名を誕われただけあっ て、四十を一二越えていても、その情操の豊か さは、青磁色の眼隈に、肌を包んでいる陶器の ような光に、嘗て舞台に於けるメリサンドの面 影が髪髭となるのであった。しかも、夫押鐘博 士との精神生活が、彼女に諦観的な深さを加え た事も勿論であろう。然し、法水はこの典雅な 婦人に対して、壁頭から些かも仮借せず、峻烈 な態度に出た。  「所で、最初から斯んな事を申し上げるのは、 勿論無躾(ぷしつけ)至極な話でしょう。然し、この館の人 達の言を借りると、貴女の事を人形使いと呼ば なければならないのですよ。所が、その人形と 糸ですが、事件の壁頭には、それがテレーズの 人形にありました。そして、またその悪の源 は、永生輪廻の形で繰り返えされて行ったので す。ですから夫人、僕には、貴女に当時の状況 をお訊ねして、相変らず鬼談的( プ モニツシユ)な運命論を伺う 必要はないのですよ」  冒頭に津多子は、全然予期してもいなかった 言葉を聴いたので、そのすんなりした青白い身 体が、急に硬ばったようにも思われ、ゴクンと 音あらく唾を嚥み込んだ。法水は続けて、その 薄気味悪い追求を休(や)めなかった。 「勿論、貴女があの夕六時頃に、御夫君の博士 に電話を掛けられたと云う事も、また、その直 後奇怪至極にも、貴女の姿がお室から消えてし まったと云う事も、僕には既(とう)から判っているの ですからね」 「それでは、何をお訊ねになりたいのです。こ の古代時計室には、私が昏睡されて鎖じ込めら れていたのですわ。しかも、あの夜八時二十分 頃には、田郷さんが、この扉(ドア)の文字盤をお廻し になったと云うそうじゃありませんか」と顔面 を微かに怒張させて、津多子は稽ζ反抗気味に 問い返した。すると、法水は鉄柵扉(ドア)から背を放 して、凝然(じつ)と相手の顔を見入りながら、正に 狂ったのではないかと思われるような事を云い 放った。 「いや、僕の懸念と云うのは、決してこの扉(ドア)の 外ではなく、却っで内部にあったのですよ。貴 女は、中央にある廻転琴(オルゴ ル)附きの人形時計をー。 また、その童子人形の右手が、シャビエル上人 の遺物筐(シリケきよう)になっていて、報時の際に、 鐘(チャペル)を打 つ事も御存知でいらっしゃいましょう。所が、 あの夜九時になって、シャビエル上人(ヘヘヘヘヘヘヘヘ)の右手(ヘヘち)が 振り下されると、同時にこの鉄扉が、人手もな いのに開(ちヘヘヤヤ)かれたのでしたね(ヘヘ へちヘヘ)」 2 光と色と音1それが闇に 没し去ったとき  ああ、シャビエル上人の手! それがこの、 ニ重の鍵に鎖された扉(ドア)を開いたとは……。事 実、法水の透視神経が微妙な放出を続けて、築き 上げた高塔がこれだったのか。然し、検事も熊 城も、痺れたような顔になって容易に言葉も出 なかった。と云うのは、これが果して法水の神 技であるにしても、到底その儘を鵜呑みに出来 なかったほど1寧ろ狂気に近い仮説だったか らである。津多子はそれを聴くと、眩最(めまい)を感じ たように倒れかかって、辛くも鉄柵扉(ドア)で支えら れた。が、その顔は死人のように蒼白く、彼女 は、絶え入らんばかりに呼吸(いき)せきつつ、眼を伏 せてしまった。法水はさもしてやったりと云う 風に、会心の笑を涯べて、 「ですから夫人、あの夜の貴女は、妙に糸とか 線とか云うものに運命附けられていたのです よ。然し、その方法となると、相変らず一年一 日の如くで…-・。いやとにかく、僕の考えてい る事を実験してみますかな」  それから、符表と文字盤を覆うている、鉄製 の函を開く鍵を、真斎から借りて、まず鉄函を 開き、それから文字盤を、右に左にまた右に合 わせると、扉(ドア)が開かれた。すると、扉(ドア)の裏側に は、背面が露出している羅針儀式(マリナ ス コンパス)の機械装置 が現われたが、それに法水は、表面では文字盤 の周囲に当る、飾り突起に糸を捲き付け、その 一端を固定させた。 「所で、この羅針儀式(マリナ ス コンパス)の特性が、貴女の詫計 に最も重大な要素をなしているのです。と云う のは、この合わせ女字を、閉じる時の方向と逆 に辿って行くと、三回の操作で閂が開く。ま た、それを反対に行うと掛金が閂孔の中に入っ てしまうのですからね。つまり、開く時の基点 は閉ざす時の終点であり、また、閉じる時の基 点は開く時の終点に相当する訳なのです。です から、実行は至極単純で、要するに、その左右 廻転を恰好に記録するものがあって、またそれ に、交字盤の方へ逆に及ぽす力さえあれば-:-。 そうすれば、理論上鎖された閂が開くと云う事 になりましょう。勿論内部からでは、あの鉄函 の鍵は問題ではないのですよ。で、その記録筒 と云うのが、何あろう、あの廻転琴(オルゴ ル)なのでし た」  と法水は、糸を人形時計の方へ引いて行っ て、観音開きを開き、その音色を弾く廻転筒 を、報時装置に続いている引っ掛けから外し. た。そして、その円筒に無数と植え付けられて いる棘の一つに、糸の一端を結び付けて、それ をピイソと張らせ、さてそうしてから検事に 云った。 「支倉君、君は外から文字盤を廻して、この符 表通りに扉(ドア)を閉めてくれ給え」  すると、検事の手に依って文字盤が廻転して 行くにつれで.、廻転琴(オルゴ ん)の筒が廻り始めた。そし て、右転から左転に移る所には、その切り返し が他の棘に引っ掛って、三回の操作が、そうし て見事に記録されたのである。それが終ると、 法水はその筒に、旧通り報時装置の引っ掛けを 連続させた。それが、恰度八時に二十秒ほど前 であった。機械部に連(つらな)った廻転筒は、ジイッと 弾条(ぜんまい)の響を立てて、今行ったとは反対の方向に 廻り始める。その時片唾を嚥んで見守っていた 一同の眼に、明かな骸きの色が現われた。何故 なら、その廻転につれて、交字盤が、左転右転 を鮮かに繰り返して行くではないか。そうして いるうちに、ジジイッと、機械部の弾条(ぜんまい)が物襯 げな音を立てると同時に、塔上の童子人形が右 手を振り上げた。そして、カアンと鐘(チヤペル)に撞木 が当る、とその時まさしく扉(ドア)の方角で、秒刻の 音に入り混ざって明瞭(はつきり)と聴き取れたものがあっ た。ああ、再び扉(ドア)が開かれたのだった。一同は フウと溜めていた息を吐き出したが、熊城は舌 なめずりをして、法水の側に歩み寄った。 「なんて、君と云う人物は、不思議な男だろ う」  然し法水は、それには見向きもせずに、既に 観念の色を浸べている津多子の方を向いて、 「ねえ夫人、つまり、この詫計の発因と云うの が、博士にかけられた貴女の電話にあったので すよ。然し、それを僕に濃く匂わせたのは、現 に抱水クロラールを嚥まされているにも拘ら ず、貴女が、実に不可解な防温手段を施されて いたと云う事なんです。あの、まるで木乃伊の ように、毛布をグルグル捲き付けられていなげ れば、恐らく貴女は、数時間のうちに凍死して いたでしょう。麻酔剤を嚥ませた、然し、殺害 の意志がないー。そう云う解し切れない矛盾 が、僕の懸念を濃厚にしたのでした。所で夫 人、あの夜貴女がこの扉(ドア)を開かれて、さてそれ から何処へ行かれたものか、当ててみましょう か。一体、薬物室の酸化鉛の瓶の中には、何が あったでしょう。あの槌せ易い薬物の色を、依 然鮮かに保たせていたのは……L 「ですけど」津多子はすっかり落ち着いてい て、静かな重味のある声音で云った。「あの薬 物室の扉(ドア)が、私が参りましたときには、既に開 かれて居りました。それに、抱水クロラールに も、その以前に手を付けたらしい形跡が残って いたのですわ。もう申し上げる必要は御座いま せんでしょうが、あの酸化鉛の爆の中には、容 器に蔵(おさ)めた二瓦(グうム)のラジウムが隠されてあったの です。それを私は、予て伯父から聴いて居りま したので、押鐘の病院経営を救うために、或る 重大な決意を致さねばなりませんでした。そし て、一月ほど前から、この館を離れずにll。 ああ、その間、私には凡ゆる意味での、視線が 注がれました。然し、それさえもじっと耐え て、私は絶えず、実行の機会を狙っていたので 御座います。ですから、私がこの室で試みまし た一切のものは、無論愚かな防衛策なので御座 います。もしも、ラジウムの紛失が気付かれた 際に、その場合架空の犯人を、一人作る積り だったのでした。どうか法水さん、あのラジウ ムをお取り戻しなすって1先刻押鐘が持ち帰 りましたのですから。けれども、この点だけは 断言致しますわ。如何にも、私は盗んだに相違 ないのですが、然し、私の犯行と同時に起った 殺人事件には、絶対関係が御座いませんのです からL  津多子夫人の告白を聴いて、法水は暫く黙考 していたが、ただもう暫く、この館に止るよう 命じたのみで、そのまま彼女を戻してしまっ た。それに、熊城が不服らしい素振りを見せる と、法水は静かに云った。 「成程、あの津多子という女は時間的に頗る不 幸な暗合を持っている。けれども、ダンネベル グ事件以外には、あの女の顔が何処にも現われ てはいないのだよ。然し熊城君、実を云うと、 あの電話一つに、もっともっと深い疑義がある のではないかと思うよ。とにかく、久我鎮子の 身分と押鐘博士を、至急洗い上げるように命じ てくれ給え」  そこへ、法水の予測が的中したと云う報知 が、私服から齋(もたら)されて、果せるかな地精(コポルト)の札 が、伸子の室にある格子底机(ポ ルド ル ぺ)の抽斗から発見さ れたのだった。そこで法水等は、伸子を引き立 てて来たと云う、旧の室に戻る事になった。扉(ドア) を開くと、鳴咽の声が聞える。伸子は、両手で 覆うた顔を卓上に伏せて、頻りと肩を顧わせて いた。熊城は、毒々しい口調を、彼女の背後か ら吐きかけるのだった。 「君の名が点鬼簿から消されていたのも、僅か 四時間だけの間さ。だが、今度は虹も出ない し、君も踊る訳には往かんだろう」 「いいえ」と伸子は、キッと顔を振り向けた が、満面には滴らんばかりの膏汗だった。「あ の札は何時の間にか、抽斗の中に突っ込まれて あったのですわ。私は、それをレヴェズ様にだ けお話し致しました。ですから屹度あの方が、 それを貴方がたに密告したに相違御座いません わ」 「いや、あのレヴェズと云う人物には、今どき 珍らしい騎士的精神があるのですよ」と静かに 云いながら、法水は怪誘そうに相手の顔を瞬め ていたが、「然し、本当の事を云うんですよ。 伸子さん、あの札は一体誰が書いたのですか」 「私、存-存じません」と伸子は、救いを求 めるような視線を法水の顔に向.けたが、その 時、彼女の発汗が益ζ甚しくなって、舌が異様 にもつれハ正確に発音する事さえ出来なくなっ てしまった。その1犯人伸子の窮境には、思 わず熊城を微笑ましめたものがあった。所が、 法水は宛(さな)がら冷静そのもののような態度で、や や暫し、伸子の額に視線を降り注ぎ、顧額に脈 打っている、縄のような血管を瞭めていた。 が、不図額の汗を指で掬(すく)い取ると、彼の眉がピ ソと跳上って、 「こりゃいかん。解毒剤をすぐ!」と、この状 況に予想もし得ない意外な言葉を吐いた。4し て、咄嵯の逆転に何が何やら判らず、ひたすら 狼狽し切っている熊城等を追い立てて、伸子の 身体を槍憧(そうこう)と運び出させてしまった。 「あの発汗を見ると、多分ピロカルピソの中毒 だろうよ」と暫時こまねいていた腕を解いて、 法水は検事を見た。が、その顔には、まざまざ と恐怖の色が活んでいた。「とにかく、あの女 が、地精(コボルト)の札を僕等が発見したのを、知る気遣 いはないのだから、勿諭自殺の目的で嚥んだの ではない。いや、たしかに嚥まされたんだよ。 それも、決して殺す積りではなく、あの迷濠状 態を僕等の心理に向けて、伸子に三度目の不運 を翼(もたら)そうとしたに違いないのだ。ねえ支倉君、 それが三段論法の前捉となるのかも知らずに、 或るものを非論理的だと断ずる事は出来まい。 すると、伸子とピロカルピンーつまりその前 提としてだ。まず、壁を抜き床を透かしてま で、僕等の帷幕の内容を知り得る方法がなけ りゃならん訳だ。ああ、実に恐ろしい事じゃな いか。先刻この室で交した会話が、ファゥスト 博士には既に筒抜けなんだぜ」  事実全く、この事件の犯人には、仮象を実在 に強制する、不可思議な力があるのかも知れな い。熊城は、最早我慢がならないように息を呑 んだが、 「然し、今日の伸子には、感謝してもいいだろ うと思うよ。実は、先刻僕の部下が、伸子の室 を捜(さぐ)っている間に、あの女は、クリヴォフの室 でお茶を飲んでいたのだ。所が、その席上に居 合せた人物と云うのが、動機の五芒星円(ペンタゲラムマ)から、 しっくりと離れられない連中ばかりなんだ。ど うだ法水君、日く最初が旗太郎さ。それからレ ヴェズ、セレナ…-・。あの頭中繍帯しているク リヴォフだっても、その時は寝台の上に起き 上っていたと云うんだからねLと熊城が吐いた 内容には、この場合、誰しも打たれずにはいら れなかったであろう。何故なら、それに依っ て、犯人の範囲が明確に限定されて、従来の紛 糾混乱が、一斉に統一された観がしたからだっ た。そこへ、検事が頗る思い付きな提議をし た。 「所で僕は、これが唯一の機会(チヤンス)だと思うのだ よ。つまり、犯人がピロカルピンを手に入れた ーその経路を明瞭させる事なんだ。もし、そ れが津多子ならば、十分押鐘博士を通じてf と云う事も云えるだろう。けれども、それ以外 の人物だとすると、まずその出所が、この館の 薬物室以外には想像されないと思うのだがね。 だから法水君、僕はホッブスじゃないが、もう 一度薬物室を調べてみたら、或は犯人の戦(ステ ト) 闘 状態( オヴ フオア)が判りゃしないかと思うんだ」  この検事の提議に依って、再び薬物室の調査 が開始された。然し、其処にはピロカルピソの 薬爆はあっても、それには何処ぞと云って、手 を付けたらしい形跡はなかった。従って、減量 は云う迄もない事だが、何より最初から、一度 も使った事がないと見えて、全体が厚い埃を 冠っていた。そして、薬品棚の奥深くに埋もれ ているのだった。法水は一旦失望の色を淀べた けれども、突然彼に、萸(たぱこ)を捨てさせてまで叫ば せたものがあった。「そうだ支倉君、余り郡の 署名(サイン)が鮮かだったものだから、それに眼が眩ん で、僕は些細な事までもうっかりしていたよ。 強(あなが)ちピロカルピソの所在は、この薬物室のみに 限らんのだ。元来あの成分と云うのが、ヤポラ ソジイの葉の中に含まれているんだからね。サ ア、これから温室へ行こう。もしかしたら、最 近其処へ出入した人物の名が、判るかも知れな いから……」  法水が目指したところの温室と云うのは、裏 庭の疏菜園の後方にあって、その側には、動物 小屋と鳥禽舎とが列んでいた。扉(ドア)を開くと、噴(むつ) とするような暖気が襲って来て、それは熱に熟 れた、様々な花粉の香りがー妙に官能を唆る ような、一種名状しようのない媚臭で、鼻孔を 塞いで来るのだった。入口には、如何にも前史 的なヤニ羊歯(しだ)が二基あって、その大きな垂葉を 潜って凝固土(たたき)の上に下りると、前面には、熱帯 植物特有のーたっぷり樹液でも含んでいそう な青黒い葉が、重たそうに繁り冠さり合い、そ の葉蔭の所々に、嚥脂や藤紫の斑(まだらさ)が点綴されて いた。然し、間もなく灯の中へ、一寸馬蓼(いぬたで)に似 た、見なれない形の葉が現われて、それを法水 はヤポランジイだと云った。所が、調査の結果 は、果して彼が云うが如く、その茎には六個所 ほど、最近に葉をもぎ取ったらしい疵跡が残さ れていた。すると、法水は眉間を狭めて、見る 見るその顔に危倶の色が波打って来た。 「ねえ支倉君、六引く一は五だろう。その五に は毒殺的効果があるのだよ。然し、いまの伸子 の場合には、六枚の葉全部が必要ではなかった のだ。つまり、十分○・〇一位を含んでいる一 枚だけで、あの程度の発汗と発音の不正確を起 す事が出来るのだからね。すると、犯人が未だ 握っている筈の五枚。1その残りに、僕は犯 人の戦闘状態(ステ ト オヴ ウオア)を見たような気がするのだよ」 「ああ、何と云う怖ろしい奴だろう」と神経的 な瞬きをして、熊城も心持頭えを帯びた声で 云った。 「僕は毒物と云うものの使途に、これまで陰険 なものがあろうとは思わなかったよ。どうし て、あの冷血無比なファウスト博士でなけりゃ、 残忍にも、これほど酷烈な転嫁手段を編み出せ るもんか」  検事は側を振り向いて、一行を案内した園芸 師に訊ねた。 「最近に誰か、この温室に出入りした者があっ たかね」 「い、いいえ、この一月ばかりは誰方も……」 とその老人は、眼を騨(みは)って吃ったが、検事を満 足させるような回答を与えなかった。それに法 水は、押し付けるような無気味な声音で追求し た。 「オイ、本当の事を云うんだ。広間(サロン)にある藤(デンドロ)  花(ピウム テイルシ)  蘭(フロルム)の色合せは、ありゃ、たしか君の 芸じゃあるまいね」  この専門的な質問は、直ちに驚くべき効果を 齋らした。まるで老園芸師は、宛かもそれ自身 が弓の弦(つる)ででもあるかのように、法水の一打で 思わず口にしてしまったものがあった。 「然し、傭人と云う私の立場も、十分お察し願 いたいと思いまして」と訴えるような眼で、憐 欄(あわれみ)を乞うような前提を置いてから、怯ず怯ず二 人の名を挙げた。「最初は、あの怖ろしい出来 事が起りました当日の午後で御座いましたが、 その時旗太郎様が珍らしくお見えになりまし た。それから、昨日はセレナ様が……あの方 は、この乱咲蘭(カテリア モシエ)を大層お好みで御座いまし て。ですが、このヤポラソジイの葉だけは、仰 有られるまで一向に気が附きませんでした」  綾樹(わいじゆ)ヤポランジイの枝に、二つの花が咲いた。 即ち、最も嫌疑の稀薄だった、旗太郎とセレナ 夫人にも、一応はファウスト博士の、黒い道士 服を想像しなければならず、従ってあの血みど ろの行列は、新しい二人を加えることになって しまった。斯うして、事件の二日目は、正に奇 矯変態の極致とも云うべき謎の続出で、恐らく その日が、事件中紛糾混乱の絶頂と思われた。 のみならず、関係人物の全部が、嫌疑者と目さ れるに至ったので、その集束が何時の日やら涯 しもなく、ただただ犯人の、迷路的頭脳に翻弄 されるのみだった。  その二日後1ー恰度その日は黒死館で、年一 回の公開演奏会が開催される当日であったが、 検事と熊城は、法水の二日に亙(わた)る検討の結果を 期待して、再び会議を開いた。それが、古めか しい地方裁判所の旧館で、時刻は既に三時を 廻っていた。然し、その日の法水には、見るか らに懐愴な気力が濃っていた。既に一つの、結 論に達したのではないかと思われたほど、顔は 微かに熱ばんで、その紅潮には動(ダイナミ) 的(ツク)なものが 顧えている。法水は軽く口をしめしてから、切 り出した。 「ところで僕は、一々事象を挙げて、それを分 類的に説明して行く事にする。それで、最初は この靴跡なんだが……」と卓上に載せてある二 つの石膏型を取り上げた。「勿論これに、くど くどしい説明は要るまいけれど、まず最初が、 小さい方の純護謹製(ピユアラパ )の園芸靴ーだ。これは、 元来易介の常用品で、園芸倉庫から発して、乾 板の破片との間を往復している。ところが、そ の歩行線を見ると、形状の大きさに比べると、 非常に歩幅が狭く、しかも全体が、電光形(ジグザグ)に運 ばれているのだ。また、その上足型自身にも、 僕等の想像を超絶しているような、疑問が含ま れてい.る。だって考えて見給え、易介みたいな珠 儒(こびと)の足に合うような靴で、その横幅が、一々異 なっているじゃないか。その上、爪先の印像を 中央の部分に比較すると、均衡上幾分小さいよ うに思われるのだ。おまけに、後踵部に重点が あったと見えて、その部分には、特に力を加え たらしい跡が残されている……。それから、も う一つの套靴(オヴア シユしス)の方は、本館の右端にある出 入扉(ドア)から始まっていて、.中央の張出間(ァプス)を弓形に 添い、やはりそれも、乾板の破片との間を往復 しているのだ。然し、その方は、稽ζ靴の形状 に比較して小刻みだと云うのみで、歩線も至っ て整然としている。そして、疑間と云うのは、 却って靴型の方にあったのだ。つまり、爪先と 踵と両端がグッと窪んでいて、しかも、内側に 偏曲した内翻の形を示している。また更に、そ, れが中央へ行くに従い、浅くなっているのだ。 勿論、乾板の破片を挾んでいるのだから、その 二条の靴跡が何を目的としたかーそれは既 に、明かだと云って差支ないだろう。しかも、 それが時間的にも、あの夜雨が降り止んだ、十 一時半以後である事が証明されているし、ま た、一個所套靴(オヴア ソユ ズ)の方が園芸靴を踏んでいて、 二人がその場所に辿り付いた前後も、明かにさ れているのだ。ところが、仮令これだけの疑題(クエスチヨネさア) を提供されても、その結論に至って、僕等 は些かもまごつくところはないのだよ。実際家 の熊城君なんぞは既に気が付いているだろう が、その二つの足型を採証的に解釈してみる と、大男のレヴェズが履く套靴(オヴア シユ ズ)の方には、 更により以上魁偉な巨人が想像され、また、株 儒の園芸靴を履いた主は、寧ろ易介以下の、リ リプト人か豆左衛門でなければならないから だ。云う迄もなく、そう云う人体形成の理法を 無視しているようなものが、真逆この人間世界 に、有り得ようとは思われないだろう。勿論、 自分の足型を覆い隠そうとしての好策で、それ には、容易ならぬ詫計が潜んでいるに違いない のだ。そこで、まず順序として、あの夜その時 刻頃、裏庭へ行ったと云う易介が、抑ζ二つの 敦れであるかーそれを第一に、決定する必要 があると思うのだよ」  と異常に熱して来た空気の中で、法水の解析 神経がズキズキ脈打ち出した。そして、靴型の 疑問に縦横の刀(メス)を加えるのだった。 「ところが、その真相と云うのが、判って見る と、頗る悪魔的な冗談なんだよ。驚くじゃない か。巨漢レヴェズの套靴(オヴア シユしス)を履いたのが、却っ て、その半分もあるまいと思われる、矯小な人 物なんだ。それから、次にあのスゥイッフト (佑識→∬御翻)的な園芸靴だが、その方は、まず レヴェズ程ではないだろうが、とにかく、常人 とさして変らぬ、体魑の者に相違ないのだ。そ こで、僕の推定を云うと、まず套靴(オヴア シユキズ)の方に、 易介を当ててみたのだが、どうだろうね。ねえ 熊城君、たしかあの男は、棋廊にあった具足の 鞠沓(まりぐつ)を履いて、その上に、レヴェズの套靴(オヴア シユしス) を無理やり簸め込んだに違いないのだ」 「明察だ。如何にも、易介はダンネベルグ事件 の共犯者なんだ。あの行為の日的は、云わずと 知れた毒入り洋橿(オレンジ)の授受であったに相違ない。 それを、あれほど明白な結合動作(コ ノピ チ シヨ ノ)をー。今の 今まで、君の紆余曲折的な神経が妨げていたん だぜ」と熊城は傲然と云い放って、自説と法水 の推定が、遂に一致したのをほくそ笑むのだっ た。然し、法水は弾き返すように哩(わら)った。 「冗談じゃない。どうして、あのファウスト博 士に、矛、んな小悪魔(ポルタしでイスト)が必要なもんか。やは り、悪鬼の陰険な戦術なんだよ。で、仮令(たとえ)ば家 族の中に、一人冷酷無残な人物があったとしよ う。そして、その一人が黒死館中の忌怖の的 であったばかりでなく、事実に於ても、易介を 殺したのだと仮定しよう。所が易介は、あの夜 ダンネベルグ夫人に、附き添っていたのだから ね。その一事が、到底避けられない、先入主に なってしまうのだよ。だから、仮令(たとえ)その人物の ために、巧みに導かれて、あの乾板の破片が あった場所に行き、しかもその翌日殺されたに してもだ。当然、易介は共犯者と目されるに違 いないのだ。そして、主犯の見当がその一人に ではなく、寧ろ易介と親しかった圏内に落ちる のが、当然だと云わなければならんだろう。そ れから、園芸靴の方には、一旦は消えた筈だっ た、クリヴォフ夫人の顔が、また現われている のだがね。ああ、そのクリヴォフなんだよ。問 題はあのコーカサス猶太人(ジユウ)の足にあったのだ。 ところで熊城君、君は、ババソスキイ痛点と云 う言葉を知っているかね。それは、クリヴォフ 夫人のような、初期の脊髄魔患者によく見る徴 候で、後踵部に現われる痛点を指して云うのだ よ。しかも、それを重圧すると、恐らく歩行に は耐えられまいと思われる程の疹痛を覚えるん だが……」  然し、その一言に武具室の惨劇を思い合わせ れば、まず狂気の沙汰としか信じられないの だった。熊城は吃驚して眼を円くしたが、それ を検事が抑えて、 「勿諭偶発的なものには違いないだろうが、然 し、僕等の肝臓に変調を来たしていない限り だ。たしか、あの園芸靴には、重点が後踵部に あった筈だったがね。とにかく法水君、問題を 童話から、他の方に転じて貰おう」 「そうは云うがね、あのファウスト博士は、ア ベルスの『犯罪現象学(フエルプレヒエリツシユ モルフオロギヨ)』にもない新手 法を発見したのだよ。もしあの園芸靴を、逆さ に履いたのだとしたら、どうなんだろう」と法 水は、皮肉な微笑を返して云った。「尤も、あ れが純護謹製(ピユアラヴア)の長靴だからこそ可能な話なんだ が、然し、その方法はと云っても、爪先を靴の 踵に入れるばかりではない。つまり、踵の足型 の中へ全部入れずに、幾分持ち上げ気味にし て、爪先で靴の踵の部分を強く押しながら歩く のだよ、そうすると、踵の下になった靴の皮が 自然二つに折れて、恰度支(か)い物を当てがったよ うな恰好になる。従って、靴の踵に加えた力が直 接爪先の上には落ちずに、幾分其処から下った 辺りに加わるだろうからね。如何にも、足の矯 小(わいしよう)なものが、大きな靴を履いたような形跡が現 われるのだ。のみならず、それが弛んだ弾条(スプリング)の ように不規則な弾縮をするから、その都度に、 加わって来る力が異なると云う訳だろう。従っ て、どの靴跡にも、一々僅かながらも差異が現 われて来るのだ。すると、右足に左靴、左足に 右靴を履く事になるから、歩線の往路が復路と なり復路が往路となって、凡てが逆転してし衷 うのだよ、その証拠と云うのは、乾板のある場 所で廻転した際と、枯芝を跨ぎ越した時とー その二つの場合に、利足(ききあし)がどっちの足か吟味し てみるんだ。そうしてみたら、この差数が明確 に算出されて来るじゃないか。で、そうなると 支倉君、どうしてもクリヴォフ夫人が、この誌 計を使わねばならなかったーと云う意味が明 瞭りするだろう。それは単に、あの偽装足跡を 残すばかりではなかったのだ。何より、最も弱 点であるところの踵を保護して、自分の顔を足 跡から消してしまうにあったのだよ。そして、 その行動の秘密と云うのが、あの乾板の破片に あったーと僕は結論したいのだ」  熊城は莫(たばこ)を口から放して、驚いたように法水 の顔を蹟(みつ)めていた。が、やがて軽い吐息をつい て、「成程…-、然し、ファウスト博士の本体 は、武具室のクリヴォフ以外にはない筈だぜ。 もし、それを証明出来ないのだったら、いっそ のこと、君の嬉戯(スポルト)的な散策は、止めにして呉れ 給え」  それを聴くと、法水は押収して来た火術弩を 取り上げて、その齢弾(綿勅)の部分を強く卓上 に叩き付けた。すると意外にも、その弦の中か ら、白い粉末がこぼれ出たのであった。法水 は、唖然となった二人を尻眼に語り始めた。 「やはり、犯人は僕等を欺かなかったのだ。こ の燃えたラミイの粉末が、取りも直さず、あ の、火精(サうマンダ )よ燃( ゾ ル)えたけれーなんだよ。ラ、・、イ( グル ヘン)ー iそれをトリウムとセリウムの溶液に浸せば、 燈火瓦斯(ガス)のマントル材料になるし、その繊維は 強靱な代りに、些細な熱にも変化し易いのだ。 実は、その繊維の撚(よ)ったものを、二本甘瓢形(かんびよう) U∩に組んで、犯人は弦(つる)の中に隠して置いたの だよ。ところで、よく無意識に子供などがやる 力学的な問題だが、元来弓と云うものは、弦を 縮めてそれを瞬間弛(ゆる)めたにしても、通例引き 絞って、発射したと同様の効果があるのだ。つ まり犯人は、予め一弦の長さよりも短いラ、ミイー ーそれも長さの異なる二本を使って、その最も 短い一本で、その長さまでに弦を縮めたのだ。 無論外見上も、撚(より)目を最極まで固くすれば、不 審な点は万々にも、残らないのだろうと思うの だがね。そして、そこへ犯人が、あの窓から招 き寄せたものがあったのだ」 「然し、火(サラマン) 精(ダ )ではあの虹が……」と検事は、 眩惑されたように叫んだ。 「うん、その火(サラマンダ) 精( )だが……嘗て、水壌に日光 を通すと云う技巧を、ルブラソが用いた。けれ ども、その手法は、既に、リッテルハウスの 『偶発的犯罪(ユ ベル デイ ナツ ルリヒエン)に就( フエルプ)いて』の中(レトエン)に、述べら れてある。然し、この場合は、その水曝に当るも のが、窓硝子(ガラヌ)の焼泡にあったのだよ。つまり、 それがあの上下窓の中で、内側のものの上方に あって、一旦其処へ集った太陽の光線が、外側 の窓枠にある剤り飾りー知っているだろう が、錫張りの盃形をしたものに集中したのだ。 従って、そこから弦の間近に焦点が作られるの で、当然壁の石面に熱が起らねばならない。そ して、弦には異常はなくても、まず変化し易い ラミイの方に、組織が破壊されるのだ。ところ が、そこに、犯人の絶讃的な技巧があったのだ よ。と言うのは、二本のラミイの長さを異にさ せた事と、また、それを弦の中で甘瓢形(かんぴよう)に組 み、その交叉している点を弦の最下端1うま り、弓の本揖(もとはじ)の近くに置いたと云う事なんだ。 すると、最初に焦点が、その交叉点より稽ζ下 方に落ちて、まず弦(つる)より稽ζ短い一本が切断さ れる。そうすると、幾分弦(つる)が弛(ゆる)むだろうから、 その反動で撚目(よりめ)が釘から外れ、従って弩(ど)が壁か ら開いて、当然そこに角度が作られなければな らない。それから、太陽の動きにつれて焦点が 上方に移ると、今度は弦(つる)を、その長さまでに縮 めた最後の一本が切断される。そこで、箭(や)が発 射されて、その反動で弩(ど)が床の上に落ちたのだ よ。勿論床に衝突した際に、把手(ハンドル)が発射された 位置に変ったのだろうけれど、元来把手(ハンドル)に依る 発射ではなく、また、ラミイの変質した粉末 も、遂に弦(つる)の中から洩れる事がなかったのだ。 ああクリヴォフーあのコーカサス猶太人(ジユウ)は、 たしかグリーン家のアダの故智を学んだのだ。 然し、最初は恐らく、背中椅子(パルダシン)に当てる位の所 だったろう。所が、その結果偶然にも、あの空 中曲芸(サ カス)を生んでしまったのだL  まさに法水の独檀場だった。然し、それには 一点の疑義が残されていて、それを透かさず検 事が衝いた。 「成程、君の理論には陶酔する。また、それが 現実にも実証されている。然し、到底それだけ では、クリヴォフに対する刑法的意義が十分で はないのだ。要するに、問題と云うのは、その 二重の反射に必要な窓の位置にあるのだよ。つ まり、クリヴォフか伸子かーその何っちかの 道徳的感情にある訳じゃないかL 「それでは、伸子の演奏中に、幽霊的な倍音を 起させたのは……。事実支倉君、あの間に、鐘 楼から尖塔へ行く、鉄梯子を上った者があった のだ。そして、中途にある、十二宮の円華窓に 細工して、あの楽破璃(ゲラス ハ モニカ)めいた、裂艀(ひび)を塞いで しまったのだよ」と法水は峻烈な表情をして、 再び二人の意表に出た。ああ、黒死館事件最大 の神秘と目されていたーあの倍音の謎は解け たのだろうか。法水は続けた。「然し、その方 法となると、一つの射影的な観察があるに過ぎ ない。つまり、鐘楼の頭上には円孔が一つ空い ていて、その上が大きな円筒となり、その左右 の両端が十二宮の円華窓になっている。その円 筒の理論を、オルガンの管(パイプ)にさえ移せばいいの だよ。何故なら、両端が開いている管(パイプ)の一端が 閉じられると、そこに一音階(ワン オクタ ヴ)上の音が、発せ られるからなんだ。然し、それ以前に犯人は、 鐘楼の廻廊にも現われていた。そして、風精(ジルフス)の 紙片を貼り付けたー三つあるうちの中央の扉 を、秘(こつ)そりと閉めたのだったよ。何故なら支倉 君、君はレイリー卿が、この世には生物の棲め ない音響の世界があるーと云った言葉を知っ ているかね」 「なに、生物の棲めない音響の世界"」と検事 は眼を円くして叫んだ。 「そうなんだ。それが、実に凄槍を極めた光景 なんだよ。つまり僕は、鐘鳴器(カリルロと)特有の捻りの世 界を指して云うのだ」と法水は、押し迫るよう な不気味な声音で云った。「そうすると自然、問 題が、中央の扉(ドア)を何故閉めなければならなかっ たかと云う点に起って来る。然し、その扉(ドア)のあ る・一帯が楕円形の壁面をなしていて、それに は、音響学上凹面鏡に似た性能を含んでいるか らなんだ。つまり、所謂死(デツドポ) 点(イント)とは反対に、鐘 鳴器(オリルロン)特有の捻りを一点に集注するー。言葉を 換えて云うと、その壁面と云うのが、鍵盤の前 にいる伸子の耳を焦点とする位置にあったから なんだよ。しかも、伸子を倒し、また、廻転椅 子にも疑問を止めた原因と云うのは、その激烈 な捻りに加えて、もう一つ、伸子の内耳にも あつたのだ。事実先刻の陳述は、それを語り尽 して余す所がなかったのだよ」 「冗談じゃない。あの女は、右の方に倒れたの を記憶していると云っているぜ。然し、当時の 仲子の姿勢は、左の方へ廻転した跡を残してい るのだ」と熊城が聴き答めると、法水は徐ろに 莫(たぱこ)に火を点じてから、相手に微笑を投げた。 「ところが熊城君、ヘガール(融樋吻肥解讃融騨艀 喉)の類例集の中には、四つ角で衝突したヒス テリー患者が、その側を反対に陳述したと云う 報告が載っている。事実その通りで、発作申に うけた感覚は、その反対の側に現われるものな んだよ。然し、この場合問題と云うのは、決し てその一つばかりではない。もう一つ、やはり発 作中には、聴覚が一方の耳に偏してしまうー と云う徴侯にもあったのだ。そして、伸子には それが右の耳にあったので、扉を鎖された瞬間 起ったあの猛烈な捻りー。殆ど音が意識出来 ないほど、寧ろ器官の限度を超絶したものが襲 い掛って来て、それが内耳に、燃え上るような 灼衝を起したのだよ。つまり、人工的に迷路震 蕩症を企んだと云う訳で、勿論その結果、全身 の均衡が失われた事は云う迄もないのだ。そこ で、熱と右の耳は左ヘーと云うヘルムホルツ の定則通りに、忽ち全身が捻(ねじ)れて行ったのだ よ。そして、廻転が極限まで詰まっている椅子. の上で、その儘左に傾きながら倒れて行ったの だ。然し、それが判った所で、決して犯人が指 摘されるものではなく、寧ろ伸子の無事を明か にしたに過ぎない.いや、唯単に、伸子を倒し た最後の止めを詳しくしたのみで、依然として 犯人の顔は、鐘鳴器(カリルロン)室の疑問の中に隠されてい る。そして、門題が室の内部を離れて、今度 は、廊下と鉄梯子に移ってしまったのだよ。然 し、斯うして伸子が犯人でないとすると、武具 室の凡ゆる状況が、.クリヴォフに傾注されて行 くーそれも、蓋し止むを得んだろうがね」  斯うして、分析したものが一点に綜合される や、それが検事と熊城を、瞬間眩惑の渦中に投 げ入れてしまった。然し、その聞熊城は、さも 落ち着かんとするもののように、黙然(もくねん)と莫(たぱこ)を喫 ゆらしていたが、ややあってから悲し気に云っ た。 「然し法水君、どの場面でもクリヴォフの不在 証明(アリパイ)は、到底打破し難いものなのだよ。どうし てもメースンの『矢の家』みたいに、坑道でも 発見されない限り、この事件の解決は結局不可 能のような気がするんだ」 「それでは熊城君」と法水は満足そうに頷い て、衣袋(ポケツト)の中から、例のディグスビイの、奇文 を記した紙片を取り出した。すると、そこに何 事か異常なものが予期されて来て、二人の顔 に、半ば怯(おずおず)々とした生色が這い上って行った。 法水は静かに云った。 「実を云うと、ディグスビイの秘密記法(クリプトメニツエ)も、既 にあの大階段(ピハインド ステ)の裏(イァス)ーだけで尽きていて、この 奇文の中にある、告白と呪咀の意志を、示すに 止まっていると考えられていた。所が、故意に 文法を無視したり冠詞のない点を考えると、そ こから秘密記法の、おぞましい香気が触れて来 るように思われた。ねえ熊城君、一つの暗号か らまた新しいものが現われるーそれを子持ち 暗号と云って、恰度この二つの女章が、それに 当るのだよ。所で、くどくどしい苦心談は、抜 きにして、早速解読法を述べる事にしよう。元 来、暗号とは一見似てもつかぬ、二つの奇文の ように見えるが、そのうち、最初の短文の頭文 字だけを、列ねたものが暗号語なんだ。また、 その鍵(キイ)は、もう一つの創世記めいた、文章の中 に隠されてあったのだよ。然し、僕も最初は、 誤った観察をしていた。あれは£一五旨弄五9一 と、全部で十四文字になるσすると、二支字を 一字とすれば、七文字の単語が出来上って、史 と続いた部分が二個所もあるのだから、それが eとかsとかの利字を暗示するように思われ る。けれども、単語一つでは、恐らく意味をな さぬだろうと思って、聞もなくその考えを捨て てしまった。  そこで、次に僕は、その全句を二つ乃至三つ の小節に分けようと試みたのだ。そして、それ には訳もなく成功する事が出来たのだよ。何故 なら、中央にKが三つ並んでいる部分があるだ ろう。その二番目と三番目との間を戴ち割れ ば、当然二つの小節に、不自然でなく分ける事 が出来るからなんだ。ねえ熊城君、同じ文字が 三つ続くなんて、そんな道理が決してあろう気 遣はないし、また、重複(ダブ)った文字から始まる単 語と云ラのは、ホンの数える程しかないからだ よ。で、そうしてから……」  とディグスビイが書き残した不思議な文章の 一句一句に、法水は次のような番号を付けて 行った。 「まず斯んな風にして、僕は此の交章を七節に 分けてみたのだ。そして、各ζの小節から、そ こに潜んでいる解語の暗示を、探り出そうとし たのだった。ところで、文中の第一節だが、僕 はこの句を人間創造と云う意味に解釈した。云 わば凡ての物の創めi例えて言うと伊呂波(いろは)の い、ABCのAなのだ。それから第二節1こ れが一番重要な点なんだよ。ねえ熊城君、それ が讐生児を生み給えりーなんだろう。それで 讐生児と云えば、さしずめ耳とかヰとか8 とか云うような、女字的な解釈を誰しも想像し たくなるものだ。ところが、この場合は頗る表象 的な意味があって、それが、母胎内に於ける蟹生 児の形を指しているのだったよ。所で熊城君大 体讐胎児と云うものが、母の子宮内でどんな恰 好をしているか、恐らく知らぬ筈はないと思う がね。必ず一入が逆さになっていて、一人の頭 ともう一人の足と云った具合で、つまり、恰度 トランプの人物模様みたいに、頭尾相同じと云 う恰好なんだよ。そこで、Pとdとを抱き合せ て見給え。アルファベットの中で、てっきり隻 生児の形が出来るじゃないか、そして、それに 第一節の解釈を加えれば、当然Pかdかその敦(いず) れかが、アルファベットのaの位置を占めるに 違いないのだ。然し、まだそれだけでは、要す るに別個の暗号を作るに過ぎないし、また、q とbとでも同じようだけれど、それでは解答 が、釘交字(キネピフオルム)か波斯交字(ネスキ )みたいになってしまうの だよL  それから一息入れた体で、冷たくなった残り の紅茶を不味(まず)そうに流し入れてから、法水は一 気に語り続けた。 「ところで、それが済んで第三節以降になる と、初めてそこで、dとPとが区分されるの だ。つまり、最初に生れたのが女で次が男1 なんだから、頭を下に向けているdがエヴで、 Pがアダムに当る訳だろう。それから、第五節 にある子と云う語と、七節の母と云う語を、各・ゝ に子音または母音と解釈するのだ。つまり、 此処までの所では、dが母音Pが子音の、各ζ 冠頭を占める文字に当て簸める事になるけれど も、然し、第四節と第六節でもって、それを更 に訂正しているのだ。   (作者よりー。次の行から現われる暗号   の説明が、幾分煩環に過ぎるかと思われま   すので、相互の識別を容易ならしむるため   に、暗号の部類に属する欧文活字を、ゴ   シック体で現わして置きました。どうかそ   のお積りで)  所で、第四節には膀(ほぞ)と云う一字があるけれど も、それを全体(ヘヘヘ)の中心(ヘヘ)と云う意味に解釈するの だ。つまり、Pを子音の首語であるbに当て て、bcdf……の下へPqrsと符合させて 行くと、nに当るbが、Pから最終のnまで の、何方から数えても恰度中央に当る理窟にな るーそれが膀(ほぞ)と云う一字に表象をなしている のだ。そうすると、第四節の前半には、膀(ほぞ)から 上の影は自然の形で背後に落ちるーとあるの だから、bからnl即ちPからbまでは、依 然その儘で差し支えないのだ。けれども、続く 後半になると、変化が起ってくる。  膀(ほぞ)より下の影が、差してくる陽に逆って前坊 に投影すると云う文章の解釈は、影-即ちA 田㏄げ順序を、今度は逆にしろと云う暗示に相 違ないのだ。そこで、前半の排列をその儘に進 めて行けば、当然nの次のPに符合するのが、 bの次のcになる順序だ。けれども、それを転 倒させて、最終のzに当る筈のnを、Pに当て るのだ。従って、Pqrsに対してcdf9- 1とする所を、nmlk…-と、尻から逆立ち にした形で符合させて行く。だから結局、子音の 暗号が、次のような排列になってしまうのだよ。 一∪∩亀σQ三三日βbρ窃冒ミM【くN 弓ρ鴫ω叶ぐ41x関NぴH蛇目り日πご[皿堕紬o  それから、続いて第六節では、エヴ妊りて女 児を産むーと云う支章に意味がある。と云う のは、エヴ即ちdの次の時代1つまりabc dと数えて、dの次のeを暗示しているのだ。 そして、それに第七節の解釈を加えると、eが 母音の首語aに当る事になるのだから、nei OuをeiO"uaと置き換えたものが、結局母 音の暗号になってしまうのだ。そうすると、あ の秘密記法(クリプトメニツエ)の全部が、R9二窃(クレストレツス)ωωε弓(スト ン)1とな る。それで、まず解読を終ったと云う訳さ」 「なに、クレストレッス・ストーンー?」と検事 は思わず、一頓狂な叫び声を立てた。 「そうなんだ、日く紋章のない石1さ。君 は、ダソネベルグ夫人が殺された室を見て、そ この壁炉(ヘヘ)が、紋章を刻み込んだ石で、築かれて いたのに気が付かなかったかね」と法水はそう 云って、出しかけた莫(たばこ)を再び函(ケ ス)の中に戻してし まった。その瞬間、凡ゆるものが静止したよう に思われた。  遂に、黒死館事件の循環論の一隅が破られ、 その鎖の輪の中で、法水の手がファウスト博士 の心臓を握りしめてしまったーああ閉幕(カ テ ノフオ ル)。  それが恰度六時の事で、戸外には何時しか煙 のような雨が降り始めていた。その夜黒死館に は、年一回の公開演奏会が催されていて、毎年 の例によれば、約二十人ほど音楽関係者が招待 される事になっていた。会場はいつもの礼拝堂 で、特にその夜に限り、臨時に設備された大装 飾灯(シヤンデリヤ)が天井に輝いているので、何時か見た、微 かにゆらぐ灯の中から、読経や風琴(オルガン)の音でも響 いて来そうなーあの幽玄な雰囲気は、その夜 何処へかけし飛んでしまったかのように思われ た。  けれども、その扇形をした宥窟の下には、依 然中世的好尚が失われていなかった。楽人は悉 く仮髪(かつら)を附け、それに眼がさめるような、朱色 の衣裳を着ているのである。法水一行が着いた 時は、曲目の第二が始まっていて、クリヴォフ夫 人の作曲に係わる、変ロ調の竪琴(ハヨブ)と絃楽三重奏 が、恰度第二楽章に入ったばかりの所だった。 竪琴(ハ プ)は伸子が弾いていて、その技量が、幾分他 の三人-ー即ちクリヴォフ、セレナ、旗太郎に 劣る所は、云わば暇理と云えば暇瑛だったろう けれども、しかし、それを吟味する余裕(ゆとり)もない のだった。と云うのは、色と音が妖しい幻のよ うに、入りみだれている眼前の光景には、たっ た一目で、十分感覚を奪ってしまうものがあっ たからだ。下髪の短いタレイラン式の仮髪に、 シュツウィソゲソ風を模した宮廷楽師(カペルマイスタ )の衣裳。 その色濃く響の高い絵には、その昔テムズ河上 に於けるジョージ一世の音楽饗宴が1即ち パッハの「水(ワツセル)  楽( ムジイク)」初演の夜が髪髭となって 来るように、それはまさしく、燃え上らんばか りの幻であり、また眩惑の中にも、静かな追想 を求めて止まない力があった。  法水一行は、最後の列に腰を下して、陶酔と 安泰のうちにも、演奏会の終了を待ち構えてい た。しかも、彼等のみならず、誰しもそうで あったろうが、このように煙々と輝く大装飾灯(シヤンデリヤ) の下では、まず如何なファウスト博士と難も、 乗ずる隙は、万が一にもあるまいと信じられて いた。所が、そのうち竪琴(ハ プ)のクリッサンドが、 夢の中の泡のように消えて行って、旗太郎の第 一提琴が主題の旋律を弾き出すと、……その 時、実に予想もされ得なかった出来事が起った のである。突然聴衆の聞から湧き起った、物凄 じい激動と共に、舞台が薄気味悪い暗転を始め たのであった。  不意に装飾灯(シヤンデリヤ)の灯が消えて、色と光と音が、 一時に暗黒の中へ没し去った。と、恰度それと 同時に、何者が発したのか、演奏台の上で異様 な伸き声が起ったのである。続いて、ドカッと 床に倒れるような響がしたかと思うと、投げ出 されたらしい絃楽器が、絃(つる)と胴をけたたましく 鳴らせながらA階段を転げ落ちて行った。そし て、その音が暫く闇の中で額えはためいていた が、杜絶えてしまうと、最早誰一人声を発する 者もなく、堂内は云いしれぬ鬼気と沈黙とに包 まれてしまった。  坤吟と墜落の響1。たしかに四人の演奏者 の中で、そのうち一人が繁されたに相違ない。 そう思いながら、法水が凝然と動悸を押えて耳 を澄ましていると、何処かこの室の真近から、 恰度瀬にせせらぐ水流のような、微かな音が聴 えて来るのだった。と、その矢先、壇上の一角 に闇が破られて、一本の燐寸(マツチ)の火が、階段を客 席の方に降りてきた。それから、ほんの一瞬で はあったが、血が凍り息窒(いきづ)まるようなものが流 れ始めた。然し、その光が、妖怪めいたはため きをしながら、頻りと床上を摸索(まさぐ)っている間で も、法水の眼だけはその上方に膵(みひら)かれていて、 鋭く壇上の空間に注がれていた。そして、闇の 中に一つの人容(ひとがた)を描いて、じいっと捉まえて放 さない幻があったのだ。  仮令(よしんぱ)犠牲者は誰であっても、その下手人は、 オリガ・クリヴォフ以外にはない。しかも、あ の皮肉な冷笑的な怪物は、法水を眼下に眺めて いるに拘らず、悠々と一場の惨鼻劇を演じ去っ たのである。恐らく今度も、矛盾撞着が針袋の ように覆うていて、あの畏濯と嘆賞の気持を、 必ずや四度繰り返す事であろう。然し、榔弾の 距離は次第に近附いて、既に法水は、相手の心 動を聴き、樹皮のような中性的な体臭を嗅ぐま でに迫っているのだ。所が、その矢先li焔の 尽きた儂(うずみび)が弓のように垂(しな)だれて、燐寸(マツチ)が指頭 から放たれた。と、キアッと云う悲鳴が闇をつ んざいて、それが伸子の声であるのも意識する 余裕がなく、法水の眼は、忽ち床の一点に釘付 けにされてしまった。  見よーそこには硫黄のように、薄っすら輝 き出した一幅の帯がある。そして、その下辺の あたりから、幾つとない火の玉が、チリチリ捲 き縮んで行って、現われてはまた消えて行くの だった。然し、それに眼を止めた瞬間、法水の 凡ゆる表情が静止してしまった。彼の眼前に現 われた一つの驚くべきもの以外の世界は1座 席の背長椅子(パルダシン)も、頭上に交錯(くみかわ)している扇形の竃 窟も、まるで嵐の森のように揺れ始めて、それ 等がともども、彼の足元に開かれた無明の深淵 の中へ墜ち込んで行くのだった。実に、その消 え行く瞬間の光は、斜めに傾(かし)いで仮髪の隙から 現われた、白い布の上に落ちたのである。それ は擬(まぎ)れもなく、武具室の惨劇を未だに止めてい る額の繍帯ではないか。ああ、オリガ・クリ ヴォフ。再度法水の退軍だった。驚されたのは 誰あろう、彼の推定犯人クリヴオフ夫人だった のだ。 第八篇 1 降矢木家の壊崩 ファウスト博士の栂指痕  斯うして、再びこの狂気(きちがい)双六は、法水の札を 旧(もと)の振り出しに戻してしまった。然し、その悲 痛な瞬間が去ると同時に、法水には再び落ち着 きが戻って来た。けれども、その耳元に、代り 合って這い寄って来たものがあったのだ。と云 うのは、先刻から或は幻聴ではないかと思われ ていた、あの水流のような響だったのである。 恐らく角柱のような空問を通ったり、或はま た、それに窓硝子(ガラス)の震動なども加わったりする 所以(せい)もあるだろうが、今度は前にも倍増して、 宛(さなが)ら地軸を震動させんばかりの轟きであった。 そして、そのおどろと鳴り轟く響きが、陰惨な 死の室の空気を揺すり始めたのである。それこ そ、中世独逸(ゲルマン)の伝説-1「魔女集会(ヴアルプリギス)」の再現で はないだろうか。幾(ヘヘ)つかの積石(ヘヘヘ ヘ)と窓(ヘヘ)を隔(もヘ)てて(ヘ)、 たしか、この館(ヘヘヘヘヘヘヘ)の何処(ヘヘヘ)かに爆布(ヘヘヘヘ)が落(ヘヘ)ちている(ヘヘヘヘ)の だ、それが、目(へ)前の犯行に、直接関係があるか どうかは兎も角として、或は、ファウスト博士 特有の装飾癖が壮観嗜(ごの)みであるにもせよ、到底 そのような荒唐無稽な事実が、現実に混同して いようとは信じられぬのである。ああ、その爆 布の轟き1華美な邪魁(グロテスク)な夢は、まさに如何な る理法を以ってしても律し得ようのない、変崎 狂態の極みではないか。然し法水は、その狂わ しい感覚を振り切って叫んだー「開閉器(スイツチ)を、 灯を!」  すると、その声に初めて我に返ったかの如 く、聴衆はドッと一度に入口へ殺到した。その 流れを、暗黒と同時に扉を固めた熊城が制止し たので、暫くその雑沓混乱のために、開閉器(スイツチ)の 点火が不可能にされてしまった。予め観客の注 意を散在せしめないために、階下の一帯を消燈 して置いたので、廊下の壁燈が灰(ほん)のりと一つ点(つ) いているだけ、広間(サロン)も周囲の室も真暗である。 その喧鴛(けんごう)たるどよめきの中で、法水は、暗中の 彩塵(さいじん)を追いながら黙考に沈み始めた、そこへ、 検事が歩み寄って来て、クリヴォフ夫人が背後 から心臓を刺し貫かれ、既に絶命していると云 う旨を告げた。  然し、その間に法水の推考が成長して行っ て、遂に洋琴(ピアノ)線のように張り切ってしまった。 そして、目前の惨事に、最初から現われて来た 事象を整理して、その曲線に、一本の 切(もツテイ ノグ ) 線(ライン)を引こうと試みた。1第一、演奏者中にレ ヴェズがいないと云う事だ(然し、聴衆の中に も彼の姿は見出されなかったのである。)それ から、暗黒と同時に、この室が密閉されたと云 う事!つまり、事件の発生前後の状況が、共に 同一であると云う事だった。所が、最後の開閉器(スイツチ) を捻ったのは誰かll云い換えれば、最も重要 な帰結点であるとこ石の消燈の件になると、そ れに端なくも、法水は一道の光明を認め得たの であった。と云うのは、装飾灯(シヤンデリヤ)が消える直前に、 津多子が入口の扉(ドア)に現われて、扉(ドア)際にある開閉 器(スイツチ)の脇を通ってから、その側の端に近い、最前 列の椅子を占めたからである。  事実それに、法水が発見した最初の座標が あったのだ。それは、アベルスの「犯罪現(フエルプレツヒエリツ)  象学(シユ モルフオロギ)」の中( )に挙げられている誌計の一つ で、蓋附き開閉器(スイツチ)に電障を起させるために、氷 の稜片を利用すると云う方法である。つまり、 把手(つまみ)に続いている絶縁物に稜片の先を挾んで置 くので、把手を捻ると、接触板が微かに触れる 程度で点燈される。が、その直後、把手に腕を 衝突させるのが狡策であって、そうすると氷の 先が折れて、稜片の胴が、熱のある接触板の一 つに触れる。従って、そうして溶解した氷の蒸 気が陶器台の上に水滴を作れば、当然そこに電 障が起らねばならない。しかも、溶解した氷 は、そのまま消失してしまうのである。即ち、 この場合開閉器(スイッチ)の側を過ぎる際に、もしその狡 策を津多子が行ったとしたら、当然消燈は、彼 女が座席についた頃に実現されるであろう。そ して、その時間の隔りに依って、優に暗影の一 隅を覆う事が出来るのである。  押鐘津多子iあの大正中期の大女優は、そ れ以外のどんな鎖の輪にも、姿を現わさないに もせよ、既に事件最初の夜、古代時計室の鉄扉 を内部から押し開いていて、ダンネベルグ事件 に拭うべからざる影を印しているのである。し かも、事件中人物の中で最も濃厚な動機を持 ち、現に彼女は、最前列の座席を占めていたで はないか。  斯うして、幾つかの因子(フアクク )を排列しているうち に、法水は噴(ふ)っと血握(たまぐさ)いような矢叫びを、自 分の呼吸の中に感じたのであった。然し、召使(くトラ ) に燭台を用意させて、開閉器(スイツチ)の側に近附いてみ -台  スヰッチ 手. 洗    D媛炉 案 中 殖室 窓      津多子     旗       広 窓 O O スヰッチ 問 ると、そこに思いがけない発見があった。と云 うのは、開閉器(スイツチ)の直下に当る床の上に、和装の 津多子以外にはない、羽織紐の環が一つ落ちて いたからだった。 「夫人、この羽織紐の環は、一先ずお返しして 置きましょうご然し、多分貴女なら、この開閉 器(スイツチ)を捻ったのが誰だか-御存知の筈ですが ね」とまず津多子を喚んで、法水は斯う速急に 切り出した。けれども、相手は一向に動じた気 色もなく、寧ろ冷笑を含んで、津多子は云い返 した。 「お返し下さるなら、頂いて置きますわ。です けれど法水さん、やっとこれで、善行悪報(ムタピヌチ)の神(オ) の存在が私に判りましたわ。何故かと申します なら、暗闇の中から坤吟(うめき)の声が洩れた瞬間に、 私の頭へこのスイッチの事が閃めいたのでし た。もし、人手を借らず把手が捻れるものでし たら、必ずこの蓋の内部に、何か陰険な仕掛が 秘められていなければなりません。また、それ がもし事実だとすれば、恐らく闇を幸いに、犯 人がその仕掛を取り戻しに来るだろうと思いま した。そう考えると、それまでは思いも依らな かった決意が浮んで参りまして、そこで私、逸(いち) 早く座席を外して、この場所に参ったので御座 います。そして、自分の背でこの開閉器(スイツチ)を覆う ていて、いま貴方がお見えになるまで、ずうっ とこの場所に立っていたので御座いました。で すから法水さん、私がもしデイシャス(砂鵬ηθ ガ川舛川かり榊ヤ)でしたら、さしずめこの場合 は、羽織の環に斯う申す所でしょうよ。一角獣(ザツト ユニ) は樹(コ ンス メイ )によって欺(ビイ ビトレイド ウイズ トリ)かれ、熊( ス アンド ピアス)は鏡( ウイズ グ)に(ラセツ)よ り、象(スエレフアンツ)は穴( ウイズ)によってーと( ホセルス)」  そこで、取り敢えず開閉器(スイツチ)を調べる事になっ た。所がその結果は予期に反して、それには電 障の形跡がないばかりでなく、把手を捻って電 流を通じても、大装飾灯(シヤンヂリヤ)は依然闇の中で黙した ままである。実に、それが紛糾混(ふんきゆう)乱の始まりと なって、遂に問題は礼拝堂を離れてしまった。 法水も、本開閉器(メイン スイツチ)の所在を津多子に訊す前に、 何より彼の早断を詫びなければならなかった。 津多子は気勢を収めて、率直に答えた。 「その室は、礼拝堂から廊下一重の向うに御座 いまして、以前は鷺ユァリ、.ル劉(瀞蝿輝嫉ゆ鰍鵬彫体儘 蟹く)だったので御座います。然し、現在では改 装されて居りまして、雑具を置く室になって居 りますが」 「所が、広間(サロン)を横切って廊下を歩んで行くにつ れて、水流の轟は愈ζ近くに迫って来る。そし て、目指す残(モ チユ)   室(アリ  ル ム)の手前まで来ると、その ー耶蘇大苦難(クルゾフィクシヨン)に、聖(セント)バトリック十字架のつい た扉(ドア)の彼方から、、おどろと落ち込んでいる水音 が湧き上って来た。と同時に、彼等の靴を微か に押しやりながら、冷やりと紐穴から這い込ん で来たものがあった。 「あっ、水だ!」と、熊城は、思わず頓狂な叫 び声を立てたが、跳び退いた機みに瞼膿(よろめ)いて、 片手を左側にある洗手台で支えねばならなかっ た。然し、それで万事が瞭然となった。即ち、 扉(ドア)向うの壁に、三つ並んでいる洗手台の栓を開 け放しにして、そこから溢れて来る水に、自然 の傾斜を辿らせたのだった。そして、扉(ドア)の閾(しきい)に 明いている、漆喰の欠目から導いて、その水流 を濱(モ チユ)   室(アリ  ルヨム)の中へ落ち込ませたに相違ない。 そこで、扉(ドア)を開く事になったが、それには鍵が 下りていて、押せど突けども、微動さえしない のである。熊城は恐ろしい勢で、扉(ドア)に身体を叩 き付けたが、僅かに木の軋(きし)る音が響いたのみ で、その全身が鞠のように弾き返された。する と、熊城は身体を立て直して、宛(さな)がら狂ったよ うな語気で叫んだ。 「斧だ! この扉(ドア)がロッビアだろうが左甚五郎 の手彫りだろうが、僕は是が非でも叩き破るん だ」  そうして斧が取り寄せられて、まず最初の一 撃が、把手(ノツブ)の上のあたりー羽目(パネル)を日がけて加 えられた。木片が砕け飛んで、旧式の積杵錠(タンプラ )装 置が、木捻(もくねじ)ごとダラリと下った。すると意外に も、その模形をした破れ目の隙から、濠々たる 温泉のような蒸気が送り出たのだった。  その瞬間、一同は阿呆のような顔になって、 立ち辣(すく)んでしまった。その湯滝の蔭に、たとえ 如何なる秘計が隠されていようと、それはこの 場合問題ではない。また、幻想を現実に強いよ うとするのが、ファウスト博士の残虐な快感で あるかも知れないが、ともあれ眼前の奇観に は、魂の底までも陶酔させずには措(お)かない、妖 術的な魅力があった。扉(ドア)が開かれると、内部は一 面の白い壁で、宛(さな)がら眼球を欄(ただ)らさんばかりの 熱気である。然し、その時熊城が、扉(ドア)の側にあ る点滅器を捻り、またその下の電気媛炉(スト ブ)に眼を 止めて、差込(プラグ)みを引き抜いたので、やがて濠気 と高温が退散するにつれ、室の全貌が漸く明ら かになった。  つまりこの一劃は、残(エし チユ)   室(アリ  ルヨム)で云うところ の所謂前室に当るもので、突き当りの扉(ドア)の奥 が、公教(カトリツク)の戯言(ぎげん)で霊舞室(おどりぱ)と呼ばれる中室になっ ていた。そして、隅に明いている排水孔から、 落ち込んだ水が流れ出ているのである。また、 中室との境界には、装飾のない厳(いかめ)しい石扉が一 つあって、側(かたわら)の壁に、古式の旗飾りのついた 大きな鍵がぶら下っていた。その扉には鍵が下 りてなく、石扉特有の地鳴りのような響きを立 てて開かれた。所が、不思議な事には、前室が 欄れんばかりの高温にも拘らず、今や前方に開 かれて行く闇の奥からは、まるで穴窟のような 空気が、冷やりと触れて来るのだ。そして、扉(ドア) が一杯に開き切られたとき、その薄明りの中か ら、法水は自分の眼に、眩(くら)み転(まろ)ばんばかりの激 動をうけたのだった。パッと眼を打って来た白 毫(りごつ)色の耀きがあって、思わず彼は、前方の床を 蹟めたまま棒立ちになってしまった。それは決 して、この僧院造り特有の、暗い沈箆な雰囲気(ム ド) が、彼に及ぼした力ではなかったのだ。  そこの床上一面には、数十万の白蛎矧(しろみみず)を放っ たかと思われるような、細い短い曲線が無数に のたうち交錯していて、それが積り重なった挨 の上で、地の灰色を圧していて、清例な1然 し見ように依っては、妙に薄気味悪く粘液的に も思われる白光を放っているのだった。!ーそ れは、瞬めていると、視野に当る部分だけが、 荘厳な紋章模様(プレゾンリ )のような形になって、宙に浮び 上り、パッと眼に飛びついて来るのだ。その光 は、齋畜テスシャルク華轟鶯議隊) の見た、聖イエロニモの幻のように思われる。 しかも、その無数の線条は、殆ど室全体の床に 渉っていて、濠気で堆塵の上に作られた細溝に は相違ないけれども、不思議な事に、天井や周 囲の壁面には、それと思(おぼし)い痕跡が残されていな い。そればかりでなく、更に床を横合から透し てみると、まるで月世界の山脈か沙漠の砂丘と しか思われぬような起伏が、そこにもまた無数 と続いているのだった。それ等は、如何なる名 工と雛も到底及び難い、自然力の微妙な細刻に 相違ないのである。  その室は石灰石の積石で囲まれていて、難苦 と修道を思わせるような沈厳な空気が濠ってい た。突き当りの石扉の奥が屍室で、その扉(ドア)面に は、有名な聖(セント)パトリックの讃詩(ヒム)1「異教徒(そゲンスト ブラ)の 凶律(ツンロウス )に対(オヴ ゼ)し、また女人鍛工及( ヒィズン エンド ツゲンスト ゼ )びドルイド呪僧(スペルス オヴ ウイメン ス)の 呪文(ミス エンド)に対( ドルイ)して」1の全(ズ)文が刻まれていた。然 し、床上には足跡がなく、恐らく算哲の葬儀の 際にも、古式の残(ひん)室儀は行われなかったものら しい。そうして、前室より先には誰一人入らな かった事が判ると、疑題の凡てはそこに尽きて しまった。つまり、水を洗手台から導いて、鑑 段を落下させたと云う目的は、極めて推察に容 易ではあるが、次の媛炉(スト プ)の点火と云う点になる と、その意図には皆目見当が附かないのだっ た。勿論、壁の開閉器(スイツチ)函は蓋が明け放されてい て、接触刃(ナイフ)の柄がグタリと下を向いていた。検 事は、その柄を握って電流を通じたが、足元に 開いている排水孔を見やりながら、知見を述べ た。 「つまり、洗手台の水を使って、階段から落下 させたと云うのは、床の埃の上に附いた足跡を 消すにあったのだよ。すると、どうしても根本 の疑義と云うのは、この室の本開閉器(メイン スイツチ)を切った のと、それから、扉(ドア)に鍵を下して室外に出てか ら、クリヴォフを刺した  その一人二役にあ ると云う訳になるがね。然し、どうあっても僕 には、レヴェズがそんな、小悪魔(ポルタ ガイスト)の役を勤め たとは信じられんよ。必ずその解答は、君が発 見した紋章(クレストレツ)のない石(ス スト ン)1にあるに相違ないの だ」 「成程、明察には違いないが」と、一旦は率直 に頷いたが法水は、続いて憂わし気に瞬いて、 「然し、この際の懸念と云うのは、却って、レ ヴェズの心理劇の方にあるのだよ。と云ってま た、この室の鍵の行衛が、案外見えなかったレ ヴェズに関係があるのかも判らんし……」と バッパッと烈しく蓑(たぱこ)を煙らしていたが、熊城の 方を向いて、「とにかく、犯人が何時までも身 につけている気遣いはないのだから、まず鍵の 行衛を捜す事だ。それから、レヴェズを見付け て連れて来る事なんだ」  漸く悪夢から解放されたような気持になっ て、旧の礼拝堂に戻ると、そこには再び、装飾 灯(シヤンデリヤ)の燦光(ひかり)が散っていた。その下で、聴衆は此処 彼処に地図的な集団を作って囲(かた)まっていたが、 壇上の三人は、各>・に旧(もと)いた位置から動かされ なかったので、それでなくても不安と憂愁のた めに、追いつめられた獣のように顧え戦いてい た。クリヴォフ夫人の死体は、階段の前方に殆 ど丁字形をなして横わっていた。それが傭向き に倒れ、両腕を前方に投げ出していて、背の左 側には、槍尖(ランス ヘツド)らしい桿状の柄が、ニョキリと 不気味に突っ立っていた。死体の顔には、殆ど 恐怖の跡はなかった。しかも、奇妙に脂切って いて、死戦時の浮腫(ふしゆ)の所以でもあろうか、いつ も見るように辣(とげとげ)々しい圭角的な相貌が、死顔で は余程緩和されているように思われた。殆ど、 表情を失っている。けれども、その1一見、 安らかな死の影とも思われるものは、同時にま た、不意の驚惜が起した、虚心状態とも推察さ れるのだった。そして、,死体の背窪を一杯に覆 うて凝結した血が、指差している手の形で、大 きな溜りを作っていて、尚薄気味悪い事には、 その指頭が壇上の右方に向けられていた。が、 それ等の光景の中で、最も強く胸を打って来る のは、その殺人事件に適(ふさ)わしからぬ対照であっ た。槍尖(ランス ヘツド)の根元には、滲み出ている脂肪が金 色に輝いていて、それと宮廷楽師(カベルマイスタ )の朱色の上衣 とが、この惨状全体を極めて華やかに見せてい たのであるひ  法水は仔細に兇器の柄を調査したが、それに は指紋の跡はなかった。そして、柄の根元には モソトフェラット家の紋章が鋳刻されていて、 引き抜くと果してそれが、二叉に先が分れてい る火焔形の槍(ランス ) 尖(ヘツド)だった。然し、兇行の際に現 われた自然の悪戯は、最も肝腎な部分を覆うて しまった。と云うのは壇上からその位置までの 間に、一向血滴が発見されない事だった。云う 迄もなく、その原因と云うのは、刃がすぐ引き 抜かれなかったと云う点にあって、勿論それが ために、瞬間の送血(ほうけつ)が乏しかったからである。 然し、それに依って、何より犯行を再現するに 欠いてはならない、連鎖が絶たれてしまった。 つまり、クリヴォフ夫人が壇上のどの点で刺さ れ、そうしてまた、どう云う経路を経て墜落し たかーと云う二つの絡(つなが)りを、最早知り得べく もないのだった。法水は検屍が終えると、聴 衆を室外に出してしまってから、階段を上って 行った。すると、伸子がまず、夢に魔(うな)されたよ うな声で叫び立てた。 「あのファウスト博士は、まだまだ私を苦しめ 足りないのですわ。最初地精(コボルト)の札を、私の机の 中に入れて置いたばかりでは御座いません。今 日も、あの悪魔はまた私を択んで、人身御供の 三人の中に加えるんですもの」と背後に廻した 両手で、竪琴(ハ プ)の枠を固く握りしめ、それを激し く揺ぶった。「ねえ法水さん、貴方は、クリ ヴォフ様が演奏台の何処で刺されたか、また、 どっちの側から転げ落ちたかーお知りになり たいのでしょう。けれども、ほんとうに私、何 も知らないのです。ただ竪琴(ハ プ)の枠を掴んで、凝 然と息を詰めていたので御座いますから、ねえ 旗太郎様、セレナ様、貴方がたは、多分それを 御存知でいらっしゃいましょう」 「いいえ、私がもしグイディオン(邸か川び睨轍榔 霧旅薙樺欝と)でしたら、或は知ぞいたか も知れませんわ」とセレナ夫人は、戦きの中に 微かな皮肉を浸べた。すると、それに言葉を添 えて、旗太郎が法水に云った。 「事実そうなんです。生憎僕等には、昆虫や盲 者が持ち合わせているほど、空間に対する感覚 が正確でないのですよ。それに、何しろ衣裳が 同じなものですからね。仲子さんが燐寸(マツチ)を擦っ て顔を照らすまでは、一体誰が驚されたのか、 それさえも明瞭(はつき)りしていなかったと云うくらい で……。いやいっそ、何も聴こえず、気動にも触 れなかったと申しましょうか」と事件の局 状(シチユエ シヨン)が、法水に不利なのを察したと見え、早く も、彼の瞳の中を、圧するような尊大なものが 動いて行った。 「所で法水さん、一体本開閉器(メイン スイツチ)を切ったのは、 誰なんでしょうか。その鮮かな早代りで、一人 二役を演ってのけた悪魔と云うのは?」 「なに、悪魔ですってη  いや、黒死館と云う 祭壇を屋根にしている1人生そのものが、既 に悪魔的なんじゃありませんか」と眼前の早熟 児を、薄気味悪いほど磧めながら、法水は最後 の言葉を捉えた。「実は旗太郎さん、僕は旧派 の捜査法をーつまり、人間の心細い感覚や記 憶などに信愚を置くのを、聖骨と呼んで軽蔑し ているのですよ。所が、今日の事件では、残(モ チユ)   室(アリ  ル ム)の聖。ハトリックを守護神にして、僕はド ルイド呪僧と闘わねばならなくなったのです。 貴方は、あの愛蘭土(アイル フンド)の傑僧がデシル法-(註) に似た行列を行うと、それがドルイド呪僧を駆 遂して、アルマーの地が聖化されたという史実 を御存知でしょうか」 (註)ウエールスの悪魔教ドルイドの宗儀で、   祭壇の周囲を太陽の運行と同様に、即ち、   左から右に廻る習俗。 「デシル法" それを、どうしてまた貴方が… …」と臆したように面を曇らせたが、セレナ夫 人は、そうした口の下から問い返した。「です けど、聡明な聖パトリックは、布教の方便とし て、あの左から右へ廻る行列法を借りたのでは 御座いませんこと」 「左様、それが今日の事件では、もの云(テル テ ル )う表象(シムポル) ーだったのです。然し、呪術の表象(シンボル)を他に移 すと云う事は、呪僧それ自らを滅ぽす事なんで すよ」と法水は、意地悪るげな片笑を浸べて、 陰性な威嚇を軍(ナし)めたような言葉を云い切った。 ああ、もの云(テル テ ル )う表象(シンポハ)  とは何んであろうか。 その解(ほぐ)れ切れない霧のようなものは、妙に筋 肉が硬ばり、血が凍り付くような空気を作っ てしまった。所が、そのうちセレナ夫人の眼が 異様に瞬かれたかと思うと、最初法水を見、そ れから、仲子に憎々し気な一瞥を呉れたが、す ぐにその視線は、壇下の一点に落ちて動かなく なってしまった。そこには、云いようのない不 吉な署名があった。法水が、右から左へと云う もの云(テル テ ル )う表象(シンポル)-恰度それに当るものが、クリ ヴォフ夫人の背に現われていたのだ。その指差 している手の形をした血の溜りが、あろう事か 指頭の方向を、右方の壇上-即ち伸子の位置 に向けていたからである。のみならず、或は気 の所為かは知らないけれども、何となくその形 が、竪琴(ハ プ)にも似ているように思われるのだっ たc一同は云いしれぬ恐ろしい力を感じて、暫 くその符号に釘附けにされてしまった。やが て、伸子は竪琴(ハ プ)に顔を隠して、肩を顧わせ激し い息使いを始めたが、法水は、それなり訊問を 打ち切ってしまった。三人が出て行ってしま うと、熊城は熱のあるような眼を法水に向け て、 「やれやれ、此奴もまた結構な仏様だ。どうだ い、この膳立ての念入りさ加減は」とファウス ト博士の魔法のような彫刀の跡に、思わず惑 乱気味な嘆息を洩らすのだった。検事は溜ら なくなったような息付きをして、法水に云っ た。 「すると、結局君は、この暗合を、この人(エセ )を見(ホ) よー1と解(モ)釈するのかね」 「いやどうして、それは自然(ヒツク エス)の儘(ト)にして、し( ナツ レ)か も流( ア)動体(ク)なりIIさ」と法(ワ)水は飽っ気なく云い 放ってその突然の変説が検事を驚かせてしまっ た。「無論そうなると、あの三人は、完全に僕 の指人形(ギニョ ル)になってしまうのだよ。いまに見給 え、あの三匹の深海魚は、屹度自分の胃脇を、 僕の前へ吐き出しに来るに相違ないのだから」 とそれから法水は、彼が演出しようとする心理 劇が、如何に素晴らしいかを知らせるのだっ た。 「そこで、僕がデシル法を讐楡にした本当の意 味を云うと、それが、旗太郎と提(ヴァイオリ) 琴(ン)との関係 にあったのだよ。君は気が附かなかったかね。 あの男(ヘヘヘヘ)は左利(ヘヘヘ)にも拘(ヘヘヘ)らず、現在弓(ヘヘヘヘヘ)を右(ヘヘ)に、提琴(ヘヘ) を左(ヘヘヘ)に持(ヘヘ)っていたじゃないか。つまり、それ(ヘヘヘヘヘヘヘヘ)が デシル法の、左から右ヘーの本体なんだよ。 然し支倉君、真逆にその恒(コンスタ) 数(ント)が、偶然の事故 じゃあるまいね」  その時、クリヴォフ夫人の屍体が運び出さ れ、それと入れ代って、一人の私服が入って来 た。勿論全館に互る捜査が終ったのであった が、その齎(もたら)せられた報告には、思わず驚きの眼 を暉るものがあった。と云うのは、残(モ チユ)・室(ァリ  ル ム) の鍵は勿論のことで、それにあろう事かレヴェ ズの姿が、曲目の第一を終って休憩に入ると、 同時に消えてしまつたと云うのだった。尚それ に伴って、恰度惨事が発生した時刻には、真斎 は病臥中、鎮子は図書室の中で、著作の稿を続 けていたと云う事も判った。然し、それを聴く と、法水の顔には唯ならぬ暗影が漂い始めた。 彼は最早凝然(じつ)としていられなくなったように、 焦かし気な足取りで室内を歩き始めたが、突然 立ち止って、数秒間突っ立ったままで考え始め た。そのうち、彼の眼に異常な光芒が現われた かと思うと、ポソと床を蹴って、その高い反響 の中から、挙げた歓声があった。 「うんそうだ。レヴェズの失踪が僕に栄光を与 えてくれたよ。現在僕等の受難たるや、あの男 の物凄い譜誰(ユ モア)を解せなかったにある。ねえ熊城 君、あの鍵は残(モ チユ)   室(アリ  ル ム)の中にあるのだよ。廊 下の扉(ドア)は、内側から鎖されたんだ。そして、 レヴェズは奥の屍室の中に姿を消したのだ よ」 「な、何を云うんだ。君は気でも狂ったのかη」 と熊城は吃驚して、法水を瞳(みつ)め出した。成程、 残(さ チユ)   室(アリ  ハきム)の中室の床には、足跡らしい摺(かす)れ一 つなかったのだ。また、横廊下の屍室の窓に は、内部から固く鍵金が下されていた。然し、 遂に法水は、レヴェズに飛行絨毯(フライング カ ペツト)を与えて しまったのである。 「すると、前室の湯滝を作ったのは、何のため だい。そして、中室の床に美しい幻の世界を 作って、その上の足跡を消してしまったの は?」と狂熱的な口調でやり返して、最後に、 演奏台の端をグワンと叩いた。そして、彼の閲 明は、あの幻怪極まる紋章模様(プレゾンリ )をして、遂にレ ヴェズの橿たらしめたのだった。 「所で熊城君、君はよく、莫(たぱこ)の姻をパッと輪に 吐くけれども、それを気体のリズム運動と云う のだよ。所が、それと同じ現象が、両端の温度 と圧力に差異(へだたり)がある場合、中央に膨みのある洋(ラン) 燈(プ)のホヤや、また鍵孔などにも現われるのだ。 それから、あの場合もう一つ注意を要するの は、中室の周壁をなしている石質なんだ。それ が、バシリカ風の僧院建築などに使われる石灰 石なんだが、当然永い年月の間に気化されてい るだろうからね。従って、堆塵の中には、水に 溶解する石灰分が混っていると見て差支えない のだ。そこで、レヴェズはまず、前室に湯滝を 作って濠気を発生させたのだ。すると、時聞が 経つにつれて、次第に前後二つの室の、温度と 圧力に隔たりが出来て来るのだから、そこに恰 度恰好な状態が作られる。そして、鍵孔から吐 き出される輪形の濠気が、中室の天井を目がけ て上昇して行ったのだよL 「成程、輪形の蒸気と石灰分とでか」検事は 判ったように頷いたが、その間も微かに身を額 わせていた。 「そうなんだ支倉君。そうして、その蒸気が天 井の堆塵に触れると、何よりまず、その中の石 灰分に滲透して行く。従って、内部に当然空洞 が出来るだろうから、終いには支え切れず墜落 してしまうのだ。つまり、その物質が、床の足 跡を覆うた事は云う迄もあるまい。しかも、そ の魔法の輪が、多量の石灰分を吸収した後に砕 けたので、それが、あの絢欄たる神秘を生むに 至ったのだよ⊃所が支倉君恰度これによく似た 現象を、史実の中にも発見出来るのだがね。例 えば、エルボーゲンの魚文字(イクチス)(註)の奇蹟が-・ …」 (註) ニニニ七年未だヵルルスバード温泉が発   見されぬ頃、同地から十哩を隔てたエルボ   ーゲンの町外れに、一つの奇蹟が現われ   た。それは、廃堂の床に、基督教の表象と   されている魚と云う文字が、ものもあろう   に希膿語で現われたのだった。然し、それ   は多分、鉱泉脈の間敏噴気に依るものなら   んと云われている。 「いや、それは何れまた聴くとして」と慌てて 検事は、似非(えせ)史家法水の長広舌を遮ったが、依 然半信半疑の態で相手を瞬めている。「成程、 現象的には、それで説明がつくだろう。また、 奥の屍室の中に、或は紋章(クレストレツ)のない石(ス スト ン)の一端が、 現われているかも知れん。然し、仮令(たとえ)それで、 一人二役が解決するにしてもだ。どうしても僕 には、隠さずにいい姿を隠した、レヴェズの心 情が判らんのだよ、多分あの男は、自分の酒落 に陶酔し過ぎて、真性を失ってしまったのだろ う」 「オヤオヤ支倉君、君は津多子の故智を忘れた のかね。では試しに、屍室の扉(ドア)を開かずに置こ うか。そうしたら屹度あの男は、僕等の帰った   みは考       享ド`インr 頃を見司って、横廊下に当る聖趾窓から抜け 出すだろう。そして、大洋琴(グランドピアノ)の中にでも潜り込 んで、それから催眠剤を嚥むに違いないのだ よ。サア行こう。今度こそ、あの小仏小平の戸 板を叩き破ってやるんだ」  斯うして、法水は遂に凱歌を挙げ、やがて、 中室の奥II聖パトリックの讃詩(ヒム)を刻んである 屍室の扉(ドア)の前に立った。彼等三人には、既にレ ヴェズを橿の中に発見したような心持がして、 その残忍な反応を思う存分負(むさぽ)り喰いたいのだっ た。所が、恐らく内部から鎖されていて、武具室 にある、破城槌(パツテリングラム)の力でも借りなければーと 信じられていたその扉(ドア)が、意外にも、熊城の掌 を載せたまま、すうっと後退(あとすざ)りしたのだった。 内部は、湿っぽい密閉された室特有の闇で、そ こからは、濁り切っていて妙に埃りぽい、咽喉 を櫟(くすぐ)るような空気が流れて来るのだ。そして、 懐中電燈の円い光の中には、果せる哉、数条の 新しい靴跡が現われ出たのだった。その瞬間、 闇の彼方にレヴェズの燗(けいけい)々たる眼光が現われ、 彼が喘(あえ)ぎ凝らす、野獣のような息吹が聴えて来 たーと思われたのは、彼等の彩塵が描き出し た幻だったのだ。その足跡は、奥の垂幕の蔭に 消え、最奥の棺室に続いているのである。とこ ろが、その折彼等が、思わず片唾を嚥んだと云 うのは、垂幕の裾から床の隅々にまで、送った 光の中には、僅か棺台の脚が四本現われたのみ で、そこには人影がないのだった。紋章(クレストレツ)のな(ス スト)い 石(きン)-既にレヴェズは、この室から姿を消して しまったのであろう。と、熊城が勢よく垂幕を 剥いだ時に、突然彼は、何者かに額を蹴られて 床に倒れた。それと同時に、垂幕の鉄棒が軋む 響が頭上に起って、検事の胸を目掛けて飛んだ 固い物体があった。彼は思わずそれを握りしめ た1靴。然しその瞬間、法水の眼は頭上の一 点に凍り付いてしまった。見よ、そこには一本 の裸足と、靴の脱げかかったもう一本llそ れが、鈍い大振子のように揺れているのだっ た。  宛(さな)がら、脳漿の臭を嗅ぐ思いのする法水の推 定が、遂に覆えされてしまった。レヴェズは発 見されはしたものの、垂幕の鉄棒に革紐を吊っ て、総死(いし)を遂げているのだった。閉幕-恐ら く黒死館殺人事件は、この飽っ気ない一幕を最 後に終ったのであろう。然し、この結論が、決 して法水を満足させるものでないにもせよ、そ れは不思議なくらいに、彼を狼狽させた。熊城 は、私服に下させた屍体の顔に、灯を向けて 云った。 「やれやれ、これでファウスト様の事件は終っ たらしいね。決して喝采をうけるほどの終局 じゃないけれども、真逆この洪牙利(ハンガリヨ)の騎士が、 犯人とは思いも寄らなかったよ」  それ以前既に、棺台の上が調査されていた。 そして、そこに残されている靴跡から判断する と、その端に立ったレヴェズが両手を革紐にか け、足を離しながら、首を紐の上に落した事は 疑うべくもなかった。そのーてっきり海獣を 思わせるような屍体は、同じく宮廷楽師(カペルマイスタ )の衣裳 を附けていて、胸の辺りが僅かに吐潟物で汚さ れている。尚、推定時刻は一時間前後で、略ζ クリヴォフの殺害と符合していたが、革紐は襟 布の上からそのなりに印されていて、それが頸 筋に、無残なほど深く喰い入っていた。勿論凡 ゆる点に亙って、総死の形跡は歴然たるもの だった。のみならず、それを一面にも立証しk いるのが、レヴェズの顔面表情だった。その鋤 ずんだ紫色に変った顔には、眉の内端がへの字 なりに吊り上り、下眼瞼は重そうに垂れてい て、口も両端が引き下っている。勿論それ等の 特徴は、所謂落(フオ )ちると呼(ル)ぶものであって、それ には到底打ち消しようもない、絶望と苦悩の色 が漂っているのであった。然しその聞、検事 は、頸筋の櫟布を指で摘み上げて、頻りと後頭 部の生え際の辺りを瞳(みつ)めていた。が、そうして いるうちに、その眼が不気味に据えられて来た。 「僕は、レヴェズに対するゴシップが、余り酷 評に過ぎやせんかと思うのだ。どうだろう法水 君、この磯擁形をした無残な烙印には、たしか 索溝の形状と、僻騨するものがあるように思わ れるんだが」と、てっきり、胡桃の殻としか思 われない結節の痕が、一つ生え際に止められて いるのを指し示して、  「成程、索状(さくじよう)は上向きにつけられている。そう したら、こんな結節の一つ二つなんぞは、恐ら く鎖事にも過ぎんだろう。然し、古臭いフォソ  ・ホフ々ソの『法医学教科書』の中にも、斯う 云う例が一つあるじゃないか。それは-床に 落ちた書類を筆巧tて、被害者が身体露 めた所を、その一眼鏡の絹紐で、犯人が後様に 絞め上げたと云うのだ。勿論そうすれば、索溝 が斜上方につけられているので、後で犯人は、 その上に紐を当がって屍体を吊したのだ∴躰 が、頸筋にたった一つ結節が残されていて、遂々 終いには、それが、口を利いてしまったーと 云うのだがねLそう云ってから、レヴェズの自 殺を心理的に観察して、検事はこの局面で、最 も痛い点に触れた。 「それに法水君、仮令(たとえぱ)レヴェズが本開閉器(メイン スィリチ)を消 し、それから僕等のしらない、秘密の通路を 潜って、クリヴォフ夫人を刺したにしてもだ、 大体、クニットリソゲソの魔法博士ファウスト ともあろうものが、何故最後の大見得を切らな かったのだろうか。あれ程芝居気たっぷりだっ た犯罪者の最後にしては、凡てが余りに飽っ気 ないほど、サッパリし過ぎているじゃないか」 と到底解し切れないレヴェズの自殺心理が、検 事を全く昏迷の底に陥し入れてしまった。彼は 狂わし気に法水を見て、「法水君、この自殺の 奇異な点だけは、君が、十八番のストイック頒(ペニ) 翻瓢からショーペソハウエルまで持ち出して来 ても、恐らく説明は附かんと思うね。何故な ら、目下犯人の戦闘状態たるや、完全に僕等を 圧しているんだ。そこへ持って来て、余りに唐 突な終局なんだ。ああ、憐むべき萎縮じゃない か。どうして、この男の想像力が、あのサル ヴィニ(嬬纏鵬蜜)張りの大芝居だけで、尽 きてしまったとは信じられんよ。時の選択を誤 らないためにか、それとも、誇らし気に死ぬた めか……。いやいや、決してその敦(ど)っちでもな い筈だ」  「或は、そうかも知れんがね」と法水は農(たぱこケ)で函( ス) の蓋を叩きながら、妙に含む所のあるような、 それでいて、検事の説を真底から肯定するよう にも思われる1異様な頷き方をしたが、「そ うすると、さしずめ君には、ピデリットの『擬容(ミミク ) と相貌学(ウント フイジオグノミ ク)』でも読んで貰う事だね。この悲 痛な表情は落(つオ )ちると云(ル)って、到底自殺者以外に は求められないものなんだよ」そう云ってから 垂幕を強く引くと、頭上に鉄棒の捻りが起っ た。「ねえ支倉君、ああして聴えて来る響が、 この結節を曲者に見せたのだったよ。何故な ら、レヴェズの重量が突然加わったので、鉄棒 に弾みがついてしない始めたのだ。すると、そ の反動で、懸垂されている身体が、独楽みたい に廻り始めるだろう。勿論それに依って、革紐 がクルクル撚れて行く。そして、それが極限に 達すると、今度は逆戻りしながら解けて行くの だ。つまり、その廻転が十数回となく繰り返え されるので、自然撚り目の最極の所に結節が出 来、それがレヴェズの頸筋を、強く圧迫したか らなんだよ」  そうして、事象としては完全な説明が附いた ものの、何となく法水には、それが独り占いのよ うに思えてならなかった。彼は依然暗い顔のま まで、無暗と莫(たぱこ)を姻にしながら考えに耽った。 ー博士(ドクタ )ファウスト別名(エ リァス)オットカール.レヴェ ズが、人生を煙りのように去った。然し、それ は何故であるか。  それから、一応此処で検屍を行う事になった が、まず前室の扉(ドア)の鍵が、衣袋(ポケツト)の中から発見さ れた。所が、その直後1ひしゃげ潰れたレ ヴェズの襟布(カラ )を外した時に、思いがけなく、そ の下から三人の眼を激しく射返したものがあっ た。遂に、レヴェズの死が論理的に明らかと なった。恰度軟骨の下-気管の両側の辺り に、二つの栂指の痕が、まざまざと印されてい たのである。しかも、その部分に当る頸椎に脱 臼が起っていて、疑いもなkレヴェズの死因 は、その掘殺に依るもので……、恐らくそうし てから、絶命に刻々と迫って行く身体を、犯人 は吊し上げたのであろうーと断ぜねばならな くなってしまった。既に明白である1局面は 再び鮮かな蜻蛉(とんぼ)返りを打った。然し、それには 右指の方に極立った特徴があって、その方にの み、爪の痕が著しく印されている。そして、指 頭の筋肉に当る部分が、薄っすらと落ち窪んで いて、それが何か腫物でも、切開した痕らしく 思われるのだった。然し、勿論それで、レヴェ ズの自殺心理に関する疑念だけは、一掃された けれども、一方鍵の発見に依って、疑問は更に 深められるに至った。  既に此の局面には、否定も肯定も一斉に整理 されていて、そこには幾つかの、到底越え難い 障壁が証明されているのだった。恐らく犯人 は、レヴェズを前室に引き込んで拓殺し、その 屍体を奥の屍室の中に担ぎ入れたのであろう、 然し、前室の鍵が、被害者の衣袋(ポヶツト)の中に蔵われ ているにも拘らず、その扉(ドア)を、如何にして犯人 は閉じたのであろうか。また、屍室に残されて いる足跡にも、レヴェズ以外のものがないばか りでなく、顔面表情も自殺者特有のもので、そ れに恐怖驚拷と云うような、情緒が欠けている のは何故であろうか。尤も、横廊下に開いてい る聖趾窓(ピイド ウインド )には、その上段.だけが透明な硝子(ガラス)に なっているけれども、一面に厚い埃の層で覆わ れていて、それには脱出の方法を、想起し得る             欠レストレツス.ストーン 術もないのだった。従って、紋章のない石1 に、解答の凡てがかけられてしまったのも、是 非ない事である。検事は屍体の髪を掴んで、そ の顔を法水に向けた。そして、彼が嘗てレヴェ ズに対して採ったところの、酷烈極まりない手 段を非難するのだった。 「法水君、この局面の責任は、当然君の、道徳 的感情の上に掛って来るんだ。成程、あの際の 心理分析から、君は地精の札の所在を知る事が 出来た。また、危く闇から闇に葬られる所だっ たーこの男と、ダソネベルグ夫人との恋愛関 係も、君の透視眼が捌扶(てつけつ)したのだ。けれども、 レヴェズは君の誰弁に追い詰められて、自分の 無享を証明しようとした結果、護衛を断ったん だぜ」  それには、法水も真向から反駁する事は出来 なかった。敗北、落胆、失意-1希望の凡てが 彼から離れてしまったばかりでなく、宛(っさた)がら永 世の重荷となるような暗影が、一つ心の一隅に 止まってしまった。多分チ、の幽霊は、法水に絶 えず斯う嚥く事だろう、ーお前がファウスト 博士をして、レヴェズを殺させたのだーと。 然し、レヴェズの気管を強圧した二つの栂指痕 は、この場合、熊城に雀躍(こおど)りさせた程の獲物 だった。それで早速、家族全部の脂痕を蒐集す る事になったが、その時一一人の召使を伴った 私服が入って来た。その召使(ノトラ )というのは、以前 易介事件の際にも、証言をした事のある古賀庄 十郎と云う男で、今度も休憩中に、レヴェズの 不可解な挙動を目撃したと云うのだった。 「君が最後にレヴェズを見たと云うのは、何時 頃だね」と早速に法水が切り出すと、 「はい、たしか八時十分頃だったろうと思いま すが」と最初は屍体を見まいとするもののよう に顔を背けていたが、云い始めると、その陳述 はテキパキ要領を得ていた。「曲目の第一が終っ て休憩に入りましたので、レヴェズ様は礼拝堂 からお出でになりました。その時私は広間(サロン)を抜 けて、廊下をこの室の方に歩いて参りました が、その私の後を眼けて、レヴェズ様も同様歩 んでお出でになるのでした。然し、それなり私 は、この室の前を過ぎて換衣室の方に曲ってし まいましたけれども、その曲り角で不図(ふと)後を振 り向きますと、レヴェズ様はこの室の前に突っ 立ったままで、私の方を凝然(じつ)と見ているので御 座います。それはまるで、私の姿が消えるのを 待っているかのようで御座いました」  それに依ると、レヴェズが自分からこの室に 入ったと云っても、それには寸分も、疑う余地 がないのであった。法水は次の質問に入った。 「それから、その時他の三人はどうしていた ね?」 「それは御各自(ごめいめい)に、一応はお室に引き上げられ たようで御座いました。そして、曲目の次が始 まる恰度五分前頃に、三人の方はお連れ立ちに なり、また伸子さんは、それから幾分遅れ気味 にいらっしゃったよう、記憶して居りますが」  それに、熊城が言葉を挾んで、「そうすると 君は、その後に、この廊下を通らなかったのか い」 「はい、間もなく二番目が始まりましたので。 御承知の通り、この廊下には絨毯が敷いて御座 いませんので、音が立ちますものですから、演 奏中は表廊下を通る事になって居りますので」 とレヴェズの不可解な行動を一つ残して、庄十 郎の陳述はそれで終った。所が、終りに彼は、 不図(ふと)思い出したような云い方をして、「ああそ うそう、本庁の外事課員と仰言る方が、広間(サロン)で お待ち兼ねのようで御座いますが」  それから、璃(モ チユ)   室(アリ  ル ム)を出て広聞(サロン)に行くと、 そこには、外事課員の一人が、熊城の部下と連 れ立って待っていた。勿論その一つは、黒死館 の建築技師lーディグスビイの生死如何に関す る報告だった。然し、警視庁の依頼に依って、 蘭貢(ラングヨン)の警察当局が、多分古い文書までも漁って くれたのであろう。その返電には、ディグスビ イが投身した当時の顛末が、可成り詳細に亙っ て記されてあった。それを概述すると、ー一 八八八年六月十七日払暁五(ふつぎよう)時、波斯女帝号(エンプレス オヴ ペルシヤ)の 甲板から投身した一人の船客があった。そし て、多分首は、推進機に切断されたのであろう が、胴体のみはその三時間後に、同市を去るニ 哩(マイル)の海浜に漂着した。勿論、その屍体がディグ スビイであると云う事は、、着衣名刺その他の所 持品によって、疑うべくもないのだった。  次に熊城の部下は、久我鎮子の身分に関する 報告を齋した。それに依ると、彼女は医学博士 八木沢節斎(ぬざきわせつさい)の長女で、有名な光蘇の研究者久我(くが) じようよう 錠二郎に嫁ぎ、夫とは大正二年六月に死別して いる。勿論鎮子をその調査にまで導いて行った ものは、いつぞや法水が彼女の心像を発(あぱ)いて、 算哲の心臓異変を知る事の出来た心理分析に あったのだ。また鎮子がそればかりでなく、早 期埋葬防止装置の所在までも算哲から明かされ ているとすれば、当然両者の関係に、主従の培(ハき) を越えた異様なものがあるように思われたから である。然し、八木沢と云う旧姓に眼が触れる と、突然法水は異様な呼吸を始め、惑乱(わくらん)したよ うな表情になった。そして、その報告書を掴む や、物も云わずに広間(サロン)を出で、その足でつかつ か図書室の中に入って行った。  図書室の中には、アカソザス形をした台のあ る燭台が、ポツリと一つ点されているのみで、. その暗欝な雰囲気は、著作をする時の鎮子の習 慣であるらしかった。然し彼女は、一向何の感 覚もなさそうに、凝(じ)っと入って来た法水を瞬め ている。その凝視は、法水に切り出す機会を失 わせたばかりでなく、検事と熊城には、一種の 恐怖さえも齋せて来た。やがて、彼女の方か ら、切れぎれな、しかも威圧するような調子で 云い出した。 「ああ、判りましたわ。貴方がこの室にお出で になったと云う理由が……。ねえ、多分あれな んでしょう。いつかの晩、私はダンネベルグ様 のお側に居りましたわね。またその後惨事が起 るその都度にも、私は一度だって、この図書室 から離れていた事は御座いませんでした。ねえ 法水さん、いつかは貴方が、その逆説的効果 に、お気附きなさらずにはいまいと考えて居り ましたわ」  その間、法水の眼が一秒毎に光を増して、相 手の意識を刺し通すような気がした。彼は身体 を捻じ向けて、一寸微笑みかけたが、それは中 途で消えてしまった。 「いや決して、そんな甘い挿話(エピソ ド)ではないので す。僕は貴女の所へ、これを最後と思って来た のですよ。所で、八木沢さん……」と-八木 沢と云う姓を法水が口にすると、それと同時 に、鎮子の全身に名状すべからざる動揺が起っ た。法水は追及した。「たしか貴女のお父上八 木沢医学博士は、明治二十一年に、頭蓋鱗様部(ずがいりんようぷ)   せつじゆか 及び顧額窩崎形者の犯罪素質遺伝を唱えました ね。すると、それに、故人の算哲博士が駁論を 挙げたでしょう。所が、不審な事には、その論 争が一年も続いて、正しく高潮に達したと思わ れた矢先に、まるでそれが、黙契でも成り立っ たかのように消え失せてしまいましたね。そこ で、試しに僕は、過去黒死館に起った出来事 を、年代順に排列して見ました。そうすると、 次の明治二十三年には、あの四人の嬰児が、遙 遙海を渡って来たではありませんか。ねえ八木 沢さん、多分その間の推移に、貴女がこの館に お出でになった理由があると思うのですがL 「もう、何もかも申し上げましょう」と鎮子は 沈欝な眼を上げた。心の動揺がすっかり収まっ たと見えて、一旦は見分けもつかぬ深みへ、落 ち込んでしまった顔の凹凸が、再び恐ろしい鋭 さでもって影を橿(もた)げて来た。「私の父と算哲様 があの論争を中止致しましたのは、つまりその 結論が、人間を栽培する実験遺伝学と云う極論 に行き詰ってしまったからで御座います。そう 申し上げればあの四人が、たかが実験用の小動 物に過ぎないと云う事はお判りでしょう。そこ で、四人の真実の身分を申しますと、各ζに紐 育(ニユ ヨ ク)エルマイラ監獄で死刑を遂げた、猶太人(ジユウ)、伊 太利人(デイエ コ)などの移住民(エミグラニト)を父にしているので御座い ます。つまり、刑死体を解剖して、その頭蓋形 体を具えた者が居りました際には、その都度そ の刑死人の子を、典獄ブロックウェーを通じて 手に入れたのでした。そして、遂にその数が、 国籍を異にするあの四人になって……ですから ハートフォード福音伝道者(エヴアンジエリスト)誌の記事も、また、 大使館公録のものも、みんな算哲様が、金に飽 かした上での御処置だったので御座います」 「そうすると、この館にあの四人を入籍させ 一\動産の配分に紛糾を起させたと云うのも、 つまりが、結論を見出さんがための筋書だった のですね」 「左様で御座います。あの方の御父上も同様の 頭蓋形体だったそうですが、それも御座いまし たのでしょう、算哲様は御自分の説に、殆ど狂 的な偏執を持っていらっしゃいました。然し、 あの方のような異常な性格な方には、我々の云 う正規の思考などと云うものは問題では御座い ません。没頭ーそれが生命の全部であり、遺 産や情愛や肉身などと云う環事は、あの広大無 辺な、知的意識の世界にとれば、僅かな塵にし か過ぎないので御座います。そこで、私の父と 算哲様は後年を約して、その成否を私が見届け る事になりました。所が、その際算哲様は、頗 る陰険な策動をなさったので御座います。と申 しますのは、クリヴォフ様に就いてで御座いま すが、あの方が日本に到着すると間もなく、剖 見の発表が取り違えられたと云う通知が参りま した。そこで、算哲様は一計を案じて、四人の 名を『グスタフス・アドルフス』伝の中から採 ったので御座います。つまり、その頭蓋に依る 遺伝素質のないクリヴォフ様には、暗殺者の名 を。他の三人には、暗殺者ブラー工の手に狙撃 された、ワルレソシュタイソ軍の戦残者の名を 附けたのでした。そして、この書庫の中から、 グスタフス王の正伝を悉く省いてしまって、そ れに『リシユリュー省機密閣史(ブラツク キャさヒネツト)』を当てたので したけれども、恐らくその人名は、家族の者に も、また貴方がたの捜査官にも、何等かの使嫉(しそう) を起さずにいまいと考えられて居りました。で すから法水さん、これで、何時ぞや貴方に申し 上げた、霊性(ガイスチヒわイト)と云う言葉の意味がーつま り、父から子に、人間の種子が必ず一度は彷僅(エ  よムしト) わねばならぬ、あの荒野(ヴユステ)の意味がお判りで御座 いましょう。そうして、今日クリヴォフ様が驚(セお) されたのですから、そうなると、当然算哲様の 影が、あの疑心暗鬼の中から消えてしまうでは 御座いませんか。ああ、この事件は凡ゆる犯罪 の中で、道徳の最も頽廃した型式なので御座い ます。そして、その鋤(くろ)ずんだ溝(どぷ)臭い溜水の中 で、あの五人の方々が喘ぎ競(せめ)いでいたので御座 いますわ」  斯うして、四人の神秘楽人の正体が暴露され ると同時に、過去に於ける黒死館の暗流には、 ただ一つ、二つの変死事件のみが残されてし まった。それから、何時も訊問室に当ててい る、ダソネベルグ夫人の室に戻ると、そこには 旗太郎とセレナ夫人とが、四五人の楽壇関係者 らしいのを従えて待っていた。所が、法水の顔 を見ると、温雅な彼女にも似げない、命令的な 語調で、セレナ夫人が云い出した。 「私共は明瞭した証言をしに参りました。実 は、伸子を詰問して頂きたいのですが」 「なに紙谷伸子をη」と法水は、一寸驚いたよ うな素振りを見せたけれども、その顔には、隠 そうとしても隠し得ようのない、会心の笑( えみ)が浮 んで来た。 「そうすると、あの方が、貴女がたを殺すとで も云いましたかな。いや、事実誰かれにも、到 底打ち壊すことの出来ない障壁があるのです よ」  それに、旗太郎が割って入った。そして、相 変らずこの異常な早熟児は、妙に老成した大人 のような、柔か味のある調子で云った。 「法水さん、その障壁と云うのが、今まで僕等 には、心理的に築かれて届りましてね。現に津 多子さんが、最前列の端にいられたのを仰存知 でしょう。所が、その障壁を、いま此処にいら れる方々が打ち壊してくれたのでした」 「私は、装飾灯(シヤンデリヤ)が消えるとすぐに、竪琴(ハ プ)の方か ら人の近附いて来る気配を感じました」とそう 云いながら、多分評論家の鹿常充(しカつねみつる)と思われるl lその額の抜け上った四十男は、左右を振り向 いて周囲の同意を求めた。そして続けた。「サ ア、それは気動とでも云うのでしょうかな。そ れより、絹が摺れ合うと捻りが起りますから、 多分それではないかと思うのです。然し敦(いず)れに しても、その音は次第に拡がりを増して参りま した。そして、それがパッタリ杜絶えたかと思 うと、同時に壇上で、あの悲痛な坤き声が発せ られたのです」 「成程貴方の筆鋒(ペン)には、充分毒殺的効果はある でしょう」と法水は、寧ろ皮肉な微笑を洩らし て領いた。「ですが、斯う云うハックスレイを 御存知ですか。  証拠以上に出た断定は、誤 謬と云うだけでは済まされない、寧ろ犯罪(クライム)であ るーと。ハハハハハ、どうせ音楽(ミユ ズ)の神の絃(いど)の 音までも聴けるのでしたら、そんな風に、鶏の 声でイビクスの死を告げると云うのはどうです かな。却って僕は、アリオソを救った方が、音楽 好きの海豚(いるか)の義務ではないかと思うのですよL 「なに、音楽好きの海豚(いるか )ですって17」居並んで いる一人が憤激して叫んだ。その男は左端に近 い旗太郎の直下にいた。大田原末雄(おおたわらすえお)と云うホル ソ奏者であった。「よろしい、アリオンは既に 救われているんですぞ。然し、僕の位置が位置 だったので、鹿常君の云うその気配と云うのは 聴えませんでした。けれども、却ってこのお二 人に近かっただけに、完全な動静を握っている と云っても過言ではないのですよ。法水さん、 僕もやはり異様な稔りを聴きました。それは、 坤き声が起ると同時に杜絶えましたが……然し その音は、旗太郎さんが左利きで、セレナ夫人 が右利きである限り、弓(きゆう)の絃(いと)が、斜めに擦れ 合って起ったものに相違ないのですよ」  その時セレナ夫人は、皮肉な諦めの色を現わ して法水を見た。 「とにかく、この対照の意味が非常に単純なだ けに、却って皮肉な貴方には、評価が困難なの で御座いましょう。けれども、御自分の慣性以 外の神経で、もし判断して頂けるのでしたら、 吃度あの購慰に、クラコウ(駈鋭輝於鮒稀働知舳石桝) の想い出が輝くに相違御座いませんわ」  そうして、一同が出て行ってしまうと、熊城 は難色を現わして、法水に毒付いた。 「いやどうも呆れた事だ、寧ろ与えられたもの を素直に取る方が、君に適わしい高尚な精神だ と思うんだがね。それより法水君、今の証言 で、君が先刻云った武具室の方程式を憶い出し て貰いたいんだ。あの時君は、Nー一"、= ■斗】だと云ったね。然し、その解答クリヴォ フが殺されたとしたら……L 「冗談じゃない。あんな賎民(チゴイネル ユ)の娘(ングフラウ)が、どうし て、この宮廷陰謀の立役者なもんか」と法水は 力を軍(こ)めて云い返した。「成程、伸子と云う女 は頗る奇妙な存在で、ダソネベルグ事件と鐘鳴 器(カリルロン)室を除いた以外は、完全に情況証拠の網の中 にあるのだ。然し、あの標本的な人身御供があ るために、ファウスト博士は陽気な御機嫌を続 けていられるんだぜ。第一伸子には、動機も衝 動もない。例えばどんな作虐(サデ)性犯罪者(イスト)でさえ も、そう云った病的心理を、引き出すに至る動 因が、必ずあるものなんだよ。現に、いまもあ の好楽(フイルハ モニ)の海豚共(ツク ドルフインズ)が……」  と法水が何事かに触れようとした時、先刻調 査を命じて置いた栂指痕の報告が齎された。然 し、結果は徒労に終って、それに該当するもの は、遂に現われ出て来なかった。法水は疲れた ような眼をして、暫く考えていたが、不図(ふと)何と 思ったか、広聞(サロン)の媛炉棚(マントルピ ス)に並んでいる、忘(ポツツ オヴ)れ な壷( メモリ )を持参するように命じた。それは総計二十 余りもあって、既に故人となり、離れ去った人 達のもあるけれど、この館に重要な関係を持っ た人達には、汎ねく作らせて、回想を永遠に止 めんがためのものであった。表面には、西班牙(スペイン) 風の美麗な粕薬が施されていて、素人の手作り の所以(せい)か、何処か形に古拙な所があった。法水 はそれをずらりと卓上に並べて云った。 「或は、僕の神経が過敏過ぎるのかも知れない がね.、然し、この館のような、精神病理的人物 の多い所では、押捺した指痕などと云うものに 信頼を置くと、それが抑ζの間違いになるのだ よ。何故なら、時偶(ときたま)外見に現われない発作があ るからね。その時強直なり鼠痩(るいそう)なりが起った場 合に、僕等は飛んでもない錯誤を招かんけりゃ ならんのだ。然し、この壼の内側には、必ず平 静な状態の時、捺された栂指痕があるに相違な い。熊城君、君は、此処にある壼を巧く割って くれ給え」  そうして糸底の姓名と対照して割って行くう ちに、遂々二つが残されてしまった。「クロー ド・ディグスビイ」……割られたが、然し、あ のウェールズ猶太(ジユウ)のものとは異なっていた。次 に、降矢木算暫-…熊城の持った木槌が軽く打 ち下されて、胴体にジグザグの艀(ひぴ)が入った。そ うして、それが二つに開かれた次の瞬間、三人 は全く悪夢のようなものを掴まされてしまっ た。恰度縁(へり)から幾分下方に当る所に、疑うべく もない栂指痕が、レヴェズの咽喉に印されたの と同一の形で現われた。流石(さすが)に検事も熊城も、 この衝撃には言葉を発する気力さえ失せてし まったらしい。そうしているうちに、熊城は眠 りから醒めたような形で、慌てて莫(たぱこ)の灰を落し たが、 「法水君、問題は、これで緕麗さっぱり割り切 れてしまったのだ。もう猶予する所はない。算 哲の墓砦(ぼこう)を発掘するんだL 「いや、僕は飽くまで正統性(オ ソドキしイ)を護ろう」と法水 は異様な情熱を軍(と )めて叫んだ、「あの疑心暗鬼 に惑(まど)わされて、算哲の生存を信ずると云うのな ら、君は勝手に降霊会でも開き給え。僕は紋章(クレスト) のない石(レツス スト ン)1-を見つけて、人間様の殺人鬼と闘 うんだ」  それから壁炉の積石に刻まれている紋章の一 つ一つを辿って行くと、果して右側の積石の中 に、それらしいものを発見した。そして、法水 が試みにそれを押すと、奇妙な事には、その部 分が指の行くが儘に落ち窪んで行く。すると、 それと同時に、その一段の積石が音もなく後退 りを始めて、やがて、その跡の床に、パックリ と四角の闇が開いた。坑道ーディグスビイの 酷烈な呪咀の意志を睾(こ)めたこの一道の闇は、壁 間(へきかん)を縫(ぬ)い階屑の間隙を歩いて、何処へ辿り附く のだろうか。鐘鳴器(カリルロン)室か礼拝堂か或は 残 室(みし チユアリき ル ム)の中にか、それとも四通八達の岐路に分れ て:…七 2 伸子よ、 運命の星の汝の胸に  足許には小さな階段が一つあって、そこから 漆のような闇が覗いている。永年外気に触れた 事のない陰湿な空気が、宛がら屍温のようなぬ くもらと、一種名状の出来ぬ徽臭さとを伴って、, ドロリと流れ出て来る1文字通りの鬼気だっ た。法水等三人は、早速懐中電燈を点して、肩 を狭めながら階段を下りて行った。すると、そ こは半畳敷程の板敷になっていて、其処まで 来ると、今迄は光線の加減で見えなかったス リッパの跡が、床に幾つとなく発見された、然 し、その中には極めて新しい一つがあって、そ れが一直線に階段の上まで続いているけれど も、その小判形の痕には、多分静かに歩いた所 以であろうか、前後の特徴さえも残っていない のである。従って、果してそれが階段から下り て来たものか、それとも、奥の坑道から辿り 来ったものか、勿論その識別は不可能なので あった。その時、周囲を照らしていた熊城が アッと叫んだ。見ると、右手の上方に、棲愴(せいそう)な 生え際を見せた悪鬼バリ(脚簸加か郁齢鶴映幼中)の 木彫面が掛っていて、その左眼の瞳が、五分ば かり棒のような形で突き出ている。それを押す と、反対に右の方が持ち上って来て、上から差 込む光線が狭められて行った1積石が旧の位 置に戻ったからである。それから法水は、その スリッパの跡と歩幅の間隔とを計ってから、前 方に切り開かれている短冊形の闇の中へ入って 行った。実にそれからが、往昔羅馬皇帝トラヤ ヌスの時代に、総督プリニウスが二人の女執事(デアコノ) を使って、カリスタス地下聖廊を探らせた際 の、光景を髪髭とするものであった。  坑道の天井からは、永年の埃の堆積が鍾乳石 のような形で垂れ下っていて、呼吸をする毎に 細塵が飛散して来て、咽喉が櫟(くすぐ)られるように 咽(むせ)っぽかった。それでなくても、空気が新鮮で ないために、妙に息苦しく、もしこの際松火(たいまつ)を 使ったとしたら、それは輝かずに燥ぶり消える だろうと思われた。それに、館中の響がこの空 間には異様に轟いて来て、時折岐路ではないか と思ったり、また、人声のようにも聴えたりし て、胸を躍らすのも屡ζであった。然し、ス リッパの跡は何処までも消えずに彼等を導いて 行った。その足許には、雪を踏みしだくような 感じで埃の堆積が崩れ、それを透して、樹(かしわ)の冷 たい感触が、頭の頂辺まで滲み透るのだった。 斯うして、この随道(トンネル)旅行は彼是二十分余りも続 いた。坑道は右に左に、また、或る部分は坂を なし、殆ど記憶出来ぬほど曲折の限りを尽し て、最後に左に曲ると、そこは袋戸棚のような 行き詰りになっていた。そして、そこにも悪鬼 バリの面が発見された。ああ、その石壁一重の 彼方は、館の何処であろうか。法水は片唾を呑 んで面の片眼を押した。すると、その右の扉(ドア) は、熊城の肩を微かに掠って開かれたが、前方 にも依然として闇は続いている。然し、何処か らとなく、寛かな風が訪れて来て、そこが広い 空間であるのを思わせるのだった。  法水は前方の空聞を目がけて、斜めに高く光 を投げた。けれども、その光は、闇の中を空し く走ったのみで、何も映らなかった。それで、 今度は一歩踏み込んで、頭上に向けると、そこ には、醜い苦渋な相貌をした三人の男の顔が現 われた。法水はそれに依って、一切を知る事が 出来たのである。聖パゥロ、殉教者イグナチウ ス、コルドバの老証道人(コンフエツサ )ホシウス……と壁面の 彫像柱(カリアテイデ)を、三つまでは数えたが、その声に俄然. 顧えが加わって来て、 「墓砦(クリプト)だよ、遂々僕等は算哲の墓砦(クリプト)にやって来 てしまったんだ」と狂わし気に叫んだ。  その声と同時に、熊城は≡二歩進んで行っ て、円い灯で前方を一の字に掃いた。すると、 その中に幾つかの石棺の姿が明滅して、明らか にこの一劃が、算哲の墓砦(クリプト)に相違ない事が分っ た。三人は切れ切れに音高い呼吸を始めた。い つぞやレヴェズが法水に云った、地精(コボルト ジ)よ、い(ツヒ ミユ)そ しめーの解( エン)釈が、今や幻から現実に移されよ うとしている。しかも、スリッバの跡は、中央 にあって一際巨大な、算哲の棺台を目がけて、 一文字に続いているのだ。その蓋には、軽鉄で 作られた守護神聖(セント)ゲオルヒが横わっていて、そ れは軽く擾げられた。恐らく、その時三人の心 中には……、算哲の棺台のみに脚がなくて、そ れが大理石の石積で作られている事から、たし か棺中にはファウスト博士の姿はなくて、そこ からまた、地下に続く新しい坑道が設けられて いるように思われていた。  ところが、蓋が擁げられて、円い光がサッと 差し入れられた時……思わず三人は、傑然とし たものを感じて、跳び退いた。見よその中に は、異形な骸骨が横わっているではないか。静 臥している筈の膝が高く折り曲げられていて、 両手は宙に浮き、指は何物かを掻かんとするも ののように、無残な曲げ方をしている。しか も、三人が跳び退いた機みに、それがカサコソ と鳴って、おまけに尚薄気吠悪い事には、助骨 の端が一二本ポロ.リと欠け落ちて、それも灰の ようにひしゃ潰れてしまうのだった、然し、左 助骨には創傷の跡が残っていて、明らかにそれ は、算哲の遺骸に相違ないのだった。 「算哲はやはり死んでいたのだ。すると、一体 あの指痕は、誰のものなんだろうか」と熊城を 顧みて、検事は捻るような声で眩いた。がその 時、法水の眼に妖しい光が閃めいたかと思う と、顔を算哲の胸骨に押し付けて、動かなく なってしまった。実に意外千万にも、その胸骨 には縦に刻まれている、異様な文字があったの である9   PATER! HOMO SUM(パテ ルホモスム)! 「父よ、吾も人の子なりー」と法水は、その 一行の羅旬(ラテン)文字を邦訳して口諦んだが、異様な 発見は尚も続けられた。と云うのは、その彫字 の縁に、所々金色をした微粒が輝いているの と、もう一つは、欠け落ちた爾の隙に、多分小 鳥らしいと思われる、骸骨が突込まれている事 だった。法水はその微粒を手に取って、暫く眺 めすかしていたが、 「ああ、恐らくこれが、ファウスト博士の儀礼(パンチリオ) なんだろうがね。然し熊城君、この文字は乾 板で彫ってあるのだよ。父(パテ)よ吾( ル )も人(ホモ)の子( ス)な(ム)り ーって。それに、菌の聞に突っ込まれてい る、小鳥の骸骨らしいのは、多分早期埋葬防止 装置を妨げたと云う、山雀(やまがら)の死体に違いないの だ。ねえ怖ろしい事じゃないか。つまり、一旦 算哲は棺中で蘇生したのだが、その時犯人は、 山雀の雛を挾んで電鈴(ベル)の鳴るのを妨げたのだ よ」  法水の声のみが陰々と反響しても、それがて んで耳に入らなかったほど、検事と熊城は、目 前の戦傑すべき情景に惹き付けられてしまっ た。その姿体は、明白に棺中の苦悶であり、そ の結論は生体の埋葬に相違なかった。然し、そ うは云うものの、またファウスト博士にとれ ば、算哲が棺中で蘇生してから狂ったように合 図の紐を引き、しかも救けは来ず、力も漸く尽 きようとして、頭上の蓋を掻き少(むし)毛っている有様 と云うのが、恐らくまた、残虐な快感を齋(もたら)せた ものだったかも知れないのである。そうして、 犯人の冷酷な意志は、山雀(やまがら)の屍骸と父(パテ)よ、吾( ル )も 人(ホモ)の子( ス)なりーの一(ム)交にとどめられるのである から、当然久我鎮子が、道徳の最も頽廃した形 式と、叫んだのも無理ではないかも知れない。 所謂黒死館殺人事件と呼ばれて、酷烈惨鼻を極 めた流血の歴史よりかも、既にそれ以前行われ ていて、しかも眼の当り、遺骸の形状にもそれ と頷かれる恐怖悲劇の方が、胸を塞(ふさ)いで来る何 物かを持っていたのは事実だった。それから、 スリッパの跡の調査を始めたが、それは聖窟(ウリプト)の 階段を上り切った頭上の扉(ドア)口-即ち墓地の棺 寵(カタフアルコ)まで続いている。然し、此処まで来ると、漸 くその前後が明らかになって、犯人がダンネベ ルグ夫人の室から坑道に入り、それから棺(カタフア) 寵(ルコ) の蓋を開けて、裏庭の地上に出たのを知る事が 出来た。またそれ以外にも、埃に埋もれかかっ た足跡らしいものが散在していて、既(とう)からあの 明けずの間に、異様な潜入者のあった事は疑う べくもなかった。調査が終ると、三人は槍僅に 石棺の蓋を閉じて、この圧し狂わさんばかり の、鬼気から遁れて行った。そして、道々法水 は、幾つかの発見を綜合整理して、それを鎖の 輪のように繋げて行った。 一、父(パ ア)よ、吾(ヨル  ホ)も人の子(モ マ)なりの考(ム)察i。既に それは、如何んとも否定し難い物云(テル テ ル )う表徴(シノニ ル) である。然し、算哲が自説の勝利に対する 狂的な執着からして、四人の異国人を帰化 入籍させたのみならず、常軌を逸した遺言 書を作ったり、また屍様図を描き魔法典焚 書を行ったりして、犯罪方法を暗示したり 捜査の撹乱を予め企たと云う事が、果し て、三人のうちどの一人に衝撃を与えたか ーその決定は勿論疑問なのだった。と云 うものの、その父ーの一語は、明白に 旗太郎もしくは、セレナ夫人を指してい て、或は旗太郎が、遺産に関する暴挙に復 仇したものか、それともセレナ夫人が、何 等かの動機から、算哲の真意を知る事が出 来てーそれには、法水の狂的な幻影とし か思われない、屍様図の半葉が暗示されて 来るのであるが!もしそう、だとすれば、 夫人の衿持の中に動いている絶対の世界  が、或は、世にもグロテスクな、この爆発  を起させたかも知れないのである。そうし  て、その意志表示が、吾(ホモ)も人( ス)の子(ム)なりー  の一句に相違ないのだけれども、仮りにも  しそれが偽作だとすれぱ、今度は押鐘津多  子を、この狂文の作者に推定しなけれぱな  らない。 二、犯罪現象としての押鐘津多子にー。既  に明白なのは、神意審問会の際張出縁に動  いていた人影と、最初乾板を拾いに来た園  芸倉庫からの靴跡、それに薬物室の閣入者  iと以上の三人が、算哲を発し、あの夜  ダンネベルグ夫人の室に侵入した人物と同  一人だと云う事だった。そうすると、当然  問題が、ダンネベルグ事件に一括されて、  それには、否定すべからざる暗影を持つ押  鐘津多子が、しかも、動機中の動機とも云  うべきものを引っさげて、登場して来るの  だった。勿論、確実な結論として律し得な  い限りは、それ等の推測も、無の中の一突  起に過ぎないではあろうが。  再び旧の室に戻って、椅子の上に落ち着く と、法水は撫然と顎を撫でながら驚くべき言葉 を吐いた。 「実は、算哲の屍骸の中に、二つの狂暴な意志 表示が含まれているのだよ。一度(ヘヘヘ)はディグス(ヘヘヘヘヘ)ビ イの呪咀(ヘヘヘヘヘ)のために殺(ヘヘヘヘヘ)され、そうして蘇生(ヘヘヘヘヘヘヘヘ)した所(ヘヘ) を、今度(ヘヘヘヘ)はファウスト博士(ヘヘヘヘヘヘヘヘ)が止(ヘヘ)めを刺(ヘヘヘ)したのだ(ヘヘヘ)。 つまり、あれは二重の殺人なんだよL 「なに、二重の殺人P」と熊城が驚きの余りに 門い返すと、法水は大階段(ビハインド ステ)の裏(イァス)1を、実に三. 度転倒させて、愈ζ最終の帰結点を明かにし た。 「そうじゃないか熊城君、有名なラソジイ(配噸 辮鶴解)の言葉に、秘留諺濃の最終は彫プル宅ジャ藍 理(メント)にありーと云うのがあるからね。そこで、 その同(シラプル) 字( アジヤ) 整(ストメント) 理を紋章(クレストレツ)のない石(ス スト ン)に試み て、SとS、reとle、StとStを除いて みた。すると、それが9目(コ ン)(松毬(まつかさ))と云う一 字に、変ってしまったのだよ。所が、その松毬(コ ン) の形と云うのが、寝台の天蓋にある頂飾(たてぱな)にあっ て、それがまた、薄気味悪い道化師(クラウン)なんだが ね」とそれから帷幕の中に入って、蒲団(マツト)の上 に、卓子(テ プル)や椅子を一つ一つ積み重ねて行った。 そうして、最後に立箪笥(キヤビネツト)が載せられたとき、検 事と熊城はハッとして息を嚥んだ。と云うの は、松毬(コ ン)の形をしたその頂飾(たてぱな)が口を開いて、そ こからサラサラと、白い粉末が溢れ出たからで あった。すると、法水の舌が、黒死館の過去を 暗潅とさせたところの、三つの変死事件に触れ て行った。 「これが、暗黒の神秘-里…死館の悪霊さ。そ れを修辞学的(レトリカル)に云えば、さしずめ中世異端の弄 技物(ろうきぷつ)とでも云う所だろうがね。然し、その装置 の内容たるや、過去の三変死事件が、各ζ同裳 中に起ったのを考えれば判るだろう。つまり、 二人以上の重量が法度で、それが加わると、松(コ ) 毬(ン)の頂飾(たてぱた)が開いて、この粉末が溢れ出すのだ よ。それも、以前マリア・アンナ朝時代では、媚 薬などを入れたものだが、この寝台では桃花(マホガニ )木 の貞操帯になっているのだ。と云うのは、この 粉末が確かストラモニヒナス(註)1殆ど稀 集に等しい植物毒だろうと思うからだよ。それ が鼻粘膜に触れると、狂暴な幻覚を起すのだか ら、最初明治二十九年に伝次郎事件、それから 三十五年に筆子事件1と二つの他殺事件を起 して、遂に最後の算哲を、人形を抱いたあの口 に繁してしまったのだ。つまり、このディグス ビイの呪咀と云うのは『死(ト テン)の舞踏( タンツ)』に記されて いる奢那宗徒(ジヤイニスツ アンダ)は地獄(オライ ビロ)の底(ウ イ)に横(ンフ)わらんーの本(ヱルノ)体 なんだよL (註)後日法水は、ストラモニヒナスが遂に伝   説以上のものだったのに、驚いたと云って   いる。それは、ゲオルヒ・バルテイシュ(十   六世紀ケーニヒスブルックの薬学者)の著   述の中に記されているのみで、近世になっ   てからは、一八九五年にフィツシュと云っ   て、印度大麻の栽培を奨励した、独領東亜   弗利加会社の伝道医師のみ。そして、稀に印   度大麻にストリヒナス属(矢毒クラーレの   原植物)が寄生すると、その果実を土人が珍   重して呪術に用ゆるけれども、恐らくそれ   ではないかーと云う報告を一つ齋らせた   のみである。多分黒死館の薬物室にあった   空瓶と云うのも、ディグスビイから与えら   れるのを算哲が待っていたからであろう。  この閲明を最後にして、黒死館を覆うてい た、過去の暗影の全部が消えた。然し検事は、 昂奮の中に軽い失望を混えたような調子で、 「成程、君は喋った1然し、現在の事件に就 いては、何も判らなかったのだ。それより、こ の矛盾を、君はどう解釈するかね。扉(ドア)から室の 中途までは、敷物(カ ペツト)の下に、人形の足型が水で印 されていた。所が一旦坑道の中に入ってしまう と、今度はそれが人間のものに化けてしまった んだ」 「所が支倉君、それが+ 一(プラスマイナス)なんだよ。最初 から人形の存在を信じていない僕には、それを 口にする必要がなかったのだ。然し、この一事 だけは、到底偶然の暗合として、否定し去る事 は出来まいと思うよ。何故なら、坑道にあるス リッパの跡を人形の足跡に比較すると、その歩 幅と足型の全長とが等しく、またスリッパの跡 が、人形の歩幅と符合するのだ。それが熊城 君、実に面白い例題なんだよ」とそれから媛炉(スト プ) の前で、法水は紅い煩(おき)に手をかざしながら続け た。 「所で、あの人形の足型と云うのは、元来僕 が、敷物(カ ベツト)の下にある水滴の拡がりを測って出来 たものなんだ。そして、上下両端の一番鮮かだっ たーつまり云い換えれば、水滴の量の最も多 い部分を、基準としての話だったのだからね。 ……そこで、僕が+ 一(っノニペスつイキス)と呼ぶ誌計を再現出 来るんだよ。で、それは外でもなく、スリッパ の下にもう二つの入リッパを仰向けに附けて、 またその二つのスリッパを、互い違いに組み合 わせるのだ。そして、それに扉(ドア)を、開いた水を タップリ含ませてから、最初に後の方の覆(カヴア)を、 強く踵で蹟む。すると、覆(カヴア)の中央に、梢ζ小さい 円形の力が落ちる事になるから、当然その圧し 出された水が、上向き括弧())の形になる じゃないか。また、次に前のあの覆(カヴア)を前踵部(つまざさ)で 踏むと、今度はその形が馬蹄形をしているの で、中央より両端に近い方の水が強く飛び出し て、それが下向き括弧(()の形になってしま うのだ。そして、その上下二様の括弧形をした 水の跡を、左右交互(かわるがわる)に案配して行ったのだ よ。つまり犯人は、予め常人の三倍もある、人 形の足型を計って置いた。そうしてから、歩幅 をそれに符合させて行ったので、当然その二つ の括弧に挾まれた中間が、人形の足型を髪髭と する形に変ってしまったのだ。従って、そのス リッパの全長が、ヨチヨチ歩く人形の歩幅に等 しくなって、そこで陽画と陰画の凡てが逆転し てしまったと云う訳なんだよL  斯うして、奇矯を絶した技巧が明らかにされ て、人形の姿が消えてしまうと、当然屍光と創 紋1と敦れか二つのうちに、犯人がこの室に 闘入した目的があるのではないかと思われて来 た。既に、十一時三十分ー。然し、夜中に何 とかして、解決まで押し切ろうとする法水に は、一向に引き上げるような気配もなかった。 そのうち検事が、嘆息とも付かぬような声を出 して云った。 「ねえ法水君、この事件の、凡ては、ファウス トの呪女を基準にした、同意語(シノニム)の連続じゃない か。火と火、水と水、風と風……cだが然し だ、あの乾板だけは、その取り合わせの意味が どうしても嚥み込めんのだがね」 「成程、同意語(シノニム)η そうすると君は、この悲劇 を思惑に結び付けようとするのかね」と法水は 梢ζ皮肉を交えて咳いたが、いきなり鋭くその 言葉を中途で戴ち切って、「アッ、そうだ支倉 君、同意語(シノニム)-乾板。ああ何だか僕に、あの創 紋の生因が判って来るような気がして来たよ」 と不意に飛び上って叫んだが、そのまま風のよ うに室を出て行ってしまった。然し、間もなく 幾分上気したような顔で、戻って来た彼を見る と、その手に、前日開封された遺言書が握られ ていた。そして、上段の左右に二つ並んでい る、紋章の一つを、創紋の写真に合わせて電燈 で透かし見ると、その途端に、思わず二人の口 から岬きの声が洩れた。実に、その二つが、寸 分の狂いもなく符合したからである。法水は、 召使(パトラ )が持参した紅茶を、グイとあおってから云 い出した。 「実際無比(ユニ ク)だ。犯人の智的創造たるや、実に驚 くべきものなんだ。この書簡筆は、既に一年も まえ、現在のものに変えられたと云うのだから ね。勿論それ以前にーあの乾板は、事件の蔭 に隠れている、狂人染みたものを映し取ってい たのだよ。何故なら、それには、押鐘博士の陳 述を憶い出して貰いたいのだ。それでなくて も、現在これでも見る通りに、算哲は遺言書を 認め終ると、その上に、古風な軍令状用(オ ドナ ノスレタ )の銅粉 を撒いたのだった。ねえ熊城君、銅には、暗所 で乾板に印像すると云う、自光性があるじゃな いか。ああ、あの序(アイ ラィ)  幕(ツング)1この恐怖悲劇の 序女(アインライツング)。さてこれから、その朗読をやる事に するかな。あの夜算哲は、破り捨てた一方の一 枚を下にして、二枚の遺言書を金庫の抽斗に蔵(おさ) めた1所が、それ以前に犯人は、予めその暗 黒な底に乾板を敷いて置いたのだ。そうする と、翌朝になって算哲が金庫を開き、家族を列 席させた面前で、その印像を取られた方の一枚 を焼き捨ててから、更に残りの一枚を、再び金 庫に蔵(おさ)めるまでの間に、何人か、全交を映し 取った乾板を、取り出した者がなけりゃならん 訳だろう。実に、その僅かな間隙が、ファウス ト博士に、悪魔との契約(パクト)を結ばせたのだった。 それを、直観と予兆とだけで判断しても、当然 焼き捨てられた一葉が、僕の夢想している屍様 図の半葉に当るのだし、またそれが座標となっ て、あの幻想的(フアンタスチツク)な空間に、怖ろしい渦が巻き 起されたのだったよ」 「成程、その乾板は無量の神秘だろう。然し、 当然結論は、その席上( ヘヘヘヘ)から誰(ヘヘヘ )が先(へ )に出(ヘヘ)たか(ヘ)ー と云う事になるがね」と云ったが、熊城は両手 をダラリと下げて、濃い失望の色を浸べた。 「無論今となっては、その記憶も恐らくさだか ではあるまい。では、あの創紋と乾板との関係 は?」 「それが、ロージャー・べーコソ(一一」一一一四剰副ト ゆ騨纏罐結静棟猷暴犠遷齪如葬罷、) の故智さLと法水は静かに云った。「所で、ア ヴリノの『聖僧奇跡集』を見ると、ぺーコソが ギルフォードの会堂で、屍体の背に精密な十字 架を表わしたと云う逸話が載っている。けれど もまた一方、発火鉛縮妬雌擁撫凸Y舘礪(弛舳荊ド榊… 胱髄焼乱)を、硫黄と鉄粉とで包んだと云佑一 る、べーコンの投櫛弾を考えると、そこに技巧 呪術(マジツク)の本体が暴露されなければならない。と同 時に、この事件にも、それが創紋の生因を明ら かにして呉れたのだよ。熊城看、君は、心臓停 止の直前になると、皮膚や爪に生体反応が現わ れなくなるのを知っているだろう。また、衝動(シヨツク) 的な死に方をした場合には、全身の汗線が急激 に収縮する。そして、その部分の皮膚に閃光的 な焔を当てると、そこには、解(メ)剖刀(ス)で切ったよ うな創痕が残されるのだ。勿諭犯人は、それを ダソネベルグ夫人の断末魔に、乾板へ応用した のだったよ。で、その方法を云うと、まず二つ の紋章を乾板から切り取って、その輪郭なり に、轍横冠を酸で刻んで行く。それから、その 二つを筋なりに合わせて、その空洞の中で発火 鉛を作ったのだ。-だから、手早くそれを顧額に 当てさえすれば、発火鉛が閃光的に燃えて、溝 なりにあの創紋が残ると云う道理じゃないか。 どうだね熊城君、うんざりしたろう。勿輪技巧 呪術(ア ト マジツク)そのものは、幼稚な前期科学に過ぎない、 さ。けれども、その神秘的精神たるや、暫くの あいだ、化学記号を化して操人形(マワオネツト)たらしめてい た程だからね」  そうして、人形の存在が、夢の中の泡の如く に消えてしまうと、当然その名を記したダンネ ベルグ夫人自署の紙片を、犯人が、メモや鉛筆 と共に投げ込んだーと見なければならなく なった。然し、あの特異な署名を、どうして犯 人が奪ったものだろうか。また、乾板を飽くま で追及して行くと、是が非にも神意審問会まで 遡って行き、出所を其処に求めねばならなかっ たのである。法水は暫く黙考していたが、何と 思ったか、夜中にも拘らず伸子を喚んだ。 「お喚びになったのは、多分これだと思います わ」と伸子の方から、椅子につくと切り出し た。その態度には、相変らず、明るい親愛の情 が溢れていた。「昨日レヴェズ様が、私に公然 結婚をお申し出でになりました。そして、その 諾否を、この二つで回答して呉れと仰言って ・…」と彼女は語尾を萎(すぽ)めて、余りにも慌ただ しい、人生の変転を悲しむ如くであった。が、 やがて、懐中から取り出したものがあって、そ の時ならぬ豪奢な光輝が、思わず三人の眼を動 かなくしてしまった。それは二本の王冠(クラウン)ピソ だった。そして、その上に、一つには紅玉一つ にはアレキサンドライトが、各ζ白金(プラチナ)の台の上 で、百二三十カラットもあろうと思われる、マ ーキーズ形の凸刻面を輝かしていた。伸子は 弱々しい嘆息をしてから、舌を重たげに動かし て云った。 「つまり、親愛な黄色ーアレキサソドライト の方が吉で、紅玉(ルピ )の血は勿論凶なので御座いま す。そして、この二つを諾否の表示にして、 どっちかを、演奏中私の髪飾りにしてくれー と、あの方は仰言いました」 「では、云い当てて見ましょうか」と狡猜そう に眼を細めて云ったが、然し、何故か法水は、 胸を高く波打たせていて、 「いつぞや、貴女はレヴェズを避けて、樹皮亭(ボルケン ハウス) に遁れていましたっけね」 「いいえ、レヴェズ様の死に、私は道徳上責任 を負う引け目は御座いません」と伸子は、息を 荒ららげて叫んだ。「実は私、アレキサンドライ トを付けました。それで、あの方と二人で、この ヘルツの山(撫碗雛鐵ゼ漸欄げ∬""リ)を降る積りだ ったのですわ」  それから、法水の顔をしげしげ覗き込んで、 哀願するように、「ねえ、真実の事を仰言って 下さいまし。もしや、あの方自殺なされたので は、いいえ決して、私がアレキサンドライトを 付けた以上……」  その時法水の顔に、サッと暗いものが掃い て、見る見る悩まし気な表情が活び上って往っ た。その暗影と云うのはー、たしか彼の心中 に一つの逆説(パラドツクス)があって、それを今の伸子の言 葉が、微塵と打ち砕いたに相違なかった。 「いや、正確に他殺です」と法水は沈痛な声で 云ったが、 「然し、此処へ貴女をお呼びしたのは、外でも ないのですが、昨年算哲が遺言書を発表した席 上から、一体誰が先に出たのでしょうねL  既に一年近くも経過しているので、勿論伸子 は、一も二もなく頸を振るものと思われてい た。所が、その如何にも意味あり気な一言が、 伸子に何事かを覚らせたと見えた。いきなり、 彼女の全身に異様な動揺が起った。. 「それは……あの……あの方なので御座います が」と伸子は苦し気に顔を歪めて、云うまい云 わせようの葛藤と凄烈に闘っている様子であっ たが、やがて、決意を定めたかのように毅然(きつ)と 法水を見て、 「いま私の口からは、到底申し上げる事は出来 ません。けれども、後程-紙片でお伝え致し ますわ」  法水は満足そうに頷いて、伸子の訊問を打ち 切った。熊城は、今日の事件に於いて、最も不利 な証言に包まれている伸子に対して、些かも法 水が、その点に触れようとしなかったのが不満 らしかったが……然し、乾板に隠れている深奥 の秘密を探る最後の手段として、愈ζ神意審問 会の光景を再現する事になった。勿論それ以前 に法水は、鎮子に私服を向けて、当時七人が占め ていた位置に就いて知る事が出来た。所でその ,配置を云うと、ダンネベルグ夫人一人のみを向 う側にして、その間に常ド光ヴ.町、引(轍漸琳㎜噂衛 榛纏筆を挾み、その前方には、左から数え て、伸子・鎮子・セレナ夫人、クリヴォフ夫人 ・旗太郎1と以上残りの五人が相当離れて半 円形を作っていたが、独りレヴェズのみは半円 形の頂点に当るセレナ夫人の前面で、稽ζ賜(かが)み 加減に座を占めていたのである。そして六人の 位置は、入口の扉(ドア)を背面にしていたのだった。  以前行われた時と同じ室に入って、鉄筐(てつきよう)の中 から、熊城が栄光(ハンド オヴ グロ)の手( リ )を取り出したとき、 その指の顛えに、無量の恐怖を感じさせるもの があった。それは、嘗て人体の一部であったの を、嘲笑うかのように、それらしい線や塊(マツス)は何処 にも見られなかった。ただただ、雑色と雑形の 一種異様な混渚であって、或は、盆景的に矯絶(きようぜつ) な形をした木の根細工のようでもあり、そのー ー一面に細かい亀裂の入った羊皮紙色の皮膚を 見ると、和本の剥がれた表紙を、見るような気 もするのだった。既に、肉体的な類似を求める のが、困難な代物だったのである。また、その 指頭に立てる屍体蝋燭には、一々向きと印しが ついていて、それは梢ζ光沢の鈍いような感じ はするけれども、外見は一向に、通常の白蝿と 変りはなかった。そして、端から火を移して行 くと、ジイジイっと、まるで耳馴れた瞬きを聴 くような音色を立てて点(とも)り始め、諸(あか)ばんだー 恰度(ちようど)血を薄めたような光( )線が〜室の隅々に拡 がって行った。そうしているうちに、ダソネベ ルグ夫人の位置にいた法水の視野を、異様に臓 瀧としたものが覆い始めて来たσそれは、一種 特別な臭気を持った、霧のようなもので、次第 に根元からかけて五本の蝋身を包み始め、やが て、焔が揺れ始めて瞬き出すと、室(っ )内は、スウッ と一段下降したように薄暗くなった。その途 端、法水の手が差し伸べられて、屍体蝋燭を一 つ一つに調べ始めた。すると、五本ともその根 本に1即ち、中央の三本は両側に一つ一つ、 両端の二本は、内側に一つ1不可解な微孔が あるのが、発見されたのだった。それを見て、 熊城が点滅器を捻ると、その異様な霧が、今度 は法水の、病的な探究の雲に変って行った。や がて、彼はニタリとほくそ笑んで、二人を顧み た。 「この微孔の存在理由(レ ゾン デ トル)は、或る意味では隠れ衣 であり、また、一種の水晶凝視(クリスタル ゲ ジング)を起すにも あったのだ。各ゝゝ芯孔に通じているので、そこ から導かれて来た蝋の蒸気が、蝋身を伝わって 立ち上って行く。然し、そうなって、ダンネベ,ル グ夫人の顔前に蒸気の壁が出来、更に、中央の 三本に焔を瞬かせて、光を暗くするとだ。当然、 円陣の中央にいる一人の顔は、異常のない両端 の光から最も遠くなる。従って、その顔が、ダ ソネベルグ夫人からは全然見えなくなってしま うのだ。また、同時に両端の二本も、両側から 上って来る蒸気に煽(あお)られて、焔が横倒しにな る。そして、光の位置が更に偏るので、当然両 端にいる二人の顔も、この位置から見ると、光 に遮られて消えてしまうのだよ。つまり、旗太 郎・伸子・セレナ夫人ーと、斯う数えた三人 と云うのは、仮令(たとえ)中途でこの室から出たにして も、その姿を、ダンネベルグ夫人は当然見る事 が出来なかっただろう。また、それ以外の人達 も、こσ異常な雰囲気のために、恐らく周囲の 識別を失っていただろうからね。気附かない方 が寧ろ当然だと云いたい位なのだよ。そヶする と、ダンネベルグ夫人が倒れるとすぐ、伸子が 隣室から水を持って来たーと云う事が、或は 伸子に疑惑を齎すかも知れない。つまり、それ 以前既(とよノ)に、彼女は室を出ていて、予めこの事を 予期していたために、水を用意していたーと も云えるだろう。けれども、勿論この推測は、 或る行為の可能性を指摘したまでの話で、当然 証拠以上のものでないのだよL 「たしか、この微孔は犯人の細工には違いある まいがね」と検事は探く顎を引いたが、問い返 した。「けれども、あの時ダソネベルグ夫人は、 算哲と叫んで卒倒したのだったぜ。多分それ が、あの女の幻覚ばかりの所以じゃあるまいと 思うよ」 「明察だ。決して、単純な幻覚ではない。ダソネ ベルグ夫人は、たしかリボーの所謂第二視力者(セカンド サイタ ) ーつまり、錯覚(ヘヘヘ)からして幻覚(ヘヘヘヘヘヘ)を作(ヘヘ)り得(ヘヘ)る能力 者(ヘヘヘ)だったに違いない。それは、聖(セント)テレザにも乳 香入神(にゆうこうにゆうしん)などと云われているんだが、薫姻(くんえん)や蒸気 の幕を透して見ると、凹凸が一層鮮かになり、 またその残像が、時折奇怪な像を作る事がある のだ。つまり、この場合は、両端の蝋燭から見 て内側にいる二入1つまり、鎮子とクリヴォ フ夫人との顔が、凝視のため複視的に重なり 合ったのだろう。そして、恐らくその錯覚が 因で、ダンネベルグ夫人は幻視を起したに相違 ないのだよ。それを、リボーは人間精神最大の 神秘力と云って、殊に中世紀では、最も高い人 間性の特徴と見倣(みな)されていたのだ。ああ、屹度(きつと) ダソネベルグ夫人には、嘗てのジャソヌ・ダル クや聖テレザと同じに、一種の比斯呈利(ヒステリ)性幻視 力が具わっていたに違いないのだよL  斯うして、法水の推理が反転躍動して行っ て、あの夜張出縁に姦(うごめ)いていて乾板を取り落し た人物にも、既往の津多子以外に、旗太郎以下 の三人を加える事が出来た。まさにその時、法 水の戦闘状態は、好条件の絶頂にあった。或 は、事件が今夜中に終結するのではないかと思■ われた程に、後の棲槍な神経運動(ナ ヴアシズム)がーその脈 打ちさえも聴き取れるような気がした。それか ら、暗い廊下を歩いて、旧の室に戻ると、そこ には、先刻伸子が約束した回答が待っていた。 神意審問会の索輪の中で、濃厚な疑惑に包ま れ、しかもそれがピッタリと現存の四人。その 一群に、最後の切札が投ぜられたのだ。法水は 唇が洞き、封筒を持つ右手が怪しくも顧え出し た。そして、心の中で叫んだ。伸子よ、運(イン ダ) イネル・プルスト・ルーン・ダイネス・シツクサルス・シユテネル 命の星は汝の胸に横わる! 3 父(パテ)よ、吾(ル )も人(ホモ)の子( ス)な(ム)り  昨年問題の遺言書が発表されたーその席上 から逸早く出て、算哲が其処へ達しない以前 に、金庫の中から、焼き捨てちれた全文を映し 取った乾板を、取り出した人物がなければなら なかった。そうであるからして、その人物の名 を印した伸子の封書を握りしめて、法水が、心 の中でそう叫んだのも当然であると云えよう。 然し、封を切って、内容を一瞥した瞬間に、ど うした事か彼の瞳から輝きが失せ、全身の怒張 が一斉に弛んでしまって、その紙片を力なげに 卓上へ勉り出した。検事が吃驚して覗き込んで みると、それには人の名はなく、.次の一句が記 されているのみだった。  ーi昔ツーレに聴耳筒(ラウシユレ レン)ありき。 (註)(一) ツーレー。ゲ!テの「ファウス   ト」の中で、グレートヘレが唱う民謡の最   初の出。その時ファウストから指環を与え   られたのが開緒となって、彼女の悲運が始   まるのである。   (二)聴耳筒1。西班牙宗教審問所に設け   られたのが最初。ウファ映画「会議は踊る一   の中で、メテルニッヒがウェリントンの会   話などを盗み聴くあれがそうである。 「成程、聴耳筒(ラウシユレ  レン)かi1。その恐ろしさを知っ ているのは、独り伸子のみならずさ」と法水 は、苦笑を交えながら独り頷きをして、「事実も 事実、ファウスト博士の隠形聴耳筒(おんぎようラウシユレ レン)たるや、 時と場所とに論なく、僕等の会話を細大洩らさ ず聴き取ってしまうのだからね。だから、当然 迂潤な事でもしようものなら、伸子がグレート ヘンの運命に陥るのは判り切った話なんだよ。 必ず何かの形で、あの悪鬼の耳が陰険な制裁方 法を採らずに置くもんか」 「まず、それはいいとしてだ…・:。所で、くど いようだけど、君がいま再現した神意審問会の 光景だがね」とその声に法水が見上げると、検 事の顔に疑い深そうな鐵が動いていた。 「君は、ダンネベルグ夫人を第二視力者(セカンド サイタ )だと 云って、しかも驚くべき事には、犯人がその幻 覚を予期していたと結論している。けれども、 そう云うような、精神の超形而上的な型式がー ーだ。仮りにもし、軽々と予測され得るものだ と云うのなら、君の論旨は到底曖昧以外にはな いな。決して深奥だとは云えない」  法水は一寸身振りをして皮肉な嘆息をした が、検事をまじまじと見詰め始めて、「どうし て、僕はヒルシュじゃあるまいし……。ダンネ ベルグ夫人を神秘的な英雄めいた1例えばス ウェーデンボルグやオルレアンの少女みたい な、慢性幻覚性偏執症(パラノイア ハルツイナトリア クロ ニカ)だと云う訳じゃない のだよ。ただ、夫人の或る機能が過度に発達し ているので、時偶(ときたま)そう云う特牲が、有機的な刺 戟に遇うと、感覚の上に技巧的な抽象が作られ てしまう。つまり、漠然と分離散在しているも のを、一つの現実として把握してしまうのだ。 それに支倉君、フロイドは幻覚と云うものに、 抑圧されたる願望の象徴的描写1と云う仮説 を立てている。勿論夫人の場合では、それが算 哲の禁断に対する恐怖ーつまり云うと、レ ヴェズとの冒してはならぬ恋愛関係に起源を発 しているのだ。それだから、犯人が夫人の幻覚 を予期し得る条件としては、当然その間の経緯(いきさつ) を熟知していなければならない。また、引いて はそれが一案を編み出させて、屍体蟻燭に水晶 体凝視(クリスタル ゲ ジンク)を起すような、微妙な詫計を施した。そ れで、夫人を軽い自己催眠に誘ったのだった よ。所が支倉君、その潜勢状態と云う観念が、 僕に栄光を与えてくれた……L  そう鋭く言葉を戴ち切って、それから黙々と 考え始めたが、そのうち幾つかの英(たぱこ)を換える間 に、法水は一つの観念を捉え得たらしかった。 彼は、旗太郎・セレナ夫人・伸子の三人を至急 喚ぶように命じてから、再び礼拝堂に降りて 行った。人気のないガラソとした礼拝堂の内部 には、如何にも佗(わび)し気な陰箆な灰色をしたもの が、一杯に立ち軍めていて、上方に見透しもつ かぬほど拡がっている闇が、天井を異様に低く 見せた。その中に光と云えば、聖壇に揺れてい る微かな灯のみで、それが、全体の空間を荷一 層小さく思わせた。そこから暗く生暖い、まるで 何かの胎内ででもあるかのようなーそれでい て、妙に蒲(あか)みを帯びた闇が始まっていた。おま けに、その絶えずはためいている金色の輪に は、見詰めていると眼を痛めるような熾烈(しれつ)な感 覚があって、宛かもそれが、法水の酢烈を極めた 熱意と力-成敗をこの一挙に決し、ファウス ト博士の頭上に、地獄の礎石円柱を震い動かさ んばかりの刑罰  を下そうとする、それの如 くに思われるのだった。やがて、六人は円卓(テ ブル)を囲 んで座に着いた。その夜の旗太郎は、平常なら身 ごなしに浮き身をやつす彼には珍らしく、天鷲(ピロ ) 絨(ド)の短衣(チヨツキ)のみを着ていて、絶えず伏眼になった まま、その薄気味悪いほど光のある、白い手を 弄(もてあそ)んでいた。その側わらに、伸子の小さい甲 斐甲斐しい手がーその.乾杏のように、健康そ うな艶やかさが、いとも可愛らし気に照り映え ているのである。然し、セレナ夫人を見ると、 相変らず恋の楯にでも見るような、如何にも紋 章的な貴婦人だった。けれども、その箱(たが)骨張り の腰衣(スカ ト)に美斑(いれぼくろ)とでも云いたい古典的な美しさの 蔭には、やはり、脈榑の遅い饒舌(じようぜつ)を忌み嫌うよ うな、静寂主義者(キエテイスト)らしい静けさがあった。が、 一座の空気は、明かに一抹の危機をはらんでい た。それは強(あたが)ち、津多子を除外した法水の真意 が、奈辺にあるや疑うばかりでなく、各・ゝに危 櫻と劃策を胸に包んでいると見えて、一寸の間 だったけれども、妙に腹の探り合いでもしてい るかのような沈黙が続いた。そのうち、セレナ 夫人がチラと伸子に流晒(たがしめ)をくれると、恐らく反 射的に口を突いて出たものがあった。 「法水さん、証言に考慮を払うと云う事が、大 体捜査官の権威に関しますの。確かに先刻の方 方は、伸子さんが動いた衣摺れの音を聴いたの でしたわ」 「いいえ、竪琴(ハ プ)の前枠に手をかけていて、私 は、そのまま凝(じ)っと息を凝らして居りました」 と伸子は躊らわずに、自制のある調子で云い返 した。「ですから、長絃だけが鳴ったと云うの なら、また聞えた話ですけれど……。とにか く、貴女様の寓瞼(アレゴリ )は、全然実際とは反対なので 御座います」  その時旗太郎が、妙に老成したような態度 で、冷たい作り笑いを片頬に活べた。「さて、 その妖冶(ようや)な性質を、法水さんに吟味して頂きた いですがね。li抑ζ、あの時竪琴(ハ プ)の方から近 附いて来六リ覇死云うのが何を音保する泥 所が、その楽音劇暁たるやです。美しい近衛 胤町騨足の行進ではなくて、あの無分別者揃い. の、短上衣(ヤツケ)をはだけて胸(っ)毛を露き出して、ぷん ぷん鹿が落した血の跡を嗅ぎ廻ると云った、 黒色猟兵(シユワルツ イエガ )だったのです。いや屹度、あいつは 人肉(フライツシユ)が嗜きなんでしょうよ」  そうして、追及される伸子の体位は、明かに 不利だった。その残忍な宣告が、永遠に彼女を 縛りつけてしまうかと思われたが、法水は一寸 熱のあるような眼を向けて、  「いや、たしかにそれは、人(フライツシ) 肉(ユ)ではなくて  魚(フイツシユ)だった筈ですがね。然し、その不思議な魚 が近附いて来たために、却ってクリヴォフ夫人 は、貴女がたの想像とは反対の方向に退軍を開 始したのでしたよ」と相変らず芝居気たっぷり な態度だったけれども、一挙にそれが、伸子と 二人の地位を転倒してしまった。  「所で、装飾灯(シヤンデリヤ)が消えるほんの直前でしたが、 その時たしか伸子さんは、全絃に渉ってクリッ サソドを弾いて居られましたね。すると、その直 後灯が消された瞬間に、思わず機(はず)みを喰って、 全部のペダルを踏みしめてしまったのです。実 は、その際起った捻りが、恰度踏んで行ったぺ ダルの順序通りに起ったものですから、それ が、追って来る気動のように聞えたのですよ。 つまり、韻のまだ残っているうちにペダルを踏 むと、竪琴(ハ プ)には捻りが起るー-。貴方がたは、 あの悪ゴシップのお蔭で、そんな自明の理を、 僕から講釈されなければならんのですよLと瓢 逸な態度が消えてしまって、法水は俄然厳粛な 調子に変った。 「所が、そうなると、クリヴォフ事件の局面が 全然逆転してしまうのです。もし、夫人がその 音を聴いたとすれば、当然貴方がた二人の方に 後退りして行くでしょうからね。そこで旗太郎 さん、その時、弓(さゆう)に代って貴方の手に握られた ものがあった筈です。いや、寧ろ直戴(ちよくせつ)に云いま しょう。大体装飾灯( ソヤンデリヤ)が再び点いた時に、左利で あるべき貴方が何故、弓(きゆう)を右に提琴(ヴマイオリン)を左に 持っていたのですか」  と法水の棲槍な気力から、 送(ほとぱし)り落ちて来た ものに圧せられて、旗太郎は全く化石したよう に硬くなってしまった。それは、恐らく彼に とって、それまでは想像もつかぬほど、意外な ものであったに相違ない。法水は、相手を弄(もてあそ) ぶような態度で、悠(ゆ)ったり口を開いた。 「所で、旗太郎さん、波蘭(ポ ランド)の諺に、提琴奏者(ヴアイオリニスト)は 引いて殺すーと云うのがあるのを御存知です か。事実、ロムブローゾが称讃したと云うライ ブマイルの『能才及び天才の発達』を見ると、 その中に、指が麻痒して来たシューマソやショ パン、それから改訂版では、,提琴家(ヴアイオリニスト)のイザイ 工の苦悩などが挙げら机ていて、尚且音楽家の 全生命たる、骨間筋(鵬効)にも言及しているの です。それに依るとライブマイルは、急激な力 働がその筋に痙璽を起させるーと説いていま す。然し、勿論それは、この場合結諭として確 実なものではありません。けれども、貴方が演 奏家である限りは、到底その慣性を無視する事 は出来まいと思われるのです。多分あの後に は、左手の二つの指で、弓(きゆう)を持つのが不可能 だったのではありませんか」 「す、すると、もうそれだけですか1貴方 の降霊術(テイシユリユツケン)と云うのは? 机の脚をがたつかせ て、厭に耳障りな……」とあの不気味な早熟児 は、満面に引っ痙(つ)れたような憎悪を燃やせて、 漸っと嗅すれ出たような声を出した。然し、法 水は更に急追を休めず、「いやどうして、それ こそ正確(ジユストこミ)な中庸(リユウ シス)な体系(テム)-なんですよ。それか ら、貴方は人形の名を、いつぞやダンネベルグ 夫人に書かせましたっけね」と驚くべき言葉を 放って、その大見得が、一座を昂奮の絶頂にせ り上げてしまった。 「実は、先刻神意審問会の情景を再現してみた のですが、その場で端なく、ダンネベルグ夫人 が、驚くべき第二視力者(セカンド サイタ )であり、彼女に比斯呈(ヒステ) 利性幻視力が具わっていたのを知る事が出来ま した。そうなると、当然発作が起った場合、あの 方の麻痺した方の手には、自動手記(袖曜畔鶏騨μ 端を発したもので、知らぬまに筆を持たせた者の癖れた手を、 気付かぬように握一って、両三回文字を書かせると、その理.た 艀茄雛批祉履に呂一云只切樋働のの数鱒腔灘珊豹撃) が可能に なるではありませんか。いや、伸子さんの室 の扉(ドア)際にあった、鉤裂きの跡を見ても、夫人の 右手が、あの当時麻痺していた事が判るんです よ。然し、あの場合は、それがもう一段蜻蛉返 りを打って、更に異様な矛盾を起してしまった のでした。と云うのは、利手の異なる方の手 で、刺戟を与えた場合には、時折要求した女字 ではなく、それに類似したものを書くと云う事 なんです。勿論あの夜は、伸子さんが花瓶を倒 し、それと入れ代りにダンネベルグ夫人が入っ て来て、しかも激奮に燃えた夫人は、寝室の帷 幕(カ テン)の間から、右肩のみを現わしていました。で すから、時やよしと、貴方は自動手記を試みた のでしたね。然し、結果に於いて夫人が認めた ものは、貴方が要求したそれとは異なっていた のですLと卓上の紙片に、法水は次の二字を認 め、特にその中央の三字を円で囲んだ。 →三創庇$  ω…Φお百"  途端に一同の口から、合したような捻きの声 が洩れた。殊にセレナ夫人は、憤ると云うより も、寧ろ余りに意外な事実なので、荘然旗太郎 を瞬めたまま自失してしまった。旗太郎はタラ タラと膏汗を流し、全身を鞭索(むちなわ)のようにくねら せて、激怒が声を波打たせて行った。 「法水さん、貴(ヴオルゲ)  方(ボ レン)1いや閣(ホオホヴ)   下(オルゲポしレン)! この事件の恐竜(ドラゴン)と云うのは、取りも直さず貴方 の事だ。然し、オットカールさんの咽喉に印さ れていたと云う父の指痕はーあの恐竜(ドラゴン)の爪痕 は、一体貴方の分身なのですか」 「恐竜(ドラゴ ノ)!」と法水は、噛むように言葉を刻ん      ドプゴン                     モーチユアリー で、「成程、恐竜と云えるものが、あの残 室( ル ム)にいた事は事実確かなんです。然し、その 一人二役の片割れは蘭の一種-街学的(ペダンデイツク)に云う と、竜舌蘭(リネゾルム オルキデエ)なんですねが」と云って、懐中 から取り出したレヴェズの襟(カ フ )布を引き裂くと、 その合せ布の間から、縮み切って褐色をした、 網様の帯が現われた。更に、その前面には、そ れがまた、幾重にも重ね編まれていて、恰度栂 指の形に見える楕円形をしたものが、二つ附い ていた。その上にトソと指頭を落して、法水は 云い続けた。「斯うなれば、一見して既に明白 です。勿論水分さえ吸えば、竜舌蘭(リネゾルム オルキデエ)の繊維 は、全長の八倍も縮むと云われるのですから ね。当然 残(モ チユアリ)  室(  ル ム)の前室に、湯滝を必要とし た理由は云う迄もないでしょう。所で、犯人は最 初、その繊維を本開閉器(ノイン スイツチ)の柄にからげ、収縮を 利用して電流を切ったのです。そして、柄が下 向きになると、そこからスッポリと抜けて、水 流の中に落ちたのですから、当然排水孔から流 れ出してしまう訳でしょう。それから、次は云 うまでもなく、栂指痕の形を、竜(リネゾル) 舌(ム オル) 蘭(キデエ)の繊 維で作った襟布に利用して、レヴェズの咽喉を 絞めて行ったのでした。つまり、レヴェズの死 は他殺ではなく、自殺なんですよ。それで、大 体その経路を想像してみますと、最初レヴェズ が奥の屍室に入った所を見届けて、犯人は湯滝 を作ったのでした。ですから、徐々に湿度が高 まって、竜(リオゾル) 舌蘭(ム オルキデエ)が収縮を始めたので、レ ヴェズは次第に息苦しくなって行きました。そ こへ何か、あの男に自殺を必要とするような、異 常な原因が起ったのです。従って、当然レヴェ ズの死には、二つの意志が働いていると云う訳 で、算哲に似せた掴指痕の上に、あの男の悲痛 な心理が重なって行ったのでしたよLとそこで 言葉を裁ち切って、法水偉鋭く旗太郎を見据え た。「然し、この襟布(カ フ )には、勿論誰の顔も現わ れてはいません。けれども、何れにしてもこの 事件の恐竜(ドラゴノ)は、鎖の輪から爪を引き抜く事が、 出来なくなってしまうでしょう」  汗塗(あせまみ)れになった旗太郎には、この僅かな間 に、胆汁が全身に溢れ出たのではないかと思わ れた。既に、怒号する気力も尽き果てて、荘然(ぽんやり) あらぬ方を瞳めている。が、やがて、フラフラ 揺れている身体が棒のように硬くなったかと思 うと、喪心した旗太郎は、顔を水平に打衝(うちつ)けて 卓上に倒れた。それを法水が室外に連れ去らせ ると、セレナ夫人も軽く目礼して、その後に続 いた。そうして、伸子一人が残された室内に は、暫く弛(ゆる)み切った、気瀬(けだる)い沈黙が漂っていた ーああ、あの異常な早熟児が犯人だったと は。そのうち、歩き廻っていた法水が座に着く と、組んだままの腕をズシソと卓上に置き、意 味あり気な言葉を伸子に投げた。 「所で、あの黄(ヘヘ)から紅(ヘヘヘ)にーですか、僕は飽く までその真実を知りたいのですよ」  すると、その途端彼女の顔が神経的に痙寧し て、恐らく侮蔑と屈辱を覚えたとしか思われぬ ような、潔癖さが口をついて出た。 「それでは、私に聯想語をお求めになります の。黄から紅にーそうすると、それが黄橿色(オレンジ) になるでは御座いませんか。黄橿色(オレ オ ジ)1あ あ、あのブラット洋橿(オ ンジ)の事を仰言るのでしょ う。それで、屹度貴方は、私が嚥んだ檸檬水(レモナ デ)の 麦藁(ストロ )から、石鹸(シヤボン)玉が飛び出したとでも-…・。い いえ私は、麦藁(ストロ )を束にして吸うのが習慣なので 御座いますわ。でもそうなったら、その束が一 度に弦(つる)へは、番らないでは御座いませんか」と 伸子の皮肉が、猛烈な勢いで倍加されて行っ た。「それから、あのダソー丁抹国旗(ダンネブロ グ)が悲し い半旗となったと云う事が、あのダンネベルグ が私に何の関係が御座いますの。そして、青酸 加里が一体どんな……」 「いや、決してそんな……。寧ろその事は、僕 が津多子夫人に対して云うべきでしょう」と法 水は微(かすか)に紅を活べたが、静かに云った。 「実は、その黄(ヘヘ)から紅(ヘヘ)にーと云うのが、アレ キサンドライトと紅玉との関係なんですよ。ね え伸子さん、たしかあの時貴女は、拒絶の表象(シンポル) 1紅玉(ルビ )をつけたのではありませんか」 「いいえ、決して……」と伸子は法水を凝(じつ)と見 詰め、声に力を軍(こ)めた。「その証拠には、演奏 が始まる直前でしたけれども、旗太郎様が私の 髪飾りを御覧になって、一体レヴェズ様のアレ キサンドライトをどうしてーとお訊ねになっ たのを憶えて居りますわ」一  その伸子の一言は、依然レヴェズの自殺の謎 を解き得なかったばかりでなく、更に法水へ苛 責と漸櫨を加え、彼の心の一隅に巣喰っ七い る、永世(とこよ)の重荷を益ζ重からしめた。然し法水 は、遂にこの惨劇の神秘の帳を開き、あれほど 不可能視されていた、帝王切開術(カイゼハ シユニツト)に成功した。 既に、その時は夜の刻みが尽きていて、胸の釦(ポタン) に角燈を吊した小男が、門衛小屋から出掛けて 来た。一つ二つ鵜(つぐみ)が鳴き始め、やがて塗楼の彼 方から、美しい歌心の湧き出ずにはいられな い、曙がせり上って来るのであった。法水は伸 子と窓際に立って、パノラマのような眺望を、 悦惚と味わっているうちに、彼女の肩に手を置 き、無量の意味と愛着を軍(こ)めて云った。 「伸子さん、既に嵐と急迫の時代は去りました よ。この館も再び旧の通りに、絢欄たるラテソ 詩と恋(マドリガ) 歌(ヨレ)の世界に帰る事でしょう。所で、あ あして響尾蛇(がらがらへぴ)の牙は、すっかり抜いてしまった のですから、貴女は濯れず僕に、例の約束を実 行して下さるでしょうね。もう、何も終って、 新しい世界が始まるのですよ。この神秘的な事 件の閉幕を、僕は斯う云うケルネルの詩で飾り たいのですがね。色は黄なる秋、夜の灯を過ぎ れば紅き春の花とならんI」  所が、その翌日の午後になると、伸子の打札 がヒュッと風を切って飛び来ると思いの外、意 外にも、検事と熊城が訪れて来て、当の本人伸 子が、拳銃で狙撃され即死を遂げたと云う旨を 告げた。それを聴くと、事件を全然放梛し兼ね まじい失意を、法水が現わしたばかりでなく、 折角見出した確証を掴もうとした矢先、その希 望が全然裁ち切られてしまって、最早この事 件の刑法的解決は、永遠に望むべくもないの だった。それから三十分後に、法水は暗潅とし た顔色を黒死館に現わした。そして、今や眼の 辺り仲子の遺骸を見ると、事件の当初から、 ファウスト博士の波濤のような魔手に弄ばれ続 けて、とどのつまり生命の断崖から、突き落さ れたこの今様グレートヘンが……、何となく死 因に対する、法水の道徳的責任を求めているよ うに思われ、はてはそれが、止め度ない漸.憶と 悔恨の情に変ってしまうのだった。所が、現場 伸子の室に一歩踏み入れると、そこには、鮮か にも残された犯人の最後の意志-穴(コポ)095ω(ルトジツ)∵ 9ヨ夢(ヒミユ エン)9(地精(コポルト)よいそしめ)が印されていた。  しかもそれは、いつものような紙片にではな く、今度は、伸子の身体に印されていた。と云 うのは、そOl投げ出した、左手から左足ま でが一文字に垂直の線をなしていて、右手と右 足とが、くの字形にはだけ、何となく全体の形 が、円(コポ)09己(ルト)のKを髪髭とするもののように 思われたからである。それが、扉(ドア)口から三尺ほ ど前方の所を足にして、斜右に仰向けとなって 横わり、しかもレヴェズやクリヴォフ夫人と同 じよう、悲痛な表情をしていて、それには些か も恐怖の影はなかった。屍体には、右の籟額に ひどい弾丸の跡が口を開いていて、敷物(カ ペツト)の上 に、流れ出た血がベットリこびり付いている が、外出着を着て手袋までもつけた所を見る と、或は法水の許を訪れようとして、突然狙撃 されたのではないかと思われた。尚、兇行に使 用された拳銃は、扉(ドア)の外側-把手(ノツプ)の下に捨て られていて、その扉(ドア)には、外から起倒閂が掛っ ていた。けれども、この局面には一つの薄気味 悪い証言が伴っていて、それから陰々と姦よく うな、ファウスト博士の衣摺れを聴く思いがす るのだった。  1恰度二時頃銃声が轟いたので、館中がす くむような恐怖に鎖されてしまって、誰一人現 場に馳せつけようとするものはなかった。する と、それから十分ほど経つと、隣室で傑えてい たセレナ夫人の耳に、扉(ドア)を閉めて掛金を落した 音が聞えたと云うのである。そうなって、ファ ウスト博士の暗躍が明かにされると同時に、そ の一向単純な局面にも拘らず、さしもの法水で さえ、傍観する以外に術はなかった。勿論拳銃 に指紋の残っていよう道理はなく、家族の動静 も、当時の状況が状況だけに一切不明なのだっ た。そして、恐らく法水との約束を果そうとし た事が、事件中一貫して、不運を続け来ったこ の薄倖の処女に、最後の悲劇を齎らせたのでは ないかと推測されたのである。  斯うして、最後の切札伸子までも驚れてしま い、悪鬼の不敵な跳躍につれて、おどろとはね 狂う潮の高まりには、遂に解決の希望が没し 去ったとしか思われなくなった。所が、その夜 から翌日の正午頃までにかけて、法水は彼特有 のー脳漿が洞れ尽すと思われるばかりの思索 を続けたが、端なくもその結果、伸子の死に一 つの逆説的効果を見出した。その日、昼食が 終って間もなく、法水を訪ねた検事と熊城が書 室の扉を開いた時、突然その出会いがしらに、 法水の凄じい眼光に打衝(ぷつか)った。彼は、両手を荒 荒しく振って、室内を歩き廻りながら、物狂わ し気に叫び続けている。 「ああ、このお伽噺(メエルヘン)的建築はどうだー。犯人 の異常な才智たるや、実に驚くべきものじゃな いか」と立ち止って不気味に据えた眼で、或は 半円を描き、またそれを大きくうねくらせなが ら、縦の波形に変えたかと思うと、「この終局(マイナ レ) の素晴らしさ1幕切れに大向を吟心らせるファ ゥスト博士の大見得1この意表を絶した総 繊晦(ゲネニ ル パりヒテ)の形容を見給え。ねえ支倉君、地精(コポルト ウ)・水(ンイ) デネ.サ㍉マンダー 精・火精1とその預文字をとって、それに、 この事件の解決の表象(シンポル)を加えると、それが 応㌫伽(畷)になってしまうんだ。ああ、たしかに 広間(サロンマ)の媛炉棚(ントルピ ス)の上に、ロダンの『接吻(キツス)』の模像 が置いてあったじゃないか。サア、これから黒 死館に行こう。僕は自分の手で、最後の幕の鍛 帳を下すんだ」  三人が黒死館に着いた時は、恰度伸子の葬儀 が始まっていた。その日は風が荒く、雪でも含 んでいそうな薄墨色の雲が、低く樹林の梢間際 にまで垂れ下がっていて、それがいつまでも動 かなかった。そう云った荒涼たる風物の中で、 構内は人影も疎らなほどの裏淋しさ。象徴樹(トピアリ )の 擁(まがじぺ )が揺れ、枯枝が走りざわめいて、その中か ら、湧然と捲き起って来るのが、礼拝堂で行わ れている、御憐潤(ミっ ルコル ンデイァ)の合唱だった。法水は館に 入ると、独りで広間(サロハ)の中に入って行ったが、そ こで彼の結論が裏書きされた事は、再びダンネ ベルグ夫人の室で、二人の前に現われた時の顔 色で判った。そして、いまや礼拝堂に、家族の 一同に押鐘博士までも加えたi関係者の全部 が集っているのを知ると、法水は何と思った か、葬儀の発足を暫く延期するように命じた。 それから、 「勿論、犯人が礼拝堂の中にいるのは確かなん だよ。しかも、もう絶対に動く事の出来ぬ状態 にある。けれども、僕は伸子に1殊にその遺 骸が、地上にある間に、犯人の名を告げなけれ ばならぬ義務があると思うのだ」と云って暫く 口を曝(つぐ)んでいたが、やがて、錯雑した感情を顔 に浮べて云い出した。 「所で支倉君、さしもの巨人の陣営が掻き消え てしまって、この館は再び白日の下に曝される 事になった。そこで、まず順序通りに、最初の ダソネベルグ事件から説明して行く事にしよ う。然し、あの時夫人が何故ブラット洋檀(オレンジ)のみ を取ったかと云う点に、僕は今まであの最短(ジゴデテイク) .繍,--サントニソ(翻虫)の黄視症を疎かにし ていたのだ。あの視野一面を黄色に化してしま う中毒症状が、軽い近視の所以(せゆ)も手伝って、果 物皿の上から、梨もそれ以外の洋榿(オレンジ)も、皿の地 と同じ一色に塗り潰してしまったのだよ。従っ て、特異な赤味を帯びているブラット洋橿(オレンジ)のみ しか、ダソネベルグ夫人の眼には映らなかった のだ。それにまた、サントニン中毒特有の幻味 幻覚などが伴ったので、あれほど致死量を遙か に越えた異臭のある毒物でも、ダソネベルグ夫 人は疑わず嚥下してしまったのだよ。けれど も、その思い付きと云うのは、決して偶然の所 産ではない。根本の端緒を云えば、やはり、犯 人に課した僕の心理分析にあったのだ。然し、 もう一つ、側面から刺戟して来たものがあっ て、奇妙な事に、その一つのサントニンが犯人 にも影響を与え、その両面を合わせてみると、 まるで陰画と陽画のようにピッタリ符合してし まうのだよ。と云うのは、外でもない、あの園 芸靴の靴跡なんだ。あれは既に、僕の解析から 偽造足跡である事が、判明したけれども、その 復路の中途で何の意味もなく、当然踏めばよい としか思われない、枯芝を大きく跨ぎ越えてい る。所が、その危く見逃す所だった微細な点ー ー云わば毛(ラナ カブ) 程(リウエ)のものとも云うものに、実を 云うと、犯人の死命を制した一つの盲点があっ たのだよ。そこに僕は、因果応報(ネメシス)の神の魔力を、 しっかと捉える事が出来た。この運命悲劇で は、犯人がボルジアの助毒として用いた、サソ トニンに依って、終局には自らが驚されなけれ ばならなかったのだ。何故なら支倉君、犯人は ダンネベルグ夫人と同じに、自分もサントニン を嚥まなければならなかったのだから、当然そ う判ると、あの枯芝を何故跨がねばならなかっ たかーと云う意味が判然とするだろう。つま り、そたは一種脳髄上の盲点で、自分には些程 の黄視症状も起っていないに拘らず、当然黄視 症が発していると信じてしまったのだ。そし て、あの1夜目に黄色く光って見える枯芝 を、水溜りが、黄視症のために黄色く見えたー iと錯誤を起したからなんだよ。然し、サント ニソが腎臓に及ぼした影響が、一方あの屍光の. 生因を、体内から皮膚の表面へ担ぎ上げてし まったのだL  それから、法水は帷幕の中に入って、寝台の 塗料(ニス)の下にグイと洋刀(ナイフ)の刃を入れた。すると、 下にはまた渥青(チヤン)様の層があって、それに鉛筆の 尻環を近附けると、微かながらさだかに見える 螢光が発せられた。 「今までは、寝台の附近に、屍体のように精密 な注視を要求するものがなかったので、それ で、自然気が附かれなかったに違いないがね。 勿論この渥青(チヤン)様のものが、ウラニウムを含む ピッチプレンドである事は云うまでもあるま い。そして、僕がいつぞや指摘した四つの聖僧 屍光、それが悉くボヘミア領を取り囲んでいる のだ。勿諭それは、新旧両教徒の葛藤が生ん だ、示威的な好策に過ぎないだろう。けれど も、それが地理的に接近しているのは、恰度そ の中心に、主産地であるエルツ山塊があるため に外ならないんだ。然し、要するに、あの千古 の神秘は、一場の理化学的環戯に過ぎないのだ よ。所で支倉君、君は批(アきセニ) 食(ツク イ) 人( タ )と云う言葉の 意味を知っているだろうね。殊に、中世の修 道僧が多く制慾剤として砒石を用いていた事 は、ローレル媚薬λゆ「幽騨舳数晒轍→鶴顯櫨伽餓鄭眺 欝自)撃と共に著名な要んだ。所が、ロダ ンの『接吻』の中から、僕がいま発見した内容 にも記されている通りで、ダンネベルグ夫人も やはり批(ア セニ) 食(ツク イ) 人( タ )-常日頃神経病の治療剤と して、夫人は微量の枇石を常用していたのだ。 そうすると、永い間には、組織の中にまでも、 枇石の無機成分が浸透してしまう。従って、サ ソトニンに依って浮腫や発汗が皮膚面に起る と、当然、そこに凝集している枇石の成層分 が、ピッチプレンドのウラニウム放射能をうけ なければならないだろう」 「勿論現象的には、それで十分説明が付くだろ うがね。また、どんな表現の朦腕たるものでも、 たしか新しい魅力には違いない。だが然しだ。 君の説明は、故意に具体的な叙述を避けている ように思われる。一体犯人は誰なんだ?」と検 事は、指を神経的に絡ませて、グビッと唾を嚥 み込んだ。「たしか、あの時仲子はダンネベル グ夫人と同じ檸檬水(レモナ デ)を嚥んだ筈だったがね。然 し、あの女は既に、ファウスト博士の手で、旧 の元素に還されてしまってるんだ」  その間法水は、生気のない鈍重な、生命の脱 殻(ぬげがら)のようになって突っ立っていて、寧ろその様 子は、烈しい苦痛の極点に於いて、勝利を得た 人の如くであった。既に整頓の模点が近附いた 所以か、その急激に訪れた疲労は、恐らく何物 にもまして、魅惑的なものだったに違いないで あろう。然し、そのうち烈しい意志の力が送り 出て来て、 「うん、その紙谷伸子だが」とガクリと顎骨が 鳴り、瞬間新しい気力が生気を吹き込んで来 た。「それが取りも直さず、クニットリンゲン の魔法使さ」  実に黒死館の幽鬼ファウスト博士こそ、紙谷 伸子だったのだ。然し、それを聴いた刹那検事 と熊城には、一旦は理法と真性の凡てが、蜻蛉 返りを打ってケシ飛んでしまったように、思わ れたけれども、少し落ち着いて来ると、それに は寧ろ、真面目の反論を出すのが莫迦(ぱか)らしく なったくらい、不思議なほど冷静な、反響一つ 戻って行かないという静けさだった。第一、そ れを否定する厳然たる事実の一つと云うのは、 伸子は既に五人目の人身御供に上っていて、そ の歴然たる他殺の証跡が、法水の署名を伴って 検死報告書に記されているのだ。それから家族 以外の彼女には、動機と目すべきものが何一つ なく、しかも法水の同情と庇護を一身に集めて いた伸子が、どうして犯人だったと信ぜられよ うか。それ故熊城には、それが得てして頭を痛 めているものの罹(かか)り易い、或る病的な傾向と見 て取ったのも無理ではなかった。 「まるで、気が遠くなりそうな話じゃないか。 それとも、真実君が正気でいるのなら、たった 一つでも、僕はそれに刑法的価値を要求する よ。まず何より、伸子の死を自殺に移す事だ」 「所が熊城君、今度は、名僅切匂似1と云う が扉(ドア)の羽目(パネル)にあって、それを君に、実際証拠と して提供しよう」と法水は、相手の無反響を嘲 り返すように、力を軍(こ)めて云った。「所で、例(ため) しに、斯う云う場合を考えて見給え。予め、針 に竜舌蘭(リネゾルム オルキデエ)の繊維を結び付けて、一方の扉(ドア)に 軽く突き立てて置き、その一端を鍵穴の中に差 し入れて、そこへ水を注ぎ込む。すると、当然 あの繊維が収縮を始めて、扉(ドア)の開きが次第に狭 められて行くだろう。その時、纐額を射った拳 銃が、手許から投げ出されて、そうした機み に、二つの扉(ドア)の間へ落ちたのだ。そうして、何 分か後に扉(ドア)が鎖されると、前以って立てて置い た掛金が、パッタリと落ちる。いや、それより も扉(ドア)の動きが、拳銃を廊下へ押し出してしまう じゃないか。勿論竜舌蘭(リネゾルム オルギデエ)の繊維は、針を引 き抜いて、それごと鍵穴の中に没して行ったの だった」と言葉を切って、長く深く、傑え勝ち な息を吸い込んだ。そして、真黒な秘密の重荷 と共に、再び吐き出された。 「所が熊城君、そうして他殺から自殺に移され ると云う事になると、そこに、どんな光によっ ても見る事の出来ない、伸子の告白文が現われ て来るのだ。それは気紛れな妖精めいた、豊麗 な逸楽的な、しかも、或る驚くべき霊智を持っ た人間以外は、到底その不思議な感性に触れる 事が出来ないのだ。伸子は、あの陳腐極まる手 法に、一つの新しい生命を吹き込んだ……」 「なに、告白文"」と検事は、脳天まで庫れ 切ったような顔をして、莫(たぱこ)を口から放し、荘然 と法水の顔を見詰めている。 「うん、焔の弁舌だよ。しかも、その焔は決し て見る事は出来ないのだ。しかも、ファウスト 博士の最後の儀礼(パンチリオ)で、それは一種の秘(サイフア) 密表(リング エキ)  示(ズブレツシヨ) なんだ。ねえ支(ン)倉君、例えば、髪・耳・ 唇・耳・鼻1と順々に押えて行くと、それが 目巴(へ ア)H・目母(イ ア).=傷(リツプス イ)』貰( ア).Zo∞ので結( ノ ズ)局}【の一(ヘレン)9とな るーそう云う秘密表示(サイフアリング エキスプしツシヨン)の一種を、伸 子は、他殺から自殺に移って行く転機の中に、 秘めて置いたのだ。所で、その最初は、屍体で 描いたKの文字だが、それは伸子が自企的に起 した、比斯呈利(ヒステリ)性麻痺の産物だったのだよ。そ の幾多の実例が、グーリユとブローの『人格の 変換』の中にも記されている通りで、或る種の 比斯呈利(ヒステリ)病者になると、鋼鉄を身体に当てて、 その反対側に麻痒を起す事が出来るのだ。つま り、左手を高く挙げて、一方の扉(ドア)の角に寄り 掛っていた所へ、右頬へ拳銃を当てたのだか ら、当然左半身に強直が起るだろう。そして、 そのまま発射と共に、床の上に倒れたので、垂 直をなしている左半身が、例の薄気味悪いKの 字を描かせてしまったのだ。然し、勿論それ は、地精(コボルト ジ)よいそしめーの表象(ツヒ ミユ エンシンポル)ではない。その ニつの扉(ドア)を結んで、竜舌蘭(リネゾルム オルキデエ)の繊維が作った ーその半円と云うのは、どう見てもU字形 じゃないか。それから、扉(ドア)に押された拳銃が動 いて行った線が、あろう事かSの字を描いてい るんだ。ああ、地精(コポルト)、水精(ウンデイネ)、風精(ジルフエ)……。そして、 最後に、あの彫ユェjソ沸の真相欝彰(舶)を加 えると、その全体が国宏(キユツス)ωとなってしまう。そ こに、奇矯を絶したファウスト博士の臓悔文が はれて来るのだ。勿論伸子は、それ以前に或る 物体を『接吻(キツス)』の像の胴体に隠匿して置いた… …L  それには、二つの異常な霊智が、生死を賭し てまで打ち合う状観が描かれていた。検事は、 腐れ溜った息で窒息しそうになったのを、危く 吐き出して、 「すると、当然その竜舌蘭(リネゾルム オルキデエ)の誌計が、鐘鳴 器(カリルロン)室の扉(ドア)や十二宮(ゾ デイアツク)の円華窓にも行われたのだろ うがね。然し、あの時は旗太郎が犯人に指摘さ れ、自分自身は、勝利と平安の絶頂に上り詰め たーその所で、伸子は不思議にも自殺を遂げ ているのだ。法水君、その到底解し切れない疑 問と云うのは……」 「それが支倉君、あの夜最後に僕が伸子に云っ た1色は黄なる秋、夜の灯を過ぎれば紅き春 の花とならんーと云うケルネルの詩にあるん だよ。まさにその瞬聞、伸子は悲惨な転落を意 識しなければならなかったのだ。何故なら、元 来アレキサソドライトと云う宝石は、電燈の光 で透かすと、それが真紅に見えるからだ。そこ で僕は、伸子がレヴェ,ズにあの室を指定して、 自分はアレキサンドライトを髪飾りにつけ、そ れに電燈の光を透過させて、レヴェズを失意せ しめたーと解釈するに至った。ねえ支倉君、 ヒの警句はどうだろうね。レヴェズーあの 洪牙利(くンガリ )の恋愛詩人(ツ ルパ ル)は、林を春と見てこの世を 去ったーと」と一息深く莫(たぱこ)を吸い込んでから 二人が惑乱気味に嘆息するのも関わず、法水は 云い続けた。      、 「所が、あの黄から紅-には、なおそれ以外 にも別の意義があって、勿論僕が、サソトニン の黄視症を透視したと云うのも、偶然の所産で はなかったのだよ。何故なら、それから、犯人 の潜勢状態を捌挟したからだ。それを他の言葉 で云うと、兇行によってうけた犯人の精神的外 傷1つまり、その際に与えられた表象(シンポル)や観念 の、感覚的情緒的経験の再現にあったのだ。勿 諭僕は、神意審問会の情景を再現した際に、何 となく伸子の匂が強く鼻を打って来たのだ。で、 試みに、護詞と調刺のあらん限りを尽し、お座 なりの握造を旗太郎に向けて見た。云うまでも なく、それは伸子の緊張と警戒を取り去るため だったのだが、勿論ダソネベルグ夫人の自動手 記は、伸子がテレーズの名を書かせたのだった し、レヴェズの死と栂指痕の真相以外は、何一 つ真実ではなかったのだよ。それで、不図(ふと)黄か ら紅にーと云う一言を、アレキサンドライト と紅玉(ルピ )の関係に、寓楡(アレゴリ )として使ってみた。所 が、意外にも、それが全然異なった形となっ て、伸子の心像の中に現われてしまったのだ。 と云うのは、ラインハルトの『仔情詩の快不快 の表出』と云う著述の中に、ハルピンの詩.『愛 蘭土星学(アイリツシユ アストロノミ )』の事が記されてある。その中の一 句-聖(セン)パトリック云(ト パトリツク )い廿(セエ)らく獅子座彼処(ツド エ ライオン )に(ライ)あ り、二(ス ゼァ ツ)つの大熊(ゥ ベアス)、牡牛( ブル )、そうして巨蟹(エンド キヤンサ )がーと その巨蟹(キヤンサ )(O彗∩雫)と云う個所に来ると、朗読 者は突然、それを運河(キヤナラヨ)(09巴貰)と発音して しまったと云うのだ。つまり、その朗読者が、 それまで星座の形を頭の中に描いていたから で、所謂フロイドの云うll云い損いの表明に こびりついている感覚的痕跡-に相違ないの だ。また、一面には聯想というものがその一字 一字に現われず、全体の形体的印象11つま り、空間的な感覚となって現われたとも云える だろう。然し、伸子の場合になると、それが、 ダンネベルグ事件から礼拝堂の惨劇に至る1 都合四つの事件を表出化してしまったのだ。何 故なら仲子は、洋檀(オレンジ)と云っだ後で、麦藁(ストロ )を束に して檸檬水(レをナ デ)を嚥むl-と云う言葉を吐いた。当 然それには、鐘鳴器(カリルロン)に並んでいる鍵盤の列が、 その印象に背景をなしていると思われた。それ から続いてダソネベルグ夫人の名を、丁抹国旗(ダンネプコ グ) (∪彗βのξoσq)と云い損ったのだが、それには 明らさまに、武具室の全貌が現われているのだ。 と云うのは、あの時仲子は、前庭の樹皮亭(ポルケン ハウス)の中 にいて、レヴェズの作った虹の濠気が、窓から 入り込んで行くのを、眺めていた。所が、あの 樹皮亭(ポルケン ハウス)の内枠には、様々な詩交が刻み込まれて いて、その中にフィッツナーのその時霧(ダン ネ ペル)は輝( ロ )き て入( グクテ)りぬ(∪9戸(ン)Zの冨=90Q9耳9)ー の一文があったのだ。つまり、その際の混渚さ れた印象が丁抹国旗(ダンネブロ グ)と云う、相似した失語に なって現われたのだよ。そうすると支倉君、あ の四句に分れていた伸子の言葉の中で、鐘鳴器(カリルロン) 室と武具室と1斯う二つの印象だけが、奇妙 にも、真中に挾まれている。となると……」と 言葉を切って、その驚くべき心理分析に、法水 は最後の結論を与えた。 「すると当然、その首尾にある黄と紅1。そ の二つからうけた感覚が、最初のダンネベルグ 事件と、終りの礼拝堂の場面でなければならな いだろう。そうして、最後の紅が、絢欄たる宮 廷楽師(カペルマイスタ )の朱色の衣裳だとすれば、何故最初のダ ンネベルグ事件から、伸子は、黄と云う感覚を うけただろうか」そのあいだ検事と熊城は、 宛がら酔えるが如き感動に包まれていた。が、 稽ζあってから、熊城は徐ろに不明な点を訊 ねた。 「然し、礼拝堂で暗中に聴えたと云う二つの喰 りには、伸子か旗太郎かーその敦れかを、決 定するものがあるように思われるんだが」 「それは、死(アハギドポイ) 点(ント)と焦点(コオ カス)の如何ーつまり、 音響学の単純な聞題に過ぎないのさ。多分クリ ヴォフ夫人の位置が、伸子がペダルで出した捻 りに対して死(デツドポ)  点(イント)。旗太郎の弓(きゆう)が擦れ合って 起った響には、あの微かな嚥きさえも、聴き取 れると云う焦点(フオ カス)だったに相違ないのだ。そして、 夫人が伸子の方に寄った所を、背後から刺し貫 いたのだ。ねえ支倉君、これ以上論ずる問題は ないと思うが、唯々憐欄を覚えるのは、伸子に 操られて鞠沓(まりぐつ)を履かせられ、具足まで着せられ た暗愚な易介なんだよ」そう云ってから法水 は、最初から順序を追い、伸子の行動を語り始 めた。勿論それに依って、ピロカルピソの服用 も、一場の悪狡い絵狂言である事が判明した。 それから、語り終えると法水は言葉を改めて、 いよいよ、黒死館殺人事件の核心をなす疑義中 の疑義1どんなに考えても到底(き)窺知(ち)し得べく もなかった、伸子の殺人動機に触れた。それは 無言の現実だった。ロダンの『接吻(キツス)』の胴体か ら取り出したものを、法水が衣袋(ポケツト)から抜き出し た時、思わず二人の眼がその一点に釘付けされ てしまった1乾板。そして、幾つかの破片を つなぎ合せて見ると、それには次の全文が現わ れたかのである。  一、タ一  【へ□HHHHU砒石の∩HH    【  一、川那部nHHH]、胸腺死の危一 口。 (特異体質の箇条は、その二つにのみ尽きてい て、それ以前のものは不明だった。)  一、余は、吾児ロ犠牲とするに忍【 "【を以って、生れた女児を男児に換えて、 生長後余が秘書として手許nHHHH]紙谷伸 子なり。それ故、旗太郎は一    、血系に は全然触れざるものなり。  斯うして、紛糾混乱を重ねた黒死館殺人事件 は、遂に最終の幕切れに於いて、紙谷伸子を算 哲の遺子として露(あら)わすに至った。そうなると、 勿論算哲の悶死は、仲子の親(フアテ ) 殺(ルテ ツ) しであり(ング)、 父(パテ)よ吾( ル )も人(ホモ)の子( ス)なりーの一(ム)文は、当然その深 刻を極めた、復仇の意志にほかならないφだっ た。然し、その乾板と云うが、法水の夢想の華 -屍様図の半葉であったとは云え、要するに、 現存のものはその一部のみであって、他は落し た際に微塵となったか、それとも、伸子が破棄 し亡しまったものか、敦(いず)れにしても二人以外の 特異体質の閲明は、久遠(くおん)の謎として葬られなけ ればならなかった。やがて検事は、夢から醒め たような顔になって訊ねた。 「成程、当然自分が当主でありなから、今更ど うにもならない-1それが因で、伸子を残忍な 欲求の母たらしめた、あの嗜血癖の起因は、僕 にもよく判るんだ。然し、犯行の都度に、恐ら く人間の世界を超絶しているとしか思われな い、怪異美と大観とを作り出したのはー。法 水君、それを心理学的に説明してくれ給え」J 「それは一口に云えば遊戯的感情-一種の生 理的洗源(タルシス)さ。人間には、仰圧された感情や乾き 切った情緒を充すものとして、何か一つの生理 的洗漉が要求される。ねえ支倉君、ザベリクス (囎崩判ソ鋤趣断阯四灘齢ゼ叶鰍馳欄)やディーツのファ ウスチヌス僧正などが精霊主義(オクルチスムス)に堕ち込んだと 云うのも……。凡て、人間が力尽き反曝する方 法を失ってしまった際には、その激情を緩解す るものが、精霊主義(オクルチスムス)だと云うじゃないか。それ にあの崎狂変態の世界を作り出した種々な手法 には、さしずめ、書庫にあるグイド・ボナッ トー(荏窺縦翻静ウ)の承κ御ピ嚢普       フェス.アイヴオリー.エト・カルチヴアレ.アパラテ】 やヴァザリの『祭礼師と謝肉祭装置』 などの影響が窺われるね。もともと伸子は、あ の乾板盗みを、不図(ふと)した悪戯(いたずら)気から演(や)ったのだ ろう。けれども、その内容を知った時に、恐ら く伸子は、魔法のような物凄い月光を感じたに 相違ない。その突如として起った、絶望-喪 心-宿命感、そう云った感情が十字に群がっ て来て、それまで心の平衡を保たせていた、対 立の一方が叩き潰されたのだ。そして、それが あの破壊的な、神聖な狂気を駆り立てて世にも グロテスクな爆発を惹き起させたのだよ。然し、 僕は決して、伸子を惇(モ ラル) 徳( イ ノ サ) 狂(ニテイ)とは呼ばないだ ろう。あれは、ブラウニソグの云う運(チャイルド) 命( オヴ) ( デ)の  子(スチニイ)、この事件は、一つの生きた人間の詩1 に違いないのだ」そう云って法水は、澄み切っ た総明そうな眼色で検事を顧みた。「ねえ支倉 君、せめて、最後の送りだけでも、この神聖家 族の最後の一人に適わしいよう、伸子を飾うて やろうじゃないか」  斯うして、メディチ家の血系、妖妃カペルロ ・ビアソカの末喬、神聖家族降矢木の最後の一 人紙谷伸子の枢は、フレソツェの市旗に覆わ れ、四人の麻布を纏った僧侶の肩に担がれた。 そして、湧き起る合唱と香煙の渦の中を、裏庭 の墓害(ぼこう)をさして運ばれて行ったのであるー 閉幕(カ テン フオ ル)。      (『新青年』昭和九年四月号-十二月号)